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2019年11月16日 (土) 11:00:00

今週の読書感想文はマルクス主義の本をはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、フランス系のマルクス主義の本をはじめとして、小説や時代小説のアンソロジーの文庫本まで含めて計7冊です。純粋の経済書はないかもしれません。本日もすでに自転車に乗って図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上りそうです。

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まず、エリック・アリエズ & マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』(作品社) です。著者は、フランスおよびイタリア出身で、ともに現在はパリを拠点とする哲学ないし社会学の研究者です。フランス語の原題は Guerres et Capital であり、2016年のながら、201415年にかけて行われたパリ第8大学の共同セミナーでの議論が基となっています。著者はおそらく2人ともマルクス主義に基づく哲学者ではないかと私は想像しています。本書のタイトルからはゾンバルトの『戦争と資本主義』が思い起こされますが、広く知られたように、ゾンバルトは戦争がユダヤ的な資本主義経済の育成や成長に寄与した歴史を解き起こしています。まあ、ナチス的な歴史書です。それに対して、というか、何というか、本書はマルクス主義の観点から戦争がいかに資本に奉仕して来たのかを解き起こしています。ですから、本書ではレーニンや毛沢東らはクラウゼビッツの『戦争論』の影響下にあるとしつつ、フーコーやドゥルーズら、特にフーコーを批判的に引きつつ、クラウゼビッツ的に「戦争は政治の延長」という議論ではなく、むしろ逆転させて、金融資本主義がグローバルな内戦を引き起こしているとか、戦争福祉(ウォーフェア)が生活福祉(ウェルフェア)を準備したとか、主張しています。難しいです。その昔の学生のころにマルクス『資本論』全3巻を読み切った私でも理解が追いつきません。特に、本源的蓄積が永遠に続くというのは、レトリカルにおかしい気もします。永遠に続くのは資本蓄積であって、本源的蓄積とは定義が異なる気もします。何よりも、本書では戦争はケインズ的な政策における完全雇用の観点からだけ見ている気がします。というのは、私の考えでは、資本主義的な生産が景気循環、というか、恐慌ないし景気後退につながる最大のポイントは需要不足あるいは過剰生産です。その過剰生産を一気に解消するのが戦争であり、本書で「過剰生産」という用語がまったく出て来ないのには違和感を覚えます。生産手段を私有しつつ剰余価値の生産のために生産を一貫して拡大する資本主義的な生産は、労働力の再生産に必要な部分を超える過剰生産につながり、恐慌でモノが売れなくなり需要が不足します。ケインズ的な解決策の前には、いわゆる帝国主義により植民地を獲得し、典型的には英国とインドの関係であり、植民地を原料の入手元であるとともに生産物の市場として「活用」いたんですが、それでは資本主義的な生産の矛盾を本質的に解消することはできず、ケンズ政策が登場して政府が需要を創出することを始め、緊縮財政を放棄して赤字財政の下で売れ残ったモノを政府が買い支えるという構図になります。しかしながら、その過剰生産がケインズ政策でも手に余る、あるいは、均衡財政に誤って固執するような政府の下で余りに大規模になれば、資本の利益となるような戦争というはなはだ労働者階級には迷惑、というか、まさに文字通り破壊的なイベントにより売れ残りの生産物を一気に解消しようという圧力が生じます。その典型がナチス政権下のドイツで観察されるわけで、そして、そうならないように、緊縮財政を放棄して政府の財政出動による需要の創出が望まれるわけです。そのあたりの資本と戦争の関係が、本書では目が行き届いていない気がして、やや片手落ちのように読んだのは私だけなんでしょうか。

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次に、森田長太郎『経済学はどのように世界を歪めたのか』(ダイヤモンド社) です。著者は証券会社の再建アナリストであり、日本の証券会社だけでなく、欧州系勤務のご経験もあるようです。ということで、かなりムリをしてお話を拡張していますが、基本は、経済学が世界を歪めたのではなく、黒田総裁以降の日銀の金融政策が著者のお仕事を歪めた、という主張を延々としているわけで、私の目から見て、控えめにいっても、時間のムダをした読書だった気がします。私の直感ながら、同じ証券会社にお勤めの株式アナリストであれば、まったく逆の見方が示された可能性も小さくないと思わないでもありません。ただ、ご本人は、本書を上梓するほどですから、こういった批判は先刻ご承知の上で、冒頭に、批判は甘んじて受ける旨を記しておきながら、第4章冒頭では、こういった批判はいわれのないものであると、批判によっては受け入れるものと受け入れないものを選別する姿勢を示しています。ですから、リフレ派の官庁エコノミストなどを戦前の「革新官僚」になぞらえたり、リフレ派エコノミストが主催していたいちごBBSをネトウヨと並べて論じたり、果ては、デフレを錦の御旗に見立てて金融政策運営のひとつの目標にした点を批判しながら、本書ではこういった政策をポピュリズム経済政策と称することもはばからず、私はともかく多くの人から見れば同じように見えかねない戦略を取っていたりします。大昔ながら、リフレ派の官庁エコノミストであり日銀政策委員まで出世された先輩との共著による学術論文ある私にはやや不愉快に見えます。基本的に、著作ですから著者ご自身の思いを表明するわけで、それがエコーチェンバーやフィルターバブルなどに影響された確証バイアスに基づくものである可能性も否定できませんし、こういった著者のポジショントークに類する著書は、それなりの批判的な読み方をする必要もあるような気がします。ただ、金融政策の論点はいくつか肯定できるものもあり、例えば、期待に作用する政策が実績への適合的期待が主である場合には、それほどの効果なく、インフレ・ターゲティングがそれに当たる、とか、リフレ派のマネタリスト的な施策が現時点でそれほど効果を上げていない、というのはそうなんだろうと思います。ただ、インフレ・ターゲティングを採用するとハイパーインフレを招きかねない、というその昔の日銀理論は、さすがに、恥ずかしくなったのか、どこかに、ハイパーインフレになる可能性はほぼないといった旨の記述を忍び込ませていたように思います。まあ、私から見ても、黒田総裁以降の日銀金融政策、かなりの程度にリフレ派の金融政策がデフレ脱却に決して効果が大きかったわけではない、というのは事実のような気がします。ただし、これは陰鬱な科学である経済学のひとつの限界である可能性もあり、それだけにさらなる経済学の進歩を私なんぞは望むわけで、MMT=現代貨幣理論などに注目したりするわけです。リフレ的な金融政策が思ったほどの効果なかったという意味で、ある程度のコンセンサスあるとすれば、あくまで、その仮定の下で、経済学はダメだと主張したりして、まあ、極論すれば、昔の日銀理論に戻って金融機関、特に債券部門を儲かるようにしてくれ、とボヤくのか、それとも、経済学の新たな進化を期待しつつ前に進むのか、その分かれ目が来ているのかもしれません。私は圧倒的に後者の立場です、というか、自分で新たな経済理論を打ち立てる能力には欠けますので、がんばって勉強を進めるわけです。その意味で、エコノミスト的な職業への復帰を来年の大プロジェクトとして、たとえ、どんなに障害が大きくとも取り進めようとしています。風向きが変わって、その昔はタップリ公共事業で甘い汁を吸えたのに、今はサッパリだめだ、と嘆くだけでは何もできそうもない気がします。

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次に、ベルトラン・ピカール(まえがき) & セドリック・カルル/エリック・デュセール/トマ・オルティーズ(監修)『エネルギーの愉快な発明史』(河出書房新社) です。著者のリストは本書の巻末に収録されていて、上の表紙画像に見える人名は基本的に監修者なんですが、多くの監修者と著者はフランスでご活躍の方々ではないかと想像されます。というのは、参考資料がほぼほぼすべてフランス語文献だからです。フランス語の原題は Rétrofurtur であり、2018年の出版です。本書で取り上げられている発明は、エネルギーに関するものが主ではあるんですが、必ずしもエネルギーに限定されることなく、幅広く収録されています。ですから、共通するのは、「エネルギー」というくくりではなく、むしろ、一部の例外を除いて、「実用化ないし量産化されずに終わった」という点ではないかと思います。そういう観点から邦訳タイトルも選ばれているような気がします。なお、オリジナルの原書にあるエピソードに加えて、邦訳書では日本独自の発明のエピソードを数例加えているようです。屋井先蔵の世界初の乾電池とか、こたつの最盛期、とかです。1780年のラヴォワジエの足温器から始まって、時代を下りつつ、いろんな発明品が紹介されています。その合いの手に、電気飛行機や特許などの特定のエピソードに関するエッセイがはさまれています。いくつかのエネルギーに関する発明品で強調されているのは、部屋やその空気を温めるのではなく、人を温めることによる効率化です。日本の例として付け加えられたこたつなどは典型で、ほかにもいくつか見かけました。これは私も合意できる点ではないかと思います。本書冒頭のラヴォワジエの足温器がそうですし、実用化されたゆえに本書に収録されていない発明品の中にも、使い捨てカイロなどもそうではないかという気がします。1970年代にはいわゆる石油危機が2度に渡って発生し、エネルギーをはじめとする相対価格が大きく変化し、特に、最近では地球温暖化防止との関係で、化石燃料に対する再生エネルギーの優位性が考慮されたりする中で、本書に収録された発明品は経済学的にコスト・ベネフィットがよろしくなかったか、あるいは、工学的に技術が及ばなかったか、のどちらかの要因で実用化・量産化されなかったものが多いのではないかと考えられますが、将来的な相対価格の変化や技術進歩により、あるいは、あくまであるいは、なんですが、本書に収録された技術にブレイクスルーが生じる可能性がないとはいえません。まあ、たぶん、そんなものはないとは思うんですが、エネルギーやエネルギーに限定されずとも、幅広く技術に関する温故知新を求めるのは決して悪いことではないんではないか、という気がします。

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次に、リチャード C. フランシス『家畜化という進化』(白揚社) です。著者は、米国にて生物学の博士号を取得し、研究者の経験もあるサイエンス・ライターです。英語の原題は Domesticated であり、2015年の出版です。家畜やペットとして、ヒトはオオカミをイヌに進化させ、イノシシをブタに進化させたわけですが、ダーウィン的な進化論でも自然選択=natural selectionとともに、人為選択=artificial selectionという用語があるのかどうか知りませんが、本書では頻出します。そして、イヌなどのように動物の方からヒトに近づいて食べ残しをエサとして得て、ペットも含む概念として家畜化するケースもあれば、トナカイやラクダのように狩人が生け捕りした動物をヒトが飼い始めるケースもあるようです。ということで、本書では章別に家畜化された動物を取り上げています。最初の章は、やや日本人には奇異に映るキツネから始まって、最後はヒトそのもので終わっています。家畜化は体形や形状などの見た目や機能よりも、先に従順化という性格的な変化から生じるとされ、その意味で、幼児期に特徴的な性質などが成体になっても維持されるペドモルフォーシスは、私の理解ではネオテニーの一種なんですが、広く見られると本書では指摘します。他方で、本書のスコープの外ではあるものの、ヒトが家畜化に成功せず、結局、絶滅してしまった、もしくは、ヒトが絶滅させた動物も少なくないわけで、家畜化というのは動物がヒトに屈服したわけでも何でもなく、進化のあり得る形として生き残り戦略のひとつとも考えられます。家畜化の要因として、性格的な従順さももちろん重要なんでしょうが、齧歯類のモルモットに見られるように、見た目も重要そうな気がします。私は「長い物には巻かれろ」の方で、絶滅させられるよりは、食肉にされたり使役を提供したりしつつも、種として生き延びるのは重要な観点であると考えます。ただ、本書については、研究者ではなくライターだからなのかもしれませんが、科学的な見地よりも著者の見聞きした範囲のお話が多いような気もします。ネコについては、著者個人の「ネコ大好き」の愛情があふれています。そうでない読者が読んだら、ひょっとしたら嫌悪感を持つかもしれません。また、サンタクロースの乗るそりをトナカイが引くのはなぜか、といった動物、というか、家畜に関する逸話もいくつか収録しています。最後の方の章が人間の進化と社会性について割かれており、私は家畜を飼う立場の人間としての進化と社会性を期待したんですが、逆でした。むしろ、小さい子供が家畜的に育てられ、ネオテニーを呈するという意味で、人間の家畜的な面をあぶりだそうと試みています。エコノミストとして、家畜を用いれば生産性が向上するわけで、例えば、ウシを耕作に使えば農業生産物が多く収穫出来たり、ウマを使って遠くの人間との交易で生活が豊かになったり、あるいは、食肉としてヒトそのものの進化に貢献したり、はたまた、ウマやラクダが化石燃料を用いる移動手段に取って代わられたり、などなどといった家畜を使う便益のような事例の分析を期待していたんですが、少し違和感を覚えてしまいました。

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次に、中島京子『夢見る帝国図書館』(文藝春秋) です。作者は、『小さいおうち』で直木賞を受賞した小説家で、私は誠に不勉強にして、この作者の作品はこの直木賞受賞作しか読んだことがありませんでした。この作品は、作家の主人公と喜和子さんという高齢女性を軸に、今世紀に入ってからの上野を舞台にしながら、明治までさかのぼって帝国図書館の歴史をひも解きつつ、歴史的事実と書物や図書館を軸にした人間模様を描き出しています。戦争の戦費に予算を食われて、一向に図書館整備が進まない歴史的事実をドキュメンタリーとして幕間にはさみつつ、特に、樋口一葉などから始まって女性作家にも目を配りつつ、明治以降の作家を主人公と喜和子さんが、あるいは、喜和子さんの愛人だった博覧強記の元大学教授などが語り合い、ストーリーは進みます。その中で、謎に包まれた喜和子さんの人生が、図書館や本、特に絵本とともに、タマネギの皮をむくように少しずつ明らかにされて行き、登場人物すべての本や図書館に対する愛情あふれる性格がきれいに浮かび上がります。私は10年ほど前に地方に単身赴任して、長崎大学経済学部の教員をしていた経験があり、その際には、レジュメを配布している教員が少なくない中で、私だけは教科書を指定して、教科書であれば定期試験の折りに持込み可能という特典を設けて、積極的に教科書を買うように学生諸君おススメしていました。誠に残念ながら、自分で書いたテキストではなかったんですが、少なくとも現時点くらいの技術動向であれば、大学のテキストは本で買った方がいい、と今でも考えています。あまり機会があるわけではありませんが、大学教員公募に応募して1次の書類審査を突破して2次の面接に進んだ際にも、同じように教科書の効用を申し述べたことがあったりもします。もちろん、この先、だいぶんとまえに百科事典が家庭から消えたように、家の中から本棚が駆逐されて本はタブレットなどで電子書籍を読む、というスタイルになれば、まあ、話は別なんでしょうが、現時点では、私のように定年退職したエコノミストが家庭の本棚に大学のころの教科書や古典書を置いておくというのは、少なくともアリだと考えています。私の大学生のころの教科書なんて、ハードカバーはいうまでもなく、箱があったりしましたし、今ではインテリアとしての役割しか果たしていない気もしますが、それでも、本を読むとはこういうことである本棚でと主張しているようなところがあります。私のような本好き、読書好き、図書館好きには、とても訴えかけて来るものが大きい小説だった気がします。

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次に、山岡淳一郎『生きのびるマンション』(岩波新書) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、必ずしも建築や住宅を専門にしているわけではない、と私は理解しています。本書では、マンションという建物ハードとそこに住む住民の2つの「老い」を理解すべく、また、建築業界の悪しき旧弊を駆逐すべく、いろんなトピックに渡って取材結果が盛り込まれています。特に、マンションは都市部に多く立地していて、ここ10年余りの間に高層の、いわゆるタワーマンションもアチコチに竣工していますから、マンション住民は決して少なくなく、そのまま朽ち果てるマンションや人間もかなりの割合に上りそうな気がします。というのも、昔から「住宅双六」というのがあり、学校を卒業して就職して、まずは独身寮や単身者向けのアパートなどに入ります。もちろん、大学生になる際に親元を離れて、下宿やアパートに入る場合もあり、我が家の2人の倅はこの段階ではなかろうかと考えないでもありません。そして、結婚して世帯向けの社宅や賃貸マンションに入ります。私の場合、公務員で官舎が潤沢に準備されていて、さらに、私自身に海外勤務が少なくなかったこともあり、この段階が長かった気がします。そして、やや狭めの賃貸マンションから、少し広めの分譲マンションに移り、最後に、庭付きの一戸建てで人生を終える、というカンジではないでしょうか。でも、繰り返しになりますが、マンションで人生を終える人も、特に都市部では少なくありません。ただ、本書でも指摘されているように、我が国の不動産といえば上物の家建物は評価されず、土地神話がまだまだ残っているのも確かです。ですから、マンションを修理しながら長く住み続けるという発想が乏しく、デベロッパーは新築マンションを売り抜ける、というビジネス・パターンを取りがちでメンテナンスに力は入りません。そこに、悪質コンサルや施工業者がつけ込んで、リベートを上乗せした高価な工事を発注させたり、談合のような競争なしでの工事受注が広まったりすると、本書では警告しています。そういった悪例に対して、みごとにメンテナンスされ、それゆえに、中古マンションとしても価格を維持しているような優良物件も紹介されています。マンションは住まいであるとともに、個人の資産でもあり、さらに、特に大規模なマンションであれば地域に及ぼす影響力も決して無視できません。さらに、リゾート・マンションのようなマルチハビテーションの一環で、住民の本拠地になっていないマンションもあります。どのようにすれば、住まいとして、資産として、地域に一定の影響力あるプレイヤーとして、マンションをよりよくすることが出来るのか、なかなか示唆に富む新書だった気がします。

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最後に、日本文藝家協会[編]『時代小説 ザ・ベスト 2019』(集英社文庫) です。昨年出版された時代小説のうちの短編11作を収録しています。収録作は、吉川永青「一生の食」、朝井まかて「春天」、安部龍太郎「津軽の信長」、米澤穂信「安寿と厨子王ファーストツアー」、佐藤巖太郎「扇の要」、中島要「夫婦千両」、矢野隆「黄泉路の村」、荒山徹「沃沮の谷」、伊東潤「大忠の男」、川越宗一「海神の子」、諸田玲子「太鼓橋雪景色」となっています。一部の例外はあるものの、かなり極端に、大御所の大ベテランと若手に二分された気がします。私の歴史小説観は、天下泰平の江戸期の武士階級を主人公に、封建制下での主君が資本制下での会社のように倒産することないことから、思う存分にお家騒動に没頭する、というものですが、もちろん、そうでない作品もいっぱい収録されています。特に米澤穂信作品は時代小説としてはとても異色です。私の好みとしては、ここ23年で新しく出現した若手作家の周防柳の作品を収録して欲しかった気がします。私は、『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、『高天原 厩戸皇子の神話』の長編3作しか読んでいませんが、江戸期よりももっと古く、我が国の古典古代といえる飛鳥・奈良期から平安期を舞台にした時代小説に大いに注目しています。
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2019年11月09日 (土) 09:10:00

今週の読書は話題の現代貨幣理論=MMTのテキストをはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、財政のサステイナビリティに関する話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の第一人者による入門テキストをはじめとして、以下の通りの計7冊です。NHKの朝ドラと「チコチャンに叱られる!」の再放送を見終えて、これから、来週の読書に向けた図書館回りに出かける予定ですが、来週も充実の数冊に上りそうな予感です。

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まず、L. ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』(東洋経済) です。著者は、米国バード大学のマクロ経済学研究者です。米国ワシントン大学ミンスキー教授の指導の下で博士号を取得しているそうです。英語の原題は Modern Money Theory であり、2015年の出版、第2版です。話題のMMT=現代貨幣理論の第1人者による入門教科書です。私は今回は図書館で借りましたが、来年になれば研究費で買えるのではないかと期待していますので、ザッと目を通しただけ、というところです。MMTに関しては大きな誤解があり、主流派のエコノミストは、おそらく、ちゃんと理解しないままに、MMTとは無制限に国債を発行して財政、もしくは、財政赤字を膨らませる理論である、と受け止めているんではないかと思います。でも、本書を読めば、MMTもそれなりに美しく主流派経済学と同じようなモデルに立脚したマクロ経済学理論であると理解できることと私は考えます。まず、冒頭で、貨幣=moneyとは一般的、代表的な計算単位であり、通貨=currencyとは中央銀行を含む統合政府が発行するコインや紙幣、とそれぞれ定義し、通貨が貨幣になる裏付け、通貨が生み出されるプロセス、財政政策の方向、の3点を理解することが重要と私は考えます。まず、第1に、通貨が貨幣という一般的な交換手段となる裏付けについては、市場で交換価値がある、すなわち、みんなが受け取るから、という主流派経済学の貨幣論を説明にならないと強く批判し、そうではなく、すなわち、交換で何か貨幣と同じ価値あるモノを受け取れるからではなく、政府が納税の際に受け取るからである、と指摘します。これはとても建設的な意見でクリアなのではないでしょうか。第2に、通貨創造についても、銀行が帳簿に書き込むからであって、それに対する預金の裏付けはない、と指摘します。キーストロークによる貨幣創造です。ですから、私なんぞも以前は誤解していたんですが、「国債発行が国内の民間貯蓄額を越えればアブナイ」という議論を否定します。政府が国債を発行して民間経済主体の銀行口座に預金が発生するわけです。当たり前なんですが、誰かの負債はほかの誰かの資産となります。そして、第3に、自国通貨を発行する権限のある中央銀行を含む政府は支出する能力はほぼ無限にある一方で、支出する能力が無限だからといって支出を無条件に増やすべきということにはならず、インフレや、同じことながら、通貨への市場の信認などに配慮しつつ、経済政策の目標を達成するための手段と考えるべきと指摘しています。逆から見て、プライマリーバランスや公債残高のGDP比などの財政健全性に関する指標を機械的に達成しようとするのは不適切である、ということになります。ということで、さすがに、定評あるテキストらしく、背後にあるモデルが明快であり、とても説得的な内容となっています。しかしながら、最後に、間接的な関連も含めて、3点疑問を呈しておくと、第1に、国債消化についてであり、負債は逆から見て資産とはいえ、国債が札割れを起こすこともあり、その昔の幸田真音の小説のような共謀は生じないとしても、負債が必ずしも資産に転ずるわけではない可能性をどう考えるか、そうなれば、主流派的な「みんなが受け取るから国債が資産になる」という考えが復活するのか、すなわち、我が国の財政法では国債の日銀引き受けは否定されているわけで、何らかの民間金融機関、プライマリーディーラーが国債を引き受けてくれる必要があるんですが、それが実現されないほどの大量の国債発行がなされる場合をどう考えるかに不安が残ります。第2に、私はリフレ派のように中央銀行が本書で政府の役割を果たすのも経済理論的には同じだと考えていて、例えば、「日銀はトマトケチャップを買ってでも通貨供給を増やすべき」と発言したとされるバーナンキ教授も同じではないかと思っていて、そうすればリフレ派とMMT派の違いはかなり小さく、MMT派が市場を無視する形で主権国家が財政を用いて強権的に購買力を行使するのと、中央銀行が市場の合理性を前提に通貨の購買力を行使して貨幣を供給するのと、は大きな違いではなく、実質的には差はなくなるような気がしないでもありません。最後の第3点目で、本書とは直接の関係ないながら、特に現在の日本で財政赤字がここまでサステイナブルなのは、動学的効率性が失われているからではないか、と私は考えています。動学的効率性の議論はかなり難しくて、長崎大学に出向した際に紀要論文で取りまとめた「財政の持続可能性に関する考察」においてすら回避したくらいで、このブログで論ずるにはあまりにもムリがありますが、MMT的な財政のサステイナビリティと動学的効率性が失われている時の財政のサステイナビリティが、どこまで違って、どこまで同じ概念なのか、理論的にはかなり気にかかります。ということで、ついつい長くなり、私には私なりの疑問はあるものの、実践的には、このテキストがどこまで中央銀行を含む政府の中で信任を得られるか、ということなのかもしれません。ケインズ政策が米国のニューディール政策に取り入れられるのに大きなタイムラグはありませんでしたが、政府を定年退職した我が身としてはとても気がかりです。なお、最後になりましたが、ひとびとの経済政策研究会のサイトに、とても参考になる解説メモが関西学院大学の朴教授によりアップされています。以下の通りです。ご参考まで。ただ、このメモを取りまとめた時点では、朴教授はMMT論者ではないと明記しています。お忘れなく。


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次に、ヤニス・ヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』(ele-king books) です。著者は、ギリシアの債務問題が発覚した後の急伸左派連合(シリザ)のツィプラス政権下で財務大臣を務めたギリシア出身のエコノミストであり、反緊縮など、かなりの程度に私と考えを同じくしています。立命館大学の松尾教授が巻末に解説を記しています。なお、バルファキスなのか、ヴァルファキスなのか、は、私はギリシア語を理解しませんが、このブログでも今年2019年月日に『黒い匣』の、また、同じく月日に『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の、それぞれの読書感想文を取り上げています。ということで、本書は基本的には、『黒い匣』と同じテーマ、すなわち、ギリシアの財政破綻とその後処理に焦点を当てています。『黒い匣』では、もちろん、対外的な交渉はあるものの、基本的に、当時のギリシア国内や政権内部にスポットを当てていたのに対し、本書では歴史的にかなり前にさかのぼるとともに地理的にも欧州延滞を視野に入れ、ユーロ圏の通貨同盟が成立する歴史をひも解いています。その上で、『黒い匣』と同じように、ギリシア国民の医療費や年金よりも、公務員給与よりも、欧州各国の銀行への債務返済に対してもっとも高い優先順位を付与するブラッセルのEU官僚やドイツ政府高官などを批判しています。特に、歴史的に通貨連合の設計段階までさかのぼっています、というか、第2次大戦末期のブレトン・ウッズ体制までさかのぼっていますので、何が問題であって、結局のところ、「強い者はやりたい放題、弱い者は耐えるのみ」という結果を招いたのかを解明しようと試みています。一言でいえば、ユーロによる通貨統合は民主的な制御を持たない金本位制の復活であったと私は考えています。トリフィンのトリレンマから、国際金融上では固定為替相場と自由な資本移動と独立した金融政策の3つは同時には成立できません。金本位制下では独立の金融政策を放棄して、また、戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場制では独立の金融政策もしくは自由な資本移動を犠牲にして、それぞれ国際金融市場を機能させてきたわけですが、欧州を除く日米では現在は固定為替相場を放棄しています。しかし、欧州のユーロ圏では独立した金融政策を放棄して固定為替相場、というか、通貨連合を運営しているわけで、そのリンクのもっとも弱い環であるギリシアが切れた、と著者も私も考えています。ギリシアに続くのはPIGSと総称されたアイルランドやスペイン・イタリアなどですが、なぜか、ギリシアに過重な負担を生ぜしめたのはEU官僚とドイツ政府高官が、いわば、後続の破綻可能性ある国への見せしめとする意図を持っていたというのは、私は否定しようもないと受け止めています。本書で著者は、欧州統合や通貨連合に反対しているのではなく、そういった経済政策が国民それぞれの民主主義に従って運営されることを主張しているわけです。その点は間違えないようにしないといけません。ケインズの「平和の経済的帰結」が何度か言及されていますが、ギリシアのツィプラス政権がトロイカの軍門に下った後、ギリシアのナチ政党である「黄金の夜明け」が議席を伸ばしたとまで書いています。正しく国民生活に資する経済政策が実行されない限り、民主主義が何らかの危険にさらされる可能性があることは、国民ひとりひとりが十分に自覚すべきです。

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次に、野村総合研究所・松下東子・林裕之・日戸浩之『日本の消費者は何を考えているのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルであり、3年おきに野村総研が実施している「生活者1万人アンケート」からわかる日本人の価値観、人間関係、就労スタイルなどを基に、世代別の消費行動などをひも解こうと試みています。今回の基礎となる調査は2018年に全国15歳以上80歳未満を対象に実施されており、2018年11月8日付けでニュースリリースが明らかにされています。本書では、世代的には、かの有名な独特のパターンを形成している団塊世代(1946~50年生まれ)から始まって、私なんぞが含まれるポスト団塊世代(1951~59年生まれ)、大学を卒業したころにバブルを経験するバブル世代(1960~70年生まれ)、団塊世代の子供達から成る団塊ジュニア世代(1971~75年生まれ)、さらにその後に生まれたポスト団塊ジュニア世代(1976~82年生まれ)、バブルを知らないさとり世代(1983~94年生まれ)、我が家の子供達が属するデジタルネイティブ世代(1995~2003年生まれ)に分割しています。第1章では、スマートフォンの普及などにより家族が「個」化していき、家族団欒が消失して消費が文字通りの「個人消費」となって行きつつある我が国の消費や文化を見据えて、第2章では世代別に価値観などを分析し、団塊世代や私のようなポスト団塊世代では日本に伝統的・支配的だった価値観が変容しつつあり、また、我が家の子供たちのデジタルネイティブ世代では競争よりも協調を重視し、全国展開しているブランドへの信頼感高い、などとの結論が示されており、さすがに、私の実感とも一致していたりします。また、最後の第3章では「二極化」と総称していますが、要するに、一見して相反する消費の現状を4つの局面から把握しようと試みています。すなわち、利便性消費 vs. プレミアム消費、デジタル情報志向 vs. 従来型マス情報志向、ネット通販 vs. リアル店舗、つながり志向 vs. ひとり志向、となっています。それぞれに興味深いところなんですが、3番目と4番めについては、時系列的に、ネット通販⇒リアル店舗、また、つながり志向⇒ひとり志向、という流れで私は理解しており、特に、ネット通販で大手筆頭を占めるアマゾンがリアルの店舗を、しかも、レジなどのない先進的なリアル店舗を始めたというニュースは多くの人が接しているんではないでしょうか。また、つながり志向にくたびれ果てて、結局ひとりに回帰するというのも判る気がします。ボリューム的にも200ページ余りで図表もあって、2~3時間で読み切れるもので、内容的にも「ある、ある」的なものであるのは確かなんですが、世間一般で言い古されたことばかりが目立ち、特に、何か新しい発見があるのかとなれば、とても疑問です。学問的には世間一般の実感をデータで裏付けるのは、それなりに意味あるんですが、本書については、消費の最前線でマーケティングなどに携わっているビジネスパーソンには、誠に残念ながら、目新しさはほとんどなさそうな気もします。

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次に、三浦しをん『のっけから失礼します』(集英社) です。著者は押しも押されもせぬ中堅の直木賞作家の三浦しをんであり、雑誌「BAILA」での連載に、それぞれの章末と最後の巻末の書き下ろし5本を加えた「構想5年!」(著者談)の超大作(?)エッセイ集に仕上がっています。ということで、相変わらず、著者ご本人も「アホエッセイ」と呼ぶおバカな内容で抱腹絶倒の1冊なんですが、自分自身の興味に引き付けて野球のトピックを、また、著者の追っかけの趣向に呼応して芸能ネタを取り上げたいと思います。まず、多数に上るエッセイの中で野球をテーマにしているのはそう多くありませんが、笑ったのは、著者の体脂肪率が首位打者並み、というので、軽く3割をクリアしているんだろうと想像できます。私自身は2割もないので、守備のいい内野手、ショートやセカンドあたりか、キャッチャーでもなければレギュラーが取れそうもありません。それにしても、阪神の鳥谷選手がどうなるのか、とても気になります。アラフォーの女性編集者が、楽天ファンでありながら、横浜に入団するプロ野球選手になる自分を完璧にシミュレーションしているというのは、驚きを越えていました。私は長らく阪神ファンですが、こういった自分のパーソナル・ヒストリーを改ざんすることはしたことがありません。もうひとつは、追っかけ関係で、BUCK-TICKのコンサートに強い情熱をもっていたのは、以前のエッセイなどから明らかだったんですが、私が読み逃していたのが原因ながら、宝塚への傾倒も並大抵のものではないと知りました。知り合いから『本屋さんで待ちあわせ』でも宝塚や明日海りおの話題があったハズ、と聞き及びました。すっかり忘れていました。それはともかく、明日海りお主演の「ポーの一族」観劇を取り上げたエッセイはもっとも印象的だったうちの1本といえます。ほかにも、EXILEファミリーへの熱い思いなどもありましたが、ソチラは私にも理解できる気がするんですが、三浦しをんだけでなく、一部の女性の宝塚への情熱は私には到底計り知れない域に達している気がします。まあ、逆に、それほどではないとしても、一部男性がひいきにするプロ野球チームへの思い入れが女性に理解できない場合があるのと同じかもしれません。同じ年ごろの女性ライター、というか、早稲田大学出身の三浦しをんに対して、立教大学出身の酒井順子のエッセイは、よく下調べが行き届いたリポートみたいなんですが、まったく違うテイストながら、私はどちらのエッセイも大好きです。

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次に、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋) です。今年2019年本屋大賞受賞作です。先週取り上げた『ベルリンは晴れているか』が3位で、2位以下が200点台の得点に終わった中で、この作品だけは400点を越えてダントツでした。それだけに、図書館の予約の順番もなかなか回って来ませんでした。主人公は女子高校生で、この作品の中で幼稚園前からの人生を振り返りつつ、短大を卒業して20代半ばで結婚するまでのパーソナル・ヒストリーが語られます。その人生は、穏やかなものながら起伏に富んでおり、水戸優子として生まれ、その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮優子を名乗っています。でも、「父親が3人、母親が2人いる。 家族の形態は、17年間で7回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」とうそぶき、家族関係をそれとなく心配する高校の担任教師に対して、ご本人はひょうひょうと軽やかに、愛ある継親とともに、そして、友人に囲まれながら人生を過ごします。まあ、現実にはありそうもないストーリですので、小説になるんだろうと私は考えています。ということで、本書の隠し味になっているピアノについて、この感想文で語りたいと思います。主人公の母親が死んだあと、実の父親が再婚しながら海外勤務のために離婚し継母との日本での生活を選択した主人公なんですが、この2人目の母親がキーポイントとなり、何と、主人公にピアノを習わせるためにお金持ちの不動産会社社長と再婚し、さらに離婚の後、東大での一流会社勤務のエリートが親として最適と判断して再婚して主人公の人生を託します。主人公も期待に応えてピアノを習い、そのピアノが縁となって結婚相手と結ばれ、その結婚式でこの作品を締めくくります。まあ、ここまで出来た継母に恵まれることは極めて稀なわけで、その継母がピアノに愛着を持って調律すら自分でするようなお金持ちと再婚し、最後に、継子を託すに足るエリートと再婚するなんて、あり得ないんですが、この最後の継父が主人公の結婚相手をなかなか認めてくれないというのも、とてもひねったラストだという気がします。もちろん、とてもひねりにひねったストーリー、というか、プロットをを構成し、それをサラリと記述する表現力は認めるものの、ここまで不自然なプロットが進行していく必然性が大きく欠けている気がします。時系列的にそうなった、という流れのバックグラウンドにあるきっかけでもいいですし、何かの必然性、特に、継母の考えや心理状態なんかはもっと深く掘り下げられていいんではないかと思います。私の独特の考えなのかもしれないものの、我々通常の一般ピープルの普通の生活に比べたノーマルよりも、良からぬ方向やアブノーマルなものについては、殺人事件が起こるミステリが典型ですが、それほど詳細な叙述を必要としない一方で、ノーマルよりもさらにきれいで美しく、とても良い方向が示される場合は、なぜ7日を詳細に裏付ける必要があります。残念ながら、作者にはそのプロット構成力ないのか、それとも、私に読解力ないのか、その流れを読み取れませんでした。ですから、私は感情移入することが難しく、「アっ、そう。そうなんだね。」としか感じられず、別のストーリーもあり得るという意味で、実に、小説の舞台を離れた客席から観客としてしか小説を読めませんでした。ハラハラ、ドキドキ感がまったくないわけです。でも、そういった読み方がいいという向きも少なくないんだろうという気もします。小説の好きずきかもしれません。

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次に、日本文藝家協会[編]『ベスト・エッセイ 2019』(光村図書出版) です。収録作品は、50音順に、彬子女王「俵のネズミ」、朝井まかて「何を喜び,何を悲しんでいるのか」、浅田次郎「わが勲の無きがごと」、東浩紀「ソクラテスとポピュリズム」、足立倫行「大海原のオアシス」、荒井裕樹「『わかりやすさ』への苛立ち」、五木寛之「『先生』から『センセー』まで」、伊藤亜紗「トカゲとキツツキ」、井上章一「国境をこえなかった招福の狸」、宇多喜代子「金子兜太さんを悼む」、内田樹「歳月について」、内田洋子「本に連れられて」、王谷晶「ここがどん底」、岡本啓「モーニング」、長田暁二「ホームソング優しく新しく」、小山内恵美子「湯たんぽ,ふたつ」、落合恵子「伸びたTシャツ」、小野正嗣「書店という文芸共和国」、角田光代「律儀な桜」、華雪「民―字と眼差し」、桂歌蔵「師匠,最期の一言『ハゲだっつうの,あいつ』」、角野栄子「アンデルセンさん」、金澤誠「高畑勲監督を悼む」、岸政彦「猫は人生」、岸本佐知子「お婆さんのパン」、北大路公子「裏の街」、くぼたのぞみ「電車のなかの七面相」、黒井千次「七時までに」、「共働きだった両親の料理」鴻上尚史、小暮夕紀子「K子さんには言えない夏の庭」、齋藤孝「孤独を楽しみ孤立を避ける50歳からの社交術」、酒井順子「郵便」、さだまさし「飛梅・詩島・伊能忠敬」、佐藤究「ニューヨークのボートの下」、佐藤賢一「上野の守り神」、沢木耕太郎「ゴールはどこ?」、ジェーン・スー「呪文の使いどき」、砂連尾理「ノムラの鍵ハモ」、朱川湊人「サバイバル正月」、周防柳「山椒魚の味」、杉江松恋「『好き』が世界との勝負だった頃」、瀬戸内寂聴「創造と老年」、高木正勝「音楽が生まれる」、高橋源一郎「寝る前に読む本,目覚めるために読む本」、高山羽根子「ウインター・ハズ・カム」、滝沢秀一「憧れのSという街」、千早茜「夏の夜の講談」、ドリアン助川「私たちの心包んだ人の世の華」、鳥居「過去は変えられる」、鳥飼玖美子「職業と肩書き」、永田紅「『ごちゃごちゃ』にこそ」、橋本幸士「無限の可能性」、林真理子「西郷どんの親戚」、原摩利彦「フィールドレコーディング」、広瀬浩二郎「手は口ほどに物を言う」、深緑野分「猫の鳴き声」、藤井光「翻訳の楽しみ 満ちる教室」、藤沢周「五月雨」、藤代泉「継ぐということ」、星野概念「静かな分岐点」、細見和之「ジョン・レノンとプルードン」、穂村弘「禁断のラーメン」、マーサ・ナカムラ「校舎内の異界について」、万城目学「さよなら立て看」、町田康「捨てられた魂に花を」、三浦しをん「『夢中』ということ」、村田沙耶香「日本語の外の世界」、群ようこ「方向音痴ばば」、森下典子「無駄なく,シンプルに。『日日是好日』の心」、山極寿一「AI社会 新たな世界観を」、行定勲「人間の奥深さ 演じた凄み」、吉田篤弘「身の程」、吉田憲司「仮面の来訪者」、若竹千佐子「玄冬小説の書き手を目指す」、若松英輔「本当の幸せ」、綿矢りさ「まっさーじ放浪記」となっています。収録順はこれと異なりますので、念のため。ということで、もちろん、作家やエッセイスト、あるいは、研究者などの書くことを主たるビジネス、あるいは、ビジネスのひとつにしている人が多いんですが、皇族方から、俳優さんなどの芸能人を含めて幅広い執筆陣となっています。昨年を中心に、いろんな世相や世の中の動きを把握することが出来そうです。掲載媒体を見ていて感じたんですが、京都出身だからかもしれないものの、全国紙の朝日新聞や日経新聞と張り合って、京都新聞掲載のエッセイの収録がとても多い気がします。毎日新聞や読売新聞よりも京都新聞の方がよっぽど収録数が多い気がします。何か、理由があるのでしょうか?

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最後に、日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』(徳間文庫) です。文庫本で大きな活字ながら、700ページに達するボリュームです。私にして読了するには丸1日近くかかります。ということで、収録作品は作者の50音順に配されており、青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」、朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」、朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」、朝倉宏景「代打、あたし。」、小川哲「魔術師」、呉勝浩「素敵な圧迫」、小池真理子「喪中の客」、小島環「ヨイコのリズム」、佐藤究「スマイルヘッズ」、嶋津輝「一等賞」、清水杜氏彦「エリアD」、高橋文樹「pとqには気をつけて」、長岡弘樹「傷跡の行方」、帚木蓬生「胎を堕ろす」、平山夢明「円周率と狂帽子」、藤田宜永「銀輪の秋」、皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」、米澤穂信「守株」となっています。作者に関しては、大ベテランといえば聞こえはいいものの、要するにお年寄りから若手まで、バラエティに富んでいれば、作品もミステリや大衆的な落ちのある作品から、純文学、ファンタジー、ホラーにSF、さらにドキュメンタリータッチと幅広く収録しています。平成最後の昨年の傑作そろいを収録したアンソロジーに仕上がっています。
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2019年11月03日 (日) 14:30:00

先週の読書は経済書から文庫本の小説まで大量に読んで計8冊!!!

先週は、昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書日が1日多かったことに加えて、割とボリューム的に軽めの本が多く、結局、8冊の読書になりました。先々週や先週からの反動増という側面もあります。逆に、今週の読書は3連休でありながら、かなり水準の高い経済学の教科書『MMT現代貨幣理論』を借りたこともあって、冊数的には少しペースダウンするかもしれません。

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まず、嶋中雄二ほか[編著]『2050年の経済覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は、三和総研からUFJ総研、さらに、現在は三菱UFJモルガンスタンレー証券の景気循環研究所の所長であり、私の所属学会のひとつである景気循環学会の副会長でもあります。本書においても、景気循環研究所のメンバーが分担執筆しているようです。ということで、副題の「コンドラチェフ・サイクルで読み解く大国の興亡」に見られるように、バンドパス・フィルターを駆使してunivariate に設備投資のGDP比などから長期波動であるコンドラチェフ・サイクルを抽出し、2050年くらいまでの経済的な循環をひも解いています。最初の第1章と第2章でコンドラチェフ・サイクルの解説などがあり、その後、実際に、第3章では軍事と科学技術から、第4章では人口動態から、第5章では国際収支から、第6章では相対価格から、第7書の大トリでは各種指標のGDPから、それぞれ、おおむね、産業革命以後2050年くらいまでの長期波動の抽出が試みられています。もちろん、過去の同様の研究成果であるロストウの結論を再検討しているように、本書の結論も新たなデータが付加されるに従って、それなりの修正が施される可能性は大いにありますが、超長期の経済サイクル、というか、経済だけでなく、その昔の総合国力的なサイクルの抽出が示されているのは、極めて興味深いと私は受け止めています。私が知る限りで、2050年までを見通した経済予測は、本書でも取り上げられている通り、アジア開発銀行(ADB)の Asia 2050: Realizing the Asian Century と経済協力開発機構(OECD)の Looking to 2060: Long-term global growth prospects があり、特に後者はこのブログの2012年11月13日付けで取り上げていたりします。もちろん、ほかにも投資銀行などの金融機関やシンクタンク、あるいは、個人の研究者などが長期見通しを明らかにしています。そういった中で、本書の特徴は、生産関数などに特段の前提を置かずに、バンドパス・フィルターを用いて univariate にそれぞれの指標を引き延ばしている点であり、逆に、それが弱点と見なす向きもあるかもしれませんが、超長期見通しに取り組むんですから、これくらいのモデルの特定化は私は受け入れるべきだと考えています。ですから、抽出されたサイクルに、表現は悪いかもしれませんが、後付けで理由が添えられていたりします。2050年の世界経済、あるいは、経済覇権なんて、蓋然性に対する評価は私のは出来ようはずもなく、今年3月に60歳の定年退職を迎え、すでに61歳の誕生日も過ぎている身としては、2050年には90歳を超えるわけですから、我と我が身で2050年の世界経済を見届けることはムリそうな気もします。それでも、こういった大胆な超長期見通しの有用性や有益性は、決して、小さいわけではないと考えています。

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次に、大海渡桂子『日本の東南アジア援助政策』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、世銀やその昔の海外経済協力基金(OECF、今は経済協力機構=JICAに統合)などで開発金融の実務の経験ある方のようで、すでにリタイアしているのではないかと思います。私はジャカルタにてJICA長期専門家として経済モデル分析の技術協力に携わって来ましたし、それなりの実務経験もありますので、専門分野にも近く興味を持って読みました。ただ、出版社から想像されるような専門書や、ましてや学術書ではありません。残念ながら、その域には達していないといわざるを得ません。ただ、日本の経済協力の歴史を概観するものとして、大学生くらいを対象にする読み物としてはいいんではないか、という気もします。ということで、日本の海外経済協力=ODAの4つの特徴、すなわち、アジア、インフラ、タイド、円借款が、歴史的にいかにして形成されて来たかについてひも解いています。米軍占領下で外交主権を持たず、また、その後のサンフランスシコ平和条約締結後も東西対立の冷戦という世界情勢の下、対米従属下で援助をはじめとする外交政策の策定や遂行を行ってきた我が国としては、ほかに選択の余地もなかった、ということなのかもしれません。特に、「国際収支の天井」と称されたブレトン・ウッズ体制下の外貨制約の下で、希少なドルを外国に支払うことを回避して資本財や役務での賠償支払いに持って行った外交努力は特筆すべきものがあります。その流れでタイドの円借款になったのは経路依存的なODAでは、ある意味で、必然だったかもしれません。地域的な特色として、米国やカナダの北米が中南米に、欧州がアフリカに、そして、我が国がアジアに援助の対象を広げるというのも、とても自然であることはいうまでもありません。大陸にける中華人民共和国という共産主義国家の建国と朝鮮戦争における参戦を経て、中国という資源供給元かつ製品輸出先を失い、東南アジアにその代替的な役割を求めたのも自然な流れといえます。ただ、日本の援助政策はあまりにも経済に偏っており、米国的な人権外交のような民主主義的改革の徹底という面を欠き、東南アジア各国が開発独裁に陥った責任は本書では分析することを回避しており、少しその面で物足りない気がします。また、著者の上げる日本の援助政策の4つの特徴は、我が国経済政策の基となる家族観である長期雇用下での年功賃金を受け取る男親方働き+専業主婦+子供2人、という、いわゆる「モデル家計」のように、今では、決して、アジア、インフラ、タイド、円借款の4点セットを反映する代表的な援助は多くはない一方で、日本の援助政策を考える上では基本となると私は考えており、少数派になったからといって軽視すべきではないと考えます。

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次に、室脇慶彦『IT負債』(日経BP社) です。著者は、野村総研のコンサルタントであり、本書でも明らかにしているように、従来は基幹系システムについてモノリスなウォーターフォール型のシステム開発を推奨していたようなんですが、本書では、2025年のレガシー・システム問題に米国流のマイクロサービスによる基幹系システム再構築で対応すべき、との議論を展開しています。これですべてを理解した人は、おそらく、本書を読む必要すらないような気がしますが、一応、本書の概要と私の感想を記しておきたいと思います。ということで、IT分野では何によらず我が国産業界の遅れが目立つんですが、本書は、DX=デジタルトランスフォーメーション、すなわち、企業がIT技術を駆使して、企業活動のスコープや業績を画期的に改善ないし変化させる、というDXについての概要解説書であり、特に日本企業の遅れを鋭く指摘しています。私には技術的な解説や方向性については、おそらく半分も理解できなかった気がしますが、その昔のように、給与計算とか一定のデータベース管理にとどまるのではなく、企業経営に通信とデータ解析を大いに盛り込むことは必要であることはいうまでもありません。直感的な感覚で勝負していたスポーツ分野、例えば、野球でもサイバー・メトリクスが活用されたマネー・ボールになりつつありますし、米国で盛んなバスケットボールやアメリカン・フットボールなどはデータも豊富に提供されています。ただ、我が国企業経営の場合、とかくハードウェアに目が行きがちで、その昔は立派なメインフレーム・コンピュータを購入して据え付ければOK,というカンジで、いまでも、従業員の席上にPCを1人1台並べればOK、という気もします。従業員は、例えば、ネット・ショッピングに興じていたりしても外観上は判りはしません。ですから、むしろ、データやソフトウェアの活用が重要となるんですが、外観上の明確な変化がない上に、日本的に年齢のいった経営者に理解されにくいのも事実です。本書では、ウォーターフォール型でモノリス的な一枚岩の技術利用から、クラウド型のマイクロサービスへの切り替えを提唱していますが、国家の発展段階と同じで、企業の発展段階においてもリープ・フロッグ型の成長が成り立つような気がします。すなわち、本書のタイトルである「IT負債」はそれなりの歴史ある企業に蓄積されていて、スタートアップ企業には夫妻がない分、いきなりマイクロサービスを導入することが出来そうな気もします。ですから、システム利用技術の面だけでなく、企業文化の若返りの面からも技術利用が進む必要あるんではないか、と詳しくない私なんぞは思ってしまいます。ハッキリいって、本書を読んで目覚めた技術者は、本書を読まなくても理解が進んでいるんでしょうから、アタマの堅い上司の説得に本書は利用されるんではないか、という気もします。

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次に、パブロ・セルヴィーニュ & ラファエル・スティーヴンス『崩壊学』(草思社) です。著者2人はフランス人ということで、崩壊学や移行過程に関する専門家、また、環境分野に詳しい印象ですが、私にはよく判りません。フランス語の原題は Comment tout peut s'effondrer であり、2015年の出版です。ということで、基本はエネルギー問題におけるローマ・クラブ的なメドウズらによる『成長の限界』のラインに乗りつつ、それをさらに進めて、現在の経済はもはやサステイナブルな軌道を外れており、後は崩壊が待ち受けるのみ、という極めて悲観的な結論を提示しています。本書は3部構成となっており、第1部では崩壊のきざしを論じており、ロック・イン現象が働いて軌道修正が困難となった現状を詳細に展開しています。異常気象はいうまでもなく、ピークオイルからエネルギーの枯渇というローマ・クラブの伝統に根ざす議論、まだまだ現役のマルサス的な人口問題、生物多様性の喪失、さらに、経済分野では金融危機の多発まで、これでもかというくらいの崩壊への兆しが列挙され、私のような楽観バイアスの塊の人間ですら不安を覚えます。ただ、第2部に入って、その崩壊がいつぬかるのか、というトピックに移ると、未来学の難しさなるテーマが冒頭に来て、議論が極めてあいまいになり、一気に崩壊に向かう歴史的確実性に対する信頼性が落ちてしまいます。第3部では本書の基礎をなしている「崩壊学」が取り上げられています。私が読んだ限りですし、私が読み切れなかった部分もあるかもしれないんですが、本書の結論は、繰り返しになりますが、もはやサステイナブルな軌道に戻るすべはなく、ハッキリとは書かれていないものの、「何をしてもムダ」であり、人類文明の崩壊を避けることはできない、ということのような気がします。ただ、それはいつのことなのかは判らない、ということです。ですから、この核戦争バージョンが『渚にて』なわけで、いろいろな人生模様が盛り込まれていましたが、まあ、人生最後の日が近づく中で、もう助からないとすれば自分の好きなことをしたり、最悪、自暴自棄になる人もいれば、逆に、今までと同じ人生の日々を送ろうとする人もいるわけで、やっかいなのは、これも繰り返しになりますが、その人生最後の日がいつになるかが判らない点です。地球最後の日が数年以内であればともかく、数百年後で人類の寿命というタイムスパンで考えれば、まだまだ先、ということであれば、大きな差があります。私はそれなりにまじめに読んだつもりですが、地球は崩壊する、必ず崩壊するが、それがいつになるかは判らない、といわれれば、それは地球は崩壊しない、といわれているのと同じと受け止める人は少なくないような気がします。

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次に、ヤシャ・モンク『民主主義を救え!』(岩波書店) です。著者は、ポーランド人の両親を持ちドイツで生まれ育ち,英国で学位を取得し、現在は米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者です。現在の先進国の政治経済状況について、リベラルと非リベラル、そして、民主主義と非民主主義のそれぞれの二分法の観点から分析し、米国と欧州各国におけるポピュリズムの台頭などのポスト・トゥルースの現状について議論を展開しています。著者は、基本的に、私と同じでリベラルかつ民主主義的な方向を支持しているわけですが、欧州各国やトランプ大統領当選後の米国ではそうなっていないわけで、政治状況とともに経済についても分析を加えようと試みています。ただし、後者の経済分析についてはかなりお粗末といわざるを得ません。3部構成を取っており、第1部ではリベラル・デモクラシーの危機を論じ、第2部でその危機の起源を探り、最後の第3部で対処方針を考察します。第1部の危機に関する現状認識は私もかなりの程度に共有します。ただ、第2部のその起源に関しては、確かに、インターネット上にて無料で提供されるソーシャルメディアなども重要で、いわゆるエコーチェンバーやフィルターバブルを否定するものではありませんが、もっと大きなコンテクストで世界的な冷戦終了に伴い、資本のサイドで何はばかることなく露骨な利益追求がまかり通るようになった点は忘れるべきではありません。ソ連や東欧については、マルクス主義本来の社会主義ではなく、私も少し馬鹿げた社会実験だと思わないでもなかったんですが、今にして考えれば、それなりに資本のサイドへのプレッシャーになっていた可能性は否定すべくもありません。従って、なりふり構わない資本から労働サイドへの露骨な利潤追求のために賃金は上がらず、失業はヤル気や能力の欠如による「自己責任」とされ、生活水準は上がらず経済が停滞する結果をもたらしました。その経済の停滞を移民などの対外要因に責任転嫁し、ナショナリスティックな排外主義に転じたプロパガンダに絡め取られたわけです。本書ではまったむ取り上げられていませんが、自由貿易協定に反対して雇用を守ろうとする労働組合が米国大統領選でトランプ支持に回ったのが典型だと私は考えています。従って、解決策を探る第3部で冒頭に課税が上げられているのは、私も極めて同感なんですが、現実性を問われることになりかねません。そして、著者の説では、生産性を高めて、カギカッコ付きの「現代的」な福祉国家の方向を模索するのは、ほぼほぼ資本のサイドの攻勢に流され切った対処方針といわざるを得ません。せめて、右派と左派で合意可能なユニバーサルなベーシックインカムくらいの知恵がひねり出せないものかと、少し情けなく思えるくらいです。緊縮財政に戻ることなく国民サイドの見方に立った財政政策の実現など、現状でも取りえる政策の選択肢にはまだまだ広がりあるにもかかわらず、やや視野狭窄に陥っているのではないか、とすら思えてしまいます。

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次に、深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房) です。私はこの作者については前作の『戦場のコックたち』しか読んでいませんが、両作品とも直木賞候補に上げられており、それなりの水準の小説だということは十分理解しているつもりです。『戦場のコックたち』はドイツ占領下のフランスに侵攻した連合国部隊の特技兵、すなわち、タイトル通りのコックを主人公とし、本書でも第2次大戦直後のベルリンの米軍レストランで働くドイツ人少女を主人公に据えています。この少女の一家はナチではなかったため戦争中は恵まれない生活を送っていたんですが、戦後に価値観が一気に反転した上に英語ができる少女は勤め先があり、米軍からの物資も入手可能となっています。そして、恵まれなかった戦争中に恩になった音楽家が米国製の歯磨きチューブに入った青酸カリで毒殺されるという不可解な殺人事件が発生し、ソ連情報部の将校から命じられ、被害者の甥を探して思わぬ仲間とともにベルリン均衡を旅します。時はまさにポツダムで連合国のビッグスリーが会談を持ち、日本に対する降伏勧告のポツダム宣言を議論しようとしており、地理的にはまさにそのあたりです。米英仏ソの4か国が共同統治しながらも、すでに冷戦が始まっているベルリンにおいて、ゲットーから帰還したユダヤ人も入り混じって、もちろん、圧倒的な連合国の権力と物資不足と闘いながら、少女は最後に殺人事件の被害者である音楽家の甥にたどり着きます。もっとも、距離的にもベルリン均衡出隅、かつ、時間的にもわずかに2~3日のストーリーですが、本編とは別建ての「幕間」によって、主人公の幼いころにさかのぼった事実関係が解き明かされ、最後に、驚愕の殺人事件の真相が明らかにされます。繰り返しになりますが、私はこの作者の作品は『戦場のコックたち』と本書しか読んでいませんが、人物造形、というか、キャラの設定が非常に素晴らしく、また、終戦直後という異常な社会的背景、例えば、善と悪、真実と虚偽、の単純な二分法では計り知れないグレーな部分の描き方も、こういった実体験ない世代の私なんぞにも実に理解しやすくなっています。フィクションの小説であることはもちろんですが、戦時下で、とても非合理的な体験が、日本だけでなく、ドイツという敗戦国にもあったのだと実感できます。ミステリとしての謎解きは、前作の『戦場のコックたち』に及ばない気がしますが、作品としての広がりは本作の方が上かもしれません。まあ、連作短編と長編の違いも感じられます。本書は今年の本屋大賞で3位に入りましたが、1位の大賞に輝いた『そして、バトンは渡された』はすでに借りてありますので、これはこれで楽しみです。

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次に、門井慶喜『定価のない本』(東京創元社) です。著者は50歳を前に脂の乗り切ったエンタメ作家の境地に入った、と私は考えています。もっとも、私自身は不勉強にして。この作者の作品は、直木賞受賞作の『銀河鉄道の父』すら未読で、『家康、江戸を建てる』しか読んでいませんので、この作品が2作目だったりします。ということで、舞台は東京の古書街である神田神保町、時代は終戦からちょうど1年目の1946年8月15日の殺人事件から始まります。というか、主人公の弟分のような古書店主が古書の山に押し潰されて圧死し、さらに、その妻が首吊り自殺をしたように見せかけて殺されてしまいます。基本は、これらの殺人事件をGHQの指令下で主人公が解決に当たる、ということになります。死んだ2人の夫婦の謎解きについては、まあ、何といいましょうかで、本格ミステリとはほど遠いんですが、逆に、GHQとの関係、特に、「ダスト・クリーナー作戦」という「大きな物語」には、思わず、天を仰ぎました。できの悪いネトウヨの世迷い言のようなお粗末な大作戦です。確かに、ホームズのシリーズでも「ブルースパーティントン設計書」のような天下国家の大きな物語もありますし、ミステリに、というか、できの悪いミステリに天下国家を持ち込むこと自体については、決して悪いとはいいませんが、それにしても出来が悪いです。結末についても、極めてお粗末にGHQが完敗するというナショナリスティックな傾向を示しています。タイトルの「定価のない本」とは、定価が帯や表紙などに示された新刊本ならざる古本のことなんですが、その中でも、古典の典籍に歴史を見るというのもやや視野狭窄な気がします。古本ですから、徳富蘇峰や太宰治をチョイ役で登場させるのも悪くはないんですが、古書店主のキャラ設定が少しあいまいで、見分けがつきにくいというのがありますし、まあ、何につけ出来の悪い小説を選んでしまったと悔やんでいます。この作者の作品は数も多いだけに、もっとしっかりした下調べ、というか、世間の評価をちゃんと確認した上でチョイスしないといけない、すなわち、やや出来の良し悪しがハッキリするおそれがあると考えざるを得ません。本書の前に取り上げた『ベルリンは晴れているか』は、若いころに住んでいた経験があるのでそれなりに馴染みあるながら、今の住まいからはかなり遠い図書館まで自転車を飛ばして借りに行ったんですが、その甲斐はありました。でも、本書は駅前にあるすぐ近くの図書館で借りたものの、やや読み応えに欠けるものでした。とっても残念です。

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最後に、ロバート・ポビ『マンハッタンの狙撃手』(ハヤカワ文庫NV) です。著者は、それなりの年齢に見えますが、本書は初の邦訳小説であり、テイストとしてはジェフリー・ディーヴァーのようなミステリ、すなわち、本格的な謎解きというよりも、サスペンスフルでアクションたっぷりのいかにも米国的な暴力満点の事件を特殊技能持つ主人公が解決する、という小説です。英語の原題は City of Windows であり、今年2019年の出版です。ということで、米国ニューヨークはマンハッタンで、まあ、日本人しか判らないかもしれませんが、ゴルゴ13並みの凄腕の狙撃犯が大口径ライフルで連続殺人事件を起こし、主人公である元FBI捜査官のコロンビア大学教授ルーカスが事件解決に当たる、というストーリーで、この主人公のルーカスが信じられないような空間把握能力を持っており、例えば、走るトラムに乗車中の人物が狙撃された最初の事件で、狙撃地点を正確に特定したりします。ちょっと、東野圭吾の『ラプラスの魔女』を思わせる特殊能力だったりします。繰り返しになりますが、舞台はニューヨークのマンハッタンであり、クリスマス直前の12月中下旬に時間が発生します。私は同じ時期のワシントンDCを訪れた経験がありますが、12月の米国東海岸の寒さは東京の比ではありません。もちろん、雪が積もることもありますし、そうなると路面は凍結します。私は米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチアシスタントをしていたころ、ワシントン市内からジョージタウン北方のダンバートン・オークス公園や米国副大統領公邸のある米国海軍観測所の近くから通っていたんですが、北に向かって緩やかな上り坂になっているウィスコンシン・アベニューを、凍結した路面をまったく制御できなくなった大型のアメ車がスピンしながら滑り落ちていくのを何度か目撃しました。その極寒の気象条件でサイ撃ちのような大型ライフルを使い、1キロを超える距離でフットボールくらいの大きさの人間の頭部に正確にヒットさせるんですから、これはフィクションでしかあり得ません。しかも、そこにFBIの捜査活動で隻眼隻腕隻足となったコロンビア大学の宇宙物理学教授が、これまた、信じられないような空間把握能力をもって狙撃地点を特定し、事件解決に乗り出すんですから、荒唐無稽であり得ないフィクションそのものとはいえ、エンタメ小説らしく手に汗握るハラハラドキドキで楽しめる運びになっています。映画化されたりするのかもしれませんが、私は実はジェフリー・ディーヴァー原作の映画は見たことがなく、まあ、映画化されたリンカーン・ライムのシリーズは「ボーン・コレクター」くらいしか知らないので、おそらく、この作品を原作とする映画も見ないような気がします。
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2019年10月26日 (土) 11:20:00

今週の読書は共感できる移民に関する開発経済学の経済書から話題の芥川賞受賞作品まで計6冊!!!

今週の読書は専門分野に近い開発経済学の経済書をはじめとして、以下の通りの計6冊です。ちょうど1週間前の先週土曜日の段階では、4冊かせいぜい5冊くらいと予定していたんですが、今村夏子の芥川賞受賞直前作の『父と私の桜尾通り商店街』をムリに入れたりして、6冊に増えてしまいました。なお、来週の読書については、すでに図書館回りを終えており、借りてきたのはかなり多数に上るんですが、今月から来月にかけては、勉強会などでお近くの大学などに行く機会が多くて、読書家ではなくエコノミストとして週末を過ごすパターンが増えそうで、今までのように、借りられた本から手当たり次第に乱読するのではなく、少し計画的な読書を心がけようかと考えています。

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まず、ポール・コリアー『エクソダス』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学の開発経済学の研究者であり、本書は著者が展開するもっとも貧しい社会、すなわち、「最底辺の10億人」に関する研究の一環であり、英語の原題は EXODUS です。2013年の出版です。本書では移民をテーマに取り上げており、結論を先取りすると、リベラルなエコノミストの主流をなす見解を批判するものとなっており、「移住がよいか悪か」という問いは間違っており、緩やかな移民=移住は利益をもたらし、逆に、大量移民=移住は損失をもたらす可能性が高く、重要なのは「どのくらいが最適か」を問うことである、ということになります。過大な移民=移住が不利益となる大きな理由は、国民的アイデンティティの喪失、あるいは、社会が脱国家的になる、というものです。ただ、このこりあー教授の見方には強力な反論もあります。私が知る限りでは、世銀ブログ Worldbank Blog "Reckless Recommendations" がもっとも目につきます。この世銀ブログの批判では、コリアー教授の移民=移住の出し手国が国民すべてを先進国である移住=移民の受入れ国に移住させて、国が空になる可能性を指摘しているのは非現実的であり、コリアー教授が大きな価値を置いている国民的アイデンティティはナショナリスト的な暴力や戦争をもたらす可能性もある、と指摘しています。従来からこのブログでも指摘している通り、私は圧倒的にコリアー教授の見方を支持します。すなわち、移民=移住は無制限に認めるべきものではなく、経済学によくある見方ですが、逆U字型の効用関数をしており、何らかの最適点があると考えています。特に、我が国の場合は海を挟んで隣国に人口大国が控えており、我が国の人口であり1億人強に匹敵する人数を送り込むことすら可能な人口規模を持っているからです。ですから、1億人を我が国に向けて送り出したところで、コリアー教授が懸念する送り手国の国民的アイデンティティはほとんど何の影響も受けない一方で、我が国の人口が2億人になって日本人は半分しかいない、というのでは、控えめにいっても、我が国の国民的アイデンティティが大きく変容する可能性が大きいといわざるを得ません。繰り返しになりますが、コリアー教授の国民的アイデンティティの議論は、大雑把な感触として、例えば、カリブの小国から北米への移住=移民により、送り出し国が空になる可能性であるのに対して、私の懸念はまったく逆であり、日本が人口大国の隣国から余りに大量の移住=移民を受け入れると、受け入れ国である日本の国民的アイデンティティが、場合によっては、よろしくない方向に変化する可能性がある、というものです。もちろん、世銀ブログの反論を紹介したように、そもそも、国民的アイデンティティに価値を置く議論を疑問視する向きもあるかもしれませんが、そこは価値判断だろうという気がします。

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次に、田辺俊介[編著]『日本人は右傾化したのか』(勁草書房) です。編著者は、早稲田大学の社会学の研究者であり、チャプターごとに社会学関係の著者が執筆を分担して担当しています。なお、ビジネスパーソンにも判りやすく表現されてはいますが、基本的には学術書と考えて、それなりの覚悟を持って本書の読書に取り組むべきです。ということで、印象論としては、自公連立の安倍政権がこれだけ継続していて、その背景にはもちろん選挙で連戦連勝という事実があるわけですから、政治的に、というか、投票行動として日本人が右傾化しているのは、動かしようのない事実だと私自身は考えていますが、他方で、このブログでも何度か主張しているように、現在の政権の経済政策は極めてリベラルで左派的な景気拡張的政策を実行しているのも事実です。ですから、財政的にこの10月1日から消費税率の引き上げを実施し、かなり緊縮的な運営になったわけですが、それでも、米中貿易摩擦に起因する世界経済の減速がなければ、かなり日本経済は順調であった可能性が高いと私は判断しています。ですから、改憲を目指す側面を支持する投票行動なのか、あるいは、景気拡大的な経済政策を支持する投票行動なのか、私には判断が難しいと感じていたところです。ただ、メディアなどで報道される限り、露骨なヘイトスピーチに至らないまでも嫌韓や嫌中の雰囲気は盛り上がっていますし、その昔にはなかったような「日本スゴイ」系のテレビ番組をよく見かけるのも事実です。そういった問題意識もあって、本書では、ナショナリズムとその下位概念である純化主義、愛国主義、排外主義などの観点から、2009年、2013年、2017年に実施された社会調査のデータを用いて定量的な分析を試みています。私が特に興味を持ったのは、いわゆる世代論であり、本書では第10章の若者論に当たります。半年余り前までキャリアの国家公務員として霞が関や永田町近辺に勤務し、総理大臣官邸や国会議事堂の周辺における意見表明活動を目の前で見ている限り、あくまで私の実感からではありますが、団塊の世代とかの引退高齢世代が左派的で、より若い世代が右派的、という印象を持っていました。本書の結論ではそれは否定されている、というか、半分否定されており、ナショナリズムに関しては今でも年長者ほど右派的・保守的であり、平成生まれなどの若者世代は決して右派的とか保守的というのではなく、権威に従属的な権威主義である、と本書では分析されており、「右傾化なき保守化」とか、「イデオロギーなき保守化」などと表言しています。加えて、私自身は手厚すぎる高齢者への社会保障給付にも一因あると考えている世代間の格差について、ナショナリズムや権威によって隠蔽されている可能性を示唆しており、さすがに、学術書のレベルの高さを見た気がします。

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次に、石川九楊『石川九楊自伝図録』(左右社) です。著者は書家であり、私の母校京都大学の卒業生でもあります。私自身も、20世紀まではピアノや書道のたしなみあったんですが、前世紀末に男の子2人が相次いで誕生した後、痕跡に入ってからまったく手が伸びなくなりました。特に、著者はかなり前衛的な書家であり、私の書道の先生とはかなり違った考えであったような気がします。もっとも、私の書道の先生はすでに亡くなっているので確認しようはありませんが、基本的に読売展への出展でしたから伝統派であり、前衛派の毎日展とは距離があったような気がします。本書で著者は、文として書道に取り組んでいて、細かな点や撥ねなどに重きを置かない理由を展開していますが、私の書道の先生は逆で文字に重きを置いていて、私が今でも記憶いているところでは、「大」と「太」と「犬」は点があるかないか、あるいは、どこにあるか、に従って異なる文字であり、その文字として識別されないと意味がない、とのご意見でした。このご意見は数回聞いた記憶があり、別件ながら、ドイツに日本文化紹介で訪問した際の現地市長からの感謝状はドイツ語がほとんど理解できないながらも10回近く拝見した記憶があります。そういった私の書道の先生の目から見れば、「デザイン的」と自称されている本書の著者の作品はカギカッコ付きながら「水墨画」に近い印象ではなかったか、という気がしないでもありません。例えば、上の表紙画像には著者の氏名が見えますが、かろうじて漢字として読めはするものの、本書に収録された120点余りの作品は、誠に残念ながら、私には読みこなせません。ただ、私が感銘したのは、著者の文を書くという姿勢とともに、何を書くかによって自らの初の作品を分類しているのは目を開かせるものがありました。本書の目次を拝見して、古典への回帰、とか、時代を書く、とかあるのは、読む前はもっぱら書法のことだと勘違いし、現代的な前衛的書法と古典的な書法だと思っていましたが、よくよく考えれば、私のつたない記憶でも、著者が古典的な草書や楷書や隷書や行書などで書いた書の作品は見たことがなく、題材が古典だったり、時代を反映したものだったり、ということだと理解し直しました。書道とは筆蝕の芸術という著者の見方は理解できないわけではないものの、単なる言葉遊びに堕していないのは著者の書家としての実力のなせるところであり、文字や文字の集合体としての文として認識されない場合、その筆蝕とは何なんだろうか、という気もします。王義之を持ち出すまでもなく、1000年を経てまだ評価され続けるのが書という芸術ではないかと私は考えています。1000年先まで生を永らえさせることが出来ないのはとても残念です。

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次に、今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版) とその前作の『父と私の桜尾通り商店街』(角川書店) です。作者は新々の純文学作家であり、『むらさきスカートの女』は第161回芥川賞受賞作です。私は『文藝春秋』9月号にて選評などとともに読みました。鮮烈なデビューを飾ってから、長らく芥川賞受賞が望まれていた、というか、私が望んでいただけに、さすがの水準の作品に仕上がっています。私はこの作者のデビュー作で三島由紀夫賞受賞の『こちらあみ子』、芥川賞候補となった「あひる」を収録した短篇集『あひる』は第5回河合隼雄物語賞受賞し、第3作の『星の子』でも芥川賞候補となり、第4作『父と私の桜尾通り商店街』も、今週バタバタと読みましたが、この第5作にして芥川賞受賞です。この作者の大きな魅力は、私はある意味での異常性だと考えています。「あひる」は子供達を引きつけるためにアヒルを取っかけ引っかけ飼い続ける物語ですし、芥川賞受賞の『むらさきのスカートの女』にいたっては、ストーカーとして破綻していく「黄色いカーディガンの女」とタイトルになっている「むらさきのスカートの女」との何ともいえない同一性と違和感が極めて超越的なバランスを保っています。最近では、まるっきりラノベのような非現実的な癒やしのストーリーが広く受け入れられているように、私には感じられるんですが、現実逃避的な癒やし系で明るく希望に満ちたラノベは。私にはものすごく物足りないように感じられていました。もっとキチンと事実を取材して表現も整理すると、まさに池井戸潤作品のような仕上がりになるわけですが、そうでなく表面的な上滑りの作品に終わっている例がいっぱいあります。そういった中身のないラノベ小説を読むくらいであれば、今村作品のような何ともいえない不気味さを内包した作品の方が私はインパクトを感じてしまいます。最後に、どうでもいいことながら、芥川賞の選評を読んでいて、古市憲寿作品「百の夜は跳ねて」と村友祐作「天空の絵描きたち」の関係に大いなる興味を感じました。剽窃や盗作ではなく、オマージュですらないといい切っているのは山田詠美だけで、川上弘美や吉田修一は明確に嫌悪感を表明しています。私はどちらも読んでいないので何ともいえませんが、とても野次馬的な興味をそそられます。

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最後に、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社) です。小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『桐島、部活やめるってよ』いら、人気小説家の道を歩んでいる著者ですが、私も直木賞受賞作の『何者』こそ読んでいませんが、デビュー作を含めて世間に遅れつつ何冊か読んでいます。それから、この作品は、このブログの読書感想文でもいくつか取り上げた中央公論新社創業130年記念の「螺旋」プロジェクトのうちの1冊となります。ですから、青い目の海族とそうでない山族の対立構造を基本としています。本書はシリーズ唯一の平成編となります。ほかに、このブログの読書感想文で取り上げた、ということは、私が読んだのは、以下順不同で、伊坂幸太郎による近未来編の『スピンモンスター』と昭和後期編の『シーソーモンスター』、薬丸岳による明治編の『蒼色の大地』、乾ルカによる昭和前期編の『コイコワレ』、澤田瞳子による古代編の『月人壮士』となっています。ということで、本書は平成時代の青春物語であり、海族の南水智也が頭を強く打って意識不明の植物状態となり、山族の友人である堀北雄介が入院先の病院を毎日見舞う、というスタートから一気にさかのぼって、小学生時代、中学校ないし高校時代、大学時代の、それぞれのころの南水智也と堀北雄介と関係する周囲の人物を主人公にした章立てでストーリーが進みます。タイトルほどアバンギャルドではありませんが、自分以外の人のためになる生きがいを持った人生、自分を対象にした生きがいある人生、そして、生きがいのない人生の3分類をモチーフとし、生きがいややりがいについて、せいぜい20歳前後の目から考える、ということになります。物静かな海族の南水智也に対して、競争や勝負を好む活動的な山族の堀北雄介を配し、札幌を中心的な舞台に物語は展開しますが、私の直感では、おそらく、若い世代は山族の堀北雄介の要素がかなりあり、私のような引退世代に近づくに従って海族の南水智也の要素が増えるような気がします。でも、人生最末期には、何ごとによらず自分の意図通りに出来ないことが増えるそうで、その意味で、イライラが募る、と聞いたこともあります。お題を与えられた制約のせいかもしれませんが、この作者の実力にしては、やや物足りない読後感でした。もう1冊最新刊の『どうしても生きてる』(幻冬舎) の予約をしています。これも楽しみです。
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2019年10月19日 (土) 11:20:00

今週の読書はいろんな分野の経済書など計4冊!!!

今週と来週の読書はかなりペースダウンします。今週は短編ミステリのアンソロジーも含めて計4冊。来週は同じくらいか、もっと少なくなるかもしれません。でも、週3~4冊というのは、私の従来ペースからすればやや少ない気がするものの、日本人の平均的な読書ペースからすると、まずまず読んでいる方なのかもしれません。

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まず、アレックス・ローゼンブラット『ウーバーランド』(青土社) です。著者は、テクノロシジー・エスノグラファーであり、データ・アントド・ソサエティ研究所の研究者、とあるんですが、これだけでは何のことやら、私にはサッパリ判りません。英語の原題も Uberland であり、2018年の出版です。少し前のCEOのスキャンダルで揺れたウーバーなんですが、Airbnbなどと並んで、シェアリング・エコノミーとか、ギグ・エコノミーをけん引する大企業であることは間違いありません。そのウーバーについて、本書では主としてサービスを提供するドライバーの立場から企業運営などについて批判的な議論を展開しています。スマ^トフォンのアプリで簡単に予約出来たりするサービスなんですが、逆のサービス提供サイドについては、ある意味で、アルゴリズムによって最適化されたプラットフォームからの情報に基づいてサービス提供をするとはいえ、ウーバー側の情報に踊らされたり、あるいは、締め付けが厳しかったりして、「最適化」されたアルゴリズムの意味が、誰に対する「最適化」なのか、慎重に問われるべき段階に達しているように私も考えています。日本では、白タク規制があって人を運ぶウーバーのビジネスは出来ていませんが、それなら、というわけで、ウーバー・イーツの大きなボックスを背負った自転車をよく見かけます。私の知り合いのジャーナリストは都心3区で共同運用している赤いシェア自転車は、ほとんどウーバー・イーツに思える、といっていたりもしましたが、先日、ウーバー・イーツの自転車が事故で大ケガをした保障の問題の報道なども見かけました。基本は、同じ問題ではないかと私は考えていますが、確かに、一般的な工場勤務やオフィスワークなどと違って、締め付けが個別バラバラの各個撃破になっていますので、さらに激しさの程度が高い気もします。ただ、アルゴリズムによる最適化のギグ・エコノミーの問題ではなく、あくまで、利潤最大化を目指す企業活動の問題と考えるべきです。すなわち、ギグ・エコノミーのウーバーだけではなく、多かれ少なかれ、アナログなタクシー業界でも同じ問題があるんではないか、と私は推測しています。もっとも、こういった新しげなギグ・エコノミーでの問題点を指摘すると話題になりやすいのも事実であり、こういった突破口から雇用や労働について、本来的な問題を考える起点になればいいのではないか、と私は考えています。本来的な視点を忘れるべきではないものの、社会的な注目度の向上にも配慮したいのは理解できます。

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次に、アダム・オルター『僕らはそれに抵抗できない』(ダイヤモンド社) です。著者は、米国ニューヨーク大学の准教授ですから若手研究者なんだろうと思います。専門は、行動経済学やマーケティング論だそうです。上の表紙画像に見える通り、英語の原題は Irresistible であり、2017年の出版です。邦訳タイトルの副題が「依存症ビジネス」のつくらかた、と和っていて、まざに、そのものズバリです。経済学的には、マイクロな経済学の観点から、シカゴ大学のベッカー教授なんかが「合理的な依存症の経済学」A Theory of Rational Addiction なんぞを検討していますが、本書の著者や私なんぞのように依存症ビジネスなんて合理的でもなんでもなく、健全な経済発展のためにはむしろ排除すべき対象のように考えているエコノミストとしては、受け入れられるもんではありません。本書でも、冒頭に、iPadのタブレットを考案してアップルから売り出したジョブズは、むしろ、自分の子供達にはタブレットを使わせなかった、という印象的なエピソードから始めています。インターネットに誰でもが気軽かつ安価にアクセスできるようになり、タブレットやスマートフォンなどの携帯できる端末によって、主として、ゲームとして楽しめるようになり、依存性の症状が広まり始めたと考えられます。第1章では、アルコールやドラッグなどのモノへの依存症から、今では行動嗜癖と呼ばれるアクションへの依存症が広まっていることが明らかにされ、第2章では、新しい依存症が人を操る6つのテクニックとして、数値設定などの目標依存症、SNSの「いいね!」やフォロワーを集めようとするフィードバック、射幸心を煽るガシャポンなどをはじめとする進歩の実感、ゲームだけでなく仕事も含めた難易度のエスカレート、ネットフリックスが生んだビンジ・ウォッチングをはじめとする行動経済学のナッジを悪用したクリフハンガー、インスタが刺激する他人と比較したい欲求を煽る社会的相互作用、の6点を上げています。ただ、これらのビジネス側のテクニックに対して、第3部で展開される3つの解決法はいかにも脆弱というそしりは免れず、さらに、エピローグでは、今後もこういった依存症ビジネスが予期せぬ形で現れる可能性を示唆しているだけに、むしろ、アナログの世界に閉じこもったほうがマシ、とすら考えてしまいます。私は自分自身を、特に意志が強かったり、精神が健全なるがゆえに、こういった依存症からは無縁、と考えているわけではなく、いついかなる場合でも陥る危険があると警戒心を怠らない必要があると考えていますが、個人的な病気という処理ではなく、社会全体としてあるいはシステムとして、こういった依存症から毒室した人格形成を目指すべきであり、そのためには市場万能ではなく、適切に市場の失敗を回避する方法を模索する必要があると考えています。そのためには、社会的な生産様式をさらに進化させる必要があるかもしれません。

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次に、レイ・ダリオ『PRINCIPLES』(日本経済新聞出版社) です。著者はヘッジファンドのウォーターブリッジ・アソシエイツの創業者であり、投資業界の著名人です。英語の原題も PRINCIPLES であり、2017年の出版です。第1部の著者の生い立ちは別にして、第2部の人生の原則と第3部の仕事の原則が中心をなしています。もちろん、年配の成功した実業家の本ですから、上から目線の自慢話ばかりなんですが、まあ、そういった本だと覚悟して読み進めばいいんではないかと思います。私の知り合いで、もともとエンジニアなんだと記憶していますが、業界の常なのかどうか、パナソニック創業者の松下幸之助を大いに尊敬して、その著書も読んでいる人がいます。まあ、そんな感じで軽く考えてヒマ潰しの読書と割り切るのが吉かもしれません。ただ、かなりの大判の本で600ページ近いボリュームです。邦訳がいいのでスラスラと読めますが、大きさで気後れする人がいるかもしれません。内容は人それぞれの受け止めなんだろうと思いますが、私には3点ほど目につきました。まず、人生と仕事の原則に共通して、いろんな局面でオープンであることの重要性は私も大いに同意するところです。政府機関に長らく勤務した経験から、いわゆる「よらしむべし、知らしむべからず」という裏ワザが身についてしまっている気もしますが、私もオープンでありたいと思います。次に、もうひとつ気にかかったのは、これも人生と仕事の両方に共通して苦楽に対する考え方で、とても循環的というか、「苦」がなければ「楽」が来ないような体験が多いのかもしれません。我が国の政権でも、「痛みを伴う改革」を強調する場合がありますが、私は「苦」や「痛み」は否定的です。避けられれば避けた方がいいに決まっています。キリスト教的には自らに苦痛を与える宗派があって、『ダビンチ・コード』でも出てきたように記憶していますが、仏教の浄土真宗の門徒である私としては、楽な方がいいに決まっています。最後に、仕事だけの原則ではなかったかと思いますが、「誰」の方が「何」よりも重要という原則がありました。生産の場ばかりではありませんが、企業活動においては人的資本の方が物的しほにょりも重要であるというのは、多くの経営者が同意しているようですが、なかなか実践している場合は少ないような気がします。モノである資本よりも労働・雇用の方が重要です。いうまでもありません。

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最後に、日本推理作家協会[編]『ザ・ベストミステリーズ 2019』(講談社) です。タイトルから明らかに理解される通り、ミステリの短編を集めたアンソロジーです。収録作品は、澤村伊智「学校は死の匂い」、芦沢央「埋め合わせ」、有栖川有栖「ホームに佇む」、逸木裕「イミテーション・ガールズ」、宇佐美まこと「クレイジーキルト」、大倉崇裕「東京駅発6時00分 のぞみ1号博多行き」、佐藤究「くぎ」、曽根圭介「母の務め」、長岡弘樹「緋色の残響」の9作であり、もともとの短編の出版元も本書の講談社に限定されていません。上の要旨画像に見られる宣伝文句は「耽読必至! ようこそ、日本最高水準のミステリーの世界へ」ということなんですが、決して大げさではありません。とても水準の高いミステリ短編ばかりです。世の中には長編ミステリを有り難がる人も少なくないですし、私も理解するんですが、こういった水準の高い短編集も見逃せません。
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2019年10月12日 (土) 11:50:00

今週の読書は軽めの経済書と重厚な専門書の組み合わせで計6冊!!!

今日は、台風の影響で外出もままならず、ずっと在宅しています。後で、もう少し書こうかと思うんですが、実は、昨日は関西に行ったものの、今日の新幹線が運休になるとのことで、下の倅の大阪のアパートに宿泊する予定を繰り上げて夜遅くに帰京したりしました。今日は図書館も軒並み閉館で、来週の読書向けの本はまだ集まっていません。ということで、前置きが長くなりましたが、今週の読書は新書も含めて軽めの経済書が3冊、ほかに重厚でボリューム十分な専門的教養書が3冊、以下の計6冊です。

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まず、根井雅弘『ものがたりで学ぶ経済学入門』(中央経済社) です。著者は、我が母校の京都大学で経済学史を専門とする研究者です。マンガで科学や経済などを解説する本がありますが、本書もフィクションを取り入れて、アダム・スミス以来の古典派や限界革命、マルクス主義経済学からケインズ経済学まで幅広く鳥瞰しています。フィクションは、経済学の研究者の倅である中学3年生を家庭教師的に勉強を見ている高校3年生が主人公で、中学3年生の父親の経済学の研究者から指導を受けて、英語の原書を含めて経済学の古典を読破するという、まさに、フィクションならではのドラえもんの道具的な荒唐無稽なストーリーです。でも、そのフィクションの高校3年生が経済学の英語の原書の古典を読破するという部分をガマンして読めば、それなりの中身になっている可能性はあります。私はこのフィクションの構成はともかく、スミスのところでsympathy の邦訳語を「同情」を排するのはいいとして、「同感」を取っているのがムリ筋と考えてしまいました。「共感」ではないでしょうか。その後、まあ、それなりの初歩的な内容でしたが、一応の経済学史が鳥瞰されていて、参考にはなると思います。ただ、クロニカルにはケインズ経済学で終わっていて、我々が現に体験している戦後のブレトン・ウッズ体制下の経済の基となる理論的背景についてはお話が及んでいません。戦後の経済学史で、ケインズ経済学から、ブレトン・ウッズ体制末期のインフレの下でマネタリスト経済学や新自由主義的な経済学が米国のレーガン政権や英国のサッチャー政権下で主流となり、21世紀に入ってから、米国のサブプライム・バブル崩壊後に再びケインズ経済学が見直されている現状などにもう少し目が行き届けば、もっといいような気もします。もっとも、著者の意図としては、決して、現在までに至る経済学シすべてのトピックを取り上げるというよりは、本書のボリュームのほぼ半分をスミスないしミルやリカードなども含めた古典に当てていますし、スミスの経済学が「夜警国家」を推奨し、見えざる手なる市場の調整機能への過信に基づく自由放任経済ではない、という点に重点があると考えるべきなのかもしれません。

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次に、清水洋『野生化するイノベーション』(新潮選書) です。著者は、一橋大学出身で現在は早大の経済史の研究者、特に、イノベーションの歴史を専門にしているようです。本書では、かなり通り一遍なのですが、イノベーション、特に、破壊的で従来の技術を無効化するようなイノベーションについて、歴史と理論を概観した後、現在の経済の停滞の一員たるイノベーションの不活発さについて著者の見方を示しています。従来の技術を無効化するような破壊的なイノベーションとは、例えば、自動車がウマを駆逐したようなものだと指摘し、現在のイノベーションが流動性が高い中で、ついつい手近な、あるいは、低いところにある果実をもぐことに専念し、より高いところにありリターンの大きなイノベーションに手が伸びていない可能性を指摘しています。私の目から見て、歴史的な資本リターンの低下傾向が続く中で、いくら金融政策で低金利を続けても、その低金利すら超えないリターンしかもたらさないイノベーションは採用されないわけであって、さらに、流動性が高まれば、安定した研究体制は構築しにくくなる、というか、ハイリスク・ハイリターンの「冒険主義的」な研究開発を必要とするイノベーションが遠ざかるのは事実です。安定した研究体制を構築して、多少のムダは覚悟の上でハイリスク・ハイリターンのイノベーションを支えるためには流動性が低くて安定した研究体制を必要とします。ただ、大筋で、私は手近な果実は取り尽くされたというのは事実であり、「冒険主義的な」研究開発で大胆なイノベーションが実現されるようなサポート体制が必要になる、という意味で、イノベーションが野生化したというのは事実なんだろうと考えています。

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次に、ヴィルヘルム・フォン-フンボルト『フンボルト 国家活動の限界』(京都大学学術出版会) です。著者は、どういえばいいのか、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したドイツの行政官、外交官、政治家、政治学者といったところなんですが、ベルリン大学の創設者ですし、「国家は教育に介入するな」という超有名な金言も人口に会社しているものですから、私なんぞの専門外のエコノミストは教育の分野の歴史的人物、と考えていたんですが、本書の解説では、テンポラリーな行政官として大学開設に関わったのであって、教育者でもなければ、教育行政が専門であるわけでもない、と指摘しています。また、本書は検閲やなんやの事情により、著者死後の19世紀なかばに出版されています。ドイツ語の原題は Ideen zu Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des zu besitimmen であり、原書は1851年の出版です。英語圏の出版物であるミル『自由論』で高く評価されたことにより世界的な評価を受けるようになったと私は受け止めています。なお、出版社のサイトによれば、本書は「近代社会思想コレクション」のシリーズの一環で第26巻として出版されており、本書に続いて、ヒューム『道徳について』、J.S.ミル『論理学大系4』が出版される運びとなっているようです。前置きが長くなりましたが、タイトル、出版社、そして、何よりも600ページを超えて700ページ近いボリュームなどから、読み始めるにはかなりの覚悟が必要です。でも、おそらく邦訳がいいんだと思いますが、読み始めるとスラスラと読むことが出来ました。ただし、政府機関で活動した人物ですから、ある意味で、私と活動分野が似ていたのかもしれませんから、このあたりは少し割り引いて考えた方がいいかもしれません。ただ、前置きばかりを長くしたのは、古典書ということもありますが、読んだ私がよく理解できなかったわけで、邦訳は判りやすくてスラスラ読めるとしても、内容ば難解であることはいうまでもありません。ただ、私の直感的な受け止めとしては、ドイツの経済学者として有名なリストなどは、ドイツという経済的には後発国において英国やフランスなどに対抗するために保護主義的関税の導入などの国民経済保護の経済学を展開したんですが、本書ではフンボルトは現在でいえばかなりリバタリアンに近い国家の限界に関する考え方、すなわち、国家活動に対するかなり強い懐疑論や、嫌悪感に近い議論が展開されている、と考えています。最初に引用した「国家は教育に介入するな」ではありませんが、教育だけでなく、色んな分野で国家の介入への否定的な議論が見られます。

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次に、テイラー・フレイヴェル『中国の領土紛争』(勁草書房) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学の国際政治学の研究者であり、国際関係論と主として中国に関する比較政治学が専門だそうです。英語の原題は Strong Borders, Secure Nation であり、2008年の出版ですが、その後の尖閣諸島に関する問題などを含めたエピローグが日本語版のために書き下ろされて収録されています。本書も、かなり大判な上に、500ページ近いボリュームがあり、出版社からしてもほぼほぼ専門学術書と考えるべきで、それなりの覚悟を持って読み始める必要を指摘しておきたいと思います。ということで、邦訳タイトルに明らかな通りの内容で、中華人民共和国成立後の1950年以降の歴史的な外観と分類が中心になっていますが、必要に応じて、さらに歴史的にさかのぼって事例がいくつか参照されています。米国の研究者による出版ですが、かなり広範に中国語文献や資料を渉猟しているようで、英語情報だけによる表面的、対外公表な文献の分析だけでなく、かなり内部文書的的な資料の分析も加わっています。ただし、もちろん、米国のような体系的公文書公開の制度が中国にあるわけでもなく、それほど、というか、まったく情報公開には前向きの姿勢がない国家ですので、限界はあるのかもしれません。もちろん、中国は常に武力行使により領土問題を解決してきたわけではない点は、我が国の尖閣諸島問題でも実証されている通りで、領土紛争がエスカレーションして武力行使に至る以外に、どのような場合に引き伸ばしを図り、どのような場合に妥協するか、を極めて多くの歴史的事例に基づいて分析し解説しています。その歴史的事例は、中華人民共和国建国以来のすべてである23例とされています。専門外の私が考えても、本書が出版されて以来の10年間で中国が国力を増したのは紛れもない事実であり、加えてその経済的な発展からして、領土紛争の大きな要因の一つであるエネルギーや資源に対する需要は高まっている点は忘れるべきではありません。加えて、経済学にはウィン-ウィンの関係は広く見られますが、国際政治の場における領土紛争は確実にゼロサムです。ですから、本書が指摘するトーンよりも隣国としては警戒色を高める必要があると考えるのは、私だけではないと思います。

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次に、石橋毅史『本屋がアジアをつなぐ』(ころから) です。著者は、出版業界をホームグラウンドとするジャーナリスト・ライターであり、我が国を含めて、インターナショナルな本屋さんをコンパクトに紹介している、一種の紀行本です。著者が実際に訪問しているんでしょう。なお、本書冒頭では、「書店」はお店というハードウェアであって、「本屋」はその書店を運営管理する経営者、あるいは書店員を指す、と断り書きをしていますが、まったく守られていません。ほとんどの「本屋」は書店というハードウェアとして使われている気がします。私はスペイン語を理解しますので、スペイン語では店を librería、書店員を librero あるいは、女性型なら librera とし表現します。このラインを狙ったんでしょうが、残念ながら失敗しています。本書で取り上げられている書店の中で、私が圧倒的に興味を持ったのが、上海を拠点としていた内山書店です。現地でお尋ね者となってしまった魯迅を匿ったり、書店らしく、いろいろと言論の自由や人権を守るリベラルな活動が歴史に残っています。直接的な政治活動だけでなく、出版や研究といった広く開かれたドメインでより有効性や効率性を増す活動は他にもいっぱいありますし、そういった自由が保証されないとそもそも活動すら出来ない場合も少なくありません。私は割引になるので早大生協で本を買う事が多いんですが、そもそも、買うよりも図書館で借りることのほうが圧倒的に多く、改めて、こういった出版物や印刷物の重要性、そして、それらの流通を担い人々に広める書店の役割をアジアで発見した様な気がします。

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最後に、山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学』(光文社新書) です。著者は、最近カナダから帰国し東大の研究者に就任しています。専門は労働経済学であり、その派生領域として結婚・出産・子育てなどを経済学的な手法で数量分析する家族の経済学に分析を広げています。ということで、本書では、数量分析に基づいて、結婚、出産と乳児の子育て、育児休暇、父親の子育て、保育園の経済分析、そして、最後に、離婚、といった章立てで家族の経済分析をサーベイしています。ご自分の分析結果も含まれていますが、本書で新しい数量分析結果が示されているわけではなく、既存研究のサーベイです。いくつかの例外を除いて、ほぼほぼ常識的な分析結果が取り上げられているんですが、本書でも著者が指摘している通り、こういった常識的な結果を数量分析で跡づけるのは学問的にも、広く常識的にも有益なことである私も考えます。特に、保育園における集団的な子育ての要素は母親の学歴が低いほど、子供にはプラスの影響がある、というのは、直感的に理解していても、なかなかその直感的な理解が主張しにくい場合が多いと思うんですが、それなりのジャーナルに査読付きの論文が掲載されていれば、参照することも抵抗感は低下すると思います。ただ、本書で議論されている常識的ながら、一部に抵抗感が残らないでもない主張ですので、ほぼほぼ海外の数量分析で大きな部分が占められているのは、すでに定年退職した私も含めて、我が国経済学界の一層の奮起を促すものと受け止めるべきなのでしょう。
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2019年10月05日 (土) 11:30:00

今週の読書はついつい読み過ぎて小説2冊を含めて計8冊!!!

今週の読書は、ペースダウンの予定だったのですが、もっとも近い区立図書館が10月いっぱい休館らしく、何の関係もないものの、ついつい読み過ぎてしまいました。来週は後半が忙しくなる予定で、一応、暑い中を図書館回りを終えて数冊借りて来たんですが、さすがに、2~3冊に減るんではないかという気もします。今週の読書は小説2冊も含めて、以下の計8冊です。

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まず、中野剛志『奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ) です。同じ著者によるシリーズ前編【基礎知識編】は8月24日付けの読書感想文で取り上げています。【基礎知識編】では、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開していて、【戦略編】となる本書の冒頭では簡単にそのおさらいをしてから、MMT理論を普及させるための戦略、また、どうしてMMTが現時点でそれほど受け入れられていないのか、といった議論が展開されています。本書の議論は私はどちらもとてもよく理解できるような気がします。ここで、「どちらも」というのは、MMT理論そのものとMMT理論が学界や政策当局に受け入れられないその両方を指しています。というのは、私はかなりの程度にMMTは正しいと本能的に感じている一方で、どこか頭の中で「怪しげ」と感じる部分もあるからです。今夏にレイ教授によるテキストである『MMT現代貨幣理論入門』の邦訳書が東洋経済から出版されていながら、諸般の事情によりまだ読めていません。本書で引用されているラガルド女史によれば、主流派経済学のように数式をきれいに展開していて、それなりの説得力ある理論である、とのことで、私も直感的かつ本能的ながら、MMTは理論的には十分成り立っているんだろうと理解しています。自国通貨建ての国債であれば、いくら積み上がってもデフォルトに陥るおそれはなく、財政政策をインフレ率で判断するというのは、従来からもある考えです。少なくとも、日銀が物価目標を掲げる前に、旧来理論でハイパーインフレに言及していたようなエコノミストの主張はもうなくなりましたし、岩石理論もご同様です。ただ、現在の日銀の量的緩和と同じで、出口に一抹の不安が残るのも事実です。本書では、インフレ率が一定の水準に達した段階で前年度と同じ財政赤字にすればいい、という主張なんですが、ホントにそれで済むのか、これも私の直感ではそれでOKのように受け止めているんですが、不勉強が原因となって不安を覚えているだけのような気がします。ただ、私が主張したいのは、MMTはインフレというマクロのアグリゲートされたターゲットには有効なんですが、逆から見て、量的なターゲットだけでなく、質的、あるいは、分配面からの格差是正などについて目が行き渡っていないような気がします。すなわち、インフレ、というか、デフレからの脱却については、ある意味、本書で展開するMMT理論で十分なんですが、MMTが政策的に採用されないうちにでも分配政策によって格差や格差に一部ながら起因する成長促進などの課題の改善は可能ではないか、という気がする次第です。本書の議論を否定しようとはまったく思いませんが、MMTの実践だけが解決策ではないという点も忘れるべきではありません。

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次に、山口周『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社) です。著者は、コンサル出身の著述家で、講演などでも見かける方ではないかと思います。本書は、習慣ダイヤモンドで連載されていたコラムを取りまとめて単行本化したもので、ダイヤモンド・オンラインのサイトでも読むことが出来ます。もちろん、本書のタイトルはガンダムのアムロ・レイなどのニュータイプと似てはいますが、少し違います。すなわち、商品生産やサービス供給が十分人々の欲望を満たす水準にまで達し、消費に飽和感がある中で、いくつかの古い思考や行動の様式を新しくする方向について議論しています。例えば、問題がいっぱいあった従来の社会では、その問題の解決方法を探るのが主要な課題であり、オールドタイプのエリートは解決策の提示ができる人だったわけで、実は、本書の著者もその一種ではないかという気がしないでもないんですが、ニュータイプはビジョンを持って望ましい状態と現状との差を「問題」として捉え、その問題発見ができる人、ということになります。また、その実現の一つの形式であるイノベーションについても、こういった解決すべき課題=問題なしにイノベーションそのものにこだわっていると本末転倒である、と指摘し、解決すべき問題がないのに技術的に凝った乗り物を作ってしまったセグウェイの失敗例を引いていたりします。実に、私も感心してしまいました。他方で、私のように、現在の資本制的な生産や分配のシステムをもっと柔軟に改革して、あるいは、もっと過激に資本主義から社会主義に革命を起こす、という方向性は否定されています。私自身はこの方向性をアプリオリに否定するものではありません。ケース・バイ・ケースで考えるべきだと思います。本書のp.28にあるオールドタイプとニュータイプの新旧対照表を、ダイヤモンド・オンラインのサイトから引用すると以下の通りです。私は下の5項目、すなわち、ルールに従う⇨自らの道徳観に従う、一つの組織に留まる⇨組織間を越境する、綿密に計画し実行する⇨とりあえず試す、奪い、独占する⇨与え、共有する、経験に頼る⇨学習能力に頼る、はこの通りだと思います。
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次に、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社) です。著者についてはよく判りません。本書では、差別について、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)との関係で、いろんな考察や分析を進めています。ポリコレ的には差別はいけないわけですが、実際にレイシストはいますし、ヘイトスピーチも後を絶ちません。そのあたりの周辺事情、というか、現実的な実態解明と対応につき考えています。特に、本書では、足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない、というフレーズが繰り返し引用され、差別されたサイドの痛みの理解についても思いをいたしている気がします。ポリコレに関してはあまり実践も応用もないように見受けるんですが、私が2016年の米国大統領選挙について、たぶん、このブログの場だと思うんですが、ポリティカル・コレクトネスが行きつくところまで行って、米国に黒人大統領が誕生したのが当時のオバマ米国大統領であり、その振り子が反対側に振れた、との感想を持ちました。ポリティカル・コレクトネスなんて、行きつくところまで行けば反転する可能性もあると私は考えていますし、何よりも、1990年代にいわゆる米ソの冷戦が明確に終了して、ソ連的な共産主義が大きく後退し、中国やベトナムなどに極めて市場経済的な社会主義は残るものの、冷戦が終了した段階で国内的な意思統一が不要になって、いろんな意見が飛び出し始めている、というのも事実です。冷戦時代にソ連に負けないためには、米国内でもそれなりの意思統一が図られて、いわば、一致団結してソ連に対峙する必要があったものの、その必要がなくなったわけです。いまだに、この冷戦型の国内世論統一を図ろうとしているのが韓国の文政権といえます。民主主義が未成熟としか私の目には見えません。まあ、韓国は別としても、実は、米国でもそれほど民主主義が成熟していなかったわけで、対外的な仮想敵国がいなくなった途端に国内で清掃が始まってしまった、と私は解釈しています。加えて米国では、2001年のテロから国内的な統一が一時的に強化されましたが、それも20年近くを経過してテロの実行例も少なくなり、外国に対する緊張感が弛緩して、国内での政争に目が移った、ということなんだろうと思います。欧州もご同様です。本書では、カール・シュミットにならって、アイデンティティを基礎とする民主主義とシチズンシップを基礎とする自由主義を対比して、差別やハラスメントの原因をアイデンティティがシティズンシップをオーバーテイクしたことに求めようと試みていますが、私の目には成功しているとは思えません。

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次に、リチャード・ローズ『エネルギー400年史』(草思社) です。著者は米国のジャーナリスト・作家であり、ピュリツァー賞の受賞経験もあるようです。英語の原題は Energy: A Human History であり、2018年の出版です。動力、照明、新しき火の3部から構成され、軽く600ページを超えるボリュームですが、これも邦訳がいいのか、私の興味分野だからなのか、割合とスラスラと読み進むことが出来ました。でも、私にして読了するのに2日かかりましたので、それ相応に時間はかかると覚悟すべきです。ということで、邦訳タイトルにあるように、薪から始まった400年に及ぶエネルギーの歴史をひも解こうと試みています。ただし、エネルギーだけではなく、外国人ジャーナリストに多い傾向なんですが、周辺事情までていねいに情報を集めた上に、集めた情報はすべて本に詰め込まないと気が済まないようで、ややムダの多い本だという気もします。極めて大雑把にエネルギーの歴史を概観すると、まあ、誰にでも判るところで、薪から石炭に、石炭は石油に、石炭・石油は天然ガスに、さらに原子力に、そしてそして、今からは再生可能エネルギーに、その主役を次々と交代しています。そして、そのエネルギーの利用の目的も、かつては調理と暖房、せいぜいが灯りだったんですが、石炭以降からは大規模に産業や運送で利用されるようになっているのは周知の事実です。エネルギーを動力源として用いる場合、蒸気機関、内燃機関、発電機と歴史的な発展があり、輸送に使う場合は、蒸気車、蒸気機関車、自動車、電車、もちろん、その後の飛行機やロケット、場合によってはドローンまで上げることが出来ます。そのバックグラウンドにはそれぞれをアイデアとして思いつき、製品として世に送り出すために試行錯誤し、製品化した後には応用し普及させた有名無名の人物の存在があった点についても、とても幅広く様々な情報を取りまとめています。またエネルギー利用の普及は人びとの生活の質を上げ経済を活性化する一方で、公害をはじめとする新たな災厄や難題をももたらし、また、生産現場の過酷な労働も必要としました。こういった400年に及ぶエネルギーの歴史を振り返り、現在の地球規模の気候変動や地球温暖化、さらには、中国・インドやをはじめとする新興国・途上国の経済成長に伴って増加し続ける巨大な人口を支えるエネルギー需要への対応、などなど、今までにない難題への答えは、本書のように過去の歴史を詳細に検証することで見出せるのか、どうか。もちろん、ひょっとしたら、何ら解決できない可能性もなくはないながら、少なくとも、解決策を見出せるとすれば、科学に基づく技術革新だけである可能性が高いと考えるべきです。本書は、基本ラインがしっかりしているとともに、ムダとすら見える極めて多数の人々のドラマが盛り込まれており、それはそれでとてもいい読書だった気がします。

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次に、マーク・モラノ『「地球温暖化」の不都合な真実』(日本評論社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、英語の原題は The Politically Incorrect Guide to Climate Change であり、The Politically Incorrect Guide シリーズの1冊として2018年に出版されています。ということで、本書では人類による地球温暖化や気候変動について、押しとどめようとする「脅威派」と否定する「懐疑派」に分けた上で、本書は後者の懐疑派として人類に起因する気候変動や温暖化をデータを含めて、あるいは、脅威派の発言の矛盾を突いたりして、徹底的に人為的な気候変動を否定しようと試みています。ここで多くの読者が見逃しそうなポイントなんですが、著者は人的でない、すなわち、太陽活動の変動に伴う気候変動や温暖化を否定しているわけではない、という点を強調しておきたいと思います。著者の主張では温暖化はかなりの程度に観測誤差の範囲であると考えているようなんですが、太陽活動に伴う気候変動、典型的には氷河期と間氷期が交互に来たりするという意味での大きな気候変動は否定していません。ただ、現在の温暖化が人類の人的な行為、すなわち、CO2排出によるものであるかどうかは疑わしい、と主張しているわけです。これについて、私はシロクマが増えているかどうかは知りませんが、例えば、著者の指摘通り、1970年代には地球寒冷化による食料危機が真剣に論じられていたのは事実ですし、その気候変動が大きく逆転して、温暖化に取って代わられたわけです、医学的に健康にいいと悪いが大きく逆転するケースがいくつ私も見て来ましたが、まさに、同じことが気象科学でも生じたわけで、気候科学の信頼性が問われても不思議はないといえます。また、例のゴア元米国副大統領の邸宅が通常の20倍のをエネルギーを使っているとか、温暖化対策を叫ぶハリウッドのスターが自家用ジェット機で温暖化ガスを排出しながら移動しているとかの実態に疑問を感じるのもあり得ることです。もちろん、シロートの私の目から見ても、極めて限られた有識者しか温暖化や気候変動を否定しておらず、著者の主張が科学的に立証されたとはいいがたいと感じますし、十分に人々を納得させる根拠が示されているとはとても考えられませんが、他方で、研究費のために熱心に地球温暖化や気候変動の研究に取り組む科学者が多いだろうという点だけは判りやすいものの、その他の点で、こうした本が米国で一定の支持を得る可能性があり、日本でも出版されるという現実は、地球温暖化や気候変動に対して常識的な考えを持つ社会人として、それなりに反省を持って受け止めねばならないのではないかと考えます。

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次に、ジーヤ・メラリ『ユニバース2.0』(文藝春秋) です。著者は米国のジャーナリストなんですが、米国のアイビーリーグ校であるブラウン大学で、何と、ロバート・ブランデンバーガー教授に支持して宇宙論の博士号を取得している本格派です。英語の原題は A Big Bang in a Little Room であり、2017年の出版です。副題の「実験室で宇宙を創造する」に示されている通り、宇宙論の中でも宇宙の発生に関するベビー・ユニバースについてのリポートです。ざっと相対性理論をおさらいし、ビッグバンによる宇宙の生成からインフレーション理論による拡大宇宙論、そして、ブラックホールからワームホールを通って別の宇宙に行きつく、ということで、その別の宇宙を実験室で作れないか、という試みです。というか、実は、実験室で宇宙を創るために逆算的な思考で、さまざまな理論が紹介されています。私のようなシロートにはサッパリ判らない理論ばっかりなんですが、そこは科学者ではないジャーナリストによる本ですので、それなりに雰囲気が感じられるように工夫されています。でも、それなりの専門的な知識なければ十分な理解はできないと覚悟すべきです。特に、S極かN極しかない「磁気単極子」があれば、それを使って実験室でインフレーション宇宙が作れる、というのはまったく私の理解を越えていました。そしてその「磁気単極子問題」とともに宇宙論の3大問題とされる「平坦性問題」と「地平線問題」についても、私の理解は及びませんでした。宇宙が実験室で作れるとしても、本書に従えば、その人工宇宙と普通のブラックホールとを区別することは、ホーキング放射が観測できなければ、ムリなようですし、出来上がった人口宇宙を取り囲むブラックホールであるベニーユニバースと我々のいる時空を結ぶワームホールは極めて短い時間で消滅する、ということですし、いずれも、エコノミストの目から見て、とても夢のある宇宙なんですが、どれくらいのコストがかかるのかも気にならないわけでもありません。加えて、本書ではかなり片隅に追いやられている印象がありますが、ビッグバン宇宙論に髪を配置しようとするカトリック信者を私も知っていますし、宇宙の生成と神の関係をどう考えるか、そういった神学論争についても何らかの話題になる可能性もあります。エコノミスト的には神学論争はまったく興味なく、「できることはやったらいい」というのが私の感想なんですが、コストはともかく、いろんな視点から宇宙の発生・生成について考えさせられました。専門外の読者には特にオススメしません。

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次に、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』(NHK出版) です。作者は、私が中途半端な解説を加えるまでもなく、売れっ子のミステリ作家です。この作品のタイトルは、まあ、何と申しましょうかで、この作品のラスボス的な存在である「ハシビロコウ」なる鳥ののラテン語の学術名の日本語訳です。ということで、それなりの規模のお菓子メーカーに勤めるサラリーマンである主人公の岸、作者の応援する楽天イーグルズのエース投手と同じ姓となっていますが、この岸を主人公に、都議会議員の池野内征爾と大人気のダンスグループのメンバーである小沢ヒジリの3人が奇妙な夢でつながって、戦士として社会的な大問題を解決したり、逆に、窮地に陥ったりする、というストーリーです。過去のトピックである金沢旅行の際の火事を3人は共有し、さらに、仙台近海の人工島でのコンサート後のパニック事件に岸と小沢が巻き込まれた際には池野内が救援に駆け付けたりします。そして、さらに、15年後の第2幕でも大事件が発生します。池野内は都議会議員から国会議員に当選して、さらに、有力ポストの大臣を務め、小沢はダンスグループから俳優になり、岸は会社で課長まで出世しています。そこで、猛毒性の鳥インフルエンザがパンデミックに近い広がりを見せ、3人がワクチンをいかに必要とする病人に届けるか、という点で一協力して解決に当たります。もちろん、ハッピーエンドで終わるんですが、さすがに伊坂作品らしく私のような一般ピープルが考え付かないような一筋縄ではいかなイラストが待っています。夢と現実を3人で、あるいは、それぞれ単独で行き来しながら、問題を解決したり、あるいは、大問題で窮地に陥ったりと、ある意味では、ファンタジー的な現実にはあり得ないシチュエーションが展開されるんですが、夢で戦うという点は現実でもあり得ることであり、その点で、少し前の作品である『フーガはユーガ』で双子が瞬間移動で入れ替わるような超常現象といい切るにも勇気が必要で、まあ、荒唐無稽な非現実的展開はない、ともいえます。加えて、3人はいろんな問題、というか、トラブルに遭遇するわけですが、かなり近いとはいえ、犯罪や組織的な陰謀とは違い、まあ、ギリギリあり得るかも、と思わせるものもあります。しかも、いかにもこの作者の作品らしく、いろんな伏線が密接に関連して後々にきれいに回収されます。私のように速いペースで読んだ挙句に、読み返さざるを得なくなる、といった読者も少なくなさそうな気がします。でも、それだけ面白い、ともいえそうです。最近の作品の中では傑作に近く、ひょっとしたら、読者によればこの作者の最高傑作に推す人がいるかもしれません。早大生協で消費生率引き上げ前に買った5冊のうちの最後の読書でした。

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最後に、宮内悠介『遠い他国でひょんと死ぬるや』(祥伝社) です。著者は、私の好きなSF作家です。実は、本書の出版を知って図書館で予約したところ、前作の『偶然の聖地』を読んでいないことに気づいて、近くの図書館で借りて一気に1時間ほどで読んでしまいました。ひょっとしたら、この作者の作品はすべて読んでいるかもしれません。ということで、本書ではフィリピンを舞台に、元テレビ番組制作会社のディレクターが太平洋戦争で戦死したと考えられている詩人の竹内浩三のノートを求めて冒険を始める、というストーリーです。本書のタイトルも、竹内浩三が入営前に書いた詩「骨のうたう」が出典となっています。テレビのディレクターの職を辞してフィリピンに渡ってタガログ語をマスターし、竹内のノートの捜索に入りますが、そこに、山下財宝を狙っているトレジャーハンターを自称する女性とそのお付き、主人公と行動をともにするうちに距離が縮まっていく女性、さらに、その女性の元彼カレで、結婚を申し込んでいる超大金持ちのぼんぼん、さらにさらにで、休戦が成立したにもかかわらず、まだ、ミンダナオ島の分離独立のために戦うムスリムの青年などが急展開の冒険物語を構成します。最後は、かなり荒唐無稽に結婚式を破壊したりして、これが解決なのかどうかは疑わしいと私は考えたりもしましたが、著者の力量が垣間見える気もしました。単純に読めば、冒険譚とはいいつつも、単なる騒がしくて暴力的なドタバタ劇になりかねないところに、詩人である竹内浩三の存在を入り込ませ、その実像に迫ろうと試みるも、竹内の最期は実際のところ不明としかいいようがなく、竹内が実際に何を目にし何を感じ何を想ったのかは、主人公も含めてもはや誰にも判らなくなっているわけで、ただ、戦争の歴史を風化させるわけにはいかないと作品を作り続けてきた主人公だったんですが、ドタバタ劇が進む中で、そういった信念の根元には大したものは何もないことに気付かされていきます。他方で、じいさんの占いとか、旅の中である種のアジア的な神秘と接することによって、何らかの意味で、竹内と似た境地に達することができたのかもしれない、という気もします。基本的に、インドネシアの首都であるジャカルタしか私は住んだことがなく、タイやマレーシア、あるいは、シンガポールには旅行したものの、フィリピンには旅行ですら行ったこともありません。従って、どこまでフィリピン現地の雰囲気が再現されているか、フィリピン人の考えが反映されているか、は判りませんし、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールについても、私はよく知りませんが、少し前まで中央アジアのムスリム国家に着目していた作者が、本作品で東南アジアを舞台にした小説にチャレンジし、アジアの奥深さに気づいたのかもしれません。
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2019年09月28日 (土) 11:30:00

今週の読書は話題のラグビーの200年史を振り返る歴史書など計6冊!!!

今週はいろいろと忙しかったんですが、それでも硬軟あわせて6冊の以下の通りの読書です。ワールドカップが始まったラグビー200年史を振り返るボリュームたっぷりの歴史書もあります。今週もすでに図書館回りを終えており、来週も数冊の読書になりそうなんですが、何分、かなり忙しいので時間が取れないかもしれません。

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まず、杉本和行『デジタル時代の競争政策』(日本経済新聞出版社) です。著者は、財務省の事務次官経験者であり、現在は2期目の公正取引委員会委員長を務めています。もう70歳近いんでしょうが、私と同じ公務員でも出世するとここまで職が保証されるんだと、我と我が身を振り返って忸怩たる思いがあります。ということで、本書はタイトルこそ華々しいんですが、何ということのないフツーの競争政策、すなわち、公正取引委員会の通常業務がほとんど80パーセントくらいを占めます。160ページほどのボリュームのうち、第3章のタイトルが書籍と同じ「デジタル時代の競争政策」となっていいて、この第3章がメインなんでしょうが、中身は100ページ目から始まり、その第1節はグローバル化に割かれていますので、経済のデジタル化に即した内容になるのは118ページまで待たねばなりません。ただ、ここに至るまでの、いわば、前置き部分も私のような専門外のエコノミストには、競争政策をとてもコンパクトに取りまとめつつも、実際の違反事例や大企業の合併の事例などが実名入りで豊富に取り上げられており、それなりに勉強にはなりそうな気もします。そういった専門分野の方には公正取引委員会の競争政策の重点などが透けて読み取れるようになっているのかもしれません。今年2019年の6月22日付けの読書感想文で取り上げた森信茂樹『デジタル経済と税』は、同じように財務省で出世された公務員OBのご著書ながら、ほとんどデジタル経済とは何の関係もなく、国境をまたいだ移転価格操作という多国籍企業の税制に終始していたのに比べれば、それなりに、本書ではデジタル経済のプラットフォーム企業に対する競争政策や、デジタル経済に限定されないながらも、企業の自由な活動とそこから生み出されるイノベーションに対して阻害することなく、それでも、消費者の利益となる競争政策の在り方につき、示唆するところは大いにあります。SNSや検索エンジンなどを無料で提供する企業に集積されたデータのロックイン効果の防止やフリーランサーの競争促進など、基本編ながら、しっかりした内容の良書だと思います。

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次に、ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社) です。著者は、英国の認知神経科学の研究者ですが、英米間を行き来しているようです。英語の原題は The Influential Mind であり、2017年の出版です。また、2018年にイギリス心理学会賞を授賞されています。認知神経学というのは聞き慣れない学問分野ですが、人間は脳であり、ニューロンの発火によって生み出される、と本書で著者は断言しています。ただ、エコノミストの目から見て、経済学における選択の問題、特に、行動経済学との関係もとても深いんではないかと、本書を読んでいて私は感じられました。言及はされていませんが、ポストトゥルースのように、客観的な事実や真実に基づいて論理や知性に訴えるのではなく、その場の雰囲気とか感情を含めたすべての感受性に訴えるのがポストトゥルースですから、本書冒頭のワクチンに関する議論なども含めて、現在の言論界や政治を理解するのには非常に適した書物です。ただ、邦訳タイトルよりも現代の英語タイトルの方が内容を理解しやすく、要するに、何が人の意見や行動に影響を及ぼすか、ということを考察しています。当然、ポストトゥルースのネット社会におけるエコー・チェンバーやフィルター・バブルの現象がワンサと満載です。そして、エコノミスト的な行動経済学や実験経済学と違って、ヒト以外の生物や、あるいは、ヒトであっても現代的な社会性がかなりの程度に欠けている文明前期的な社会や子供にすらなっていない生後間もない赤ん坊の行動なども対象にして分析を進めています。加えて、実践的、というか、何というか、邦訳タイトルのように事実で説得できないとすれば、果たしてどうすればいいのか、についても実験と実践を進めています。すなわち、何かの行動に結びつけたいのであれば、ポジティブなご褒美を用意し、逆に、何かを思いとどまらせたいのであれば、ネガティブなペナルティを示す、といった例です。もちろん、逆に、他人を説得しようとするときに陥りがちな罠と、それを避ける方法も紹介されています。それらが、それほど判りやすくないイラストとともに示されています。本書もいい読書だった気がします。

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次に、ニケシュ・シュクラ[編]『よい移民』(創元社) です。編者は、ロンドン生まれの英国の小説家・脚本家であり、インドにルーツを持っています。本書では編者も含めて計21人の「よい移民」、すなわち、演劇や文学などの芸術面で一定の成功を成し遂げたり、あるいは、名声を得たりしたアーティスト・クリエイターがエッセイを連ねています。英語の原題は The Good Immigrant であり、2016年の出版です。邦訳タイトルはそのままの直訳のようですが、単数形である点は着目しておきたいと思います。ということで、タイトルとは裏腹に、有色人種の移民として差別に遭遇した経験などの恨みつらみが集められている気もします。移民、特にアジアにルーツを持つ有色人種の移民としてのアイデンティティ、もちろん、英国社会の大きな偏見や差別や無知などを、ある時は否定的に、ある時はユーモアを交えて、繊細かつ巧妙にさまざまな表現力でもって語りかけるエッセイです。かつては、大英帝国として世界の覇権を握り、世界中に植民地を有する「日の没することのない帝国」を築き上げた英国では、もちろん、我が国と同じ島国ながら植民地などから大量の移民が流れ込んでいますが、その中で、移民の人々は「よい移民」、すなわち、お行儀のよく社会に溶け込み同化するモデル・マイノリティであることが、ほぼ強制的に要請されているような気がしますが、それに反発を覚えて、ルーツを強調する移民も少なくありません。そういった移民の視点から英国の白人社会を冷静に分析し、その根本にある何か生理的に嫌なもの、あるいは、緊張感とか、悲哀のようなものが読み取れた気がします。ただ、そういったネガな感情が底流に流れているとしても、移民はヤメにして民族国家の中で生きていくのがベスト、とは私も思わないわけで、こういったいろんな移民のいろんな視点を提供してくれる情報源は歓迎すべきと受け止めています。

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次に、周燕飛『貧困専業主婦』(新潮選書) です。著者は、労働関係の国立研究機関の研究員で、私はこの著者と同じ国立研究機関に在籍していたことがあり、著者と面識があるんではないかと記憶しているんですが、著者近影のお写真では確認できませんでした。学習院大学の鈴木旦教授の奥さまです。ということで、日本の雇用や家族のシステムの中で、本書でも指摘しているように、専業主婦とはダグラス・有澤の法則に従って、比較的所得の豊かな階層に多く見られる形態だと私も考えていましたが、実はそうではないという事実を突きつけています。すなわち、貧困であるにもかかわらず専業主婦として働きに行かないわけです。日本の貧困層の場合、典型的には3類型あり、それは高齢・疾病・母子家庭です。専業主婦ですから、亭主が働きに行っているという理解の下、母子家庭ではないとしても、疾病が多くを占めそうな気もするところ、実は、うつなどの疾病とともに、子育てに注力したい母親が決して少なくないことは初めて知りました。そして、本書の著者は、そういった家族のあり方に関する思考ですから、決してリバタリアン的な新自由主義に基づく個人の裁量に任せるのでもなく、国家が家族のあり方にパターナリスティックに介入するわけでもなく、行動経済学的なナッジを持って方向づけすることを示唆しています。まあ、そうなんでしょうね。でも、本格的に貧困問題に取り組むとすれば、すなわち、家族のあり方をリバタリアン的に個人裁量に任せつつ貧困を解消しようとすれば、ベーシックインカムの導入を真剣に考慮することが必要という気もします。我が家のカミさんはほとんど専業主婦でしたが、さすがに、私はキャリアの国家公務員ですから、一家4人を養うに足るお給料はもらっていました。日本の雇用システムは、何度か書きましたが、亭主が組織のために忠誠を誓って企業スペシフィックな能力をOJTで身につけ、無限定に長時間労働に勤しむ一方で、これまた、主婦は無限定に家庭を支える、という構造になっていました。しかし、高度成長期を終えて雇用の拡大から剰余価値生産を増加させることが困難になり、従って、企業が亭主に十分な支払いをできなくなったため、主婦を雇用に引っ張り出そうとしているわけです。それに対して、共働きをしないと貧困に陥ることを警告する本書は、私から見て少し視点がおかしいような気がします。子供を保育園に出して集団生活をさせれば粗暴でなくなるなんて研究成果を引用したりするんではなく、専業主婦でも貧困でない生活を送れるようなお給料の必要性を主張すべきです。このような企業サイドにベッタリ寄り添った主張は聞き飽きてしまいました。

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次に、トニー・コリンズ『ラグビーの世界史』(白水社) です。著者は、英国の歴史研究者であり、英国スポーツ史学会会長も経験しています。私よりも年下なんですが、デ・モントフォート大学名誉教授だったりします。英語の原題は The Oval World であり、2015年の出版ですが、前回のラグビーのワルードカップ開催前でしたので、我が日本が南アフリカのボクススプリングを破った快挙が盛り込まれておらず、従って、日本ラグビーの比重がやや小さいんではないか、という恨みはあります。ということで、邦訳タイトル通りに、ラグビー200年史を膨大なボリュームでつづっています。かなり大判の書物である上に、注や索引も含めれば軽く500ページを超えるボリュームです。書店で目にした瞬間に諦める向きもあるかもしれませんが、邦訳がとても出来がよくてスラスラと読めます。先週のジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』の邦訳とはかなり違いがあります。ということで、ラグビー200年史というのは、ほとんど伝説として、スポーツ競技のラグビーが英国パブリックスクールのラグビー校で1823年にエリス少年がサッカーのボールを手でもって走り出したことに由来する、とされていますので、ほぼ200年ということになります。ただ、本書では、この故事を明確に否定しており、村の祝祭の時に両チーム合わせて100人超の人数で、きわめて無秩序に始まった協議であり、徐々にルールが整備され、パブリックスクールでのスポーツ教育として取り入れられ、ほかに所得の道を有する上流ないし中産階級におるアマチュアのスポーツとして始まり、少しずつ大衆化して労働者階級の選手が休業補償的な支払いを要求して、アマチュア15人制のユニオンからプロフェッショナル13人制のリーグが分裂し、それ以降、英国、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドから大英帝国の版図に従って世界に広まり、1987年にユニオン方式のラグビーで第1回のワールドカップが開催される歴史が跡付けられています。私はラグビーに詳しくないので、人名やチーム名などに馴染みありませんが、我が国で開催中のワールドカップの参考書として、もっとも読んでおくべき書物の1冊ではなかろうか、という気がします。

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最後に、広尾晃『球数制限』(ビジネス社) です。著者は、野球を中心とするスポーツ・ライターです。タイトルそのままに、高校生を中心とする野球における選手の健康維持のため、特に投手の投球数制限を論じています。ただ、ありがちな両論併記ではなく、圧倒的に投球数制限を支持し、早期に取り入れるべき、との意見を鮮明に打ち出しています。出版時期から、今夏の高校野球の岩手県決勝における大船渡高校の佐々木投手の登板回避は取り上げられていませんが、本書の精神からすれば、国保監督の英断を高く評価していたんだろうと、私は想像します。私は野球の経験はありませんが、中学高校と運動部に所属していましたので、HNK大河ドラマの「いだてん」を見ていても、昔の精神主義的なスポーツの捉え方は世代的にも実体験として知っていますし、非合理的だとも考えています。ですから、私自身も本書で展開されている投球数制限には大賛成です。ビジネス界では、目先の利益という短期的な視点ではなく、長期的な取引を重視する傾向の強い日本で、高校野球だけが勝利至上主義で短期的な選手起用に陥っているのは、理解に苦しむところもあります。例えば、本書にもある通り、正しいフォームで投げていればケガしないというのは正しくなく、本書の例を引けば、スクワットを100回出来る人はいても、無制限にスクワットを続けられるアスリートはいないわけで、野球の投手の投球も同じことだと思います。特に、10代で肉体的に完成していない高校生が、しかも、来年のオリンピックでも「暑さ対策」が声高に叫ばれている中で、真夏のグラウンドで野球するというのは、正気の沙汰ではありません。高校野球の場合、サッカーの国立競技場とは比べ物にならないくらいの存在感を示す甲子園という野球の聖地を目指して、真夏の競技をするわけで、学業との兼ね合いから夏休みに設定するという季節性の問題もあります。本書でも、米国をはじめとする野球先進国における投球数制限についてリポートされており、勝利を最優先にして甲子園を目指す高校野球のアナクロな指導者の目を覚まし、高野連における議論の活性化、というより、即時の結論を願って止みません。
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2019年09月21日 (土) 20:10:00

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!!!

何となく、3連休が続いたりして読書が進んでいるようで、今週の読書は経済書、というか、未来書や教養書・専門書に加えて小説まで含めて以下の計7冊です。東野作品と宮部作品は、いずれも早大生協で買って読みました。買ったうちで未読なのは伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』を残すのみとなりました。消費税率が10月から引き上げられると、しばらく本は買わなさそうな気がしないでもありません。

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まず、ジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』(SBクリエイティブ) です。著者は、私の知る限りエコノミストで未来学者なのかもしれませんが、もうそろそろ80歳ですし、技術関係がこんなに詳しいとは知りませんでした。大昔の米国レーガン政権期にサプライサイド経済学としてもてはやされたころ、『富と資本』を読んだ記憶があります。たぶん、まだ我が家の本棚にあると思います。ということで、本書では、実に大胆にも、今を時めくグーグルが近い将来にブロックチェーンの技術を基に開発された「ブロックスタック」に打倒され、世界の主役が交代すると予言しています。どうしてそうなるかといえば、一言で、無料サービスにこだわるグーグルは希少資源としての時間消費との矛盾を生じるから凋落するということで、要するに、無料サービスは我々の希少資源であり、万人に共通して1日24時間しかない時間の浪費を促進するから、ということのようです。すなわち、お金を出してなにか買うんではなく、時間を提供しているから、そんな資源の浪費は出来ない、といわけです。逆に、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、私にはよく理解できませんでしたが、要するに、リバタリアン的な理由のように感じました。すなわち、情報が分散処理されており何らかの中央処理機関のようなものが存在せず、他方、すべての参加者が共通の台帳を閲覧し、管理し、記録できる、わけで、何らかの情報処理センターを持っているグーグルとは異なります。ただ、このあたりの立論は強引な気がします。もっとも、私の読解力が不足しているのかもしれません。最後に、私の知る限り、本書は米国などではなかなかのベストセラーになっていますが、我が国での評判とはやや落差があります。テクノロジー関係の馴染みないカタカナ用語がいっぱい並んでいる点を別としても、問題の大きな部分は邦訳の文章が悪い、ということになるのかもしれませんが、私が感じたもうひとつは、400ページあまりのボリュームの中で、半分くらいがビットコインとかイーサリアムなど暗号通貨とそれを可能とするブロックチェーンの説明に費やされているのが読みにくい理由ではないかと思います。私の解釈では、グーグルが凋落するのは、無料サービスと希少な時間の浪費という矛盾を基にする理論武装で、多くのエコノミストの合意を得そうな気もしますが、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、ほとんど理由になっておらず、かなりムリな立論に頼っているために、やたらと事実関係をいっぱい引用して補強する必要性を著者が感じてしまったからではないか、という気がします。タイトル的に、グーグルが落日を迎えるという1点に絞って議論を展開して、グーグルに代わって勃興するグループについては別論とした方がよかったような気もします。読みにくいのを承知の上で、また、凋落するグーグルに対して勃興する勢力の理論付けにかなりムリあるのを承知の上で、それなりの覚悟を持って読み進む必要がありそうです。

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次に、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義』上下(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで、英国のオックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国のプリンストン大学の研究者です。専門分野は青磁思想史・政治理論となっています。私はこの著者の本としては、2年余り前に同じ出版社から出た『ポピュリズムとは何か』を読んで、2017年6月17日付けで読書感想文をアップしています。英語の原題は Contesting Democracy であり、2011年の出版です。上下巻ですが、歴史的な期間で区切られており、上巻では第2次世界大戦まで、下巻は戦後を対象にしています。ただ、上の表紙画像に見られる通り、副題は『20世紀ヨーロッパの政治思想』とされており、21世紀は対象外と考えるべきです。加えて、地理的なスコープは欧州に限られています。すなわち、我が国はもちろんのこと、米国すらも対象とされていません。ということで、上巻では、政治的には第1次世界大戦の結果としてソ連が成立し、経済的には米国を発端とする世界恐慌の結果、従来の地方名望家層に基礎を置く政治体制としての民主主義において、所得が十分あるブルジョワジーが政治に参加するとともに、製造業や商業を基盤とする資本主義的な経済が支配的な欧州において、資本主義と共産主義に対する第3の道としてのファシズム、中でもドイツのナチズムの成立がクローズアップされています。そして、下巻では同じく資本主義ながら、政府が積極的に市場に介入するというケインズ的な混合経済とベバリッジ的な福祉国家が1970年代の石油危機を発端とする大幅なインフレで疑問視され始め、この資本主義的な経済に対して、やっぱり、ソ連的な共産主義が対置されて、その第3の道としてのキリスト教民主主義ないし社会民主主義が模索される、というのが、大雑把なストーリーとなっています。どうしても、著者の出身からドイツが欧州の中心に据えられている気がします。ただ、戦前期から社会民主党が政権を担ってきたスウェーデンなどの北欧もありますし、もちろん、例外はいっぱいです。さらに、歴史的なスコープが20世紀で区切られているので、21世紀的なポピュリズムまでは、まあ、2011年の出版でもあり、BREXITや米国のトランプ大東慮y当選、さらに、大陸欧州でのポピュリズム政党の勢力台頭など、最近の出来事には目が届いていない恨みはあります。ただ、冷戦期からウェーバー的な官僚制が国家統治の主要なツールとなり、西側民主主義国政府だけでなく、むしろ、東側の共産主義国家の方でも官僚制がはびこっているとも指摘しており、今でもBREXITでの議論ではEU官僚が批判の矢面に立たされるなど、ポピュリズムの標的とされる場合すらあります。ただ、本書では著者は戦後欧州の民主主義や憲法秩序は、様々なチャレンジを乗り越えてその強靭さを示してきているということになりますが、無条件に自由と民主主義が侵犯されることはないとまではいえず、あくまで、自由と民主主義は「制度化された不確実性」である、ということになろうかと思います。すなわち、欧州においてすら初期設定が自由と民主主義であるわけではなく、主権者である国民自らがこれらを守ることに意図的に取り組む必要がある、ということなのだろうと私は解釈しています。

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次に、アンドレアス・ヴィルシング & ベルトルト・コーラー & ウルリヒ・ヴィルヘルム[編]『ナチズムは再来するのか?』(慶應義塾大学出版会) です。編者は、ドイツの研究者であり、チャプターごとの著者も同じくドイツの政治関係の研究者が主に執筆に当たっています。というか、ラジオ放送をオリジナルにして、新聞も含めてメディアミックス的に展開されたエッセイを取りまとめています。ドイツ語の原題は Weimarer Verhältnisse? であり、直訳すれば「ヴァイマル状況」という意味だそうです。2018年のヴァイマル共和国建国100年を記念して出版されています。ということで、本編は7章から成っており、原書からの章の組み換えはあるようですが、邦訳書では、政治文化、政党システム、メディア、有権者、経済、国際環境、に加わエて、最後に、外国からのまなざし、となっています。邦訳書には、ヴァイマル共和国略史と訳者あとがきなどの解説が付加されています。邦訳書では第5章に当たる経済のパートの副題が「ヴァイマル共和国の真の墓掘人」と題されており、エコノミストの目から見ても、まったく同感です。というか、ハイパーインフレを招いた通貨発行と緊縮財政の恐るべき組み合わせもさることながら、ケインズ的なマクロ経済政策を先取りするかのような財政拡張的なナチ党の経済政策が大きく上回って、その結果として国民各層、企業経営者も労働者も含めて、有権者の大きな支持を得て政権交代が生じた、ということになろうかと思います。そして、邦訳書のタイトルに設定された問いに私なりに回答しようと試みると、可能性は小さい、ということになろうかという気がします。本書では、あるいは、類書でも、最近の大陸欧州の政治状況、特にポピュリズムの台頭に関して、フランス国民戦のルペン党首とともに、ドイツでは極右とされるドイツのための選択肢AfDが注目されていて、特に地方政府の州議会選挙での躍進が報じられたりして、本書でもAfDとナチ党をなぞらえたり、比較を試みたりする見方が示されています。私は、ドイツ政治の実態を知らないので、何ともいえませんが、少なくとも私の理解する限り、ナチ党が政権に就いたひとつの要因に暴力による威嚇や脅威があったと考えています。すなわち、突撃隊SAや親衛隊SSというナチ党の私兵的な存在が警察や国防軍に入り込み、政府が集中管理する暴力に紛れてナチ党の暴力が国民の恐怖を引き起こして、決してドイツ国民の理性的な判断ではない投票結果をもたらした可能性があると私は考えています。これは、実は、スターリン政権下でのソ連も極めて類似しており、秘密警察が国家権力そのものであった違いだけであろうと思います。その意味で、現在のAfDがかつてのナチ党のSAやSSのような暴力装置をどこまで持っていて使用しているのか、私は知りませんが、21世紀の民主主義国家でSAやSSのような暴力装置が政権奪取にパワーを発揮するという政治状況は、控えめにいっても、あってはならないことだという気がします。

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次に、デイビッド・ウォルトナー=テーブズ『昆虫食と文明』(築地書館) です。著者は、カナダの疫学者、獣医学の研究者です。英語の原題は Eat the Beetles! であり、音楽グループのビートルズ Beatles と甲虫をもじっています。2018年の出版です。ということで、本書のモチーフとなったのは、冒頭にも言及されている通り、2013年に報告された FAO Edible insects: Future prospects for food and feed security のようです。近代から現代にかけて、人類がマルサス主義的な悲観論を克服したのは、アジアなどにおける「緑の革命」による食糧生産、中でも穀物生産の画期的な増加だったわけですが、我が国の明治期にも軍医としても森鴎外がカロリー摂取の点から白米の食事に全面的な信頼を置いていたのに対して、さすがに、21世紀に入れば主食の穀物だけでなく動物性タンパクが必要になりますから、こういった昆虫食のような発想が出るんだろうと思います。特に、本書でも何度も指摘している通り、欧州に起源をもつ人は昆虫食の文化がない一方で、日本の鮨が周辺~世界の中心的な食事になったことから、昆虫食についてもその可能性を秘めていると指摘しています。FAOの研究リポートや本書によれば、昆虫はウシ、ブタなどの家畜の肉に比べて高タンパクで、体によいとされる不飽和脂肪酸や鉄などの造血ミネラルも豊富に含んでおり、養殖するにしても他の家畜に比べて飼料効率が格段によく、発生する温暖化ガスや廃棄物は少なくて済み、その上に、養殖のためのインフラ整備にコストがかからない。とされており、いわゆるSDGsの観点からも人類は昆虫食から得るものが多い、と結論されています。昆虫を食用に用いないというのは、少なくとも宗教的な観点ではありません。広く知られている通り、ブタについてはユダヤ教やイスラム教ではタブーですし、ヒンズー教徒はウシを神聖視していたりもします。世界的にも、養殖の牛や豚などではなく自然の野生生物の食肉を用いたジビエがファッション的な観点からも注目されていますし、日本はもともとイナゴやハチノコなどの昆虫食があったりもします。しかしながら、そうはいっても、私自身は昆虫食をしたことがありませんし、抵抗感があるのも事実です。地球環境やSDGsの観点といわれても、ピンと来ないのも事実です。果たして、どこまで昆虫食が日本や欧米先進国で進むかは、大きな疑問ともいえます。本書でも、事前に私が想像したよりも、写真や図版がとても少ない気がしますが、そのあたりの配慮かもしれないと考えるのはよろしくないんでしょうか。

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次に、東野圭吾『希望の糸』(講談社) です。作者は売れっ子のミステリ作家であり、ガリレオのシリーズなどで有名ですが、本書は加賀恭一郎シリーズの作品で、でも、主役は加賀恭一郎の従弟の松宮脩平だったりします。内容は、2つの独立した家族関係、というか、イベントというか、静的には家族関係で、動的には殺人事件というイベント、ということになろうかという気がしますが、これらが同時並行的に謎として解決される、というミステリに仕上がっています。すなわち、一方は加賀や松宮が仕事として取り組む殺人事件であり、他方は松宮の個人的な出生の事実であり、いずれも謎解きの醍醐味が味わえます。この作者らしい切れ味鋭く、しかも、私の好きな徐々に真実が明らかにされる、という手法です。逆から見て、最後のどんでん返しはありません。ミステリですから、ここまでなんですが、タイトルについて少し考えておきたいと思います。すなわち、タイトルの「希望の糸」とは要するに家族のつながりなんですが、私の目から見て、やや遺伝的、というか、DNAに偏重した家族観ではないかという気がしています。同じような家族のつながりについて、表立ってはいないかもしれませんが、ひとつのテーマとして含んだ小説はいっぱいあり、私の好きな作家の作品として一例をあげると、三浦しをんの「まほろ駅前」シリーズがあります。このシリーズで作者の三浦しをんは遺伝子やDNAよりも、圧倒的に家族として過ごした関係とか時間の長さなどに重きを置いた家族観を披露しています。典型的には、行天と三峯凪子の間の子であるはると行天の関係です。行天のパーソナリティという設定なのですが、遺伝的には正真正銘の親子であっても行天は小さい子供であるはるを受け付けません。逆に、第1作の『まほろ駅前多田便利軒』のラストでは、体格から新生児の取り違えを強く示唆する一家の幸せそうな姿も描かれています。私は、これは男だからという生物学的な要素もあるのかもしれませんが、圧倒的に三浦しをんの家族観を支持します。もちろん、遺伝的なつながりが家族の基礎にあることは決して否定しませんが、家族とは文明以前の生物学的な観点から子孫を残すために結成されたグループなのではなく、社会的な生活を営むためのグループではないか、と私は考えています。その意味で、この作品に少し不満が残らないでもないんですが、少なくとも、松宮の出生の秘密に対する松宮本人と松宮母の受け止めの違いを読者は感じ取ってほしい気がします。私のようにこの作者のファンであれば、読んでおくべきだという気がします。

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最後に、宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社) です。これまた、上の東野圭吾とともに売れっ子のミステリ作家であり、私からクドクドと説明する必要はないと思います。本書は、この作家の恐らく初めての本格的なSF短編集だと私は考えています。なぜに「本格的な」という形容詞を付けたのかというと、今作者の作品の中で、ゲームの原作的な作品や超能力をモチーフにした作品がいくつかあり、基本的には近未来や現代から時代小説でも超能力や『荒神』のような化け物のような非現実的な作品もあるんですが、あくまで「本格的」と形容されるSFは初めて、という気がするからです。この作者の作品はかなり数多く読んでいるつもりですが、読み逃しがあるかもしれませんが、私の知る範囲でそういうことになろうかという気がします。短編集ということで、8編の短編が収録されています。収録順に、「母の法律」、「戦闘員」、「わたしとワタシ」、表題作の「さよならの儀式」、「星に願いを」、「聖痕」、「海神の裔」、「保安官の明日」となります。「母の法律」では、児童虐待防止のためにマザー法が制定され、記憶消去だか、記憶沈殿だかの記憶の操作まで行われる社会での親子関係を描きます。「戦闘員」では、侵略者が監視カメラに化けて出没する中で、リタイアした老人がこの侵略者を破壊する戦闘員となって戦います。「わたしとワタシ」では、45歳のわたしの前に、中学生のワタシがタイムスリップして現れるというコミカルな短編です。表題作の「さよならの儀式」では、古くなり修理部品もままならない家事ロボットを廃棄する際の切ない感情を取り上げています。「星に願いを」では、宇宙人が乗り移って妹が体調を崩したり、駅前で無差別殺人が起こったりします。「聖痕」では、ある意味で神戸の「酒鬼薔薇事件」の犯人を示唆している「少年A」が黒き救世主となって児童虐待の復讐に現れ、鉄槌のユダまで登場します。なお、本編は『チヨ子』に収録されている同タイトルの短編との異同が不明でした。「海神の裔」では、ゾンビというか、フランケンシュタインのように死者をよみがえらせることが国家施策となっていた世界について老女がモノローグで語ります。最後に、「保安官の明日」では、人造擬体をキーワードに大富豪が人生の悲劇の原因を探るためにシミュレーションを行う世界を描き出しています。ということで、各短編作品のSF度はそれほど高くなくて、現在の社会とはホンの少しビミョーに違っているだけなんですが、作者の世界観がすごいと感じさせられました。同時に、マイノリティーや弱者に対する作者のやさしい眼差しが印象的です。宮部ワールドの新しい方向性かもしれません。現代日本を代表する女性小説家の1人の最新作ですから、私のようなファンでなくても読んでおくべきだという気がします。
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2019年09月14日 (土) 11:30:00

今週の読書は経済学史のテキストからラノベまで含めて計9冊!!!

今週は大量に10冊近くを読みました。ただ、ややゴマカシがあって、うち3冊はラノベの文庫本だったりします。大学の経済学史の授業のテキストから始まって、以下の計9冊です。なお、小説の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』だけは買った本で、ほかは図書案で借りています。早大生協で5冊ほど小説ばかり買い求めたんですが、先週取り上げた道尾秀介『いけない』と、今日の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』のほか、残る3冊は宮部みゆき『さよならの儀式』、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』、東野圭吾『希望の糸』です。順次取り上げるつもりですが、あるいは、一気に読み切るかもしれません。

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まず、野原慎司・沖公祐・高見典和『経済学史』(日本評論社) です。著者たちは、いうまでもなく、経済学史の研究者であり、本書は大学の学部生くらいを対象にしたテキストを意図されているようです。ですから、基本的には学術書なんでしょうが、世間で身近な経済分野を分析する経済学の歴史ですので、一般のビジネスパーソンでも十分に読みこなせて、職場でも話題にできるような気がします。おそらく、どのような学問分野にも、xx学史の研究テーマがあり、例えば、数学史や天文学史などが有名ではないかと思います。後者の天文学史では、天動説から地動説に大転換があったりするわけです。その意味で、経済学の歴史である経済学史は、本書で指摘されている通り、そもそも成立がメチャクチャ遅いわけです。通常、古典的なレベルでは、典型的には古典古代のギリシア・ローマやエジプトなどに発祥する学問分野が少なくないんですが、経済学は、どこまで古くさかのぼっても、せいぜい、スミス直前の重農主義や重商主義でしかなく、むしろ、スミスの『国富論』なんぞは、ほかの学問分野では近代と呼ばれそうな気もします。その後の歴史的な経済学の現代までの流れが、極めてコンパクトに取りまとめられています。ただ、惜しむらくは、ものすごく大量の経済学の歴史を詰め込もうとしているだけに、とても大量の人名と理論が登場します。役所の官庁エコノミストをしていたころは、ほとんど何の関係もなかったマルクス主義経済学まで本書ではカバーしていたりします。とても例えが悪いので申し訳ないんですが、まるで、その昔の高校の世界史や日本史みたいな気すらします。中国の諸王朝の名称とそれぞれの皇帝の名を暗記するような勉強に、私のようなこの分野の初学者は陥るような気もします。経済学史の先生方は、このように多くの経済学者の名前を記憶し、それぞれの理論や業績をしっかりと把握しているのでしょうか。とても驚きです。私の記憶が正しければ、日銀の若田部副総裁のご専門が経済学史だったような気がするんですが、確かに、経済学の分野における博覧強記を地で行くような先生であるとのウワサを聞いたことがあります。私自身は、名前だけはよく似ている経済史を学生のころは勉強していました。経済学史がその名の通りに経済学の歴史であるのに対して、経済史もその名の通りに経済の歴史です。途上国や新興国が経済の発展段階を進める際の開発経済学の分野への応用の方が主だという気もします。

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次に、ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(白揚社) です。著者は、米国ハーバード大学の人類進化生物学の研究者です。英語の原題は The Secret of Our Success であり、2017年の出版です。本書で著者は、生物学的な、というか、ダーウィン的な進化だけでなく、ヒトについては文化が進化に大きな役割を果たして点を強調し、文化が人間を進化させ、そうして進化した人が文化を高度化し、高度な文化がさらに人を進化させる、という文化と進化の相乗効果で、ほかの動物に見られない極めて高度な文化・文明を身につけた、ということを実証しようと試みています。確かに、ヒトは個体としては決して強力ではなく、スポーツのようなルールなく素手で対決すれば軽く負けてしまいそうな自然界の動物はいっぱいいます。本書の冒頭で、コスタリカのオマキザル50匹とヒト50人がサバイバルゲームをすれば、おそらく、ヒトが負けるといった事実を突きつけています。その上で、「習慣、技術、経験則、道具、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして後天的に獲得されるあらゆるものが含まれる」と指摘している文化が、火や道具や衣類や言語や、といった文化的進化の産物をもたらし、さらに、これらがヒトの脳や身体に遺伝的な変化をもたらすという意味で、「文化-遺伝子共進化」culture-gene interactions を考えて、これこそがヒトをヒトたらしめている、と強調しています。加えて、文化が社会的な思考や行動を要請し、ある社会集団の構成員が共有している知識の総体としての文化が、食物をどのように獲得するか、個人間の争いをどのようにして仲裁するか、死後の世界はどんなものだと想定するか、何をしてはいけないか、どんな服装をするべきか、などなどを決定しているというわけです。ですから、文化を異にするヨソモノが別の社会的な集団に加わることは、それほど容易ではない、ということになります。また、別の観点から、当然のように、なぜヒトだけがこんな文化を持つことができるのだろう、という疑問が生じます。そして、文化を持つために必要な能力とは何かを考え、文化を形成し、改訂を加え、さらに次世代に伝達していくために必要なヒト固有の生物学的本能にも視点が及びます。人類という意味での集団についても、個別の子供の育て方についても、決定的な影響を及ぼすのは、親から受け継ぐ遺伝子かそれとも環境下、という不毛な論争が続いて来ましたが、集団としての人類の優秀さのもとを解明するためには、どのように他者と知識を共有し、他者から学ぶのかの詳細を解明することを通じて、この論争を終結させる可能性があるような気がします。

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次に、トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房) です。著者は、米国海軍大学教校授であり、ロシア情勢や国家安全保障の研究者です。英語の原題は The Death of Expertise であり、2018年の出版です。基本的に、米国言論界の現状について、かなり上から目線ながら、専門知が尊重されず、議論が不毛のものとなって疲労感ばかりをもたらす現状について警告を発しています。もちろん、米国だけでなく、我が国を含むほかの先進各国にも、いくぶんなりとも共通するところが見出せるような気がします。すなわち、100年ほど前までは、政治経済や言論などの知的活動への参加は一部のエリート階級に限られていたが、現在に続く大きな社会変化でラジオやテレビ、さらにインターネットが普及して門戸は一般大衆に大きく開かれ、こういった方向は多くの人のリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代の到来が期待された一方で、実際には、極めて多くの人が極めて大量な情報にアクセスが可能となり、かつ、知的活動に携わりながら、実は情報や知識を吸収しようとはせず、自らのやや方向違いの信念に固執して、各分野で専門家が蓄積してきた専門知を尊重しない時代を迎えている、ということを憂慮してます。確かに、我が国のテレビのワイドショーなんぞを見ていると、単なるタレント活動をしている芸能人が政治経済に関するコメンテータの役割を果たしているケースも決して少なくなく、私も従来から疑問に思っていたところです。例えば、政府の進める働き方改革でその昔に議論されたホワイトカラー・エグゼンプションについて、プロスポーツを引退したばかりで母児雌マンをしたこともないような元スター選手にコメントを求めても私はムダではないか、と思った記憶があります。これは、いわゆるポストトゥルースやポピュリズムの時代に、自分の意見と合致する情報だけを選び取る確証バイアス、その極端なものとしてのエコーチェンバーやフィルターバブルなどの結果といえます。ですから、健全で熟慮・熟考に基づく議論が成立しません。ただし、逆の面から見て、本書の第6章でも指摘していますが、専門家が常に正しいわけでもなく、本書では取り上げていませんが、鉛を加えたハイオクガソリンやフロンガスを社会生活に導入したトマス・ミジリーの実例などもあります。何が正しくて、何が間違っているのか、私は決して民主主義的な多数意見が常に正しいと考えるわけではありませんが、おうおうにして「みんなの意見は案外正しい」こともあるわけで、健全な常識に基づいて相手に対する敬意を持った議論を重ねて、決して真実ではないかもしれませんが、何らかの一致点に達したいと希望しています。

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次に、ヤクブ・グリギエル/A. ウェス・ミッチェル『不穏なフロンティアの大戦略』(中央公論新社) です。著者は2人とも安全保障に関する研究者ですが、ともに国務省の勤務経験もあり、単なる研究者にとどまらず実務家としての経験もあるようです。英語の原題は The Unquiet Frontier であり、邦訳タイトルはそのまま直訳したようです。2016年2月の出版です。どうして月まで言及するかといえば、本書が出版された時点では、現在のトランプ米国大統領はまだ共和党の中でも決して有力とみなされていなかったからです。ということで、監訳者あとがきにもありますが、本書の結論を一言でいえば「同盟は大切」ということになります。現在、東アジアで日韓関係がギクシャクして、そこに米国が仲介すらできずに、半ば静観していて、逆に、軍事的な負担金の増額を我が国に求めるがごとき政府高官の発言が報道されたりしていて、米国の安全保障面での求心力の低下を私は実感しています。もちろん、マルクス主義的な上部構造と下部構造に言及する必要もないくら位に明白な事実として、米国経済が全般的にその地位を低下させるとともに、軍事的なプレゼンスはもとより安全保障上の発言力も大きく低下し、その上で、現在の米国トランプ政権のような同盟軽視で自国中心主義的な安全保障観が登場したのはいうまでもありません。そういった当然のような最近数十年の安全保障上の動向につき、本書では「探り」probimg という言葉をキーワードに、現在の覇権国であり現状を変更するインセンティブを持たない米国とその同盟国に対し、ロシア・中国・シリアなどの現状変更を目指す勢力が「探り」を入れて来ていると著者たちは感じているわけです。私の感覚からすれば、「探り」とは低レベルの圧力であり、言論を持ってするものもあれば、破壊力の弱い武力行使も含まれるというくらいの意味に取りました。要するに、現状変更を目指す3石は米国と直接の武力対決を目指すのではなく、日韓両国がまさにこれに含まれるフロンティア=周辺に位置する米国の同盟国を切り崩しにかかっていて、韓国はまんまとこれに翻弄されているように見えます。いずれにせよ、私の専門外でありながら、興味の範囲内である安全保障に関する本書は、同盟という観点から米国サイドの安全保障を分析しており、それなりの新味があった気がします。実は、私自身は対米従属から脱却するために日米同盟は廃棄することが望ましいと考えていますが、米国の方から同盟に対する否定的な意見が飛び出す政権が登場したのに、やや戸惑っているのも事実です。

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次に、池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社) です。作者はご存じ売れっ子の大衆小説作家であり、本書はTBSドラマの原作となっており、明日の日曜日が最終回の放映ではなかったかと記憶しています。名門ラグビーチームを抱える大手自動車会社の経営戦略室のエリート社員が、横浜工場の総務部長に左遷されて、自動的にラグビーチームのゼネラルマネージャー(GM)を兼務する、というか、本来の総務部長としてのお仕事よりもラグビーチームのGMとしてのご活躍がほぼほぼすべてとなります。辞任した監督の後任探しから始まって、地域密着型のチーム作り、さらに、ラグビー協会の改革、もちろん、チームの1部リーグの優勝まで、余すところなく目いっぱいの展開です。しかも、この作者らしく、社内政治も目まぐるしく変化し、今までになかったどんでん返しも見られたりします。というのは、この作者の作品の特徴として、半沢直樹シリーズが典型なんですが、白黒はっきりと別れて、主人公のサイドにいて味方するいい人たちと、それに対抗する悪い人たちが明確に分類される傾向があり所、この作品では白だと思っていたひとが黒だった、という展開もあったりします。そして、長らく定年まで役所に勤めた私なんかには想像もできないんですが、大きな会社ではここまでコンプライアンスに問題ある行為を実行する役員がいたりするものか、と感じさせられました。ラグビーですから、大学レベルでは関東の早大、明大、慶大、社会人レベルでもいくつかラグビーチームを持つ会社が実名で言及されたりして、また、監督についても実名で登場したりするんですが、実際に登場するチーム名や選手名は、もちろん、すべてが実在しないんだろうと思います。その点で、やや混乱する読者もいるかも知れません。それから、同じ作者で社会人のノンプロ野球をテーマにした『ルーズベルト・ゲーム』というのも私は読んでいるんですが、競技としてのルールや戦術などについてはラグビーの方が馴染みないんですが、それでも、作品としてはこの『ノーサイド・ゲーム』の方がよく出来ている気がします。私はドラマの方はまったく見ていませんが、明日の最終回を楽しみにしているファンの方も決して期待は裏切られないと思います。

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次に、ブレイディみかこ『女たちのテロル』(岩波書店) です。著者は英国ブライトン在住の保育士・著述家というカンジではないでしょうか。本書は出版社のサイトでは、評論・エッセイに分類されており、確かに、実在の人物や事件を基にしているわけですが、私の目から見て、あくまで私の目から見て、なんですが、真実は計り知れないながらも、かなり脚色もあって、むしろ、事実や実在の人物に取材した小説ではないか、という気がしています。まあ、赤穂浪士の討ち入りを題材にした時代小説のようなもんではないでしょうか、という気がします。したがって、私の読書感想文では小説に分類しておきます。ということで、女たちですから3人の約100年前の女性にスポットが当てられています。すなわち、皇太子爆殺未遂の金子文子、武闘派サフラジェットのエミリー・デイヴィソン、そして、アイルランドにおけるイースター蜂起のスナイパーであるマーガレット・スキニダーです。さすがに、私が知っていたのは金子文子だけで、本書でも言及されている朴烈の膝に寝そべった金子文子の写真も見た記憶があります。残念ながら、特に印象には残っていません。サフラジェットというのはたぶん、suffrage から派生していて、過激な女性参政権論者、アクティビストのようです。最後に、アイルランドのイースター蜂起は事件として知っているだけで、マーガレット・スキニダーについては皆目知りませんでした。いずれ3人とも恵まれない境遇から国家に反旗を翻した100年前の女性たちです。金子文子については、皇太子爆殺未遂の容疑なんですが、爆弾も用意せずに頭の中で計画を巡らせただけで、おそらくは、朝鮮人とともにという偏見もあって、それだけで有罪になったんですから、現在からは考えられもしません。でも、これら3人の女性が国家や権力と対決しつつも、前を向いて時代を生き抜く力の尊さについての温かい眼差しを感じることができました。ただ、金子文子の部分はともかく、先ほどのサフラジェットもそうなんですが、外国語をそのままカタカナにした文章表現は、やや読みにくく流暢な文章というカテゴリーからかなり遠いような気がしました。私はそれほどでもありませんが、それだけで嫌になる読者もいそうな気がします。着目した内容とアンリ・ルソーの雰囲気をたたえた表紙がよかっただけにやや残念です。

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最後に、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 10』、『京都寺町三条のホームズ 11』、『京都寺町三条のホームズ 12』(双葉文庫) です。個の私のブログでは、昨年2018年5月半ばに8巻と9巻の読書感想文をアップしています。その続きの10巻、11巻、12巻を読みました。10巻ではとうとう主人公の葵が5月3日ゴールデンウィーク真っ最中に20歳の誕生日を迎え、清貴と九州を走るJR九州のななつ星、だか、その架空バージョンに乗って婚前旅行、だか、婚約旅行をするストーリーです。そして、11巻は少し小休止で過去を振り返ったりします。このシリーズには第6.5巻というのがあったりしましたから、11巻というよりも10.5巻なのかもしれません。そして、12巻は清貴の修行シリーズに戻って、探偵事務所編です。どこまで続くんでしょうか。あるいは、私はどこまで付き合うんでしょうか?
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2019年09月08日 (日) 13:50:00

先週の読書は経済書『グローバル・バリューチェーン』や教養書から小説までよく読んで計7冊!!!

昨日に米国雇用統計が入ってしまって、いつも土曜日の読書感想文が今日の日曜日にズレ込んでしまいました。『グローバル・バリューチェーン』や東京大学出版会の学術書といった経済書、さらに、教養書に加えて、道尾秀介の話題の小説まで、幅広く以下の通りの計7冊です。また、いつもの自転車に乗っての図書館回りもすでに終えており、今週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、荒巻健二『日本経済長期低迷の構造』(東京大学出版会) です。著者は、その昔の大蔵省ご出身で東大教授に転出した研究者です。本来のご専門は国際金融らしいのですが、本書ではバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷について分析を加えています。出版社から考えても、ほぼほぼ学術書と受け止めていますが、それほど難しい内容ではないかもしれません。というのは、著者はが冒頭に宣言しているように、特定のモデルを念頭にした分析ではなく、したがって、モデルを数式で記述する意図がサラサラなく、マクロ統計データを基にしたグラフでもって分析を進めようとしているからです。ですから、各ページの平均的な面積で計測したボリュームの⅓から半分近くが文字ではなくグラフのような気が、直感的にします。あくまで直感ですから、もちろん、それほどの正確性はありません。ということで、まったくエコノミスト的ではない方法論ながら、バブル崩壊後の日本経済の低迷について、国内要因と海外要因、あるいは、供給サイドと需要サイド、財政政策と金融政策、家計部門と企業部門、などなど、いくつかの切り口から原因と対応策を考えた上で、企業部門の過剰ストック、という、エコノミスト的な用語を用いればストック調整が極めて遅かった、ないし、うまく行かなかった、という結論に達しています。いくつかに期間を区切って分析を進めていますが、特に、停滞が激しくなったのは1997年の山一證券、三洋証券、拓銀などが破綻した金融危機からの時期であるとするのは、衆目の一致するところでしょう。しかし、結局、「マインドセット」という耳慣れない原因にたどり着きます。それまでの統計を並べた分析とは何の関係もなく、企業部門の行動パターンの停留にある毎度セットに原因を求める結論が導かれた印象です。あえて弁護するとすれば、あらゆる可能性を統計的には叙すれば「マインドセット」が残る、といいたいのかもしれません。でも、わけの判らない結論だけに制作的なインプリケーションがまったく出てきません。あえてムリにこじつけて、本書ではデフレ対策の意味も兼ねて、ストック調整を無理やりに進めて供給サイドのキャパを削減することを指摘しています。かつての nortorious MITI のように各社に設備廃棄を行政指導したりすることが念頭にあるとも思えず、苦笑してしまいました。確かに、私もかつてのリフレ派のように「金融政策一本槍でデフレ脱却」というのは、ここまで黒田日銀が異次元緩和を続けてもダメだったんですから、そろそろ考え直す時期に来ているというのは理解します。しかし、本書がその意味で役立つとはとても思えず、「やっぱり、現代貨幣理論(MMT)ですかね」という気分になってしまいました。ちゃんと勉強したいと思います。

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次に、猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』(日本経済新聞出版社) です。著者はJETROアジア経済研究所のエコノミストです。途上国経済の分析や開発経済学の専門家が集まっているシンクタンクですが、実は、本書の副題も「新・南北問題へのまなざし」とされていて、単純にサプライチェーンを新たな呼び方で分析し直しているわけではありません。ただ、本書はほぼ学術書と考えるべきで、一般的なビジネスパーソンにも十分読みこなせるように配慮されていますが、それなりにリファレンスにも当たって読みこなす努力があれば、各段に理解が深まるように思います。もちろん、モデルを説明するのにはビジュアルな図表を用いて数式はほぼ現れない、という配慮はなされています。ということで、本書のタイトルではなく、一般名詞としてのグローバル・バリュー・チェーン(GVC)については、本書でも参照されているように、PwCのリポートでデジタル経済におけるサプライチェーンの特徴づけがなされていて、従来のような直線的な調達・生産・流通といったルートから顧客に届けるんではなく、それぞれの段階に応じてサプライチェーンを管理する必要性が指摘されています。ただ、本書はそういったマネジメントや経営学的なサプライチェーンではなく、もっと純粋経済学的な理論と実証の面からGVCを分析しています。その観点はいくつかありますが、第1に、産業連関表というマクロ経済の鳥観図の観点からの分析です。付加価値ベースで、どの国でどの産業の製品をアウトプットとして製造しているか、そのためにどの産業の製品をインプットとして用いているか、関連して雇用なども把握できる分析ツールが産業連関表であり、本書では世界経済レベルの連結した国際産業連関表をベースにした議論がなされています。第2に、最新の貿易理論の視点です。古典的ないし新古典派的な経済学では、リカードの比較生産費説に始まって、サムエルソン教授らが精緻化を図りましたが、本書でも指摘されているように、モデルのいくつかの前提を緩めて現実に近づけていく中で、クルーグマン教授らの新貿易理論、さらに、メリッツ教授らの新・新貿易理論に到達し、さらに、GVCの分析から新・新・新貿易理論まで展望しています。第3に、途上国や新興国の経済開発に関する視点です。従来は、直接投資などで外資を受け入れ、垂直的な向上生産を丸ごと途上国や新興国に資本や技術を移転するという観点でしたが、GVCでは生産の部分的な貢献により先進国から技術やマネジメントの導入が可能となり、比較優位がさらに細かくなった印象を私は持ちました。その昔、リカードは英国とポルトガルで綿織物とブドウ酒の例で比較優位に基づく生産の特化をモデル化しましたが、すでに、1990年代には半導体の前工程と後工程の分割など、生産の細分化により世界中で幅広く生産を分散化するという例が見られています。本書冒頭では、アップルのiPhpneが米国カリフォルニアでデザインされ、中国で生産された、という、それはそれで、少しややこしい生産ラインについて言及していますが、いろんなパーツを持ち寄ってアッセンブルするという生産が決して例外ではなくなっています。そして、最後に、そういった生産工程の一部なりとも自国に取り込むことにより、工学的なテクノロジーや経営的なマネジメントなどの導入を通じて途上国や新興国の経済開発に寄与する道が開かれたわけです。こういった幅広い観点からGVCの理論的・定量的な分析が本書では進められています。ただ、その前提として自由で公正な貿易システムが不可欠です。現状の米中間の貿易摩擦はいうに及ばず、世界的に自国ファーストで政治的・経済的な分断が進む方向はエコノミストとして、特に、私のように自国の経済はもとより、途上国や新興国の経済発展にも目を配る必要を感じているエコノミストには、とても疑問が大きいと考えています。

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次に、本川裕『なぜ、男子は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、統計の専門家で「統計探偵」を自称し、財団だか社団だかのご勤務の傍ら、ネット上の統計グラフ・サイト「社会実情データ図録」を主宰しているんですが、私の記憶が正しければ、役所からはアクセスできなかったです。理由はよく判りません。その昔は、マンキュー教授の Greg Mankiw's Blog にもアクセスできませんでしたから、私が文句をいって見られるようになったこともありました。どうでもいいことながら、私が役所に入った際に上司の局長さんは「景気探偵」を自称し、シャーロッキアンだったりしました。今年亡くなられたところだったりします。ということで、前置きが長くなったのは、本書の中身にやや疑問がないわけではないためで、特に、タイトルにひかれて社会生態学的な若者論を期待した向きには残念な結果となりそうで、本書はひたすら統計をグラフにして楽しんでいる本です。ただ、統計のグラフからその原因を探ろうとしているところが「探偵」を自称するゆえんなんだろうと思いますが、因果関係にはほとんど無頓着なようで、タイトルになった「草食化」についてはいくつか統計的なグラフを示した後、その原因は統計やグラフとは何の関係もなく世間のうわさ話や著者ご自身の思い込みから類推していたりします。しかも、著者の主張する「草食化」の原因たるや、原因か結果かが極めて怪しいものだったりします。2つのグラフを書いて見て時期が一致いているから、というのが理由のようです。もちろん、経済学の分野ではグレンジャー因果という概念があって、先行する事象をもって原因と見なす計量分析手法が一定の地保を占めていて、実は私の査読論文もこれを使ったりしているんですが、それならそれで明記すべきですし、時系列の単位根検定などもあった方がいいような気もします。また、エンゲル係数の動きの解釈なんか、私から見ればムリがあるような気がしないでもありません。加えて、統計以外のトピックから持って来るとすれば、高齢者就業率なんかはいわゆる団塊の世代の特異な動向にも言及する必要があるような気がするんですが、そのあたりはスコープにないのかもしれません。ですから、何かの経済社会的な現象についての原因を探るよりは、その経済社会的な現象そのものが世間の見方とは少し違う、という点を強調するしかないようで、世間一般の見方、すなわち、常識と少し違うという主張が本書の主たる内容であると考えるべきです。半年ほど前の今年2019年3月30日付けの読書感想文で、ゲアリー・スミス『データは騙る』を取り上げましたが、本書で解説されているうちのいくつかが該当しそうな気すらします。マーク・トウェインの有名な言葉に、「ウソには3種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして、統計である」という趣旨の格言がありますが、ひょっとしたら、ホントかもしれない、と思わせるものがありました。少なくとも、今はポストトゥルースの時代ですし、平気で情報操作がなされるわけですから、世間一般に解釈されている内容と別の事実が統計から浮かび上がってくるのであれば、まず、それを健全なる常識に照らし合わせて疑ってみるべきです。もう少し、通説とか、一般教養とか、健全なる常識というものをしっかりと持った上で、統計的あるいは計量的にそれを裏付ける努力をすべきであり、悪質な改ざんや意図的なごまかしとは違う次元で、本書はそれなりに問題を含んでいる可能性があることを指摘しておきたいと思います。私の学生時代にブルーバックスから出た古い古い本で『統計でウソをつく法』というのをしっかり勉強する必要があるのかもしれません。少なくとも、統計から得られる事実を、自分の思い込みや世間のうわさ話で解釈するのはムリがあるような気がします。その典型が「草食化」なのかもしれません。

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次に、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』(弘文堂) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の研究者であり、米英における白人労働者階級の研究が専門のようです。英語の原題は The New Minority であり、2016年の出版です。邦訳書のタイトルはかなり直訳に近い印象です。ということで、訳者あとがきにもあるように、原書が出版された2016年とは英米で2つの国民投票におけるポピュリズム的な結果が世界を驚かせた年でした。英国のEU離脱、いわゆるBREXITと米国の大統領選挙でのトランプ候補の勝利です。これらの投票結果を支えたのが、本書でいうところの白人労働者階級であり、民族的にも人種的にも、かつては英米で多数を占めていたにもかかわらず、現在では新しい少数派になっている一方で、少なくとも2016年の英米における国民投票では大きな影響力を発揮した、ということになります。その英米両国における白人労働者階級について、英国の首都ロンドン東部と米国のオハイオ州においてフィールドワークを行い、計120人、うち約3割の35人はエリート層から選ばれた対象にインタビューを実施するとともに、定量的な分析も実施しつつ、いろんな面からの英米両国における白人労働者階級の実態を明らかにしようと試みています。ですから、というわけでもありませんが、本書はほぼほぼ完全な学術書です。第2章ではかなり広範囲な既存研究のサーベイがなされていて私もびっくりしましたし、フィールドワークのインタビューでも、定量分析でもバックグラウンドにあるモデルがよく理解できます。というか、少なくとも私には理解できました。そして、これらの白人労働者階級をアンタッチャブルで剥奪感大きなクラスとして見事に描き出しています。ポピュリズムの分析で、特に、英米の白人労働者階級にスポットを当てたものとして、この私のブログの読書感想文でも数多くの文献を取り上げていますし、訳者あとがきにも取り上げられていますが、本書は遅れて邦訳されたとはいえ、第一級の内容を含んでいて、通俗的ともいえるナラティブで一般読者を納得させる上に、きちんとモデルを背景に持った学術的な分析も十分に含んでいます。最後に、本書からやや離れるかもしれないものの、私が従来から強く思うに、こういった白人労働者階級は、かつてミドルクラスであり、特に英米両国に限らず欧米各国では広くマジョリティであったわけですが、その階層分解の過程で、20世紀初頭のロシアにおける農民層分解と同じように、何らかの左派のリベラル勢力がスポットを当てて、白人労働者階級の利益を代表して政策を打ち出すことが出来ていれば、ひょっとしたら、右派的なポピュリズムとは逆の目が出ていた可能性があるんではないか、という気がします。繰り返しになりますが、強くします。現在の英国労働党におけるコービン党首の打ち出している方向とか、米国民主党のサンダース上院議員の政策が、それを示唆しているように私は受け止めています。金融政策では為替動向を見据えつつ緩和を推進するとともに、財政政策では反緊縮でしょうし、企業の法人税を引き下げるのではなく、国民の雇用を確保して所得増を目指す方向です。

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次に、マーティン・プフナー『物語創世』(早川書房) です。著者は、米国ハーバード大学の演劇学や文学の研究者です。英語の原題は The Written World であり、2017年の出版です。地政学という言葉は人口に膾炙していますが、最近では経済地理学というのもありますし、本書はそういう意味では地理文学ないし地文学、ともいえる新しいジャンルを切り開こうとするものかもしれません。というのは、著者が著名な文学、ないし、英語の現タイトルのように書かれた記録に関する場所を訪れた経験を基に、その書かれた記録がひも解かれているからです。取り上げる対象は、聖書から始まって、「ハリー・ポッター」まで、本とか書物と呼ばれるモノなんですが、中身によって宗教書のようなものから、もちろん、小説がボリューム的には多くの部分を占めるんでしょうが、新聞やパンフレット、あるいは、宣言=マニフェストまで幅広く対象としています。それらの対象となる書物の中から、著者は「基盤テキスト」というものを主張し、これこそが世界に幅広くかつ強い影響力を及ぼす、と考えているようです。その典型例はいうまでもなく「聖書」であり、キリスト教政界にとどまらず、幅広い影響力を有しています。影響力が強すぎて、さすがに、地動説こそ広く受け入れられましたが、例えば、宇宙や世界の始まりに関するビッグバン、あるいは、ダーウィン的な進化論を否定するような非科学的な考え方すら一部に見受けられる場合もあったりします。これらの基盤テキストとして、本書では聖書に加えて、古典古代の『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』、さらに、やや宗教色を帯びたものも含めて、ブッダ、孔子、ソクラテス、『千夜一夜物語』、中世的な騎士道を体現しようとする『ドン・キホーテ』、などが解明され、我が国からは世界初の小説のひとつとして『源氏物語』が取り上げられています。異色な基盤テキストとしては「共産党宣言」が上げられます。これらの基盤テキストの著者に本書の著者のプフナー教授がインタビューした本書唯一の例が、第15章のポストコロニアル文学に登場するデレク・ウォルコットです。セントルシア出身の詩人であり、1992年にノーベル文学賞を授賞されています。ちょうど、私が在チリ日本大使館の経済アタッシェをしていて、ラテン・アメリカに在住していた時期であり、しかも、1992年とはコロンブスの新大陸発見からまさに500年を経た記念すべき年でしたので、私もよく記憶しています。当時、チリ人とついついノーベル文学賞の話題になった折り、「日本人でノーベル文学賞受賞者は何人いるか」という話題になり、1995年の大江健三郎の受賞前でしたから川端康成たった1人で悔しい思いをした記憶があります。というのは、その時点でチリ人のノーベル文学賞受賞者は2人いたからです。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと革命詩人のパブロ・ネルーダです。ウォルコットもそうですが、日本で的な短歌や俳句を別にすれば、我が国の詩人の詩が世界的に評価されることは少ないように私は感じています。詩に限らず小説も含めて、スペイン語や英語といった世界的に広く普及している国際言語を操るラテン・アメリカ人と違って、日本人や日本語のやや不利なところかもしれないと感じたりします。やや脱線しましたが、本題に戻って、小説や詩といった文学に限定せず、世界的に影響力大きい基盤テキストについて、地理的な要素を加味しつつ、それらが「書いたもの」として記録された意味を考える本書はなかなかに興味深い読書でした。今週一番です。

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次に、須田慎太郎『金ピカ時代の日本人』(バジリコ) です。著者は報道写真家であり、本書の期間的なスコープである1981年から1991年の約10年間は、主として、我が国における写真週刊誌第1号として新潮社から1981年に発効された「フォーカス」の専属に近い写真家であったような印象を私は持ちました。我が国では、写真家の先達として、賞にもなっている木村伊兵衛と土門拳があまりにも有名ですが、本書の著者は報道写真ということですから、後者の流れをくんでいるのかもしれません。というのは、木村伊兵衛はどちらかといえば、ということなんですが、人物や風景などのポートレイトが多いような印象を私は持っているからです。現在では、写真の木村賞といえば、小説の芥川賞になぞらえられるように、写真家の登竜門として新人写真家に対して授与され、他方、土門賞といえば、小説の直木賞のように、報道も含めてベテランで大衆的な写真家に授与されるような傾向あるものと私は理解しています。なお、「フォーカス」のような写真雑誌としては、海外では Life などが有名ですし、我が国では考えられないんですが、社交誌のような雑誌も発行されていたりします。実は、私が1990年代前半に在チリ日本大使館に勤務していた折、当地の Cosas という社交誌にチリの上院議員とともに収まった写真が掲載されました。今でも記念に持っていたりします。さらに、著者は定年退職したばかりの私の1年年長であり、本書の時期的なスコープがほぼほぼ私の社会人スタートと重なっています。しかも、タイトルに「金ピカ時代」、たぶん、英語では Gilded Age と呼ばれ、特に米国では南北戦争終了後の1870~80年代の急速な発展期と目されていますし、本書でも1981~91年はバブル経済の直前とバブル経済の最盛期と見なしているようです。まあ、いろんな視点はあるわけで、日銀的に、その後のバブル崩壊のショックまで視野に入れて、バブル期を評価しようとする場合もあるんでしょうが、私のようにその時代を実体験として記憶している向きには、華やかでそれなりに思い出深い時期、と見る人も少なくないような気もします。その後、我が国のバブルは崩壊して、私も海外の大使館勤務で日本を離れたりします。しかも、本書では写真家が著者ですので、著述家や作家と違って、被写体がいるその場に臨場する必要があるわけですから、とても迫力があります。もちろん、バブル経済直前とその最盛期の日本ですから、本書でも言及されているロバート・キャパ、あるいは、マン・レイのように戦場の写真はまったくありません。日本人でも沢田教一のように戦場の写真を撮り、戦場で死んだ写真家もいましたが、まあ例外なのかという気はします。架空の写真家としては吉田修一の小説の主人公である横道世之介がいますが、写真家としての活躍はまだ小説にはなっていません。本書では、上の表紙画像に採用されているようなAV女優に囲まれる村西とおる監督とか、あるいは、当時のトップレス・ノーパン喫茶の取材などの際の写真、といったくだけたものから、政治家や財界人などの写真、あるいは、山口組3代目組長の妻や4代目組長の写真などなど、歴史的な背景の記述とともに写真も幅広く収録されています。ただ、私の目から見て、なんですが、経済は人が出て来ませんので写真になりにくい恨みはありますが、スポーツの写真がかなり少ない印象でした。報道写真としてはスポーツも必要で、特に本書のスコープの中には1985年の阪神タイガース日本一が含まれますので、やや残念な気はします。

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最後に、道尾秀介『いけない』(文藝春秋) です。著者は、なかなか流行しているミステリ作家であり、私も大好きな作家の1人です。作品の8割方は読んでいると自負しています。この作品は、私の目から見て、「xxしてはいけない」という各賞タイトルが付いた3章の中編ないし短編集と考えています。連作短編集です。ただ、最後のエピローグも含めて4章構成の連作短編集とか、あるいは、全部ひっくるめて長編と考える向きがあるかもしれません。全体を通じて、この作家特有の、何ともいえない不気味さが漂い、ややホラー仕立てのミステリに仕上がっています。特に、第1章は倒叙ミステリではないかもしれませんが、実に巧みに読者をミスリードしています。そして、この第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、アンソロジーに収録されていて、私も読んだような記憶がかすかになくもなかったんですが、なにぶん、記憶容量のキャパが小さいもので、実に新鮮に読めたりしました。ただ、第2章以降も含めて、十王還命会なる宗教団体を中心に据えたミステリに仕上げた点については、疑問に思わないでもありません。もちろん、ホックの短編「サイモン・アーク」のシリーズと同じように、いかにも、近代科学では説明できない超常現象のように見えても、近代科学の枠を決して超えることはなく、その近代科学と論理の範囲内で謎が解ける、という点については高く評価するものの、宗教団体、特に、新興宗教というだけで、何やら胡散臭いものを感じる私のような読者もいることは忘れて欲しくない気もします。特に、本書の殺人事件は警察レベルではすべてが未解決に終わるんですが、その背後に宗教団体がいては興醒めではないでしょうか。ただ、読後感は決して悪くなく、上手く騙された、というか、何というか、各章最後の10ページほどで真実が明らかにされ、大きなどんでん返しが体験できます。私自身は、どちらかというと、ディヴァー的なものも含めて、ラストのどんでん返しよりも、タマネギの皮をむくように、徐々に真実が読者の前に明らかにされるようなミステリ、例えば、最近の作風では有栖川有栖の作品などが好きなんですが、こういったどんでん返しも、本書のように読後感よくて上手く騙された感がありますので、いいんではないかという気がします。実は、オフィスから帰宅の電車で読み始め、家に帰りついてから夕食も忘れて一気読みしました。250ページほどの分量というのも適当なボリュームだった気がします。なお、先週の読書のうち、本書だけは買い求めました。借りようとしても待ち行列があまりに長かったからで、加えて、来月から消費税率が引き上げられますので、小説ばかり何冊か買い求めたうちの1冊でした。本書を含めて5冊ほど早大生協で買い求めましたので、少しずつ読んでいこうと考えています。
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2019年08月31日 (土) 11:55:00

今週の読書は経済書や教養書・専門書から話題の小説まで計6冊!!!

今週も、経済書2冊をはじめとして、中国史などに関する教養書・専門書から流行作家の小説まで、以下のとおり6冊ほどの読書なんですが、決して読書感想文で明らかにできない本も読んだりしています。なお、すでに自転車で図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上る予定ですが、「読書の秋」を終えたくらいの段階で、そろそろペースダウンも考えないでもありません。

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まず、ジョセフ F. カフリン『人生100年時代の経済』(NTT出版) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者であり、エイジラボ(高齢化研究所)の所長を務めています。英語の原題は The Longevity Economy であり、2017年の出版です。邦訳タイトルは長寿ないし高齢を意味する longevity を人生100年時代としていますが、かなりの程度に直訳に近い雰囲気です。ということで、タイトルから理解できるように、あくまで「経済」であって「経済学」ではありませんから、製品開発なども含めた広い意味での高齢化社会への対応を解説しようと試みています。どちらかといえば、マーケティング的な視点を感じ取る読者が多そうな気もします。もちろん、その前提として、高齢化社会、ないし、人生100年時代の経済社会の特徴を明らかにしています。ただし、米国の研究者らしく、政府による政策や制度的な対応はほぼほぼ抜け落ちています。日本でしたら、医療・年金・介護などの政府に頼り切った議論が展開されそうなところですが、そういった視点はほぼほぼありません。まず、高齢者とは従来のイメージでは、働けなくなった、ないし、引退した世代の人々であり、従って、収入が乏しいという意味で経済的には貧しく、もちろん、肉体的にも不健康であり、これらが相まって、不機嫌な傾向も大いにある、ということになります。本書ではもちろん登場しませんが、その昔の我が国のテレビ番組で「意地悪ばあさん」というのがあり、私はそれを思い出してしまいました。しかし、本書で著者が主張するのは、従来の意味での高齢者像は人生100年時代に大きく変化している、という点です。ただ、統計的な評価ではなく、アクネドータルにトピックを紹介している部分が多いんですが、うまくいった商品、ダメだった商品の例などは単なるケーススタディにとどまらず、大きな経済社会的な方向感をつかむことができるかと思います。なお、注釈にもありますが、著者は「商品」という言葉ではなく、「プロダクト」を独特の用法で多用します。本論に戻ると、単に高齢者のニーズが従来から変化した、というだけでなく、年齢を重ねても元気で生活や消費だけでなく、あるいは、労働の継続まで含めて、高齢者の生活の中身そのものが従来とは異なる、という点が重要なのではないかと私は考えています。

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次に、タイラー・コーエン『大分断』(NTT出版) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の経済学の研究者であり、マルカタス・センターの所長を務めています。「マルカタスト」とはマーケット=市場という意味らしく、市場原理主義者ではありませんが、リバタリアンと解説されています。英語の原題は The Complacent Class であり、2017年の出版です。同じ著者の出版で『大停滞』と『大格差』も話題を呼んだと記憶しています。ということで、著者のいう「現状満足階級」とは、著者自身は NIMBY = Not in My Backyard と解説していますが、同じことかもしれないものの、私が理解した限りで、いわゆる総論賛成各論反対の典型であり、経済社会の改革や変革を望みながら、自分自身の生活や仕事の変化は望まない、という人たちであり、これも私が本書を読んだ限りでは、著者は、大きな変革が生じにくくなっていることは強調している一方で、これが「現状満足階級」に起因している、ことはそれほどキチンとした証明とまでいわないまでも、あまり言及すらしていないような気がしました。まあ、私が読み逃しているだけかもしれません。他方で、デジタル経済の下で格差が広がっている点については、いわゆる「スーパースター経済」が進んでいるわけですから、これについては、いろんな論点がほぼ出尽くしている気がします。経済については、開発経済学の見方を援用すれば、要するに、先進各国ともルイス転換点を越えたわけですから、大きな変革は生じようがありません。他方で、新興国途上国やはルイス転換点に向かっていますから、かつての日本のような高成長が可能になっています。ただし、そのためには、いわゆる「中所得国の罠」に陥ることなく成長を続ける必要があり、中国やかつてのマレーシアなどが、私の目から見てかなりの程度に「中所得国の罠」に陥ったのは、あるいは、本書で指摘するような「現状満足階級」が何らかの影響を及ぼしている可能性はあります。でも、先進国ではそういったことはないような気がします。ですから、私は本書の主張が先進国の中の先進国である米国に当てはまるとは考えないんですが、逆の方向から見て、第8章の政治や民主主義の点が典型的なんですが、政治や社会的な動向への影響については考えさせられるものがありました。「現状満足階級」が、カギカッコ付きの「社会的安定」に寄与している一方で、最終章で著者が主張するように、「現状満足階級」が崩壊するとすれば、新しいタイプのアヘンであるSNSが廃れて、再び米国で暴動が発生するようになったりするんでしょうか。著者は何ら気にかけていなさそうですが、背景には直線的な歴史観と循環的な歴史観の相克があるような気がします。

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次に、岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル) です。著者は、専修大学法学部の政治学の研究者であると同時に、学生運動から入った政治活動家であり、バリバリの左翼リベラルのようです。ただし、社会党系であって、共産党系ではないような印象を受けました。ということで、どうしてリベラルが敗け続けるかというと、p.28でいきなり回答が一言で与えられており、「ちゃんと政治をやってこなかった」ということのようです。この一言を本書の残り200ページあまりで延々と展開・議論しているわけです。私の歴史観は確信的なマルクス主義に則った唯物史観で、その他の経済学や政治的なものの見方まですべてがマルクス主義的というつもりはありませんが、基本的には、経済的な下部構造が政治や文化などの上部構造を規定して歴史が進む部分が大きいと考えています。そして、下部構造の経済とは生産構造と生産力です。生産構造は原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして近代資本主義、願わくは、社会主義・共産主義と進み、生産力は生産構造の桎梏を超えるかのように向上し続けます。脱線しましたが、著者は、どうもこの経済の下部構造に関して考えを及ばせることなく、反与党での野党統一しか頭にないように私には読めました。1930年代の反ファシズムの1点だけによる統一戦線戦略、まさに、スペインで成功するかと思われたコミンテルンのディミトロフ理論に基づく統一戦線の結成は、私も現在の日本でもあり得ることとは思いますが、その前に経済的な観点が左派やリベラルには必要です。ですから、第7章のように、「ゼニカネ」の話で政治を進めることが重要なのですが、実は、そこに目は行っていないようにカンジます。私も定年を超えて、かつてのような公務員としての強固な雇用保障もなく、パートタイム的な働き方をしているとよく判りますが、特に年齢の若い層では安定した仕事も収入もなく、ややブラックな職場で結婚もできず将来も見通せないような生活を余儀なくされて、憲法や自衛隊や、ましてや、北朝鮮のことなどには目が届かず、毎日の生活に追われている国民は決して少なくありません。特に若年層のこういった不安定な生活の克服こそ政治が目指すべきものではないんでしょうか。もちろん、自由と民主主義が確保されてこその生活の安定ですから、自由と民主主義が保証されなくなるともっとひどい収奪に遭遇する可能性があるわけですから、集団自衛権や特定秘密保護などはどうでもいいとは決して思いませんが、リベラルや左派が往々にして無視ないし軽視している経済や生活といったテーマを本書の第7章で取り上げておきながら、第8章以降ではまたまた国民目線を離れて、安定した職と収入あるエリートの見方に戻っています。3月末で定年退職する前は、私も公務員というお仕事柄、総理大臣官邸近くを通ることもありましたし、デモや何らかの意思表示を国会や議員会館や総理官邸周辺で見かける機会は平均的な日本国民より多かったと考えていますが、左派リベラルの主張は、引退した年金世代が担っているという印象を持っています。安定した収入ある年齢層の人たちかもしれません。逆に、現在の安倍政権は世界標準からすれば、とても左派的でリベラルな経済政策を採用し、若年層の支持を集めている気がします。もちろん、本書で指摘しているような政治的な、あるいは、制度的なカラクリがバックグラウンドにあって政権を維持しているのは否定のしようもありませんが、リベラルが敗け続けるのは経済を軽視しているからであると私は声を大にして主張したいと思います。途中で田中角栄元総理のお話が出てきますが、かなり示唆に富んでいると私は受け止めました。最後に、AERAか週刊朝日か忘れましたが、「憲法や安保などに固執し、ゼニカネの問題を忘れたオールド左翼を叱る本」といった趣旨の書評がありました。ホントにそうであればいいと私は思います。強く思います。

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次に、岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済) です。著者は京都府立大学の研究者であり、もちろん、専門は中国史です。本書では、いわゆるグローバル・ヒストリーのフレームワークで中国史を捉え、黄河文明の発生から中華思想の成立も含めて中国をしひも解き、現代中国理解の上でも大いに参考になるかもしれません。特に私の目を引いたのは、気候の変動が中国に及ぼした影響です。その昔のフランスのアナール派なんぞは病気や病原菌が歴史に及ぼした影響を探っていたような気がしますが、インカ帝国滅亡と天然痘のほかには、それほど適当な例を私は見いだせない一方で、本書では、地球規模での寒冷化が進んでゲルマン人がローマ帝国に侵入したり、遊牧民が中国のいっわゆる中元に南下したり、といった事象を説明しています。加えて、モンゴルの世界帝国は温暖化による産物、すなわち、気温の上昇によりいろいろな活動が盛んになり、移動などが容易になった結果であるとも指摘しています。そして、現在の共産党にすら受け継がれている中華思想については、明の時代に成立したと指摘しています。私もそうだろうと思います。というのは、実は、中国における漢民族の王朝はそれほど多くないからです。中国の古典古代に当たる秦ないし漢の後、隋と唐は漢民族国家であったかどうかやや疑わしく、むしろ、やや北方系ではなかったかと私は想像しています。ただ、北魏から隋・唐にかけて、本書では何の指摘もありませんが漢字の楷書が成立しています。本書の立場と少し異なるかもしれませんが、私自身のマルクス主義史観からすれば、原始共産制の下で生存ギリギリの生産力から脱して、特に農耕を開始した人類が余剰生産が可能となった段階で、その余剰物資の記録のために文字が誕生します。典型的には肥沃な三日月地帯であるメソポタミアにおける楔文字が上げられます。中国の亀甲文字も同じです。亀甲文字が草書・行書や隷書を経て楷書に至り王朝の正式文字として記録文書に用いられるようになったのが北魏ないし隋や唐の時代です。その後の短期の王朝は別として、宋は本書でも指摘している通り本格的な官僚制を採用した漢民族の王朝であり、その後、モンゴル人の征服王朝の元、そして再び漢民族の明が来て、またまた女真族の征服王朝の清が続き、孫文の中華民国から現在の共産党支配の中国へとつながるわけですので、漢民族の王朝は半分といえます。その中で、明王朝が鎖国的な朝貢貿易を用いつつ中華思想を確立したというのは、とても納得できます。高校生くらいなら読みこなせると思わないでもありませんし、あらゆる意味で、オススメできる中国史だった気がします。

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次に、西平直『稽古の思想』(春秋社) です。著者は京都大学教育学部の研究者です。私はこの著者は、ライフサイクルの心理学で何か読んだ記憶があるんですが、本書の読後の感想では、宗教学か哲学の専門家ではないかという気もします。どうでもいいことながら、京都大学は私の母校なわけですが、私の在学のころ、いわゆる文系学部の1学年当たりの学生の定員は、法学部が300人余り、経済学部と文学部が200人で、教育学部が50~60人ではなかったかと記憶していて、文系学部の中では突出して希少価値があった気がします。ですから、在学していた当時の友人は別にして、京都大学教育学部の卒業生で私が知っている有名人も多くなく、ニッセイ基礎研の日本経済担当エコノミストと推理作家の綾辻行人くらいだったりします。ということで、本書は、やや言葉遊び的な面もあるものの、練習とは少し違った捉え方をされがちな稽古についてその思想的な背景とともに考察を加えています。同じような言葉で、修行や修練・鍛錬にもチラリと触れています。また、当然ながら、東洋的なのか、日本的なのか、道というものについても考えを巡らせています。すべてではありませんが、世阿弥の能の稽古と舞台の本番をひとつの典型として頭に置いているようです。私の目から見て、とても弁証法的なんですが、そうは明記されておらず、わざを習い、そして、わざから離れる、という形で、何かを得て、また離れて、といったプロセスを基本に考えています。わざというか、何かを得ながら、それに囚われることを嫌って、それを手放す、しかし、そのわざが身について自然と出来るようになるところまで稽古を進める、というのが根本思想と私は読み解きました。違っているかもしれませんが、本書では芸道と武道を基本としているようで、出来上がったモノがある茶道や華道と違って、そのプロセスにおける型の考察もなされていますし、英語の unlearn の邦訳としての「脱学習」という言葉でもって、わざを習い、それから離れ、最後に、自然と出来るようになるという意味で、わざが身につくプロセスを稽古の本道と見なしているようです。どうでもいいことながら、先に取り上げた『なぜリベラルは敗け続けるのか』でも unlearn が出て来ました。流行りなのか、偶然なのか、よく判りません。本題に戻って、確かに、本番の舞台ある能は典型でしょうし、武道では試合があります。その意味で、茶道や華道では稽古と本番の差が大きくないような気もします。茶道で考えると、日々のお教室は稽古で初釜が本番、というわけではないでしょう。稼働でも、何らかの展覧会だけが本番ではないような気がします。最後に、本書は大学での授業が上手く行ったかどうかを書き出しに置いています。私も短期間ながら大学教員の経験を持っていて少なからず事前準備はしましたが、大学での授業が道に達するとは思ったことはありません。修行が足りないのかもしれません。

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最後に、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』(中央公論新社) です。作者は私なんぞから解説の必要ないくらいの流行ミステリ作家です。実は、本書は、今月初めの8月3日に読書感想文で取り上げた小説3冊、すなわち、澤田瞳子『月人壮士』、薬丸岳『蒼色の大地』、乾ルカ『コイコワレ』と同じで、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの一環として出版されています。本書はほぼ長編といってもいいくらいの長さの小説2編から成っており、出版タイトルと同じ1部めの「シーソーモンスター」はバブル経済華やかなりし昭和末期を、また、本書の後半をなす2部めの「スピンモンスター」は近未来を、それぞれ舞台にしています。ただ、後者の近未来とはいっても、自動車の自動運転とかAIのさらなる進歩、さらに、情報操作などの現時点からの継続的な社会の特徴だけでなく、そこはさすがの伊坂幸太郎ですから、「新東北新幹線」や「新仙台駅」などの固有名詞がさりげなく登場し、「ジュロク」という新音楽ジャンルが成立していたり、さらに、デジタル社会を超えてデジタルとアナログを融合した経済社会が誕生していたりと、私のような平凡な年寄りからは想像もできない社会を舞台にしています。もちろん、「螺旋」プロジェクトの一環ですから、青い瞳の海族と尖った大きい耳の山族の緊張関係やぶつかり合いがメインテーマとなっています。バブル期の「シーソーモンスター」では、嫁姑という非常に判りやすい対立が現れますし、それでも、主人公の亭主というか、倅を協力して救ったりもします。第2部の「スピンモンスター」はもっと複雑で重いストーリーになっています。すなわち、交通事故で家族を失った水戸と&6a9c;山が主人公であり、海族と山族になります。同じ著者の『ゴールデンスランバー』よろしく、前者が容疑者になって逃げて、後者が警官として追いかけます。もちろん、「シーソーモンスター」とつながっており、前編の嫁が絵本作家として登場し、水戸の逃亡を手助けしたりします。おそらく、伊坂幸太郎ファンからすれば前編の「シーソーモンスター」の方がいかにも伊坂幸太郎的な軽やかさもあって、その意味で楽しめるという気がしますが、後編の「スピンモンスター」については、とても重いストーリーな一方で、近未来、おそらく2050年くらいのイメージで、カーツワイル的なシンギュラリティの2045年を少し越えているあたりと私は想像していて、そのSF的な世界観に圧倒されます。決して、シンギュラリティを越えた時点のテクノロジーではなく、そういったテクノロジーが普通にある社会の世界観です。こういった世界観を小説で書ける作者は、そういないような気がします。その意味で両編ともにとてもオススメです。最後に、「螺旋」プロジェクトの作品はこれで終わりかな、という気がしますが、ひょっとしたら、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』は読むかもしれません。
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2019年08月24日 (土) 20:50:00

今週の読書は話題の現代貨幣理論(MMT)の経済書など計8冊!!!

今週は、やや異端的ながら注目されつつある現代貨幣理論(MMT)を平易に解説した経済書をはじめ、ポストトゥルースに関する教養書も含め、以下の通りの計8冊です。本日はいいお天気の土曜日でしたので自転車にうってつけですでに図書館回りを終え、来週も数冊の読書を予定しています。

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まず、中野剛志『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』(KKベストセラーズ) です。著者は評論家となっていますが、まだ、経済産業省にお勤めではなかったかと私は記憶しています。本書の続編で、『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』もすでに同じ出版社から上梓されており、今日の段階では間に合いませんでしたが、近く借りられることと期待しています。本書は基礎編として、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開しています。そして、その基礎となっているのは信用貨幣論です。すなわち、その昔の金本位制などの商品貨幣論ではなく、現代的な銀行が信用創造をして貨幣を作り出す、というMMTの基礎となる理論です。まだ読んでいないのであくまで私の想像ですが、続編の『【戦略編】』はこのMMT理論を普及させるために戦略が展開されているんではないかと思っています。現代貨幣理論(MMT)ですから、自国通貨建てで発行される国債で財政破綻に陥ることはなく、デフレ解消のためには金融政策ではなく財政政策により需要を拡大する必要がある、というのが肝になっています。私は直感的にはMMTは正しいんだろうと理解していますが、そう考えるエコノミストはとても少ないのも体験的に理解しているつもりです。そして、MMTにしたところで、財政破綻がまったくあり得ないわけではなく、インフレが高進すれば財政破綻のサインですから、財政を引き締めるべきであるとされています。繰り返しになりますが、本書では、信用貨幣論とそれに基づくMMTに関する議論を展開していますが、売り物として、「世界でもっともやさしい」といううたい文句がついています。ですから、逆から見て、私にはバックグラウンドとなっているモデルが判然としません。むしろ、数式を並べ立ててゴリゴリとモデルのプロパティを示してもらった方が、私には有り難かったような気すらします。ただ、おそらく、従来の伝統的経済学のモデルと比較して、かなりの程度に非線形かつ非対称な作りになっているような気がします。まあ、それはいいとしても、少なくとも、すでに破綻したリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論に基づき、いわゆるミクロ的な基礎付けあるDSBEモデルなどよりは、より現実に即しているような気がします。ただ、財政政策があまりに大きな役割を背負うだけに不安もあります。というのは、デフレを脱却してインフレになると財政赤字の削減に走らないといけないわけですが、出口論はまだまだ早いとはいいつつ、それだけに、ヘタな財政リソースの使い方ができません。例えば、津波対策の堤防などを作っていて、経済がデフレを脱却してインフレに入ったため、津波対策を急にヤメにする、というわけにはいかないような気がするからです。医療や年金や介護といった社会保障にも使いにくそうです。景気の動向に応じて増やしたり減らしたりがごく簡単にできる使い道ということになれば、どこまで財政政策で対応できるのかはやや疑問が残ります。ただ、直感的に理論的正しさを感じているだけに、とても魅力が大きくて、基礎的な勉強を進めつつ、何とか実践的に使える政策にならないものかと考えているところだったりします。

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次に、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(集英社) です。著者は、名前から理解できるように日系人であり、ながらくニューヨーク・タイムズの書評を担当するジャーナリストを務めて来ています。というか、今でも現役でそうなのかもしれません。英語の原題は The Death of Truth であり、日本語タイトルはほぼ直訳と私は受け止めています。2018年の出版です。ということで、言葉としては本書には登場しませんが、ポストトゥルースの時代にあって、米国にトランプ大統領が誕生して、フェイクニュースもまき散らされている現在、真実は終わった、死んだのかもしれません、という観点からのエッセイです。2010年代に入って、本日の読書感想文でも後に取り上げる安倍総理の本でも同じように取り上げられていますが、政治的な指導者が真実や事実をとても軽視し、まさに、ポストトゥルースの本義に近く、真実や事実に基づく考察を行うことなく、感情的に訴えるような、あるいは、その場の雰囲気に流されるような意見が政治的に重視されかねない状態が続いています。その結果として、ポピュリスト的な選挙結果が、特に、2016年に示され、BREXIT、すなわち、英国のUE離脱は現在のジョンソン首相の下で、何ら合意なく実行されそうな予感すらしますし、すでに次の大統領選挙モードに入った米国のトランプ大統領はツイッターでいろいろな情報を流したりしています。大陸欧州でも、過半数はまだ取れていないものの、ポピュリスト政党が支持を伸ばしていることは広く報じられている通りです。私が公務員だったころには、EBPMなる言葉が役所でも重視され始め、何らかの統計的あるいは定量的なエビデンスに基づく政策立案や執行が求められるようになって来つつありました。ポストトゥルースとはその真逆を行くものです。そして、事実や真実を重視することによってではなく、ホントのことに対しては斜に構えつつ、反対派との議論で熟議する民主主義のスタイルを放棄して、あくまで自派の意見を通すべく数を頼んで押し切る、あるいは、やや妙ちくりんな理論でも、適当に反対派を論破してしまう、という政治スタイルが増えたのは事実かもしれません。もちろん、民主主義では数は力であって、そのために選挙で各政党は自分たちの政策を訴えて支持を得ようとするわけですが、大くん国民がごく簡単に意見が一致するわけではありませんから、何らかの議論が必要とされるケースが多いわけですが、そこでの熟議を省略ないし無視して非論理的な論法や事実ではない感情的な見方などに基づいて数で押し切るわけです。そして、私が読みこなした範囲では、著者はその原因を、ハイデッガー的な表現を使えば、ポストモダニズムの「頽落」に求めているように私は読みました。まあ、ポストモダニストたちはマルクス主義的な一直線に進む歴史とか、普遍的でメタなナラティブとか、近代的と称する西欧中心的なものの見方、などなどをかなりシニカルに否定したわけですが、私はそこまでの見方が成り立つのかどうかは自信ありません。というか、特に、米国を例に取れば、黒人の大統領を選出するというかたちで、ある意味、究極的なポリティカル・コレクトネスを実現しきってしまった米国市民、あるいは、米国政治の振り子が揺り戻されているだけなのではないか、という気がするからです。もちろん、振り子がもう一度揺り戻されて、真実や普遍性や共感や常識といったものに価値を認める社会が半ば自動的に時間とともに取り戻される、と主張するつもりは私にはありません。こういった社会は闘い取らねばならないのかもしれません。

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次に、デービッド・サンガー『サイバー完全兵器』(朝日新聞出版) です。著者は、カクタニ女史と同じくニューヨーク・タイムズのジャーナリストであり、専門分野はAIなどのテクノロジーではなく、国家安全保障のようです。何度かピュリツァー賞も授賞されています。英語の原題は The Perfect Weapon であり、2018年の出版です。今週になって、AIの戦争利用に関する国際会議のニュースをいくつか見かけて、法的拘束力ないながら、AIに攻撃の判断をさせることを回避するような結論が出されそう、という方向に進んでいるような印象を私は受けています。ただ、これらの報道はリアルな武器を用いた伝統的な攻撃に関する判断項目であり、本書では物理的な、という表現は正しくないんですが、核爆発を含む通常兵器あるいは核兵器による攻撃ではなく、サイバー空間において電力の供給とか、カッコ付きながら「敵国」のシステムに侵入してダメージを与えることを指します。分野が安全保障でありかつサイバー攻撃という技術的な内容も私は専門外で、本書を読んだうえで、どこまで理解が進んでいるかははなはだ自信ないんですが、核兵器の相互確証破壊(MAD)による抑止力と違って、サイバー攻撃はすべて水面下で実施され、そういった攻撃があったかどうか、もちろん、誰からの攻撃か、などがまったく不明の場合も少なくないようで、その上に、核兵器のバランスと比べて、大きな非対称性が存在するわけですから、それはそれで恐怖のような気がします。もちろん、攻撃されているかどうかに確信ないわけですので、戦時か平時かの仕分けも判然としません。ですから、ジュネーブ条約による何らかの制限を課すことは、おそらくムリで、たとえ出来たとしても、技術的に日進月歩の世界ですので、アッという間に有効性が大きく低下することは想像できます。章別に取り上げられている国は、米国はもちろんとして、ロシア、中国、北朝鮮などなどで、サイバー攻撃の対象となったのはイランの核濃縮設備、ソニーピクチャーの例の風刺映画などです。IoTという言葉をまつまでもなく、あらゆるモノがインターネットに接続されており、防御サイドのセキュリティは攻撃サイドのレベルにはなかなか達しませんから、どこででも何が起こっても不思議ではありません。また、物理的に何かを破壊したり、システムをダウンさせたりするだけでなく、何らかの風説を流して世論を誘導する攻撃も含めれば、とても防ぎようがないような気が私はします。というか、防御のコストがやたらと高そうです。本書を半分も理解できた自信ないですが、一気に恐ろしい気分にさせられました。そべからく、ほとんどの技術は民生向けと軍事とデュアルユースが可能だと思いますが、なんでも軍事利用を進める志向が私には理解できませんでした。また、個別企業についてはiPhoneのロックを解除しなかったアップルの考え方は理解できるものの、ファーウェイの通信機器にバックドアがあって中国に通信内容が筒抜けではないかという米国などの疑問については、理解がはかどりませんでした。最後に、どうでもいいことながら、今週の読書で取り上げたうちで、本書はボリュームがあって中身が難しいことから、もっとも読了に時間がかかった本でした。

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次に、アンドリュー・フェイガン『人権の世界地図』(丸善出版) です。著者は、英国エセックス大学人権センターの副所長であり、人権に関する refereed encyclopaedia の編集者です。英語の原題は The Atlas of Human Rights であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳のようで、2010年の出版です。150ページ足らずのボリュームなんですが、8部構成となっており、第1部 国家、アイデンティティ、市民権 では、政治的権利や市民権とともに、経済的な富と不平等さらに生活の質や健康も取り上げています。第2部 司法侵害と法規制 では、拷問や死刑制度などに焦点を当て、第3部 表現の自由と検閲 では、表現や言論の自由だけでなく集会や結社の自由も忘れてはいません。第4部 紛争と移住 では、戦争や戦争に関連するジェノサイド(集団殺害)とともに、難民にもフォーカスしています。第5部 差別 では、少数民族と人種差別さらに障害と精神保健にハイライトしています。第6部 女性の権利 では、家庭内暴力も取り上げており、第7部 子どもの権利 では、児童労働や教育にもスポットを当てています。最後に、第8部 国のプロフィールと世界のデータで締めくくっています。私もすべてのページを通してじっくりと読んだわけではないので、出版社のサイトにある画像を例示としてお示ししておきたいと思います。本書が、人権を尊重して自由を守るリファレンスであることがよく理解できると思います。
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次に、望月衣塑子 & 特別取材班『「安倍晋三」大研究』(KKベストセラーズ) です。著者は、東京新聞のジャーナリストであり、本書では現在の安倍内閣に対する強い批判を展開しています。その批判については、私は少し疑問があるんですが、政策の内容に及ぶ部分がかなり少ないような印象を受けました。現在の選挙制度に基づく我が国の民主主義では、多くの場合、政策を展開したマニフェストなどを参考に投票し、その選挙結果に基づいて総理大臣が選出され内閣を構成し政府として政策を実行するというシステムになっています。ですから、決して内閣の首班たる総理大臣の人格を軽視するつもりはないんですが、本書のように、家系までさかのぼって総理の人格を執拗に批判するのは、やや現時点での我が国民主主義にとってどこまで有益かは考える必要があるかもしれません。しかしながら、何かの折に触れてこのブログでも申し上げている通り、内閣の最高責任者としての総理大臣はいうまでもなく公人そのものであり、本書のような批判はアリだと私は思っています。前言をいきなりひっくり返すようなんですが、総理大臣たる人物は人格的にももちろん問題なく、表現は自信ないものの、その「人格力」も動員して選挙で示された政策を実行すべき存在ですし、ジャーナリストとは選挙の結果だけを尊重するという観点からは少し違った角度から、民意の反映や政策の検証ができる存在ではないかと私は考えています。ついでながら、森友事件の報道に接して考えると、総理夫人も役所から秘書役をつけるほどの公人であり、総理本人と同じレベルとは思いませんが、公人としてこういった批判はあり得るものと私は考えています。まあ、冒頭100ページ余りがマンガで始まり、しかも、まんがの最後の部分に「フィクション」である旨を明記するのは、確かに、本書の著者が安倍総理を批判するようなタイプの嘘ではないんですが、ややミスリーディングであると受け止める向きがなきにしもあらず、という気がしないでもありません。本書でも感じたのは、先にカクタニ女史の『真実の終わり』で取り上げたポストトゥルースの問題は同じことであり、必ずしも真実・事実である点が重要なのではなく、感情に訴えたり、その場の議論の雰囲気に流されるような意見が支持されかねない、あるいは、決して熟議されるのではなく、数を頼んで押し切る、といったような風潮が世界的に広がっているのも事実であり、我が国だけが例外ではあり得ないということです。ただ、ポストトゥルースの時代であるからこそ、「フィクション」と断りを入れないといけないようなマンガでポストトゥルース的な政治を批判するのではなく、「フィクション」でない事実と真実に基づいた批判を展開してほしいと願う人は決して少なくないと思います。ポストトゥルース的に、というか、何というか、事実に基づく議論より感情的な意見を大きな声で押し通そうとする複数のグループが正面切ってぶつかり合うことは、ある意味で、避けるべきというような気がしないでもありません。その意味で、第3章の内田樹氏へのインタビューが普遍的な真理や社会的な常識に裏打ちされた見解のような印象満点で、とても読み応えありました。最後に、何度でも繰り返しますが、内閣総理大臣やそれなりの最高権力に近い公人に対しては、どのようなものであれ、とは決していいませんが、相当に激しい批判も十分アリだと私は思います。

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次に、トム・フィリップス『とてつもない失敗の世界史』(河出書房新社) です。著者は、英国のジャーナリスト・ユーモア作家です。英語の原題は Humans であり、2018年の出版です。全国学校図書館協議会選定図書に指定されているようで、私の目を引きましたので借りて読んでみました。読んでいて、私は元来明るくて笑い上戸だったりするんですが、電車の中の読書で笑い出したりして、ややバツの悪い思いをしたりしました。ということで、第1章 人類の脳はあんぽんたんにできている から始まって、環境や生態系に対する無用の干渉がとても不都合な結果を招いた例、専制君主でも民主主義でも、あるいは、そういった政治の延長上にある戦争でも大きくしくじって来た例、自国を離れた慣れない植民地経営や外交での失敗の例、また、科学の発見がとんでもない勘違いだった例などなど、面白おかしくリポートしています。ただ、語り口はユーモアたっぷりであっても、その失敗の中身や内容が決して笑って島せられることではない例がいっぱいあります。典型例は、第5章で民主主義からアッという間に独裁体制を構築してしまったナチス、というか、ヒトラーのやり口ではないでしょうか。やり方とともに、その後のナチスの蛮行まで含めて、人類史におけるもっとも大きな悲劇のひとつであったと考えるべきです。また、テクノロジーを取り上げた第9章でも、X線に対抗して見えないものが見えるといい張ったN線の「発見」については、単に「バカだね」で済むのかもしれませんが、アンチノッキングのために自動車のガソリンに人体に有害な鉛を混入させて広めたのと、冷媒のフロンを工業的に広めたのが同一人物とは、専門外とはいえ私はまったく知りませんでした。その昔に『沈黙の春』を読んだ際にも感じたことですが、科学の分野では、特に化学や生物学では長い長いラグをもって何らかの影響がジワジワと現れることがあります。まあ、経済学でもそうです。そういった長いラグを経て現れる好ましくない影響について、どのように評価して回避するか、それほどお手軽に解決策があるわけではありませんが、科学がここまで進歩した現代であるからこそ考慮すべき課題ではないかと思います。本書に盛り込まれた多くの失敗談は、それだけでユーモアたっぷりな語り口でリポートされると、読んで楽しくもありますが、そういった失敗談の背景には、決して笑って済ませられない重大な影響が隠されている場合も少なくなさそうな気がします。最後に、本書冒頭で考察されていた確証バイアスとか、何らかのバイアスによる失敗の原因追及がもう少し欲しかった気もします。

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次に、玉木俊明『逆転のイギリス史』(日本経済新聞出版社) です。著者は、京都産業大学の研究者であり、専門は経済史です。実は、私も大学の学生だったころは経済史を専攻していたんですが、著者は、経済学部ではなく文学部の歴史学から経済史に入ったような経歴となっています。ということで、本書は100年と少し前まで世界の覇権国であった英国につき、その歴史を振り返って覇権国となった歴史を分析し、従来の通説である産業革命による工業生産力ではなく、海運をはじめとするロジスティックやその海運を支える保険業などが覇権の基礎であった、とする逆転史観を展開しようと試みています。でも、経済史というよりは、著者も明記しているように、政治史を中心に\展開しているから、という理由だけでなく、私の目から見て逆転史観が成功しているとはとても思えません。本書では、当然ながら、英国が覇権国となる前の段階、すなわち、オランダが覇権を握っていたころから歴史を解き明かします。オランダはスペイン王政の下にあって独立国ではありませんでしたから、細かい点ですが、ここで「覇権国」という表現は使えません。でも、スペインの支配下にあったからこそ、大航海時代に、スペイン+ポルトガルの植民地であった米州大陸からの貴金属をはじめとする物資、あるいは、アジアからの香辛料などをアントウェルペンやアントワープが欧州の海運のハブとなって、商業的な成功をもたらして覇権を確立した、という本書の分析はある意味で私は正しいと受け止めています。ただ、本書の著者はご専門が輸送史のように私は記憶しており、輸送中心史観でもって判断するのは疑問が残ります。前資本主義時代に商業的、というか、問屋制家内工業が欧州で広く普及して、プロト工業化と呼ばれたのは広く知られているところであり、そこに、新大陸から大量の貴金属が欧州に流入して、いわゆる「価格革命」とともに、流動性の過剰供給でそれなりに需要もジワジワと拡大し、製造業=工業の生産性向上の素地が出来上がっていたのも事実です。そして、新大陸やアジアを欧州勢力が支配したのは、本書でも指摘しているように、基礎的な生産力に基づく武力ですが、前近代的かつ前資本主義的な経済段階では、市場取引ではなく単に武力で略奪することも交易のひとつの形態であったかもしれませんが、少なくとも中国を視野に入れた国際化が進んだ段階では、何らかの売り物が交易には必要となり、その矛盾を解決する方法のひとつがアヘン戦争であったことは明らかです。もうひとつ、著者が製造業ではなく海運や保険をもって英国覇権の基礎とする根拠は、財の貿易赤字とサービス収支の黒字でもって、英国製造業には国際競争力なく、むしろ、海運や保険といったサービス業に競争力があって、これが覇権国となる基礎だった、という点なんですが、製造業から生み出される製品が国内で需要されただけのことであり、根拠に乏しいという気がします。私が考える英国覇権の基礎は、内外収支の差額ではなく付加価値の総額であり、その意味で、「世界の工場」と称された英国製造業である点は揺るぎありません。あわせて、現在21世紀において米国の覇権に挑戦する中国国力の基礎も製造業であることは誰の目にも明らかではないでしょうか。

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最後に、有栖川有栖・磯田和一『有栖川有栖の密室大図鑑』(東京創元社) です。著者の有栖川有栖はご存じ関西系の本格ミステリ作家で、磯田和一は本書で挿絵、というか、イラストを担当しています。本書は、上の表紙画像の帯に見えるように、1999年に単行本として発行されたものを、一度新潮文庫で文庫本化され、さらに、上の表紙画像の帯に見られるように、今年の著者デビュー30周年を記念して創元推理文庫から復刊されたのを借りて読みました。ひょっとしたら、以前に読んでいたのかもしれませんが、私の短期記憶はすっかり忘却していて、まったく新刊読書のような印象でした。ということで、本格ミステリのうちから密室モノを内外合わせて40本ほど選出し、海外蒸す手織りから国内ミステリの順でイラストを付して解説を加えています。ただ、よくも悪くも、ミステリの伝統的な形式にのっとっており、すなわち、結末には言及していません。まあ、未読のミステリであれば、結末を知らされるのを回避したい読者もいるでしょうし、逆に、すでに読んでいれば結末を書かない論評にも理解が進む可能性はありますので、それはそれで理解できる方針ではあるんですが、やっぱり、私は違和感を覚えました。文庫本の解説で「結末に触れています」という警告付きの解説をたまに見かけますが、本書でも、結末を明らかにした方が論評としての値打ちが上がったような気もします。私の読書の傾向からして、海外ミステリよりも国内ミステリの方に既読が多かったんですが、やっぱり、海外ミステリで未読のものには親近感がわかなかったような気がします。イラストも結末を悟られないようにするという制約は、少しキツかったんではないか、と勝手に想像しています。まあ、密室とアリバイはミステリのお楽しみの重要な要素ですから、本書を読むことにより原典に当たろうという読者も少なくないでしょうから、判らなくもない方針なんですが、私という個人においては少し物足りない、ということなんだろうと思います。
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2019年08月17日 (土) 11:40:00

全国的にお盆休みの今週の読書は経済書をよく読んでラノベも合わせて計9冊!

今週は全国的にお盆休みながら、週後半は西日本を大型台風が縦断したりして天候は不順でした。私はまとまったお休みは来月9月に取る予定で、特に今秋に休みを取ったわけではないんですが、それなりのよく読書が進んで経済書など以下の通りの計9冊です。もっとも、9冊のうちの3冊は文庫本のラノベであり、1冊当たり1時間もかからずに読み切ったりしましたので、それほど読書に時間を割いたという実感はありません。午後からの35度超えを前に、自転車での図書館回りをすでに終え、来週の読書もいつも通り数冊に上りそうな予感です。

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まず、平山賢一『戦前・戦時期の金融市場』(日本経済新聞出版社) です。著者は、バイサイドの機関投資家であり、本書は著者の博士論文です。本書の時期的なスコープは戦前期から戦中期であり、特に、1936年の5.15事件から経済社会への統制色が強まる中で、金融市場のデータ、株式や国債価格や利回りとともに収益率を細かく算出している点が特徴です。ただし、本論ではデータの算出に終止しており、データを用いた定量的な分析までは手が届いていません。そこは限界として認識すべきで、私のように物足りないと受け止める向きもあれば、それはそれで判りやすい点を評価する向きもあろうかという気がします。ということで、本書のファクトファインディングのひとつは、戦前期においては国債がローリスク・ローリターンである一方で、株式はハイリスクながらローリターンであった、という従来の「常識」をデータをもって覆し、株式はハイリスクだったかもしれないが、国債に比較してもそれなりにハイリターンであった点を実証しています。戦前期のリスクとリターンの関係について、経済学的な通常の常識から離れた自体を示しているのは、ひとえに「統制経済」でもって経済が歪めらたためである、と理解されてきたわけですが、決してそうではなく、統制はあっても経済的な合理性が貫徹していたことを実証した価値は小さくないと思います。基本的に、バブル経済崩壊から「制度疲労」という言葉などで批判されてきた昭和的な経済的慣行、労働では新卒一括採用に基づく終身雇用・年功賃金・企業内組合の3点セット、あるいは、金融的には株式や社債による直接的な資金調達ではなく、メインバンク制に基づく銀行貸出に依存した間接金融、あるいは、もっと大きな視点での系列取引にも依存した長期的な支店に基づく取引、などなどは1950年代からのいわゆる高度成長期に確立された慣行であり、大正から昭和初期の日本経済は現在のアングロ・サクソン的な市場原理主義的経済慣行が支配的であった、という点は忘れるべきではありません。本書でも指摘されている通り、資金調達はかなり直接金融であり、株式や社債発行に基づいています。しかし、金融市場としてはそれほどの深みや厚みはありませんでした。逆に、それは統制経済への移行を容易にした面もあります。財政の悪化により、特に、地方公務員はかんたんに解雇されたりしました。かなりの程度にマルサス的な貧困が残存していて、まだルイス転換点に達していなかった日本経済では、「タコ部屋」という言葉に残っているように、民主的な人権や個人の尊重の視点を無視した労働慣行があり、「奉公」の名の下に、現在から見れば強制労働といえるような職場もあり、しかも、それが決して近代民主的な資本主義ではなく、封建的な残滓の広範に見られる資本主義であったことは講座派的な日本資本主義分析が示している通りです。最後は本書のスコープからはやや脱線してしまいました。悪しからず。

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次に、ノミ・プリンス『中央銀行の罪』(早川書房) です。著者は、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行勤務の経験あるジャーナリストという触れ込みです。私はこの作者の『大統領を操るバンカーたち』を読んでいて、上下巻のボリュームだけは大作だったと記憶しています。本書のテーマとなっているのは、2008年のサブプライム・バブルの崩壊とその後の大銀行の救済や金融政策、さらに、中央銀行と民間銀行の「共謀」となっています。ですから、というか、何というか、英語の原題は Collusion であり、2018年の出版です。ということで、今さら10年前の2008年のサブプライム・バブル崩壊かね、という気もしますが、それはともかく、その後の金融政策当局=中央銀行や、中央銀行による大銀行の救済と両者の共謀を極めて詳細に渡って、事実関係を積み上げています。こういった事実のコンピレーションから何が浮かび上がるか、というと、おそらく著者は、中央銀行は大銀行を救済する一方で、国民生活を犠牲にしている、とか、バブル崩壊の後始末をもうひとつのバブルにより埋め合わせをしようとしている、とかではないかと思いますし、それはそれで、従来のナオミ・クラインのリポートなどが大銀行経営者の糾弾にやや偏重しているのに比べて、政府から独立している中央銀行も批判の対象にするのは、それなりに意味あることと思いますが、いつもの私の疑問なんですが、バブル崩壊後の金融危機に対処して、いきなりのマイナス金利はともかく、金利を引き下げるとか、量的緩和を実行するとか、いわゆる金融緩和を進める以外に、タカ派的に逆に金融引き締めを行うという選択肢はありえないのではないでしょうか。同時に、too big to fail も常に批判にさらされますが、リーマン・ブラザーズの破綻という、かなり大胆かつ実験的なイベントを実際に観察して、どこまで否定できるかは疑問が残ります。リーマン・ブラザーズの破綻については、私もいくつかノンフィクションの作品を読んで、潰そうと思って潰したわけではなく、万策尽き果てて破綻させるしかなかった可能性があると理解していますが、それでも、破綻させないという選択肢が可能であれば破綻させなかった方がよかったのではないかと考えています。サブプライム・バブル崩壊後の金融危機の中で、大銀行が救済されながらも責任の所在があいまいにされ、あまつさえ、AIGのように高額のボーナス支給がなされた例もあり、私も決してベストの解決でなかったことは理解しますが、大銀行経営者や中央銀行の金融政策当局者などの責任をあげつらうのはともかくとして、金融緩和の必要性を否定するがごとき論調でタカ派的な政策志向をあらわにするのは、私は同意できません。

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次に、大前研一『稼ぐ力をつける「リカレント教育」』(プレジデント社) です。著者は、ご存じ、マッキンゼーのコンサルタントを経て経済や経営分野の評論家というんだろうと思います。本書ではリカレント教育について、著者ご自身の設立したビジネス・ブレークスルー(BBT)大学の例なども引きつつ、デジタル経済社会における必要性や重要性などについて議論しています。リカレント教育については、私も昨年の「経済財政白書」で取り上げられたことなどもあり、それなりに注目しているんですが、基本はデジタル経済とはそれほど大きな関係なく、日本企業の体力が低下して来たために、OJTによる企業特殊的なスキルの向上に振り向けるリソースがなくなって、雇用者個人のリソースでにスキルアップを強制している結果だと受け止めています。すなわち、このブログで何度か強調していたように、戦後のルイス転換点を越えた高度成長期の我が国経済では、古典的なマルサス的な貧困を克服し、逆に、先進各国と同様に需要が極めて旺盛な経済社会を実現し、資本蓄積に比較して一時的ながら労働力不足に陥ったことから、雇用慣行が戦前・戦中のアングロサクソン的スキームから大きく転換し、新卒一括採用の下でいわゆる終身雇用・年功賃金・企業内組合で特徴つけられる日本的雇用慣行を確立し、ヘッド・ハンティングとまで大げさに表現しないまでも、引き抜きを防止するために企業特殊的なスキルを主としてOJTによって向上させる方法を取りました。それはそれとして、高度成長期には合理的だったわけです。しかし、その後、ルイス転換点を越えるような要素移動を望むことができなくなり、さらに、私は主として為替調整が主因と考えていますが、日本企業が競争力を低下させる中で、OJTへのリソースが細り、現在では賃金上昇すらリソースを枯渇させ、賃金抑制のために低賃金国への海外展開を図るとともに、ルイス転換点を越えるかのような要素移動を促すべく、雇用の流動化を模索して、「岩盤規制」などと名付けた高度成長期にルーツある雇用スキームの大転換を図ろうと試みているわけです。ついでながら、やや脱線すると、この要素移動の点で日本企業は合成の誤謬に陥っていると私は考えています。すなわち、雇用の流動化が図れれば、他企業の高生産性雇用者を自企業に取り込むことが可能になるとともに、自企業の低生産性雇用者を他企業に押し付けることができる、という期待があるわけですが、企業が求めるスキルと雇用者が有するスキルのミスマッチがそれほど広範に生じているとは私にはとても思えず、こういった自企業のみに都合いい要素移動が起こるとは考えられません。本題に戻って、現在では、スキルアップは第1に企業特殊的なものから、より幅広く市場で受け入れられ、一般的に通用するスキルの重視に変化しました。典型は英会話とか、経済経営分野の簿記会計をはじめとする資格の取得などです。第2に一般的なスキルの重視と企業の体力の低下が相まって、スキルアップは企業のリソースだけではなく、雇用者個人の責任とコスト負担の割合が高まりました。このような企業活動と雇用者のスキルアップの歴史的な展開の中で、現在のリカレント教育を考える必要も指摘しておきたいと思います。その意味で、欧州諸国が我が国よりも先進的なリカレント教育のシステムを整備していることは、もちろん、政府の責任もあるでしょうが、歴史的な段階としてはあり得ることではないでしょうか。私のように、公務員として定年まで勤務し、長期雇用の中で突然天下りが廃止されて、定年後の収入の道が極めて狭くなってしまった例もあるわけですし、リカレント教育という手法が適当かどうかは別ながらひとつの選択肢として、スキルアップはもう少し若いころにやっておけばよかったと悔やむことのないように、それなりの定年準備は模索すべきかもしれません。

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次に、池田浩士『ボランティアとファシズム』(人文書院) です。著者は、我が母校である京都大学の名誉教授です。私は教養部の1年生のころにドイツ語を習った記憶があります。新左翼のトロツキストの支持者だったように記憶しています。ということはどうでもいいとして、本書は我が国では関東大震災で東京帝大のセツルメント活動で本格的に始まったといわれているボランティアについて、それがいかにして、我が国のファシズムやドイツのナチズムに、いかにも自発的な装いをもって、その実、ほぼほぼ実質的に強制的かつ強要されるようになったのか、について歴史的にひもといています。1933年にナチスが政権を奪取してから、ほぼほぼ完全にワイマール憲法に則った形で、カギカッコ付きの「民主的」に独裁性を確立したかも触れていますが、これはほかの専門書に当たった方がいいような気がしないでもありません。本書では、ボランティアという語でもってボランティア活動を行う人とボランティア活動そのものの両義を指していますが、自発的な善意に基づく行為がいかにして強制的な勤労奉仕や事実上の強制的な奴隷的労働に早変わりするかは、そこに民主的なチェックが働くか、それとも全体主義的な統制の基に行われるかの違いがあると私は考えます。でも、社会全体としては民主的なチェックが効くとしても、グループとしては統制的な色彩が強くなる場合も少なくないことは理解すべきです。典型的には職場のサービス残業であり、現在のワーク・ライフ・バランスに逆行するような長時間労働が、ホンの少し前までは勤労の美徳のように見られていたことも忘れるべきではりません。ですから、本書のような大上段に振りかぶった政治的かつ社会的なボランティアと強制労働を考えることも必要ですが、マイクロな職場や地域やそして学校において、いかにも「自発的」な装いをもって強制される行為については、個人か全体かという民主主義と全体主義の大きな分岐点を意識しつつ見分ける見識が必要です。最後に、自発的な活動として本書ではほかに、チラリとワンダーフォーゲルとボーイスカウトを上げています。前者はなぞらえるべきほかの団体を思いつかないので、ともかくとして、後者のボーイスカウトはソ連的なピオネールやナチスのヒトラー・ユーゲントとの相似性を指摘する向きもありますが、個人の尊厳という観点からまったく異なることは理解すべきです。我が家の下の倅はビーバー隊から、カブ・スカウト、ボーイ隊とスカウト活動を続けてきましたので、私もそれなりに親しみありますが、スカウト活動がヒトラー・ユーゲントに似通った団体活動であるなどとはまったく思いません。また、別の観点ながら、私が地方大学に日本経済論担当教授として出向していた時に、いかにも九州的な「地産地消」の議論に接したりしたんですが、本書でも指摘されている通り、ナチズムが強調するポイントのひとつは「血と土」です。ヒトラー・ユーゲントでも「大地に根ざした」という表現が好んで使われたりします。ふるさとや祖国というものはもちろん尊重され重視すべきですが、地域的あるいは血縁的な閉鎖性を主張するよりも、交易の利益を尊重するのが左派的なエコノミストの果たすべき役割であると私は考えています。

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次に、谷川建司・須藤遙子[訳]『対米従属の起源』(大月書店) です。何と申しましょうかで、著者名がなく、いきなり翻訳者なのは、本書のメインは米国公文書館で公開された「1959年米機密文書」となっているからです。別名は「メイ報告書」であり、上の表紙画像の左上に写真が見えるイェール大学のメイ教授によって取りまとめられています。報告書には、USIS=US Information Service の活動やフリー博士によるアンケート調査などが幅広く取り上げられています。報告書のほかにも邦訳者による解説なども加えられています。ということで、1959年、すなわち、日米安保条約改定前夜における米国情報機関の我が国における活動がかなり詳細にリポートされています。当時は米ソの東西冷戦だけでなく、我が国内でも学生運動をはじめとして安保条約に対する反対運動の盛り上がりが見られた時期でもあることはいうまでもありません。ただ、本書を読むと、かなり詳細に特定の個人名への言及があることは確かですが、それほどの意外感もなく、おおむね、常識的な内容ではないかという気もしますが、まあウワサ話や都市伝説的な内容について、米国機密文書で裏付けられた、という点が重要であろうと私は受け止めています。米国から見て、日本は東欧諸国のようにソ連の支配下に入り、共産主義化する恐れはほぼほぼなかったことが確認されており、むしろ、日本の共産主義化というよりも台湾政府の否認、というか、大陸の共産党政権化にある中国への接近や国家としての承認などがアジェンダとして考えられていたようです。結果として歴史的に明らかになった事実は、1970年代に、まさに、本書のタイトル通りに、対米従属する形で当時の米国のニクソン大統領による中国との国交樹立を待って、我が国の田中内閣が中国と国交樹立し、中国の国連加盟の道が開かれた、ということになります。もちろん、本書のスコープは外れています。本書のスコープに戻れば、現在のアメリカンセンターに当たり、日本国内に展開する文化的な広報活動の拠点の活動は思わしく進んでいない一方で、現在であれば「インフルエンサー」と呼ばれるであろう大学教授など、当時の表現でいえばオピニオンリーダーを米国に派遣して米国のシステムや生活水準などに対する理解を深めてもらう、という方法が有効であったようです。なお、私の専門分野であった経済学については、サムエルソン教授のテキスト『経済学』を取り寄せたい、という要望があったようです。私の記憶の限りでいえば、『サムエルソン 経済学』のテキストの邦訳は1966年に都留重人教授が原書第6版を基にして出版されたんではないかと思います。そのかなり前の1959年の段階の記録では、原書を手に入れたいというのももっともです。経済学を専門とするエコノミストにとっては、このサムエルソン教授のテキストのどの版を読んだかで大雑把な年齢が判明するんですが、私は原書第10版の邦訳を読んでいます。上下巻でハードカバーの、しかも、箱入りです。アダム・スミス『諸国民の富』Ⅰ及びⅡやケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』などとともに、まだ、我が家の本棚に鎮座していたりします。

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次に、木内昇『化物蠟燭』(朝日新聞出版) です。著者は直木賞作家であり、時代小説を得意分野としているように私は認識しています。本書は短編集であり、『小説現代』と『小説トリッパー』に2010年から2018年にかけて掲載された短編、表題作を含めて、「隣の小平次」、「蛼橋」、「お柄杓」、「幼馴染み」、「化物蠟燭」、「むらさき」、「夜番」の7編を収録しています。時代背景はおおむね徳川後期と察せられます。明記されているものもあります。私はそれなりに時代小説を読むんですが、かなり時代考証はしっかりしているという印象を受けました。この季節にふさわしく、怪談集です。半分くらいは、この世のものではない存在、主として幽霊や妖怪や物の怪などの活動を扱っていますが、そういった非現実的な存在を必要とせず、キングばりのモダンホラーのような作品もあります。「幼馴染み」なんかはそうだという気がします。また、この世とあの世を行ったり来たりする短編もありますが、主たる舞台はこの世であり、次に取り上げる「京洛の森」のような不自然さは時代考証も含めて何らありません。加えて、表題作の「化物蠟燭」をはじめとして、それなりのハッピーエンドで終わる物語も含まれています。ただ、最大の特徴は、この作品には限られませんが、あの世の存在がこの世に何らかの形で残って、平たい表現をすれば成仏できずに苦しむ、という物語ではなく、あくまでこの世の普通の人間を中心にストーリーが回っている印象を受けました。しかも、私がよく読む時代小説は徳川期という点では本作品と同じながら、武士階級を主人公として、しかもそれなりの高位の侍も含まれ、封建時代の大名や領主が世襲で盤石の基盤を持つ中で、家老以下が精力争う意を繰り返す、そして、侍だけに何らかの剣術の達人が登場する、という『たそがれ清兵衛』や『三屋清左衛門残実録』のような私が慣れ親しんだ時代小説ではなく、場所的には江戸下町中心ながら、ほとんど侍は登場せず、同時に大都市の江戸が舞台ですので農民も主たる役割は果たさず、職人と商人のいわゆる町民・町人が主人公となっています。私の個人的かつ偏ったな印象ながら、この作者の作品は幕末を舞台にした重厚な物語がお得意であったような気がしますが、市井に住む町人の生活を基礎として、いかに安定や幸福などを求めるか、そこに、この世に未練を残したあの世の存在がどのように入り込むか、とても人情味あふれる短編集に仕上がっています。繰り返しになりますが、時代背景は徳川後期ながら、21世紀の現代にも通じる部分もあります。ただ、それほど応用範囲は広くありませんので、その点は、すべてを現代的に読み替えるべきではありません。

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最後に、望月麻衣『京洛の森のアリス』、『京洛の森のアリス Ⅱ』、『京洛の森のアリス Ⅲ』(文春文庫) です。作者は、京都在住のラノベ作家です。この作者の作品としては、京都を舞台にしたラノベしか私は読んだことがありません。また、本書を原作としてコミックも出版されています。3冊とも300ページないしそれ以下で、中身がライトですので、私は1冊当たり1時間弱で読み切ってしまいました。先週末の3連休にエアロバイクを1時間ほど漕ぐに当たっての暇潰しで図書館から借りた次第です。でも、実は、半分くらいはテレビで高校野球を見ていたりしました。ということで、両親を交通事故で亡くし、叔母の家に引き取られていた主人公が、15歳になっても高校に通わせてもらえず、老紳士に連れられて、小さいころに育った京都に移り住むところからストーリーが始まります。五条大橋を越えたあたりから様子が変わり、実は「京洛の森」なる異次元に入り込むわけです。このあたりは「千と千尋の神隠し」へのオマージュかと思います。そして、京洛の森では自分のやりたいことをやり、人に必要とされるという条件を満たさないとダメなんですが、何と無謀にも主人公は最初は舞妓修行を決意するものの、アッサリと本屋に宗旨替えします。人に必要とされるという条件も、ひょっとしたら、仕事をしなければならないという条件がある「千と千尋の神隠し」へのオマージュかもしれません。いずれにせよ、あとがきでジブリ作品への思い入れがあるようなことが書かれています。主人公の名前は白川ありすで、これは「不思議の国のアリス」へのオマージュでしょうから、いろんな既存作品のつぎはぎながら、ジブリ作品だけでなく、かなり思い込みが激しいように私は受け止めました。主人公の前に現れる兎のナツメと蛙のハチスが、実は人間で、当然のように言葉をしゃべります。ハチスが王族の蓮で、主人公の幼馴染にして、いつのまにか婚約者になっており、ナツメの方は主人公を京洛の森に連れて来た老人で、王族に仕える執事の棗だったりします。何といっても、エコノミストの目から見て、いろんなビジネスがありながら貨幣がない、というのは決定的な欠陥で、生活感がなく、いかにも架空の物語、という受け止めしかできません。「不思議の国のアリス」はともかく、ファンタジーでも「千と千尋の神隠し」では黄金がザクザクと出て来ますし、「ハリー・ポッター」のシリーズではゴブリンの銀行にハリーの預金口座があり、また、お金持ちで貴族のドラコ・マルフォイと貧乏人の子沢山のロン・ウィーズリーの格差と対立がひとつの見どころとなっていますので、その点で、我が国のラノベ界の、例えば、高校生ばかりが登場する人気ラノベ作家の作品などとともに、やや底が浅いと私が感じてしまう一因かもしれません。でも、世界観はダメとしても、地理的な舞台は京都らしき京洛の森ですから、私も馴染みありますし、手軽に読めて後に残らず、暇潰しにはピッタリです。実は、同じ作者の『京都寺町三条のホームズ』シリーズは8巻で読書が止まっていたところ、少し新たに借りようかと画策しています。でも、かなりの人気のようで、最新刊の12巻まではまだ借りられそうもありません。誠に残念。
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2019年08月10日 (土) 13:25:00

今週の読書はいろいろ読んで計5冊!

今週の読書は話題のAIに関する専門書など数冊を読んだんですが、岩波新書を別にすれば、ズバリの経済書はありませんでした。この週末は3連休で来週はお盆の週ですので、来週もそれなりに読書が進みそうな気がしますが、私自身の夏休みは9月に取得予定で、来週はカレンダー通りに近い出勤の予定ですので、通常通りの数冊の読書になりそうな予感です。

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まず、バイロン・リース『人類の歴史とAIの未来』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、私は知りませんでしたが、技術調査会社ギガオムのCEOだそうです。これで判る人は、そもそも、この著者を知っている人なんではないかという気がします。まあ、いろんなハイテク企業の経営をしている起業家ということなんだろうと思いますが、それほど有名ではないんだろうと私は勝手に想像しています。ということで、英語の原題は The Fourth Age であり、2018年の出版です。本書は5部構成となっており、第1分は今までの人類の歴史を概観し、特に、火の使用と言語の獲得を文明化が始まった画期と見なし、さらに時代を下って、農業の開始を次の画期としています。ただ、英語の原題にあるように、4つの時代を著者は考えているようなんですが、第1部で2つの時代を概観するわけです。そして、その後の時代を画するのは、弱いAIと強いAI、すなわち、チェスや囲碁などの専門分野に特化したAIと汎用的なAGIであるとします。そして、AIがAGIという強い段階に達した際に何が起こるかを、著者は本書で思考実験しています。当然、軽く想像されるように、AGIが登場した第4の時代に何が起こるかについてのダイレクトな回答を与えようとしているわけではなく、読者がどのように考えるかの素材を提供しようと本書は試みています。ただ、その試みが成功しているかどうかは、私にははなはだ疑問です。というのは、知性と意識というものを混同しているように私にはみえるからです。著者は盛んに意識の問題として考えようとしていますが、私はむしろ知性ないし認知能力の問題だろうと思います。伊藤計劃の『ハーモニー』に意識を持たないヒトが登場しますが、法律家とエコノミストが決定的に違うのは、私の理解によれば、意図した行為とその結果であるかを法律家が重視するのに対し、エコノミストは結果だけを見ます。例えば、それほどよくない例かもしれませんが、法律家は殺人と過失致死を異なると考える傾向にありますが、エコノミストはその人が死んでいなくなるという点では同じと考える傾向にあります。死ぬ原因は交通事故でも、病気でも、経済的な帰結としては変わりないわけです。少し違う気もするものの、AIが意識を持つかどうかは私には大きな意味あるとは思えず、むしろ、人間と同じもしくは上回るレベルの汎用的な知性もしくは認知能力をAIが獲得すうるかどうか、が重要ではないかという気がします。もしも、AIがAGIとして汎用的な知性を獲得するならば、そのまま一直線にAIの知性、ないし、認知能力は人類を大きく上回るレベルに達し、さらに、向上を続ける可能性が高まります。そうなれば、現時点におけるヒトとイヌ・ネコの関係がそのまま、将来的にはAIとヒトの関係になぞらえることが出来ます。すなわち、ヒトはAIのペットになるんだろうと私は思います。それはちょうど、100~200年くらい前までは実用的な能力だった乗馬という行為が、現在では限られた区画で行うスポーツないし娯楽になっているようなものです。ですから、自動車の自動運転が一般化すれば、マニュアルで運転する自動車は、現在の乗馬と同じように限られた区画でスポーツないし娯楽として楽しむ行為になる可能性が高いと思いますし、AGIの実用化よりも先に、ひょっとしたら、私が生きている間にそうなる可能性すらあります。AIに論点を戻せば、ヒトがAGIのペットになりかねないという意味で、本書でも指摘しているように、スティーブン・ホーキング、ビル・ゲイツ、イーロン・マスクなどがAIに対する何らかの意味での懸念や恐怖を表明し、近い将来、人類の生存を脅かす存在になると警告しているのは、実に確固たる根拠があると私は考えています。

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次に、池内了『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』(みすず書房) です。著者は、名古屋大学や湘南にある総合研究大学院大学をホームグラウンドとする宇宙物理学の研究者です。本書の主張は、タイトル通りであって、特に何かを付け加える必要はないものと私は考えますし、左派エコノミストたる私からすれば、自然科学や工学分野の科学者および技術者が軍事研究に手を染め、戦争で人間を効率的に殺戮するための手段の開発研究には関与すべきではないことはいうまでもありません。逆に、これを声高に主張しなければならない点が不思議な気すらします。ただ、本書の著者は、これを科学者や技術者の倫理問題として処理しようとしており、この点は私は大きな疑問を感じます。というのは、最近でも、米国では銃の乱射事件が跡を絶ちませんが、我が日本では京アニのような実に残念極まりない大量の死者が出る事件こそありましたが、少なくとも銃の乱射による殺人事件は起こっていません。しかし、この差を、日本人と米国人の倫理問題であると考える識者は決して多くないだろうと私は受け止めています。当然に、銃規制の問題の側面が強いと考える人が多いでしょうし、私もそうです。これは、科学者・技術者の軍事研究とまったく同根であると考えるべきです。21世紀に入って、軍事研究に科学者や技術者が手を染めるようになったのは、国立大学が法人化されて研究費が不足するようになったからであり、その経済的な「下部構造」を無視して倫理的な問題を強調しても、一向に問題の解決にはならない、と私は考えます。もちろん、政府や行政のサイドから、自由に使える研究費を削減しておいて、軍事研究の方のご予算を潤沢に供給するという、実に、巧妙な研究のコントロールがなされている結果でもあるわけですが、「恒産恒心」という言葉もあるように、食べ物を得られずに餓死する倫理観と食べ物を盗む倫理観を比較することは、どこまで意味があるのか、私には疑問だらけです。私は、本書の著者の結論、すなわち、科学者や技術者は軍事研究をするべきではない、については100%の同意を示すつもりですが、その実行上の手立てとして、科学者や技術者の倫理観に訴えるというのは、エコノミストの目から見て、控えめにいっても非効率です。役所で官庁エコノミストをしていた当時の私のような社会科学の研究者も含めて、現在の研究者、もちろん、科学者や技術者も含めて、多くの研究者はアウトプットを求められるのに対して、あまりにもリソースが不足しているといわざるを得ません。かつて官庁エコノミストだった私は、国家公務員というお気楽でかつ身分保障も万全な立場でしたから、アウトプットを犠牲にするという方向も選択できましたが、多くの真面目な研究者はアウトプットを出し続けるために、何らかのリソースを必要としています。その点に目配りしていない本書は、かなりの程度に宗教的な倫理観を振り回すしかなかったのかもしれません。でも、倫理観の強調だけでは科学者の軍事研究従事という問題は解決されないことを理解すべきです。

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次に、武田康裕『日米同盟のコスト』(亜紀書房) です。著者は防衛大学校教授であり、専門は国際関係論だそうです。数年前の前著に共著の『コストを試算!』がありますが、これは日米同盟を解体すれば、どのくらいの防衛コストを日本が負担しなければならないか、と試算したもので、私が読んだ本書では日米同盟を維持したままで、どれくらいのコスト負担が生じているか、を試算しています。日米同盟などの同盟のコストではありませんが、10年余り前にスティグリッツ教授が共著にて『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』を出版し、イラク戦争のコストを3兆ドルと試算した結果を明らかにしています。私は読んだ記憶があります。ということで、エコノミストや会計専門家が会計的なコストを試算したわけではなく、防衛や安全保障の専門家が現状の日米同盟のコストを試算しているわけですので、繰り返しになりますが、現状の防衛レベルを前提としています。要するに、「核の傘」を含んでいるわけです。また、コスタリカを例に出すのも気が引けますが、「核の傘」を外すことを含めて防衛レベルを下げることは想定されていません。それでも、現状の日米同盟のコスト負担を考慮すると、経済学的にいうところのリターンは10倍くらいに上る、という結果を示しています。あくまで、これは桁数、というか、オーダーの数字で、GDP比0.1%のコスト負担でGDP比1%くらいの防衛ベネフィットがある、という概算です。少し前の報道で、米国サイドから防衛費負担を5倍増という米国サイドの要求がある、という記事を見かけましたが、本書では10倍まではリーズナブル、 というメッセージなのかもしれません。まあ、そんなことはないと思いますが、私にはよく判りません。。加えて、序論では、本書の目的をコスト試算だけではなく、コスト分析を手がかりにして、我が国の安全、自主、自立からなる連立方程式を解くことにある、とも明記しています。ですから、日米同盟のコストとして、金銭的な負担はもとより、自立的な防衛を放棄して米軍の指揮命令下に入るコストも含んでいるような書きぶりを私は目にしました。もちろん、「自衛隊が米軍の指揮命令下に入る自立性の放棄」なんて露骨な表現はしていません。本書でも言及されている通り、米国とフィリピンの同盟を例に持ち出すまでもなく、例えば、米国とフィリピンは相互の防衛義務を課している一方で、日米同盟では日本は米国の防衛義務はありません。他方で、フィリピン国内の米軍基地は極めて限定的な場所でしか設営できませんが、日本国内であれば米軍基地はどこにでも展開できたりします。その意味で、防衛上のコストは小さい一方で、自立性を犠牲にしている、という著者の分析も一定の範囲で首肯できるものがあります。最後は蛇足ながら、その昔、大昔、私が京都から東京に就職で引っ越した少しびっくりしたのは、横田基地や横須賀軍港など、首都圏ではやや広域の生活圏に米軍基地がありますが、それでも、沖縄の稠密な米軍基地展開ほどではないという事実です。本書ではまったく言及ありませんが、我が国の日米同盟のコスト負担は地域的に圧倒的に沖縄を犠牲にしています。この点で、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』の議論でも取り上げられていましたが、ル=グウィンの『風の十二方位』に収録されたヒューゴー賞受賞作の短編「オメラスから歩み去る人々」を一読されることをオススメします。

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次に、ポール・レイバーン『父親の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、AP通信科学担当デスクなどを経て、現在はサイエンス・ライターをしているようです。英語の原題は Do Fathers Matter? であり、2014年の出版です。英語の現タイトルに照らせば、従来の回答は子育てについては「重要ではない」、ということだったと思うんですが、少しずつながら科学的に解明されてきて、最近では子育てに父親の果たす役割というものが見直されつつあります。ただ、何かの書評で見かけたんですが、子供を産めるのは何といっても女性だけですし、「哺乳類」という生物学的な分類名からして、母乳を授乳できるのは母親だけであって父親はできませんから、子育てにおける重要性が格段に低い、ないしは、まったくゼロである、と見なされて来たのにも理由があるかもしれません。ということで、従来はほぼほぼ見過ごされて来た育児における男親の役割を、人間だけでなく霊長類だけでなく、マウスやラットのようなげっ歯類、あるいは、オシドリでも有名な鳥類まで、さまざまな動物を含めて、脳神経科学、心理学、人類学、動物学、遺伝学などなど、科学的な視点から徹底検証を加えています。ただ、本書を読んでいて感じたのは、第1に、やっぱり、父親の育児に対する影響力は、決して子供へのダイレクトな影響ではなく、母親を通じた影響の場合が少なくない点と、第2に、ほぼほぼ父親の子供への影響は相関関係に終始しており、決して因果関係や、薬学でいうところの作用機序はまったく解明されていない、という点は読み進むにあたって心しておくべきと考えます。特に、年老いた父親から子供に対する影響がかなりネガティブに言及されますが、根拠がそれほど確かではないんではないか、と思わせるものが多くあります。ということで、私、というか、我が家が子供をもうけたのは前世紀1990年代の後半ですし、2歳違いの男の子2人はすでに成人しています。そのころは今のような男性の育児休暇もなく、育児は20世紀的に女性の役割というジェンダー観がまだまだ支配的だったような気がします。その中で、本書には全く言及がないんですが、私の信念に近いもので、子供との関係は愛情をもって接するのはいうに及ばず、日本的な遠巻きにした遠慮がちな接し方ではなく、スキンシップが重要と考えていました。結婚前の1990年代前半に南米の大使館勤務でラテン的な考え方が身についてしまった結果かもしれません。例えば、人と会った際に、日本的に腰を折ってお辞儀をするのもいいんですが、欧米流に握手をする方がよりスキンシップを持てますし、さらに、ハグすればもっと親近感が高まる、といったことです。だから、というわけでもありませんが、育児の中でかなりの体力や腕力を要するという観点もあって、私は父親として子供の入浴を受け持っていました。まあ、小学校就学前の幼児期に南の島のジャカルタ暮らしで時間的な余裕があった点も忘れるべきではありません。男の子だったので、男親が裸の入浴を受け持った、というのもあります。動物と違って、人間の場合はおもちゃを買い求めるという親子の接し方がありますので、このスキンシップについてももう少し考えて欲しかった気がします。

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最後に、熊倉正修『日本のマクロ経済政策』(岩波新書) です。著者は、明治学院大学国際学部教授のエコノミストです。実は、私にはかなり勝手な思い込みがあって、朝日新聞や岩波書店は、私と同じとはいわないまでも、左派的な見方が示されていると考えがちだったんですが、先々月の6月22日付けの読書感想文で取り上げた朝日新聞ジャーナリストによる原真人『日本銀行「失敗の本質」』や本書は、びっくりするくらいの右派的な経済政策論を展開しています。すなわち、マクロ経済政策のうち、金融政策では量的緩和をヤメにして金利を引き上げるという意味での「金融正常化」を進め、財政政策では社会保障などを含めて歳出をカットし歳入を増やすにより財政再建を図る、という論調です。ジャーナリストをはじめとして、現在の政権の経済政策批判という観点からは、私は権力に対する批判という意味で許容すべきと考えますが、経済政策の本質を考えることなく、単なる党派的な視点から現政権の政策に対する反対論を展開するというだけでは、とても不満が残ります。緊縮財政で支出をカットし、社会保障を削減することにより、どういう利点が国民に感じられるのか、その点を明確にした上で、それなりの経済分析に基づいた議論を展開してほしい気がします。本書の著者は、日本経済はデフレであったことはないと主張して、英語の原著論文を示しているんですが、まあ、そこまでは研究成果としていいとはいえ、緊縮財政による財政再建を目指し、財政赤字を削減する点については、何の議論もありません。それよりも、格差の是正を目指した所得再配分政策などに目が向いていないのも悲しい気がします。財政赤字を削減するとしても、何の前提条件もなしで歳出削減と歳入増で突き進むのではなく、所得税の累進性の強化とか、大きく切り下げられて来た法人税の増徴とか、歳出カットにしても大企業向け補助金の整理とか、あるいは、防衛費の削減とか、ムダな公共事業の削減とか、すでに官庁を定年退職した私でも考えつくような論点はいっぱいあるんですが、本書ではパスしてしまっている気がします。加えて、景気拡張的なマクロ経済政策を求める国民の意見を、こともあろうに「民主主義の未成熟」で片づけて、直接の言及こそありませんが、ケインズ的な「ハーベイロード仮説」を無理にでも成り立たせようとする強引ささえうかがわせます。ひょっとしたら、左派的な経済論調を期待して図書館で岩波新書から出ている本書を借りた私が間違っていたのかもしれません。いずれにせよ、誠に残念です。
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2019年08月03日 (土) 11:41:00

今週の読書は経済書をはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、いつもの通りに、経済書をはじめとした計7冊です。ただ、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの8作品のうちの3作を読みました。なお、本日すでに自転車で近隣図書館を回り終えており、来週も数冊の読書になる予定です。

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まず、丸山俊一・NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義 3』(東洋経済) です。NHK特集で放送された内容の書籍化で、タイトルから明白なように、第3巻となります。私は今までの2冊も読んだ記憶がありますが、2冊目がやや物足りなかったので、この3冊目を読むかどうか迷っていたんですが、のーねる経済学賞を授賞したティロル教授とか、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で話題になったハラリ教授らの名前がありましたので、図書館で借りて読んでみました。5人の有識者へのインタビュー結果を中心に構成されているんですが、さすがに、3人目のティロル教授、4人目のハラリ教授、そして、5人目のガブリエル教授のパートは読みごたえがありました。最初の起業家ギャロウェイ氏のパートでは、インタビュアーが悪いんでしょうが、「GAFAの究極の目的は何か」という趣旨の質問があり、冒頭でガックリ来てしまいました。企業活動をする限りは、持てる経営資源を活用して利潤を最大化するのが企業の活動目的に決まっています。それとも、GAFAの目的は「世界征服」といった趣旨の回答を引き出せるとでもインタビュアーは思っていたんでしょうか。加えて、GAFAなどによるイノベーションが雇用の減少をもたらすというのは、必ずしも真実ではありません。コストダウンを目的にしたイノベーションしか念頭にないので、こういった珍問答になったんでしょうが、新商品の開発や新しい流通経路の開発など、生産を増加させ雇用も増えるようなイノベーションは歴史上いっぱいありました。また、第2章ではビットコインに続く仮想通貨の開発者ホスキンソン氏へのインタビューなんですが、資本主義は短期的な視野に陥りがち、といった発言が示されている一方で、第3章のティロル教授は市場が常に待機主義であるわけではないと主張して、まったく株主配当を行わないアマゾンのような例を出したりしています。ティロル教授は同時に仮想通貨について大いに否定的な論調を展開していたりもします。第4章のハラリ教授は、仕事を守るのではなく、人々に所得というか、収入を保証する、例えば、ベーシックインカムのような制度の重要性を指摘しています。最後の第5章のガブリエル教授は、人々を支配しているのはAIやロボットといったハードあるいはソフトな機械ではなく、そのバックに控えている人間だと喝破しています。などなど、決して、系統的な見方を得るのではないのかもしれませんが、ひとつひとつの見方や考え方に、私はとても強い刺激を得ることができました。NHKの放送はまったく見ていませんが、本書でもかなりの程度にその雰囲気は得られるのではないか、という気がします。

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次に、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済) です。著者はオーストリア生まれで、ウィーン大学で古代史のテーマで博士号を取得して、現在は米国スタンフォード大学の歴史学研究者です。本書は先週土曜日の日経新聞の書評欄で取り上げられていましたが、その時点で私はすでに新宿区立図書館から借りていたりしました。なお、英語の原題は The Great Leveler であり、2017年の出版です。ということで、本書では、一般に私のようなマルクス主義歴史学を知る者が原始共産制と呼ぶ石器時代から時代を下って、生産力の向上とともに剰余生産物ができるに従って不平等が生じた歴史をひも解く、というか、不平等が生じつつも解消された要因について分析を加えています。すなわち、7部構成の本書なんですが、第1部で不平等の概略史を跡付けた後、不平等を解消する社会現象を「騎士」と名付け、4つの騎士を、第2部で戦争、第3部で革命、第4部で崩壊、第5部で疫病、として取り上げ、最後の方の第6部と第7部では四騎士に代わる平等化の手立てを、最後の第7部で平等と不平等の未来について分析しています。本書で「騎士」と名付けている戦争、革命、崩壊、疫病については、直感的に、社会秩序を大きく揺るがせますので、いわゆる弱肉強食のパワー・ポリティクスの世界に入りそうな気がしないでもないんですが、確かに、考えてみると戦争で例に挙げられている我が日本の第2次世界対戦の記憶にしても、平等化が進んでいるのは歴史的事実のようです。本書でいうところの「総動員体制」に従って、人間としての生存に必要な部分を上回る余剰を戦争遂行のために国家が強権でもって召し上げるんですから、原始共産制に近づくのかもしれないと私は考えたりしました。ただ、他方で、本書でもソ連の共産革命に付随して、特に北欧各国で累進課税が導入された点を強調していますし、昔のソ連にしても現在の中国にしても、本来のマルクス主義的な社会主義や共産主義からはほど遠いんですが、理念としての平等の旗を下ろすことはありませんし、その影響を受けた改良主義的な社会民主主義でも平等化がひとつの政策目標として追求されていることは紛れもない事実です。また、本書では何箇所かで平等化のひとつの要因として労働組合を上げています。もちろん、マルクス主義的な労働者階級の前衛ではないんでしょうが、現代経済学でも、例えば、Galí, Jordi (2011) "The Return of the Wage Phillips Curve," Journal of the European Economic Association 9(3), June 2011, pp.436-61 などにおいても、賃金上昇圧力としての労働組織率を評価していますから、労働組合と平等化は何らかの正の相関があるともいえます。ただし、本書では農地改革については否定的な評価を下しているように見えます。我が国ではその昔に、「士農工商」なる身分性がありましたが、現代においても、工業・商業と農業で平等化の方法論に少し違いがあるようです。いずれにせよ、ピケティ教授から格差や不平等のトピックが経済学のひとつの重要なテーマとなっています。注釈や索引を含めると軽く700ページを超えるボリュームですが、私のようなエコノミスト兼ヒストリアンの目から見れば、一読しておく値打ちはありそうな気がします。

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次に、ローレンス・レビー『PIXAR』(文響社) です。著者は、かのスティーブ・ジョブズから招聘されてピクサーの最高財務責任者CFO兼社長室メンバーに就任してジョブズとともにピクサーで働き、後に取締役まで務めています。英語の原題は To PIXAR and Beyond であり、2016年の出版です。繰り返しになりますが、著者はアップルから追放されてピクサーのオーナーになっていた1990年代なかばのスティーブ・ジョブズから電話を受け面接に進み、スタジオを訪問して後に「トイ・ストーリー」として公開されるアニメを見て感激し、ピクサーに入社するところからお話が始まり、そのピクサーがディズニーに買収される2006年まで10年余りの期間に関するファイナンスの面からのピクサーの社史になっています。著者の転職当初は、全株式を所有し唯一の取締役であるスティーブ・ジョブズが招聘したということから、スティーブ派と目されて、クリエイターたちの一派から冷ややかな目で見られていたものの、IPOを控えてストック・オプションをクリエイターたちに配分する中で、徐々に企業としての一体感を形成し、同時に、カリスマ的な経営者であり、シリコンバレーでも抜きん出たビジョナリーのひとりであるスティーブ・ジョブズのかなり強引かつ得手勝手な要求には一切ノーといわずに、黙々とオーナーの指示に従い、財務責任者として業務を遂行していく姿を浮き彫りにしています。もちろん、著者の自伝的な要素もありますので、大きなバイアスがかかっていることとは思いますが、非公開企業の内部事情はうかがい知れません。もちろん、著者は財務からピクサーという企業を見ていますので、「トイ・ストーリー」から始まって、我が家も一家でよく見た一連の封切り映画、すなわち、「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」などの世界的な大ヒット映画のメイキングの部分は期待すべきではありません。そして、最後はヒットを飛ばし過ぎて株価がとてつもなく高い水準まで上昇し、その高株価を維持するためにはディズニーのようにテーマパークやグッズなどの多角化を図るか、それとも、そういった多角化に成功した企業にM&Aで売却するか、の選択肢から後者の道を選んだわけです。スティーブ・ジョブズは広く知られた通り、今世紀に入ってアップルに復帰し、iPOD、iPHONE、iPADなどのヒットを飛ばし、そのままがんで亡くなっていますが、ジョブズがアップルを追放され、ネクストというコンピュータ会社を立ち上げながらもパッとせず、結局ピクサーのオーナーとしてIPOで復活してビリオネアになるという、著者以外のもうひとつのパーソナル・ヒストリーの一端にも触れることができます。本書を読んだ教訓として、やっぱり、カリスマ的な社内権力者には、すべからくイエスマンでいて、「ご無理、ごもっとも」で決して「ノー」ということなく接しなければならないということがよく判りました。そして、我と我が身を顧みて、役所には決してカリスマ的な権力者はいなくて集団で組織を運営していたのですが、私が出世できなかった原因も身に染みてよく判った気がします。

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次に、澤田瞳子『月人壮士』と、薬丸岳『蒼色の大地』と、そして、乾ルカ『コイコワレ』(中央公論新社) です。この3作品は、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトを構成しています。この3作品については、『月人壮士』が奈良時代、特に聖武天皇にスポットを当てており、時代が下って、『蒼色の大地』は明治期、『コイコワレ』は太平洋戦争末期、をそれぞれ舞台にしています。もちろん、この3作品だけでなく、私はまだ読んでいませんが、原始時代の大森兄弟「ウナノハテノガタ』、中世や戦国時代からの武士の時代の天野純希『もののふの国』、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』に収録された昭和後期の「シーソーモンスター」と近未来の「スピンモンスター」、平成の朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』、未来の吉田篤弘『天使も怪物も眠る夜』と、1号から10号までに連載された8人の作家による作品がラインナップされています。まだ決めてはいませんが、私は伊坂幸太郎『シーソーモンスター』は読んでおきたいと考えています。この「螺旋」プロジェクトの特徴は、出版社のサイトにあるように、ルール1として「海族」と「山族」の2つの種族の対立構造を描き、ルール2としてすべての作品に同じ「隠れキャラクター」を登場させ、ルール3として任意で登場させられる共通アイテムが複数ある、ということのようで、ルール1は単純で読めば判ります。例えば、古典古代を舞台にした『月人壮士』では天皇家が「山族」であり、天皇を外戚として支える藤原氏が「海族」となります。明示的に何度も出て来ます。そして、3番目は複雑過ぎて8作のうちの3作品しか読んでいない現段階では私には不明ながら、カタツムリとラムネを念頭に置いています。ただ、奈良時代にラムネもないだろうとは思っています。そして、その中間のルール2の「隠れキャラ」については、オッドアイの人物なのではないか、と思い始めています。オッドアイ、すなわち、左右で目の色が違う、という意味です。少なくとも、『蒼色の大地』と『コイコワレ』には碧眼の青い目の日本人が登場するんですが、『月人壮士』については私が読み飛ばしたとも思えず、出て来ませんでした。というような読書の楽しみもアリではないかと思います。簡単にあらすじだけ紹介しておくと、『月人壮士』では聖武天皇、というか、上皇が亡くなった際の後継天皇に関する遺勅がったんではないか、とに命じられて継麻呂と道鏡がいろんな関係者にインタビューします。それがモノローグで展開され、聖武天皇の実像や「山」の天皇家と「海」の藤原氏の確執、もちろん、天皇後継に関する陰謀などが明らかにされます。『蒼色の大地』は明治期の海軍と海賊で、海軍には耳の大きい山族、そして、海賊には目の青い海族と別れます。『コイコワレ』は戦争末期に宮城県に集団疎開した小学6年生の碧眼の「海」の少女と、それを忌み嫌う現地の「山」の少女の確執、さらに、「海」の少女のお守りに関するストーリーです。読んだ3作の中では、『蒼色の大地』について、作者の薬丸岳については何作か読んでいたりしますので、もっとも期待していたんですが、逆に、期待外れに終わった気がします。

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最後に、今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書) です。著者は、NHKから民放テレビ局に移籍したジャーナリストです。タイトル通りに、我が国のインテリジェンス組織である内閣情報調査室に関するルポです。さらに、内閣情報調査室とともに、というか、あるいは、三つ巴を形成している公安警察と公安調査庁も含めて、スパイたちのインテリジェンス活動を明らかにしようと試みています。よくいわれるように、我が国は「スパイ天国」であって、冷戦期などは各国スパイが暗躍していたらしいんですが、本書でも指摘されているように、特定秘密保護法によりスパイのインテリジェンスからは普通の国になったのかもしれません。でも、私も在外公館で経済情報の収集に当たっていましたが、わざわざスパイが暗躍して秘密裏に情報を収集することもなく、新聞や雑誌、可能な範囲でテレビも含めて、いわゆるマスメディアから一般に広く公表されている情報だけでも、少なくとも経済情報の場合は、チリという遠隔の地でそれほどの情報がなかったこともあり、公開情報でほとんど間に合っていたような気もします。経済情報であれば、マクロ経済の統計情報も豊富に公表されています。ただ、テロを含む安全保障や治安維持上の情報となれば、経済情報とは違うんだろうということも理解は出来ます。それから、情報公開上の考え方なんですが、報道の元ネタとなる政府からの情報に関しては、ジャーナリストのサイドでは公開の方に針が振れるのに対して、私も経験がありますが、政府に勤務する公務員のサイドからすれば秘匿の方向に意識が傾くのも、まあ、ポジショントークのようなもので、立場によって考え方にビミョーな差が出ることは、ある意味で、当然と考えるべきです。どうでもいいことながら、本書のタイトルである内閣情報調査室は略して「内調」というのが、本書でもしばしば出てくるんですが、私が若かりし官庁エコノミストだったころ、私からすれば「内調」とは当時の経済企画庁の内国調査課を意味していました。官庁再編前のことながら、その昔の「経済白書」の担当セクションです。私自身は研究所の所属が長く、「個人的見解」の但し書きをつけて自分の名前で研究成果を出していたりしたんですが、政府や個別の役所の名前でリポートを取りまとめる白書担当部局などが、官庁エコノミストのポジションだった時代かもしれません。繰り返しになりますが、本書とは何の関係もない思い出話でした。
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2019年07月27日 (土) 11:50:00

今週の読書は青春小説の金字塔『横道世之介』の続編をはじめ計6冊!

相変わらず、今週の読書も経済書をはじめとして、小説まで含めて計6冊を読んでいます。私の好きな青春小説の中でも、おそらく、一番に評価している吉田修一の『横道世之介』の続編も読みました。来週の読書はほぼ手元に集め終わっており、何と、経済書よりも小説の方が多くなりますが、やっぱり数冊読む予定です。

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まず、井上智洋『純粋機械化経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は駒澤大学のマクロ経済学の研究者で、本書は読み方にもよりますが、経済書と考えるよりも文明についての教養書や哲学書として読む読者も多そうな気がします。私のように経済書と考える読者は、第3章と第4章で論じられている人工知能(AI)により仕事が奪われるか、とか、労働のインプットを必要としない純粋機械化経済における格差、などに比重を置いた読み方になりそうな気がしますし、文明論とか哲学書と考える読者は最後の第7章と第8章あたりに興味を持ちそうです。まあ、出来はともかく、この最終章あたりは『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』のような雰囲気が感じられます。AIがどういった仕事や職業を奪う、というか、代替するのかについては英国オックスフォード大学のフレイ-オズボーンの研究成果に言及されており、実は、AIによる純粋機械化経済は労働のインプットを必要としないことから、資本ストックの限界生産性の逓減が生じなくなり、経済成長が一気に加速する、と結論しています。ただ、私は疑問で、AIによる純粋機械化経済で成長が一気に加速するのは生産性、というか、供給サイドであって、需要サイドがこれに追いつかなければ、単なる過剰生産のデフレに陥りかねません。その中で、本書では言及されていませんが、「スーパースター経済」のような格差が一挙に拡大する可能性を示唆します。Average is over. というわけです。なお、AIによる経済成長の爆発的な加速を本書では「テイクオフ」と名付けていますが、もちろん、ロストウ的な比喩といえます。その上で、狩猟採集経済から農業経済への第1の分岐、さらに、いわゆる狭義の産業革命に伴う農業経済から工業経済への第2の分岐に続き、近い将来に、AI利用による爆発的な経済成長の加速が実現できるかどうかによる第3の分岐が生じると指摘します。そして、ユニバーサルなベーシックインカム(BI)の必要性などが解明されます。特に、私の印象が鮮明だったのは、主流派経済学で半ば自明な前提とされている長期均衡について著者が否定している点です。マンキュー教授のその昔のテキストなどでは短期の不均衡と長期の均衡から経済のお話が始まり、長期には伸縮的な価格調整により雇用も含めて市場均衡が実現されるとされていますが、実は、私自身も懐疑的なんですが、著者はこの長期の均衡を否定し、長期にも雇用をはじめとする不均衡が残る可能性を示唆します。おそらく、私の直感なのですが、この著者の長期の不均衡理論をキチンとモデル化して突き詰めれば、いわゆる現在貨幣理論(MMT)が成立する可能性が出てくるような気がします。ただし、これは人類がAIを使いこなせれば、という前提であり、場合によっては、人類ではなくAIが主人公になる経済も視野に入れる必要があると私のような悲観派は考えています。そのAIが主人公になる経済社会では、人類は現在のイヌ・ネコのようなAIのペットになるのかもしれません。

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次に、巣内尚子『奴隷労働』(花伝社) です。著者はフリーのジャーナリストであり、Yahoo! ニュースの連載を大幅に加筆し書籍化されています。副題が「ベトナム人技能実習生の実態」となっているように、ベトナム人を中心に技能実習制度の下での移住労働者の人権侵害の実態について取り上げています。低賃金の単純作業でありながら、技術協力や国際貢献の名の下に、外国人技能実習生がパワハラやセクハラにとどまらず、モロの暴力があったり、雇用の場だけでなく強制的に住まわせられる住居の家賃でも不当な高額を請求され、転職もままならず、徹底的に虐げられる現場を取材して明らかにしています。ただ、その背景に、ボージャス教授の『移民の政治経済学』にあったように、外国人労働者の受け入れによって膨大な利潤を企業が得ているという経済的な事実を本書では見落としています。ですから、あとがきの中で、、謝辞の前の事実上最後の技能実習制度の構造的問題の小見出しで「日本社会におけるモラルハザード」を原因に上げているのには、実にがっかりさせられました。企業の活動目的が利潤の極大化であり、人権擁護や、ましてや、国際協力ではないことは理解できないのでしょうか。本書の中でも、特に、ベトナム人技能実習生を中心に取り上げているわけですから、送り出す側のベトナムで、国策として「労働輸出」が奨励されている背景にマルサス的な貧困があるのかどうか、仲介するベトナム側の企業の業務のクオリティに関する情報が一党独裁政権下で何らかの不都合ないか、といった取材、さらに、受け入れ側の日本では、「モラルハザード」はまったく取材されていないようですし、ましてや、技能実習生を受け入れている企業の収益状況などは視野にないようです。少なくとも、送り出すベトナムでも、もちろん、受け入れる日本でも、企業が利潤極大化の行動の一環として技能実習生を送り出し、あるいは、受け入れている、という事実は忘れるべきではありません。そして、その基礎の上に、我が国の現状の労働市場でどれほど人手不足が実感されているのか、そして、その人手不足にもかかわらず賃金上昇が鈍い背景として女性や高齢者の労働市場参入とともに、本書でも指摘されているように、すでに30万人に上る外国人労働者がどのように作用しているのか、などなどの解明が望まれます。もちろん、今上げたポイントはジャーナリストの手に余る可能性もありますから、その場合は研究者を巻き込むことも必要でしょう。ただ、「モラルハザード」で済ませる程度の問題として著者が認識しているとすれば、本書の値打ちが大いに下がるような気もします。加えて、左派・リベラル派を標榜する私の基本的な姿勢を明らかにすると、ホントに人手不足であるなら、市場でその情報が非対称性を克服して十分に活用され、労働力の希少性に見合った賃金の価格付けができないと市場経済の意味はありませんし、その希少性に見合った賃金を支払えない企業は市場から退出すべきです。さらに、外国人の移住労働者については情報の非対称性が日本人よりも大きいでしょうから、政府の役割もそれだけ大きくなるべきと考えます。

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次に、岡山裕・西山隆行[編]『アメリカの政治』(弘文堂) です。著者・編者は米国政治の研究者と考えてよさそうです。基本的には、大学初学年などのテキストと私は受け止めていますが、米国政治に関心あるビジネスパーソンでも十分に読みこなせる内容です。2部構成となっており、第1部で総論として歴史、機構、選挙と政策過程などが概観された上で、第2部において人種とエスニシティや移民、ジェンダー、教育と格差などの政治学上の争点を解明しようと試みています。本書でも鋭く指摘しているように、我が国では考えられないような政治上の争点が米国にはいっぱいあります。典型的には銃規制であり、先日の我が国の参議院議員選挙などの国政選挙レベルで銃規制が争点となることはありえない、と私をはじめとして多くの国民は感じていますが、米国で銃規制がまったく進まないのは、これまた、多くの日本国民が感じているところではないでしょうか。移民による国家としての成立と先住民やアフリカ系米国人への人種差別なども我が国では実感ありません。ダーウィン的な進化論を否定し聖書の『創世記』の天地創造を初等・中等教育で教えることは、欧州のキリスト教国でも選択肢にならないのではないでしょうか。さらに、北欧とは真逆と考えられている自己責任を強調する社会福祉政策についても、なかなか理解しがたいと受け止める読者もいそうな気がします。私はいまだに理解できなかったのは、世界における米国の軍事力のあり方であり、すなわち、20世紀初頭の第1次世界大戦への参戦を躊躇し、モンロー主義という孤立主義を貫いていた米国が、第2次世界大戦後は当時のソ連との冷戦を考慮しても、突如として世界の警察官になり、そして、21世紀の現在はその地位から下りようと模索しているのは、専門外の私には理解できませんでした。こういったように、それぞれの分野の米国政治の専門家が、それぞれの分野において何がどのような文脈で争点化し、それらをめぐってどのような主体がいかなる立場で政治過程に関与し、どのような政策が作られ、執行されてきたのかを解説することに力点が置かれており、コンパクトで判りやすいテキストに仕上がっています。米国の政治についてはいまだにフランス人思想家であるトクヴィル『アメリカのデモクラシー』が金字塔として引用されますが、本書についても、外国人労働者の受け入れなどが進み国際化が進展する我が国の現状を考え合わせれば、大いに参考になると私は評価しています。

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次に、ホルヘ・カリオン『世界の書店を旅する』(白水社) です。著者は、スペインの文芸評論家であり、本書は著者が世界を旅行した際に訪れた書店についてのエッセイです。スペイン語の原題は Librerías であり、まさに、複数形ながら、書店、というか、本屋、そのものです。英訳書のタイトルは Bookshops となっており、基本は英訳書が邦訳の底本隣、必要に応じてスペイン語原書を参照したと邦訳者があとがきで書いています。スペイン語原書は2013年の出版、英訳書は2016年の出版です。まず、どうでもいいことながら、私は英国にいったのは国際会議で短期間だったので少し判りにくいんですが、米国では首都ワシントンDCで連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころ、bookshopは米国ではおかしい、bookstoreが正しい、と訂正された記憶があります。というのは、米国人にとって shop とは、何か作業をするところであり、典型的には workshop や散髪屋さんの barber's shop があります。それに対して、store は製品を置いておくだけ、というニュアンスです。もう30年前になりますが、私がFEDにいた1989年にワシントンDCにタワーレコードが出店したので、リサーチ・アシスタント仲間で繰り出そうと相談していたところ、私が record shop というと、record store と訂正された次第です。ちなみに、タワーレコードの後に、そのころ米国進出を果たしていたキリンイチバンをみんなで飲みに行った記憶があります。それはともかく、残念ながら、本書ではワシントンDCの本屋は出てきません。米国で一番注目されているのはストランド書店です。ニューヨークは4番街にあり、私も行ったことがあります。これもどうでもいいことながら、私はエコバッグはストランド書店のデニム地のものを使っています。それから、大使館の経済アタッシェとして3年間勤務したチリの首都サンティアゴではロリータ書店が何度か言及されています。誠に残念ながら、私は記憶がありません。でも、隣国アルゼンティンの首都ブエノスアイレスのノルテ書店については、ほのかに記憶があり、アレではないか、と思わないでもない建物が脳裏にあったりします。我が国の書店では、東京の丸善が黒澤明との関係で言及されています。しかし、京都出身の私は、丸善といえば、私の学生時代に河原町通蛸薬師にあった京都丸善です。そうです。梶井基次郎の「檸檬」に登場し、爆弾に見立てられた檸檬で木っ端みじんにされるのを主人公が想像する京都丸善です。

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次に、奈倉哲三『天皇が東京にやって来た!』(東京堂出版) です。著者は歴史の研究者です。副題、というか、実は「錦絵解析」というのがくっついていて、私はこれに大いにひかれて借りました。私は自分でも自覚していますが、天皇個人についてはともかく、天皇制に関しては日本人の中でもかなり少数派に属すると考えていて、天皇が東京に行くかどうかについてはまったく興味ありませんが、明治期初年の東京について、さらに、その当時の東京の人が天皇をどう受け止めていたのかについては興味あります。加えて、上の本書の表紙画像を見ても理解できるように、税抜き2,800円にもかかわらず、フルカラーのとても見ごたえある図版がふんだんに盛り込まれており、誠に失礼ながら、歴史研究者の文章を一切読まずに、フルカラーの図版をながめるだけでも値打ちがあるような気がします。ということで、明治天皇は2度江戸、というか、東京に行幸して、2度めの行幸でそのまま東京に居ついたわけですが、本書では第1回目の東京行幸、言葉を替えれば、はじめての東京行幸の際の錦絵を解析して、歴史的な知見を得ようと試みています。錦絵の一覧はpp.18-20に取りまとめられています。2度めの東京行幸については、京都の公家衆に明治天皇を取り込まれることを回避すべく、東京に行きっ切りになることが想定されていたんでしょうが、第1回目の東京行幸については、東京府民はすべてが新政府に完全に服したわけではなく、江戸城が無血開城したこともあって、反政府的な勢力も一掃されたわけではない中で、新政府、というか、天皇の朝威を示し恩恵を施すことを目的としていました。東京滞在中に、天皇は武蔵の国の一宮である氷川神社を訪れ、東京府民へ御酒下賜を敢行し、東京府民は2日間に渡って天盃頂戴を祝います。それらを錦絵に収めているわけですが、一瞬ですべてを記録する写真とは違いますから、隅々まで正確に描写できているわけもなく、それなりに版元や絵師の思い入れがある部分が散見されるわけです。ですから、記録や報道に徹して出来るだけ客観的な描写を試みた例の他に、新政府寄りの姿勢を示す例、逆に、反政府的な要素を入れようと試みた例があります。行列を描写した錦絵が多いんですが、御酒下賜と天盃頂戴の錦絵にも見るべきポイントはあります。酒樽に、やたらと、「天下泰平」が多く見受けられます。江戸城は無血開城したとはいえ、上野彰義隊などの市街戦はあったわけで、平和を願う一般市民の気持ちは今も昔も変わりないことを実感しました。

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最後に、吉田修一『続 横道世之介』(中央公論新社) です。タイトルから明らかなように、吉田修一御本人による青春小説の金字塔『横道世之介』の続編です。私はもともと青春小説が好きで、特に、『横道世之介』は愛読し、高良健吾と吉高由里子が主演した映画も見ました。ということで、この作品は、世之介が与謝野祥子と別れて、さらに、大学を卒業したものの、バブル最末期の売り手市場に乗り遅れて、パチプロ、というか、フリーターをしている1993年4月からの12か月が対象期間となっています。世之介と大学からの親友の小諸=コモロンのほか、パチンコ屋や理容室で顔見知りになった浜本=浜ちゃんという女性の鮨職人、小岩出身のシングルマザーの桜子と子供の亮太、また、その兄や父親などの日吉一家、などなどが登場します。そして、世之介は桜子に2度に渡ってプロポーズしながらも受け入れられず、さりとて、明確に別れるでもなし、といった、相変わらずのちゅつと半端な恋愛状態が続きます。このあたりは、前作の与謝野祥子との恋愛関係の方が濃厚だったと評価する読者もいるかもしれません。そして、最後は、東京オリンピック・パラリンピックで桜子の子供の日吉亮太の活躍と、亮太に向けた桜子の兄、というか、亮太の叔父からの手紙で終わります。前作は世之介の母の手紙で終わっていたような記憶がありますので、それを踏襲しているわけです。そして、何といっても、桜子の兄の日吉隼人が勝手に投稿した地方都市主催の写真コンテストで世之介の写真が佳作に入賞し、賞の審査委員長だった大御所的な存在のプロの写真家の事務所に出入りし、手伝いなどをしつつカメラマンに成長していく萌芽をにおわせます。そして、何よりも、この写真の師匠が世之介の作品を「善良」であると評価し、この「善良」というキーワードが世之介について回ることになります。もちろん、世之介が電車の事故で亡くなるという事実に変更はありません。ただ、世之介の運転が桁外れに安全運転であることとか、コモロンとの米国旅行とかの軽い話題に交じって、何ともさりげなく、桜子の兄の隼人の中学生のころの喧嘩の贖罪といった思い出来事をサラリと紛れ込ませ、それでも、全体として世之介の善良さを全面に押し出して、いろんな登場人物の前向きで現状を肯定して先に突き進む姿勢を明るく描き出し、とてもいい仕上がりになっています。ここまで書けば、続々編がありそうな気がしますが、世之介が電車事故で亡くなるという事実に変更はないわけですから、前作のお金持ちの令嬢だった与謝野祥子に対して、本作では元ヤンのシングルマザーである日吉桜子と、世之介の恋愛対象が大きくスイングしたわけですので、真ん中の中道を行く恋愛が次にあり得る続々編で見たい気もします。それから、おそらく、前作と同じ読後の感想なんですが、私自身は世之介のような善良な人間にはなれそうもありませんので、世之介のような善良な友人・隣人が欲しい気がします。
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2019年07月20日 (土) 11:40:00

今週の読書はパフォーマンス測定に否定的な『測りすぎ』をはじめ計6冊!!!

今週の読書は、経済書らしきものをはじめとして、小説まで含めて、以下の通りの計6冊です。ただ、最初の『世界統計年鑑』は通して読むようなものではなく、パラオラとページをめくっただけです。今日はすでに図書館回りを終えていて、来週の読書の分の本も借りてきたんですが、来週も数冊の充実した読書になりそうな予感です。

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まず、英エコノミスト誌『The Economist 世界統計年鑑 2019』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。英国のエコノミスト誌の編集部による「世界統計年鑑」です。英語の原題は Pocket World in Figures 2019 であり、1991年度の初版発行以来27年間、毎年データのアップデートと収録項目の見直しを経て発行され続けているそうです。どうでもいいことですが、私は数年前に英語の原書を利用したことがあり、ハードカバーだったと記憶していますが、この2019年度版の邦訳書はペーパーバックでした。今は英語の原書もペーパーバックになっているのかもしれません。前半第1部が世界ランキングであり、国土面積や人口などの世界各国のランキングが示されており、後半第2部が国別の統計となっています。有人宇宙飛行の歴史とかのごく一部の例外を除いて、いわゆるクロスセクションの統計であり、タイムシリーズで示されているものはほとんどありません。まあ、私のように図書館で借りてパラパラとページをめくるよりは、購入して座右に置いて必要に応じて参照する、という使い方が正当なのかもしれない、と思わないでもありません。なお、邦訳の2019年度版は東京23区の区立図書館の中でも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館と文京区立図書館と墨田区立図書館と世田谷区立図書館の5館しか蔵書しておらず、しかも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館では禁帯出となっていますから、借り出せるのは極めてわずかとなっています。ある意味で、希少価値が高い、といえるかもしれません。

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次に、エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社) です。400ページを超える大作であり、著者は、ワシントンポスト紙で30年のキャリアを持つジャーナリストです。英語の原題はズバリ Janeseville であり、2017年の出版です。タイトルの街は米国ウィスコンシン州の南部に位置しています。本書のpp.426-27に地図があります。本書にも紹介されている通り、GMの大きなプラントがあった企業城下町であり、パーカー万年筆の発祥の地でもあります。そして、サブプライム・バブル崩壊後の2008年12月にGMが工場を閉鎖した前後から物語が始まります。かつては、工場のブルーカラーとして三交代の勤務で時給28ドルを稼いでいた熟練工の正規雇用された労働者が、非正規で半分の時給の仕事しかなくなって、一方でGMの工場再開や別の企業の工場誘致に希望をかけて、町おこしや企業へのインセンティブ付与を進めようとするグループがあり、他方で、新しい雇用・労働市場に対応するべく職業訓練や能力開発のために地域のブラックホーク技術大学に通い始める人々、あるいは、家計を支えるためにアルバイトを始める高校生などなど、著者は現地インタビューはもちろん、かなり膨大な情報を収集した跡がうかがわれます。そのうち、統計情報が補遺1で「ロック郡における調査の説明および結果」と補遺2で「職業再訓練に対する分析の説明および結果」とそれぞれ題して巻末に収録されています。そして、著者も私も不思議なのが、ブrックホーク技術大学、2年制だそうですから、おそらく、米国的なコミュニティ・カレッジに近い教育機関だと思いますが、こういった大学での学び直しや職業訓練・能力開発を受けた場合、かえって、再就職率が低かったり、再就職できても時間当たり賃金が少なかったりする、という統計的に分析された事実です。通常の理解とは逆に見えます。サンプルがそう大きくもないでしょうから、きわめて大きなバイアスが母集団にかかっている可能性は否定できません、例えば、もともと再就職率が困難だったり、高賃金が望めなかったりするグループが、こういった大学での学び直しや能力開発を受けた可能性はあるものの、本書のこの結論、というか、分析結果については議論を呼びそうな気もします。左派は能力開発が中途半端で不足している可能性を指摘して、一層の施策の充実を提案しそうな一方で、右派は能力開発が効果的でない可能性を議論して、こういった施策の廃止ないし縮小を求めそうな気がします。でも、全体として、暗い雰囲気のリポートながらも、将来に向けた明るさも感じられる内容でした。

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次に、ジェリー Z. ミュラー『測りすぎ』(みすず書房) です。本書冒頭で著者自ら記しているように、著者は本来米国の歴史研究者です。ただ、資本主義に歴史や思想史についても研究しているようで、経済学とまったく関係ないともいえないようです。英語の原題は The Tyranny of Metrics であり、2018年の出版です。ここで経済学に関する小ネタですが、本書の英語の原書タイトルの元ネタがあるように私は感じています。というのも、ヤング教授による "The Tyranny of Numbers" という学術論文があり、1990年代前半までのアジア新興国・途上国の経済成長は資本や労働といった要素投入に支えられたものであり、全要素生産性(TFP)はそれほど伸びていない、という点を実証し、さらに、このヤング教授の論文を受けてクルーグマン教授が "The Myth of Asia's Miracle" を書いて、1997~98年のアジア通貨危機を「予言」した、とされています。何ら、ご参考まで。ということで、本書では定量的に把握、すなわち、計測できる点を重視した経営や政策運営などを鋭く批判しています。エコノミスト、特に右派のエコノミストにとっては、マイクロな市場における価格が絶対唯一の情報であって、価格に従った資源配分こそが効率性を保証する、と考えられており、この市場における価格に類似した指標をついつい求めてしまいがちな傾向を本書では戒めています。私が考えるに、何かを定量的に把握し、それを改善の指標とする場合、3つの間違いが生じる可能性があります。第1に本来のパフォーマンスの代理変数にならない指標を採用する間違いで、第2に計測のミス、第3に目的外の利用です。本書でも、第1のポイント、すなわち、学校や病院などのパフォーマンス指標として不適当な指標が取られている例が大量に指摘されています。例えば、患者の死亡率でもって病院のパフォーマンスを代理すれば、重篤な患者を受け入れない可能性が高まり、ホントにそれで病院の社会的使命が果たされるのか、という気がします。第2のポイントで、計測ミスはいっぱいあって、私の直感ながら、我が国のサービスの生産性は正しく計測されていない可能性があります。ここまで、「おもてなし」の精神でいっぱいの飲食店や宿泊の生産性が、他の先進国と比較して低いとはとても思えません。ほとんど事故なく正確極まりない運行を誇る新幹線の生産性が低いとはとても思えません。第3のポイントでは、学校の生徒のテスト結果を教師の評価と考えるのか、校長の評価と考えるのかでは、かなり受け止め方が異なるような気もします。最後に、第4の観点があり得るとすれば、評価すべきでないものを評価しようと試みている場合もありそうな気がします。総合的に、興味ある評価の計測に関する批判が本書には詰め込まれています。また、巻末のチェックリストも参考になりそうです。

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次に、松本佐保『バチカンと国際政治』(千倉書房) です。上の表紙画像からはピンと来ないかもしれませんが、A5のかなり大きな版でページ数も300ページを上回り、ボリューム感は十分あります。著者は、国際関係史の研究者であり、タイトル通りに、19世紀くらいから直近のフランシスコ教皇まで、バチカンが国際政治にかかわった歴史をひも解こうと試みています。ただ、私なんぞは、おそらくバチカンに親近感を持っているであろう著者が、どこまでバイアスをかけていえるのかが判断しにくく、直感的ながら、国際政治におけるバチカンの影響力を過大に評価しているリスクはありそうに感じてしまいました。ただ、本書ではスコープ外のようですが、15すぃきまつのコロンブスによる新大陸発見の後、スペインとポルトガルの間で西半球の米州大陸を西経に沿って分割したトルデシリャス条約は、当時の強硬アレクサンデル6世が仲介していますし、本書でも言及されている通り、チリとアルゼンティンの長い長い国境紛争はしばしばバチカンによって仲裁されています。私が在チリ大使館に勤務していた時にも経験しました。ということで、影響力の大きさにはやや眉に唾つけて読むとしても、本書で著者が指摘する通り、国際政治の中でバチカンが旗幟鮮明だったことは確かです。特に、第1次世界大戦の戦中から戦後にかけては一貫してドイツ寄りの立場を示して戦勝国からは煙たがられましたし、第2次大戦後の東西冷戦の中では、一貫して西側や米国寄りの反共の立場を堅持しました。そして、やはり、フランシスコ教皇の下でバチカンもかなり大きく変化しようという兆しや雰囲気は私のような部外者も感じ取っています。教皇専用の豪華専用車を廃してバスや列車のような公共交通機関を利用して移動したり、飛行機ではエコノミークラスの登場したり、と本書で指摘されている事実に加えて、私はフランシスコ教皇がカバンをもって飛行機のタラップを上る写真を見てびっくりした記憶があります。国際的なさまざまなテーマは、時代が進むにつれて広がりを見せ、通商問題などの経済関係はさすがにまだ手が伸びていないようですが、戦争と平和の問題はもちろん、地球規模での環境問題など、通常の国民国家やその集合体である国連などの国際機関に加えて、バチカンのようなトランスナショナルなパワーが活躍する場が増え、必要とされるようになったように私も感じています。そのためにも、ひいき目やバイアスなしでバチカンの力量を評価できる研究が必要です。

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次に、古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』(ミネルヴァ書房) です。著者は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究者であり、本書は、自然科学的な内容は豊富ながら、基本的には、私は歴史書だと受け止めています。まず、上の表紙画像に見られるように、副題は「連続体の人類生態史」となっています。「連続体」とは、英語でスペクトラム、フランス語でスペクトル、であり、文字通り、人類史を連続で捉えようと試みています。しかも、伝統的な歴史学の観点ばかりではなく、生物学や医学に加えて、地理学や社会学、もちろん、人口動態学まで、さまざまな学問領域を横断的に駆使しつつ、人類の異文化体験や多様化について解明を志向しています。特に、男女の性別まで含めて、もちろん、人種や文化の違いなどについて対立的、というか、何らかのグループの特徴を区別する要素として用いるのではなく、人類15万年の歴史を連続で捉えようとする試みは、私はそれなりに歴史分野に詳しいつもりでしたが、かなり新鮮な視点・分析方法だったような気がします。もちろん、白人の優位と有色人種の劣等性はすでに否定されて久しいものの、どこぞの超大国の現職大統領のように、人種差別的な発言を繰り返す輩も少なくないですし、まだまだ、分断的に世界を捉える感覚は広く残っています。エコノミスト的な視点から、本書で注目したのは、経済学的な視点も入れつつ、格差を論じている点です。例えば、生物的な身長に個人間で3倍の差があることはまれでしょうし、体重は身長よりもう少し差が出来そうに感じないでもありませんが、本書では、代謝量なども含めて個人間の格差はせいぜい3~4倍と結論しています。そして、狩猟採集社会における生まれながらの格差は3倍程度であるのに対し、農耕社会では11倍、牧畜社会では20倍と算出した上で、現代社会における2桁も3桁もの大きさに及ぶ経済的な格差、例えば、所得や消費の金額や居宅の広さなどが、生物的に必要かどうか、社会経済的に許容できるかどうかを鋭く問うています。確かに、我と我が身を振り返れば、実用的な範囲では、例えば、自動車は標準的な家族に3台もあれば十分ですし、いかな大食漢も人の5倍を毎日のように食べ続けるのは、かえって苦痛の方が大きいように感じます。ルソー的な自然状態では格差3~4倍という本書の議論は、受け入れられる素地が十分にありそうな気がします。

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最後に、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社) です。著者は、2017年の前作『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビューした若手のミステリ作家です。前作はタイトルそのままに映画化され、主人公の剣崎比留子役は浜辺美波が務めるそうです。本作品が第2作になり、主人公というか、ワトソン役のストーリーテラーとホームズ役の謎解きに当たる探偵役は前作から共通しており、シリーズというか、前作の続編と考えるべきです。さらに、犯罪発生のシチュエーションも前作と同じで、ほぼほぼクローズド・サークルだったりします。超能力開発を目的とする斑目機関の謎に迫ろうと試みますが、一定の前進はあるものの、もちろん、解明には至りません。次回作に続きます。本作品では、デビュー作のようなゾンビ菌によるテロという非現実的な出来事ではなく、予言や予見といったオカルト的な要素はあるものの、あくまで現実の人間心理に基づく超常現象なしでの謎解きがなされます。そして、実に、論理的な犯人像の解明がなされますが、単独犯でなく協力者の存在がカギとなります。そして、最後に謎解きの本質には関係しませんが、大きなどんでん返しがあります。これはよく考えられたプロットだと感心してしまいました。ただ、このどんでん返しがあってもなくても殺人犯の解明には関係しないのは、少し残念な気がします。ミステリの謎解き、特に、長編ミステリの場合、好みにもよりますが、私はタマネギの皮を剥くように、少しずつ着実に謎が解明されていくようなプロセスが好きなんですが、この作品では、「名探偵、みなを集めて『さて』といい」のようなカンジで、最後の最後に一気に謎が解明されます。それはそれで、好きなミステリファンもいそうな気がします。相変わらず、地名や人名の固有名詞にセンスないんですが、それはそれとして、私は続編も読みたい気がします。
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2019年07月13日 (土) 11:55:00

今週の読書はバルファキス教授の素晴らしい経済書をはじめとして計7冊!!!

このところ、経済書はやや失敗読書が続いていたんですが、今週は一昨日に取り上げた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』もよかったですし、バルファキス教授の話題の本もよかったです。ということで、今週も経済書をはじめとして、計7冊の読書でした。今日、読書感想文でまとめて取り上げるのは6冊ですが、ご寄贈いただいた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』を一昨日に取り上げており、これを勘定に入れて計7冊という意味です。なお、梅雨の中休みをついて、本日のうちに、すでに自転車で図書館をいくつか回っており、来週も数冊の読書になりそうです。

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まず、ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社) です。著者は、ギリシア出身の経済学の研究者にしてギリシアが債務危機に陥った際に政権を取った急進左派連合シリザのツィプラス政権で財務大臣に就任し、大胆な債務削減を主張しています。このブログの4月28日付けの読書感想文で取り上げたバルファキス『黒い匣』で詳細にレポされている通りです。本書も『黒い匣』以上に話題の書です。原書はギリシア語だそうですが、邦訳の底本となった英訳書の原題は Talking to My Daughter about the Economy であり、2013年の出版です。ということで、10代半ば、ハイスクールに通う娘にエコノミストの父親が経済について解説しています。ここで経済とは資本主義経済のことを指しています。ですから、まず、経済格差の解明のために経済史を振り返ります。すなわち、必要最低限の生産だったものが余剰が出ることにより、それを我が物にする階級が現れ、その根拠付けのために宗教などが動員されるわけです。明記はされていませんが、背景には生産力の増進があります。そして、この歴史の考えはマルクス主義的な唯物史観そのものです。その中で、産業革命がどうして英国で始まったのかについて、p.67で解説されています。3番目の観点は、いかにもノースらの制度学派的な見方で、私は目を引かれました。そして、産業経済から金融経済の勃興、さらに、産業経済の中でも製造業における機械化の進展、20世紀に入って世界恐慌からケインズ経済学による政府の経済への介入、最後は、ギリシア的にアリストテレスのエウダイモニアに行き着くんですが、その前に、すべてが商品化される資本主義経済に対して、著者は「すべてを民主化しろ」と叫びます。常々、このブログで私が主張しているところですが、資本主義経済と民主主義は矛盾します。民主主義は1人1票の制度ですが、資本主義経済では株主総会のような購買力による格差があります。この矛盾を背景に、著者は資本主義経済ではなく民主化の方向を志向します。この点はキチンと読み取るべきです。

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次に、飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所) です。著者は、明治大学の経済学の研究者であり、リフレ派に近いと私は認識しています。本書は、タイトル通りの内容を目指しているようなんですが、前半の「日本史に学ぶ」部分はともかく、タイトル後半の「マネーの論理」はどこまで迫れているのか、やや疑問です。本書の対象とする期間は、7世紀の律令制の時代、我が国では古典古代の時代から、19世紀の江戸期までで、近代は対象外となっています。そして、本書の冒頭は、白村江の戦いで倭が唐の水軍にボロ負けするところから始まり、唐に敗北した国家の再建、というか、国家とは広範囲における安定した統治の実現である、というところから貨幣の鋳造が志向された、と解説しています。まあ、本書のスコープからすればそうなんでしょうが、もちろん、貨幣鋳造以外にも、律令という名の法制度の整備、碁盤目状の街路を整備した首都、あるいは、宗教上のシンボルとしての大仏、などなど、少しは言及して欲しい気もします。そして、本書のスコープそのものであるマネーの論理、というか、貨幣論についても、かなりガサガサだというふうに私は受け止めました。貨幣とは、あくまで、他の人々も貨幣として受け取ってくれる、という同義反復的な定義が適用されるというのは、私もその通りだろうと思います。ただ、歴史を紐解いているわけですから、もう少し厳密に歴史に当たって欲しかったです。特に、史料の残っている江戸期については、私でも徳川幕府による三貨制の金貨・銀貨・銭だけでなく、いかにも封建的な領主による藩札の発行もあれば、堂島の米切手が貨幣と同じように、すなわち、みんなが貨幣として受け取ってくれるがゆえに貨幣の役割を果たしていた点も、中央政府の発行する貨幣でないから無視したのか、それともご存じないのか、私には判りかねますが、マネーの論理とともに、歴史についても、もう少し読み応えある展開が欲しかったです。決してブードゥー・エコノミクスではありませんし、右派的な経済論が展開されているわけでもないんですが、ピント外れというか、経済書にしてはとても物足りなかった読書でした。

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次に、リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(河出書房新社) です。著者はイングランドの歴史研究者です。本書の英語の原題は The Hungry Empire となっており、直訳すれば「腹ペコの帝国」とでもなるんでしょうか。2018年の出版です。ということで、大英帝国における食の探求と大英帝国の形成そのものの密接な関係について、グローバルな視点から歴史的に解き明かそうと試みています。4部20章の構成となっています。各章のタイトルが中身のトピックをかなり詳細に表現しています。大英帝国とは、明らかに、海の帝国であり、世界各地からいろんな食材と調理方法を本国に持ち帰ります。ただ、基本は食べる方ですので、カリブ海のラム酒なども垣間見えますが、お酒をはじめとする飲み物はメインではありません。大英帝国の本国は欧州の西端に位置する島国であり、産業革命を経て工業や商業、とりわけ金融業については世界をリードしていた時期が長かったわけですが、農業や食料生産については決して恵まれた条件にはなく、世界各地、特に北米植民地や大洋州のオーストラリア・ニュージーランドなどの農業生産に適した植民地からかなり大量に食料を輸入して食卓が出来上がっているわけです。また、帝国主義時代には戦争や軍事衝突も少なくなく、保存食の研究なども世界に先駆けて行われています。大英帝国の前のポルトガルやスペインなどによる大航海時代には、アジアの胡椒を入手するのが大きな目標だった時代もあるんですが、大英帝国では食そのものの通商が盛んになります。インドの紅茶にカリブ海やブラジルの砂糖を入れ、カナダやオーストラリアの小麦で作ったパンを食べる、といった大英帝国の食生活が徐々に確立していく段階を歴史的に跡付けています。ただ、必ずしも記述の順が一貫性なく、少なくとも編年体では構成されていません。ですから、場合によっては、章を進むと時代がさかのぼる、といったことも起こります。ただ、さすがに歴史から敷く、イングランドとイギリスの区別はちゃんとされています。ユーラシア大陸の反対側の東端に位置する島国の日本はほとんど登場しませんが、世界的な食生活の歴史がとても分かりやすく展開されています。グローバル化の進展の中で、EUを離脱しようとしている英国の栄光の時代の記録かもしれません。最後に、注を入れれば400ページを超えるボリュームで、とても面白い本ながら、読むにはそれなりの覚悟を要します。

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次に、北岡伸一『世界地図を読み直す』(新潮選書) です。著者は、長らく東大の政治学の研究者だった後、国連代表部大使を務め、現在では国際協力機構(JICA)の理事長職にあります。実は、私の高校の先輩で、その昔には東京の同窓会会長だったりもしたと記憶しています。本書は、新潮社の『フォーサイト』に連載されていたコラムを単行本に取りまとめています。副題は「協力と均衡の地政学」となっていて、確かに地政学的な考察も盛り込まれていますが、まあ、基本はJICA理事長として訪問した世界各国の紀行文に近いと私は受け止めています。ですから、悪くいえば、世界各国の実情について国際協力の供与サイドから「四角い部屋を丸く掃く」ような紀行文と考えるべきです。しかも、国際協力=ODA実施機関の理事長の訪問先ですので、ほぼほぼすべてが途上国となっていて、欧米をはじめとする先進国は取り上げられていませんし、中国も対象外となっているのかもしれませんから、やや世界地図や地政学を銘打つにしては対象が狭い印象があります。ということで、著者の視線としては3つのポイントを据え、すなわち、第1に、先進国や中国が抜けているにもかかわらず、地政学の観点からのアプローチを取ろうと試みています。この点は、私は専門外ながらハッキリいって、失敗しているよな気がします。これは取り上げている国に偏りがあるからで、先進国や中国に加えて、アジアでもASEAN創設時のオリジナル加盟国5か国がスッポリと抜け落ちています。第2に、日本とのかかわりの中で途上国をとらえようと試みています。この点はまあいいんではないでしょうか。ただ、JICAの前身が海外移住事業団でしたから、ブラジルなどはしょうがないんでしょうが、やや現地移住者からの情報に偏りがあるような気がしないでもありません。かなりさかのぼって、歴史的に我が国との関係を把握しているのは心強い限りです。最後に第3に、著者のJICA理事長職としての機能的あるいは権能的な部分だけでなく、研究者や国連大使経験者としての幅広い観点からの人脈が生かされているように見えます。この点はさすがであると受け止めています。JICA理事長には、かつての緒方貞子女史のような個性豊かな国際派が就任したりしていましたが、政治学の研究経験者もいいんではないか、と思わせるものがありました。でも、開発経済学の専門家もJICA研だけでなく、JICA本体のトップにもいかがでしょうか?

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次に、横山秀夫『ノースライト』(新潮社) です。著者は、ファンも多いベテランのミステリ作家です。最近では、映画化もされた『64』の原作を私は読んだ記憶があります。本書は、建築家、というか一級建築士の青瀬稔という人物を主人公に、その建築士が設計して、「平成すまい200選」にも選ばれた家の施主が一家ごと集団で失踪した事件を、その建築士が自ら謎を解明すべく事実の確認に当たる、というものです。そこに、主人公の家族、子供のころも父母と少し前までの妻と子供、離婚してから思春期に差しかかった娘、そして、勤務する小規模な建築事務所の直面する危機などを織り交ぜながら、かなり時間軸として長い物語が展開します。なぞ解きのミステリとしてはともかく、家族や人生を長期に展開する大作といえます。ということで、主人公の青瀬の子供時代は、父親がダム建設に関する熟練工でありことから、経済的には恵まれた状態にありながら、高度成長期の日本各地を転々とする生活を送ります。大学は中退したものの一級建築士の資格を取得し、バブル経済期には豪勢な生活を送って結婚もし子供もできる一方で、バブル崩壊後は転落の人生の危機を迎え、結局、大学の同級生が所長をする建築事務所に勤務するものの、結婚生活は破綻し子供とは月に1度しか会えません。そして、青瀬の代表作となり「平成すまい200選」にも掲載されたY邸の施主と連絡が取れなくなり、信濃追分のY邸まで青瀬が出向いたところ、Y邸には施主一家が引っ越した後がなく、タウトの椅子が置いてあるだけでした。他方で、青瀬の勤務する建築事務所は著名芸術家の記念ミュージアム建設のコンペに参加する権利を獲得したものの、市政との癒着を全国紙で指摘され、コンペは辞退し建築事務所の所長は入院した病院から転落死してしまいます。最後が、かなり一気に終わる、というか、途中までタマネギの皮をむくようにジワジワと真実に迫った青瀬なんですが、なぞ解き部分が建築事務所の所長の葬儀あたりから一気に進んで、割合とあっけなく謎が解明されます。そうでなくても、かなりのボリュームを要した大作ですから、これ以上長くするのにはムリがあったのかもしれませんが、ここまで余剰を残した終わり方なのであれば、もう少しなぞ解きの部分もゆっくりと進めるわけにはいかなかったのか、と、やや残念に思わないでもありませんが、途中まで見事に読者をミスリードしながら、実に見事、というか、やや不自然ながらも予期せぬ終わり方には、それなりの感慨もなくはありません。なお、タイトルは北からの採光を意識した住まいのつくりのことで、北半球では柔らかな採光になるような気がしますが、何度かこのブログでお示ししたように、私の在チリ大使館勤務のころの経験として、ごく当然ではあるんですが、南半球では太陽は北を回りますから、北向きのベランダの採光がすぐれています。どうでもいいことながら、ご参考まで。

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最後に、朝倉かすみ『平場の月』(光文社) です。何となく、舞台が東武東上線沿線っぽくって、朝霞、新座、志木といったあたりの地域性が出ているような小説です。基本は長編小説ですが、各章を短編に見立てて読めば立派な連作の短編集といえるかもしれません。読み方次第だという気もします。作者は北海道出身の小説家であり、私は不勉強にして、この作品を初めて読みました。この作品で山本周五郎賞を受賞するとともに、直木賞候補に上げられています。私はこの作品は大衆小説とかエンタメ小説ではなく、純文学であると受け止めています。まあ、私の解釈からすれば、落ちはない、ということです。そして、ラブストーリーです。50歳に手が届く中学校の同級生だった中年男女のラブストーリーです。ということで、舞台は埼玉の中でも東京に近い地域であり、登場人物は主人公の男性、青砥のほか、中学の同級生が多く登場します。特に、青砥が中学のころに告白したこともある須藤が青砥とペアをなします。青砥は検査を受けた腫瘍が良性であった一方で、須藤の腫瘍の方はがんと宣告されたりもします。そして、第6章、あるいは、第6話から須藤はストーマ、すなわち、人工肛門を付けることになります。抗ガン剤治療で髪も抜けます。そして、最後には須藤は死にます。50歳でがんなんですから、常識的に死ぬんだろうと思います。そういう意味では、ラブストーリーの中でも悲恋の物語なのかもしれません。第2章のタイトルにもなっていますが、「ちょうどよくしあわせ」というのがひとつのキーワード、というか、本書のテーマになっています。でも、ラブストーリとしては物足りません。50歳だから、というのでもないのでしょうが、燃え上がるものがない一方で、生活感が充満しています。ただ、それを評価する読者も少なくなさそうな気がします。私は、まあ、もういいかな、というカンジです。ワクワクする読書ではありませんでした。ただ、何度も逆接でつなぎますが、それがいいという読者もいそうな気がします。
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2019年07月11日 (木) 23:25:00

ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) を読む!

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ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。ご著者は、松尾先生と「ひとびとの経済政策研究会」となっていて、私は松尾先生にお礼のメールを差し上げておきました。すでに、役所を定年退職して、もともと大したことのなかった影響力がすっかりなくなったにもかかわらず、いまだにご著書をご寄贈いただけるのは有り難い限りです。
まず、どうでもいいことかもしれませんが、少しは気にかかるところで、本書タイトルの「左派・リベラル派が勝つ」というのは、何に勝つのか、という点なんですが、基本的に選挙に勝って政権を奪取する、という意味のようです。まあ、単なる選挙での躍進で議席数を増やして、与党が改憲に必要な議席数に到達するのを阻止する、というのも意味あるかもしれませんが、私はそれでは物足りません。政権を取って政策を実行する足がかりとすべきと考えます。また、どうでもいいことながら、自称マルキストの中には、政権奪取のためには選挙ではなく、もっと暴力的な手段に訴えかねない人たちがいる可能性は否定しませんが、私自身はそんなことはありませんし、おそらく、ご著者の方々も私と同じではなかろうかと想像できます。しかも、政権選択選挙ではありませんが、参議院議員選挙という国政選挙がすでに公示されているタイミングです。
本書は2部構成で、前半は松尾先生が左派・リベラル派の経済政策のバックグラウンドとなる理論を展開し、第1部の末尾にはQ&Aまで付し、第2部では選挙の際のマニフェストの案が示されています。ということで、世論調査や内閣支持率の分析から本書は始まります。そして、若い世代では経済政策を重視し現政権支持率が高い一方で、年配世代は内閣支持率低い、という事実を明らかにしています。私も定年退職するまで、総理大臣官邸近くのオフィスに通っていましたから、官邸や国会議事堂などに向けて何らかの意思表明する人々を見かけることも少なくなかったんですが、大雑把に、年配は左翼的な主張、若者は右派的な意見表明、というパターンが多かったような実感を持っています。そして、少なくとも、現在の安倍内閣で経済や雇用が改善したのは事実です。本書でも、pp.38-40のいくつかのグラフで定量的に実証しています。もちろん、背景には、その前の民主党政権の経済政策がパッとしない、というか、ハッキリいえば、ひどいものだったので、安倍内閣になってその前に民主党政権時の経済政策が否定されただけでOK、という面があるのも確かです。ただ、さらにその前を振り返れば、小泉内閣の時のいかにも右派的な構造改革という名の供給サイド重視の経済政策で実感なき景気回復の果てに、2008年の米国のサブプライム・バブル崩壊による世界不況が民主党への政権交代を促したのも事実です。ですから、1992年の米国大統領選挙時に、当時のクリントン候補が標榜していた "It's the economy, stupid!" というのは今でも真実なんだろうと思います。それに対して、本書で指摘しているように、左派・リベラル派は景気拡大に対してとても冷たい態度を示し、「脱成長」を主張する場合すらあります。ですから、年金をもらってぬくぬくと生活している高齢世代はともかく、リストラされないように必死に働いている若い世代の間で左派への支持が低いのは、ある意味で、当然です。本書でも、米国のトランプ大統領、フランス大統領選挙で一定の支持を集めたルペン党首、など、経済政策的には反緊縮で金融緩和支持の左派的な政策志向を示すポピュリストが少なくないと指摘しています。実は、ナチスのヒトラーがそうだったわけですが、同時に、現在では、欧米の主要な左派、すなわち、英国労働党のコービン党首、スペインのポデモス、米国のサンダース上院議員などと大きな違いはありません。ですから、本書で明確に指摘されているわけではありませんが、右派と左派で大きく経済政策が異なるのは先進国では日本くらいのものかもしれません。第2部の選挙マニフェスト案では、消費税を5%に戻すとともに、法人税を増税し、所得税の累進性を強化することにより、医療や教育の充実を図る、との方向が示されています。従来から、私はインフラ投資はまだ必要なものが残っている、と主張しているんですが、第2部のマニフェスト案でも必要な公共投資は実行するとされています。そして、ベーシックインカムの導入に加えて、目立たないんですが、TPPは白紙に戻すとされています。私は全面的に賛成です。ただ、私の単なる趣味かもしれませんが、ベーシックインカムが格差是正の政策というのは理解するものの、ベーシックインカムと累進税制の強化のほかにも何か格差是正策があれば、なおいいんではないかと思います。

最後に、本書でも簡単に触れられているんですが、米国のサンダース上院議員の経済ブレーンであるケルトン教授らの支持する現代貨幣理論(MMT: Modern Monetary Theory)に関して、現時点では直感的に成り立つ可能性を私は感じているんですが、不勉強にして、それほど大きな確信があるわけではありません。その昔の税収に関するラッファー曲線は、レーガン大統領の時のブッシュ副大統領が "voodoo economics" と評したらしいんですが、よく考えると、税率ゼロで税収ゼロは当然としても、税収は税率の上昇に従った単調な増加関数ではない可能性も十分あり、どこかで税収を最大にする税率がありえることは直感的に理解できなくもありません。ラッファー曲線と同列に議論するのは気が引けるものの、現時点では日米両国の財政当局や中央銀行からMMTはかなり批判されているように見受けられる一方で、確かに、財政赤字がGDP比で発散すれば何らかの不均衡を招く可能性が高いと私は考えるものの、自国通貨建ての国債発行で財政資金を調達し、その国債は中央銀行が市中から買い上げれば、いわゆる「雪だるま式」に発散しない可能性も理解できなくもありません。もう少し勉強したいと思うのですが、なかなか能力も時間も不足しています。
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2019年07月07日 (日) 17:40:00

先週の読書は前週に続いて経済書は失敗読書ながら計5冊!!!

今週は、年度初めの4~6月期のお仕事がピークで、昨日に米国雇用統計が入って読書日が1日多いにもかかわらず、先週に続いて少し失敗読書の経済書を含めて、以下の5冊です。昨日の土曜日午前中が梅雨の中休みで図書館回りを終え、今週も話題の経済書をはじめとして数冊の読書になりそうです。

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まず、松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。作者の松尾先生からご寄贈いただきました。ただ、昨日のお届けだったもので、さすがに、まだ読んでいません。日を改めて単独で取り上げたいと思います。先週の読書計5冊の外数です。

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まず、ビョルン・ヴァフルロース『世界をダメにした10の経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者はフィンランド出身のエコノミストであり、ハンケン経済大学教授を務めた後に米国の大学でも教えたが、1985年に銀行業に転じ、1990年代前半に投資銀行を起業し、現在は北欧最大級の金融コンツェルンであるサンポ・グループの経営者となっています。原題は DE 10 SÄMSTA EKONOMISKA TEORIERNA なんですが、このままでは理解できないので、英語では The Ten Worst Ideas in Economics となるようです。2015年の出版です。ということで、典型的な右派エコノミストの理解なんですが、「邪悪な理論」と指摘され各章のタイトルになっているアイデアに番号を振って整理しつつ羅列すると、(1)緊縮財政は経済成長の足かせになる、(2)資本主義は搾取を生みだす、(3)増税は財政赤字の穴埋めになる、(4)格差是正は経済成長につながる、(5)「インフレ」とは消費者物価の上昇である、(6)市場は非効率である、(7)金利はマイナスにできない、(8)自由市場は存在しない、(9)「陶酔的熱病、恐慌、崩壊」は資本主義の宿痾だ、(10)インフレ退治が中央銀行の唯一の仕事である、ということになります。いつもの論理のすり替えに近いんですが、誰も主張していないことに対して「邪悪な理論」としてあげつらっているものもありますし、まったく的外れなものも少なくありません。特に、あまりまじめに正面からコメントしたくもないんですが、第5章のインフレに対する見方はそれなりに同意できる部分があります。すなわち、貨幣なしの物々交換であればインフレは生じない、という指摘です。ですから、インフレとは物価上昇ではなく貨幣価値の下落であり、それ以外は相対価格の変化に過ぎない、というのは事実なんだろうと思います。

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次に、伊丹敬之『平成の経営』御厨貴・芹川洋一[編著]『平成の政治』(日本経済新聞出版社) です。6月15日の読書感想文で取り上げた『平成の経済』とともに、平成3部作をなす経営と政治の2冊を読みました。経済の平成は明らかにバブル経済とその崩壊で特徴づけられるんですが、経営については、当然ながら、経済と同じでバブル経済とその崩壊が大きく影響します。他方、政治では、何といっても、国際的には冷戦の終了と国内的には小選挙区制の採用が大きな平成の特徴と考えるべきです。ですから、政治的には米ソの冷戦が終了し、米国がソ連や社会主義陣営を圧倒したわけですが、平成の初期には経済や経営ではバブルに浮かれた日本では、政治はともかく、経済や経営では米国よりも日本の方が先進的である、という誤解がったのも確かです。もちろん、バブル経済が崩壊して長期の停滞に陥った日本では、やっぱりダメなのか、という空気が蔓延したのも事実です。ただ、マクロ経済と違って、個々の企業や、あるいは、産業では経営的に優劣がつくわけで、『平成の経営』では自動車産業を持ち上げる一方で、電機産業についてはシャープやサンヨーなどの消滅会社もあるわけですから、厳しい目で見ています。政治にせよ、経営にせよ、ガバナンスという意味では大きな変化が平成の時代に生じています。すなわち、経営では従業員が圧倒的な比重を占めていたところに、株主という要素がジワジワと大きくなっています。グローバル化が進み、ストックとしての株主構成では外国人の比率は決して大きくないものの、売買高ではかなりのウェイトを占め、ガバナンスの点からは外国人の圧力に負けた、というわけでもないんでしょうが、株主への配慮が欠かせなくなっています。他方、政治の政党のガバナンスについては、小選挙区での公認候補に対する影響力から、政党執行部のパワーがとてつもなく大きくなりました。2005年の郵政選挙における「刺客」などに見られる通りです。最後に、とても興味深い点で、私は現在の安倍政権の経済政策がとても左派的であると考えているんですが、『平成の政治』では経済政策だけでなく、安倍内閣そのものの左派制を強調しています。でも、護憲の左派に対して、改憲を大きな政治的目標に掲げているんですから、これは少し疑問が残ります。

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次に、鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟』(白水社) です。作者は団塊の世代の生まれで、翻訳書を中心とした編集に携わってきたエディターです。本書では、その編集者としての経験から、書物の出現に始まる読書という知的行為と、それに関して記憶という精神作用の間にはどのような歴史があるのかを東西の経験からひと解いています。読書や本という物体は、アレクサンドリアの図書館を例外とすれば、西洋ではキリスト教のカトリック修道院に期限があり、本書でも指摘しているように、文字の記録としての本という形では、ラテン語で記録されているばかりでした。これは信じがたいんですが、その昔のラテン語は文字がびっしりと続いており、アイルランドでようやく単語間にスペースを置く分かち書きが始まり、さらに、コンマやピリオドなどのパンクチュエーションが始まったようです。そうでないと読みにくくて仕方なかったんでしょう。ということで、私は自分をそれなりの読書家であると自任しており、このブログも毎週土曜日の、今週だけは米国雇用統計が間に割って入って日曜日ながら、読書感想文がひとつの売り物になっていますから、通勤やなんやで聞き流しているモダンジャズの音楽鑑賞よりも重視しているつもりなんですが、本書広範の記憶という面では考えさせられるものがありました。ついつい、HDに入っている250枚くらいのアルバムのモダンジャズの音楽をウォークマンで聞き流すのと同じで、私は年間に250冊から300冊位の読書なんだと思うんですが、ついつい読み飛ばして頭に残っていない、というか、記憶に残っていないような気がしないでもありません。私の考える限り、それでいい読書もあります。それは事実です。まあ、何といいましょうか、要するに時間つぶしというヤツです。それはそれで読書のひとつの効用ですが、もちろん、すべての読書がヒマ潰しでよかろうハズもなく、頭にいれるべく勉強んの読書もあるハズです。その比率の問題なのかもしれません。

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最後に、ピーター P. マラ & クリス・サンテラ『ネコ・かわいい殺し屋』(築地書館) です。著者は鳥類学者とサイエンスライターです。英語の原題は Cat Wars であり、直訳すればネコに対する戦争、とでもなるんでしょうか、いずれにせよ、ネコの捕食される、というか、狩られる方の鳥類学者の著作ですので、ネコに対する憎しみに満ち溢れているように私には見えます。ということで、これはおそらく事実なんだろうと思うんですが、ネコが人間によって連れて来られて、侵略的な外来種として在来種の絶滅に加担したのは事実なんだろうと私は思います。ただ、おそらく私を含めた多くの人々と著者では、自然というものに対する定義と評価関数が大きく違うと読んでいて気づきました。私の直感では、著者のいう自然とは、著者の考える自然であって、ミルの『自由論』の考え方を借りれば、いわば、トピアリーのような、著者の考える自然を持ってよしとし、ホントのあるがままの自然ではないような気がします。もちろん、あるがままの自然には天然痘ウィルスがいたり、マラリアが蔓延していたりするわけで、そういったものは自然界から駆逐することが許容されると私も同意します。しかし、ネコを天然痘ウィルスと同列に考えて、在来種の復活のために駆逐することに同意する人は少なそうな気も同時にします。ニュージーランドの鳥類の例が本書冒頭に取り上げられていますが、それなら、ニュージーランドに入植した欧州人を去勢して、マオリ族という在来種を復活させようという意見は、おそらく、許容されないような気がします。北米大陸での欧州人および黒人とネイティブ・アメリカンについても同じであろうと私は考えます。だから、ネコもOKというのは短絡的に過ぎるかもしれませんが、著者たちの一派の考えがすべて正しく、それが「自然」というものなのであり、それ以外の考えはすべて非科学的、と言わんばかりの主張には同意できない点がたくさんあった、ということは書き記して残しておきたいと思います。
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2019年06月29日 (土) 11:40:00

今週の読書は経済書の読書に失敗しつつ計6冊!!!

今週も、梅雨のうっとおしいお天気が続く中で、それなりに読書に励み、以下の通りの計6冊を読みました。経済書は1冊だけだったんですが、とんでもない失敗読書でした。先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みのトンデモ経済学が展開されていました。その分、とても私好みの左派的な英国労働党コービン党首にスポットを当てたノンフィクションを読みましたので、これは読書の甲斐がありました。

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まず、野口悠紀雄『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎) です。著者は、財務省から学界に転じたエコノミストです。ですから、相も変わらずに、ものすごく上から目線の仕上がりになっています。ということで、いきなりネタバレかもしれませんが、結論を先取りすると、要するに、昭和の時代から続いてきたバブル経済に浮かれて世界経済の変化を見抜けず、従来手法による対応しか取れずに変化への対応を誤った、ということになります。ここでの対応とは、必ずしも政策対応に限定せず、企業経営の方にむしろ比重が置かれています。政策対応として特徴的なのは、これまた従来からのこの著者の主張で、金融政策は景気局面によって非対称であり、景気引き締めには有効性が高い一方で、逆の景気浮揚策としては力不足、というか、ほとんど有効ではない、ということになります。ですから、物価目標はヤメにして、実質賃金上昇率を金融政策の目標とすべきであるとの議論を展開しています。というか、全然展開していないんですが、主張はしています。とても矛盾していることは著者ご本人は気づいていないようです。世界経済の大きな変化は、ひとつには、インターネットの普及に依る部分があり、著者はインターネット上にポータルサイトを作ろうと試みたことがあるようで、その時点ではアマゾンやヤフーとそう違わないポジションだった、と自慢していますが、それを企業化できないところが、すなわち、企業の新陳代謝の少なさが我が国経済のひとつの弱みになっていることは気づかないようです。政権交代による民主党内閣の成立が平成という時代を画するひとつの特徴だったと私は考えているんですが、わずかに、この民主党政権の評価はいい線いっています。ほとんど実現する裏付けない公約で政権交代したところで、なんの意味もなかったというのは明白です。ほかは、インターネットのポータルサイトと同じで、かなりのボリュームが著者の自慢話した個人的な平成回顧に当てられています。特に、第4勝広範のスタンフォード大学でのサバティカルについては、なんの意味もなしておらず、単なる自慢話と個人的な回想にとどまっています。せめて、第5章の米国の住宅バブルを取り上げたところに入れれば格好もついたような気がするんですが、編集者の責任もあるかもしれません。もともと、左派エコノミストである私とは主張が大きく食い違っていますし、経歴からしてガンガン上から目線で迫ってくるわけですが、著者もお年を召したような気がして、ややモノにならないように思えてなりません。ハッキリいって、先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みの失敗読書でした。

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次に、アレックス・ナンズ『候補者ジェレミー・コービン』(岩波書店) です。著者は、ライター・ジャーナリストのようですが、2018年から、まさに、労働党のコービン党首のスピーチライターを務めています。本書の英語の原題は The Candidate であり、初版が2016年に出版された後、最終第15章に2017年の英国総選挙を増補した改訂版が2018年に第2版として出版されており、本邦訳書はその第2版を底本として翻訳されています。ということで、初版本は英国労働党の投手戦でジェレミー・コービン現党首が選出されるまでのドキュメントであり、繰り返しになりますが、増補第2版において2016年のBREXIT国民投票や2017年英国総選挙に関するルポを含めるようになっています。上下二段組で400ページを超えるボリュームです。軽く英国労働党の最近の歴史をおさらいすると、ご案内のように、1997年にブレア党首がニュー・レイバーとして、まあ、何といいましょうか、右派を代表した現実路線から選出された上で総選挙にも勝利し政権を奪取したんですが、例の2001年のアル・カイーダによるテロ、9.11ニューヨークの貿易センタービルへのテロに対する報復で、英国は米国とともにイラクへの多国籍軍の中心となり、結局は、米国ブッシュ政権に加担しただけでの結果に終わり、さらに、2008年の米国サブプライム・バブル崩壊の余波をもっとも大きく受けた国のひとつとして、労働党は大きく国民の支持を失い、ニュー・レイバーのブレア-ブラウン政権から2010年の総選挙で労働党は敗退し、ミリバンド党首を経て、本書の舞台となる2015年の労働党の党首選において現在のコービン党首が選出されています。2017年の英国総選挙においては、労働党の政権返り咲きこそならなかったものの、選挙前の大方の予想を裏切って大躍進を果たし、英国保守党を過半数割れに追い込みました。本書では、コービン党首を始めとして、どうしても人物を中心に据えて語られていますので、私のように英国政治のシロートにはやや難しいところがありますし、いろいろと魑魅魍魎の跋扈する陰謀論的な政治の世界は判り難いんですが、私自身左派エコノミストを自称していますし、経済政策的には反緊縮や国民本位の財政支援、あるいは、を志向する左派的な経済政策でもって、労働党員の間でも、国民の中ででも支持を拡大したコービン党首の政策志向は大いに賛同できるものです。我が国の社会主義政党を振り返って、その昔の社会党にはいわゆる「左翼バネ」というものがあり、選挙や大衆運動で苦境に陥った際には左派的な政策志向が社会党に作用して、「苦しい時の左派頼み」のような方向性が打ち出される傾向があったように記憶していますし、英国でも同じような「左翼バネ」があるのかもしれませんが、私のような左派のエコノミストから見れば、本書でいうような反緊縮や反貧困・反格差の経済政策は正しい方向性を示していると考えています。特に、コービン支持に回った若年層の置かれた状況は、英国でも日本でも大きな違いはないように感じています。本書で示された、著者のいうコービン党首に目立つ「個人的な温かみや寛容さ」、そして「誠実さ、原則を守る姿勢、倫理的な力」などとともに、こういった個人的な資質にとどまらない左派的な政策志向も読み取るべきではないか、と私は考えています。

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次に、富増章成『読破できない難解な本がわかる本』(ダイヤモンド社) です。上の表紙画像にあるように、世界の名著60冊のダイジェスト的な解説本なんですが、巻末に参考文献がツラツラと記されており、著者もオリジナルの古典はほとんど読んでいないようです。世界の名著の解説書を読んだ上でのコンパクトな解説に仕上げた、といったところです。私は基本的にこういった古典の解説書は評価しないんですが、何を血迷ったか、ついつい手が伸びてしまいました。誠に残念ながら、60冊の大量のダイジェストですので、あまり頭に入らず、モノにならなかった気がします。やっぱり、古典はちゃんと読まないとダメな気がします。私は海外に出た折には国内では出来ないことをしようと試み、スポーツに勤しむとともに、ボリュームのある古典的な名著を読むことに挑戦しています。チリに行ったときに失敗したんですが、やっぱり、本場ラテンアメリカのスペイン語の本を読もうと考えて、ガルシア-マルケスの『100年の孤独』を丸善で高い値段で洋書を買って持って行ったのはよかったんですが、よくよく考えれば、チリではスペイン語の本はお安く売られていて、到着後に現地で買えばよかったと後悔した記憶があります。それはともかく、ジャカルタではフロムの『孤独な群衆』とブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読みました。上の倅が大学に入って心理学だか、社会学だかを勉強するといい出した折に、私の本棚にある『孤独な群衆』を見て、それなりに関心してくれたのを思い出します。本書でも取り上げられています。ただ、ブルクハルトは取り上げられていません。また、このブログにも書いた記憶がありますが、定年退職するまで奉職していた経済官庁の採用面接で、「大学時代に何をしましたか」というありきたりな質問に対して、経済学の古典を勉強したことについて言及し、スミス『諸国民の富』、リカード『経済学と課税の原理』、マルクス『資本論』、ケインズ『雇用・利子及び貨幣の一般原理』を読んだと自慢して感心されたことがあります。特に、ほかはともかく、『資本論』を学生のころに読んだキャリア公務員は少ないだろうといわれてしまいました。最後に、忘れていた著者についてですが、大学の哲学科や神学部を卒業し、予備校で日本史などの社会科系の学科の講師をしているそうです。ですから、哲学や社会科学系の本が多く取り上げられており、こういった名著の中に、当然に入るべき、ニュートンの『プリンピキア』やダーウィンの『種の起源』が落ちていて、ついつい笑ってしまいました。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界が動いた「決断」の物語』(朝日新聞出版) です。著者は、ジャーナリストではなさそうですが、いわゆるノンフィクション・ライターを職業としているようなカンジです。よく調べが行き届いているという点では、ジャンルはまったく異なりますが酒井順子のエッセイを思わせるものがあります。英語の原題は Farsighted であり、2018年の出版です。この著者は何冊かベストセラーを書いているんですが、この著者の本では、私は昨年2018年1月27日付けで同じ朝日新聞出版から出ている『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』の読書感想文をアップしています。ということで、本書はタイトル通りに決断、意思決定のノンフィクションです。ただ、意思決定に関しての研究者ではありませんから、それほど深い内容ではなく、一般向けの本と考えるべきです。題材になっているのはいくつかのエピソードであり、特に私の頭に残っているのはビン・ラディンを急襲する件に関する当時の米国オバマ大統領の決断、そして、決断へ至るまでの情報収集についてが秀逸です。ほかにも、ダーウィンの結婚や人生の岐路に立った際の決断も取り上げていますし、いろいろあります。こういった個別具体的なエピソードについて、第1章から第3章までを使って、情報収集とそれに基づく予測、そして、何といっても本書のタイトルである決断について考察しています。基本的な方法論はトベルスキー-カーネマン的な経済心理学や行動経済学です。プロスペクト理論こそ出てきませんが、損失回避や限定合理性などを基礎にした考察がなされています。4章と5章では、グローバルに考えるべき決断と個人の問題を持ち出しています。最後の個人の問題とは、ニューヨークから温暖なカリフォルニアに引っ越す際の著者個人の体験に基づく引っ越しの決断で、ちょっとどうかなという気もしました。まあ、ほかのエピソードはともかく、当時の米国オバマ大統領がビン・ラディンを襲撃するに際して行った決断の件だけでも、経済心理学や行動経済学の観点から考えるとこうなる、という考察が示されており、それなりに読む価値はあることと思います。

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次に、新井一二三『台湾物語』(筑摩選書) です。著者は、ジャーナリストを経て明治大学の研究者です。本書の副題は『「麗しの島」の過去・現在・未来 』となっており、台湾等の別名である美麗島にちなんでいます。まず、簡単な台湾の近代史のおさらいですが、日清戦争の賠償の一環として1895年に当時の清から日本に割譲されます。本書に従えば、台湾にいる人々の一部は列強の介入を求めて運動したようです。でも、遼東半島と違って台湾は返還されませんでした。そもそも、朝鮮半島のように戦場になるわけでもなく、どうして台湾が日本に割譲されたのかといえば、まあ、本書では何も触れていませんが、清から見てそれほどの価値がなかった、ということなんではないかと私は勝手に想像しています。そして、1945年の終戦まで50年間に渡って日本の統治下にありました。本書でも盛んに登場しますが、李登輝元総統の言葉で「私は22歳まで日本人だった」というのがあります。帝国主義的な植民地政策の一環でしょうから、良し悪しは別にして、台湾には日本語ネイティブの人が少なくないようです。その台湾も、1949年に大陸で共産党政権が成立して中華人民共和国となり、国民党の残党が蔣介石を筆頭に200キロの海峡を中国本土から台湾に渡って来て、事実上の亡命政権が成立します。日米をはじめとして少なからぬ国がこれを中国正当の国家として認め、国連にも常任理事国として参加したりします。その後、長らく続いた戒厳令も終わり民主化されて、国民党ではない民進党の総統が選挙で選出されたりします。ですから、いまだに本省人と外省人の差別があったりもしますし、国民党政権が渡って来た当初には中国語を理解しない台湾人も少なくなかったといいます。むしろ日本語だったらしいです。そういった日本でそれほど話題にならない台湾にスポットを当てています。観光資源としての有名な名所や温泉地、もちろん、グルメスポットなども紹介されています。昨年度下期のNHK朝ドラの「まんぷく」のチキンラーメン、というか、日清食品創業者の安藤百福も台湾人だと記憶しています。また、本書の中のトピックで、私が唯一知っていたと自慢できるのは2007年に封切られた映画の『練習曲』から流行り始めた「環島」です。主人公がギターを背負って自転車に乗り、高雄から反時計回りに台湾島をぐるっと一周するだけの、ロードムービーです。私は長崎でこの映画の上演会に出席した記憶があります。まあ、同僚教員が参加している市民オーケストラの演奏会にも行きましたし、単身赴任で時間があったんでしょう。それはさて置き、長崎はさすがに東京よりも中国や台湾やアジアに近い、と実感したことを覚えています。なお、知っている人は知っていると思いますし、今の映画の説明でも理解できようかと思いますが、「環島」とは、自転車やオートバイ、あるいは、鉄道でぐるっと台湾を一周することで、島ですから海沿いの道や鉄道が多いらしく、亜熱帯の海の風光明媚なところを堪能できるといいます。海沿いですから大きな起伏もないでしょうし、私も定年になったら自転車で1~2週間ほどかけて台湾を環島したいと、かねがね思っていました。でも、現実は、「貧乏暇なし」でいつになったら体が空くのか判ったものではありません。

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最後に、米澤穂信『本と鍵の季節』(集英社) です。著者は、私も好きな人気ミステリ作家の1人です。主人公は高校2年生の男子生徒2人、堀川次郎と松倉詩門で、ともに図書委員です。ですから、本書のタイトルの前半は「本」となっています。なお、どうでもいいことながら、日本語タイトルの「季節」は上の表紙画像に見られるように、英文タイトルには現れません。そして、後半の「鍵」は主人公のうちの1人が探す父親の自動車の鍵です。地理的な舞台が東京西部の北八王子にあるとされている公立高校の図書室を起点としますから、何となく古典部シリーズと似た雰囲気を感じ取る読者もいるような気がします。6編から成る短編集ですが、第1話の「913」は金庫を開ける暗号ミステリを中心に据えており、私は何かのアンソロジーで読んだ記憶があります。第2話以下の5編は初めてのようです。第2話以下のタイトルは順に、「ロックオンロッカー」、「金曜に彼は何をしたのか」、「ない本」、「昔話を聞かせておくれよ」、「友よ知るなかれ」となっており、最後の2話が鍵にまつわる物語です。高校2年生の男子2人を主人公に、図書室から始まるストーリーながら、それほど軽いトピックではありません。年寄りを死んだことにしたり、美容院の窃盗、校内暴力で割られたガラス、自殺した高校3年生の読んでいた本、そして最後の2話は、犯罪を犯して刑務所に収監されている男が隠した盗品探し、がそれぞれのテーマとなっています。ですから、同じ作者の古典部シリーズとか、小市民シリーズのような日常の話題に即した軽い謎解きミステリではなく、モロに犯罪が絡んで来ますので、その意味で、重いストーリーといえます。しかも、最終話は完結させていません。作者が意図的に完結させていないわけですので、続編はないもの、と私は受け止めています。あるいは、続編があっても、主人公が1人に減っているものと考えられます。最後に未読のファンに対するご注意で、繰り返しになりますが、高校2年生が主人公とはいっても、古典部シリーズや小市民シリーズのような日常的な謎解きを含んだ青春物語ではありません。モロの犯罪や人死にに2人の高校生が向き合っています。
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2019年06月20日 (木) 19:40:00

ご寄贈いただいた『「反緊縮!」宣言』を読む!

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松尾匡[編]『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) をご寄贈いただき早速に、読ませていただきました。去る4月28日付けの読書感想文でバルファキス『黒い匣』を取り上げた際に、本書についても軽く紹介しておきましたが、早速にご寄贈いただき、誠に有り難い限りで御礼申し上げます。まったく、催促したようで、やや下品な気がしないでもありませんでしたので、今後は控えたいと思います。
上の表紙画像の通りに、本書では、左派リベラルの経済政策や経済学について、財政学を中心に金融政策も含めて、幅広く、決して経済政策だけでなく生活者の視点も含めて展開しています。左派と右派の経済政策は、実は、見分けられやすそうで、なかなか違いが判りにくい、というか、経済政策そのものが判りにくくなっているうらみはありますが、私がいつも強調しているように、見分けるべきポイントはいくつかあり、以下に5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、財政政策や金融政策では引き締め的な政策を志向する右派に対して、左派は財政政策では政府支出の拡大や減税、また、金融政策では金利引き下げや量的緩和などの景気拡大的な政策を志向します。第2に、経済学のもっとも初歩的なツールとして2次元的なグラフの需要曲線と供給曲線がありますが、右派は供給面を重視して生産性の向上や規制緩和をはじめとする構造改革の推進などを目指しますが、左派は需要面を重視して賃上げによる所得増やワークライフ・バランスの改善を目指すといえます。同様の需要と供給の観点で、知的財産権を最大限尊重してその期間を長期化しようとする右派に対して、アフリカに対するHIV治療薬の需要に関して、特許を超越する形で供給しようとするスティグリッツ教授のような考え方が左派になります。ケンイズの有名な言葉として、「長期に我々はみんな死んでいる」というのがあるのは広く人口に膾炙しているんではないでしょうか。なお、今の安倍内閣は憲法改正を目指す右派政権であるにもかかわらず、春闘に介入するがごとき態度で企業に賃上げを求めたり、反ブラック企業やワークライフ・バランスの改善を目指しているではないか、との反論はあるんですが、それは後回しにします。ということで、この2点はかなり幅広い合意があるような気がしますが、以下の2点はやや議論あるかもしれません。すなわち、第3に、右派は自由貿易を遵守する一方で、左派は自由で制限ない貿易よりも公正な貿易の推進を求めます。フェアトレードと呼ばれ、途上国の児童労働やスウェット・ショップに左派は反対です。しかしながら、いわゆるカギカッコ付きながら「自由貿易」に正面切って反対するのは、良識あるエコノミストとして、とても勇気が必要です。ただ、価格だけをシグナルとする市場取引の典型が「自由貿易」ですので、私はその意味で「自由貿易」を全面的に肯定するのにはためらいがあります。ビミョーな言い回しなんですが、公正な自由貿易というものはあり得るわけで、公正な自由貿易であれば私は無条件で支持すると思います。ただ、不公正な自由貿易よりも公正な制限的貿易の方がマシな気もしています。もっとも、このあたりは理論的・理念的な表現よりも実証的に解決すべき課題なんだろうとも思います。またまた、反論ある可能性があり、では、関税率引き上げを連発しているトランプ米国大統領はどうなんだ、という見方も成り立ってしまう恐れがあるんですが、これも後回しにします。そして、第4に、第2の観点から派生すると考えるエコノミストもいそうな気がしますが、右派は長期の経済政策を志向し、年金の「100年安心」などを掲げたりしますが、左派は短期の経済政策をより重視するような気がします。そして、最後に第5のポイントとして、今までの4点に通底するところなんですが、右派エコノミストは市場における価格情報をシグナルの中で最大、というか、唯一のの判断材料とする一方で、左派エコノミストは価格だけでなく、さまざまな関連情報、例えば、宇沢弘文教授的なシャドウ・プライスや外部経済的な社会で幅広く関連する価値を認めます。右派エコノミストがカギカッコ付きながら「市場原理主義」と呼ばれるゆえんです。ただし、この最後の4番めと5番めのポイントは、私も実はそれほど自信がありません。左派全体で幅広く当てはまることではなく、ひょっとしたら、私だけかもしれません。その昔に、官庁エコノミストだったころは周囲に左派エコノミストがほとんどいなかったので視野が狭くなり、私の考え方の特徴が左派全体にいえるのではないか、とついつい考えがちになってしまいます。でも、私が所属し奉職していた役所は、その昔に都留重人教授のご指導を受けたことに見られるように、少なくとも私がお勤めを始めたころは、政府官庁の中では左派的でリベラルな雰囲気ある役所と考えられていることも事実です。
さて、留保して後回しにした2点なんですが、私は以下のように考えています。まず、改憲を目指す安倍内閣が左派的な経済政策を採用しているんではないか、という反論に対しては、基本的には、まったくその通りだと私は考えています。現在の安倍内閣は改憲を目指す姿勢はもとより、外交や安全保障では右派政権であることは明らかなんですが、経済政策は日銀とのアコードに基づく超緩和的な金融政策に見られる通り、かなりの部分について左派的な経済政策を採用しています。もちろん、財政政策については、本書でも指摘している通り、2013年度で終了してしまったように見えますし、企業や経団連に対する賃上げ要請やワークライフ・バランスの重視など、まだまだ不十分との見方もあり得ますが、かなりの程度に左派的な経済政策と見なすエコノミストが多そうな気がします。どうしてそうなのかの理由は不明なんですが、左派こそ硬直的な経済政策を放棄して、初期のアベノミクスを十分参考にする必要があるように私には見えてなりません。次の2点めで、トランプ米国大統領の制限的な通商政策をどう考えるか、については、繰り返しになりますが、理論的・理念的な観点ではなく実証的に考えるべきではないかと思います。すなわち、例えば、先週の読書感想文でリチャード・クー『「追われる国」の経済学』を取り上げたところで、それに即して私の独自解釈も含めて少し雑駁に展開すれば、貿易赤字を続ける米国で、まあ、表現はよろしくないかもしれませんが、国内の選挙民の中で貿易上の「負け組」が「勝ち組」を上回ることは十分あり得ることであり、選挙の票数で貿易上の「負け組」が過半数になれば制限的な通商政策を求めることもあり得ますし、当然、ポピュリスト政権ではそういった主張で得票を増加させる戦略を取ることを有利と考える可能性があります。その結果ではなかろうか、という気がしますが、私自身で実証するだけの能力はありませんので、必ずしも十分に自信あるわけではありません。直感的に、そのように感じているだけです。そして、やや強引に視点を我が日本に向けると、国際商品市況の石油価格にも依存しますが、我が国がコンスタントに貿易黒字を計上していたころ、もしも、貿易相手国の児童労働やスウェット・ショップなどの労働条件が著しく劣悪な低賃金労働で生産される製品やサービスを公正な価格を下回る低価格で輸入した結果の貿易黒字であれば、国民がどう考えるかはかなり明らかではなかろうか、と私は受け止めています。ですから、価格だけをシグナルとする無条件に自由な貿易よりも公正な貿易の方を私は志向します。左派エコノミストがすべて同じ見方か、と問われれば自信がありませんが、少なくとも米国のサンダース米国上院議員と私はそうではないか、という気がします。左派の公正な貿易とトランプ米国大統領の制限的な通商政策とは、当然ながら、考え方、捉え方が180度違うという事実、すなわち、トランプ米国大統領の制限的な通商政策は、相変わらず価格だけをシグナルにして、自国産業保護のために輸入価格に上乗せされる関税を課すのに対して、左派の公正な貿易とは自国と他国を問わず児童労働やスウェット・ショップなどの雇用者を搾取する労働をはじめとして、情報の不足する農民から、場合によっては暴力的な手段を用いたりして、農産物を安く買いたたくなどの不公正な取引に反対する、という違いは忘れるべきではありません。
直接、左派と右派の違いには関係ないかもしれませんが、「国民にもっとカネをよこせ!」とはいっても、その際のカネの渡し方にも注意が必要です。井上准教授のチャプターだったと思うんですが、ムダな公共投資というカネの使い方はダメ、といった趣旨の主張がありました。私はインフラ投資一般をムダとは考えませんが、確かに、インフラ投資にムダが多いのは事実です。そして、基本的に、左派は社会福祉や教育の充実による国民への還元をもっと主張すべきと私は考えています。要するに、ホントの意味での福祉国家の実現であり、社会福祉を通じて国民にカネを還元すれば、格差の是正につながることが大いに期待されます。本書のスコープの中で、少し物足りなく欠けていると私が考えるのはこの点です。繰り返しになりますが、国民へのカネの還元方法について、インフラ投資をすべて否定するものではありませんし、まだまだ必要なインフラ投資は積み残されているものがある、と私は考えている一方で、公共投資による国民への還元はいわゆる「土建国家」の旧来手法であり、加えて、カネの渡し方そのものが不公平感を増幅するとともに、実際に格差の是正にはつながらない可能性が高い、と考えるべきです。この「土建国家」的な公共投資によるバラマキに代わって、社会福祉による国民への財政資金の還元の重視は、左派はもっと主張していいように私は感じています。

こういった観点から、本書で展開する左派的な経済学や経済政策から始まって、生活者の実感まで、さまざまな考え方はとても共感できるものです。多くの方が手に取って読むことを願っています。そして、それほど自信ないものの、私の左派的な経済学が、もしも、左派一般に共通する経済学であるのであれば、本書のスコープである財政政策や金融政策にとどまることなく、価格だけをシグナルとして児童労働やスウェット・ショップや農民搾取などを許容しかねない「自由貿易」よりも公正な貿易の観点、また、構造改革や生産性向上などの供給サイドの重視よりも賃上げや所得の増加などを重視する需要サイドの経済学、さらに進めて、「土建国家」を脱却してホントの福祉国家の実現、などなど、もっともっと広範に左派経済学を展開していただきたいと、大きな期待を持って応援しつつ、最後に、安倍政権に何でも反対ではなく、経済政策で参考にすべき部分は受け入れる柔軟性が必要ではなかろうか、という気がします。強くします。
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2019年06月15日 (土) 11:39:00

今週の読書はリチャード・クー『「追われる国」の経済学』ほか経済書中心に計5冊!

このところ、少しずつペースダウンに成功しつつあり、今週は経済書中心に以下の5冊です。リチャード・クー『「追われる国」の経済学』は久々に読みごたえある本格的な経済書でした。なお、今日の土曜日が雨ですので自転車に乗れず、まだ徒歩圏内の図書館しか行けていないんですが、やっぱり、数冊の読書になりそうな予感です。明日の日曜日に近隣図書館を自転車で回りたいと予定しています。うまくいけば小説も読めるかもしれません。

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まず、リチャード・クー『「追われる国」の経済学』(東洋経済) です。英語の原題は The Other Half of Macroeconomics であり、2018年の出版です。この原題の趣旨は後ほどもう一度取り上げます。著者はご存じの通り野村総研のエコノミストであり、世界的にも影響力があると考えられています。これも広く知られたバランシシート不況の主張を本書ではさらに拡大し、「追われる国」あるいは、被追国になれば、サマーズ的な secular stagnation 長期停滞論やインフレ率が上昇せずデフレ的な経済状況が継続することや、金融政策が量的緩和までやっても効果ないことや、はては、1930年代にナチズムやファシズムが台頭した要因までが明らかにされる、というカンジです。なお、出版社の東洋経済のオンライン・サイトには「追われる国」で金融政策が効かない根本理由に関する解説記事がありますので、この読書感想文ととともに参考になるかもしれません。ということで、著者が前々から指摘しているバランスシート不況は、資金の出し手がありながら有望な投資プロジェクトがなく、資金の取り手がいないために貯蓄過剰となり、金融政策の効果が大きく殺がれる、もしくは、ほぼ無効になる、という状況を指しており、本書で何度も繰り返して振り返る p.35 の図1-3の3と4の状態を指します。ここで英語の原題に戻りますが、この図1-3の左側の1と2が主流派経済学の対象とするモデルであり、右側の3と4が The Other Half of Macroeconomics なわけです。そして、その最上級なのが追われる国、被追国であり、労働が生存部門から資本家部門に移動して、ルイス転換点(LTP)を超えて、本書でいうところの黄金期、我が国でいえば、1950~60年代の高度成長期を終了した段階に達すると、国内で投資に対する資金需要が低下するとともに、途上国や新興国といった海外投資が国内投資よりも高リターンになる、というのが被追国で、こうなると、国内投資はますます実行されなくなり、海外投資に資金が流れ、金融政策でいくら金利を下げても、量的緩和をしても、国内での投資が過小となり、逆から見ると、国内貯蓄が過剰となります。貯蓄投資バランスは事後的に必ず一致してゼロとなりますから、民間部門が過剰貯蓄であれば、残る海外部門か政府部門がこの貯蓄を吸収して投資をせねばなりません。海外部門は世界各国で相殺すればでネットでゼロになるわけですから、政府支出で民間部門の過剰貯蓄を吸収せねばいつまでも長期停滞が続くわけですから、先進各国が金融政策に頼っている現状は間違いであり、財政政策で停滞を脱しなければならない、というのが本書のエッセンスです。本書では、それを別の角度から見て、従来の伝統的経済学で暗黙の前提とされている企業部門の利潤最大化ではなく、企業部門が負債返済に最大のプライオリティを置く経済とか、あるいは、中央銀行が最後の貸し手になるをもじって、政府が最後の借り手になる、とかの印象的な表現をいろいろなところで用いています。それなりに、判りやすい表現とか理屈ではないかと思います。私の実感、というか、定型化された事実を矛盾なく表現できるモデルが提示されている印象です。少なくとも、私のような左派の財政支出拡大を主張するエコノミストには、とても受け入れられやすい本書の主張なんですが、おそらく、右派の財政均衡論者には不満が残る点があるんではなかろうかという気がします。というのは、財政支出拡大による収支均衡からの逸脱や政府財政破綻の可能性について、本書は何の論点も提示していません。最近のMMTはもちろん、ケインズ的な長期に我々はみんな死んでいる、といった言い訳もせず、ひたすら無視しています。ある意味で、見上げた態度かもしれません。私はこれで正解だと受け止めているんですが、右派エコノミストの中には難癖をつけたりする人がいるかもしれません。最後に、どうでもいいことながら、開発経済学を専門分野のひとつとする私にとって、ルイス転換点(LTP)がここまで何度も頻出する経済書は久し振り、というか、開発経済学の専門書を別にすれば、初めてかもしれません。第3章では1ページあたり平均3回くらいLTPというのが出てくるような印象です。それなりに感激しました。

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次に、小峰隆夫『平成の経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストのご出身の研究者です。私は研究畑で計量経済モデルをシミュレーションしたり、学術論文を書いたり、それを学会発表したりしていたんですが、ホントの官庁エコノミストというのは「経済白書」を執筆したりするものなんだということを思い起こさせられました。でも、私はこの著者の部下として働いたこともあったりします。ということで、本書でも、その昔の「経済白書」や省庁再編後の「経済財政白書」などからの引用がいっぱいあったりします。なお、本書はこの出版社から出ている「平成3部作」の1冊であり、ほかに『平成の政治』と『平成の経営』があります。私は前者は読んだんですが、対談や鼎談を収録しているだけでした。後者は読むかどうか迷っています。経営についてはともかく、政治と経済については、一般常識として、経済はバブル経済で平成が始まって、バブルが崩壊して長期停滞の後、アベノミクスで何とか復活を遂げつつある、というのが実感で、政治については、消費税の導入で始まって自民党一党与党体制が連立になり、いろいろな連立政権が試行された後、また、非自民の政権交代もあった後、結局、現時点では自公連立政権が支配的、ということなんだろうと思います。そして、いずれにせよ、その政治経済の底流には対米従属があり、米国からの本格的な独立を志向する政権は長続きしない、というのは間違いではないように私は受け止めています。長くなりましたが、本書では、バブル経済でユーフォリアが支配的だった平成初期の経済、さらに、そこに消費税が導入され、景気拡大という自然増収による財政再建ではなく、税制の変更に立脚した財政再建が試みられたところから始まった平成の経済をコンパクトによく取りまとめています。ただ、バブル経済についてはストックの視点だけから語られていますが、私が平成元年の「経済白書』を読んでややショックだったのは、フローの面で日本経済が新たな段階に入って、景気循環は消滅したとは書かれていませんでしたが、かなりの程度に景気循環が克服されたような印象で捉えられていた点です。この平成元年の「経済白書」のフロー面の記述については本書でも注目していません。私からはやや不思議な気がします。私は定年まで経済官庁に勤務していながら、不勉強にして、いまだに経済循環を克服した経済体制を知りません。我が国がアベノミクスでかなり長期の経済回復を果たしたのは事実ですが、現時点で、景気転換局面に差しかかっている可能性を否定できるエコノミストは少ないと思いますし、遠からず、景気は転換する可能性が充分あると考えるエコノミストが多数派ではないかと受け止めています。さて、本書に戻って、私が疑問と考える分析結果が2点あり、ひとつは「実感なき経済回復・拡大」の原因を成長率が低い点に求めていることです。私は賃金上昇率が低かった点が原因ではないかと考えています。すなわち、労働分配率の低下も「実感なき」の一員と考えますし、格差の拡大ももう少しスポットを当てていいんではないかという気がします。第2に、最後の結論で、短期的な需要面の政策ではなく中長期的な構造対策に重点をくべきという考え方です。というのは、従来からの私の主張である右派と左派の違いもさることながら、現在の景気局面を完全雇用から考えるべきではない、と私は考えています。すなわち、完全雇用が達成されているのは景気ではなく、デモグラフィックな人口要因に起因するということはあまりにも明らかであり、完全雇用が達成されたからもう短期政策は不必要、というわけでもなかろうと考えています。加えて、量的な雇用だけでなく、質的な正規・非正規とか、賃金上昇がまだ始まっていないとか、完全雇用が達成された、かどうかはまだ議論あるんではないでしょうか、という気がしなくもありません。

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次に、岡田羊祐『イノベーションと技術変化の経済学』(日本評論社) です。著者は、一橋大学の研究者であり、同時に、公正取引委員会競争政策研究センターの所長も務めています。本書はタイトル通りのイノベーションや技術論に関する大学学部レベルないし大学院博士前期課程くらいの学生・院生を対象に想定しているようです。学生か院生かはそれぞれの大学や大学院のレベルに依存するんだろうと思います。どうでもいいことながら、私が地方大学に出向していた際に、各年版の「経済財政白書」はどの段階で教えるべきか、と考えていたところ、学部3~4年生を想定する教員と大学院博士前期課程を想定する教員と両方いたりしました。本題に戻ると、本書は4部構成であり、第1部 技術変化と生産性、第2部 イノベーションと競争、第3部 イノベーションと組織、第4部 イノベーションと政策で成り立っています。特に、第3部の第8章 技術の複合的連関とシステム市場においては、最近時点でのデジタル経済の発展やGAFAなどのプラットフォーマーに情報が集中する経済における競争政策やイノベーションについて論じていて、この章だけでも大いに得るものがありそうな気がします。ということで、イノベーションや技術革新といえばシュンペーターの名が思い起こさせられますが、本書でもシュンペーターが掲げた2つの仮説、すなわち、独占的な市場ほど技術変化が起こりやすい、および、企業規模が大きいほど技術変化は効率的に遂行される、の2点を軸に議論が展開されます。独占とイノベーションの関係については、特許により事後的な独占が期待できるのであればイノベーションのインセンティブは高まる一方で、事前的に市場独占が形成されていればイノベーションの必要なく大きな利潤を上げることができることから、イノベーションのインセンティブは決して高くないとも考えられます。企業規模についても同様に、余裕資金あればイノベーションの活発化につながる一方で、十分なキャッシュフローは革新へのインセンティブを殺ぐ場合もあり得ないことではありません。本書では、こういった理論的なモデルを展開しつつ、我が国のイノベーション環境についても概観しているわけですが、私のようなシロートが見る限り、イノベーションの基となる技術開発については何らかの外部効果を伴うわけであり、その意味で、イノベーションへのリソースのインプットは過少になる可能性がありますから、何らかの公的資金の投入が必要とされる場面も想定すべきことはいうまでもありません。本書では、それなりにイノベーションについて鳥瞰的な広い視野から、かつ、包括的に学習できるように工夫されています。ただ、本書の冒頭にあるような意図のひとつである実証的な研究に対しては、少し手が伸びていないような気もします。

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次に、譚璐美『戦争前夜』(新潮社) です。著者は東京生まれの中国人文学者です。本書のサブタイトルは「魯迅、蔣介石の愛した日本」となっており、日本への留学経験あるこの2人の中国人文豪と軍人を通して日中関係、特に、1930年代の日中戦争前までの日中関係に光を当てようと試みています。私の目から逆に見て、徳川期の鎖国を終了して明治維新を迎え、日清戦争や日露戦争で対外的な領土拡大を成し遂げた一方で、さらに大正デモクラシーの背景をもって、日本人が中国大陸や台湾を含め、あるいは、本書ではややスコープ外ながら、東南アジアやさらに欧米まで、ひょっとしたら、21世紀の現時点よりも国際化、というか、対外進出が、いい意味か悪い意味かを別にすれば、進んでいたような印象を持ちます。日本人が外国に留学に行ったり、あるいは、魯迅と蔣介石の例のように留学生を受け入れたり、といったのはいい例のケースが多そうな気がする一方で、軍事力の背景をもって対外進出を強行した例も決して無視できない可能性があります。いずれにせよ、魯迅と蔣介石の例のように中国から留学生を受け入れていた本書の時期はほぼほぼ100年前であり、戦争や中国大陸での共産革命、さらに日中国交樹立から今世紀に入っての尖閣諸島の領有をめぐる確執などなど、さまざまな日中関係の原点が100年前にあったのかもしれません。東アジアでは一足先に開国と近代化というよりは西洋化を進めた日本に対して、中国では解放改革が遅々として進まず、日清戦争では日本に敗れ、20世紀の辛亥革命による近代国家の成立を待たねばなりませんでした。辛亥革命後も混乱が続いたのは、明治維新後の日本と対照的な気もします。もちろん、本書はそういった国内政治や、あるいは、外交・安全保障などをテーマにしているわけではありませんが、その一端はうかがい知ることができます。というのも、主たる舞台は日本では東京であり、中国大陸では上海となっていますが、中国政府のあった北京も時折登場します。また、決して既存文献の渉猟に終始することなく、何人かの関係者の末裔にインタビューするなどといった著者のアクティブな取材に基づく記述も見受けられます。もちろん、魯迅と蔣介石のたった2人だけによって広い中国を代表させるのは無理があるわけですが、ひとつの視点として大いに代表性はあるような気もします。

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最後に、尾脇秀和『壱人両名』(NHKブックス) です。著者は、神戸大学の研究院であり、専門は日本近世史です。私はこの著者の『刀の明治維新』(吉川弘文館) を読んだことがあり、昨年2018年10月7日の読書感想文で取り上げています。ということで、本書では、私のようなシロートには「士農工商」としか知らない徳川期の身分制度における方便のような事実上の抜け穴となっていた「壱人両名」の実態について、決して体系的ではないんですが、個別の史実を積み上げて、解明を試みるよいうよりは、例外的な身分制度上の取り扱いが存在した、という事実を世間に明らかにしようとしています。ノッケから、公家の正親町三条家に仕える公家侍の大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の例を持ち出して、この2人は名前も身分も違うが、実は同一人物である、といった徳川期の身分制度の例外的な扱いを明らかにし、常識的な徳川期の身分制度しか知らないシロートの私のような読者に、例外的で決して多数に上るとは思えないながら、それまでの常識を覆すような事実を突きつけて本書は始まります。日本近世の封建制度下にあっては、氏名、服装、職業、住居などなどの個人の属性が身分によって固定化されており、しかも、おそらく戸籍上の把握や納税の便だと思うんですが、人別と支配があり、それを二重に持っていながら、実は自然人としては1人である、といった例を豊富に持ち出し、その上で、こういった「壱人両名」が建前としての制度からはみ出ていながら、実態に即する形でまかり通っていた事実を明らかにしています。ただ、融通を利かせる目的で黙認された例もあれば、ご本人の我がままのために勝手・不埒な「壱人両名」と見なされて、あるいは、もとより徳川期には違法とされていたことから、何らかの処罰を受けた例まで、いろいろと取りそろえられています。ただ、今となってはどうしようもありませんが、実印から同一人物と特定するのであれば、個別のケーススタディに終始するのではなく、例えば、特定の一村においてどのくらいの割合の「壱人両名」が存在したのかについて、何らかの統計的な把握を試みることはできなかったのか、とやや残念な気もします。徳川期の天下泰平の下で、お役に着けない貧乏御家人が内職に励んだのは有名なお話で、私が長らく勤め上げた公務員に兼職や副職が原則として認められなかったのとは大違いで、そういった内職的な役割を別に持つというノリと同じような気もします。もちろん、そもそも、御家人の内職や本書で注目している「壱人両名」の存在が歴史の大きな流れに何らかの影響を及ぼしたとは、私は決して思いませんが、歴史的な教養というか、それなりの学識ある教養人の話題を豊富にするという意味はあるような気がします。従って、本書のような歴史上の細かなネタを展開した本は私は大好きです。
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2019年06月09日 (日) 14:22:00

先週の読書はライトな経済書と変わり種の『元号通覧』をはじめとして計8冊!!!

先週の読書も経済書はややライトながら、当然のように入っているものの、小説なしで計8冊でした。森鴎外の手になる変わり種の『元号通覧』も入っています。実は、今週に予定している読書についても、すでに図書館回りを終えていて、経済書をはじめとして数冊手元にあるんですが、新刊の小説は借りられていません。一昨年の2017年に新約が出たチェスタトンの「ブラウン神父」シリーズの創元推理文庫の5冊は先週末から今週末にかけて読んだものの、特に取り上げるつもりもなく、新たな出版として、今年に入ってから話題の小説、『本と鍵の季節』、『ノースライト』、『シーソーモンスター』、『平場の月』、『そして、バトンは渡された』、『続 横道世之介』、『魔眼の匣の殺人』、『検事の信義』などなど、いくつかの図書館に分割して予約してあるんですが、スタートが遅れてなかなか順番が回って来ません。3月末で定年退職してから2か月余りの期間で、文庫も含めて小説はまだ10冊に達していなかったりします。

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まず、松元崇『日本経済 低成長からの脱却』(NTT出版) です。著者は財務省出身の官僚で、第2次安倍内閣の発足時に内閣府の事務次官を務めていたそうです。私はその時には、総務省統計局でのんびりしていて、内閣からは遠くでお仕事していましたので、よく判りません。ひょっとしたら、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストだったのかもしれませんが、現在は、財務省OBらしく国家公務員共済組合連合会理事長に天下りしているようです。ということで、本書の主張は極めて明快で、現在の我が国の低成長は少子高齢化の必然的な帰結でも何でもなく、いわゆる終身雇用と称される融通の効かない硬直的な雇用システムの下で、企業が労働生産性を上げるような投資を行っていないためである、と結論しています。ですから、雇用の流動化を図って生産性の低い部門から生産性の高いセクターに労働が移動できるようにするとともに、その生産性高いセクターで積極的な生産増に結びつく投資が実行されることが必要と結論しています。私の従来からの主張の通り、右派エコノミストは緊縮財政を主張し、供給サイドを重視し、自由な貿易に力点を置きます。この著者の立場そのものといえます。他方、私のような左派エコノミストは財政支出拡大を主張し、需要サイドを重視し、自由貿易よりも公正な貿易を目指します。まず、生産性と労働移動なんですが、我が国の高度成長期のしかも初期のように、農業などの生存部門から限界生産性がゼロの労働力が資本家部門のような限界生産性で賃金が決まるセクターに移動することによる生産性の上昇は、極めて一時的な現象であり、ルイス・モデルの二重構造が解消される一時的、というか、1回限りの経験でしかありません。二重経済が解消された後の我が国経済の現実は、生産性の高いセクター、典型的には電機産業などの労働力が相対的に減少する、という形で進みました。高生産性セクターの絶対的な雇用者数は増加を示したかもしれませんが、シェアという意味で、相対的には雇用者の縮小が続いています。ですから、ルイス的な二重経済の解消の時期における農業などの生存部門から製造業などの資本家部門への労働移動を、二重経済解消後にも適用するというのにはムリがあることはキチンと認識すべきです。その上で、財政政策や金融政策が長期的に供給サイドに影響しないというのは、百歩譲って認め、ケインズ的なアニマル・スピリットやスンペーター的な創造的破壊も重要だとはいえ、短期的には需要の高まりによる生産性向上もあるという点は忘れるべきではありません。決して、長期には我々はすべて死んでいるとは思いませんが、短期的には需要から生産性向上がもたらされるルートは再確認すべきです。それから、我が国とスウェーデンの大きな違いは、増税などで政府が国民から負担を求めても、スウェーデンのような福祉国家では医療や年金のような社会保障、あるいは、教育のような実物により国民への還元が図られるのに対して、我が国のような土建国家では土木建設業界だけが潤うことに対する拒否反応があるのは、財政支出の査定を行う主計部門を経験した財務官僚として認識されていないのはとても不思議な気がします。福祉国家ではない土建国家で負担増に対する拒否反応が強いのは当然です。雇用の流動化や企業の投資の前に、国民の税金を還流する仕組みとして、行政システムの福祉国家化が財政再建のためには必要不可欠と私は考えています。

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次に、経済同友会『危機感なき茹でガエル日本』(中央公論新社) です。基本的に、タイトルから想像される通り、危機感を煽るお説教本なんですが、読む前の私の印象としては、ゴールドマン・サックス証券にいたデービッド・アトキンソン氏の著書と同じではないか、といったところの感覚でした。ただ、本書ではアトキンソン本よりも悲観的な色彩が強く、逆に、さすがに経済同友会という大きな組織をバックにしていますので、アトキンソン本のような印象論よりも、さらに一歩進めた緻密さがあるような気がします。でもまあ、同列に論じる読書子がいても不思議ではないかもしれません。ということで、本書では、世界中で進む3つの大きな潮流、すなわち、グローバル化、デジタル化(IT化やAI化など)、ソーシャル化の流れの中で、日本がどんどん世界のライバルに遅れを取り、諸課題に対応できない事態が続いているとの基本認識の下、経済同友会が昨年2018年12月に打ち出した Japan 2.0 の実げに向けた提言を集めています。ただ、本書では目標設定として、国連への配慮でもないんでしょうが、あるべき未来を持続可能な社会とp.36で明記している一方で、まったく別の目標に向かうような記述も少なくありません。というのも、上の表紙画像にも見られるように、国家価値を3次元的に捉えて、X軸=経済の豊かさの実現、Y軸=イノベーションによる未来の開拓、Z軸=社会の持続可能性の確保、と表現しようとしているんですが、それでは、p.36の持続可能な社会は3軸のうちのひとつにしか過ぎないのか、という気もします。強くします。あるいは、私の読み方が悪いんでしょうか。逆に、というか、当然かもしれませんが、悲しいことに、企業がいかにもっと儲けられるかに終始していて、持続可能性は財政や社会保障に歪曲化されているような気もします。ですから、労働者のワーク・ライフ・バランスとか、所得たる賃金とか、そして、雇用者の所得が消費に向かう好循環などはまったく念頭になく、現状を私なりに観察するに、賃金をミニマイズして、ひたすら企業収益を上げたい、ということに尽きるようです。もう少し、CSR的な企業の社会的な責任や責務のような視点が盛り込まれているかと期待しましたが、まったくダメなようです。そして、本書のタイトルとなっている「茹でガエル」が企業経営者のことも、控えめにいっても、含まれている、ケース・バイ・ケースながら、大きな部分を占めるケースも決して少なくない、という視点は持ち合わせていないようです。私には広く知られた事実だと思っていたんですが、日本人が認知的な能力のレベルでも、雇用者としてのまじめさなどの非認知的な能力でも、世界の中でもっとも優秀なパフォーマンスを上げる能力ある点については、経済開発協力機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査(PISA)」などでも実証されているところであり、他方で、日本ほど賃金が上がっていない国も少ないわけで、これだけ優秀な人材を低賃金で雇用できていながら、本書にもあるようにフォーチュンの企業ランキングから見て、サッパリ日本企業の業績が上がらないのは、アトキンソン本で時折主張されているように、経営者に問題があるのではないか、という合理的な疑問が生じるのは当然です。その点にもう少し経営者もチャーチル的に正面から立ち向かう必要があるんではないでしょうか。でも、最後に、その昔の経団連の事務局職員は官僚ならぬ「民僚」と呼ばれていて、前例踏襲などの現状維持バイアスが極めて強いやにいわれていたんですが、経済同友会については、私も長崎大学経済学部に出向していた2010年に都市経営戦略策定検討会提言書『みんなでつくろう 元気な長崎』の策定に参画した経験などから、それなりの問題意識を持って改革に取り組もうという姿勢があり、この点は大いに評価すべきかもしれません。

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次に、マイケル・ヘラー『グリッドロック経済』(亜紀書房) です。著者は米国コロンビア大学ロースクールにおいて不動産法担当の研究者であり、著者略歴にはアッサリと「開発援助関連調査に従事」以外に何ら言及ないんですが、本書の中で何度かロシアや東欧での私権設定に関する世銀の移行国援助に携わった経験からの記述が見受けられます。実は、私自身も1990年代半ばにポーランドにおける移行国援助のプロジェクトに参加した経験があり、開発経済学はそれなりの専門分野なんですが、法律家の開発援助はやや畑が違いそうな気がします。英語の原題は The Gridlock Economy であり、邦訳タイトルはそのままです。邦訳者によるあとがきにもあるように、リーマン・ショック前の2008年の出版ですが、特に記述が古いとかの問題はないように感じました。どうでもいいことながら、邦訳者のサイトに安芸書房から出版される前の2017年1月時点でのpdfファイルがアップされていたりします。特にセキュリティがかかっている様子もなく、やや恐ろしい話だと思わないでもないんですが、「グリッドロック経済」へのアンチテーゼを自ら実践しているのかもしれません。そのうちに削除されるかもしれませんが、まあ、何らご参考まで。ということで、本書で著者は、知的財産権も含めて、所有権とか細分化すると、あとあと収拾つかなくなって身動きとれなくなり、過少利用 underuse に陥りかねない、と警鐘を鳴らすとともに、その解決法を提示しています。有名なハーディン教授の「コモンズの悲劇」では、多数者が利用できる共有資源が過剰利用されて乱獲の末に資源の枯渇を招いたりするとされている一方で、利用権などの権利関係が複雑に絡み合ったグリッドロック状態になると過少利用になる、というわけです。ですので、「第1章からアンチコモンズの悲劇と章題を設定して本書を始めています。第2章の用語集の後、第3章からグリッドロック状態について米国経済を基に、薬の開発における知的所有権のグリッドロック、電波割り当てのグリッドロック化による周波数帯の過少利用、著者の専門分野である不動産のグリッドロック、特に、本書の随所で均等相続やそれに近い分割相続による土地所有の分散から土地利用が過少になっている例がいっぱい取り上げられています。そして、資本主義への移行段階でのロシアの所有権問題、さらに、オープンアクセスにもかかわらず絶滅しないチェサピーク湾の牡蠣に着目し、最後に解決のためのツールキットを提示しています。ただ、その解決策は極めて地味というか、時間もかかれば段階も踏むタイプの従来から存在している予防策とか、行政による私権制限などの力業の解決策であって、みんながアッと驚く新しい画期的なものではありません。よく、パテント・トロールと称されるように、このグリッドロックを利用して金もうけに走っている不埒な企業もあり、あるいは、グリッドロックになっていなくても知的財産権が先進国企業の業績向上にはつながっても、途上国の経済開発には決して役立っていない現状については、世銀副総裁を務めたスティグリッツ教授などがよく主張しているところです。そういった開発経済学の観点からも大いに参考になる内容でした。

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次に、スティーヴン・プール『RE: THINK』(早川書房) です。著者は、英国のジャーナリストであり、言語とか文化・社会に関するコラムなどを執筆しているようですから、日本的な分類ながら、理系ではなく文系なんではなかろうかと私は受け止めています。ということで、本書でも当然に言及されていますが、ニュートンの有名な表現で「巨人の肩」というのがありますし、本書では引用されていないながら、経済学ではケインズの誰かしら過去の経済学者の奴隷という表現もあるところ、大昔であればまだしも、21世紀の現在に至れば、それなりに優れたアイデアはもちろん、まったくモノにならない誤っているにもかかわらずゾンビのように何度も復活を繰り返すアイデアも、すでにほぼほぼ出尽くしていて、もはや、根本的に新しいアイデアというのはないのかもしれないとの視点から本書は書かれています。基本的に3部構成であり、第1部で、アフガニスタンで展開する米軍で騎馬部隊が復活したとか、医療用ヒルの活用とか、現在の認知行動療法でギリシアのストア主義が復活したとか、こういった例がたくさん取り上げられています。特に、ゼンメルヴァイスの消毒の例が典型なのかもしれませんが、誰かがそのアイデイアを思いついた当時はブラックボックスで、何がどうなって有益な結果が導かれるのかが、サッパリ解明されていなかったので、無視されたり、普及しなかったりして忘れられていたアイデアが、その後の科学的な知見の蓄積を経て、その後、あるいは、現時点で見直されて取り入れられる、ということがいくつかあるようです。逆に、まったくモノにならず誤っていることが明らかであるにもかかわらず、何度も繰り返して復活するゾンビのようなアイデアもあり、本書では地球は球体ではなく平面である、という例が取り上げられています。このアイデアのカッコ付きの「信者」は、その信念を否定する情報をフェイクニュースと見なすようです。また、びっくりしたんですが、ユニバーサルなベーシックインカムも古くからあるアイデアだと紹介されていますし、先週の読書感想文で取り上げたばかりのアイデアで、選挙によらずしてくじ引きで代表を選出する民主主義とかのアイデアも取り上げられています。中国由来の四文字熟語ですから本書では登場しませんが、「温故知新」という言葉を思い出してしまいました。でも、本書では、ほぼほぼすべてのアイデアはすでに世の中に存在している、とは主張していますが、もちろん、過去の事例を参考にすべきとか、ましてや、前例踏襲を推奨しているわけではありません。ミョーにオリジナリティを重視する傾向ある人に対しては、それなりの反論材料になりそうな気もします。

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次に、ポール R. ドーアティ & H. ジェームズ・ウィルソン『HUMAN+MACHINE』(東洋経済) です。著者たちは、アクセンチュアのコンサルです。邦訳者も同じコンサルティング・ファームの日本法人にご勤務のようです。ということで、コンサルらしく、マシン、本書ではほぼほぼイコールで人工知能(AI)と考えていいんですが、AIは人間の仕事を奪わないという前提で、人間とAIとの協調・共存、特に、企業における人間とAIの共同作業による生産性の工場や売上アップなどについて解説を加えています。この人間とAIの協働については、冒頭から章別に、製造とサプライチェーン、会計などのバックオフィス業務、研究開発、営業とマーケティングなどなど、企業活動に即して議論を展開しています。先週の読書感想文で『データ・ドリブン・エコノミー』を取り上げた際にも同じことを書きましたが、AIやITの成果を語る際に、生活面での利便性の向上や娯楽での活用では、私はモノにならないと考えています。すなわち、AIとはいっても、シリに道順を聞いたり、アレクサにトイレットペーパーを発注させたり、ましてや、リアルなゲームで遊べるとかでは、経済社会上のインパクトはそれほど大きくないと考えるべきです。『データ・ドリブン・エコノミー』や本書で展開されているように、企業活動、というか、生産の場でのAIの活用がこれからのホントの量的な生産性向上や質的なイノベーションにつながるという意味で、経済社会の進歩への貢献が大きくなると考えるべきです。いくつかの視点をコンサルらしく、上手に整理して、さらに、ポイントを的確に指摘しているように見えますが、とても大げさ、というか、現実離れした指摘が半分くらいを占めているような印象があり、どこまで普遍的な適用可能性があるコンサルティングだろうかと疑問に思わないでもありません。ただ、私は定年退職するまで延々と公務員を続けてきましたので、民間企業の生産活動の実態に疎いことは自覚していますので、ホントに自信がある疑問ではありません。ただ、MELDSの5つの視点からのフレームワークが提示されていますが、ハッキリいって、具体性に欠けます。まあ、スポーツの場での技術論ではなく、精神論を展開しているような印象があります。日本人はこういった精神論的な提言が好きかもしれませんが、どこまで役に立つかは不明です。やや、上滑りした議論が展開されている印象であり、そもそもの出発点で、AIと人間が協働できるか、それとも、人間労働はAIに駆逐されるのか、について、真剣な検討・分析がまったくなされていないのが気がかりだったりします。ただ、こういったコンサルティングで成功する企業もありそうな気がしますが、それを普遍化する営業活動をアクセンチュアはするんでしょうね。営業活動をそのまま受け入れるばかりではなく、語られない失敗例があるかどうか、見抜く目が必要かもしれません。

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次に、松尾豊『超AI入門』(NHK出版) です。著者は、東大の工学系の特任准教授であり、人工知能(AI)などの最先端技術の専門家であり、NHKのEテレで毎週水曜日の夜に放送されている「人間ってナンだ? 超AI入門」の司会や解説をしています。この番組は現在シーズン4に入っていますが、本書は2017年から始まったシーズン1全12回のうちの著者の担当した放映6回分を講義の形で提供しています。巻末に専門家2氏のインタビューを収録しています。私はこの番組を定期的に見ていないので、よくは知らないながら、たぶん、シーズン1ですから最初の方の「入門の入門」といった部分なんだろうと想像しています。まあ、私のテクノロジーに関する見識はたかが知れたもんですし、すでに定年退職した身として、今後のキャリアアップのための自己研鑽などの意欲はかなり低いわけで、世間一般についていくための常識的な内容が判っていればいい、という学習・読書態度だったりします。ですから、先週か今週に読んだ本にあったんですが、アインシュタインの言葉ではないかとされている電信に関する解説があり、電信とはとても長い猫のようなもので、ニューヨークで尻尾を引っ張るとロサンゼルスでニャアと鳴く、無線電信の場合は猫がいないバージョンである、といった引用があり、私の技術=テクノロジーに関する知識はこんなもんだろう、としみじみと実感した覚えがあります。「超」がつくくらいのAIの入門書なんですが、私のAIに関する知識といえば、ビッグデータという言葉があり、まあ、今でもありそうな気がするところ、ビッグデータのような極めて大量のデータ、テキストデータでも、画像データでも、動画データでも何でも、をコンピュータにインプットしてディープラーニングなる機械学習をさせれば、過去の例から確率の高い回答を作るあるいは選ぶことができる、といった程度です。AIには、私の考えでは、人間的な意識や心といったものはなく、過去のデータに基づいて外からか自らか評価関数を設定し、得られたデータと組わせて、将来の予測を立てたり、何らかの選択肢の中からもっとも適当なものを選び出す、という機能を持つコンピュータの動作です。そして、これらを応用すれば、人間が労働やゲームなどで対外的に働きかける何らかのアクションを代替できる、ということなんだろうと受け止めています。ですから、生産現場でロボットアームにインストールされて溶接や塗装を実行することも可能となりましょうし、絵画の作成や音楽の作曲や文学作品の執筆なども3Dプリンタなどの適切なハードウェアと組み合わせれば、十分可能です。哲学的に考えれば、本書でも取り上げられているように、チューリング・テストや中国語の部屋やといった議論があるのは私も理解しますが、すでに定年退職したもののエコノミストとしての感覚から、実践的なAIの活用という面からは、関係は薄いと感じざるを得ません。ただ、異性からの愛の言葉のようなものをうまく合成してささやくことは可能であるような気がします。後は、こういったAIの実践的な機能を基にして、人間の方でいかにうまくAIを活用するか、あるいは、マッド・サイエンティストのような人物が現れて、あるいは、マイクロソフトのテイの実例があるように、AIが自ら暴走して、その結果として世界はムチャクチャにされるのか、それは防止できるのか、といったところは気がかりです。

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次に、新井和宏『持続可能な資本主義』(ディスカヴァー携書) です。著者は、金融機関勤務からリーマン・ショックを機に、鎌倉投信というファンド運営会社を立ち上げたらしく、私は少し前の同じ著者の『投資は「きれいごと」で成功する』というきれいごとの本を読んだ記憶があり、よく似た内容であったような気がしますが、記憶はやや不確かです。本書は、2017年出版の単行本を新書化したもののようで、部分的に古くなっているところも散見されますが、大筋では問題ないと受け止めています。ということで、我が国でいえばバブル経済期くらいまでの右肩上がりの拡大型の資本主義を批判している趣旨なんでしょうが、まあ、言い古された長期的な視野の重要性とか、その昔の近江商人の「三方よし」を超える「八方よし」と著者が名付けた、株主だけでない幅広いステークホルダーへの配慮とか、ありきたりな部分を別にすれば、私から見れば、現在の経済システムにおける3点の問題を指摘しているように受け止めています。第1に、企業活動の外部経済性、というか、スピルオーバーをきちんとカウントし、かつ、第2に、市場における情報の非対称性をいかに克服するか、ということに加えて、第3に、資源配分の効率性の追求だけでなく、所得分配の公平の実現に重点を置く、ということだと解釈すべきではないでしょうか。すなわち、第3の点から考えれば、本書の著者の底流にある考えでは、あくまで私の想像ですが、右肩上がりの拡大型の資本主義においては、増分をうまく分配することにより、社会を構成する全員の経済厚生を改善することができていたところ、成長がかなり低くなり、こういった増分を望めなくなった段階で、生産や消費に使用される事前的な資源の分配から事後の所得分配に重点を置くべきなのですが、そうならずに格差が拡大しているのが現実です。そして、第1と第2の点に関しては、もともと、主流派経済学でも市場の失敗であると認識されていて、何らかの政府の介入が必要とされるところなんですが、著者はこれを企業の力、というか、著者の勤務する鎌倉投信のような金融機関とその投資・融資先である企業の活動の方向を少し違えることにより実現できる、と主張しているように私は受け止めました。特に、治者の主張の実現性は企、業の社会的な役割を重視する日本的な経営風土の中では、英米的な市場原理主義に近い資本主義下よりも実現性が高い、と認識されているようで、この点については私も反論はありません。ただ、資本主義下では市場ですべての情報が利用可能なわけでもなく、情報の非対称性というのは完全には解消されません。しかるに、情報が非対称であるにもかかわらず、財・サービスに付随する情報はほぼほぼ価格、すなわち、貨幣単位で表現されてしまいます。このあたりは、著者のような目利きの専門家であれば貨幣単位で評価された価格以外の情報も得られる可能性あるものの、私のような一般消費者には見抜けない可能性が高く、何らかの支援が必要そうな気がします。この点について、著者は決して上から目線ではありませんが、「自分にはできるので、経営者は同じことをやればよい」ということを主張するばかりで、一般消費者が視野に入っていない懸念があります。企業経営者に語りかけるだけでなく、もう少し、決して専門知識が豊富なわけではなく、目利きではない多くの読者や一般消費者への温かいまなざしが必要ではないでしょうか。

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最後に、森鴎外『元号通覧』(講談社学術文庫) です。著者は、いわずと知れた明治の文豪ですが、最晩年に本名の森林太郎として宮内省図書頭に任ぜられ、本書の執筆、というか、編纂に当たっています。ただし、本書未完のまま鴎外は亡くなりましたので、図書寮の部下であった吉田増蔵氏によって補訂されています。何と、令和に改元された本年2019年5月1日の出版です。出版社はこのタイミングを狙っていたんだろうと思わないでもありません。森鴎外は1922年大正11年に亡くなっていますので、昭和と平成、もちろん、令和には言及されていないものの、大化から大正までの250近い元号が列挙され、その典拠から不採用になった候補に至るまで、日本の元号が一望できます。元号の百科事典のような本かも知れません。本書にして正しければ、令和は今まで一度も候補になったことはないようです。他方、明治は過去10回も候補になっているそうです。元東京都知事の猪瀬直樹の解説です。最初のページから最後まで通読するたぐいの本ではないでしょうし、元号に何ら関心ない私はパラパラとめくっただけですが、この時期ですので、元号に関する知的好奇心がくすぐられる読者がいそうな気がします。たぶん、あくまで私の想像に基づくたぶん、ですが、多くの図書館で購入・蔵書しているような気がしないでもありません。
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2019年06月01日 (土) 11:40:00

今週の読書は読み応えあった経済書をはじめとして小説なしでも計7冊!!!

公務員を定年退職して、今はパートタイムの勤務を続け、それなりに時間的な余裕あるものですから、読書が進んでいる気がします。今週も、新刊の小説にこそ手が伸びませんでしたが、一応、3年ほど前の『海の見える理髪店』なんぞを読んだりもしています。新刊書の読書ではありませんから読書感想文には取り上げていません。新刊書としてはなかなかに感銘を受けた経済書の『データ・ドリブン・エコノミー』をはじめとして、以下の通りの計7冊です。

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まず、森川博之『データ・ドリブン・エコノミー』(ダイヤモンド社) です。今週一番の読書でした。とても得るものがあったような気がします。著者は東大の工学系の研究者です。表紙の見開きにあるんですが、過去20年はデジタル革命の助走期であって、まもなく飛翔期を迎えデジタルが社会の隅々まで浸透する、という現状認識や将来予測には、これだけで敬服すべきものがあるように感じました。ただ、一連の動向がバブルの崩壊を経て再び台頭し、ホンモノになるためには30~40年を要するので、新の意味でデジタル社会が到達するのは2040年以降、というのは、やや筆が滑っているような気がしないでもありません。私はたぶん生き長らえていることはないと思います。ということで、いくつか秀逸な点が含まれた読書だったんですが、例えば、UberやAirbnbに見られるような物的資産のデジタル化とか、製造業のサービス化とか、今までにもさんざ聞いたような内容なんですが、私が特に感銘を受けたのは、今までGAFAなどはインターネット上でやり取りされるウェブデータを集めていた一方で、本書の著者は、これからはリアルデータの収集が重要となると指摘し、リアルデータは1社では集め切れないので、我が国にもまだチャンスが残っている、という点です。すなわち、ウェアラブル端末で収集した体調管理上のデータ、あるいは、POSデータなどのヴァーチャルな世界ではないリアルな世界から得られるデータの収集を重視すべきと主張しています。そして、製造工程やサービス提供のプロセスにおける地味ながら必要な作業のデジタル化、例えば、パトランプの監視などのデジタル化が今後進む、というか、進めるべき分野と指摘しています。まったく、私もその通りだと考えています。というのは、30年近くも前にインターネットの普及に関する書評をある雑誌に依頼されて書いたことがあり、その際に、インターネットやその関連技術について、生活や娯楽の場での活用ばかりを指摘していて、生産現場での活用がない限り、ホントの意味での経済社会での活用とはいえない、と難癖をつけた記憶があり、昨年2018年9月15日に取り上げたロバート・ゴードン教授の『アメリカ経済 成長の終焉』の読書感想文でも「現在進行形のIT産業革命についても、生産の現場におけるイノベーションというわけではなく、国民生活における娯楽や生活様式の変化に及ぼす影響の方が大きく、生産性向上や生産の拡大にはつながりにくい」との評価を下していたんですが、本書の著者によれば、それはまだ助走期だからであって、こさから飛翔期に入れば本格的に生産現場で活用される、ということなんだろうと理解しました。生産現場のデジタル化をここまで重視した論考は初めて接しました。今週の読書の中で一番のオススメとする根拠です。

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次に、クラウス・シュワブ『「第四次産業革命」を生き抜く』(日本経済新聞出版社) です。従来の産業革命を凌駕する経済社会へのインパクトを有する可能性ある第4次産業革命については、生産性の飛躍的な向上やテーラーメイド的な消費者ニーズへの細かな対応など、今までにない特徴あるとともに、とてもdisruptiveな技術と指摘されています。ですからこそ、将来を考える際の視点としては、公平な分配、外部生の包摂、人間の尊厳の回復の3点が忘れられるべきではない、と著者は主張しています。ただ、公平な分配を考える際に、格差を25%タイルで考えているようで、上位1%でもバフェットのいうように「連戦連勝」なわけですから、もう少していねいな視点も必要そうな気もします。特に、AIやロボットが本格的に生産現場に投入されることにより生産性が向上すると仮定すれば、その果実は誰に分配されるのか、資本家階級という言葉はもはや死語なんでしょうが、AIやロボットと協働しない人々の方が、AIやロボットと協働し、あるいは、生産現場から排除される人々よりも多く分配されるとすれば、大きな不公平感が残る可能性は指摘しておきたいと思います。もちろん、こういった問題意識は著者にもあり、多くのステークホルダーと協働して、先行きの変化を見極めてビジョンを共有できるようにし、想定した人々が恩恵を受けられるようなシステムを構築する、あるいは、そういったシステムに変えていく「システム・リーダーシップ」という新しいリーダーシップを提唱しています。本書p.350のあたりです。頭の回転が鈍い私には、どうもピンとこないですが、こういったリーダーシップは従来は国内的には政府や政権党がエリートを軸に保持し、世界経済の場では覇権国に付与されていたような気がします。欧米先進国のいくつかでポピュリズムが伸長し、例えば、トランプ米国政権の「アメリカ・ファースト」のように、世界的なビジョンが共有されなくなったという現実の反映なのでしょうか。それとも、第4次産業革命に付随する何らかの特徴に基づくものなんでしょうか。私にはイマイチ理解できませんでした。もっとも、本書は基本的にダボス会議に集まるようなグローバルな場で活躍するリーダー向けに書かれているんでしょうから、私のような一般ピープルには難しすぎるのかもしれません。なお、新たなテクノロジーについてはもっと理解できませんでした。すなわち、ブロックチェーン、IoT、AIとロボット、先進材料、3Dプリント、バイオテクノロジー、ニューロテクノロジーなどなどです。2年半前の前著である『第四次産業革命』も私には難解だったんですが、さらに磨きがかかった気がします。

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次に、大沢真知子ほか[編著]『なぜ女性管理職は少ないのか』(青弓社) です。著者は日本女子大の研究者であり、本書はまさにタイトル通りの質問に答えようと試みています。広く知られた通り、我が国では女性の社会的進出が遅れているとされており、比較対象としては、先進国はもとより、いくつかのアジア諸国と比べても、例えば、本書のテーマである女性管理職比率は低くなっています。最近の論調では国会議員などの公職の議員比率が議論されたりしていますが、そこまでいかなくても、企業の女性管理職比率が低いのは事実だろうと私も感じています。私自身は定年退職するまで国家公務員でしたから、就職・採用される際の試験区分でかなりの程度に、少なくとも管理職になれるかどうかは決まってしまいます。私はキャリアでしたから、ほぼほぼ確実に管理職まではなれます。私のように能力低い場合は課長級止まりでしたが、多くの同僚キャリア公務員はもう少し上まで昇進できる場合が多いような気がします。他方、キャリアの中の女性比率とノンキャリアの女性比率では、おそらく、後者の方が高くなっているような気がします。ですから、属性条件で管理職の女性比率が低くなっているのも一半の理由はあります。もちろん、さまざまな性差別が存在することは事実であり、本書でもジェンダーステレオタイプに基づく差別的な扱い、また、敵意的あるいは好意的な性差別に加えて、統計的な差別も確認しています。私も南米のラテンのマッチョな国で外交官をしていましたから、レディファーストと称した騎士道的な好意的性差別については広く見受けました。同様に、TBSドラマの「わた定」ではありませんが、就職氷河期のような就活が限界的な状況にあった時には、女性が被害者となる確率高く、非正規雇用に回ってしまったこともあったと記憶しています。出生率を高めるのは、私には少し方向が違うような気もしますが、ジェンダー革命といわれ、女性の社会的な進出とともに出生率は当初下がるものの、その後U字型を描いて上昇するような状況に、日本はいつになれば達するんでしょうか。最後に、どうでもいいことながら、p.118から進化心理学に言及されていますが、もっとも性差別の激しい学問分野だという印象があるんですが、いかがなもんでしょうか。

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次に、小林慶一郎『時間の経済学』(ミネルヴァ書房) です。著者は、経済産業省の官僚から慶応大学の研究者に転じています。シカゴ大学の学位ですから、ややネオリベラルかもしれません。ということで、私は少し誤解していたんですが、万人に平等に与えられている「時間」の選択、というか、時間を使った行動の選択のお話かと思っていたところ、どうも、世代間の平等・不平等を敷衍して、この著者のいつもの主張である財政再建の重要性を伝える内容になっています。官庁エコノミストのころから左派だった私のいつもの主張ですが、財政政策に関しては、右派は財政再建と小さな政府、歳出削減や増税に重点を置き、左派は財政拡大と大きな政府、再出増加や減税に力点を置きます。ですから、現在の安倍内閣は、外構や安全保障、もちろん、憲法改正に関してもゴリゴリの右派と見なされていますが、経済政策に関しては社民党や共産党もビックリの左派だったりするわけです。加えて、これは私独自の視点ながら、左派は需要サイドを重視し、自由貿易には懐疑的で自由な貿易よりも公正な貿易の方が見込みがあると考え、右派は供給サイド優先で構造改革を推進する傾向があり、もちろん、自由貿易が何より重要と受け止めています。ただ、右派ではないのかもしれませんが、米国トランプ政権のように貿易赤字を回避する傾向ある重商主義的な通商政策を志向する場合もあります。やや脇道に逸れましたが、本書では、さまざまな論拠を持ち出して、例えば、ロールズ的な正義と個人の善感覚とか、時間的な不整合の問題とか、あるいは、ノッケではライフ・ボートのジレンマを持ち出して、どこかの世代がババを引かなければ財政再建できないとか、いろんな論拠から財政再建を訴えています。ただ、ライフ・ボートのジレンマもそうなんですが、本書の著者の考えるカギカッコ付きの「合理性」はあくまでシカゴ学派的な右派の論理に立脚しており、必ずしもすべてのエコノミストで同じ合理性を認識しているのではない点は、読み進む上で注意すべきと私は受け止めています。いずれにせよ、財政再建とか、地球環境問題とか、解決に長期の時間を要する問題は市場ではどうにもならない場合があります。本来は、何らかの政府ないし独立の機関が解決に当たるべき、というのは、本書の著者の主張の中で唯一私が合意する点です。ハイエク的な観点でも、市場では充分でない場合があるわけです。

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次に、ロベルト・テッロージ『イタリアン・セオリーの現在』(平凡社) です。著者は哲学の一分野ながら美学の専門らしく、どこまで本書のタイトルに応じた議論ができるのか、私には評価できないレベルなんですが、やや気にかからないでもありません。ということで、本書では大陸欧州中心に、イタリアン・セオリーこと、イタリアで展開されている現代哲学について、大陸欧州の中心たるフランスやドイツの啓蒙主義時代から現代につながる哲学との連続性や類似性とともに、イタリアに特有の知的伝統、特に、スピノザやマキャベリなどの政治哲学とに求め、イタリアン・セオリーの全体的な把握を試みています。もちろん、2000年に出版されたハート&ネグリによる『<帝国>』でマキャベリやスピノザの用いたマルティテュードによりグローバル化を読み解いたのが、割合と最近のイタリアン・セオリーの新たな展開だったわけだと私は理解しています。すなわち、かなりの程度にブルータルな大国のヘゲモニーに基づくグローバル化に対して、それぞれの国家や民族などの多様性を容認しつつ、国家権力ではなく国民や企業の間のネットワーク上の権力としてのマルティテュードをグローバリズムのカギとして提案したわけです。結局のところ、私のようなシロートにとっては、ネグリのマルティテュードしかイタリアン・セオリーを知らず、そのマルティテュードの大昔の提唱者や使用者としてマキャベリやスピノザの名を上げるだけなんですが、そこはさすがに、本書では、ネグリだけでなく、アガンベンやエスポジトも含めたこの3人を中心に議論を展開し、3つの観点、すなわち、生政治、共同体、政治神学からイタリアン・セオリーの現時点での到達点をひも解こうと試みています。ただ、ネグリ自身が1960年代くらいからの左翼思想家であることは明らかですし、その時代のフランスの構造主義あるいはその後のポスト構造主義の影響力は、我が国では計り知れません。1960年安保のあたりから始まる新左翼の運動がその典型例と考えるべきです。日本では、少なくとも、イタリア思想界については、新左翼的な潮流よりも、むしろ、伝統左翼ともいうべきグラムシのヘゲモニー論から始まって、ロンゴやベルリンゲルなどのユーロ・コミュニズムが影響力あった気もしないでもないんですが、本書ではユーロ・コミュニズムではなくグラムシなどの個人的な思想しか注目していないような気もします。まあ、繰り返しになりますが、この分野に専門外でシロートの私のような日本人からの視点かも知れません。

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次に、ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック『選挙制を疑う』(法政大学出版局) です。著者は、ベルギーの作家なんですが、博士号を取得しており、欧州を代表する知識人のひとりと目されているようです。原書のオランダ語タイトルは Tegen Verkiezingen であり、邦訳者の解題に従えば、英語に直訳すると、Against Elections だそうです。初版は2013年の出版ですが、邦訳は2016年の版を底本としています。ということで、現代民主主義が「民主主義疲れ」に陥っていると指摘しつつ、その責任を、政治家、民主主義、代議制民主主義、選挙型代議制民主主義の4つの求める思考実験を行って、18世紀以来の選挙型の代議制民主主義について否定的な見方を示しています。とはいっても、あくまで思考実験から始まるわけですが、古典古代のギリシアまでさかのぼって民主主義を考え直し、捉え直し、その上で、選挙型ではなく、くじ引きなどの抽選型の民主主義を二院制議会のうちの一院で採用すべきではないか、その方がホントの熟議民主主義に適しているんではないか、と結論しています。我が国でも、選挙ではない裁判員制度が取り入れられていますので、判らないでもありませんが、同時に、やや無謀な気もします。いくつかの、本書でいう民主主義の治療法があると思うんですが、ハナから取り上げられていない手法もあります。というのは、これだけインターネットが普及し、SNSの利用者が多くなっているわけですから、まず、代議制民主主義ではなく直接民主主義のコストがかなり低下していることは無視すべきではありません。さらに、特に我が国のように世代間格差が大きくてシルバー民主主義が大きな権力を行使している国にあっては、1人1票ではなく、未成年の子供の投票権を親の代理によって認めるデーメニ式の投票などが提案されていたりしますが、これも本書では議論にすら取り上げられていません。ただ、「判らないでもありません」に戻ると、我が国で最近の10年くらいに、いわゆる「ねじれ国会」を経験していますから、同じような選挙システムに基づく二院制議会が、どこまで意味あるかについては疑問を持っている人がいそうな気がします。ポピュリズムが勝利した国では、いわゆる「多数派による専制」の可能性があり、我が国でも現政権の圧倒的な権力が報じられたりていますから、三権分立に加えて、執行権を行使する政府のパワーについて、何らかのチェックをした方が、熟議に基づく民主守護として、あるいは、結果として好ましい可能性がないわけではない、と私も同意します。ただ、繰り返しになりますが、それが抽選型の議会による民主主義かね、という気もします。抽選で選ばれた議会の権威が落ちそうな気もしますし、もしも、抽選が民主主義にいいということであれば、当然に、その適用範囲を拡大することになるわけで、我が国のような内閣制はヤメにして、政府、というか、総理大臣を直接選ぶのか、それは選挙でいいのか、それとも民主主義に好ましい抽選なのか、という疑問も残ります。頭の体操ながら、大統領や総理大臣を抽選で選ぶとすれば、「無謀」と見なす人が多いんではないかと私は考えるんですが、いかがでしょうか。

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最後に、戸部良一『昭和の指導者』(中央公論新社) です。上の表紙画像のうち、上の人物は浜口雄幸総理、下は吉田茂総理です。まあ、見れば判ると思います。著者は歴史学の研究者であり、国際日本文化研究センターや防衛大学校の名誉教授です。本書では、昭和期の指導者として6人、すなわち、浜口雄幸、近衛文麿、東条英機、吉田茂、中曽根康弘、そして、昭和天皇を取り上げ、現代に最も近い中曽根康弘から時代をさかのぼる形で比較・や分析を試みています。加えて、補論として宇垣一成についても議論を展開しています。もっとも、宇垣の場合は、将来の指導者と目されつつ、ついにトップの地位にたどり着けなかったため、補論になっているんだろうと私は想像しています。昭和初期の太平洋戦争開戦までの時期は、あれだけの我が国近代史上まれにみる激動期であったにもかかわらず、というか、激動期であったがゆえに、かもしれませんが、なぜ、指導力や統率力を欠くリーダーしか登場しなかったのか、を著者は問い、その原因が分かれば現代のヒントにもなると指摘しています。しかし、通り一遍でうわべだけの指導者像をもとに議論するのでは、ハッキリいって、モノになるとは思えませんが、指導者としての意図だけでなく、政治のトップとしての結果責任も含めて、著者からこれら6人の指導者に対して、時には厳しく、時には暖かい視線を送って分析を進めています。特に、優柔不断で軍部の専横を許したとの批判が根強い近衛文麿総理と、何といっても太平洋戦争開戦の最大の責任者である東条英機総理に対しては、世間一般の見方より大きく好意的な評価が下されている気がします。私には理解できないところです。
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2019年05月25日 (土) 11:58:00

今週の読書も話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』から小説まで計6冊!

今週も、質量ともに充実した読書でした。話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』、あるいは、生命科学などの教養書、さらに、小説では『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の辻村深月の受賞後第1作『傲慢と善良』などです。

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まず、ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』(白水社) です。著者は、トルコはイスタンブール出身で米国ハーバード大学を本拠にしているエコノミストです。かつて、実証はされていませんが、グローバリゼーション、国家主権、民主主義の3つを同時に追求するのは難しく、どれか1つを犠牲にせざるをえない「政治的トリレンマ」の視点を提示し、トリフィンによる国際金融のトリレンマ、すなわち、固定為替相場、資本の自由な国際移動、自律的な金融政策の3つは同時には成り立たない、というのに対比させた論点でした。前著の『グローバリゼーション・パラドクス』や『エコノミクス・ルール』なんかも、ものすごく暗くて婉曲な表現で、正確を極めればこその判りにくさがあったんですが、本書では磨きがかかっている気がします。本書の英語の原題は Straight Talk on Trade であり、2018年の出版です。ということで、アダム・スミスが葬り去った重商主義が米国と中国のG2で復活しつつあるように見える現時点で、自由貿易と重商主義的な輸出振興と関税などによる輸入抑制の重商主義的な方向性を論じています。まず、著者は自由な貿易と攻勢な貿易の峻別を提示します。貿易に限らず、すべての経済活動や経済外活動も、インチキをする自由を認めるほど世間は甘くないわけで、特に、決して好ましいとは受け止められていないグループや得体の知れない外国人が、いかにもインチキのように見える方法により自分や親しい人々のグループに不利益を及ぼしているようであれば、それに一定の歯止めを要求する権利はあるように見えます。それを主張して選挙で票を集めることも可能な気がするわけです。しかし、経済意外の分野では、私はシロートながら、国内重視のナショナリストと国際重視のコスモポリタンないしインターナショナリストは相反するように見えるんですが、本書の著者は、経済分野については国内市場を整備して秩序あるものとし開放的にすることは同時に国際的な貢献にもなる、という意味で、国内重視と国際重視が経済学的には両立しうると主張します。これはマルクス主義でも同じことであり、100年ほど前には世界同時革命論のトロツキーと一国革命論のスターリンの対立があったんですが、国内で革命を成功させることにより世界革命に貢献するという意味で、国内重視と国際重視はマルクス主義では両立します。ですから、従来から、グローバリゼーションを擁護するエリートの間では、自由貿易で不利益となるグループへの補償とグローバル・ガバナンスの強化によって問題を克服しようという考え方が根強いわけですが、著者はこの考え方に対しては「手遅れ」として否定的な見方を示します。なぜかといえば、国民の間の民主的熟議を軽視し、国際機関や政府官僚などのテクノクラートに解決を委ねてしまう貿易テクノクラシーになりかねず、そうなれば、英米などに見られるように結果として、貿易に反対するポピュリズムとデマゴーグの台頭を許したと著者は考えているからです。そこで、著者はケインズを引用して、「資本主義は一国の中でのみうまく機能するものであり、国同士の経済交流は国内の社会的、経済的契約を過度に侵害しないよう規制しなければならない。」と主張し、資本主義には国家による経済運営が必要であることを強調します。私が読み終えた現段階で、著者のグローバリゼーションに対するスタンスはこれに尽きます。すなわち、各国の置かれた政治経済情勢の多様性と政策の自由裁量を求める需要を認識した緩やかなルールこそが現実的なアプローチであり、国内の民主的手続きにより市場をコントロールする大きな権限を国内権力である政府に与えれば、グローバリゼーションの効率性と正統性を高めることができる、というわけです。ただ、その場合、世界経済の動向ですから、どの国がリーダーシップを発揮するのか、が気にかかるところです。トランプ政権下の米国には私は無理そうな気がするんですが、同時に、人権の軽視や政敵の抑圧を続ける中国とロシアには、「グローバルなリーダーシップなど発揮できるはずがない」と著者は厳しい評価を下しています。かなりの範囲でこれらの貿易の政治経済学には私も同意します。以上でホントは終わりなんですが、私の興味の範囲で、本書のテーマである貿易とはやや観点が異なるものの、開発経済学的な視点で、著者は明記はせずに、ルイス的な二重経済モデルを持ち出して、ルイス的な用語を用いれば、限界生産性に対してではなく生存水準の報酬を得られる生存部門から、限界生産性に応じた報酬が得られる資本家部門に労働力が移動することにより高度成長が成し遂げられる、という意味での開発は、そろそろ終了ではないかと結論しています。アフリカでは小売やサービスで雇用が拡大しており、製造業が農業からの労働力を吸収するというルイス的な二重経済の発展的解消による高度成長は中国や東南アジアで終了し、南アジアやアフリカなどではリープフロッグ的な経済発展をする可能性を示唆しています。最後に、私の読書感想も飛びますが、経済モデルをダイナミック、というか、動学的にその時々で違うものにするのは、まあ、判らなくもないんですが、そこまでいうと、もはやモデルでも、科学でも、何でもなくなるような気がして怖いです。

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次に、ティム・オライリー『WTF経済』(オライリー・ジャパン) です。著者は、オライリー・メディアの創業者CEOであり、テクノロジー系の技術書の出版には慧眼を示しています。本書の英語の原題は WTF?: What's the Future and Why It's Up to Us であり、2017年の出版です。"WTF" とは最後の翻訳者の解説によれば、感嘆表現 "What the Fuck!?" の略で、「なんじゃこりゃ?」くらいの意味であり、口語ではかなり普及しているとはいえ、結構お下品な表現のようです。ということで、本書では著者は、著者自身が深くコミットしてきたコンピューターの歴史を振り返るところから始め、もちろん、自慢話しも多く盛り込みながら、新しい技術がもたらす "WTF?" という驚きを、悪い驚きではなくよい驚きにし、そして、インターネットやオープンソースソフトウェアの展開に置おいて、著者が果たした、とご自分で考えている役割やその際に適用した考え方や手法などを、新たに出始めている人工知能=AIや大規模ネットプラットフォームにも適用することで、いい方向に向かうのではないか、という主張をしています。ビジネスの世界で大成功した著者のことですから、すでに引退した官庁エコノミストの私なんぞには及びもつきませんが、オープンソースソフトとインターネットの普及により、ウェブが共通のプラットフォームとして普及し、今度はその上で提供されるサービスが重要となり、すなわち、ウェブ2.0に進化し、加えて、利用者の多くがパソコンからスマホをはじめとするモバイルに移行するにつれて、その性質は強まってきているわけで、さらにさらにで、グーグルやフェイスブックやアマゾンはAPIを公開し、他のプレーヤーがサービスを構築するための新たなプラットフォームを提供しつつ、というか、それを足場に、そこで利用者について収集したビッグデータも排他的にビジネスに活用して収益を上げているわけです。他方で、著者も注目しているようなギグエコノミーでの労働者の働き方が、著者の主張するように未来的で望ましいものかどうかは、私には疑問です。典型例はウーバーの運転手であり、市場における力関係は往々にしてそうなんですが、一応、対等なでウィン・ウィンな取引関係の形をとっていても、おカネを出す方の要求におカネをもらうほうが従うこととなります。フリーランス的な自由な労働形態としてもてはやされ、ブラック企業における非正規雇用よりも好ましそうな響きを持ちつつも、雇用の安定性や労働の実態はどこまで評価できるものかは私には疑問です。本書ではかなり偏った視点を提供しているとしか思えません。そういった弱点、疑問点を含みつつも、近い将来のビジネスの方向性については、それなりに参考になりそうな気もします。

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次に、ギデオン・ラックマン『イースタニゼーション』(日本経済新聞出版社) です。著者は、 Financial Times を中心に活動しているジャーナリストです。英語の原題もそのまま EASTERNIZATION であり、2016年の出版なんですが、あとがきには2018年ころのお話が出てきたりします。というのも、邦訳は2018年11月にアメリカで刊行されたペーパーバック版に基づいているからだそうです。本書は、必ずしも経済のトピックではなく、外交やその延長としての軍事・安全保障などにおける東洋、特に中国とインドの台頭について分析を加えています。タイトルはかなり面妖で、ウェスタニゼーションが東洋の国々の西洋化であったのは明らかで、例えば、イスとテーブルの生活や着物を捨てて洋服を着たり、といったことで、はなはだしくは、我が国の鹿鳴館のような活動もあったりしたわけですが、現時点で、西洋の国が東洋の生活様式を取り入れているようなことは私はあまり聞き及びません。まあ、体重コントロールのために日本食が流行ったり、座禅を組んでマインドフルネスな仏教を感じたり、といったくらいのことはあるかもしれませんが、経済社会の中での東洋化が欧米で進んでいるとはとても思えませんので、あまりいいタイトルではなさそうな気がします。まず、アジアや東洋というと、当然に、日本もそのカテゴリーに入るわけで、特に1980年代後半、プラザ合意以降我が国のバブル経済期には、日本経済に着目する動きもありましたが、本書では我が国は明確に台頭するアジアの代表にはなりえないと否定されています。その最大の眼目は人口や市場規模です。日本は人口では中国やインドと1桁違うわけですし、市場規模としても決して大きくないと見なされているわけです。そのうえで、特に、アジアへのピボットを目論んだ米国の第1期オバマ政権の動向、クリントン国務長官やその側近ブレーンなどの取材に基づく米国や欧州のアジア志向を分析しています。もちろん、その先鞭として天然門事件以降の中国の対外開放路線に基づく経済発展、さらに、今世紀の習近平政権からの大国化の路線を跡付けています。とても興味深かったのは、pp.70-71で展開されている習近平政権の中国の互いに関連する3つの思想性で、被害者意識に根ざしたナショナリズム、米国に肉薄する国力への自信の増大、内政の安定と欧州の潜在的な破壊的役割への憂慮、だそうです。私には4点に見えるんですが、最初の「被害者意識」は我が国にだけ向けられているように見えるのは私だけでしょうか。19世紀の英国とのアヘン戦争なんて、メチャクチャえげつないものだったように思え、更にその結果として香港の割譲まであったんですが、英国に対しては、我が国に対するほどの被害者意識は持っていないように私には見受けられるんですが、いかがなもんでしょうか。むしろ、私の単なる印象論ですが、インドの方が英国に対してよくない感情を持っていそうな気がします。それはそうとして、本書でも何度か出てくるトゥキディデスの罠は避けることができるんでしょうか?

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次に、リチャード・ハリス『生命科学クライシス』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストです。英語の原題は Rigor Mortis であり、直訳すれば「死後硬直」です。2017年の出版です。サブタイトルを見る限り新薬開発にフォーカスしているように見えますが、メインタイトル通りに生命科学全般を対象にしているように私には読めました。ということで、創薬をはじめとする新しい医療のイノベーションが進まない現状について警告を発しようと試みています。いろんな論点があるんですが、本書で取り上げられている順に私なりに解釈すると、まず、新訳や新たな医療技術について、その有効性をテストする際の方法の不適切さが強調されています。統計的な検定が不適切だったり、そもそも統計的な検定を行うためのサンプル数が確保されていなかったり、かなり初歩的な無理解がありそうな気がします。本書では、ショッキングな表現ながら、これまで発表された学術論文で間違っているものが多いと指摘しています。ただ、そこまでいわれると、ホントかね、という気がしないでもありません。薬学の場合、作用機序というものを考えて、薬がどのような順序で効果を発揮するかを考えるわけですが、経済学と同じで、実は、モデルにおける因果関係というものは必ずしも明確ではありません。薬ではなく、医療行為に関してはもっとそうです。どうして、この医療行為が効くのかは判らなかったりするわけです。ですから、統計的な有意性が求められるわけで、著者はその棄却水準のp値が5%でいいのか、という点まで含めて疑問を呈しています。サンプル数を60%増やしてp値を0.5%にすべきではないか、という意見のようです。同様に、有効性のテストの再現性も問題とされています。我が国の理化学研究所のSTAP細胞のスキャンダルについても触れられています(p.209)。続いて、実験動物、多くはマウスということになるんでしょうが、マウスで有効だった薬が人間でも有効であるとは限らない、とも主張しています。最後に、研究者の評価のあり方についても批判的です。これは経済学や他の科学分野でもそうなんでしょうが、生命科学の関係では、『サイエンス』、『ネイチャー』、『セル』といったインパクトファクターが高く権威ある学術誌への査読論文で研究者が評価され、数少ないテニュアの研究者ポストを目指さざるを得ない、という意味で、現在の研究者のインセンティブ構造にも問題があると指摘しています。ごもっともです。そして、ひとつの画期的な考えとして、生命科学の進歩のペースを意図的に落とすことさえ選択肢として提示しています。これも、生命科学だけでなく、他の科学や学問分野にも当てはまる可能性があります。先日、4月13日付けの読書感想文で取り上げた豊田長康『科学立国の危機』とは真逆の主張のように見えますが、本書は本書で間違ってはいないような気がします。なぜなら、科学研究を加速するためには、本書の主張のように逆に研究をペースダウンするか、『科学立国の危機』の主張のように研究リソースを画期的に拡大するか、どちらかなのかもしれません。

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次に、ピーター・ブラネン『第6の大絶滅は起こるのか』(築地書館) です。著者は惑星科学を専門とする科学ジャーナリストであり、本書は初めての著書だそうです。英語の原題は The End of the World であり、2017年の出版です。原題の意味は、要するに、現在までの5回の絶滅に続く第6回目の絶滅が生ずれば、それは世界の、とはいわないまでも、人類が今までに到達した文明の終わりを意味する、ということなんだろうと、読後に感じています。ということで、地球が惑星として成り立ち、生命が誕生してから、いままでに5度の大絶滅が生じてきたと解明されています。それが第2章から第6章までのタイトルとなっており、順に解説されています。出版社のサイトから目次をそのままコピペすれば、オルドビス紀末の大絶滅【4億4500万年前】、デボン紀後期の大絶滅【3億7400万年前、3億5900万年前】、ペルム紀末の大絶滅【2億5200万年前】、三畳紀末の大絶滅【2億100万年前】、白亜紀末の大絶滅【6600万年前】、というわけです。最初のオルドビス紀末の大絶滅は宇宙からの殺人光線であるガンマ線バーストの放射とか、氷河湖の決壊による大洪水などが仮設として提出されています。また、宇宙からの放射線の影響はペルム紀末の大絶滅の原因ともいわれています。これらの中でも、一番最近の白亜紀の大絶滅、恐竜の絶滅が当然ながらもっとも科学的な根拠がハッキリしていそうなんですが、1980年にアルバレス父子のグループから提唱された小惑星衝突仮説で決まり、というわけでもなさそうで、インド亜大陸の火山爆発というデカントラップ説も本書では紹介されています。しかし、本書でもお供興味深いのは、過去の5回に渡る絶滅における仮説の紹介や検証ではなく、現在進行系の第6回目の絶滅が始まっているかどうか、さらに、近い将来の絶滅はどのくらいの確度で生じるか、といった将来見通しの方ではないでしょうか。例えば、恐竜が絶滅した白亜期末の大絶滅のひとつ前の三畳紀末の大絶滅の原因は地球の温暖化に起因します。ほぼほぼサンゴは絶滅したんですが、もちろん、すべてが絶滅したわけではなく、細々と生き残った種が現在まで生きながらえていたりするわけです。そして、更新世末の大絶滅【5万年前―近い将来】は進んでいるのかどうか、第1に気候の温暖化は産業革命以降に急速な勢いで進んでいることは確かですし、第2にホモサピエンスの通った後にハッキリと種の絶滅が生じていることも事実です。ただ、本書の著者は人類が滅ぼしたのは190万種のうちのたったの800種だと主張しています。そして、次の第6回目の大絶滅が何の原因で生じるにせよ、人間の寿命という観点からはかなり遠い先の話であることは確かで、その時の人間社会や文明の状況は何ともいえないながら、実際に生命が失われる絶滅というよりは、電気に依存した現代生活を見ても理解できるように、地球環境の変化は文明の喪失をもたらす可能性が高い、と主張しています。私は専門外もいいところですが、そうかもしれません。というか、違っているという主張をするだけの根拠を持ち合わせません。最後にどうでもいいことながら、私はガンプラを通じてガンダムに詳しい倅どもと違って、それほどガンダムの物語は知らないんですが、シャア・アズナブルは何度か、というか、私の知る範囲では、第2次ネオ・ジオン抗争の際に、小惑星5thルナを連邦軍本部所在地であるチベットのラサに落下させたり、あるいは、地球へのアクシズ落としを企んだりして、巨大ではあるものの、こういった爆発物でない単なる物体を地球に落としたところでどうなるものでもあるまい、とシロートなりに考えていたんですが、第6章で恐竜を絶滅させた白亜紀末の大絶滅の原因とされる小惑星の衝突の衝撃をとても念入りに記述してあって、私はそのとてつもないパワーにびっくりしてしまいました。やっぱり、シャアはえらい?

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最後に、辻村深月『傲慢と善良』(朝日新聞出版) です。タイトルは、いかにも、ジェーン・オースティンの代表作『高慢と偏見』 Pride and Prejudice を思い起こさせるものですが、この作家の自負を表しているのかもしれません。男女間の恋愛ないし結婚をテーマにしている点は同じです。作品の中にの明示的に言及があります。『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の第1作です。2部構成で、さらに、最後にエピローグがついてきます。婚約した男女が、結局、最後は結ばれるというハッピーエンドの恋愛小説です。しかし、結婚式の日取りまで決まっていながら、婚約者の女性が失踪します。ということで、第1部は、婚約者の女性に失踪されてしまった男性の視点から、女性の失踪の謎解きが始まります。結局、男性から見た女性は70点で、その前には100点満点の女性に逃げられて、40歳も近くなって結婚に逃げ込んだ印象です。ただ、女性がストーカーという非現実的ですぐにバレる嘘をついたのに気づかない男性も異常な気がします。第2部は失踪した女性の視点でストーリーが進みます。しかし、最後は大甘で、男性は失踪した女性を許す形になり、女性のそんな男性の包容力を受け入れます。私は決してせっかちな方ではないつもりで、私とカミさんが結婚したのも、この作品の男女と同じくらいの年齢でしたし、世代が違うので婚活という言葉もなく、婚活めいたことはしませんでしたし、見合いとかの出会いで断られた時には、全人格を否定するような断り方が不自然ではなかった時代です。加えて、今以上に結婚が男女の恋愛感情だけでなく、経済も含めた打算で決まっていた時代背景です。私は30歳を過ぎて、海外勤務のお話があり、結婚を考えないでもなかったんですが、時代はバブル経済のまっ盛りで、結局、二重の理由で結婚には至りませんでした。すなわち、バブル経済のころは十分に遊べて、結婚するまで不自由していない、という意味で、この作品の男性とよく似た恵まれた状況にありました。逆の面から見て、京大の経済学部を出て公務員なんてセンスのない職業選択に女性からは見えたわけで、「どうして証券会社に就職しなかったの?」というカンジの見方が圧倒的で、経済的な打算から公務員は結婚相手として決して上位には来なかったわけです。1994年に大使館勤務を終えて帰国すれば、バブル経済崩壊の後で学生の就職は超氷河期で、公務員の株が顕著に上昇していてびっくりした経験があります。そこで、私は結婚したわけです。ですから、上から目線の結婚だったかもしれませんし、この作品の男性のような考えは、女性の行動もいうに及ばず、とうとう私は理解できませんでした。世代が違うのでしょうから、この読書感想文は参考にはならないかもしれません。
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2019年05月18日 (土) 11:14:00

今週の読書は経済書中心に『図書館巡礼』も読んで計8冊!!!

10連休のゴールデンウィーク明けにしては、今週はよく読書にいそしんだ気がします。いつもの通り、経済書が中心なんですが、昨日から岩波ホールで「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」が公開されていまして、その関係でもないんですが、図書館に関する教養書も読んだりしています。1日1冊を超えるペースで読んだ結果、計8冊の大量の読書です。

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まず、佐々木実『資本主義と闘った男』(講談社) です。著者は、日本経済新聞記者だったジャーナリストです。上の表紙画像にも見える通り、タイトルの資本主義と闘った男とは、宇沢弘文教授です。本書の指摘を待つまでもなく、おそらく、1960年代にはもっともノーネル経済学賞に近かった日本人であることは明らかです。宇沢の2部門成長モデルは今でも経済成長理論で参照されるモデルです。もっとも、私なんかも理解が容易なソローの新古典派的な成長モデルやもっと単純なAKモデルが一般的な気もしなくもありません。ということで、本書はその宇沢教授の伝記となっています。ただ、宇沢教授の行動でもっとも不可解だったとされる2点についてはまったく解明されていませんので、私は大いに不満です。不可解な2点とは、スタンフォード大学からカリフォルニア大学バークレイ校に移ったのは本書でも指摘する通りの事情なんでしょうが、スタンフォード大学に復帰せずに、何を血迷ったのか、シカゴ大学に移ったのはなぜなんでしょうか。本書では、アロー教授の弟分でいることに飽き足らずに新天地を求めたかのような推測が並べられていますが、それなら、おそらく、宇沢教授と極めて周波数の合致するカリフォルニア大学バークレイ校に留まるのがベストの選択であった気もします。そして、シカゴ大学教授から東大助教授で帰国したんですから、何となく足元を見られた雰囲気もあります。これは、余りに右派なシカゴ大学経済学部に嫌気が差した、というのはかなりの程度に理解できますし、個人的な思想を基にする嫌がらせもあったんだろうと想像できます。いずれにせよ、きちんと進路を考えて1960~70年代に経済学の主流であった米国で研究を重ねれば、宇沢教授がノーベル経済学賞を授賞されていた可能性はかなりあるんではないか、という気がします。しかし、宇沢教授は帰国して東大に復帰し、それからは、経済学の研究よりもアクティビストとして活動することに重点を置いたような気がします。ノーベル経済学賞に関しては、1980年代からは英国で研究を続けた森嶋教授が、そして、1990年代半ばくらいからは林文夫教授が、さらに、21世紀に入ってからは清滝教授が、日本人研究者としてはもっとも近い、といわれるようになったんだろうと私は理解しています。もちろん、ノーベル賞を目指すのが研究者の人生最大の目標とはならないケースはいっぱいあることは私も理解しており、アクティビストとしてもエコノミストを離れて私個人としては、ポジティブなフィードバックを考慮せずに、市場経済が自己調整的に均衡に向かうメカニズムを有すると盲信する右派的な資本主義と闘った宇沢教授はとても尊敬できるところです。それにしても、宇沢教授を取り巻くキラ星のようなエコノミストの面々に私は圧倒されてしまいました。

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次に、ビクター・マイヤー=ショーンベルガー & トーマス・ランジ『データ資本主義』(NTT出版) です。著者は、オックスフォード大学オックスフォード・インターネット研究所の研究者とドイツのビジネス誌 brand eins のジャーナリストです。英語の原題は Reinventing Capitalism in the Age of Big Data であり、2018年の出版です。ということで、本書の著者は人間の本質について調整を行うこととして捉え、従来の市場では極めて単純化された価格という貨幣単位での評価により財・サービスの交換、というか、資源配分が行われていたんですが、ビッグデータの時代になり、データリッチ市場が出現するに及んで、価格という貨幣単位だけで単純に評価されていた商品が膨大なデータを参照することにより、過剰な簡略化を逃れて最適な配分に調整されるようになる未来、近未来、というよりもすでにいくぶんなりとも実現されている事実を明らかにしています。そして、著者は経済の中で、市場は分権分散型であるのに対して、企業は集中型であるとのモデルを提示し、富国生命の保険支払査定業務へのAI導入をやや揶揄しつつ、ダイムラーの意思決定組織のフラット化について高く評価しています。データリッチな企業経営を実践したいのであれば、富国生命のようにAIをパーツとして導入するのではなく、ダイムラーのように組織としてデータリッチネスをうまくいかせるような組織にする必要がある、という意味で、集中型の企業の意思決定を分権分散型にする必要を指摘しています。しかし、エコノミストが考える市場とは、まさに情報の塊であって、著者は少しバイアスのかかった見方を示しているとしか私には考えられません。ですから、市場が本来の資源配分の効率性を発揮するためには情報がいっぱいあった方が望ましいのはいうまでもありません。ただ、現実にはGoogleやAmazonやFacebookやといったインターネット企業は情報独占により巨大な収益を上げていることも事実であり、本書の著者はスーパースター独占企業と呼んでいますが、こういった企業に対してはアルゴリズムの公開よりも、情報の共有を促す仕組みが必要と指摘します。そのための基礎はすでに機械学習により出来上がっているという評価です。そして、ここから先は付加的な部分で、データ資本主義とは関係薄くて、やや飛躍するようにも見えますが、社会生活の基礎としてユニバーサル・ベーシックインカム=UBIを提唱しています。私はこれに大いなる理解を示すものです。ただ、ここ10-20年ほどの労働分配率の低下と資本の蓄積が加速しているという事実、ピケティ教授らの指摘する不平等の拡大については、やや違った見方を示しています。これは私には理解できませんでした。

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次に、アジェイ・アグラワル & ジョシュア・ガンズ & アヴィ・ゴールドファーブ『予測マシンの世紀』(早川書房) です。著者は3人ともカナダはトロント大学ロットマン経営大学院の経営戦略論やマーケティングの研究者です。エコノミスト的な考え方が随所に見られます。英語の原題は Prediction Machines であり、2018年の出版です。ということで、タイトルにある予測マシンとは、ズバリ人工知能=AIのことであり、本書の著者はAIとは予測マシン=Prediction Machinesであると位置づけています。これは、AIについて考える際のひとつの前進だという気がします。というのは、今まで、AIについては幽霊のように実態について、あるいは、その作用に関して、特に考えるでもなく、単純に恐れたり、軽視したりしている考えがまかり通っているからです。ビッグデータという定義のない表現をするかどうかはともかくとして、膨大な量のデータを処理して、データがいっぱいある前提の大量のパラメータを推定して、かなり正確な予測を行い、それをAIが、あるいは、人間が判断を下す、というプロセスを明確にしています。ただ、私からすればまだ足りない部分があり、それは評価関数を人間がAIの外から与えるか、それとも、AI自身が決めるか、ということです。おそらく、ホントのAIは後者なんでしょうね。というのも、本書でも登場しますが、MicrosoftのTayが学習の過程でナチス礼賛とか、差別的な学習結果が示された事実があります。そして、AIはほぼほぼ制限のないデータ処理と評価関数の設定により、かなり急速に人類の知能を上回る可能性があります。もっとも、この場合の「知能」も定義が必要なんでしょうが、通常の意味で、例えば、人類の知能はイヌ・ネコを上回る、位の意味で定義も十分ではないかと私は思いっています。そうすると、何が起こるかといえば、例えば、ここでも哺乳類を考えて、ウシについては、その昔の濃厚の動力の提供という重労働からは逃れたものの、ウシ、特に雌ウシ独特の昨日である搾乳、あるいは、雄ウシの場合は牛肉の提供に供されるわけです。ニワトリの場合も、メスが卵の提供、オスはウシと同じで鶏肉の提供が主たる眼目となって飼育されているのは広く知られている通りです。もう少し知能が高いと、例えば、イヌ・ネコのようにペットの地位に上ったりしています。おそらく、人間とAIの関係も知能の高さの差に従って、こういった現時点における人類と哺乳類の関係になぞらえることができると私は予想しています。もちろん、ひとつの可能性として、哺乳類ではなく鳥類ですが、北米のリョコウバトのような運命が待っている可能性も否定できません。ですから、本書でいう予測マシン=AIの未来は、単なる予測ではなく、新しい知能の誕生と考えるべきだと私は考えています。あるいは、ハードウェアのマシンではなくソフトな技術について考えれば、自動車の自動運転が主流になれば、現在のような人間が手動運転する自動車は、現時点の馬術のような扱いになるような気もします。いずれにせよ、本書で考えるようなトレードオフについては、人間から見たトレードオフであって、AIから見ると違う観点がありそうな気もします。不安な未来についても、"But Who Will Guard the Guardians?" ではないんですが、AIを制御するAIが必要になりそうな気がします。

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次に、持田信樹『日本の財政と社会保障』(東洋経済) です。著者は東大経済学部の研究者です。今年3月の退官ではないかと記憶しています。相も変わらず、財政学の権威が我が国の財政赤字を問題にし、持続可能な財政とその最大の支出項目のひとつである社会保障について分析しています。すなわち、問題意識としては、財政赤字の解消とまでいわないまでも、その縮減を目指して、「中福祉・中負担」を標榜しつつも、実体は「中福祉・低負担」となっている財政・社会保障の姿を、ホントの「中福祉・中負担」にすべく財政や社会保障を改革することは可能か、また、より規範的には、そうせねばならない、ということに尽きます。確かに、一般論として、財政赤字がフローで垂れ流され、ストックで積みあがっていくのは、何らかのショックに対して脆弱そうに見えて、財政のサステイナビリティの観点から均衡に近づけたい、というのは私も理解します。ただ、他方に、やや極端かつ圧倒的な少数派ながら、米国の大統領候補を目指す民主党の予備選に出ていたサンダース上院議員の経済スタッフのケルトン教授らが主張する現代貨幣理論(MMT)も注目され始めており、この根本的な均衡財政の必要性から解き明かして欲しい気もします。というのは、少なくとも、両極端を考えて、初期条件から財政赤字がなく、従って、国債残高がゼロであれば、中央銀行の金融オペレーションが成立せず、指標金利が得られませんから、金融政策が運営できません。もちろん、逆の極端は財政が破綻して、資本や資金の海外逃避やハイパー・インフレのケースです。その間のどこかに最適解があるハズなんですが、不確定な経済学ではそれを探し当てることが出来ません。悲しきエコノミストなわけです。繰り返しになりますが、私は決してMMTを支持しているわけではありません。むしろ、boodooエコノミクスだとすら思っています。さて、本筋に戻って、本書では、マクロの財政経済データやマイクロな国民生活基礎調査のデータを用いたフォーマルな計量分析がなされていますが、根本的な財政赤字の最適ラインは、もちろん、算出されていません。最後に、立命館大学の松尾教授の従来からの主張ではありませんが、財政や税制を考える際に、右派は税金を多く徴収して財政支出を削減しようという方向であるのに対して、左派は減税と財政支出の増加を志向します。「もっとカネをよこせ」ということです。財政や税制に関する本を読む場合に、これを念頭に置くと、とても理解が進んだりします。もうひとつ、私の観点ですが、需要について考えるのは左派エコノミストであり、供給サイドを重視するのは右派エコノミストです。これも時折役に立ちます。

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次に、スチュアート・ケルズ『図書館巡礼』(早川書房) です。著者は、作家・古書売買史家とされていますが、私はよく知りません。英語の原題はズバリ The Library であり、2017年の出版です。ということで、私はおそらくかなりの図書館ヘビーユーザではないかと自覚しているんですが、本書の著者ほど図書や図書館に対して愛情を持っている読書家は出会ったことがありません。もちろん、本書にはさらに強烈な愛書家がいっぱい登場します。世界の図書館の歴史といえば、アレクサンドリア図書館があまりにも有名なんですが、そのアレクサンドリア図書館ができる前の本のない時代にボルヘスによって想像されたバベルの図書館のような空想上の図書館から図書館の歴史を始めています。でも、もちろん、事実上の図書館の歴史は第2章のアレクサンドリア図書館から始まります。入港した船から書物や巻物が押収され、もちろん、コピーを取った上で、原本が図書館に留め置かれ、コピーが元の場所に返却される、という専制君主らしいやり方が印象的です。図書の材質がそもそも羊皮紙やパピルスですし、デジタル技術はもとよりアナログのコピーもありませんから、書写生が手で書き写す必要があります。当然です。さらに時代が下って、画期的であったのは、1573年モンペリエの勅令により、フランス王国における出版については法定納本制が敷かれた点です。少し遅れて英国でもオックスフォード大学に納本する制度が始まっています。我が国でも、国会図書館への納本義務についてはかなりの国民の間に知識として普及しているんではないでしょうか。こういった納本制の効果もあり、21世紀に入って図書館版のムーアの法則が成り立つそうで、15年ごとに蔵書が2倍に増加すると本書の著者は指摘しています。もちろん、第5章で取り上げられているように、さかのぼること15世紀に印刷技術が発明されて1500年ころにはロンドンに5社が印刷所を展開していたそうですから、この辺りから本格的な出版ラッシュ、というか、図書館にも納本されるようになり、現在見られる本棚に縦置きするというのは画期的なイノベーションだったようです。図書の出版と図書館の蔵書の増加は、当然ながら、常に順調に進んだわけではなく、第6章ではバチカン図書館がカール5世軍により破壊された点が指摘されています。もちろん、その後も火災による被害などもあることは忘れるべきではありません。いずれにせよ、図書館は単なる図書の倉庫ではなく、読書階級が読書するとともに図書を借り出し、加えて、有識者たり司書が働く知的な場所であり、私が利用するような公的な図書館だけでなく、本書に登場するような愛書家や読書家が収集したコレクションを収納していたりもしますから、公立私立の別を問わず図書館は知の集積場という性格を持つことは当然でしょうし、場合によっては、建物についてもそれなりに壮麗な建築だったりもします。収納された図書とともに建築そのものも、大きな知的価値を持っていたりもするわけです。経済学の用語でいえば、メチャメチャな外部経済を持っているといえます。小説でも、本書でよく取り上げているのはエーコの『薔薇の名前』とトールキンの『指輪物語』なんですが、ともに図書や図書館が重要な役割を演じています。ただ、最後に、現在の図書のデジタル化や電子図書の普及に対して、図書館がどのようなポジションにあるのか、包括的でなくとも著者の見識を示して欲しかった気もします。いずれにせよ、私は図書館の利用がもっと盛んになるように願っています。

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次に、ローラ J. スナイダー『フェルメールと天才科学者』(原書房) です。著者は米国セント・ジョーンズ大学の歴史と哲学の研究者です。英語の原題は Eyes of the Beholder であり、普通の高校英語では、"Beauty is in the eye of the beholder." の慣用句で習うんではないでしょうか。原書は2015年の出版です。ということで、本書では、17世紀の半ばから後半にかけてオランダがデルフトを舞台にした画家・画商のフェルメールと顕微鏡の製作者であり顕微鏡を用いたさまざまな新発見に貢献した科学者のレーウェンフックの同い年の2人を主人公とした歴史ノンフィクションです。主人公の2人が友人とか顔見知りであったかどうかは史料がありませんが、フェルメールが不遇のうちに負債を残して没しった後に、レーウェンフックがその遺産管財人に任じられているようですから、何らかのつながりはあったものと著者は推察しています。ということで、同じオランダのデルフトの同い年の2人に共通するものとは、まさに英語の原題の通りに、一般には目に見えない何かを見る力であったと著者は考えているようです。画家で画商でもあったフェルメールは、レンズと鏡とカメラ・オブスクラを駆使して、極めてていねいに作品を仕上げています。我が国では、本書冒頭の図版にも収録れている「牛乳を注ぐ女」や「真史の耳飾りの少女」が有名ですが、歴史に残された記録を調べても生涯に45程度の作品しか残さなかったようですし、現存していて確認されるのは35作品にしか過ぎないとされています。じつは、今年2019年2月まで東京展が、そして、ゴールデンウィーク明けの5月まで大阪展が、それぞれ開催されていたフェルメール展なんですが、「日本美術史上最多の9点」が売りの文句になっていて、「9/35」という表示もあり、たった9点という評価は当たらないのだろうと思います。また、科学者のレーウェンフックは我が国ではフェルメールよりも知名度が少し低いんではないかと私は想像していますが、顕微鏡でありとあらゆるものを観察して生物の自然発生説にとどめを刺したり、それらのおびただしい数の観察結果を論文に取りまとめてロンドンの王立協会に送りつけて、最後にはとうとうフェローに任命されて大喜びしたりと、デカルト的に理性だけで結論を出そうとするのではなく、ベーコン的に観察に基づいて事実から結論を引き出す姿勢が、他の人物による再検証可能性の担保とともに、とても近代的な科学の真髄を象徴している気がします。本書の主人公が生きた17世紀半ばから後半にかけての時代は、我が国では鎖国が完成した一方で、清とオランダだけには門戸を開き、その後は蘭学という形での西洋科学の摂取に向けた時代であったわけですが、当時の江戸幕府がオランダを西洋唯一の貿易相手国、あるいは、西洋文明の窓口に選んだのは、なかなかの慧眼だったのかもしれません。

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次に、井坂理穂・山根聡[編]『食から描くインド』(春風社) です。チャプターごとの著者は、大学の研究者が多く、歴史や文化人類学や文学の専門家であり、もちろん、地域研究の研究者も含まれています。タイトルに見られる「インド」は、大きなインド亜大陸を指して使われているようで、表現は悪いかも知れませんが、英国の植民地だったころのインドとの見方も成り立ちそうです。ですから、特に、宗教についてはイスラム教の食への影響も着目されています。本書は3編構成であり、英国による植民地支配とナショナリズムの観点、文化や文学に見るインドの食、食から見たインド社会、といった感じで私は読みました。まず、我が国でも明治維新とともに食生活や食文化は大きく変化し、一般には西洋化が進んだわけですが、インドでも独立時に同じように西洋化が進むという方向性がある一方で、逆に、インドの独自性を守ろうとする方向性もあったようです。そして、植民市時代には、英国人メムサーヒブの料理が紹介され、ゴア出身のキリスト教徒の料理人が重宝された、との見方も示されています。我が家も、ジャカルタ在住時にはキリスト教徒のメイドさんを雇っていて、豚肉に対するタブーなどが一切なかったのを私も記憶しています。本書には明記してありませんが、我が家の経験ではジャカルタでは複数のメイドさんを雇う場合、料理人がメイドさんの頭として扱われ、お掃除などをするメイドさんを、場合によっては、指揮命令下に置くこともあると聞いたことがあります。インドではどうなんでしょうか。そして、食に関する本書の議論に戻ると、チキンティッカー・マサーラーに関して、英国発祥の料理がインドに持ち込まれたのか、それとも、インド伝来の料理なのか、といった議論も紹介されています。4冊の伝統的な料理書、すなわち、『料理の王』、『料理の月光』、『料理規則の鏡』、『広範な料理の知識』といった本が紹介されています。ただ、日本人が考えるように、すべてがカレーというわけではありません。食に起因する社会会問題としては、第8章で飲酒が取り上げられています。アルコール度数の低い現地酒であるアラックが労働者階級のエネルギー源となっていたのは少し驚きました。もちろん、イスラム教における豚肉のタブーについても人るのチャプターが割かれています。私は豚肉に関するイスラム教徒のタブーはユダヤ教から受け継いだものだろうと理解していたんですが、本書ではそのあたりの由来は不明としています。最後に、本書でももう少し図版が欲しかった気がします。顔写真は何枚かあるんですが、料理そのものや、もちろん、調理器具、あるいは、食器なども実物や歴史的な書物の紹介図を見れば、もっと理解がはかどりそうな気がします。

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最後に、レグ・グラントほか『世界史大図鑑』(三省堂) です。各ページをじっくり読むというよりは、カラー図版を眺め渡すことを主眼とする図鑑です。ここ2-3週間の読書で、図版が欲しいと読書感想文に書いたケースが散見されていますが、その反動というわけでもなく、ついつい、近くの区立図書館で借りてしまいました、三省堂の大図鑑シリーズの1冊であり、このシリーズにはほかに、経済学、心理学、政治学、哲学、社会学などがあるんですが、なぜか、物理学や化学などは一括化されて科学で1冊にまとめられていたりしますし、変わり種としては『シャーロック・ホームズ大図鑑』なんてのがあったりもします。ということで、本書は、編年体で6部構成であり、第1に人類の起源として20万年前から紀元前3500年くらいまで、そして、第2に古代の文明として紀元前6000年から西暦500年くらいまで、第3に中世の世界として500年から1492年まで、第4に近世の時代として1420年から1795年まで、第5に近代という意味なんでしょうが変わりゆく社会と題して1776年から1914年まで、最後に第6にコンテンポラリーな現代の世界として1914年から現在まで、という形で、少し重複を含みつつ、構成されています。タイトル通り、世界史についての図鑑であり、アルタミラの洞窟壁画から、今世紀に入ってからの同時多発テロや世界金融危機まで。世界の歴史において重要な意味をもつ104の出来事を取りあげ、オールカラーの図解と写真でわかりやすく解説してあります。解説はそれほど専門的でもありません。また、我が国や西洋先進国をフォーカスするだけでなく、アジア・アフリカのトピックや第2次世界大戦後のイベントにも多くのページを割いており、21世紀の視点から人類の起源以来の過去を俯瞰する「世界史」の見方を展開しています。ただ、トピックごとの図版ですから、それらのリンケージを探ろうとするグローバル・ヒストリーの観点は希薄な気もします。ただし、現代の関心に合わせて、人口増加や気候や環境の変化など、人類史を通じて長期的に重要な意味をもつトピックも取り上げていますし、各章末に「もっと知りたい読者のために」というコラムを第6部の後の巻末に設け、さらに60のテーマに関して簡潔に解説を加えています。もちろん、索引なども充実しています。それぞれの関心や必要性に応じて、いずれかのテーマの大図鑑を買い求めるもよし、私のように図書館で借りてザッと眺めるもよしで、いろんな利用方法があるような気がします。
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2019年05月11日 (土) 20:58:00

今週の読書は左翼エコノミストの経済書をはじめとして計6冊!

月曜日が10連休の最終日だったとはいえ、ほぼほぼゴールデンウィークも終わって、今週の読書は、左翼的なエコノミスト・アクティビストの経済書をはじめとして以下の6冊です。今日の土曜日も、いいお天気で気温も上がった昼間のうちに自転車で周辺図書館を回り終えており、来週も数冊は読みそうな予定です。

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まず、ラジ・パテル『値段と価値』(作品社) です。著者は、英国生まれで現在は米国テキサス大学で経済学の研究者をしています。研究だけでなく、ジャーナリストとして情報を発信したり、アクティビストとして1999年シアトルにおけるWTO閣僚会議に対する抗議行動を組織したことでも有名です。英語の原題は The Value of Nothing であり、2010年の出版です。ということで、本書では、マルクス主義の影響も強く見られ、シカゴ学派に代表されるような現在の主流派経済学が圧倒的に支持している市場における効率的な価格付けを認めていません。例えば、マクドナルドのビッグマックは日本では390円、スイスは728円、エジプトは195円で販売されていますが、実は、森林保全などの環境、あるいは、ほかの社会的コストを加えて試算すると、助成金なども含めて、原価だけでも200ドルを超える、といった説を持ち出すとともに、市場の公正さに関する疑義も呈しつつ、市場経済に対する疑問を並べています。私もこれは気になっているところで、労働者の賃金を低く抑えて、労働分配率を引き下げつつ、現在に日本では企業が果てしなく内部留保を溜め込んでいます。これは、市場に分配機能が備わっておらず、政府の介入が必要な根拠とされてきましたが、実は、市場が公正な価格付けに失敗している、というのが本書の著者の主張です。そうかもしれません。そして、現在の民主主義社会におけるマネーの役割は、教育を受けたり、病気の際に医者にかかったり、食料を買ったりすることを通じて、社会で自由になるための権利である、とも主張しています。これはその通りです。しかも、私が従来から指摘している通り、民主主義は1人1票で決定する原則なんですが、市場経済は利用可能な購買力で加重平均された決定となります。最後に、著者はかなりの程度に直接民主主義的な市民参加を通じて、例えば、ポルトアレグレの市民参加型予算などの例を示し、直接行動の重要性を訴えます。ただ、私の目から見て、フリーソフトウェアは少し違う気もします。いずれにせよ、経済だけでなく、広く現代社会の暗部を直視し、その解決に向けた方策を提示しており、我が国でももっと広く読まれるべき書だという気がします。

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次に、リチャード・ブックステーバー『経済理論の終焉』(パンローリング) です。著者は、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズなどの投資銀行、また、ヘッジファンドでリスク管理の責任者を務めた後、米国財務省の勤務を経て、現在はカリフォルニア大学で研究者をしています。英語の原題は The End of Theory であり、2017年の出版です。本書についても、先の『値段と価値』と同じように、合理的なホモ・エコノミクスを前提とするシカゴ学派的な主流派経済学を批判し、タイトル通りに、少なくとも金融論においては経済理論は終焉し死んだと結論しています。その上で、表紙画像にあるように、エージェントベースのモデルを再構築し、理論に基づいた構造パラメータに依存するモデルではなく、新たな変化に対応して柔軟に構造パラメータを変更できるような、というか、ここまでくると構造パラメータではなくなるわけですが、柔軟なモデルを提唱しています。私はすでに定年退職して、もう官庁エコノミストではなくなりましたし、不勉強にしてエージェントベースのモデルというのは理解がはかどりませんが、要するに、代表的な個人を1人だけ想定する主流派経済学ではなく、異質な個人の集団を考える、ということなんだろうと思います。でも、金融に関しては、本書でも指摘している通り、流動性の出し手の問題がある一方で、本書では指摘していない取引の調整速度の問題もあります。メチャクチャに調整速度が速いわけです。それを、言葉は悪いんですが、エッチラオッチラとモデルを修正することで調整スピードに追い付けるかどうかは、実務的に疑問が残ります。ただ、そういった現実の金融動向に即した調整可能なモデルの構築が有効であろうとは直感的に感じます。もうひとつ疑問なのは、異質な個人がヒューリスティックに解を求めようとするかどうかです。異質であるがゆえに、ヒューリスティックでない方法で、カーネマン教授のいうシステム2で解を求める可能性があるような気もします。いずれにせよ、本書で著者が指摘する現在の主流派経済学のモデルに関する難点はかなり当たっていて、異質な個人から成る上にかなり複雑でアルゴリズムで解明できない人間の判断をモデル化するのに、現在のような著者のいう「演繹的で公理的な手法の妥当性は低くなっていく」のは事実だろうと思いますし、リカーシブで柔軟なモデルがより妥当性高い可能性は否定できません。しかし、実際の危機の際に有効かどうかは経験が不足している気もします。

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次に、齊藤孝浩『アパレル・サバイバル』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ファッション流通コンサルタントで、専門は店頭在庫最適化だそうです。その著者の主張によれば、アパレル業界では10年おきくらいにパラダイムシフトがあり、最近では、1998年ころにユニクロなどのSPA型のビジネスモデルの展開が始まり、2008年のH&Mの日本上陸に始まるファストファッションのブームも2018年にそのH&M1号店が閉店して終了し、時代はオムニチャンネルなどのデジタル展開が始まる、というわけです。私自身のワードローブを見ても、確かに、フルタイムのキャリアの公務員だったころから、まあ、行政職ではなくて研究職の官庁エコノミストだったせいもあって、オフィスに着て行く洋服までもユニクロとGUが多かったような気がします。オックスフォードのボタンダウンシャツをトップに着て、ボトムスはチノの細身のパンツ、季節によってはソフトジャケットを上に着て、クールビズではない季節でもネクタイを締めることもなく、足元はリーガルのビジネスシューズなんぞはとっくに脱ぎ捨てて、一応、皮革製ではあるもののあんまりビジネス向きではない靴を履いたりして、時には、デッキシューズにベリーショートのソックスを合わせることもありました。今や、定年退職したパートタイマーですので、かなり服装は乱れています。自分のことはさて置いて、本書では、アパレルの小売ないし流通と、アパレルに限定されない小売業ないし流通を、ややごっちゃに論じているところもありますが、アパレルの今後の方向を探る上でとても参考になりました。例えば、H&Mといったファストファッションから、さらに低価格を思考し都市型のPRIMARKのようなウルトラ・ファストファッションがロンドンで移民も顧客対象としつつ展開しているとか、オンラインでウルトラ・ファストファションを牽引するASOS、あるいは、著名ブランドの過剰在庫をキャッシュで買い取ってディスカウント販売するT.J.Maxxなどの巨大なオフプライスストア、などなど、著者は、日本では欧米先進国から10年遅れでトレンドを追いかける傾向があると指摘しますが、こういったアパレルの業態が今後は日本でも出てくるのかもしれません。最後は、もちろん、Eコマースの展開です。ただ、我が国のZOZOタウンについては、ZOZOスーツの失敗などがあり、著者が考えるほど順調には伸びていない印象もあります。さらに、オンライン販売については、AMAZONがそうだったように、洋服やファッション・アイテムというよりは、書籍やCDなどのように大きな差別化がなされていない商品から始まるような気もしますが、いずれは洋服やアクセサリなどの嗜好性の強い財にも広がるのは確実です。ブランドへのロイヤリティをいかに形成し維持するかはマーケターの腕の見せ所かもしれません。

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次に、アランナ・ミッチェル『地磁気の逆転』(光文社) です。著者はカナダのトロント在住で、ニューヨーク・タイムズやCBCラジオなどで活躍する科学ジャーナリストです。本書の英語の原題は The Spinning Magnet であり、2018年の出版です。本書では、地磁気の謎に挑んだ歴史上の科学者たちの業績を追いながら、そもそも磁力とは何なのか、なぜ地球は巨大な磁石となっているのか、そして、何よりも、なぜ磁気逆転が起こるのか、加えて、来るべき磁気逆転の危機を前にいかに備えるべきか、などなどについての考察を進めています。地磁気、というか、磁場研究については、私のような専門外の人間でも知っているのが第15章のファラデーと第16章のマクスウェルではないでしょうか。でも、右手の法則だとか、左手の法則だとかのファラデーの研究成果を数式で簡単明瞭に示したのがマクスウェルだとは知りませんでした。ただ、歴史を離れて磁気や地磁気の研究に関しては、私にはとても難しく、例えば、本書のテーマである地球磁場の逆転については、p.240に簡単な説明があって、3段階を経ることとされており、双極子成分が弱まり、すなわち、S極とN極の差が小さく不明瞭になり、次に、磁極が地球の反対側にすばやく移動し、最後に、双極子成分が再び大きく成長する、ということになります。各段階に数百年かかる可能性も示唆されていますし、正確なことは誰にも判らないそうです。直近の地磁気の逆転は67万年前に起こり、100年で逆転が終了したという研究もある一方で、1万年かかったという研究も少なくないようです。ですから、私のような専門外に者に地磁気の逆転が正確に理解できるはずもなく、雰囲気として感じ取れるだけ、という気もします。自然科学の分野でこのように経済学のように曖昧模糊とした分野があるとは知りませんでした。もっと、天文学の星の運行のように未来永劫まで正確に予測できるんだと思っていましたが、いずれにせよ、地磁気の逆転に関しては不明な点が多いようです。そして、何らかの要因で地磁気が乱れると、まあ、大規模な逆転までいかないとしても、多くの動物の行動に影響を及ぼすとともに、スマートに制御された電気の配電などにも強烈なインパクトがあります。コイルと磁石で発電しているんですから当然です。私のようなシロートから見て、それを防ぐ方法はないような気もします。まあ、よく判らないながらも恐ろしいことだという感覚は伝わって来ました。最後に、本書にはまったく図版が用意されていません。私の理解がはかどらなかった要因のひとつかもしれません。シロート向けとはいわずとも、地球磁場のマップくらいは欲しい気がします。

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次に、中川越『すごい言い訳!』(新潮社) です。著者は、編集者を経てエッセイストになっていますが、手紙に関する著作が多いようです。ということで、本書は文豪や名だたる評論家・エッセイストの手紙の中から、言い訳に関するものを集めています。7章建てとなっていて、恋愛、お金、無作法の詫び、頼まれごとの断り、失敗や失態、ありがちなケース、の横断的な6章に加えて、最終章は夏目漱石の言い訳を集めています。基本パターンは何らかの不都合、すなわち、浮気の発覚とか、借金返済の滞りとか、作品がかけなくなったりとか、などなどに対して詫びをいっておいて、それでも、責任回避をしたり、不都合のように見えるが実は不都合ではない、といい張ったりするわけです。もちろん、「記憶にない」という言い訳の横綱を持ち出したり、言い訳が逆効果になったりする例もあります。こういった言い訳を、最終章の夏目漱石はいうまでもなく、名だたる文豪や評論家などの筆で生計を立てている有名人の手紙から抽出していますので、表現力が豊かな上に、そもそもがいわゆる芸術家ですから、私のような一般ピープルとは違って、表現する前の発想がそもそも常識を超えている場合もあったりします。さらに、そういった言い訳をする場合でも、というか、言い訳をする場合だからこそなのかもしれませんが、人柄や性格といったものが手紙ににじみ出ているような気がします。そして、中にはこういった著述業を生業とする有名人の文才にしてすら苦しい言い訳も散見され、いろんな人生があるものだと実感させられます。私は、文豪などの言い訳を数多く拝読して、今後の人生で使うことがあるかもしれない、などといった下心がなくもなかったんですが、巻末の「おわりに」で著者がしみじみと「なるほど言葉は、言い訳は、極力控えるのが賢明です。」というのが結論なのかもしれません。

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最後に、杉本昌隆『弟子・藤井聡太の学び方』(PHP文庫) です。著者は8段のプロの棋士であり、何冊かの将棋本も出版していますが、それよりも、タイトルや上の表紙画像からも理解される通り、藤井聡太七段の師匠としても有名です。子弟ともに名古屋周辺の東海在住です。昨年2018年2月に単行本として出版された第30回将棋ペンクラブ大賞受賞作品の文庫本化です。ということで、今さらながら、史上最年少で中学生のプロ棋士になり、プロデビュー後の29連勝、1年間で3回の昇段、朝日杯将棋オープン戦で史上2人目の連覇などなど、将棋界を超えて広く一般に知名度を上げ、数々の記録を塗り替えて、一大ブームを巻き起こした藤井聡太七段の師匠がいかに弟子を導いたのか、がテーマとなっています。本書でも着目している「思考力」、「集中力」、「忍耐力」、「想像力」、「闘争心」といった将棋の棋士として必要な資質に加え、「自立心」や「平常心」も含め、決して棋士として将棋に強くなるために必要、というだけでなく、将棋を離れても人間として大成し、人生を豊かにするために欠かすことができません。一応、私も教員の経験があり、地方国立大学の経済学部2年間出向し、最大400名ほどの学生を相手にする講義を受け持った記憶もありますが、大学教授というのは決して勝負師ではありませんし、勝負師を育てるわけでもありません。ただし、お金を払って教えを請うアマチュアを、お金を取れるプロに仕立て上げるという点では同じです。そこは、小学校や中学の教師と大学の教員の違いです。その意味で、決して勝負師を育てるわけではありませんが、お金を取れるプロに育てるという点については、同様の経験をしたつもりです。でもやっぱり、違いは大きいです。第4章が読みどころです。私が育てたのは平凡極まりないサラリーマン予備軍ではないかと思いますが、そうではなくて、その世界のトップになるには努力だけでは足りないわけで、持って生まれた才能というものの大切さと、それに気づく感性の重要性を理解できた気がします。
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2019年05月04日 (土) 18:42:00

ゴールデンウィーク10連休の読書はさすがにたくさん読んで計8冊!

今週はゴールデンウィーク10連休で、さすがにかなり大量に読みました。経済専門書やテキストから進化心理学、ミステリっぽいエンタメ小説、新書に短編ミステリを収録した文庫本、などなど、以下の通りの計8冊です。やや短めの読書感想文を取りまとめています。

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まず、ローレンス・サマーズほか『景気の回復が感じられないのはなぜか』(世界思想社) です。上の表紙画像を見ると、何か、いかにも英語の原題が The Enigma of the Elusive Recovery であるかのような誤解を与えかねないんですが、私の想像するに、本書の原書に当たる本は出版されていないんではないかと思います。原書は存在せず、VOX や各論者のブログサイトにアップされた記事、また、テキストが入手可能な講演などをもとに邦訳を施したのであろうと私は受け止めています。その意味で、邦訳に当たった山形氏は翻訳者であるとともに、編集者なんだろうと思います。同時に、解説もしていたりします。ということで、いわゆる長期停滞論 Secular Stagnation、1930年代にハンセン教授が提唱した考えを現代に応用したサマーズ教授と、それに対する反論を提示したバーナンキ教授、さらに、コメントを寄せるクルーグマン教授の見方を紹介しています。すなわち、いわゆる Great Recession 以降の景気の低迷について、このまま放置すれば構造的な経済の停滞に陥ると警告し、財政政策の出動によるインフラ整備の必要性を論じるサマーズ教授に対して、通常の景気循環に異なる特徴は必ずしも多くなく金融政策で対応可能と反論するバーナンキ教授、さらに、ややサマーズ教授寄りの論陣を張るクルーグマン教授、という形になっています。私は、基本的に、バーナンキ教授の見方が正しいと感じており、ラインハート-ロゴフの This Time Is Defferent は、なくはないものの、それほどお目にかかれる機会は多くない、と感じています。ただ、ケインズ的に表現すれば、「嵐が過ぎれば波はまた静まるであろう」ではダメなわけであり、景気循環のひとつの局面だから何もしなくていい、ということにはならないと考えます。

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次に、 後藤和子・勝浦正樹[編]『文化経済学』(有斐閣) です。著者は、基本的に、文化経済学ないし経済学そのものの研究者です。タイトル通りに、文化経済学のテキストです。テキストとして、学部レベルなのか、大学院博士課程前期レベルなのかは、個々のレベルによるのかもしれません。文化経済学のテキストとしては、私の大学生のころにはすでに存在しており、ボウモル&ボウエンによる舞台芸術のパラドックスを取り上げたものでした。私の大学生の時には、芸術とは4分野であり、絵画や彫刻をはじめとする美術、小説などの文学、お芝居や舞踏などの舞台、そして、誰でも判りやすい音楽です。今では、これらはハイカルであり、これらに属さないアニメやマンガや映画などはサブカルに分類されます。文化経済学の厄介なところは、余りに外部経済が大きく、産業活動のようにGDPなどの統計で把握することが難しい点です。外部経済が大きいので、それなりに公的部門からの助成も必要ですし、スタジオなどのインフラ整備も欠かせません。官庁エコノミストをしていた私からすれば、メインストリームの経済学とはとても感じられませんが、インバウンド消費のもととなる観光産業への示唆も含めて、とても重要な分野に成長する可能性を秘めている気がします。

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次に、竹信三恵子『企業ファースト化する日本』(岩波書店) です。著者は、ジャーナリスト出身で、今は大学の研究者です。上の表紙画像に見えるサブタイトルのように、本書は安倍内閣が進める働き方改革に対する疑問や反論を提示しています。たじゃ、ジャーナリスト出身の著者ですから、統計を用いての計量的な分析ではなく、ケーススタディに終止しているんですが、どうも、ケースの選択が恣意的な気もします。特に、私が考える資本主義的な働き方改革とは、傾向的な利潤率の低下の果てに、絶対的剰余価値の生産に資する改革といえます。ですから、本書でも指摘されているように、長時間労働の容認が主たる内容になります。この点で本書の指摘はとても正しいんですが、ケーススタディの例がよくありません。教員やパートタイム公務員を取材していたんでは、働き方改革の本質に迫るには距離がある、といわざるを得ません。私は工場に働くブルーカラーが労働者の真髄だとは思いませんが、広く絶対的剰余価値の生産について取材することの必要性を痛感しました。着眼点も論旨も問題ないんですが、控えめにいっても、迫力のない単なる著者の心情の吐露に終わっています。

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次に、アラン S. ミラー & サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス』(パンローリング) です。著者は、いずれも米国の研究者です。進化心理学ですから、遺伝子の保存がすべてのクライテリアで、それを基にホモサピエンスを考えるんですから、セックスと結婚がすべてとなります。しかもしかもで、それでとてもよく我々の行動原理を説明できるんですから、なかなかに手強い相手かもしれません。私は進化心理学には圧倒的に反感を覚えていて、種の保存にここまで重点を置くのには反対です。その前に個の保存も必要なわけで、闘争に勝ち抜けるような暴力的な男性は遺伝子を残せる可能性が高くなるのは事実かもしれませんが、暴力的であれば個の存在を危うくする可能性も高まります。相打ちになって3番目の個が遺伝子を残す可能性もあるわけです。いずれにせよ、進化心理学的なセックスと結婚観は私には大いに疑問です。

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次に、葉真中顕『W県警の悲劇』(徳間書店) です。男尊女卑で旧態依然たる警察組織の中でも、特にセクハラなどが横行して後進県的な雰囲気の強いW県警における女性警官の活動をメインテーマにしています。特に、W県警初の女性警視となり、さらに警視正に昇進し県警部長に就任するとともに、念願の円卓会議に出席を果たす女性警察官の昇進と転落をさまざまな視点から描き出しています。なお、円卓会議とは、23年で異動するお飾りのキャリアの県警本部長に代わって、県警を実質的に動かす影の組織なんですが、これがそもそも組織防衛や隠蔽工作に熱心と来ています。ということで、基本は連作短編集となっていて、それほど本格的ではないにしてもミステリ短編です。もっとも、謎解きというよりも、極めて巧みに読者をミスダイレクションする小説の方が目立ちます。ややネタバレながら、特に第2話の「交換日記」は我孫子武丸『殺戮にいたる病』に肉薄する出来栄えだという気がします。一方で、千春の正体はそれほど難しくなく判るんではないかと思います。私が気がかりなのは、第1話の最後で失踪した警察官については、とうと最後まで謎解きがなされませんでした。ひょっとしたら、続きがあるのかもしれません。それから、読者によっては読後感の悪い「イヤミス」と受け止める向きもありそうな気がしました。

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次に、市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書) です。著者は、東大人文研の研究者であり、もちろん、専門はユダヤ宗教だったりします。歴史、宗教、学問、社会あるいは経済からと、いくつかの視点からユダヤ人とユダヤ教について解説を加えています。私の歴史感覚や宗教感覚からすれば、ユダヤがローマ帝国に敗れ去った際に、ユダヤ人の信仰していたメシアはとうとう現れず、ユダヤ教はもうダメだ破綻した、というところからキリスト教が始まったんだと思っていましたが、まあ、私ごときシロートの考えですから少し違うようです。それから、十戎でも何でもいいんですが、殺すなかれとか、利子の禁止とかは、あくまで同朋、というか、同じ宗教の信者の間でのお話であって、キリスト教徒は聖地奪回のための十字軍でイスラム教徒をいっぱい殺しているんでしょうし、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間で利子付きのの貸借が行われていても不思議ではありません。もう一度、私のシロートなりの解釈ですが、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、遺伝子によってユダヤ人の特徴が語られるんではない、と認識しています。ですから、ユダヤ人論は人文研で宗教を基礎として研究されていて医学部で遺伝や優生学的な研究が行われているわけではない、と私は理解しています。

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次に、折原一ほか『自薦 THE どんでん返し 3』(双葉文庫) です。シリーズ3作目の自薦による、どんでん返しの短編ミステリ集です。タイトル通り自薦です。執筆陣が、 折原一、北村薫、鯨統一郎、長岡弘樹、新津きよみ、麻耶雄嵩の6人ですから、とても豪華な短編アンソロジーです。それから、このシリーズからのスピンアウトとして「新鮮THEどんでん返し」というシリーズも誕生しています。2017年暮れの発売で、私も読みました。

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最後に、ロバート・ロプレスティ『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』(創元推理文庫) です。本邦初公開の作家の作品集です。レオポルド・ロングシャンクスこと、シャンクスなるミステリ作家を主人公とする連作短編ミステリ集です。本邦初公開ですから、もちろん、私も初めて読んだんですが、これは掘り出し物です。
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2019年04月28日 (日) 14:28:00

ご寄贈いただいたバルファキス『黒い匣』(明石書店)の読書感想文など!

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2日続けての読書感想文で、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。ご寄贈いただきました。栞には「訳者 謹呈」とあり、訳者のうちのどなたかからちょうだいしたものと思いますが、本書の訳者は私の独断では、People's Economic Policy で意見ホウメイしていらっしゃる先生方が多いのかな、と感じています。少なくとも、訳者代表で訳者解説を書いている立命館大学の松尾匡教授と本書の訳者筆頭の朴勝俊教授は両方に重なっています。
前置きが長くなりましたが、本書の著者のバルファキス教授はゲーム論を専門とするエコノミストであり、とても申し訳ないながら、本書よりもむしろダイヤモンド社から出版されている『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』で有名だという気がします。そして、本書との関係でいえば、財政破綻後のギリシアに成立したチプラス首相のシリザ政権で財務相を務め、国際通貨基金(IMF)、欧州共同体(EU)、欧州中央銀行(ECB)のトロイカとの交渉に当たっています。
さらに、読書感想文に入る前の私の研究業績の自慢話ですが、長崎大学経済学部に日本経済論担当教授として出向していた時に、私は財政関係やギリシアの財政破綻に関して、いかの紀要論文を取りまとめています。繰り返しになりますが、自慢話です。

まだまだ続く自慢話ですが、私はこういった財政学に関する紀要論文を取りまとめていますので、大学出向中に財政学担当の准教授の教授昇進を審査する資格審査委員会に名を連ねたりしました。資格審査委員会を選任した教授会で私は居眠りしていて、自分が選ばれたのを知らなかったりしましたが、それな別のお話で自慢にはなりません。
ようやく、読書感想文の本論に入ります。本書ではバルファキス教授の本領発揮で、リベラルで左派的な経済学では何を目指すかが明確に示されています。すなわち、財政破綻した政府が、メチャクチャに限定された財政リソースを使って支払いをすべき対象は、果たして、トロイカや先進各国にあるギリシア国債を有する銀行なのか、あるいは、ギリシア国内の年金生活者や社会保障給付を受けている恵まれない市民なのか、ということです。著者が交渉に当たったトロイカ担当官は前者に対する支払いを優先し、ギリシア国内の貧困層への支払いを劣後させます。果たして、それが正しい経済政策なのか、答えは明らかだろうと思います。そして、トロイカの担当官は4%の経済成長と4%のプライマリ・バランス黒字をギリシアに命じますが、この2つは激しいトレードオフがあり両立は極めて困難です。後者の財政黒字を達成するためには、財政支出の切り詰めか税収の大幅増が必要ですが、そんなことをすれば成長が犠牲になります。確かに、2009~10年ころは放漫財政のギリシア政府をバッシングする雰囲気が国際社会では強く、ギリシアの財政政策は借金返済にはまだまだ生ぬるい、という論調が強かったのも事実です。先ほど引用した私の2番めの紀要論文「ギリシアにおける財政危機に関するノート」ではこういった論調に反論しており、2010~11年の2年間で「GDP7%の財政調整は、極めて大きな額に上る」とし、「野心的」と評価しています(ともに、p.175)。つまり、当時の「生ぬるい」との論調に迎合することはせず、基本的な規模感は本書のバルファキス教授と同じと受け止めています。

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何らかの流動性不足に陥って、IMFなどの国際機関からの借り入れに頼り、厳しいコンディショナリティを課された国においては、IMFは常に怨嗟の的であり蛇蝎のごとくに嫌われています。ということで、私のもうひとつの体験はジャカルタにあります。すなわち、上の画像では、アジア通貨危機の際に外貨不足に陥ってIMFからのクレジットに頼ったインドネシアの当時のスハルト大統領がIMFのカムドゥッシュ専務理事が見下ろすもとでLOI (Letter of Intent) に署名しています。本書で、MOU (Memorandum of Understanding) と称されているモノと同じだと思います。そして、本書では登場しないものの、スティグリッツ教授などが指摘するごとく、こういったワシントン・コンセンサスが正しいとは、私はとても考えられません。私の従来の主張ですが、国際機関の代表者は、例えば、IMFの専務理事などのように加盟国による投票で選ばれるとはいえ、民主主義的な選出過程によって選ばれる主権国家の政府代表を上回る権力を行使するのは、民主主義と資本主義の不整合ないし矛盾によるものです。民主主義はあくまで基本的人権に基づく1人1票の選挙で決定しますが、資本主義は株主総会的な購買力による加重平均で決定します。この矛盾が解消されるのは、現在の資本主義を何らかの方法で改良するしかありません。

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本書では、緊縮財政に対する反論が主要な通奏低音をなしていますが、その意味で、本書の訳者である松尾教授や朴教授らの『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) にも私は大いに期待しています。およそ1ト月後の5月23日の発売と聞き及んでいます。官庁エコノミストであったころから、私は自分を左派であると位置づけてきており、金融政策も同じですが、財政政策に関しては左派が拡大のバラマキ大いに結構に対して、右派は緊縮であり、左派はハト派であり、右派はタカ派です。そして、これも私の従来からの指摘ですが、現在の我が国安倍政権は政治的外交的には極めて右派的なんですが、経済政策についてはとても左派的です。さらに、ついでに、我が国の政治的な左派は経済的には緊縮財政や財政均衡を目指しているかの如き志向があり、とても右派的です。私の目には不思議に映ります。もっとも、私のもうひとつの経済政策に関する左右両派に関する視点、すなわち、右派は供給サイド重視で左派は需要サイド重視、というのは、我が国の現状に当てはまる気もします。

最後の最後に、還暦を過ぎたエコノミストのたわ言かもしれませんが、本書の著者であるバルファキス教授のような左派エコノミストにして政治の実践家、ということでは、京都出身の私は昔の蜷川虎三知事を思い出します。我が母校である京都大学経済学部の教授にして、京都府知事を7期務めた大先輩です。
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2019年04月27日 (土) 11:44:00

今週の読書は経済書や『左派ポピュリズムのために』をはじめ計8冊!

今週は、以下に9冊リストアップしていますが、読んだのは実は8冊です。最初に置いたのは、ご寄贈いただきましたのでフォントも大きくして宣伝に努めております。今週の読書は経済書に加えて左派応援書もあります。経済成長懐疑的なタイトルの本もありますが、中身はジャーナリストらしくキチンと整理されたもので、闇雲に反経済学的な内容では決してありません。今日から10連休という人も多いような気がしますが、私は特に遠距離の外出はしませんし、読書感想文は定例の土曜日に限らず随時アップし、いつも通りに、読書とスイミングに励みたいと思います。ブログに取り上げる予定の経済指標の公表は米国雇用統計くらいのもので、日本国内の経済指標公表は少しの間お休みです。

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まず、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。しかしながら、ご寄贈いただいたのですが、先月末の定年退職前に私が在籍していた役所の研究所にお届けいただき、私の手元に来るまで少しタイムラグがありましたので、誠に恥ずかしながら、読み始めたものの読み終わっていません。2段組みで600ページ近いボリュームですので、かなりの読書量を誇る私でも時間がかかっています。今日から始まる長いゴールデン・ウィーク中には何としても読み終えて、貴重なご寄贈本ですので単独にて取り上げたいと予定しています。それほど時間はかからないつもりですので、今しばらくお待ち下さい。

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まず、クリス・ヒューズ『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』(プレジデント社) です。本書の英語の原題は First Shot であり、2018年の出版です。著者のクリス・ヒューズは、何といっても、ハーバード大学に進学しマーク・ザッカーバーグのルームメイトとなり、ファイスブックの共同創業者から億万長者となったことで米国でも有名であり、次いで、その巨万の富を足がかりに、2008年の米大統領選でオバマ陣営のネット戦略を指揮したり、リベラル系の老舗雑誌を買収して経営に乗り出したりしています。本書は、基本的には、著者の半生を綴った自伝なんだろうと思いますが、アメリカの堅実な中流家庭に育った努力型の秀才と自称しつつ、自身の半生を振り返っていて、恒例の方の自伝のように自慢めいた部分がなくはないものの、自身の半生で、あるいは、米国の経済社会で、反省あるいは修正すべきポイントもいくつか提示されています。例えば、ですが、ザッカーバーグのルームメイトという運の良し悪しが、ファースト・ショットとして、何世代も継承されるような格差を生む「勝者総取り社会」に疑問を感じ始めます。フェイスブックの株式公開により巨万の富を得た点は、宝くじに当たったようなものだと自覚しています。ほとんどの米国人はこういった幸運に恵まれず、自動車事故や入院などのための緊急出費も捻出できないのに、他方で、幸運を持って億万長者になれる、それはそれで、米国的なサクセスストーリーなのかもしれませんが、そんなことが可能になる社会は何かが歪んでいると考えています。私はこれも健全な思考だと受け止めています。そして、著者自らの富と経験を注ぎ込んで、米国ではなく、サックス教授らと発展途上国における経済開発の実践に取り組んだりしています。それらの結果として、解決策が年収5万ドル未満層への保証所得にあるとの結論に至っていますが、同時に、所得制限なしのユニバーサルなベーシックインカムには否定的です。その原点は職業的な天命のようなものにあるんではないか、とうかがわせる記述がいくつかあったりします。私自身は、著者の主張するような「負の所得税」まがいの保証所得ではなく、ユニバーサルなベーシックインカムが正解だと考えています。というのは、著者は職を持って働いて、何らかの賃金、というか、所得を得ることの重要性を指摘しているわけですが、それは取りも直さず資本主義的な経済活動への参加を促しているわけです。私は、必ずしも経済活動でなくても、例えば、無償のボランティアなどの社会参加活動でもOKだと考えています。もちろん、私のような考えには、現在も存在する生活保護を悪用するような反社会的組織のようなものがつけ込むスキがあったりするわけですが、所得を得られる敬愛活動だけでなく、必ずしも金銭的な報酬を目的とせず、広く社会参加活動を重視すれば、やっぱり、ユニバーサルなベーシックインカムの方がより優れた制度ではないでしょうか?

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次に、デイヴィッド・ピリング『幻想の経済成長』(早川書房) です。著者は Financial Times をホームグラウンドとする英国のジャーナリストであり、東京支局長の経験もあります。英語の原題は The Growth Delusion であり、2018年の出版です。ジャーナリストらしく、GDP/GNPがクズネッツ教授により開発された歴史なんぞをひも解きつつ、GDPないし経済統計の正確性や計測すべきポイントなどを明らかにした上で、経済政策の目指すべきポイントについての議論を展開しています。類書では、経済統計のメインをなすGDPについて否定したり、あるいは、エネルギーや環境とのサステイナビリティの観点からゼロ成長を推奨したりといった、私のようなエコノミストの目から見てメチャメチャな経済成長否定論ではなく、GDPの統計としての把握のあり方と現在の経済活動とのズレ、あるいは、GDP出は買った経済規模と国民の幸福感のズレ、などを正面から議論の対象にしています。まず、本書では自身がなかったのか、明記していませんが、スミスの『国富論』では経済社会における富とは製造業だけが生み出せるものであり、サービスはまったく無視されていた点は重要です。20世紀に入ってクズネッツ的なGDP/GNPではサービスは当然に経済活動に含まれて、生産高に算入されるわけですが、本書でいえば、第5章に明記されているように、インターネットの普及に伴って、一部のサービスが専門業者の生産から家計で生産するようになって、GDP/GNP統計に反映されなくなったのは事実です。例えば、従来でしたら旅行代理店に行って宿の手配をしていたところ、家や職場からインターネット経由でホテルの予約ができるようになっています。また、Airbnb や Uber などのシェアリング・サービスの普及もGDP/GNPの観点からは成長率の押し下げ要因となる可能性があります。ただ、これらが国民生活の幸福度や利便性の観点からマイナスかというと、そんなことは決してありません。逆に、選択肢の増加などによって幸福度にはプラスの影響すらありえます。こういった観点からインターネットやモバイル機器を使いこなす若者の幸福観を論じたのが、日本でいえが古市憲寿だったりするわけです。こういった統計としての限界、というか、GDP/GNP統計が開始された時代から経済モデルが明らかに変化したわけですから、新しい統計が必要なわけで、統計家かエコノミストがサボっているのか、あるいは、能力が不足しているのか、新しい指標がまだ出来ていないわけです。そこで、ブータン的な幸福度指標が注目されたりするわけですが、本書でも疑問を呈しています。主観的な幸福度を政策目標にすることについては私はハッキリ反対です。極めて極端な主張かもしれませんが、健康状態が悪くて寿命が短くても、消費生活が貧しくても、識字率が低くても、薬物により主観的な幸福度が高ければOK、ということになりかねないからです。ですから、主観的な幸福度あるいはエウダイモニアではなく、客観的な生活の利便性や豊かさ指標のようなものを国民の合意により形成する必要があると私は考えています。健康指標、文化指標、もちろん、経済指標などの組み合わせからなる総合的な社会指標の統計が必要ではないでしょうか?

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次に、伊藤元重『百貨店の進化』(日本経済新聞出版社) です。著者は我が国を代表するマクロ経済分野や国際経済学の権威の1人です。なぜに、百貨店についての本を書いているのかは不思議な気もしますが、百貨店協会創設50週年で20年前に百貨店の本を書いているようですし、私の記憶でも『吉野家の経済学』の共著者だったように覚えていますから、こういった経営的な分野もお得意なのかもしれません。ということで、バブル崩壊直後の1991年に売上のピークを迎えて、その後はいわゆるジリ貧状態にあり、売上げだけを見れば、百貨店よりもコンビニの方が伸びているわけながら、百貨店の草分けともいえる三越をはじめとして、いわゆる老舗のお店が少なくない、というのも百貨店業界だったりするわけで、著者も、100年継続する企業であるからには、それなりに時代の変化への対応力があるんではないか、と示唆しています。確かに、アマゾンや楽天などのネット通販に加えて、メルカリなどのネットを通じた中古品販売も急成長しており、ジリ貧の百貨店業界とは好対照をなしている一方で、アマゾンがリアルの実店舗の展開を始めたりしているのも事実です。もちろん、これだけ外国人観光客の訪日が増加してる中で、インバウンド消費の恩恵に預かれるのは、ネット通販ではなく実店舗、特にドラッグストアと百貨店であると私も聞いたことがあります。逆に、成長著しいアジアをはじめとする海外展開も必要です。我が家が今世紀初頭にジャカルタで3年間暮らした折にも、ジャカルタにあるそごうですとか、シンガポールの高島屋に足を運んだ記憶があります。我が家のジャカルタ生活から20年近くが経過し、インターネットの普及や発達とともに消費者が利用可能な情報は飛躍的に増加しており、消費者の選択の幅も広がっている一方で、消費の実店舗の場合、いまだに集積に一定のメリットがありますから、レストランのように隔絶した世界にある一軒家のレストランでの消費は別にして、物販の消費の場合は集積した百貨店やショッピングモールに利便性が認められるのも忘れるべきではありません。アパレル製品、特に、婦人服と一蓮托生で成長を享受してきた百貨店の歴史はその通りなんでしょうが、高齢化と人口減少が進めば消費のパイは確実に減少を続けます。その小さくなる一方のパイの奪い合いの中で、本書にはない視点ながら、「働き方改革」の進行する中で、個人消費者相手に休日が少なく営業時間が長い百貨店が、どのような経営戦略を持って成長を図る、あるいは、地盤沈下を食い止めるのか、私自身は百貨店は大好きですし、それほど買い物はしないまでも、モノではなくコトを消費する場として重要だと考えていますから、これからの合従連衡の業界集約とともに、本書のタイトル通りの「百貨店の進化」に期待しています。

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次に、シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(明石書店) です。著者はベルギー出身で現在は英国ウェストミンスター大学の研究者です。英語の原題は For a Left Populism であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳といえます。2018年の出版です。私は少し前まで、県庁エコノミストにして左派、というビミョーな立ち位置にあったんですが、そのころから、立命館大学の松尾匡教授のご著書などを読むにつけ、かなり硬直的と言うか、教条的な左派の訴えに対して、もっと国民の幅広い層から指示されるような経済政策を提示すべき、と考えてきたところで、本書は、経済学ではなく政治学的なアプローチながら、基本は同じような発想に基づいているような気がします。ということで、極めて正しくも、戦後の政治経済史について、本書では1970年代までの経済が順調に成長してきた時代について、福祉国家の拡大、労働運動の前進、完全雇用の政治的保証といったケインズ的な経済政策に支えられたものと捉え、そのケインズ主義的な経済政策が1970年代の2度に渡る石油危機でインフレが進む中での景気後退というスタグフレーションにより終焉し、新自由主義的な経済政策が取って代わった、と理解しています。すなわち、本書の著者のホームグラウンドでいえば英国保守党のサッチャー政権であり、本書では登場しませんが、米国ではレーガン政権なわけです。我が国では中曽根内閣といえるかもしれません。そして、英国のサッチャー政権の炭鉱ストに対する態度は、これまた、本書には登場しませんが、米国レーガン政権の航空管制官ストに対する姿勢と基本的な同じなわけです。そして、こういった新自由主義的な経済政策を背景に、企業活動が野放しに利潤追求を行い、そして、経済格差が拡大したわけです。しかしながら、2007~08年の Great Recession の中で、大銀行は政府から資本注入を受けて救済される一方で、教育や社会福祉といった政府支出は大いに削減され、不景気による失業の増大も相まって、国民生活は急速に悪化を示したわけですから、新自由主義的な経済政策も破綻した、と考えるべきです。そして、2016年の英国のBREXIT国民投票や米国大統領選挙でのトランプ大統領の出現、あついは、フランス大統領選挙での国民戦線の躍進をはじめとする大陸欧州でのポピュリスト政党の支持拡大などにより、ケインズ的な福祉国家、新自由主義に続く第3の段階が始まったわけです。そして、本書では、ポスト構造主義とマルクス主義をブリッジする理論的な政治学のフレームワークを提供しようと試みています。それが、ラディカル・デモクラシー、あるいは、本書の著者の表現を借りれば、民主主義の根源化、ということになります。これだけを見ると、日本社会に即せば講座派的な二段階革命論に近い気がして、私は好感を持ちました。民主主義は1人1票という完全平等論に基づいていますが、資本主義は購買力、すなわち、手持ちの利用可能な貨幣量によってウェイト付された平等観です。ですから、資本主義をラディカルに民主主義化することが必要で、それは社会主義革命に先立つわけです。二段階革命論の正当性といえます。ただ、経済学に基づく経済政策も実践的かつ経験的な面が大きいんですが、政治学というよりも、本書のターゲットは政治的な運動論でしょうから、経済学よりもさらに実践的かつ経験的な結果を出すことが求められます。ですから、今後の左派政党による実践を待ちたいと思います。

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次に、ヘレン・トムスン『9つの脳の不思議な物語』(文藝春秋) です。著者は医学部出身ながら医者ではなく、英国のジャーナリスト・サイエンスライターです。英語の原題は Unthinkable であり、2018年の出版です。単純なものであれば、命令にも必ず従ってしまう「ジャンパー」と呼ばれる人々がいる、というウワサのような情報からお話が始まり、最後もそれで締めくくられます。その中で、邦訳タイトルにあるように、人間の脳に関する9つの奇妙な症例について、その症状を呈しているご本人や周囲の人に対するインタビューなどを通じて明らかにしようと試みています。本書でも何度か言及されているように、オリバー・サックスの著書のような趣きがあります。ということで、それが第1章から第9章まで並んでいて、具体的に章タイトルを上げると、第1章 完璧な記憶を操る、第2章 脳内地図の喪失、第3章 オーラが見える男、第4章 何が性格を決めるのか?、第5章 脳内iPodが止まらない、第6章 狼化妄想症という病、第7章 この記憶も身体も私じゃない、第8章 ある日、自分がゾンビになったら、第9章 人の痛みを肌で感じる、となります。古典古代から、人間らしい心や知能の働きは頭の脳ではなく、心臓に宿ると考えられていましたが、現在では脳の働きとされていることは広く知られている通りであり、同時に謎の多い分野でもあります。各省全部を取り上げるわけにもいきませんが、例えば、第1章では生後9か月から、日々の完全な記憶がとどめられている症例であり、逆にいえば、忘れるということの意味も同時に問うています。第2章では自分の家で迷子になっておトイレにも行けないような症例、一般的には方向音痴と称される例の極端なものが取り上げられます。もちろん、逆に、『博士が愛した数式』のように、極端な短期しか記憶がとどめられない例も取り上げられています。こういった脳の働きにおけるいくつかの症例を取り上げつつ、必ずしも、以上と成城の議論には深入りしていませんが、やや関心も向けつつ、議論を進めています。私の関心が向いたひとつの例は第4章で、特に、育った環境の異なる双子についても、かなりの性格の一致が見られる、というものです。それだけを取り上げると、性格は環境ではなく遺伝子で決まる、と結論しそうになりますし、私の実体験としても、我が家の倅2人の兄弟について見るにつけ、遺伝子の働きは偉大だと感じずにはいられませんが、その遺伝子がどのように受け継がれるかについては少し疑問も残ります。また、何らかの問題行動、反社会的な行動、あるいは、ハッキリと犯罪行為があった場合などについては、本人の意思や判断の免罪を主張するようで、違和感もあります。すなわち、およそ地球上で最高の治世を持つと考えられる霊長類の人類にして、単なる遺伝子の運び手であるとすれば、いったい、自分とは何なのか、最後の究極の疑問に突き当たる気もします。

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次に、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』(角川書店) です。作者の作家デビュー30周年を記念して、平成最後にいろいろと、というか、ハッキリいって、脈絡なく、作者ご自身の単行本未収録作品を集めています。「有栖川作品の見本市」というのが宣伝文句ですし、上の表紙画像にその雑多な雰囲気が見られると私は考えています。この雰囲気は、先週の4月20日付けの読書感想文で取り上げた山内マリコの『あたしたちよくやってる』と似ているんですが、『こうして誰もいなくなった』は小説のみを収録していて、エッセイなどは含んでいません。作者ご本人の前口上にもあるように、ファンタジー、ホラー、本格ミステリがグラデーションをなすように並べられているようで、発表順といった編年体とかではありません。ただ、未収録作品集だけに、作者のシリーズに登場する江神二郎とか、火村英生といったおなじみの名探偵は登場しません。まあ、仕方ないんでしょう。収録作品は以下の14編で、最後の本書タイトルと同じ表題作は短編というよりも、独立した単行本として発行されてもおかしくないような内容の本格ミステリで、後述の通り、クリスティ作品『そして誰もいなくなった』を下敷きにしていますが、結末は大きく違っています。ということで前口上が長くなりましたが、収録作品は、「館の一夜」、「線路の国のアリス」、「名探偵Q氏のオフ」、「まぶしい名前」、「妖術師」、「怪獣の夢」、「劇的な幕切れ」、「出口を探して」、「未来人F」、「盗まれた恋文」、「本と謎の日々」、「謎のアナウンス」、「矢」、「こうして誰もいなくなった」となっています。なお、あとがきに作者ご本人から、かなり詳しい解説が提供されていますので、立ち読みの範囲でもかなりの情報を得ることが出来そうな気がします。なお、作者ご自身の単行本に未収録とはいえ、何らかのアンソロジーに収録されている作品も多く、逆に、ラジオ番組の朗読用原稿なので今まで活字になっていない作品もありますが、私は4話が既読でした。収録順に、「線路の国のアリス」は推理作家協会編集のアンソロジー『殺意の隘路』にて、また、「劇的な幕切れ」はアミの会(仮)編集のアンソロジー『毒殺協奏曲』にて、「未来人F」は『みんなの少年探偵団 2』にて、「本と謎の日々」は『大崎梢リクエスト! 本屋さんのアンソロジー』にて、それぞれ読んだ記憶があります。特に、「劇的な幕切れ」が収録されている『毒殺協奏曲』は、つい今月の4月7日付けの読書感想文で取り上げています。でも、やっぱり、もっとも印象的なのは表題作の「こうして誰もいなくなった」です。130ページ余りの本書の中でも最大のボリュームですし、クリスティ作品と同じく通信の途絶した孤島での連続殺人事件です。不勉強な私にはお初の登場で、響・フェデリコ・航という奇抜な名探偵が登場します。同じ京都系の新本格ミステリ作家である麻耶雄嵩作品のメルカトル鮎に少しネーミングが似ていて、事件解決に邁進します。江神二郎とか、火村英生と同列に論ずるべき名探偵ではないかもしれませんが、密かにシリーズ化することを期待している読者もいそうな気がします。私は江神二郎と火村英生の2人で十分です。ひょっとしたら、火村英生だけでも十分かもしれません。

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次に、佐々木閑『大乗仏教』(NHK出版新書) です。著者は京都にある花園大学の仏教学科の研究者であり、仏教に対するかなり柔軟なお考えの持ち主と私は見ました。青年と講師の間の問答形式に基づく講義の形で議論が進み、最後の補講で『大乗起信論』パッチワーク説が明らかにされます。仏教は、本書では別の用語を用いていますが、いわゆる小乗仏教と大乗仏教に分かれて、後者が北伝仏教と呼ばれるように、中国や我が国に入って来ています。それなりのボリュームの信徒数を誇る世界の3大宗教たる仏教をわずかに2分類するのはムリがあり、キリスト教をカトリックとプロテスタントとギリシア正教の3分類するくらいの粗っぽさだという気がしますが、その大乗仏教が護持する経典であるお経についての解説書と考えても本書は成り立つような気がします。そして、本書の著者の論を待つまでもなく、仏教は釈迦の提唱した原始仏教から、本書の副題である「ブッダの教えはどこへ向かうのか」の通り、かなり大きく変容しており、それはそれで宗教として民衆の役に立っている、というのが本書の著者の議論だと私は受け止めています。大乗仏教も小乗仏教以上に釈迦の唱えた原始仏教から離れているのも事実だろうと思います。本来は、輪廻転生の中で釈迦やブッダに出会って菩薩となり、仏教的な修行を始め自らもブッダになることを目指すのが仏教的な道なんでしょうが、私の信奉する浄土真宗や浄土宗などは単に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで輪廻転生から解脱して極楽浄土に生まれかわれる、とする教義ですし、本書でも座禅を中心教義、というか、中心となる修行と考える禅宗は修行の宗教といえます。そして、禅宗は中国発祥であり、インド発祥ではなく、釈迦の始めた原始仏教から直接に派生したものではありません。まあお、それをいい出せば、大乗仏教がすべてそうなんでしょうが、その仏教の多様性こそが中国や日本で受け入れられたひとつの要因ながら、逆に、日本の仏教はヒンズー教に極めて近いと著者は主張し、それゆえに、仏教が創始されたインドにおいて仏教がヒンズー教に取って代わられたゆえんである、とも指摘します。このあたりは私にはよく理解できませんでした。でも、釈迦やブッダに出会って仏教に覚醒し、菩薩として修行を始める、というのが、釈迦やブッダに代わって真実の書であるお経に出会うことに変容し、それ故に、お経に対する「南無妙法蓮華経」というお題目が日蓮宗の信徒に広まったのも、この年齢に達して初めて知りました。私はすべての日本人が仏教徒ではないことは理解しているつもりですが、日本の文化や風俗の中にかなりの程度に仏教的な、釈迦の提唱した原始仏教ではないにしても、日本的に変容した仏教がベースになっている部分もあり、本書の値打ちはそれなりに高いと受け止めました。

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最後に、アガサ・クリスティ『ミス・マープルと13の謎』(創元推理文庫) です。火曜日クラブの延長戦なのか、始まりなのか、いわゆる安楽椅子探偵のミス・マープルの13の事件に渡る謎解きが楽しめます。100年近い、というか、90年前に原作がアガサ・クリスティによって書かれ、60年ほど前に邦訳書が出版されているそうですが、創元推理文庫創刊60周年記念による新訳刊行だそうです。大昔に読んだ記憶がないでもないんですが、クイーンの国別シリーズ、コチラは角川文庫からの新約とともに、やっぱり、文章が読みやすくてスンナリと頭に入ってくるような気がします。収録されている短編は、「<火曜の夜>クラブ」、「アシュタルテの祠」、「消えた金塊」、「舗道の血痕」、「動機対機会」、「聖ペテロの指の跡」、「青いゼラニウム」、「コンパニオンの女」、「四人の容疑者」、「クリスマスの悲劇」、「死のハーブ」、「バンガローの事件」、「水死した娘」の13話であり、最後の作品だけは夜に語られたものではなく、スコットランドヤードの元警視総監であるヘンリー・クリザリング卿にミス・マープルが犯人名を書いたメモを託して、ヘンリー卿が地元警察の捜査に同行したりします。まあ、短編ですから、とてもアッサリとミス・マープルが謎を解き明かしてしまうのは、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、謎の中身は割と殺人事件も少なくなく、さすがのクリスティ作になるミステリだと感じさせます。
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2019年04月20日 (土) 11:42:00

今週の読書は『ピケティ以後』をはじめ、計7冊ながらボリュームたっぷり!!

今週は、『21世紀の資本』という話題の高かった経済書を発行から3年後に振り返る、というビミョーな位置づけの経済書をはじめとして、パットナム教授による米国の宗教についての社会学分析など、以下の通りの計7冊です。ただ、『ピケティ以後』とパットナム教授の『アメリカの恩寵』はともに、大判の書物で600ページを超えるボリューームでしたので、それぞれが通常の2冊分くらいに相当しそうな気もします。今週もすでに自転車で図書館を回り、来週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、ヘザー・ブーシェイ & J. ブラッドフォード・デロング & マーシャル・スタインバウム[編]『ピケティ以後』(青土社) です。5部22章から構成され、600ページを超える大作です。編著者と章構成などは出版社のサイトに詳細が示されていますが、このサイトにも本書にもかなり誤植があります。これは後ほど。ピケティ教授の『21世紀の資本』については、フランス語の原書が2013年、英語の翻訳版とその英訳版からの邦訳版がともに2014年に出版され、その後3年を経ての余波、功罪、真価などについて問い直そうと試みています。本書の英語の原題は After Piketty であり、2017年の出版です。ということで、まず、『21世紀の資本』のおさらいから始まります。すなわち、r>gが成り立てば経済成長に基づく所得よりも資本からの利得のほうが上回るため、その要因による格差が拡大すること、米国などのスーパー経営者のスーパーサラリーなどを見ても理解できるように、1%の富裕層では資本所得よりも労働所得のシェアが高いものの、0.1%の富裕層になれば資本所得が圧倒的な部分を占め、そのため、相続に基づく世代間の格差拡大の連鎖がポジティブにフィードバックしかねない、などです。これらのおさらいを含めつつ、最終章のピケティ教授自身からの回答を別にしても4部21章にして600ページを超える大著であり、しかも、チャプターごとに著者が異なっていてテーマもさまざまなわけですので、ハッキリいって、出来のいいチャプターとそうでないのが混在しています。最後の山形浩生さんによる訳者解説でかなりあからさまに記述されているように、奴隷やフェミニスト経済学のようにできの悪いチャプターも少なくないですし、ピケティ教授の格差論や経済学とは何の関係もなしに、あるいは控えめにいっても、ほとんど関係なしに、ご自分の持論の展開に終始しているチャプターもいっぱいあります。それらのチャプターを見渡して、私の見方でも訳者解説と同じで、第16章と第17章は出来がいいと思います。特に、第16章はムイーディーズ・アナリスティクスの計量モデルに基づく議論は一番の読み応えがあります。それでも、やや結論が楽観的で格差の弊害を軽視している点は懸念が残ります。でも、貯蓄率の変動を介して格差が景気循環に対してプロサイクリカルに作用するという視点はその通りだと私は受け止めています。また、エコノミストの目から見てなのかもしれませんが、第Ⅳ部の政治経済学的な見方は参考になりました。資本主義の根本となる私有財産制がいかにして理論付けられてきたか、というのは根本的な問いかけに対する答えのような気がします。最後に、誤植が多いです。やや知名度に欠ける出版社なので仕方ないかもしれないのですが、要請と妖精は誤植にしてもヒドい気がしますし、反トラストとせずともアンチ・トラストでいいのに、半トラストはないと思います。

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次に、ロバート D. パットナム & デヴィッド E. キャンベル『アメリカの恩寵』(柏書房) です。著者のうち、パットナム教授はハーバード大学の研究者であり、『孤独なボウリング』や『われらの子ども』で有名です。キャンベル教授はブリガム・ヤング大学のご卒業ですからモルモン教徒なんではないかと私は想像しています。本書の英語の原題は American Grace であり、ハードカバー版は201年の出版ですが、この邦訳書の底本となっているペーパーバック版は2011年の新たな調査結果を盛り込んで2012年に出版されています。ですから、パットナム教授の著書の順でいえば、『孤独なボウリング』と『われらの子ども』の間に入ることとなります。今週2冊めの600ページ超の大作です。ということで、「人種のるつぼ」といわれる米国は同時に宗教も極めて多様性を有しており、基本はWASPと称される伝統的なキリスト教プロテスタントなんですが、もちろん、ヒスパニックをはじめとし、イタリア人などを含めて、本書でラティーノと呼んでいる人々やアイルランド人やポーランド人の間ではカトリックが主流でしょうし、さらに、キリスト教の中でも東方正教もいれば、もちろん、ユダヤ教も少なくありません。パットナム教授は改宗したユダヤ教徒ですし、キリスト教の中でもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなんて、カルトすれすれながら連邦議会議員にとどまらず、閣僚や大統領候補まで輩出している新興宗教もあります。おそらく、私の直感ながら、クリスチャン・サイエンスからさらに、エホバの証人まで行けばカルトと見なされそうな気もしますが、例えば、私が自伝を読んだ範囲では、ブッシュ政権下の最後の財務長官を務めたゴールドマン・サックス証券出身のポールソン元長官はクリスチャン・サイエンスですし、2期目のオバマ大統領に挑戦した共和党のロムニー候補はモルモン教徒でした。本書では、福音派や黒人プロテスタントなどの例外的な存在のキリスト教徒も含めて、ほぼほぼ99パーセントはキリスト教中心ながら、ユダヤ教や、あるいは、イスラム教徒や仏教徒まで視野を広げつつ、米国民が西欧に比べて極めて宗教的である点を、「毎週教会に行く」などの行動の面から確認しつつ、女性の権利拡大、所得の不平等の拡大、同性婚の容認などについての米国民の思考パターンや行動の源泉としての宗教について分析を展開しています。私にはやや疑問の残る結論なんですが、本書では、多様な人々から構成されている米国社会において、それぞれのグループは自らのアイデンティティを確認するために宗教へと向かう一方で、人々はそれらの宗教に基づいてばらばらになるのではなく、むしろ長期的には他のグループ出身者と知り合い、友人になり、さらには婚姻関係を結んだりして、かなりの程度に交流を深めます。そして、こういった社会的流動性こそが、やがては異なる宗教間の橋渡しをすることを、著者は「アメリカの恩寵」と名付け、実際の米国社会がそういった方向に進んでいることを実証的に示そうと試みています。私は、マルクス主義的なエコノミストですから、経済が下部構造となって文化を規定し、その文化が政治的な傾向を示す、と考えています。もちろん、宗教は第2段階の文化であり、それが、米国においてはティーパーティーなどの政治動向に、もちろん、共和党と民主党の分断に結びついている、と考えています。トランプ政権の成立などを見ても、ここ数年における動向は私の見方を指示していると自負しています。

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次に、川本裕司『変容するNHK』(花伝社) です。著者は朝日新聞の記者であり、なぜか、NHKウォッチャーだったりもします。本書は、そのジャーナリストとしてのNHK観察の結果を取りまとめていますが、特に、ここ数年の籾井前会長の就任とその活動・発言や、政府との距離感や政府の意向の忖度などについて、事実関係とともに考えさせられる材料を提供しています。加えて、放送局としての国民に対する情報提供の在り方も考えさせられます。すなわち、エリート層に対する情報解釈の方向まで含めたニュースの報道や解説やドキュメンタリ番組などを提供しつつ、単なるエリート層向けにとどまらず、一般大衆向けのエンタメ番組の提供まで、放送局は幅広い役割を担う必要がある点も忘れるべきではありません。また、同時に、本書ではほとんど用語として現れませんが、ガバナンスについても議論されています。一般的な民法ではコマーシャルを流して収入としている一方で、NHKでは受診料を徴収することが認められています。コマーシャルは市場における評価を代理する一方で、もちろん、広告主に対しての忖度が働きます。受信料収入で放送番組を作成しているNHKで政権に対する忖度が働くのと、果たして、どちらにどういった長短があるのか、決して単純ではありませんが、もう少し議論なりとも展開してほしかった気もします。加えて、衛星放送に伴って受信料収入が潤沢になったことをもって、NHKの不祥事のひとつの原因との指摘も取り上げられており、事実上の国営とはいっても、いち放送局がここまで肥大化するのが適当なのかどうか、私は疑問を持ちます。すなわち、JRやNTTのように単純に地域で分割するのが適当とは決して思いませんが、放送のチャンネルごとにいくつかにNHKを分割するという見方も成り立つように見えるところ、そういった視点は本書の著者にはないようです。ただ、海外の同種の放送局との対比はそれなりに説得力あります。例えば、英国BBCには解釈ある一方で、NHKは解釈なしの生の情報を流しているとか、これもBBC幹部の発言で、政党政治の目的と放送局の目的は異なる、といったあたりです。視聴者目線としては、裏方の編成などのエラいさんばかりではなく、現場の記者やキャスターについて女性ばかりが取り上げられていた気がします。まあ、私の気のせいかもしれません。岩田明子記者が安倍官邸に食い込んでいるというのは、それはその通りでしょうし、ジャーナリストとしては悪くないような気もしますが、本書ではなぜか奥歯にものの挟まったような取り扱いしかなされていません。他方で、章まで立っている国谷裕子キャスターは「クローズアップ現代」で官房長官に対して否定的な立場からのインタビューをして降板につながった点を指摘しています。また、有働アナウンサーも取り上げられていました。いずれにせよ、受信料収入で成り立っていて、予算が国会で議論されるNHKなのですから、従来からそれなりの政府への遠慮や忖度はあったことと私は想像していますが、前の籾井前会長の特異なキャラクターが生み出した1冊と受け止めています。

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次に、楊継縄『文化大革命五十年』(岩波書店) です。著者は中国新華社出身のジャーナリストです。本書は著者の大作『天地翻覆』を編集し直したものだそうです。タイトル通り、1966年から毛沢東の死や4人組の逮捕・失脚までの約10年間続いた中国におけるプロレタリア文化大革命について論じています。もちろん、中国共産党自身が1981年6月の11期6中全会で採択した歴史決議、すなわち、「毛沢東同志が発動した『文化大革命』のこれらの左傾の誤った論点は明らかにマルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国の具体的実践を結び付けた毛沢東思想の道からはずれており、それらと毛沢東思想とは完全に分けねばならない」との指摘だけで終わるハズもなく、近代史でもまれに見るような国家的な大混乱を引き起こしています。このプロレタリア文化大革命について、著者は3つのグループないしプレイヤーを設定し、毛沢東、造反派、官僚集団のの三角ゲームであったとし、毛沢東が紅衛兵などを扇動しつつ官僚集団を粛正するためには造反派を必要とし、逆に、この文化大革命が毛沢東の意図した範囲に収まらずに、暴走した結果、秩序を回復するためには官僚集団を必要とした、と結論しています。短くいえばそうなんですが、こういった考察を3部構成として、文化大革命の進行、その後のポスト文革の後処理、特に毛沢東死後の4人組の逮捕と失脚、そして、50年の総括に当てています。文革さなかの酸鼻を極めた死刑の処刑、特に、処刑される者が最後に発する声を防止するための驚くべきやり方など、一般大衆の中の犠牲者の像が明らかにされるとともに、もちろん、大きなターゲットとされた劉少奇や林彪の考えや行動を跡付けています。ポスト文革の後処理については曹操の故事を引きつつ責任追及をあいまいにするような論調が出た点を紹介しつつ、文革終了の大きな起点となった毛沢東の死去の後の中国の政治的な継承と混乱について分析を加えています。そして、「中体西用」として、中国的な体を西洋的な用で運用する、すなわち、権力の抑制均衡と資本の制御のための有効な制度は立憲民主制度であると結論しています。もちろん、今さら指摘するまでもなく、文化大革命を発動した毛沢東の動機はたんン位劉少奇の排除だけではありえませんし、また、発動した毛沢東にすら制御できなくなり、暴走した文化大革命のムーブメントを鎮めて秩序を取り戻すには官僚組織のシステマティックな活動が必要であり、その結果として、官僚組織の頭目である鄧小平の権力奪取の一因となったのは理解できるところです。いまだに、中国国内では正面から文化大革命に向かい合うことができないでいる現時点で、それなりの貴重な事実関係のコンパイルではなかったかと私は受け止めています。ただ、結論としての権力の抑制均衡のための立憲民主性、というのはやや物足りません。

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次に、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』(白揚社) です。著者はリスボン出身で、現在は米国南カリフォルニア大学の研究者であり、専門分野は神経科学や神経医学です。英語の原題は The Strange Order of Things であり、2018年の出版です。かなり難しい進化生物学の専門書です。私は半分も理解できたとは思えません。本書は3部構成であり、第1部では生物の進化に従って、生命の誕生から神経系が発生するまでが概観され、第2部では神経系が高度に発達することにより、心や感情や意識などの生物の精神的な働きが描写され、第3部では生物たる人類が構成する社会における文化や経済やその他の社会的な活動のマクロの社会学が語られます。そして、その根本となっているのがホメオスタシスです。本書では冒頭の方で「恒常性」と訳され、「平衡」や「バランス」といった概念に注目しつつ、本書では、単に生存を維持するのみならず、生存に資するようなより効率的な手段の確保と繁殖の可能性の両方を意味する繁栄を享受し、生命組織としての、また生物種としての未来へ向けて自己を発展させられるよう生命作用が調節される、といった働きが重要であるとする。そして、生命体の調節は非常に動的であるものの、進化の過程で人類だけに備わった高度に発達した脳の働き、という従来の進化生物学的な考えを否定し、ホメオスタシスに支えられた単細胞生物に始まる生命現象全体を通して、心や意識や感情などを位置づけます。例えば、細菌は環境の状態を感知し、生存に有利な方法で反応し、その過程では相互のコミュニケーションもあると主張し、はすでに知覚、記憶、コミュニケーション、社会的ガバナンスの原点が見られると指摘しています。ですから、よく、我々エコノミストに対して「経済学中華思想」という、なかなかに正しい指摘や、あるいは、非難が寄せられることがありますが、本書では正々堂々と生物学中華思想を展開しています。人間が高度に発達した脳をもって心や意識や思考を持つ例外的な存在である点は否定しないものの、こういったホメオスタシスに基づく生物としてのはtら期は単細胞生物の時代から備わっていたと主張するわけです。ですから、これらのホメオスタシスの働きをもって、パーソンズ的な社会学は解釈されるべきであるし、サブプライム・バブル崩壊後の金融危機や景気後退なども一連の生物学的な根拠がある、と指摘します。本書を通読した私の解釈によれば、感情や意識などはホメオスタシスの心的表現であり、身体と神経系の協調関係が意識の出現をもたらし、ここで生れた意識や感情などをはじめとする心の働きが人間性の現われである文化や文明をもたらした、ということになり、ひいては、芸術・哲学・宗教・医療などのあらゆる文化・文明をいかに動的であるとはいえホメオスタシスという生物的現象に帰すことができる、という主張です。そして、こういった視点から人工知能(AI)についても議論の射程に入れつつ、決して悲観的ではなく、生物的進化の流れの中で解決できる課題、と考えているような感触を私は受けました。ただ、繰り返しになりますが、専門外の私にはかなり難しい読書でしたので、間違って読んでいる部分もかなりありそうな気がして、ここまで堂々と読書感想文を書くと少し怖い気もします。

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次に、山内マリコ『あたしたちよくやってる』(幻冬舎) です。著者は、『ここは退屈迎えに来て』でデビューした話題の小説家であり、私も決して嫌いではなく、何冊か読んでは読書感想文をアップしています。本書では、Short Story と Essay と Sketch の3種類のカテゴリーの文章が集められており、それぞれに異なるフォントを使っています。なぜか、Short Story だけには扉のページがあったりもします。初出が明示されていないのですが、どこかで発表した短い文章に、いくつかは書下ろしを入れて単行本にしたのではないか、と私は想像しています。著者ご本人は1980年生まれですからアラフォーなんですが、本書の視点はアラサーのような気がします。私のような還暦を過ぎた男性にはなかなかむつかしくて付いて行けない女性のファッション・アイテムもありますが、こういった軽快な文章は私も嫌いではありません。職業や、年齢や、結婚や、ファッションまで含めて、いろんな観点から女性を語った短編+エッセイ集です。 ドラえもんの登場人物で構成しながらもドラえもん自身は登場せずしずかちゃんを中心とする短編の「しずかちゃんの秘密の女ともだち」、そして、京都の喫茶店文化を綴るエッセイ「わたしの京都、喫茶店物語」、などが私の印象に残っています。いつもながら、特にこの作品はタイトルからもうかがえる通り、とても強く現状肯定的でありながら、時には自分自身を否定して新しい自分探しを始めようとし、それでも、自分のオリジナルに返っていく主人公の人生について、所帯じみていながらも軽やかに進める山内マリコの筆致を私はは評価しています。おそらく、私には書けない種類の文章だと直感的に感じています。ただ、純文学に近い小説であるにもかかわらず、所帯じみているのも事実です。もっと浮世離れしている部分があってもいいような気がします。もちろん、ファッション・アイテムを買い求めるにはお金が必要ですし、異性や同姓とのおつきあいにも出費は避けられません。あるいは、女性の場合はお付き合いの出費は抑えられるのかもしれませんが、男性の負担は少なくありません。エコノミストだったころの所帯じみた発想かもしれませんが、著者の作品に登場する主人公も著者自身の実年齢に合わせて、すこしずつ年齢層が高くなっているような気がしないでもありませんし、今後の年齢とともに社会で果たすべき役割や責任や何やが重さを増す可能性が高い中で、軽やかな著者の作品に現れる女性主人公が、あるいは新境地を切り開く際に登場させる可能性ある男性主人公が、どのようなステップを踏んで進化して行くのかが楽しみです。

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最後に、小倉紀蔵『京都思想逍遥』(ちくま新書) です。今朝の朝日新聞朝刊の読書欄で取り上げられていました。著者は我が母校京都大学教授であり、哲学研究者です。そして、本書のタイトル通りに、京都をそぞろ歩きます。ただ、京都といっても広いわけですから、著者のいう「京の創造性臨界ライン」、すなわち、京都頭部の比叡山から始まって、大雑把に京大や吉田神社あたりから伏見稲荷や深草くらいまでのエリアとなります。本書 p.49 の地図で示されいる通りです。この地域的な特徴に、著者の留学先であったソウルの韓国や朝鮮半島を重ね合わせたり、あるいは、これも著者の趣味の藤原定家の歌を引用したりしつつ、その思想的あるいは芸術的な背景を探ります。いくつか、面白い視点は、やはり、平安京を開いた桓武天皇の血筋にある朝鮮半島の視点です。でも、他方で、和辻哲郎が「古今和歌集」よりも「万葉集」を高く評価した、などといった新年号「令和」の選定にも合致した現時点の時代背景を先取りした視点も紹介されたりしているのはなかなかの先見性だと私は受け止めました。著者の専門領域である京都大学の哲学者は、経済学者と違って、綺羅星のごとく存在するわけですが、何といっても西田幾多郎にとどめを刺します。その西田教授にも大いに関係する哲学の道とか、逍遥するのは京大生だけではありません。哲学者としても、西田先生をはじめとして、西谷啓治先生た田辺元先生などはドイツ学派、すなわち、ドイツ観念論、中でもヘーゲル哲学に根ざしていた一方で、『「いき」の構造』の九鬼周造先生はフランス学派、ベルクソンを必要とした、などといったペダンティックな議論は、とても京都思想にふさわしい展開ではないかと私は思います。本書にも登場する梶井基次郎の短編「檸檬」の八百卯は私が京大生のころにはまだありました。まあ、丸善はなかったですが、そういった舞台装置がまだ雰囲気を残していました。また、井上先生の『京都ぎらい』への言及もありますが、少し物足りません。井上先生は京都バブル、あるいは、かなり不当な京都プレミアムに対する疑問を呈しているわけですが、それを商家としての杉本家だけに矮小化するのはどうか、という気もします。さらに、疑問点をもう2点だけ上げておくと、京都や関西にある在日朝鮮人に対する差別はもちろん考えさせられる点ですが、著者の留学先というのはともかくとしても、日本人間の差別、すなわち、部落差別についての言及がないのは少し疑問です。最後に、京都を逍遥するとすれば先斗町あたりから祇園は欠かせません。まさに、著者のいう「京の創造性臨界ライン」のど真ん中に位置しているにもかかわらず、また、五条楽園には言及しているにもかかわらず、どうして祇園を抜かしたのか、積極的な理由があるなら明示すべきですし、ついうっかりと忘れたのであるなら、迂闊にもほどがあると思います。
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2019年04月13日 (土) 11:57:00

今週の読書は経済書や経営書をはじめとして古いミステリ短編集まで計7冊!

今週の読書は、経済書や経営書をはじめとして、幅広く完全版として復刻された古典的なミステリ短編集まで含めて、以下の通りの計7冊です。本日午前に図書館回りをすでに終えており、来週も数冊の読書計画となっています。

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まず、 守口剛/上田雅夫/奥瀬喜之/鶴見裕之[編著]『消費者行動の実証研究』(中央経済社) です。著者たちは経済学を専門とするエコノミストというより、むしろ、マーケティングの分野のビジネス分析の専門家です。消費者の選択というより、消費行動がマーケティングによってどのような影響を受けるか、という分析を集めた論文集です。消費者行動は外部環境の影響を受けながら常に変化しているわけなんですが、ICT情報技術の発展に伴って、ハードウェア的に高性能かつ携帯性に優れたデバイスなどが普及するとともに、ソフトウェア的にSNSなどで情報が画像や動画などとともに拡散するなど、消費者の情報取得行動やそれに基づく選択や購買行動は大きな変化を遂げてきています。同時に、このような情報技術の進展と消費者行動の変化は、企業のマーケティング活動といった実務にも大きな変革を促してきたところであり、消費者行動とそれに対応する企業のマーケティング活動が大きく変化し続けている現状において、消費者行動の実証研究に関連する理論や分析手法を整理すべく、計量的な分析も加えつつ、さまざまな消費行動への影響要因を分析しようと試みています。ただ、本書でも指摘されているように、コトラー的に表現すれば、行動経済学や実験経済学とはマーケティングの別名ですから、実務家が直感的に感じ取っていることを定量的に確認した、という部分も少なからずあります。もっとも、企業活動にとっての評価関数が、場合によっては、企業ごとに違っている可能性があり、株価への反映、売上げ極大化、利益極大化、あるいは、ゴーン時代の日産のように経営者の利便の極大化、などもあるのかもしれません。いずれにせよ、エコノミストたる私から見て違和感あったのは、あくまで、本書の視点は消費者行動をコントロールすることであり、しかも、企業サイドから何らかの企業の利益のためのコントロールであり、日本企業が昔からの「お客様は神様」的な視点での企業行動とはやや異質な気がしました。ある意味で、欧米正統派経営学的な視点かもしれませんが、消費者視点に基づく顧客満足度の達成ではない企業目的の達成というマーケティング本来の目的関数が明示的に取り上げられており、グローバル化が進む経営環境の中で、従来の日本的経営からのジャンプが垣間見られた気がします。実務家などでは参考になる部分も少なくないものと考えますが、情けないながら、私には少し難しかった気がします。

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次に、ロビン・ハンソン & ケヴィン・シムラー『人が自分をだます理由』(原書房) です。著者はソフトウェア・wンジニアと経済学の研究者です。英語の原題は The Elephant in the Brain であり、2018年の出版です。英語の原題は "The Elephant in the Room" をもじったもので、くだけた表現なら「何かヘン」といったところでしょうか。ですから、私はこの邦訳タイトルは、あまりよくないと受け止めています。ということで、繰り返しになりますが、著者2人はいずれも心理学の専門家ではありませんが、本書は進化心理学の視点からの動機の持ち方に関する分析を展開しています。すなわち、本書 p.11 の図1にあるように、何らかの行動の動機として美しい動機と醜い動機があり、美しい動機でもって言い訳しつつ、他人だけでなく自分自身も欺いている、というのが本書の主張です。かつて、経済学の分野でもウェブレンのいう衒示的消費という説が提唱されたことがあり、すなわち、人に見せびらかす要素が消費には含まれており、使用価値だけで消費者行動が説明できるものではない、ということです。典型的には、「インスタ映え」という言葉が流行ったところですし、例えば、単に美味しいというだけでなく、見た目がよくて写真写りもよく、スマホで写真を撮ってインスタにアップしてアクセスを稼ぐのがひとつの目標になったりするわけです。それはそれで、なかなか素直な動機なんですが、それを自分すら偽って合理的なあるいは美しい動機に仕立て上げるというわけです。消費は本書10章で取り上げているんですが、同様に、芸術、チャリティ、教育、医療などの分野を取り上げています。邦訳タイトルがよくないよいう私の感触を敷衍すると、教育などはエコノミストの間でもシグナリング効果と呼ばれ、基礎的な初等教育の読み書き算盤なともかく、高等教育たる大学を卒業下だけで、ここまでの所得の上乗せが生じるのは教育と学習の効果というよりは、むしろ、大学進学のための勉強をやり抜く粘り強さとか、あるいは、学習よりむしろ大学での人脈形成とかの価値を認める、という部分も少なくないと考えられています。特に、本書は米国の高等教育を念頭に置いているんでしょうが、日本のように大学がレジャーランド化しているならなおさらです。ゾウさんが頭の中にいて、「何かヘン」なわけです。

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次に、佐藤俊樹『社会科学と因果分析』(岩波書店) です。著者は東大社研の社会学研究者であり、社会科学の中でも経済学とは少し異なる気もしますが、副題にあるようなウェーバー的な視点からの因果論を展開しています。本書にもある通り、極めてシロート的にウェーバーの因果論、すなわち、適合的因果構成については、ウェーバーと同時代人であるものの、架空の人物であるシャーロック・ホームズの考え方が思い起こされます。つまり、何らかの結果に対して原因となる要素が網羅的に列挙された上で、それらの原因候補について考察を巡らせ、可能性のない原因候補を消去していった上で、最後に残ったのが原因である、とする考え方といえます。ただ、ミステリの犯人探しならこれでいいのかもしれませんが、実際の社会的な事象に対する原因の考察についてはここまで単純ではありません。そして、私にとってウェーバー的な視点といえば、本書ではp.378だけに登場する「理念型」、あるいは、現代社会科学でいえば、モデルにおける因果関係が重要な出発点となります。おそらくは、歴史上で1回限りのイベントである結果に対して、その結果を生ぜしめるに至ったモデルの中で、複数の原因候補があり、しかも、原因と結果が一義的に規定されるとは限らず、同時に原因でもあり結果でもある、というリカーシブな関係があり得る場合、それを現実の複雑な系ではなくモデルの中の系として、ある意味で、単純化して考え、相互作用も見極めつつ因果関係を考察しようと試みたのがウェーバー的な方法論ではなかったか、と私は考えています。経済学の父たるスミス以来、経済学では明示的ではないにせよ、背景としてモデルを考えて、その系の中で因果関係を考え、政策的な解決策を考察する、という分析手法が徐々に確立されて、一時的に、どうしようもなく解決策の存在しないマルサス的な破綻も経験しつつ、ケインズによる修復を経て、経済モデルを数学的に確立したクライン的なモデルの貢献もあって、経済学ではモデル分析が主流となっています。これは物理学と同じと私は考えています。ただ、現時点までの経済学を考えると、ビッグデータと称される極めて多量の観察可能なサンプルを前にして、どこまで因果関係を重視するかは、私は疑問だと考えています。おそらく、ビッグデータの時代には相関関係が因果関係よりも重要となる可能性があります。すなわち、一方的な因果の流れではなく、双方向の因果関係でスパイラル的に原因と結果が相互に影響しあって動学的に事象が進行する、というモデルです。ただ、こういったビッグデータの時代にあってもモデルの中の系で分析を進め、可能な範囲で数学的にモデルを記述する、という方向には何ら変更はないものと私は考えています。その意味で、ウェーバー的な因果関係の考察はやや時代錯誤的な気もしますが、別の意味で、アタマの体操としてのこういった考察も必要かもしれません。

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次に、豊田長康『科学立国の危機』(東洋経済) です。著者は三重大学学長を務めた医学分野の研究者です。本書では、研究成果を権威あるジャーナルに掲載された論文数で定義した上で、論文数とGDPや豊かさ指標は正の相関を持ち、科学立国によりGDPで計測した豊かさが伸びる、としてそのための研究成果たる論文数の増加の方策を探ろうと試みています。OECD.Statをはじめとするかなり膨大なデータに当たり、さまざまなデータを駆使して我が国の科学技術研究の現状、そして、その危機的な現状を打開するため、決定的な結論として、研究リソースの拡充、すなわち、研究費の増加とそれに基づく研究員の増加が必要との議論を展開しています。なお、本書の主たるターゲットは医学や理学工学など、いわゆる理系なんですが、経済学・方角、あるいは心理学などの文系も視野に入れています。ということで、私自身も地方大学の経済学部に日本経済論担当教授として出向の経験があり、科研費の研究費申請などの実務もこなせば、入試をはじめとする学内事務にも汗をかいた記憶があります。研究については、ほとんどが紀要論文であり、本書で研究成果としてカウントされている権威あるジャーナルに掲載された論文には含まれないような気もしますが、査読付き論文も含めて20本近くを書いています。その私の経験からしても、研究はリソース次第、あるいは、本書第3章のタイトルそのままに「論文数は"カネ"次第」というのは事実だろうと考えます。もちろん、一部に、いまだに太平洋戦争開戦当時のような精神論を振り回す研究者や評論家がいないわけではありませんが、研究リソースなくして研究成果が上がるハズもありません。本書でも指摘しているように、我が国の研究に関しては「選択と集中」は明らかに間違いであり、むしろ、バラマキの方が研究成果が上がるだろうと私も同意します。これも本書で指摘しているように、我が国における研究は大企業の研究費は一流である一方で、中小企業や大学の研究費は三流です。でも、その一流の大企業研究費をもってしても、多くののノーベル賞受賞者を輩出してきたIBM基礎研究所やAT&Tベル研究所に太刀打ちできるレベルにないのは明白です。最後に2点指摘しておきたいと思います。すなわち、まず、因果の方向なんですが、本書では暗黙のうちに研究成果が上がればGDPで計測した豊かさにつながる、としているように思いますし、私も基本的には同意しますが、ひょっとしたら、逆かもしれません。GDPが豊かでジャカスカ金銭的な余裕あるので研究リソースにつぎ込んでいるのかもしれません。でも、これは研究成果を通じてGDP的な豊かさに結実する可能性も充分あるように思われます。次に、歯切れのよい著者の論調の中で、p.47図表1-14に示された我が国における国立研究機関の研究費のシェアの大きさについては、原子力研究などにおける高額施設でフニフニいっていますが、私の知る限りで、国立の研究機関、研究開発法人はかなりムダが多くなっています。もちろん、はやぶさで名を馳せたJAXAのような例外もありますが、NEDOやJSTなどはお手盛り研究費でムダの塊のような気がします。

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次に、マリー=クレール・フレデリック『発酵食の歴史』(原書房) です。著者はフランスのジャーナリストであり、食品や料理に関するライターでもあります。フランス語の原題は NI CRU, NI CUIT であり、直訳すれば、生ではなく、火も通さず、といったところでしょうか。2014年の出版です。副題に Historie とあるので、日本語タイトルにもついつい「歴史」を入れてしまったんでしょうが、ラテン語系統では歴史よりも物語なんでしょうね。読書の結果として、それほど歴史は含まれていないと私は受け止めています。本書は3部構成であり、第1部で古代からの発酵食品と文明とのかかわり、第2部で具体的な食品を取り上げた発酵食品のそれぞれ個別の例を紹介し、第3部で発酵食品を通して現代社会の問題を投げかけています。特に最後の第3部では、食べ物が画一的均質な工業製品として供給され、効率的にカロリー補給ができる食品として、いわば、味も素っ気もない無機質な食品ではなく、スローフードとして食事を楽しみ、コミュニケーションを図る食事のあり方まで含めて議論を展開しようと試みています。発酵食品ということで、酵母が糖などを分解するわけで、典型的にはアルコールを含有するお酒ということになります。西洋的にはビールとワインとなりますが、私は正しくはエールとワインだと考えています。そして、エールとビールの違いはホップにあります。要するに、エールにホップを加えた飲み物がビールだと私は考えています。アルコール含有飲料は、本書にもあるように、俗っぽくは楽しく陽気に酔いが回るとともに、トランス状態に近くなって神に近づくかもしれない、と思わせる部分もあります。発酵食品は微生物が活躍しますので、火を加えると発酵が停止しますから、各国別では、強い火力でもって調理することから、ピータンなどの例外を除いて、中国料理がほとんど登場しません。火の使用をもって人類の進化と捉え、調理の革命と考える向きも少なくないんですが、本書では真っ向からこれを否定しているように見えます。また、各国別の食品に戻ると、日本料理では大豆から作る発酵食品である味噌・醤油・納豆とともに、何といっても、京都出身の私には漬物が取り上げられているのがうれしい限りです。京都では、しば漬けとともに、全国的にはそれほど有名ではないんですが、酸茎をよく食べます。今度の京都土産にいかがでしょうか。本書を読んでいると、他のノンアルコールの飲み物でもコーヒーや紅茶など発酵させた飲み物はいっぱいありますし、欧米の主食であるパンはイースト菌で発酵させますから、発酵食品ではない食品を見つけるほうが難しいのかもしれません。ただ、発酵と腐敗が近い概念として捉えられている可能性は本書の指摘するように、そうなのかもしれませんが、毒物を発酵により解毒することもあるのも事実で、そこまでいかなくても、渋柿を甘くする働きも発酵であり、ペニシリンまで言及せずとも、いろんな応用が効くのが発酵であるといえるかもしれません。

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次に、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS/第二次惑星開発委員会) です。著者は京都出身で立教大学をホームグラウンドとする文化・文芸評論の研究者です。本書は、タイトル通りに解釈すれば、ウルトラマンを切り口に戦後サブカルチャーを解釈しようと試みているようですが、間口はさらに広く、ウルトラマンだけでなく特撮一般に切り口を広げるとともに、戦後サブカルだけでなく戦争当時からのマンガなどのサブカルも含んだ構成となっています。というのは、オモテの解釈で、実は、そこまで広げて論じないと本1冊になならないんだろうと私は見ています。でも面白かったです。ウルトラマンのようなテレビ、あるいは、映画もそうなんでしょうが、こういった動画を論じようとすれば、本の速読のようなことはムリですから、時間の流れの通りにすべてを見なければならないんですが、研究者でそこまで時間的な余裕ある場合は少ないんではないかという気もします。でも、見てるんでしょうね。本書でも論じているように、デジタルなCGが現在のように十分な実用性を持って利用される時代に至るまで、すなわち、アナログの世界では、融通無碍なアニメーションの世界、現在のNHK朝ドラのアニメータの世界と対比して、いわゆる実写の世界があり、その間のどこかに特撮の世界があったんだろうという気がします。そして、実写の世界には「世界の黒沢」を始めとして、本書でも取り上げられている大島渚や小津安二郎のような巨匠がいますし、アニメの世界でも、戦後の手塚治虫からジブリの宮崎駿、もちろん、ポケモンやドラえもんも含めて、世界に通用する目立った作品が目白押しなんですが、特撮だけはウルトラマンの円谷英二が唯一無二の巨峰としてそびえ立っていて、独自の世界を形成しているというのも事実です。私のように60歳近辺で団塊の世代に10年と少し遅れて生まれでた世代の男には、プロ野球とウルトラマンといくつかのアニメが少年時代の強烈な思い出です。その意味で、本書のウルトラマンを軸としたサブカル分析には、かなりの思い入れがあったりします。

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最後に、C. デイリー・キング『タラント氏の事件簿』(創元推理文庫) です。著者は19世紀末に生まれて、すでに定年退職した私が生まれる前に亡くなっています。要するに古い本だということです。ただ、この邦訳の完全版は昨年2018年1月の出版です。私は古いバンを読んだことがありますが、この完全版には新たな作品も収録されています。ということで、収録されている短編は、「古写本の呪い」、「現われる幽霊」、「釘と鎮魂曲」、「<第四の拷問>」、「首無しの恐怖」、「消えた竪琴」、「三つ眼が通る」、「最後の取引」、「消えたスター」、「邪悪な発明家」、「危険なタリスマン」、「フィッシュストーリー」の12話です。いわゆる安楽椅子探偵に近いタラント氏が日本人執事兼従僕のカトーとともに登場します。でも、カトーがなぞ解きに果たす役割はほとんどありません。資産家で働く必要のない、いかにもビクトリア時代的なタラント氏ではありますが、ニューヨーク東30丁目のアパートメントに住む裕福な紳士であり、舞台は米国ニューヨークとその近郊です。どこかの短編に年齢は40台半ばと称していたように記憶しています。その意味では、事件の舞台だけはクイーンの作品に似ていなくもありません。なお、ワトソン役は出番の少ない執事兼従僕のカトーではなく、最初の事件の当事者で家族で親しくなるジェリー・フィランが務めます。設定はオカルト的あるいは心霊現象的なものも少なくなく、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズのような感じですが、語り手のフィランが結婚するなど、時間が着実に流れるのがひとつの特徴かもしれません。もっとも、ホームズのシリーズでもワトスンも結婚しましたので、同じことかもしれません。
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2019年04月07日 (日) 14:28:00

先週の読書はいろいろ読んで計7冊!!

何だかんだといって、経済書は少ないながら、今週もそれ相応に読んだ気がします。先週だけはポッカリとあいた無職の時期で、今週に入って明日からは働きに出る予定です。週4日、逆から見て、週休3日制のパートタイムですが、オフィスワークでそれなりのお仕事です。ただ、公務員の定年間際の年功賃金が最高レベル近くに達した時期と比べれば、お給料は大きくダウンします。仕方ないと考えています。

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まず、平沼光『2040年のエネルギー覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は東京財団の研究員であり、外交・安全保障、資源エネルギー分野のプロジェクトを担当しているそうです。本書では、やや大袈裟なタイトルなんですが、2040年までをスコープとして、タイトルにある「覇権」は忘れて、今後のエネルギー転換の方向を探ろうと試みています。まず、そのエネルギー転換の原因なんですが、温暖化防止対策としての二酸化炭素排出規制となっています。私のような1970年台の2度の石油ショックの記憶ある世代では、エネルギー問題とは石油問題であり、供給サイドの産油国側の要因、そして、需要サイドの先進国ないし新興国側の要因、これに加えて、金融面での金利や通貨供給の要因などを思い浮かべますが、この先は気候変動要因が大きく立ちはだかり、従って、石炭削減と再生可能エネルギーの大幅な普及を目指すこととなります。本書では再生エネルギー価格の大幅な低下により、2040年には欧州では再生可能エネルギーのシェアが50%のレベルに達することが目標とされており、天然ガスはともかく、電力用途としての石油は終焉すると見込まれています。これに加えて、エネルギー消費の一定の部分を占める自動車についてもその将来像が示されており、電気自動車は家庭向けの巨大な蓄電装置になる可能性を示唆しています。私は再生可能エネルギーの技術的な面、例えば、本書でも取り上げられている海洋温度差発電についてはサッパリ判りませんし、再生可能エネルギーの価格低下もすっ飛ばしますが、少なくとも、少し前までの我が国における太陽光発電などの再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度における価格が高すぎて、日本では再生可能エネルギーへの転換が進んでおらず、従って、国際規格の策定などで遅れを取り、ビジネスになっていない、というのはその通りと感じています。他方で、かなり進んでいる欧州に対して、本書でも米国は不確定要素が大きいと指摘し、トランプ政権になってからシェールガスやシェールオイルを含めた化石燃料の支配を通じて世界エネルギーのコントロールを覇権を目指すという形で、やや時代錯誤的ながら方針が定まったと受け止めているようです。なお、本書では原子力発電についてはほとんど言及がありません。最後に、私が大学で勉強した古い古いマルクス主義的な技術論からすれば、西洋の覇権を決定づけた産業革命におけるもっとも大きな発明のひとつが蒸気機関であることはいうまでもなく、さらにそれを敷衍すれば、要するに、水を沸かして上記にしてタービンを回し、その動力をそのまま、あるいは、電力に変換する、というのがマルクス主義的な視点でいうところの資本主義的なエネルギー観です。ですから、水を沸騰させるのは石炭・石油といった化石燃料を用いたニュートン力学的な方法であっても、核分裂や核融合を応用した相対性理論的な方法であっても、水を沸騰させてタービンを回す、という点については変わりありません。それに対して、水を沸騰させてタービンを回す部分をすっ飛ばす太陽光発電こそが、未来の社会主義的なエネルギーである、といった議論をしていた記憶があります。まあ、違うんでしょうね。

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次に、ダグラス・マレー『西洋の自死』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストであり、「スペクテーター」の編集者だそうです。英語の原題は The Strange Death of Europe であり、2017年の出版です。ということで、ある意味、とても注目の論考です。すなわち、欧州を代表する形で、難民受け入れや移民に強烈に反対の論陣を張っているからです。本書の著者は、欧州への難民はサブサハラのアフリカからが多いとされている一方で、そのほとんどをイスラム教徒と同定しているようで、しかも、政治的な難民かどうかは疑わしく、「経済的な魅力が主たる誘引」(p.452)と指摘します。そして、キリスト教的な欧州におけるイスラム教徒のテロ行為をはじめとし、国家財政的にも負担となっている点を強調しています。本書の論理にはやや疑問に感じる部分があるものの、私も基本的には移民受け入れには懐疑的です。純粋経済学的には、昨年2018年3月11日にボージャス教授の『移民の経済学』を取り上げていますので、「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった。」というフレーズに象徴される通り、要するに、移民と競合し代替的な低賃金労働者などは移民受け入れによって損をする一方で、その低賃金労働力を豊富に使える企業経営者などは得をするわけです。ただ、本書ではイスラム教徒受け入れという宗教的な軋轢をかなり重視しており、私の場合はお隣の人口大国中国からの移民により、宗教的な面は抜きにしても日本的な何かが壊される恐れを直感的に感じています。そして、本書の著者とかなり似通った視点は、あくまで、大量移民の受け入れが国内的な混乱をもたらす可能性があるわけで、国民のコンセンサスに基づいて政府が移民受け入れをキチンとコントロールすれば、「同化」という言葉を使うかどうかは別にしても、それなりに問題の発生を防ぐことができそうな気もします。ただ、繰り返しになりますが、移民受け入れで損をするグループと得をするグループがありますし、一般的には後者のほうが政治的なパワーを有していると考えるべきですから、移民受け入れは格差の拡大につながりかねないデリケートな問題であることも確かです。その意味で、本書でも指摘しているように、国内の政治家などのエリート層やオピニオンリーダーが移民受け入れに賛成し、本書でいうところの大衆は懐疑的な視線を送る、というのは経済的にもその通りなんだろうという気がします。また、私の歴史観からして、世界経済のグローバル化は不可逆的な進み方をしており、従って、貿易の自由化や開放度の向上、資本移動の自由化とともに、労働力の移動たる移民も増加するのであろうと受け止めていますが、本書の著者はp.103からのパートでこの見方に反論しているところ、この部分については私はイマイチ理解がはかどりませんでした。最後に、中野博士が本書冒頭に解説を寄せています。実は、大きな声ではいえませんが、この20ページ余りに目を通しておけば、本書の80%ほどは読んだ気になれるんではないか、と私は考えています。いずれにせよ、耳を傾けるべきひとつの見識だと私は受け止めています。

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次に、スティーヴン・ホーキング『ビッグ・クエスチョン』(NHK出版) です。著者は現時点で最も著名な宇宙物理学者といえ、昨年2018年3月に亡くなっています。21歳の時に発病したALSで余命5年といわれたことを考え合わせると、76歳の天寿を全うしたといえます。英語の原題は Brief Answers to the Big Questions であり、2018年の出版です。ということで、タイトル通りに大きな疑問に著者が答えようと試みています。すなわち、神は存在するのか? 宇宙はどのように始まったのか? 宇宙には人間のほかにも知的生命は存在するのか? 未来を予言することはできるのか? ブラックホールの内部には何があるのか? タイムトラベルは可能なのか? 人間は地球で生きていくべきなのか? 宇宙に植民地を建設するべきなのか? 人工知能は人間より賢くなるのか? より良い未来のために何ができるのか? の10の疑問です。私は不勉強にして、すでにホーキング博士が明らかにしている回答もあるようで、それも知りませんでしたが、私から見て興味深かったのは、7番目と8番目の問いに対して、ホーキング博士は従来から向こう1000年の間に人類は地球を出て宇宙に新たな生活の場を求めるべきと提言しているようです。その理由は何点かあり、かつて恐竜を絶滅させたような小惑星の衝突の可能性、人口の増加により地球のキャパを超過する可能性、さらに、核戦争の危機を上げています。ガンダムを見る限り、シャアの目論見の原点にある小惑星の落下衝突の可能性は否定しようもありませんし、恐竜が絶滅したというのも歴史的な事実なのかもしれませんが、1000年の間に起こるかどうかは別問題であり、そもそも、元エコノミストの私には1000年というタイムスパンは余りに長過ぎて、何とも想像のしようもありませんが、斯界の権威の従来からの変わらぬ発言ですから、そうなのかもしれないと思ってしまいます。それから、人工知能AIについては、私の懸念を共有しているような気がします。コンピュータが人類の知能や知性をエミュレートすることはそう難しいことではないと考えるべきです。その場合、AIが人類に接する態度は、我々人類はイヌ・ネコなどのペットを飼う際を大きくは異ならない可能性が軽く想像されます。ただ、神については、ホーキング博士はすべての事実は神抜きで科学的に説明可能、として神の存在や必要性を否定していますが、私は何か不可解な現象に遭遇した際に神の存在を仮定することにより個々人の心に安らぎをもたらすのであれば、神の存在を否定する必要性は小さいと考えています。いずれにせよ、ホーキング博士は人類の到達したもっとも上質の知性を体現する一人でしょうから、本書の主張が全て正しいと考えないとしても、こういった視点を共有しておくことは教養人として意義あることではないかと私は考えます。

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次に、ヴァイバー・クリガン=リード『サピエンス異変』(飛鳥新社) です。著者は、英国ケント大学の研究者であり、専門は環境人文学だそうです。英語の原題は Primate Change であり、2018年の出版です。本書は歴史を分割した5部構成であり、第1Ⅰ部がBC800万年からBC3万年、第Ⅱ部がBC3万年からAD1700年、第Ⅲ部が産業革命から20世紀初頭の1700年から1910年、第Ⅳ部がそれ以降の現時点まで、第Ⅴ部が将来、ということになっており、出版社の宣伝文句では、15,000年前の農耕革命、250年前に英国で始まった産業革命、そしてスマホ・AI・ロボットなどの現代文明、などの人類が生み出した文明の速度に、人類の進化が追いついていないんではないか、という問題意識から始まっているらしいということで借りて読んだんですが、どうも違います。冒頭で、現代人はミスマッチ病で死ぬ確率が高いというお話から始まり、ミスマッチ病とは、要するに、進化の過程も含めてとはいえ、肉体条件と損周囲の環境とのストレスに起因する病気のことのようです。まあ、周囲の環境条件に進化が間に合わない、ということであれば広く解釈できるのかもしれません。でも、私のような健康に無頓着な人間からすれば、健康オタクのお話が続いていたような気もします。ということで、具体的に判りやすいのはギリシア時代からであり、奴隷が生産活動に励む一方で、本書では貴族とされていますが、私の認識に従えば、市民はスポーツに励んで健康を維持するわけです。しかし、本書第Ⅲ部が対象とする産業革命期には劣悪な労働条件と石炭などに起因する環境汚染により、本格的に一般市民の健康が悪化し始めます。それでも、伝染性疾患への対応から寿命が伸びる一方で、産業化が進んで農作業から向上やオフィスにおける椅子に座った仕事が大きく増加して、これが健康を蝕む、というのが著者の認識です。やや、一般の理解とは異なります。すなわち、私なんぞは、戸外の農作業に比べて、オフィスの事務作業はいうまでもなく、工場の流れ作業であったとしても、屋根のある雨露のしのげる環境での椅子に座った仕事というのは、健康にいいんではないか、そのために寿命が伸びたんではないか、と考えているんですが、著者は認識を異にするようです。第Ⅳ部冒頭の章番号なしのパートが著者の考えをエッセンス的に示している気がするんですが、私にようなシロートとはかなり理解が異なっています。米国で肥満や糖尿病が多いのは、私はかなりの程度に食生活に起因すると考えているんですが、著者は座った生活が原因と考えているようです。理解できません。エピローグで、著者の考える対策がp.299に示されていて、それは政府が運動不足と肥満対策に取り組む、ということのようです。それが出来ないからムダにヘルスケアに財政リソースをつぎ込んでいる現実を著者は認識できていないようで、少し悲しくなりました。最近の読書の中でも特に無意味に近かった本のような気がします。

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次に、更科功『進化論はいかに進化したか』(新潮選書) です。著者は、分子古生物学を専門とする研究者であり、本書ではダーウィン進化論の歩みをひも解き、今でも通用する部分と誤りとを明らかにしようと試みています。まず第1部で、著者はダーウィン進化論のエッセンスは、進化+自然選択+分岐進化、の3本柱だと主張し、歴史的に見て、特に2番めの自然選択が人気なかったと指摘しています。まあ、今西進化論が共存を重視するのに対して、ダーウィン進化論は競争重視と解釈する向きもあるようですから、ひょっとしたらそうなのかもしれません。その上で、私のような元エコノミストにはかなり自明のことなんですが、ダーウィン的な進化とは進歩とか改良といった価値判断を含んでいるわけではないとの議論を展開します。当然です。私の理解では、環境の変化に対してショットガン的に何らかの突然変異的な形質の変化が生じ、その中で環境にもっとも適した自然選択が生き残る、ということになります。ただ、著者は生存バイアスについては少し配慮が足りないような気もします。すなわち、環境に適して生存が継続した生物については、生きていても化石になっても、かなり多くの観察記録が残るとしても、適していなかった変化を遂げた個体の観察例は多くない可能性が高いのは忘れるべきではありません。第2部では、生物の老化、ないしは死ぬことについて考察を進め、老化して衰えるというよりは、子孫の残すことができる年齢でピークを迎える、と考えるほうが正しい、という趣旨のようです。それはその通りということで、還暦を超えて定年退職した私も少し考えさせられるところがありました。鳥と恐竜についても、やや生存バイアスについて考えが不足しているような気がしました。鳥は生存している一方で、恐竜はジュラシックパークで復活させなければ死滅してしまったわけですから、恐竜から鳥への進化、と一般的に考えられるのは一定の理由があります。もちろん、著者の指摘するように、鳥と恐竜は同時に共存していたというのが正しいんでしょうが、そこは生存バイアスを考慮すべきです。最後の直立二足歩行で自由になった手の使い方については、私も大いに同意します。ただ、単婚と結びつけるのはやや不自然な気もしました。進化生物学は物理学などとともに、科学としての経済学との類似性が指摘される学問分野であり、なかなか興味深い読書でした。

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最後に、アミの会(仮)編『怪を編む』(光文社文庫) と『毒殺協奏曲』(PHP文芸文庫) です。実は、アミの会(仮)編集の本としては、文庫本はすべて読んでいると思います。なお、順番からすれば、上の表紙画像の後の方の『毒殺協奏曲』はアミの会の2冊めに当たるんですが、文庫本になって最近の出版ですので読んでみた次第です。ある意味で当然でしょうが、登場人物に薬剤師が多かった気がします。『怪を編む』の方はほぼほぼ1年前の出版なんですが、ショートショートのホラーっぽい短編集で、霊的ながら現実的でない怖さとものすごく現実に即した怖さのどちらも楽しめます。2冊めの『毒殺協奏曲』は、女性作家の集まりではなかったかと記憶しているアミの会の編集本に2冊めにしていきなり男性作者が入っています。『毒殺協奏曲』はタイトル通りに毒殺の作品を集めており、本格ミステリとはいい難い作品ばかりですが、それなりに楽しめます。『怪を編む』は5部構成で、AREA ♥、AREA ♣、AREA ♦、AREA ♠、AREA ★となっています。私には後ろの方のAREA ♠とAREA ★の作品が印象的でした。
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2019年03月30日 (土) 11:30:00

今週の読書は注目の統計に関する学術書から新版のミステリまで計9冊!

今週は、まさに定年退職直前で仕事があろうハズもなく、時間的な余裕がたっぷりありましたし、そろそろ官庁エコノミストではなくなることから、経済に限定せずに幅広い読書に努めたこともあり、いろいろと古典的なミステリなんぞも読んで、以下の通りの計9冊です。

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まず、国友直人・山本拓[編]『統計と日本社会』(東京大学出版会) です。編者や著者は経済統計の研究者や専門家であり、第Ⅲ部の公的統計改革では官庁統計担当感やその経験者などの実務家も執筆に加わっています。ということで、今国会での大きなトピックとして、厚生労働省作成で賃金動向などを調べている毎月勤労統計の不正問題がありますが、とても皮肉なことに、不正問題に相応して統計の重要性がクローズアップされています。私も総務省統計局に出向して消費統計の担当課長を務めた経験がありますし、その何台かあtの高2が本書第11章の執筆に当たったりしていますが、統計が着実にそのマニュアルに基づいて公表されている際には、注目はされても問題にはならないものですが、やや不思議な動きを示して、さらに、それが統計作成上の不正に基づく可能性があれば、今回のような大問題になるわけです。役所の仕事はある麺でそういった部分があり、着実かつ堅実の遂行されているのが当然であって、問題がある方がおかしい、ということなんでしょう。ただし、インフラとしての統計については、中等教育から高等教育にかけて統計が生徒や学生にリテラシーを高めるべく教えられ、政府統計を担う組織や職員が必要に応じて整備される、等々の前提がキチンと整えられないと機能するわけはありません。ITCHING技術の進歩により、ハードウェアはムーアの法則に従った指数関数的な伸びを示し、ソフトウェアについてもそれに従った進歩を遂げている現在、教育現場での若い世代のリテラシーの涵養や、公的部門たる政府や業界団体などでそれにふさわしい体制整備が行われていないと、データをプロセスした結果たる統計の作成や利用が進むハズもありません。私はその意味で、身近な地方公共団体における統計主事の必置義務が、行政改革の一環として廃止された1989年(だと思うんですが、やや自信がありません)の制度改革の影響は無視できないと思いますが、残念ながら、それに言及した分析は本書では示されていません。また、公的統計に限らず、マーケティングにおけるデータにしても、本書で指摘されているようなビッグデータの高解像度、高頻度、多様性豊かなデータの利用が限られたインターネット企業にしか出来ない事実も、独占との関係においてもどこまで許容すべきか、との議論も興味あるところです。Googleのチーフエコノミストに転じたハル・ヴァリアン教授がマッキンゼイ・クォータリーで「今後10年でセクシーな職業は統計家である」と発言したのは2009年で、私が統計局に出向していたのは2010~13年の3年弱ですが、そのころは、まだ統計の重要性については萌芽的な認識しかありませんでしたが、統計偽装問題を経て、統計の我が国における重要性が改めて認識された現在、本書の指摘はもっと国民各層に共有されて然るべきではないか、と私は考えています。

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次に、末廣昭・田島俊雄・丸川知雄[編]『中国・新興国ネクサス』(東京大学出版会) です。著者・編者は東大社研のグループではないかと私は想像しています。改革開放路線を取ってからの中国の経済発展はめざましく、GDPで測った経済規模ではすでに我が国を凌駕し、購買力平価ベースでは米国を上回っている可能性すらあります。その中国が共産主義というイデオロギーではなく、経済、特に貿易や投資という実利の世界で新興国や途上国とのリンケージを強めていて、米国の世界的な覇権を揺るがしかねない、という認識が広まっています。ただ、19世紀的なパクス・ブリタニカや20世紀のパクス・アメリカーナと違って、中国は世界の政治経済の秩序、特に自由と民主主義と多様性を許容する世界秩序の擁護者ではなく、自国、あるいは、中国共産党の利益のためであるという点は忘れるべきではありません。本書ではそこまで明確に指摘しているわけではなく、ほのかに示唆しているだけですが、本書冒頭でツキディディスの罠として、新興リーダーたる中国が旧来リーダーである米国に対抗して戦争になる可能性を指摘しているのは、ややミスリーディングです。一昔前の我が国と同じで、現在の中国は、経済的な利益の追求はしても、政治的あるいは軍事的な覇権を求めているとは私にはとても思えません。ですから、本書でも視点は経済面に集中し、貿易と投資による新興国や途上国と中国との関係を明らかにしようと試みています。ですから、本書でも指摘しているように、アイケンベリーのように米国の構築してきた世界的な制度的秩序が継続するという見方とイアン・ブレマーのようにGゼロという多極化世界が現出するか、という2つの見方は相反するのではなく、経済的にはブレマーの見方が成り立つ一方で、政治外交・軍事的にはアイケンベリーに軍配が上がると考えるべきです。そのうえで、本書の指摘するように、経済的には中国の台頭により米国一極集中ではなく多極化した経済構造になりつつありますが、中国の貿易は一昔前の我が国と同じで水平分業的な構造となっており、途上国や他の新興国からエネルギーや原材料を中国が輸入し、逆に、中国からは工業製品を輸出する、という貿易構造が形成されています。さらに、投資面でもアジアインフラ投資銀行(AIIB)などをテコとして、途上国や新興国のインフラを整備するために、中国の「2つの過剰」、すなわち、貿易黒字の裏側で積み上がっている外貨準備の過剰、そして、共産主義に基づく計画経済が解消を目指した生産過剰、特に鉄鋼やセメントなどのインフラ整備に用いられる素材の生産過剰を解消するための新興国・途上国とのリンケージを中国が築こうとしている可能性を忘れるべきではありません。

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次に、ゲアリー・スミス『データは騙る』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア州のポモナ・カレッジの研究者で専門は経済統計学のようです。英語の原題は上の表紙画像にも見られるように Standard Deviations であり、直訳すれば標準偏差ですから、データの散らばりの度合いということになります。2014年の出版です。ということで、最近の国会論戦では厚生労働省の毎月勤労統計の改ざんが頻繁に取り上げられており、アベノミクスの成果として統計を改ざんして賃金が上昇したように見えかけたのではないか、との質疑をよく見かけました。私も統計局の消費統計担当課長として3年近く出向していましたが、統計に問題がないとはいいませんが、悪質な改ざん、意図的なごまかしはなかったと断言できます。ただ、本書では、そういった意図的なごまかしの手法についていくつか取り上げ、さらに、データ情報の誤った解釈に基づく誤った結論の導出に警鐘を鳴らしています。繰り返しになりますが、著者のご専門である経済分野とともに、スポーツや医療のデータも豊富に実例として引用し、身近で判りやすい例がいっぱいです。特に、本書冒頭で強調されている通り、何らかのパターンを見出してしまう傾向には注意が必要です。コイントスでオモテが出続けているので、次もオモテだろうと考える順張りの発想も成り立てば、そろそろウラが出るとする逆張りの発想も飛び出します。しかし、ホントのところはランダムにオモテウラが出ているのであって、コイントスには決してパターンなどは存在しない、という正解を忘れている場合が多いのは確かです。そして、理論なきデータとデータなき理論の両方は危ういと指摘し、データから理論モデルを組み立てる重要性を論じています。つまるところ、科学と言うんは自然科学にせよ、社会科学にせよ、先週取り上げた『FACTFULNESS』ではないんですが、ファクトたる事実を観察して、それらに共通するパターンを見つけ出し、その理論モデルの適合性を追加データで検証する、というのがもっとも基本となるわけですから、何らかのパターンの想定は必要なんですが、そのパターンに無理やりに合致するデータを集めようというのは統計の改ざんにつながりかねない思考という気もします。パターン化の誤謬のほかにも、交絡因子や生存バイアスなどなど、陥りやすいデータの見方の失敗例を数多く取り上げています。ただ、データ分析の専門家に意図的にデータをミスリードするように見せられたら、それを見破るのはそう簡単ではないと実感しました。

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次に、三浦信孝・福井憲彦[編著]『フランス革命と明治維新』(白水社) です。編著者は東大西洋史学科系統の研究者であり、本書は昨年2018年が明治維新150年であったことを記念して開催されたシンポジウムの発表論文を取りまとめたものです。そのシンポジウムにおいては、明治維新とフランス革命を対比させる試みがなされ、フランスからも研究者を招聘しています。ということで、明治維新を考える際に常にトピックとなるのは、明治維新がブルジョワ革命であって、権力が新興の産業ブルジョワジーに移行したため、社会主義革命が次のステップとする労農派の立場を正しいと考えるのか、それとも、明治維新は封建制の払拭に失敗した不徹底なブルジョワ革命であって、社会主義革命に先立って民主主義革命が必要であり、それに引き続いて社会主義革命が起こる、とする二段階革命説に立つ講座派を正しいと見るか、です。本書では明確に前者の労農派の立場に立っています。一方、何度かこのブログでも書きましたが、寄生地主制の広範な残存やそれがための戦後GHQによる農地改革の実行などに見られるように、私は講座派の見解を支持しています。ですから、かなり根本的な部分で、本書と私は明治維新に対する見方が違っています。それを前提としつつも、まずまず、明治維新とフランス革命に関する対比はよくなされている気がします。例えば、対外的なプレッシャーに関してですが、明治維新は黒船来週に対応する国内政治の動向がヒートアップした結果として生じており、明らかに対外要因に基づく革命である一方で、フランス革命については国内要因に基づき、いわば、自然発生的に生じていますが、逆に、その革命の動きが対外的な軋轢を生じてナポレオンによる対外遠征の原因となっています。日本でも、明治維新後に征韓論が台頭し、西郷が政府から離れるきっかけになったことは歴史的に明らかですが、最終的には西南戦争により国内問題として処理されています。明治末期の日清戦争や日露戦争は、鎖国を廃止して対外開放を実行したという意味のほかは明治革命とは直接の関係なく、むしろ、植民地獲得のための帝国主義戦争ともいえます。加えて、日本でも徳川期の士農工商が四民平等に取って代わったわけで、いわゆる二重の意味で自由な市民が誕生しています。さらに、日本においては封建的な重層的な土地所有を地租改正により一気に一掃したわけで、その裏側で担税力ある寄生地主の存在を許したわけです。ただ、産業資本は育つ余地に乏しく、地租改正などによる税収を上げた上で、その財政的な余裕を生かして、八幡製鉄のような官営工場を設立して産業資本の育成に努めた、この土地所有における強固な寄生地主の存在と産業資本の不足が明治維新をして不徹底なブルジョワ革命ならしめた、ということなんだろうと私は考えています。本書の見方とは異なります。念の為。

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次に、木畑洋一『帝国航路(エンパイアルート)を往く』(岩波書店) です。19世紀後半の明治維新を経て文明開化と呼ばれる富国強兵策を展開する明治期の日本に対して、まさに、パクス・ブリタニカと呼ばれるこの世の春を謳歌していた英国の帝国航路、すなわち、英国からフランスのマルセイユ、エジプトのスエズ、アラビア半島のアデン、インドないしセイロン、シンガポールから香