2018年02月24日 (土) 14:39:00

今週の読書は経済書を中心に計7冊!

先週末に自転車で図書館を回ると、予約しておいた本がいっぱい届いていましたので、ついつい今週は読み過ぎた気がします。経済書を中心に計7冊なんですが、新書が2冊ですし、それほどのボリュームではありませんでした。今日はこれから図書館を周る予定ですが、来週もそこそこな量の読書をするような予感です。

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まず、チャールズ・ウィーラン『MONEY もう一度学ぶお金のしくみ』(東洋館出版社) です。著者は米国ダートマス大学の経済学研究者であるとともに、経済学や統計学の入門書のライターとしても人気あるところで、本書の英語の原題は Naked Money なんですが、すでに、Naked EconomicsNaked Statistics というタイトルで、いかにも同一ラインにあると思しき本を出版しています。本書の英語の原書は2016年の出版です。ということで、翻訳者の1人である山形浩郎が役者解説にも書いていますが、本書の内容は Naked Economics に含まれていないのか、という疑問が残りますが、私は読んでいないので詳細は不明ながら、まあ、含まれないわけはない一方で、別途論じてもいいともいえるような気がします。本書では基本的にとても標準的な経済学の見方考え方をベースに、冒頭にマネー=お金の役割について、会計的な計算単位、価値貯蔵手段、交換手段の3つのを提示し、その後も、金本位制のような本来的に価値あるもの、貴金属とは限らないものの、何らかの使用価値あるモノにマネーを結び付ける制度や現行の管理通貨制度、さらには話題のビットコインまで、もちろん、国内金融だけでなく国際的な取引の為替まで、幅広くマネーやその制度を概観しつつ、やっぱり、というか、何というか、2008年後半のサブプライム・バブル崩壊後の一連の金融危機についても分析を試みています。我が国については、1980年代後半のバブル経済崩壊後の長期停滞を、星-カシャップ論的な追い貸しを含めたゾンビ企業の存続に伴う生産性の停滞に一因を見出すとともに、アベノミクスについては基本的にとてもポジティブな取り上げ方がなされています。ただ、黒田総裁の5年の任期をもってしても2%インフレには到達していない現状についても批判的に見ているようです。本書の著者のような標準的な経済学の見方や考え方を適用すれば、ある意味で、当然の評価だという気もします。欧州のユーロについても、マンデル授の最適通貨圏理論を援用しつつ、金本位制に近い独立した金融政策を奪う可能性、特に、為替相場の調整政策の手段がなくなる危険に焦点を当てています。何度も繰り返しになりますが、とても標準的な経済理論・金融理論を当てはめた明快な解説・入門書ですので、判りやすいんではないかと思います。

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次に、岡崎哲二『経済史から考える』(日本経済新聞出版社) です。実は、私の大学時代の専門分野は西洋経済史で、その経済発展史を就職してからは開発経済学に当てはめているんですが、著者は日本経済史や比較経済史を担当する東大教授であり、その意味で、我が国でも屈指の経済史学者であるといえます。私なんぞとは大違いです。そして、本書では、朝日新聞などのコラムで書き溜めた小論を中心に書き下ろしも含めて、経済発展と停滞を解き明かそうと試みています。その意味で、かなり雑多なテーマを詰め込んでおり、私の興味ある分野に引きつけて感想を書いておくと、まず、高度成長期における産業政策の評価がやや高過ぎる気はしますし、産業政策の評価が高いのにつれてそれを策定した官僚の評価にもバイアスあるように感じなくもありません。ただ、おそらく、著者の専門外なので私から見て大きな疑問があるのはアベノミクスの評価です。財政均衡を重視し、金融緩和については、いまだに、ハイパーインフレを懸念するのもどうかという気がします。そして、財政規律に引きつけて昭和初期の軍拡路線を論じるのもやり過ぎだと思います。そして、これも極めてありきたりで表面的なアベノミクスに対する批判なんですが、成長率のトレンドを引き上げる政策の必要性を強調しています。高度成長期の産業政策評価の観点から、本書でもターゲティング・ポリシー、すなわち、政府が将来性ある分野に何らかの優遇措置を講じる政策が推奨されていますが、意地悪な見方をすれば、アベノミクスにおける財務省の財政政策は大赤字を出して財政均衡を失して間違っているが、経済産業省のターゲット産業を探す能力にはまだ信頼を置いている、ということなんでしょうか。また、デフレの原因のひとつに、1990年代で成長の源泉、すなわち、ルイス的な二重経済解消の過程における労働移動と先進経済へのキャッチアップ成長の2つの源泉が枯渇した、との議論も意味不明です。最後に、ピケティ教授の『21世紀の資本』における成長率と資本収益率の乖離から格差が生じる、という論点を批判していますが、本書でもご同様で、いくつか因果推論が逆ではないか、という議論が私のようなシロート、とまではいいたくないものの、少なくとも著者に比較して大いに格下のエコノミストの目から見てもあるような気もします。

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次に、リチャード E. ニスベット『世界で最も美しい問題解決法』(青土社) です。著者は米国ミシガン大学の社会心理学の研究者であり、10年余り前に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』がベストセラーになったのを記憶している人も多いんではないでしょうか。それなりの心理学の権威なんではないかとおもいます。本書の英語の原題は Mindware であり、2015年の出版なんですが、邦訳タイトルはかなりミスリーディングであり、売上げ重視でやや不誠実の域に近いと思います。中身はかなりの重厚な読書になると思いますが、私は勉強不足にして第5部の論理学と第6部の認識論については理解が及びませんでした。副題で「賢く生きるための行動経済学、正しく判断するための統計学」とあるのが私の専門分野に近いと思って読み始めましたが、この副題に相当する部分は決してページ数で多くはありません。出版社に騙されないように注意することが必要です。統計学に関する部分では、ありきたりながら相関と因果の違いを強調しているものの、何度かこのブログでも指摘しましたが、本書でまったく取り上げていないビッグデータの世界では相関が重要であって、因果推論はそれほど重視されないというのも事実です。それから、あくまで私の理解であって、本書の著者の見方ではありませんが、経済学や医学で統計が重視されるのは、実は、分析の背景にあるモデルがかなりいい加減で、因果推論を成り立たせるのが苦しいので、仕方なく、リカーシブに統計的な有意性でお話を進めようとしているフシがあります。すなわち、本書でも因果の流れが実は逆というケースをいくつか取り上げていますが、理論的な因果関係が不明確であるがゆえに、統計で帰無仮説が棄却されるかどうかでごまかしている面があるような気がしてなりません。冗談半分によくいわれるように、セックスと妊娠には統計的に何の相関関係も見いだせませんが、因果関係があるのはそれ相応の大人なら誰でも知っていると思います。前著に続いて、東洋的というよりは中国的な円環的歴史観、というか、循環的な輪廻転生の時間の進み方とかなり一直線に近い西洋的な歴史観、時間の進み方の対比がまたまた示されたんではないかと思います。

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次に、ガルリ・カスパロフ『ディープ・シンキング 人工知能の思考を読む』(日経BP社) です。著者はご存じチェスの世界チャンピオンであり、同時に、世界チャンピオンとしてIBMのディープ・ブルーに敗れたことでも、逆に、その名を高めたチェス・プレーヤーです。英語の原題は Deep Thinking であり、2017年の出版です。将棋の永世名人であり、チェス愛好家としても名高い羽生善治二冠が巻末で解説しています。チェスの世界王者といえば、本書の著者であるカスパロフから1世代前の米国の」ボビー・フィッシャーがあまりに有名でかつ衝撃的であり、ついつい変人であると想像しがちなんですが、本書ではそれは否定されています。1996~97年にかけての2回に及ぶIBMディープ・ブルーとの対戦が有名であり、1996年はカスパロフが3勝1敗2分で勝利したものの、1997年は1勝2敗3分で敗戦しています。特に1997年のシリーズには引き分けに持ち込める対戦を投了して負けてしまった2回戦を中心に、本書では第6章から第10章くらいが読ませどころなんでしょうが、やはり、著者のカスパロフは敗者ですので、ついつい愚痴が多くなるのも致し方ありません。IBM主催のゲームであったために多くの不利を背負い込んだのは理解できます。例えば、クラッシュ-リセット-再起動などで集中力が殺がれたことはまだしも、事前にディープ・ブルーの棋譜が公開されなかったこと、ロシア語を理解できる警備員を配されて控室での内密の会話をまるで盗聴するように聞き出されていたこと、そして、これは世間一般にも怒りの声が噴出したのを覚えていますが、カスパロフにはリターン・マッチが許されず、1997年の勝利を最後にIBMディープ・ブルーが勝ち逃げしたことなどです。チェスの世界チャンピオンでなくても、コンピュータが極めて大きなスピードで進化を遂げて、チェスの世界だけでなく人間の思考を代替したり、人間の認知能力を上回ったりする時点が、すでに過ぎ去りはしないものの、急速に近づいているという事実については理解しています。カーツワイル的に大雑把にしても、2050年の前にシンギュラリティが来る可能性についても否定できません。AIが人間の認知作業に取って代ろうとする現時点で、チェスの世界から人間と機械との向かい合い方に関して興味深い本が出版されたと受け止めています。

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次に、グレアム・アリソン『米中戦争前夜』(ダイヤモンド社) です。著者のアリソン教授はハーバード大学ケネディスクールの初代のトップであり、米国の歴代国防長官の顧問を務めリアルな国際政治にも通じる研究者です。英語の原題は Destined for War であり、2017年の出版です。私ははるか大昔に『決定の本質』を読んだ記憶があります。いわゆるキューバのミサイル危機をモデル分析した名著ですが、その点以外はすっかり忘れてしまいました。本書では、いわゆるトゥキディデスのトラップに基づき、新興国の台頭が覇権国のヘゲモニーを脅かして生じる構造的なストレスが戦争という武力衝突につながるかどうか、について分析し、現時点での焦眉の的である米国という覇権国に対抗する新興国である中国との関係をモデル分析しています。トゥキディデスの罠は古典古代の覇権国スパルタと新興国アテネの関係から始まり、本書ではいくつかのケースのデータベースを整備し、米中関係がどのように帰結するかを予測・考察しています。そのデータベースでは、覇権国の交代に伴う構造ストレスについては、戦争になってしまうケースが多いんですが、最近100年ほどの大きな衝突として、英国から米国への覇権の移行、さらに、米ソ間での覇権争いで米国の覇権にソ連が挑戦して敗れた冷戦、の2ケースについては小競り合いはともかく、全面戦争には至らなかった稀有な例として引き合いに出されています。もちろん、その昔にもポルトガルとスペインはローマ教皇という極めて高い権威を引き入れて戦争を回避し、トルデシラス条約により南米を分割した例もあります。そういった高い権威は現時点では国連というわけにもいかないでしょうから、戦争=武力衝突を避けるために米国が取りえるオプションとしては、覇権の移行=新旧逆転を受け入れて何らかの交換条件を設定するか、新興国の中国を弱らせるか、日中間で国交回復時に尖閣諸島の領有権問題を扱ったように一定の時期だけ継続する期限付きの平和を交渉するか、共通のグローバルな課題に対応するために米中関係を再定義するか、といったところが上げられています。ただ、オープンな外交姿勢を示したオバマ政権期にはともかく、米国ファーストのトランプ政権の現時点で採用可能なオプションは限られている気もします。

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次に、小野善康『消費低迷と日本経済』(朝日新聞出版) です。著者は大阪大学をホームグラウンドとしていたエコノミストであり、本書は朝日新聞などで掲載されていたコラムなどを取りまとめています。ですから、この著者の一貫性ない見識ゆえに仕方ないのかもしれませんが、内容的にムリある矛盾した中身となっています。ご案内の通り、民主党政権の菅内閣のころに私の勤務する役所の研究所の所長に政治任命されたエコノミストですので、野党的な見方でアベノミクスに反論しており、例えば、物価目標の2%を達成していないのでアベノミクスは失敗だと結論したかと思えば、円安で景気が回復した点はアベノミクスの成果ではなく、震災で原発が停止して燃料輸入が増加し経常収支が赤字になったのが原因であると主張するなど、およそ、真面目な経済に関する議論とは思えず、繰り返しになりますが、現政権に反対するための無理矢理な論陣を張るために、その昔の関西名物だったボヤキ漫才のような経済解説になっています。特に、私が理解できなかったのは、本書の著者の小野教授の何が何でもな前提は中長期に渡る需要不足が日本経済の低迷の根本原因だそうで、そのために失業が生じているらしいんですが、同時に、アベノミクスによるハイパーインフレの懸念も表明されており、不況克服が日本経済の課題なのか、インフレ抑制が重要なのか、現政権の経済政策をムリにでも批判する必要あることから、経済の現状に関してかなりムリある解釈、あるいは、矛盾した見方を必要としているような気がします。もっと、見識あるエコノミスト、あるいは、常識的なビジネスマンとして虚心坦懐に日本経済を見れば、確かに物価目標には達しないものの、民主党政権時に再確認されたデフレからの脱却も視野に入り、日本経済はかなりの長期にわたる回復・拡大過程にあると思うんですが、どうしても党派的な観点から現政権の経済政策に対する批判をせねばならないとすれば、本書のような形になるのかもしれません。

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最後に、中野信子『シャーデンフロイデ』(幻冬舎新書) です。著者はベストセラーをバンバン出している脳科学者であり、私も前著の『サイコパス』は読んでいたりします。本書のタイトルは、ネットにおけるスラングのひとつである「めしうま」と同じ意味であり、他人の不幸を喜ぶ心情を指しています。そして、その脳の働きにはオキシトシンが関係しており、このオキシトシンは愛情や人とのつながりを醸成する肯定的な働きをしつつも、「可愛さ余って憎さ百倍」のように、あるいは、愛情から出たストーカー行為が犯罪に転じるように、愛情から妬ましさに転化するらしいです。ただ、私はこのあたりの心理は理解できません。例えば、私は京都の出身であり小さいころからタイガースのファンですが、その昔にはいわゆる「アンチ・ジャイアンツ」といわれる人々がいたことを記憶しています。これは私には理解できませんでした。好きな球団があるのはいいことですし、それを応援するのも娯楽のひとつだと思うんですが、嫌いな球団を設定してそれを貶める、というのは私の理解を越えていました。本書のめしうまや他人の不幸を喜ぶ心情も、まったく同様に、私には理解できません。ですから、本書の問題設定自身が理解できないといってもよかろうかと思います。ですから、人類を代表して不埒な人にサンクションを加えるという心情も理解できません。ひょっとしたら、私は何らかの意味でサイコパス的な共感、あるいは、反感の心情が欠落しているのかもしれません。それはそれで心配な気もします。経済的な観点から、極めて大きな偏見を持って、どこかに金持ちがいたら、「お前ももっとよく勉強して立身出世して、もっと金持ちになれ」というのが、日本をはじめとするアジア的な発想であり、それゆえに教育が重視されたりしますが、ここから大きな偏見なんですが、「お金持ちがいれば自爆テロに巻き込んで殺してしまえ」というのがイスラム教原理主義だという意見もあります。大きな偏見に基づく見方ですので、ここは重大な留保付きで解釈する必要あるものの、私は確かに圧倒的に前者の信条に近いと思います。
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2018年02月17日 (土) 18:52:00

今週の読書は経済史や経済学の学術書を中心に計6冊!

今週はペースダウンできず、結局、経済書をはじめ6冊を読みました。実は、今日の土曜日に恒例の図書館回りをしたんですが、来週はもっと読むかもしれません。

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まず、ロバート C. アレン『世界史のなかの産業革命』(名古屋大学出版会) です。著者はオックスフォード大学の経済史研究者であり、オランダ生まれで米国ノースウェスタン大学のモキーア教授とともに、産業革命期の研究に関しては現時点における到達点の最高峰の1人といえます。本書の英語の原題は The British Industrial Revolution in Global Perspective であり、2009年の出版です。産業革命に関しては生活水準の低下や過酷な工場労働の現場などから悲観派の見方もありますが、本書の著者のアレン教授はアシュトンらとともに楽観派に属するものといえます。ということで、このブログの読書感想文ほかで何度か書きましたが、西洋と東洋の現段階までの経済発展の差については、英国で産業革命が開始され、それが米国を含む西欧諸国に伝播したことが西洋の東洋に対する覇権の大きな原因である、と私は考えていて、ただ、どうして英国で産業革命が始まったのかについての定説は存在しない、と考えていました。本書を読み終えてもこの考えは変わりないんですが、本書における見方としては、やや定説と異なり、プロト工業化を重視する一方で、農業生産性の向上による生活水準の上昇、ロンドンを中心とする高賃金、石炭などの安価なエネルギーの活用、そして、機械織機、蒸気機関、コークス熔工法による製鉄を3つの主軸とする技術革新などの複合的な要因により、英国で世界最初の産業革命が始まり進行した、と結論づけています。私はマルクス主義史観一辺倒ではないにしても、何かひとつの決定的な要因が欲しい気がしますし、また、産業革命の担い手となる産業資本家の資本蓄積に関する分析も弱いですし、さらに、機械化の進行については馬や家畜などによる動力源を代替する蒸気機関だけでなく、手工業時代における人間の手作業を代替する機械の使用をもっと重視すべきだと考えており、やや本書の分析や結論に不満を持たないでもないんですが、繰り返しになるものの、世界の経済史学界における現時点でのほぼ最高水準の産業革命の研究成果のひとつといえます。よく私が主張するように、産業革命期の研究に関しては、英国=イギリスとイングランドをキチンと区別する必要があるという見方にも、当然、適合しています。完全なる学術書ながら、テーマが一般的ですので、研究者だけでなくビジネスマンなどの研究者ならざる、という意味での一般読者も楽しめるんではないか、という気がします。

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次に、ジェフリー・ミラー『消費資本主義!』(勁草書房) です。著者は米国の進化心理学の研究者であり、本書は必ずしも経済書とはいえないと考える向きもあるかもしれませんが、ツベルスキー・カーネマンのプロスペクト理論のような例もありますし、かなり経済書に近いと考えるべきです。英語の原題は Spent であり、2009年の出版です。ということで、大昔のヴェブレンによる見せびらかしの消費やガルブレイスの依存効果など、決して使用価値的には有益な利用ができないにもかかわらず、事故の何らかの優越性を誇示するための消費について、心理学的な側面も含めて分析を加え、最後の方ではその解決策の提示も行っています。まず、もちろん、見せびらかしでなく使用価値に基づく利用が行われている消費も少なくなく、典型的には食料などが含まれると私は考えていますが、本書では一貫してある種の自動車をヤリ玉に上げています。私は自動車を持っていませんので、まったくその方面の知識がないんですが、ハマーH1アルファスポーツ車です。いろんな特徴ある中で、私の印象に残っているのは燃費がひどく悪い点です。こういった見せびらかしの消費を本書の著者は「コスト高シグナリング理論」と名付けて、要するに、生物界のオスの孔雀の尾羽と同じと見なしています。ある麺では、要するに、将来に向けてその人物のDNAを残すにふさわしいシグナリングであると解釈しているわけです。そうかもしれないと私も思います。その上で、こういったプライドを維持するに必要な中核となる6項目として、開放性、堅実性、同調性、安定性、外向性を上げています。そして、解決策として、第15章でいくつか示していて、買わずに済ませるとか、すでに持っているもので代替するとか、有償無償で借りて済ませるとか、新品でなく中古を買うとか、といったたぐいです。しかしながら、その前にマーケターによるこういった見せびらかしの消費の扇動について触れながら、情報操作による消費活動の歪みを是正するという考えには及んでおらず、少し不思議な気もします。いずれにせよ、私のような専門外のエコノミストから見ても、消費の際の意思決定において心理学要因がかなり影響力を持ち、しかも、その心理要因をマーケターが巧みについて消費を歪めている、というのは事実のような気がします。ですから、行動経済学や実験経済学のある種の権威はマーケターではなかろうか、と私は考えています。

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次に、井堀利宏『経済学部は理系である!?』(オーム社) です。著者は長らく東大教授を務めた経済学者であり、本書は冒頭で著者自身が「単なる経済数学の解説書ではない」と明記しているものの、否定されているのは「解説書」の部分ではなく、「単なる」の部分だと私は受け止めました。ですから、経済学で取り扱うさまざまなモデルを数式で解析的に表現し、微分方程式を解くことによりエレガントに解を求めようとする経済書です。しかも、ミクロ経済学にマクロ経済学、短期分析に長期分析、比較静学に動学、さらに、経済政策論として財政学や金融論まで、極めて幅広く網羅的に解説を加えています。最近の動向は必ずしも把握していないものの、私のころでしたら公務員試験対策にピッタリの本だよいう気がします。ですから、おそらく学部3#xFF5E;4年生向けのレベルであり、経済学部生であっても初学者向きではありません。一般のビジネスマン向けでもありません。実は、私は30年超の昔に経済職の上級公務員試験に合格しているだけでなく、20年ほど前には人事院に併任されて試験委員として、経済職のキャリア公務員試験問題を作成していた経験もあります。当時は、過去問だけを勉強するのでは不足だという意味で新しい傾向の問題を作成する試みがあり、私はトービンのQに基づく企業の設備投資決定に関する問題を作成した記憶があります。また、すでに役所を辞めて大学の教員になっている別の試験委員がゲーム理論のナッシュ均衡に関する問題を持ち寄ったのも覚えています。そして、本書ではナッシュ均衡についても解説がなされていたりしますから、さすがに、先見の明のあった試験問題だったのかもしれないと思い返しています。20年前にはほとんど影も形もなかった地球環境問題とか、さらに進んで排出権取引を数式でモデル化するといった試みも本書では取り上げられています。なお、本書の冒頭で偏微分記号の ∂ について「ラウンドディー」と読む旨の解説がなされていますが、これについては党派性があり、京都大学では「デル」と読ませていた記憶があります。大昔に、英語の planet を東大では「惑星」と訳した一方で、京大では「遊星」と訳し、現状を鑑みるに、東大派の「惑星」が勝利したように、偏微分記号の読み方でも京大派は敗北したのかもしれません。

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次に、中西聡[編]『経済社会の歴史』(名古屋大学出版会) です。本書は、同じ名古屋大学出版会から既刊の『世界経済の歴史』と『日本経済の歴史』を姉妹編とする3部作の最終巻という位置づけだそうですが、私は単独で読みました。20人近い歴史の研究者が集まって、各チャプターやコラムなどを分担執筆しています。副題が上の表紙画像に見られる通り、「生活からの経済史入門」ということで、4部構成の地域社会、自然環境、近代化、社会環境というように、やや強引な切り口から、災害、土地所有、エネルギー、健康と医薬、娯楽、教育、福祉、植民地などなど、ハッキリいってまとまりのない本に仕上がっています。アチコチで反省的に書かれている通り、経済史を考える場合は生産様式、というか、生産を供給面から追いかけるのが主流であり、生活面からの社会の変化は、まあ、服装の近代化とか、食生活の西洋化とか、住居の高層化とか、それなりに興味深いテーマはあるものの、誠に残念ながら、学問的な経済史の主流とはならない気がします。もっとも、私の読んでいない姉妹編の方で取り上げられているのかもしれませんが、それはそれで不親切な気もします。正面切ってグローバル・ヒストリーを押し出して、西洋中心史観から日本などの周辺諸国の歴史をより重視する見方も出来なくはありませんが、まあ、これだけの先生方がとりとめなく書き散らしているんですから、統一的な歴史の記述を読み取るのは困難であり、井戸端会議的な雑学知識を仕入れるのが、本書の主たる読書目的になるのかもしれません。その意味で、トピックとして雑学知識に寄与するのは、エネルギーのチャプターで、20世紀初頭に英国よりもむしろ日本で電化が進んだのは、実は、安全規制が疎かにされていたためである、とか、第2次世界大戦時の日本における戦時体制はかなりの程度に近代的・現代的かつ合理的であったと評価できる、とか、植民地経営の中で、安い朝鮮米を日本本土に飢餓輸出した朝鮮は満州から粟を輸入したとか、そういったパーツごとにある意味で興味深い歴史的な事実を発見する読書だった気がします。

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次に、平山雄一『明智小五郎回顧談』(ホーム社) です。著者は翻訳家であり、シャーロッキアンでもあり歯科医だそうです。本書は引退した明智小五郎を警視庁の箕浦刑事が「警視庁史」を取りまとめるために取材するという形で進行します。でも、最後に、この箕浦刑事の正体が明らかにされます。何といっても豪快に驚かされるのは、明智小五郎はシャーロック・ホームズの倅だった、という事実です。例のライヘンバッハの滝でホームズが死んだと思わせた後に日本に渡り、日本人女性、その名も紫とホームズの間に誕生したのが明智小五郎であり、結核で紫がなくなった後に明智小五郎に養育費を送付し、一高から帝大を卒業できるようにロンドンから仕送りをしたのがその兄のマイクロフト・ホームズです。もう何ともいえません。私は滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。そして、明智小五郎が度々外地に赴くのはホームズと会うことも重要な目的のひとつであり、上海においては明智小五郎はホームズとともにフー・マンチュを追い詰めたりします。そして、もうひとつの驚愕の事実は怪人20面相は明智小五郎の親戚縁者であるという事実です。明智小五郎と怪人20面相は同じ師匠から変装を学んでいるのです。本名平井太郎こと江戸川乱歩は、当然ながら、明智小五郎の友人であり、明智小五郎が解決したさまざまな事件を記述しています。すなわち、「屋根裏の散歩者」であり、「D坂の殺人事件」であり、「二銭銅貨」であり、「心理試験」であり、「一枚の切符」などなどです。ただ、主たる事件は終戦までであり、戦後の小林少年を主人公のひとりとする少年探偵団の行動範囲までは本書では追い切れていません。これはやや残念な点です。そして、もっとも残念な点は、明智小五郎が戦時下で軍部の諜報戦に協力していることです。おそらく、江戸川乱歩も、横溝正史なんかも、言論の自由を封じ込め、伏せ字だらけの出版を余儀なくした軍事体制というものには反感を持っていたと、多くの識者が指摘しています。明智小五郎が軍部の戦争遂行に協力することは、当時の政治的な状況下で致し方ないのかもしれませんが、とても残念に感じるのは私だけではないでしょう。最後に、明智小五郎ファンにはかねてより明らかな事実なのですが、小林少年は3人います。本書冒頭で明らかにされています。こういった事実を整合的にフィクションとして記述しています。イラストは、集英社文庫で刊行された「明智小五郎事件簿」と同じ喜多木ノ実です。日本のミステリファンなら、是が非でも読んでおくべきです。

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最後に、玉木俊明『物流は世界史をどう変えたのか』(PHP新書) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者なんですが、経済史ながら経済学ではなく、いわゆる文学部の一般的な史学科のご出身と記憶しています。本書では経済学帝国主義ならぬ物流帝国主義、物流中華思想、物流中心史観から、物流が世界史をどう形作って来たのかを分析しています。ローマとカルタゴ=フェニキア人との物流を巡る確執、7世紀からのイスラーム王朝の伸長、ヴァイキングはなぜハンザ同盟に敗れたか、ギリシア・ローマの古典古代における地中海中心の交易からオランダなどのバルト海・北海沿岸諸国が台頭したのはなぜか、英国の平和=パクス・ブリタニカの実現は軍事力ではなく海運力により達成された、英国の産業革命は物流がもたらした、などなど、極めて雑多で興味深いテーマを17章に渡って細かく分析記述しています。ひとつの注目されるテーマとして、ポメランツ的な大分岐の議論があり、要するに、明初期の鄭和の大航海をどうしてすぐにヤメにしてしまったのか、という疑問につき、本書の著者は、明帝国はほとんどアウタルキーのできる大帝国であって、外国との交易に依存する必要がなかった、との視点を提供しています。まあ、ありきたりの見方ではありますし、今までも主張されてきた点ではありますが、同意できる観点でもあります。ほかにも、学術のレベルではなく、井戸端会議の雑学のレベルではありますが、私のような歴史に大きな興味を持つ読者には、とてもタメになる本だという気がします。2時間足らずですぐ読めます。
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2018年02月10日 (土) 11:42:00

今週の読書は学術書2冊を含めて計6冊!

今週は、やっぱり、6冊読んだんですが、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』のボリュームがものすごくて、私が足かけ3日かけて読まねばならない分量の本というのは久し振りな気がします。ほかにも、重厚な学術書が2冊含まれていて、それなりに時間を取って読書した気がします。なお、最後のオーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』は数年前の単行本出版の際に読んだ記憶がありますが、とてもスンナリと借りられたので文庫本も読んでしまいました。

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まず、寺西重郎『歴史としての大衆消費社会』(慶應義塾大学出版会) です。著者は金融史がご専門で長らく一橋大学をホームグラウンドとしていた研究者、エコノミストです。出版社も考慮すれば、明らかに学術書と考えるべきであり、読み進むためのハードルはそれなりに高いと考えるべきです。本書で著者は、我が国戦後の高度成長期について、極めて旺盛な大衆消費によって支えられていた特異な時期であったとし、敗戦に際しての方向感覚の喪失と政府介入によって生じた一時的な現象であったとの結論を導いています。私は一昨年に高度成長期研究の成果として経済計画の果たした役割に関する論文を取りまとめましたし、開発経済学の視点ながら、それなりに高度成長期に関する見識は持っているつもりですが、この著者の結論は間違っています。まず、著者が結論に至る論点は3点あり、第1に、戦後日本での爆発的な消費拡大は、敗戦による環境の変化に対して、人々と政府が「さしあたって」消費と生活様式の西洋化を決意したことによって引き起こされ、第2に、大衆消費を支えた分厚い中間層は、金融と産業に対する政府規制が生み出すレントの分配によって支えられており、1970年代後半以降に規制緩和が進展した結果、そのレントが消滅して高度成長は終焉したとされ、第3に、1980年代以降の日本で観察された消費の差異化は、普遍的なポストモダンの動きの一環ではなく、伝統的な消費社会への回帰現象であろう、というものです。そして、相変わらず、英国をはじめとする欧米のキリスト教的な供給が牽引する経済と我が国の仏教的な需要が牽引する経済の差をチラチラと出しています。高度成長期に政府が一定の役割を果たしたのは事実ですし、ある意味で、レントを生じていたのも事実です。そして、そのレントは当時極めて希少性の高かった外貨の配分から生じており、それを天下りなどに使っていたわけです。しかし、一般に19世紀後半の1870年代とされるルイス的な転換点は、我が国の場合は高度成長期であった可能性が高く、まさに農業などの低生産性の生存部門から製造業などの近代的な資本家部門に労働が移動したことが高度成長の基本を支えていたわけであり、その時期に大衆消費社会が訪れたのは戦争の期間と終戦直後の混乱期に抑制されていた消費が、米国をはじめとする当時の先進国との技術的なギャップをキャッチアップする過程で、大きく盛り上がった、と考えるべきです。1970年代半ばに高度成長が終焉したのは、石油ショックによる資源制約に起因する成長の屈折ではなく、ましてや、本書で主張されているような規制緩和によるレントの消滅ではあり得ません。立派なエコノミストによる重厚な学術書なんですが、中身はやや「トンデモ」な歴史観を展開しているような気がします。

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次に、ハンナ・ピトキン『代表の概念』(名古屋大学出版会) です。著者はドイツ生まれでユダヤ人であるために米国に渡り、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者の後、現在は名誉教授となっています。その代表作のひとつである本書に対してはリッピンコット賞が授賞されています。英語の原題は The Concept of Representation であり、50年前の1967年の出版です。どこからどう見ても完全な学術書であり、代表論の古典とすらいえますので、読み進むためのハードルは決して低くありませんが、欧米でポピュリズムの影響力が大きくなっている昨今の政治情勢の中で、決して雲の上の学術だけの課題ではないと私は考えています。ということなんですが、何分、原題にも含まれている英語の Representation は日本語にすると、代表と表現のやニュアンスの異なる2種類の邦訳が当てはめられ、必ずしもスッキリしない場合も見受けられます。ホッブズから始まって、バークなどの理論家や実践家、すなわち、民主主義下での代表的な政治家の考えを引用しつつ、古典古代のような直接民主主義から自由主義まで、思想の土台より政治的代表の意味を徹底的に検討を加えています。政治的な代表だけでなく、君主制の象徴 symbol、あるいは、代理 proxy など、代表に類似する概念と併せて素材とされています。そのあたりの代表と象徴や代理の違いは、それなりに、理解できる一方で、代表の中でももっとも大きなポイントとなるには、いうまでもなく、民主主義下において投票によって議会の構成員を国民の代表として選出する際の代表の考え方です。バークの議論ではありませんが、この代表が何らかのグループの利害関係を代表するのか、それとも集合名詞としての国民、あるいは、国家の利益を代表するのかの議論は分かれることと思います。地域なり、職能なり、階級なり、何らかの利害集団の利益を代表するだけであれば、議会の構成員としての見識や経験はまったく不要であり、まさに、ポピュリズムそのものですし、後者の国民全体あるいは国家の利益を代表するのであれば、極めて高い見識を必要とする一方で、選挙を実施する意味がありません。というか、マニフェストや公約で示すのは、利害調整の際のポジションではなく、見識の高さを競うのかもしれません。いずれにせよ、50年前のテキストながら、ポピュリズムが台頭しつつある21世紀でもまだまだ参考とすべき内容を含んでいる気がします。

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次に、伊東ひとみ『地名の謎を解く』(新潮選書) です。著者は奈良の地方紙のジャーナリストの出身で、私よりも年長ですのでリタイアしているんではないかと思わないでもありません。地名については在野の民俗学の権威のひとりであった柳田國男などにも同様の研究がありますし、ほかにもいろんな調査研究結果があるんでしょうが、本書では奈良ローカルらしく万葉仮名の表現まで引用して地名の起源や変遷について跡付けています。私が本書を読もうと思った本来の目的である雑学的な知識の詰め合わせは p.200 以降の最後の最後に取りまとめられています。本書の著者の前著がキラキラネームに関する雑学書でしたので、平仮名名の地名で外来語由来の地名などにやや嫌悪感、とまではいわないまでも、何らかの違和感を持って取り上げているような気がしますが、私はそれをいい出せばアイヌ語や沖縄由来の地名についても、何らかの色メガネを持って見られそうな気がして、もう少しオープンな視線で地名を見てみたい気がします。さらに、地名と姓名の入れ込み、というか、地名が姓になった利、逆に、姓が地名になったりした例も多いような気がします。例えば、我が家が引っ越し前に住まいしていた青山なんぞは、赤坂とともに、徳川時代に屋敷を置いていた旗本の姓に由来するんではないかと記憶しています。決して青山なる山があったり、赤坂なる坂があったりしたわけではありません。同様に、本書で縄文や弥生まで地名の起源をさかのぼるのが、どこまで意味があるのかどうかも私には不明です。地名の起源が古ければ有り難いというわけでもないでしょうし、実際に、本書に何度か出て来る表現を借りれば、ホントにフィールドワークをしたのであれば、歴史を経て大きな変更があった可能性もありますが、産物や景観なども含めた起源をフィールドワークして欲しかった気もします。ただ、東京になる前の江戸の起源がよどだったのは知りませんでした。あと、「谷」の漢字を「や」と読むのか、「たに」と読むのか、さらに、万葉仮名を持ち出すのであれば、決して漢字を音読みしない古今集タイプも同時に考え、音読み地名と訓読み地名についても、平仮名地名とともに、もう少し掘り下げて欲しかった気がします。まあ、私の期待値が高過ぎた気もしますし、努力賞なのかもしれません。

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次に、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』(シンコーミュージック・エンタテイメント) です。著者は2009年出版時点では南カリフォルニア大学の、そして、現在ではカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の米国史、黒人史などの研究者です。英語の原題はそのままに Thelonious Monk であり、繰り返しになりますが、2009年の出版です。歴史研究者が14年に渡って調べ上げたジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクの生涯をカバーするノンフィクションの伝記です。二段組みの本文だけで670ページを超え、索引と脚注で30ページあり、全体で700ページを超える極めて大きなボリュームの本であり、何と、大量の読書をこなす私が足かけ3日かけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。一応、ていねいには書かれていますが、登場人物については、それなりのバックグラウンドを知っておいた方が読書がはかどります。当然ながら、モンクを知らないし、聞いたこともない人にはオススメできません。邦訳が出版された昨年2017年はモンク生誕100年ということで、1917年に生まれて、幼少のころからニューヨークで過ごし、1982年に64歳の生涯を閉じるまで、モダンジャズの歴史そのものの人生を送った偉大なるピアニストの生涯を極めて詳細に跡付けています。ビバップからモダンジャズの誕生については、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーに果たした役割が大きいと評価されて来て、ピアニストとしてはモンクよりもバド・パウエルの存在を重視する見方が広がっている中で、モンクの再発見につながる本書は貴重な見方を提供しているといえます。単に音楽生活だけでなく、その基盤となったネリーとの結婚生活や、パノニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人との交流や援助など、もちろん、音楽シーンでのほかのジャズ・プレーヤー、プロモーター、マイナーレーベルのオーナー、レコーディング・エンジニアなどなどとの人間関係も余すところなく描き出しています。化学的不均衡により、モンクの双極障害、統合失調症などによる特異な行動や言動などがどこまで説明できるのかは私には理解できませんが、ピアノの弾き方がとても独特なのは聞けば理解できます。決して、音楽の名声の点でも、もちろん、金銭的にも、恵まれた人生であったかどうかは疑問ですが、モダンジャズの開拓者、先導者としてのモンクの役割を知る上で、そして、音楽シーンを離れたモンクの人生を知る上で、十分な情報をもたらしてくれる本だといえます。ただし、かなりのボリュームですので、粘り強く読み進むことが出来る人にオススメです。

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次に、関満博『日本の中小企業』(中公新書) です。著者はご存じの製造業研究などで有名な一橋大学をホームグラウンドにしていた研究者であり、エコノミストというよりは経営学が専門なのかもしれません。繰り返しになりますが、中小企業というよりは、製造業がご専門のような気がしますが、本書では中小企業にスポットを当てています。特に、最近の中小企業経営を取り巻く環境変化として、国内要因の人口減少や高齢化、海外要因として中国をはじめとする新興国や途上国における人件費の安価な製造業の発展を上げています。その上で、第1章では統計的な中小企業の把握を試み、第2相と第3章では企業の観点から、また、第4章では継承の観点から、大量にケーススタディを積み上げ、繰り返しになりますが、第5章では中小企業経営の環境変化、すなわち人口減少・高齢化とグローバル化の進展について考察を進めています。なかなかに元気の出る中小企業のケーススタディであり、どうしても製造業の割合が高いながらも、高い技術に支えられた中小企業の存在意義を明らかにしています。ただ、こういったケーススタディによる研究成果、というか、本書のようなサクセス・ストーリーのご提供に関しては、2点だけ不安が残ります。第1に、これらの成功例のバックグラウンドに累々たる失敗例が存在するのではないか、という点です。我が国では米国などと比べると、起業件数とともに廃業件数も少なく、企業経営が米国ほど動学的ではない、とされていますが、他方で、その昔に「脱サラ」と称されたコンビニ経営などが、一定期間終了後に店仕舞いしている実態も、これまた目にして実感しているわけで、当然ながら、起業がすべて成功するわけもなく、成功例の裏側に失敗例が数多く存在し、単に成功例と失敗例は非対称的にしか扱われていない可能性があります。第2に、最近の中小企業経営の環境変化の中で、非製造業における人手不足について情報が不足しています。本書の著者の専門分野からして、製造業、特に、かなり高い技術水準を有している製造業に目が行きがちで、それだけで成功確率が高まるような気もしますが、建設や運輸、さらに、卸売・小売といった非製造業の中小企業もいっぱいあり、昨今の人手不足の影響はこれら非製造業の中小企業ではかなり大きいのではないか、少なくとも製造業よりもこういった非製造業への影響の方が大きそうな気もします。そういった、否定的な情報が、失敗例にせよ、人手不足の非製造業への影響にせよ、意図的に隠しているわけではないんでしょうが、ほとんど提供されておらないように見受けられなくもなく、技術力の高い製造業の成功例だけが取り上げられているおそれがあるのか、ないのか、やや気にかかるところです。

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最後に、ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) です。文庫本で出版されたので借りて読んでみました。私は単行本も読んでいて、2013年5月24日付けの読書感想文で取り上げています。その際に、私の知り合いの表現を引いて、「オーツの入門編として最適な1冊」と書いています。詳細は省略します。
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2018年02月04日 (日) 18:28:00

先週の読書は興味深い経済書など計6冊!

先週の読書は、もっとペースダウンしようと考えていたものの、それでも6冊を読み切ってしまいました。まあ、軽い本が多かった気がします。今週はすでにこの週末に図書館を回って、ハンナ・ピトキン『代表の概念』とか、寺西先生の『歴史としての大衆消費社会』といったボリュームある学術書を借りていますので、冊数としてはもっとペースダウンする必要がありそうな気がします。

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まず、トム・ウェインライト『ハッパノミクス』(みすず書房) です。著者は英国エコノミスト誌のジャーナリストであり、英語の原題は Narconomics となっていて、邦訳タイトルは忠実に訳されています。2016年の出版です。著者はジャーナリストらしく、中南米の原産地やメキシコや中米の輸送経由地、米国をはじめとする先進国の消費地などをていねいに取材しています。ものすごく危険な取材であったろうと勝手ながら想像しています。私は南米の日本大使館勤務の経験がありますので、そういったウワサ話も少しは理解できますし、少なくともスペイン語は一般的な日本人のレベルよりも格段に使えますが、ジャーナリストの取材でも現地語の理解は不可欠であったろうと想像します。ということで、ドラッグの生産・流通・消費、さらに、ドラッグを扱うギャング組織の経営実態までを経済経営学的な見地から跡付けた取材結果のリポートです。経営組織の連携や離合集散など、通常の企業体ではM&Aに属する経営判断、あるいはフランチャイズやアウトソーシングなどの活動、サプライ・チェーンの管理やマーケティングなどなど、通常のグローバルなビジネスの経営と同じように、ドラッグを扱うギャング組織も極めて経済学的かつ経営学的に合理的な活動をしている実態が明らかにされています。そして、それらのギャング組織によるドラッグ蔓延を阻止すべく活動を強化している政府の活動についても分析を加えています。現在のドラッグ阻止活動の中心は供給サイドの締め付けにより、経済学的な需要供給の関係からドラッグの価格上昇をもたらして、需要を抑え込もうという点が中心になっています。タバコの需要抑制のために価格引き上げを実施するようなものであろうと理解できます。しかし、それに対して麻薬カルテル側では買い手独占で負担を農家に負わることができるため、大きな影響は受けない、という実態も明らかにされています。そして、実は、これは私が勤務した当時の大使館の大使の主張のひとつでもあったんですが、ドラッグを合法化して流通の一部なりとも政府で押さえる、そして需要サイドの中毒者を把握し、必要に応じて、集中的に治療を加える、という方策が現実味を帯びるような気がします。私は決して経済学帝国主義者ではありませんし、経済学中華思想も持っていないつもりですが、本書を読んでいると、麻薬カルテルの活動に経済学や経営学を適用すれば、実にスッキリと理解がはかどるというのも、また事実のような気がします。

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次に、『山を動かす』研究会[編]『ガバナンス改革』(日本経済新聞出版社) です。編者にはみさき投信の社長が含まれていて、そのあたりが中心か、という気もしますが、私はこの分野は詳しくありませんので、確たることは不明です。前著は『ROE最貧国 日本を変える』らしく、私は読んでいませんが、同じラインの本であり、我が国の資本生産性を上昇させることを目的にしているようです。そして、これまた私の専門外なんですが、アベノミクスの第3の矢であった成長政策のひとつの目玉が本書のタイトルとなっているガバナンス改革であったのも事実です。その中で、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードも制定され、投資家と企業の新しい関係も始まっています。ただ、ガバナンス改革については、かなり狭義に、株価上昇のための会計上の創意工夫、というややアブナい、というか、東芝なんかはそれで一線を超えてしまったようなラインで理解している向きもありそうで少し怖い気もしますので、本書のような本筋の知識を普及させることは大いに意味あることと私も理解しています。ただ、本書の中の第4章に収録されている対談にもある通り、ガバナンス改革は何らかの公的・自主的な規制やイベント、それこそ、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードの制定とか、会社法の改正による社外取締役の義務付けとかですすむのかといえば、必ずしもそうではないような気もします。すなわち、市場における投資家や情報提供に携わるエコノミストやアナリストも含めて、市場からの圧力により、「自然と」という表現は違うかもしれませんが、いつの間にか気が付いたら、「山が動いていた」、すなわち、ガバナンスが革命的に短期間で、あるいは政府や証取などの公的な機関の指導やインセンティブ付与などで、カギカッコ付きの「改革」されるものではなく、それぞれの市場の歴史的経緯の経路依存性や参加者の構成などの実情に応じて、グローバル・スタンダード的なガバナンスが各国市場に一律に適用されるのではなく、各国のその時点の市場に応じた形でガバナンスが向上する、そしてその背景では、資本の生産性が上昇している、というものではないかという気がします。その点では、労働の生産性向上と大きく違う点はないものと私は考えています。そして、これまら労働の生産性と資本の生産性のそれぞれの向上を考える際に共通して、我が国は先進国としては、いずれの生産要素の生産性も決して高いとはいえず、先進例へのキャッチアップにより要素生産性を向上させることが可能ではなかろうか、という気がします。製造業の生産性は別かもしれませんが、少なくともサービス産業の労働生産性は、資本の生産性と同じように、まだまだ我が国は遅れている面があり、同じようなことがいえるんではないかと私は考えています。

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次に、岩田正美『貧困の戦後史』(筑摩選書) です。著者は日本女子大学を代表する社会政策や社会学分野の研究者なんですが、すでに退職されて名誉教授となっているようです。本書では、上の表紙画像に見られる副題のように、貧困を量的に捉えるのではなく、かたちとして、すなわち、何らかの類型や生活実態に即して捉えようと試みています。そして、タイトル通りに、これはあとがきにもありますが、最近の貧困論や格差論はせいぜいが1990年台のバブル崩壊以降しか視野に入れていないのに対して、戦後を通じた時間的な視野を持って分析が進められています。繰り返しになりますが、著者はそれをあとがきで自慢しているんですが、そうなら、もっと時間的にさかのぼって、明治期からの近代日本をすべて視野に収めるのも一案ではないかとも思いますし、特に戦後、というか、終戦直後から分析を始めることに意味があるとは私は思いません。そして、本書の特徴は著者の専門分野からして、ある意味で当然なんですが、かなり極端な貧困、すなわち、生きるか死ぬかのボーダーラインにあるような貧困を対象にしています。終戦直後であれば、いわゆる浮浪者、現在であればホームレスといったところが対象となっており、OECD的な相対的貧困率も取り上げていたりはしますが、そんな生易しい貧困ではなく、もっと強烈な貧困に焦点を当てています。ただ、どうしても私の目から見て、本書のような社会学的な貧困分析は表面的な印象を拭えません。エコノミストの目から見て、表面的、すなわち、かなり具体的に社会的な問題となっている、というか、見つけやすい貧困を対象にしているような気がしてなりません。それは第1に、都市の中で、人としては失業者、地区としてはスラムであって、地方の農村の貧困は等閑視されがちになっています。第2に、どうしても声高な主張のできる高齢層に目が向きがちで、子どもの貧困には関心が薄いのではないかと心配になります。ですから、この点は著者が批判的な眼差しを向けている戦前的な貧困対策、すなわち、働ける医師や能力を持った失業者への対策が政策の中心をなしていて、ホームレスなどについては置き去りにされがちな傾向と、実は、軌を一にしている可能性があることを考慮するべきではないでしょうか。貧困の三大要因は、私が大学のころに習った疾病、高齢、母子家庭から40年を経て大きく変化しているわけではありません。働けない人々に対していかに社会的な生活を保証するかの観点が重要です。

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次に、芳賀徹『文明としての徳川日本』(筑摩選書) です。著者は東大名誉教授の比較文学者であり、本筋は仏文だと記憶しています。ですので、歴史学者ではありません。本書では、与謝野蕪村などを多く引用し、徳川期について西洋の中世的な暗黒時代や文化・文明の停滞期と考えるのではなく、多様な文化・文明の花咲いた完結した文明体として捉えようと試みています。ただし、私の考えるに、タイトルの「文明」はやっぱり大風呂敷を広げ過ぎであり、まあ、「文化」程度に止めておいた方がよかった気もします。そして、著者の専門分野からして、本書の冒頭でも絵画的、というか、美術的な文化・文明にも触れていますが、やっぱり、文学が本筋だという気がします。その意味で、我が国独特の短い表現形式である俳句の世界から与謝野蕪村、そして松尾芭蕉を多く取り上げているのは、なかなかいいセン行っていると思います。私が興味を持ったのは、オランダのカピタンをはじめとして、鎖国状態の中でも海外からの情報取得が活発であり、もちろん、支配階層だけのお話でしょうが、かなり熱心な情報収集を行っている点です。加えて、改めて、なんですが、文化・文明のそれなりの発展のためには平和が欠かせない、という点です。戦争状態であれば、国内の内戦であろうと、海外との戦争はいうまでもなく、文化・文明は戦争遂行、特に戦争の勝利に支配されるわけで、文化・文明の発展は大きく滞ります。その点で、天下泰平の徳川期に文化・文明は大きく発展し、識字率などの我が国国民の民度も向上し、明治期の近代化を準備したといえます。本書では、徳川期を他の日本史の時期から切り離して、単独での文化・文明を論じていますが、私は大きく我が国の近代化が進んだ明治期につながる準備期間としての徳川期の文化・文明というのも重要な観点ではないかと思います。

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次に、織田一朗『時計の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者はセイコーの前身となる服部時計店の広報などを担当してきており、時の研究家と自称しているようです。本書では、その昔からの欧州や中国における時計の歴史、日時計や水時計、もちろん、機械時計そして、現在のクオーツ時計や電波時計などの最新技術を駆使した時計まで、その歴史をひもとき、時計と時に関して技術的な、あるいは、場合よっては哲学的な知識を明らかにしています。読ませどころは、第4章のセイコーによるクオーツ時計の開発ではないでしょうか。著者ご本人が勤務していたわけですので、それなりに詳細に渡って興味深く展開しています。時計に関しては、私は朝が弱いので目覚ましがないと起きられません。時計だったり、女房に起こしてもらったりします。腕時計は、いくつか持っているんですが、 ビジネス・ユースは2つあって、いずれもオメガです。亡き父親の形見の自動巻きのコンステレーションは50年以上前のものだと思います。もうひとつの手巻きのスピードマスターは結婚前の結納で女房からもらったものです。いずれも機械時計ですので3~5年に1回位の頻度でオーバーホールしています。一度に2つともオメガの正規店に持ち込むと平気で数万円かかりますので、半額くらいで済む街中の時計店にお願いしています。他に週末の普段使いとしてスウォッチをいくつか持って使い回しています。ですから、腕時計はすべてスイス時計だという気がします。オメガは機械時計ですが、スウォッチはクオーツです。それから、時計代わりにラジオやテレビの時報などを用いるというのもありますが、テレビに時刻が表示されることもあります。朝のニュースなどです。私が南米はチリの日本大使館の経済アタッシェをしていたのは1990年代前半で、まだ日本のテレビでも分単位の時刻表示しかしていなかったところ、何と、チリの首都サンティアゴのテレビは秒単位の時刻表示をしていて、少し驚いたことがあります。そして、もっとびっくりしたのは、テレビ局によってかなり表示時刻が違っていることです。曲によっては平気で2分くらい違います。日本では考えられないことだと思いました。また、南半球のクリスマスやお正月は真夏の季節なんですが、ラジオも曲によって時報がズレています。南半球の真夏の年越しカウントダウンに参加したことがあるんですが、あるラジオ局を聞いているグループは、我々よりも1分くらい早く新年を迎え、我々のグループはそこから1分あまり遅れて新年を迎えてクラッカーを鳴らしたことを記憶しています。ラジオ局やテレビ局によって独自の時報の設定がなされていたようです。ラテンの国らしく、とてもいい加減だと感じざるを得ませんでした。

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最後に、マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』(ハヤカワ文庫NF) です。著者は米国の宇宙望遠鏡科学研空所に勤務する天体物理学の研究者です。名前を素直に読むとイタリア人っぽく聞こえるんではないでしょうか。英語の原題は Is God a Mathematician? であり、邦訳タイトルは忠実に訳されているようです。原書は2009年の出版であり、2011年出版の邦訳単行本が文庫本として出されたので読んでみました。著者の邦訳は3冊目らしく、第1作は『黄金比はすべてを美しくするか?』、第2作は『黄金比はすべてを美しくするか?』となっています。本書では、特に、「数学の不条理な有効性」と著者が呼ぶもの、すなわち「何故数学は自然界を説明するのにこれほどまで有効なのか?」について、ピタゴラス、プラトン、アルキメデスなどの古典古代から始まって、ガリレオ、デカルト、ニュートンなどの中世から近代にかけて、そして、もちろん、ユークリッド幾何学の否定から始まったリーマン幾何学を基礎としたアインシュタインの相対性理論、さらに、数学というよりも論理学に近い不完全性定理を証明したゲーデルなどなど、数学の発展の歴史をたどりながら論じています。本書でプラトンが重視されているのは、プラトンは本来は数学分野の功績はないものの、数学は発見されたのか、発明されたのか、という問いに関係しているからです。すなわち、プラトン的な見方からすれば自然の中にすべてが含まれているわけであり、数学も自然になかにあることから、人間が自然を記述するために発明したのではなく、もともと自然の中にある数学を発見した、ということになります。私はこういった哲学的な観点は興味ありませんが、エコノミストの目から見ても、少なくとも、自然科学だけでなく、経済的な現象、というか、モデルの記述には数学がとても適しています。南米駐在の折は経済アタッシェとはいえ、外交活動、というか、社交的な活動が中心だったんですが、ジャカルタではゴリゴリのエコノミストの活動で、いくつか英語で学術論文を書いたりしていましたので、数学の数式でモデルを提示するのは英語という外国語で記述するよりも格段に論理的かつ便利であることを実感しました。アムエルソン教授の何かの本の扉に「数学もまた言語なり」というのがあったのを思い出した次第です。
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2018年01月27日 (土) 11:42:00

なかなかペースダウンできずに今週の読書はやっぱり7冊!

先週の読書は明らかにオーバーペースでしたが、今週もやや読みすぎたきらいがあり、計7冊に上りました。やっぱり、睡眠時間を犠牲にして読書しているんでしょうね。来週はペースダウンしたいと思います。

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まず、キャス・サンスティーン『シンプルな政府』(NTT出版) です。著者はハーバード大学教授であり、本来の専門分野は憲法だと記憶しているんですが、私の専門分野との関係では行動経済学にも深い見識を有しています。そのため、第1期のオバマ米国政権において米国大統領府の行政管理予算局のひとつの組織である情報・規制問題室長を務めています。この組織は本書でOIRAとして頻出しますし、主として、本書の内容はこの政府における活動を中心に据えています。ですから、2013年に出版された英語の原書の原題は、上の表紙画像に見られる通り、Simpler とされています。ただ、邦訳タイトルのように政府の規制のあり方だけを論じているわけではありません。ということで、政府規制を中心に据えつつも、幅広く行動経済学を論じています。もっとも、政府の公職を離れた後で上梓した本ですので、ハッキリいって、そうたいした内容ではありません。このブログでは取り上げなかったと記憶していますが、日本で本書の直前のこの著者の出版に当たる『賢い組織は「みんな」で決める』が、同じ出版社から出ており、コチラの方がレビューの星が多そうなきがします。もっとも、アマゾンの例では、『賢い組織は「みんな」で決める』はまだレビューがなく、本書『シンプルな政府』は星3つです。まあ、可もなく不可もなく、といった内容だという気がします。政府内での規制の実践が中心をなしていますので、そんなに突飛な実験もできないわけで、それはそれで仕方ない気もする一方で、行動経済学の政府における実践編としては貴重な実証記録なのかもしれません。繰り返しになりますが、本書の特徴をまとめると、行動経済学の新しい理論面を開拓するのではなく、米国政府における実践結果として評価すべきかもしれません。

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次に、ダニエル・コーシャン/グラント・ウェルカー『奇跡のスーパーマーケット』(集英社インターナショナル) です。著者の2人はビジネス・スクールでCERを専門とする研究者とこの本野部隊となるん米国ニューイングランドの地方紙のジャーナリストです。英語の原題は We Are Market Basket であり、日本では、フジテレビの「奇跡体験アンビリーバボー!」で11月に放送された米国ニューイングランドのそこそこ大手のスーパーマーケットの物語です。要するに、スーパーマーケットのファミリー・ビジネスの継承で、一方が典型的な日本的浪花節の世界の経営者アーサーT.で、顧客を大切にし、取引先のサプライヤーも地元から選んでムリをいうこともなく、従業員にも十分な利益還元や就業条件で報いていた一方で、ファミリー・ビジネスのもう一方の大株主の従兄弟アーサーS.はビジネス・スクールを出たエリートで、会社は株主のためにあるというガバナンスを信条に、顧客には売れるだけ高く売りつけ、納入業者を締め上げ、従業員はこき使う、という経営をしたわけです。アーサーT.のいかにも日本的なCSRを重視する経営者からアーサーS.のエリート経営者に経営の実権が移り、従業員はもとより、顧客、納入業者までが一致団結してデモを繰り返し、最後には州議会議員や州知事まで介入して、CSR重視の経営者アーサーT.にアーサーS.から株式が売却され、経営の実権が戻されるように取り計らい、めでたくも抗議行動が集結した、というものです。ただ、本書の著者たちは冷静で、「めでたし、めでたし」で終わるのではなく、返り咲いた経営者アーサーT.が株式を購入するに当たっての借り入れの資金コスト負担、従業員を大切にする長期雇用下で、今回の抗議行動の立役者などの昇進を望む圧力など、今後の先行きの経営の不透明さも浮き彫りにしています。日本的経営を手放しで賞賛するだけでなく、そのコスト面も視野に入れた冷静な分析結果が提供されています。そういった意味で、なかなかの秀作です。

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次に、ウォルフガング・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(河出書房新社) です。著者はドイツ人の社会学者であり、マックス・プランク研究所やケルン大学をホームグラウンドにしています。前作の『時間かせぎの資本主義』(みすず書房)は私も読んでいて、このブログの2016年7月30日付けの読書感想文で取り上げています。ハッキリいって、前著の方が出来がよく、1980年代の米国レーガン政権や英国サッチャー政権から本格的に始まった新自由主義的な経済政策が最終的に今世紀のリーマン・ショック、というか、本書の表現では世界的により広く流布している「グレート・リセッション」で世界経済の停滞がピークを迎えたと分析し、銀行危機・国家債務危機・実体経済危機という三重の危機を迎えたとの認識が示されていましたが、本書ではどうもつながりのよくない単発の論文を合本したような印象で、特に、第6章以降はまとまりのなさが露呈していると私は受け止めています。第5章までの議論では資本主義と民主主義が近代の初めから「できちゃった結婚」により、手を携えて発展して来たものの、21世紀の現在では市民社会に根差した民主主義が大きく後景に退き、それが資本主義の矛盾を大きくするとともに、格差の拡大や危機の深化などの資本主義の終焉に向かう動きを強めている、という主張ではないかと忖度するんですが、当然のことながら、資本主義の後の経済体制に関する考察を欠きます。その昔のマルクス主義では、さすがに先進国での暴力革命による政権転覆は非現実的としても、また同時に、成熟した先進国の民主主義を経た現状では、プロレタリアート独裁も考えられないとしても、これらの暴力革命やプロレタリアート独裁に代わる成熟した民主主義を代替案と出来るとしても、市場経済に基づく資本主義にとってかわる社会主義、すなわち、中央指令に基づく集産主義的な経済体制については、マルクス主義的な将来像に対する何らかの代替案が欲しかった気がします。格差の是正や民主主義の徹底などは、マルクス主義でなくても、社会民主主義的な改良主義でも、ある程度実現可能と考えられるわけですから、社会民主主義を超えるマルクス主義の主張を正当化するための議論も必要ではないでしょうか。実は、私も資本主義は終わる方向に向かっていると考えているんですが、どう終わるかも重要ですが、その先に何が待っているのかも不可欠の議論の対象だと思います。

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次に、若森章孝・植村邦彦『壊れゆく資本主義をどう生きるか』(唯学書房) です。著者はマルクス主義の研究者であり、本書もマルクス主義の観点から資本主義の終焉や最終段階説を取っています。というのは、約100年前のロシア革命によりソ連が成立してから、資本主義の最終段階説が登場し、今にも世界各国で社会主義革命が起こる、といわれ続けて100年を経て、その前にソ連的なコミンテルン型の社会主義が先に崩壊したわけです。本書ではウォーラーステインの歴史観に基づきつつ、資本主義の最後の世界、特に、1980年ころに成立した英国サッチャー政権や米国レーガン政権以降の新自由主義主義的な経済政策の下で、成長率が向上しない一方で企業部門が利潤を上げながらも労働者にその成果は分配されず、格差が拡大し資本主義の腐敗が進し、同時に民主主義が崩壊に向かって、市民社会も危機に瀕する、という歴史観を共有しています。ただ、完全な共産党員である英国のホブズボームと違って、米国のウォーラーステインはより社会民主主義的であり、改良主義的です。ですから、私が常々疑問に感じている暴力革命とプロレタリアート独裁は必要ではないという立場のように見受けられます。同時に本書では、どうも、後づけのような気もしますが、米国トランプ政権の成立や英国のBREXITなどのポピュリズムの台頭を念頭に置きつつ、深刻化する世界的な分断と排除の根源にはナショナリズム/レイシズム/階級問題があると指摘します。この三位一体構造が私には理解できないんですが、流行を捉えているということは、決して悪いことではありません。ただ、本書の場合、各章の後半部分の対談の収録はカンベンして欲しかった気がします。別の表現をすれば、キチンとした学術書、でなくても専門書か教養書に仕上げて欲しかったと思います。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』(朝日新聞出版) です。同じ著者による同じ出版社からの『世界をつくった6つの革命』に続く第2段といえ、英語の原題は上野表紙画像に見える通り、Wonderland であり、2016年の出版です。著者はよくわからないんですが、ジャーナリスト出身のノンフィクションライターではないかと思います。前著の6つの革命は、ガラス、冷たさ、音、清潔、時間、光、で、とても判りやすくてよかったんですが、本書の6つの気晴らしは、ファッションとショッピング、音楽、特にひとりでに鳴る楽器、コショウや味覚、イリュージョン、ゲーム、レジャーランドなどのパブリック・スペース、となっています。本のタイトルも、章のタイトルも、邦訳はかなり苦しく、少しムリをしている嫌いがあります。特に、最後の章のレジャーランドについては、むしろ、公園なども含めたパブリックなスペースの意味なんですが、日本語では「パブリック」はプライベート=私的の反対で公共の意味をもたせる場合が多く、少し邦訳に苦労している様子がうかがえます。本書での気晴らしについても、第3章の食生活なんて、衣食住の人類の生活に不可欠な要素であって、決して気晴らしではないと思いますし、中身としても、このブログでは取り上げていなかったような気もしますが、前著の『世界をつくった6つの革命』の方が出来がいいような気がします。少なくとも併せて読むべきではないかと思います。どちらか1冊だけ、ということであれば、本書ではなく前著の『世界をつくった6つの革命』の方を私はオススメします。

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次に、今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社) です。作者は新人ミステリ作家であり、この作品は第27回鮎川哲也賞受賞作です。小説のタイトルとなっている「屍人荘」は作品中では、どこかの大学の映画サークルが合宿をする「紫湛荘」であり、主人公は大学1年生で、多くの登場人物も大学生というてんでは、いわば、青春小説でもあったりします。しかし、他方で、クローズド・サークル内での殺人事件に対する本格的なミステリとなっています。そして、きわめて独創的なのがクローズド・サークルの発生であり、通常のような吹雪などの気象条件とか、がけ崩れなどの事故とかではなく、生物兵器的なテロによって一種の細菌がばらまかれ、特に伏字とするべきxxxが発生して、一部の登場人物の大学生などもこれに感染してxxx化した中で、その紫湛荘への襲撃を防止しつつ、クローズド・サークル内の殺人事件を解決する、という立てつけとなっています。しかもしかもで、伏字としているxxxも単にクローズド・サークルを形成しているだけでなく、もっと積極果敢な(謎?)役割を果たしたりしています。ホラーとミステリの要素を合体させた作品ですから、この両者の合体自体は江戸川乱歩にさかのぼるまでもなく、決してめずらしいわけではありませんが、xxxの発生によりクローズド・サークルを発生させるというのは、管見の限りなかったような気がします。xxxの駆除、というか、撲滅、というか、何というか、については詳細は明らかにされていませんが、クローズド・サークル内の殺人事件の謎解きは本格的なミステリ作品ですし、私から見ればなかなかのミステリに仕上がっている一方で、読み手によっては評価は分かれる可能性があります。特に、キャラの設定が工夫はしているものの、ややありきたりな印象です。アマゾンのレビューでは星5ツから1ツまで、大きく評価が分かれていますが、私はこの本を買って読みましたが、先々週の読書感想文で取り上げた辻村深月『かがみの孤城』と貴志祐介『ミステリークロック』に比べれば、新人作家ながら「買ってよかった感」を強く持ちます。

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最後に、ロナルド A. ノックス/アントニイ・バークリーほか『シャーロック・ホームズの栄冠』(創元推理文庫) です。論創社から2007年に出版されていた同名の単行本が創元推理文庫で昨年に出版されましたので読んでみました。なお、単行本が出版された折に、2007年はホームズ生誕120年であるとされていましたので、昨年2017年は生誕130年、というか、登場から130年なのかもしれません。本書は5部構成となっており、第1部王道篇、第2部もどき篇、第3部語られざる事件篇、第4部対決篇、第5部異色篇です。未訳の短編作品を中心に、まさに、ホームズのパスティーシュといえるものから、ジョークでしかないものまで、ホームズの物語が取り上げられています。必ずしもミステリだけではありません。第1部はジョークもないわけではないものの、文字通りの堂々たるパスティーシュが多く収録されており、第2部はホームズ・ワトソンのコンビになぞらえた推理探偵と語り部のコンビによるミステリが中心となり、第3部では、ドイル著のホームズ小説で事件名のみが取り上げられて、中身の不明な事件について明らかにされており、第4部ではホームズ以外の著名な探偵であるデュパンや007ジェームズ・ボンドとの対決があり、最後の第5部では雑多な短編が収録されています。
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2018年01月20日 (土) 11:42:00

今週の読書は専門の開発経済学をはじめ多岐に渡り大量に計8冊!

先週末に図書館からかなり大量に借りてしまい、今週の読書は開発経済学や日本経済などの高度成長期研究などの私の専門分野、さらに教育や医療といった経済に大きく関連する分野の専門書、さらに直木賞候補に上げられた小説まで含めて、以下の通りの計8冊です。来週はもっとペースダウンしたいと考えています。

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まず、デイビッド・ヒューム『貧しい人を助ける理由』(日本評論社) です。著者は英国マンチェスター大学の開発経済学の研究者であり、邦訳にはJETROアジ研のグループが当たっています。英語の原題は should Rich Nations Help the Poor? であり、著者や私を含む多くの読者は Yes の回答を持っているものと想像しています。原書は2016年の出版です。ということで、本書ではまったく触れられていませんが、英国マンチェスター大学といえば、唯一黒人でノーベル経済学賞を授賞されたアーサー・ルイス卿が米国のプリンストン大学に移る前に在籍し、かの有名な二重経済を論じた "Economic Development with Unlimited Supplies of Labor" はマンチェスター大学の紀要論文として取りまとめられていると私は記憶しています。開発経済学を専門とする私としても、印刷物の実物は見たことがありませんが、何度も論文で引用していたりします。その著者が本書で論ずるに、豊かな国が貧しい人々を助ける理由として2点上げており、第1点目は倫理的な理由です。本書では正義感と表現しているところもあります。いかなる観点からも文句のつけようのない理由です。第2点目が、少し議論が必要かもしれませんが、日本的な表現をすれば「情けは人の為ならず、回り回って自分の為」というような観点ながら、要するに自国ないし自国民のためという理由であり、広く自分のためといいつつも、より正しく表現すれば、共通利益の実現、ということになります。ですから、豊かな国が援助するとしても、いろんな手段があるわけで、無償のヒモ付きですらない援助、償還を前提とする借款、人的な技術援助、そして、市場外の政府間の援助ではなく市場ベースで行われる直接投資や何らかの資本流入、その他、いろいろな先進国や豊かな国からの開発援助や市場ベースの技術や資金の流入があります。その上で、先ほどの共通利益の実現として、典型的には地球環境の保護、不平等の是正などを目指した活動があります。私は、本書では過去のものと見なされている「ビッグ・プッシュ」による開発促進はまだ有効であると考えており、ほかにも、必ずしも「フェア・トレード」を促進することが開発につながるかどうかには疑問を持っていたりします。開発初期には、クズネッツの逆U字カーブを持ち出すまでもなく、また、我が国などの女工哀史のような歴史に言及せずとも、何らかの開発に伴う犠牲は考えられます。こういった私の見方も含めて、開発経済学にはいろんな考えがあるんですが、それらを包含して、幅広い開発への合意形成もこういった著作から目指すのもとても意味あることだと私は思います。


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次に、マイク・レヴィンソン『例外時代』(みすす書房) です。著者はドイツ生まれの英国「エコノミスト」誌の編集者であり、本書の英語の原題は An Extraordinary Time であり、2016年の出版です。本書では、戦後1950-60年代の世界的な高度成長期を例外時代と見なし、現在の低成長の時期こそがノーマル、というか、普通=ordinaryなのだと主張しています。まあ、当然です。戦後の高度成長期に関しては、私も開発経済学の観点から研究対象とし、一昨年に "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" と題する学術論文を役所の同僚と共著で取りまとめ、昨年には所属学会である国債開発学会の年次大会にて学会発表しています。私の論文は高度成長期における経済計画の重要性に着目した内容ですが、本書でも、第1章の最後の方で経済計画の役割、特に、明記はしていませんが、我が国では通産省の産業政策と経済企画庁の経済計画の組み合わせによる行政指導を含む助言と指導が高度経済成長に大きな役割を果たした点を明らかにしています。ただ、本書では1973年の第1次石油危機により世界的に高度成長が終了したと示唆しており、私の理解とは少し違っています。すなわち、私はこれも役所の同僚、何と、今では日銀政策委員までご出世された先輩との共著で「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」 と題する学術論文を取りまとめており、この論文では、1970年代に高度成長を終了させ、その後の成長率を屈折させたものは、石油ショックや技術格差の縮小のような外的な要因ではなく、外的なショックに対して日本経済が反応する力の弱くなったことにある、と結論しています。そして、この論文では定量的な分析は提示できていないものの、アーサー・ルイス卿による二重経済の解消過程における労働力のシフトが高度成長をもたらした、と私は考えています。ですから、高度成長は戦後経済における1回限りの経済現象であったわけです。それは日本に限らず、欧米諸国でも同じことが当てはまります。同じことは本書の著者も理解しているようで、p.304 には、「戦後すぐに生産的な仕事へと移行していた未活用の膨大な労働力は、もうあてにできなかった。」と表現されています。おそらく、中国でも同じことでしょう。

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次に、高田創[編著]『異次元緩和脱出』(日本経済新聞出版社) です。編著者はみずほ総研に3人いるチーフエコノミストの1人であり、著者人はみずほ総研の研究者で固めているようです。本書では、現在の5年近く続いた黒田総裁の下での日銀の異次元緩和の出口について、テーパリングではなく金利引上げの観点から、いくつかのシナリオを考えた上でシミュレーションを行い、異次元緩和の出口戦略の考察を進めています。ということなんですが、出口に達する前に、まず、出口を判定する基準のようなものについて考えており、3つほどのケースを取り上げています。私はその中では、本書でいうところの「OKルール」なんだろうという気がします。すなわち、コアCPIの+2%上昇に達しないながらも、景気も含めて総合的に判断すればデフレを脱却した、という名目の下で出口戦略を開始する、というものです。ただ、本書で触れられていないのは為替に対する影響です。すなわち、私のような単純な頭で考えれば、物価上昇が+2%に達しなければ、もしも、米国や欧州が+2%の物価上昇を達成しているならば、購買力平価の観点から円高に振れかねない、という懸念があったんですが、どうも、米国もユーロ圏欧州も物価上昇率は必ずしも安定的に+2%に達しているわけでもなく、「まあいいか、OKか」という雰囲気が広がるのも理解できるところです。そして、この異次元緩和の出口に対応して、8つのシナリオを本書では用意しています。本書の p.125 に並べられています。債務超過に陥らないように日銀財務の収支を考慮するとともに、金利水準そのものに加えて、イールド・カーブの傾き、すなわち、長短金利差も含めた8つのシナリオです。その上で、日銀財務、政府債務残高と金融機関経営の三位一体の影響をシミュレーションしています。テーパリングではなく金利引上げを出口戦略の主たる対象としてますので、貯蓄投資バランス次第という気もしますが、伝統的な経済学では企業部門は投資超過、家計部門は貯蓄超過、政府と海外は適宜、と考えられている一方で、現時点では、事業会社を中心とする企業部門は、かなりの程度に投資超過を解消しており、貯蓄超過の企業も少なくなく、家計は伝統的に貯蓄超過となっていて、政府部門が大きく投資超過となっています。単純に考えると、金利が上昇すれば投資超過主体から貯蓄超過主体に所得が移転されます。ですから、金利上昇でもっとも大きなダメージを受けるのは、現時点の日本では政府です。そして、金利の絶対水準が上昇すれば、利ザヤを抜きやすくなるという意味で銀行をはじめとする金融機関の経営には朗報といえます。もちろん、本書で用意されたいくつかのシナリオで違いはありますが、基本ラインはこの通りではないかという気がします。そして、そこは金融機関から独立したシンクタンクらしく、というか、何というか、みずほFGのシンクタンクとして本書では金融機関の経営にも目配りし、少なくとも、私のような少数派のエコノミスト以外は多くの見方が一致する可能性のある「永遠のゼロ」は最もリスクが大きい、と結論しています。私は本書で指摘されている「悪い金利上昇」、すなわち、リスク・プレミアムによる金利上昇が最悪のケースではないかと考えていますので、半分とはいわないまでも、いくぶんなりとも金融機関のポジション・トークを本書は含んでいる気はしますが、現在の日銀の異次元緩和の出口戦略を考えるアタマの体操、ということで何らかの参考にはなりそうな気もします。

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次に、エリック・ホブズボーム『いかに世界を変革するか』(作品社) です。著者は著名な英国のマルクス主義歴史学者であり、数年前に亡くなっています。原書の英語タイ トルは "How to Change the World" であり、2010年の出版です。日本語版では解説のたぐいや編集後記などを含めて、ラクに600ページを超える大作に仕上がっています。単純な2部構成となっており、第1部ではマルクスとエンゲルスの人物像を明らかにし、第2部で彼らの思想というか、マルクス主義について考察を進め、最後の方ではマルクス主義の歴史、特に欧州での共産主義の歴史が焦点となっている、という印象です。特に、イタリア共産党のグラムシについて注目しており、その後の欧州におけるユーロコミュニズムの展開や、逆に、ソ連型社会主義の崩壊まで視野に入れて歴史を論じています。そして、ホブズボーム教授によれば20世紀は短いようですので、その対となる21世紀は長そうだ、という予感めいたもので締めくくられています。社会科学の分野におけるマルクス主義の影響については、もっとも影響力が大きかったのは歴史学であり、経済学はマルクス主義に対して「冷淡」と評価されています。私自身はその中間領域、というか、大学生のころは経済史を専攻していて、その後は経済発展の歴史を基に開発経済学を発展途上国や新興国に適用しようとしているわけですが、いずれにせよ、歴史をマルクス主義的に発展論として解釈すれば、本書でも何度か指摘されている通り、アジア的、古典的、封建的、そして近代ブルジョワ的な生産様式となり、その後に、マルクス主義では社会主義と共産主義がやって来る、という歴史観になっています。しかし、少なくとも、暴力革命とか、プロレタリア独裁とか、中央指令経済、とかはかなりの程度に、それこそ「冷淡」にエコノミストから見られていることは確かです。社会運動としてのマルクス主義の歴史としても、戦前期に反ファシズム、反ナチスとしてコミンテルンで統一戦線理論が発展し、戦後は、本書でも指摘されている通り、1970年代にユーロコミュニズムとして、この場合、ユーロコミュニズムには発達した先進国としての日本も含めて、特に大陸欧州で共産党が選挙の場を通じて躍進する時代もありましたが、1980年代の米国のレーガン政権と英国のサッチャー政権を経て、1990年代には大きく退潮していますし、21世紀に入っても飛躍的な復活がなされているとは、少なくとも私は考えていません。資本制生産様式が生産力の桎梏となりつつあるかに見え、いくつかの危機が先進国を襲う中で、かつてのソ連や中国のような暴力革命はもはや考えられませんし、マルクス主義的なプロレタリアート独裁や中央指令経済に代わる何かを提案できる段階にあるとも、私は考えていません。資本主義の次なる時代を残り少ない寿命で私は見ることができるのでしょうか?

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次に、ルーシー・クレハン『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』(早川書房) です。著者は英国の中学校の理科の教師であり、OECDのPISAの結果を受けて、その高スコア国5か国を巡る旅の資金をクラウド・ファンディングで集めて本書を仕上げています。英語の原題は Cleverlands であり、2016年の出版です。東大の苅谷剛彦教授が巻末に解説を寄せています。邦訳タイトルは、不正確であるともいえますが、出版不況の中で売上げを伸ばすための方便と受け止めておきます。ですから、PISA高スコア国5か国のうちに日本を含むのは当然ですが、英国は含まれておらず、日本以外の4国はフィンランド、シンガポール、上海、カナダとなっており、いわゆる西欧諸国は含まれていません。5歳児から学校教育を開始して教育課程の早い段階で分岐させる英国スタイルと違って、7歳児から学校教育を初めてかなり遅い時点まで高等教育と職業訓練の分岐点を設けずに包摂的な教育を特徴とするフィンランド、グループの集団責任や横並びの教育を重視し、フィンランドと同じように15歳時点まで高等教育=大学進学と職業訓練の分岐を設けない日本、12歳の小学校卒業時点でその名も小学校卒業試験(PSLE)という大きな分岐点を設けて競争の激しいシンガポール、しかも、シンガポールでは優生学的に優秀な遺伝子を持つ子供の誕生の促進までやっているそうです。加えて、中国では18歳時点で大学入試統一試験として実施される高考における競争の激しさが特筆され、カナダでは移民も含めた多様性な人口構成が高成績につながるシステムが紹介されます。各国3章が割かれており、計15章あって、冒頭の章に加えて、最後にもコンクルージョンの章を置き、そして、何よりも本書の特徴は最終章でPISAの高スコアの背景で犠牲になったものがあるかどうかを考察していることです。ただ、私がもっと知りたかった点が2点、残された課題があると考えています。すなわち、PISAというのは典型的に認知能力、平たくいえば学力を測定する目的で実施されていますが、非認知能力、例えば、途中で諦めずに粘り強くやり抜く能力、周囲と協調して何かを進める能力、マシュマロ・テストのような我慢強さなどなど、今までは認知能力に資する範囲でしか論じられてきませんでしたが、本書でも非認知能力はそれほど注目していません。そして、エコノミストの関心として教育が生産性に及ぼす影響、すなわち、教育と就業のリンケージです。この2点はもう少し掘り下げた分析が必要かという気がしますが、まあ、本書のスコープ外なんでしょうね。

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次に、武久洋三『こうすれば日本の医療費を半減できる』(中央公論新社) です。著者はリハビリ医であり、リハビリなどの慢性医療系の病院を多数経営する経営者でもあります。本書では一般病院たる急性期病院と慢性期病院を区別し、リハビリ医らしくリハビリにより早期の回復を目指すことにより、高齢化が進むわが国の医療費の軽減を図る方策について検討を加えています。冒頭章では寝たきり高齢者は病院における不適切な食生活や長過ぎる入院期間によって生じるとされ、その代替案として著者の専門領域であるリハビリの重視が提示されます。その後、厚生労働省などによる不適切なインセンティブ付与などにより病院経営が歪められ、入院期間の長期化や過剰な投薬、あるいは、ベッドでの安静の強要などが、かえって寝たきり高齢者の増加を招いている実態が明らかにされます。残りは、ご高齢のリハビリ医ですので、自慢話やリハビリ中華思想、あるいは、リハビリ帝国主義の開陳に終わっている部分も少なくないんですが、足腰が立たなくなって車椅子生活になっても、自己嚥下による食生活の充実と下の世話にならない排泄の自己処理の重要性については、高齢者の入り口である還暦を迎える身として大いに同意するところがありました。何か別の本で読んだ記憶がありますが、地下鉄や電車に乗っていると、「お客様ご案内中です」という、いかにも車椅子乗車の補助をしたことを自慢するかのようなアナウンスを聞く場合がありますが、車椅子の補助は駅員さんが喜んでやってくれる一方で、トイレに連れて行って下の世話をしてくれるかどうかは不安が残ります。ですから、とても共感できる部分がありました。また、自力か車椅子かは問わずに、出歩けるかどうかについて、私はこの2~3年位前から、特に自転車でできる限り出歩くようにしています。その昔のステレオ・タイプのテレビドラマなんぞで、年寄りが元気なころは自宅でゴロゴロしている一方で、車椅子生活になった途端に××に行きたいといい出した挙句に、車椅子を押してくれない家族に冷たく当たる、といったシーンが思い出されて、その逆をする、すなわち、出歩けるうちに自力で出歩いておいて、足腰が不自由になれば自宅でごろごろする、というのを実践すべく予定しています。もっとも、予定はあくまで予定なので、そのとおりに実行できるかどうかは不明だったりします。

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次に、柚木麻子『BUTTER』(新潮社) です。直木賞候補作に上げられましたが、惜しくも受賞は逃しました。実は、まったくの根拠ない直感で、この作品が直木賞を受賞するような気がしたので延々と待つのを覚悟の上で図書館に予約しましたが、読んでみて、『月の満ち欠け』のような完成度はないと実感させられました。結婚詐欺の末に男性3人を殺害したとされる容疑者、というか、すでに裁判になっていて地裁段階の一審判決は出ているので、被告、というべきかという気もしますが、この取材対象者に対して、30代女性の週刊誌記者が拘置所に通ってインタビューにこぎつけながら、取材を重ねるうちに欲望と快楽に忠実な被告の言動に翻弄されるようになって、結局、他社のアテ取材にされてしまって、記事が捏造に近い扱いを受けて、記者としての生命を絶たれ、友人との関係も一時的ながらマズくなる、というストーリーであり、題材は10年近く前の木嶋佳苗事件ではないかと思われます。その取材対象の被告の最大の結婚詐欺の武器だったものが料理であり、特に、フランス料理系のバターを多用する料理、しかも、取材対象者の新潟の郷里の近所に住む幼なじみが酪農を営み、濃厚な乳製品を小さいころから愛用していた、というのがタイトルになっているようです。『小説 新潮』の連載が単行本として出版されています。ということで、かなりしっかりした長編小説であって、女性心理を主人公と取材対象者はいうまでもなく、主人公周辺の母親、大学の同級生、職場の新入社員、などなどのさまざまに異なるキャラクターから描写し、もちろん、正常な女性心理とともに犯罪者の女性心理も余すところなく取り上げています。同時に、大学時代の友人夫婦の不妊治療などを題材にして、男女間の昔ながらの役割分担、特に、家庭内の専業主婦の役割観、若い女性の体型に対する厳しい見方、身長は努力でどうにかできる範囲が小さいのに対して、体重や体型は努力の余地が大きいことから、そういった努力不足に対する非難めいた見方など、特に、そういった見方が若い女性に集中する社会的な風潮などについても、決してそれが犯罪の情状材料になることはないとしても、そういった社会的な歪みをそれなりに違和感を持って描き出しています。ただ、れっきとした犯罪行為に対する倫理観というものが、私の見方からすればやや不満が残りました。同様に批判されるべき行為だとしても、犯罪とギリギリであっても犯罪でない行為には、もちろん、思想信条の自由から思考として持っている場合はいうに及ばず、社会的に許容する範囲は違う、と私は考えています。論評ではなく小説ですので、それはそれなりに解釈すべきですが、私の見方からすれば、やや得点を落とした気がします。逆に、なかなかのボリュームの長編でありながら、行きつくヒマもなく読み切らせる構成力と表現力は、小説家としての力量を感じさせます。

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最後に、滝田洋一『今そこにあるバブル』(日経プレミアシリーズ) です。著者は為替関連の著作も少なくない日経新聞のジャーナリストです。ということで、冒頭から1980年代終わりにバブル経済期を思わせる六本木でのタクシー乗車のシーンなどから始まり、日米欧の先進各国の金融当局による大規模な金融緩和に伴って、いわゆるカネ余りで資産価格の上昇が生じているように見えるいくつかのシーンをトピック的に紹介しています。その中心はREITであり、バブル経済期の土地神話を思い起こさせますが、本書の著者も認めているように不動産価格の高騰は今のところ生じている気配はありません。むしろ、すでに落ちてしまいましたが仮想通貨の高騰は、本書が出版された昨年2017年年央には見られていたかもしれません。本書では金融政策に対して、それなりにバブル警戒の視点を持ちつつも、同時に、翁教授を名指しで批判し、リーマン・ショック後の大きな景気後退期にイノベーションによる経済成長なんて非現実な対応を否定的に紹介しています。ただし、私のようなリフレ派の官庁エコノミストから見れば、なかなかにナローパスの経済政策運営を強いられている印象があり、現状の潜在成長率を少し超えたくらいの+1%少々の経済成長では物足りない感が広くメディアなどで表明され、同時に、不平等感の上昇もあって、国民の間で景気拡大の実感が乏しいとも聞き及ぶ一方で、本書のようにバブル警戒の意見もあるとすれば、一体全体、国民の経済政策運営のコンセンサスがどのあたりにあるのか、まったく視界不良に陥ってしまいます。もっと成長率を高くし、景気拡大の実感を強める方向の意見がある一方で、そろそろ引き締めを視野に入れた政策運営が求められるとすれば、方向感覚としては大きな矛盾を抱えることになります。中央銀行たる日銀は物価上昇をターゲットに、おそらく、景気循環の1循環くらいの時間軸で金融政策運営を行っているのに対して、政府の経済政策のスタンスはもっと長期の視野を持っています。教育なんぞで「国家100年の大計」とまではいいませんが、景気循環の秋季を超えたもう少し中長期的な経済政策のあり方を模索するわけですが、いろんなご意見を聞くうちに混乱しそうで少し怖い気がします。
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2018年01月14日 (日) 18:39:00

先週の読書は大量に読んで計7冊!

先週の読書は私のとっても気にしている子供の問題に関する専門書をはじめ、京都本も含めて計7冊です。昨日、自転車で近隣の図書館を回って予約の本を回収に当たったんですが、今週の読書も1日1冊のペースくらいで、どうも大量になりそうな予感です。そのうちに、ペースダウンしたいと思います。

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まず、末冨芳[編著]『子どもの貧困対策と教育支援』(明石書店) です。編著者は日大勤務の研究者であり、京都大学教育学部の出身ですから、たぶん、教育関係がご専門だと受け止めています。本書は、研究者と実務者の合計十数名からなる執筆陣により、タイトルの通り、子どもの貧困に対する対応策としての教育支援をテーマに議論を展開しています。2部構成であり、第1部が教育支援の制度・政策分析をテーマとし、主として研究者の執筆によっており、第2部では当事者へのアプローチから考える教育支援をテーマとして取り上げ、主として実務者の視点から議論しています。どうしても第1部と第2部で差があって、第2部は物足りない、というか、やや視野の狭さを感じてしまうんですが、それはそれで、現場の実情を把握するという意味もあるような気がします。ということで、我が国に置いてはいっわゆるシルバー民主主義のために、社会福祉の財政リソースが大きく高齢者や引退世代に偏っており、家族や子供に対する社会福祉の政策がそのしわ寄せを受けているのは広く知られています。特に、子どもの貧困については親の責任のように主張されることも少なくなく、高齢世代への手厚い社会保障給付の言い訳にされたりしています。私の従来の主張ですが、平均余命を考えても考えなくても、貧困な高齢者は社会保障で支援されても10年後も貧困な高齢者のままである可能性が高いのに対して、貧困な子どもはしっかりと支援すれば10年後は納税者になることができます。本書では生活面というよりは、学習面、特に学校に子どもたちを包摂する先進的な事例や最新の取組みも紹介し、子どもの貧困に関する多角的な視点を提供してくれています。最後に、日経新聞に掲載された斯界の権威である阿部彩教授による本書の書評へのリンクを置いておきます。


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次に、デヴィッド・ハーヴェイ『資本主義の終焉』(作品社) です。著者は英国生まれで米英の大学で研究者をしていた地理学者なんですが、明確にマルクス主義に基づく研究を行っています。2008年には『資本論』の講義の動画がアップされ、世界中からアクセスが殺到したと記憶しています。なお、私は2012年のゴールデンウィークに同じ出版社から邦訳が出ている『資本の<謎>』を読んで、このブログに読書感想文らしきものをアップしています。ということで、かなりしっかりしたマルクス主義経済学による現在の資本主義の分析といえます。3部構成となっており、第1部が資本の基本的な矛盾、第2部が運動する資本の矛盾、第3部が資本にとって危険な矛盾、とそれぞれ題されています。見ても明らかな通り、「矛盾」がキーワードとなっており、本書の冒頭でマルクス主義的な矛盾や物心論に関する簡単な解説がなされています。そして、私にとって感激的であったのは、フランス的なポスト構造主義が階級構造の分析を避けているとして批判されている点です。ソーカル事件を持ち出すまでもないでしょう。ただ、矛盾をキーワードとし資本の運動をひも解こうとしているんですから、マルクス主義経済学の視点から何が最大の矛盾であるかについては指摘が欲しかった気がします。すなわち、マルクス主義的な唯物史観において最大の矛盾とは、生産様式が生産力の桎梏、ないし、制約条件となる、というのが最大の矛盾と私は考えています。奴隷制から農奴による封建制へ、さらに、資本制へと生産様式を進化させてきたのは、それぞれの生産様式が生産力を制約するようになったからであり、その意味で、さらに生産力を資本制の制約から解き放つのが次の段階と考えるべきです。そして、その段階は19世紀的には社会主義ないし共産主義であろうと想定されてきたんですが、ソ連型社会主義の崩壊から生産手段の国有化と市場ではない中央司令型の資源配分による計画経済は資本主義の次の段階としては想定されなくなりました。マルクスやレーニンなどの想定ではなく、何らかの新しい生産様式が必要とされ、その生産様式を下部構造とする上部構造のあり方が議論される必要があります。私ごときでは計り知れない未来が待っていると期待しています。

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次に、永江朗『ときどき、京都人。』(徳間書店) です。著者は編集者であり、東京と京都の両方にお住まいを持つお金持ちのようです。ただ、ご出身はどちらなのか、明記はされていませんが、何かで旭川出身との略歴を見た記憶があります。ということで、上の表紙画像に見える副題に「二都の生活」とありますが、本書の中身に東京はまったくといっていいほどかんけいしません。すべて京都だけの「一都物語」と考えるべきです。ただ淡々と京都の生活を追っているだけです。ですから、私が昨年12月に京都を訪れた際に気づいた東京の警視庁管内の自転車ナビマークと京都の府警管内のナビラインの違いについても、後者の写真が掲載されているにも関わらず、東京と京都の比較、というか、違いには一切触れられず、ひたすら京都事情だけに特化しています。それだけに、逆に、京都に関する記述は正確で豊富な内容を含んでいたりします。私も本書の著者とほど同様に今年還暦なんですが、人生の前半を京都で過ごし、後半は東京住まいです。ですから、35年以上も前の京都にしか住んだことがなく、本書絵及んで京都市動物園がリニューアルしたことを知ったりしています。年に何冊かは京都本を読んで京都に関する知識をアップデートしているつもりですが、なかなか追いつきません。昨年2017年は学会出席のついでと京大の恩師の偲ぶ会で2度上京しましたが、それくらいでは不足なんでしょう。最後に、本書を読んだ感想を2点だけ上げると、著者の京都通の度合いが本書執筆の間にも上昇しているのが手に取るように理解できます。例えば、前半では京都のお住いの近くらしいものの、「荒神口橋」なる珍妙な橋の名が出てきますが、終わり近くには正確に「荒神橋」と訂正されています。もう1点は京都の南が苦手そうだという点です。伏見こそ取り上げられていますが、天神さんの蚤の市は本書に収録されていても、東寺で開催されている弘法さんはご存じないようです。私自身は伏見で生まれて、宇治で育っていますので、鄙なる土地の洛外育ちで、中学高校と奈良の学校に通っていましたので南の方に親しみがあります。最後の最後に、本書でも触れられている井上先生の『京都ぎらい』には七条は「ひちじょう」である、と出て来ますが、本書では質屋の話題があり、京都人は「ひちや」と読みますし、少なくとも私の小学生くらいまでは質屋ののれんに平仮名で「ひちや」と書いてあるお店があったと記憶しています。何ら、ご参考まで。

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次に、辻村深月『かがみの孤城』(ポプラ社) です。何かのメディアで、『スロウハイツの神様』を超えた辻村深月の最高傑作、のように評価されていたので買ってみましたが、出版社の宣伝文句に踊らされただけなのか、やや物足りない思いをしました。私の感想としては、辻村作品をすべて読んでいるわけではありませんが、やっぱり『スロウハイツの神様』が現時点での最高傑作だと考えます。そして、それに次ぐのは『冷たい校舎の時は止まる』とか、『凍りのくじら』などの高校生から大学生にかけての青春小説だと思っています。もちろん、もっと小さい子が主人公ながら『ぼくのメジャースプーン』が捨てがたいのは理解しています。ということで、この作品では中学生が主人公です。そして、主人公の女子中学生と同じように、学校に行けない、というか、一般用語の不登校とは少し違うものの、要するに中学校に行けない子供達が鏡を通して移動して集まる、というストーリーです。私のような年齢に達した人間からすれば、不登校っぽく中学校に行っていない少年少女を主人公にしているだけで、少しばかり理解が届かなさそうな気もしますし、パラレル・ワールドでなくて、中学生たちの集められ方も不自然ですし、オオカミさまの正体や喜多嶋先生の実像などについても、なかなかよく考えられているとはいえ、ここまで作為的な構成やキャラの配置をしてしまうと、両極端の反応を生みそうな気がします。ものすごく感情移入が進んで感激して読むファンと、私のように辻村作品のファンでありながら物足りなさや違和感を覚える読者です。平たくいえば、当たり外れが大きい作品だと思いますし、それだけ何かを賭けているようにも感じなくもありません。デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』のように超常現象を盛り込んだファンタジーなんですが、不自然の度合いが大き過ぎるような気がします。この内容であれば、買うんではなくて順番待ちをしてでも借りておいた方がよかった気がします。期待が大きかっただけに、少し残念な読書でした。

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次に、貴志祐介『ミステリークロック』(角川書店) です。作者はなかなか売れているホラーやミステリの作家なんですが、我が母校の京都大学経済学部で私の後輩だったりします。それはさて置き、この作品は防犯探偵・榎本径のシリーズの最新中短篇集です。収録されているのは、「ゆるやかな自殺」、「鏡の国の殺人」、表題作の「ミステリークロック」、「コロッサスの鉤爪」の4作品であり、最初の短篇を除いて、残りの3作品は弁護士の青砥純子の視点からの記述となっています。すなわち、青砥弁護士がワトスン役を演じているわけです。ということで、まあまあの密室ミステリといえますが、実は、この作品も直前に取り上げた辻村深月『かがみの孤城』と同じく、借りたのではなく買いましたので、その意味では、少し物足りなかった気がします。特に、東野圭吾のガリレオのシリーズですっかり崩壊したノックスの十戒のうちの、一般にはそれほど理解されていない難解な科学的知識を要求する謎解きがいくつか含まれます。冒頭の短篇「ゆるやかな自殺」が飛び抜けて短いんですが、私は明らかに何かのアンソロジーで読んだ記憶があり、ミステリ作品の出来としては本書の中で最高です。この作品を読む限り、密室のトリックについては、この作家は限界という気がします。ですから、この榎本シリーズも最後に近づいているように思えてなりません。何だか、ミステリの謎解きというよりも、青砥弁護士のオチャメな仮説提示を笑い飛ばすコメディ小説のような気すらします。それなりに、榎本と青砥弁護士のかけ合いは小説としても楽しめるかもしれません。青砥弁護士はどんどんおバカになっていくような雰囲気で、私の記憶が正しければ、テレビドラマでは戸田恵梨香が配されていたわけですから、それはそれで合っているのかもしれませんが、弁護士なんですから、ペリー・メイスンのように、とまではいわないとしても、もう少し考えた方がいいように受け止めています。最後の最後に、どうでもいいことながら、一般の普通名詞のミステリー・クロックは、私はカルティエの時計しか見たことがないんですが、とても不思議なものです。ムーブメントなどの本体は下の土台部分に隠されているんでしょうが、どうやって針が、特に短針が動いているのか、文系の私にはまるで謎だったりします。

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次に、森博嗣『ダマシ×ダマシ』(講談社ノベルス) です。著者はご存じの新本格派のミステリ作家です。もっとも、新本格派は京都や大阪が拠点だと私は勝手に思っているんですが、この作品の作者は名古屋です。『イナイ×イナイ』、『キラレ×キラレ』、『タカイ×タカイ』、『ムカシ×ムカシ』、『サイタ×サイタ』と続いてきたXシリーズの第6話にして最終話になります。シリーズの主人公は本書でも小川令子という探偵社勤務の30代の女性探偵です。そして、この作品は結婚詐欺のお話です。で、今回のエピグラフがマインドコントロールについてみたいなことで、そこに書かれていることや作品に書かれていることから、人の心は難しいもので、どうしてもそうなっちゃうところはあるよね、とか、一般論ではなく結婚詐欺のお話に絞れば、他の人は騙されたけど、もちろん、私も騙されたけど、でもちょっぴり、あの人はまだ私を想ってくれていたかもしれない、みたいな話が書かれていて、私自身はバカなんじゃないの、と思ったりしつつも、女心の理解しがたさを思い浮かべたりしていました。シリーズ最終話ですから、いろいろとかっきてきなしんてんもあります、すなわち、椙田は小川に事務所を譲りますし、探偵社のアルバイトの留年大学生だった真鍋瞬市は大学を中退して、めでたくも就職し、そして、一足早く就職していた永田絵里子と結婚する予定です。オールスター・キャストで西之園萌絵も意味なく登場したりします。私はこの冊書の主要なミステリはすべて読んでいるつもりなんですが、こういったシリーズ最終話の終わり方は初めてではないかという気もします。もっとも、私のことですから忘れているだけかもしれません。


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最後に、伊藤公一朗『データ分析の力』(光文社新書) です。著者は米国シカゴ大学に勤務する研究者であり、副題は『因果関係に迫る思考法』となっています。本書はサントリー文藝賞を授賞されています。以前にこの読書感想文のブログでも取り上げた中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』と重複しますが、因果関係について今さら、という気もしつつ読み進みました。もちろん、因果関係を考える上でとてもよい入門書なんですが、本書の読者のレベルを考えてか、操作変数法が取り上げられていないのはまあいいとしても、2点だけ補足しておきたい事実があります。まず、ビッグデータの時代にあっては因果関係よりも相関関係が重視される可能性が高いという事実です。詳しくは、例えば、 ビクター・マイヤー=ショーンベルガー/ケネス・クキエによる『ビッグデータの正体』などに譲りますが、悉皆調査に近いビッグデータの分析では相関関係で十分、というのも考えられます。もちろん、そうでなく、やっぱり、因果関係が重要、という説が成り立つこともあり得て、例えば、薬効や医学治療では相関関係では許されない場合も考えられますが、政策分析やマーケティング調査くらいでは相関関係で十分な気もします。もうひとつは、対象者の独立性についてもう少し詳細に検討して欲しい気がします。最後の付録には少しだけ触れられているんですが、例えば、マーケティングのシーンでは、カスケード現象やバンドワゴン的な大流行を引き起こそうとしている場合もあるわけで、マーケティングでは消費者間の影響力も無視しえない、特に、SNSでの拡散を視野に入れると、対象者間の独立性がどこまで確保されるかは疑問ですし、独立でなくして大流行を狙う、というマーケティングもありだという気がします。
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2018年01月06日 (土) 09:11:00

年末年始の読書は新本格派の二階堂黎人作品を読む!

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すでに、昨年2017年12月29日付けの読書感想文のブログで明らかにしておいた通り、この年末年始の読書はポプラ文庫から出版されている江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ全26巻を読もうと決めていたところ、11月ころから早めに読み始めてしまったために、年末年始休みを待たずに読み切ってしまい、結局、ギネス級で世界最長の推理小説とも称される二階堂黎人の『人狼城の恐怖』全4巻、文庫本で2700ページほどの大作を読むこととし、1日1~2冊の予定で12月30日から読み始めましたが、やっぱり、というか、何というか、12月31日の大晦日で読み切ってしまいました。仕方がないので、半ば予想して借りておいた二階堂黎人作品のうち、二階堂蘭子シリーズの続編である『悪魔のラビリンス』と『魔術王事件』も続けて読みました。さらに、その後に続く『双面獣事件』以降については手配がかなわず、図書館の方が年末年始休みに入ってしまいました。
ということで、『人狼城の恐怖』は、第1部ドイツ編、第2部フランス編、第3部探偵編、第4部完結編から成る超大作なんですが、当然のように大量の殺人事件が起こります。2ダースくらいの人が殺されます。そして、私はその殺人事件について細かくチェックはしていませんが、おそらく、新本格派らしく論理的に解決されます。たぶん、ノックスの十戒とか、ヴァン・ダインの20則に則ったミステリなんだろうと思いますが、最後の最後に、この作者の作品らしくオカルト落ちのようなパートがあったりします。そして、その後の作品である『悪魔のラビリンス』と『魔術王事件』は、実は、発表順はこの通りなんですが、作品中の時系列では『人狼城の恐怖』の前に起こった事件という位置づけです。そして、ホームズにたいするモリアティ教授のように、二階堂蘭子が相手にするのは魔王ラビリンスと名乗る怪人、ということになります。しかしながら、魔王ラビリンスとの対決シリーズに入る前の作品の方が、私は好感を持てた気がします。というのは、魔王ラビリンスが起こすのはものすごく残忍な殺人事件であり、犠牲者も大量に上るからです。でも、もう少し読み進もうと思います。
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2017年12月30日 (土) 10:12:00

今週の読書はいろいろ読んで計6冊!

恒例の土曜日の読書感想文のブログも、今回が今年の最終回です。経済書はあまり読まなかったんですが、以下の通りの計6冊です。今日から年末年始休みの読書として、修正後の予定通り、二階堂黎人の『人狼城の恐怖』を読み始めました。

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まず、アル・ラマダンほか『カテゴリーキング』(集英社) です。著者はコンサルタント会社の3人とジャーナリスト1人の計4人で、私のような単純な考えをもってすれば、コンサル会社の幹部3人がてんでバラバラにしゃべった内容をジャーナリストが上手に文章に取りまとめたんではないかという気がします。コンサル会社の名称が Play Bigger らしく、英語の原題はこの会社名の Play Bigger となっています。出版は2016年です。いろんな表現は自由ながら、経済学に根差した私の解釈によれば、シュンペーター的なイノベーションのうちの新製品のイノベーションをプレイアップし、そこから新たなカテゴリーを生ぜしめ、要するに独占利益を享受せよ、ということになります。イノベーションに関する経営学の指南書は大体そういったものだという気がします。フォードの言葉を借りれば、顧客の声を聞くと「もっと速い馬が欲しい」ということになって、better を追及することになる一方で、different である新たなカテゴリーを生み出すべく自動車を考案するのがイノベーション、ということになります。そして、私が常々不思議に思っているのは、本書で取り上げられているような Facebook や Google や Airbnb といった成功した企業の裏側に、どれくらいの失敗企業が存在するか、ということなんですが、本書では赤裸々に、2000年から2015年まで創業した数千のスタートアップを著者らのコンサル会社は分析した中で、そこから35のカテゴリーキングを見出したということのようです。0.5%とか、そんなもんでしょうか。そして、p.120 にある三角形のプロダクトデザイン、企業デザイン、カテゴリーデザインの3点の重要性を強調しています。私の下種の勘繰りですが、申し分なくこれら3点を重視しながら失敗したスタートアップが大量に存在する気がします。イノベーションを人為的に作り出すことが不可能とは思いませんが、本書のレベルで Facebook や Google や Airbnb といった成功企業がポンポンと飛び出すとは、私にはとても思えません。

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次に、宮本太郎[編著]『転げ落ちない社会』(勁草書房) です。編著者は格差や不平等、あるいは、貧困問題などについて発言の多い政治学の研究者です。本書はリベラルな立場から貧困や不平等の問題について論じていますが、論点はいくつかあって、貧困層に対する社会政策としての選別主義を取るか、国民一般に対する社会保障としての普遍主義を取るか、がまずあります。本書でも指摘している通り、最近の傾向としてアングロサクソン的な選別主義よりも北欧的な普遍主義が志向される場合が多いのは確かなんですが、その普遍主義の極みであるベーシック・インカムについては、本書では最後の鼎談で少し話題として出ているだけで、ほぼほぼ無視しているような気がします。人工知能(AI)やロボットの台頭と人間労働への大体がアジェンダに上ってきている段階ですので、ここはもう少し着眼点を考えて欲しかった気がします。また、日本的な社会保障政策については、もっと包括的な見方が必要です。すなわち、我が国では、4人家族の核家族をモデルケースとして考え、父親=夫が一家の大黒柱として正社員勤務で無限定に会社のために働いて一家4人を養う給料を得る一方で、子どもや往々にして別居している老親の介護などがインフォーマルに母親=妻に委ねられる、というかたちで社会保障と労働政策が相互に補完する政策体型を取ってきています。それが、最近時点では高度成長の終焉から続く日本的雇用慣行の崩壊の中で、非正規雇用の拡大が見られることから、父親=夫が一家を養うに足るお給料を得ることが難しくなり、さらに、労働力不足の現状もあって、母親=妻も働きに出たり、あるいは、そのために子供の保育や老親の介護についてはインフォーマルに家庭内で完結するのではなく、社会的に何らかの施設で行う必要が出たりするわけです。ですから、政府においても労働省と厚生省を一体化させて施策を検討したりしているわけで、研究者の側でも包括的な解決策の提示が求められるような気がします。加えて、コトは私のようなエコノミストの考える経済学の範囲でとどまるわけもなく、例えば、我が国の痛税感については徴収した税金を社会保障で普遍的に国民に還元するのではなく、選別主義的に還元したり、あるいは、公共事業で土建国家のように還元したりすることが要因との分析もありますが、こういった社会保障を取り巻く国民文化の問題も同時に解決すべき課題ではなかろうか、という気がします。

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次に、木下光生『貧困と自己責任の近世日本史』(人文書院) です。著者は日本近世史の研究者なんですが、本書のあとがきで論文査読者をジャッジと記すなど、大丈夫なのか、と心配になるレベルのような気もします。なお、私は査読論文は1本しかない不勉強なエコノミストですが、査読者は通常はレフェリーといわれるものと理解しています。ということで、おそらく学術書ながらやや不安含みで読み進みましたが、まずまずの貧困史の出来ではないかという気もします。でも、一部に史料の独断的な解釈もあって、私は同意しかねる点もありました。本書の特に冒頭部分は奈良県の片岡彦左衛門家文書を史料とし、かなり綿密に世帯ごとの所得と支出を推計しています。第2章の最後に置かれた作物の出来高を中心とする40ページほどの表は、読み飛ばす読者も多いものと私は想像しますが、しっかりと読むべき部分です。というか、本書の中心をなす部分であると考えるべきです。その結果として、本書の著者は、赤字世帯の原因は租税の重さなどではなく、主食食糧への支出と消費活動を営むための支出であり、それなりの水準の消費活動の必要があった背景を解き明かしています。ただ、本書本来の貧困研究としては、貧困ラインの設定、計測をいとも簡単に諦めたのは、研究者としての姿勢が疑われます。経済学的に、貧困指標は山ほど提唱されており、私も地方大学出向時に紀要論文として取りまとめた経験があります。学際的に経済学と歴史学の文献をキチンとサーベイすべきではないかという気がしました。単に、今までの歴史学研究で格差指標とされてきた石高や持高に対して否定的な見解を述べるにとどまっているのは残念としかいいようがありません。さらに、貧困救済に際して、その後の返済を必要とする貸付やそれなりの対価を要求される安値販売に対して、対価なしの施しについてはかなり厳しい制限が課される、というのは常識的に理解できるとしても、制限を課される救貧行為とそうでないものの線引を明らかにした上で、その差の原因や要因を何らかの方法で探ることも必要かと思います。違いがあれば、もちろん、その違いの存在自体が発見として意義あることは認めるものの、さらに、歴史的に発生とその後の消長を探るだけでなく、社会的なバックグラウンド、そして、その歴史的な意味を明らかにすることが求められる可能性は認識しておくべきです。貧困シ研究は我が国でも、イングランドやドイツなどの他の先進国などでもそれなりの研究の蓄積があることから、単に新発見の史料に基づく定量的な把握だけでなく、もう少し突っ込んだ分析的な視点も必要ではないかと思います。

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次に、クリストフ・ガルファール『138億年宇宙の旅』(早川書房) です。著者はフランス人のサイエンス・ライターであり、英国ケンブリッジ大学にてホーキング教授の指導により博士号の学位を取得しています。約100年前の1915年のアインシュタイン博士の相対性理論などから始まって、最新の重力波やマルチユニバース理論などまで、幅広く宇宙に関する物理学を解説しています。まあ、私のような専門外のエコノミストには判る部分と判らない部分があるのは当然としても、文語体ではなく口語体で平易な語り口により解説してもらうと、何とはなしに判ったつもりになるのは不思議なものです。読者がイメージしやすいような語り口というのは、書き手がホントの意味で十全な理解に達していないと難しい気がしますが、それだけ練達のライターなのだろうと思います。私のイメージではフランス人というのは、経済学の分野も典型的にそうなんですが、やたらと哲学的に考えようとするきらいがあり、私は苦手だと思っていたところ、本書ではそんなに、というか、まったく哲学的な志向はなく、よく訳の判った大人が子供の読者に語りかけるような内容で宇宙について論じています。もちろん、シュレディンガーの猫とか、得体の知れないダークマターやダークエネルギーなど、経済学と違って、なんとも解説のしがたいいろんな有象無象が物理学にはありそうな気がするんですが、割合とスンナリ受け入れられそうな論点を中心に、幅広い解説を心がけているような気がします。ガチガチに実利を追求するような錯覚を持たれている経済学に対して、ロマンを感じさせる宇宙物理学の中で、重力と時空の関係を実用的に利用しているのがGPSなんですが、本書でもGPSニツイテハ「チラリと触れている一方で、物理学の中でも特に最先端であるがゆえに理解不能な量子物理学を応用した量子コンピュータなんてのの解説も欲しかった気がします。ついでながら、本書の著者の指導教員であるホーキング教授のブラックホールの蒸発に関する『ネイチャー』の論文へのリンクは以下の通りです。


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次に、ティム・スペクター『ダイエットの科学』(白揚社) です。著者は英国の医師・医学研究者であり、双子の研究で有名です。英語の原題は The Diet Myth であり、2015年の出版です。私は今までダイエットらしいダイエットをしたこともなく、来年の還暦を前に何とかBMIで23を少し下回る体重をキープしています。本書では、そもそもダイエットに関する疑問を表明しつつ、科学の立場からダイエットにまつわるいくつかのテーマの真偽を著者なりに明らかにしています。そして、著者の結論は、というと、万人に適用可能なダイエット方法なんてものはありえない、という点に尽きます。すなわち、カロリーの収支すら体重への影響を否定しているに近い印象です。要するに人によって違うということです。でも、いくつか注意すべきポイントはあり、やっぱり、砂糖の取り過ぎはよくないようです。ジャンクフードは肥満や体重過多につながります。このあたりは常識なんですが、「判っちゃいるけど止められない」の世界なんだという気がします。他方、カロリー収支をはじめとして疑問を呈されたり、実証的なエビデンスはないとされたり、あるいは、ハッキリと否定されたりしたものの中で、私の印象に残っているのもいくつかあります。何よりも、朝食を抜くことはそれほど悪いわけではないという著者の主張には少し驚かされました。実は、私は今年に入って、というか、昨年くらいから仕事が忙しくなってしまった際には、昼食を抜くことが少なくなく、週に1回や2回はあります。朝食ではなく昼食だから、まあ、いいんだろうと思いつつ、1日3食をきちんと食べることの重要性も同時に頭をかすめますが、本書の著者は、適当に食事の間隔を開けることは決して悪くない、と主張しています。そして、「朝食は必須という定説もやはり、ダイエットの神話として葬り去るべきだということだ」との意見です。ほかは、まあ、そうだろうな、という常識的な結論だったような気がします。繰り返しになりますが、砂糖の摂取過多、あるいは、ジャンクフードが肥満につながりやすく健康によくないのは常識でしょうし、スーパーフードは「詐欺同然のマーケティング」と切り捨てています。ビタミンのサプリメントも効果は疑問、というか、ビタミンに限らず、チビチビと摂取していたものを、1日の必要量の半分くらいを一気にサプリメントのカプセルや錠剤で飲み込んだところで、体が適切に反応して吸収できるかどうかは、専門外の私でも疑問に思います。ですので、私も貧血でしたので鉄分のサプリメントを取っていた時期があるんですが、今は止めてしまいました。糖質を制限して肉食中心の食事にするパレオ・ダイエットについても、いかにも米国人が好きそうなんですが、怪しげであることは常識的に理解できます。最後に、痩せていて運動しない人と、太っていて定期的に運動する人とでは、後者の方が健康である、と結論しています。私も定期的な運動を心がけたいと思います。

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最後に、奥野修司・徳山大樹『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』(講談社文庫) です。著者はジャーナリストであり、週刊「文芸春秋」に2013-14年に掲載された記事を収録しています。特に、隣国の中国と対米従属のもとになっている食糧につき米国、ということで2国に的を絞って、食の安全について問うています。特に、中国については前近代的な衛生管理、食品製造に関する倫理観の欠如、果てしないインチキの系譜、などなど、とてもまともに輸入食品を作れる国ではないと実感しました。本書では明示的には取り上げていませんが、いわゆるサプライ・チェーンが長く複雑になり、我々が口にする食品がどこでどうして作られているのかが、必ずしも明確でなくなっています。実は、私自身はもう還暦を迎えることもあって、食の安全製に関してはかなり無頓着になって来つつあるんですが、本書でも指摘しているように、学校給食で中国由来の食品をコスト安であるという理由だけで用いるのは、とても不安です。私のように老い先短い人間は何を食べても、例えば、30年先にガンになるとしても、ほとんど影響ないんですが、小学生はそういうわけにはいきません。そうでなくても少子化が進む我が国で、子供達の食の安全について深く考えさせられる1冊でした。
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2017年12月29日 (金) 10:03:00

年末年始の読書の予定を修正する!

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昨日のご用納めの後、今日から年末年始休みに入りますが、何かのついでに、この年末年始は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを読みたいと書いた記憶があります。でも、ポプラ社のサイトから引用した上の画像に見られる通り、何と、26冊もありますので、ボチボチ11月くらいから読み始めていたところ、少し前に読み終わってしまいました。何といっても、面白いです。小学生くらいのころに読んだ記憶がかすかに残っているものもあり、しかも、200~300ページ位の文庫本ながら、まあ、私くらいの読書家なら1時間足らずで読み上げてしまいます。週末の土日に別の読書をしながらも、この少年探偵団のシリーズを4~5冊読んだ時もあり、年末年始休みに入る前に読み切ってしまいました。
なんとも計画的、というか、計画性がない、というか、でした。仕方がないので、この年末年始休みには、京都大学ミス研の綾辻行人や法月綸太郎などと同じカテゴリである新本格派の二階堂黎人作品のうち、二階堂蘭子が活躍する超長編の『人狼城の恐怖』を読むべく、近隣の図書館から手配しました。一部には、ギネス級の世界で最も長い推理小説とみなされている作品です。4部4分冊から成り、それぞれが文庫本ながら500ページを大きく超える超大作で、文庫本ベースで2500ページを大きく超えます。私は、二階堂蘭子シリーズのうち、この『人狼城の恐怖』の前の長編の4冊、すなわち、『地獄の奇術師』、第1回鮎川哲也賞受賞作品『吸血の家』、『聖アウスラ修道院の惨劇』、『悪霊の館』まではすでに読んでいます。たぶん、1日1冊か場合によっては1日2冊のペースで考えていますので、明日か明後日くらいから読み始めたいと予定しています。

どうでもいいことながら、ポプラ文庫の少年探偵団シリーズには懐かしくも挿絵がいっぱい入っているんですが、1巻目から始まって大部分は SHIGERU の署名があります。でも、途中から少し絵の印象が変わってきて、最後の26冊目の『黄金の怪獣』には YOSHIDA の署名が見られたりする上に、少年探偵団団長の小林少年がほぼ青年に見えるようになっている気がします。まあ、これだけシリーズで長く続くと仕方がないのかもしれません。
さらに、もっとどうでもいいことながら、先日、京都土産に河道屋の蕎麦ぼうろを買って帰ったんですが、いまだに「かわみちや~の、そばぼうろ」を節をつけて歌えるのは、年代的地域的に極めて限られた人なんだろうと感じてしまい、他方で、少年探偵団の主題歌の冒頭部分、すなわち「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団。勇気りんりん、るりの色」から始まって、通して1番や2番くらいを歌える人は、団塊の世代を中心に、まだまだいそうな気がしますし、Youtubeででも探せばあるんだろうと思います。
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2017年12月23日 (土) 11:56:00

今週の読書は経済書や小説を合わせて計6冊!

今週は経済経営関係の本に加えて、先週はなかった小説も少し読み始め、以下の通りの計6冊です。

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まず、斎藤史郎編著『逆説の日本経済論』(PHP研究所) です。著者は日本経済新聞をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、通説もしくは俗説に近い経済学上の説について反論を加えているんですが、そこなジャーナリストらしく、学者さんを中心にインタビューした結果を収録しています。取り上げられているテーマは、「人口高齢化で日本は衰退の道を歩まざるを得ない」、「貿易黒字はプラスで貿易赤字はマイナス」、「株主主権は企業理論の基本である」、「超金融緩和は危機脱出の処方箋」、「円安下の株価上昇は企業業績の改善による」などであり、学者さんや経営者と対にして、いくつかテーマを例示的に並べれば、日本電産の永守重信社長は会社の所有者についての株主至上主義に反論し、マクロ経済学者の吉川洋教授は人口減少ペシズムは誤りと指摘し、財政学者の井堀利宏教授は社会保障給付抑制のための年齢階層別選挙区制の導入を主張し、会社法の専門家である上村達男教授は株主主権論を批判し、日銀副総裁だった武藤敏郎氏は中福祉・中負担は幻想であると喝破しています。私の勝手な読み方かもしれませんが、大雑把に真ん中くらいまで、具体的には、武藤氏のインタビューくらいまではそれなりに中身もあって、読み応えあるような気がしますが、後段になるに従って、やや「トンデモ」の色彩を帯び出し、インタビューそのものも短くなっていったような気がします。それぞれに主張があって、当然ながら、書物としては一貫性ないんですが、インタビューの結果を取りまとめただけですので仕方ない気がします。全体を通して読みつつ、それなりの取捨選択をする目は養っておきたいと思います。

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次に、水口剛『ESG投資』(日本経済新聞出版社) です。著者は高崎経済大学の研究者であり、本書のタイトルになっているESG投資は同時に責任投資とも称され、環境、社会、ガバナンスのヘッドレターを取っています。本書ではあまり出て来ませんが、国連が2015年に決定した持続可能な開発目標(SDGs)とも連携して、長期に渡る企業活動について、原始的な経済学の減速である利潤極大化を排除するわけではないものの、社会的な存在である企業活動について短期的な利潤極大化以外の活動を評価しようとする試みであり、本書のサブタイトルである「新しい資本主義のかたち」まで大風呂敷を広げるつもりはりませんが、その入り口にたどり着くためのひとつの要素かもしれないと私は考えています。従って、企業行動に対しては、単なる自社の雇用や調達だけでなく、いわゆるサプライ・チェーンの中に反社会的な要素、アジアでの調達における児童労働や奴隷労働、あるいは、アフリカにおける公害問題などなどのような例を抱えているかどうかについても自律的に目を光らせる必要があります。ただし、エコノミストとして2点注意しておきたいのは、ESG投資はおそらく企業だけでなく投資家も利する部分があって、決して企業利益とトレードオフの関係にはないと考えるべきですが、逆に、企業利益に余裕あるために、そして、その余裕はイノベーションなどの結果というよりも、独占や賃金圧縮などの決して好ましくない企業行動の結果として生み出されている可能性がある点は、投資家としても目を光らせておく必要があります。第2に、何らかのまやかし的なエセESG活動が横行して投資家の目を欺く可能性がある点です。ひと昔前にISO認証の取得が取引条件のようになったブームがありましたが、ESG活動についてはISO認証のようなサーティフケーションが不十分な気がします。その点を透明性高くESG活動に適用できるシステムが必要そうな気がします。

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次に、及川智早『日本神話はいかに描かれてきたか』(新潮選書) です。著者は古代文学ないし古代史の研究家であり、本書では文学的に文字で古代の神々がどのように表現されて来たか、ではなくむしろ、タイトル通りに、画像的にどのように描かれて来たかについて、雑誌の口絵や挿絵、絵葉書に双六、薬の包み紙などをはじめとする焦点の宣伝文句が記された引札などから絵画的、というか、画像的な描かれ方を研究した成果が収録されています。ですから、そんな紙の史料が残されているのは、せいぜいが明治期以降であり、主として20世紀初頭くらい、あるいは、昭和期以降くらいの画像資料をひも解いています。もちろん、浮世絵などの歴史的な江戸期、あるいはそれ以前の画像もないわけではありません。章別の構成として、イザナキとイザナミにカササギを加えた国作りの神話、ヤマタノヲロチ退治をいかに絵画的に表現するか、因幡の白ウサギの物語に出てくるのはワニかサメか、サルタヒコとアメノウズメによる夫婦和合のめでたい図像、みづらと呼ばれる髪形などを介した神武天皇の画像表現、朝鮮半島に攻め入った神功皇后の描かれ方、などなどです。特に、私が興味深かったのは、因幡の白ウサギに出てくるワニについては、ワニザメであって、日本には古代からワニは生息していなかったハズ、という論考ですが、実際に絵画的にワニの背中をウサギが飛び越える画像も同時に収録されていたりして、とても印象的でした。神話の軍国主義的な利用の話題もなくはないですが、別の面からの神話へのアプローチが中心です。

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次に、伊坂幸太郎『ホワイトラビット』(新潮社) です。著者はご存じ売れっ子のミステリ作家です。仙台在住であり、本書の舞台も仙台です。副業で探偵もやっている空き巣の黒澤の登場するシリーズです。時間的な流れが通常の通りに後に向かうだけでなく、前にさかのぼったりもしますし、また、語り手もパートごとに切り替わるとともに、第三者、というか、いわゆる神の声的な視点が入ったりもして、それなりに複雑で私の場合は読みこなすのがタイヘンだったです。それでも面白いですし、黒澤のシリーズらしく、どんでん返し、というのとは少し違う気もしますが、時間をさかのぼりつつ、ストーリーに関する今までの理解がひっくり返される、というか、作者がおそらく意図的に読者に対して目くらましを仕掛けているわけで、それがキチンと読みこなせれば、とても面白いですし、少なくとも私が読んだところでは、ストーリーや論理に破たんは見られず、仙台市北部の高級住宅街で生じたように見える立てこもり事件は、決して不自然な点がないとはいえないにしても、前後の整合性にほころびなく解決します。伊坂作品の大きな魅力であるシュールでおしゃれな会話、特徴ありつつも少しボケも含むキャラの設定、さらに、ばらまかれた前半部分の伏線の見事なまでの回収が、読んでいて快感を覚えます。しかも、星座のオリオン座の小説の『レ・ミゼラブル』に関するうんちくがアチコチにばらまかれ、今までに登場したことのない、というか、私は今野敏作品以外では読んだことのないSITを警察の中心に据えた伊坂ミステリです。私のようなファンであれば、あるいは、そうファンでなくても、必ず読んでおくべき作品だといえます。

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次に、久坂部羊『院長選挙』(幻冬舎) です。作者は、メジャーさの点では少しだけ海棠尊と仙川環に後れを取っているものの、医療ミステリ分野の売れっ子作家です。私も何冊か作品を拝読した経験があります。ということで、この作品は医療分野を舞台にしているものの、大きな大学病院の院長選挙をテーマにして、医者の人格についてコミカルに描き出しています。まずまず若い女性のノンフィクション・ライターを主人公にし、日本を代表し、医療レベルでは東大をも上回る、ということですから、慶応大学病院のような気もするんですが、まあ、小説ですので架空の大学病院を舞台に、変死した病院長のポストを巡って4人の副院長が選挙戦を繰り広げる、しかも、かなり誇張された医者の人格の歪みを選挙戦に持ち込んでネガティブ・キャンペーンなどを繰り返す、という作品です。院長候補の4人は、臓器のヒエラルキーをモットーとする心臓至上主義の循環器内科教授、手術の腕は天才的だが極端な内科嫌いで風呂好きの消化器外科教授、白内障患者を盛大に集めては手術し病院の収益の4割を上げる守銭奴の眼科教授、古い体制の改革を訴えいいにくいこともバンバン発言する若き整形外科教授、です。『神様のカルテ』などでも、医者は私のような平凡なサラリーマンなどよりも性格的にアクが強い、というか、悪く表現すれば人格的な歪みがある、かのようにコミカルに描き出されていますが、この作品ではさらに徹底して女好きや守銭奴的な性格をパワーアップして設定しています。看護師や検査師などのコメディカルもいっしょになって医者を手ひどく評価したりするんですが、中には高い評価を下す人もいたりします。とても現実とは思えず、それはそれで小説本来のデフォルメされた現実社会の投影なので、面白おかしく読める医療小説です。一応、ミステリになっているんですが、犯人探しは主眼ではありません。

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最後に、神永正博『現代暗号入門』(講談社ブルーバックス) です。著者は、もちろん、暗号の専門家なんですが、本書での表現によれば、日立製作所でのサラリーマン研究者からアカデミックな世界の研究者に転じています。現在の日常生活レベルでも暗号技術というのは重要な役割を果たしており、特に、ネット通販やネットバンキングはいうに及ばず、インターネットを通じた秘匿性ある通信では必要不可欠とすらいえます。その暗号技術について、本書の著者はもちろんディフェンダーのサイドにいるんですが、アタッカーのサイドの情報も含めて、その舞台裏を人名をキーワードにしつつ明らかにしています。本書は5章構成であり、その昔からある共通鍵方式、ハッシュ関数、公開鍵のうちでもRSA方式と楕円曲線方式に分割して解説し、最終章で暗号共通のトピックとしてサイドチャネルアタックについてハードウェアの脆弱性から暗号を解読する技術とその対策を解説しています。経済学部出身の私には、ハッキリいって、、難しかったです。半分も理解できた自信はありませんが、最新の暗号技術について、日々使っているものだけに、それなりの親しみを持つためにも、こういった情報を得ておくのも一案かもしれません。
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2017年12月16日 (土) 11:08:00

今週の読書は学術書に教養書や専門書を合わせて計7冊!

今週も、またまた、しっかりと内容も高度ならボリュームもあるという経済学の学術書、教養書や専門書を合わせて、小説抜きで計7冊でした。知り合いのエコノミストから、どうしてそんなに読書が進むのか、という質問を受けたりするんですが、第1に、図書館で借りていていますので、金銭的な負担はごく少なくなっています。第2に、やっぱり、睡眠時間を削って読書に当てているような気がします。今年の新語・流行語に「睡眠負債」というのがありましたが、大いに思い当たるフシがあります。年末年始休みはタップリ寝たいと思います。

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まず、神林龍『正規の世界・非正規の世界』(慶應義塾大学出版会) です。著者は一橋大学の准教授であり、専門はマイクロな労働経済学です。出版社からしても、400ページをかなり超えるボリュームからしても、それなりに高度な計量経済学的な手法を用いた分析であることからしても、本書は完全な学術書と考えるべきであり、とてもキャッチーなタイトルながら、一般のビジネスパーソンにはやや敷居が高いかもしれません。ということを前提に、本書で主張されている正規と非正規に関する結論を、あえて誤解を恐れずに短く表現すると、少なくとも、本書でスコープとしている2007年までのデータに基づく限り、正規から非正規にシフトしているわけではなく、18~54歳に限ったコアな労働力人口に占める正規の割合は45%から50%近くで1980年代から大きな変化ないことを考えると、繰り返しになりますが、マクロの労働力で見て正規から非正規にシフトしたわけではなく、自営業というインフォーマル・セクターから非正規にシフトしたと考えるべきである、ということになります。実は、本書でも指摘している通り、我が国の労働経済学では自営業というインフォーマル・セクターを無視してきたことは確かであり、第3部で分析されているように、日本の自営業が1980年代初頭ですら労働力の25%超を占め、さらに、2015年くらいまで一貫してそのシェアを低下させてきたのは、私もほのかに認識していたとはいうものの、ほとんど初見に近い見方であるといわざるを得ません。2015年時点でほぼほぼ他の先進国と同じ10%くらいのシェアに低下しましたので、今後の動向については先進国と似た動きをする可能性もありますが、少なくとも、個人のパーソナル・ヒストリーというマイクロなレベルではなく、マクロなレベルで正規から非正規にシフトしたのではなく、自営業から非正規にシフトした、というのはデータを見る限り、かなり真実に近いと私は受け止めました。さらに、リーマン・ショック後に注目された派遣労働者についても、せいぜいが100万人から150万人のレンジであって、6000万人を超える我が国の就業者から見れば、決してシェアは高くない、というのも事実であろうと思います。加えて、過去の慣行とまで見なされるようになった日本的雇用慣行、すなわち、長期雇用、年功賃金、企業内組合、についても、第3の労働組合がいまだに企業内組合であるのは、組織率が大きく低下した点を別にすれば、おそらく誰にでも観察される事実であろうとは思いますが、長期雇用や年功賃金も必ずしも崩壊したわけではなく、コアな正規雇用者にはまだまだ残存している可能性も本書は示唆しています(p.147)。そうかもしれません。というか、それだけに、政府でモデル世帯のように見なされている夫婦と子供2人で専業主婦、というか片働きの世帯というのは、大きく社絵を落としながらも、まだ、モデル的な世帯形態としては有効性がいくぶんなりともあるのかもしれません。そして、現在、使用者側から強く主張されている解雇規制の在り方については、本書でも指摘されているように、日本では米国などと比較して、ボーナスのシステムなどがあって賃金の柔軟性が高く、ケインズ経済学で仮定される賃金の下方硬直性が低いことから、解雇をひとつの極端な方法とする量的な調整の必要性が低かったのが一因と考えています。すなわち、現在の労働規制緩和を進めてしまうと、賃金調整の柔軟性が高く、しかもその上、量的な調整の柔軟性も高い、という何でもありのオールマイティーな労働調整の権利を使用者側に与えかねない不安が私にはあります。いかがなもんでしょうか。最後に、とても有益な読書だったんですが、2点だけ指摘しておきたいと思います。第1は、先ほどの正規と非正規のシフトについては、私も慎重に書きましたが、2007年までのデータに基づいた結論ではないかという気がします。リーマン・ショックとその後の Great Recession を経て、この結論がそのまま通じるのかどうか、データの利用可能性とともに再検証が必要かもしれません。第2は、p.164で、2007年データでは有期契約の方が無期契約よりも時間賃金が高い要因として、プロフェッショナルな契約社員が増加している点を上げていますが、違う要素も含まれていると思います。すなわち、景気変動による調整要員であるがゆえに、サブプライム・バブル崩壊直前の好況期には、それなりのプレミアムを上乗せした賃金が必要とされた可能性があると私は考えています。

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次に、島澤諭『シルバー民主主義の政治経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者はシンクタンクのエコノミストであり、世代間不平等について、いくつか論考も発表しているようです。本書では、計量的な手法により、中位投票者モデルに基づいて、いわゆるシルバー民主主義にはなっていない、すなわち、中位有権者の高齢化の進行が、社会保障支出における高齢者VS現役世代の比率を上昇させているかどうかを検定した結果、実証的には注意年齢の係数が有意にマイナス、逆符号となるとの結果を示しつつ、でも、シルバー優遇は生じている、との結論を取っています。そして、シルバー民主主義が否定される代わりに、というか、何というか、現役世代と引退世代が結託して将来世代からの移転を受けている、要するに、財政赤字が問題である、との結論に飛びついています。計量的に中位投票者モデルに基づいてシルバー民主主義が否定されるのは、私としても、実証分析の結果ですのでそうだろうとは思うんですが、いきなり、財政赤字悪者論に飛躍し、財政赤字は財政的な幼児虐待とする結論は理解できません。しかも、財政赤字に対しては、本書では説得的な対応策が示されているとはいいがたい気もします。私自身は、シルバー民主主義ないしシルバー優遇は、民主主義の生物学的な限界であり、誠に情けない結論ながら、解決策らしきものは見いだせていません。せいぜい、楽観的に高齢者の利他的な動機に訴えるとか、間接民主主義の下で、本書でも注目している「民意」を政治家が歪める、くらいしか考えつかず、何ら説得的な解決策でないのは理解しているつもりです。でも、本書では真っ向から民意を反映するのがいい政治のように評価しているような気もします。しかし、少なくとも、英米における2016年の国民投票の結果、すなわち、BREXITとトランプ大統領の当選については、国民投票で結果が示されてしまえば、もうどうしようもありませんが、間接民主主義では、民意から遮断された政策決定が可能な気もします。もちろん、それはよくないという、何らかの価値判断はあり得ると思います。ということで、かつて、私が読んだ本で田原総一朗『頭のない鯨』というのがあって、その昔は、選挙で当選した代議士の要求であっても、当時の大蔵省の主計局が査定で予算を削ってしまえば政策として実現しない場合もある、として、間接民主主義下での民意と政策の遮断を論じていたような気がしますが、それにしても、現在ではそういった大蔵省=頭がなくなった日本経済という巨大な鯨が漂流している、というイメージかもしれません。ともかく、本書のように最後に財政赤字が悪い、と結論すれば、世代間不平等は財政赤字解消により縮小するかどうかは、基本的に独立事象であって関係ないと考えるべきですので、本書の重要なテーマであるシルバー民主主義や世代間不平等の議論はかなり歪められかねないと危惧しています。それよりも、必ずしも定量的な評価でなくてもいいので、国民=主権者が年齢を重ねる、すなわち、老いる場合に選好関数にどのような変化が現れるか、といったもっと大きなテーマも考えて欲しい気がします。

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次に、クレイトン M. クリステンセンほか『ジョブ理論』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者はクリステンセン教授以外にも何人かコンサルタント会社の幹部などが名を連ねているんですが割愛します。クリステンセン教授については、破壊的イノベーションに関する理論などで著名なハーバード・ビジネス・スクールの研究者です。本書の英語の原題は Competing against Luck であり、2016年の出版です。邦訳タイトルに「ジョブ」という単語を入れていますが、英語の原タイトルにはありませんし、雇用や労働などとは関係なく、イノベーションの源泉として「ジョブ」という言葉を定義し直しています。ジョブの定義やジョブ理論の概要は本書ではp.58本書でから始まります。簡潔に要約すると、頻出する表現として job to be done というのがあり、要するに、顧客が成し遂げたい必要な作業の本質、ということになろうかという気がします。その意味で、「ジョブを雇用(hire)する」という表現を使っています。なお、本書ではジョブとニーズを違うと強調していますが、私のようなシロートには重なり合うところが好きうなくないような気がします。誰の表現か忘れましたが、顧客はドリルが欲しいんではなく、穴を開けたいのである、といった趣旨かと私は受け止めました。本書の表現に即していえば、イノベーションの成否を分けるのは、地域と人口動態で分類した顧客データ、すなわち、東京在住の30歳台男性の消費の特徴とか、この層はあの層と類似性が高いとか、顧客の68%が商品Bより商品Aを好むなど、や、市場分析、スプレッドシートに表れる数字ではなく、鍵は「顧客の片づけたいジョブ(用事・仕事)」である、ということになります。そうでなければ、英語の原題にあるように、行き当たりばったりで運まかせのイノベーションになってしまう、ということなんだろうと思います。行き当たりばったりのイノベーションのほかにやや批判的な見方をされているものがいくつかあり、例えば、ビッグデータは顧客が誰かは教えてくれても、なぜ買うのかは教えてくれない、とか、同じ文脈で、相関関係ではなく因果関係が重要であり、同時に、数値化できない因果関係にこそ、成功するイノベーションの鍵があるとか、高齢者向けの紙オムツの例を出して、自社製品も他社製品も買っていない無消費の層を取り込む必要性、などに目を向けるべきと強調しています。本書で取り上げられている成功例は、主として、大企業であってニッチを埋めたスタートアップではありません。すなわち、イケア、ゼネラルモーターズ(GM)のオンスター、サザンニューハンプシャー大学の通信講座、プロクター&ギャンブル(P&G)、エアビーアンドビー、アマゾンなどなどです。そして、その意味で、本書の手法はいわゆるエピソード分析であり、データ分析ではありません。本書の最後の方にはその言い訳があり、イノベーションについてのデータ分析の偏りを批判していますが、私には同様の疑問があり、エピソード分析では常に成功例しか表面に現れず、水面下に沈んだ失敗例についても興味あります。キチンと、失敗例の原因も明らかにされていれば、それなりに、エピソード分析も意味ありそうな気もしますが、少なくとも本書には見られません。そこは残念に感じました。

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次に、 オーウェン・ジョーンズ『チャヴ 弱者を敵視する社会』(海と月社) です。著者は英国の評論家であり、かなり若い人です。英語の原題は CHAVS です。タイトルは、Councile Housed and Violent の頭文字を取ったもので、直訳すれば「公営住宅に住み、暴力的」ということになります。低所得の労働者階級に対する蔑称です。本書は、一言で表現すれば、サッチャー政権以降の新自由主義的な経済政策の下で、労働者階級 working class がいかに崩壊し、マルクス主義的な用語を用いれば、ルンペン・プロレタリアートに近くなったか、についてジャーナリスト的な筆致を持って跡付けています。このブログでも、『ヒルビリー・エレジー』、『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』、『われらの子ども』などで、米国における同じような労働者階級の現状については取り上げて来ましたが、本書では英国における労働者階級の現状にスポットを当てています。米国における新自由主義的な経済政策運営は1981年のレーガン政権からなんですが、英国では1979年のサッチャー政権からです。標準的なエコノミストの理解とは少しズレがあるかもしれませんが、本書の主張では、いずれも、新自由主義的な経済政策により自国通貨が増価して製造業の空洞化を招くとともに、労働組合などに対する厳しい対決姿勢やあからさまな弾圧により、中流階級が就いていたメインストリームの製造業の decent job が失われ、本書の表現では、コールセンターの電話対応やそれこそスーパーのレジ打ちや清掃作業のような職しか残らなくなったとしています。そして、CHAV がさらに低所得の生活保護受給者をバッシングし、移民を敵視し、社会保障給付が削られていくばかりになり、メディアでは貧しい人々を野生動物のように観察し、さらし者にしている現状、そこに、日本でも一時流行った「自己責任」という言葉で福祉をさらに削減し、低所得者を貶めて弱者を蔑む風潮を助長している社会について考えようとしています。しかし、残念ながら、いかにして包括的な経済政策が必要か、あるいは、そういった経済政策はどういうものか、については十分な議論がありません。というか、そこまで論考が及んでいません。マルクス主義は救いにはならないんでしょうか。かつての労働組合活動のような団結した運動が消滅させられ、社会が分断され、それが差別につながり、底辺への競争や貧困の罠が社会のいろんなところに見られる中、先ほど上げた米国に関する本で要約されているような現実や本書でフォーカスしている英国の現状は、ひょっとしたら、日本の未来かもしれません。私自身は現在のアベノミクスは新自由主義的というよりも、『この経済政策が民主主義を救う』で主張されていた通り、かなりリベラル、あるいは、左翼的といっていい経済政策運営をしているように受け止めていますが、日本の将来を考える上でも重要な1冊だという気がします。

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次に、柳田辰雄[編著]『揺らぐ国際システムの中の日本』(東信堂) です。編者の柳田教授は開発経済学も含めて、経済学に軸足を置きつつ学際的な領域の研究を展開している東大教授です。奥付けの著者略歴にあるように、今世紀に入ってからJICA専門家としてインドネシア財務省に派遣されており、国家開発企画庁に派遣されていた私と任期が重なっており、私も何度かジャカルタでお会いした記憶があります。ということで、著者とタイトルにも引かれて読んでみましたが、かなり期待外れでした。本の内容としては、経済学を含めて学際的というよりは、システマティックでもなくバラバラに寄せ集めた内容と考えるべきです。2部構成となっており、第1部で国際システムの理論、第2部で国際システムの制度がタイトルとなっています。でも、特に第2部は通貨制度、貿易制度、などなど、単発で連携なく各分野の解説が並べられています。そのレベルも、偏差値が高い高校ないしは偏差値が低い大学の初学年といったところのような気がします。その昔に私が出向していた大学であれば、副読本くらいの扱いではないかという気がします。入ったばかりの1年生であっても、教員がついて授業で開設するようなレベルではなく、ヒマを見つけては自分で独習する素材ではないかという気がします。ただ、各章が短く記述されてコンパクトであり、エッセンスを手軽に理解する、というか、深い理解を求めるよりも、学際的と称して幅広く、広く浅い基礎知識を得るにはいいのかもしれません。本書の読書に対して、大きな期待は禁物です。今週の読書の中で、というか、最近にない一番のハズレでした。

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次に、岩間優希『PANA通信社と戦後日本』(人文書院) です。聞きなれない通信社名ですが、戦後1949年に「アジアの、アジア人による、アジアのための通信社」として宋徳和により香港で設立され、その後、時事通信に吸収され、今では時事通信フォトの社名になっている通信社で、設立資金がタイガーバームの創業家から出たという逸話もあるそうですが、判然とはしません。現在の業務内容からしてもフォトジャーナリズムを中心とする通信社であったことが判るんではないでしょうか。著者はジャーナリズム論を専門とする研究者ですが、学術書というカンジではなく、一般向けの教養書としてスラスラと読むことも出来ます。各章ごとに中心に据えられている人物がいて、第1章ではフォトジャーナリストの岡村昭彦にスポットが当てられています。ベトナム戦争取材による写真が有名で、その後、米国のライフ誌にも寄稿していたりして、それなりの知名度があるように思います。第2章は設立者の宋徳和からPANA通信社を任された元報道カメラマン・近藤幹雄による経営努力、また、第3章はPANA通信社を傘下に収めて「太平洋ニューズ圏」を夢見た当時の時事通信社社長であった長谷川才次の野望にスポットが当てられています。なお、岡村昭彦は経営合理化を進めた近藤社長と袂を分かってPANA通信社を離れています。しかし、読ませどころは日本国憲法制定にも影響を与えたといわれる創業者の宋徳和の生涯を描く第4章、それから、損がポールが日本軍政下で「昭南市」と称されたころに日本語教育を受けた東南アジア総局長・陳加昌を扱った第5章であろうと思います。決して日本人中心のPANA通信社史観ではなく、香港やシンガポールといった華人中心ながらも、それなりに日本を離れたアジアの大都市にフォーカスしたジャーナリズム論が活写されています。また、決して、本格的に取り上げられているわけではありませんが、我が国やアジアのジャーナリズムに大きな影響を及ぼした連合通信の消長なども興味あるところです。日本以外は華人社会中心ながら、アジアとは何か、アジアに根差したジャーナリズムとは何か、もちろん、本書ではオリンピックのメダリストを報じるのではなく、地元選手の活躍や成績を中心に報じる、という意味での地域性もあり得る可能性を示唆しつつ、本書はなかなか興味深いテーマを追っている気がします。私には専門外のテーマですので以下の日経新聞や朝日新聞の書評もご参考です。


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最後に、尾形聡彦『乱流のホワイトハウス』(岩波書店) です。著者は朝日新聞のジャーナリストであり、ホワイトハウスのブリーフィングにも出席した経験があるらしいです。ジャーナリストの舘賀から米国も前にオバマ政権と現在のトランプ政権を対比させ、トランプ政権の行く末や日本の対応のあり方なども論じています。やや一方的な印象を持ったのは、現在のトランプ政権のロシア疑惑について、オバマ政権末期に捜査が開始された、というのはまだいいとしても、ニクソン政権期のウォーターゲート事件との類似を指摘して、トランプ米国大統領の弾劾の可能性まで示唆するのは、対立政党の幹部であればまだしも、ジャーナリストとしてはやや行き過ぎた気がしなくもありませんでした。また、第2章のホワイトハウスにおける取材のインナーサークルに関する自慢話は、なかなか面白かったんですが、これだけを読んで、著者がそれなりの高齢に達している印象を持ったところ、奥付けのプロファイルを見てまだ40代だというので少しびっくりしました。ただ、ジャーナリズム論というか、取材の実態をかんがみるに、日本では公式の記者会見場での質疑もさることながら、個人的なコネクションによる裏ブリーフのような場での情報収集も重視されるのに対して、米国、特にホワイトハウスなんだろうと思いますが、公式の記者会見場でのやり取りに緊張感を持って臨み、そこでキチンとした質問をして回答を得る重要性が強調されており、まさか、この著者が裏の情報収集ルートにアクセスを持っていなかったとは思えませんから、日米の表と裏の使い分けの違いはそうなんだろうという気がしました。私自身のオバマ政権とトランプ政権に対する評価としては、本書の著者の見方にかなり近く、オバマ政権の時の国際的にオープンかつリベラルな政策の方を強く支持していますので、その政策的な対比についても本書の見方には共感できるものがありました。ただ、オバマ政権下での安全保障政策でもっとも注目すべきであるのは、私はごく初期のプラハでのスピーチであり、全文をこのブログに引用したほどですが、本書での位置づけはそれほどでもなく、やや、不満に思わないでもありません。でも、それなまだ私の専門外なので許容範囲としても、オープンでリベラルなオバマ政権と現在のトランプ政権で、もっとも大きな対比をなすのは移民政策ではなく通商政策だと私は考えています。その意味で、TPPから脱退、というか、署名前でしたので、TPPに不参加を表明したトランプ政権の政策につき、本書で何らの言及がなかったのには失望しました。
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2017年12月10日 (日) 13:14:00

先週の読書はまずまず充実の経済書など計6冊!

先週はいろいろあって、昨日のブログに米国雇用統計が割り込んで読書日は1日長めだった影響もあり、また、昨日から今日にかけて母校の京都大学を往復した新幹線でのヒマ潰し読書もありで、経済書も多くて計6冊。以下の通りです。

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まず、井伊雅子ほか[編]『現代経済学の潮流 2017』(東洋経済) です。最近時点における日本経済学会の春季及び秋季の年次総会における会長講演や特別報告、さらに、パネル討論を収録した学会公式刊行物です。もう20年も発行されていて、私は今まで読もうとしなかったんですが、なぜ、急に読む気になったかというと、来年春季大会のパネル討論に参加することになりそうだからです。なかなかに光栄なことだという気もしますが、どうして今まで読もうとしなかったかというと、ハッキリいって余りに高度であるからというのが第1の理由です。判りにくい例ながら、私は少し前までフツーにゴルフをプレーしますが、トップクラスの男子ゴルファーのプレーを見ても、何の参考にもなりません。それと似たようなもんです。第2に、データや分析が細かくなり過ぎた印象もあります。STAP細胞ではありませんが、科学的な見地からはブラックボックスではなく再現可能性という見方も重要です。個票を用いた実証分析は、私もミンサー型の賃金関数を推計したりした経験もありますが、もちろん、インチキの可能性を主張するつもりはないものの、外部の人の再現可能性が極めて限られるような気がします。第3に、本書の最終章で展開されているようなエビデンス・ベースの政策立案はとても重要なことであり、政策効果を出来る限り定量的に「見える化」することは必要なんですが、その定量的に「見える化」した結果を評価する評価関数のようなもの、それがどのようなものかは私にはまだ実感ないものの、そういった評価関数のようなものの開発が立ち遅れているような気がします。まあ、定量的な「見える化」が先行するのは理解できます。そうでなければ、評価関数も出来ませんから、そこは理解するんですが、まったく評価関数の理論的な展開ないままに進んでいる現状には、少し疑問に思わないでもありません。こういった理由から、今まで最新の経済理論に触れることなくダラダラと過ごしてきたんですが、やっぱり、定年退職を前に急に思い立って勉強を始めてもダメだという気がしてきました。短時間でしょうから、パネル討論を乗り切ることを第一義に考えたいと思います。

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次に、高島正憲『経済成長の日本史』(名古屋大学出版会) です。著者は東大社研のポスドク研究者であり、出版社からも理解できる通り、かなり純粋な学術書と考えるべきです。といいつつも、実は、私は京都大学経済学部の学生のころは西洋経済史のゼミに所属していましたので、私にとってはそれなりに馴染みのある分野です。しかし、本書では著者はアンガス・マディソン教授の向こうを張って、超長期の日本経済のGDPを推計しています。古代といえる730年からの推計です。というのも、マディソン推計は、さすがに、そこまで訴求しておらず、しかも、日本の場合はベンチマークがかなり粗くなっていて、本書のような研究も存在価値あるといえます。本書は3部構成を取っており、第1部では農業生産を推計し、第2部では人口の推移を推計し、最後の第3部では農業以外の生産を推計するとともに、GDPとして体系的に推計を進めています。人口データも推計していますので、1人当りのGDPが求められる結果となっています。いずれにせよ、マディソン推計でも、中世以前については、いわゆる生存最低ラインといわれる1人当りGDPで年間400ドル、これは米ドルではなく1990年価格のゲアリー・ケイミス国際ドル単位なんですが、その年間400ドルの生存最低限を少し上回る水準で、かなり恣意的な推計になっている恐れも感じられます。本書によす推計では、マディソン推計をやや上回る1人当りGDPげ推計されている一方で、ポメランツ教授のいう大分岐については、日英間で1人当りGDPを見る限り、かなり早い時期から分岐が生じていた可能性が示唆されています。ただ、本書では延々と根拠とし得る古文書の計数を紐解きつつ、数量的な積み上げによる推計を、方法論とともに詳細に展開しているわけで、私の求めるものは本書の方法論では完全にスコープの外になってしまうんですが、その推計されたGDPの背景となる経済社会の動向についてはまったく無視されています。すなわち、飢饉でGDPが大きく減少したとか、農地の開墾が進んで農業生産が伸びたとか、もちろん、経済史上の大きな論点であるイングランドにおいて産業革命が始まった謎も解明されません。でも、それはそれで、こういった数量的な把握に基づく経済史の研究も重要であろうということは理解すべきです。

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次に、中島真志『アフター・ビットコイン』(新潮社) です。著者は、日銀から大学の研究者に転じていて、要するにそれくらいの年齢だということかと思います。本書の内容を簡単に取りまとめると、ビットコインはもう終わった過去のことだが、ビットコインの記録方式であるブッロク・チェーン=分散型台帳技術は金融にとどまらず、いろいろな分野で大きな変化をもたらす、ということかと思います。ビットコインについては、私もそろそろブームが終了し、終焉の時期を迎えている気はしますが、なくなりはしないと思います。何らかの新機軸が現れた場合、何らかの合法的あるいは非合法的な「お得感」により普及の基礎が与えられる場合があります。家庭用ビデオの場合はポルノでしたし、Airbnbのような民泊の場合は税逃れだった気がします。ビットコインについてはシルクロードのようなご禁制品の売買とか、もっと大がかりにはマネー・ロンダリングだったわけで、現在、ビデオでポルノ以外も見るように、ビットコインでの支払い方法は何らかの形で残ることとは思いますが、現行の現金による支払方法に取って代わることはなかろうと私も思います。他方、ブロック・チェーンは確かにうまく使えばさらに応用可能な気もします。他方で、私は技術的な内容について詳しくないながら、経済社会的な検討が本書では不十分な気もします。要するに、やや楽観的に明るいブロック・チェーンの未来を提示するだけで、その陰の部分に対しては目を閉じさせる内容化という気がします。すなわち、現在の銀行をはじめとする金融仲介機能を基にしたビジネス・モデルが、大げさにいえば、一気に崩壊する可能性を無視している気がします。ブロック・チェーンを用いれば海外送金の手数料などが安くできる、ということは、金融仲介機関の生産性がやたらと上がる、逆から見て、現在の規模の経営体は不要になる可能性が高い、と覚悟すべきです。おそらく、暗黙の裡に著者はブロック・チェーンを用いた金融仲介は現状の銀行などの機関が行うことを想定しているように見受けられますが、それによって銀行は生き残るかもしれませんが、企業規模は大きく縮小する可能性があることは忘れるべきではありません。ドラマの『陸王』などの池井戸作品に登場する一部の日本の銀行マンは、融資などで目利きではないような描かれ方をしていますが、そういったビジネス・モデルが一気に崩壊する可能性もあるわけです。

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次に、鯨岡仁『日銀と政治』(朝日新聞出版) です。作者はいわゆる新聞記者で、日経新聞や朝日新聞、また、分野も政治部や経済部など幅広いご活躍のようです。本書では、1990年代日本経済のバブル経済の崩壊やデフレに入ったあたりから最近時点までをスコープに、特に1998年の日銀法改正からの時期を重視して、経済統計ではなくジャーナリストらしく取材を基にした日銀と政治との関係をあぶり出そうと試みています。日銀の記者クラブ在籍経験があるようですから、いくぶんなりとも、日銀理論に親しみを覚える、というか、極端な場合は洗脳まがいの影響を受けているのではないかと恐れながら読み進んだんですが、さすがにそんなことはなく、もうそんなジャーナリストやエコノミストは一握りなんだろうと思います。ということで、私のように金融政策の部外者ながら、決して、無関係ではない官庁エコノミストからすれば、それなりに興味深い内幕者だという気がします。金融政策、というか、中央銀行の独立という考え方については、先進国ではほぼほぼ確立したと受け止められていますが、物価に責任を持つ中央銀行の金融政策は、当然にして、国民生活と深い関わりを持つわけですので、国民の選好からは逃れることは出来ないと考えるべきです。すなわち、中央銀行の独立というのは、独裁政権におけるものではなく、民主主義下の独立であり、選挙によって表明された国民の選好に無関係ではあり得ません。その意味で、中央銀行の独立を支えるのはその正しい政策決定・遂行であり、白川総裁のころまでの旧来の日銀理論に凝り固まって、国民生活を無視して政策の裁量性だけを尊重させ続けた日銀は独立するに値しない存在だったと私は考えています。そして、2012年12月の総選挙の争点であったように、物価目標を明らかに国民が選んだのですから、政策目標はそれで決まりなわけです。しかし、苦しいところは、現在の副総裁の岩田教授がその昔に主張していた批判は、それはそれで正しかったと私は考えていますが、他方、岩田副総裁も含む執行部で実行している金融政策によっても、サッパリ、物価は上がらず、まったくインフレ目標が達成されない点です。白い日銀理論ではなく、黒い日銀理論でもなく、第3の政策が必要なんでしょうか。私はリフレ派として現在の黒い日銀の政策が正しいと考え続けているだけに、やや当惑しているというのが正直なところです。このままでは日銀が国債をすべて買い切っても物価が上がらないのではないかと大きく心配しています。最後に、300ページの少し前あたりから、現在の黒田総裁以下の日銀執行部を選任する際の候補者が個人名で上げられていて、その個々人について、何がどうだから適任とか、ダメ、とかが余りにもあからさまに記述されています。私は少しびっくりしてしまいました。綿密な取材に基づくものでしょうから、その真実性について疑問を差し挟むことは控えますが、現任の日銀執行部人事であり、もう少し時間を置くとかの配慮はできなかったものでしょうか?

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次に、ジャック・アタリ『2030年ジャック・アタリの未来予測』(プレジデント社) です。著者はフランスの生んだ鬼才であり、トランプ米国大統領の誕生を予言し、マクロン仏大統領を政界に押し上げた、ともいわれています。本書のフランス語の原題は Vivement après-demain であり、訳者あとがきのよれば、「明後日を生き生きと」という意味だそうです。2016年の出版です。ということで、タイトル通りに2030年の予想です。書かれた時点から考えると、約15年後の予想なわけで、著者が1943年生まれだそうですから、80代も後半に達していて、著者ご本人の2030年時点での生死は何ともいえないところかという気がします。それはともかく、国家の運営から個人の生き方まで、かなり破天荒な中身、つまり、ご高齢者の放談に属する内容も含めて、かなり面白かったと受け止めています。まあ、要するに、15年後には何でもアリということなんだろうと思います。2030年ですから、カーツワイルの予言する2045年のシンギュラリティのかなり前なんですが、私が感じた大きな本書の特徴のひとつは、AIやロボットによる労働の代替を含めて、かなり大きなイノベーションを予言している点だという気がします。しかし、その上で、人口動態=高齢化、地球環境問題や特に水資源不足、経済の停滞、経済的不平等の進行、金融システムの脆弱性問題、果ては、民主主義の後退からカルトと原理主義の台頭、さらに、怒りや激怒をモチーフ新たな世界規模の戦争までを可能性として予言しています。これだけ悲観的な予想をいっぱい並べたら、ひょっとしたら、どれかが当たるかもしれない、と現実主義者で正直な人なら感じてしまうかもしれません。ただし、最後の第4章では生死観まで取り上げて、一気に宗教家のような言説を展開し、私のような単純な読者を煙に巻こうかということなんだろうか、とよからぬ想像すら働かせてしまいます。たしかに、いろいろと悲観的な予言を並べる一方で、それを最終章ではひっくり返して見せ、アタリ一流の「未来は変えられる」みたいな、特に根拠ない楽観論を展開し、悲観論と楽観論のバランスを取る、というよりは、最初に書いた通りに、何でもアリな未来をご高齢者の放談めいて書き連ねているような気もします。おそらく、読者によって、そのポジションによって受け取り方が違う気がします。どうとでも読める未来の予言です。

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最後に、木村泰司『西洋美術史』(ダイヤモンド社) です。著者は、美術評論家なのか、西洋美術史家なのか、私にはよく判りません。米国カリフォルニア大学バークレー校で美術史学士号を取得の後、ロンドンにてサザビーズの美術教養講座にて WORKS OF ART を修了したとされていますが、専門外にてよく判りません。本書は4部構成となっており、第1部では古典古代のギリシア・ローマ時代から始まって、宗教の発生や神がいかにして生まれたかについて美術との関係を探り、どうして裸体が彫刻に残されたのかについてなどを開設しています。第2部ではキリスト教の影響の下で、欧州における絵画の発展を跡付けています。ルネッサンスからの文芸復興、そして、カラバッジオが登場し絵画の世界に革命を興します。第3部では絶対王政期からナポレオン期のフランスに着目し、イタリアからフランスに美術の中心がどうして移ったのかを考察しています。そして、第4部では産業革命により文化的な後進国であったイングランドないし英国において美術的な反撃がどのようになされたか、印象派が受け入れられなかった理由、米国マネーが美術界発展に寄与した波形、などなどにつき論を進めています。常識的に知っている内容も少なくないんですが、系統的に取りまとめてくれているのは有り難い限りです。芸術分野としては、ランガーなどの説に従えば、絵画や彫刻などの本書の守備範囲である美術のほか、ノーベル賞の対象にもなっている文学、いうまでもなく音楽、そして、舞踏の4分野が想定されています。どうしても鑑賞に時間がかかる音楽や文学と違って、美術は考えようによっては一瞬で鑑賞が終わりますから、それだけ延々と蘊蓄を傾ける時間があるともいえます。本書で一貫して主張している、感性で見るのではなく、理性で読む美術を身につけるのも国際はビジネスマンの嗜みかもしれません。
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2017年12月02日 (土) 11:51:00

今週の読書は一部に読み飛ばした本もあって計8冊!

今週は、なぜか、大量に借りてしまって、純粋な経済書のようなものは少ないんですが、社会学的あるいは社会科学的な観点から経済を見たものが何点かあります。その他、専門外のノンフィクションとかエッセイは読み飛ばしてしまったものも含まれています。以下の通り計8冊です。もっとも、8冊とはいっても、新書と文庫で3冊に上りますから、新刊の単行本ベースでは5冊、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、来週は少しペースダウンする予定ですが、米国経済統計のために営業日ならぬ読書日が1日多そうですので、それなりに読むかもしれません。

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まず、ライアン・エイヴェント『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか』(東洋経済) です。著者は米国生まれながら英国「エコノミスト誌」の編集者であるジャーナリストです。英語の原題は Wealth of Humans であり、アダム・スミスの『国富論』のもじりのつもりかもしれません。2016年の出版です。邦訳タイトルで気になったのは、著者は決してデジタルエコノミーが道を誤る、とは主張していない点です。ただ、かなり希少性を低下せて来た高等教育などの教育投資ではなく、振舞い方の総体としてのソーシャル・キャピタルのソフトな役割を重視し、また、デジタルエコミーの必然的な帰結かどうかは別の議論としても、格差や不平等の拡大がもたらされる、とは主張しているような気がします。スキル偏向型の技術進歩の結果として、ITを活用するごく一部のエリートは豊かになるが、ITで代替される圧倒的多数の労働者は豊かにならない、どころか、職を失う可能性まであるわけです。そのための一方策として、ベーシックインカムにチラリと言及されています。ジャーナリストらしく、取材の結果も含めて現状分析から要因を分解し、各種の懸念材料を並べた後で、最後に、将来展望という4部構成を取っています。特に印象的なのは、高等教育はもちろん、職業訓練なども含めて、いわゆる人的資本をフォーマルに形成する「教育」の役割については、かなり著者が懐疑的な点です。従来から、マシンとの競争に際しては人的資本の蓄積が提唱される場合が多かったんですが、まあ、コトここに来てはムダということなのかもしれません。そうではなく、マナーに近い印象を受けたソーシャルキャピタルを振舞い型の総体として定義し直し、そういった生産現場に必ずしも直結しない人間らしい社会的な振舞いの方を重視します。格差や不平等についても、ベーシックインカムを除けば、政府による分配の役割が必ずしも明確ではなく、なんだか、いろんな意味において、「気持ちの持ちよう」といわれて、私は肩透かしを食ったような気になってしまいました。

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次に、リチャード・サスカインド/ダニエル・サスカインド『プロフェッショナルの未来』(朝日新聞出版) です。著者は2人とも英国の研究者であり、専門分野は社会科学のようで、経済学というよりは社会学の方が近そうな気がします。同じ苗字なんですが、父と倅だそうです。英語の原題は The Future of the Professions であり、邦訳タイトルはほぼ直訳です。2015年の出版です。Professions は本文中では「専門家」あるいは「専門職」と訳されており、前者は個人を指す場合、後者はその集合体という形で使い分けられています。具体的な職業としては、多くの場合に資格の必要な士職業、すなわち、医師、弁護士、会計士・税理士、あるいはこういった資格を持つコンサルタント、さらに、宗教指導者や建築家も時により包含されています。要するに、外科医がメスを振るうといった例外はあるものの、専門的知識の中から何らかのソリューションを与えてくれる職業なんですが、決して相対で済ませる必要性はなく、往々にしてオンラインの向こう側にいる人工知能で代替できそうな職業、といえるかもしれません。そして、いわゆるIT化の進行、人工知能やロボット技術の実用化、ビッグデータの活用やIoTの進行などの技術的な進展の中で、こういった専門家の職業がどういう方向に進むのか、あるいは、進むべきか、といった分析を加えています。第1部で事実関係の観察結果を取りまとめ、第2部ではその理論的な背景を探り、第3部では将来展望について土地上げています。ただし、これらの専門家の職業分野では、経済学でいうところの「スーパースター経済学」が成立しそうな分野であり、先の図書の感想文でも取り上げた通り、格差や不平等の激化が避けられないように感じるんですが、本書ではそういった格差や不平等の視点はありません。実に、淡々と実際の専門家の仕事、というか、業務遂行のあり方について思考を巡らせ、その成果の受取りたる所得の格差などは視野に入っていないようです。専門家の仕事の実用性に重きを置いた分析といえます。結論としては、伝統的な専門職は解体され、多くの専門家がより高いパフォーマンスを発揮する人工知能などのマシンやシステムに置き換えられる未来は回避出来ない、と示唆されています。でも、それが悲観すべき事態であるかどうかは別の問題、とも解釈できるような気がします。

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次に、 トッド E. ファインバーグ/ジョン M. マラット『意識の進化的起源』(勁草書房) です。著者は米国の研究者であり、精神医学と解剖学が専門分野です。英語の原題は The Ancient Origin of Consciousness であり、含意は p.282 の訳者あとがきに記されています。2016年の出版です。ということで、童話やアニメなどで昆虫や動物が擬人化されて、人類と同じような意識をもって、しかも、おしゃべりや何やでコミュニケーションを取る、というのがありましたが、逆に、キリスト教的な世界などでは人類と動物は魂のあり方を主たる要因として峻別されていて、ダーウィン的な進化論ですらNGという原理主義的なキリスト教の世界観もあるらしいので、何とも、本書のテーマは私には興味深いところです。そして、結論としては、意識はおろか、感覚、例えば痛覚については、かなり進化した脊椎動物である魚類すら持っていない可能性が高い一方で、人類の発生以前の段階の生物ですら、進化の過程で意識を持つに至った可能性も同時に明らかにされています。邦訳の副題にもなっているカンブリア爆発による生物の多様化から、それまでの濾過食に加えて、捕食者と被食者が別れるようになり、特に後者の被食者が何らかの感覚を研ぎ澄まして捕食されないように進化を遂げる必要が大きくなったわけで、レンズ眼の獲得による視覚から、あるいは、聴覚や嗅覚などから危険を察知するようになり、ひいては意識の形成につながった、というか、意識を持てるような進化を遂げた、ということになります。それが、いつであるのか、どの種からなのか、については化石を見ても明らかではないような気がしますが、私のようなシロートでは理解できないような研究方法があるんだろうという気がします。私はキリスト教徒ではありませんが、意識というのはヒトしか持っていないと長らく直観的に理解して来たんですが、生物、というか、動物については意識の観点ではかなり平等性が高く、我々ヒトから見てかなり下等な動物でも意識を持ちうる可能性が、シロートながらほのかに理解できた気がします。でも、最初の方に提示された通り、意識の存在については「われ思う、ゆえに、われあり」といった哲学的なアプローチも可能だと思います。

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次に、レベッカ・ソルニット『ウォークス』(左右社) です。著者は米国西海岸在住で環境、政治、芸術など幅広く著述活動をしているライターです。取材記者の経験はないのかもしれませんが、ジャーナリストに近い活動と私は受け止めています。英語の原題は Wanderlust であり、歩くことに限ったわけでもなく、旅行一般に関する渇望感のような受け止めなんですが、確かに内容的には邦訳タイトルの方がいいように感じました。2000年の出版です。20年近くを経過しても内容的に陳腐化していないのかもしれませんが、付加すべきポイントはありそうな気もします。ノンフィクションというよりは、何らかの著者の思い入れも含めたエッセイではなかろうかと思います。本書は500ページを超えますし、この前に取り上げた専門外の『意識の進化的起源』とともに、かなり速読、というか、読み飛ばした本だった気がします。ということで、要するに、歩くことに関するエッセイです。英語の原題のように、移動を含めた旅行などではなく、「歩く」ということですので、旅行のような距離を必要とする移動を伴うものばかりではなく、幅広い観点から考察を加えています。まず、第一歩の第1部は思索がテーマだったりします。私の知り合いでも、考え事をする時は狭い範囲ながらも歩き回って思索を巡らす友人がいたりしますが、まあ、ハッキリいってオフィス勤務には向きませんし、思索のケースでも歩くこととは必ずしも連動しない人の方が多数派という気もします。さらに、第2部では庭園や原野といった場所を特定し、第3部では明示的に章のタイトルになっているのはパリだけですが、都市を歩くことに主眼を置き、最後の第4部ではこのエッセイ全体をコンクルードしています。エッセイですので、冒頭はルソー、さらにワーズワースとか、歩くことにまつわる文芸者の話題も豊富に取り上げられています。もちろん、著者の生まれ育った米国サンフランシスコをはじめとし、章タイトルにもなっているパリ、ベルリン、さらにいくつかのラテンアメリカの都市、最後にラスベガス、などなど各地の歩く人々にも焦点が当てられています。ただ、そういった歩く人々のバックグラウンドについては、かなり著者の恣意的な思い入れを込めて想像を膨らませている気がします。出版社のサイトには、書評を掲載したメディアの一覧があります。それなりの注目書なのかもしれません。

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次に、周防柳『蘇我の娘の古事記』(角川春樹事務所) です。作者は売り出し中の小説家です。この作品はこの作者の2作目の時代小説なんですが、1作目は「古今和歌集」の成立をテーマに、六歌仙を題材にした『逢坂の六人』であり、最近、文庫化されています。私もこの作者の作品の中では唯一読んでいたりします。ということで、本作品がこの作者の2作目の時代小説であり、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿親子を亡ぼした乙巳の変から天武天皇が大海人皇子のころに大友皇子を追放した壬申の乱までを描く古代史を題材にした時代小説です。だけでは何のことか判らないでしょうが、タイトルになっている我が国で初めて編纂された国史のひとつである『古事記』を口述した稗田阿礼の謎を追っています。小説として、主人公は渡来人の一族である船氏の長の船恵尺・山鳥の親子なんですが、その恵尺の子であり、山鳥の妹である盲目のコダマが稗田阿礼に同定されています。しかし、このコダマの生まれは決して明かしてはならない秘密であり、そのために最後の方で船山鳥は壬申の乱で命を落とします。う#xFF5E;ん、このコダマの出自だけは、小説の醍醐味を左右するネタバレになってしまうので書けないんですが、何とも、作者の素晴らしい発想の賜物だろうという気がします。蘇我入鹿の亡霊がコダマの命を助けるシーンもありますが、決して、ファンタジーではなく徹頭徹尾リアルな現実政治の中で『古事記』の伝承を位置づけています。各章の終わりの数ページだけ軽くグレーに色付けされた用紙に『古事記』に収録されている神話が語られる場面が挿入されています。これも印象的な作りになっています。私は時代小説はかなり好きで、主として江戸時代の侍を主人公に、封建時代の世襲の主の揺るぎない地位を背景に、家老などの執政官が思う存分にお家騒動を繰り広げる、というパターンがお決まりのものと考えてきましたが、この作者のように中世を飛び越えて古代に題材を取った時代小説もアリなのか、という気になっています。とてもオススメの時代小説です。

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次に、大竹文雄『競争社会の歩き方』(中公新書) です。著者は大阪大学をホームグラウンドとする経済学者であり、専門分野は労働経済学などのマイクロな分野です。その意味では、京都大学を退官した橘木先生と同じ分野といえるんですが、橘木先生がかなりリベラルというか、ゼロ成長まで含めて、現政権に批判的な論陣を張っているのに対して、大竹先生は現状肯定的な論を唱えている気がします。ということで、著者のあとがきにもある通り、過去2作の中公新書でも標準的な経済学に関するエッセイを取りまとめていて、それなりにためにもなれば、売れてもいるんですが、本書でも、必ずしもタイトル通りに競争に関するエッセイばかりではなく、幅広く経済学の現時点における到達点を踏まえて、できる範囲で難しくならず、しかも定量的な観測結果を中心に最新の経済学の研究成果を取りまとめています。私のように定年間際ですっかり不勉強になっているエコノミストには、こういったサーベイ論文のような平易な新書は有り難い限りといえます。ただ1点だけ注意を喚起しておくと、中身ではそれほど触れられてもいないんですが、タイトルにもなっている競争について、あるいは、最初のトピックにもなっているチケット転売問題について、私なりにコメントしておきたいと思います。すなわち、本書では、独占については芥川賞受賞の『火花』に関して、チラリと触れられているだけですが、競争の反対側は程度の差はあれ、独占だという点は忘れるべきではありません。身近なニュースで接するところでは学生の就職戦線がそうであり、昨今は人手不足で学生の売り手市場といわれますが、学生サイドで独占が発生していて、企業サイドで学生獲得の競争をしているわけです。チケット転売問題でも、高い価格で転売されるということは、超過需要が生じているのだから、チケット価格を引き上げて需要曲線に沿った需要量の低下により需給のマッチングが可能、ということで、それはそれで経済学の観点からは正しく、チケット価格を引き上げるということは、実は独占の超過利潤を取りに行く合理的な経済行動なわけですが、逆に、限界費用に基づく価格付けを行うのも経済厚生の観点からは合理性あると考えるべきです。そして、前者の独占による超過利潤を実現する高価格付けが、実に、新自由主義的な右派の経済学であり、後者の限界費用に基づく低価格付がリベラルな左派の経済学に近い、と考えるべきです。そして、本書の著者は前者の立場の経済学者であり、私は後者の左派のエコノミストなんだろうと思っています。

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最後に、文庫本2冊で、恩田陸ほか『2030年の旅』(中公文庫) 及び湊かなえほか『猫が見ていた』(文春文庫) です。タイトルから明らかな通り、『2030年の旅』は10年余り後の世界を展望した短編集であり、『猫が見ていた』は猫にまつわる短編集です。どちらも執筆陣が豪華、というか、私好みなんですが、収録作品を一応上げておくと、『2030年の旅』については、恩田陸「逍遙」、瀬名秀明「144C」、小路幸也「里帰りはUFOで」、支倉凍砂「AI情表現」、山内マリコ「五十歳」、宗田理「神さまがやってきた」、喜多喜久「革命のメソッド - 2030年のMr.キュリー」、坂口恭平「エッセイ 自殺者ゼロの国」の8編、すなわち、小説7本とエッセイ1本となっています。次に、『猫が見ていた』については、湊かなえ「マロンの話」、有栖川有栖「エア・キャット」、柚月裕子「泣く猫」、北村薫「『100万回生きたねこ』は絶望の書か」、井上荒野「凶暴な気分」、東山彰良「黒い白猫」、加納朋子「3べんまわってニャンと鳴く」の7本の短編で、解説代わりに「猫と本を巡る旅 オールタイム猫小説傑作選」が最後に置かれていますが、これはかなり内容的に怪しいと私は受け止めています。特に印象的な1篇ずつを選ぶと、『2030年の旅』では、過疎化が深刻な町をスリーフィンガーという企業が開発して、日本で一番インフラ整備された町へと変貌を遂げるという「里帰りはUFOで」が面白かったですが、先進IT企業とは、Googleの自動運転車のように、何でもやるんだろうというのがよく実感できましたし、失礼ながら、現時点での技術の先をそのまま一直線に伸ばしたような想像しやすいテクノロジーでしたので、難しさは感じませんでした。『猫が見ていた』では、作家アリスのシリーズの「エア・キャット」で、ル・ポールの財布の予言マジックのように、火村が被害者宅の本棚の漱石の『三四郎』を手に取ったら事件直前の時刻のレシートが出て来て、書店からの帰り道にある監視カメラの映像から犯人がすぐに捕まった、というストーリーなんですが、どうして『三四郎』なんだろうかという小さな謎に挑みます。なかなかの短編ミステリです。
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2017年11月25日 (土) 13:02:00

今週の読書は統計研究会からちょうだいした経済学の学術書を含めて計6冊!

今週の読書は、先週の土曜日が雨がちだったので自転車で出かけられず、経済書が不足するかと心配しましたが、何と、統計研究会の設立70周年記念シンポジウムに招待されて聴講に行ったところ、記念品として統計に関する学術書を2冊もちょうだいしてしまいました。感謝感激です。以下の最初の2冊がそうです。本来であれば、ご寄贈書は別格で取り上げるべきなんでしょうが、まあ、私のほかの200人近いシンポジウム出席者にも記念品が渡っていたようですので、週末の読書感想文のブログに合わせて取り上げておきます。

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まず、福田慎一[編]『金融システムの制度設計』(有斐閣) です。編者は東京大学経済学部の研究者であり、マクロ経済分析の第一人者といっていいと思います。ですから、というわけでもないんですが、本書はほぼほぼ純粋な学術書と考えるべきです。もちろん、出版社のセールストークではビジネスマンも読者として想定しているような宣伝文句を使うことでしょうが、せめて、経済学部の学部上級生か、ひょっとしたら、大学院課程の院生レベルの理解力を必要とする読書になることは覚悟すべきです。という前置きをしつつ、2008年のリーマン・ショック前後の金融危機とそれに続く景気後退のショックを考慮しつつ、金融システムのあり方を一線の研究者がチャプターごとに考察を加えています。本書でも明らかにされているように、金融機関の自由をある意味で制限する規制を強化すれば、その裏側で経営の自由度が制限され、グローバル化の流れの中で環境変化に対応が難しくなる可能性が高まる一方で、規制を緩和して自由化を進め過ぎると金融危機などのショックに対して脆弱性を増す結果ともなりかねません。規制と自由化のトレードオフのはざまで、昭和初期の金融恐慌までも研究対象に加えつつ、定量分析と理論的なモデル分析を用いて、分析を加えています。私が知らなかっただけかもしれませんが、戦前期の金融はホントに自由というか、ほとんど規制のない世界で、銀行が保護されているわけでもないので、そもそも、銀行に預金するという行為自体がリスクを伴う経済活動だった、というのは知りませんでした。確かに、次の労働市場もそうですが、金融にしても、戦前期は規制のない自由な市場であり、その意味で、アングロ・サクソン的な資金調達市場で、株式購入も銀行預金も、同等ではないでしょうが、どちらもそれなりのリスクがあったわけですから、そういった歴史的な経路依存性ある中で、戦後の日本人がいまだに預金が大好きで、投資には及び腰、というのも、なかなか理解が進まないところです。最後に、私には第6章のバブルの理論的解明がとても面白く読めました。

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次に、川口大司[編]『日本の労働市場』(有斐閣) です。コチラの編者も東京大学経済学部の研究者であり、労働経済学の専門家です。本書も学術書であり、我が国の労働市場を中心として幅広い労働経済学のトピックについて一線の研究者がチャプターごとに執筆しています。特に、最後の第Ⅲ部の労働経済分析のフロンティアは類書に例がなく、ノーベル経済学賞を授賞されたサーチ理論から、実験経済学の手法を用いた労働経済学まで、なかなかヨソではお目にかかれない内容かもしれません。労働経済学については、私はいくつか思うところがあり、ポジティブな評価とネガティブな印象とどちらもありますが、まず、ポジティブな方から上げて行くと、やっぱり、経済学の中でデータがもっとも利用しやすい分野だという気がします。逆にいえば、私も雇用を重視するエコノミストなんですが、雇用と労働、それに賃金などは国民生活に直結しており、国民の関心が高く、それだけに各種の調査やデータ蒐集がなされているんだろうと思います。そして、経済学「中華思想」の中でも、特に労働経済学は中華思想的な広がりを持っている分野だという気がします。私なんぞの古い考えでは、労働経済学は野党側の企業とう雇われる側の労働者・雇用者の間で賃金をはじめとする労働条件をめぐって意思決定がなされるマイクロな経済学である、という印象を持っていましたが、生産性や失業率や賃金のマークアップに伴うインフレ率との関係などからマクロkウィ在学の中心課題に連なる一方で、格差・不平等や貧困はもちろん、地域経済問題まで幅広く取り扱える懐の深さを持っています。物理学に大統一理論というのがあって、何種類かの力を統一的に理解する努力がなされているようですが、経済学の大統一理論がもしできるとすれば、その中心は労働経済学かもしれません。ただ、ネガティブな印象がないわけでもなく、それはデータの利用可能性と裏腹の関係もあって、私も労働経済学分野でミンサー型賃金関数の論文を書きましたが、賃金センサスの個票を推計の元データとして利用しています。私レベルのエコノミストでもやっているくらいですので、労働経済学分析では統計の個票を用いる場合が少なくないんですが、そうなると、データへのアクセスがどこまで許容されるか、あるいは、データの利用可能性とともに科学としての再現可能性が担保されるか、といった問題があるような気がします。小保方さんのSTAP細胞と同じです。私の知る限り、論文で用いたデータと分析プログラムをwebサイトで公開して、化学的な再現性、というか、インチキをしていないという証明として用いているエコノミストは少なくないんですが、限られた研究者しか利用可能性のない個票データを分析に用いると、インチキが発生す林泉てぃぶがいくぶんなりとも高まる恐れがあるような気がします。ただ、最後になってしまいましたが、エビデンスに基づく経済政策を考える場合、労働経済学で多用されているようなデータや手法は不可欠であり、今後もこういった方面の経済学研究が進むんだろうとは思いますし、それはそれで評価されるべきとも受け止めています。

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次に、ジェームス K. ガルブレイス『不平等』(明石書店) です。著者はテキサス大学の研究者であり、かの有名なガルブレイスのご子息です。そうある名前ではないので、容易に想像はつくと思います。英語の原題は INEQUALITY であり、2014年の出版です。邦訳タイトルはそのままの直訳です。ということで、経済書なんですが、不平等についていろいろと取りとめもなくエッセイを書き散らしている印象です。真ん中くらいには不平等の測度に関するエッセイもありますし、不平等の解消に向けた政策についても論評を加えていますが、私の印象からすればまとまりなく、相互に矛盾を来しているような部分もあるように感じてしまいました。私にとって少しショックだったのは、ピケティ教授の不平等論に関して穏やかながら反論を加えている点です。特に、資産課税についての見解の不一致は、左派リベラルの中でも学術的な動向によっては格差や不平等に対する考え方がやや違うのは理解できるとしても、明確にこのような形で不平等是正に関する考えが分裂を来す可能性を見せつけられると、新自由主義的な経済学がまだまだ根強く生き残っている中で、少し不安を感じたりするのは私だけでしょうか。最後の方で、ロビー活動や政治献金などによって富が権力に転嫁するという主張が、極めて正しくも、なされているだけに、加えて、賃金や所得の不平等が資産の不平等に蓄積される前に何らかの対策が必要と考えられるだけに、なんとか不平等の是正を早期に政策として結実させていくという大団結の必要性を感じるのは私だけではないような気がします。さらに、拡張クズネッツ曲線を持ち出して、逆U字方ではなくさらにキュービックにN字方に再度反転する可能性を示しつつ、2000年代初めの10年間で不平等が縮小した点については、まだデータが不足するとしても、もう少し分析を加えて欲しかった気がします。内容的に、レベルからして、高校生や大学入学準備の年代、あるいは、大学初学年くらいの理解度で十分に読み解ける内容ですし、それなりの知識は身につくと思いますが、逆に、経験を積んだビジネスマンなどには物足りない印象かもしれません。でも、次へのステップという意味では意味ある読書のような気がします。

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次に、太田康夫『ギガマネー』(日本経済新聞出版社) です。著者は日本経済新聞のジャーナリストです。ということは軽く想像されますが、本書のサブタイトルは『富の支配者たちを狙え』となっており、これを見ても何の本かよく判りません。でも、要するに、世界の大富豪を対象にしたウェルス・マネージメントとか、プライベート・バンキングとか呼ばれるビジネスについて取材した結果が本書で明らかにされています。また、本書にもクレディ・スイスのリポートから引用されているように、いわゆるミリオネアと呼ばれる個人資産100万ドル超の富豪は世界に3000万人あまりいて、この階層が世界の全資産の半分近くを占めています。でも、マネーの世界は少し前まで日本のメガバンクのように、「メガ」の世界だったんですが、今では本書のタイトルのごとく「ギガ」の世界に入りつつあり、ミリオネアからビリオネアを対象とするビジネスの世界ではいっぱいあるようです。逆に、日本の銀行のように大富豪を相手にする資産運用の分野に競争力なく、ミリオネアから1桁ランクダウンした10万ドルくらいの準富豪層を相手のビジネスもあるようです。これくらいであれば、日本のサラリーマンも何とか相手にしてもらえるかもしれません。本書では、プライベート・バンクというか、そもそも銀行の先がけとなった業態を十字軍の留守を守るイタリアに求め、また、スイスや英国の伝統的なプライベート・バンクのビジネスを紹介しつつ、米国で独自に発達したプライベート・バンク、あるいは、米国発で世界に広まったヘッジファンドのビジネスの考察などなど、私のような薄給の公務員には手の届かない大富豪や超大富豪相手の資産運用ビジネスを明らかにしています。もちろん、パナマ文書で世間の目にもさらされたいくつかのビジネス、ないし、犯罪行為の実態も取り上げており、大富豪の資産を取り込むビジネスと、課税対象にしようと試みたり、あるいは、テロを始めとする犯罪行為を取り締まろうと奮闘する政府当局のせめぎあいなども興味深いところです。なお、日本の銀行でこういった富裕層の資産運用のビジネスが伸びないのは、マネーロンダリングなどの取締りを行う警察や課税当局などの「お上」に対して、銀行があまりに素直に情報開示に応じてしまうために、富裕層から信用されないのも一因、との本書の指摘には笑ってしまいました。どうしても統計的な把握は難しいでしょうから、こういった形で多角的に取材した結果を利用するしかないんですが、なかなかうまく取りまとめている気がします。

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次に、小泉和子『くらしの昭和史』(朝日新聞出版) です。著者は生活史の研究者だそうで、本書にもあるように、その昔の自宅を改造した昭和のくらし博物館の館長も務めていますが、私には実態は不明です。ということで、本書はくらしから見た昭和史と住まいから見た昭和史の2部構成となっていますが、第2部はほとんど著者自身の生活史ですので、あまり一般性のある昭和史ではないような気もします。というより、第1部もそれほど一般性があるわけではないものの、第2部になると、ほとんど著者の自伝になっています。第1部は衣食住のうち、住は第2部に譲られているので、衣食を中心に、病気や看護、それに少女や在日の人、さらに、しごとを中心に据えた構成となっています。ほとんど東京の山の手の生活史しかなく、地方の農村はいうに及ばず、東京の下町すらスコープに収めていないので、繰り返しになりますが、とても一般性ある歴史にはなっていないんですが、なかなか興味深い事実もいくつか盛り込まれています。家庭での食事が、個々人に供せられる箱善から、一家で囲むちゃぶ台になり、さらに、畳に座る生活からテーブルに食事を並べて椅子に座る生活に変化するのが昭和の時代ですから、かなり変化は激しいともいえます。もちろん、昭和の前の対象などと比べて長い時代であったともいえます。ですから、戦争に関するトピックがとてもたくさん出て来ます。判らなくもないんですが、やや「過ぎたるは及ばざるがごとし」を思い出してしまいました。戦争の生活史は「過ぎたる」の部分の代表であるとすれば、高度成長期の三種の神器、とか、3Cと称された生活家電の普及は「及ばざる」の典型例ではないかと思います。エコノミストとしては高度成長の中で、農村から都市部に雇用者として人々が移動し、ルイス的な二重経済が解消された点について、生活史の中でもっと追って欲しかった気もしますが、何といっても生活家電、すなわち、洗濯機、冷蔵庫、テレビ、電話、掃除機、アイロン、ヘアドライヤ、などなど、パソコンはたぶん平成になってからですので、職場におけるお仕事よりも家庭における家事の方が、昭和の時代を通じて変化が激しかったんではないか、というのが私の感想ですから、そういった家事に大きな変化をもたらした生活家電に関して、もっと着目すべきではないでしょうか。

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最後に、中川右介『江戸川乱歩と横溝正史』(集英社) です。著者は出版社の代表として音楽家や小説家の写真集やノンフィクションを手がけているようなんですが、不勉強にして私はよく知りません。ということで、タイトル通り、我が国の探偵小説ないし推理小説のいわゆる本格の黎明期の巨人2人、1900年をはさんで数歳違いのこの両巨頭を、盟友として、ライバルとして、お互い認め合い、時に対立しつつある不思議な友人関係も含めて取り上げています。そして、最後の方にはこの2人に、さらに横溝よりも数年遅い生まれの松本清張も絡んできます。特に、本書の表現で面白かったのは、同時代人ではない私には知り得なかった事実ですが、「江戸川乱歩と横溝正史 - 2人を太陽と月に喩えることができるかもしれない。乱歩が旺盛に書いている間、横溝は書かない。横溝が旺盛に書いていると、乱歩は沈黙する。天に太陽と月の両方が見える時間が短いのと同様に、二人がともに旺盛に探偵小説を書いている時期は、ごくごく短い」という一説です。私は知りませんでしたが、そうだったのかもしれません。推理小説、特に本格推理小説という点では、横溝正史の『本陣殺人事件』があまりに衝撃大きく印象的だったですし、私くらいの世代では本書にもある角川書店のメディアミクス、小説と映画のコラボが横溝作品を取り上げて大ヒットしたというのも事実ですが、私は江戸川乱歩の存在は我が国ミステリ界において揺るがないものと考えています。まず、デビューの短編「二銭銅貨」の暗号の謎解きの衝撃性がありますが、何といっても、乱歩のミステリ界への貢献は少年探偵団のシリーズです。私はこの年末年始くらいの読書はポプラ文庫から全26巻出ている少年探偵団のシリーズを読んでみようかと思っていますが、何といっても団塊の世代と、その10年後くらいの生まれの私なんぞの世代に対する乱歩は、この少年探偵団のシリーズの作家、という点に尽きます。その後の横溝正史のメディアミクスの成功も少年探偵団シリーズの読者に対する基礎があってのことではないでしょうか。今から考えれば、小学生の頃に読んだこのシリーズ、明智小五郎と小林少年が率いる少年探偵団に対するところの怪人20面相ないし40面相との対決は、ドラえもんの4次元ポケットから取り出される道具並みに荒唐無稽なシロモノでしたが、小学生や中学生に対する衝撃の大きさやその後の小説や読書に対する姿勢への影響力などから特筆すべきものと考えるべきです。各国のミステリ界に巨人は多くあれど、我が国ミステリ界で江戸川乱歩の地位を不動のものとし、彼をして独特の位置づけを得させているのは、横溝正史はじめほかの作家にはない少年探偵団のシリーズであったといえます。
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2017年11月18日 (土) 11:57:00

今週の読書は経済関連の本も多く計9冊!

今週の読書は経済や経営関係も多く、また、正面切っては健康問題を取り上げながらも、実は経済社会的な不平等とか貧困が健康の背景に存在する、といった指摘の鋭い本を含めて計9冊です。私の読書のベースは少し離れた図書館に、スポーツサイクリングの趣旨も含めて、週末に自転車で乗り付けて本を借りる、というスタイルですので、先週末のように3連休がいいお天気だったりすると、こんなに数を読むハメになったりします。逆に、今日のように土曜日が雨がちだと、来週の読書はショボいものになりかねません。

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まず、白井さゆり『東京五輪後の日本経済』(小学館) です。著者はエコノミストであり、1年半ほど前まで日銀政策委員を務めていたんですが、白川総裁のころの政策委員でしたので黒田総裁になってから金融緩和策に賛成票を投じないケースもあったりして、再任はされませんでした。もともとは国際通貨基金(IMF)のエコノミストなどをしていて、私の専門分野である開発経済学や政府開発援助の分野にも詳しく、私も何度かお話した記憶があるんですが、今はすっかり金融専門家のような立場で日銀政策議員経験者としての価値をフルに活かそうという姿勢をお持ちのようで、それはそれでいいことではないかと思います。ということで、ほぼ1年前にこのブログでも取り上げた前著の『超金融緩和からの脱却』が、その読書感想文でもお示ししましたが、日銀事務局から提示された日銀公式文書をきれいにエディットすれば、前著のような仕上がりになる、という意味で、黒田総裁の指揮下にある現在の日銀金融政策についての適確な解説書になっていた一方で、本書については、よくも悪くもエコノミストとしてのご自分の見方が示されているような気がします。例えば、本書の冒頭、黒田総裁の下での日銀の異次元緩和で景気がよくなった点については、不動産はアパート建設などでバブルっぽい雰囲気を感じつつも、株価についてはピーク時に遠く及ばないのでバブルではない、と直感的な判断を下しています。そうかな、という気もします。そして、これも根拠をお示しになることなく、東京オリンピック・パラリンピックの開催前に金融正常化が始まる、と予言しています。これもそうかもしれません。少なくとも、テイパリングは始まるような気もします。他の論点もいくつか拾おうと試みましたが、どうも雑駁な内容に終止している気がして、前著との差を感じずにはいられませんでした。まあ、その昔の日曜早朝のテレビ番組の「時事放談」くらいの内容であると、期待値を高くせずに読み始めるにはいいかもしれません。

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次に、八代尚宏『働き方改革の経済学』(日本評論社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁出身の経済学者なんですが、何と申しましょうかで、今ごろこんなネオリベラリズム=新自由主義的な労働市場観を露わにした経済書はお目にかかれないような気がします。私はマルクス主義に見切りをつけて長いんですが、それにしても、ここまでむき出しで企業の論理に従った労働観もあり得ないような気がします。基本的に、労働市場改革は雇用の流動性をさらに増進させるものであるというのは判っていますが、本書ではもっぱらそれは資本の論理で企業の利益を高めるためのもののようです。例えば、女性雇用の促進や女性の管理職への登用にしても、女性の能力を活かし女性の生産性を高め幸福感の増進を図るのではなく、本書の著者の考えでは、企業の意思決定に偏りの内容にするためらしく、まあ、男性経営陣に彩りを添えるための方策のような位置づけなのかもしれません。何よりも、景気変動に対する雇用の調整という企業の論理が丸出しにされており、景気変動の際に雇用を守って労働者のスキルの低下を防止するという観点は本書にはまるでありません。特に私が懸念するのは、単なる景気循環における景気後退の期間だけでなく、何らかのショックの際に雇用をどうするかです。本書の著者のように企業の論理を振り回せば、雇用者を簡単に解雇できる制度がよくて、再雇用の際は政府の失業対策や職業訓練でもう一度スキルアップを図ってから企業に雇用されることを想定しているんではないかとすら思えてしまいます。いわゆる長期雇用の下でOJTによる企業スペシフィックなスキルの向上はもう多くを望めないにしても、企業は労働者のスキルアップにはコストをかけずに即戦力の労働者を雇用し、そして、景気が悪化すると、これまた、できるだけコスト小さく解雇できる、という点が本書の力点だろうと思います。そういった企業の論理むき出しの雇用観に対して、労働者のスキルを守り企業とともに労働者が共存共栄できる雇用制度改革の必要が求められているんだと私は思います。それにしても、繰り返しになりますが、企業の論理丸出しのレベルの低い経済学の本を読んでしまった後味の悪さだけが残りました。その昔に、消費者金融の有用性を論じたエコノミストもいましたが、決して消費者金融会社の利益を全面に押し出した論理ではなく、借りる方の流動性制約の緩和などの観点も含まれていて、一見するとそれらしく見えたものですが、本書については労働サイドの利益については、まったく省みることもなく、すべての労働市場改革を企業の利益に向けようとする意図があまりに明らかで、私にはうす気味悪くすら見えます。

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次に、テオ・コレイア『気まぐれ消費者』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社であるアクセンチュアの消費財・サービス業部門の取締役であり、30年超のキャリアがあるそうです。英語のタイトルは The Fluid Consumer であり、邦訳タイトルはかなり意訳しつつもよく意味を捉えているような気もします。なお、タイトルでは "Fluid" を「気まぐれ」と訳し、本文中では「液状」の語を当てています。2017年にドイツで出版されています。ということで、デジタル時代の消費者へのマーケティングについて論じていて、その特徴として、ブランドに対する忠誠が低い点を強調し、何かあれば、すぐにブランドを乗り換える、と主張しています。その原因を精査せずに論を進めていて、それはそれで怖い気もするんですが、インターネットが発達したデジタル時代に、ブランド・ロイヤルティの低い消費者となった大きな原因は情報の過多であろうと私は考えています。すなわち、消費の選択肢が多くなり過ぎているわけです。でも、この消費の選択肢の多さについては個別の企業ではどうすることも出来ませんから、まあ、何か政府の産業政策で強引にブランドの集約が出来ないわけでもないんでしょうが、取りあえず、企業に対する経営コンサルタントとして、ブランドン・ロイヤルティの低い消費者への対策を考えているんだろうという気がします。ただ、デジタル時代の消費者については、リアルな店舗での買い物からネット通販へのシフトを考えると、選択肢の大幅な増加に加えて、ロジスティックへの過度の依存も観察されると私は考えています。すなわち、消費者の選択肢が広がり、今までになかった消費生活が楽しめる一方で、運輸会社の負担が高まり、運輸会社はそれを運転手個人個人に転嫁している気がします。それが、アマゾンが大儲けをして、ヤマト運輸が価格改定に熱心で、運転手への未払い給与がかさんでいる原因のひとつではないでしょうか。そして、もうひとつの問題は、消費のための所得が不十分な水準に低下して行く可能性です。リアルな店舗で在庫を維持するコストよりも、大規模な倉庫で在庫を集中管理してロジスティック会社に輸送を請け負わせる方がコストが安いゆえにネット通販が繁盛しているわけですが、逆から見て、コストが低いということは賃金支払いが小さく消費者の所得が低くなってしまう可能性があるわけで、コストを切り詰めて消費の原資を小さくするという形で、現在の日本で見られるような合成の誤謬がネット時代には大きくなる恐れがあります。

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次に、ダニエル・コーエン『経済成長という呪い』(東洋経済) です。著者はフランスのパリ高等師範学校経済学部長であり、『ル・モンド』論説委員も務めていますが、エコノミストとしての基本はマルクス主義経済学者であり、私は何冊か読んでブログの読書感想文にもアップした記憶があります。フランス語の原題は Le Monde Est Clos et le Désir Infini であり、2015年の出版です。直訳すれば「世界は閉じており、欲望は無限」ということになります。邦訳タイトルは私にはややムリがあるような気もします。今まで私が読んだこの著者の本は作品社から出ているケースが多かった気がしますが、この本は東洋経済という経済のシーンではかなりメジャーな出版社からの発行です。ということで、マルキストにしてはかなり観念的な叙述が多い気もしますが、第1部と第2部と第3部に分かれており、第1部で大雑把な経済史をおさらいした後、第2部では理論的な側面も含めて経済学的な概括を行いつつ、最後に結論に至らず悲観的な結末が提示される、という構成になっているように私には見受けられました。テーマはポスト工業社会の進歩の方向であり、ケインズが予言したような1日3時間労働の社会がやって来そうもない中で、先進国では成長が大きく鈍化し、これから先の生活がどこに向かうのか、という点が関心の中心になります。私も同意しますが、本書ではいわゆるデジタル革命がポスト工業社会の画期的な生産性向上や高成長をもたらさなかったのは、どうやら事実ですし、先進国の多くのエコノミストが長期停滞 secular stagnation を話題にしているのも確かです。私にはよく判らないんですが、成長を諦めて何らかの別の価値観を基にした生活に「大転換」すべき、ということなんでしょうか。本書の著者は、定住と農業の開始といわゆる産業革命を2つのカギカッコ付きの「大転換」と考えているようですし、次の3番目の「大転換」はマルクス主義的な社会主義革命だったりするんでしょうか。それとも、デジタル革命ですらなしえなかった「大転換」が、とうとう、AIやロボットによるシンギュラリティで実現されるんでしょうか。そこまで本書の著者は踏み込んでいませんが、本書のような観念的で結論を明示することなく、悲観的っぽい方向性だけを示す本は日本人が大好きな気もします。

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次に、マイケル・マーモット『健康格差』(日本評論社) です。今週の読書ナンバーワンです。著者は英国生まれの研究者であり、世界医師会長を務めたり、女王から叙爵されたりしているエスタブリッシュメントの医師です。英語の原題は The Health Gap であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳です。2015年の出版です。一応、医学博士が書いた健康格差に関する論考ながら、ほとんど経済書と考えてもよさそうな気がします。すなわち、本書でも強調されているように、決して病原菌やウィルスへの対処も健康維持に必要であり、銃刀などの規制を強化すれば死者やけが人が減る、といった事実を否定するつもりは毛頭ありませんが、健康に関しては経済社会的なバックグラウンドが重要である点をもっと我々は知るべきだと強く強く実感しました。開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、大いに共感する部分がある本でした。喫煙はもちろん、過度の飲酒や運動不足などは健康を損ねるという認識は、かなり一般に広まっていることと思いますが、じつは、禁煙し飲酒を適度な範囲でおさめ、栄養バランスのよい食生活とストレスの少ない職業生活・家庭生活を送り、適度な運動を定期的に行うためには、それが途上国の国民ではなく、先進国においてであっても、それなりの所得の裏付けもしくは何らかの補助がなければ不可能だという事実から目を背けるべきではありません。その意味で、健康格差のバックグラウンドには所得の格差が存在し、あるいは、不健康の裏側には貧困が潜んでいると考えるべきです。もちろん、本書の著者は所得の格差を許容しないとは主張しませんが、所得が不平等であっても健康状態に関しては格差のない政策を探るべきであると強調しています。そして、本書の表紙見開きにあるように、世界中を巡り回っていろいろな健康に関する実例を収集し、判りやすく本書でひも解いています。エコノミストとしては、健康と富の因果関係について、p.111 で展開されている議論、すなわち、健康は富への投資である方が、その逆よりも方程式でモデル化しやすい、というあまり高尚ではないイデオロギーを少し恥ずかしく思わないでもないんですが、グレート・ギャッツビー曲線による貧困の世代間の継承、失業の健康への悪影響などなど、経済学を本書では後半に応用している点も忘れるべきではないと考えています。最後に、気になる点をひとつ。著者のグループは英国ロンドンのホワイトホール研究で、数多くの公務員を対象にした健康調査を実施しており、やはり裁量が大きい上級公務員は健康になりやすいバイアスがあると確認していますが、逆に、私のように出世できなかった公務員は裁量が小さい分、もっと出世した上級公務員よりも寿命が少し短かったりするんでしょうか?

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次に、スヴェン・スタインモ『政治経済の生態学』(岩波書店) です。著者は米国の政治学者なんですが、かなり経済学の分野でも有名で、その際は、公共経済学ということになるのかもしれません。実は、私が2008-10年に地方国立大学の経済学部教授として出向していた折に同僚だった財政学の先生との共著がこの著者には何本かあります。何と申しましょうかで、その同僚財政学の先生が准教授から教授に昇格なさる際の資格審査委員を、誠に僭越ながら、私が末席を占めていたものですから、その先生から提出された、か、あるいは、私か誰かが独自にネットで調べたか、の業績リストにあったような気がします。官界から学界に出向の形で経済学部の教授ポストに就いて、准教授の先生の教授昇格の資格審査をするなんて、今から考えると、誠に僭越極まりなく恥ずかしい限りです。本題に戻って、本書の英語の原題は The Evolution of Modern State であり、2010年の出版です。ということで、大きく脱線してしまいましたが、本書は英語の原タイトル通り、進化生物学をスウェーデン、日本、米国の3国に応用し、制度歴史学派の立場から政府や公共経済などを解き明かそうとの試みです。どちらかといえば、私はその試みは成功しているとも思えないんですが、少なくとも、学術初夏ならとても平易で判りやすい内容です。大雑把に、スウェーデンは北欧の高福祉国であり、その財源の必要性から高負担でもあると考えられています。そして、米国はその逆で、政府が社会保障により格差是正や最低限の国民生活を保証するのではなく、自己責任で生活するように求めるワイルドな国であり、日本はその中間という考えは必ずしも成立しませんが、税金を社会福祉ではなく土木と建設で国民に還元する土建国家、と本書ではみなされています。日本の高度成長期から続く二重経済とその解消に関する見方は秀逸であり、バブル経済崩壊後の1990年台の「失われた10年」についても的確に分析されており、まさに、進化生物学的な解明が判りやすくなされています。ただし、私の核心なんですが、本書でも、米国はもちろん、日本もスウェーデンにはなれない、という点は忘れるべきではありません。進化論的に日本とスウェーデンはもう分岐してしまったんですから、日本は独自に経済危機からの脱却や政府債務の解消などの問題解決の道を探らねばなりません。スウェーデンがどこまで参考になるかについては、大いにポジティブに考えるエコノミストもいますし、私も何人か知っていますが、私自身は疑問であると受け止めています。最後に、学術書なんですから、出版社のwebサイトに索引とともにpdfで置いてあるとはいえ、本文や注にある参考文献のリストは欲しかった気がします。

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次に、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』(みすず書房) です。著者は米国カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者であり、政治学者です。英語の原題は Undoing the Demos であり、2015年の出版です。なお、訳者あとがきで Demos とは「『市民』『人民』あるいは『民衆』」とされているんですが、私の不確かな知識によれば、むしろ、家族よりは大きくて部族くらいの自治単位ではなかったかと記憶しています。違っているかもしれません。ということで、経済のひとつの考え方だと思われてきた新自由主義=ネオリベラリズムが民主主義を破壊するか、という論考です。その中心論点は、要するに、すべてを経済に還元する、というのが著者の結論のように見受けましたが、基本となるのがフーコーの考え方ですので、まあ、何と申しましょうかで、フランス的なポスト構造主義の影響なども残っており、非常に難解な部分がいくつか見受けられ、政治学という私の専門外の領域でもあり、必ずしも正しく解釈したかの自信はありません。マルクス主義の考えも色濃く反映されています。私のような開発経済学をひとつの専門とするエコノミストには、新自由主義といえば、ワシントン・コンセンサスが思い浮かびますし、一般的な経済学にとっても、規制緩和などで政府の市場介入を縮減するという意味で、あるいは、まったく逆に見えるものの、知的財産権の強烈な保護という別の経済政策も含めて、リバタリアンに近いような経済政策を、というか、経済政策の欠落を主張する考え方です。本書の例をいくつか引けば、教育投資で教養教育=リベラル・アーツから職業的な実務教育を重視してリターンを考えたり、人的資本として人間を稼ぎの元と考えたりするわけです。私はかなりの程度に本書の考えを理解するんですが、ひとつだけ大きな疑問があり、本書では新自由主義がいかに民主主義を破壊するかという点はいいとして、どのようなルートで破壊するかについて、ガバナンスと法の秩序と人的資本及び教育の3点を柱と考えているようなんですが、私は新自由主義的な経済政策の帰結としての格差の拡大が民主主義を破壊する点も考慮に入れるべきだと考えています。この点がスッポリと抜け落ちているのが不思議でなりません。

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次に、川端基夫『消費大陸アジア』(ちくま新書) です。著者は関西学院大学の研究者であり、アジア市場論などの専門家です。経済学というよりは経営学なのかもしれません。アジアでの工場立地などの生産活動ではなく、日本企業をはじめとするアジア市場での消費財やサービスの提供をテーマとしています。マクドナルドのようなマニュアルに基づいた世界中すべての国や地域での同一の消費財やサービスを提供する標準化戦略=グローバル戦略とともに、世界各国の実情に適合させた適応化戦略ローカル戦略を提唱しています。ですから、インドネシアでは日本市場におけるスポーツ時の喉の渇きを癒やす飲料としてのポカリスエットの販売戦略ではなく、デング熱に罹患した際などに準医療的な目的での渇きを緩和する飲料としての販売戦略での成功などの実例が本書には集められています。私も倅どもが小さいころに一家そろってインドネシアはジャカルタに3年間住まいし、ジャカルタに限らず、シンガポールやタイやマレーシアやと、東南アジア一帯を見て回った記憶がありますので、とても共感しつつ読み進むことが出来ました。マクドナルドの例を敷衍すると、年齢がバレてしまうものの、マクドナルドが京都に出来た、というか、京都で流行り出したのは、私が大学生になってからくらいだと記憶しており、同志社大学の斜向かいの今出川通り沿いのマクドナルドによくいったことを覚えていて、今では日本はマクドナルドは中高生が気軽に入れて食欲を満たすことのできる場でしかありませんが、たしかに、所得水準の違うインドネシアではマクドナルドに行くというのは、記念日とまではいわないにしても、ちょっと気取った出来事だと受け止められていた気がします。また、本書にもありますが、サンティアゴで外交官をしていた折にランチで行った日本食のお店で、ラーメンは明らかにスープの一種と現地人に認識されていたのも記憶しています。ですから、日本とは明らかに異なる意味付けを持って、日本と同じ消費財やサービスが受け入れられている、という実感があります。また、発展途上国から新興国に進化したアジア諸国で、中間層の拡大が広範に観察され、それに伴う消費活動の変化も実感できるのも事実です。私は経営には疎くて、どうすれば現地で受け入れられて売れるのかは判りかねますが、本書で指摘するように、確かに、日本とはビミョーに異なる意味づけでローカライズすれば、それにより受け入れられる余地は大いに広がるのだろうという点は理解できます。

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最後に、秋吉理香子ほか『共犯関係』(角川春樹事務所) です。5編の短編、もちろん、「共犯」をキーワードにした短編が収録されています。すなわち、秋吉理香子「Partners in Crime」、友井羊「Forever Friends」、似鳥鶏「美しき余命」、乾くるみ「カフカ的」、芦沢央「代償」です。なかなかの人気作家の競作です。中でも、3番目の似鳥鶏「美しき余命」が出色です。両親と妹を交通事故で亡くし、自身もその交通事故で余命のハッキリした障害、というか、病気に罹患した中学生の少年を主人公に、その中学生を引き取った親戚一家を舞台にしています。余命がハッキリしていた時には、とても親切で優しかった親戚一家なんですが、少年が奇跡にあって病気から回復したら、徐々に熱狂が覚めた、というか、最後は手のひらを返したようになってしまい、ラストはよほど鈍感でない限り読者にも想像できるものの、なかなか衝撃の締めくくりです。ほかの作品も、粗削りだったり、ミステリというよりはホラーだったりしますが、なかなか楽しめます。すなわち、W不倫が思いがけないラストで終る「Partners in Crime」、夏祭りの重要な役目をほっぽり出して少女が少年とともに街を出てしまう「Forever Friends」、高校時代の友人と再会した挙句に交換殺人を持ちかけられるホラー仕立ての「カフカ的」、自信作を書き上げたミステリ作家が妻に読んでもらうと意外な事実が判明する「代償」、といったラインナップです。
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2017年11月11日 (土) 10:13:00

今週の読書も経済書は少ないながらも教養書や小説をがんばって計8冊!

今週は少し仕事の方に余裕があり、夜はせっせと読書に励んでしまいました。経済書らしい経済書は読まなかった気がしますが、地政学をはじめとして教養書・専門書の方はそれなりに読みましたし、小説と新書も2冊ずつ借りて読みました。計8冊、以下の通りです。

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まず、山田謙次『社会保障クライシス』(東洋経済) です。著者は野村総研で社会保障や医療・介護関係のコンサルタントを務めています。まあ、社会保障については、もっとも大口で所得に直接に影響を及ぼす年金ばかりが注目を集めていますが、本書では医療や介護に目を配り、2025年にはいわゆる団塊の世代がすべて75歳超になって後期高齢者になることから、現在の歳入構造のままでは政府財政が破たんするリスクがある、と警告を発しています。本書の冒頭で、そもそも、として、現在の政府の歳入と歳出の総額を上げていて、要するに、歳入、というか、国民の側から見た税負担はかなり低く抑えられている一方で、歳出は社会保障を中心に北欧などの高福祉国並みの規模になっている点を明らかにしています。一時、政府財政について「ワニの口」と称されていましたが、現在でも歳入と歳出のギャップは縮小しておらず、さらに、2025年には団塊の世代がすべて75歳超となり、医療と介護を中心に大きな公的負担の増加が見込まれる、と結論しています。200ページ余りの短い論考ですから、要約していえばそれだけです。本書の特徴のひとつとして、かなり判りやすく数字をキチンと上げている点があり、例えば、75歳超の後期高齢者になると、医療・介護費用がこれまでとは段違いに多くなる点については、医療費は全国民の平均は年間30万円程度である一方で、70歳で80万円、80歳になると90万円に上昇したり、加えて、介護が必要になる人の比率は、65歳では3%程度だが、75歳を過ぎると15%に上がり、80歳で30%、90歳で70%となる、などと解説を加えています。そして、恐ろしいのは、バブル崩壊後の就職氷河期・超氷河期に大学卒業がブチ当たり、正規の職を得られずに不本意非正規職員にとどまっている世代に、この大きな負担がシワ寄せされることです。そして、その上で、本書の著者はいくつかの解決策を提示しており、最大の解決策として国民負担率上昇の容認を上げています。明示的に、国民負担率をGDP比で60%まで許容すべきであると主張しているわけです。この負担サイドの解決策に加えて、給付サイドでは、現在のように自由に医療機関を選んで受診することを止めて、かかりつけ医の指示で受診する医療機関を指定するなど、医療提供体制の縮小を受忍する必要がある、としています。私の従来からの指摘として、マイクロな意思決定の歪みがマクロの不均衡につながっている点があり、それを付け加えておきたいと思います。本書とは直接の関係ありませんが、例えば、日本人は勤勉でよく働いて、統計には表れない生産性の高さを持っている一方で、企業サイドの資本の論理から非正規雇用を拡大して、個人及びマクロの労働力のデスキリングが進んでいるのは明白なんですが、少子高齢化についても、かなり近い減少を感じ取ることができます。すなわち、少子化の一員として、子どもや家族に対してはとても政府は厳しくて、社会保障の分け前もほとんど及ばないという事実がある一方で、高齢者にはとても手厚い社会保障が給付され、高齢者にオトクな経済社会体系ができ上がっています。子どもを出産して子育てするのに不利な社会経済である一方で、高齢者には優しい社会経済であるわけですから、少子高齢化がゆっくりと進むのは当然です。統計などでエビデンスを求めるのはムリなんですが、若者が東京に集まるのと同じ原理で、国民が子どもを産まなくなって高齢者に突き進む現象が観察されるわけですから、シルバー・デモクラシーに抗して社会保障のリソースを高齢者から子どもや家族に振り向ける政策が求められていると私は考えています。

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次に、高橋真理子『重力波発見!』(新潮選書) です。著者は東大理学部を卒業した朝日新聞の科学ジャーナリスト、なんですが、定年近い私よりもさらに年長そうなので、かなりのベテランなんだろうと思います。タイトル通りの内容で、約100年前にアインシュタインの一般相対性理論から予想された波である重力波についての解説です。そして、その前提として、ニュートンから始まる古典物理学や天文学、もちろん、アインシュタインの相対性理論から時間や暦の理論まで、一通りの基礎的な知識も前半部分で展開され、私のような専門外のシロートにも判りやすく工夫されている気がします。科学ジャーナリストとして、一般読者の受けがいいのは宇宙論と進化論であるとズバリといい切り、私もそうかという気がしてしまいます。重力波がどんなものかが分かれば、宇宙の成り立ちが理解できるといわれている点は理解した気になっていますが、誠に残念ながら、私には重力波の観測がどこまで重要な科学的事業であるかは判断できず、せいぜい、ノーベル賞に値する事業なんだと受け止めるくらいです。でも、重力波の基となる時空の歪み、そして、その時空とは何かについて、少しは理解が進んだ気がします。時間については、本書にもあるように、その昔は世界中で不定時だったわけで、日本の例なら、夜明けとともに日付が変わり、日暮れまでを等分していたわけです。もちろん、夜は夜で等分されていましたから、日の長い夏と逆の冬では時間の長さが違っていたわけですが、それは相対論的な違いではありません。それから、暦については、まさに権力の賜物であり、『天地明察』にある通りで、ユリウス暦とはローマ皇帝の権力の象徴でしょうし、グレゴリオ暦からは欧州中世における教会の知性と権力をうかがい知ることができます。なお、どうでもいいことながら、何かで読んだ不正確な記憶ながら、その昔は、というか、ローマ時代の前は月は1年に10か月だったところ、ひと月30日くらいにそろえるために、無理やりに1年12か月にしたらしいといわれています。2か月不足するので、7月にはジュリアス・シーザーの名が、8月にはアウグストス・オクタビアヌスが入れ込まれています。英語にも名残りがありますが、9月のSeptemberは明らかに「7」ですし、10月のOctoberも「8」です。タコをオクトパスと英語でいうのは足が8本だからです。さらにどうでもいいことながら、日本の数字の数え方は中国の影響で10進法ですが、英語は12進法で13からは10+3、というか、3+10のように表現しますが、ラテン語では15進法です。16から10+6で表現します。1年の月数を12としたのはひと月の日数が30日という区切りなんでしょうが、それをローマ時代に決めた後、その当時としては後進地域だった英語圏で数字の数え方が固まったような気がしないでもありません。たぶん、それまで英語圏では数字の数え方はとてもいい加減だったのではないかと勝手に想像しています。最後の最後に、私が知る限り、世界のかなり多くの言語圏で日本語でいう「新月」が誕生の意味、まさに「新しい」という意味で捉えられています。英語ではNew Moonといいますし、ラテン語でもご同様です。私はこの年になってもまだ知りませんが、満月を「新しい」と受け取る民族がどこかにいるような気もします。最後に、本書の書評に立ち戻って、なかなか私のようなシロートにも判りやすい良書だと思います。何かの折に触れた著名な物理学者、典型はニュートンとアインシュタインですが、も頻出して親しみを覚えるのは私だけではないような気がします。

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次に、ジェイムズ・スタヴリディス『海の地政学』(早川書房) です。著者は米国海軍の提督であり、NATO最高司令官も務めた海軍軍人出身です。もう一線を引退していますが、さすがに国際機関でも活躍しただけあって該博な地政学的センスは引けを取りません。どこまでホントか私は知りませんが、ヒラリー・クリントン上院議員が大統領候補となる際の副大統領候補最終6人にまで残り、また、トランプ新米国政権からは、国務長官ないしは国家情報長官のポストをと打診されたが断った、とのウワサもあったりするようです。ということで、本書は、まず、太平洋と大西洋から始まって、いくつかの地政学的に重要な海洋について歴史をたどっています。すなわち、地中海の覇権をめぐる古典古代におけるトルコとギリシア、あるいは、ギリシア諸国間、また、ローマとカルタゴなどの海戦、コロンブスやマゼランらに代表される大航海による新大陸などの発見、前世紀における太平洋を舞台にした日米の艦隊戦、台頭する中国や核・ミサイル開発を進める北朝鮮の動向などなど、古今東西の海事史に照らして地政学の観点から現下の国際情勢を見定め、安全保障にとどまらず、通商、資源・エネルギー、環境面にも目を配りつつ、海洋がいかに人類史を動かし、今後も重要であり続けるかを説き明かそうと試みています。地政学的な観点からは、いわゆるシーパワーとランドパワーがあり、日本はほぼほぼ後者になろうかと思うんですが、私なんぞも知らないことに、本書の著者によれば、日本は陸上自衛隊の支出を減らし、海上自衛隊の支出を増やしているそうです。また、専門外の私には及びもつかなかった視点として北極海の地政学的な重要性、特に、単純にこのまま地球温暖化が進むとすれば、2040-50年ころのは北極海がオープンな海になる可能性も否定できず、その地政学的な位置づけも論じています。そして、最後はシーパワーの重要性を強調するわけですが、「海を制するものは世界を制する」という安全保障の観点一点張りな論調ではなく、海を「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」と捉えて、世界全体のネットワーク協力を勧めて締めくくっていたりします。基本的に、老人の回顧録的なエッセイなんですが、語っている内容は豊富です。ただ、最後に、基本的に米国の相対的な国力が低下し、平和維持活動などの「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」を提供することが難しくなった現状を踏まえているんでしょうが、米国が関与したベトナム戦争は「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」の提供だったのかどうかの視点はありません。当然ですが。

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次に、日本安全保障戦略研究所[編著]『中国の海洋侵出を抑え込む』(国書刊行会) です。著者は何人かいますが、防衛相や自衛隊関係の人ではないかと思います。タイトル通りに、いかにして中国の海洋進出を抑えるか、がテーマなんですが、決して日本単独ではなく、安保条約を結んでいる同盟国の米国はもちろん、自由と民主主義や法による統治などの価値観を同じくするオーストラリアやインド、さらには、ASEAN諸国も含めて、東アジアないしアジア広域の問題として取り上げています。そして、結論を先取りすれば、要するに、米国や世界の国連軍などの介入を待てる短期間は持ちこたえられるように軍備を拡大するとともに、有利な地政学的状況を作り出しておく、ということで、当然といえば当然の肩すかし回答なんですが、それに至る事実関係がそれなりに参考になるような気もします。例えば、世界とアジア・太平洋・インド地域の軍事バランス、中国周辺主要国の対中関係の現状、米国の対中軍事戦略および 作戦構想、さらに、中国の東シナ海と南シナ海における軍事力と戦略などに関して、私のような専門外のエコノミストには初出の気がします。お恥ずかしい話ですが、米国のリバランスとピボットが同じ意味で、欧州からアジアに戦略的リソースをシフトすることだとは私は知りませんでした。ただ、単に中国のことを考えればいいというものでもなく、自由と民主主義のサイドにいないロシアと、何といっても北朝鮮がかく乱要因として存在しており、なかなか先を読み切れないのも困りものです。最後に、現象面としては、尖閣諸島の例なんかを目の当たりにして、中国の海洋進出はとても判りやすいんですが、さらに突っ込んだ分析として、予防のためもあって、どうして中国が海洋進出するのか、という謎にも取り組んで欲しい気がします。本書では、中華帝国の再興くらいの誠に心許ない観念論で乗り切ろうとしているんですが、唯物論的に何の必要があって中国が海洋進出を試みているのか、エネルギーをはじめとする資源なのか、あるいは、他に経済外要因も含めて何かあるのか、私は興味があります。それにしても、専門外の私にの能力・理解力不足から、とても難しげな本だった気がします。

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次に、長岡弘樹『血縁』(集英社) です。著者は警察を舞台にしたミステリが人気の売れっ子作家です。私はこの作者の代表作のひとつである『傍聞き』や『教場』などを読んだことがあります。ということで、この作品は血縁や家族に関する短編ミステリ7編、すなわち、「文字盤」、「苦いカクテル」、「32-2」、「オンブタイ」、表題作の「血縁」、「ラストストロー」、「黄色い風船」が収録された短編集です。3作目の「オンブタイ」は何かのアンソロジーに収録されているのを読んだ記憶がありますので、今回はパスしました。冒頭作のタイトルである「文字盤」とは、言語障害者が意思表示のために使うコミュニケーション支援道具だそうで、コンビニ強盗の解決に役立ったりもします。次の「苦いカクテル」と「32-2」は、どちらも法律問題を題材にしており、前者はかつて読んだことのある三沢陽一の『致死量未満の殺人』とおなじようなストーリーで、後者は相続に絡んで推定死亡時刻を定めた民法の条文です。「オンブタイ」を飛ばして、「血縁」はミステリというよりホラーに近く、交換殺人を取り上げています。でも、姉が妹を亡きものとしようとする動機が私にはイマイチ理解不能でした。最後の2作「ラストストロー」と「黄色い風船」はいずれも刑務官、ないし、刑務官退職者が主人公で、なかなか含蓄鋭いストーリーです。「32-2」、「オンブタイ」、「血縁」をはじめとして、どうもイヤ味な人物が続々と登場し、読後感はそれほどよくなかった気がしますし、いつものことながら、いわゆる本格ミステリではなく、状況証拠の積み上げで確率的に犯人を指し示すのがこの作者の作品の特徴のひとつですから、やや物足りない読後感も同時にあったりします。殺人事件については、現実社会で観察される殺人は、この作品にあるように、血縁、というか、家族内での事件がもっとも、かつ、飛び抜けて多いといいます。まあ、座間の事件のようなのはレアケースなわけですので、この作品はかなり現実に即した、とはいわないまでも、現実的なプロットなのかもしれませんが、家族で殺し合う作品がいくつか含まれている分、読後感は悪いのかもしれません。

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次に、相場英雄『トップリーグ』(角川春樹事務所) です。著者は売れっ子のエンタメ作家です。そして、この作品では、役所の名前以外はすべて仮名、というか、架空の名前なんですが、テレビのニュースや新聞の報道にそれなりに接していれば、読めば自然と理解できるようになっています。三田電気という仮名で東芝の経理操作事件を取り上げた『不発弾』と題された前作から続いて、総理大臣は芦田首相ということなので、まあ、何と申しましょうかで、同じシリーズといえなくもありませんが、この作品では、戦後最大の疑獄のひとつであるロッキード事件が題材に取られています。田中元総理が渦中の人となり、商社のルートや右翼のルートなどの3ルートがあり、米国発の汚職事件で我が国の内閣が吹っ飛んだ事件でした。そのロッキード事件を背景に、2人のジャーナリストを主人公に、そして、現在の安倍内閣の官房長官を政界の要の人物に据え、物語は進みます。軽く想像される通り、ロッキード事件で解明され切らなかった右翼のルートが現在の政府首脳まで連綿と連なっている、という設定です。そして、タイトルのトップリーグとは、決して、ラグビーのリーグ戦ではなく、政治家に食い込んでいくジャーナリストの中でも、特に便宜を図ってもらえるインナーサークルの構成者と考えておけばよさそうですが、ラストでそのトップリーグにも、政界らしくというか何というか、表と裏があることが理解されます。命の危険まで感じながら取材と裏付けを続けるジャーナリストとアメとムチで迫る政界トップ、さらに、癒着といわれつつも情報を取るために政治家に密着するジャーナリスト、どこまでホントでどこからフィクションなのか、私ごときにはまったく判りません。まあ、キャリアの国家公務員でありながら、いわゆる高級官僚まで出世も出来ず、霞が関や永田町の上っ面だけしか私は知りませんのでムリもありません。そして、この作品の最大の特徴のひとつは、作者がラストをリドル・ストーリーに仕上げていることです。ストックトンの「女か虎か?」で有名な終わり方なんですが、取材と裏付けを進めた主人公のジャーナリストがアメとムチで迫る政府首脳に対して、報道するのか、あるいは、握り潰すのか、ラストが明らかにされていません。まあ、報道する道が選ばれれば、現実性に対する疑問が生じますし、逆に、握り潰す道が選ばれれば、ジャーナリストとしての矜持の問題が浮上します。いずれにせよ、どちらの結末にしようとも、一定割合の読者から疑問が呈されることになる可能性があり、その意味で無難な終わり方なのかもしれませんが、小説の作者として、何らかの結末を提示する勇気も欲しかった気もします。評価の分かれる終わり方と見なされるかもしれません。

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次に、古谷経衡『「意識高い系」の研究』(文春新書) です。著者は論評活動をしているライターのようで、多数の著書があるらしいですが、私は初めて読みました。なかなか、簡潔かつ的確に要点を把握しており、それを、実例に即して展開していることから、私のような意識の低い読者にもよく理解できた気がします。ただ、私は「系」という感じ、というか、言葉は、英語でいうシステムであって、太陽に対する太陽系のように理解しており、本書のように何かの接尾辞として「もどき」を表現するのは慣れていなかったので、最初は少し戸惑った気がします。本書では「意識高い系」の生態や考え方を批判的に分析していますが、まず、その特徴として、いわゆるリア充との対比を試みていて、リア充がスクール・カースト上で支配階級に属し、それゆえに、土地を離れる必要もなく、地元密着の土着系(この「系」はシステムであって、もどきではない)であるのに対して、意識高い系はスクール・カーストでは中途階級であったのが最大の特徴で、それゆえに、リセットのために上京したり、あるいは、もともと東京であっても大学入学を機にリセットする下剋上的な姿勢がある、というもので、さらに加えて、意識高い系は具体的なものを忌避して抽象的なイメージに逃げ込み、泥臭く努力する姿勢を嫌う、という点を上げています。そして、当然のことながら、事故に対する主観的な評価が、周囲からの客観的な評価に比較してべらぼうに高い、という点は忘れるわけにはいきません。もともとは、2008年のリーマン・ショック後の2009年の就職戦線に出て来た一部大学生のグループらしいんですが、私の周囲の中年に達したビジネスマンにも同じような傾向を持つ人物は決していないわけではないような気もします。私自身は世代的にSNSで自分のキャリアを盛るようなことを、SNSがなかったという意味でそもそも出来なかったわけですし、一応、小さな進学校の弱小とはいえ運動部の主将を務め、成績は冴えませんでしたが、スクール・カーストの中途階級ではなかったように思います。かといって、生まれ育った京都の地から上京して就職して、そろそろ定年を迎えようというわけですから、リア充でもありません。ただ、泥臭く努力することはもう出来ない年齢に達した気もします。たぶん、我が家の本家筋で、私と同じ世代の従弟が京大医学部を出て医者をやっているんですが、彼なんぞが本書でいう土着リア充の典型ではないかという気もします。それにしても、ハイカルの文学やエッセイだけでなく、サブカルのマンガや映画、もちろん、SNSをはじめとするネット情報など、とてもたんねんに渉猟して情報を集めた上での、なかなか鋭い指摘をいくつか含む分析を展開した本だった気がします。私は新書は中途半端な気がして、あまり読まないんですが、こういった本はとても興味深く読めました。

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最後に、旦部幸博『珈琲の世界史』(講談社現代新書) です。著者はバイオ系の研究者であり、この私のブログの昨年2016年5月14日付けの読書感想文で取り上げたブルーバックスの『コーヒーの科学』の著者でもあります。ということで、タイトル通りに、コーヒーの歴史をひも解いています。何となくのイメージながら、緑茶や紅茶などのお茶、あるいは、お酒という名称で一括りにしたアルコール飲料などに比べて、コーヒーはかなり歴史が浅い印象があります。本書でも起源はともかく、歴史としてはせいぜい数百年、アフリカのエチオピアを起源に、欧州からインドネシアや米州大陸をはじめとして世界各地に広まっています。Out of Africa というタイトルの映画がありましたが、ホモ・サピエンスの我々現生人類と同じでアフリカから世界に広まった飲み物です。タイトルは世界史なんですが、高校の社会かよろしく、1章を割いて日本史も語られています。著者によれば、日本におけるコーヒーはガラパゴスのように独自の進化を遂げているようです。そして、前世紀終わりから21世紀にかけてはスターバックスなどのスペシャルティ・コーヒーの時代に入ります。私はコーヒーはかなり好きで、京都出身ですのでウィンナ・コーヒーで有名なイノダがコーヒーショップとして馴染みがあるんですが、いわゆるチェーンの喫茶店としては、ドメなチェーンとして古くはUCC上島珈琲、今ではコメダ珈琲や星乃珈琲など、我が家の周囲にもいくつか喫茶店があります。もちろん、海外資本としてはスターバックスが有名で、青山在住のころには徒歩圏内に3-4軒もあったりしました。こういった喫茶店、カフェに入ってひたすら読書したりしています。また、子供達がジャカルタ育ちなもので、温かい飲み物を飲むのは我が家では女房だけで、よく見かけるタワー型の魔法瓶すらなく、子供達や私は冷たい飲み物限定だったりするんですが、少なくとも私はオフィスではホットのコーヒーを飲みます。1日2~3杯は飲むような気がします。本書の著者も冒頭に書いていますが、歴史だけでなく、好きなコーヒーのうんちく話を少し知っていれば、プラセボ効果よろしくコーヒーがさらにおいしくなるような気がします。
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2017年11月04日 (土) 12:19:00

今週の読書はなぜか大量に8冊を読み切る!

台風が来なかった週末に、久し振りに自転車で図書館を回りました。今週の読書はなぜか大量に8冊に上っています。以下の通りです。

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まず、ポール・メイソン『ポストキャピタリズム』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストです。かなりの年輩ではないかと読んでいて感じました。英語の原題は POSTCAPITALISM であり、邦訳タイトルはそのまんまです。原書は2015年の出版です。ということで、当然ながら、資本主義を生産様式として捉え、単なる市場における資源配分という経済学的な側面だけではなく、生産を中心とする社会的なシステムとして考えれば、資本主義の後釜はすでに250年ほど前にマルクスが提唱したごとく社会主義であり、さらのその先には共産主義が控えている、と考えられなくもありませんが、1990年代に入ってソ連が崩壊し、中国は社会主義なのか、という疑問がある中で、もはや、マルクス的な社会主義、というか、その移行過程についてはかなりの程度に否定されたと考えるべきです。ただし、本書では、古典派経済学のスミスやリカード、あるいは、マルクス的な労働価値説を援用しつつ、最終第10章で提唱されているように、「プロジェクト・ゼロ」=資本主義以後の世界として、限界費用ゼロに基づく新しいポスト資本主義の経済を描き出しています。すなわち、機械や製品の製造コストは限界的にゼロであり、労働時間も限りなくゼロに近づくことから、生活必需品や公共サービスも無料にし、民営化をやめ、国有化へ移行した上で、公共インフラを低コストで提供し、単なる賃金上昇よりも公平な財の再分配を重視し、さらに、ベーシック・インカムで最低限の生活を保障するとともに、劣悪な仕事を駆逐し、並行通貨や時間銀行、協同組合、自己管理型のオンライン空間などを促しつつ、経済活動に信用貸しや貨幣そのものが占める役割がずっと小さくなる社会の実現を目指す、としています。資本論全3巻をその昔に読破し、その他のマルクス主義文献もいくつかはひも解いた私から見て、かなりユートピアンな内容だという気もします。少し前に流行った単なるインセンティブによって、このような経済社会が資本主義に続いて自然発生的に実現するハズもなく、だから、マルクスは暴力革命とその後のプロレタリアート独裁を主張したわけで、要は、移行の問題ではなかろうかという気もします。私の歴史観からしても、歴史は円環的ではなく一直線に進み、生産力の向上の結果、かなり多数の財・サービスの価格がゼロになる経済社会は、確かに、近い将来に見通せる段階まで来ています。マルクス的な世界に近い気もします。ただ、それをどのように実現し、資本主義からポスト資本主義にどう移行するか、私はまだ決定打を持っていません。

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次に、朱寧『中国バブルはなぜつぶれないのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、中国の上海交通大学の研究者であり、行動ファイナンス、投資論、コーポレートファイナンス、アジア金融市場論を専門としているようです。原典は中国語で書かれており、邦訳書は英語版からの翻訳だそうです。中国語の原題は『剛性泡沫』であり、2016年の出版です。シラー教授が序文を寄稿しています。ということで、現在の中国経済のバブルについて、株式市場、土地神話に始まって、その他の金融資産市場及び実物資産市場における通常の価格決定メカニズムでは合理的な説明の出来な異様な資産価格形成について、そして、その広がりについて概観しつつ、そのバブルの原因について分析を加えています。すなわち、共産党が指導する中央政府が主導し、地方政府、国有銀行、国有企業、民間経済界も加わって、合成の誤謬を含みつつも各地方政府における経済成長を最大の目標とし、たとえ資産市場でバブルが発生していたとしても、それを政府が暗黙に保証し、しかも、「大きすぎてつぶせない」仕組みまで動員して、バブルがどんどん膨らんで行く様子が活写されています。特に、私の印象に残ったのは、事業や組織を生産することは「悪」であり、倒産・破産したり、債務支払いをデフォルトするのは大きな恥であり、メンツが潰れる、と捉える前近代的な経済観がまだ中国で主流となっている点です。西欧でも実際に存在したとはいえ、前近代的な債務奴隷の世界を思い起こさせます。事業や企業の健全な発展のための破産法制、チャプター11がもっとも整っている米国などとは大きく異なります。実は、今世紀はじめに私がジャカルタに駐在してODA事業に携わっていた折にも、インドネシアに破産法制を導入しようとしているJICA専門家がいました。私は専門外ですので、横からチラチラと眺めていただけですが、途上国では破産法制はまだまだ未整備であることは事実ですし、中国もその例から漏れないんだろうと思います。著者の見方では、経済成長最大化のために、バブルが崩壊しないように政府が暗黙の保証でサポートしていて、本来破裂するはずのバブルがなかなか崩壊しないのが現在の中国バブルの特徴、ということなんですが、それでも、その強靭なバブル、本書の中国語タイトルである「剛性泡沫」であっても、決して永遠にサステイナブルであるわけはなく、いつかはバブルが崩壊せざるを得ず、それは時間の問題である、と警告するのが本書、というか、著者の主張なんだろうと受け止めています。結論は平凡ながら、中国経済のバブルの現状について把握するのに適当な本ではないかと思います。

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次に、アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う』(早川書房) です。邦訳者のあとがきによれば、著者は英国生まれのIT系企業家、著述家、コメンテータだそうで、現在は米国在住です。英語の原題は The Internet Is Not the Answer であり、ハードバック版が2014年の出版なんですが、邦訳は2015年出版のペーパーバック版を底本としています。ということで、やや邦訳タイトルは本書の全貌を網羅しているとはいえず、かなり狭い分野に限定しているようなきらいがあるんですが、要するに、インターネットに対するアンチな本です。もともと、インターネットについては民主的な幅広い参加が望めるメディアとして注目され、格差解消などに役立つ可能性が指摘され、本書では何の注目もされていませんが、私の専門分野である開発経済学などでは、世銀が「世界開発報告」2016年版で「デジタル化がもたらす恩恵」を取り上げたりもしています。しかし、同時に、勝者総取りのスーパースター経済学により格差が逆に拡大したり、プライバシーをはじめとして個人情報を含めた巨大なデータベースがかつての冷戦下での東独の秘密警察にたとえられたりと、逆に経済社会にマイナスの影響を及ぼしていると本書の著者は主張しています。そして、それらのマイナスの影響の解消のため、私が今まで接したことのない解決策が提示されており、歴史を待って人類の側でデータ量を積み上げる、という主張です。私が今まで何かにつけて接してきた中で、金融経済の弊害やインターネットをはじめとする情報化社会のマイナスの面などについて、それをさらなる技術進歩で乗り越えようという考えは、今までなかったような気がするだけに、かなり新鮮でした。ただ、それがホントに解決策になるかどうかは歴史が進まないと判りません。メディアの例を引くと、新聞などの印刷物に対して、音声で伝えるラジオ、さらに動画で伝えるテレビなどが技術進歩の結果として現れましたが、それが何らかのソルーションになったかどうかは評価の分かれるところかもしれません。まあ、本書でも指摘されているように、地道に反トラスト法なんぞをテコに、かつてのAT&Tに対峙したように巨大企業の分割、というのもアジェンダに上るのかもしれません。

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次に、スディール・ヴェンカテッシュ『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』(東洋経済) です。著者はコロンビア大学の社会学教授であり、本書に従えば、潜入中に終身在職権=テニュアを取得しています。アーバン・ジャスティス・センター(UJC)におけるセックス・ワーカー・プロジェクトの一環でのフィールドワークです。著者はコロンビア大学に移る前のシカゴにおいて、全米一の規模の公営団地であるロバート・テイラー・ホームズでの麻薬密売人に密着したフィールドワークで一躍有名になっています。邦訳書は『ヤバい社会学』として、同じ出版社から2009年に出ています。本書は、タイトルから明らかな通り、舞台をニューヨークに移し、ターゲットも売春婦としたフィールドワークの結果に基づくノンフィクションのリポートであり、学術書ではありません。英語の原題は Floating City であり、2013年の出版です。なお、英語の原題の "floating" は本書では「たゆたう」と邦訳されています。ということで、私はこの著者の前著は読んでいませんが、ホンワカと認識していた社会学のフィールドワークの結果を興味深く拝読しました。おそらく、前著の麻薬の密売人と違って、売春婦はかなりグローバルな存在であり、世界中のほぼすべての国や地域で少なくとも同じような性風俗産業は観察されるのではないかと思います。売春婦の中でも、下層の立ちん坊からデートクラブのコールガールまで、社会階層、というか、少なくとも所得においては決して下層とはいえず、中流以上の稼ぎのある売春婦も含めて、その実態を社会学の見地から明らかにしようと試みたフィールドワークの記録です。私自身はエコノミストですから、社会学と経済学の違いもわずかながら理解しているつもりですが、本書では pp.282-83 にかけて展開されています。いかにしてマイクロな人が階級、特に所得階級を決定するかについて、学歴とか、経験とか、何らかの知識やノウハウなんかを特定すべく、出来ることであれば統計的な検定に耐えられるサンプル、本書で「n」と称されている人数を確保し、特定化を試みることでしょう。著者は本書で社会学の2大派閥について同じような視点から触れており、エコノミストのやり方は著者の命名によれば科学派、ということになります。それに対して、著者のようなフィールドワークが配置されているわけです。そして、著者が明らかにしているように、経済学の中でも私の専門とする開発経済学の対象である発展途上国ではフィールドワークも大いに有効であろうと思います。誠に残念な点は、私自身が開発経済学の専門でありながら科学派に属していることです。比較的最近、というか、今年になってから読んだ中で、割合と同じような傾向のある本としては、1月28日付けの読書感想文で取り上げた『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』があるんですが、上から目線で、救ってやる、助けてやるといったエラそうな手柄話もなく、ニューヨークの売春婦に寄り添う、とまではいいませんが、同じ目線で何らかの出口を探る学究的なまなざしが好感持てます。

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次に、フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(紀伊國屋書店) です。著者はオランダ生まれで、博士号の学位取得の後に米国に移った進化認知学の専門家です。英語の原題は Are We Smart Enough to Know How Smart Animals Are? であり、邦訳タイトルはほぼ直訳気味です。冒頭に、二派物語と題する章が置かれており、行動学派のように、動物には人間のような感情・認知・情動といったものはなく、ひたすら本能に従って生きている、と考える一派がある一方で、著者のように認知学派的に、霊長類はいうに及ばず、動物や、無脊椎銅動物、さらに、昆虫にすら何らかの認知行動や情動があると考える一派があるようです。そして、著者は p.351 において、エコノミストにもおなじみのヒュームの言葉を借りて「動物の内面も私たちの内面と似ていると判断する」として、多くの動物には認知や情動があるものとして、その例をしつこいくらいに上げています。同時に、我が母校の京都大学霊長類研究所の今西教授他の研究成果も数多く肯定的に引用されています。シロートながら私の考えるに、キリスト教的な魂の救済という宗教的バックボーンと、東洋的というか、日本でいうところの山川草木悉皆成仏のようなアニミズムに近い宗教観の差ではないかという気がします。すなわり、キリスト教的には魂を持って行動している生き物は人間だけであり、それゆえに、最後の審判では魂が救われるわけですが、日本では人間に限らず、妖怪のような存在まで含めて、生き物はすべて何らかの意義ある存在であり、決して人間を澄天とするヒエラルキーで世界が構成されているわけではない、と考えます。ですから、そして、現在の科学界の見立てでは、東洋的な人間を特別視しない世界観、宗教観がむしろキリスト教よりも科学的である、ということなんだろうという気がします。日本人には何をいまさら、という感がありますが、論旨が明快で判りやすく好感を持てる教養書です。専門外の読者にも一読の価値があります。ただ、神経系を含めて、そもそも人間にどうして認知や情動があるのかが完全には解明されていない現状で、どこまで動物の認知や情動を認めることに意味がるのか、という疑問は残ります。

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次に、佐々木彈『統計は暴走する』(中公新書ラクレ) です。著者は東大社研教授であり、専門は経済学だと思うんですが、やや期待外れの悪書でした。とてつもない上から目線で、要するに、統計を基礎にして論じている、あるいは、説得しようとしている内容について、それが著者の気に入らない主張であれば、論難する、という著書であり、著者が論難している議論よりさらにムリのある主張がツッコミどころ満載で取り上げられています。要するに、著者がこの本でいいたいことは、世論調査や統計の裏付けがあろうとなかろうと、著者の気に入った常識であればOKである一方で、どんな統計処理をシていても著者が気に入らなければNG、ということに尽きるような気がします。それ以外の論点はありえません。およそ、雑でガサツで特段の根拠ない議論が堂々巡りで展開されています。いくつか例を上げておくと、第4章で展開されているような二酸化炭素と地球温暖化の関係、喫煙と発がんの関係などは、どの等な統計を持ってどちらからどちらの方向の相関ないし因果を論証しても、著者が気に入る唯一のルート、すなわち、二酸化炭素は地球温暖化を促進し、喫煙は発がん確率を高める、という因果関係意外はすべて否定されるべきもののようです。そして、その著者の考えるカギカッコ付きの「正しい因果関係」は本書では何ら論証されていません。どうも、著者の考えはアプリオリに正しいと前提されているようです。私が本書を読んだ限り、「暴走」しているのは統計ではなくて、本書の著者のような気がします。よくこんな内容を東大社研の連続セミナーで取り上げたもんだと感心しています。十分批判的な目で読書できる自身がない場合はパスするのが賢明のような気がしますが、怖いもの見たさの読書を否定するつもりはありません。

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次に、日本再建イニシアティブ『現代日本の地政学』(中公新書) です。見ての通りの地政学と地経学に基づき、13章に渡って日本が直面するリスクについて、各専門分野の著者が解説を加えています。すなわち、第1部では安全保障について、米国のアジア太平洋戦略、中国の海洋進出、不安定な朝鮮半島のリスク、中国外交、ロシア、トランプ政権下の米国、そして第2部では地球規模のリスク要因として、エネルギー、サイバー攻撃、気候変動、トランポ政権の経済政策、中国の一帯一路戦略とAIIBの展開、ポストTPPの通称戦略、地政学と地経学などなど、興味あるテーマが並んでいます。現時点での日本のリスクは、何といっても、安全保障面では、いわゆる核の傘を含めて、全面的に米国に依存しつつ、経済学的には中国への依存をじわじわと強めている点です。米国の安全保障政策・戦略についても、オバマ政権期にピボットとか、リバランスと称して、アジア太平洋の重視に戦略を転換しましたが、トランプ政権における安全保障についてはまだ不明な点が多く残されています。安倍総理との首脳間の信頼関係は強いように見受けられますが、政府としての組織の間での協力関係はどうなんでしょうか。この方面の知識は私には皆無に近く、まったくのシロートなのがお恥ずかしい限りなんですが、北朝鮮は本書では「すぐ崩壊しそうにない」(第3章冒頭のp.47) なんでしょうか。私はすでに末期症状に入っているような気になっていたんですが、謎が深まる限りです。TPPについては、私はまったく先行きの見通しをもてません。ただ、本書ではTPPにまだご執心で、日EUの経済連携協定については無視されていたりします。どうしてもこういったテーマになると、米中に加えて朝鮮半島には注目するものの、なぜか、欧州は軽視されがちになるような気がします。

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最後に、若竹七海『静かな炎天』(文春文庫) です。この作者の葉村晶シリーズの最新刊の短編集です。10年余振りのシリーズだと思ったんですが、2014年に『さよならの手口』と題する長編が出版されていたらしく、大慌てで併せて読みました。いずれも文春文庫からの出版です。なお、本作『静かな炎天』の前に出版されている同じシリーズについては、『さよならの手口』も含めて、『プレゼント』、『依頼人は死んだ』、『悪いうさぎ』はすべて私は読んでいます。主人公の葉村晶は女性探偵なんですが、シリーズ物としてとてもめずらしいことに、ほぼほぼ実際の出版と整合的に年令を重ねて行きます。最初の短編集は『プレゼント』であり、小林刑事シリーズの短編と交互に並んでいた記憶があるんですが、葉村晶のデビューは20歳代半ばか後半でした。そして、読み逃していて大慌てで読んだ『さよならの手口』では40代に入っており、この作品では40代も半ばの設定で、40肩で苦しんでいたりします。この短編集では5話目の「血の凶作」が私は一番おもしろかったです。そして、改めて、このシリーズの場合は、長編ではなく短編がいいと強く感じました。長編最新作の『さよならの手口』の文庫版解説にも明記されていたんですが、長編だとついついややこしい、というか、いくつか複数の謎を織り込まれてしまい、通常のミステリなら3-4作品くらいの謎が『さよならの手口』には詰め込まれています。それを評価する読書子もいるんでしょうが、少なくともミステリの場合は「オッカムの剃刀」よろしく、単純な謎解きの方が私は好きです。単なる好き嫌いのお話なんですが、複雑な謎を長々と解き明かされて喜ぶんではなく、シンプルな謎解きを、まさにカミソリのようにスパッと提示される方がミステリの醍醐味だと思います。最後に、このシリーズの主人公の女性探偵である葉村晶は、出版社の謳い文句によれば「不運な探偵」ということになっており、特のこの作品の最終話の「聖夜プラス1」が典型なんですが、私はこういうのを不運とはいわずに、単なるお人好しではないか、と受け止めています。ご参考まで。
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2017年10月28日 (土) 10:14:00

今週の読書は話題の小説を含めて計6冊!

今週は経済書を含めて、計6冊でした。それなりのボリューム感だったんですが、先週末に台風21号の関東接近で自転車で図書館を回れなかったため、予約しておきながら引き取りに行けずにキャンセルされてしまった本が何冊かありました。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ/ブルース C. グリーンウォルド『スティグリッツのラーニング・ソサイエティ 生産性を上昇させる社会』(東洋経済) です。著者の1人とタイトルに冠されたスティグリッツ教授はノーベル経済学賞受賞のリベラル派の経済学者です。英語の原題は Creating a Learning Society であり、2015年の出版です。完全版と縮約版があるような書き振りですが、邦訳は後者のようです。というのは、完全版にあるハズのパートがいくつか見受けられないからです。ということで、本書にいう「ラーニング」というのは、日本では馴染みのない用語かもしれませんし、私も戸惑っているんですが、まあ、正規の学校教育ではなく、むしろ、企業内におけるOJT、あるいは、イノベーションの基となるようなR&Dも含めた幅広い概念のような気がします。そして、読み始めは先進国における経済成長の底上げに関する議論かと思っていましたら、最後の方では、著者自身も「すべての国にあてはまるが、おそらく特に関係するのは発展途上国」(p.426)であろうと認めていて、ほぼ、私の専門分野である開発経済学とも重なります。すなわち、新自由主義のようなトリクルダウン経済学を否定し、かつてのワシントン・コンセンサスが機能しなかったと結論し、包括的(たぶん、inclusive)な経済発展・成長を目指すものとなっています。その対象は工業(あるいは、製造業?)であり、農業ではないとし、現在の自由貿易への過度の信頼、過重な知的財産権保護、金融の自由化をはじめとする行き過ぎた規制緩和、などなどを構成要素とする市場による経済問題の解決への期待をかなりの程度に否定して、より積極的な政府の市場への介入を求めています。その上で、ラーニングという動学的な比較優位の理論を再定義し、スピルオーバー(外部性)を十分考慮しつつ、開発戦略や成長戦略の練り直しを議論しています。例えば、かつての日本のもあった幼稚産業論ではなく、より動学的な意味でスピルオーバーの大きな幼稚産業保護論を展開し、為替政策や産業政策の導入を正当化し、また、景気変動を安定化させることによるラーニングの強化とイノベーションの促進の重要性などを論じています。そこに、独占の功罪の再考察も含まれます。それらの考察の結果として、米国型の競争的市場経済ではなく、北欧型の政府が大きな役割を担い、競争ではなく社会的な保護を提供し、その結果として格差が小さく寛大な経済モデルの優れた点を強調しています。500ページ近いボリュームがあり、しかも、かなりレベルの高い内容を含む質・量ともに上級のテキストですので、なかなか、短い読書感想文では書き切れませんが、pp.419-21の箇条書きされたサマリーを立ち読みして、買うか、借りるか、諦めるか、を決めればいいんではないでしょうか?

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次に、板坂則子『江戸時代 恋愛事情』(朝日新聞出版) です。著者はややご年配の専修大学の研究者であり、専門分野は江戸後期小説や浮世絵、江戸期のジェンダー論だそうです。ということで、タイトル通りの本なんですが、上の表紙画像を見てもある程度は理解できるように、カラーを含めてかなり図版、おそらくは半分近くが浮世絵、が挿入されており、かなり豪華本の印象を受けます。しかし、中には、電車などの不特定多数から覗き込まれる可能性ある場合には、やや気まずさを覚えるものも含まれていたりするので注意が必要です。というのは、著者が冒頭に書いている通り、江戸期の恋愛とは、いわゆる「惚れた腫れた」ばかりではなく、ほとんどが肉欲に基づく性愛、すなわち、セックスだからです。しかも、ヘテロの男女間だけでなく、ほぼ同等に近いスペースを割いてホモセクシュアルの男色についても本書では取り上げています。著者は明記していませんが、おそらく、江戸期のしかも将軍のおひざ元である江戸という当時の世界でもまれな大都会における恋愛事情ですしょうから、どこまで日本全国に拡張できるのかは不明、というか、疑問なんですが、私のような極めて無粋な田舎者には理解できない世界が展開されていたようです。私は関西人ながら、浅草近くの下町に住んでいた経験もあって、やむなく、それなりの江戸趣味、すなわち、相撲や歌舞伎などのたしなみを身につけているつもりだったんですが、とうていかなわないと感じました。単なる興味本位では読み解けない謎かもしれません。でも、私のような一般人には決して表芸にはならないような気もします。むしろ、BLに興味を示す「腐女子」向けかもしれません。

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次に、宮部みゆき『この世の春』上下(新潮社) です。著者はご存じの売れっ子作家であり、我が国でも五指はともかく、十指には入りそうな気がします。出版広告に「作家生活30周年記念作品」と銘打たれており、それなりのボリューム、重厚な内容であることはいうまでもありません。現代を舞台にしたミステリからゲームの原作、あるいは、時代小説なども含めて、幅広い作品を執筆していますが、まず、表紙画像でも理解できる通り、この作品は時代小説です。しかも、非現実的な要素を含むという意味でファンタジーに近く、その意味では、『孤宿の人』が同じ作者の作品の中で、というか、私が読んだ宮部作品の中では最も近い気もします。なお、出版社では「ファンタジー」ではなく、サイコ&ミステリーと称しています。でも、最近の作品の中では、『荒神』のように、非科学的な要素がそれほど大きな役割を果たしているわけではありません。ということで、舞台は江戸時代の比較的初期であり、八代将軍吉宗のかなり前で、北関東の小藩を舞台に、若い藩主の押し込め、すなわち、家臣・重臣による藩主の強制的な隠居、代替わりに始まり、その前藩主の闇の部分の究明、すなわち、ネタバレですが、隠居させられた藩主の多重人格の原因探しとなります。御霊繰と呼ばれる死者の霊との交信を司る一族の皆殺し、10歳を超えたあたりの少年のかどわかし、英明な名君主とされている押し込められた前藩主の父親に対する疑念、そして、藩内に暗躍する忍者、というか、闇の集団の存在とその悪意、そして、それらを利用するつもりで逆に祟られ呪われていた藩主一族、などなど、この作者の作品に特徴的なストーリーの運び、すなわち、1枚1枚の薄皮をむいていくように、決してどんでん返しなどなく、ほぼ一直線に一歩一歩謎の解明に向かいます。ですから、謎解きという点では途中でほぼほぼ明らかになりますので、その点では物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、このような謎の解明プロセスはこの作者の作品の特徴のひとつと私は受け止めています。それにしても、ボリュームにふさわしい複雑怪奇なプロットを易々と書き上げている作者の筆力、力量には相変わらず敬服しかありません。素晴らしい作家としての能力だという気がします。売れっ子作家の安定した作品ですし、私を含めたこの作者のファンは買って読む読書子が多そうな気がしますが、時代小説という点を加味しても、私はこの作者の最高傑作は『模倣犯』であるという信念は揺らぎませんでした。

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次に、伊坂幸太郎『AX アックス』(角川書店) です。同じ著者の『ホワイトラビット』も新潮社から出版されたばかりですが、出版順従って、コレから読んでみました。たぶん、『ホワイトラビット』も読むんではないかと思います。ということで、著者の人気シリーズのひとつの殺し屋シリーズの流れの作品です。すなわち、『グラスホッパー』や『マリアビートル』に連なる作品です。ただし、以前の殺し屋シリーズで登場した殺し屋の中で、この作品にも登場するのは槿だけで、そういえば、私のような記憶力に難のある読者にはやや複雑すぎるストーリーなのですが、最初に登場した蝉や鯨はもう死んでしまっているのかもしれません。なお、この作品の主人公は兜といい、子煩悩な恐妻家だったりします。これも、同でもいいことなのかもしれませんが、シリーズ前作の『マリアビートル』では槿が最強の殺し屋、と宣伝されたいたように記憶している一方で、この作品では新登場の兜が最強と宣伝されています。まあ、どうでもいいことです。それから、内科の医者が黒幕、というか、ストーリーに登場しないホント黒幕からの連絡者の役割を果たしており、兜は殺し屋の業界から引退したがっている、という設定です。アルファベットのAからFで始まる6章から成る連作短編のような仕上がりで、繰り返しになりますが、主人公の殺し屋である兜は引退したいんですが、他方、引退するにはもう少し義理を果たして、引退に必要な金を稼ぐため、仕方なく仕事を続けねばならないという、まるで、芸能プロダクションの移籍問題のような展開があり、兜は仕方なくいくつかの仕事を請け負い、同時に、別の殺し屋からターゲットにされたりして、お話は進みます。同時に、ひとり息子を愛する子煩悩な父親であり、かつ、恐妻家である家庭人としての顔も余すところなく作品に盛り込まれており、それはそれで興味深く、殺し屋と恐妻家の2つの人格を使い分けている主人公のキャラの立て方には感心すると同時に、さすがの作者の力量をうかがわせます。ただ、主人公が殺し屋ですので仕方ないんでしょうが、一介の公務員である私から見て、世の中にはやたらと殺し屋がいるんだという誤解をしてしまいそうな密度で殺し屋が登場します。兜の家族以外の一般人の登場も望みます。ラストはさすがに伊坂流の心温まる(?)終わり方をします。

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最後に、天野郁夫『帝国大学』(中公新書) です。著者は東京大学教育学部をホームグラウンドとする研究者の大先生で名誉教授だったと記憶しています。2009年に同じ中公新書で『大学の誕生』上下を出版しています。そして、この本ではタイトル通りに戦前を中心に少しだけ戦後も含めて帝国大学を取り上げています。もちろん、帝国大学以外の大学や大学予備門としての旧制高等学校にも触れています。東京、京都に続いて、各地域の事情に応じて設立・拡充される歴史、帝大学生の学生生活や卒業後の就職先、教授たちの研究と組織の体制、大学入学準備の予科教育の実情、太平洋戦争へ向かう中での帝大の変容など、「学生生徒生活調査」などの豊富なデータに基づき活写しています。明治期から昭和戦前期にかけての建学から戦後、「帝国」の名称を外して国立総合大学に生まれ変わるまでの70年間を追い、大正期の大学令で確立し現在まで続くエリート7大学の全貌を描いています。はばかりながら、私もその7大学のうちのひとつの卒業生ですし、それなりの興味はあります。私の学生時代まで明らかに東大は官僚養成の一翼を担っていましたし、官界だけでなく、政財界、教育・文化界に多くの卒業生を送り出し、「近代日本のエリート育成機関」だった戦前期の帝国大学を明らかにしています。米国東海岸にはハーバード大学やイェール大学をはじめとして、いわゆるアイビーリーグと呼ばれる一群の大学があり、集合的な大学の存在とみなされていますが、日本でも「早慶」という呼称があったり、入試の偏差値のくくりでMARCHと呼ばれる一群の大学がありますが、現在の日本の大学で集合的に取り扱われるのは東京6大学とこの本で取り上げられている旧制帝国大学7大学くらいではないかと思います。前者は地域的な集合体、後者は学術レベルも含めたエリート排出機関としての集合体、という特徴があります。卒業生のひとりとしては、先輩方のご活躍を含めて興味深く読めました。
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2017年10月21日 (土) 12:11:00

今週の読書は経済書のほかに話題の新刊ミステリなど計7冊!

今週は、経済書は大したことのないのを1冊だけで、売れっ子作家によるミステリの新刊書を2冊ほど読みました。新書も入れて計7冊、以下の通りです。

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まず、ジョン・ケイ『金融に未来はあるか』(ダイヤモンド社) です。著者は英国のエコノミストであり、金融関係で政府のレビューなども執筆したこともあるそうですが、私はよく知りませんでした。英語の原題は Other People's Money であり、直訳すれば「他人のおカネ」ということになるのかもしれません。2015年の出版です。2008年から始まる金融危機とそれに伴う景気後退(Great Recession)について論じており、今さらながらの金融本なんですが、ハッキリいって、期待外れです。金融に限らず複雑に絡まり合った需要供給構造は経済の発展に即した現状の歴史的経緯を反映しており、もちろん、いわゆるグローバル化が複雑怪奇さを一層促進したのはいうまでもないとして、かつての小さな地理的商圏を発想の原点として、いわゆる「顔の見える範囲」での大昔の金融取引に戻れ、的な志向はややうんざりします。歴史認識の違いとしかいいようがないんですが、私は西洋人的に一直線に進む歴史を念頭に置いており、グルッと回って元に戻る円環的な歴史観を持っているのであれば、あるいは、ビッグデータの活用などから個人や企業に関する詳細情報をかつての「顔が見える」に代替して活用することも可能かもしれません。人工知能(AI)が現状のように金融スコアを機械的に弾き出すだけでなく、より詳細な個別情報を分析できるようになれば、あるいは可能かもしれないと思いつつも、本書で著者自身が防衛線を張っているように、かなりナロー・バンクに近いような銀行業務の縮小とか、フィクスト・インカムなどの債券に特化したカストディアンに近い決済専業に近い業務体系とか、時計の針を逆回しにするような処方箋であるとしか思えません。それほど指摘される点ではありませんが、少なくとも、too big to fail というのは、同時に、too complexed to be regulated であり、複雑すぎて規制できない、というのも単純化し過ぎている点を別にすれば、ほぼほぼ真実に近いような気もします。その上で、金融正常化の主体となるのが政府から企業へのラインであるというのは、余りにも発想が古いというか、従来通りであり、ムリがあります。注目したがるのは規制当局の金融庁くらいのものだという気がします。せめて、政府から消費者に情報が伸びて、消費者自らが市場で選択が出来るような情報の流れを想定するくらいの発想は出来ないものでしょうか?

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次に、ジョーン C. ウィリアムズ『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』(集英社) です。著者は米国の大学の法律の研究者なんですが、長らく女性の地位向上に携わって来たらしいです。英語の原題は White Working Class であり、今年2017年の出版です。ということで、昨年2016年の米国大統領選挙でトランプ政権誕生の原動力のひとつと見なされている白人労働者階級について論じています。出版社のサイトなどで章別の構成を見れば明らかなんですが、白人労働者階級の特徴を章別に解説しています。14章から成る構成のうち、10章超を白人労働者階級の特徴の解説に当てています。そして、その前提として、米国をザックリと3つの階層に分類しています。すなわち、エリート、労働者階級、貧困層です。そして、エリートはさらに専門職と富裕層に大雑把に分けています。白人の労働者階級はエリートの中でも専門職には反感を持っている一方で、富裕層にはそれなりの敬意を払っているという特徴も指摘されています。続いて、仕事のある場所に引っ越さない、大学に行こうとしないし子供の教育には熱心ではない、人種差別や性差別の傾向がある、製造業の仕事が増加しないことを理解していない可能性がある、看護師などの女性向のピンクカラーの仕事に就こうとしない、政府の福祉政策に対して極めて無理解であ利自身が恩恵を受けていることを知らない、などと行った白人労働者階級の特徴を論じつつ、その要因についても分析を行っています。英語の原題も class ですし、邦訳でも階級と明確に訳しているように、日本以外の国ではそれなりの階級らしき構造があることは明白であり、それは貴族や王族のいない米国でも同様です。私が米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころも、おそらく本書では専門職のひとつに分類されるんでしょうが、ビールは日本でも有名なバドワイザーは労働者階級のビールであり、エコノミストはクアーズを飲む、といった違いがありました。そして、酒を飲んだ席のジョークながら、その昔のニクソン大統領の最大の功績のひとつは、クアーズをロッキー山脈を越えさせたことである、などといい合っていたモノです。日本ではクアーズよりもバドワイザーの方が圧倒的に知名度が高いので、私は少しびっくりした記憶があります。本書でも、p.50あたりから記述しており、買い物をするスーパーマーケット、視聴するテレビ番組などなど、目には見えにくいながら明確な階級的な特徴があります。こういった階級の特徴を、とてもステレオ・タイプながら、本書ではなかなかよく捉えていそうな気がします。ただ、私には実態をどこまで自分自身で理解しているかが不明ですので、本書の記述についてもどこまで正確なのかは十分な把握ができません。ただ、少し前に『ヒルビリー・エレジー』や『われらの息子』などを読みつつ感じたのは、ポピュリズムの交流は、確かに、米国トランプ政権誕生がもっとも画期的だったかもしれませんが、英国のBREXITや大陸欧州のいくつかの選挙でも実際に観察されることですし、こういった欧米諸国の現状を総合的に分析する必要があるような気がします。強くします。米国が典型的でドミノの倒れ始めかもしれませんが、さらに、国別ではなく世界的なポピュリズムの台頭を分析するべきではないでしょうか。かつて、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の国粋主義など一連の思想的な流れの中で戦争に行きついてしまって、こういった流れを止められなかっただけに、世界的な分析の必要を強く感じます。

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次に、古市憲寿『大田舎・東京』(文藝春秋) です。社会学者である著者が、東京の都バス100路線に乗ってエッセイを綴っています。著者の発見というわけでもないんでしょうが、都バスは東京23区の東部でよく走っており、新宿から西ではそれほど見かけません。もちろん、バスはそれなりに走っているんですが、都バスではなく私鉄会社などが走らせているバスが増える気がします。ですから、都バスに乗るということは、いわゆる下町やウォーター・フロントを回る確率が高くなります。著者の表現では、そこに「昭和」を見ることになります。世界に冠たる大都会の東京ではなく、高齢化が進み、場所によってはシャッター商店街と化しているところもありで、花の都東京というよりも地方の印象に近いのかもしれません。私が都バスを通勤に利用したのは、1990年から91年に在外公館に出向する前に外務研修所に通うのに都02の都バスを使っていました。外務研修所は現在では相模大野だか町田だかに移転しましたが、当時は茗荷谷にあり、私は大関横丁近くの荒川区と台東区の境目あたりに住んでいました。御徒町、というか、春日通りまで地下鉄で出て、そこから大塚車庫行の都02の都バスで半年近く通勤していました。通勤はそれだけですが、都バスで馴染みあるのはやっぱり都01です。なぜか、年末12月のベートーベン第9のコンサートに何年か続けて聞きに行くことがあり、なぜか、サントリー・ホールでしたのでこの都バスで行った記憶があります。後は、都バスとの連想ゲームで、私の場合は「統計局」という回答が飛び出したりします。その昔、副都心線や大江戸線の地下鉄が出来る前、霞が関から若松町の統計局に行くのには都バスを使っていました。そのころ、私自身が統計局勤務になるとは思っても見なかったんですが、統計局勤務になって驚いたのは、朝夕の通勤時に都バスが統計局のビルに横付けされることです。本書でも、いくつか片道180円で短距離の通勤・通学バスの紹介がありますが、私は乗ったことはないながら、たぶん、新宿と統計局の間の直通の都バスが平日の朝夕に運行されていました。通勤途上で追い抜かれたり、役所の建物に都バスがデンと駐車されているんですから、なかなか壮観だったと記憶しています。

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次に、東野圭吾『マスカレード・ナイト』(集英社) です。シリーズ第3作最新作です。日本橋のホテルコルテシア東京を舞台に、ホテルのコンシェルジュである山岸尚美と警視庁の刑事である新田浩介のコンビがホテルでの犯罪を未然に防止します。しかも、事件が起こる確率がもっとも高いのは大晦日から新年を迎えるカウントダウンパーティの会場であり、しかもしかもで、そのカウントダウンパーティが仮装で行われますので、まさにこの作品のタイトル通りのマスカレード・ナイトになってしまうわけです。関西弁をしゃべる若い夫婦に、金に糸目をつけずにサプライズでプロポーズをもくろむ米国在住の日本人男性、夫婦2人を装いつつも女性1人でしかも予約時と苗字の異なるクレジットカードを使おうとする女性、ネームプレートのないゴルフバッグを持ち込んだ暗い感じの男性、家族連れで宿泊した一家の亭主の浮気相手が突然鉢合わせ、などなど、怪しさ満点の宿泊客に加えて、ホテルのスタッフは山岸尚美と総支配人の藤木は前作からのお馴染みとしても、新田をサポートする氏家の頑迷固陋な融通の利かなさとホテルへの愛情から生じた警察への非協力的な態度もあり、時刻の経過とともに、いろんな事実が明らかになる一方で、同時に複雑怪奇な様相も混迷を深めて真犯人にはたどり着かない、という結果になります。もともと、大衆瀬包摂というか、エンタメ小説ではミステリの東野圭吾と企業小説の池井戸潤が、キャラ設定やストーリ・テリングの点で、読者に訴えかける筆力といったものが抜群の双璧と私は考えていたんですが、さすがに、ミステリですので、この作品についてはプロットがやや複雑怪奇に過ぎる気がします。黙秘を続けていた犯人が、最後に新田に対してだけ自白するわけですが、何と申しましょうかで、その犯罪に対する犯人の解説がやたらと長い気がします。犯行の動機や実行の経緯などについて、しっかり読めば判らないでもないんですが、冗長というよりは長々とした説明の必要なプロットなんだろうと思います。私はエコノミストとして経済の現象について説明する場合、「オッカムの剃刀」を念頭に置きますが、どうもその観点からは、この作品はどこまで評価できるか疑問です。ただ、シリーズ第2作の『マスカレード・イブ』はもちろん第1作の事前譚の短編集でしたし、第1作の『マスカレード・ホテル』も連作短編のような構成でしたので、第3作の本作品『マスカレード・ナイト』がシリーズ初めての本格長編である、という見方も出来ます。長編ファンにはいいんではないでしょうか。

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次に、道尾秀介『満月の泥枕』(毎日新聞出版) です。作者は『月と蟹』で直木賞を受賞した売れっ子、というか、私の注目のミステリ作家であり、この作品は1年に渡って毎日新聞夕刊に連載されていたものを単行本をして出版しています。ということで、幼い娘を亡くして離婚も経験した30代半ばの主人公の男性が、姪に当たる兄の娘の小学生が母親から捨てられた際に引き取り、とともに貧乏アパートに暮らすわけありの仲間とともに、よく実態の知れない冒険を繰り広げます。アパートの仲間はバイオリン趣味の老夫婦、物まね芸人、アパートの大家の倅、売れない画家などで、この小説でマドンナ役を演じる女性がアパートの外から参加します。どういう冒険家というと、町内の剣道場の小倅から行方不明の祖父について、実は殺害されて池に沈められている恐れがある、というか、その確率が高いとして、一計を案じて1年の準備期間を経て、夏祭りの時期に町内の人々を池を浚う役割に引き込みます。案の定、池からは頭蓋骨が発見されるんですが、その後、それを持って剣道場の師範親子孫とアパート住人の面々が岐阜県に行ったりと冒険が続きます。何となく、『透明カメレオン』に似たストーリーで、わけありで過去のやや暗い主人公に対して、同じ色彩を持ちつつ、じつはかなり嘘で固めた、とまではいわないまでも、決してすべての事実を明らかにすることなく、かなりの程度にうそや隠し事を持った周囲の人が主人公を巻き込んで、何らかの事件が展開して、でも、かなり際どいご都合主義によりハッピーエンドで終わる、というミステリです。この作者の場合、初期の作品はかなり本格的な謎解きミステリ、あるいは、ホラーやサスペンスの作品が多かったような気がしますが、受賞作品が増えるに従って、わけありの登場人物がうそを交えつつ事件を進行させ、人物や事件をていねいに描写する、という作品が多くなっている気がします。別の表現をすれば、だんだんと重松清の作品に近づいている気がしてなりません。その意味で、少し私の好みから外れつつあるのが残念です。

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次に、銀座百点[編]『おしゃべりな銀座』(扶桑社) です。銀座百店会が発行するタウン誌「銀座百点」に掲載されたエッセイ50篇を収録しています。最近、とはいうものの、2004年から2016年までの掲載です。見事に、執筆者の50音順で収録されており、どうしても、私の苗字である「やゆよ」の行とか、和田さんなどは日本語の50音順でも、アルファベット順でも最後の方になります。ということは別として、執筆者は作家やエッセイストなどのライターが多いんですが、それ以外にも映画や演劇、あるいは、建築家や画家・デザイナーなどの広い意味での文化人です。もちろん、銀座がお題ですので東京の人が中心になりますが、関西人をはじめとして地方在住者も何人か見受けられます。銀座ですので、どうしても、お酒を含む食べ物のエッセイとか、ファッション関係が目立った気がします。でも、なぜか、音楽関係はほとんど出て来ませんでした。山野楽器にヤマハもありますし、私自身はヤマハでスコアを買い求めた記憶もあります。それから、食べる方では竹葉亭を取り上げた執筆者が何人かいますが、やっぱり、竹葉亭はウナギではないだろうかと思います。銀座に興味ある方には何かしら参考情報になりそうな気がします。

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最後に、小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書) です。著者は日本中世宗教史の研究者だそうで、タイトル通りに浄土真宗にフォーカスしていますが、あくまで著者ご専門の中世史からの視点であり、明治以降の清澤満之などの宗教論もなくはないですが、より近代的・現代的な浄土真宗についてはフォローし切れていないように見受けました。哲学、というか、宗教論からの解明ではありません。ということで、浄土真宗の信徒として少し不満の残る内容ではあるんですが、まずまず、よく取りまとめられています。ただ、本書では否定されていますが、キリスト教になぞらえて、浄土真宗や日蓮宗などの鎌倉新仏教を宗教改革以降のプロテスタント、それまでの南都北嶺の国家鎮護仏教をカトリックになぞらえるのは、もちろん、決して全面的ではあり得ないものの、部分的ながらかなりの程度に当たっていると考えていいと私は考えています。それと、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の違いは、確かに本書で指摘されている通り、神道などの他宗教や仏教の他宗派に対する寛容性もありますし、それはそれでとても大衆的な理解ではあるんですが、実は、俗の部分ではなく聖の部分の違いが大きいと私は考えており、要するに、浄土宗では僧が受戒する必要があり、僧と信徒の区別が厳格であるのに対して、浄土真宗は戒がなく、従って、僧と信徒の差はかなりの程度にあいまいです。もちろん、他宗派との違いも浄土真宗の場合は大きく、死ぬことを往生というのは同じような気がしますが、戒名ではなく法名ですし、従って、仏壇に位牌は置きません。卒塔婆を立てないのは追善供養を否定するといいつつも、七回忌くらいまでは営んだりもします。でも、冥福という言葉を浄土真宗の信者に用いつことはかなりの程度に失礼に当たりますし、呪術はもちろん、霊という言葉も使用を避けます。ほぼほぼ一神教に近いのは同じながら、浄土真宗の方がその程度は強く、しかも、かなり天上天下唯我独尊で独善的というか、排他的な色彩が強いですから、織田信長ではありませんが、戦国武将にはそれなりの脅威だったのかもしれません。
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2017年10月14日 (土) 09:14:00

今週の読書は経済書から小説までいろいろ読んで計7冊!

今週の読書は、なかなかにして重厚な経済学及び国際政治学の古典的な名著をはじめとして、以下の通り計7冊です。がんばって読んでしまいました。

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まず、オリバー E. ウィリアムソン『ガバナンスの機構』(ミネルヴァ書房) です。著者はノーベル経済学賞を授与された世界でもトップクラスの経済学者であり、専門分野はコース教授らと同じ取引費用の経済学です。本書は、 『市場と企業組織』と『資本主義の経済制度』に続く3部作の3冊目の完結編であり、英語の原題は The Mechanism of Governance であり、邦訳書のタイトルはほぼ直訳です。原書は1998年の出版ですから、20年近くを経て邦訳されたことになります。本書の冒頭でも指摘されている通り、取引費用の経済学は広い意味での制度学派に属しており、その意味で、同じくノーベル経済学賞を受賞した経済史のノース教授らとも共通する部分があります。そして、いわゆる主流派の経済学の合理性では説明できないながら、広く経済活動で観察される事実を説明することを眼目としています。少なくとも、経済史における不均等な経済発展は主流派の超のつくような合理性を前提とすれば、まったく理解不能である点は明らかでしょう。その昔は、合理的な主流派経済学で説明できないような経済的活動については、独占とか、本書では指摘されていませんが、外部経済などに起因する例外的な現象であるとされていましたが、現在では、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授の専門分野である行動経済学や実験経済学にも見られるように、個人の合理性には限界があり、この限定合理性の元での現象であるとか、ウィリアムソン教授やコース教授の取引費用の観点から、一見して非合理的な経済活動も合理性あるとする見方が広がって来ています。ということで、本書では取引費用から始まって、ガバナンスについて論じているのはタイトルから容易に理解されるところです。しかしながら、本書のレベルは相当に高く、おそらく、大学院レベルのテキストであり、大学院のレベルにもよりますが、大学院博士後期課程で取り上げられても不思議ではないレベルです。それなりのお値段でボリュームもあり、そう多くはありませんが、モデルの展開に数式を用いている部分もあります。書店で手に取って立ち読みした後で、買うか買わないかを決めるべきですが、読まなくても書棚に飾っておく、という考え方も成り立ちそうな気がします。だたし、最終第14章はそれほど必要とも思いませんでした。

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次に、フィリップ・コトラー/ヘルマワン・カルタジャヤ/イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング 4.0』(朝日新聞出版) です。著者のうちのコトラー教授はノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の研究者であり、私でも知っているほどのマーケティング論の権威です。英語の原題は Marketing 4.0 であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。今年2017年の出版です。私は専門外なので知らなかったんですが、コトラー教授によれば、マーケティング1.0は製造者の生産主導のマーケティングであり、2.0は顧客中心、3.0は人間中心とマーケティングが進歩して来て、本書で論じられる4.0はデジタル経済におけるマーケティングです。ただし、本書でも明記されている通り、従来からの伝統的なマーケティングが消滅するわけではなく、併存するという考えのようです。もちろん、インターネットの発達とそれへのアクセスの拡大、さらに、情報を受け取るだけでなく発信する消費者の割合の飛躍的増大からマーケティング4.0への進歩が跡付けられています。といっても、私の想像ですが、おそらく、グーテンベルクの活版印刷が登場した際も、あるいは、ラジオやテレビが普及した際も、それをマーケティングと呼ぶかどうかはともかくとして、こういった新たなメディアの登場や普及によりマーケティングが大きく変化したんではないかという気がします。基本的に、経済学では市場とは情報に基づいて商品やサービスが取引される場であると理解されており、その意味で、市場で利用可能な情報が多ければ多いほど市場は効率的になるような気がします。ただ、それに関して2点だけ本書を離れて私の感想を書き留めれば、まず、本書では注目されていないフェイク・ニュースの問題があります。消費者のレビューにこれを当てはめれば、日本語でいうところの「やらせ」になり、いくつか問題が生じたことは記憶に新しいところです。こういったフェイクな情報とマーケティングの関係はどうなっているのでしょうか。フェイクな情報は市場の中で自然と淘汰されるのか、そうでないのか。私はとても気にかかります。こういったコトラー教授なんかの権威筋のマーケティング論の本を読むにつけ、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らの行動経済学や行動経済学における意思決定論は、おそらく、企業が市場でしのぎを削っているマーケティングにはかなわないような気がします。理論的な実験経済学や行動経済学よりも、理論化はされていないかもしれませんが、市場の場で鍛えられた実践的なマーケティングの方が、よっぽど的確に選択や意思決定を明らかにしているような気がします。いかがでしょうか。

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次に、フランソワ・シェネ『不当な債務』(作品社) です。著者はフランスのパリ第13大学の研究者であり、同時に、社会活動にも積極的に取り組み、近年では反資本主義新党NPAの活動に携わり、トービン税の実現を求める社会運動団体ATTACの学術顧問も務めているそうです。フランス語の原題は Les Dettes Illégitimes であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。2011年の出版です。ということで、私の目から見て、フランス国内で主流のマルクス主義経済学的な観点である蓄積論からの債務へのアプローチであり、同時に、ケインズ経済学的な観点も取り入れて、マイクロな経済主体の経済活動をマクロ経済への拡張ないしアグリゲートする際の合成の誤謬についても債務問題に適応しています。特に、この観点を日本経済に当てはめる場合、資本蓄積が先進諸国の中でももっともブルータル、というか、プリミティブに実行されており、かなりあからさまな賃金引き下げ、あるいは、よりソフィスティケートされた形である非正規雇用の拡大という形で、先進国の中でも特に労働分配率の低下が激しく、その分が実に合理的に資本蓄積に回されているわけです。最近時点での企業活動の活発さと家計部門の消費の落ち込みを対比させるまでもありません。その上で、かつての高度成長期から現在まで、債務構造が大きく変化してきているわけです。別の経済学的な用語を用いると貯蓄投資バランスということになりますが、高度成長期や、そこまでさかのぼらないまでも、バブル経済前で日本経済が健全だったころは、家計が貯蓄超過主体であり、家計の貯蓄を企業の投資の回していたわけですが、現在では、「無借金経営」の名の下に、企業はむしろ貯蓄超過主体となっており、一昔前でいえば月賦、現在ではローンを組んで、あるいは、クレジットカードによる支払いで、家計が債務を負った形での消費が進んでいるわけです。教育すら奨学金という過大な債務を学生に負わせる形になって、卒業後の雇用に歪みを生じていることは明らかです。加えて、政府債務についても、銀行やその他の金融機関、あるいは、民間企業を救済するための債務を生じている場合が多いのも事実です。こういった債務をいかにして解消するか、貯蓄と債務のあり方について、資本蓄積の過程から分析しています。かなり抽象度が高くて難しいです。私は一応、京都大学経済学部の学生だったころに『資本論』全3巻を読んでいますが、それでも、理解がはかどらない部分が少なくありませんでした。

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次に、秋元千明『戦略の地政学』(ウェッジ) です。著者は長らくNHKをホームグラウンドとして活動してきたジャーナリストです。アカデミックなバックグラウンドは明確ではありませんが、実際の外交や安全保障に関する情報には強いのかもしれません。本書では、最初の方で歴史的な戦略論、すなわち、マッキンダーのランドパワーとシーパワーの特徴やハートランドの重要性の強調、さらに、スパイクマンのリムランドからハートランドを取り囲む戦略論、マハンのシーパワー重視の戦略論、ナチスの戦略論を支えたハウスホファーなどなど、まったく専門外の私でも少しくらいなら聞いたことがあると感じさせるような導入を経て、最近の世界情勢を地政学的な観点から著者なりに解釈を試みようとしています。その基本的な考え方は、日本はシーパワーの国であり、その点から米英と連合を組み、特に、米国と同盟関係にあるのは安全保障の観点からは理由のあることである、ということについては、本書の著者以外も合意できる点かもしれません。その上で、第8章冒頭にあるように、著者は現在の安倍政権を安全保障に関する考え方が地政学に立脚しているとして大いに評価しています。吉田ドクトリンとして米国に安全保障政策を委ねて、日本は経済復興に重点を置く、という戦後の基本路線を敷いた吉田総理以来の地政学的な基本を共有していると指摘しています。その上で、やや外交辞令にようにも聞こえますが、米国をハブにしつつ、大昔のように日英同盟も模索するような視点も見られます。ただ、本書では明確に指摘していませんが、民主党政権下で米国との同盟重視から中国に方向を変更しようと模索した挙句、結局、虻蜂取らずというか、中国も袖にしてメチャクチャな反日暴動や日中対立の激化を招いた経験から、羹に懲りて膾を吹くような態度は判らないでもないものの、米国が世界の警察官を降りる現状では視点を大きく変えて、米国との同盟をチャラにする仮定での我が国の安全保障政策も、あるいは、そろそろ考える段階に達したのかもしれません。もちろん、その場合は、米国に指揮権を委ねている自衛隊の軍事行動の自律性というものも考慮する必要があります。私は専門外のシロートですので簡単にいってのけてしまうんですが、難しい問題なのかもしれません。

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次に、佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社) です。私はこの作者の作品読んだのは、前作の江戸川乱歩賞受賞作『QJKJQ』が初めてで、この作品が2作目なんですが、当然の進歩がうかがえて、この作品の方が面白く読めました。前作はデニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』の焼き直しのような気がして、どうも、オリジナリティが感じられなかったものの、本作は、おそらく、パニック小説に分類されて、高嶋哲夫の作品などと並べて評価されるような気がしますが、作品の出来としてはともかく、オリジナリティにあふれていたような気がします。以下、ネタバレを含みます。未読の方は自己責任でお願いします。ということで、要するに、アフリカで保護されたチンパンジーが「京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト」、通称KMWPなる霊長類の研究所、これは我が母校の京大の霊長類研究所とは違って、天才的なAIの研究家で大富豪となったシンガポール人によって設立された民間の研究機関ですが、そのKMWPに収容され、ふとしたきっかけで警告音を発してしまい、その警告音がヒトを含む霊長類を同種の生物の殺戮へと向かわせる、というものです。ただ、主人公の霊長類研究者とキーパーソンの1人であるシャガという若者など、鏡像認識の特殊な要因により軽微な影響もしくはほとんど影響を受けないヒトもおり、主人公がそのチンパンジーを始末する、というものです。警告音に対する遺伝子的な対応の違い、鏡像認識と警告音によって引き起こされるパニック現象との関係、さらに、シンガポール人大富豪がAI研究を手終いして霊長類研究に乗り換えた理由、などなど、とてもプロットがよく考えられている上に、タイトルとなっているankと名付けられたチンパンジーの警告音が引き起こすパニックの描写がとても印象的かつリアルで、さすがに作者の筆力をうかがわせる作品です。舞台を京都に設定したのも、霊長類研究とパニックが生じた際の人口や街の規模、さらには、外国人観光客の存在などの観点から、とても適切だった気がします。ただ、難点をいえば、現在から約10年後の2026年10月に舞台が設定されているんですが、AIとか霊長類研究とかの、かなりの程度に最新の科学研究を盛り込みながら、ソマートフォンとか、SNSとか、動画のアップロードとか、現状の技術水準からまったく進歩していないような気もします。このあたりは作者の科学的な素養にもよりますし、限界かもしれませんが、ここまで進歩内なら現時点の2017年でいいんじゃないの、という気もします。でもいずれにせよ、この作者の次の作品が楽しみです。

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最後に、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』上下(集英社文庫) です。著者は米国を代表する国際政治学者だった研究者であり、2008年に亡くなっています。英語の原題は The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order であり、邦訳タイトルは必ずしも正確ではなく、原題の前半部分だけを抜き出している印象です。英語の原点も邦訳もいずれも1998年の出版です。何を思ったか、集英社文庫から今年2017年8月に文庫版として出版されましたので、私は初めて読んでみました。よく知られた通り、第2章で文明を8つにカテゴライズしています。すなわち、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明です。その上で、これらの文明と文明が接する断層線=フォルト・ラインでの紛争が激化しやすいと指摘しています。さらに、1998年の出版ですから冷戦はとっくに終わっており、以前は脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、もっとも深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突である、と結論しています。このあたりまでは、あまりにも有名な本ですので、読まなくても知っている人も少なくないような気がします。もちろん、西欧文明=西洋文明中心の分析なんですが、エコノミストとしては西洋文明が覇権を握ったバックグラウンドとしての産業革命をまったく無視しているのが最大の難点のひとつだろうと感じています。専門外であるエコノミストの私ごときがこの個人ブログという貧弱なメディアで語るのはこれくらいにして、あとは、もっと著名な評論やサイトがいっぱいありますから、google ででも検索することをオススメします。何よりも、実際に読んでみるのが一番のような気もします。
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2017年10月08日 (日) 14:41:00

先週の読書は経済書や人気の時代小説など計7冊!

米国雇用統計で1日ズレて日曜日になった先週の読書は、経済書をはじめとして計7冊です。かなりよく読んだ気がします。でも、先週の読書界の話題はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞だったと思います。村上春樹はどうなるんでしょうか?

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まず、小川英治[編]『世界金融危機後の金融リスクと危機管理』(東京大学出版会) です。編者は一橋大学の国際金融論を専門とする研究者であり、編者以外の各チャプターの著者も一橋大学を中心に、学習院大学、中央大学、早稲田大学のそれぞれの研究者であり、出版社も考え合わせると明らかに学術書であると理解するべきです。ですから、読み進むのはそれなりにハードルが高くなっています。でも、マクロとマイクロの両方の観点から、タイトル通りの金融リスクや金融危機管理を論じており、2007-08年のリーマン・ショックをはさんだ金融危機から、ほぼ10年を経て、やや時が経ち過ぎて気が抜けた気もしますが、それなりの分析を披露しています。ただ、繰り返しになりますが、学術書ですので読み進むのはそれほど容易でもなく、特に、本書冒頭第1章の金融危機後のリスク分析の新しい流れの解説については、数式を中心とするモデル分析であり、モラル・ハザードという聞きなれた概念からモラル・ハザードに限定されない逆選択などの情報理論、あるいは、ネットワーク効果なども含めて、従来からの、というか、リーマン・ショック以前に主流であった金融リスク分析モデルである無裁定価格アプローチの限界を明らかにしつつ、決定論と確率論を比較する試みなどは、かなり理解が難しいといえます。第1章の結論として、モラル・ハザードの理論的な分析として、ブラウン運動に基づく正規分布からの乖離、下方へのジャンプ確立を服ネタ確率密度の変更可能性の考慮、それに、いわゆるファット・テールの問題など、そういった従来にない前提の変更などを行えば、シャープ比の引下げに伴うリスク資産価格の適切な評価、あるいは、リスク効用を投資者の限界効用と逆方向にヘッジさせるように動かす可能性など、極めて興味深い指摘がいくつも込められているだけに、今後の実証が楽しみながら、金融の専門家ならざる通常のビジネスマンには理解が難しそうな気もします。ほかに、私の目から見て興味深いテーマは危機時の流動性、とくに、世界経済レベルでの流動性の最終的な供給者、すなわち、Internationa Lender of Last Resort の議論なんですが、国際的な流動性が米ドルであるならば米国連邦準備制度理事会(FED)にならざるを得ないが、世界経済の必要性と米国経済の環境が必ずしも一致するとは限らない、という指摘も可能性は低いながらあり得ることだと受け止めました。2008年リーマン・ショック後の金融危機に際しては、世界経済の観点からも、米国経済の観点からも、FEDが大幅な金融緩和、量的緩和を含みレベルの金融緩和を行うべき経済情勢の一致が世界経済レベルと米国国内経済レベルで見られましたが、特に、物価上昇率の水準次第で、必ずしも世界経済の必要と米国国内経済の必要がFEDの金融政策レベルで同じになるかどうかは保証されていうわけではありません。そうなると、国際通貨基金(IMF)はどうなのか、私が3年間暮らしたインドネシアでは、少なくとも、IMFに対する信任が高かったとはいえないと思いますし、果たして、国際流動性の最終的な供給者はどの機関が担うべきか、まだまだ国際金融の問題が解決されるには時間がかかるのかもしれません。

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次に、西川祐子『古都の占領』(平凡社) です。著者は仏文の研究者から、女性史などの研究もしているようで、京都的には、私の記憶ではその昔に寿岳章子先生がいらっしゃいましたが、その後継かつ小型版といったところなんだろうかと受け止めています。ということで、本書は、読んだ私の目から見て、京都における戦後占領の歴史の研究書というよりも、ジャーナリスト的にトピックやキーパーソンをインタビューした結果を取りまとめたものであり、逆から見て、著者である取材者のバイアスは当然に反映されています。すなわち、占領軍の兵士に着目する場合でも、京都の地域住民の生活に貢献し、市民から感謝されるような兵士もいれば、占領軍の治外法権などの特権的優越的な地位を悪用して強盗強姦などの犯罪行為そのもので地域住民を苦しめた兵士もいたんでしょうし、統計的なマクロの把握と比較であればともかく、どちらに着目するかは取材者のバイアスです。その意味で、私は本書がどこまで意味ある労作なのかは判断しかねます。同時に、戦勝国から進駐してきた占領軍と敗戦国の地域住民ですから、俗に表現しても、仲良く協同して占領目的である非軍事化と民主化を進められれば、それに越したことはないものの、決して対等な関係であるハズもなく、もしも、仮にもしもですが、本書でいくつか取り上げているような交通事故や売買春などでは、加害者と被害者に分かれるとすれば、占領軍が加害者的な立場になり、京都の地域住民が被害者的な役回りになる、というのはある意味で自然かもしれません。そして、それは大昔の京都だけではなく、現在の沖縄でも生じている関係であることはいうまでもありません。もちろん、大昔の京都と現在の沖縄の重要性を論ずるつもりはありませんし、すでに戦後長らくの期間が経過し、記録や記憶が失われつつあり、あるいは、意識的か無意識的かは別にして、決して意図的に思い出したくもないと考える日本人が少なくない中で、こういった資料の歴史を何らかの形で残しておく作業は貴重なものといえます。

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次に、マイケル L. パワー/ジェイ・シュルキン『人はなぜ太りやすいのか』(みすず書房) です。著者2人は産婦人科の医師、というか、研究者であり、邦訳者も医学の研究者です。英語の原題は The Evolution of Obesity であり、直訳すれば、「進化する肥満」とでもするんでしょうか、2009年の出版です。ということで、タイトルから明らかなように、肥満をテーマにしており、肥満とはBMIで体重との関係を測ったりはしているものの、基本的に、脂肪の過剰と定義しています。そして、もちろん、肥満については健康への阻害要因として、好ましくないものと捉えられています。しかし、人類の長い長い歴史からして、肥満が問題となり始めたのはせいぜいが20世紀からの100年間であり、肥満がほぼほぼ存在しない前史時代や人類史の初期段階を別にしても、19世紀くらいまでは肥満が問題視されることはなかったと指摘しています。まあ、人類の寿命がそれほど長かったわけでもないことから、肥満が問題視されることもなかったんではないかと考えられます。でも、人類の寿命が長くなるに従って、肥満が死亡率の高さと相関していることが注目されたようです。そして、本書では肥満に対して進化生物学的アプローチを中心に迫っており、結論として、肥満の増加はヒトという種の適応的生物学的特性と現代という時代環境との間のミスマッチに起因する、というものです。すなわち、種としての誕生以来、人類は生命維持に必要な食物獲得のために身体を動かさねばならず、現在のようなあり余る食物に恵まれることが稀な環境で数十万年を生き延びて来たわけであり、生存のための適応は、当然、食物というエネルギー摂取の効率を高める方向に働いたんですが、20世紀以降のここ100年ほどの期間では、高カロリー食料が市場に溢れ、例えば、ピザが自宅の玄関まで宅配され、身体活動は余暇のスポーツという贅沢に変わった一方で、身体は過去の進化の刻印をとどめているため、食物摂取を通じたエネルギーの過剰蓄積への歯止めが弱いまま人類は飽食の時代を迎えた、その結果が肥満である、ということになります。加えて、進化の過程で大型化した脳を支えたのが脂肪だったこと、また、脳の発達のために赤子が脂肪を豊富に蓄えて生まれてくることも、太りやすさの背景にある、と指摘します。そして、最後の結論として、「肥満の回避も何かひとつによって達成できるわけではない」ということになりますので、とても学術的な内容ながら、当然、実践的ではないわけです。私のような専門外の者の読書としては、ともかく難しかったです。一定の前提を必要とする本のような気がしますので、決して、多くの方にはオススメできません。私自身も半分も理解できたとは思えません。でも、興味あるテーマを取り扱っていることは事実です。

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次に、三浦しをん『ぐるぐる♡博物館』(実業之日本社) です。著者はご存じの通りの直木賞作家です。ミステリ作家以外で、私のもっとも好きな作家のひとりです。ですから、余りにも当たり前ですが、文章はとっても達者です。訪れた、というか、本書の表現では、ぐるぐるした博物館は、東京の国立科学博物館をはじめとして、計10館です。本書で取り上げている、というか、同じことですが著者が訪れた順に、長野の茅野市尖石縄文考古館、東京の国立科学博物館、京都の龍谷ミュージアム、静岡の奇石博物館、福岡の大牟田市石炭産業科学館、長崎の雲仙岳災害記念館、宮城の石ノ森萬画館、東京の風俗資料館、福井のめがねミュージアム、大阪のボタンの博物館、となっており、番外編としてコラムで取り上げられているのが3か所あり、熱海秘宝館、日本製紙石巻工場、和紙手すきの人間国宝である岩野市兵衛さんの工房、となっています。だいたいにおいて、名は体を表していますので、何の博物館か明らかではないかと思いますが、石ノ森萬画館の「萬画」はマンガの意味ですし、京都の龍谷ミュージアムは龍谷大学という大学があり、浄土真宗のお寺が母体となっていますが、ご同様に龍谷ミュージアムも西本願寺が母体となっていて、でも、浄土真宗に限定されず幅広く仏教を中心にコレクションを行っているようです。私は三浦しをんのエッセイは何冊か読んでいて、やや年代は異なるものの、酒井順子のエッセイについては、調べがよく行き届いていて、お利口な大学生や大学院生が提出するリポートのような印象があるのに対して、三浦しをんのエッセイは、バクチクの追っかけをやっているとか、電車に乗っている際に耳をダンボのようにして聞き及んだ街の話題とか、かなりエッセイストの生活に密着した話題が多かったような気がしていたんですが、最近では、キチンとした取材に基づいてジャーナリストのような、というか、雑誌に連載されるに堪える調べの行き届いたエッセイになっているようです。本書の博物館訪問記のエッセイも、とてもよく取りまとめてあり、ページ数の関係か何か、ボリューム的にもう少し詳細な情報が欲しいと思わないでもありませんが、楽しく読める達者な文章のエッセイに仕上がっています。テーマも博物館ですから、目からウロコの知識も得られて一石二鳥ではないでしょうか。ただ、マンガに関する石ノ森萬画館訪問の際に、とても興奮した文章が見受けられますが、マンガに関しては10年ほど前に開館した京都国際マンガミュージアムを取り上げて欲しかった気がします。それだけが残念です。

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次に、畠中恵『とるとだす』(新潮社) です。昨年15周年を迎えた「しゃばけ」シリーズの最新第15話です。長崎屋の跡継ぎの若旦那である一太郎を主人公とし、次の「まんまこと」シリーズとは違い、妖がいっぱい出て来るファンタジーです。今年2017年1月号から5月号までの「小説新潮」に連載されていた5話を収録しています。すなわち、「とるとだす」、「しんのいみ」、「ばけねこつき」、「長崎屋の主が死んだ」、「ふろうふし」です。5話が続きものになっており、一太郎の父親である長崎屋藤兵衛が広徳寺での薬種問屋の寄合で倒れてしまいますが、その原因は他の薬種問屋さんたちに勧められるまま、沢山の薬を一度に飲んでしまったことで、昏睡状態になってしまいます。藤兵衛旦那の意識を回復させるべく一太郎は奔走することになります。それが「とるとだす」とそれに続く5話で語り尽くされます。「しんのいみ」では、一太郎は江戸の海に現れた蜃気楼の世界へと紛れ込んでしまいます。さらに、「ばけねこつき」では、一太郎は奇妙な縁談話を持ちかけられ、騒動に巻き込まれます。「長崎屋の主が死んだ」では、詳細不明ながら長崎屋に恨みを持って死んだ狂骨という骸骨の亡霊のような妖もどきが現れ、次々と人を襲い、中には死に至るものも出てしまいます。最後の「ふろうふし」では、神様の大黒天が現れて長崎屋藤兵衛の本復のためのヒントをくれて、一太郎が常世の国に渡ろうとしますが、結局、お江戸の中で騒動に巻き込まれてしまいます。でも、最後は、父親の藤兵衛が回復し、めでたし、めでたしで終わります。

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次に、畠中恵『ひとめぼれ』(文藝春秋) です。人気シリーズ「まんまこと」最新刊第6話です。町名主の跡取りであるお気楽者の麻の助とその友人を主人公にし、お江戸を舞台にするシリーズで、「しゃばけ」のシリーズと違って、妖が登場しません。普通の人間ばかりです。その上、時が流れます。子供は大きくなり、老人は死んだりもします。このシリーズ第6話は、『オール読物』に2015年から16年にかけて掲載された6話を収録しています。すなわち、札差の娘と揉めて上方へ追いやられた男の思わぬ反撃に端を発する「わかれみち」、盛り場で喧伝された祝言の約束が同心の一家に波紋を呼び起こす「昔の約束あり」、麻之助の亡き妻に似た女にもたらされた3つの縁談の相手が目論むホントの目的を探る「言祝ぎ」、火事現場で麻之助が助けた双子から垣間見える家族や大店の内情とそれを原因とする騒動に巻き込まれる「黒煙」、大店次男坊が東海道で行方不明となり店の内情が明らかとなる「心の底」、沽券が盗まれた料理屋に同心一家と雪見に行ったから麻の助がその料理屋の隠された暗部を明らかにする「ひとめぼれ」の6話です。町人の営む大店や料理屋などで、一見して外からはうかがい知れない何らかの暗い部分が、麻の助の巻き込まれる騒動により明らかとなって行く短編が多く収録されており、町人や武士の商売や一家の内情に深く切り込んだ内容となっています。もちろん、楽しいことばかりではなく、暗い部分の方が圧倒的に大きいんですが、それなりに明るく乗り越えようとする麻の助とその仲間たちを微笑ましく応援できる好編です。

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最後に、木俣冬『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書) です。著者は、ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポ、インタビュー、レビューなどを得意とするライターです。この新書では、タイトル通り、NHKの朝ドラについて、特に2010年前後くらいからSNSなどで拡散し、再び大きな盛り上がりを見せていると分析しています。朝ドラが人口に膾炙し始めるのは、1966年の「おはなはん」からであるのは衆目の一致するところであり、1983年のバブルの走りのころの「おしん」がもっとも注目を集めたのもご同様です。しかし、年末大晦日の紅白歌合戦と同じで、朝ドラも長期低落傾向にあったんですが、2007-09年くらいにほぼ底を打ち、2010年度上半期の「ゲゲゲの女房」から再び上向きに転じています。最近では「あさが来た」や「とと姉ちゃん」などがヒットといえますが、かなり全体的にいい出来栄えではないかと思います。というのは、私は実はほとんどの朝ドラを毎日のように見ているからです。2003年の夏の人事異動でジャカルタから一家で帰国して、その2003年度後半は「てるてる家族」でした。本書の著者によれば、低迷期入りの第1陣を飾った作品だそうですが、石原さとみは決して悪くなかったと記憶しています。最近お作品で私が途中で見るのを止めてしまったくらいにひどかったのは「まれ」でした。本書でもややキツい評価になっています。「てるてる家族」の後は低迷期に入り、「ゲゲゲの女房」の後もいくつか駄作はありましたが、本書では2011年下半期の「カーネーション」が史上最強の朝ドラと評価されています。そうかもしれません。先週月曜日から下半期の「わろてんか」が始まりました。期待は膨らみます。
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2017年09月30日 (土) 14:26:00

今週の読書は経済書から京都本まで計6冊!

今週の読書は計6冊です。1週間単位で4-5冊で抑えたいところですが、今週は新書が2冊あり、冊数から判断されるほどのオーバーペースではありません。すなわち、私はついつい新書は読み飛ばしてしまう方なので、モノにもよりますが、2時間ほどで読み終える新書もめずらしくありません。今週読んだ新書のうちの1冊は京都本でしたので、特にスラスラ読んでしまった気がします。

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まず、ロバート・プリングル『マネー・トラップ』(一灯舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、Central Banking という雑誌の創始者で、その発行会社の会長だそうです。同時に、金融評論家・経済記事編集者・企業家でもあるそうです。英語の原題は The Money Trap ですから、邦訳書のタイトルはそのまま直訳です。2011年にハードカバー版が、2014年にペーパーバック版が、それぞれ発行されています。ということで、いわゆるリーマン・ショック後に世界経済にあって、経済成長を回復し、金融危機が残した諸問題を解決することへ向けた各国の政府や中央銀行の努力が、極めて限定的な効果しかもたらさなかったのかについて、本書では、弾力的な信用供給・機能不全に陥っている銀行システムと未改革の国際通貨制度の相互作用に求め、これをマネー・トラップと呼んでいます。いずれも同じ経済や金融の解説書なんですが、本書でも、経済や金融の歴史をひも解き、リーマン・ショック後に行われた対応策、そして、いろいろと提案されている政策を広い範囲にわたって分析しています。要するに、アレが悪かった、コレが気に入らないと、いろいろと政府や中央銀行の失政を指摘し、銀行経営者などの行動を批判しているわけです。その意味で、極めてありきたりな経済・金融書といえます。加えて、2011年までの情報で執筆されていますから、サマーズ教授らの secular stagnation の議論は踏まえていません。しかし、とてもユニークなのはその解決策であり、ブキャナン的な意味で米ドルを憲法化することにより国際通貨制度を固定化させ、さらに、銀行をナロー・バンク化して、英国でいうところのユニット・トラスト、米国のミューチュアル・ファンドで運用する、逆にいえば、銀行の資産運用先を限定して勝手な資産運用を禁じる、というものです。国際通貨制度をカレンシー・ボード的に米ドルにペッグさせるというのは、東南アジアなどでもいくつも例がありますし、その昔は北欧の国の中には独マルクにペッグした金融政策運営をしていた国もありました。ようするに、トリフィンの国際金融のトリレンマのうち、固定為替相場と自由な資本移動を認めて、各国独立の金融政策を放棄する、ということです。しかしながら、本書では否定していますが、これは形を変えた金本位制にほかならず、おそらく失敗するものと私は予想していますし、何よりも、こういった金融政策の放棄に積極的に応ずる国は、ユーロ圏がかなりそれに近いとしても、そう多くはないものと認識しています。

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次に、樫原辰郎『帝都公園物語』(幻戯書房) です。著者は大阪ご出身の脚本家、映画監督、フリーライターだそうですが、少なくとも本書に関してはしっかり下調べが行き届いている気がします。冒頭の有栖川宮記念公園などから始まって、上野公園はそれほどではないとしても、本書の中心は日比谷公園と新宿御苑と明治神宮、というか、明治神宮を含む代々木公園となっています。明治期になって放棄されたお江戸の武家屋敷を新政府が接収して、その中から、霞が関の官庁街を設計し、銀座の煉瓦街を作り出し、練兵場や弾薬庫などの軍事施設を置き、それらとともに公園が計画されていった歴史的な経緯もなかなか興味深く読ませます。本書が指摘する通り、公園は建造物とは異なり、造園や園芸に時間がかかります。先々を見通して、小さな苗木を植えれば、開園当初は物足りなく感じる人々もいますし、当時の技術的水準では大きな樹木を移植するのは難しかったかもしれません。大きな樹木の移植ということでいえば、日比谷公園の首かけ銀杏の由来も明らかにされています。また、本書や類書で見強調されている通り、明治期は欧風文化を摂取したわけで、その中心はお雇い外国人と留学帰りの人々だったわけですが、当然に、我が国と欧米とでは違いがあるわけで、特に、公園作りの植生に関しては差が大きかったのかもしれません。東京都のシンボルになっている銀杏については、本書ではアジアでしか見られず、欧州では氷河期に絶滅したとされていますし、逆に、欧米では適した樹木でも我が国ではうまく根付かない、といった場合も少なくないような気がします。また、本書では公園を舞台にした社会現象や風俗などにも目配りされており、日露戦争の終結に反対して集会参加者が暴徒化した日比谷焼打ち事件が特に大きく取り上げられています。私のような公務員のホームグラウンドである霞が関からの地理的な距離の近さから、また、吉田修一の芥川賞受賞作である「パークライフ」を思い出しつつ、ついつい、日比谷公園に興味を持って読み進みましたが、新宿御苑も農業試験場として始まった歴史なども知りませんでしたし、なかなかオフィスやご近所の井戸端会議でお話しできるトピック満載、という気がします。

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次に、京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館) です。著者は滋賀県立大学教授であり、平安時代を中心とする中世史の研究者です。ということで、タイトル通りに、牛車についての解説書です。次の『荷車と立ちん坊』が幕末から明治期の東京を中心とする物流を取り上げているのに対して、本書は牛車ですから平安時代を中心とする中世の貴族などの人の乗り物にスポットを当てています。現在の自動車になぞらえれば、輸入高級車から大衆車まで、牛車のランクは当然にあり、上級貴族にしか許されなかった種類の牛車と、買い貴族が用いだ牛車は違います。女性が乗る牛車と男性向けも違うらしいです。私はまったく知らなかったんですが、牛車は後ろ乗りの前降りだそうで、それを間違えて都の物笑いになった田舎での木曽義仲がいたりします。ただ、当時から乗馬の習慣はあったわけで、スピードを必要とし、また、手軽に乗れる馬に対して、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示し、いわば、社会的なステータスを表現するひとつの手段でもあったと解説されています。ですから、より上位者の乗ったと思しき牛車とすれ違ったら、下位の牛車は道の脇に止めて、牛を車から離すことにより車全体で前傾姿勢を取って、お辞儀のような姿勢を示す必要があったとされています。ただ、畳が敷いてあるとはいえ、木製の車輪でサスペンションもあったとは思えず、乗り心地がさほどよかったとは考えられないと指摘されています。また、室町期にはすっかりすたれたものの、歴史上、著者が確認できた範囲で、最後の牛車は江戸時代終盤に降嫁された和宮ではなかろうか、とひも解かれています。本書はこういった牛車に関する歴史的な基礎知識を読者に示すだけでなく、それを基に、幅広く古典文学や資料に加えて、絵巻物なども動員しつつ、失敗談などのエピソード、ただし、『源氏物語』などのフィクションありなんですが、かなり実態に近いと見なせるエピソードをはじめ、牛車をめぐる悲喜劇をかなり大量に引用している点も魅力ではないでしょうか。

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次に、武田尚子『荷車と立ちん坊』(吉川弘文館) です。著者は早大教授であり、専門分野は歴史ではなく、社会学のようですから、出版社の特色として歴史書が多いものの、著者の専門分野の社会学の視点からの歴史書と考えておいた方がよさそうです。明治維新後の近代日本において、まだ荷車は人力で動かしており、それを助けるべく、上り坂などでたむろする立ちん坊と呼ばれるアシスト要員がいたりしたわけです。典型的には、「車夫馬丁」と蔑みの目で見られるなど、けしからぬ風潮がありますが、本書ではそれに疑問を呈しつつ、近代日本で激増した物流を支える人々の仕事と生活を明らかにします。とはいえ、こういった車引きの生活は苦しく、社会の下層をなしていたことも事実です。私は高校のころからしばらく読んでいた『ビッグコミックオリジナル』に連載されている「浮浪雲」を思い出してしまいました。「浮浪雲」は幕末期の品川の物流を支配する夢屋の頭を主人公にしたマンガであり、勝海舟、清水次郎長、坂本龍馬など歴史上実在する著名な人物も多数登場して、主人公と親交を持ったりしています。主人公は東海道の物流を支配し、その意味で、絶大な権力を持ちながら、ひょうひょうと遊び歩き、女性を見れば老若美醜を問わず、「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞を向ける好人物です。このマンガの主人公である雲が絶大な権力を握るのは、要するに、私の考える物流、本書でスポットを当てている分野が、とてもネットワーク的な分野であり、いわゆる歯車的なパーツがびっしりと詰まっているからです。すなわち、世界はもとより、日本全国すべての物流をカバーしきれる組織はそれほどなく、何らかの意味でいわゆる荷物をリレーしなければなりませんから、どこかの歯車がうまく回らないと、すぐに物流全体がダメになりかねません。しかし、他方で、日本、というか、日本人の得意な分野でもあり、例えば、コンビニの品揃えなどは物流のバックアップがなければ、どうにもなりません。明治期の物流は移動手段が機械化される前の段階では人力に頼る部分が大きく、それなのに、決して実入りはよくなく社会的な地位も高くない、といった階層により支えられてきていました。本書では、そういった社会階層の仕事と生活を明らかにしつつ、私のような専門外のシロートにも判りやすく解説してくれています。

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次に、矢部宏治『知ってはいけない』(講談社現代新書) です。著者は、よく判らないんですが、博報堂勤務を経て、現在は著述業、といったところなんでしょうか。本書では、我が国の対米従属の基礎と実態を明らかにしようと試みています。どこまで評価されるかは読者にもよりますが、最近では、日本が米国のポチである事実はかなりの程度に理解が浸透しており、特に、本書でも指摘されている通り、2012年の孫埼享『戦後史の正体』からは、日本がホントの意味での独立国かどうかすら疑問視する向きも出始めたりしています。本書では、著者は、対米従属の対象は米国政府ではなく米軍であり、日米合同委員会が我が国権力構造の中心に据えられて、米軍が我が国の高級官僚に直接指示を下す体制になっている、と主張しています。私は公務員ながら高級官僚とされるエリートに出世できなかったわけで、どこまで本書の主張が真実かは請け負いかねますが、かなりの程度に否定できない部分が含まれているような気がすることも確かです。例えば、本書の主張にひとつに、自衛隊は米軍指揮下で軍事行動を行う、というのがありますが、これはかなり真実に近い、と私は考えています。ですから、その昔の『沈黙の艦隊』のように、米軍が自衛隊を攻撃することはあっても、その逆なないんだろうと考えています。p.94 にあるように、アメリカへの従属ではなく米軍への従属であり、精神的な従属ではなく、法的にガッチリ抑え込まれている、というのはかなりの程度に正しい可能性があると受け止めています。その意味で、本書が矛盾する主張、すなわち、日本は法治国家ではない、と主張しているのは間違っていますが、明確に間違っているのはこの1点だけかもしれません。最後に、9章構成の9点の主張の各章の扉に4コマ漫画を配しています。これもなかなかよく出来ています。

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最後に、大野裕之『京都のおねだん』(講談社現代新書) です。年に1-2冊読む京都本です。本書の著者はチャプリン研究科にして、脚本家、映画・演劇プロデューサーです。大阪出身で、京都大学入学とともに京都に引っ越し、現在でも京都在住だそうです。ということで、私の専門分野なんですが、タイトル通り、京都のおねだんについて調べています。第3章では絶滅危惧種のひとつとして京都大学が取り上げられています。それから、京都大阪の夏の風物詩として地蔵盆にスポットを当てています。地蔵盆が京都と大阪くらいしかないのは、何となく知っていましたが、お地蔵さんを貸し出すサービスがあるのは知りませんでした。それから、季節の風物詩ということで、団扇や扇子について論じられていますが、私の子供のころには、子供だったので詳細は知りませんが、毎年、福田平八郎先生の野菜や花の絵を団扇にして配っているお店がありました。我が家にはナスや朝顔を描いた福田平八郎先生の絵の団扇があった記憶があります。もちろん、コピーなんですが、それなりの値打ちモノだったように感じないでもありませんでした。また、名曲喫茶柳月堂のことが取り上げられていますが、私はクラシックではなくジャズをもっぱらに聞いていましたので、荒神口のしあんくれーるの方が記憶に残っています。どちらも会話を交わすことは出来ません。本書にもある通り、柳月堂はそもそも会話が禁止されており、しあんくれーるでは余りの大音響でジャズがかかっていて、人間の出す大声の限界を超えているような気がしました。それから、花街のお話がありますが、京都の西の方にある島原は忘れられているようです。私のが大学のころに属していたサークルではイベントの招待状の発送準備を島原の歌舞練場で作業する伝統がありました。冒頭で作者は本書が京都本であることを否定していますが、それなりに立派な京都本だという気がします。
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2017年09月23日 (土) 19:26:00

今週の読書は話題の経済書をはじめ計5冊!

今週は話題の経済書をはじめ、以下の計5冊とかなりペースダウンしました。これくらいが適当な読書量ではないかという気もしますが、さらにもう少し減らすのも一案ではないかと思わないでもありません。

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まず、 アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』(文藝春秋) です。著者は東独生まれで、アマゾンのチーフ・サイエンティストの経験もある人物です。科学者というか、起業家というか、そんな感じです。英語の原題は Data for the People であり、今年2017年の出版です。そして、英語の原題よりも興味あるのは上野表紙画像の右下に見える英語のサブタイトルであり、post-privacy economy をいかに消費者のために作り上げるのか、といった問題意識のようです。ということで、私は従来からプライバシーには2種類あって、片方が市場である消費生活で何を買ったとかのプライバシーは、もはや成立しない、と考えています。ただ、もうひとつのプライバシー、典型的にはベッドルームのプライバシーは守られるべきだと思います。タダ、ビミョーなのは片方が市場であって、市場でないような、政府による大きな規制のもとにある市場との取引、典型的には医療や教育などの場合は、個別に考えるべきだという気もします。ただ、本書の著者の見方は、私のべき論ではなく、事実として、ベッドルームのプライバシーすらも守られていない、という考えが第4章以下で強く主張されています。例えば、ベッソルームとはいわないまでも、在宅か不在かはスマート・メーターの電気の使用状況により判断できる、とか、町中の至る所に設置されている監視カメラとか、スマホのGPSにより個人の位置情報はほぼほぼ完璧に把握されている、とかです。その上で、英語表現的にいえば、get even だと思うんですが、一方的に消費者から企業に情報を提供するだけではなく、企業が収集し蓄積している自分に関する情報の開示を求める必要を論じています。あるいは、企業と対等な情報を収集するため、例えば、コールセンターへの電話は消費者サイドの承諾を得た上で録音されていますが、消費者には録音データは開示されませんから、同時に消費者の方でも企業サイドの承諾を得た上で録音するとか、といった消費者サイドでの対応も必要と論じられています。確かに本書を読むと、私のように2種類のプライバシーを分けて論じるのは、現実問題として、もはやその段階を超えているのかもしれないと感じさせられます。最後に、タイトルがよろしくありません。アベノミクスのように、アマゾンの経営上のポリシーとか、アマゾン的な新たな経済学を思い浮かばせるようなタイトルですが、中身はプライバシー情報に基づく企業と消費者の緊張関係を論じています。

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次に、坂野潤治『帝国と立憲』(筑摩書房) です。著者は東大社研の歴史学者であり、ご専門は日本近代政治史です。ですから、私はかなり楽しみに読み始めたんですが、読後は少し失望感もありました。すなわち、本書の主眼は帝国主義と立憲主義のせめぎあいの中で前者が優位を占めて、結局、日本が侵略戦争に突入してしまった、という反省から、戦争回避の可能性を歴史から探る、というものだったハズなんですが、サブタイトルにも見られる通り、日中戦争の開戦回避というかなり局所的な話題に終始したきらいがあります。実は、私も歴史の大きな流れには興味があり、例えば、地方大学に出向していた際に学生諸君に質問し、コロンブスが1492年の新大陸を発見しなかったら、現時点まで米大陸は発見されていなかったかどうか、を問うたところ、当然ながら、あのタイミングでコロンブスが米大陸を発見しなくても、誰かがいつかは発見していただろう、という見方が圧倒的でした。同じことは昭和初期の中国との開戦にも当てはまるような気がします。ですから、あおのタイミングで、あの場所で日本が中国に侵略戦争をしかけていなかったとしても、大きな歴史の流れとして日中戦争は起こっていた気がします。その根本的な歴史の流れの解明を私は期待していたんですが、1874年の台湾出兵に始まる日中戦争への大きな歴史の流れを解き明かす試みは、少なくとも本書ではそれほど明らかにはされなかったと受け止めています。私の専門分野ではないので、著者が別の学術書か何かで明快な解答を与えてくれているのかもしれませんが、残念ながら、本書ではクリアではありません。というか、私程度の読解力と歴史に対する素養ではクリアに出来なかったのかもしれません。圧倒的な大国、あるいは、歴史上の先進国として仰ぎ見ていた中国に対する侵略行動については、もっとさかのぼらなければ解明できない可能性がある、としか私には考えようがありません。侵略や植民地化で特徴つけられる帝国主義を防止するものとして立憲主義を対置した時点で、少し問題意識が違っていたのではないか、という気もします。また、立憲は立憲主義ではなく、帝国は帝国主義とは違う、とする著者の言葉遊びにもなぞらえられかねない主張も私の理解を超えていました。

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次に、新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房) です。著者は図書館情報学を基礎に、日本近世史を専門分野とする研究者です。著者のおかげなのか、編集者が優秀なのか、構成がとてもシンプルかつ明解で、読み進むに当たってヘンにつっかえたり戻ったりする必要もなく、とても助かります。我が国の古典古代である飛鳥時代の聖徳太子のころから説き起こして、近代的な西洋文化に基づく図書館が出来る大昔からのわが国特有の図書館的な機能を持った施設の歴史をひも解いています。さすがに、第1章の古代から中世にかけての図書館はそれほど史料もないのか、大雑把にしか概観できていませんが、第2章と第3章の江戸時代が本書のタイトル通りにメインとなる部分であり、第2章の幕府の図書館、第3章の地方の藩校などの図書館などなど、興味深いエピソードが満載です。特に、私のような東京都内各区立図書館のヘビーユーザとして、毎週最低でも3-4冊は借りるタイプの読書をする人間には、とりわけ身に染みる部分もあって興味深く読めました。私のようなヘビーユーザでなくても、図書館や読書に対する関心が高まるような気がします。特に、我が国の図書館や読書の歴史を考えると、欧州中世にキリスト教の教会が知識や情報を独占し、そのために庶民が理解できないラテン語を大いに活用した歴史があり、それをルターの宗教改革やグーテンベルクの活版印刷が大きな変革を準備したのとは違い、決して識字率などが高かったわけではなかったものの、それなりに地方でも教養ある教育が実施されており、しかも、漢字だけでなくかな文字の普及もあって、読書の普及も見られたような気がします。本書本来のスコープである江戸幕府期に紅葉山文庫が整備充実され、系統的な収集と管理が行われて、しかも、改革者たる8代将軍吉宗が大いに利用したくだりなど、やや吉宗が借り出した書籍のリストがウザい気もしますが、それなりに興味深いものがあります。加えて、江戸時代に小山田与清が商人として築いた財を投じて江戸の町で解説した私設図書館など、当時の文化水準の高さを象徴する新発見、というか、私にとっての新発見もありました。ただ、図書館についての本ですので、例えば、グーテンベルクの活版印刷に相当するような蔦屋の印刷出版業に関して少し情報が不足するような気もします。図書館は図書を収集・管理するわけですから、出版される本と借りる読書人から成立していることは忘れてはならないと思います。

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次に、岡本和明・辻堂真理『コックリさんの父』(新潮社) です。タイトルの人物は一世を風靡したスプーン曲げのユリ・ゲラーとともに、1979年代の我が国オカルト界を席巻した中岡俊哉という人物です。実は、私は1970年代のそのころに、いかにもオカルトに興味を持ちそうな中高生だったんですが、まったく記憶にありません。なお、著者のうち、最初の著者はこの中岡俊哉のご令息で、後の方の著者は放送作家だそうです。ということで、主人公の中岡俊哉は「オカルト」というよりは、ご本人は心霊科学の研究者などと称していたようなんですが、本書はその生い立ちから始まって、戦争期に渡満し、その後もしばらく中国大陸にとどまって、北京放送のアナウンサーをしたりした後、我が国に帰国し、中国大陸の怪奇物語などを少年誌に寄稿しつつ、次第に超常現象の第一人者の1人とされ、テレビ番組で活躍したり、といった人生を概観しています。2001年に亡くなったそうです。10代で満州に渡ったあたりもそうですが、かなり冒険的な人生観をお持ちだったのかもしれません。ユリ・ゲラーのスプーン曲げには終始懐疑的だったようですが、クロワゼットの透視力を信頼してテレビでも取り上げたりした後、本書のタイトルであるコックリさんの体系的な解明に努めたりしています。コックリさんについては、私の中高生のころに流行ったりしていましたが、私はまったく信じておらず、やったこともありませんし、親しい友人がやっているかどうかも知りませんでした。そして、中岡俊哉はコックリさんの後、心霊写真やハンドパワーの方に向かいます。心霊写真については、ちょっと違うかもしれませんが、例の「貞子」の元になった『リング』のビデオテープへの念写などがオカルト界では有名かもしれませんが、私は可能性あると考えているのは、限りなく医療行為に近くて胡散臭いんですが、ハンドパワーの方です。というのは、医学の世界では、経済学のような因果推論というものはほとんど重視されておらず、単なる統計的な有意性で病気やケガを治しているように私には見えるからです。例えば、統計的にはセックスと妊娠はほぼ無相関なのだそうですが、明らかに因果関係をなしているのは、高校を卒業したレベルの知性を持った日本人であれば理解していることと思います。同様の知性があれば、喫煙と発がんの間に一定の相関があることも情報として知っている可能性が高いと私は考えますが、不勉強にして、その因果関係はどこまで明らかになっているかは私は知りません。おそらく、単に統計的に有意な発がん率の差が喫煙者と非喫煙者の間にある、という事実だけではないかと想像しています。その昔は、ナイフでケガをしたら、傷口とともにナイフの方にも塗り薬を塗布していたらしいですから、このあたりはオカルトに近いのかもしれません。

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最後に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書) です。著者は紛れもなくバッタの研究者です。バッタの中でも、アフリカで数年に1度大発生し、農作物に大きな被害を与えるサバクトビバッタだそうです。エコノミストの私はもちろん専門外であり、相変異を示すものがバッタ(locust)、示さないものがイナゴ(grasshopper)というのも知りませんでした。当然に実感ありませんが、日本人研究者がサハラ砂漠のバッタを研究することもあるんだ、というくらいの感想です。そして、人工的な研究室で飼育実験ばかりで野生の姿を見たことがなかったバッタの研究のため、ポスドクで研究資金を獲得してモーリタニアの研究所に2年間の予定で滞在し、本書はその間の研究とともに生活などを中心に取りまとめられています。新書としては異例のぶ厚さなんですが、読んで驚いたのは、バッタという昆虫に対しても、アフリカ途上国に対しても、著者がまったく上から目線を示していない点です。同じ高さの目線で、というよりも、ひょっとしたら、著者の自虐趣味かもしれませんが、さらに低い視点からバッタやモーリタニアを詳しく描写しています。私も開発経済学の専門家として、途上国に入ることもありますし、「指導」と称する業務を担当したこともありますが、こういった現地事情や現地人はもとより、研究対象に対する真摯な姿勢は見習いたいものだと感じました。ただ、現地語に対する学習意欲が異様に低い点は気にかかりましたが、私もジャカルタ滞在の折にマレー・インドネシア語を勉強しようとも思わなかったですし、スペイン語圏の大使館勤務をしながら、せっせと英語を勉強していたクチですから、大きなことはいえません。バッタに関する研究については何の基礎知識なくとも、モーリタニアやバッタに関して、とても実態に迫ったノンフィクションが楽しめます。
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2017年09月16日 (土) 11:49:00

今週の読書もついつい読み過ぎて計7冊!

今週の読書はぶ厚な経済書をはじめとして、以下の7冊です。先週も『戦争がつくった現代の食卓』と『世界からバナナがなくなるまえに』の食べ物関係2冊を読んだんですが、なぜか、今週も歴メシと和菓子の2冊が入っています。食欲の秋なのかもしれません。

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まず、 エドワード P. ラジアー/マイケル・ギブス『人事と組織の経済学 実践編』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国の労働経済学者であり、ラジアー教授なんぞはノーベル経済学賞に擬せられたりもしているような気がします。英語の原題は Personal Economics in Practice, 3rd Edition であり、2015年の出版です。そして、学術的な水準は大学院博士前期課程くらいに使えるテキストです。学部生ではやや難しいでしょう。ただし、1998年にラジアー教授は邦訳で同じ出版社から『人事と組織の経済学』を出版しており、やや英文タイトルに変更あったものの、中身は半分以上同じだという気がします。というのも、私は労働経済学とかのマイクロな分野はほとんど専門外なんですが、数年前に勤務上の都合で国際共同研究を担当し、まったく専門外ながら労働や雇用に関する研究のグループの研究取りまとめをせねばならなかったことがあり、その際に1998年出版の旧版を読みました。旧版の方がややページ数が多かった気はしますが、冒頭の採用に関するチャプターなんか、安定した生産性を示す労働者よりも、リスクある労働者を雇うべし、といった結論も旧版から同じだと思いだしてしまいました。すなわち、野球でいえばアベレージ・ヒッターではなく、ホームランか三振か、といったバッターを雇用すべきであるという結論で、安定性を重視する日本人としては不思議に思ったんですが、本書の結論のひとつとしては、リスクある労働者が結果を出せない場合、すなわち、野球でいえば三振ばかりしている場合、解雇すればいいじゃないか、という、いかにも米国流の考え方だったのを思い出してしまいました。米国的なCEOの超高給と一般労働者との給与格差については、職階による給与の差が大きいほどスキルアップのインセンティブが大きくなる、と旧版と同じ論理を展開している部分が多いんですが、IT化の進展により意思決定の中央集権化が進む可能性を指摘していたりと、当然のように版を重ねている部分もあります。第2版を見ていないので何ともいえませんが、適切にアップデートしている気もします。ただ、人事管理に関しては、合理的なホモ・エコノミカスを対象とするインセンティブの体系ですので、合理的といえば合理的なんですが、資本と異なるモビリティの問題とか、個々人による異質性の問題とか、まだまだ解明されていない点は多いと考えさせられます。加えて、現時点では実験経済学は消費の場などにおける選択の問題が中心に据えられていますが、労働経済学が分析対象とする雇用や業務遂行の際の選択を実験で明らかにできれば、さらに経済学は進歩しそうな気もします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、すでにそういった研究は進められていそうな気もします。

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次に、淵田康之『キャッシュフリー経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研のベテラン研究員であり、著者が野村総研から出している主要なリポートの一覧が野村総研のサイトに示されています。本書のテーマは、今年5月27日付けの読書感想文で取り上げたロゴフ教授の『現金の呪い』の理論的な面を背景に、日本の現状に合致するように取りまとめてあります。というのも、買い物の決済でキャッシュが占める比率は日本ではとても高く5割ほどに達します。銀行預金が大好きな点と併せて、日本人のひとつの嗜好を示しているような気がします。米国では買物のキャッシュ支払比率は2割に届かず、カード払いが半分ほどに上ります。また、1000ドル札のような超高額紙幣はないものの、日本で1万円札が市中で何の問題もなく流通するのもやや不思議です。名目値でほぼ等価の米国の100ドル札は、少なくとも私の経験では、首都ワシントンのスーパーマーケットでとても使い勝手が悪いです。もちろん、米国の100ドル札はいわゆる法貨ですから、受け取ってもらえないことはあり得ないんですが、ホンモノの100ドル札であることをチェックするのに、やたらと手間取り時間もかかります。ロゴフ教授の主張するキャッシュレス化の利点はマネー・ロンダリングなどの不正対策や金融政策の効率化だったんですが、本書では4点指摘しており、第1にそもそも紙幣やコインを製造するコストの削減、あるいは、偽札や盗難などのリスクの減少、第2に銀行ATMでの現金引き出しやスーパーの支払いの場での小銭の勘定などに費やす時間の短縮、第3にストレスない快適な買い物の実現、第4にマネー・ロンダリングや不正送金の防止などを上げています。さらに、日本の現状にかんがみて、例えば、インバウンド消費の支払いにおけるキャッシュフリー化などの利点も論じていますし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた課題ともいえます。キャッシュ大国である、当然に、その逆から見て、キャッシュフリー後進国である日本の実情に即して、どのようにキャッシュフリー化を進めるかにつき、政府や日銀の政策面も批判的に紹介しつつ、現実的な対応を議論しています。

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次に、大島隆『アメリカは尖閣を守るか』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。国際報道のキャリアが長く、米国駐在経験もあるようです。ということで、本書のタイトル通りの内容について、米国のサイドから公開されている公文書などを渉猟して明らかにしようと試みています。というのも、オバマ前政権も現在のトランプ政権も、尖閣諸島における我が国の施政権を認めていて、我が国の施政権の及ぶ範囲は米国の防衛義務が及ぶと明らかにしていますので、本書のタイトルに対する回答は yes でしかあり得ません。そして、その yes である根拠を時代をさかのぼって明らかにしようと試みているわけです。もちろん、その背景には米国ファーストで、同盟国に対して応分の負担を求める発言を繰り返すトランプ大統領の存在があります。さかのぼるのはサンフランシスコ平和条約と同時に署名された日米安保条約です。でも、沖縄返還時の交渉経緯も重要です。ただし、この沖縄返還までは日米のほかのもう1国の当事者である中国とは、台湾の中華民国政府を意味していたのに対し、現在では北京の中華人民共和国の共産党政権となっています。そして、忘れてはいけない点は、本書でも何度も繰り返されている通り、尖閣諸島の領有権については米国は態度を明らかにせず、関係国で話し合いをすべき、という原則であり、尖閣諸島についても領有権に対する態度があいまいです。ただ、尖閣諸島の施政権については日本が有していることを認めており、従って、日本の施政権の及ぶ範囲で日米安保条約に基づく防衛義務が発生する、という立場です。ですから、本書では明記していないものの、竹島については韓国が実効支配していることから、日本の施政権を米国が認めない可能性が大いにある点は留意しておかねばなりません。おそらく、バックグラウンドで大量のドキュメントを消化している割には、出て来た結論はありきたりな気もしますが、バックグラウンドの確認努力を評価すべきなのかもしれません。

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次に、遠藤雅司『歴メシ!』(柏書房) です。著者は歴史料理研究家だそうで、本書では、最古のパン、中世のシチュー、ルネサンスの健康食、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会などなど、オリエントから欧州にあった8つの時代の歴史料理を検証し、現代人向けのレシピにまとめています。第1章 ギルガメシュの計らい では古代メソポタミアを、第2章 ソクラテスの腹ごしらえ ではいわゆる古典古代のギリシアを、第3章 カエサルの祝勝会 ではローマ帝政期を、第4章 リチャード3世の愉しみでは中世イングランドを、第5章 レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房 では中世イタリアを、第6章 マリー・アントワネットの日常 と 第7章 ユーゴーのごちそう会 ではでは革命期のフランスを、第8章 ビスマルクの遺言 では統一期のドイツを、それぞれ取り上げています。フランス革命までは料理人といえば、我が国の「天然平価の料理人」ではないですが、王宮や貴族のお抱えで料理を作っていたものの、革命により貴族が没落し、その料理人がパリ市内でレストランを開いた、ということのようです。私は料理はまったくせず、しかも、つくるほうだけでなく食べる方でも、グルメでも何でもなく、食事とは栄養の補給くらいにしか考えていません。ですから、長崎大学経済学部の教員として単身赴任していた折にも、鍋釜はもちろん、コップや皿などの食器すら宿舎に持っておらず、朝食の際にパンをミルクで流し込むほかは、大学生協などでの外食か、そうでなければ、弁当を買い求めていました。不健康な食生活でしたので、よく体を壊していましたし、2009年にメキシコ発の豚インフルエンザが我が国でも流行した際には、しっかりとり患して長崎でも流行の最先端ではなかろうかといわれたくらいです。ですから、いろんな料理のレシピを見ても実感が湧かないこと甚だしいんですが、お料理の好きな人は実際に作ってみようかと考える向きも少なくないような気がします。次の『和菓子を愛した人たち』と同様に、フルカラーの写真が満載です。

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次に、虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』(山川出版) です。虎屋のサイトで2000年から連載されてきた歴史上の人物と和菓子の内容を書籍化したものです。どうでもいいことながら、オールカラー300ページほどで税込み2000円弱というのは安いと思います。もっと、どうでもいいことながら、我が家の倅たちが幼稚園くらいのころに、絵本を買う場合、イラストだと安かったんですが、写真だととたんに高価になった記憶があります。上に見える表紙画像は川崎巨泉の饅頭食い人形なんですが、こういった写真がフルカラーで収録されています。ということで、もともとのサイトからの転載が中心ですから、タイトル通りに、原則2ページくらいの細切れながら、歴史上の著名人と和菓子の関係を明らかにしています。冒頭は紫式部から始まっています。フルカラーですから、和菓子の色彩上の利点なども手に取るように明らかで、谷崎潤一郎が引用している夏目漱石の言葉で、羊羹の色に対比して洋菓子のクリームの色は「あさはか」と表現されています。ただ、やや勘違いもあるような気もしますし、虎屋文庫がおおもとになっているので、虎屋で扱っていないタイプの和菓子が含まれていないという恨みもあります。上の表紙画像にしても、私は和菓子というよりは中国風の印象なんですが、どうでしょうか。また、本書冒頭の紫式部にしても、当時の文化を背景に考えれば、洋菓子のシュークリームがあるわけではなく、国風文化の下で中国の影響すら薄いわけですから、和菓子が好きだったというよりは、甘いもの、現在の言葉でいえばスイーツが好きだった、ということなんでしょう。鎖国下の江戸時代もチャプターひとつを占めていますが、同様だという気がします。また、唐菓子がよく取り上げられている気がして、和菓子との境界につきやや疑問が残ります。

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次に、本格ミステリ作家クラブ[選・編]『ベスト本格ミステリ 2017』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブの創設が2000年で、その翌年の2001年から編まれている短編集の2017年版です。収録作品は、天野暁月「何かが足りない方程式」、青崎有吾「早朝始発の殺風景」、西澤保彦「もう誰も使わない」、似鳥鶏「鼠でも天才でもなく」、井上真偽「言の葉の子ら」、葉真中顕「交換日記」、佐藤究「シヴィル・ライツ」、青柳碧人「琥珀の心臓を盗ったのは」、伊吹亜門「佐賀から来た男」、倉狩聡「もしかあんにゃのカブトエビ」の短編と評論が1編となっています。極めて論理的に謎が解き明かされる「早朝始発の殺風景」、また、なかなか上手に騙してくれる「交換日記」などが私の感性に合致した気がします。2段組みの小さな活字で、資料編も合わせれば500ページ近いボリュームなんですが、さすがの作家陣の短編作品ですので、私はとてもスラスラ読み進むことができました。

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最後に、米澤穂信ほか『短編学校』(集英社文庫) です。このブログでも読書感想文に取り上げた記憶がありますが、同じ集英社文庫から出版されている『短編少女』や『短編少年』といったシリーズの最新刊ではないかと思います。収録作品は、米澤穂信「913」、本多孝好「エースナンバー」、中村航「さよなら、ミネオ」、関口尚「カウンター・テコンダー」、井上荒野「骨」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」、吉田修一「少年前夜」、辻村深月「サイリウム」、山本幸久「マニアの受難」、今野緒雪「ねむり姫の星」の10作品となっています。 短編集にもかかわらず、なかなか深い作品が多かったような気がします。でも、こういったアンソロジーの常として、10本もの収録作品があれば、2-3は既読である可能性があります。まあ、既読の作品数が多いということは、それだけ残念という意味ではなく、読書家の証なのかもしれません。
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2017年09月09日 (土) 13:27:00

今週の読書は直木賞受賞の佐藤正午『月の満ち欠け』ほか計7冊!

今週もまたまたオーバーペースで、やや読み過ぎた気がします。話題の経済書もありますが、今週の読書の目玉は何といっても直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』です。私は村上春樹の好きなハルキストですが、最近の小説ではダントツだった気がします。以下の7冊です。

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まず、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋) です。著者はオランダ人のジャーナリストであり、広告収入にまったく頼らない「デ・コレスポンデント」の創立メンバーの1人だそうです。2014年に出されたオランダ語の原書は自費出版に近かったらしいんですが、アマゾンの自費出版サービスで英語に訳されると、今年2017年には世界20か国での出版が決まったといいます。英語のタイトルは Utopia for Realist となっています。ということで、本書の邦訳の副題は『AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』となっていますが、決してAIやロボットとの競争だけを視野にしているわけではなく、特に格差についてその解消を目指していると考えるべきです。英国の有名なスピーナムランド制をはじめとして、カナダやインドなどで実施され、社会実験レベルのものまで含めたベーシック・インカムの効果に関する文献をひも解き、ベーシック・インカムが決して勤労を阻害したり、怠惰を招いたり、といった事実は観察されず、むしろ、貧困や格差の是正に役立っている点を強調しつつ、その上で、産業革命期から1980年代まで一貫して減少を示した労働時間が上昇に転じ、しかし、そういった中でも労働生産性は上昇を続けている、という事実を説得力ある方法で示しています。また、ありきたりな国民総幸福量、ブータンの例を引きつつ、こういった幸福度指標については明確に否定しています。ケインズの週15時間労働の予言にも触れつつ、正統派の経済学に基づいた方法でベーシック・インカムの利点を展開し、同時に、本書の終盤では国境を開放して自由な個人の行き来を推奨しています。決して、グローバル化を格差の原因として排除する議論には与していません。これも、正統派の経済学に立脚した議論といえます。ラッダイト運動の歴史に言及しつつ、AIとの競争には勝てないことを明言し、その意味では「敗北主義」っぽく見えなくもないんですが、私から見ればリアリストなんだろうと思えます。マルクス・エンゲルスのような左派経済学者に加えて、ケインズなどの正統派エコノミスト、さらに、ハイエクやフリードマンなどの右派まで幅広く引用して、左右両派のどちらからも支持されているベーシック・インカムの利点を浮き彫りにしています。AIによる職の代替可能性からベーシック・インカムが議論されることが多いんですが、あくまで私の信頼厚い左派からする議論かもしれませんが、格差是正まで含めて幅広い議論に資する良書だと思います。

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次に、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大社研教授であり、専門分野は労働経済学や人事制度などであると私は認識しています。私は景気循環や開発経済などの中でも、マクロ経済を専門分野とするエコノミストであり、労働経済学とか、人的資源管理論とかのマイクロな分野は専門外なんですが、本書でも紹介される初歩的なミンサー型の賃金関数は推計して研究成果として取りまとめたことがあります。ということで、タイトルから勝手に想像して、マイクロな人事制度、すなわち、人事評価やそれに基づく人事異動による個々の労働者・雇用者の配置、さらに、評価に基づく職階とそれに連動する賃金水準の決定に関する議論を期待していたんですが、私の期待は裏切られました。わずかに関連するテーマは第4章の人事採用、それに、中間管理職の貢献の計測に関する議論だけでした。まあ、そうなんでしょうね。今話題の女性活躍推進、働き方改革、高齢化対応などのほか、定着率の向上などの人的資源管理に関するトピックが中心で、その前提として統計的・計量的な分析手法に関する簡単な解説などがあります。本書冒頭では、人事についてはいわゆるPDCAが回っていないと断言されており、人事に集まるデータを統計的・計量的に分析することにより、人事の過大に対応しようと試みています。ただ、先月8月26日付けの読書感想文で取り上げた山口一男『働き方の男女不平等』についても同じことを書きましたが、個々人の能力や生産性、あるいは、家庭環境などもひっくるめて人事で評価し最適な人事配置を行うことは、現在のシステムでは不可能と私は考えています。だからこそ、役所ほど典型的ではないとしても、大手企業などでは入社年次で管理されて来たわけであり、別の言葉でいえば、横並びで人事管理され、特に、大卒総合職の場合はゼネラリストとして、会社や役所などの組織にメンバーシップ参加し、無限定に指定された役割をこなす、という人事制度がまかり通って来たわけです。しかし、他方で、本書の p.237 で指摘されている通り、ゾクセイ、ニーズキャリアなどが大きく多様化し、単純な相対比較が難しくなった現時点で、どのような人事評価制度の下で評価を下し、各個人の適性や能力や生産性やその他の属性に従って、職階を上らせたり、あるいは、下らせたり、また、どういった役割でどの職場に配置するか、の労働力の最適配置論を考え直すべき時期に来ている気がします。もちろん、マイクロな人的資源管理論から派生して、マクロの経済社会全体の生産性やその生産性に基づくマクロ経済の成長や、さらにさらに、で、人口問題の緩和・解消などまで視野に収めた議論は華々しくていいんですが、人的資源管理論の本来の役割である個々人の処遇のあり方をすっ飛ばして、いきなりマクロの議論をしても合成の誤謬を生じるだけのような気がします。従って、もう20年近くも前の邦訳出版ですが、ラジアー教授の『人事と組織の経済学』などと比べるとかなり見劣りします。もっとも、比較対象の相手のレベルが違い過ぎるかもしれません。ただ、人事部局に集まるデータをもっと活用した方がいい、という点については一般論としては大賛成なのですが、実際のデータ管理の運用は困難がつきまとうような気もします。すなわち、役所の人事部門などは「身内に甘い」との指摘を受けることがあったりするんですが、人事に関するデータや各種情報が人事部局には集まるわけで、それをどう使うかは考えどころです。「身内に甘い」といわれても従業員を守る姿勢を貫くのか、それとも、次は誰をリストラ対象としようか、という視点で活用するのか、人事としての情報活用の方向性も考えどころかもしれません。

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次に、ロバート H. フランク『成功する人は偶然を味方にする』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国コーネル大学ジョンソンスクール経済学教授であり、長らくニューヨーク・タイムズ紙で経済コラムを執筆しています。本書の英語の原題は Success and Luck であり、2016年の出版です。私もそうですが、うまく行けば自分の努力や能力を要因として上げ、逆に失敗すれば運が悪かったとか、他人の責任にする、というとても立派な人格的な傾向がある人は少なくありません。現在および少し前の阪神の監督について私の評価が芳しくないのはそういったところで、試合後の感想で、打たれた投手について「あそこは抑えて欲しかった」とか、打てなかった打者に対して「あそこは打って欲しかった」とかいう監督は私は決して評価しません。逆に、選手起用に関する監督自身の責任をアッサリと認めると潔さなんぞを感じます。同様に、本書では成功したケースでもご本人の能力や努力だけではなく、運の要素がかなりあることを認めつつ、失敗したケースでも成功のケースとの差は紙一重であり、運の要素で失敗に終わるケースが少なくない、という点を明らかにしています。同時に、政府などの公的部門が個人の効用や企業の生産活動に対して補完的なインフラを提供している点も強調しており、例えば、スピードの出る高級車を買っても道路が凸凹ではスピードを出してのドライブができないわけで、これらの点を総合して、成功した高所得者から累進的にガッポリと税金を取るべきである、と主張しています。そして、エコノミストの目から見てとても特徴的なのは、累進消費税を提唱している点です。私は不勉強にして知りませんでしたが、第2次大戦中にフリードマン教授も戦費調達の観点からその導入を提唱していたらしく、現在の我が国の消費税のように財サービスの購入時に税抜き価格に上乗せして消費者が業者に支払って、そのために、益税が出来たりする制度ではなく、収入と支出と貯蓄のバランスから支出額を算定して、それに対して累進的に課税するというシステムのようです。いずれにせよ、成功と不成功の間の差は大きくなく、しかも、現在のような勝者総取り方式で、小さな努力の差に対して大きな格差が生じかねない経済社会では、何らかの格差是正策が求められるのは当然です。最後に、成功と不成功を分ける要因として能力や努力ではなく、本書のように運を強調し過ぎると、努力しようとする意欲を阻害する可能性がありますが、現在の日本のように努力し過ぎて過労死したりするような社会では、もっとゆったり構えるというか、私は少しくらい努力を推奨しない意見があってもいいような気もします。ダメですかね?

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次に、アナスタシア・マークス・デ・サルセド『戦争がつくった現代の食卓』(白揚社) です。作者は編集者であり、本書のために2年半を調査に費やしたフードライターでもあります。ご亭主がキューバ人、ということはラテン人であり、お姑さんも本書に登場し、私の大使館勤務時の南米生活に照らしても食生活は豊かではないか、という気がします。本書では、特に、ネイティック研究所なる米軍ご用達の軍人向けの糧食などの開発研究所をはじめ、米軍と通常の我々一般人の食卓の関係をひも解くんだろうと期待して借りてみたんですが、もっと食品学、化学や生物学などの食品に関する学問、日本でいえば女子大にあるような食物学科のような学術的な内容が中心となっています。少し脱線すると、我が国の明治期に軍と食料ということでいえば、彼の文豪森鴎外も軍医として横槍片手に参加した脚気論争があります。白米だけで十分なカロリーが摂取できる一方で、脚気は何らかの病原菌に起因すると主張する森鴎外などの陸軍一派に対して、海軍は麦飯や白米まで精製しない玄米などにより、実証的に脚気を回避した論争です。もちろん、米軍でもその昔には同じような事件があったのかもしれませんが、少なくとも本書では関係ありません。軍人に供する食品に関しては、シュンペーター的なイノベーションの観点からして、食材、調理、包装を含めた輸送、などなどのイノベーションが考えられ、一般人食卓に供される食品と共通する部分も少なくありません。例えば、食材については米国人大好きなステーキについては、Tボーン・ステーキのような骨付き肉ではなく、成形肉の利用が始まったり、調理は保存食として従来からの塩漬け、燻製、干物などに加えて、宇宙食にも応用されたフリーズ・ドライの製法が発達したり、包装についてはナポレオン戦争期に開発された缶詰に加えて、レトルト・パウチのような空気を通しにくい包装が開発されたり、輸送については、もちろん、冷蔵・冷凍での輸送が可能になったり、と軍民共通のイノベーションがさまざまに紹介されています。ただ、第12章のスーパーマーケットのツアーで紹介されているように、軍民で共通している食品は30~70%にも上る一方で、具体的にそれほど一般読者向けの楽しく理解できる例が多くありません。私は女子大に設置されている食物学科が理系だということを大学に入ってから知って、少なからぬショックを受けたんですが、そういった理系の人向けの本だという気もします。私は国際派の公務員ですから、売国出張はついつい首都のワシントンDCが多くなるんですが、倅たちへの土産にはスミソニアン博物館の宇宙食のアイスクリームを買う場合が多いです。軍ではありませんが、こういった新しい食品のイノベーションが一般家庭の食卓に並んだりするんでしょうから、そういった楽しい実例がもっと欲しかった気がして残念です。

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次に、ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社) です。訳者あとがきのよれば、著者は米国ノースカロライナ州立大学の研究者であり、専門分野は進化生物学だそうです。英語の原題は Never out of Season であり、2017年今年の出版です。邦訳タイトル通り、プランテーション栽培されるバナナの話から始まって、ジャガイモ、キャッサバ、カカオ、というか、チョコレート、コムギ、天然ゴムなどなど、企業収益性の観点から植物や生物としての多様性を損なう形でのモノカルチャー化が進み、結果として、緑の革命などのように多くの人口のための食料生産には資することとなった一方で、病原菌やネズミなども含めた病害虫の侵食には弱くなり、極めて短期間のうちに緑の農場が茶褐色になってしまう被害をもたらす可能性が高まったリスクを指摘しています。繰り返しになりますが、緑の革命により、スーパーマーケットで消費者の食料の入手は容易になった一方で、殺虫剤や除草剤などの化合物に対する依存が強まったり、灌漑の必要が高まったりしたため、農村は収穫が増加して収益が増大した一方で、種子や農業機械や肥料などの化学品を購入する必要が高まり、同時に、支出も増加するという経済モデルに組み込まれる結果となった、と著者は指摘します。まあ、私のようなエコノミストからすれば、経済学が農学を支配するようになってめでたい、と考えられなくもありませんが、他方で、完全に人為的な世界である経済と自然との共存の思想が不可欠な農学との乖離に目をつぶらねばならない必要も生じたわけです。どちらが好ましいかは基本的な世界観、人生観、哲学によります。先の『戦争がつくった現代の食卓』にもありましたが、食品工業が生み出した加工食品にもそれなりの合理性はありますし、すべての食料生産を近代資本主義的に短期的な効率性だけを優先させて行うことは問題があるとしても、農業を自然のままにして餓死する貧困層を放置するのには忍びません。ということで、人類のそのコンポーネントのひとつであるところの多様な生態系の維持と、人類そのものの生存や種の維持と、両者が矛盾なき場合は問題ないものの、両者が両立しない場合には悩ましい問題が生じる可能性があります。そういった意味で、世界観や人生観などの哲学的な見方も含めて、考えさせられる本でした。

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次に、佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店) です。ご存じ、第157回直木賞受賞の話題作です。タイトル通り、生まれ変わり、あるいは、輪廻転生の物語ですが、そのバックボーンは明らかに熱烈なる恋愛小説です。ということで、私はこの60歳超のキャリアの長い人気作家の作品については、『鳩の撃退法』くらいしか読んでいないんですが、おそらく、この『月の満ち欠け』クラスの小説は日本文壇ではそうそう出ないような気もします。それほどの大傑作といえます。私の場合、読書の中でも小説の比重はそれほど大きくなく、経済書をはじめとする教養書や専門書の方が大きな比率を占め、さらに、小説の中でも好みで時代小説やミステリが多いものですから、純文学やこういった現代ものの大衆小説はそれほど読みませんが、完全にノックアウトされました。論評の前に、まず、私は自然の摂理のひとつとして、輪廻転生や生まれ変わりはあり得る可能性を否定しません。すべての生き物が生まれ変わって輪廻転生する、なんてことを主張するつもりは毛頭ありませんが、この小説にあるような動機も含めて、何らかの強烈な思いがあれば、生まれ変わりになって生命をつなぐこともあり得ますし、生命をつなげなければ幽霊になることもあり得る、とその可能性を全否定することはしません。まあ、レアケースなんだろうとは思います。他方で、私自身はそれほど強烈な思いを持っているわけではないので、生まれ変わりや輪廻転生をしないとは思いますが、さらに積極的にこれらを否定するために、浄土真宗の信者となって念仏を唱えるわけです。なお、一般的な用語ながら、輪廻転生から抜け出すことを解脱と定義しているのは広く知られた通りです。宗教から小説に戻ると、この作品と似た小説に東野圭吾の出世作である『秘密』があります。広末涼子主演で映画化もされました。これも、特定の人物の記憶をはじめとする人格が親しい他の人物に転移する、というストーリーです。しかし、『秘密』の場合は転移された方がその思いを振り払って自立して行くのに対して、この『月の満ち欠け』は何と4代に渡って思いを遂げるために生まれ変わりを繰り返します。というか、初代を別にすれば、生まれ変わりとしてこの世に現れるのは3代と数えることも出来ます。そして、原則として、同じ名前を引き継ぎ、とうとう東京ステーションホテルに現れなかった三角くんを思い続け、ラストにはその思いを成就するわけです。加えて、生まれ変わりはこの流れだけではなく、もう1人いることが強く示唆されます。ハッキリいって、これが衝撃のラストです。また、人間でない生まれ変わりの可能性も示唆されています。映画化されたら、私はぜひとも見たいと思います。

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最後に、NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』(講談社現代新書) です。昨年2016年9月25日に放送された同名のNHKスペシャルの取材結果です。タイトルからして、いかにも人口減少の問題点に着目しているように思ったんですが、どうも、原因が人口減少とは言い切れず、ハッキリしない現状の問題点もひっくるめて、地方の衰退全般を取り上げているように感じられ、やや焦点がボケているように受け止めました。日本創成会議が取りまとめて中公新書で出版された消滅可能性都市の中に東京23区で唯一登場した豊島区への取材から始まって、財政再生団体に指定された北海道の夕張市、夕張市がやや極端な例であるとして、一部の地方公共団体にて行政サービスの提供が放棄された例として、島根県雲南市、浜田市、京都府京丹後市などの取材の結果が明らかにされ、こういった行政サービスの提供停止は、決して一部の例外的な地方だけの問題ではなく、タイムスパンの長さは別にして、日本全体の問題に拡大しかねない、とのトーンで取りまとめています。注目の本であり、図書館の予約からかなり待たされましたが、どうも私には気になる点があります。繰り返しになりますが、人口減少だけでなく、あらゆる社会的な日本の問題点を、かなり恣意的な取材により極端な例を持ち出して誇張しているような気がしてなりません。京都出身で、長らく東京で公務員をしてきた私ですので、かなりバイアスのかかった見方しかできませんが、それでも、人口問題も含めて社会的に、あるいは、経済的には市場にて、政策の必要なく解決できる問題も少なくありません。おそらく、人口減少問題も政策の手当なしで反転する可能性が十分あると私は考えますが、問題は時間的な余裕です。人口減少が反転するにはとてつもなく長期を要し、その期間をもっと短縮するために有効な政策がある、という点については私も合意します。本書のタイトルの問題意識では人口を増加させれば解決できるような、誤った印象を持たされかねませんが、人口だけでなく、もっと根源的な問題があることを明らかにすべきではなかろうかという気がします。
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2017年09月03日 (日) 14:29:00

先週の読書はかなりオーバーペースで経済書など計8冊!

先週の読書は、米国雇用統計が土曜日に割って入って、読書日で1日多かった一方で、ケインズものが冒頭に2冊並んでいますが、やっぱりマクロ経済学や開発経済学などの専門かつ好きな分野の読書が多かったものですから、かなりオーバーペースで8冊に達しました。以下の通りです。今週はもう少しペースダウンしたいと思っています。でも、直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』とか、昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていた東大社研の大湾教授の『日本の人事を科学する』なんぞが借りられたりしたもんですから、やっぱり、かなりのボリュームを読んでしまうかもしれません。

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次に、大瀧雅之・加藤晋[編]『ケインズとその時代を読む』(東京学出版会) です。著者はチャプターごとに大量にいたりするんですが、大雑把に、東大社研と日本政策投資銀行設備投資研究所とのコラボとなっているように受け止めています。例えば、政策投資銀行のサイトでは本書が研究成果として取り上げられていたりします。4部構成を取っており、第Ⅰ部 第一次世界大戦の帰結と全体主義勃興の危機 では、J.M.ケインズ『平和の経済的帰結』、J.M.ケインズ『条約の改正』とケインズ自身の2冊の後、E.H.カー『危機の二十年』とF.A.ハイエク『隷従への道』が取り上げられています。ハイエクの著作については、ケインズと比較対照される形で注目される場合もあるんですが、本書では西欧リベラルの同じグループの中に属し、やや左派と右派の違いだけ、といったトーンで並べられています。ただ、ケインズに着目した本ですので、ハイエクが後景に退いている印象はあります。当然です。第Ⅱ部 理論の展開 では、T.B.ヴェブレン『企業の理論』、A.C.ピグー『厚生経済学』、L.ロビンズ『経済学の本質と意義』がケインズ『一般理論』前史として、そして、J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から始まって、R.F.カーン『ケインズ「一般理論」の形成過程』、A.P.ラーナー『調整の経済学』、J.E.ミード『理性的急進主義者の経済政策』が『一般理論』と並んで紹介されています。『一般理論』前史のピグーについては、古典派経済学から脱して、何らかの経済的厚生を高めるための政府の介入に道を開いた、と評価されています。続く第Ⅲ部 1930年代の世界と日本 では世界的なファシズムの台頭と日本に着目し、J.M.ケインズ『世界恐慌と英米における諸政策1931~39年の諸活動』、高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』、石橋湛山『石橋湛山評論集』が取り上げられており、どうでもいいことながら、現在のリフレ派エコノミストの先達となった昭和初期の我が国エコノミストを取り上げながら、現在のリフレ派経済学を否定して、財政赤字削減をサラッと主張しているチャプターの著者もいて、少し笑ってしまいました。最後の第Ⅳ部 ケインズの同時代人 では、J.M.ケインズ『人物評伝』、フランク・ラムジーのいくつかの論文と著書、E.H.カーのソ連史研究が取り上げられています。ご本人のケインズを別にすれば、複数のチャプターで取り上げられているのはカーだけなんですが、リアリストの立場から国際政治における権力=パワーを軍事力、経済力、合意形成力の3要素から論じており、私のようなシロートにもなかなか参考になります。また、ソ連型の経済が崩壊した現時点からでは理解が進まないものの、中央集権的な指令型の計画経済という面ではなく、男女間を含めて平等の実現、自由と民主主義の新しい形、などなど、本来のマルクス主義的な社会主義の明るい未来に憧れていた20世紀前半期の西欧の雰囲気がよく伝わります。各チャプターの最後に参考文献が数冊明示されています。唯一疑問なのは、シュンペーターがまったく取り上げられていない点です。ハイエクも含めて、いわゆるブルームズベリー・グループやケンブリッジ・サーカス以外のエコノミスト・文化人も取り上げているんですが、なぜか、シュンペーターだけは無視されている印象です。ケインズと立派な同時代人だと思うんですが、理由はよく判りません。

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次に、根井雅弘『ケインズを読み直す』(白水社) です。著者は私の母校である京都大学経済学部の研究者であり、入門書をはじめとして何冊かの著作があると記憶しています。私の在学中は木崎先生が教えていた経済学史の担当ではないかと思います。ご出身大学が早大ですので、若田部先生と同じコースかもしれません。ということで、タイトル通りに、ケインズの足跡をたどったケインズ経済学の入門書です。通常の理解の通りに、ケインズ卿については卓越した経済理論家であるとともに、同時に政治的なアジテータでもあり、また、国内外を問わずに国際金融などの制度論に立脚した実務にも精通していた、ということになります。ケインズ卿については最初に取り上げられるべき『平和の経済的帰結』が第1次世界大戦後のドイツ賠償問題ですから、ケンブリッジ大学卒業後のキャリアはインド省で始めたとしても、エコノミストとしての活動は割合と地味なドイツ経済の分析から賠償能力を積み上げ、それを英国内外にパンフレットとして明らかにする、という活動でした。同時に、金本位制への復帰に際しての平価の設定、さらに、その後、第2次世界大戦では英国の戦費調達のために米国を説き伏せたり、戦後は現在IMFと世銀で結実した国際金融体制の整備に努力しましたが、実際には英国のケインズ案は、ことごとく米国のホワイト案に凌駕されつつも、重要な骨格はいくつか残した、という結論ではないでしょうか。その後、実際にケインズ経済学が実践され花開いたのはケインズの死後であり、国としても1960年代のケネディ政権以降の米国なんですが、この実務的なケインズ革命について本書では終章で「『未完』に終わった」と結論しています。すなわち、1970年代に入ってのインフレ高進からケインズ経済学への不審が高まり、特に、決定的だったのは、ノーベル経済学賞も受賞したシカゴ大学のルーカス教授によるケインズ反革命であり、貨幣数量説の装いを新たにしたマネタリズムなどとともに、先進国の経済政策のシーンからケインズ経済学をかなりの程度に駆逐した、との印象かもしれません。しかし、私の印象ながら、今はもう死語となった「混合経済」、すなわち、古典派的な自由放任経済を終えて、経済政策が積極的に雇用の拡大、完全雇用を目指す体制を整え、戦後の社会福祉を重視して国民の経済厚生を政府が積極的に支援するような経済政策運営に舵を切ったのは、何といってもケインズ経済学の功績です。ケインズ卿の意図したような政策運営にはならず、右派的・古典派的な経済学の巻き返しに何度も遭遇したという意味では、確かに、ケインズ革命は未完かもしれませんが、私のような官庁エコノミストの目から見て、政府が何とか経済成長を加速し雇用を増大させるという方向で国民の経済的厚生の向上に努めるようになったのはケインズ経済学を基礎とする政策論の功績であると考えます。

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次に、森田朗[監修]/国立社会保障・人口問題研究所[編]『日本の人口動向とこれからの社会』(東京大学出版会) です。著者人はまさに国立社会保障・人口問題研究所の研究者で固めていて、専門家がズラリと並んでいます。出版社から判断しても、学術書と考えるべきですが、最後の方の第12章のシミュレーションなどの方法論のごく一部を除いて、人口問題ですから少子高齢化以外の何物でもなく、それなりに理解ははかどりやすいんではないかと思います。ただし、研究所の攻勢からして、社会保障や財政との関係をホンの少しだけチラリと論じているほかは、ほぼほぼ人口問題をそれ単独でユニラテラルに論じていますので、逆に判りにくい気もします。フランスのアナール派やジャレド・ダイアモンド教授のように病原菌と論じてみたり、あるいは、地理学と関連付けたりといった工夫は見られません。ひたすら過去のトレンドから投影された未来を垣間見ようと努力している様子がうかがえます。経済はかなりの程度に循環するんですが、人口動態はかなりの程度にトレンドに沿って動きます。もっとも、第Ⅱ部のライフコースの議論では、ヒトの個体たる人口だけでなく、社会的な構成要素のもっとも小さい単位である家族のあり方、さらに、人口高齢化に従って高齢者に有利な政策選択が行われがちなバイアス、などなどについても取り上げていますし、第Ⅲ部では日本に限らずシンガポールや韓国、台湾などのアジア諸国における猛烈な高齢化の進展についても解き明かそうと試みています。まあ、私の個人的な感想では、マルサス的な人口問題は人口と農地や耕地の比率が人口を養う上でやや厳しいアジアにこそ当てはまる可能性が高いんではないか、という気がしますし、従って、中国の一人っ子政策をはじめとして、シンガポールなどでも厳しい人口抑制作を採用していた歴史があるのも理解できるところです。日本もそうかもしれません。そういったアジアからの移民が欧米で黄禍論を引き起こしたりしたわけなのかもしれません。ただ、日本の場合はマクロとしての人口の総数ではなく、子供や若年者に厳しく、高齢者に甘い政策を意図的に取り続けてきましたので、中国やシンガポールなどとともに、明らかに政策的に人口の高齢化、さらに、人口減少がもたらされている点は見逃すべきではありません。せも、そういった議論を国立の研究所が展開するのも難しい、という点についても、公務員として理解していたりします。最後に、私も大学教員として出向中に書いた紀要論文「子ども手当に関するノート: 世代間格差是正の視点から」でも引用した Lutz et. al. (2006) による Low-Fertility Trap Hypothesis に関する論文が複数のチャプターで引用されていました。私は紀要論文で p.175 の Chart 1 を引用した記憶があります。

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次に、マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋) です。昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者はノンフィクション・ライターであり、特に売れたのは『マネー・ボール』ではないでしょうか。映画化もされましたし、私も読んでいたりします。本書の英語の原題は The Undoing Project であり、邦訳書の p.348 で「事実取り消しプロジェクト」と訳されています。2017年の出版です。ということで、その『マネー・ボール』に関する書評から行動経済学に関する関心が芽生えたようで、本書では主としてトヴェルスキー&カーネマンを中心に据えて行動経済学の歴史を、特に黎明期の歴史をひも解いています。記憶の不確かさ、あるいは、記憶の操作可能性から始まって、判断や意思決定の際の心理的アルゴリズムの解明、そして最後は有名なプロスペクト理論の発見のきっかけや平易な解説を展開しています。その前段として、トヴェルスキー教授も、カーネマン教授も、どちらもユダヤ人ですから、ナチスによるホロコーストにも触れていますし、中東戦争の記述もかなり生々しく感じられます。また、特にセンセーショナルな書き方ではなく、エコノミストであれば誰もが知っている一般的な事実ではありますが、トヴェルスキー教授の攻撃的だが水際立った知性とカーネマン教授の重厚だが慎重かつ少し進みの遅い知性を比較していて、さらに、愛煙家であり1日2箱の煙草を灰にしたカーネマン教授が生き残ってノーベル賞を授賞された一方で、嫌煙家であったトヴェルスキー教授が悪性腫瘍で早くに亡くなった事実も、それほど対比を鮮明にさせることなく淡々と跡付けています。そして、2人の心理学的な発見が、まず、医学に応用され、その次に経済学で注目され、結果的に、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したわけです。終章のタイトルが「そして行動経済学は生まれた」とされていて、ある米国ハーバード大学教授の言葉として、「心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者のことをばかだと思っている」というフレーズを引用しています。最後は、カーネマン教授にノーベル委員会からと思しき電話がかかる場面で終っていますので、セイラー教授らによるその後の行動経済学の発展は、それほど重視されていません。まあ、経済学史の本ではないんですから、そうなのかもしれません。私自身は何らかの理論や実証で功績あった経済学者の生まれや育ちや性格などについては、それほど大きな興味あるわけではありませんが、映画にもなった『ビューティフル・マインド』のナッシュ教授の生涯などとともに、経済学に多くの人々の関心を引きつける効果がある、という意味で、こういった本の効用も十分評価しているつもりです。

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次に、ショーン B. キャロル『セレンゲティ・ルール』(紀伊國屋書店) です。著者はウィスコンシン大学マディソン校の進化生物学の研究者ですが、本書は進化生物学の本ではなく、むしろ、生物多様性に関する食物連鎖・栄養カスケードに関する理論と実践に関して、ポピュラー・サイエンスとして取りまとめられています。舞台はアフリカはタンザニアにあるセレンゲティ国立公園です。タンザニアの北部、ケニアとの国境に近い地域で、従って、ビクトリア湖のすぐそばに位置する哺乳類の多様性に富む地域です。世界遺産に指定されています。そして、本書の第Ⅲ部第6-7章において、本書のタイトルであるセレンゲティ・ルールを6点に渡って取りまとめて提示しています。専門外のシロートである私なりの解釈なんですが、一般的に食物連鎖と呼ばれている流れを本書では栄養カスケードと称していて、要するに、ネコ科の肉食獣がシカなどの草食獣を捕食し、そして、草食獣は草木を食べる、という構造です。そして、本書では二重否定の構造を持ち込みます。すなわち、イエローストーンでヘラジカが増えすぎた場合、日本でもよくありますが、シカやイノシシが増えて農作物が被害にあうケースでは、日本ではヒトが猟銃をもってイノシシなどを直接に駆除する一方で、イエローストーンではシカを捕食するオオカミを放った、という例が紹介されていて、そうすると、当然に、オオカミはヘラジカの一種であるエルクを捕食しますから、エルクそのものが個体数を減少させる一方で、エルクが食べつくしていたポプラの成長が促進される、という2段階目の効果が発現します。これを本書では二重否定と呼んでいます。そして、本書のもうひとつの特徴は、こういったオオカミエルクとポプラといったマクロの連鎖、もちろん、地球規模のマクロではないにしても、日本でいえば都道府県くらいの大きさの地域のマクロの栄養カスケードや生態系に見られる現象を、何と、マイクロのレベルのガンになぞらえている点です。物理学などでマクロの宇宙論とマイクロの原子や分子に関する理論に類似点を見出す方法論も見かけたりしますし、生物学でも生物の集団であるマクロとマイクロな個体にそういった類似点を例示しることもあり得るんでしょうし、何よりも、それなりにポピュラー・サイエンスとして私のようなシロートの一般大衆の理解を促進もするんでしょうが、私の目から見て、少なくともマクロの生態系の攪乱をマイクロな生物個体や遺伝子レベルのガンに例えるのは、ややムリがあるような気もします。少なくとも、エコノミストの世界では合成の誤謬があり、マイクロな世界を足し上げて行ってもマクロな世界にはなりません、というか、ならない場合があります。たっだ、エコノミストの目から見て興味深かったのは、マルサス的な『人口論』の世界が密度依存調整により否定されていることです。p.204 あたりです。マルサス的なくらい将来像は技術革新により克服される、というのが私のような平凡なエコノミストの一般的理解ですが、そもそも、個体密度が増加すれば個体数の増加率はマイナスに転化する、というのは、それはそれとしてあり得ることですし、生物学的に明らかにされていることは、とても参考になりました。

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次に、又吉直樹『劇場』(新潮社) です。話題の作者の芥川賞受賞後第2作目の小説です。東京を舞台に演劇人である主人公の永田と、永田の恋人の沙希、さらに、中学のころから永田とともに演劇を続けてきた野原、さらに、永田・野原の劇団からスピンアウトしてライターとしても一定の成功を収めた青山という女性、さらにさらにで、別の注目劇団を主宰する小峰などなど、かなり限られた登場人物なんですが、永田と沙希の愛の行方がストーリーの中心となります。なお、永田・野原のコンビは関西人で、この作者の前作「火花」と同じで関西弁でしゃべります。そして、主人公である永田の行動のターニング・ポイントとなる感情は嫉妬です。嫉妬が怒りに転じて、そして人間関係が壊れて行くような気がします。「本音と建前」という言葉がありますが、決して本音を隠してうわべだけの建前で人間関係を築いて、大人の付き合いを進めるのが上品だとは決して思いませんが、本音をさらけ出して人間性の底の底まで理解し合えないというのも、少し問題ではなかろうかという気もします。その意味で、本書の主人公の男女関係、劇団や演劇関係者との人間関係については、私も理解できる部分と理解を超えている部分があります。ただ、前作と違って嫉妬というテーマがかなり露骨に現れていて、その分、決して上品ではない可能性もあるものの、作者の魂の叫び、とまではいわないまでも、誠に正直に書き綴っている気もします。何かのメディアで報じられていましたが、「火花」よりもこの作品の方を先に書き始めていた、という情報もあり、ある意味で、作者の第1作のようでもあり、言葉は悪いかもしれませんが、第1作目のつたなさのようなものが感じられるかもしれません。また、純文学ですから、文体や表現力はかなり上質といえますが、ストーリーを追うものではありません。主人公である20代の男女間の恋愛の進行はかなりつまらない、と感じる読者も多そうな気がします。

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次に、タンクレード・ヴォワチュリエ『貧困の発明』(早川書房) です。私はよく知らないんですが、作者はフランスのエコノミストであり、小説家だそうです。私はフランス語には決して詳しくないんですが、スペルは Voituriez であり、もしも、最後が z で Voiturier であれば、英語でいえば Valet Parking の意味であり、私はフランスはパリしか知りませんが、パリ市内でも何度か見たことがあります。ということは別にして、本書はあくまでフィクションの長編小説であり、ピケティ教授が「今までに読んだいちばん可笑しな小説」と評価したと出版社のサイトでは紹介されています。フランス語の原題は L'Invention de la Pauvreté であり、邦訳タイトルはそのまま直訳されています。タイトル通りに貧困をテーマにしていますが、先進国内の貧困ではなく、途上国の貧困、あるいは、経済開発を主題にしています。主人公は世銀チーフエコノミストにして、国連事務総長の特別顧問でもあるプリンストン大学教授のロドニーです。誠に僭越ながら、私と専門を同じくする開発経済学者です。ここまでの肩書からは、ノーベル経済学賞も受賞したスティグリッツ教授が強く連想されるんですが、そうでもないようです。フィクションのフィクションたるところです。でも、国連事務総長ドン・リーは韓国人の設定で、そのモデルは、明らかに、前国連事務総長の潘基文ではないでしょうか。そのほか、国連、世銀、国際通貨基金(IMF)、また、組織ではなく会議名ですが、ABCDE会議など、ほぼほぼ実在の名称をそのまま流用している印象です。エロ・グロ・ナンセンスの部分は別にして、開発経済学を専門分野のひとつとする私から見ても、確かに開発経済学にはいくつかの考え方があり、『エコノミスト 南の貧困と闘う』の著者であるイースタリー教授のように市場メカニズムを活用して、途上国の国民のインセンティブに基づく行動に期待するエコノミストもいれば、サックス教授に代表されるように、先進国からの開発援助などを活用しつつ、公的部門も関与した形でのビッグ・プッシュを重視する開発経済学者もいっぱいいます。実は、私は後者の考え方に近かったりします。冒頭のバレー・パーキングは別にしても、開発経済学のいくつかの考え方を背景知識として持って読めば、さらにこの小説が楽しめるかもしれません。あるいは、私のように、少しだけ不愉快さが増すかもしれません。

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最後に、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書) です。著者は証券会社のエコノミストから学会に入り、埼玉大学から法政大学教授に転じているようです。ということで、相変わらず、独特の長期的な歴史観を披露しているんですが、ヒストリアンとしてその歴史の底流に流れる法則性が感じられずに、私はいつも戸惑っています。従来と同じように、1970年代のルイス的な二重経済の消滅と石油ショックなどにより、我が国を含めて戦後先進諸国の高度成長が終了し、1970年代からゆっくりと時間をかけて低成長と低金利に象徴されるように資本主義が終焉する、そして、中世的な停滞の定常状態の時代が来る、というのが著者の見立てです。ただ、資本主義の勃興については大航海時代のイノベーションにより、世界が広がり英蘭が覇権を掌握した、ということに本書でもなっているんですが、それがなぜなのか、そして、成長率や金利が低下して資本主義が終焉するのはなぜなのか、加えて、産業革命の位置づけについてもほとんど無視されており、私には疑問だらけです。資本主義が終焉して中世的な定常状態に戻る、という史観ですから、基本的には循環史観だと思うんですが、おそらく、著者の歴史学に関する素養からして、そういった歴史観の確立があるのかどうか疑問であり、歴史的な事実を跡付けて、室町幕府の後は戦国時代になって、全国統一を果たした織豊政権から徳川が江戸幕府を確立する、それはなぜなのか、よく判らないながら、そうなのだ、といっているに等しい気もします。蒐集=コレクションについては、その基礎となっている生産活動について何も見識がないので、どこかで湧き出た蒐集対象品を持ち出す、という以外の感触はありません。基本的に私の歴史観はマルクス主義に近いんですが、ほぼほぼ一直線に生産力が増加するという単純な歴史観で、その生産力の桎梏となる生産システムが革新される、場合によっては土地や生産手段=資本の所有制度の変更も歴史を動かす原動力になる、という意味で、ノース教授らの制度学派にも近いかもしれない、受け止めていますが、この著者の歴史観はまったく理解できません。その上、閉じたvs開いた、資本主義、帝国などの用語がかなり感覚的に、そして、キチンと定義されずに並べられていて、もう少し読者の理解を助ける工夫も欲しい気がします。
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2017年08月26日 (土) 13:41:00

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!

今週は夏休みからお仕事に復帰して、それでも8月ですので、やや時間的な余裕もあり、7冊とついついオーバーペースになってしまいました。新書や文庫を含みますので、それほどのボリュームでもないんですが、来週はもう少しセーブしたいと思います。

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まず、山口一男『働き方の男女不平等』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国シカゴ大学社会学教授ですが、研究内容はほとんど経済学といって差し支えありません。本書では、タイトル通り、男女間の労働市場における差別についてモデルを用いた理論分析と実証分析を行っています。基本的には、労働供給サイドではなく、企業側の女性労働の需要サイドの研究なんですが、途中で少し私も混乱を来してしまい、時間当たり賃金率なのか、時間当たり賃金率に労働時間を乗じた所得なのか、もしも後者であれば、単に女性を長時間働かせればOKということかもしれません。ただ、最終第8章で著者の考えが最後の最後に明らかにされるんですが、生産性と比較した賃金の機会の平等を考えるのであれば、統計的な差別を含めて、企業サイドの女性労働値の差別的取扱いに従って、機会の平等を確保しつつ結果の平等を達成できない事態が考えられるとした上で、結果としての平等を追求すべき著者の考えが明らかにされます。ホントの適材適所を実現し、性的な差別のない雇用環境を整え、各人が生産性や適正に従った労働を実行し、その労働に応じた賃金を受け取る、というのは確かに理想かもしれませんが、現在の制度学派的な思考の下では、ハッキリいって、労働や雇用の課題ではありません。所得はもちろん、ワークシェアリングを含めた分配の課題と考えるべきです。そして、理想の所得の分配が、理想的な労働や仕事の配分に基づいて実行されるかは、マルクス主義的に考えなくても、現行の制度下では実行可能かどうかは疑問です。ケインズの1日3時間労働とともに、のっとも理想的な雇用や労働の配分と所得の分配を実現するためには、現在の市場による資源配分ではない、別のシステム、ひょっとしたら、社会主義や共産主義かもしれませんが、たぶん、違うだろうと私は想像しています。そういった、別の次元を考える必要があるような気がしてなりません。

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次に、香取照幸『教養としての社会保障』(東洋経済) です。著者は厚生労働省、というか、厚生省出身の公務員で、現在はどこかの大使に転出していますが、小泉内閣のころに長らく官邸に詰めていたことを記憶しています。私もそのころ官邸勤務でした。ということで、タイトルからも理解できる通り、社会保障という場合、著者のように実務として関係する場合、そして、アカデミックな世界などで学問として関係する場合が多く、制度的に複雑なこともあって、身近な割には教養として接することはないような気もします。平易な表現とともに、国民各層が身近に接するマイクロな社会保障の面だけでなく、政府財政への影響なども含めたマクロの社会保障の両面を取り上げています。なかなかの良書だという気がしますが、難点もいくつかあります。まず、冒頭に社会保障に対する批判については教育の責任として文部科学省に責任を転嫁しています。私は冒頭のこの部分だけでかなり評価を落としているんではないか、と受け止めてしまいました。それから、ここまで社会保障を展開しているんですから、最近の話題としては人工知能(AI)やロボットの活用に伴うベーシック・インカムについてほとんど触れないのは、やはり、現時点での社会保障論としては物足りない気がします。

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次に、塚崎公義『経済暴論』(河出書房新社) です。著者は興銀の調査部から学界に転じたエコノミストのようです。実務家ご出身で大学院などのアカデミックな経歴ではありませんから、経済学部卒業ではなく法学部卒業だったりします。ということで、少し常識登攀するようないくつかの事実を平易に解説しています。ただし、私の目から見て、経済合理性に基づいて世間一般の常識と反する結果を導き出しているケース、例えば、埋没原価サンクコストの問題とか、組織への忠誠心と仕事のプロ意識のトレードオフとか、が取り上げられている一方で、行動経済学的な検知などから人間の非合理的な決定が世間一般の常識と反するケースを、特に区別せずに同一の「世間一般の常識と違う」というカテゴリーでくくっていますので、経済学的な素養があれば、逆に疑問に感じる場合もありそうな気がします。でも、本書の結論たる最終第6章の、特に、最後の数点の論点、すなわち、日銀が債務超過に陥っても問題ない、また、日本政府は破綻しない、あるいは、日本経済は労働力不足で黄金時代を迎える、などの論点は私もまったく同意します。ただ、黒田日銀の金融政策を「偽薬効果」と称しているのは、何らの根拠が示されておらずレッテル貼りに終わっているのが残念です。期待に働きかける金融政策に対する無理解が背景にあったりするんでしょうか?

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次に、有栖川有栖『濱地健三郎の霊なる事件簿』(角川書店) です。作者はご存じ関西系の新本格派ミステリの代表的な作者の1人です。法月綸太郎や綾辻行人など私の出身の京都大学ではなく、同志社大学のご出身だと記憶しています。この作品は作者あとがきによれば怪談という位置づけのようですが、依然、『幻坂』に2話ほど収録されてうぃた主人公を心霊探偵として前面に押し出して、事件解明に当たるミステリ風な短編を収録しています。オカルトものとして怪奇現象の解明や除霊などをするものとしては、櫛木理宇「ホーンテッド・キャンパス」がありますが、それほど心霊現象を全面に押し出したものではなく、心霊現象をヒントに実際の人間の犯罪行為を解明するというパターンが多かったような気がします。また、オカルト探偵といえば、エドワード D. ホックの作になるサイモン・アークがいますが、サイモン・アークは超常現象に見える事件ながらm実は物理法則に即した、というか、決して超常現象ではない事件を解明しますので、かなり違います。ということで、本書は、決して、殺された被害者の例から犯人を聞き出すという安直なミステリではなく、新本格の旗手の手になるミステリです。それから、次の真梨幸子のイヤミスとついつい読み比べて比較してしまうんですが、やっぱり、法月綸太郎とかこの作者の作品は文体がとても上品です。それだけ読みやすいともいえます。

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次に、真梨幸子『祝言島』(小学館) です。作者はイヤミスの女王のひとりであり、主として女のいやらしさを盛り込んで読後感の悪いミステリを書く作家です。とはいいつつ、私はかなりこの作家は評価しており、出来る限り新刊書を読もうと努力しています。本書は、作中では小笠原諸島の南端付近にあって、すでに地図からは抹消されているタイトルの島にまつわる物語ですが、主たる舞台は東京です。1964年の東京オリンピックの直前に祝言島の火山が噴火し、島民は青山の都営住宅に避難した、という設定になっています。そこから、40年余の後の2006年12月1日に東京で3人の人物が連続して殺され、未解決となっている「12月1日連続殺人事件」をからめて、独特の異様なストーリを紡ぎ出しています。ミステリである限り、殺人などの違法行為は当然に物語に含まれますが、この作品ではかつてのロボトミー手術などの集団による不法行為が盛り込まれており、その点にやや違和感を覚えました。また、トランスセクシュアルの存在も盛り込んでいますが、真梨作品としてはそれほどの出来とは思えませんでした。たしかに、グロテスクでエロの要素もあるんですが、私自身の読書の傾向として、ややロボトミーで読む気をなくした気がします。

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次に、吉川洋・八田達夫{編著}『「エイジノミクス」で日本は蘇る』(NHK出版新書) です。著者・編者は高名なマクロ経済学者ですが、野村総研や三菱総研のスタッフも執筆陣に加わっています。高齢化が進展して経済の将来に悲観的な見方が広がる中で、敢然とこの見方に挑戦し、高齢化をイノベーションの好機と捉え、日本経済の明るい先行きを示しています。具体的には、本書のp.30の図用に従って、財・サービスのイノベーション+制度のイノベーション×病弱な人+健康な人、2×2の4つのマトリクスに従って、以下第2章から5章まで4章に渡って各論が展開されます。基本的には、ベンチャー資本などによる新たな革新の方向性をかなり拡大解釈しているだけなんですが、やっぱり、こういったイノベーションに関するケーススタディでは、当然ながら、成功例ばかりがクローズアップされ、成功例の裏側にその数倍数十倍数百倍の失敗例が隠されていることが忘れられていることは覚悟しておくべきです。まあ、統計の分析とケーススタディの違いです。本書で取り上げられているイノベーションのシーズがどこまで現実に開花するかは私にも不明ですが、高齢化が決して経済成長にマイナスばかりではない、という点は特に強調されるべきであろうと思います。

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最後に、泡坂妻夫・折原一ほか『THE 密室』(実業之日本社文庫) です。推理小説の中でも、密室をテーマとしたアンソロジーです。収録作品は、飛鳥高「犯罪の場」、鮎川哲也「白い密室」、泡坂妻夫「球形の楽園」、折原一「不透明な密室」、陳舜臣「梨の花」、山村正夫「降霊術」、山村美紗「ストリーカーが死んだ」の7つの短編であり、作者の氏名の50音順で収録されています。それほどレベルは高くありませんが、それぞれに特徴的な密室事件の解明が図られています。江戸川乱歩などのその昔から、縁の下や屋根裏などのある日本家屋の特徴として、密室が成立しにくいといわれ続けていますが、それなりにバリエーションに富んだ短編ミステリを収録しています。ただし、繰り返しになりますが、それほどレベルは高くない上に、それほど新しくもないので、もっと本格的に密室を読みたい向きには、ナルスジャックと組む前のボアローの編集になる『殺人者なき6つの殺人』の方がいいかもしれません。もっとも、コチラもそれほどレベルは高くありません。
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2017年08月21日 (月) 21:27:00

集英社文庫の『明智小五郎事件簿』全12巻を読む!

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このお盆の夏休みまでに、集英社文庫から出版されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻を読みました。作者の没後50年を記念して、昨年2016年5月から刊行が開始され、今年2017年4月に完結しています。ひとつの特徴として、発表順ではなく、シャーロッキアンよろしく、事件発生の年月を特定し、その順番で並べてあります。ただし、戦後の少年探偵団モノは含まれておらず、戦前までの事件しか収録されていません。やっぱり、怪人二十面相や黒蜥蜴などとの対決作品が読ませどころです。ほとんど現実味のない荒唐無稽な犯罪行為などもありますので、小説向きというよりはテレビや映画向きのストーリーかもしれません。なお、最初の画像は12巻セットですが、私は近くの区立図書館で借りて、週末ごとに2-3冊ずつ読み進みました。
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2017年08月19日 (土) 10:08:00

今週の読書はややセーブして計5冊!

今週の読書は新刊書で以下の通り5冊です。ギリギリいえば、経済書はゼロのような気がします。なお、それほど新刊ではないところでは、集英社文庫から5月に全12巻が完結した江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』も読み切りました。これについては日を改めて取り上げたいと思います。

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まず、リー・ギャラガー Airbnb Story (日経BP社) です。著者は「フォーチュン」をホームグラウンドとするジャーナリストです。英語の原題そのまま邦訳のタイトルとしており、2017年の出版です。ということで、タイトル通りに、エアビー創業者3人、すなわち、美大出身者2人とエンジニア、というか、プログラマの3人です。推進派と抵抗派の葛藤にも十分な紙幅を割き、決して、新ビジネスを礼賛するにとどまらない内容で、バランスもよくなっていますが、まあ、基本は肯定派の立場だという気はします。シェアリング・エコノミーを考える場合、いわゆるシリコンバレーの4強、すなわち、グーグルとファイスブックとアップルが従来にないまったく新しいビジネスを立ち上げているのに対して、従来からあるビジネスをリファインしたアマゾンとも違って、その中間的なビジネスと私は考えています。ただし、従来からあるホテルに代替するエアビー、タクシーに代替するウーバーですから、アマゾンに近い形態かもしれません。まったく新しいビジネスを始めたグーグルやファイスブックは既存の抵抗勢力は殆ど無い一方で、アマゾンは従来の街の本屋さんをなぎ倒して成長しているわけですし、エアビーはホテルから競争相手と目されています。すなわち、かつてのスーパーマーケットのようなもので、パパママ・ストアからの反発はものすごいものがあった一方で、消費者からのサポートがどこまでられるかも成長の大きなファクターです。そして、グーグルやフェイスブックのようにブルーシーに悠々と漕ぎ出すのではなく、ロビイストを雇ったり、抵抗勢力に対抗する新興勢力を組織したりと、政治的な取り組みも必要とされかねません。そして、最後はマーケットを独占できるわけではなく、本書ではホッケー・スティックのような成長曲線と表現されていますが、実は、ロジスティック曲線で近似される成長曲線であろうと私は考えており、成長が鈍化するポイントはいつかは訪れます。現時点では1次微分も2次微分もプラスでしょうが、2次微分がゼロからマイナスになり、そして1次微分もゼロになる時期が訪れるかもしれません。当然です。その時にこれらのシェアリング・ビジネスがどう成熟しているかを知りたい気がしますが、私の寿命は尽きている可能性もあります。

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次に、豊田正和・小原凡司『曲がり角に立つ中国』(NTT出版) です。著者は経済産業省OBと海上自衛隊OBで、それぞれ経済や通商、さらに、安全保障の観点から現在の中国について現状分析と先行きの見通しを議論しています。安全保障の観点は私の専門外ですので、主として経済や通商の観点を見てみると、本書と同じように、私も中国はルイス的な転換点を越えて、従って、日本の1950-60年代のようないわゆる高度成長の時期を終えた可能性があると考えています。それを Gill and Kharas のように中所得の罠と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも、海外から技術単独かもしくは資本に体化された技術を導入し、資本の生産性を向上させるとともに、ルイス的な用語を用いれば、生存部門から資本家部門への労働の移動がほぼ終了し、従って、少し前までの低賃金の未熟練労働力が内陸部から無尽蔵に湧き出てくるわけではなく、労働の限界生産性と等しい賃金を支払う必要が出てきたため、チープレーバーに基礎を置く製造業が採算を悪化させている時期に達しています。ただし、ここは私は議論あるところではないかと思いますが、中国の現時点での政権の最大の眼目が共産党政権の存続であることから、すなわち、国民の最大福祉ではないことから、大きな矛盾を抱えることとなります。そして、実際にその矛盾が激化し始めたのは天然モン事件の後の江沢民政権であり、広範な支持基盤のなかった江沢民政権が党や軍などに汚職を許容したり、あるいは、国内問題から国民の不満の目をそらせるために日本などに無理筋の要求をしたりという筋悪の政治が始まります。そして、江沢民-朱鎔基コンビ、胡錦濤-温家宝コンビに比較して、現在の習近平-李克強コンビは習主席に大きな比重がかかりすぎている気もします。もちろん、いわゆる核心については、温家宝主席以外はみんな核心だったわけですから、大騒ぎする必要はないかもしれませんが、少なくとも経済と外交まで総理の李克強から取り上げるのは行き過ぎだという気がします。毛沢東と周恩来んのコンビよりもバランスが悪そうに見えます。そして、ひょっこりひょうたん島のように動けないわけですから、我が国は地理的にどうしようもなく中国の隣国であり、無理筋にも対応させられているのもどうかという気がします。米国のトランプ政権がほぼほぼ中国に無力なのも情けない気がします。

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次に、酒井順子『男尊女子』(集英社) です。定評あるエッセイストによる男女同権、もしくは、男尊女卑的な目線からのエッセイです。相変わらず、よく調べが行き届いた大学生のリポートのようにスラスラ読め、決して、それほど為になるわけではないものの、あるある感がとても強い気がします。もっとも、著者や私のようなベビーブーマーの後の世代くらいまでで、私の倅どものようなミレニアル世代には理解がはかどらない可能性もあるような気がします。ということで、男性に比べて女性が戦略的に、先より後、前より後ろ、上より下のポジショニングを取って、男尊女卑的な因習に従うふりをしつつ、実は、モテを追求しているんではないか、という視点を本書は提供しています。そうかもしれません。私は男尊女卑も男女同権もいずれも興味なく、というか、どちらにも与せずに、ケース・バイ・ケースで経済学的な比較優位の基礎に立って役割分担をすればよい、という能天気な考え方ですので、世の中の男性の平均ほどは男尊女卑的な考えに凝り固まっているわけではないと認識しています。ただ、同しようもないのが妊娠能力であり、これは生物学的な性別に依存します。それ以外は、絶対優位ではなく、比較優位に基づいて役割分担すればいいと考えています。もっとも、実は、最大の制約要因は時間の有限性、というか、平等性であって、等しく各人に1日24時間が与えられています。生産性や性別に何の関係もなく24時間なわけで、これが最大の役割分担の制約条件となります。ですから、ホントに比較優位に基づいて役割分担をすると、場合によっては1日24時間では不足する可能性もあります。最後に、どうでもいいことながら、私はマッチョでレディ・ファーストを女性に対して極めて慇懃無礼に実行しているラテンの国に3年余り赴任していた経験があり、逆に、フツーにアジアな国にも3年間の経験があります。どちらもどちら、という気がします。日本に生まれ育った私には日本の男女間がもっとも自然に接することができるのは当然かもしれません。でも、歴史の流れとして男尊女卑の程度が弱まって、男女同権の方向に変化する歴史的な流れは止められないと覚悟すべきです。

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次に、青山七恵『ハッチとマーロウ』(小学館) です。著者はご存知芥川賞作家であり、私は彼女の大ファンです。基本的に、清純派の純文学作品が多いんですが、『快楽』などで少し背伸びをしようとした跡も見られる一方で、この作品では児童文学に近い仕上がりとなっています。タイトル通りの通称で呼ばれる2人の小学5年生の双子姉妹を主人公に、小学5年生から6年生にかけての12か月をほぼほぼ毎月1章で語り切っていて、ハッチとマーロウが交互に1人称で語っています。大晦日にシングルマザーのママが、大人を卒業してダメ人間になると宣言し、お正月からウダウダしてパジャマを着替えることもなく過ごします。ミステリ作家のママは仕事はもちろんしませんし、家事はすべて双子がこなさねばならなくなります。なお、舞台はほぼ長野県穂高のようです。そういった中で、お正月を過ごし、バレンタインデーを過ごし、4月には風変わりな転入生を軸に物語が進み、7月にはママと双子は東京でバカンスを過ごしたりします。小学5年生や6年生が1人称で語っているんですが、さすがの芥川賞作家ですので表現力はバッチリです。私くらいのスピードで読んでも隔月で1人称の語り口を交代する双子姉妹の個性、というか、俗にいうところのキャラがとても明瞭に読み分けられます。タイトルの順番ですから、おそらむハッチが姉でマーロウが妹なんだろうという気がしますが、勝ち気でシーダーシップに富み、自分のポニーテールも切り落とすくらい行動的なハッチに対して、ややハッチからは後方に退き妹らしくハッチについて行くマーロウ、ただ、ママがダラダラしたダメ人間ですので、ややキャラが立ってない気すらしてしまいます。双子姉妹の父親探しが迎える結末もとても興味深く仕上がっていますが、エンタメ小説ではなく純文学ですので、オチは明瞭ではありません。それでも、作者の表現力の豊かさには驚かされます。

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最後に、伊坂幸太郎ほか『短編少年』(集英社文庫) です。7月9日付けの読書感想文で取り上げた三浦しをんほか『短編少女』の姉妹短篇集です。収録作品は以下の通りです。すなわち、伊坂幸太郎「逆ソクラテス」、あさのあつこ「下野原光一くんについて」、佐川光晴「四本のラケット」、朝井リョウ「ひからない蛍」、柳広司「すーぱー・すたじあむ」、奥田英朗「夏のアルバム」、山崎ナオコーラ「正直な子ども」、小川糸「僕の太陽」、石田衣良「跳ぶ少年」です。これは私が男性だから、そう感じるだけかもしれませんが、『短編少女』と比べて、少年の方はまっすぐで、少なくともホラー的な作品はなかったような気がします。ただ、『短編少女』と比べて、読んだことのある作品は少なかったように思います。新鮮な気持ちで読んだ差なのかもしれません。
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2017年08月12日 (土) 13:26:00

今週の読書は話題の書を含めていろいろあって計7冊!

今週の読書は、経済書のほか、話題のビル・エモット『「西洋」の終わり』などの教養書、専門書も併せて、計7冊です。山の日の休日が私の読書を促進したとも思いませんが、ついつい読み過ぎてオーバーペースです。来週こそ強い決意を持ってペースダウンする予定です。それから、お盆休みには集英社から文庫本で出されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻が完結しましたので読んでおきたいと予定しています。

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まず、池尾和人・幸田博人[編著]『日本経済再生 25年の計』(日本経済新聞出版社) です。慶応大学経済学部の看板教授陣とみずほ証券のエコノミストのコラボによる日本経済活性化への提言書です。冒頭の3章、金融政策、財政政策、債務問題を慶大グループが担当し、後の4章の意識改革、情報開示、エンゲージメント、イノベーションをみずほ証券のエコノミスト人が担当しています。タイムスパンの25年というのは、例のカーツワイルのシンギュラリティの2045年を意識したものではなく、高齢者が絶対数でピークに達する2040-45年くらいを念頭に、現時点から25年くらい、といった算定のようです。金融政策では、従来からの池尾教授の主張と同じで、日銀の金融緩和は潜在成長率を高めなかったので評価できない、という点に尽きます。そして、金融政策ながら章の後半は人口動態論を主体とする中期見通しに切り替わってしまいます。私くらいの頭の回転ではついて行けませんでした。財政政策についても土居教授の従来からの主張から大きく出ることないんですが、キャッシュフロー課税というテーマは斬新だった一方で、社会保障について高齢者への過度の優遇についてもう少し明らかにして欲しい気もします。債務問題については過剰債務が成長を阻害するという理論モデルの解説が中心となっていて、それはそれでとても私には興味深かったと受け止めています。ただ、直観的には過剰債務が長期停滞をもたらすというのは、そういったモデルを構築することは可能だろうとは理解しつつも、やや強引な立論かもしれないと感じてしまいました。後半4章については、よく判りません。ただ、日本居企業価値向上を阻害する何らかの構造的な要因があるとすれば、市場経済化で自立的にそれを取り除けないのはどうしてか、政府に勤務する官庁エコノミストとして、もう少していねいな方法論が欲しかった気がします。基本的に、資金調達に関するモディリアーニ=ミラー理論からの逸脱が生じているわけですし、証券会社や銀行はまさにそれをビジネス・チャンスにしているわけですから、基本となるモディリアーニ=ミラー理論に立ち返って、その基本モデルからの逸脱を論じて欲しい気がします。特に、モデル分析をていねいに展開している小林教授の章に続いての4章の後半部分ですから、やや気にかかってしまいました。

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次に、ビル・エモット『「西洋」の終わり』(日本経済新聞出版社) です。経済書っぽくないので2番手に配置しましたが、話題の書です。著者はながらく英国エコノミスト誌の編集長も務め、日本駐在もした知日派のジャーナリストであり、『日はまた沈む』で我が国のバブル経済崩壊を予言して当て、『日はまた昇る』我が国の復活を予言して大いに外したのは記憶の読者も少なくないことと思います。英語の原題は The Fate of the West であり、2016年の出版です。ということで、昨今のポピュリズムの台頭、特に、フランス人民戦線のルペン党首の人気だけでなく、エコくもUE離脱、いわゆるBREXITや米国大統領選でのトランプ大統領の当選などを背景に、移民排斥をはじめとする閉鎖的な政治経済の風潮を考慮し、リベラルな西洋の立場から世界の進むべき方向性を論じています。もちろん、西欧のほか米国や日本も本書でいうところの「西洋」のカテゴリーに入っています。自由と民主主義、さらに開放的な政策などを基調とする社会という意味なんでしょうから当然です。なお、ポピュリズム的な政治傾向と併せて、新自由主義的な経済政策の下での不平等の拡大や金融経済化の進展なども論じているんですが、特に、雇用についてはさらに規制緩和、わが国で称されているところの「岩盤規制」をさらに緩和する方向を示していたりして、やや疑問に感じないでもありません。さらに、私が疑問を強く感じているのは、特に大陸欧州で移民排斥をはじめとするポピュリズムの傾向が経済に先行き不透明感や、いわゆる長期停滞に起因している点を見逃しているような気がします。ただ、さまざまな経済の問題点を解決するのに成長を持って充てているのは当然としても、経済でないポピュリズムや移民排斥についても、国民の特に中間層といわれる中核をなす階層が、経済的に恵まれないことから、財政の社会保障を中心に大陸欧州で、いわゆる「国民」の枠を広げる移民受け入れに反対している点は明らかだと私は考えており、成長はかなり多くの現時点での政治経済社会の問題解決に資するんではないかと思います。もちろん、経済成長以外で西洋的な価値観を取り戻すのに有益・有効な手段についても本書では論じていますが、エコノミストの私にはやや専門外と受け止めています。私が従来から何度も繰り返している通り、現時点で、本書が言うところの「西洋」が世界的に覇権を握り、自由で平等な民主主義に基づく経済社会を実現しているのは、イングランドを起点とする産業革命に成功したからであり、ありていにいえば、その過去の遺産で現在まで食いつないでいると考えています。ですから、別の見方をすれば、その過去の遺産を食いつぶしつつあるともいえます。いずれにせよ、開かれた自由な民主主義、さらに、より平等な経済社会を基礎とする「西洋」の再構築のために、とても重厚な思考実験を展開している教養書といえます。

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次に、J.H.エリオット『歴史ができるまで』(岩波現代全書) です。著者は英国人のスペイン近世史の専門家です。私は数年前に、ひょっとしたら、本書の出版時かもしれませんが、BBCに著者が出演していたのを見かけたことがあります。当時でも80歳を超えていただろうと想像しますが、悪くいえば「痩せ衰えた老人」といった印象を受けました。英語の原題は History in the Making であり、2012年の出版です。ということで、著者が専門とするスペイン近世の歴史を題材に歴史学の方法論まで含めて議論を展開しています。なお、「近世」という用語は、決して日本に独特のモノで、単に江戸時代を指すだけでなく、封建制後期から産業革命までの期間を指す場合が多い気がします。英語では、"early modern"を当てます。著者自身は、いわゆるオーソドックスな歴史家であり、その対極、とまではいいませんが、マルクス主義的な歴史観を基本とした歴史家もいます。そして、マルクス主義の影響を強く感じさせるものの、少し距離を置いたフランスのアナール学派もあります。アナール学派の中心が『地中海』で有名なブローデルです。エリオット卿はブローデルとの交流も含めて、歴史に対する把握の方法を論じています。歴史の重ね合わせという言葉を著者は使っていますが、ある国あるいは地域のある時点だけを取り出しても、比較対象がなければ研究のしようがありません。そのため、世界横断的に同じ辞典の世界各国・各地域の比較対象を行うのが、少し違いますが、地理学に近く、時系列的に同じ国や地域を時間の流れの中の変化を見るのが歴史学ともいえます。ブローデルが為政者や権力者中心の歴史観ではなく、細菌や病気も含めて人口動態などを重視したのに対し、エリオット卿の歴史学は我々が通常目にする歴史書に見られる政治や外交や経済の出来事を並べる歴史観に基づいています。私は高校を卒業した直後に岩波文庫から出版されていたランケ『世界史概観』を読んで感激して経済史を志した記憶がありますが、著者のエリオット卿は本書にも見られる通り、美術史と連携した宮殿の復元、大西洋史といった比較史へと研究を広げる歴史学の大御所です。それから、先日取り上げた本では翻訳がひどいと明記しましたが、本書はとりわけ翻訳がていねいで素晴らしい出来に仕上がっている気がします。

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次に、ジョセフ・メイザー『フロックの確率』(日経BP社) です。著者は米国の数学教授であり、英語の原題は Fluke、2016年の出版です。 基本的に、世の中で起こる、あるいは、実際に起こったフロック、まぐれ当たりや巡り合せについて、数学的に解明を試みています。本書でも取り上げられていますが、人数が一定数集まると、本書の計算によれば、23人以上が集まると、同じ誕生日、生年月日ではなく、年なしの月日だけですが、同じ日付の誕生日の人がいる確率が50%を超えます。これらのほかに、マイアミで呼んだタクシーが3年前にシカゴで呼んだタクシーと同じ運転手だった女性、ロト宝くじに次々に4回当たった女性、被疑者2名にまったく同じDNA鑑定結果が出てしまった事件、などなど、現実に起こった事象について、認知バイアスなどによる確率の過大評価や過小評価も含めて、エピソードごとに著者がていねいに解説を加えています。ただ、良し悪しなんでしょうが、現実に起こったケースを基に議論を進めていることから、決定論的な確率に関する議論ですので、いわば、確率が決まってしまっているケースの議論に終始しています。ですから、発生するエピソードが、起これば事後的な確率が1で、起こらなければゼロという世界です。現実の世界では何らかの事象が確率分布に基づいて発生するケースも少なくなく、例えば、金融市場における資産価格決定などは議論から抜け落ちています。もちろん、シュレディンガーのネコのようなお話はカバーできていません。この点は、現実のケースを取り上げる判りやすさとトレードオフだと思いますので、何とも判断の難しいところですが、エコノミストや量子力学関係者からはやや物足りないという意見が出る可能性はあります。カジノにおけるギャンブルなどに通じる確率論であり、どうでもいいことながら、そういった方面からは歓迎されそうな気もします。

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次に、ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社) です。著者はオスロ出身で「平和学の父」と呼ばれているそうです。英語の原題は People's Peace であり、2017年の出版です。英語タイトルはともかく、中身はかなり邦訳タイトルに近く、確かに、日本人向けに書かれている気はします。例えば、本書冒頭のはじめにで、ニホンを苦しめている問題の根本原因は米国への従属と明記しています。しかし、他方で、米国への従属を断ち切る方策について、本書は何も触れていません。というか、対米従属の基本となっている安保条約については、改正とか破棄・廃棄ではなく、手を触れずに店晒しで無意味化させる、というまったく私には理解できない議論を主張しています。やや無責任な気もします。しかし、この能天気な無責任さは本書の貴重をなすトーンでもあります。決して理想主義ではないんですが、単に出来もしないことを羅列しているとみなす読者もいるかもしれません。私もそれに近い読み方をしてしまいました。でも、キリスト教的に極めて許容度の広い本であり、まったく反対のいくつかの観点をすべて許容しそうな勢いで議論が進みます。無責任の極みかもしれません。北方領土や尖閣諸島については、領有権を主張する両国の共同管理を主張していて、まさに、両国はそれを排除しようと試みている点を無視しています。私は大江健三郎のノーベル賞講演ではありませんが、日本人の特性のひとつは曖昧さであると感じていたんですが、本書の著者は白黒をハッキリつけすぎると受け止めているようです。国際常識も通用しません。まあ、私の専門外ですので、私の方で誤解しているのかもしれませんが、ほとんど参考にも何にもならない本です。最後に、日本における沖縄後について考える際に、呼んでおく基礎的な文献は、実は、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ K. ル=グインの『風の十二方位』に収録されている短編「オメラスから歩み去る人々」です。10年ほど前に話題になったサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられています。

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次に、堂場瞬一『1934年の地図』(実業之日本社) です。著者は、警察小説とスポーツ小説を得意としたエンタメ小説家です。まずまずの売れ行きではないでしょうか。本書は、地理学の大学教授を主人公に、戦後1960年の日本を舞台にしています。そして、大戦前夜の1934年暮れにベーブ・ルースらとともにオールスター野球チームの一員として来日した大リーガーであり、その後、主人公と同じ地理学の専門家として研究者となった友人が来日します。主人公は1934年の米国野球オールスター来日の際に通訳を兼ねて接待に当たっており、26年振りの再会でした。しかし、主人公が学界に出席するため渡米した折に、思いもかけない事実が判明します。米国人の友人が1934年に来日した目的は必ずしも野球だけではなく、戦争開戦前の日本の実情を探ることも目的とされていたようであり、その情報収集から結果として大きな悲劇がもたらされることとなります。戦争当時の悲劇ですので、およそ、原爆被爆はもちろん、空襲を始めとする悲惨な戦争被害の中で埋もれがちな事実が明らかになるわけです。以下、私の個人的な感想ですが、ハッキリいって、イマイチです。主人公と米国人元大リーガーにとっては、それなりに重要な結果をもたらしたのかもしれませんが、そうであれば、もっとキチンと書くべきです。さらに、フィクションのエンタメ小説とはいえ、背景となる日本国内及び世界の政治経済情勢、特に、それが戦争につながるわけですから、そういったバックグラウンドも視野に入れるべきです。1934年の直前の1933年にはドイツのヒトラーが首相となり、米国のローズベルトが大統領に就任しているわけですし、日本と中国の関係では、1931年9月に柳条湖事件が起こり、翌年1932年には満州国が建国されています。そういった時代背景にも目を配って欲しかった気がします。そうでなければ、単なるスポーツをからめたメロドラマになってしまいかねません。

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最後に、首都圏鉄道路線研究会『駅格差』(SB新書) です。先月7月15日付けの読書感想文で同じシリーズの前書『沿線格差』を取り上げたばかりなんですが、その続きで沿線ではなく駅に着目した格差論です。『沿線格差』のように、勝ち組と負け組を明記したりしていないので、それなりにインパクトは低下しているような気もしますが、一般に理解されている点も、あまり理解されていない点も、それぞれにコンパクトによく取りまとめられています。住宅を中心に駅や沿線を考える場合が多い気もしますし、本書でもそうなっていますが、あとは観光地というのは大げさにしても、買い物などの訪問先的な観点は含まれているものの、本書で欠けている勤務先という観点も欲しかったと私は考えています。なお、総合ランキングや勝ち組と負け組はないんですが、いろんな観点からのランキングは各種豊富に取りそろえています。特に、男女別に見たトイレ事情のランキングは、それなりに実用的な気もしました。数年前に公務員住宅を出て住まいを探した折に、マンション名が駅名になっていて、必ずしも行政的な住所表記と一致しない例があったのを思い出してしまいました。まあ、一戸建てなら関係ないんですが、本書で指摘している通り、多少のごまかしやハッタリを含めて、必ずしも行政上の住所表記ではないイメージのいい街を自分の住まいに当てはめる例は少なくないと思います。そして、大いに理解できるところかという気がします。最後に、五島家が東急経営で鉄道や商業そして、住宅開発などで総合的な手腕を示したのに対して、西武の堤家は鉄道と商業を兄弟で分担して失敗した、かのように示唆する部分がありますが、西武の鉄道と商業、それも、西武百貨店とスーパーの西友、さらに住宅開発の国土計画などを分割してしまったのは米国投資ファンドのサーベラスです。海外ファンドに株式を買い占められて短期的視野で経営に圧力をかけられるとこうなる、という悪い見本のような気がします。
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2017年08月06日 (日) 15:02:00

先週の読書は話題の経済書など計7冊!

先週の読書は、イングランド銀行の総裁を務め、サブプライム・バブルの崩壊を乗り切った中央銀行総裁のの1人であるマービン・キング卿の話題の書ほか、人工知能に関する日仏の学術書など、以下の通り計7冊です。キングの『錬金術の終わり』は、昨日の日経新聞の書評で取り上げられていました。米国雇用統計で1日営業日がズレて、やや多くなってしまいましたが、週5冊くらいにペースダウンしたいと希望しています。

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まず、マーヴィン・キング『錬金術の終わり』(日本経済新聞出版社) です。著者はご存じの通り、2003年から2013年まで10年間イングランド銀行の総裁を務めたエコノミストです。学界からチーフエコノミストとしてイングランド銀行に入り、総裁まで勤め上げた人物です。リーマン・ショック後の混乱を収拾した中央銀行総裁の1人であり、著者のことを錬金術師と称した向きもありました。英語の原題は The Endo of Alchemy であり、邦訳はこのタイトルそのまま直訳のようです。昨年2016年の出版です。ということで、何度か繰り返して、著者は本書のことを回顧録ではないと言明しています。そして、タイトルの錬金術とは、預金者から調達した資金が長期投資のために使われ、新たな経済的価値を生み出すという、歴史的に続いてきた現代金融の仕組みについて名づけられており、ところが、この金融の錬金術は、ハイパーインフレから金融破綻や銀行危機まで、経済に大きな厄災も同時にもたらしてきたわけで、悪い意味での錬金術を終わらせて、健全な金融と経済を築くにはどうすればよいのか、について考察を進めています。そして、金融危機や銀行破綻のひとつの原因が、高レバレッジと将来の不確実性にあると指摘していますが、ナイト流のリスクではない不確実性については、私はどうしようもないんではないか、と諦めの心境です。高レバレッジ、というか、それを逆から見た薄い自己資本については、単にバーゼル規制をもって対処するのか、それとも、強烈に100パーセント準備を必要とする単なる決済機能の提供者たるナロー・バンキングに移行するのか、後者は現実的ではないような気もします。そして、中央銀行の役割として、「どんなときも頼りになる質店」を提唱しています。また、究極の問いとして、著者は、銀行は政府の延長なのか、それとも市場の延長なのか、と問うています。いろいろと知的好奇心を満足させる本ではありますが、ひとつだけ、銀行に対比させるに個人や家計の預金者を想定しているような書き振りがいくつか見受けられます。およそ規模が違うんですから、せめて企業一般、そして、可能な部分については金融機関を対比させてほしい気もしました。

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次に、三橋貴明『生産性向上だけを考えれば日本経済は大復活する』(彩図社) です。作者はマーケット・エコノミスト系の活動をしてきた人だと思うんですが、私は余りよく知りません。あまりご著書を拝読したこともないような気がします。本書は、基本的に、著者なりに経済を解説しようと試みている気がするんですが、さすがに、『錬金術の終わり』に続けて読むと、ややキワモノっぽさが目立ってしまいました。通説を批判するという形で議論を始めながら、最終的には通説に収斂しているような気もしますし、中身でかなり矛盾も散見されます。例えば、期待についてはエラいエコノミストでも適応的期待、すなわち、合理的期待に近いフォワード・ルッキングな期待形成を否定して近い過去から現状の状態がこの先も続くという現状維持バイアスに近い見方を示したかと思えば、メディアの誤った見方をそのまま受け入れているかのごとき見方が示されていたりもします。何より、タイトルの生産性という言葉について、本書の冒頭では労働生産性、すなわち、労働者1人当たりのGDPで定義して、通説の供給サイドよりもむしろ需要により変動する部分が大きく、我が国の低生産性の原因がデフレにある点を指摘したりしている一方で、結局、供給サイドの議論に回帰したりしています。私は生産性については需要サイドの影響も決して無視できないと考えていて、デフレが低生産性の原因との見方も含めて、本書冒頭の見方に大いに賛成なんですが、著者の腰が定まらず、本書の議論では、結局、通説の供給サイドに立ち返ってしまいます。ただ、低生産性の原因がデフレである点を含めて、私と意見が合う部分もかなり多く、潜在成長率とは現実の成長率を大いに繁栄しているという点、完全雇用失業率は現在の3%前後ではなく、さらに低下して2%台前半であるとする点、などなどです。もっとも、タイトルに関する議論だけでページが埋まらなかったものと見え、第4章以下はタイトルとの関係に疑問が残ります。まあ、高齢の方のお話が長くなる原理を垣間見た気がします。要するに、お話しのトピックとは関係なく、自分の持論を延々と展開するということなのだと思います。

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次に、松田雄馬『人工知能の哲学』(東海大学出版部) です。著者はNECのキャリアが長いエンジニアで、決して哲学者ではありません。東北大学とのブレインウェア(脳型コンピュータ)の共同研究プロジェクトを経験し、その経験が本書にも活かされている気がします。そして、出版社からも理解される通り、本書は純粋に学術書であり、一般向けの判りやすい解説書ではありません。例えば、第4章なんぞは難解な数式が頻出します。ただ、現時点での話題の的である人工知能に関する哲学ですので、私のような専門外のエコノミストでもそれなりの一般的な基礎知識が蓄積されつつありますので、それなりに判りやすく読めました。そして、論点は、人工知能の前半の人工は問題ないとしても、人口でない神の作り賜いし生命とは何か、そして、その生命の持つ知能とは何か、に関する哲学的な議論を進めています。そして、本書の結論として、神の作り賜いし生命が発揮する知能とは、そういった用語は用いていませんが、私なりの理解として、合目的的な行動を支えるものであり、その目的の設定は人工知能には出来ない可能性が高い、ということなんだろうと受け止めました。さらに、2045年のシンギュラリティを主張しているカーツワイルが基礎としているムーアの法則が今後も継続される可能性も低い、と予想しています。まず、後者について、私は指数関数的な成長については、今後も継続する可能性の方が強いと思っていますが、伸び率が低下する可能性は否定しません。前者に戻ると、目的設定については、これが明らかな将棋や囲碁については、何の問題もなく人工知能が人間を上回ったのは、広く知られている通りです。そして、本書の著者は羽生三冠の言葉を引用して、人間が勝てなくなれば桂馬が横に跳ぶとか、ルールを変更すればいい、として、まさに人間の知能が人工知能を上回る点を明らかにしています。もちろん、目的が設定され、情報を処理しつつ評価関数がアップグレードされる段階になれば、人工知能の方に分があります。そういう意味では、目標を設定する人間の知能とそれを最適に遂行する方法を見出す人工知能という組み合わせで歴史は進むのかもしれません。錯覚を並べた第2章の観念論的な見方、脳が世界を主観的に作り出している、という見方に少し違和感を覚えますが、全体としてとても参考になるいい本だという気がします。

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次に、ジャン=ガブリエル・ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(早川書房) です。著者はパリ第6大学の哲学者であり、コンピュータ・サイエンスを専門と知る教授を務めています。フランス語の原題は Le Mythe de la Singulatité ですから、シンギュラリティを神話として、疑いの目で見ているカンジでしょうか。2017年今年の出版です。ただ、この直前で取り上げた『人工知能の哲学』と並べて読むと、かなり見劣りがします。訳者あとがきで、シンギュラリティについては楽観派と悲観派と中立派の3者があるとしていますが、本書は4番目の否定派です。私も基本的にはシンギュラリティは、少なくとも2045年までにはやって来ない確率が高いと考えていますが、何分、専門外のエコノミストですので。シンギュラリティが来ないと思いつつも、来たら何が困るかを考え、やっぱり、人工知能やロボットの導入に伴う失業問題だろうということで、それならベーシック・インカムを導入する、という論理構成になるんですが、本書ではホーキングやビル・ゲイツなどの悲観派の論調を否定派で押し通している印象です。ただ、コンピュータの演算能力と知性については直接の関係はない、というか、別物であるとの主張は私も同意します。ただ、情けないと私が感じたのは、コンピュータの能力の量的な向上が質的な変化をもたらす可能性、まさに、ヘーゲルの弁証法的な量的変化が質的変化に転化する、を理解していない点です。先の『人工知能の哲学』でも取り上げられていた中国語の部屋のエピソードについては、チューリング・テストとの関係で正しく論じて欲しかった気がします。本書と先の『人工知能の哲学』の評価の違いはアマゾンのレビューでもうかがえます。『人工知能の哲学』の評価が星5ツがとっても多いのに対して、本書の評価は星5ツ星1ツの両極端に分けれています。最後に、コンピュータや人工知能の進歩の末にある恐怖は、本書が否定するような人工知能の自律的な人類への反逆ではなく、どこかのマッド・サイエンティストが発達して人類の能力を超えかねない人工知能やロボットの能力を悪用することだと私は考えています。その点については、まだマジメに考えている科学者は少ないのだろうと思います。

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次に、ジョシュア・ハマー『アルカイダから古文書を守った図書館員』(紀伊國屋書店) です。著者は「ニューズウィーク」などで活躍してきたジャーナリストです。そして、邦訳タイトルだけからでは判りにくいんですが、英語の原題は The Bad-Ass Librarian of Timbuktu であり、アフリカ西部のマリを舞台にしたノンフィクションです。原書は2016年の出版です。内容は邦訳タイトルそのままで、トンブクトゥの古文書をマリの内戦で蜂起したアルカイダからいかに守ったかをリポートしています。上の表紙画像で古文書を手にしているのは、本書の主人公とでもいうべき図書館員ハイダラ氏です。時期としては、2012-13年にかけてであり、まさに、訳者あとがきにある通り、2013年1月にアルジェリア東部の天然ガス精製プラントをイスラム過激派が襲撃し、日揮から派遣されていたエンジニアなど日本人10人を含む外国人37人が犠牲になった事件と大雑把に流れを同じくするアフリカにおけるイスラム過激派のテロの動向を背景にしています。トンブクトゥは12世紀から16世紀くらいまで、交通の要衝としてアフリカにおけるイスラム宗教文化の中心として栄えた文化都市、学問の都であり、盛んに写本が作成され、写本の記述された中身も宗教以外にも天文学や医学や幾何学など広範な分野に渡るだけでなく、金箔の装丁など一級の美術品としても価値もある古文書が数多く残されているらしいです。そして、本書の主人公は、一族・一家に伝わる古文書を基に私設図書館を設立したり、その前は、古文書の研究機関・図書館に勤務して古文書を収集したりしていたことがあり、先ほどの2012-13年のアルカイダ系のイスラム過激派の武装蜂起でトンブクトゥの古文書が焼失の危険にさらされることを見抜き、3万冊余りの古文書をより安全なマリの首都バマコに運び込んだ物語です。前半は、主人公が父親から一家や一族に伝わる古文書を受け取り、決して売ったり譲渡したりしてはならないと今わの際に言い置かれ、古文書の研究機関兼図書館に勤務して多数の古文書の蒐集に当たったり、あるいは、この研究機関兼図書館から独立して、父親から引き継いだ古文書を基に私設図書館を開設する、といった、それはそれで興味深いストーリーなんですが、何といっても本書のハイライトは終盤にあり、アルカイダから逃れ、政府軍からも追われ、そして、当時のオランド大統領の決断により介入したフランス軍にも足止めを食らいながら、大量の古文書を運送するところです。もちろん、私のような開発経済学を専門とするエコノミストから見れば、トンブクトゥの人々にとっては、古文書は先進国からの援助を引き出すための、いわば「メシのタネ」なわけで、あだやおろそかにはできないんですが、文化の香りも手伝って、とてもいい物語に仕上がっています。映画化されれば、私はたぶん見に行くと思います。

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次に、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(インターシフト) です。著者はサイエンス・ライターということのようです。ポーランド人でフランス在住らしいです。ほとんど肉食をしないベジタリアンのようです。英語の原題は Meathood ですから、接尾時の -hood については、いろんな意味があるんでしょうが、brotherhood と同じと考えて、直訳すれば「肉への愛情」くらいのカンジかもしれません。ということで、1か月ほど前の7月9日付けで取り上げたウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』によれば、食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということだったんですが、結論を先取りしていえば、本書では食事は文化だということになります。そして、肉食は権力、成功富、男らしさ、などなどを象徴していると著者は考えています。ただし、最近時点では、肉食に反対する一定の勢力が台頭し、大雑把に、健康の観点から肉食に反対するベジタリアン、そして、動物を殺すという倫理的観点からのベジタリアンです。後者は前者をやや軽蔑しているかのような記述も本書にはあります。また、当然ながら、宗教的観点から何らかの肉食を禁じる場合もあります。イスラム教やユダヤ教の豚は忌み嫌われて食べませんし、逆に、ヒンドゥー教の牛は神聖な生き物であり、やっぱり食べません。また、明治の近代世界に入る前の日本などでは、仏教的な観点から殺生を禁じて肉食は極めて稀だったといわれています。本書でも、日本では動物の肉をさくら、もみじ、ぼたんなどと呼んで、肉食っぽくなく感じさせる技を紹介しています。英語でも牛肉をビーフ、豚肉をポークと読んだりして、肉は生きている動物から切り離された名詞で呼ばれています。誠についでながら、私は関西人ですから、東京に出て来て宗教由来の言葉が少ないと感じた記憶があります。関西では「そら殺生でっせ」とか、「往生しましたわ」といった表現は日常的に使いますが、東京では聞いたことがありません。でも、肉食は関西の方が盛んな気もします。気ままに書き連ねましたが、私の年齢とともに肉食が減った気がします。

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最後に、阿川大樹『終電の神様』(実業之日本社文庫) です。著者は私よりさらに年長くらいな小説家なんですが、誠に不勉強にして、私はこの作者の作品を読んだことはありません。この作品は、かなり独立性の高い短編から編まれた連作短編集です。必ずしもタイトル通りの終電に限らないんですが、ある駅の近くで電車が人身事故や何らかのトラブルでしばらく止まることから生じる関係者の人生の変化を追っています。収録された7編の短編すべてが心温まるハッピーエンドではありませんが、何らかの人生に対するヒントは得られそうですし、読後感は悪くありません。女装の男性がキーワードになっている気がします。ただ、いくつか弱点もあります。作者の年齢から派生するような気もしますが、現在ではその昔ほど電車が止まる機会も少なくなりましたし、実感がどこまで読者と共有できるかは不安があります。それから、最後の短編などはとても話を作り過ぎてあざとい気もします。
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2017年07月29日 (土) 11:53:00

今週の読書は不平等に関する経済書など計7冊!

いろいろあって、今週の読書は、不平等に関する経済書をはじめ、話題の小説なども含めて計7冊です。今年上半期の芥川賞と直木賞が決まりましたが、私は芥川賞は今日取り上げる今村夏子『星の子』で、直木賞は柚木麻子の『BUTTER』と予想していました。候補作をまったく読まない予想でしたので、当然ながら、みごとに外しました。

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まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等』(みすず書房) です。著者は、アトキンソン教授らとともに不平等研究の先頭に立つの1人であり、長らくの世銀勤務の後、現在はルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)の研究者を務めています。なお、私は同じ著者が邦訳については同じ出版社から出した『不平等について』も読んでおり、2013年3月23日付けの記事で取り上げています。どうでもいいことながら、前著の邦訳書の表紙にもゾウが出ていたような記憶があります。英語の原題は Global Inequality であり、ビミョーに邦訳タイトルと違っていて、グローバル化による不平等の進行についてもテーマのひとつとしています。2016年の出版です。ということで、本書の著者は、1980年代以降くらいに進行した現在の不平等化について、原因として、右派的なスキル偏重型の技術進歩についても、左派的な政策的な平等化努力の放棄についても、いずれも否定せず、さらに、勝者総取りについても、その昔の1980年代初頭のローゼン論文によるスーパースター経済、すなわち、拡張性の議論も否定せず、ひたすら淡々と現状分析を進めています。どうしてかという原因のひとつは、理論的な根拠が薄弱な経験則であるクズネッツ曲線を基に議論しているからではないか、と私は受け止めています。そして、対象としているのは、intra-nation な国内の不平等と inter-national な各国間の不平等であり、前者を階級に基づく不平等、後者を場所に基づく不平等と名付け、19世紀では前者の方が大きく、階級闘争というマルクスの主張にも一定の根拠があったが、20世紀以降、特にグローバル化が進展した20世紀後半では後者の方が圧倒的に影響力が大きくなっていると結論しています。つまり、良家に生まれるよりも先進国に生まれる方が格差の観点からは有利である、ということです。繰り返しになりますが、本書が基礎としているのはクズネッツ波形であり、大雑把に、緩やかなエコノミスト間の合意として、クズネッツ波形とは逆U字曲線として理解されており、横軸に時間または経済的豊かさを取り、縦軸に不平等の度合いを取ったカーテシアン座標において逆U字となり、資本主義の発展の前期には不平等の度合いが高まり、資本主義の後期には不平等は緩和される、というもので、1時点における多くの国のクロスセクションで実証されたり、いくつかの国のタイムシリーズで実証されたりしています。しかし、本書の著者はクズネッツ曲線を単に逆U字で終るものではなく、サイクルとして繰り返されるものと認識しており、資本主義経済に即していえば、クズネッツ波形の第1の波は平等化の進展であり、第2の波は現在のようなグローバル化による不平等化の進展、ということになります。そして、本書の最後の最後に、著者はグローバル化による利益は均等に分配されることはなく、ブローバリゼーションにより不平等化が消滅することはない、と結論しています。理論的・解析的であるより実証的であるのが本書の特徴といえます。したがって、有力な政策インプリケーションは出て来ません。それでも、現在の不平等化を理解する上で、とても参考にあるいい分析書だという気がします。ただし、右派的な機会の平等や不平等を論じた経済書ではありません。徹頭徹尾、結果の不平等を論じています。長々と書き連ねましたが、、最後のひとつ前に、英語の原題になく邦訳のサブタイトルだけに現れるエレファントカーブとは、邦訳書のp.13やp.34でお目にかかれますが、横軸に世界の所得の20分位や100分位を取り、縦軸に10年とか20年とかの間の実質所得の累積増加率を取ったグラフで、それに基づくと世界の所得分布の100分位でいうと80-90パーセンタイルのあたり、すなわち、先進国の中間層の実質所得がここ10年とか20年で伸び悩んでいて、そのあたりが米国のトランプ大統領の当選とかの現在のポピュリズムの原因のひとつである可能性が示唆されていますが、本書の主張の重点ではない気がします。なお、このエレファントカーブの実物を見たい向きは、今週木曜日7月27日付けの日経新聞の経済教室で、米国カリフォルニア大学バークレイ校のデロング教授が引用しています。ご参考まで。最後の最後に、私なんぞの読書感想文ではなく、全国紙などの書評に興味ある向きは、私が読んだ範囲で以下の通りです。7月23日付けの読売新聞でも見かけたんですがサイトが見つかりませんでした。悪しからず。


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次に、新田信行『よみがえる金融』(ダイヤモンド社) です。著者は、みずほ銀行常務から第一勧業信組理事長に転任した銀行マンです。第一勧業信組は、例の無担保・無保証の芸者さんローンで有名になったんですが、もともと、東京都下でもかなり規模の大きな信組ではないかと思います。著者はすでに叙勲も受けて、本書の内容はほとんど自慢話なんですが、信組であれば数百人の規模の組織ですし、本書の第一勧業信組も200人とか300人とあったような気がしますから、それくらいの規模であれば、トップがほとんどすべてのメンバーと面識があり、その意味でもトップがすべての組織となってもおかしくはありません。役所関係で想像すれば、警察署、独立行政法人などです。私は警察官ではありませんから警察署勤務の経験はありませんが、独立行政法人、その昔の特殊法人も含めて勤務経験があり、例えば、所管官庁の事務次官なんぞを経験した天下り理事長がワンマン体制を敷いていることもめずらしくないような気がします。それは別として、本書では東京ながら小規模な信組で、芸者さんローンをはじめとして事業性のローンを開拓したり、あるいは、地域の創業支援をしたりと、地域経済に密着した金融機関のいい面が取り上げられているんですが、その際、無担保無保証のローンも少なくなく、従って、「目利き」ということばがキーワードとして頻出します。この言葉に、デフレとともに「失われた20年」の原因があります。すなわち、日本経済は特別の能力を持った人材を育てることなく、また、評価することなく、ひたすら作業をマニュアル化して非正規社員に代表されるような未熟練労働を雇用してコストカットすることに企業経営の努力を傾けて来たわけです。外資系企業では日本企業の10倍、文字通りの桁違いの報酬を得ている高スキル人材も少なくない中、我が国企業では、ひたすた未熟練の低賃金雇用を進め、そして今やデスキリングを生じてしまっているわけです。本書でもインプリシットにその点を認めており、p.267では、農業がもうからないのは農業事業者に価格決定権がないからであると喝破しています。まさに、我が国の労働市場では農業生産者と同じことが起きており、高スキルの労働力にキチンと報いて高賃金を提供することなく、ひたすら低スキルの非正規労働者に高スキル労働力を切り替えやすくすることをもって「岩盤規制」と称しているわけです。さらに未熟練でさらに低賃金の労働者を雇いやすくするという意味で、現在の労働市場改革がまったく逆方向を向いていることを本書を読んで実感しました。

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次に、冨島佑允『「大数の法則」がわかれば、世の中のすべてがわかる!』(ウェッジ) です。著者は、金融機関やヘッジファンドで運用を担当するなどの経歴の後、現在は生命保険会社でリスク管理などのお仕事をしているようです。生保の機関投資家としての運用については、関係ないことながら、伝統的に、セルサイドが強い日本ですから、バイサイドはややツラいかもしれません。ということで、本書のタイトルとなっている大数の法則とは、個別には、あるいは、試行が少ない場合は結果がランダムとなり予想が難しい物事も、それらが多く寄せ集まると、全体としての振る舞いは安定する、というものであり、ランダムな変動を持つ系列を集めて正規分布を当てはめる中心極限定理につながる法則です。そして、本書ではこの大数の法則から出発して、それが成り立つための独立の仮定と同一性の仮定を明らかにし、単なる確率論から始まって、投票などに左右される裁判の陪審制や民主主義までお話を拡張しています。要するに、コイントスやさいころなどのランダムで独立性が確保されており、ウェイトが微小で各試行の同一性が確保されるのであれば、大量の嗜好により理論的な確率が実践の場で観察されるということですから、本書でも後半で強調されている通り、一発勝負で大きなゲインを狙うよりも、日々の努力を積み重ねて行くという地道な努力が重要であることに気づかされます。また、本書では本格的に展開せずに軽く示唆しているだけなんですが、非常に小さな確率の差が試行を重ねることにより結果として大きな開き、とまでいわないとしても、結果に十分な影響を及ぼすことが明らかにされます。例えば、テニスのラリーを取るか取らないかについて、わずかに見える1%の確率の差というのは結果に対してとても大きな差を生じさせます。ただ、本書で触れられていない大数の法則の弱点は分布にあります。大数の法則はあくまで平均値に収束するという事実を確認できるだけであり、分布でテールがファットな場合のダメージ、というか、大きな影響力を十分に評価できていない気がします。すなわち、生命保険や自動車事故に対する損害保険などであればともかく、原発に対する津波の影響については大数の法則は十分な力を発揮できません。まあ、これは大数とよべるほどの試行回数の積み重ねが出来ませんから、大数の法則とは別物、というか、本書でも取り上げられている少数の法則のカテゴリーかもしれませんが、平均値に収束するものの、分布からテールファットな事象に対する大数の法則の適用には慎重であるべき、との結論も重要かという気はします。

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次に、ルチアーノ・フロリディ『第四の革命』(新曜社) です。著者はローマ生まれで、英国オックスフォード大学の研究者だそうです。専門分野は哲学や情報倫理学であり、従って、作者のはしがきで、「本書は哲学の本である」と記されています。英語の原題は The Fourth Revolution であり、邦訳タイトルはこれをそのまま直訳しているようです。本書では独特の勘弁な歴史区分を用いており、一般に先史時代と呼ばれるプレヒストリー、歴史が記録されるようになって以降のヒストリー、そして、現在のようにICTで歴史が記録されるようになったハイパーヒストリーの3区分です。ついでながら、第4の革命に先立つのは、コペルニクス革命、ダーウィン革命、フロイト革命ないし精神科学革命だそうです。そして、第4の革命は情報通信革命であることはいうまでもありません。この含意は、人類は、コペルニクス革命によって宇宙の中心ではなくなり、ダーウィン革命によって特別な種ではなくなり、フロイト革命によって自らの主人でもなくなったわけですが、現在の第4の情報革命が人類をどこに導くのか、ということです。このため、本書では第1章から第3章で時間、スペース、アイデンティティの基礎について等々と記し、その先の第4章の自己理解以降で、プライバシー、知性、エージェンシー、政治、環境、倫理をひも解いていきます。まず、細かい点ではプライバシーについて、著者はいくつかの区分を示していますが、何度かこのブログで示した通り、私はベッドルームのプライバシーと買物のプライバシーは扱いを違えるべきだと考えています。すなわち、ベッドルームのプライバシーは個人の秘密として公開を避けて守られるべきであるのに対して、買い物や雇用なアドの片側が市場である場合はプライバシーは保護されないと覚悟すべきです。そして、著者のもうひとつの独特の考えが第9章の環境に示されていて、「善の前の悪」という見方です。すなわち、先々の善を獲得するためには、いったん悪い状態に落ち込む必要がある、というものです。エコノミストとして、先行きの好調な経済のためには、現時点では大いにがまんして、痛みを伴う構造改革を実施せねばならない、という考えがいまだに一部に見受けられるのを、とても不思議に感じているんですが、まさに、こういった思考から出ているんだろうという気がします。経済学的に、いわゆる迂回生産というのがあり、現在の消費を我慢して貯蓄して資本蓄積に励み、その後の生産増につなげる、という考えはとてもプピュラーなものですが、それとのアナロジーで、痛みを伴う構造改革が持ち出されるのが、私にはとても不思議だったんですが、こういった考えが日本人以外にもあるんだと知ることができて、それはそれで参考になりました。なお、訳者あとがきで、本書をトフラー『第三の波』になぞらえているのは、余りに厚顔無恥な気がします。本書は300ページ余りから成りますが、最初の3章120ページほどが特に難解です。そこを超えられなければ途中で挫折するしかありませんが、そこをクリアできれば残りの200ページほどはすんなりと読めるんではないか、と思います。ただし、翻訳上の誤訳とタイプミスが気にかかります。私くらいのスピードで読んでいても目につくくらいですから、ていねいに読んでいる人にはかなり目障りかもしれません。

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次に、今村夏子『星の子』(朝日新聞出版) です。作者は売出し中の純文学の小説家です。私も『こちらあみ子』『あひる』の2冊を読んでいて、『あひる』の読書感想文は今月7月1日付けでこのブログに収録しています。なお、前作の『あひる』とこの作品はともに芥川賞候補作でしたが受賞は逃しています。ということで、この作品では出生直後から病弱だった主人公を救いたい一心でうさん臭い宗教団体が出している「金星のめぐみ」という特殊な水を使い、たまたま、なんでしょうが、主人公がすっかり健康になったことから、両親がこの宗教にのめり込んで行きます。主人公の姉はこれに反発して高校1年生の時に家出して行方不明となり、主人公の叔父も姉の協力により「金星のめぐみ」を公園の水道水に入れ替えたり、あるいは、本作の最終段階で中学3年生の主人公が高校に上がったら叔父の家に引き取る心づもりを明かしたりと、宗教にのめり込む両親とそうではない家族や親族との葛藤もあります。父親が定職を離れたり、引っ越すたびに小さい家になったり、両親の服装などがみすぼらしくなったりと、いかにも新興宗教らしく信者がお金を巻き上げられている様子も示唆されています。そして、主人公の学校生活とともに、どう見ても異質な宗教の力を軽々と描き出す作者の筆力、表現力に脱帽します。そして、最後は宗教団体の研修所のようなところで親子3人で流れ星を見続けて物語は終わります。純文学ですから、エンタメ小説と違って落ちはありません。落ちはないんですが、この作者に共通するポイントとして、子どもが純粋であるがゆえに、実は社会性ある大人とのズレを感じさせ、悪意とまでは呼ばないとしても、一種の居心地の悪さ、不安定さを感じさせる小説でした。この作者の持ち味かもしれません。私のようなパッパッと読み飛ばす読み方ではなく、行間を読み込める読者には、短い物語ながら、より実り多い作品ではないかと感じさせるものがありました。なお、どうでもいいことながら、その昔に私が京都大学に進学する前に、父親が学生生活の注意として上げた3点を思い出してしまいました。実は、上の倅が大学生になる前に同じことを私から倅に伝えた記憶があります。すなわち、第1に、宗教の勧誘は相手にせず、我が家は有り難い一向宗(浄土真宗)の門徒であること、第2に、マルチ商法には手を出さないこと、第3に、学生運動には加わらないこと、です。だたし、京都の家らしく、第3の点については、自分自身の良心に問うて確信があるのであれば、何らかの政治運動に身を投じるのは妨げない、ということでした。最後の最後に本題に戻って、この作品の著者は、そのうちに芥川賞を受賞する、と私は本気で信じています。とても楽しみです。

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次に、瀧羽麻子『左京区桃栗坂上ル』(小学館) です。少し前に同じ作者の『松ノ内家の居候』を取り上げましたが、我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生です。不勉強な私の知る限りでは、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか読んだ記憶がないことについてはすでに書いた通りです。ということで、左京区シリーズ、というか、左京区3部作の完結編です。本書の最終第6章を読めば、明らかに、作者は本書をもって左京区シリーズを終了する意図であることが理解できると思います。例の学生寮トリオの龍彦、山根、と来て、本書では安藤を主人公としており、このトリオをはじめとして、最終第6章で周辺登場人物も含めてその後の彼らの行く末を取りまとめています。後は、スピンオフ作品が出るかもしれませんが、明らかに、作者の意図としては左京区シリーズ、あるいは、左京区3部作は終了しました。前作の、というか、第1作の『左京区七夕通東入ル』では龍彦と花の出会いを、第2作の『左京区恋月橋渡ル』では山根の悲恋を、そして、この作品では学生寮トリオで残った安藤の幼なじみ、というか、正しくは、安藤の妹の幼なじみとの再会と大学生活と恋愛、さらに結婚・出産までを跡付けています。龍彦が大阪出身、山根が神戸出身、そして、本書の主人公である安藤が奈良出身でしたが、私は中学高校と奈良まで通っていて、大学が京都大学ですから奈良と京都にはなじみ深く、安藤を主人公とするこの3作目の左京区シリーズ、左京区3部作の3作目を特に楽しみにしていました。加えて、関西弁の中でも京都弁と奈良弁と大阪弁と神戸ことばと、微妙に使い分ける作者の筆力も大したものです。ただ、惜しむらくは、小説としてはさほどの水準ではありません。人物キャラもそれほどクッキリというわけでもありませんし、プロットもとてもありきたりです。ハッキリいって、京都大学出身の作者による京都大学と思しき大学を舞台にした青春小説、というジャンルでなければ、私も読まなかったんではないか、という気がしますし、恋愛小説というジャンルには独特のモノがあり、かなりの人気ジャンルだと思いますが、私は恋愛小説である、というだけでは必ずしも評価しません。いろんな条件が重なり合って読んだんだという気がします。文学作品としては、芥川賞候補に上げられた『星子の』とは比べるべきではありません。最後に、その純文学の『星の子』と違って、この作品はエンタメ小説ですから落ちがあります。どうでもいいことながら、割と最近、私が読んだフィリップ K. ディックのSF小説、たぶん、『死の迷路』か何かで、翻訳した山形浩生さんがあとがきか解説で、その昔はSF小説は落ちで分類されていた、なんて書いていたような気がしますが、SF小説に限らず、エンタメ小説は落ちがある場合が少なくありません。そして、もちろん、読書感想文で落ちを明らかにするのはルール違反です。最後の最後に、webきららのサイトにpdfファイルがアップロードされており、本書の第1章の連載時の試し読みが出来ます。ご参考まで。

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最後に、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫) です。2005年の出版ですが、最近時点で文庫化されました。朝日新聞の書評読売新聞の書評で見かけて思い出し読んでみた次第です。作者は米国のセント・ルイス生まれで、現在は日本に定住し早大教授を務めています。ということで、そのものズバリのタイトルについていくつかの観点から論じていますが、映画に関しては石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」を取り上げています。「おいらはドラマー…」で始まる例の歌については、私はどこをどう聞いてもジャズには聞こえないんですが、当時の観衆はジャズに聞こえていたかもしれないと思わせるものがありました。文学については五木寛之のデビュー作「モスクワ愚連隊」を取り上げ、当時のソ連文化部の高官が、いかにもありきたりではありますが、高級な音楽であるクラシックと低俗な娯楽であるジャズを対比している様子が明らかにされます。本書では1980年代以降はジャズも「過去の音楽」になった、として、エスタブリッシュされたかのような結論を引き出していますが、実は、今でもこういった対比は消滅したわけではなく、21世紀の時点でも生き残っています。例えば、私の好きなクラシック音楽のピアニストの1人でベートーベンの名手であるフリードリヒ・グルダには、ジャズっぽい即興演奏を収録したレコードがあり、実際に1970年代にジャズに転向しようとして周囲に止められたらしい、という噂すらありますが、私の知り合いには人類の宝ともいうべきベートーベンのピアノ曲とジャズの俗っぽい娯楽作品を対比させてしゃべる男がいたりします。音楽だけでなく、ひょっとしたら、純文学を有り難がって、エンタメ小説を小馬鹿にするような人もいたりするのかもしれません。それはさて置き、本書の白眉のひとつは第5章のジャズ喫茶に関する論考です。上の表紙画像の真ん中右はしは京都のジャズ喫茶であるしあんくれーるではないかと思います。私の学生時代にはまだありましたが、もうないのかもしれません。フランス語で Champ Clair と綴り、明るい場所、あるいは、明るい田舎、という意味だったと記憶しています。河原町荒神口の府立病院の南側にあり、名前とは裏腹に暗い店内で大きなJBLのスピーカーでもって大音量のジャズを流していた記憶があります。私は東京に出て来てからも、渋谷の道玄坂を上ったあたりにあって、名をすっかり忘れたジャズ喫茶にも通った記憶がありますが、同じようなものだった気がします。本書のジャズ喫茶の掟の中に、おしゃべりはするべからず、というのがありますが、これらのクラスの大音量ではとても有益な会話は出来なかろうという気がします。私は注文はメニューを指さしていたと記憶しています。それから、最後に、ジャズメンとドラッグに関して、チャーリー・パーカーなどのコカイン中毒ほかについて記述がありますが、やや偏った印象です。確かに、ジャズメンでコカインにおぼれた人は少なくないでしょうし、バド・パウエルのようにアル中もいます。でも、ジャズに限らず、音楽家の中には感覚を研ぎ澄ますためにドラッグに手を出す人は少なくないだろうという気も同時にします。ローリング・ストーンズが長らく来日できなかった原因もドラッグです。まあ、他のミュージシャンがドラッグに手を出しているから、ジャズメンもやっていいとは思いませんが、少し配慮して欲しかった気もします。
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2017年07月22日 (土) 13:11:00

今週の読書はかなり経済書があって計6冊!

今週の読書は経済書もタップリと計6冊。以下の通りです。

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まず、藤井聡『プライマリー・バランス亡国論』(育鵬社) です。著者は都市社会工学専攻の京都大学教授ですが、現在は内閣官房参与として、ご専門の防災・減災ニューディール担当だけでなく、幅広く公共政策に関して現在の安倍内閣をサポートしているようです。本書ではタイトル通り、財政政策から幅広く経済ア制作一般について取り上げ、特に、基礎的財政収支=プライマリー・バランス(PB)を2020年度に黒字化との財政政策目標について、この目標は2010年の民主党政権の菅内閣のころのものであり、過度に財政を黒字化することから日本経済にはマイナスであり、もちろん、デフレ脱却にも逆行し、財政再建の目標と相反して、財政赤字を増加させかねないと主張しています。リフレ派のエコノミストである私の考えともかなりの程度に一致しており、実際に、民主党政権下で与野党合意した10%への消費税率引き上げについては、第2段階目の10%への引き上げが何度か先送りされたものの、第1段階での2014年4月時点での8%への引き上げで大きなダメージがあり、まだ消費が消費税引き上げ前の状態に戻っていないのも事実です。もちろん、放漫財政に堕することは避けねばならないとしても、現時点で、日銀の異次元緩和の下で量的緩和のために国債が大量に日銀に市場で買い上げられている状況では、我が国政府債務のサステイナビリティには特に問題もなく、過剰に消費税率を引き上げてまで財政再建に取り組むのは行き過ぎであり、従って、フローとしてのプライマリー・バランスの黒字化ではなく、ストックとしての政府債務残高のGDP比を安定させることをもって政府目標とすべき、というのは本書の主張です。ついでに、企業や政府の債務によって経済が成長する、とも主張されています。まったく私のその通りだと考えます。私の基本的な経済政策スタンスとして、ほぼほぼ100%本書の趣旨に賛同する、という前提の下で、いくつか指摘しておきたい点があります。というのは、第1に、1947年の第1回経済白書で「家計も企業も政府も赤字」という有名な表現がありますが、マクロ経済学的に家計部門、企業部門、政府部門、海外部門の4セクターの貯蓄投資バランスを純計するとゼロになります。データの制約がなければ、世界各国の貿易収支の純計がゼロになるのと同じ理屈です。ですから、政府や企業が債務を発生させて投資を行い、経済を成長させるためには何らかの貯蓄の原資が必要になります。第2に、私もその昔に大学の教員で出向していた際に、財政の持続可能性に関する紀要論文を取りまとめ、政府の目標とすべきはフローの財政バランス化、あるいは、ストックの政府債務残高か、と考えを巡らせましたが、やはり、ストックの政府債務残高の方が内生性が高く、すなわち、政府が政策変数として操作できるのはフローの財政バランスであって、その結果としてストックの政府債務残高が内生的に決まる、としか考えようがありませんでした。まあ、金融政策では、通常の場合、オペレーションを操作して金利を目標にするわけですから、本書のように内生性が高くても政府債務残高を目標にすべきという議論は十分に成り立ちますが、まずは、毎年の予算における財政バランスに目が行くのもあり得ることだという気はします。

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次に、田代毅『日本経済 最後の戦略』(日本経済新聞出版) です。著者はよく判らないんですが、経産研の研究者ということのようです。博士号の学位は取得していないのでポスドクでもなさそうですし、大学の教員でもないようです。よく判りません。とはいうものの、本書の主張もかなり幅広いものの、現在の政府の経済政策を多くの点でサポートしている分析を展開しています。特に、浜田教授がシムズ論文に触発されて、デフレ脱却における財政政策の役割を主張し始めていますが、本書の著者は明確に物価水準の財政理論 (Fiscal Theory of Price Level, FTPL)を支持しています。ただ、私も本書のタイトルにひかれて読み始めましたが、実は、日本経済の現在のパフォーマンスの低さは政府債務の累積から生じていると、私の目からは論証希薄でアプリオリに前提した上で、いかに債務の負担を軽減するか、というお話に終始しているようです。債務以外の成長論や金融財政政策以外の幅広い経済政策を取り上げているわけではありません。逆に、債務の重責からの脱却についてはとても幅広く考察を巡らせています。例えば、金融抑圧、資産課税、民営化などの政府資産売却、デフォルトや債務再編、インフレなど、普段あまりメディアや学界などでは議論されない選択肢があることを提示しています。官庁エコノミストとしては、実際の政策としては、手を付けにくい選択肢であるといわざるを得ません。また、ほぼ政府債務だけを成長の阻害要因としていますので、それ以外の人口動態とか通商政策などには目が向けられていません。ですから、第6章の財政余地の使い道などについても明確ではなく、子育てや少子化対策、あるいは、家族の支援などの高齢者への社会保障ではない社会保障、あるいは、インフラ整備などへの使途が考えられるんですが、そのあたりの分析は物足りないものがあります。また、債務危機に関してギリシアが何度か取り上げられていますが、私は内国通貨で発行されている国債については、日本の場合はサステイナビリティにはほとんど問題ない、と認識していますので、やや的外れな印象もありました。ただ、経済成長と財政再建はトレードオフではないと主張し、タブーを恐れず、あらゆる政策手段・目標を総動員して長期停滞から脱出すべく、クルーグマン教授の用語でいえば「脱出速度」を上げ、同時に、債務問題を解決するための手立てを探るという知的な取り組みはなかなかのものがあります。債務整理以外の問題が何も取り上げられていないのはやや物足りませんし、結論がややありきたりかもしれませんが、それなりにあらゆる選択をを考慮する頭の体操にはよさそうな気がします。繰り返しになりますが、官庁エコノミストには議論すらムリそうな主張も数多く含まれています。

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次に、 谷口明丈・須藤功[編]『現代アメリカ経済史』(有斐閣) です。アメリカ経済史学会のメンバー17人が序章と終章を除く17章のチャプターごとに執筆した本です。タイトルそのまんまなんですが、副題は『「問題大国」の出現』とされています。17章をズラズラと並べるわけにもいきませんから、4部構成となっていて、第1部 経済と経済政策、第2部 金融市場と金融政策、第3部 企業と経営、第4部 社会保障・労働と経済思想、となっているんですが、最後の第17章のように、苦しい配置になっているチャプターもあります。年代の範囲は1929年の大恐慌やニュー・ディールあたりから、2008年のリーマン・ショックまでをカバーしています。ハッキリいって、チャプターごとに精粗まちまちで、マルクス『資本論』やレーニン『帝国主義論』が参考文献に出るようなチャプターもあれば、歴史かどうか疑わしい、例えば、第17章などもあります。チャプターごとに読者の方でも参考になったり、興味を持てたりするかしないか、いろいろとありなんだろうと思いますので、私のようにそれなりの時間をかけて通して読むというよりも、ひょっとしたら、興味あるチャプターを拾い読みするべきなのかもしれません。なお、私の場合、第1部では反トラスト政策の変遷が興味ありましたが、スタンダード・オイルの成立などを考えると、1929年からではなく1880年ころから追って欲しかった気もします。第2部の金融は概ね出来がよかったです。第3部はともかく、第4部は経済史のカテゴリーに収まり切らない気もしましたが、現在の米国の経済的な格差を考えると、もっと注目していい分野かもしれません。伝統的なマルクス主義的経済史の考えによれば、原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして、近代以降のブルジョワ資本主義から、革命があるとすれば、社会主義や共産主義に歴史は進むんでしょうが、米国の場合は、おそらく、近代資本主義からいきなり始まるんではないかという気がします。最後に、経済史の範疇ではありませんが、教育についてはもっと掘り下げた歴史的な分析が欲しい気がします。500ページを超えるボリュームで、さすがの私も読み切るのにかなり時間がかかってしまいました。ただ、悲しいながら、ノートを取りながらていねいに読むタイプの学術書ではありません。これも、ハッキリいって、学術書としての出来はそれほどオススメ出来ません。

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次に、小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社) です。著者はよく判らないながら、金融機関でエコノミストをしていたようです。もう定年近い私よりもさらに年長の方のようです。10年ほど前に『超・格差社会アメリカの真実』というタイトルの本も出版されているようですから、米国における格差について長らく着目されているようです。ただ、経済学的な鋭い分析はありませんので、一般読者には判りやすい可能性がある一方で、例えば、エコノミストの目から見たりすれば、ややデータに基づく検証が少なくて情緒的な印象が残るかもしれません。出だしが、「0.1%」対「99.9%」ですから、ウォール街を占拠せよのオキュパイ運動の1%をさらに情緒的に細かくした印象を私は持ちました。こういった経済学的ではなく、単なる表現上の強調には私は感心しません。現在の米国で所得や富が一極集中しているのは、エコノミストでなくてもかなり多くの人々がすでに知っている、というか、少なくとも日本人でも知識としてはあるわけですから、本書のようにその実態を伝えないのであれば、著者のようにメディアから知ることのできる一般論を羅列するのではなく、ジャーナリスト的にもっと取材に基づく確固たる事実を、たとえバイアスがあったとしても、もっと個別の事実を集めるべきだったような気がします。昨年お米国大統領選挙で、あるいは、民主党の予備選挙でサンダース候補があそこまで食い下がった要因、そして、何よりもトランプ米国大統領が当選した背景など、格差とどのような関係にあり、本書のチャプターのタイトルを用いれば、ウォールストリートの強欲資本主義、あるいは、シリコンバレーの技術革新、などなどとどのような関係を見極めるべきか、知りたいところです。私自身は本書の著者の主張と相通ずるところがあり、現在の米国の混乱や不安定、典型的にはトランプ大統領誕生を支えた移民に対する排斥感情など、こういった考えは現在までの政治の怠慢、ないし、不作為から生じており、政治がキチンと向き合えば、そして、政府が適切な政策を採用すれば、完全なる解決とまではいわないにしても、それなりの緩和措置は可能なハズだと、本書の後半の底流をなしていますし、私もそう考えています。しかし、現時点では、英国がEU脱退を国民投票で決めたり、米国にトランプ大統領が誕生した一方で、フランスのマカロン大統領の当選のように、ポピュリズム一色で反民主主義的な傾向が一直線に進むわけではありません。米国だけを見ていれば、本書のように「メガトレンド」と感じてしまうのかもしれませんが、まだまだ先進国の中にも捨てたものじゃない国は残っています。

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次に、野中郁次郎『知的機動力の本質』(中央公論新社) です。著者は、旧日本軍の敗因を分析したベストセラーである『失敗の本質』の著者の1人であり、一橋大学の名誉教授です。本書は中公新書で出版された『アメリカ海兵隊』の続編だそうですが、私は余りにも専門外なので読んでいません。ということで、タイトルがとても魅力的だったので借りて読みましたが、要するに、米国海兵隊の提灯持ちをしているだけのような気がします。米国海兵隊のどこが知的であり、どこが機動的なのかはまったく理解できませんでしたし、当然、知的であったり、機動的であったりする要因も見当たりませんでした。まあ、米国海兵隊が世界水準からみても最強の軍隊のひとつである点は、専門外の私でもほのかに理解できる気がしますし、その強さについて歴史的な観点も含めた分析も有益かもしれませんが、これが我が国の企業経営に役立つ、米国海兵隊が我が国企業のロールモデルになる、とは私のようなシロートからは考えられません。せいぜいが、精神論的な役割くらいではないでしょうか。まずもって、私が奇異に感じるのは米国海兵隊というのは戦闘や武力行使を行う集団であって、政治や外交の一部としての戦争を行う集団ではない、と私は考えています。シビリアン・コントロールを持ち出すまでもなく、クレマンソーではないですが、「戦争は将軍に委ねるにはあまりに重大な問題だ」ということであり、戦争を遂行するのはあくまで政治家であり、戦争の中の戦闘行為を行うのが軍隊である、と私は考えています。そういった観点は本書にはまったく見られません。逆に、とぼけたことに、消防士がいるから火事があるのではないとうそぶいていますが、戦争は軍隊があるから誘発される場合があり、なぜなら、戦争は単なる戦闘行為ではなく、武力をもって行う政治や外交の延長だからです。繰り返しですが、米国海兵隊が最強の軍隊のひとつである認めるにやぶさかではないものの、知的であるのは戦闘行為の基になる戦争を遂行する政治や外交レベルが知的なのだからであり、機動的なのは先進工業国である米国の製造業が軍隊を機動的に運送する手段を提供するからです。いずれも米国海兵隊に付属する特徴かもしれませんが、本書のように米国海兵隊を政治や外交、あるいは、国内産業から切り離して論ずるのは意味がないと私は考えています。昨日金曜日夜の時点でアマゾンの書評も意見が分かれており、星5ツが2人、途中がなくて、星1ツが1人です。私は星1ツの書評に同意する部分が多いような気がします。

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最後に、荒居蘭ほか『ショートショートの宝箱』(光文社文庫) です。30のショートショートが収録されています。作者もほぼほぼシロートに近い駆け出し作家から、それなりに名の知れた小説家まで、とても幅広く、もちろん、作品の傾向も星新一もどきのSF、あるいは、ホラー、ちゃんと完結していないもののミステリ、さらに、青春や家族や恋愛やといったフツーの小説のテーマまで、極めてバラエティ豊かに収録しています。たぶん、涙が止まらないといった泣けるお話はなかったように思いますが、心温まるストーリー、思わず吹き出すような滑稽さ、ほっこりしたり、ジーンと来たり、やや意外な結末に驚いたり、1話5分ほどで読み切れるボリュームですから、深く感情移入することはできない可能性もありますが、ごく日常の時間潰しにはもってこいです。電車で読んだり、待合わせや病院の待ち時間に楽しんだり、夜寝る前のひとときなど、私のような活字中毒の人間が細切れの時間を有効に活用するためにあるような本だという気がします。スマホではなく、読書で時間潰しする人向けです。また、私はごく平板に読み切ってしまいましたが、お気に入りの作品を探すのもひとつの手かもしれません。
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2017年07月15日 (土) 11:56:00

今週の読書は小説中心に計5冊にペースダウン!

今週の読書は先週から少しペースダウンして、小説もあって計5冊です。以下の通りです。

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まず、米倉誠一郎『イノベーターたちの日本史』(東洋経済) です。著者は一橋大学などの経営誌の研究者ですが、すでに第一線を退いています。本書では、明治期からの我が国の近代史におけるイノベーターを跡付けています。そして、その上で、日本や日本人がクリエイティブではなく、いわば猿マネで経済発展してきた、とまではいわないまでも、独創的なイノベーションには弱くて、欧米で開発された独創的なイノベーションを日本的システムに適用する場面で強みを発揮する、という見方を否定し、独創的なイノベーターが我が国にもいっぱいいた事実を発掘しています。典型的には、財閥という経済組織をどう考えるか、なんですが、本書の著者はマネージメントに秀でた人材が希少だった点を重視し、そういった人材をいろんな産業分野で活用するという点で財閥はイノベーティブであった、と結論しています。確かにそうだったがもしれません。優れたマネージャーという希少な人材を財閥本社で雇用し、必要な場面に応じて銀行や商社や石炭や繊維やといったコングロマリット内の各産業でその希少な人材の活躍の場を与える、という点では財閥という経済組織も合理的かもしれません。しかし、他方で、当時の日本では優秀なマネージメント能力ある人材もさることながら、やっぱり、資本が不足、というか、希少だったんではないかという気がします。技術を体化させた資本、といってもいいかもしれません。その点は理研コンツェルンの大河内所長の研究室制をGMのスローン社長が始めた事業部制と同じ理念であると指摘し、技術のイノベーターとして取り上げています。まあ、経営のマネージメント能力と、そのマネージメントの対象となる生産現場の技術、この両者がそろって初めて物的な生産能力に体化させることができるわけですから、こういった面で秀でたイノベーターが存在する点は歴史上でも重要な観点ではないかと思います。ただ、そういったマネージメントや技術が世界経済の中において、生物学的なニッチを探す点も重要かと思います。生物学的なニッチは経済学的には比較優位の観点で発見されるわけですので、日本のイノベーターが本書の指摘するように世界的な視野で活躍していた事実は大いに注目すべきであろうと思います。

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次に、鈴木荘一『明治維新の正体』(毎日ワンズ) です。著者はすでに一線をリタイアした民間の歴史研究家です。特に、アカデミックなバックグラウンドがあるわけではありませんから、新たな資料を発掘して歴史の別の面や新たな面にスポットを当てるというよりは、ご自分の独自解釈で歴史を見直す方向のようです。まあ、根拠はそれだけ薄弱かもしれませんが、個人の独創性に応じてかなり大きな解釈の幅ができそうな気がします。それはいい点かもしれません。ということで、著者の問題意識は、現時点における教科書的な明治維新の歴史解釈は、「勝てば官軍」の通り、戊辰戦争で勝った薩長の側の歴史解釈であって、ホントに正しいかどうかは再検討の余地がある、ということのようです。幕府や敗者の側からの見方を提供しようとするものであり、まあ、その点はいわゆる時代小説の小説家と共通した問題意識のような気がします。典型的には、NHKの大河ドラマになった「八重の桜」みたいなものだと考えておけばいいんではないかと思います。ですから、薩長の西郷や大久保や公家では岩倉などを重視するんではなく、最後の将軍である徳川慶喜の足跡を追ったりしています。しかし、問題点は2つあり、ひとつは、例えば国際法の解釈などのように、現時点での常識から150年前の歴史を解釈しようとしており、当時の常識とは決定的にズレを生じています。アヘン戦争は今から思えば英国のゴリ押しだったのかもしれませんが、例えば、日清戦争語の三国干渉のような他の列強の反発も招かず、スンナリと香港租借などが決まったわけですし、その当時としてはあり得る国際紛争解決方法だったのかもしれません。第2に、進歩の側の視点の欠如です。といえば、いわゆるホイッグ史観なんですが、同時に、マルクス主義的な史観でもあります。進歩という概念を活かせば、佐幕派は進歩に抵抗する旧主派であり、薩長を始めとする西南雄藩は進歩の側といえます。個々のマイクロな個人の動きではなく、マクロの歴史の進歩も同時に把握しておきたいものです。従って、明治維新ですから、こういったいわば「負けた側からの歴史観」も様になりますが、太平洋戦争でこれをやったら保守反動そのものとなって、大いに反発を呼ぶものと覚悟すべきです。

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次に、冲方丁『十二人の死にたい子どもたち』(文藝春秋) です。作者はご存じの売れっ子小説家であり、『マルドゥック・スクランブル』などのSF小説、『天地明察』をはじめとする時代小説などをものにしていますが、本書は作者初めての現代長編ミステリだそうで、2016年下半期の直木賞候補作でしたが、受賞はご案内の通り、恩田陸『蜜蜂と遠雷』でした。ということで、本書では、集団自殺、というか、安楽死するために12人の子供、というか、ティーンの少年少女が集いと称して、廃病院に集まったところ、すでに、1人の少年が死んでいて殺人ではないかと推測され、そこから、この少年は一体何者なのか、誰が彼を殺したのか、このまま計画を実行してもいいのか、といった論点につき、この集いの原則である全員一致にのっとり、12人の子供達は多数決を採りつつ、延々と議論を続けます。そして、評決は徐々に集いの方向性を変更させていき、さらに、議論が続く中で、それぞれの少年少女が安楽死を希望した動機が明らかにされ、それがまた少年少女らしく、なかなか非合理的なものだったりして、それはそれなりにユーモアであったりもするんですが、12人の少年少女の中でも大人の感覚でそう感じる子供もいて、しかも、ゼロ番と称された初めからベッドに横たわっていた少年に関する驚愕の事実が次々と明らかにされ、最後はこれまた驚愕のラストを迎えます。というか、ラストについては途中から十分想像できるんではないか、という気もしますが、いずれにせよ、12人以外のゼロ番の少年については、誰かが、単数でも複数でも、1人か何人かが議論の中で虚偽を申し述べているわけで、割合と初期の方で、「自分が殺した」と明らかにする「自称犯人」もいたりするんですが、その謎解きという意味でミステリとこ作品を称しているんだろうという気がします。思春期のティーンが死にたいと思い、その上で、議論と多数決によって状況が目まぐるしく変わっていくストーリーの中で、ミステリの謎解きとその基礎を提供する濃密な会話劇一体となって、とても面白い作品に仕上がっているんですが、さすがに、私のような読解力や理解力に限界のある読者には、年齢の離れたティーンの会話が何と12人もの人数で交わされるんですから、混乱を生じてしまいます。せいぜいが数人、本書の半分の5-6人であればいいのかもしれませんが、文字だけで濃厚な会話を追うのは私にはムリでした。おそらく、映像化される可能性の高い作品ではないかという気がしますが、テレビのドラマならパスする可能性が高いものの、ひょっとしたら、映画化されれば見ようという気になるかもしれません。

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次に、瀧羽麻子『松の内家の居候』(中央公論新社) です。作者はそれほど有名な小説家とも思えませんが、左京区シリーズなどは私も読んでいます。どうして左京区シリーズかというと、作者は我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生だたからです。不勉強な私に関しては、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか知りません。法学部であれば、法月綸太郎や万城目学、教育学部であれば綾辻行人などなど、その道の文学部を別にしても、我が母校の京大も、いろいろと小説家は排出していますが、そのうちの1人だったりします。ということで、この作品は純文学とエンタメの中間的な位置づけなんだろうという気がしますが、ストーリーは以下の通りです。すなわち、生後100年死後10年を迎えた著名小説家が、70年前かつて30歳の時に居候した実業家の家に、その小説家の孫を名乗る人物が現れ、かつてはノーベル文学賞の候補にも擬された大小説家は極めて多作であったにもかかわらず、その実業家宅に居候していた1年間だけは作品がなく、原稿がどこかに残されているかもしれない、と主張して、何と居候を始めます。そして、結論からいうと、その原稿は発見されますが、とても絶妙な取扱いをされます。そのあたりがミソになっていて、家族のあり方や、実業家宅ですので企業経営者の心構えなどが、折に触れて家族の物語として語られつつ、とてもあたたかいストーリーを構成しています。なお、ノーベル文学賞候補にも擬せられた文豪の名は楢崎春一郎とされていて、強く谷崎潤一郎を連想させます。ただ、惜しむらくはラストがとてもアッサリと終わっていて、何かもっと工夫できないものかという気はします。そのあたりを克服すれば、ひょっとしたら直木賞候補に上げられる可能性もあります。まあ、現状では可能性は低い気もしますが…

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最後に、首都圏鉄道路線研究会『沿線格差』(SB新書) です。著者の研究会の構成員は基本的に鉄道オタクということになっており、氏名や略歴なども明らかにされています。なお、私は未読ですが、同じ出版社から最近『駅格差』という新書も出版されています。ということで、首都圏の主要鉄道路線について、平均通過人員・乗客増加率・接続路線など、9項目に及ぶ評価基準を基に、勝ち組10路線と負け組8路線、さらに、ランキング順位まで明らかにしています。すべてを明らかにしておくと、勝ち組第1位が京急本線、以下、第2位東海道線、第3位東急東横線、第4位小田急線、第5位総武線、第6位中央線、第7位京王線と京成線、第9位京葉線、第10位東急田園都市線、までが勝ち組で、負け組は、第11位都営三田線、第12位埼京線、第13位東西線、第14位東武東上線、第15位西武新宿線、第16位相鉄本線と常磐線、そして、最下位が第18位西武池袋線、となっています。その昔に私が京都から東京に出て来た時、鉄道路線については時計回りの法則、というのがありました。それに近い印象があります。すなわち、30年超のその昔の時計回りの法則では、路線ごとの平均所得だったと思うんですが、東横線をトップとし、時計回りに平均所得が低下して行く、という法則で、東横線の次が、田園都市線、その次が小田急線、京王線、中央線で平均を記録し、その後は平均を下回って、西武新宿線、西武池袋線、東武東上線、埼京線、東武伊勢崎線、そして、京成線で底を打つ、というものでした。今から考えると、本書でトップにランクされた京急線が抜けているような気がしますし、地下鉄線が入っていなかったように記憶しているんですが、まあ、当時の私にはこんなもんだとしか理解できませんでした。なお、どうでもいいことながら、私が役所に就職した最初は西武新宿線に住んでいたりしました。本書の著者がどこまで本気なのかは別として、読者がシリアスに受け取る必要もなく、軽い読み物として時間潰しには役立ちそうな気がします。
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2017年07月09日 (日) 14:26:00

先週の読書はほとんど経済書がなく計7冊!

通常の読書感想文をアップする土曜日に、昨日の場合は米国雇用統計が割って入り、読書感想文が日曜日にずれたこともあって、計7冊とやや多くなってしまいました。ただ、極めてめずらしいことに、経済書がなく、小説もほとんどなく、教養書や専門書が大部分でした。来週は大きくペースダウンする予定です。

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まず、セザー・ ヒダルゴ『情報と秩序』(早川書房) です。著者はチリ生まれのヒスパニック系で、博士号は物理学で取得し、経済複雑制指標のデータの提供などもしています。マサチューセッツ工科大学(MIT)の准教授だそうです。英語の原題は Why Information Grows? であり、2015年の出版です。非常にユニークなのは、情報の定義であり、物理的な原子の配列と考えているようです。ですから、宇宙の中の幾つかのポケット、例えばこの地球では新しい物質が次々と作り出されて、本書の著者の意味で情報が成長しているわけです。あるいは、情報が増加しているといってもいいようなきもします。ただ、この定義は明示的に本書に現れるわけではありません。というのも、少なくとも私が考える上で2点の大きな弱点があるからです。第1に、原子の配列という意味で情報という言葉を使う例として高級車を上げていて、高級車でなくても普通の自動車でいいんですが、厳密な意味で、同じ原子の配列を持つ物質というのはありえません。例えば、白いプリウスと紺色のプリウスは、私達は同じカテゴリの自動車と認識するんですが、原子の配列は明らかに異なります。第2に、生物、特に動物の場合の生死観から見て疑問があります。すなわち、生きている人間と死んだ後の人間は色違いの自動車よりも原子の配列が近いような気がしますが、生死の境で大きな差を感じるのは私だけでしょうか。ですから、本書でも著者自身が認めているところですが、情報の成長や低下とエントロピーの増加や減少が、同じ方向を向いている場合と異なる場合がありえます。本書の論旨からすれば大きな弱点といわざるを得ません。ただ、著者が経済成長の本質を問うている点は、エコノミストとして、というか、開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、やや目から鱗が落ちる気がしました。情報は均一に分布しているわけではなく、個人、企業、国家といった知識やノウハウの集積の単位のインタラクティブな関係の中でネットワークを形成し、その中でどのような位置にあるのかを分析すれば、それぞれのレベルで経済の動態を記述できるはず、というのは、その通りだと思います。もっとも、極めて複雑怪奇なモデルになりそうな気もします。でも、それが解ければ経済発展の謎、景気循環や成長の原動力なども解明できるはずです。でも、それが実際にはできていないのが現実かもしれません。最後に、参考まで、特に後半で経済を扱う際に、「計算能力」という言葉が頻出しますが、「情報処理能力」と置き換えていいんでしょうか、ダメなんでしょうか。やや気にかかります。

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次に、マイケル・オースリン『アジアの終わり』(徳間書店) です。著者は、ご本人によるあとがきによれば、歴史学者ということで、大学の教員の経験もある一方で、現在は保守系シンクタンクの日本部長だそうです。英語の原題は The End of the Asian Century となっており、2016年の出版です。1993年、私は南米にて外交官をしていましたが、世銀から『東アジアの奇跡』 East Asia Miracle が出版され、それに対して、クルーグマン教授が反論したりしていましたが、本書は東アジアに限定せず、「インド太平洋地域」なる広い定義のアジアの終わりを宣言しています。すなわち、本書の著者本人ではないんですが、p.29 でアジアのリスクマップで5つのリスク領域を示し、その後、経済改革、人口動態、政治革命、政治共同体、戦争の抑止のそれぞれでアジアがいかに失敗しているかを、これでもかというくらいに実例を上げつつ論じています。まあ、中国における経済停滞や海洋進出や環境破壊、北朝鮮の軍事的挑発行為、インドとパキスタンの核開発競争、などなど、アジアが決して未来を切り開く地域であるばかりではなくlそれなりに、経済的な不安定や政治的な脅威をもたらすようになった事実はその通りかという気がします。そして、その大元の原因は民主主義の未成熟にあるという見方については、私も大いに同意します。なお、本書では韓国が成熟した民主主義国と見なされているようですが、大統領の政権交代とともに全色の大統領がここまでバッシングされる現状は、民主主義としてまだまだ未成熟な面が残されていると私自身は考えていますので、ご参考まで。ただ、私の見方ですが、西欧や米加を意味する北米については、成熟した民主主義国であって、世界の中でも安定した政治経済を要している点はいうまでもなく、日本についてもご同様なんですが、残されたアフリカ、中南米と比較してアジアが政治経済の安定性についてひどく見劣りがするかといえば、私はそんなことはないと考えています。一例として、米国が世界の警察官という国際公共財を提供できなくなって、もっとも大きな影響を被るのはアジアよりもむしろ中南米ではないか、という気もします。もちろん、アフリカに比較してアジアが政治や経済の安定性で劣っているとも思われません。という意味で、ややバランスを失した内容ではないか、という気もします。

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次に、山本一成『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』(ダイヤモンド社) です。著者は、佐藤天彦名人を連破した現在最強の将棋プログラムであるポナンザの作者です。そして、本書は、その開発にまつわるエピソードとともに、機械学習、深層学習、強化学習などについて、極めてわかりやすく解説しています。その上で、「知能とは何か」、また、「知性とは何か」といった問いに対して明確な回答を示す意欲作でもあります。加えて、グーグル・グループが開発したアルファ碁についても、巻末の対談で簡単に取り上げて解説をしています。なお、著者は将棋についてはアマチュア5段だそうで、肝滅のアルファ碁に関しての対談では囲碁についても造詣の深いところを示しています。ということで、知能とは探索と評価であると指摘しており、人工知能についても当然ご同様です。その昔の博覧強記という表現をそのままスケールアップしているような気がします。ただ、コンピュータにおいては評価関数は明示する必要があり、人間の場合はおそらくかなりの程度に経験に裏打ちされた直感なんだろうという気がします。それにしても、人工知能の学習能力というのは恐るべきものであり、将棋ソフトの場合はディープラーニングを使っておらずとも、機械学習だけでこのレベルに達するわけですし、シンギュラリティが噂されている2045年には指数関数的な能力向上によって、どのような世界が広がっているのか、私はとても楽しみですが、その前に人間としての寿命が尽きる可能性があります。とはいえ、プロの将棋や囲碁の棋士に生じていることが、比較的高級な職業の一般人にも生じる可能性が本書でも極めて暗示的に提示されています。例えば、医師、弁護士、会計士、教師などです。私のようなキャリアの公務員も人工知能(AI)に取って代わられる可能性もあるかもしれません。ともかく、難しい理論的実践的なテーマながら、著者が自分自身で納得したエピソードだけをわかりやすく取り上げており、逆から見て、専門家の目には部分的にしても不正確な表現もあったりするのかもしれませんが、私のようなシロートにはとても判りやすかったです。ポナンザやアルファ碁だけでなく、幅広いAI一般についても理解が進んだ気がします。巻末の対談で若手の囲碁のプロ棋士が、将来はバーチャル・リアリティ(VR)を駆使してアルファ碁に囲碁を教えてもらえそうで、とても楽しみ、みたいな発言をしています。人によっては反発しそうなフレーズですが、私は大いに同感です。ともかく、この本を読むと、AIやコンピュータと人類の将来の共存に楽観的な味方ができるようになり、明るい期待がもてそうな気がしてくるのは少し不思議な気がします。

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次に、牧久『昭和解体』(講談社) です。著者は日経新聞社会部記者を務めたジャーナリストであり、本書は国鉄の分割・民営化を歴史的に跡付けたリポートです。というよりは、私が読んだ印象では国鉄解体ではなく、国労解体に近い受け止めを持ちました。マルセイと称された生産性向上運動の裏側で大っぴらに進んだ組合潰しの動きから始まって、最後は国労が支えた総評の解散や社会党の事実上の消滅まで、いかに国鉄と時の政権が国労を解体すべく戦略的に動いたかがよく理解できるかと思います。ただ、企業として経済活動を効率的に遂行する経営体として、当時の30万人を超える国鉄組織が巨大に過ぎたのは事実かもしれません。そして、本書で国体護持派と称されている国鉄内部の当時の経営層が、鈴木政権から中曽根政権に引き継がれた臨調の結論に際して、民営化を許容しつつ分割に反対するという方向違いの戦略を持ったのも、何となく判る気もする一方で、やはり、作戦ミスだったように受け止めています。同時に、本書で3人組と称される改革派も、やっぱり、国労潰しというか、いわゆる労使協調路線ではない労働組合に対する極めて不寛容な姿勢をうかがい知ることができました。国鉄は国民に必要不可欠な運輸サービスを提供する一方で、親方日の丸と称された非効率な業務遂行がなされ、組合が人事などの事実上の経営まで踏み込んだ組織運営に介入するなど、不都合な事実がたくさんあったことも事実で、当然の帰結のひとつとして大きな累積赤字を計上することから改革が始まっています。ただ、本書の指摘はいくつかうなずける点も少なくないながら、批判的に読むべきは現在の時点からの視点で書かれている点は留意すべきです。およそ、日本経済全体の生産性がそれほど高くなく、まだマルサス的な過剰人口や貧困を懸念すべき発展段階にあった日本経済の当時の実情について考慮することなく、現時点からの視点で当時の国鉄を批判することは決して正当性を持ち得ません。そしてもうひとつ、本書に通底する労働組合潰しの考えが、現在の賃金の上がらない社会をもたらした可能性についても忘れるべきではありません。例えば、Galí "The Return of the Wage Phillips Curve" においては、明確に労働組合の存在や活動が賃金上昇へのプラスの作用を前提しています。国鉄改革という名目で労働組合の活動を抑制する経済社会を作ったのであれば、賃上げを犠牲にするという結果をもたらした可能性もあります。キチンと検証しているわけではありませんが、決してフリーランチは存在しないわけで、何を犠牲にして何を取ったのかは考えておくべきではないでしょうか?

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次に、ウルリッヒ・ベック『変態する世界』(岩波書店) です。著者はドイツ人の社会学者であり、ミュンヘン大学やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどの研究者を務めていました。2015年1月に亡くなっています。本書は共同研究者だった奥さまが編集の上出版されています。私は何となく、マルクスが残したメモから『資本論』第2-3巻を編集したエンゲルスのことを思い出してしまいました。ということで、書き出しが「世界の蝶番が外れてしまっている」であり、以前にはまったく考えられなかったよう、とんでもない出来事が起こり、資本主義の成功、というか、社会主義の大失敗により、副次的効果の蓄積が世界を旧来の通念では理解不能なものに変えてしまい、もはや変動ではなく変態が起こっている、として、リスクや不平等、コスモポリタニズムなどの観点から世界を読み解き、それらから生成する新しい21世紀の世界像を確立すべく試みています。その試みが成功したとは私は受け止めていませんが、それなりに面白い試みかもしれません。もっとも、変化ではなく変態であるというのは、社会科学者らしい定義のない言葉遊びですし、国家を飛び越えてコスモポリタン的な世界をそのまま国家の枠を超えて把握しようというのは、例えば、経済における多国籍企業の活動の解明のような趣きもあり、エコノミストでも理解できる範囲かもしれません。ただ、決定的に私が違和感を覚えたのは、歴史観の欠如です。経済学では経路依存性と称しますが、訳者のあとがきにあるように、国家が中心にあって、その国家の連合体である世界がその回りを回っている世界観から、世界を中心に据えて、その世界の周りを国家が回るコスモポリタン的転回も判らなくはないんですが、その言葉の由来である「コペルニクス的転回」ではもともと、太陽の周りを地球が回っているのが正しかったわけで、その真実の発見が大きな世界観の変更につながったんですが、世界と国家の関係は歴史的に見てどうだったのか、また、資本主義が成功し冷戦が終わる前はどうだったのか、一部に主権国家としてウェストファリア条約までさかのぼっていながら、そのあたりの歴史感覚の欠如が惜しまれます。どこにも明示されていませんが、変態という用語を用いているんですから、いくぶんなりとも、ヘーゲル的な弁証法的歴史観なんだろうという気がして、そこは私と同じなんだろうと暗黙のうちに前提して読み進んでいたりしました。まあ、ベック教授本人の原稿がなく、残されたメモかを編集して本書を編んでいるわけですから、当然に限界はあります。それを理解しつつ、本書を金科玉条のようにではなく、批判的に読めるレベル読書子にオススメします。

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次に、ビー・ウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』(原書房) です。著者はフード・ジャーナリストというジャンルの職業があるようです。ただ、女性らしく、というか何というか、食べ物に関する作業の場であるキッチンに関する著作などもあるようです。英国出身であり、本書の英語の原題は First Bite: Hoe We Learn to Eat であり、2015年の出版です。ということで、本書の最大の主張は食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということです。もちろん、それは現時点での食の基本であり、少し前までの飢餓が広範に存在し餓死の可能性がまだあった時点あるいは場所のお話ではなく、飽食とまではいわないまでも、十分な食品が入所可能な現在の先進国におけるお話です。その昔や、あるいは、現在であっても低開発国のお話ではありません。すなわち、カロリー摂取という観点からは不足なく、むしろ、肥満や生活習慣病の方が餓死などよりもリスクが高い、というバックグラウンドでのお話です。まあ、クジラを食べるのが文化と称している日本人もいますから、そのあたりは限界があります。その上で、肥満を防止したり、塩分の摂り過ぎを回避し、ジャンクフードではなく野菜や果物を十分に摂取する基礎が学習であると主張しているわけです。第8章ではこの観点から、日本食が極めて高く評価されています。当然です。現在の大手の食品会社の極めて印象的な宣伝に接しつつ、また、食品店やスーパーマーケットの食品売り場で買い物をするにつけ、正しい食生活、というか、健康的な食生活を維持するためには、それなりの学習が必要だということは理解できると思います。欲望のままに食生活を送るのではなく、何らかの科学的な根拠に基づく食生活、食育という言葉に合致するような食生活を現代人は必要としているのかもしれません。私も50歳になってから2年ほど単身赴任生活を送りましたが、もっぱや栄養バランスは牛乳に頼っていた気がします。また、普通のスーパーマーケットよりも、また、通常のレストランよりも、大学生協はそういった健全な食生活に熱心に取り組んでいる気がしました。もっとも、この分野に詳しくないので、気がしただけかもしれません。

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最後に、三浦しをんほか『短編少女』(集英社文庫) です。収録作品は順に、三浦しをん「てっぺん信号」、荻原浩「空は今日もスカイ」、道尾秀介「やさしい風の道」、中島京子「モーガン」、中田永一「宗像くんと万年筆事件」、加藤千恵「haircut17」、橋本紡「薄荷」、島本理生「きよしこの夜」、村山由佳「イエスタデイズ」となっています。アンソロジーですから、上質な短編作品を集めており、ついつい、何度も読むハメになっています。半分くらいは読んだ記憶があるような気がします。最後の作品はジャズの定番スタンダード曲なんですが、私は歌詞があるとは知りませんでした。ヘレン・メリルのアルバムが紹介されていますが、そのうちに聞いてみたい気がします。
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2017年07月01日 (土) 11:02:00

今週の読書は中国本を含めて計7冊!

今週の読書は意外と経済書が少なく、教養書や専門書が多くなっています。期待の若手作家による純文学の小説を含めて、以下の通りの計7冊です。

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まず、吉岡桂子『人民元の興亡』(小学館) です。著者は朝日新聞のジャーナリストです。ですから、エコノミストの視点とは違って、かなりマイクロな視点からのルポルタージュと考えるべきです。もちろん、中央銀行関係者や経済学者などへの取材を通じてマクロな視点も確保していますが、少なくとも本書のアドバンテージはマイクロな視点であり、それをクロニクルにつなぎ合わせた人民元の歴史的な推移ということになろうかという気がします。ですから、マクロな金融政策的な視点、成長の加速やインフレの抑制といったトピックはほとんど本書では現れません。もっとも、通貨政策というか、為替政策についてはかなりの程度に政治の延長であり、場合によっては外交や安全保障ともリンクします。ジョージアの米ドルへのペッグなどは典型でしょう。そして、確信はありませんが、私の読後の感想として、本書の著者の意図も中国の通貨である人民元を通じて、中国という国丸ごと、あるいは、その市場をしている中国共産党の過去からの歴史と今後の方向性を考えるひとつのキーワードにしているような気もします。でも、この読み方にはそう大きな自信があるわけではありません。でも、そういった視点で本書を読み解くのも一案だという気がします。その他、歴史的な事実も含めて、いくつかの井戸端会議的に使えるトピックも散見されます。例えば、円や元やドルは「丸い」という意味であると本書にはありますが、実は、ポンドも含めて、これらの通貨単位は重さの単位でもあります。金なり銀なりの貴金属の本位金属の一定の重さをもって通貨単位としている場合が多いからです。また、通貨の記号については、ユーロの€は人工的に作ったものですが、英国のポンド£はともかく、米国のドル$の記号は中南米などでも使われています。私が大使館勤務をしていたころの1990年代前半のチリでも通貨単位ペソに対して$の記号を使っていました。また、東アジアについては、韓国ウォン₩は別として、本書でも指摘されている通り、日本円と人民元は同じ記号¥を使います。コンピュータ用語では、$をダラマークと呼ぶのに対して、¥はエンサインと呼びならわします。私はよく違いが判っていませんでした。でも、こういった記号まで含めて外交や安全保障と少なからぬリンクがありそうな気もします。

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次に、アニー・ジェイコブセン『ペンタゴンの頭脳』(太田出版) です。著者はジャーナリストであり、同じ出版社から邦訳がすでに2冊出ていて、2012年の『エリア51』と2015年の『ナチ科学者を獲得せよ!』です。前者については、私は読んだ記憶があります。日記を確認すると2012年7月に読んでいます。でも、なぜか、このブログの読書感想文ではアップしてありません。それはともかく、本書の英語の原題は Pentagon's Brain であり、2015年の出版です。邦訳タイトルはそのまま直訳だったりします。ということで、本書は第2次大戦後の水爆開発競争から始まります。そうです。我が国の第5福竜丸が被爆したビキニ環礁での水爆実験です。そういった戦後の米ソを中心とする冷戦構造の中で、1957年にいわゆるスプートニク・ショックの激震が走ります。人工衛星であり、何と、我が国を代表する小説家のひとりでもある村上春樹にも『スプートニクの恋人』をいう作品があったりします。本題に戻って、このスプートニク・ショックを一つの契機として、当時のアイゼンハワー大統領により設立されたのが高等研究計画局ARPAであり、その後、国防のDを頭に加えて、現在のDARPAになっています。潤沢な予算を得て、しかも、極秘裏に国防関係の研究を進める組織であり、本書では、ベトナム戦争、1980年代の特にレーガン政権期のスターウォーズ計画、1990年代の湾岸戦争、2001年9月11日のテロからの対テロ戦争、などなど、それぞれの時期を追って時系列的に米国の戦争や国防技術の発展を支えたDARPAの役割について、公開資料やインタビューなどで知り得る限りに詳しく追っています。ただ、その視点はあくまで批判的であり、DARPAの開発になる成果として、例えば、インターネットやGPSなど、平和利用されていて、世界的にも有益な結果をもたらしている研究成果には少し冷たい扱いがなされ、ベトナム戦争の枯葉剤、生物兵器の開発などなど、DARPAが担った戦争利用技術の暗黒面を強調しています。政府とある程度の緊張関係に置かれるべきジャーナリストとしては当然かもしれません。科学者においても、今週の日経新聞の経済教室で軍事研究と大学に関して論評がありましたが、日本学術会議の軍事的安全保障研究に対する結論を私は尊重すべきと考えていますし、そういった観点からも、なかなか有益な読書だった気がします。私のような専門外のエコノミストには、まるでSFの世界のような軍事技術に感じるんですが、こういった軍事技術が実用化されると怖い気もします。それにしても、550ページを超えるすごいボリュームです。

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次に、塚田穂高[編著]『徹底検証日本の右傾化』(筑摩選書) です。現在の内閣による改憲への方向付けだけでなく、国民レベルでもヘイトスピーチや排外主義的な主張が拡大している気がしますが、私のように国家公務員でありながら左派を自任する人間から見て、とても憂慮すべきトレンドであると考えています。この日本の右傾化に対して、徹底検証と銘打ちながら、てんでバラバラな方向を向いた著者21人が各チャプターを担当して編集されています。結果として、包括的に現在の右傾化を分析することには失敗しているとしかいいようがないんですが、チャプターによっては見るべき主張が含まれている論考も少しだけ、ホンの少しだけあったりします。例えば、改憲の直接のターゲットは第9条だとばかり私は思っていましたが、家族にあり方の基本となる第24条も重要であるとか、あるいは、一橋大学の中北教授が自民党の右傾化の原因を探った第5章では、有権者、というか、国民が右傾化しているわけではない、と結論されている点などは、私はとても重要だと受け止めています。特に後者の中北教授のポイントは何を意味しているのかといえば、選挙で支持されているのは右傾化した主張ではなく、景気をよくする自民党の経済政策なのだということは理解しておくべきです。クリントン大統領の選挙キャンペーンのように、"It's the economy, stupid." というわけです。現時点での国民の選択は、右派=好況+改憲、あるいは、左派=不況+護憲、であると、もちろん、極端な議論ですが、こうなっているわけです。そして、国民の多くはコインの裏側が改憲であることは薄々気づいていながら、背に腹は代えられず、改憲に目をつぶって好況を目指す、あるいは、好況を実現している政党を選択しているわけです。東京新聞の大澤真幸による書評で、国民の「消極的な容認」と称されている実態が、実はこれなんだと私は認識しています。ですから、左派は改憲を阻止しようと考えるのであれば、真っ向から改憲反対を訴えるだけでなく、経済政策こそ選挙を闘う上での主戦場であることを正しく認識し、日銀にデフレ的な金融政策を許容したり、財政を引き締めたりするのではなく、現在の安倍政権が実行しているような財政金融政策を旗印に掲げて支持を集めることが必要なのです。ついでながら、本書とは何の関係もないものの、こういった観点に立っている立命館大学の松尾匡教授が『この経済政策が民主主義を救う』で展開した主張に私は全面的に賛同します。

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次に、ジェニファー・ウェルシュ『歴史の逆襲』(朝日新聞出版) です。著者はカナダ出身の国際政治学者であり、現在は欧州大学院教授としてフィレンツェ在住らしいです。英語の原題は The Return of History であり、連戦終了後にフランシス・フクヤマが主導した「歴史の終わり」を念頭に置いて反論することを試みています。すなわち、「歴史の終わり」では、冷戦の終了、というか、ソ連の中央指令型の社会主義経済やそれを基礎とする共産主義の体制が終わりをつげ、世界はすべて自由民主主義の世の中になったことから、世界全体が政治体制の最終形態である自由民主主義となり、戦争やクーデター、あるいは、その基となる対立や分断は生じなくなる、と単純化して語られるわけですが、実はそうではなく、特に最近では対立的な構造で世界を分断するような動きがアチコチに見られる、という論調です。欧米先進国で幅広く観察されるポピュリズムの台頭、特に米国におけるトランプ政権の誕生、加えて、ISをはじめとする武装勢力による虐殺の横行やそれを避けるための大量難民の発生、さらに、冷戦への回帰を思わせるような大国ロシアの登場と周辺国への軍事介入、そして、最後は経済的な不平等の形で国内経済における国民の分断を取り上げています。もちろん、背景となる歴史観にはフクヤマと同じヘーゲル的な弁証法があるんだと思います。ですから、氷河期に対しる間氷期と同じような見方で、現在は一時的に分断が止揚されているだけである、との考えも随所にうかがわれます。中国の歴史みたいです。統一されては分裂し、また統一する、という繰り返しの中国史と同じで、分断されては一体化し、また分断が進む、という中で、フクヤマの指摘した「歴史の終わり」は一時的なステージに過ぎない、との主張のようです。ウーン、判らなくもないし、歴史は終わっていないという点については、私も同じヘーゲル的な弁証法に基づく歴史発展の立場を支持しますので、当然といえば当然なんですが、やや物足りない著作です。細かいことをいえば、例えば、ISなどの大量虐殺について、中世的な虐殺にまでさかのぼらなくても、20世紀のナチスのユダヤ人ホロコーストの蛮行があります。ナチスについて、まったく触れられていないのは理解できません。そして、何よりも私が物足りなく感じたのは、歴史は終わっていない点はいいとして、歴史の逆襲=returnとは人類にとっては進歩なのか、それとも、中世へ逆戻りするような逆行なのか、著者の評価はどうなのだろうか、という疑問です。私が読んだ実感では、ポピュリズムの台頭とか、ISによる蛮行とか、おそらく、著者の考えは、これらは後者の中世に逆戻りしかねない歴史の逆行であり、それを超克して進歩の方向を目指すべきである、というものではないか、と勝手ながら想像しているんですが、ホントにそうでしょうか。歴史が逆襲するとすれば、その歴史の逆襲は歴史の進む方向の逆回転なのでしょうか、それとも、それはそれとして歴史の進歩の方向に位置づけるべきなのでしょうか。そういった議論も欲しかった気がします。今週読んだ本の中で、もっとも印象的だったんですが、それだけに、感想文を長々と書き連ねた一方で、物足りなさも感じてしまいました。

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次に、山田邦紀『軍が警察に勝った日』(現代書館) です。著者はジャーナリストで、本書では1933年6月半ばの正午前に、大阪は天六の交差点で信号無視をした軍服姿の兵隊を警察官が交番に連れ込んで暴行した、というゴー・ストップ事件を掘り下げています。昭和に入って軍隊が幅を利かせるようになった一方で、軍に対しては必ずしも協力的ではない京都や大阪などの関西圏で起こった事件ですが、双方折り合わずに、半年近くも収拾に時間がかかった上に、詳細は非公表ながら全面的に軍の面目で終息しています。すでに中国大陸で戦端が開かれた戦時体制ながら、まだ対米開戦は先の話といった時期に、警察と軍の対立が全面的に軍が有利な状況で終息したわけですので、我が国が戦前の軍国主義化のプロセスの中で、ひとつのターニング・ポイントになった可能性があります。ただ、歴史に興味ある読書子でなければ、この事件は知らない人がほとんどではないかと私は想像しています。もはや100年近い昔の事件ですから、いかに敏腕ジャーナリストとはいえ、当事者はもちろん、目撃者などの関係者にインタビューすることはほぼほぼ不可能となっており、文字記録に当たることにより事件を再現しています。そして、本書でも著者が明記しているように、この事件は軍と警察の双方が声明を出してはメディアが報道するという形で進み、それなりに参照すべき情報は少なくなかった気もします。他方で、引用部分が多過ぎるという印象を持つ読者もいるかもしれません。読んでいて、軍人に違法行為は警察ではなく憲兵が取り締まる、というシステムへの理解が進まないながら、警官も軍人も決して一般庶民から尊敬されているわけではなく、むしろ、エラそうにする煙たい存在と見なされていただろうことが伺えますし、警察ですら軍に対しては「モノ申す」ことが段々と難しくなっていく戦時統制国家の走りのような世相も垣間見えます。なかなか興味深い昭和戦前の歴史書かもしれません。

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次に、国分良成『中国政治からみた日中関係』(岩波現代全書) です。著者は慶応大学の研究者から転じて、現在は防衛大学校長です。という経歴から、読む前にはやや日中関係に関しては中国に批判的なスタンスを想像していたんですが、私の想像が極端だったせいもあるかもしれないものの、まずまず常識的な範囲だったのではないかと思います。そこは岩波書店の刊行物ですから、ゴリゴリの右派的な内容はあり得ないのかもしれません。私にはよく判りません。従来から、私も不思議だったんですが、日中関係については、まあ、日韓関係も似たようなものかもしれませんが、メディアで取り上げられる際には、我が国の政治状況中心的な地動説、というか、要するに、私のようなシロートから見て、総理大臣や重要閣僚などが靖国参拝するかどうかで中国や韓国の態度が変わる、我が国の重要政治家の動きに対応して中国と韓国が受動的に対応する、という報道が多かったような気がする一方で、中国や韓国の国内政治情勢については、少なくとも私の接する報道においては軽視されていたような気がします。もちろん、そんなことはないわけで、国内政治の延長に外交があり、あるいは、もっといえば、平和的な外交の延長に戦争があるといった説もあるようですから、我が国の国内政治だけが日中関係や日韓関係を動かして来たわけではないことは明らかです。そういった観点から、本書では中国の国内政治から日中関係への波及を解説してくれています。特に、天安門事件後の1990年代の悪化した日中関係の中で、江沢民政権がどのような役割を果たしていたかがよく理解できた気がします。我が国と違って、政権交代がなく、トップの個人的な資質次第で独裁的な様相を呈しかねない中国の政治状況、さらに、政党間の政権を争っての政策立案がない代わりに、共産党内の派閥抗争や内部での権力闘争が重要になる中国という国との外交の難しさを感じた気がします。

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最後に、今週の読書唯一の小説で、今村夏子『あひる』(書肆侃侃房) です。著者はデビュー作となる「あたらしい娘」で太宰治賞を受賞し、「こちらあみ子」と改題して他の短編とともに出版した『こちらあみ子』の著作で三島由紀夫賞を受賞し、華々しいデビューを飾ったんですが、その後少し休養期間を置き、本書が昨年出版され、さらに今年『星の子』も出版され、ともに芥川賞候補にノミネートされています。本書は河合隼雄物語賞を受賞しています。ここまで受賞やノミネート歴を上げれば、注目の若手純文学作家ということができようかと思います。なお、『こちらあみ子』はすでに文庫本も出版されており、私も読んでいます。ということで、この作品の表題作の「あひる」は、両親がのりたまという名前のあひるを貰い受けたところから物語が始まり、学校帰りの小学生があひるを見るために家に立ち寄り、主人公の弟が町に出て独立した後の寂しさを紛らわせるため、両親が過剰といえるほどに小学生達をもてなします。おやつやゲームで接待し、また、あひるの具合が悪くなるたびに新しいあひるを連れ帰ったりしていたんですが、3匹目のあひるが死んで埋めたところに通りかかった小さい子から、3匹目のあひるだったことは子供達の間でバレバレだったことが明らかになります。でも、子供達への接待を続ける両親なんですが、町に出ていった弟の奥さんに子供が出来て、一家6人で暮らし始めてめでたしめでたし、というストーリーです。純文学ですのでネタバレを避けようという気も私にはありません。この作品は芥川賞受賞を逃しましたが、小川洋子さんが強く推していたのを記憶しています。文章として表現すべき出来事があり、それを正しい言葉で表現し、淡々としていながら力強く文章がストーリーを紡ぎ出し、登場人物と出来事を正しく伝えています。それでも、読みやすくスムーズに読み進むうちに、何か違和感のようなものを、私のような平々凡々たる人生とは何かが違い、文章として書き留めた上で多くの人に伝えるに足る何かがあることが、とても適切に読み手に伝わります。まさに素晴らしい純文学の作品です。
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2017年06月24日 (土) 11:27:00

今週の読書は話題の経済書など計6冊!

先週の読書は文庫本があったこともあって8冊とオーバーペース気味だったんですが、今週は話題の経済書も含めて、新書もあり計6冊とややペースダウンしました。もっとも、もう少し減らして週4-5冊、というのが理想のような気もします。

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まず、ジョージ A. アカロフ/ロバート J. シラー『不道徳な見えざる手』(東洋経済) です。著者はともに米国の研究者であり、2人ともノーベル経済学賞受賞者です。ですから、いうまでもなく、トップクラスのエコノミストです。同時に、必ずしも実験経済学的な意味からだけではなく、市場の不合理さというものを是正すべく政府の役割を一定認めるタイプのエコノミストでもあります。すなわち、市場原理主義的な右派エコノミストではなく、政府の市場への介入を必要と考えるリベラルな差はエコノミストと見なしてもよかろうと私は考えています。そして、この2人の共著で少し前に『アニマル・スピリット』という著書も上梓していますので、宣伝文句としてその続編、とされています。これも市場のごまかしのひとつかもしれません。英語の原題は Phishing for Phools であり、このタイトルは「カモ釣り」と邦訳されているようです。2015年の出版です。ということで、繰り返しになりますが、市場の無条件の効率性を礼賛するわけではなく、合理的にカモを釣るようなシステムに満ちている現実を描写しています。広告による消費者の欲望の誘導から始まって、世の中こんなクソみたいな釣りや詐術で溢れているさまを多くの事例を上げて説明してくれています。例えば、クレジットカードで必要以上に促される消費、薬効まがいの過大な効果を宣伝される食材、自動車のセールスマンはあの手この手を使って、後々考えてみればまったく不要と思うようなオプションをオススメしたりします。さらに、米国特有かもしれませんが、政治過程におけるロビイストの役割、酒やアルコール、また、ギャンブルなどへの依存などなど、テンコ盛りで紹介しています。もっとも、著者も認めている通り、これらの事例は新しいものではなく従来からたびたび指摘されている事実でもあります。逆から見て、それだけに根絶が難しく、国民や消費者は騙され続けているともいえます。従って、本書の対策編も大したことはありません。ある意味で、前著の『アニマル・スピリット』で感じたのとよく似た失望感も味わってしまいました。こういった本を売るのも、市場のごまかしかもしれません。

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次に、ティモシー P. ハバード/ハリー J. パーシュ『入門オークション』(NTT出版) です。著者は米国の中堅どころの経済学研究者であり、英語の原題もズバリ AUCTIONS であり、2015年の出版です。実用性を疑問視される経済学の中でも、最先端の実用的な経済学と目されるマーケット・デザインの中でも、特に代表的な分野であるオークションに関するコンパクトで明解な入門書です。ただ、入門書ながら学術書であることに変わりありませんし、最先端分野ですので、それなりの理解力は必要とされるものと覚悟すべきです。ただ、難解な数式の羅列はなく、逆に、まったく数式を用いていないので、そこは弱点にすらなっています。むしろ、適度に数式で説明する方が、特に日本人などには判りやすかったんではないか、とすら思えます。例えば、Vickrey の記念碑的な1961年の論文ではAppendixが3つ付属していて、数式を展開するオンパレードとなっています。そこまでしなくても、まったく数式を排除するのも理解を妨げる場合があります。ということで、市場経済が効率的であるためには完全競争、すなわち、市場参加者がプライステイカーである必要があるんですが、オークションでは供給者又は需要者が単独であって、プライステイカーの前提は成り立ちません。しかし、オークションという言葉で想像されるサザビースやクリスティーズなどの美術品の競売だけではなく、実は、公共投資における政府調達や周波数免許あるいはネーミングライツの提供など、政府がオークションを開催することは決して少なくなく、そのデザインをしっかりしておかないと国民に無用の負担を生じる場合すらあり得るわけです。ですから、公共部門にとってこそオークション理論は重要ともいえます。特に、オークション理論の初学者向けの説明は、多くの場合、売る財がひとつだけのケースで説明を留めることが圧倒的に多いんですが、本書ではその限界を乗り越えて、第7章で複数単位オークションや複数財オークションにも手を広げています。もちろん、阿賀国でもっともオークションを一般的に知らしめたヤフオクに相当する米国のイーベイなどのネット・オークションも取り上げ、その中で評判(たぶん、レピュテーション?)の問題も解説を加えています。ただ、情報の非対称性に基づくアカロフ的なレモンの問題もレピュテーションで解決できると市場原理主義的な見方も出来ますが、私はそこまで市場に対して楽観的ではないエコノミストですので、念のため。

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次に、小松成美『虹色のチョーク』(幻冬舎) です。著者はスポーツ関係の著作の多いノンフィクション・ライターで、著作リストにはサッカーの中田、横綱白鳳、ラグビーの五郎丸などを取り上げたものがア含まれていました。ただ、本書はスポーツではなく、知的障がい者雇用に関して川崎にある日本理化学工業とその従業員、もちろん、障がいを持った従業員とその家族、さらに、経営者に関するインタビューを基にしたルポルタージュです。陸前高田の八木澤商店を舞台にし、このブログの昨年2016年末の12月30日付けの読書感想文で取り上げた『奇跡の醤』と同じなんですが、働くとはどういう意味があるのか、企業の社会的な存在意義とは何か、企業と従業員の関係はいかにあるべきか、を問う力作です。私のようなエコノミストから見れば、というか、市場原理主義などの右派エコノミストからすれば、労働とはレジャーを犠牲にして所得を得る手段であって、働く喜びとか、人の役に立つ感慨などは考慮の外に置かれており、同時に企業についても利潤最大化主体であって、冷酷にコストをカットし、競争相手をなぎ倒して成長を遂げる存在としてしか想定していません。本書の舞台となっている日本理化学工業の川崎の工場では、社員83名のうち62名が知的障がい者であり、各人の能力に見合った仕事上の工夫を凝らすことで、知的障がい者が製造ラインの戦力となり、社員の多くが定年まで勤め上げる企業となっています。それだけではなく、彼らの作るダストレスチョークは国内50%のシェア1位を誇っています。実は、その昔、2人いる倅のひとりが反抗期のようになった時期に、「僕にどうなって欲しいのか」と質問され、カミさんが言い淀んでいるのを見て、「世のため、人のために役立つ人間になって欲しい」と回答したことがあります。私自身を含めて、定年を目の前に迎えても、その思いは昔から変わりありません。利潤最大化を目指す企業体であっても、雇用者のために、社会のために、いろいろと出来ることはあります。現在の我が国大企業のように非正規雇用でコストをカットし、設備投資もせずにひたすら内部留保を溜め込むだけの存在が、果たして好ましい企業のあり方なのかどうか、もう一度考えるべきタイミングなのかもしれません。ただ、本書について少し物足りなく感じるのは、企業を側面から支える銀行や公的機関の役割について、三菱銀行や地元の市役所など、やや扱いが軽い気もします。経営者の力量と雇用者の生産性などの企業努力だけでやって来た、というわけでもないでしょうし、企業を側面から支える関連団体にも目を配って欲しかった気がします。

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次に、吉村誠『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版) です。作者は大阪の朝日放送のテレビの制作者から研究者に転じた人で、いずれにせよ関西をホームグラウンドにしているようです。テレビ制作者としての主な担当番組は、『シャボン玉プレゼント』、『新婚さん!いらっしゃい』、『晴れときどきたかじん』、『ワイドABCDE~す』、『M-1グランプリ』などだそうですが、私はもともとテレビはニュースと阪神タイガースのナイター以外にはあまり見ませんし、京都を離れて長くなりますので、知っていたり、知らなかったりです。不勉強の至りです。ということで、本書では、著者の経験からお笑い芸人については、ビートたけしと明石家さんまを主として念頭に置き、この2人にタモリを加えたビッグ3、さらに、暴力団との不適切交際で引退した島田紳助にも言及があります。そして、極めて単純に本書の結論を短く取りまとめれば、お笑い芸人の言語でもっともインパクトある理由は生活言葉で語っているから、ということになります。そのお笑い芸人の生活言葉に対比する形で、文字の言語、さらに、話し言葉ながら生活言葉ではなく、例えばニュースを伝えるアナウンサーのような標準語=東京語を対比させています。ただ、このあたりまではいいとしても、かなり論理が飛躍している部分が少なくありません。その昔の明治期の文語体ならいざ知らず、現在の文字化されたいわゆる文章については、かなりの程度に話し言葉に近い、と私は考えています。例えば、私はいくつか楽器の演奏をしなくもありませんが、演奏された結果とそれを記録として残した、というか、より正確にはその演奏の元となったスコアの間の隔たりと、話し言葉とその文章化された書き言葉の間の隔たりを比較すれば、後者の言葉の隔たりの方が音楽の隔たりよりも断然小さい、と私は考えています。例えば、私はピアノ曲ではショパンやリストが好きな一方で、ベートーベンも決して嫌いではなく、あくまで例えとして、私が弾くベートーベンのピアノ・ソナタとグルダの弾く同じ曲は、ミスタッチを無視して、あえてスコアに落とせば同じスコアになるんだろうと思うんですが、実は、かなり大きな違いがあります。すなわち、同じ芸術としても文学や話術については、人類すべてとはいわないまでも、かなり多くの人がしゃべれる一方で、キチンとした文章を綴れる人はしゃべれる人よりも少数ですし、その格差はやや大きくなり、さらに、ピアノの技量ということになれば、もっと格差が大きくなります。その格差と比較して話し言葉のインパクトを考えるべきであり、その視点は本書では決定的に欠けており、そのため、書き言葉と話し言葉の優劣や生活言語と標準語の比較といった、関西的な反東京・反中央の姿勢を見せつつも、その実態は劣等感丸出しの議論に終始しているような気がします。記録する手段として、話し言葉に対する文字言語、あるいは、音楽演奏に対するスコアだけでなく、デジタルな技術進歩により動画や音声ファイルがここまで普及した段階の議論としては大いに物足りないものがあり、誠に残念です。

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次に、大崎梢ほか『アンソロジー 隠す』(文藝春秋) です。女性作家11人による「隠す」をテーマとしたアンソロジーです。実はこのグループはアミの会(仮)と名付けられており、この会によるアンソロジーは3冊目だそうで、第1弾が『アンソロジー 捨てる』、第2弾が『毒殺協奏曲』となっていて、さらに、第4弾が『惑: まどう』として7月だか、8月だかに出版予定らしいです。収録作品は、収録順に、柴田よしき「理由」、永嶋恵美「自宅警備員の憂鬱」、松尾由美「誰にも言えない」、福田和代「撫桜亭奇譚」、新津きよみ「骨になるまで」、光原百合「アリババと四十の死体」と「まだ折れてない剣」、大崎梢「バースデーブーケをあなたに」、近藤史恵「甘い生活」、松村比呂美「水彩画」、加納朋子「少年少女秘密基地」、篠田真由美「心残り」であり、あとがきは永嶋恵美が書いています。初めて作品に接する作家もいたりするんですが、やっぱり、慣れ親しんだ私の好きな作家である柴田よしきや近藤史恵の作品に出来のよさを感じます。大雑把にミステリ仕立ての作品が多いんですが、作品によってはホラー気味のものもありますし、家族小説や恋愛小説のようなものも含まれ、いずれも短編としてスラッと読めるものばかりです。もちろん、テーマは表題の通りであり、何かが隠されます。もちろん、モノとは限りません。どうして隠すかの理由も含めて、読み応え、とまではいきませんが、少なくとも暇潰しには最適です。やや、女性作家らしく仕上げようとしている、あるいは、仕上がっている、という感じが強く、この点に関してだけは好き嫌いが分かれそうな気もします。

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最後に、中北浩爾『自民党 「一強」の実像』(中公新書) です。著者は一橋大学の研究者であり、政治外交史の専門家です。特に、タイムラインは不明確ながら、戦後政治史・政党史の中での自民党の解明を試みています。分析の視点としては、派閥、総裁選挙、ポスト配分、政策決定プロセス、国政選挙、友好団体、地方組織、個人後援会、そしてもちろん、理念も含めて、あらゆる角度から自民党の本質に迫ります。ただ、著者自身も認めている通り、ここまで長期の政権を維持している政党ですから、硬直的に長期にかわりばえのしない方針を維持し続けているなら、例えば、例は悪いかもしれませんが、社会主義革命だけを目指していたり、あるいは、憲法改正だけを考えていたりすれば、ここまで長期の政権は維持できませんから、臨機応変に方針をコロコロと変更してその時期その時期に対応した政策を実行していたのであろう、ということは容易に想像できようかと思います。私はキャリアの国家公務員として政府に勤務し、現在は研究者ですので生の政治にそれほど近いわけではありませんが、おそらく平均的な日本国民よりは自民党に近いポジションにいるような気もします。その私でも理解できない、というか、知らなかったような制度的、あるいは、歴史的ないろいろな事実を網羅しています。逆から見て、サブタイトルにある現時点での安倍内閣の「一強」の解明はなされていません。ですから、専門外ながら、私の勝手な想像をたくましくすれば、現時点での安倍内閣の「一強」の源泉は経済政策にあると考えるべきです。1992年の米国大統領選におけるクリントン候補のスローガンで、"It's the economy, stupid!" というのがありましたが、まさにそれです。昨年2016年5月28日付けの読書感想文で取り上げた松尾先生の『この経済政策が民主主義を救う』も基本的に同じ趣旨だったことが思い起こされます。私は、左派勢力が共謀罪法案に反対し、改憲を阻止するためには、経済政策による国民からの支持の取り付けにとって、極めて重要だと考えているんですが、それに成功したのが改憲勢力だったのでとても残念です。日銀の独立性の美名の下に、旧来の日銀理論を擁護し国民生活を犠牲にしまくった左派勢力の無策を嘆くとともに、この経済政策の成功こそが現在の安倍内閣の「一強」の大きな要因だと考えるべきです。
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2017年06月17日 (土) 11:58:00

今週の読書はややペースアップしてしまって計8冊!

先週は関西出張後で少し体調が低下していたんですが、今週はかなり読書しました。でも、仕事がそれなりに忙しいので、本調子になればもっと読みそうな気もして少し怖いです。

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まず、ザカリー・カラベル『経済指標のウソ』(ダイヤモンド社) です。著者はコンサルタント、コメンテータ、ライターといったことになるんでしょうが、博士号を持ったエコノミストです。英語の原題は The Leading Indicators であり、2014年の出版です。国勢調査、GDP統計や国民経済計算、失業率、インフレ率など、政府が統計として作成・公表している経済指標について、主として米国を舞台に、その歴史や考案された意図、限界などを丁寧に解説しつつ、一定の疑問を集大成しています。すなわち、SNAのマニュアルの改定により研究開発(R&D)を投資に含めるようになり、米国や日本のGDPが一気にカサ上げされた事実、あるいは、失業の定義の曖昧さから失業率統計の意味に対する疑問、また、サービスを含まない海外取引のバランス収支がどこまで意味があるか、などなど、なんですが、これらの経済指標が個人や企業の意思決定にどこまで影響を与えるかとなると、それほど大きなものではないような気もします。ただ、本書では意図的にか、雰囲気でか、取り上げているようなマクロ経済指標とマイクロな個々人や各企業と行ったレベルでの経済的な状態や意思決定の問題を混同しているきらいがあります。例えば、マクロ経済のレベルでは失業率が大いに低下して低水準にある経済社会でも、どうしようもなく失業している人入る可能性があるわけですし、GDPの成長率が高くて好景気に沸く時期でも倒産する企業はあります。確かに本書が指摘する通り、GDPは1950年台の地図であって、時系列的な比較可能性を維持するために、古い基準で作成されているわけですが、途上国などではその国連やIMFやILOなどの基準が有り難い場合もあります。最後に、邦訳の疑問ですが、第10章の「自由財」は free goods で、ホントは「無料財」なんでしょうか?

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次に、エヤル・ヴィンター『愛と怒りの行動経済学』(早川書房) です。著者はイスラエルのエコノミストであり、本書はもともとヘブライ語で書かれていたようで、本書はその英訳本を底本として翻訳しているようです。英語のタイトルは Feeling Smart であり、2014年の出版です。ということで、実験経済学とゲーム理論を合体させたような、かなりありきたりな内容なんですが、本書のはしがきでも取り上げられている通り、アリエリー教授やセイラー教授らの行動経済学や実験経済学における限定合理性や非合理的行動は、私もやや極端な印象があり、どこかに何らかの正解がありそうな気がしていました。本書がその正解であるとは思いませんが、基本的なスタンスには共感します。同時に、従来から、怒りや悲しみ、妬みといった感情は理性とは両立しないとされてきた感情論も克服しようと試みています。共感や信頼とGDPの相関、チメドリも含めた他人を助けることによる自分自身の生存確率の向上、などなど、理論的なモデルをゲーム理論で数学的に構築した上で、実際にラボで実験経済学的な実証を行うという手法は、私のようなシロートの目から見てもとてもリーズナブルですし、統計的計量的な処理がどこまで正確になされているかは不明ですが、そこをキチンとクリアしていればOKだろうという気もします。ただ、生物学的な進化に結びつける理論建てはやや疑問が残ります。すなわち、単なる学習と進化を混同している恐れがあります。1度失敗したら、次は失敗しないようにうまくやる、というのは進化ではなく学習効果と一般にはいわれるような気がするからです。

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次に、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで英国オックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国の大学の政治学の研究者です。ドイツ語のタイトルは Was ist Populismus? であり、2016年の出版です。かなりコンパクトなパンフレットのような体裁で、学術書っぽくはありません。しかし、それにしても、ポピュリズムの定義も曖昧なまま議論が進められており、やや精彩を欠きます。本書のひとつの特徴は、ポピュリズムとは単に反エリート、あるいは、本書の用語では反エスタブリッシュメントだけでなく、自己自身を唯一の人民の代表と考える、という視点なんですが、それがどうした、という気もします。私は大使館勤務の外交官として南米の雰囲気を知っていますし、ポピュリズムといえばアルゼンティンのペロンとその妻のエビータを思い浮かべてしまいますが、本書とはかなり異なる印象です。本書でも認めている通り、米国トランプ大統領が典型として、ポピュリズムの支持者は学歴の低い男性が多いんですが、中南米のポピュリズムはまったく異なります。本書のモチーフは英国のBREXITと米国のトランプ大統領でしょうから、その後の大陸欧州でのポピュリズムの後退、あるいは、ベネズエラのチャベス大統領の頃までくらいの中南米のポピュリズム、その典型はペロン大統領ですが、そういったアングロサクソン以外のポピュリズムに対する理解の低さが如実に見られる箇所がいくつかあります。極めて残念ですが、書き出しから反ポピュリズムの姿勢も戦闘的に、「ポピュリズムといかに戦うか」の処方箋は示されません。ポピュリズムの一つの特徴として反多元主義を上げていますが、そんな反多元主義なんて、全体主義をはじめとしていっぱいあります。ファシズムやナチズムは本書の著者の見方ではポピュリズムなんでしょうか、違うんでしょうか。特に、最近の動向を考え合わせても、さほど有益な読書だったとは思えません。誠に残念。

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次に、岡本健『ゾンビ学』(人文書院) です。著者は北海道大学出身で奈良県立大学の研究者です。専門分野は観光学らしいです。なお、出版社は人文系のとてもまじめな学術書を手がけているところで、京都に本部があったように記憶しています。ということで、タイトルそのままです、ハイチのブードゥー教に由来するゾンビについて考察していますが、地域的には欧米と日本に限定しています。中国にはもっとゾンビがいっぱいいると私は考えているんですが、映画や映像系のメディアを中心に考察を進めているので、中国はスコープに入っていないようです。キョンシーなんかはダメなんですかね。十分にゾンビだと私は思います。ということで、私がゾンビに興味を持ったのは、本書でも特筆大書されている「バイオハザード」がきっかけです。ただ、ゲームの方ではなく、ミラ・ジョボビッチ主演の映画の方です。本書では、「バイオハザード」のゾンビは、実は診断ではなくてウィルスに感染されているだけであるとし、ホントのゾンビではない可能性を指摘していますが、まあ、ゾンビでしょう。私は決してゾンビは好きではないんですが、すでに高校を卒業してしまった立派な大人なんですが、下の倅が小さいころからホラーやゾンビを好きだったもので、親としてさりげない視線を注いでいたわけです。ということで、とてもよく出来た学術書の体裁を取った本書ながら、それでも、本書で欠落している点を1点だけ上げると、ハイチのブードゥー教に由来するとはいえ、西欧社会のキリスト教信仰との接点が抜け落ちています。すなわち、第1に肉体と魂の分離です。仏教では、特に、私の信仰する浄土真宗では肉体ごと西方浄土に往生する、という感があるんですが、キリスト教では死とは魂が肉体から分離することのように捉えられています。ホントはどうか、私はよく知らないんですが、その魂の抜けた肉体がゾンビとなるわけで、ですから、動きが鈍かったり、うつろな表情だったりするのがデフォルトになっているわけです。そしてキリスト教との関係では第2に、キリスト教では最後の審判の際の復活がありますので、復活させるためには肉体を残しておく土葬にならざるを得ない、という点が重要です。我が国のように火葬にしてしまえばゾンビとしての復活はあり得ないんですが、土葬であればキリスト教的な最後の審判における復活でも、ゾンビとしての復活でも、復活はあり得るわけです。この点から、キリスト教徒ゾンビの関係をより明らかにする研究を私は強く求めます。

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次に、相場英雄『不発弾』(新潮社) です。著者はファンも多いエンタメ小説作家であり、本書では東芝の不適切会計の事案を巡