2019年02月16日 (土) 17:11:00
今週の読書は特に印象的な『NEW POWER』をはじめとして計7冊!
まず、橘木俊詔『定年後の経済学』(PHP研究所) です。著者はご存じ京都大学を定年退職したエコノミストであり、専門は労働経済学などのマイクロな経済分析です。私は少しだけながら面識があることから、きっと、もっと仕事がしたいというワーカホリックな著者の意向を強く反映して、定年制に対する著者ご本人の否定的な見解が満載されているのではないかと想像していたのですが、決してそうではありませんでした。書き出しこそ、海外では日本のような定年制は年齢による差別と受け取られる、とかで始まっているものの、定年制攻撃はなされていません。もっとも、上の表紙画像の帯に見られるような従来からの主張である格差論を展開しているわけでもなく、最終第6章を別にすれば、むしろ、淡々とタイトル通りの定年後の生活や諸制度を経済学を援用しつつ分析ないし解説しています。ただし、マクロもミクロも経済制度や経済現象を単独で取り出しても仕方ないところがあり、定年制についても雇用制度全体の中で考える必要があります。その点で、本書はやや私とは視点が異なり、通常の理解のように、終身雇用ないし長期雇用の中で若年期間は生産性を下回る賃金が支給され、逆に、中高年齢層には生産性を上回る生活給的な賃金が支払われる、という高度成長期に確立した我が国特有の雇用慣行と併せて考える必要があります。すなわち、長期雇用慣行の下では、どこかで賃金上昇をストップさせるか、そうでなければ、雇用そのものをストップするしかないわけです。本書では、退職金が長期雇用や生産性に比較した賃金支払と関連付けて論じられていますが、タイトルである定年制とは関係する議論はありません。本書でも引用されているラジアー教授による、我が国長期雇用との関連の仮説は、退職金ではなく定年制とリンクしていると考えるべきです。加えて、我が国の労働市場や社会保障制度において、かなり常軌を逸して恒例世代に有利で若年世代に不利な制度や慣行が成立してしまっています。先ほどの生産性と賃金の関係もそうですし、政治的な力関係で決まりかねない社会保障についてはもっとそうで、高齢世代をやたらと優遇する制度設計になっています。それを断ち切って若年世代の雇用を促進するため、私は年齢による差別であっても定年制の存在意義はあるものと考えています。ただ、平均的な日本国民と比較しても勤労意欲が決して高くない私ですら働き続け8日と考えざるを得ない背景には所得を得ねばならないという悲しい現実があります。その視点も本書では希薄ではなかろうかという気がします。
次に、要藤正任『ソーシャル・キャピタルの経済分析』(慶応義塾大学出版会) です。著者は、国土交通総研の研究者であり、出版社からしても、かなりの程度に学術書に近いと考えるべきです。ということで、定義が今ひとつはっきりしないながら、『孤独なボウリング』で有名なパットナム教授による集合行為問題、すなわち、相互の信頼性とか、互酬性とかの人と人とのつながりを肯定的に捉えようとする姿勢、その集合体としてのソーシャル・キャピタルについて、定義と定量化を考え、また、いかに形成されるか、あるいは、世代間で継承・共有されるか、地域社会に有意義なフィードバックが及ぶか、などなどにつき、国際機関などでの研究をサーベイしつつ、また、可能な範囲でフォーマルな定量分析を試みています。伝統的な経済学では、企業は利潤を極大化しようとすますし、個人または家計は効用を最大化しようとします。そして、古典派経済学ではスミスのいうような神の見えざる手により、個々人が慈悲心ではなく利己的な効用最大化を図ることにより、社会的な分業体制のもとで市場が最適な資源配分の基礎となる、ということになっています。でも、ケインズがそのマクロ経済学で明らかにしたように、景気循環は市場経済では緩和されませんし、ナッシュやゲーム理論化が明らかにしたように、何らかの協力の下でゲーム参加者互いの効用をもっと公平に、あるいは、大きくすることも可能です。本書では、伝統的な経済学から外れはするものの、ソーシャル・キャピタルについて地域経済との関係を主に分析を進めています。ただ、まだ未成熟な研究分野ですので、やや勇み足のように先走った分析も見られます。例えば、幸福阻止表のようにGDPを否定する、とまでいわないものの、一定の代替性を認めておきながら、ソーシャル・キャピタルと1人当りGDPで代理した豊かさを回帰分析しようと試みたりしています。でも、一昨年ノーベル経済学賞が授賞された行動経済学や実験経済学などのように、合理性豊かな経済活動を前提にするのではなく、より根源的な人間性に根ざした経済分析として、まや、幸福度指標などとともに、国際機関での研究も盛んですし、今後の注目株かもしれません。
次に、ジェレミー・ハイマンズ & ヘンリー・ティムズ『NEW POWER』(ダイヤモンド社) です。著者は、本書の著者は、amazonのサイトでは「ハーバード大、マッキンゼー、オックスフォード大などを経て、現在は、ニューヨークから世界中に21世紀型ムーブメントを展開しているハイマンズと、約100か国を巻き込み、1億ドル以上の資金収集に成功したムーブメントの仕掛け人であり、スタンフォード大でも活躍するティムズ。」と紹介されています。判る人には判るんでしょうが、ニューパワーとは縁遠い公務員の世界に長らく働く私にはよく判りませんでした。ということで、パワーをバートランド・ラッセルに基づいて「意図した効果を生み出し能力」と定義し、統制型からシェア型へ、競争からコラボへ、また、プロからアマへ、などなど、BREXITのレファレンダムやトランプ米国大統領の当選などのあった2016年あたりを境にして、ここ2~3年で大きく変化した新しい世界のルール、法則を解明しようと試みています。オールド・パワーとニュー・パワーを対比させていますが、前者が非効率とか、あるいは広い意味でよくないとか、また、前者から後者にこれからシフトする、とかの単純な構図ではなく、両者のベストミックスの追求も含めて、いろんなパワーや影響力の行使のあり方を考えています。いろんな読み方の出来る本だという気がしますが、私のようなエコノミストからすれば、あるいは、そうでなくても広く一般的にビジネス・パーソンなどは、企業における組織や企業行動のあり方とか、イノベーションを生み出す源泉とか、経済活動について古典派経済学的な家計の効用最大化や企業の利潤極大化に代わる経済社会の新たなあり方、などの方向付けとして読まれそうな気がします。強くします。繰り返しになりますが、今年に入ってまだわずかに1か月半ながら、ひょっとしたら、今年もマイベストかもしれません。長々と私ごときが論評するよりも、ハーバード・ビジネス・レビューのサイトに原書の解説で "Understanding 'New Power'" と題して掲載されている記事から2つの図表、邦訳書ではp.51とp.65の本書のキモとなる図表2つを引用しておきます。これで十分ではないかと思います。

邦訳書にはないんですが、下の図表には、執務室のオバマ大統領はオールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいていたのに対して、選挙活動中のオバマ大統領はニューパワーのモデルとニューパワーの価値観に立脚していた、とされる点です。また、邦訳書でもフォーカスされていますが、アップルはiPhoneなどを出しているにもかかわらず、オールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいて企業活動を行っていると著者は理解しているようです。どちらも、そうかもしれません。
次に、小路田泰直・田中希生[編]『明治維新とは何か?』(東京堂出版) です。著者は、私の専門外でよく判らないんですが、どちらも奈良女子大学の研究者です。基本は、歴史学の視点から、明治維新150周年を記念して奈良女子大学で開催された公開セミナーの講演録となっています。ただ、歴史学だけでなく、政治学の視点も大いに入っているような気がします。ということで、編者の1人による冒頭の「刊行にあたって」では、明確に明治維新に対する講座派的な見方が否定されています。その上で、本書が皇国史観に基づいているとは決して思えませんが、本居宣長や平田篤胤などのいわゆる国学に則った見方が引用されたり、神話にさかのぼった天皇観が示されたりと、私にはとても違和感ある明治維新観の書となっている気がします。私は大学のころには西洋経済史のゼミに属していましたが、いわゆる労農派的なブルジョワ民主主義革命でなく、明確に講座派的な見方が明治維新については成り立つと考えています。すなわち、特に、私の見方では、土地所有制度と農業経営において、英国的な借地と地代支払いに基づく資本主義的な農業経営ではなく、さすがに土地緊縛や領地裁判権はないとしても、封建制の残滓を大いに残した前近代的な特徴を持った不完全な資本主義制度の成立であったことは明らかです。ですからこそ、戦後のGHQによる大きな改革の中に農地開放と労働民主化が含まれていた、と考えるべきです。まあ、そのひとつの結論として二段階革命論というのがあるわけですが、それはともかく、我が国経済史学界で最大の影響力を持つ大塚史学でも日本の民主主義の担い手として自由で独立した市民社会が形成されていたとは見なされておらず、少なくとも、経済史の分野では、明治維新が不徹底なブルジョワ民主化であったという評価は、かなりの程度に確立された見方だという気がします。神話や国学にさかのぼった解釈が主を占める本書が、その明治維新の本質をどこまで解明できたのか、私には大きな疑問が残ります。
次に、浅古泰史『ゲーム理論で考える政治学』(有斐閣) です。著者は早稲田大学の研究者であり、タイトルは政治学となっていますが、実は、著者のアカデミック・コースは一貫して経済学分野だったりします。それはともかく、読んでいるわけではないものの私が知る限り、政治学に関するゲーム理論のテキストはジェイムズ・モローによる『政治学のためのゲーム理論』(勁草書房)であり、邦訳書は割合と最近ここ2~3年の出版ですが、原書が1990年代なかばとかなり古く、ゲーム理論の最近の伸展を見るにつけ、本書のような数式でキチンと表現されたフォーマルなモデルを扱うテキストも必要という気がします。ただし、ゲーム論のモデルとしてそれほど数学表現されておらず、どこまで有効なのかは専門外ながら、はなはだ心もとない気もします。すなわち、単なる仮の数字を当てはめての確率計算に終止している気もしないでもありません。それから、著者の元のホームグラウンドが経済学ですので、かなり集合的なモデル表現になっている気がします。すなわち、経済学のモデルでは、一方で、企業部門ではたったひとつの企業がすべての財を生産し、かつ、すべての労働を需要しつつ、他方で、家計部門は代表的なたったひとつの家計がすべての財を購入・消費しつつ、かつ、すべての労働を供給する、と考えればそれでこと足りる気もしますが、政治学ではそれなムチャに単純化しすぎたモデルだろうと私は考えます。すなわち、本書冒頭の選挙についても、単純化されたモデルとはいえ、投票先として与党と野党、投票する国民というか、有権者としてコアな与党支持者とコアな野党支持者と浮動票、くらいの分類は必要ではないか、と考えるのは私のようなシロートだけなんでしょうか。加えて、政治学では何らかの利益・不利益の分配に関する調整が行われる過程を分析する場合も多そうな気がするところ、そういったモデルは扱われていない気がします。まあ何と申しましょうかで、物理学を数少ない例外として、こういった専門の経済学以外の学問分野のモデル分析を勉強するにつけ、私のようなエコノミストから見てもモデルの欠陥が目につくんですから、他の分野の専門家が経済学のモデルを見ると、いい加減で現実適用性が低い、と受け止めているんだろうなあ、という気がしてしまい、我と我が学問分野を振り返って反省しきりとなってしまいます。
次に、稲田雅洋『総選挙はこのようにして始まった』(有志舎) です。著者は社会学の研究者であり、かなりのご年配です。第6章まである構成をお考えだったようで、議会と立憲政治をテーマにしたかったようですが、年齢や体調との関係で4章構成の第1回総選挙に的を絞ったようです。そして、本書もまた、コミンテルンの32年テーゼを基とする講座派的な第1回総選挙やその結果として成立した議会=衆議院を「地主の議会」とする従来からの支配的な見方に対するチャレンジと志しています。ということで、まず、おさらいですが、1890年の第1回総選挙、すなわち、衆議院議員選挙は25歳以上成年男子が選挙権と非選挙権をもつんですが、制限選挙であり、直接国税15円以上の多額納税者に選挙権も被選挙権も限定されていました。それも地租なら1年、所得税なら3年の継続期間が必要でした。衆議院議員がほとんど地主とされる根拠のひとつですが、著者はこれを否定します。すなわち、第1章では候補者に焦点を当てて、特に民権派議員の中にとても地主とは思えない中江兆民とかが入っており、その背景に、こういった民権派活動家などを議会に送り出したい人々が土地の名義や税金支払人の名義を書き換えて、これらの民権派活動家などを財産家に仕立て上げた、という点を第1章で強調しています。候補者ご本人が議員になりたかった場合をwin-win型と命名し、そうでない場合を勝手連型と本書では名付けています。そうかもしれません。その上で、第2章では、選挙の有権者にスポットを当てて、今でいうところの「1票の格差」を取り上げ、確かに、地方では地主が有権者が多くを占めていたものの、1票の格差からそれほど多くの議員を選べず、地主が少なかった都市部の1票の重みの方が10倍近い格差でもって議員を選ぶウェイトがあった、と結論づけています。さらに、第3章では当選人の分類を試み、第4章では民権派の圧勝に終わった栃木県と、逆に、民権派がほとんど当選しなかった愛知県をケーススタディとして取り上げています。まあ、いろんな考えから、コミンテルン32年テーゼに従った講座派的な歴史観に異を唱えるのは判らないでもないですが、本書で明記しているように、ソ連の崩壊をもってコミンテルンのテーゼがすべて無効になったとする考え方には私は同意できません。明治維新に対する歴史観も含めて、明治期の土地所有制が半封建的な寄生地主であったことは明白ですし、第1回総選挙の結果の衆議院議員が地主でなくても、講座派の歴史観を否定することにはつながらないような気がします。
最後に、山内一也『ウイルスの意味論』(みすず書房) です。著者は獣医学が基本ながら、北里研究所や東大で研究者を務めたウイルスの専門家です。ただ、90歳近い年齢ですから、現役ではないのかもしれません。本書は月刊「みすず」の連載を単行本化したものです。ということで、単なるウイスルに関する書物ではなく、なかなかに難解な「意味論」がついています。ただ、私は専門外ですので、どこまで理解したかは自信がありませんが、「意味論」の部分は関係なくウイルスに関して現時点で、どこまで科学的な解明がなされているかを明快に取りまとめています。まず、本書でもひとつのテーマとなっているんですが、ウイルスは生命あるいは生物であるのかどうか、NASAの地球外生命探査計画で定義された「ダーウィン進化が可能な自立した化学システム」も援用しつつ、私の理解した範囲では、細胞内にあるときはウイルスは生命・生物であり、細胞外にあるときは無生物、ということになりそうです。もちろん、この生物・無生物の定義の他にも、根絶された天然痘ウイルス、まだ根絶されていないものの、かなり抑え込まれた麻疹ウイルス、などの人間界から閉め出されつつあるウイルス、もちろん、逆に、人間だけでなく昆虫などと共生し何らかの利益をもたらすウイルス、さらに、海中などの水の中に多数存在するウイルスなどなど、私のようなシロートにもそれなりに判りやすいウイルスのうんちく話を詰め込んでいます。通常の理解では、ウイルス=病気、怖くて予防すべき、と考えがちで、おおむね、その通りなんでしょうが、そうでない例外も少なくない点を含めて、いろんなトピックがいろいろと盛り込まれています。まあ、専門外の読書でしたので簡単に切り上げておきます。
2019年02月09日 (土) 10:12:00
今週の読書は本格的な経済の学術書からテレビドラマの原作まで計8冊!
まず、柳川範之[編]『インフラを科学する』(中央経済社) です。著者は東大経済学部の研究者であり、本書は国土交通省のスポンサーで出版されているようです。第1部は主として交通インフラの経済分析を実証的に行っているんですが、私のような不勉強なエコノミストには理解が難しいくらいのレベル感です。第2部の都市の経済学とともに、ほぼほぼ学術書のレベルであると考えて差し支えありません。ということは、一般的なビジネスパーソンには難しすぎる可能性が高いと私は考えています。ただし、この点については編者や各チャプターの著者も十分に意識しているようで、各章の扉で「本章のねらい」、「本章を通じてわかったこと」、「政策的な示唆・メッセージ」を簡潔に提示し、各章の冒頭と最終節もねらいやまとめになっているため,、何と申しましょうかで、たとえ専門的な予備知識がなくても、この部分だけ立ち読みでもすれば、それなりに本書を理解できた雰囲気になれるように配慮されています。その上、結論がかなり常識的で、定量的な分析にはそれなりに意味あるものの、インフラの効果がプラスかマイナスかくらいは誰にでも理解できるでしょうから、まあ、定量的な分析が肝なんですが、それが判らなくても方向性は直感的に理解できるものと思います。もちろん、定量的な分析でなくても、英国の交通省による広義の経済効果として第1章にあるように、集積の経済、競争促進効果、不完全競争市場における生産拡大効果、雇用改善に伴う経済便益、とかも先進国の事例の勉強にはなります。経済学的ではないかもしれませんが、第2部の都市の経済学もそれなりに興味深かった気がします。EBPM(Evidence Based Policy Making)に関心が集まり、このような定量分析の学術書も出版されているんですが、ただ、その基となる統計データに信頼性なければ定量分析も「絵に描いた餅」です。それから、インフラの経済のもととなる集積の経済はそうなんですが、行き過ぎると混雑の不経済に転化する可能性も否定できません。そのあたりの分析はスポンサーとの関係で割愛されているのかもしれません。
次に、スティーヴン K. ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』(日本経済新聞出版社) です。著者はカリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の政治学の研究者であり、本書冒頭の謝辞に登場し『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著作で有名なエズラ・ヴォーゲル氏の何らかの縁戚ではないかと私は想像しています。よく知りません。上の表紙画像に見えるのとは異なり、英語の原題は Marketcraft であり、2018年の出版です。原題からも明らかなように、日本に限定した分析ではなく、日米を並べて論じています。まず、市場について、市場と政府規制を二律背反的あるいは対立的にとらえるのではなく、古典派経済学の考えるような完全市場というものは存在せず、市場には法と慣行と規範が必要であり、政府はそれらを市場に与えることができる、ということから始まります。その上で、ややステレオタイプな見方という気もしますが、英米の自由市場型経済と日独のような調整型市場経済をモデル化して議論を展開し、実は、調整型市場経済よりも自由市場型経済の方こそ政府の関与が必要と説いています。そして、「失われた20年」とかの日本経済の失敗は、自由市場型経済に移行するための規制緩和や政府関与の縮小が出来なかったからではなく、むしろ、政府関与の増加を含めたマーケットデザインに失敗したためである、と結論しています。もちろん、市場に関与する政府のあり方にはいろいろあって、日本だけではなく米国でもカリフォルニアの電力供給の例を引いて、さまざまな政府によるマーケットデザインの失敗も論じていますし、何といっても最大のマーケットデザインの失敗の結果が過剰なリスク・テイクに起因する2008年のリーマン・ショックであると結論しています。ただ、私のようなエコノミストからすれば、市場というメカニズムは資源配分とともに所得分配の場でもあると考えるべきであり、従来は資源配分は効率を重視して市場に任せた上で、その結果たる所得については政府が再分配を行う、という役割分担だったんですが、ややこの点が混同されているような部分もあります。加えて、私には非常に判りやすくて受け入れやすい分析だったんですが、2点だけ経済学的な論点を提示すると、ルーカス批判や合成の誤謬が生じる可能性を指摘する必要があります。すなわち、政府のマーケットデザインに対して、国民が事前の予想とは異なる反応を示す可能性があるとともに、本書では一貫してインセンティブに対するマイクロな反応を論じていますから、マクロ経済的にマイクロな反応の積み上げが合成の誤謬を生じる可能性も否定できません。ただ、繰り返しになりますが、なかなか日米経済の本質を的確についた政治学者による経済の分析だという気がします。
次に、岩本晃一『AIと日本の雇用』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済産業省出身の研究者です。タイトルにあるAIと雇用については、英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる大きな雇用減少の可能性に関する研究成果と、それを真っ向から否定する米国マサチューセッツ工科大学(MIT)オーター教授の論陣なんですが、本書の著者は圧倒的に後者の論拠によっています。人間の脳をそのままエミュレートするかのようなカートワイツ流の2045年のシンギュラリティは否定される一方で、確かに、ルーティンに基づくお気楽な事務職や定形作業はAIやロボットに取って代わられる一方で、高度なスキルが要求される専門職・技術職で雇用は増加し、さらに、やや不都合な真実ながら、未熟練労働による低スキル職も増加する、という見立てです。そのあたり、本書は6章立てで構成されていて、前半3章の分析は、オーター教授の分析に基づいて、それなりに私も同意する部分が多いものの、後半3章は、どうも日本企業の競争力維持に大きな関心が払われているようで、ややピント外れな気もしました。最後に、本書の著者は鋭くも、私と同じで、ロボットやAIの活用が進めば、雇用とともに分配の問題が重要となり、ベーシック・インカムやロボット税の問題も浮上するといいつつも、本書ではスコープ外とされているようで、そこはやや残念です。まあ、そのほかにも、タイトルにひかれて読んだんですが、MITオーター教授の見方を紹介している以外には、それほど参考になるところはありませんでした。野村総研(NRI)がかなりオックスフォード大学フレイ-オズボーンの見方に肩入れしていますが、経済産業省や経産研はこれに対抗してMITオーター教授の方に肩入れするんでしょうか。私のような部外者からすれば、なかなか見ものかもしれません。
次に、アニンディヤ・ゴーシュ『Tap』(日経BP社) です。著者はニューヨーク大学のビジネス学の研究者です。英語の原題も Tap であり、2017年の出版です。私も著者も合意しているのは、最近のICT技術の発展や特にスマホの登場による経済社会のもっとも大きな変化は生産性向上などの生産現場におけるものではなく、娯楽を含めた消費行動に及ぼした影響に起因します。そして、その消費行動への影響については、エコノミストたちの行動経済学をあざ笑うかのように、マーケターが定量的な分析も含めてキッチリと把握し切っているように私は考えています。上の表紙画像にあるように、ついついスマホで買ってしまう大きな原因は宣伝です。市場とは情報の塊と考えられますから、購入行動を促す情報が実に適切に提供されている、ということもできます。そのモバイル・マーケティングの9つのコンポーネントがp.73に示されています。すなわち、場所、時間、顕著性、混雑度、天気、行動履歴、社会的関係、テックスミックス、そして状況です。購入場所に近い位置に消費者がいれば宣伝効果は上がります。ただ、距離の壁はクーポンの割引率で代替することは可能なようです。そして、必要とする時より早過ぎても、逆に、時間的な余裕がなくても宣伝効果は薄く、タイムリーな宣伝こそ必要です。顕著性というのは検索でヒットした順番であり、パソコンでの検索ではトップともっと低い出現順位でも大きな差はありませんが、モバイルの場合は検索の出現順位が大きくモノをいいます。混雑度については、通勤電車などで適度に混雑していればスマホに逃避する場合もあります。天気はいうまでもありません。温度が高ければビールやアイスクリームの売上に大きな影響を及ぼします。社会的関係というのは判りにくいかもしれませんが、人は1人で買い物をする時よりも2人の時の方が、さらに、3人の時の方が宣伝広告に敏感に反応するらしいです。もっとも、2人の場合が男女のカップルであるときは例外的に宣伝広告に反応しません。まあ、そうかもしれません。ただ、本書の著者もハッキリと書いているように、宣伝広告がすべてではありません。マネーボール分析をしたからといって、ワールド・シリーズで優勝できるわけではありません。言外に、消費者に評価の高い製品作りが必要、とモノ作りの重要性が示されているような気がしました。
次に、照井伸彦『ビッグデータ統計解析入門』(日本評論社) です。著者は東北大学経済学部に在籍する研究者であり、本書は「経済セミナー」に連載されていたシリーズを単行本化したものです。上の表紙画像に見られるように副題は「経済学部/経営学部で学ばない統計学」となっていますので、ついつい借りてしまいました。まず、150ページ足らずのコンパクトな入門編テキストながら、完全な学術書であり、読みこなすにはそれなりの専門性が要求されると考えるべきです。難解な数式もいっぱい登場します。巻末の補論が基礎事項の確認と題されており、確率統計、行列と分散共分散行列そして回帰分析のそれぞれの基礎を展開していますので、この部分にザっと目を通して本書のレベルを確かめた上で取り組むかどうかを考えた方がいいような気がします。ただ、ソフトウェアについてはRを基本にしたパッケージで解説されていますので、Rのユーザであれば取り組みやすい気もします。私も著者のサイトですべてのRのプログラム・コードやCSVに格納されているデータをダウンロードして目を通したり、走らせたりしたわけではありませんが、座学的に本を読んで理解しようとするより、実際にパソコンでプログラム・コードを走らせると理解度が違ってくるのは何度も経験しました。したがって、計量経済学については、理論的なテキストで勉強するよりも、実務的にSTATAやEViewsなどのソフトウェアの解説書で勉強した方が身についた気もします。本書では第2章のベイズ統計に関する部分のハードルが高そうな気がしますが、私なんぞの実務家にしてみれば、第6章あたりのリッジ推定の方が判りやすかったりしました。もっとの、リッジ回帰の拡張版であるLASSO回帰は初めて知りましたので、人生60歳を迎えても、まだまだ勉強する必要があるようで、進歩の速い分野とはいえ、なかなかタイヘンです。
次に、フランチェスコ・グァラ『制度とは何か』(慶應義塾大学出版会) です。本書も出版社から明らかなように学術書です。著者はイタリアのミラノ大学の政治経済学の研究者です。原初はイタリア語ではなく英語であり、原初のタイトルは Understanding Institutions であり、2016年の出版です。ということで、著者は制度について議論を展開しており、本書でもエコノミストとしてノーベル経済学賞を授賞されたノース教授らの制度学派が取り上げられています。制度のタイプとしては、結婚、私有財産、貨幣にフォーカスされており、均衡アプローチとルール・ベースのアプローチの両方について解説されていますが、私の印象では後者に重点が置かれているように感じました。ただ、ルール・ベースのアプローチだけでは、どうしてゲームに加わる参加者がルールに従うかについて説明できないとしており、インセンティブが果たす役割が強調されています。逆に、すべてのゲーム参加者がルールに従った行動をとるという空想を全員が共有して、それを信頼する限り、システムは問題なく機能する一方で、信頼性に欠けるようになればシステムに綻びが生じる、その典型例がサブプライム住宅証券で起こった、と指摘してます。本書で取り上げられているうちでは、エコノミストとしては貨幣、もちろん、fiat money である不換紙幣について着目したんですが、金本位制下の兌換紙幣と違って、現在の不換紙幣は、誰もがアクセプトするという確信の下に流通しています。もちろん、政府が強制通用力を持たせている点も重要ですが、人々の革新の方が重要ではないかと多くのエコノミストは考えています。ただ、本書ではインフレに対する考察が少し弱い気がします。貨幣の流通とインフレについては、本書でも決して無視されているわけではありませんが、例えば、マートン的な自己実現的予言では取り上げられておらず、また、やや要求レベルが高い気もするものの、動学的な考察や分析もあっていいんではないか、と思ってしまいました。繰り返しになりますが、本書もほぼほぼ完全に学術書ですので、私もそれほど十分に理解したとは思えません。読みこなすにはそれなりの素養が求められるかもしれません。
最後に、加藤実秋『メゾン・ド・ポリス』と『メゾン・ド・ポリス 2』(角川文庫) です。ご存じ、TBSで放送中の高畑充希主演のテレビドラマの原作です。小説の原作ベースでは、初刊に5話、第2巻に4話の短編ミステリが収録されています。本書を読んで判る人は判るんでしょうが、人物相関図についてはTBSドラマのサイトで確認しておいた方が手早く理解できるかもしれません。ただ、ドラマでは瀬川草介は買い物コーディネータ、というか、出入りのご用聞きで、よくシェアハウスで油を売っていたりするんですが、原作では主人公の女性刑事ひよりが通うバー ICE MOON のバーテンダーです。また、大きな違いはないのかもしれませんが、ひよりの父はドラマの相関図チャートでは死んだことになっていますが、原作では失踪とされています。ただ、私はテレビドラマの方はほとんど見ていませんので、ストーリーの違いはよく判りません。ということで、難易度の高い事件が発生すると、主人公の女性刑事ひよりが退職警察官が居住するシェアハウス「メゾン・ド・ポリス」を訪問しては、立派に事件を解決する、というのが基本となるストーリーです。シェアハウスのオーナーと管理人と居住者は基本的に退職警察官で、すべて定年退官なんですが、管理人の手伝いの西島秀俊演ずる夏目だけは、準主役級ながら、わけあって50歳と中途で辞職しています。その理由は初刊第3話に初めて登場し、小説では初刊第5話で完結します。しかし、夏目は第2巻でも引き続きシェアハウスに登場し、事件解決に当たります。そして、第2巻では、原作小説で10年前から失踪となっている主人公ひよりの父親の件についても、最終第4話でほぼほぼ解決されます。主人公のひよりの父親の失踪も、準主役の夏目の辞職も、どちらも個人的な恨みつらみや金銭トラブルなどではなく、いわゆる「大きな物語」に起因していることに設定されており、決してなぞ解き主体でフェアな本格ミステリではありませんが、なかなか壮大なストーリー展開が楽しめます。
2019年02月02日 (土) 11:15:00
今週の読書は経済史から小説まで計7冊!
まず、ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(人文書院) です。著者はベルリン自由大学をホームグラウンドとしていた歴史学の研究者であり、経済史にも通じているようです。ドイツ語原題は Geschichte des Kapitalismus であり、2017年の出版です。前近代のころから記述を始めた資本主義の通史なんですが、ボリューム的には極めてコンパクトです。したがって、というわけでもないんでしょうが、産業革命についてはほとんどスコープの対象外となっており、ポメランツの『大分岐』などをチラリといんよすしているだけで、私は少し不満に思っていたりします。マルクス主義的な経済史にも十分通じている印象です。私の考える資本主義とは基本的に近代と同義であり、政治的には個人の基本的人権や自由などを構成要素とする民主主義の定着を見つつ、経済的には奴隷制や農奴制から自由な市民が産業資本家が組織する商工業の企業で賃労働を行う、というものです。その前提としては、スミス的な協業に基づく分業が発達し、現代的な用語を使えば、サプライ・チェーンが高度に発達した中で、賃労働者が資本家の指揮権の下で労働を行い、生産物は商品として流通し貨幣が流通を媒介する中で、貨幣が蓄積された資本に転嫁する、というのが資本主義の語源となるわけです。資本主義の最大の問題点のひとつは景気循環の中での景気後退局面の過酷さであり、それを回避するためにケインズ的な政府の経済への介入が提案されたり、あるいは、もっと徹底して市場による資源配分を停止して生産手段を公有化した上で中央指令に基づく計画経済が志向されたりしてきたわけです。繰り返しになりますが、とてもコンパクトな経済史の通史を目指した本書の弱点のひとつは産業革命ないし工場制製造業の成立について、やや軽視しているように見える点と、さらに、資本主義の歴史を振り返って、その先に何が見えるのか、もはや旧ソビエト的な社会主義や共産主義を見出す経済史家はほとんどいないとは思いますが、いくつかのオプションでも示されていれば、とても大きな課題ながら、私のような読者にはさらによかったような気がしないでもありません。
次に、鈴木裕人・三ツ谷翔太『フラグメント化する世界』(日経BP社) です。著者は2人とも米国のコンサルティング・ファームであるアーサー D. リトルの日本法人のパートナーとなっています。本書では、経済というよりは経営的に国際標準に基づくグローバル資本主義から、それぞれの価値観を大事にするポスト・グローバル資本主義を本書のタイトルであるフラグメント化と捉え、その世界観の中では日本企業が大いに強みを発揮することができると考えられる、といった議論を展開しています。ですから、まず、本書のタイトルである「フラグメント化する世界」とは、コミュニティを基盤とした自律分散型の社会の実現として定義されており、グローバル資本主義の下で世界共通のスケーラブルな世界で大いに称賛されたGAFAではなく、地域や顧客ごとに固有の価値を重視するフラグメント化された世界では、繰り返しになりますが、日本的な経営が脚光を浴びる可能性があると指摘しています。ただ、2030年ころまで時間をかけた以降になる可能性も同時に示唆されています。ということで、その経営的な要素は第5章で展開されており、以下の6つの「脱」で表現されています。すなわち、①脱コミットメント経営、②脱選択と集中、③脱横並び経営、④脱標準化、⑤脱大艦巨砲主義、⑥脱中央集権主義、となります。③と④のように、かなり重複感のある項目もありますが、いかにもコンサル的というか、何というか、こういった概念的な整理とともに、我が国のリーディング産業である自動車と電機、家電と重電の両方を例に、ケーススタディも試みられています。パナソニックやソニーがサクセス・ストーリーを提供している一方で、東芝は半導体と原子力に「集中と選択」してしまい、挙句に粉飾決算に走った、といわんばかりで、私は少し疑問を感じました。電機メーカーの経営状態を見るにつけ、特に韓国勢との国際競争においては、為替の果たした役割がとても大きいように私は感じていますが、それでは経営コンサルの出番はないのかもしれません。私は経営学は専門外もはなはだしく、マクロ経済からいろんな解釈を試みようとする傾向があるのは自分でも理解していますが、少なくとも、経営方針がすべてではない一方で、マクロ経済の景気動向もすべてではない、ということなんでしょう。もちろん、長らくGEの経営者だったウェルチ氏の著書に見える "GE will be the locomotive pulling the GNP, not the caboose following it" くらいの気概は、日本の経営者にも大いに持っていただきたい、とは私も考えています。
次に、ジョン・アーリ『オフショア化する世界』(明石書店) です。著者は英国の社会学の研究者なんですが、すでに2016年3月に亡くなっています。私はこの著者の社会学の本は、『場所を消費する』と『モビリティーズ』を読んだ記憶があり、後者の読書感想文は2015年5月16日付けのブログでアップしてあります。本書の英語の原題は Ofshoring であり、2014年の出版です。ですから、監訳者のあとがきにもある通り、話題になった2016年公刊のパナマ文書などは取り上げられていません。ということで、私は数年前にこの著者の移動に関する本を読んだところでしたので、ついつい、モノやサービスに移動や輸送に引き付けて本書も理解しようとしてしまいました。また、同時に本書も経済学的な金融や生産などの狭義のオフショアリングと違って、レジャー、エネルギー、セキュリティ、から果ては廃棄物まで、とても幅広くオフショア化を展開しています。そして、最後は第10章ですべてをホームに戻す、という章タイトルでオフショア化の巻き戻しを論じています。オフショア化については、本書でも規定している通り、見えにくいところに移動させて税金などをごまかすための手段と狭い意味で考えられていますが、本書のように、地産地消という観点からすれば、私は交易の利得を否定しかねず、やや方向として疑問が残ります。よく知られている通り、体を鍛えて地産地消の質素な生活を送るというのは、実は、ヒトラー・ユーゲントに由来します。また、海外まで含めて遠い距離を移動することによるオフショアリングは、いわゆる海の帝国である英米の得意とするところであり、大陸欧州の独仏のような陸の帝国は、オフショアリングはやや苦手とする傾向があるのが一般的な理解です。こういった背景を考えつつ読み進むと、本書の観点はやや疑問とする部分もありますが、マルクス主義的な見方でなくても、オフショアリングが貧困層や一般家計に対する概念としての富裕層や国民や消費者に対応する概念としての企業に、いいように使われて一般国民から見て何の利益ももたらさない、というのも事実です。そのあたりのバランスを持った議論は必要だと思うんですが、本書は後者の一般国民からの議論を代表しているとの前提で読み進む必要あるかもしれません。
次に、佐藤健太郎『世界史を変えた新素材』(新潮選書) です。著者は医薬品メーカーの研究職も経験したサイエンス・ライターです。医薬や化学が専門分野ということなんだろうと思います。そして、その著者の専門知識が生かされたのが本書といえるかもしれません。しかしながら、化学ではなく経済ともっとも関連深い金から本書は始まります、現在まで世界で採掘された金はわずかにオリンピック・プール3杯分にしかならない、というのに驚きつつ、以下、12章に渡って、陶磁器、コラーゲン、鉄、紙(セルロース)、炭酸カルシウム、絹(フィブロイン)、ゴム(ポリイソプレン)、磁石、アルミニウム、プラスチック、シリコンの順で取り上げられています。金を別にすれば、金属でフォーカスされているのは鉄は当然としても、銀でも銅でも鉛でもなくアルミニウムとなっています。軽い金属ということで独特の位置を占めています。紙は記録のための活用が評価され、化合物としてはゴムは天然人工屋やビミョーなものの、プラスチックとシリコンが注目されています。章別タイトルだけを見ると、セメントは選から漏れているのか、と想像しがちなんですが、炭酸カルシウムのいちコンポーネントとしてちゃんと入っています。それにつけても、やっぱり、私のようなシロートから見て、鉄が素材・材料のチャンピオンなんだろうという気がします。本書ではそのカギは地球上に大量に存在することがポイントと解き明かしています。この週末の新聞報道で、世界鉄鋼協会の記者発表によれば、2018年の粗鋼生産量は世界で4.6%増となり、我が国はインドに抜かれて中国・インドに次ぐ世界第3位の粗鋼生産国となった、といった記事も見ました。それから、私はゴムとプラスチックとシリコンの区別が判然としませんでした。「シリコンゴム」というのもあって、実は、私は週末にはプールで3~4キロほど泳ぐのを習慣にしているんですが、我が家のある区立体育館プールのひとつのルールとして金属を身に着けず泳がねばならない、というのがあって、私は左手の薬指にシリコンゴムの指輪をして泳いでいます。本書では、「シリコンゴム」については、ケイ素=シリコンと炭素を人工的に結合させたものであると解説されています。私のような文系の表現でいえば、ケイ素も炭素もどちらも4つの手で結合できますから、人工的にその結合物を作るのはできそうです。耐熱温度も高そうな気がします。まあ、私のような用途からすれば50度もあれば十分だったりします。タイトルの前半、すなわち、世界史を変えた部分も、決して重点を置かれているわけではないながら、ちゃんと解説されており、それなりに楽しめる読書でした。
次に、河内将芳『信長と京都』(淡交社) です。著者は奈良大学などで研究をしていた歴史家です。上の表紙画像にも見られる通り、「宿所の変遷」をキーワードに織田信長と京都について歴史をひも解いています。冒頭は有名な歴史的事実で始まります。すなわち、織田信長は本能寺の変により京都で死んだ、ということです。本書でも、相国寺や妙覚寺などの宿所が紹介されており、また、もともとの織田家の本拠である岐阜から、ジワリと京都に近づいて安土に城を築いたのは有名な歴史的事実ですが、亡くなるまで織田信長は京都に屋敷、というか、本拠地を持たなかったというのは、改めて、いわれれば、そうかもしれないと気づかされます。京都南部の洛外ながら伏見城を築いたり、醍醐に聚楽第を設営した豊臣秀吉とはかなり違います。江戸期の徳川氏に至っては二条城を京都の本拠としています。加えて、本書でも強調されている通り、織田信長は洛外と上京を焼き討ちしており、京都市民、という表現がこの時代に適当かどうかは別にして、公家や京都市民から織田信長の上洛は恐怖を持って迎えられていたのは、そう難しくなく想像できます。そういった、極めてビミョーな織田信長と集合名詞としての京都との関係が、本書ではかの有名な『言継卿記』などの古文書から明らかにしようと試みられています。ただし、先ほどは、公家と京都市民と書きましたが、朝廷は公家のコンポーネントと見なして、神社仏閣や僧侶などを別にしても、京都にはもうひとつ重要なコンポーネントがあり、それは室町幕府です。織田信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛し、その後、天正元年(1573年)にその足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡したというのが、私のようなシロートの理解ですから、室町幕府については考慮する必要はない、ということなのかもしれません。ただ、織田信長の宿所について、相国寺や妙覚寺などをどのような基準で選び、あるいは、変更したのか、ほとんど史料のない世界かもしれませんが、何らかの仮説なりとも立てて欲しかった気もします。いずれにせよ、織田信長と京都とのビミョーな関係につき、なかなか興味深い読書でした。
最後に、吉田修一『国宝』上下(朝日新聞出版社) です。作者は、ご存じ、我が国でも売れっ子の小説家であり、純文学も大衆エンタメ小説も全方位でこなす作家です。私も大好きな小説家であり、青春物語の『横道世之介』が私のマイベストです。ということで、この作品は、我が家でも購読している朝日新聞に連載されていた小説です。作者の出身地である長崎の興行師のヤクザの倅が大阪に出て歌舞伎の女形になり、もちろん、その後に東京にも進出して、波乱万丈の人生で芸を極めつつ、最後は人間国宝になる、という長崎人の一代記です。繰り返しになりますが、歌舞伎のいわゆる梨園に生きた女形の一代記であり、中学生のころから60代までの50年を有に超える極めて長い期間を小説に取りまとめており、しかも、小説の視点がドラマのナレーションのような「神の視点」で、ストーリーとして触れられすに飛ばされた部分はナレーションで補う、という、この作者には今までなかったのではないかという手法が取られています。このナレーション方式というのは、部分的には、私のような一般ピープルで歌舞伎などの伝統芸能の世界に馴染みのない読者に歌舞伎や梨園の仕来りなどを解説するには、とてもいい手法かもしれませんが、他方で、ややくどい印象もあります。それから、この作品に私は深みを感じなかったんですが、その大きな要因は登場人物が梨園に極めて近い人物に限られているからではないかと考えます。例えば、文中でとても影響力ある早大教授の劇評論家の評価が語られますが、その人物は決して登場しません。主人公とその早大教授が言葉を交わしたり、あるいは、主人公が1人の文化人として歌舞伎と関係ない世界の他の文化人と交流を持ったりすれば、この作品ももっと深みが感じられたんではないかという気がします。その意味で、とてもボリューム豊かな作品ながら、深みや広がりが感じられませんでした。一部に、この作者の最高傑作とする意見も聞きますが、好きな作家さんの作品であり残念ながら、私はそうは思いません。
2019年01月26日 (土) 11:28:00
今週の読書は経済書や教養書など計6冊の通常ペース!
まず、アンソニー B. アトキンソン『福祉国家論』(晃洋書房) です。著者は英国の経済学者であり、不平等論や貧困論などの碩学です。2017年に物故しています。本書の英語の原題は Incomes and the Welfare State であり、1995年の出版です。まず、1995年の出版であり、かつ、講演などのスピーチから起こした原稿が少なからず含まれているのには驚きますが、必ずしも現時点で無効な議論があるわけでもなく、十分な一般性を持って受け入れられる結論が提示されていると考えられます。もちろん、1942年ノベヴァレジ報告から50年とか、現下の大問題はロシアや東欧の資本主義への移行問題、などと書かれていると、ついつい読書意欲が削がれる思いをするわけでうが、それでも、所得の不平等や貧困問題、さらに、福祉国家論などは今でも十分に通用する議論が展開されています。特に、日本語タイトルに凝縮されている福祉国家論については、福地国家のさまざまな政策が市場経済に決していい影響を及ぼさない、例えば、失業給付が自然失業率を高めるとか、最低賃金の上昇が失業を生み出すとか、賦課方式の年金が資本蓄積を低下させるとか、といった右派エコノミストからの理論的かつ実証的な論考に対して、それでも著者は福祉国家を擁護する論陣を張っています。ただ、論文や講演録の寄せ集めというイメージはぬぐえず、精粗まちまちの議論が展開されています。英国と欧州を大賞にした論考であり、米国ですら参考程度の扱いであり、我が日本はまったく分析の対象外である点も残念です。3部構成となっていて、第Ⅱ部の失業分析ではモデルを数式で表現して解析的に分析している一方で、延々と言葉で説明を繰り返している部分も少なくありません。ただ、ユニバーサルな給付を重視し、ターゲティング政策については批判的である点については、私の見方と一致します。最後に、この著者の本であれば、本書よりも、やっぱり、『21世紀の不平等』の方がオススメです。私のこのブログの読書感想文では、ちょうど3年前の2016年1月30日に取り上げています。ご参考まで。最後の最後に、どうでもいいことながら、上の表紙画像に見える4人はどういった方々なんでしょうか。
次に、清水勝彦『機会損失』(東洋経済) です。著者は慶應義塾大学ビジネススクールの教授であり、今までにも経営書を何冊か出版しています。私も読んだような記憶がありますが、ちゃんと覚えているのは『あなたの会社が理不尽な理由』くらいです。本書は機会損失とのタイトルですが、あくまでキーワードとしての機会損失であり、機会損失そのものを深く掘り下げているわけではなく、経営戦略一般を広く浅く取り上げています。ついつい見過ごされがちな機会費用なんですが、経営学では、何かの決定を行うに際して、トレードオフのように犠牲になるもう一方の損失、ないしコストを指します。希少性高い、すなわち、平たくいえば、限りある経営資源を何に投入するか、を決めれば、その経営資源を投入しなかった先が他方に残るわけですから、それが機会損失となります。ですから、ホントのネットのリターンは、実行するプロジェクトのリターンから断念したプロジェクトのリターンを差し引いた額になるわけで、経済学では「限界的」という用語を用いると思いますが、本書では登場しません。そして、本書でも強調しているように、マイナスを回避するバイアスが強いプロスペクト理論からして、チャンスをみすみす逃す経営も大いにありそうです。本書では、捨てられない、止められないでズルズルと経営資源をつぎ込むプロジェクトを続けるコストを「エスカレーション・オブ・コミットメント」と呼んでいますが、経済学ではあからさまに「ゾンビ」といったりもします。ただ、本書では、このエスカレーション・オブ・コミットメントなり、ゾンビなりに対応する概念として、早く止めすぎる機会損失も指摘していますが、これはどちらも機会損失になるとはいうものの、結果論といわれてもしようがないような気もします。もっとも、私が地方大学に出向した際に感じたところですが、経済学よりも経営学の方が格段に実務に近いですから、経営学の方が結果論、というか、結果に執着する傾向は強そうな印象を持った記憶があります。でも、何につけ、上下・左右どちらでも言い逃れられるのが経済学や経営学の弱点でもあり、いいところかもしれません。最後に、オポチュニティ・コストとは、経済学では「機会費用」の用語が一般的なんですが、経営学では「機会損失」になるのか、とミョーなところに感心したりもしました。
次に、ジャコモ・コルネオ『よりよき世界へ』(岩波書店) です。著者はイタリア出身で、現在はベルリン自由大学教授で公共経済学科長を務めています。ドイツ語の原題は Bessere Welt であり、日本語タイトルはほぼほぼ直訳のようです。2014年の出版です。本書で著者は、資本主義の浪費、不公正、疎外の3点として上げており、第1章のプロローグと第12章のエピローグでは父と娘の会話として問題意識の発見と取りまとめに当たっています。本書では、資本主義の特徴として生産手段の私有制と市場による資源配分と所得分配を前提とし、古典古代の哲学者であるプラトンの「国家」や中世トマス・モアの「ユートピア」から始まって、クロポトキンの無政府共産主義、もちろん、マルクス-エンゲルスの社会主義と共産主義、ステークホルダーによる株式市場社会主義などさまざまな代替的システムとともに、資本主義下での改良策としてのベーシックインカムなどを考慮の対象として、いろんな思考実験をしています。あるいは、ネタバレっぽいんですが、特徴的な結論だけを簡単に取りまとめると、資本主義の定義とされた生産手段の私有制と市場による配分と分配に対立するものとして、生産手段の国有ないし公有と計画経済を特徴とするマルクス的な社会主義については、生産手段の公有は否定され、計画経済もスコアが低くなっています。他の代替システムはもっとスコアが低いんですが、少なくとも、繰り返しになりますが、生産手段の国有ないし公有は明確に否定的で、しかも、株式会社社会主義においても企業活動の目的は利潤の最大化とすべき、と結論していますので、現行の資本主義と大きく異ならないシステムが、やっぱり、推奨されるような雰囲気があります。その代わり、資源配分は市場メカニズムが効率的であるとしても、所得分配の改善のため、ベーシックインカムと中央ないし地方政府が運営するソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)が推奨されています。ただ、本書の最初の方では経済システムと民主主義について、それなりの考慮がなされていたにもかかわらず、真ん中あたりから忘れられた印象があり、そのために冒頭の3点目の疎外の問題がほとんど取り上げられていないと見たのは、私だけでしょうか。最近時点で欧米におけるポピュリズムの問題がクローズアップされてきており、本書の執筆時点を考慮すると重点ではなかった可能性もあるとはいえ、ある意味で残念です。
次に、アニー・デューク『確率思考』(日経BP社) です。著者は米国人で、プロのポーカー・プレーヤーとして400万ドルを稼いだと豪語し、現在は引退してコンサル活動をしているということです。英語の原題は Thinking in Bets であり、昨年2018年の出版です。日本語タイトルは、むしろ、原題を活かせば「賭け型思考」というカンジなんではないかという気がします。賭けの大きな特徴は2つあって、ひとつは本書でも強調されていますが、ザロサムであるという点です。阪神-巨人戦で阪神が勝てば巨人は負けなわけです。もうひとつは、本書では明示的には示されていませんが、大数の法則が必ずしも成り立たない小数の試行結果だということです。サイコロの目が出る事前確率はそれぞれに⅙なんですが、事後的には、出た目そのものの確率が1である一方で、出なかった目はゼロなわけです。ですから、本書でも明らかにされているように、確率20%の結果が実現することもあるわけですが、それで賭けの勝負するのは決して賢明ではない、ということになります。ただ、人間は自分に都合よく考えるバイアスがあり、成功は自分の能力やスキルに起因し、失敗は運が悪かった、と考える傾向がありますから、オープンに他者の目を取り入れて、客観的な判断を下し、説明責任を全うする必要があります。経済学では、その昔のシカゴ大学ナイト教授のように、確率が判っているリスクと判らない不確実性を区別しますが、大数の法則を無視する、というか、大数の法則に達しない段階での意思決定をせねばならないギャンブル的な思考では、その区別はありません。ということで、カーネンマン教授らのプロスペクト理論も登場すれば、セイラー教授の名は出なかったような気もしますが、実験経済学的な思考もふんだんに盛り込まれており、「意思決定はギャンブルである」というフォーマルにはみんながなかなか認めたがらない事実に関して、あけっぴろげに論じています。本書では明示的に示してはいませんが、「結婚の意思決定はギャンブルである」というのは、多くの既婚者が身にしみて感じていることではないでしょうか。
次に、大野哲弥『通信の世紀』(新潮選書) です。著者はKDD(国際電信電話株式会社)のご出身のようです。通信について、暗号通信とともに、19世紀半ばの明治維新期から20世紀いっぱいくらいまでのインターネット時代を概観しています。通信の戦略的な面とともに、技術的なテクノロジーも判りやすく解説を加えています。明治維新から、いわゆる列強の帝国主義時代に通信が技術的にも大いに進歩し、例えば、岩倉使節団が米国サンフランシスコに到着したとの第一報は、米国を西海岸から東海岸に横断して、大西洋を渡って欧州経由で長崎にもたらされるまで1日かかったが、長崎から東京まで10日を要した、などは通信の技術的進歩をよく表しているような気がします。暗号については、日米開戦間際の最後通牒の受け渡しが取り上げられていて、14分割の電報をタイピストを使わずに書記官がタイプして野村大使がハル米国国務長官に渡したのが真珠湾攻撃開始後だった、という失態ですが、現在では私のような下っ端管理職でもパソコンが机にあって、キーボードを使ったタイピングに慣れている時代と違い、おエラい外交官がタイプするのは時間がかかったのは理解できるところです。分割電報が全部そろうまで何もしないというのはとてもお役所的で、私も、図書館で借りた本を返却する際、すべてそろうまで平然と突っ立ったままで、何もしない図書館アルバイトが多いのは実感で知っています。まあ、図書館が指定管理者制度になって、図書館員の質が大きく下がったのは周知の事実ではあります。戦後は、同軸ケーブルと衛星通信が高度成長を支え、サービスとしては、電報からテレックス、さらに電話に通信の主流が移り変わり、今ではインターネットによる通信が大きな割合を締めているのは周知の事実であろうと思います。本書では必ずしも定量的に明らかではないんですが、通信トラフィックも劇的に増加しているのは確実です。通信の内容も、電報にせよ、テレックスにせよ、電話にせよ、長らくテキストだったのが、電話から音声になり、インターネット時代は画像ないし今では動画になっています。ついつい、KDDの社史の方に流れて、そういったあたりをカバーしきれなかったのが本書の弱点かもしれません。
最後に、井手英策『幸福の増税論』(岩波新書) です。著者は慶應義塾大学の経済学の研究者であり、専門は財政学や公共経済学です。従来から、増税に対する我が国国民の意識として、政府の歳出に対する信頼感が薄く、社会保障でユニバーサルに国民に給付されるのではなく、公共投資を通じて国民に還元される「土建国家」であるために、その財源として徴収される税金に対する忌避感覚が強い、と主張していて、私も大いに合意していたんですが、本書ではかなりトーンが違ってきている気がします。というのは、日本のリベラルの価値観を自由、公正、連帯の3点に凝縮し、国民全員に利益となるベーシック・サービスによるニーズの見たしあいを重視し、それを公共財として提供する財源としての税金を増税することに力点を置いています。その上で、累進課税による従来型の所得再分配ではなく、繰り返しになりますが、ベーシック・サービスの供給という、何とも、実態のハッキリしない財政需要を想定します。すなわり、p.83の表現を借りれば、「社会のメンバーに共通するニーズを探しだし、そのために必要となる財源をいなで負担しあう道を模索しなければならない」ということになります。私はそこまでして財政支出を拡大し、そして、その財源を増徴する必要は感じません。ムリに財政をユニバーサルにし、財政支出をして国民の連帯や絆の手段とするのは政策割当を間違っているとしか感じられません。国民間の連帯強化には財政政策ではなく、別の政策が割り当てられるべきです。担税感をして国民の連帯感情の基礎にするのは私は同意できません。本書では、消費税の負担軽減措置については否定的な見方を示しており、私が同意する部分も決して小さくはないんですが、少し従来からは違う方向に舵を切った気がしてなりません。
2019年01月19日 (土) 08:28:00
今週の読書は経済書からミステリまで通常ペースで計6冊!
まず、玄田有史[編]『30代の働く地図』(岩波書店) です。編者は東京大学の研究者であり、幸福学などでも有名ですが、本来のホームグラウンドは労働経済学です。本書は全労済協会が主催した研究会に集まった研究者や実務家の論文を編者が取りまとめています。回答のあるナビゲーションではなく、自ら選ぶ地図をイメージしてタイトルとした、ということのようです。編者が冒頭と締めくくりを担当しているほか、各チャプターごとの著者は研究会の委員さんではなかろうかと想像しています。労働や雇用に関しては、私のようなマクロ経済の観点よりもむしろ、マイクロな選択の問題と考えるエコノミストも少なくありませんし、まあ、毎月勤労統計のような信頼感薄いマクロ労働統計ではなく、マイクロな雇用や労働の分野の方がデータが豊富で、フォーマルな定量分析も盛んです。加えて、経済学だけではなく労使関係ですから法学の分析も必要ですし、実務面からの分析も可能で、本書でも労働組合幹部の執筆するチャプターがあったりもします。高度成長期に成立した新卒一括採用の下での長期雇用、年功賃金、企業内組合という日本的な雇用慣行は、現時点でも、あるいは、高度成長期でも、雇用者の多数を占めていた時期はないんですが、それなりにモデルとしての有用性があったと私は考えている一方で、21世紀に入って大きくモデルとしての第1次アプローチの有用性が崩れていることも事実です。ただ、雇用の柔軟性が必要といわれているとしても、柔軟性が増せば定義的に反対側で安定性が損なわれるわけですし、同時に賃金水準も切り下げられることは経験上明らかです。高度成長期に成立した我が国の労働慣行は、性別役割分担とも関係して、男性正規社員が長期雇用下で無限定に長時間労働する一方で、女性が専業主婦として家計を仕切って男性を支える、というものでした。それが、大きく崩れてきているわけで、本書でも指摘しているように、単に長時間労働の是正にとどまらない抜本的な働き方改革が必要となっています。最後に、本書の対象とする30代は子育て世代であり、かつ、中堅として職場の中核的な働き手なんですが、同時に、本書で取り上げている通り、転職や独立、あるいは、兼職や副業を考えて、自分のキャリアを見直す時期でもあります。私のような60歳超と違って、別の意味で、岐路に立っているともいえます。多くの若い現役世代に参考になる議論を展開してほしい気もしますし、他方で、私のような引退世代の介護との両立についても議論が必要だとも思います。
次に、川野祐司『キャッシュレス経済』(文眞堂) です。著者は東洋大学の研究者です。タイトル通り、北欧を先進国として欧米だけでなく中国やケニアなど世界で進行中の経済のキャッシュレス化について、現状と展望と可能な範囲で歴史的な背景などを解説しています。ただ、時折、著者の独自の見方が紹介されている部分があり、明確に歩者の意見として提示されているので好感は持てるんですが、やや私の感覚とはズレがあったりもしました。特に、我が国経済のキャッシュレス化については、ソニーのFELICAなどを見ても明らかなとおり、技術的には世界に後れを取ってはいないものの、実際の波及面であまりに数多過ぎる提供主体があって普及面の問題がある、というのは、私の実感と少し違う気もしました。それは別として、オンライン化の推進力として、製造業と同じ理屈を銀行に当てはめ、要するに人件費削減と業務のスピードアップの要請に基づいたキャッシュレス化、という理由を上げています。私はその通りだと思うんですが、少し、デジタル化とキャッシュレス化の混同が見られるような気もしました。特に、ビットコインの記録上の中核技術であるブロック・チェーンについて、アナログでも実現可能というのは、私もそういえばそうなんだと初めて気づいた次第ですが、帳簿上のシンボリックなお金の動きとそれをサポートするデジタル技術については、もう少し詳しく解説してもらえば金融政策上のインプリケーションも出てきそうな気がします。典型的には、キャッシュレス化やデジタル化で、いわゆるナローバンキングに特化する金融機関も出そうな気がする一方で、預金と信用に基礎を置く信用乗数の大きさにどのようなインパクトを及ぼすのか、といった点です。また、私はこういった金融の関係は専門外なんですが、技術革新の進歩の速度が極めて速くなった先の展望を見越すと、本書の賞味期限がどれくらいあるのかは不案内です。読むとすれば、早めに読むのが吉かもしれません。
次に、ジョン・キーガン『情報と戦争』(中央公論新社) です。著者は、長らく英国サンドハースト王立陸軍士官学校で戦史の教官を務め、2012年に他界しています。英語の原題は Intelligence in War であり、2003年の出版です。最後の邦訳者あとがきにもありますが、本書では厳密には区別されていないながら、英語の intelligence と information について、後者に「生情報」を当てて、前者は「情報」ないしカタカナで「インテリジェンス」と訳し分けているようです。そして、タイトルとは裏腹に、本書に一貫して流れているのは、戦争で勝つために情報収集やその分析は役立つが、戦争遂行のための戦略の立案や物理的な戦闘力がより重要である、という点に尽きます。情報線と関連して、太平洋戦争時のミッドウェイ海戦が上げられて、典型的に情報が勝敗を決した鍵となる戦闘と見なされているようですが、本書では情報とともに、偶然とか、運とか、ツキといった要素にも着目しています。そして、物理的な戦闘力の重要性に関しては、ナチスのクレタ島侵攻をケーススタディのひとつに取り上げ、どのように事前の情報収集が万全で十分であっても、迎え撃つ方の戦闘力が不足していればどうにもならない例、として扱っています。もちろん、情報収集は戦争や戦闘行為に限らないわけで、経営戦略策定の際に無重要な要素となりますが、クレタ島のケースは、例えていえば、売れる商品をリサーチで十分に把握していたとしても、工場の生産能力やロジスティックな配送能力が追いつかなければ十分な売上には結びつかない、といったカンジかもしれません。私も公務員として在外公館の海外勤務を経験しているわけですから、経済的な要素が極めて強いとはいえ、情報収集活動はしたことがあり、しかも、私が大昔に奉職を始めた役所は総合国力の測定を組織のミッションのひとつにしていましたので、情報収集の重要性は理解しているつもりですが、物理的な対応能力も同様に重要である点は本書の指摘する通りだと考えます。
次に、マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会) です。著者は英国のミステリ作家・評論家であり、約20冊の長編や50編以上の短編を発表し、自らの作品で英国推理作家協会(CWA)の最優秀短編賞を受賞したほか、多数のアンソロジーを編纂したことがあると紹介されています。上の表紙画像に見られる通り、本書の英語の原題は The Golden Age of Murder であり、2015年の出版です。ということで、主として英国における探偵作家の親睦団体=ディテクション・クラブが発足した1930年前後くらいのの、いわゆる戦間期におけるミステリの黄金時代を歴史的に跡付けたノンフィクションです。ディテクション・クラブ発足当時の会長はチェスタトンであり、女性作家のセイヤーズやクリスティーも会員として集まっており、繰り返しになりますが、このクラブの歴史と作家たちの交流、なぞ解きのフェアプレイの遵守を誓う入会儀式の詳細、会員のリレー長篇出版などの活動、もちろん、知られざる私生活における興味津々のゴシップまで、豊富なエピソードを収録しています。ただ、注意すべき点が2点あり、英国中心のミステリ作家の歴史であり、日本人には気づきにくい英米の違いなどは無視されていると考えるべき、というか、米国の事情は、わけあって英国に移住したカーを唯一の例外として、クイーンやヴァン・ダインなどの名がチラリと登場するくらいで、ほとんど本書のスコープの範囲外となっています。もう1点は、本書の英語の原題を見れば理解できる通り、直訳すれば「殺人の黄金時代」であり、小説の中の事件だけでなく、広く社会を騒がせた殺人事件にも、まあ、一部には小説のモチーフとなったという意味においてであっても、注目されています。ロンドンの「切り裂きジャック」なんぞは日本でも人口に膾炙していますが、私のような不勉強な読者には心当たりのない事件も少なくありません。本書が対象としている時期は、1929年からの大不況の時期を含んでおり、それなりに犯罪も発生したのだろうと想像されます。現在のミステリの隆盛に話題がつながる最終章まで、圧倒的なボリュームで堪能させられます。A5版の大きさに加えて2段組みで製本されており、写真も含めた図版も豪華に、とても読み応えあふれる力作です。私は図書館で借りましたが、たとえA5版2段組みの400ページ余りを読み切れる自信ない場合であっても、蔵書として本棚に飾るのも一案ではないでしょうか。
次に、渡辺順子『世界のビジネスエリートが身につける教養としてのワイン』(ダイヤモンド社) です。著者は、フランスへのワイン留学を経て、大手オークション会社であるクリスティーズのワイン部門に入社し、NYクリスティーズでアジア人初のワインスペシャリストとして活躍した経験をお持ちだそうです。ということで、タイトルから明らかな通り、ワインに関してビジネス・エリートに解説をしているわけで、私の良いなビジネス・エリートでも何でもない人間は関係なさそうな気もしますが、実は、私も安物のワインは飲んだりもします。1990年代前半の3年間を南米はチリの日本大使館で外交官として過ごし、ちょうどそのころからチリのワインを日本に輸出する事業が始まったこともあり、今でもチリ・ワインは週に何度か飲んだりしています。その名も「サンティアゴ」のメルローなどです。もちろん、ワインに限らず、「飲みニケーション」という雑な言葉がある通り、お酒は飲んで楽しんでコミュニケーションを取るツールとして認識されているのは日本だけではありません。ですから、ほかのお酒、すなわち、ビールや日本酒や焼酎やウィスキーやブランデーなどなど、なんでも飲んでコミュニケーションが取れるとは私は思うんですが、やはり、ビンテージ物のワインにはかないません。また、お酒以外で、私も少し前に『西洋美術史』を読みましたが、絵画・彫刻などの美術を見ながらのコミュニケーションは大きな限界がありそうな気がしますし、クラシックなどの音楽をコンサートで聞きながらではおしゃべりできませんし、文学作品ではあまりに広がりがあって一致点が見出しにくそうな気がします。本書では、欧州と地中海沿岸を中心に、ワインの歴史を振り返るとともに、第1部ではフランスはボルドー5大シャトーやロマネ・コンティ、アンリジャイエなど、第2部ではイタリアを中心に食事とのマリアージュを見て、第3部では米奥などのニューワールドのワインを概観し、さらに、ワインへの投資や関連するビジネスを取り上げています。高校の社会科のように、産地やシャトーやブランド名を暗記するのも目的とするなら、とても味気ない読書になりかねませんが、テーマがテーマだけに楽しく読めればラッキーかな、という気がします。
最後に、宇佐美まこと『聖者が街にやって来た』(幻冬舎) です。売出し中の女性ミステリ作家で、最近、もっとも話題になった『骨を弔う』を読んだばかりですが、その『骨を弔う』がもっともできがいいといわれていたにもかかわらず、私はあまりにも作り過ぎていて不自然な気がしたんですが、本作品の方がその意味ではより現実味を増したエンタメ作品という気もします。相変わらずプロットがややお粗末で、突っ込みどころが多いんですが、それなりのレベルの作品には仕上がっているような気がします。被害者が5人に上る殺人事件ですから、もっと登場人物がいていいような気がするんですが、この作者はどうもキャラの設定に難があるようで、多人数の登場人物が描き切れないのかもしれません。例えば、本作品でいえば、お花屋さんの3人の女性のキャラが極めて似通っています。店主親子は、まあ、親子ですので性格的にも似通っていていいようにも受け取られるんでしょうが、店主の娘とアルバイト女性のキャラに差異が感じられません。半グレのグループの構成員もほとんど違いが感じられず、仕方ないので体のサイズや外見で区別するしかないような有り様です。もう少していねいに人物の造形やキャラ設定をすれば作品に深みが出そうな気がします。なかなかの力作だけに少し惜しい気がします。もう少しこの作者の作品を23作読んで、もっと読み続けるかどうかを考えたいと思います。今の段階ではギリギリ合格点か、という気もしますが、ファンになるほどではない、というカンジでしょうか。
2019年01月12日 (土) 11:39:00
今週の読書は経済書にエンタメ小説まで加えて計6冊!
まず、 コンスタンツェ・クルツ & フランク・リーガー『無人化と労働の未来』(岩波書店) です。著者2人はいわゆるホワイトハットハッカーらしく、情報に強い印象です。本書は原書の全訳ではなく、いくつかの章を省略した抄訳となっています。副題は「インダストリー4.0の現場を行く」と題されていて、世界に先駆けて「第4次産業革命」を打ち出して、AIをはじめとするソフトウェアに加えて、ロボットとネットワーク化による製造現場の変革を進めてきたドイツを舞台に、主食のひとつであるパンが出来上がるまでを跡づけます。すなわち、農場で小麦が栽培されて収穫されるまでの機械化の進展を見つつ、農業機械の製造現場も振り返り、ロジスティックスで穀物の運輸、もちろん、パンの製造やその後の製品の流通など、第1部でパンが出来るのを跡づけた後、第2部で労働の未来の考察に進み、まず、話題の自動運転から始まります。結論としては、馬車がトラックに取って代わられた歴史的な例などを参照します。しかし、本書のドイツ語原初の出版は2013年であり、5年前という技術的な進歩の激しい分野では致命的な遅れがあります。もちろん、技術に関する哲学的な考察で有用なものは本書からも決して少なくなく汲み取れるんですが、それにしても、土台となる技術的な発展段階が5年前では見方にバイアスも避けられません。そのあたりは、5年前の技術水準に依拠して書かれている点を忘れず読み進むことが必要です。最後に、この書評ブログでは著者とともに、翻訳書の場合は原語の原題もお示しするんですが、わざわざ、最後に回したのは、ドイツ語原題が Arbeitsfrei となっていて、Arbeits と Frei の間にパワー=力を意味する macht を入れると、とても意味深長、というか、やや使うのはためらわれる場合もありそうです。すなわち、「都市の空気は自由にする」= Stadtluft Macht Frei をもじって、ドイツ人作家ロレンツ・ディーフェンバッハがこれを小説のタイトルとして Arbeits Macht Frei として用いた後、20世紀になってワイマール共和国期に失業対策として実施された公共事業に対しての表現として用いられ、何と、ナチス政権下ではこの表現をアウシュビッツをはじめとする多くの強制収容所の門に記しています。著者をはじめとして多くの教養あるドイツ人や、おそらく、日本人ながら翻訳者には判っていると私は想像しているんですが、私には謎ながら、何らかの意図があるのかもしれません。
次に、藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社) です。著者は、京都大学の工学部教授であり、最近まで内閣官房参与として安倍内閣のブレーンを務めてきた研究者です。タイトルからも理解できる通り、本書では今年10月の消費税率の10%への引き上げに強く反対する論陣を張っています。かなり経済学的には怪しい論拠がいっぱいで、レーガノミクスで税率を引き下げれば税収が増加するというラッファー・カーブというのがあり、当時のブッシュ副大統領が voodoo economics と呼んだシロモノで、大いにそれを思い起こさせる内容もあったりしますが、直感的には理解しやすいと思いますし、例えば、アベノミクスも同じで、最近の税制の変更により法人税を減税して、その分を消費税で徴収している、という主張はその通りです。ただ、1989年の消費税導入時はインフレだったのでOKだが、1997年の税率を5%に引き上げたのはデフレ圧力を強めた、というのは必ずしも私は同意できませんし、本書で大きく批判されている2014年の消費増税についても、タイミングは私自身は正しかった、と考えています。もっとも、今年の税率引き上げについては、私もタイミングについて疑問に感じる一方で、短期的にはともかく、中長期的には消費税率は引き上げざるを得ない、そうしないと政府財政のリスクが大きくなる可能性が高い、と私は考えています。著者は政府財政の破綻は将来に渡ってもないと考えているようですが、私は現実問題として何らかの市場の反応次第では、政府財政が破綻することはあり得ると考えています。実際に何が起こるかといえば、いわゆるキャピタル・フライト、すなわち、資本逃避で海外に資産を移し替える富裕層が増加し、そのために為替が急激に円安になる一方で、外貨が不足して市場介入も限界があるため、輸入ができなくなる、というルートです。そのリスクを抑制するためには政府財政の健全化は避けて通れません。他方で、本書ではスコープ外なんですが、シムズ教授らの物価水準の財政理論(Fiscal Theory of the Price Level:FTPL)もあり、経済学の曖昧さが露呈している気もします。悩ましいところです。
次に、西部忠[編著]『地域通貨によるコミュニティ・ドック』(専修大学出版局) です。編著者は北海道大学から専修大学に転じた経済学の研究者で、本書は主として北海道の地域コミュニティで実践された地域通貨事業から、ブラジルの実践例も含めて、地域のコミュニティの維持強化を分析しています。特に、ダンカン・ワッツ教授のスモール・ワールド理論などにおけるネットワーク分析はとても特徴的であると私は考えています。専門外ですので、詳しく解説はできませんが、地域通貨が何らかのノードのハブとなる団体、例えば、商店街連合会とか環境NPOとかから、地域住民や商店主にどのような広がりを持っているかは、コミュニティ維持強化の観点からの分析に、あるいは、適しているのかもしれないと実感しました。ただ、地域通貨の経済効果は、本書のスコープ外かもしれませんが、おそらくありきたりのものとなろうかという気がします。というのも、要するに、プレミア付きの地域通貨は財政政策による所得移転であろうと考えますし、あるいは、部分的にはマネーサプライの増加に代替する可能性もあります。さらに、プレミア付きの地域通貨を回収する際に手数料を徴収して、元の通貨価値で回収するのであれば、例えば本書に例に即していえば、500円の現金で525ポイントの地域通貨を発行して、回収する際には5%の手数料を徴収して525ポイントの地域通貨を500円で買い取ることにすれば、典型的にグレシャムの法則、すなわち、「悪貨は良貨を駆逐する」が働いて、通貨の流通速度が大きく増します。その点は本書でも確認されています。ただ、繰り返しになりますが、通常の財政金融政策の観点からの地域通貨の分析ではなく、地域コミュニティの維持強化の方策としての分析は、今後の地域分析のツールとして目新しい気がします。まあ、一応、地域経済研究の論文をものにしているものの、単に私の勉強不足なだけで、ほかにも同様の研究成果はいっぱいあるのかもしれません。
次に、デイビッド・サックス『アナログの逆襲』(インターシフト) です。著者はカナダ在住のジャーナリストであり、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The Revenge of Analog ですから、邦訳タイトルはそのままです。2016年の出版となっています。本書はモノの第1部と発想の第2部の2部構成で、第1部ではレコード、メモ帳、フィルム、ボードゲーム、プリントが、第2部ではリアル店舗、仕事、教育が、それぞれ取り上げられています。今までのアナログ礼賛は、単に、デジタルの現時点から昔を懐かしがるノスタルジーだけだったような気がしますが、本書はかつてのアナログから一度デジタルに進化した後、再びアナログに戻る動きを活写しています。これは今までになかった視点かもしれません。ただ、アナログ≃オフライン、かつ、デジタル≃オンライン、とも読めます。というのも、本書ではしばしば「テクノロジー」という言葉が出てきますが、テクノロジーとして考えれば、どこまでさかのぼるのか、という問題があるからで、自動車は問題なくアナログなんですが、馬車までさかのぼる必要があるのかどうか、は本書では否定的な雰囲気があります。レコードとCDではそれほど違いはないのかもしれませんが、デジタルのオンラインではかなりの程度に独立した個人として対応する必要がある一方で、アナログのオフラインではより社会性のある対応が求められる、特にゲームなんぞはそういう気がします。ただし、本書に限らないのですが、最近のオンライン技術やデジタル技術については、1990年台のインターネットの普及のころからそうですが、私のような経済を専門とするエコノミストには製造やサービス提供の場での生産性向上に用いられるよりも、典型的にはゲームのような娯楽で用いられるケースが増えているような気がします。ですから、乗馬が実用的な輸送手段としては街中から消え去って、どこかの乗馬クラブで趣味として生き残っているように、アナログもどこかで趣味として生き残る可能性は大いにありますが、生産の場でのメインストリームとして復活するのは難しそうな気もします。
次に、我孫子武丸『凛の弦音』(光文社) です。作者は、ご存じの通り、綾辻行人や法月綸太郎と同じく、わが母校の京大ミス研出身のミステリ作家であり、本書は『ジャイロ』に連載されていたものを単行本化した小説です。高校生の女子弓道部員を主人公にその1年生から2年生にかけての連作短編、なのか、長編なのか、ややあいまいなところです。ただ、新本格派のミステリの要素はそれほど強くなく、最初の短編では殺人事件も起き、主人公の女子高校生がなぞ解きをしますが、むしろ、周囲の人々との関係を描きつつ、主人公の成長を跡づける青春小説といえます。実は、ミステリとともに私の好きな小説のジャンルだったりします。7章構成ですが、繰り返しになるものの、最初の第1章に殺人事件が起こり、ほかにも、1年生の新入部員の突然の退部の真相解明とか、高価な竹弓の紛失の謎解きなどもある一方で、放送新聞部の男子部員が主人公にピッタリとくっついて動画に収録したり、新任の女性教諭の弓道指導に対する疑問と理解の進展、同じ高校弓道部の同級生や先輩の部長との人間関係、さらには、ライバル校の花形選手との関係などなど、色んな要素がてんこ盛りなんですが、ただ、弓道に対する考え方については私には理解できないものがありました。本書でも主人公が独白しているように、戦国時代には戦闘の中で実用的に殺人を行う技だった弓の技術が、剣と同じように、徳川期の天下泰平の世の中になって、殺人技術というよりは精神的な要素を強めて、あるいは、形の美しさを極めたりもして、スポーツの要素も取り入れた弓道に変化発展する中で、それが生活の糧をもたらさないにもかかわらず、どのように人生の形成や人間的な成長に必要とされるのか、難しい問題ではないかと思います。ちょうど、お正月休みに「ホビット」3部作のDVDを見て、エルフの戦士が弓を活用しまくっていましたし、人間が龍を倒すのにも矢を使ったわけですから、何となく弓の活用も頭に残っていましたが、道を極めるという意味での弓道の青春物語は面白くもあり、同時に難解でもありました。
最後に、高嶋哲夫『官邸襲撃』(PHP研究所) です。著者はエンタメ小説の売れっ子作家であり、私は著者の専門分野である核や原子力関係の本や自然災害のパニック本などを何冊か読んだ記憶があります。本書は、タイトル通りに、総理大臣官邸が謎のテロ組織に襲撃され、女性首相の警護に当たっていた女性SPの活躍により制圧する、というものです。もちろん、テロは制圧されます。ただ、日本国内の動機だけでなく、というよりも、テロの目的なむしろ米国にあり、米国国務長官が官邸に滞在している折を狙っての襲撃と設定されています。そして、ご本人も知らないような米国大統領の縁続きの女性が人質になったり、グリシャムの「ペリカン文書」にインスパイアされたとしか思えない文書の公開要求があったりと、いろいろな読ませどころがありますが、こういった書物にありがちな設定ながら、女性総理が官邸で人質になった後、お飾りで優柔不断で、いかにも旧来タイプの政治家であった副総理が一皮むけて立派な決断をしたり、米国と日本で判断のビミョーなズレがあったり、映画の「ダイハード」よろしく不死身の主人公が縦横無尽に活躍したりと、こういったあたりはややありきたりな気もします。私のオフィスからほど近い官邸がテロ組織に襲撃されるというのは、確かに実感としてムチャな気もしますし、著者の専門分野の原子力や自然災害のパニック本よりも、リアリティに欠けるように感じられますが、私自身がもうすぐ定年退官ながら公務員として総理大臣官邸を身近に感じられるだけに、それなりに面白く読めた気もします。私のようにこの作者のファンであれば読んでおいて損はないと思います。また、もしも映画化されれば、主人公の女優さん次第で私は見に行くかもしれません。
2019年01月05日 (土) 19:51:00
今週の読書は通常通りに計5冊!
まず、横山和輝『日本史で学ぶ経済学』(東洋経済) です。著者は名古屋市立大学の研究者であり、専門は経済史です。本書は7章から成っており、前半の基礎編は3章、貨幣、インセンティブ、株式会社で、後半の応用編の4章は銀行危機、取引コスト、プラットフォーム、教育という構成です。ノッケからビットコインなどの仮想通貨と中世日本の宋銭の輸入の同一性について、あるいは、織田信長などの楽市楽座にプラットフォームをなぞらえたりと、かなり強引な立論を組み立てていたりしますし、第2章で「インセンティブ」を刺激と訳してしまっていて、通常の誘引と違うと感じたりしていますが、そのあたりの学術的な正確性を少し無視すれば、それなりに教養あふれる経済書、という気がしないでもありません。歴史を振り返ると、いくつかの経済制度などについては合理的な制度設計をすれば、自然と近代ないし現代的な経済学の応用に落ち着くといえますから、前近代的な不合理性を取り除き、近代合理主義の要素を取り入れれば、そのままに経済合理性が実現できる可能性が大きいと私は考えています。ですから、本書のように、無理やりにこじつけなくても、織田信長のように時代を画する政治家や大岡忠相のような能吏であれば、そこは自然と経済合理性と軌を一にする判断ができるのではないかというわけです。どこかの企業のように粉飾決算を急いだり、あるいは、それがもとで倒産したりするのは、何らかの不合理的な企業行動、経済活動の累積がありそうな気がします。その素材として歴史を持ち出すのは、秀逸というと大げさかもしれませんが、それなりに人口に膾炙していて一般大衆に馴染みある判りやすい比喩や暗喩を用いた本書のような解説本は、繰り返しになりますが、学術的な正確性を大目に見た上で、それなりに有益な読書だという気がします。ただ、歴史を題材に経済学を解説しているのか、逆に、経済学を基に歴史を概観しているのか、やや不分明な気もしたりします。
次に、ジャック・アタリ『海の歴史』(プレジデント社) です。著者はご存じ、フランスを代表する文化人であり、世界的な知性でもあり、最近では現在のマクロン大統領を見出したことでも注目されています。私の記憶する限り、もともとがミッテラン大統領のころに影響力を持ち始めたんではないかと考えられますから、それなりに左翼的な思考が中心となっています。本書でも触れられている通り、マハンの『海上権力史論』の焼き直しではあるんですが、典型的な会場帝国の英米に比較して、独仏は陸上帝国であり、ロシアや中国はもっとそうですから、本書でも、数回に渡ってフランスは海上制覇を逃していると反省をしています。その観点は基本的に地政学的であり、戦争や安全保障に源流がありそうですが、同時に、海の経済的な側面も見逃してはいません。まず、海洋資源採掘の産業である漁業についてはチョッピリ取り上げられているだけです。そして、大きな比重が置かれているのは貨物と情報の伝達ないし輸送です。確かに、石油をはじめとするエネルギーや小麦などの穀物は船で海上輸送するのに圧倒的な優位があります。従って、本書でもコンテナ輸送と海底ケーブルの敷設にスポットが当てられています。前半⅓くらいは、本書のタイトルと同じで海の世界史をひも解き、それから後の後半、特に最後は海のさらなる活用と保護に関して、著者なりのいくつかの提言めいたリストで終わっていますが、ハッキリいって、とってもありきたりで何度も聞いたような事項が並べられているだけであり、この著者でなければ、多くの人は読み飛ばすような気がします。私はアタリの最新刊、ということで借りて読みましたが、それほどの内容ではありません。期待外れともいえますが、こんなもん、という気もします。読むとしても、大きな期待は禁物でしょう。
次に、辛島デイヴィッド『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』(みすず書房) です。著者は早大の文学研究者であり、村上春樹文学が専門なんでしょうか。かなりの程度に学術書的な内容なんですが、タイトルからして私は少し誤解していました。つまり、その昔に『1Q84』でヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が注目されたように、文学では何らかの典故が見られるわけですから、b村上文学でコッソリと引用されたり、やや変形させて引用されていたり、もちろん、文学だけでなく音楽や美術などで村上作品で直接でなくとも触れられているような文学以外の他のジャンルの芸術などについて分析している学術書、というよりも、教養書のようなものを想像していましたが、違います。本書では、1080年代半ばのバブル経済初期に村上作品を英訳して米国に売り込もうと試み、結果的には、それに成功してノーベル文学賞候補にまで村上春樹をビッグにした出版社や翻訳家や編集者について取り上げています。すなわち、我が国文学のビッグスリーである谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、あるいは、安部公房を加えてビッグフォーに次ぐ村上を米国出版界に押し出そうとしたわけです。私のように母語で村上作品を読める読者には関係なさそうな気もしますし、それなりに舞台裏や黒子を表に出す作業ですから、どこまで期待していいのかは議論の分かれるところかもしれません。ただ、まだ現役の作家であり、作品を出し続けているわけで、それなりに、同時代人としてインタビューながら村上作品を米国市場に出すための翻訳や編集や出版の実態を現時点で明らかにしておくことは学術的には意味ありそうな気もします。他方で、ほとんどの典拠がインタビューですから、話者と聴取者の双方により脚色・潤色されたり、歪められたりした可能性もやや懸念されます。
次に、M.R. オコナー『絶滅できない動物たち』(ダイヤモンド社) です。著者はジャーナリストであり、『ニューヨーカー』、『アトランティック』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』、『フォーリン・ポリシー』などに寄稿した経験を持っているようです。英語の原題は Ressurection Science であり、直訳すれば「復活の科学」とでもなるんでしょうか。2015年の出版です。ということで、人類に起因した絶滅に瀕した生物をどのようにすればいいのか、遺伝子レベルで復活させるのか、それとも、動物園などにおける「飼育」のレベルではなく、いわゆる生物界におけるニッチを探して自然界に再生させるまでする必要があるのか、などなど、絶滅種やその危惧種に対する議論を取りまとめています。タンザニアのカエルやアフリカのサイ、いろんな本で見受けられるアメリカのリョコウバト、あるいは、思い切ってネアンデルタール人まで、さまざまな種が取り上げられています。かつて、ダイヤモンド教授の一連の書籍を読んだ際に、どの本だったかは忘れましたが、生物の多様性について飛行機のリベットになぞらえられてあり、どれかひとつが失われることによるバランスの議論がなされていたように記憶しています。私は遺伝子レベルで生物多様性を論じることに大きな意味は見いだせず、生物界のバランスの中で失われて仕方ない生物種もあるような気がしますが、他方で、リョコウバトのように人類の勝手な行動により失われる種については惜しいような気もします。経済学はモデルの美しさから物理学に親近感を覚え、歴史的な進歩を生物学的進化になぞらえて、やっぱり、生物学に親近感を覚えるんですが、生物学と経済学は物理学と違って、ともにやたらと多数の変数を含むモデルですから、モデルの数学的な分析だけからでは予測の正確性に欠ける場合があります。本書でも指摘されているように、気候変動と生物進化の関係も解き明かされつつあり、なかなか興味不快問題ながら解決の難しさも感じてしまいました。
最後に、古市憲寿『平成くん、さようなら』(文藝春秋) です。著者は話題の社会学者であり、若者文化の分析で若くして名を成しています。第160回芥川賞候補に上げられています。なお、タイトルの「平成」は今年2019年4月限りで終わる年号ではなく、その年号の登場とともに生を受けた人物名であり、「ひとなり」とよむようです(p.7)。そして、やや年齢違いながら、著者ご本人や落合陽一などになぞらえられているような気もします。でも、この作品がフィクションの小説ですので、そのあたりは確実ではありません。そして、その主人公は著者の造形らしく、合理的でクールな人柄で、例えば、意図して合理性を失う行為である飲酒を忌避したりします。しかも、平静を代表する人物であるだけでなく、学術的な成果もあってテレビのコメンテータなどでも活躍して金銭的な不自由なく、漫画家の霊場としてビッグコンテンツ管理で、これまた金銭的な不自由ない女性と同棲しつつも、性的な接触を嫌ったりもします。そして、ここからが問題なのですが、この作品がとても小説的で現実と異なっているのは、日本で安楽死が合法化されているだけでなく、かなりの安楽死先進国となっている点であり、平成くんが安楽死を希望している、ということです。同棲しているパートナーは平成くんに安楽死を思いとどまらせようといろいろなことをします。それがストーリーを形成しているわけですが、時間の進みとともに、平成くんが安楽死を希望している理由、あるいは理由の一端が明らかにされたりしますが、ラストの数ページを読む限り、平成くんは安楽死したのではないか、と思わせる締めくくりなんだろうと私は受け止めています。今上天皇の退位と年号としての平成の終了に関しては、大きなリンクはないと考えるべきです。
2018年12月29日 (土) 13:02:00
今年最後の読書感想文はアジア開発銀行50年史など計6冊!
まず、ピーター・マッコーリー『アジアはいかに発展したか』(勁草書房) です。著者はオーストラリアのエコノミストであり、やや判りにくいタイトルなんですが、上の表紙画像の英語の原題である "50 Years of the Asian Development Bank" にうかがえる通り、本書はマニラに本部を置く国際機関であるアジア開発銀行(ADB)の50年史です。ですから、まあいってみれば、社史と同じで基本的に提灯本ではあるんですが、私の専門分野とも近く、アジア各国の経済発展の歴史をコンパクトに取りまとめていますので、オススメです。歴代の総裁に対する提灯持ちの姿勢は別としても、世銀や国際通貨基金(IMF)などのワシントン・コンセンサスに従った制作決定や業務運営と異なって、アジア開発銀行(ADB)ではもっとアジア的な色彩が強いのは事実ですし、その意味で、本書では世銀・IMFは国際収支への支援であるのに対して、ADBは医療などの社会政策や教育も含めた財政支援を重視した、というのは事実なんだろうと思います。巻末資料も豊富です。
次に、オーナ・ハサウェイ & スコット・シャピーロ『逆転の大戦争史』(文藝春秋) です。著者は2人共米国イェール大学法学部の研究者であり、専門分野は国際法と法哲学ということのようです。英語の原題は The Internationalists であり、2017年の出版です。ということで、中世の絶対王政期から以降の現在までの期間における戦争に関する国際法の歴史について概観しています。オランダのグロティウスによる戦時国際法の確立から、基本的に、勝者の理屈が通る世界だった戦争に関する国際法なんですが、1928年のパリ不戦協定によって、それまでの帝国主義的な領土分割の結果が固定され、それ以降の侵略戦争に対する風当たりが厳しくなった点を跡づけています。その点で、日本も着目されており、満州国の成立とそれを否定するリットン調査団は、そういった世界的な風潮の最初の兆候であったと振り返っています。特に、1928年のパリ不戦協定から第2時世界大戦を経て、戦争や領土獲得を目的とした征服が大きく減じた点をパリ不戦協定の功績として着目しています。私は、進歩主義者として、こういった画期を考えるのではなく、世界の進歩の方向がそうであった、としか思えませんが、まあ、興味深い歴史的論考だと思います。
次に、澤野由明『澤野工房物語』(DU BOOKS) です。私は音楽の方ではもっぱらにモダン・ジャズばかり聞いていますので、この澤野工房という欧州ジャズの、しかも、ピアノを中心に制作しているマイナー・レーベルは当然に知っています。私が聞いたのは、本書でも紹介されているウラディミール・シャフラノフにトヌー・ナイソー、そして、もちろん、山中千尋の初期作品です。シャフラノフや山中千尋はメジャーに移籍してしまいましたが、少なくとも、山中千尋については、私は移籍前後の、澤野工房でいえば「マドリガル」、あるいは、メジャー移籍後のヴァーヴでのデビュー第1弾「アウトサイド・バイ・ザ・スウィング」をもっとも高く評価しています。ジャズのマイナー・レーベルといえば、本場米国のアルフレッド・ライオン による「ブルーノート」、オリン・キープニュースによる「リバーサイド」、ボブ・ウェインストックによる「プレスティッジ」がとても有名なんですが、かのマイルス・デイビスがプレステッジからメジャーのCBSコロンビアに移籍する直前のマラソンセッションなども有名です。それはともかく、欧州のピアノ・ジャズが多いとは感じていましたが、澤野工房が兄弟2人で大阪の新世界と欧州に展開していたとか、元は履き物屋さんだったとか、知らない話題も満載で、とても楽しむことができました。
次に、伊坂幸太郎『フーガはユーガ』(実業之日本社) です。作者はご存じの通りの売れっ子のミステリ作家で、数多くのエンタメ小説をモノにしていて、本書は最新作です。兄優我と弟風我の2人が、誕生日に2時間おきに入れ替わるというオカルト的な現象をアレンジして、優我がそれをテレビで取り上げてもらうべくジャーナリストにモノローグするという形でストーリーが進みます。父親のDVから始まって、暗くてノワールなトピックも盛り込みながら、独特の伊坂ワールドが展開されます。時折挟まれる優我の嘘が混じる旨のモノローグもあって、どこまでがホントで、どこからがウソなのか、瞬間移動もウソなんではないか、と思わせつつ、最後に大きなどんでん返しが待っています。なかなか、痛快でスピード感あふれるストーリーなんですが、ひとつだけ、同じような不可解なオカルト的な現象が生じる西澤康彦の『7回死んだ男』では、「反復落し穴」という独特のネーミングを用いています。本書でも双子の瞬間移動に何か特徴的な名前を付けて欲しかった気もします。
次に、宇佐美まこと『骨を弔う』(小学館) です。今年2018年最大の話題を提供したミステリの1冊ではないでしょうか。ようやく図書館の予約が回ってきました。ということで、小学校高学年10歳過ぎくらいの仲良し同級生の男子3人女子2人の5人による秘密の行動の謎を、その中の1人である男子が解き明かそうと試みます。小学生の男女数名の仲良しグループの再会、ということになれば、スティーヴン・キングの『It』を思い出してしまいましたが、非科学的なホラーの要素はありません。それよりも、私の限られた読書経験の範囲からすれば、柴田よしきの『激流』っぽい気もしなくもありません。それにしても、評判に違わずなかなかの出来の小説です。個々人の名をタイトルにした章に合わせた文体の書き分けはまだしっくり来ておらず、一部に違和感が残るものの、プロット、とうか、構成はとても目を見張るモノがありました。ただ、最終章は蛇足というよりも、ムダそのものです。一気にストーリー全体がウソっぽくなってしまっています。文庫本に収録する際には削除すべきかもしれません。
最後に、湊かなえ『ブロードキャスト』(角川書店) です。作者はご存じ売れっ子のミステリ作家です。とても明るい青春小説です。ただ、主人公が中学3年生から高校1年生の1年足らずの期間ですので、やや幼い気もします。従って、恋愛感情などは表には現れません。ということで、中学まで陸上の駅伝などの長距離走者だった主人公が、高校の合格発表の帰り道で交通事故にあって陸上を諦めて放送部の部活を始め、陸上部の駅伝で果たせなかった全国大会出場を目指す、というストーリーです。主人公は陸上でも、本書のタイトルとなった放送部でも目標となり、よき刺激を受けるライバルや友人に恵まれ、のびのびと高校生活を送ります。ただ、陸上を諦める大きな原因となった交通事故については、もう少し詳細を明らかにして欲しかった気がします。でも、私は今もってこの作品を読んだ後でも、この作者の最高傑作はデビュー作の『告白』だと思っているんですが、一連のモノローグの暗い物語から、次々に新境地を拓く作者に注目しているのも事実です。
2018年12月22日 (土) 11:28:00
今週の読書は『宮部みゆき全一冊』や経済書をはじめ計7冊!!!
まず、ダン・アリエリー & ジェフ・クライスラー『アリエリー教授の「行動経済学」入門 お金篇』(早川書房) です。著者のうちアリエリー教授は実験経済学を専門とする研究者であり、もうひとりのクライスラーは弁護士の資格持つコメディアンだそうです。英語の原題は Dollars and Sense であり、2017年の出版です。タイトルからもお金にまつわる話が多いとされているようですが、中身はそれほどお金の話ばかりではなく、行動経済学一般の入門書となっています。ただ、こういったアリエリー教授の行動経済学の入門書は、類書も含めて、私も数冊読みましたが、どれも同工異曲であって、ツベルスキー・カーネマンのプロスペクト理論を基に、いくつか最近の実験経済学らしい実験結果を盛り込みつつも、よく似た内容が多くて、そろそろおなかがいっぱいになりそうな気がします。すなわち、相対性に幻惑されたセール価格の魅力、心の会計としてお金を分類して無駄遣いを抑制する心理、出費の痛みを軽減して支出させるマーケティング手法、アンカリングによるバイアスの発生、モノだけでなく経験も含めた所有に基づく授かり効果や損失回避、公正の実現と労力、マシュマロ・テストのような自制心の涵養、価格を過度に重視する製品ラインナップの幻惑、などなど、私のような行動経済学は専門外とはいえ、それでも何冊かのこういった本を読んでいれば、今までに見たことのありそうなトピックが満載です。私の方から、本書で取り上げられていない公正と効率のトピックをひとつ上げると、マクドナルドのマニュアルにはフォーク型の1列の行列ではなく、パラレルな平行型のレジごとに並ぶ行列を取ります。1列に順番で並ぶと、行列の先頭からレジに行くまでの時間が無駄を生じることとなり、効率を重視するとレジごとに平行で並ぶ行列が推奨される一方で、フォーク型に並ぶのはお店に着いた準晩が注文する順番と一致するわけですから公正の観点からは受け入れやすい気もします。本書では労力を費やして公正を達成する心理が取り上げられていますが、こういった効率と公正がトレード・オフの関係にある場合も少なくないわけで、本書では取り上げられていないながら、行動経済学はマンネリではなく、さらに発展の可能性があると私は評価しています。
次に、田中靖浩『会計の世界史』(日本経済新聞出版社) です。著者は公認会計士事務所の所長であり、研究者ではなく実務の一線でご活躍のようです。本書は3部構成となっており、第1部では中世イタリアで発生した複式簿記にスポットを当て、イタリアからオランダに簿記が普及し、自分のビジネスがどうなっているかを自分で解明する、というか、お金の観点から把握する試みとして、その歴史が跡づけられます。第2部では英国から米国の大西洋を挟んだアングロサクソンの国で、ルールに則って投資家に対して情報を開示する手段としての財務会計として発展する会計が描き出されます。そして、最後の第3部では米国を舞台にビジネス展開の基礎となる情報を提供する管理会計の発達に着目します。単に、会計や経済の同行だけでなく、絵画や音楽といったハイカルチャーやポップカルチャーの動向も合わせて歴史的に跡づけながら、会計と経済社会、さらに文化も包括的に解明しようと試みています。そして、私の見る限り、かなりの程度にこの試みは成功しているんではないかという気がします。あるいは、マルクス主義的な下部構造と上部構造というのはいいセン行っているのかもしれません。オランダのチューリップ・バブルや英仏両国を巻き込んだ南海会社事件などのバブルも興味深く取り上げられています。全体として、初学者にも配慮された入門編の趣きを持って、会計の観点から西洋先進国の経済社会の歴史を解明しようと試みた本書なんですが、「会計史」を標榜するからには、中世イタリアでかなりの程度に自然発生的に始まった複式簿記のごく初期の歴史にまったく触れていないのはとても大きな欠落ではないかと私は考えています。タイプライタのキーの並びと同じで、複式簿記の開始に当たっても、何らかのエピソードがあるんではないかと私は想像しているんですが、会計史の観点から複式簿記誕生秘話のようなものが冒頭に置かれていれば、もっと印象がよくなったんではないか、という気がします。
次に、マーク・リラ『リベラル再生宣言』(早川書房) です。著者は、もちろん、リベラルな政治史の研究者であり、米国コロンビア大学教授です。英語の原題は The Once and Future Liberal であり、2017年の出版です。軽く想像される通り、2016年の米国大統領選挙でトランプ大統領の当選を受けてのリベラルの側からの反省の書といえます。一言で言うと、2016年米国大統領選でのリベラルの敗因は、アイデンティティ・リベラリズムによる特定のグループへの特別の配慮を上から目線で恣意的に決定する市民視点の欠落である、と本書では指摘しています。それを、1930年代からのルーズベルト大統領によるニューディールに始まる時期、1980年代からのレーガン大統領による右派反動の政治期、そして、2016年のトランプ当選で新たなポピュリズム期、の3期に分けて論じています。先行きについては、第3部でリベラルが選挙で勝って巻き返すために、著者は市民の立場を強調しています。ただ、私には「市民」あるいは「市民の立場」という概念は大きな疑問です。というのは、市民の構成要員によるからです。米国では150年前の南北戦争後も、おそらく、1960-70年代くらいまで黒人は市民の構成要素ではなかったのではないでしょうか。さらに、その前の時代では女性は市民ではなかった可能性が高いと私は考えていますし、21世紀の現代でも、例えば、イスラム教徒の移民は市民に入れてもらえない場合がありそうな気がします。2008年の米国大統領選の際の当時の現職だったオバマ大統領に対する執拗な批判もその観点ではなかったでしょうか。ですから、私は従来から指摘しているように、リベラルないし左派というのは進歩主義で測るべきと考えています。私は圧倒的に進歩史観であり、多少のジグザグはあっても、生産性は伸び続け、そのため、財やサービスの希少性は低下し、従って、価格は低下し、その昔は金持ちしか利用可能性がなかった財やサービスが広く一般に開放される、という未来を思い描いています。その前の段階では市場において希少性に従った配分がなされるわけですから、それが平等の観点から不都合であれば、再分配を政府が行う必要があるわけです。それすら必要なく、市場に従った配分の下で決定され、平等性には配慮されていないままですから、自由を重視する右派と平等、あるいは、平等を実現するために進歩を旗印にする左派あるいはリベラル、という視点が重要ではないか、と専門がいながら私は考えています。
次に、リチャード・ブリビエスカス『男たちよ、ウエストが気になり始めたら、進化論に訊け!』(インターシフト) です。著者は、米国イェール大学の人類学や進化生物学の研究者であり、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は Hoe Men Age であり、2016年の出版です。ということで、人類学と生物学の学際的な研究成果、ということであれば、とても聞こえはいいんですが、私の目から見て、進化論的な適応と経済社会的な適応がゴッチャになっている印象で、どこまで区別出来るのか出来ないのか、あるいは、本書のように渾然一体として論じるのが正しいのか、私には判りかねますが、少し疑問に思わないでもありません。加えて、確かに、WEIRD=West; Educated; Rich; and Democraric な男性の老化を論じているわけですが、女性との違いが小さすぎるような気がします。本書で強調されている免疫力の男女差がひいては寿命の差につながる可能性はまだしも、特に、日本語タイトルにしてしまったウェストのサイズは男女ともに年齢とともに太るわけであり、程度差はあるかもしれませんが、年齢とともにウェスト周りが太るのは男女間で方向は同じであるような気がします。そして、結局のところ最後は、オキシトシンとか、テストステロンとかのホルモン、というか、脳内分泌物質に行き着くわけで、それはそれでOKだと私は考えるんですが、同じか別か、進化論的・生物学的な適応や自然選択と経済社会的な適応について、さらに両者のインタラクティブな関係やフィードバックについて、また、男女の性差についても、もう少し掘り下げた議論が欲しかった気がします。最後に、p.127 図4-1 の出展論文の著者なんですが、Kunert とありますが、ウムラウトが付く Künert だと思います。少子化の関係で、私のような専門外のエコノミストでも見た記憶があり、編集の方にはもっと正確を期して欲しいと思います。
次に、赤上裕幸『「もしもあの時」の社会学』(筑摩選書) です。2016年にオックスフォード辞書でポスト・トゥルースが選ばれて以来、フェイク・ニュースをはじめとして、真実ではない「なにか」をターゲットにした論考が少なくありませんが、本書では1997年出版のニーアル・ファーガソン教授の「仮想歴史」を題材にして、反実歴史、すなわち、事実として確定した過去に歴史に対して、そうでない反事実の歴史を仮定してその後の歴史の同行や流れを考察した社会学、というか、私のは歴史学にしか見えませんが、そういった人文科学分野の学問について紹介しています。典型的に反事実を考えるには戦争の勝者と敗者を逆にすればいいわけで、我が国のSF文学でも半村良の一連のシリーズや第2時世界大戦で日独が英米に勝利する仮定で歴史の流れを考えるSFに近い文学もあります。ただ、本書を読む限り、歴史の流れについての基礎的な認識が私と違っている気がします。すなわち、マルクス主義的な唯物史観に近い私は歴史の流れは、生産性の向上という流れが貫徹しており、基本的に進歩史観ですから、典型的には、コロンブスが米大陸を発見しなかったとしても、結局、誰かが発見していたであろうし、歴史の分岐以降、永遠に離れることはない、と考えているのに対して、本書の歴史観はどうもハッキリしません。私のようなホイッグ的なマルクス主義的な歴史観では、反事実な歴史の分岐があったとしても、例えば、第2時世界大戦で日独枢軸国側が勝利していたとしても、歴史はカギカッコ付きながら「修復」され、結局、自由と民主主義が勝利する方向に変わりなく、やや寄り道するとしても、世界は進歩を止めることはない、ということになります。その基礎となるのは経済の生産性であり、物的な生産性が高まれば、経済学的な希少性が低下し、そのため、価格が低下して、かつてはごく少数の人、すなわち金持ちしか利用可能性がなかった財・サービスでも多くの人に利用可能性が開け、必要に応じて配分されるシステム=共産主義が実現される、それも、血なまぐさい革命なしに経済の生産性向上がそれを実現する、ということになっており、その意味で、私の進歩史観はとても単純で判りやすいんですが、本書の歴史観は私にはやや不可解であった気がします。
次に、ロバート H. ラティフ『フューチャー・ウォー』(新潮社) です。著者は米国空軍を少将まで務めて退役したエンジニアであり、英語の原題はそのまま Future War となっていて、2017年の出版です。日本語タイトルの副題が『米軍は戦争に勝てるのか?』となっていますし、宣伝文句ながらAIが戦争や戦闘行為をどのように変えるのか、といった視点が強調されていたりしますが、まあ、そういった私のような一般大衆が興味を持ちそうな論点も含めて、極めて幅広くかつバランスよく論じています。ただ、主要な論点は2点に絞られ、すなわち、兵器の技術的進歩と人間あるいは先頭の先頭に立つ可能性あるロボットなどの倫理性です。前者については、「サイバー攻撃」なんて言葉が広まっていますし、伝統的な戦闘行為だけでなく、電力や水道などのライフラインに対するサイバー・アタックも私のような専門外の一般大衆ですら想像できるような世の中になっています。20世紀半ばから現在まで飛行機が空軍の創設に導いたように、兵器の技術的進歩が軍事組織の再編成を伴いつつ進んでいます。核兵器の開発はその最たるものといえます。今週になって、米国のトランプ大統領が宇宙軍 (Space Force) の創設を明らかにしましたが、これも技術的な裏打ちあってこそのことではないでしょうか。もうひとつの倫理性については、時代の進歩とともに国際法も倫理面を重視するように進歩していることは確かなんですが、本書の用語を用いれば、国際法の縛りを受けない「国家未満」のグループがテロ行為に及ぶケースが増えており、なかなか終息の兆しもありません。ただし、本書のように戦闘行為ではなく、戦争を全面に押し出せば、戦争で倫理を問うのは私には無益なことに見えます。つまり、戦争そのものが倫理性に欠けるからです。例えば、銃に実弾を装填して人間に狙いを定めて引き金を引けば、戦争状態ではないという意味で、通常であれば明らかに殺人を試みた行為として、何らかの法律で裁かれる可能性がありますが、戦争においては敵兵に対して銃をぶっ放すのは、もちろん、その結果として死亡させるのも明らかに免責されます。そのような非倫理的な戦争において、捕虜の扱いとか、毒ガス使用などを倫理や道徳の観点からいくら論じても、かなり無益な行為のように私には思えるんですが、いかがでしょうか。
最後に、宮部みゆき『宮部みゆき全一冊』(新潮社) です。昨年だか、今年だかに、作家活動30年を迎えた人気作家の未収録短編やインタビュー、書評を含むエッセイを幅広く収録するとともに、何と、ご本人による『ソロモンの偽証』の朗読CDも付属しています。私が借りた図書館は、もちろん、CDごと貸してくれました。確か、昨年の『この世の春』が30年記念の出版だったように記憶していますが、時代小説だったので、私のはあまりピンと来ませんでした。というのも、私はこの作者の作品は、もちろん、広範に読んでいるんですが、どうしても時代小説は後回しになって、現代ものが中心です。そして、宮部みゆきの最高傑作ということになると、直木賞受賞の『理由』や山本周五郎賞受賞の『火車』などが上げられる場合が多いんですが、倒叙ミステリながら私は『模倣犯』を推すことが多いような気もします。ただ、やっぱり、『模倣犯』を超えるとすれば、『ソロモンの偽証』も最高傑作の候補になろうか、という気もします。ということで、最高傑作が何かということはさて置いて、本書では、今までバラバラだったインタビューや鼎談などのナラティブを一挙に読めるという意味で貴重な存在ではないかと受け止めています。まだ、CD-ROMは聞いていませんので、何ともいえませんが、年末年始休みに聞いてみるのも楽しみです。
2018年12月15日 (土) 11:49:00
今週の読書は経済書中心にボリュームたっぷりの計6冊!!
まず、安達誠司・飯田泰之[編著]『デフレと戦う-金融政策の有効性』(日本経済新聞出版社) です。著者・編者は、巷間、よくリフレ派と呼ばれているエコノミストであり、私の知り合いはもちろん、その昔にミク友だったところ、mixiが廃れるとともにやや疎遠になった方、あるいは、その昔に書いた論文の共著者も含まれていたりします。ですから、私にはとてもスンナリと頭に入ってくる論文集でした。冒頭の編者によるエディトリアルを読めば、各チャプターの概要や結論は明らかですが、基本的に、現在の黒田総裁の下での日銀の異次元緩和をサポートする内容となっています。その中でも、特に私の印象に残ったのは、第1章では、p.35の図1-5に見られるように、多くのエコノミストの直観的な理解と整合的にも、日銀の金融緩和が生産に及ぼした影響についてVARプロセスで分解すると、株価を通じた影響がもっとも大きい、というものです。ほかに、ブロック・リカーシブ型のVARプロセスの応用、フィリップス曲線のレジーム転換、連邦準備制度理事会(FED)の議長も務めたバーナンキ教授の研究にも応用されたファイナンシャル・アクセラレータに着目した分析、ソロス・チャートとして人口に膾炙したマネタリーベースの為替への影響、さらに、企業パネルデータを用いた為替の影響の分析、各種の予想インフレ率のパフォーマンス測定などなどですが、第8章では定量分析というよりも理論モデル分析で財政政策の物価理論(FTPL)についてサーベイがなされています。ただ、やや厳しい見方に過ぎるかもしれませんが、物価目標達成の時期については何らかの分析は欲しかった気がします。副総裁就任時の国会での所信表明で、当時の副総裁候補であった岩田教授は「2年で達成できなかったら辞任する」と見得を切ったわけですから、現在の金融緩和政策が有効であるとの分析結果を示すだけでなく、動学的というと少し違うのかもしれませんが、どういった期間で物価目標が達成できるのか、についての分析が今後進むよう期待しています。
次に、岩田規久男『日銀日記』(筑摩書房) です。著者は、ご存じの通り、リフレ派の経済学者から日銀副総裁として金融政策の現場に乗り込み、今年2018年春に退任しています。就任前の国会での所信表明で、2年間で物価目標2%を達成できなければ辞任すると大見得を切って話題になったりもしました。そして、本書では、その2%の物価目標を達成できなかった最大の要因として、2014年4月の消費増税によるリフレ・レジームの転換と国際商品市況における石油価格の下落によるコスト面からの物価下押し圧力を上げています。リフレ派エコノミストの末席を汚している私にはとても判りやすい内容でした。ただ、後に取り上げる権丈先生のご本にあるように、手にした学問が異なれば答えは違ってきますので、私と同じ意見かどうかは手にした学問次第かもしれません。ただ、アベノミクス登場前のリフレ的な経済政策は、どうしても日陰の花だっただけに、本書でもかなり過激な言説が現れています。こういったあまりに率直な、率直すぎる議論の展開で、逆に、リフレ派経済学が国民一般から遠ざかった点は反省が進んでいると私は考えていたんですが、公職を退かれた勢いもあるとはいえ、やや下品に感じる読者もいるかも知れません。そういった率直すぎる感想は、特に、アベノミクスの登場とともに野党に転じた副総裁就任当時の民主党議員との国会論戦に典型的に見受けられます。それを総称して「経済音痴」と表現されていますが、米国のクリントン大統領のころの選挙キャンペーンで人口に膾炙した "It's the economy, stupid!" ということなのだろうと思います。要するに、「経済音痴」であれば選挙に勝てず、政権から脱落する、あるいは、政権を取れない、ということです。
次に、ダーシーニ・デイヴィッド『1ドル札の動きでわかる経済のしくみ』(かんき出版) です。著者は英国HSBC銀行の立会場でエコノミストとして働いていたときにBBCにヘッドハンティングされキャスターに転身したキャリアの持ち主です。ファーストネームから私はインド系を想像します。英語の原題は The Almighty Dollar であり、2018年の出版です。ということで、世界の基軸通貨たるドルがどのように世界を駆け巡るか、同時にその逆方向にどのような財サービスがドルと交換されるか、について、それぞれのドル札の行き先の国とともに経済現象について、極めて上手に取りまとめています。最初はドル札が米国の消費者によって中国製のラジオを買い求めるのに使われ、もてん派的な比較生産費説による交易の利益が解説され、ドル札の行き先の中国の為替制度に関連して変動相場と固定相場の説明があり、石油と交換されてナイジェリアに注目されて石油開発のための直接投資について、さらに、インドではロストウ的な経済の離陸と発展段階説などの開発経済学とともに、モディ政権下での高額紙幣の廃止による混乱、などが取り上げられ、最後の方では金融資産の購入の意味やバブルとその終息によるリーマン証券の破たんに伴う経済の収縮に触れています。お約束のように、英仏の南海バブルやオランダのチューリップ・バブルにも言及しています。全体として、繰り返しになりますが、とてもよく取りまとめられています。そもそも通貨や貨幣がどうして物々交換に取って代わったかは、とてもシンプルに説明しているのはいいとしても、いきなり基軸通貨の米ドルから始まっていて、英ポンドが米ドルに取って代わられた、という歴史的事実も付け加えて、基軸通貨が交代する可能性についても、もう少し非経済的な要因とともに取り上げて欲しかった気がします。でも、経済に詳しいビジネスパーソンなどは物足りないと感じるかもしれないものの、初学者の大学生とかにはとてもよく出来た経済の解説書だと私は考えます。
次に、ティム・ハーフォード『50 いまの経済をつくったモノ』(日本経済新聞出版社) です。著者はファイナンシャル・タイムズ紙のジャーナリスト・コラムニストです。英語の原題は Fifty Things That Made the Modern Economy であり、2017年の出版です。ということで、50の財・サービス・システムなどを上げて、ただし、決して重要性の観点から順序付けをしたのではないと著者は断りつつ、近代社会成立への貢献を明らかにしています。50の項目は出版社のサイトにありますので、ご興味ある向きは参照できます。パフォーマンスを保存できる蓄音機、もちろん、現在の電子本やデジタル録画されたDVDなども含めて、その蓄音機などからスーパースター経済の1人勝ち経済社会の基礎ができ、有刺鉄線による囲い込みから私有財産が守られるようになり、などなどなんですが、制度学派が財産権の確立をもってイングランドにおける産業革命の発生の要因としているくらいですから、本書にそのような明記なくとも、そういったバックグラウンドを知っておくとさらに本書の読書が楽しめるかもしれません。加えて、本書では冷凍食品に関連してTVディナーの功罪を取り上げるなど、本書で着目された50のコトが近代社会を作り上げた重要な要素とはいえ、必ずしも、経済社会が倫理的・道徳的に正しい方向に導かれたかどうかは一部に懐疑的な姿勢を示しています。とくに、最後の電球の第50章で、100年前の年収7万ドルと現時点での年収7万ドルのどちらの生活が望ましいか、と大学生に問えば、かなりの学生が100年前に圧倒的に実質価値の高かった年収7万ドルよりも、現時点での年収7万ドルを選ぶ、というポイントは外せません。物価をはじめとする統計に表れない近代・現代生活の利点がいっぱいあるわけです。そして、こういった利点をもたらした発明・発見に本書では焦点を当てています。Google検索やiPhoneといった現在のデジタル・デバイス、銀行・紙幣・保険に有限責任株式会社などの現在経済の基礎的なシステム、紙や時計やプラスチックなどの近代社会の不可欠だったモノ、などとともに、とても意外なモノや制度なども取り上げられています。例えば、日本ではピル解禁が遅れたので女性の社会進出が進まなかった、などの観点も私には目新しかったりしました。その意味で、なかなか興味深く、近代ないし現代の経済社会を論じる好著でした。
次に、権丈善一『ちょっと気になる政策思想』(勁草書房) です。著者は慶應義塾大学の研究者であり、社会保障の分野の専門家です。従って、短期的な合理性や整合性とともに、長期的なサステイナビリティにも目が行き届いたエッセイに仕上がっていますが、講演やスピーチなどのオーラルなプレゼンをいくつか収録していますので少し重複感を感じる読者はいるかもしれません。冒頭に著者から著書がシリーズ化される弱点があるとの指摘がありますが、私は不勉強ながらこの著者のご本は初めて読みましたので、それなりに新鮮でした。ということで、まず、著者は、需要サイドの経済学を左側、供給サイドの経済学を右側と定義し、現在のような一部の消費の飽和が見られるような経済社会ではなく、その昔の必ずしも生産力が十分に発達しておらず、作れば売れる時代の供給サイド分析を中心とする右側の経済学から、スミスやリカードをはじめとして、究極のところ、セイの法則などが出現した、と分析し、他方で、左側の経済学はケインズの直前のマルサスを起源に据えています。そして、その観点から社会保諸、特に年金の政策思想を分析しようと試みています。特に強調しているのが、社会保障に限らず企業活動もご同様と私は考えるんですが、将来に対する不確実性です。すなわち、シカゴ学派のナイト的なリスクと不確実性の区別に基づき、確率分布が既知であるリスクに対して、事前には情報のない不確実性があるからこそ、貨幣と実物を二分する貨幣ベール説からケインズ的な流動性選好の学説が生まれ、将来の不確実性への対処のひとつの形として貨幣が保蔵される、と主張します。その上で、経済成長とともに平等と安定の実現による経済厚生の向上を政策目標と示唆しています。なお、私が深く感銘したのは、手にする学問が異なれば答えが変わる、という著者の主張です。名探偵コナンではありませんが、よく理想的に真実はひとつとの主張も見かけますが、私は実務的に経済政策に携わって30年超ですから、何となく理解できます。ニュートン的に表現すれば、どの巨人の肩に乗るかで見える風景が違うんだろうという気がします。
最後に、片岡義男『珈琲が呼ぶ』(光文社) です。小説家の手になるコーヒーに関するエッセイです。ただ、もうすぐ幕を閉じようとしている平成のエッセイではなく、昭和のエッセイです。ですから、本書では「グルメ・コーヒー」と称されているスターバックスとかのプレミアム・コーヒーではなく、伝統的な喫茶店で飲むコーヒーを主眼にしています。その喫茶店の立地は東京が中心なんですが、本書冒頭ではなぜか、京都が中心に据えられていたりします。私は京都大学に通っていましたから、それなりに、京都における昭和の喫茶店は詳しいと自負していたんですが、ほとんど知らないところでしたので、やや不安を覚えたりもしましたが、まあ、こんなもんなんでしょう。こういったエッセイを読んでいると、私自身も片足突っ込んでいるんですが、年配の読者層を意識した本の出版がこれからも増えそうな気がして、少し怖いです。
2018年12月09日 (日) 14:29:00
先週の読書は経済・金融の専門書や話題の海外ミステリをはじめ計7冊!
まず、馬奈木俊介[編著]『人工知能の経済学』(ミネルヴァ書房) です。経済産業総研(RIETI)に集まった研究者による研究成果であり、タイトルといい、馬奈木先生の編著であることからも、かなり期待したんですが、さすがに、せまいAIだけの研究はまだ成り立たないようで、かなり広くICT技術の進歩に関する経済学の論文集と考えるべきです。特に、最後の第Ⅳ部のAI技術開発の課題に含まれているICT技術と生産性については、まだ、生産工程にAIがそれほど実装されているわけではなく、チェスや囲碁といったボードゲームやクイズ番組でチャンピオンを破ったからといっても、特定の産業の生産性が向上するわけではありません。もちろん、AIならざるICTばかりが取り上げられているわけではなく、ドローンや自動運転技術の開発なども含む内容となっています。英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる有名な研究も着目されており、AI導入に伴う雇用の喪失についての結果は、極端であると結論しています。また、第Ⅱ部のAIに関する法的課題といったタイトルながら、選択理論においてはゲーム理論のナシュ均衡をはじめとして経済学の思考パターンが応用されており、タイトル通りの狭義AIだけでなく、AIをはじめとする幅広いICT技術の経済学と考えた方がよさそうです。
次に、ジョナサン・マクミラン『銀行の終わりと金融の未来』(かんき出版) です。著者にクレジットされているジョナサン・マクミランとは架空の存在であり、実は2人の人物、すなわち、マクロ経済学者と投資銀行家という意外な組み合わせと種明かしされていますが、誰かは明記されていません。英語の原題は The End of Banking であり、2014年の出版です。ということで、本書の定義する「バンキング」とは、信用からマネーを作り出すこと、と定義し、産業経済時代には小口の短期的な流動性高い預金から大口の貸付を行って資本蓄積を進める必要あったものの、デジタル経済時代には、本書でいうソーシャルレンディング、我が国では一般にクラウド・ファンディングと呼ばれる手法により、金融機関に小口の預金を集中させることなく資金調達が可能となっており、本書で定義するバンキングなしの金融活動は可能であるし、望ましい、と結論しています。そして、そのひとつの方法としてナローバンキング、すなわち、投資行為なしに決済だけを業務とする銀行・金融機関などを提唱しています。私はなかなか理解がはかどらなかったんですが、現時点の金融システムは、ある程度は、政府や中央銀行がデザインしたものも含まれるとはいえ、それなりに資本制下で歴史的な発展を遂げてきたものであり、政府や中銀の強力な規制により著者の目論むようなバンキングのない金融システムを構築する合理性が、単に、金融危機の回避だけで説明でき、国民の納得を得られるのか、という疑問は残りました。さらに、その上で、金融機関による決済業務の重要性について、キチンとした分析ないし説明がなされるべきではないか、と思いますし、自己資本比率の引き上げによりマネーの創造の上限を抑制できるわけですから、自己資本比率の引き上げとの違いについてももう少し詳しい議論の展開が求められるような気がします。とても良い目の付け所なんですが、少し、そういった点で、手抜きではないにしても、説明不足あるいは不十分な考察結果のような気がします。
次に、スティーブン・レビツキー & ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方』(新潮社) です。著者は2人とも米国ハーバード大学の研究者であり、英語の原題は How Democracies Die となっていて、2018年の出版です。タイトルからも明らかな通り、最近におけるポピュリズムの台頭を民主主義の危機と受け止め、特に米国トランプ政権が多様性を認め寛容な米国民主主義に対する大きな挑戦をしている点を、いかに米国の伝統的な民主主義を守るか、という観点から考察を進めています。そして、ひとつのゲートキーパーとして、以前は政党やその指導者が過激勢力を分離・無効化、ディスタンシングし、インサイダーが査読していたのが、シチズンズ・ユナイテッド判決以降に少額寄付も含めて外部からの政治資金が膨大に利用可能となり、その昔の大手新聞やメジャーなテレビなどの伝統的なメディア以外のCATVやSNSなどの代替的なメディアで知名度を上げる道が開かれた点をあげています。トランプ政権の戦略について考察を進め、司法権などの審判を抱き込み、主要なプレーヤーを欠場に追い込み、対立勢力に不利になるようなルール変更を行う、の3点の戦略で典型的な独裁政権と同じと結論しています。さすがに、あまりに刺激的と著者が考えたのか、授権法によるナチスの独裁体制の確立やイタリアにおけるファシスト政権などを引き合いに出すことはためらっているように見えますが、戦後のマッカーシーズムはいくつかの点で参照されており、米国的な寛容な民主主義を取り戻すための一考にすべきような気がします。
次に、氏家幹人『大名家の秘密』(草思社) です。著者は我が国近世史を専門とする歴史学者だそうですが、国立公文書館勤務とも聞いたことがあります。私は詳細を知りません。本書は上の表紙画像に見られる通り、江戸期の大名家、特に、水戸藩と高松藩の藩主について記した小神野与兵衛『盛衰記』を中心に、その後年に『盛衰記』について徹底的に検討を加えて削除と加筆をほどこした、というか、主君に対するやや冒涜的な内容を徹底的に批判した中村十竹『消暑漫筆』、加えて、『高松藩 盛衰記』などの類書を読み解いた結果を取りまとめています。私は、フィクションの時代小説ながら、かつて冲方丁の『光圀伝』を読んだことがありますので、光圀とその兄の間で子供を交換した、などの水戸藩と高松藩の歴史については、それなりに把握しているつもりでしたが、なかなか、高松藩の名君藩主の動向など、興味深いものがありました。基本的に、戦国期を終えて3代徳川家光くらいからの文治政治下では、武士は戦闘要員たる役割を終えて役人化している中で、さすがに、大名=藩主だけは役人が成り上がるのではなく、代々家柄で決まるものであり、圧倒的に家臣団から超越した存在ですから、現在の公務員の事務次官とは大きく異なるわけで、もっと大胆、というか、当時の時代背景もあって独善的に決断を下していたものだと私は想像していたんですが、名君とはこういう思考パターン、行動様式を持つのかと感心してしまいました。そして、部下たる侍も武士道や忠義一筋、といったステレオ・パターンと異なり、かなり実務的、実益本位の面があったというのも、薄々知識としては持っていたものの、歴史書に触れて感慨を新たにした気がします。第3章の子流しと子殺しについては、必ずしも大名家をフォーカスしたものではなく、ややおどろおどろしい世界ですので、読み飛ばすのも一案か、という気がします。
次に、鹿島茂・井上章一『京都、パリ』(プレジデント社) です。著者は明治大学の仏文学者と京都の建築史の専門家で『京都ぎらい』がベストセラーになった井上先生です。共著というよりは、対談を収録しています。タイトル通りに、パリと京都だけでなく、フランスと日本を対照させた文化論なども展開しています。私が印象的だったのは第5章の食文化で、食べ物、というか、食文化については京都ではなく大阪、パリではなくローマ、というのがおふたりの共通認識で、なかなか参考になりました。また、鹿島先生が最近のフランス語の変化について判りやすく、ガス入りの水がかつての eau gazeuse から eau pétillante が主流になった、とのことで、私が大昔に読んだスタンダールの『赤と黒』にムッシュ95という人が登場し、どうしてこんなあだ名かというと、95をquatre-vingt-quinze(4x20+15)というその時点、というか、今現在そうである表現ではなく、nonante-cinq(90+5)という昔ふうの表現をするそうで、フランス語とは数の数え方という基礎的な表現ですらかなり短期間に変化する言語である、という印象を受けた記憶があり、それを思い起こしてしまいました。もっとも、ベルギーではまだ90をnonante-cinqで表現する、ということはEU勤務の経験ある友人から聞いたことがあります。といったことを早くも始まった忘年会でおしゃべりしていると、日本でも100年ほど前に「ひい、ふう、みい」から「いち、に、さん」に変更されたんではないのか、と反論されてしまいました。それはともかく、第2章から第3章にかけては、フェミニストにはそれほど愉快ではない論点かもしれませんし、かなり「下ネタ」的な内容もあったりするという意味で、品位に欠けると見なす読者もいるかも知れませんが、私が読んだ範囲でも、井上先生の『京都ぎらい』はかなり斜に構えた本でしたので、そういった観点で文化論とかいうのではなく半分冗談のつもりで軽く読み飛ばすべき本なのかもしれません。
最後に、A.J.フィン『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』上下(早川書房) です。著者はエディタから本作品で作家デビューを果たしています。英語の原題は日本語訳そのままに、2018年の出版です。ということで、主人公のアナ・フォックスはアラフォーの精神分析医であるものの、夫と娘の生活と離れて暮らし、広場恐怖症のためにニューヨークはハーレムの高級住宅街の屋敷に1年近くも閉じこもって暮し、古いモノクロ映画のDVDを見て、ワインを浴びるほど飲み、そして、隣近所を覗き見して場合により一眼レフのデジカメに収める、という生活を送っています。そして、そのご近所で1人の女性が刺殺されるのを偶然にも見てしまいます。いろんな物的証拠が主人公の精神異常性を指し示していながら、実は、最後にとても意外な殺人犯が明らかになる、というストーリーです。決して、本格推理小説のような謎解きではありませんが、ミステリの範疇には入りそうな気がします。私は精神状態の不安定な主人公の動きの中で、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』と同じプロットではなかろうか、と考えながら読み進んだんですが、最後の解説ではギリアン・フリンによる『ゴーン・ガール』との比較をしていたりしました。『ゴーン・ガール』では妻が夫を殺人犯に仕立てようとする中で、最後のどんでん返しは、何と、この夫婦が仲睦まじく夫婦生活を再開する、というところにオチがあったんですが、本書はそういったオチはありません。ただひたすら意外などんでん返しが待っていて、サイコパスの犯人が明らかになるだけです。その分、やや『ゴーン・ガール』から見劣りすると受け止める読者もいそうな気がします。実は、私もそうです。出版社の謳い文句ながら、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに初登場で1位に入る快挙を成し遂げ、その後も29週にわたりランクインした、とか、英米で100万部以上の売り上げを記録した、とか、早くも映画化されて来年2009年の封切り、とか、宣伝文句に大いに引かれて借りて読んでみたんですが、少し、私の期待するミステリ小説とは違っているかもしれません。なお、どうでもいいことながら、上巻巻末に主人公などが見ているモノクロの古いフィルム・ノワールのリストが収録されていますが、加えて、本書で言及されている処方薬の効能書きなんぞも必要ではないか、と私は感じてしまいました。
2018年12月01日 (土) 11:28:00
今週の読書は何と経済書と経営書ばかり計8冊!!
まず、白川方明『中央銀行』(東洋経済) です。著者はご存じの通り白い日銀のころの総裁であり、私の実体験から知る限り、今世紀初頭の速水元総裁に次いで、日銀総裁として2番めに無能だった人物です。もちろん、上から目線バッチリで、ほとんどのトピックについて自分が正しかった旨を主張しています。しかし、私が見ていた限りでは、リーマン証券が破綻した後の Great Recession の際、金融政策が後手に回り、市場はもちろん政府・国会などからの要求が激しくなると金融緩和策を繰り出し、「追い込まれ緩和」といわれたのは記憶に残っています。デフレを人口動態に起因する事態と「発見」しながら、藻谷浩介『デフレの正体』の著作を引用するでもなく、2012年の民主党から自民党への政権交代の直前から円安が急速に進んだのは、アベノミクスの金融緩和策への期待ではなく、ギリシアなどにおける欧州債務危機の後退から、円の安全資産としての安全性が低下したからである、といった主張には唖然としてしまいました。民主党政権下で当時の菅総理の辞任を受けての代表選で、野田候補以外はリフレ的な主張をしていて、暗澹樽気持ちになったというのは正直でいいとしても、市場や政府や国会から日銀無能説の大攻勢を受けていた中で、共産党の参議院議員だけが日銀の理解者だった、なんてことは、思っても著書に書くべきかどうか迷わなかったんでしょうか。唯一、中央銀行の独立性とは目標の独立ではなく、手段の独立、すなわち、オペレーショナルな独立性である、と記している点はやや意外でした。ただ、最後の方の p.672 で著者ご自身も認めているようで、日銀白川総裁の5年間の任期中に何と2度の政権交代があり、総理大臣が6名交代した、と記していますが、そのもっとも大きな原因を作った人物を1人だけ上げようとしたら、それは当時の日銀白川総裁その人であった、という事実にはご本人はまったく気づいていないようです。さらに、付け加えるとすれば、2012年12月の第2時安倍内閣成立から国政選挙で与党が連戦連勝なのは、これもその最大の功労者は現在の日銀黒田総裁である、という点は忘れるべきではありません。米国クリントン大統領の選挙キャンペーンのスローガンであった "It's the economy, stupid!" はかなりの程度に普遍的に成り立つわけです。
次に、大村敬一ほか『黒田日銀』(日本経済新聞出版社) です。上の表紙画像に見えるように、7人のマクロ経済学や金融の専門家が、6年余りに及ぶ黒田日銀を評価しています。7人の中には翁教授のように日銀出身で旧日銀理論に立脚する著者も含まれていますが、1人を除いて、6人は黒田日銀に好意的な評価を下しているように私は読みました。典型的なのは第1章と第2章であり、典型的に評価するポイントは為替の円安誘導であり、逆に、量的緩和が物価目標を2年程度では達成できずに、金融緩和が長期化している点には懸念あるものの、実は、その昔の西村清彦『日本経済見えざる構造転換』でいつの間にか構造改革が進んでいたと主張されていたように、量的緩和は出口に向かい、ステルスでテイパリングが進められている可能性も指摘されています。その点を評価しているのは翁教授などの旧日銀理論の信奉者だという気もします。そして、いまだに物価目標2%が達成されていない原因は根強いデフレマインドである、ということになります。そして、本書で何人かの論者が指摘している黒田日銀への批判のうち、私も同意するのは、黒田日銀の市場との対話がコンセンサス形成ではなく、サプライズによる政策効果を狙っている可能性であり、その方向性が間違っている可能性が強い、という点です。もう1点、ETFを通じた日銀の株式買い入れやJ-REIT購入による株価や不動産価格に対する歪みを懸念する意見もありますが、私はこの方は大きな心配はしていません。パッシブに購入している限りは株価形成などに歪みをもたらすことはありませんし、サイレントな株主になって、ガバナンスに悪影響を及ぼす可能性は否定しませんが、リスク資産購入による政策効果のベネフィットの方が大きいものと考えるべきです。6年経過しても物価目標を達成できないながら、少なくともデフレ状態からは脱却していますし、それなりの景気拡大効果のある金融政策運営ですから、本書のような黒田日銀の評価は極めて正当なものと私は考えています。
次に、奥村綱雄『部分識別入門』(日本評論社) です。著者は横浜国立大学の研究者であり、専門は数理経済学です。本書で詳しく解説されていますが、部分識別とは、私の知る限りでは、モデルの組み方ではなく、あくまで、モデルのパラメータの推計に関する新しい方法論であり、従来のパラメータ推計が標本を基に何らかの分布を前提とするのに対して、部分識別とは標本ではなく全母集団情報を対象にして何らの分布を前提とせずにパラメータ推計を行います。というと、ノンパラメトリック推計なのか、という疑問が出るんですが、従来のパラメータ推計が確率変数に対して何らかの信頼区間は置くとしても、ほぼほぼ決定論的な数値を得るのに対して、部分識別ではパラメータの値そのものでなか卯、その存在するバウンドを求めるという作業になります。別の角度から、従来のパラメータ推計では前提となる仮定を緩めることにより一般化を図るのに対して、部分識別では弱い前提から強い前提を加えることでバウンドの範囲を狭めようとします。ただ、本書の著者が少し説明不足であるのは、操作変数法を用いたりする場合は別として、一般にパラメータを推計するなり、パラメータのバウンドを推計するなりは、因果関係ではなく相関関係の有無や強さの測定になります。この点はやや説明不足を感じました。基本的に、本書では教育の効果の例を出しての解説を進めているんですが、私が強い興味を感じたのは第5章の政策効果の測定です。単純に、フードスタンプを用いる家庭の子供の栄養状態は、フードスタンプに頼る必要のない家庭の子供より悪くなるのは当然ですが、単純なOLSに頼ると、フードスタンプを用いるとかえって子供の栄養状態が悪化するように見えかねません。この問題が部分識別では見事にクリアされています。また、家庭内暴力(DV)被疑者逮捕の効果の比較に関して、ランダム化比較実験(RTC)、操作変数法、部分識別の3つの手法による政策効果の把握が試みられており、単純なオツムの私なんぞから見れば、かなり説得的です。ただし、最後に、完全な学術書ですから、グラフによる直観的な説明は優れている印象はあるものの、数式はバンバン登場しますし、とても難易度は高いと考えるべきです。その意味で、一般的なビジネスパーソン向きとはいえません。その意味で、著者の講演スライドが大阪大学のサイトにあるのを発見しましたので、それを見てから読むかどうかを決めるのも一案かという気がします。
次に、木内登英『トランプ貿易戦争』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ご存じ、最近まで日銀政策委員をしていた野村総研のエコノミストです。私は、チーフエコノミストやシニアエコノミストという肩書は知っていましたが、エグゼクティブエコノミストという肩書はこの著者で初めて知りました。ということで、本書のタイトル通りに、米中間の貿易戦争について取り上げています。基本的に、自由貿易を外れる貿易戦争、関税率引上げや輸入制限などに対しては、通常、エコノミストは批判的であり、本書も同様です。ただ、本書の米中貿易戦争に対する分析は、かなり多くのエコノミストの緩やかなコンセンサスの通り、というか、ハッキリいえば、特段の新しい発見のないありきたりな内容ともいえます。すなわち、米中間の貿易戦争に突入したのは、おおむね米国サイドの要因であり、2017年中は特段のアクションなかった米国トランプ政権が、2018年になって急に中国の貿易不均衡にセンシティブになり、関税率引上げなどの行動に出た背景は、核ミサイルをはじめとする北朝鮮問題で米朝間の直接対話に道が開かれ、中国の北朝鮮に対する影響力への期待が薄れ、それだけ強気に出ることが可能になった、という点が強調されています。そして、製造業の復権に強い期待をかけるトランプ大統領が、最先端技術分野で中国が米国を凌駕する恐れも中国への強硬姿勢の背景とされています。同時に、かなりバブリーな中国経済の現状に対しても、米国の関税引き上げに伴って経済にショックを生じて、景気が下り坂となれば、実体経済に加えて金融面からも大きなマイナスの影響を生じる可能性が指摘されています。そして、その対中強硬姿勢の理論的な支柱として、『米中もし戦わば』の著者であるナバーロ教授の存在を重視しています。本書でも指摘されている通り、かつて、日本に対しては口先介入を含めて「円高カード」を切って、かなり高圧的に経済交渉を持たざるを得なかった時期があり、私個人も1990年代半ばの日米包括経済協議の外交交渉に巻き込まれた経験があります。その日本の果たすべき役割について、自由貿易の利益を粘り強く米国に訴える、というのはやや寂しい気もしますが、そういった対応策は別にして、背景を含めた現在の米中貿易戦争、そして、それに伴って生じ得る中国経済の何らかの困難、などについて、コンパクトに理解するには役立つ読書だった気がします。
次に、バーリ・ゴードン『古代・中世経済学史』(晃洋書房) です。著者はオーストラリアのニューカッスル大学教授であり、専門はキリスト教経済思想や古典経済学だそうです。英語の原題は Wconomic Analysis before Adam Smith であり、もっとも最初の出版は1975年だそうです。原題からも理解できる通り、アダム・スミスが経済学の創始者であるという、我々エコノミストの常識を真っ向から否定していて、古典古代から経済学の歴史を説き起こしています。よく間違われるんですが、私は大学のころは経済史のゼミにいて、経済史は経済の歴史ですので、かなり大昔にさかのぼっても何らかの経済活動がある以上は経済史は成り立ちます。一般には、マルクス主義的な経済史では古典古代の奴隷制から始まって、中世の封建制ないし農奴制、近代の資本制、さらに、革命を経て社会主義や共産主義が来る、ということになっていたわけです。他方、経済学史は経済学の歴史ですから、アダム・スミス以前は経済学が近代的な科学として成り立っていなかったので、本書のようなアダム・スミス以前の経済学史については、意味がないと考えられているわけです。しかし、私の暴行の京都大学経済学部の経済学史の口座を持っていた出口先生の言葉を訳者あとがきで引いていて、「経済生活の知的反省」と考えれば、スミス以前の経済学も考えることは出来るのかもしれません。私は、たぶん、古典古代からの経済学のテーマとしては、勤労はほぼほぼ一致した重要性が与えられるとして、貨幣と利子に関する考察、さらに、狭い範囲ながら交易の考察が含まれるべきと考えますが、本書ではそれぞれの時代の知識人の経済学的な活動を編年体で構成しています。もちろん、価値と価格の問題など、とても興味深いテーマも含まれています。全般的には、私のような不勉強な人間には、かなり判りにくい内容です。
次に、小島寛之『宇沢弘文の数学』(青土社) です。著者は大学の学部で数学を修めた後、大学院では経済学に転向して宇沢教授に師事した経済学者です。専門は数理経済学のようです。ということで、タイトルは数学となっているんですが、私は宇沢先生の経済学の方がいいように感じました。唯一、数学的な理解が深まったのは、数学の言語性と数学能力が人類の innate と宇沢先生が表現したような先天的な形質かもしれない、という点かと思います。演繹的な数学と帰納的な統計の対比もなかなか興味深いと感じました。その一方で、数学ではなく宇沢先生の経済学は、典型的に、倫理感を重視し、本書にもある通り、その昔のシカゴ学派のベッカー教授のような合理性は、必ずしも肯定されません。合理的に薬物の乱用に走るのはあくまで非合理、という考えです。ですから、いつも称しているように、官庁エコノミストにして左派、という私の考え方にはとても親和性があります。著者は、冒頭に、経済学は数学の応用分野ながら、現実の説明力に乏しい、と記していて、まあ、多くの人が感じているところではないかという気がします。そして、宇沢先生の力点は市場が完結しているわけでも、市場化が効率化を意味するわけでもない、という点にあるんですが、その市場の解決策として宇沢先生は社会的共通資本を持ち出すわけですが、そこにおける政府の役割が私にはハッキリしません。単に、人間関係や流行りの絆とか、単なる文化的な共通認識で市場の不完全性を正すことができるとは私にはとても思えません。最近の日産・ルノーのカルロス・ゴーンの事件も、人間としての欲望丸出しで、ベッカー的な合理性ある犯罪なのかもしれませんが、こういった資本主義、というか、現代経済の歪みを正すのが社会的共通資本であるというのは、マルクス主義に対する空想的社会主義のように私には見えます。理想論は大いに共鳴するところがあるものの、もう少し地に足つけた議論も必要ではないでしょうか。

次に、山本勲『労働経済学で考える人工知能と雇用』(三菱経済研究所) です。著者は、日銀から慶應義塾大学の研究者に転じた経済学者です。私も面識ありますが、労働経済学が専門だったりします。タイトルにあるような人工知能という狭い範囲ではなく、技術革新というもう少し広い視野から雇用を考えています。すなわち、技術と雇用が代替的であって、新技術の採用とともに雇用が減少するケースもあれば、保管的であって雇用が謳歌する場合もある、ということになります。そして、1980年台の英国サッチャー政権や米国レーガン政権の発足などとともに、格差が拡大した事実については、スキル偏向型技術革新仮説について、スキルに対するプレミアムの見方を、中間層の没落と貧困層と高所得層の増加という二極化を説明できない、などの理由から否定し、routinization 仮説=定型化仮説に基づく非定形化した業務への高報酬とする説を支持しています。そして、英国オックスフォード大学の研究者の成果も取り上げられており、AIに代替される雇用についても、Autor ほかによる AML タスクモデルの観点から疑問を提示しています。100ページ足らずのボリュームで、本というよりもパンフレットのような出版物ですが、それなりの内容を含んでいる気がします。
最後に、服部泰宏・矢寺顕行『日本企業の採用革新』(中央経済社) です。著者2人は神戸大学大学院の同級生らしく、阪神方面で経営学の研究者をしています。タイトル通りの内容なんですが、もう少し詳しく展開すると、2016年卒業生の採用から、人手不足が顕著になり、いわゆる売り手市場が現出したことから、いくつかの企業で採用に関する革新が生まれ、その革新の謎解きをしています。ただ、「革新」は経済学では通常シュンペーター的な新機軸を指していて、英語では inovetion であるのに対して、上の表紙画像に見られる通り、本書では regeneration を使っています。経済学を大学時代に専攻していて、官庁エコノミストを自称する私には見慣れない「革新」だという気がします。本書の著者もそれには気付いているようで、第3章では、経営課題としては新規顧客の獲得や顧客との関係強化が上げられる場合が多く、採用が経営課題として認識されているのでなければ、何らかの確信をもって採用活動を変革しようとするインセンティブは小さい、と指摘してます。それはともかく、本書では採用の革新を募集活動の革新、選抜の革新、募集と選抜の革新、革新の対外発信、他企業との協力の5カテゴリーに分類しています。その上で、採用活動の従来系について、入学偏差値の高い大学の卒業生であって、頭脳明晰かつ明朗闊達な人材を採用する、そのために、早い時期から時間をかけて多くの志願学生から選抜する、という点が重視されてきたところ、このパターンから外れるユニークな採用を2016年スつ行政に対して実施した3社のケーススタディを実施しています。ただ、私が疑問に感じているのは、いつもながらの経営学のケーススタディですから、取り上げられたサクセス・ストーリーの裏側に死屍累々たる失敗例がいっぱいあるんではないか、という点です。そして、いつもの通り、その疑問には答えてくれていません。加えて、採用の革新例として、広く報じられた2社の採用革新、すなわち、ドワンゴの受験料徴収と岩波書店のコネ限定を冒頭に取り上げていますが、人手不足下の売り手市場に対応したものではないんではないか、という気もします。
2018年11月24日 (土) 11:54:00
先週と今週の読書は合わせて11冊!!!
まず、根井雅弘『英語原典で読む経済学史』(白水社) です。著者は我が母校である京都大学経済学部の経済学史を担当している研究者です。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスから始まって、20世紀の巨人ケインズまで、一部にマルクス主義経済学の文献も織り込みつつ、加えて、タイトルからは少し離れて英語以外のフランス語やドイツ語の原典も引きつつ、さまざまな経済書を取り上げています。タイトルの順番通りに、経済学史の勉強は後回しで、「英語原典で読む」の方に重点が置かれています。別の言い方をすれば、、スミスをはじめとして経済学史的に重要というよりも、有名で人口に膾炙した表現を多く拾っている印象があります。何かの折に、経済学の名著の英語原典を引用するには便利そうな気がします。
次に、ローレンス・フリードマン『戦略の世界史』上下(日本経済新聞出版社) です。著者は、英国ロンドン大学キングス・カレッジ戦争研究学部に在籍した研究者です。意地悪な解釈をすれば、シンギュラリティが訪れてAIに取って代わられる前に、人類が築き上げた戦略の要諦について取りまとめた労作といえます。戦争や戦闘行為の戦略から始まって、個人の選択の問題、さらに、現代ビジネスマンの興味分野である企業経営の戦略などに至るまで、幅広い「戦略」に関しての歴史を集大成しています。第1部では、戦略の起源を、聖書、古代ギリシャ、孫子、マキャベリ、ミルトンに探り、ナポレオン、ジョミニ、クラウゼヴィッツ、モルトケ、マハン、リデルハート、マクナマラ、カーン、シェリング、ロレンス、毛沢東などの軍事戦略をひも解こうとしています。このあたりはまだ、私のような専門外のエコノミストにも馴染みがあるといえます。でも、下巻に入ると企業経営戦略も含まれているとはいえ、私なんぞには難しく感じられ始めます。すなわち、「下からの戦略」として、ガンジーらの非暴力運動、キング牧師らの公民権運動、クーンの科学革命論、フーコーの哲学、アメリカ大統領選挙戦など、多様な話題を通じて戦略思想の変容をとらえる一方で、「上からの戦略」として、テイラー、スローン、フォードら経営者、ドラッカーなどの経営理論家の思想、さらには、ゲーム理論などの経済学の隆盛、社会学的な取り組みを明らかにし、合理的選択理論の限界、ナラティブ、ストーリーとスクリプトの有効性を取り上げています。まあ、何かの記念に読んでおくのも一案かという気がします。
次に、イワン・クラステフ『アフター・ヨーロッパ』(岩波書店) です。著者はブルガリア出身の政治学研究者です。欧州における極右・ポピュリズムの台頭、米国優先政治を掲げる米国トランプ政権、これらは、リベラリズム、民主主義、寛容といったキリスト教と啓蒙主義の遺産ともいえる西欧的な価値観を根底から覆しつつあるとの危機感を出発点として、従来の欧米価値観について論じています。すなわち、一般大衆がコスモポリタン的なエリートとトライバルな志向の移民の両方にNOを突きつけた結果としてのポピュリズムの台頭と捉え、その原因として、難民・移民危機はどのように欧州社会を変化させたか、支配階層にあるエリートへの有権者の反乱はなぜ起こっているのか.EU諸国のリベラル・デモクラシー体制がポピュリズムの台頭で内部的危機に直面する現在、その原因を解き明かし,どのように対応すべきかを論じています。ただ、その結論は私には説得的ではありません。といって、私自身が解決策を持っているわけでもなく、解がない問題なのかもしれません。私の偏見かもしれませんが、著者の出身から、どうしても視点が中欧ないし東欧に置かれている気がしてしまい、自由と民主主義の本流である西欧的な価値観に著者がやや理解が浅い気もしなくはありません。もちろん、専門外の私の理解が浅いだけかもしれません。
次に、吉田忠則『農業崩壊』(日経BP社) です。著者はジャーナリストであり、現在の肩書は日本経済新聞社編集委員となっています。本書では我が国の農業について、小泉進次郎、植物工場、企業の農業参入の3つをキーワードに、問題点のあぶり出しとその解決策を模索しています。私は農業問題にはそれほど詳しくないんですが、中学や高校のころから、日本農業の問題点として上げられて来た経営規模の問題だけでなく、最新技術の応用や作物育成から流通問題まで、幅広い視野で農業を見ています。ただ、私の直観ながら、農業政策の本流の視点ではないような気もします。というのも、農政問題については、先の経営規模の問題と関係して、農地所有のあり方や補助金の問題などを議論して来たと思うんですが、本書ではこの2点はまったくといっていいほど触れられています。本書でスポットを当てられている植物工場に至っては、失敗例ばかりが並んでいる印象すらあります。植物工場は、企業の農業参入とともに、うまく立ち行かない我が国農業に経営効率の視点から、上から目線で農業に取り組んだ企業の失敗談とも読めます。将来の総理候補とまでいわれる小泉代議士についてもまだまだ未知数の部分が大きいのも事実です。やや眉に唾つけて読むべき本なのかもしれませんが、それなりに示唆に富む内容と受け取る向きもありそうです。
次に、鈴木董『文字と組織の世界史』(山川出版社) です。著者は長らく東京大学東洋文化研究所をホームグラウンドとしていた研究者であり、オスマン・トルコ帝国の歴史が専門とあとがきにあります。本書は、いわゆるグローバル・ヒストリーを基礎としており、一国史やせいぜい地域史の範囲を超えて、ネットワークとして世界史を俯瞰する試みのひとつといえます。そのネットワークやリンケージのキーワードとして、タイトルにある言語と組織を基礎的な視点にして議論を展開しています。なお、小耳にはさんだウワサなんですが、東大東洋文化研究所では新しい世界史とタイトルされたサイトを解説しています。また、東大生協駒場書籍部における2018年9月度の人文書部門で『ホモ・デウス』につぐ第2位だったそうです。ということで、元に戻ると、タイトルにある文字と組織については、私の読み方が悪かったのかもしれませんが、圧倒的に文字に重点が置かれている気がします。むしろ、組織よりも文字にあわせた宗教の方がキーワードになっている気がします。我が国は、もちろん、文字や言語の点からは中国を拠点とする漢字圏なんですが、宗教的にはインドを拠点として東南アジアに広がっている梵語圏の中心をなす仏教の影響も大きいですし、経済的には少なくともアジアの中では西欧から米州大陸に広がるラテン語圏の影響も小さくありません。もちろん、グローバル化の進展の中で、東欧からロシアに広がるキリル語圏や中東からアフリカ北部のアラビア語圏とも決して関係が浅いわけでもないといえます。歴史書でいつも私が注目しているポイントのひとつに、欧米が現時点までで世界的な覇権を握っているのは英国を期限とする産業革命をいち早く成功裏に開始したからであり、どうして産業革命が西欧で始まったかは歴史家の間でもコンセンサスがないことから、この産業革命の視点がありますが、本書では極めてアッサリと、ウェーバー的な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で済ませていて、やや物足りないと感じましたが、400ページ近い本書にしても、1冊ですべての世界史を十分な深さで取り上げられるわけではないと考えるべきなのかもしれません。いずれにせよ、グローバル・ヒストリーの見方に触れ、それなりの世界の歴史観を感じ取れる読書だった気がします。
次に、野村進『どこにでも神様』(新潮社) です。著者は大学の研究者であるとともに、ノンフィクション・ライターとしても活躍していて、何冊かノンフィクションの書籍を出版しているようです。本書では、副題にもある通り、出雲と神様をキーワードとして、出雲から少し広い範囲のや山陰地方の伝統文化や精神構造などを解き明かそうと試みています。すなわち、出雲ならざる鳥取の水木しげるの視点から、神様ならざる妖怪を取り上げたり、今では同じ島根県とはいいつつも、石見地方の神楽に注目しています。本書の後半で詳しく論じられますが、専門家ならざる私の見方でいえば、国譲りの伝説にもある通り、古典古代の我が国に置いては出雲政権は大和政権に敗れた、と考えているんですが、本書の著者は少し違った視点も盛り込んでいます。もちろん、古典古代においては極東に位置する我が国からして、中国という隣国はあらゆる意味において地域どころか世界の超大国であり、漢字を文字として受け入れたことに典型的に現れているように、中国やその文化の経由地である朝鮮半島に近い出雲の方が大和よりも先進地域であったことは想像に難くありません。もちろん、大和政権も九州かどこかはともかく、西から大和に攻め上ったんでしょうが、中国や朝鮮の直接の窓口をなる位置にある出雲の方が先進地域であった可能性の方が高いと私は考えています。しかし、21世紀の今、というよりももう少し前の20世紀半ばの戦後においては、本書でも「裏日本」とか、今でも山陰という表現があるように、決して、文化や政治経済の中心とはいえないのが現状であるという気がします。でも、神様や妖怪をキーワードに出雲周辺の歴史を振り返り、文化に着目するのはいい試みかもしれません。
次に、東野圭吾『沈黙のパレード』(文藝春秋) です。著者は、ご存じの通り、売れっ子のミステリ作家であり、本書は人気のガリレオ・シリーズ最新刊です。湯川は米国留学を経て教授に昇進し、草薙も警視庁捜査一課で係長に昇進しています。本書では、グレーから極めてクロに近い犯罪容疑がありながら、かつては「証拠の王様」であった自白を避けて黙秘を通すことにより、「疑わしきは罰せず」の刑法の原則に従って無罪となった男が、いかにも、ということで、事件の犯罪被害者とその友人から殺害されたようなシチュエーションから始まります。そして、私もこのブログで何度か、例えば、同じ著者の『夢幻花』を5年前の2013年6月15日に取り上げた際に明記したように、この著者の遵法精神以外に何も感じられない正義感に疑問を感じていたんですが、ガリレオこと湯川教授に独白させ、『容疑者Xの献身』における一般的な善悪の感覚や広く受け入れられた道徳よりも、単なる遵法精神をあまりに優先させ倫理観にやや欠ける解決に対する反省の弁が見られます。私なんぞには理解できないガリレオ・シリーズ特有の殺害方法も首尾よく解決され、私も湯川教授の犯罪被害者とその友人に対する態度や考え方に深く納得しましたので、いい読書だった気がします。直木賞を授賞された『容疑者Xの献身』よりも、私は個人的に高く評価します。
次に、池井戸潤『下町ロケット ゴースト』及び『下町ロケット ヤタガラス』(小学館) です。このシリーズの第3作と第4作だと思います。当然ながら、大田区の町工場地域にある佃製作所が舞台であり、第1作では、まさに、ロケットのエンジンに使うバルブそのもの、そして第2作の『ガウディ計画』では人工心臓向けのバルブを諦めての心臓の人工弁、そして、この最近2作のでは前2作のハイテク路線からグッとローテクに回帰して、農業機械、トラクタなどのエンジンとトランスミッションに挑戦します。『ゴースト』ではトラクタのトランスミッションに挑戦し、『ヤタガラス』ではトラクタのエンジンとトランスミッションを帝国重工に供給しつつ、その自動運転化技術にも挑みます。相変わらず、この作者の作品らしく、善悪が明瞭に分岐していて、悪いヤツはトコトン悪く、いい人はどこまでも勝ち続けます。経済学や物理学などのモデル分析を主流にする科学に親しもあればともかく、善悪をあいまいなままでコトが進む日本的な風土で、ここまでこの作者の作品が支持され、テレビでもドラマとして成功を収めているのはやや不思議な気がしますが、私が読んでも面白いんですから、かなり完成度は高いといえます。この2作と前の『沈黙のパレード』の3冊の小説は買って読みました。3冊も買うのは久し振りかもしれません。
最後に、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書) です。著者は我が母校の京都大学のイスラム史の専門家であり、東大寺の長老としても名高い僧侶です。「東大寺」の懐かしい響きを感じ、ついつい借りてしまいました。聖武天皇の勅から始まったと考えられがちな東大寺の造営につき、その前の段階からていねいに歴史をひも解きつつ、東大寺や国分寺のなりたちや役割について解き明かしています。私は中学高校と6年間ずっと奈良に通っていたんですが、まさに南大門を入って大仏殿の前に校舎がありました。今はかなり離れたところに移転し、私が通ったころの2クラス100人足らずの生徒数から、倍くらいに大規模化したように聞き及んでいますが、男ばかりのムサイ6年間ながら、京都大学の学生時だよりも青春そのものの想い出深い時代でした。いまだに Facebook でつながっている仲間もいますし、逆に、顔も見たくないイヤなヤツもいます。それも合わせて、貴重な青春の6年間だった気がします。その中学高校は東大寺からのいくばくかの補助があったと聞いたことがあり、京都の名門である洛星高校などよりは、それなりに学費負担も大きくなく、決して恵まれた所得があったとはいえない我が家でも私を通わすことが出来たのかもしれない、と思い起こしています。約10年前に100歳超で亡くなった祖母が、私の学校との関係で東大寺のお水取りに加わって喜んでいたのは、もう40年以上も前のこととなりました。改めて、東大寺への感謝の気持ちを込めて拝読しました。
2018年11月10日 (土) 11:38:00
いろいろ事情があって今週の読書は計9冊読み飛ばす!!!

まず、大矢野栄次『ケインズの経済学と現代マクロ経済学』(同文舘出版) です。作者は久留米大学の研究者です。冒頭のプロローグにあるんですが、「現代経済学の流れのなかで、唯一、現代の世界経済の考え方と経済政策の方向性を変革しうる経済学が『ケインズ経済学』であり、『ケインズ革命』の再認識であると考える」との意識から書き始めていますが、本書の中身は、大学の初学年ではないにしても2年生ないし学部レベルのケインズ経済学の解説に終止しています。それなりの数式の展開とグラフは判りやすく取りまとめられていますが、1970年台に石油危機に起因するインフレと景気後退のスタグフレーションにおいてケインズ経済学批判が生じ、そして、2008年のリーマン証券破綻から再び見直され始めた流れについてはもう少していねいに解説してほしかった気もします。
次に、ルチアーノ・カノーヴァ『ポップな経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者はイタリアの行動経済学を専門とするエコノミストです。原書はミラノで2015年の出版ですから、ややトピックとしては古いものも含まれていて、逆に、新しい話題は抜けています。当然です。冒頭ではAIによる職の喪失から話を始め、行動経済学のナッジやゲーミフィケーションの活用、クラウドファンディングの台頭についてはやや唐突感もあるんですが、テクノロジーの進歩による情報カスケードによすフェイクニュースの蔓延、ビッグデータの活用、大学教育の変革などなど、どこまでポップかは議論あるかもしれませんが、それなりに興味深いトピックを論じています。繰り返しになりますが、2015年の出版ですので新しいトピックは抜けていますが、概括的な解説としてはいいセン行っている気がします。
次に、本田由紀[編]『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(ナカニシヤ出版) です。8人の研究者によるチャプターごとの論文集です。科研費を利用してマクロミルのネット調査からデータを収集し、かなり難しげな計量分析手法により、タイトルの文系大学教育と実務のレリバンスを探っています。ただ、自ら指摘しているように、あくまでアンケート対象者が役立ったと思っているかどうかのソフトデータであり、ホントに客観的なお役立ち度は計測しようがありません。その上、東大教育学部の研究者と大学院生が半分を占める執筆陣ですから、本書のタイトルの問いかけに対して否定的な回答が出るハズもありません。各章についても、ラーニング・ブリッジングといわれても、教育者により定義や受け止めは違うでしょうし、理系と文系の対比がありませんから、やや物足りない気もします。しかし、奨学金受給者が専門分野には熱心な学習姿勢を示しつつも、正規職員就職率には差が見られない、という計量分析結果については、やや悲しい気がしました。
次に、持永大・村野正泰・土屋大洋『サイバー空間を支配する者』(日本経済新聞出版社) です。著者3人の打ち最初の2人は三菱総研の研究員で、最後の土屋先生は慶応義塾大学の研究者です。芸剤の先進国に限らず、新興国や途上国でも、国民生活も企業活動も、もちろん、政府に政策も、何らかの形でサイバー空間と関係を持たないわけには行かないような世界が形成されつつあります。そこでは、おどろおどろしくもサイバー攻撃、スパイ活動、情報操作、国家による機密・個人情報奪取、フェイクニュース、などなど、ポストトゥルース情報も含めて乱れ飛び、そしてグーグルを筆頭とするGAFA、あるいは、中国のバイドゥ、アリババ、テンセントのBATなどに象徴される巨大IT企業の台頭が見られます。そして、従来は、国家の中に企業や組織があり、その中に家計や個人が属していたという重層的な構造だったんですが、多国籍企業はいうまでもなく、個人までも国家や集団をまたいで組内する可能性が広がっています。私の専門がいながら、安全保障面でも、米国を始めとして軍にサイバー部隊を創設したり、何らかのサイバー攻撃を他国や他企業に仕かける例も報じられたりしています。こういった中で、サイバー空間の行方を決める支配的な要素として技術と情報を考えつつ、我が国がどのように関与すべきかを本書の著者は考えようとしています。ただ、私としては左翼の見方として対米従属に疑問を持つ見ながら、ここはサイバー空間においては米国に頼るしかないんではないか、という気もしないでもありません。
次に、ジェイムズ Q. ウィットマン『ヒトラーのモデルはアメリカだった』(みすず書房) です。著者はイェール大学ロースクールの研究者です。英語の原題は Hitler's American Model であり、年の出版です。米国での出版ですから、ドイツで発禁処分となっている『わが闘争』からの引用もいくつかなされていたりします。タイトルから容易に想像される通り、ユダヤ人への差別、というには余りにも過酷な内容を含め、ナチスの悪名高いニュルンベルク諸法のモデルが、実に不都合な事実ながら、自由と民主主義を掲げた連合国の盟主たる米国の有色人種を差別する諸法にあった、という内容です。ジム・クロウ法とか、ワン・ドロップ・ルールなど、1950~60年代の公民権運動のころまで、堂々と黒人やネイティブ・アメリカンは差別されていたわけで、それなりの研究の蓄積もありますので、特別な視点ではないような気もしますが、2016年大統領選挙でのトランプ大統領の当選などを踏まえて、こういった差別をキチンと考え直そうという動向は米国だけでなく、日本も含む世界全体をいい方向に導くような気がします。
次に、平野啓一郎『ある男』(文藝春秋) です。弁護士を主人公に、林業に従事する中年男性が事故で亡くなったところ、兄が来て写真を見て「これは弟ではない」と言い出し、そこから未亡人の依頼を受けて弁護士の調査が始まります。もちろん、戸籍の違法な取得や交換が背景にあるわけですが、例えば、宮部みゆきの『火車』のように、決して、ミステリとして謎解きが主体のストーリー展開ではなく、登場する人々の人生について深く考えさせられる純文学といえます。調査する弁護士は、まったく人種的な違和感ないものの、在日三世で高校生の時に日本人に帰化しているという経歴を持ちますし、中年以降くらいの人間が過去に背負ってきたものと人間そのものの関係、さらに、『火車』では借金が問題となるわけですが、本作では殺人犯の子供から逃れるための戸籍の違法な取引が取り上げられています。こういった、ひとりの人間を形作るさまざまな要素を秘等ひとつていねいに解き明かし、人間の本質とは何か、について深く考えさせられます。ただし、私はこの作者の作品としては『マチネの終わりに』の方が好きです。でも、来秋の映画封切りだそうですが、たぶん、見ないような気がします。
次に、三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社) です。作者は私も大好きな直木賞作家であり、私は特に彼女の青春物語を高く評価しています。この作品も青春物語であり、舞台は東京は本郷の国立T大学とその近くの洋食屋さんであり、主人公はT大の生物科学科で研究する女性の大学院生とその院生に恋する洋食屋の男性のコックさんです。まあ、場所まで明らかにしているんですから、東大でいいような気もしますが、早大出身の作者の矜持なのかもしれません。タイトルは、ズバリ、植物の世界を表しています。コックさんは2度に渡って大学院生に恋を告白するんですが、大学院生は研究対象である植物への一途な情熱から断ります。そして、最後は、研究対象である植物への情熱こそ愛であるとお互いに認識し、新たな関係構築が始まるところでストーリーは終わっています。一体、どのような終わり方をするんだろうかとハラハラと読み進みましたが、この作者らしく、とてもポ前向きで明るくジティブな結末です。この作者の作品の中では、直木賞を授賞された『まほろ駅前多田便利軒』などよりも、私は『風が強く吹いている』や『舟を編む』が好きなんですが、この作品もとても好きになりそうです。
次に、堂場瞬一『焦土の刑事』(講談社) です。終戦の年の1945年から翌年くらいの東京は銀座などの都心を舞台に、刑事を主人公に据えて殺人事件の舞台裏を暴こうとします。終戦前の段階で、東京が空襲された後の防空壕に他殺の女性の死体が相次いで発見されたにもかかわらず、所轄の警察署による捜査が注されて、事件のもみ消しが図られます。そして、その殺人事件は終戦後も続きます。特高警察や戦時下の異常な体験などの時代背景も外連味いっぱいなんですが、最後の解決は何とも尻すぼみに終わります。特高警察や検閲への抗議、あるいは、殺人事件のもみ消しなどは吹き飛んで、実につまらない解決にたどり着きます。大いに期待外れのミステリでした。
最後に、久原穏『「働き方改革」の嘘』(集英社新書) です。著者は東京新聞・中日新聞のジャーナリストであり、本書は取材に基づき、現在の安倍政権が進める「働き方改革」とは労働者・雇用者サイドに立ったものではなく、残業を含めて使用者サイドに長時間労働を可能にするものだという結論を導いています。そして、最後の解決策がやや寂しいんですが、人を大切にする企業活動を推奨し、「官制春闘」といった言葉を引きつつ、労使自治による雇用問題の解決を促しています。私が考えるに、現在の我が国における長時間労働、いわゆるサービス残業を含めた長時間労働は、マルクス主義経済学の視点からは絶対的剰余価値の生産にほかならず、諸外国の例は必ずしも私は詳しくありませんが、もしも先進国の中で我が国が突出しているのであれば、我が国労使の力関係を示すものであるともいえますし、逆に、政治的に使用者サイドを支援せねばならないくらいの力関係ともいえます。いずれにせよ、長時間労働の問題と現在国会で議論が始まろうとしている外国人労働者の受入れは、基本的に、まったく同じ問題であり、抜本的な解決策の提示が難しいながら、エコノミストの間でも考えるべき課題といえます。
2018年11月03日 (土) 11:52:00
今週の読書は話題の経済書をはじめ大量に読んで計9冊!
まず、岩田一政・左三川郁子・日本経済研究センター[編著]『金融正常化へのジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。今春に黒田総裁が再任され、2期目10年の人気まっとうを目指して、引き続き、異次元緩和の金融政策が続いています。しかし、他方で、10月末に明らかにされた「展望リポート」でも政策委員の大勢見通しは、またもや、成長率も物価もともに下方修正され、日銀のインフレ目標達成の時期は先送りされっぱなしです。そして、本書は副総裁経験者である岩田理事長を筆頭に日本経済研究センターの金融分析部門を上げて、金融正常化への道を探ろうと試みています。本書では章ごとにジレンマを付して金融政策を概観していますが、何といっても最大の問題点は第2章の強力な緩和を続けつつも物価が上昇しない点です。おそらく、現状では人で不足に現れている通り、実体経済は景気循環的にはピークを過ぎたという議論はあり得るものの、景気はかなり好況を呈していると考えるべきであり、需給ギャップは需要超過であることはいうまでもありません。他方で、政府による女性や高齢者の労働市場への参加拡大策の成功等により、労働のスラック墓だ完全には尽きているとはいい難く、賃金が上昇する気配すらありません。賃金と物価のスパイラルによる内生インフレの段階には達していないわけです。それだけに、日銀による財政ファイナンスや日銀財務の健全性の問題などの観点からの批判も絶えません。ただし、本書の底流にある、こういった日銀金融政策のカッコつきの「正常化」を目指すべしとの見方は、日銀を浮き世離れして国民生活から切り離されたかの視点からの議論であり、私はどうも受け入れがたい気がしています。まず、デフレではない状態になった経済の現状から、さらに一歩進めてデフレ脱却にどのような政策が必要か、金融政策だけでは物価目標達成がムリなのであれば、いかなるポリシー・ミックスが考えられるのか、もう少し突っ込んだ議論が求められています。
次に、木下智博『金融危機と対峙する「最後の貸し手」中央銀行』(勁草書房) です。著者は日銀から学界に転じたらしいんですが、法学部出身であり、専門分野は物価をターゲットとする金融政策ではなく、金融システムの安定性をターゲットにしたプルーデンス政策のようです。特に、本書ではプルーデンス政策の中でも最後の貸し手としての中央銀行、Lender of Last Resort (LLR) を分析対象としています。もちろん、バックグラウンドには2008年9月のリーマン証券破綻をどう考えるか、の疑問があります。従って、冒頭からいわゆる日銀特融23件を分析対象にしつつ、巷間指摘される銀行の救済は、誤ったイメージであると主張します。すなわち、日銀から流動性が供給されても、両建てで借方と貸方の両方に日銀から供給された流動性が計上されるわけですから、債務超過の額は日銀からの流動性供給の前後で変わりないというわけです。しかし、私は大きな疑問を持ちます。すなわち、流動性供給による支払能力の維持が救済であって、債務超過の解消をもって「銀行救済」と考える人はいないハズです。資本注入は政府のプルーデンス政策であり、中央銀行の場合は流動性供給による支払能力、すなわち、ソルベンシーの確保であると考えるべきです。こういった根本的な疑問がありつつも、金融政策の経済分析ではなく、金融の安定性確保のケーススタディもなかなかに興味深いもんだということが本書を読んでいてわかった気もします。すなわち、私の専門のひとつである景気循環の平準化などのマクロ経済の安定性確保とともに、金融システムの安定性確保もシステミック・リスク回避の観点から大きな意味があります。ただし、どちらも恣意的に解釈されて不必要な政策対応となり、いわゆるモラル・ハザードにつながる危険もあります。本書では、中央銀行の最後の貸し手としての原則を確立した19世紀半ばのバジョット原則を基本として、日米英欧州などの中央銀行による最後の貸し手昨日の実際の発揮のケーススタディが豊富に取り入れられています。また、BOX 17で中央銀行の債務超過は問題かどうかを論じていて、中央銀行の会計上の健全性と金融システムの安定性確保との関係の複雑性が解説されています。
次に、ファクンド・アルヴァレドほか[編]『世界不平等レポート 2018』(みすず書房) です。「ほか」に入れてしまいましたが、『21世紀の資本』で有名なピケティ教授も編集人に名を連ねています。そのベストセラー『21世紀の資本』を作り出したデータべースを基に、世界各国及び世界経済の不平等の最新動向を世界横断的にの100人以上の研究者ネットワークを駆使して、隔年で報告する新たなリポートとして発汗される運びとなったと出版社のサイトにはあります。第Ⅰ部ではWID.worldプロジェクトと経済的不平等の測定と題して、本リポートの目的意識などを明らかにし、第Ⅱ部では世界的な所得不平等の傾向を取り上げ、米国、フランス、ドイツなどの先進国はもとより、中国・インド・ロシアなどの新興国や途上国の不平等、この場合はフローの所得の不平等を、場合によっては100年以上の歴史的なタイムスパンで跡付けます。もっとも、我が国はデータがないのか、取り上げられていません。第Ⅲ部では公的資本と民間資本の動向を分析し、我が国はバブル経済期において不動産価格が高騰したことなどから、先進国の中でも民間資本が公的資本に比べて大きな割合を占めていると指摘しています。第Ⅳ部では富の不平等に着目し、ストックである富はフローの所得よりも不平等の度合いがさらに大きいと結論しています。そして、最後の第Ⅴ部では不平等と闘うとして、累進課税の役割の重視やタッkスヘブンでの課税逃れに対応するため世界金融資産台帳の必要性を明らかにし、教育の重要性に焦点を当てています。繰り返しになりますが、国によっては100年を超える超長期に渡るデータに基づく議論を展開し、不平等の改善のための政策についてはやや弱いところがありますが、事実をまず明らかにして今後の研究のツールとするという姿勢が読み取れます。なお、邦訳書は7,500円プラス消費税と高額ですが、以下のWID.worldのサイトでは英語版のpdfファイルが無料でダウンロードできますし、その他、各章のもととなっているワーキングペーパー、さらに、本リポートで用いられているデータはもとより、データプロセッシング向けのプログラムコードも圧縮ファイルでアップされています。大学院生向けのような気もしますが、ご参考まで。
次に、佐藤航陽『お金2.0』(幻冬舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、いわゆる青年起業家なんだろうと思います。タイトルからして、お金や経済についての話題が多いものの、副題が上の表紙画像に見られるように「新しい経済のルールと生き方」となっていますので、仮想通貨やブロックチェーンなどのFINTECHの簡単な解説も含まれていますが、同時に、人生論を始めとして、哲学的とまではいわないまでも、かなり抽象度の高い、決して具体的な応用可能でない議論も展開されています。その意味で、年配の経営者の人生を振り返ったエッセイに近い印象もあります。本書の底流に一貫して流れているのは、今までの常識を疑うという視点であり、逆から見て、事故を確立し自分なりの味方ができるように自分を鍛える、教養や見聞を広める、ということになります。電車の広告などで、メチャメチャ目についたので借りてみましたが、確かに、私のように大きな組織の中でのうのうとサラリーマンをしてきて定年に達してしまった人間には出来ない発想もいっぱいありましたが、特に、マネーキャピタルとソーシャルキャピタルを対比させて、前者の資本主義的色彩と後者のより共同体的、というか、人によっては社会主義的な色彩まで読み取る読者もいるかも知れません。ただ、起業家として資本主義のルールのもとで成功して、十分な所得を得たからいえるのかもしれない、と思わないでもない部分も少なくなかった気がします。年齢的に、上から目線になっていないのも好ましい点かもしれません。私のような年配の読者ではなく、もっと若い学生からなりたてビジネスマンくらいの読者を想定しているように受け取れる部分もありました。ただ、我が家の倅どもに読ませたいとは私は思いませんでした。むしろ、私くらいの引退世代に近い読者の方が理解が進むような気がします。ただし、複数の経済システムが共存する世界、というのは、不勉強にして私は理解できませんでした。
次に、大原扁理『なるべく働きたくない人のためのお金の話』(百万年書房) です。著者は、数年前から25歳にして東京都内国立市にて「隠居生活」を実践し、定収入のもとで支出の少ない生活を送っていて、今では台湾に移り住んで同様のケチケチ生活を海外で続けているそうです。私も、来年3月には定年退官し、無職無収入に陥る可能性もかなりあり、あるいは、参考になるかもしれないと考えて読んでみました。もっとも、私の場合はカミさんがパートにでも出てくれれば、私は楽ができますし、今の人で不足が叫ばれる東京で私もまだ何らかの収入ある職につける可能性は少なくないと楽観しています。私も大学を卒業してから現在まで、キャリアの国家公務員として、ほぼほぼ日本国民としての平均的な生活を保証するだけの収入を得てきましたが、60歳で定年退官すれば自力で収入を得る必要があるわけで、それが出来なければ、本書で低回しているようなケチケチ生活を送らねばなりません。もっとも、本書ではケチケチ生活のすすめを展開しているわけではなく、桶ねとの付き合い方の基本論を展開しています。ただ、私が疑問に受け止めたのは、お金との付き合いであって、お金を稼ぐための労働観とか働くということについての著者の考えがまるで伝わってきませんでした。勤労という行為は、一面では社会的な貢献、あるいは、社会的貢献をしている自分に対する責任感であり、他面から見れば個人や家族の生活の基となる収入を得る手段です。マルクスが喝破した通り、資本制下では商品生産がその特徴を表し、商品を市場において貨幣と交換するために労働力しか持たないプロレタリアートはその労働力を売ることを余儀なくされます。そして、本書の著者は支出を低水準に抑える結果として、労働も低水準の供給しかしない、という選択をしています。あるいは、低生産性の労働にしか従事しない、ともいえます。労働供給と生活水準は、どちらが卵か鶏かは議論が分かれる可能性もありますが、私は本書の著者のように生活が先にあってそれに必要な労働供給があるんだろうという気がしています。単なるケチケチ生活の実践だけでなく、なかなかに、基本哲学がしっかりしていて驚きました。
次に、キャス・サンスティーン『#リパブリック』(勁草書房) です。著者は、憲法専門とする米国ハーバード大学の法科大学院(ロースクール)の教授であるとともに、ノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らとともに行動経済学や実験経済学の著作を公表したり、あるいは、その見識をもってオバマ政権において行政管理予算局の規制担当官を務めたりしています。本書は、タイトルからは判りにくいかもしれませんが、もう15年以上も前に刊行された『インターネットは民主主義の敵か』の問題意識をいくぶんなりとも共有し、熟議民主主義に重点を置いた現在の民主制に対して、インターネットや進歩の激しいテクノロジーが何をもたらすかについて考察を巡らせています。特に、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを対象に、フルター・バブル≅情報の繭≅エコーチェンバー(共鳴室)により意見を異にする他者からの断絶を生じかねない、また、それを快いとも感じかねない情報やコミュニ受け―ションのあり方に疑義を呈しています。少なくとも、その昔の新聞は、完璧とはほど遠いながらも、それなりに異なる意見を収録し、例えば、私が見ている範囲でも、専門家の意見として両論併記を試みたりしているわけですが、ネット上のSNSなどでは意見を同じくする集団が形成されてしまい、その中に取り込まれて自分と同じ意見だけに接するようになると、それなりに快く感じたりする一方で、熟議に基づく民主主義の健全な運営にはマイナス要因ともなりかねない、というのは一般にも理解できるのではないでしょうか。我が国におけるネトウヨなんかがひょっとしたら当てはまるのかもしれません。そこに、無制限の表現の自由を許容するのではなく、何らかの政府による規制が必要になる可能性の端緒があります。米国的な極端なリバタリアンの世界ではなく、日本的な世論形成を考えれば、本書の主張はもっと判りやすいような気がします。かなり難しい内容ですが、テクノロジーと民主主義の未来について、次に取り上げる『操られる民主主義』とともに、考えさせられる1冊でした。
次に、ジェイミー・バートレット『操られる民主主義』(草思社) です。英国の左派シンクタンクに属するジャーナリストで、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The People vs Tech であり、今年2018年の出版です。前の『#リパブリック』と同じように、民主主義が技術の進歩により歪められる危険を指摘しています。例えば、典型的には、先の2016年の米国大統領選挙においてトランプ陣営で暗躍したケンブリッジ・アナリティカの果たした役割などです。もちろん、行動経済学や実験経済学の見識からして、アルゴリズム的に処理された情報に基づく一連のナッジの支配下に人々が置かれる危険はあり、私もこういった技術の過度の利用、というか、悪用に近い利用により世論が歪められる危険があるのは理解できますが、選挙などでは逆の陣営もこういった技術を利用し始めるわけですから、長期的には民主主義には悪影響はないものと理解していましたが、例えば、独占が形成されるなどにより長期に渡って技術の悪用により世論が歪められる可能性がある点は理解が進んだ気がします。また、本書では民主主義を支える人々へのベーシックインカムの必要性も主張していますが、同時に、ベーシックインカムはあくまで基礎的な生活の必要をまかなうだけであり、決して格差を解消するほどのパワーはないと結論しています。こういったリスクは当然にあるわけですが、私は民主主義も技術に合わせて、というか、やや遅れつつも、システムとして進歩するんではないか、という気がしています。本書ではカーネマン教授の言うところのシステム2に基づく熟慮の民主主義に重点を置いていますが、そのためには一定の時間的な余裕も必要ですから、生産性の向上も不可欠です。経済と民主主義が車の両輪としてともに進化する中で、技術の過度の進歩に起因する民意の歪曲などの問題は、個々人の自覚ではなく、社会経済のシステムの問題として、システムそれ自身の進化や進歩により、あるいは言葉を変えれば、同じ意味ながら、技術革新により解消される部分が小さくないというのが私の直観的な理解です。その意味で、民主主義に関しては、私は本書の著者ほど悲観的ではありません。
次に、ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』(白水社) です。著者はドイツの作家・ジャーナリストであり、本書のドイツ語原題は Der totale Rausche となっていて、直訳すれば、「全面的な陶酔」ということにでもなりそうです。ドイツ語原書は2015年の出版ですが、邦訳のテキストは2017年出版のペーパーバックだそうです。ということで、ナチス・ドイツの総統だったヒトラーとその主治医モレルを中心に据えて、ヒトラーが重度のジャンキーであったことを本書は主張しています。私自身のイメージとしては、ナチスは道徳的に退廃しきったワイマール帝国への嫌悪感や反省からドラッグに対しては厳しい態度で臨み、同時に、自分の肉体は自分の裁量下にあるというユダヤ的、あるいは、マルクス主義的な見解ではなく、いかにも全体主義的な遺伝子のベクターという見方に立脚して、肉体的にも精神的にも健全なアーリア人の育成に努めていた、と思っていたんですが、まったく事実は異なるようです。ヒトラー自身は菜食主義者であったのは有名ですし、ヒトラー・ユーゲントでは今どきの田舎のボーイスカウトよろしく、地産地消などの大地に根ざした活動を進めていたと私は認識していて、それはそれで、田舎っぽくて私の趣味に合わない、と感じていたんですが、カギカッコ付きで「超都会的」な薬物中毒だったとは知りませんでした。前線兵士については、特に日本の神風特攻隊の兵士などは薬物で精神的に高揚しきった状態でなければ、とても任務に臨むのは不可能だったとは容易に想像できますが、いやしくも国家の最高指導者であったヒトラーが薬物中毒のジャンキーだったわけですから、第三帝国が英米連合国に負けたのも当然といえます。それなりにショッキングな内容の本でした。私はもともとがマルクス主義をバックボンとする左翼ですので、ファシズム・ナチズムやヒトラーは目の敵なんですが、その感をいっそう強くした気がします。
最後に、中澤克昭『肉食の社会史』(山川出版社) です。本書の著者は当然ながら歴史の研究者です。本書では古典古代ほどではないものの、律令制の成立した平安期くらいから近世江戸期くらいまでを対象に、我が国における肉食の歴史を宗教史とともにひも解いています。すなわち、我が国では明治維新まで動物を殺して肉食するという文化が、いわゆる「薬食い」などで例外的な肉食はあったものの、決して肉食は一般的ではなかった、という俗説的な理解はそれほど正しくない、というのが本書の著者の主張です。その日本での肉食を本書では歴史的に跡付けているわけですが、その際のひとつの観点は、天皇を頂点とする身分制の中での差別と格差の問題であり、もうひとつは殺生を禁じた仏教という宗教的な影響です。まず、身分の違いによる肉食については、天皇家から始まって、摂関家、侍(≠武士)の食事を解明し、それなりに肉食が行われていた実態が明らかにされます。加えて、宗教の観点からも、動物が人間に肉食されることにより、食べた方の人間が死ぬ際に同時に成仏できる、との宗教観もあながち一般的でなくもなかった、との見方を著者は示します。そうかも知れません。ただ、本書で強調しているのは、明治維新まで肉食される対象はあくまで野生の動物が狩りによって仕留められた場合であって、肉食を目的として飼育されていた家畜を屠殺してまで肉食のもととなることはない、という点です。すなわち、我が国では家畜は農耕などの際の実用的な使役獣であって、肉食の目的で飼育されているわけではない、ということで、これは西洋的な家畜の概念とは大きく異なっているような気がします。
2018年10月27日 (土) 10:26:00
今週の読書は話題の『ホモ・デウス』ほか計9冊!
まず、ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』上下(河出書房新社) です。著者は歴史学を専門とするヘブライ大学の研究者です。日本で2年前に邦訳本が出版された前著の『サピエンス全史』はかなり流行った記憶があり、我が家の近くの区立図書館ではまだ予約の行列が長々とできていました。私のこのブログでは2016年10月1日付けの読書感想文で取り上げていて、「ジャレド・ダイアモンド教授の『銃・病原菌・鉄』をはじめとする一連の著書に似通ったカンジで、ハッキリいって、二番煎じの感を免れません」との酷評を下している一方で、本書との関係では、人類においては「虚構」が他人との協力を可能にし、他人との絆が文明をもたらした、と結論し、その「虚構」とは国家、貨幣、企業などなど、という点を評価しています。この点は本書でも同じように引き継がれています。すなわち、主観と客観と共同主観という3つの認識方法が示されています。典型的には貨幣、経済学では管理通貨制化の貨幣 fiat money ということになります。ということで、本書の流れに戻ると、冒頭で、その昔からの飢餓・疫病・戦争による死からは現代人は解放され、技術進歩とともに不老不死が達成された暁には、人類は神性を求める、というところからお話しが始まります。私はこの前提は「神性」という言葉の定義次第だろうと考えているんですが、私が読み逃したのでなければ、本書ではその定義は示されていません。ただ、私の考えでは人類が地球の生物のトップに立ったのは事実といえます。ただし、著者のいう「虚構」ではありませんが、マルクス主義的に考えれば、疎外は忘れるべきではありません。すなわち、人類=サピエンスが地球のすべてをコントロールできるわけではない、というのと同じレベルで、集団としての人類=サピエンスの行動もコントロールできな場合があり得ます。例えば、気候変動のようなマクロの問題は個々人のマイクロな意思決定が自由かつコントロール可能でも、マクロでは制御不可能かもしれません。そのあたりは、やや私にはまだ物足りない気もしますし、加えて、意識の問題をサピエンスの特徴と考えるのは異論がありそうですが、前著よりは格段に出来がよくなった気がします。ただ、地球生物の支配者となったサピエンスが、ほかの意識を持たない動物をどう扱ってきたかについての考察が、AIがサピエンスを上回る知性となった場合に援用されているのはとても秀逸な分析です。私はこれにはかなり同意します。
次に、スコット・ギャロウェイ『the four GAFA』(東洋経済) です。著者は、連続起業家(シリアル・アントレプレナー)として著名だそうで、いくつかの大学院でMBAコースの授業も持っているらしいです。本書のタイトル通りに、デジタル時代の4巨頭である GAFA (Google、Apple、Facebook、Amazon) を対象にしているんですが、このテの本はほとんど内輪誉めも含めて、これらの業績抜群のGAFAをほめたたえ、人事制度や事業化の過程や在庫管理やなんやかやについて日本企業もGAFAのマネをすべし、という内容だと考えていたんですが、本書はそうでもありません。すなわち、サクセス・ストーリーではなく、これらのGAFAの企業活動などについてはかなり懐疑的な見方が示されています。例えば、宗教に近いような崇高なビジョンを掲げつつ、利益、特に株主に還元する利益は軽視し、法律は抜け穴を見つけては無視し、競争相手は豊富な資金で踏みつぶし、コレクションという人間の本能を刺激して売りまくり、結果として、ほとんどの人を農奴にしてしまう、などの議論を展開しています。また、本書 p.289 では、これらGAFAの共通項として、「商品の差別化」、「ビジョンへの投資」、「世界展開」、「好感度」、「垂直統合」、「AI」、「キャリアの箔付け」、「地の利」8項目を上げています。特に、経済学的には「スーパースターの経済学」や「1人勝ち経済」などと呼ばれているデジタル経済の特徴のひとつを体現する企業と考えられているようです。もちろん、GAFAにとっては酷な物言いであり、デジタル経済の特徴を生かしつつ経済学が考える合理的な利潤極大化などの経済目標に向かう活動にいそしんでいるだけなんでしょうが、少なくとも結果として、格差の拡大などをもたらしていることは事実かもしれません。GAFAをはじめとするデジタル経済で大きな力を持ちつつある企業に対する国民からの注視に役立つかもしれません。しかし、最後の方にある個人の対処方法、すなわち、大学に行く、などはほとんど役立ちそうにない印象を持ったのは私だけでしょうか。
次に、藤原洋『全産業「デジタル化」時代の日本創生戦略』(PHP研究所) です。著者は、大学を卒業した後、日本IBM、日立エンジニアリング、アスキー、ベル通信研究所などでコンピュータ・ネットワークの研究開発に従事し、1996年に株式会社インターネット総合研究所を設立して現時点でも代表を務めていますが、私は専門外なのでビジネスの実態はよく知りません。本書では、現時点で想定可能な範囲で2030年を見通し、現在進行中のAIとIoTと5Gの活用により第4次産業革命が進み、我が国経済が大きく成長して2030年にGDP1,000兆円達するという楽観的なシナリオを提示しています。どうでもいいことながら、先週取り上げたニッセイ基礎研の「中期経済見通し」では予測期間最終年2028年度で680兆円弱の名目GDPを予測しています。それから、日本経済が長らく停滞して来たのは、私のようなリフレ派エコノミストが考える金融政策の失敗に起因するのではなく、政府が規制や保護で旧態依然とした産業構造を維持してきたため、アマゾンに典型的に見られるように外来種によって日本市場が席巻されたためである、と結論しています。まあ、そうよ移動が起こりにくくした政策動向は確かに私もあると考えていますので、判らないでもありません。話を元に戻して、本書では、具体的に、情報通信、流通、農業、金融・保険、医療・福祉などの産業分野において、ビジネス実態や企業がどう変わるか、何をすべきか、政府の規制緩和の動向、などをわかりやすく解説しています。第3章の企業のAIに関する取り組みなどは、専門外の私でも知っているいくつかの企業活動が取り上げられており、特に目新しさはない一方で、現時点における幅広いサーベイ、というか、極めて大雑把な産業や企業活動の概観が得られると思います。加えて、GAFAの企業活動を見るにつけ、第4次産業革命は早くも勝負が決まった、と考える必要は何らなく、これからが勝負なので、日本企業にも目いっぱいチャンスがある、というのは私も同感です。金融のFINTECHはやや怪しいですが、物流や医療介護などは我が国企業にとって得意分野ではなかろうか、という気は確かにします。
次に、ジェイムズ・グリック『タイムトラベル』(柏書房) です。著者は、よく判らないながら、どうもサイエンスライターのようなカンジで私は受け止めました。英語の原題も Time Travel そのもので、2016年の出版です。本書は、タイトル通りに、「タイムトラベル」をキーワードにしつつも、立体的で可視的な3次元空間と違って、目に見えない4次元目の時間について歴史的な考察を巡らせたエッセイです。ですから、第1章はタイムマシンから始まります。マシンものなしでタイムスリップする場合とか、その昔の米国のTV番組だった「タイムトンネル」のような構造物を別にすれば、私の貧困なる発想と想像力では、映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のデロリアンか、ドラえもんのいかだのようなタイムマシンしか思い浮かびません。そして、時間を行き交いする以上、タイム・パラドックスも避けて通れません。これも発想と想像力貧困にして、極めて上手にタイム・パラドックスを処理した映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の例と、ホラー作家ですからディストピア的な仕上がりになるのは仕方ないスティーヴン・キングの『11/23/63』が印象に残っています。ということで、長々とした前置きを終えて、本書では歴史的に時間を考えていますが、近代的な時間感覚を一般大衆が持ち始めたのは、20世紀に入るころからであると本書の著者は指摘しています。そこにほどなく、相対性理論に基づく宇宙の時間をアインシュタインが持ち込み、宇宙というものを4次元時空連続体のモデルで計算できることを示したわけです。最後に、本書で指摘ないし取り上げている興味深い点を2つ上げると、タイムトラベルで標的にされやすいのはヒトラーらしいです。おそらく、近代以降でもっとも忌み嫌われている人物の1人であり、ヒトラーがこの世に生を受けなければ、もっといい世界が展開していたのではないか、と思わせるのかもしれません。そして、タイムトラベルを取り扱った日本の小説としては、民話レベルの「浦島太郎」を別にすれば、唯一、村上春樹の『1Q84』に言及がなされています。ここまで海外でも有名なんですから、早くノーベル文学賞を取って欲しいものです。
次に、戸田学『話芸の達人』(青土社) です。著者は、テレビやラジオの番組構成、映画や落語を中心とした著述で活躍しているライターのようです。上の表紙画像に見られる通り、関西で活躍した西条凡児と浜村淳と上岡龍太郎の3人の話芸の達人を取り上げ、昭和から平成の話芸史を跡付けます。そして、結論として、この3人の話芸のバックボーンは、西条凡児には落語があり、浜村淳には浪花節があり、上岡龍太郎には講談がある、と示唆しています。3人とも生粋の大阪人ではなく、西条凡児は神戸、浜村淳と上岡龍太郎は京都の出身であるとして、やや柔らかで上品な語り口の秘密のひとつとして上げています。西条凡児については、戦前戦後の転換点で権力への反骨精神を指摘しつつ、浜村淳については文章として書き下せば標準語となる言葉に対して、いわゆる「てにをは」を強調する関西風のアクセントを付けるのが特徴と解説しています。さらに、立川談志が上岡龍太郎の頭脳と感性を絶賛したとして、その尻馬に乗るがごとく、漫画トリオでいっしょに高座に上がった横山ノックへの弔辞を長々と引用し、「井原西鶴から織田作之助にまで見られる物事を饒舌に列挙して語るという大阪文学の特徴までも垣間見えた」と称賛を惜しみません。東京で同様の話芸といえば、永六輔や小沢昭一などが上げられそうな気もしますが、関西文化圏の話芸とどこまで比較できるか、は、私には判らないものの、現在でも落語が東京と上方で分かれているように、話芸もご同様かもしれません。最後に、実は、私も話芸の要求される職業に就いていたことがあります。それは大学教員です。初等中等教育の教員であれば、かなりインタラクティブな生徒とのやり取りを含みつつ、せいぜいが1時間足らずで授業が終わりますが、大学教員の場合は、規模の大きな教室の講義ではインタラクティブな学生とのやり取りもなく、ほぼほぼ一方的に1時間半、90分間しゃべり続けなければなりません。しかも、それを半年で15回、1年通じて30回の講義として一貫性あるものとする必要があります。ハリ・ポッターのシリーズでホグワーツで魔法史を教えるビンズ先生のように淡々と退屈な授業をするのもひとつの手ですが、それなりに学生の興味を引こうとすれば、教員の方でも話芸を磨く努力が必要かもしれません。私はしゃべる方はかなり得意でしたが、それでも、十分な準備が必要でした。
次に、辻村深月『噛みあわない会話と、ある過去について』(講談社) です。ご存じ、作者は売れっ子の小説家であり、本書は『かがみの孤城』による本屋大賞受賞後の第1作でもあります。独立した短編4編を収録しています。そして、ジャンルを問われれば、私はホラー小説であると回答しそうな気がします。学生時代に異性でありながら恋愛関係にはなり得なかった男性の友人が結婚するに当たって、その婚約者=配偶者に縛られていく様子を描いた「ナベちゃんのヨメ」、小学生のころに担任ではないながら少しだけ教えた記憶がある地味でおとなしい子がアイドルになってから母校を訪問した際の気まずい思いを取り上げた「パッとしない子」、成人式の着物の写真が変化して行って、その写真に整合的な人生を送るようになる「ママ・はは」、小学生のころの同級生が学習塾産業で大成功した後にミニコミ誌からインタビューに行き厳しい質問を受ける「早穂とゆかり」から編まれています。特に、「パッとしない子」と「早穂とゆかり」はモロに相手から詰め寄られるシーンが圧倒的で、「ママ・はは」は超自然現象的に写真が変化するとともに、真面目過ぎる母親がいなくなるという意味深長なフレーズに戦慄を覚えもしました。もちろん、「ナベちゃんのヨメ」には人間らしい自分勝手さがにじみ出ています。そして、何らかの対立、というか、対決も含めて二項対立がストーリーの中心にあるわけですが、西洋的な善悪の対立ではなく、コチラが悪くて、アチラが正しい、とかの明確な対立・対決ではありません。そこは東洋的、というか、日本的なあいまいさに包まれているんですが、こういった対立・対決の構図はまたまたホラーに見えてしまいます。ある意味で、読後感はよくありませんし、その辺に転がっている日常の風景でもないんですが、普通の人が普通の人の心を傷つけるということですから、我と我が身を振り返って何らかの身につまされる思いが起こらないと、逆に、アブナいんではないか、とすら思ってしまいます。
次に、周防柳『高天原』(集英社) です。表紙画像は少し見にくいかもしれませんが「たかまのはら」とルビが振られています。作者は、すでに何本かの小説を出版していますが、私の頭の中では、我が国の古典古代の時期を舞台とする時代小説家です。私はこの作家の作品は3作目ですが、六歌仙を取り上げた『逢坂の六人』と『古事記』を口承したといわれている稗田阿礼を主人公とする『蘇我の娘の古事記』の2作を読んでいます。そして、この作品はサブタイトルにもある通り、成文化された国史を編纂する、というか、国作りの物語を口承説話などから構成しようとする厩戸皇子=聖徳太子を主人公とし、その実務に当たる船史龍にも重要な役割を振りつつ、『天皇記・国記』と呼ばれる国史編纂事業に焦点を当てた時代小説です。しかし、厩戸皇子=聖徳太子はこの小説のラストから半年後に亡くなり、さらに、編纂所が設けられていたのは蘇我馬子の屋敷の別館なんですが、その馬子も亡くなり、『天皇記・国記』は未完のままに終わります。もっとも、イザナギ・イザナミによる国作りの物語やアマテラスの天孫が降臨して天皇家の始祖となる、などの国司の骨格は厩戸皇子=聖徳太子と蘇我馬子の会話で示されており、成文化された国史の書物、というか、その当時でいえば巻物こそ完成しなかったものの、国史のあらすじはこの時代に完成していた、という設定になっています。あくまで時代小説、すなわち、フィクションですから、どこまで史実に忠実かは不問としつつも、その昔に時代的にズレがあるとはいえ、1980年から1984年にかけて『LaLa』に連載された山岸涼子の『日出処の天子』を愛読した身としては、かなりいいセン行っているような気がします。私はこの作者の古典古代を舞台とする時代小説は引き続きフォローしたいと考えています。
最後に、安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書) です。本書ではできる限り混同を避けようという意図がよく理解できるんですが、それでも右翼と保守をかなりの程度に同じ意味で使っているような気がします。私は保守とは歴史をの流れを止める、ないし、逆周りさせるものであると私は考えているのに対して、右翼とは左翼の逆であるに過ぎません。もっとも、社会主義勢力に敵対するという点では同じです。ということで、本書では、昭和初期1930年代くらいからの右翼の歴史を追いつつ、もちろん、重点はタトル通りに戦後史にあるわけですが、終戦で神国日本が敗戦したわけですから、本書のいう通り、戦前の右翼は壊滅したといえます。そして、その後の右翼は天皇を中心に据える、さらに、反共ないし防共以外は何ら共通点がないと考えるべきです。憲法に対する態度、自衛隊や軍事力に対する考え方、在日朝鮮人や他の外国人に対する排外的あるいは許容的な態度などなど、天皇と共産主義に対する考え方以外は何ら共通点はありません。しかし、その上で、本書の著者は、まるで、戦前タイプの右翼が本筋で許容的なのに対して、現在のネトウヨに代表される排外的な右翼は、本筋ではないかのような視点を提供していますが、それはかなり本質を見誤った味方だと私は考えています。左翼がプロレタリアートの前衛部隊として社会主義革命から共産主義革命を先導するのに対して、右翼とはそれを阻止することを使命としています。ですから、歴史を逆回しにする保守と同じともいえるわけです。本書のハイライトは現在の政治シーンで隠然たる影響力を持つ日本会議ではなかろうかと私は期待していたんですが、一般的な右翼に流れすぎていて、かつ、戦前的な右翼と現在のネトウヨに関するまったく本質的でない議論にとらわれていて、期待は裏切られて失望を禁じえませんでした。
2018年10月20日 (土) 09:39:00
今週の読書は貧困に関する経済書をはじめ計7冊!!!
まず、マーティン・ラヴァリオン『貧困の経済学』上下(日本評論社) です。著者は、それほど有名ではありませんが、貧困や途上国開発に関する経済学の現場、特に、世銀のエコノミストを長く務め、現在は米国の大学の研究者をしています。邦訳タイトルは英語の原題そのままであり、The Economics of Poverty であり、オックスフォード大学出版局から2016年に刊行されています。上下巻通しでページ数がふられており、注や参考文献を除いても800ページを超える大分な著作です。極めて包括的な貧困に関する経済学を展開しています。通常、経済学は先進国経済を対象にしているんですが、先進国における貧困だけでなく、途上国における貧困や開発の問題も幅広く取り入れています。また、標準的な経済学だけでなく、マルクス主義的な経済学の視点にも配慮しているように見受けられました。ただ、BOXと称するコラムが余りに大量にあり、読みにくくなっている感は否めません。これだけ膨大なボリュームの本を読んでおいて、いくつかのトピックを取り上げるのは気が引けるんですが、ひとつはワシントン・コンセンサスについては肯定的な評価を下しています。まあ、ワシントンにある世銀のエコノミストを長らく務めて、まさにワシントン・コンセンサスを実践していたような人物ですから当然という気もします。また、これも当然のことながら、貧困は個人の自己責任に帰すべき問題ではなくマクロ経済や法制度や社会的な慣習も含めて、幅広く原因が散在しており解決策も多岐に渡る点は強調しています。理論やモデルだけでなく、実践的な個別事案の大作なども豊富に収録されていて、私にはとても勉強になりました。ただ、貧困というよりは開発経済学なんですが、昔から疑問に思っているところで、中国の成長や貧困削減は経済学的にどのように解釈されるのか、解釈すべきか、という問題には答えてくれていません。すなわち、アセモグル-ロビンソン的な inclusive な成長ではないですし、経済が豊かになっても一向に民主主義的な方向への変化は見られません。あの国は経済学の常識が成り立たないのでしょうか?
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次に、服部暢達『ゴールドマン・サックスM&A戦記』(日経BP社) です。著者は、日産の技術者からMBAに留学した後、ゴールドマン・サックスに入社し、投資銀行業務、中でも、本書のタイトル通りにM&Aを中心とする業務に携わった経験がある人物です。なぜ、日産に入社したのかはそもそも不明なんですが、本書の中心となる経験はゴールドマン・サックスで積んだようですので、それなりに興味深い経験ではあります。しかも、私と同じくらいのそれなりの年令に達した人らしくなく、それほど「上から目線」でもなく、割合と、淡々と自分の経験を基にしたM&A活動について明らかにしており、それなりに好感が持てますし、読みやすくもあります。ただ、人生観は公務員の私なんぞと違って、いわゆる「ハイリスク・ハイリターン」型の人生を思考してきたような雰囲気があり、私の理解が及ばない点も少なからずあった気がします。日本の経営については、俗説ながら、ものづくりなどの現場は一流、経営は三流、などと揶揄される場合もありますが、本書の著者はM&A案件で接した経営者、何と、郵政省の事務次官経験者の通信会社社長も含めて、決して米国と見劣りすることはないと言明し、我が国経営者の質の高さも評価しています。おそらく、私もそうなんだろうと感じています。我々公務員もそうなんですが、我が国の経営者がボンクラではここまでの経済大国にはなれなかったでしょうから、歴史によって後付かもしれませんが、我が国企業の経営者は優秀であることは証明されているように私は感じています。繰り返しになりますが、人生観や処世術などの点では、私は理解できませんし、また、仮定を重ねて「ひょっとしたら」という程度のお話しではありますが、何かの歯車が狂っていれば、本書の著者はまったく違った人生を送っていた可能性がある一方で、私のような平々凡々たる公務員は、少々の歯車の狂いには動じない可能性が高い、という点も大いに感じてしまいました。それが人生観、世界観なんだろうという気がします。
次に、湯澤規子『胃袋の近代』(名古屋大学出版会) です。著者は筑波大学の研究者であり、出版社から判断すれば学術書のように見受けられますが、食に関する近代日本の社会史であり、私のような専門外の一般読者にも十分タメになります。私が見た範囲でも、日経新聞、読売新聞、毎日新聞、などで書評に取り上げられていて、それなりに注目度が高いのかもしれません。ということで、明治後期ないし大正期の20世紀に入ってからくらいの我が国の食の社会史を跡付けています。ただし、家庭における食事ではなく、学校・工場やあるいは職場の寮の共同炊事、加えていわゆる外食の範囲の一膳飯屋などのいわゆる日常食であって、高級料亭などの非日常食は残飯屋を取り上げる際に登場するくらいです。ですから、地域的には学校や工場などの集中している都市部が中心になります。「同じ釜の飯を食う」という表現がありますが、集団で喫食し、食事だけでなく、文字通り寝食をともにするといった集団生活での食の役割などにも着目しています。もちろん、カロリー摂取だけでなく、衛生面での清潔性の確保も重要ですし、明治維新からの近代化という大きな流れの中で、江戸期にはなかった学校教育の推進や産業化の進展を支える背景としての食事の役割も目配りが行き届いています。細かな点かもしれませんが、在日朝鮮人と内地人とでおかずの盛りが違うとか、大阪で香々、東京で沢庵と呼ばれる漬物があらゆる外食に欠かせなかったとか、それなりに井戸端会議で取り上げることができるトピックも豊かです。
次に、デズモンド・モリス『デズモンド・モリスの猫の美術史』(エクスナレッジ) です。猫がペットとして飼われ出したのは古代のエジプトという説がありますが、本書では、そのエジプトの猫の少し前あたりから、猫を題材にした美術史を回顧しています。すなわち、古代の旧石器時代の猫から始まって、我が国でも有名な美術家といえるレオナルド・ダビンチを筆頭にマネ、モネ、ゴーギャン、ロートレック、クレー、ピカソ、ルソー、ウォーホルなどなどの猫の絵画を、フルカラーで収録しています。250ページ近くのボリュームに130点余りの猫の絵画を収録して、税抜きながら1900円という価格は、それなりにお買い得感もあるような気がします。ごくごく古代では人間の狩りを手助けする猫の姿も描かれていますが、気まぐれを身上とする猫のことですから、それほど人間の生産活動に役立っている姿は多くありません。中世は魔女とセットにされて迫害されたりもしていたりします。私は基本的に犬派ではなく、圧倒的に猫派であって、今年に入ってからも、3月3日付けの読書感想文で、タッカー『猫はこうして地球を征服した』を取り上げたりしていますし、なかなか本書も愛着を覚えるものです。最後になりましたが、我が日本代表として猫の絵画が取り上げられているのは、浮世絵の葛飾北斎、歌川国芳、菱田春草のほか、近代洋画家の藤田嗣治などです。
次に、瀧澤弘和『現代経済学』(中公新書) です。著者は中央大学の研究者であり、上の表紙画像に見られる通り、本書の副題はゲーム理論・行動経済学・制度論となっています。ですから、経済学のメインストリームであるミクロ経済学やマクロ経済学にとどまらず、ゲーム理論、行動経済学や神経経済学などの大きな最近の流れを見据え、実験や制度、経済史といった重要な領域についても解説を加えています。多様化した経済社会を分析する経済学の見取り図を示すべく幅広いトピックに焦点を当てています。ただ、私は経済学には、というか、少なくともマクロ経済学には、かなりの有用性があると考える一方で、やや制約を強調しているような気もします。例えば、今週のニッセイ基礎研の中期見通しを取り上げた際に、日銀物価目標は10年しても到達しない、という結論がありましたが、そういったことです。マイクロな経済学が実験経済学の手法を含めて、さまざまな展開をしている一方で、マクロ経済学は政策科学として万能ではないのは当然としても、少なくとも、雇用の確保などでは国民生活に大きな寄与をしている点は忘れるべきではありません。最後に、大きな経済学の流れを展開するには、新書という媒体は良し悪しなんですが、コンパクトに理解するには決して悪くないような気がします。
最後に、ジェフリー・アーチャー『嘘ばっかり』(新潮文庫) です。作者はご存じの英国の国会議員であり、売れっ子の小説家です。この作品は15編の短編を収録していて、それぞれ、時代背景が決して同じではなく、地域的にも欧州内ではありますが、英国にとどまらずフランスやイタリアなどなど多彩な短編を収録しています。特に、今までにない趣向としては、オー・ヘンリーの「運命の道」のように、作家が結末をひとつに決めかねて、3つの結末を用意した「生涯の休日」が目立ちます。ただ、オーヘンリーの短編と違い、というか、短編で有名なサキに近く、すべてがハッピーエンドで終わるわけでもなく、かなり皮肉の効いた仕上がりとなっています。私が最初にこの作家の連作短編集で読んだ『100万ドルを取り返せ!』のように、脱法的に金儲けをする短編、例えば、「上級副支店長」なんかも印象的でしたが、欧州各国の国際性や戦争と平和について考えさせられる「コイン・トス」が本書では私の一番のお気に入りかもしれません。
2018年10月13日 (土) 12:02:00
今週の読書はちゃんとした経済書はなく計7冊!
まず、橘木俊詔『ポピュリズムと経済』(ナカニシヤ出版) です。著者はご存じの通り、私の母校である京都大学経済学部の名物教授だった経済学研究者です。本来は労働経済学などのマイクロな分野が専門と記憶していますが、ご退官の後は、幅広く論評活動を繰り広げているようです。ということで、タイトル通りの内容なんですが、英国のBREXITの国民投票とか、大陸欧州における極右政党の伸長とか、何よりも、米国におけるトランプ政権の誕生とかの話題性を追って、ポピュリズムについて論じています。でも、本書こそがポピュリズム的な内容である点には著者ご本人は気づいていないようで、何か「もののあわれ」を感じてしまいます。ポピュリズムについて、典型的には、私はナチスを思い浮かべるんですが、著者は、その昔の「左右の全体主義」よろしく、南米のペロン大統領や最近までのチャベス政権などを念頭に、左翼のポピュリズムの存在も視野に入れたと称しつつ、右派の米国トランプ政権やすランスの国民戦線ルペン党首などの極右政党についても、左右両方のポピュリズムと称して同一の切り口で論じようとムチャなことを試みて失敗しています。どうしてムチャかといえば、右翼的なナショナリズムが内向きで排外的で、そして何よりも、ポピュリズムの大きな特徴である多元主義の排除と極めて大きな親和性がある一方で、左翼はインターナショナリストであり外向きで体外許容性に富んでいます。まさに多元主義の権化ともいえます。ナチス的な雇用の重視を持って、著者はポピュリズムの特徴と捉えているようですが、笑止千万です。俄勉強でポピュリズムを論じると、このような本が出来上がるという見本のような気がして、私も肝に銘じたいと思います。
次に、稲葉振一郎『「新自由主義」の妖怪』(亜紀書房) です。著者は明治学院大学の研究者であり、社会哲学が専門だそうです。本書では、マルクス主義的な歴史観、すなわち、唯物史観を持って新自由主義の資本主義の段階を解明しようと試みていますが、私の目からは成功しているように見えません。19世紀後半にマルクスが大英博物館にこもって『資本論』を書き上げた時点では、ビクトリア時代の大英帝国がもっとも発達した資本主義国家であり、マルクス主義的な歴史観からすれば、資本主義から社会主義に移行する場合、もっとも発展した段階にある資本主義国が社会主義に移行するのが必然と考えられます。しかし、英国に社会主義革命は起こらず、レーニンの分析によれば独占資本が支配的とな理性産物だけではなく資本の輸出が行われるような帝国主義の段階が資本主義最後の段階であり、社会主義の前夜とされるようになります。さらに、まったく発達した資本主義ではなかったロシアとか中国で革命が成功して社会主義に移行し共産主義を目指すことに歴史的事実としてなるわけですが、他方で、欧米や日本などの先進国ではスミスなどの古典派経済学的な夜警国家を超えて、不況克服などのために、あるいは、いわゆる市場の失敗の是正のために、国家が積極的に資本主義に介入して国家独占資本主義が成立します。資本の側からはケインズ政策を応用した福祉国家の成立とみなされます。そして、1970年代の2度の石油危機と同時にルイス的な二重経済が終わりを告げて、典型的には日本の高度成長期が終了して、ケインズ政策の有効性が疑問視されて、1980年ころから英国のサッチャー政権、米国のレーガン大統領、日本の中曽根内閣などにより新自由主義的な経済政策、あるいは、その背景となるイデオロギーが幅を利かせ始めます。こういった歴史的事実に対して、本書の著者は、極めて唐突にも、産業社会論を持ち出したり、ケインズ政策への賛否などを考察した上で、マルクス主義的な歴史観と新自由主義の背景に同一とまではいわないものの、かなり似通った要因が潜んでいると指摘します。私には理解できませんでした。マルクスのように英国に発達した資本主義の典型を見たり、あるいは、レーニンのように資本輸出に特徴づけられた帝国主義が資本主義の最終段階であり社会主義の前夜であると見たりするのは、それぞれの個人の歴史的なパースペクティブにおける限界であり、生産力の進歩が見られる限り、何と名付けようと、どのような特徴を持とうと、資本主義は生き残りを図るわけですから、おのおのの観察者のパースペクティブに限定されることにより、資本主義の最終段階=社会主義の前夜を設定するかは異なるはずです。この自明の事実を理解せずに、教条的にマルクス主義的な歴史観からして、どの段階が資本主義の最終段階=社会主義の前夜かを論じるのはまったく意味がないと私は考えます。
次に、グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』(明石書店) です。著者はフランスの国立科学研究所の研究者であり、専門は科学哲学だそうです。原書のフランス語の原題は Théorie du drone であり、直訳すれば「ドローンの理論」となり、2013年の出版です。タイトルはかなり幅広い門構えになっているんですが、本書で焦点を当てているのはドローンの軍事利用、しかも、ほとんど偵察は取り上げておらず、殺人や破壊行為に限定しているように私は読みました。もちろん、こういった戦争や戦闘における殺人や破壊行為にドローンを用いる非人道的な面を強調し、強く非難しているわけです。ただ、私から見て戦争や戦闘そのものが大きく非日常的な非人道的行為であり、そこで用いられる兵器ないし何らかの道具は非人道的な色彩を帯びざるを得ないという気がします。銃でもって人を殺せば殺人罪に問われる法体系の国が多いと私は推察しますが、戦争において戦時法体系化で銃器で敵国の兵隊を殺せば、あるいは、勲章をもらうくらいに推奨ないし称賛される行為となり得る可能性があります。ですから、通常の刑法の体系とはまったく異なる戦争法規があり、実感はないものの、軍法会議という裁判形態があることはよく知られた通りです。加えて、銃器や戦闘機、軍艦などは戦争や戦闘に特化した兵器である一方で、とても非人道的に見える究極の兵器としては核兵器があり、これはその爆発力を平和利用することも可能です。もちろん、核兵器を平和利用した原子力発電その他であっても、事故の際の甚大な破壊的影響は残るとの意見はあり得ますが、ドローンは平和利用がより可能、というか、そのような破壊的な危険が極めて小さい道具といえます。その意味で、平和利用ではなく、ドローンを戦争や戦闘で利用する非人道性を強く非難すべきであると私は考えており、本書の著者の視点とのズレが大きいと感じました。
次に、デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(NHK出版) です。著者はハーヴァード大学医学大学院の遺伝学を専門とする研究者であり、ヒト古代DNA分析における世界的パイオニアといえます。本書の英語の原題は Who We Are and How We Got Here であり、今年2018年の出版です。日本語タイトルからは判りにくいんですが、要するに、現生人類ホモサピエンスないしその直前くらいのネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人類を視野に入れ、現生人類の起源について、地球上でいかに移動し接触し交雑したか、特に、ホモサピエンスの出アフリカ以降の移動・接触・交雑を追って考察しています。ただ、本書でも指摘していますが、DNA分析でなく文化的な考古学的出土品、例えば、土器とか石器を研究対象とする場合、ヒトが移動したのか、それとも、その文化が伝えられたのかの識別が困難なんでしょうが、DNAで直接分析を実施するとヒトが移動し、かつ、邦訳タイトルにあるように、新旧人類間での接触と交雑があったのかどうかが明確に把握できます。その結果、交雑の中で遺伝的な特徴を失ってしまったゴースト集団の動向も含めて、とても興味深い事実が多数提示されています。加えて、第2部では地域別にヨーロッパ、インド、アメリカ、東アジア、アフリカにおける人類史をひも解いています。そして、やや論争的なのが第3部です。現生人類はホモ・サピエンスの1種であるのに対して、いわゆる人種がいくつか観察されるのも事実であり、白人もしくはコーカソイド、黒人もしくはネグロイド、そして、モンゴロイド、とあり、加えて、ナチスの時代に遺伝学はアーリア人の支配を正当化するために大きく歪められた、という歴史があるのも事実です。本書ではそれほど取り上げていませんが、旧ソ連でもスターリン的に歪められた遺伝学の系譜があったような気もします。本書の著者は、人種は遺伝的な特徴を備えた側面もあり、決して100%社会的なものではない、と考えているように私は読みましたが、本書が強調しているのは、人類集団間において些細とはいえない遺伝学的差異がある、ということであり、これは、人類集団間には実質的な生物学的差異はなく、集団内の個人間の差異の方がずっと大きい、とする「正統派的学説」とは異なります。さらにいえば、「政治的正しさ」ポリティカル・コレクトネスに反していると解釈されても不思議ではありません。トランプ政権下の分断的な米国政治情勢下では許容される可能性が大きくなった気もしますが、私にはやや気にかかりました。
次に、ジム・アル=カリーリ[編]『サイエンス・ネクスト』(河出書房新社) です。我が家は5分も歩けば県境を超えて埼玉県に行けるような位置にあるんですが、その隣接の埼玉県にある市立図書館の新刊書コーナーに借りてもなく並べてあったので、ついつい手が伸びてしまいました。英語の原題は What's Next? であり、2017年の出版です。編者は英国の物理学の研究者であるとともに、テレビやラジオの科学番組のキャスターを務めているようです。ということで、第1部の人口動態や気候変動などの経済学とも馴染みの深い分野から始まって、第2部の医療や遺伝学、第3部の細菌話題のAIや量子コンピューティングやインターネット上の新技術、第4部の素材や輸送やエネルギー、第5部の惑星間航行やタイムトラベルや宇宙移民といったSFに近い話題まで、世界の科学者はいま何を考えているのか、幅広い分野の科学者たちが極めて判りやすく解説しています。内容がとても多岐に渡っていますので、私のような科学とはやや縁遠く専門分野の異なる人にも、何らかの興味ある部分が見い出せそうな気がします。英語の原題を見ても理解できる通り、邦訳タイトルとは少しニュアンスが違っていて、科学だけでなく社会動向や工学を含め、さらに、惑星間航行に基づく宇宙移民といったSFに近いようなトピックも含めていて、とても幅広く興味深い話題を集めています。私のようなエコノミストからすれば、社会の生産や生活に及ぼす技術動向が気にかかるところで、特に、AIなどが雇用に及ぼす影響などがそうです。現在までは新技術は雇用を奪う以上に新しい雇用を生み出してきており、ですから、歴史的に振り返ればラッダイト運動などは「誤った方向」だったと後付で言えるんですが、現在進行形のITC技術革命、2045年と言われているシンギュラリティの到達などなど、気にかかるところです。本書をちゃんと読めば何かのインスピレーションを得られるような気がします。
次に、ドナルド R. キルシュ & オギ・オーガス『新薬の狩人たち』(早川書房) です。英語の原題は The Drug Hunter であり、邦訳タイトルはかなり忠実に原題を伝えていると考えてよさそうです。著者2人は、そのドラッグハンターとジャーナリストの組み合わせです。経済学は、数学を用いた精緻なモデル設計によって物理学や化学と親和性が高い一方で、医学や薬学とは作用の経路や因果関係が不明ながら経験的な数量分析により効果が計測できるという類似性も持っていると私は考えています。もちろん、私の専門に近い経済社会の歴史的な発展を生物的な進化に見立てる場合もあります。ということで、私は他のエコノミストと違って医学や薬学の本も読書の対象に幅広く含めていて、本書のその一環です。本書では近代以降における薬、特に新薬発見の歴史を植物由来の薬、合成化学から作る薬、ペニシリンなどの土壌に含まれる微生物から抽出した薬、そして最近のバイオ創薬まで、場は広く薬が生まれた歴史を跡付けています。アスピリンが初めて患者に投与されてから70年超の年月を経てようやく受容体が特定された、などなど、どうして薬が効くのか、その作用機序が明らかでなくても、何らかの実験により統計的に薬効が認められるか脳性が大きく、そこが実験のできない経済学、というか、マイクロには実験経済学という分野が広がっているものの、景気変動に関して財政学や金融論を中心としてマクロ経済への影響という点では実感が不可能な経済学とは違うところです。もちろん、経済学に引きつける必要はありませんが、薬の歴史についてのちょっとした豆知識的な話題を集めています。ただ、日本ではほとんど存在を感じさせませんが、クリスチャン・サイエンスのように医学的な治療や薬物の摂取を拒否する宗教も、例えば、米国では大きな違和感なく社会的存在として認められていますので、その点は忘れるべきではないかもしれません。
最後に、市田良彦『ルイ・アルチュセール』(岩波新書) です。フランスのマルクス主義哲学者であるタイトルのアルチュセールに関する本であることは明らかなんですが、それをイタリア的なスピノザの視点から解き明かそうと試みています。すなわち、アルチュセールについては、偉大な哲学者という側面と妻を殺めた狂気の人という両面の評価があり、まったく同時に、マルクス主義に立脚している一方でカトリック信者であることを止めなかった、という両面性も考える必要があります。マルクス主義といえば、あるいは、そうなのかも知れませんが、私から見れば、アルチュセールはマルクス主義の本流を大きく外れるトロツキストの理論的基礎を提供しているような気がしてなりません。それは、フランスの構造主義、あるいは、ポスト構造主義に立脚するマルクス主義がかなりの程度にそうなのと同じかもしれません。本書で特にスポットを当てているアルチュセールの研究成果は『資本論を読む』であり、誠に残念ながら、フランス語を理解しない私にとっては邦訳が1989年であり、すっかり社会人になってからの時期の出版ですので、手を延ばす余裕もなく、よく知りません。なお、本書の著者は神戸大学をホームグラウンドとする研究者であり、私の母校での1年先輩、すなわち、浅田彰と同門同学年ではなかったかと記憶しています。参考まで。
2018年10月07日 (日) 13:41:00
先週の読書は重厚な経済書や甲子園グラウンドキーパーの著書など計7冊!
まず、ジャン・ティロール『良き社会のための経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者は、フランスの経済学者であり、2014年のノーベル経済学賞受賞者です。私は産業構造などのマイクロな分野がご専門と理解しているんですが、このクラスになれば金融をはじめとするマクロ経済学の分野での貢献も少なくありません。特に、バブルについてはかなり独特な見方を示しており、典型的には、p.340からのあたりになるんではないかと思います。私も地方大学に出向していた際の紀要論文で取り上げたことがあります。明治はしておらず、仮想通貨でややごまかしている気味はあるのもの、著者のバブルの眼目は貨幣 fiat money であろうと私は考えていますただ、それを突き詰めて考えれば、金本位制のような本来価値のある何かでなければ貨幣になりえず、バブルでしかない、というのは、私にはやや違和感あります。本書は経済に関する幅広い入門書という位置づけですが、例えば、大学新入の経済学の初学者ではやや苦しい気がします。少し経済についての見識あるビジネスマン向けか、という気もします。ただ、どういう経済学を背景にしているか、といえば、もちろん、かなりスタンダードで標準的な経済学、ということもできるんですが、左派を標榜する私のようなエコノミストからすれば、財政均衡、とまではいわないものの、増税や歳出削減などによる財政再建を目指した財政政策とか、あくまで市場による資源配分の効率性を前提にしていたりと、やや右派的な経済学であることは確かです。そのあたりは、リベラルなクルーグマン教授やスティグリッツ教授の議論とは少し経路が違う点は読み取って欲しい気もします。
次に、金沢健児『阪神園芸 甲子園の神整備』(毎日新聞出版) です。著者は、まさに、阪神園芸甲子園施設部長の職にあり、甲子園球場整備グラウンドキーパーの責任者です。本書冒頭にもありますが、昨年10月のセリーグのクライマックスシリーズの阪神と横浜の泥んこの中での試合が記憶にまだ残っていて、甲子園球場の整備に注目が集まったところです。その甲子園で水はけがいい、というのは、球場のマウンドを頂点とする勾配の問題であると著者は指摘しています。要するに、マウンドからの勾配が均等であって、どこにも水が溜まらない、ということらしいです。種を明かせばそういうことかという気もしますが、我が阪神タイガーズのホームグラウンドであるだけでなく、高校野球の聖地としても、歴史も、収容人数も、注目度も、何から何まで野球のスタジアムとしては日本一の甲子園球場ならではのエピソードが満載です。著者が50歳そこそこですから、あまりに古いタイガースの選手、例えば藤村富美男とか、村山実とか、はエピソードに出てきませんが、投手では能見投手、走塁では引退した赤星選手のグラウンド整備に関するエピソードが語られていて、守備としては、「弘法筆を選ばず」よろしく鳥谷遊撃手は何の注文もつけない、というのが「グラウンドは選べないでしょ」という発言とともに引かれています。歴代阪神選手としてもっとも多くのヒットを放つとともに、神守備の遊撃手であり、歴代阪神選手の中でも私がもっとも敬愛するひとりである鳥谷選手らしい気がしました。いずれにせよ、阪神ファンであるなら、あるいは、高校野球ファンも、ぜひとも手に取って読んでおくべき本ではなかろうかという気がします。
次に、ベン・メズリック『マンモスを再生せよ』(文藝春秋) です。著者は、ベストセラーを連発するノンフィクション・ライターであり、カジノでのカード・カウンティングを取り上げて、映画化もされた『ラス・ヴェガスをブッつぶせ!』とか、えいが「ソーシャル・ネットワーク」の原作である『facebook』などをものにしており、本書も映画化の話が進んでいるそうです。ということで、本書では、ヒトゲノム解析計画の発案者の一人ハーバード大学のジョージ・チャーチ教授を主人公に、タイトル通りに、絶滅したマンモスを再生するストーリーです。というか、より正確には、アジアゾウの遺伝子を操作してマンモスにする、ということらしいです。英語の原題である Woolly とは、毛やヒゲで「もじゃもじゃ」という意味です。絶滅した生物をDNAを解析することによって復活させる、というのは、私でなくても映画の「ジュラシックパーク」のシリーズを思い起こすだろうと思うんですが、数千万年から1億年以上前の琥珀に閉じ込められた蚊が吸った恐竜の血は宇宙からの放射線その他により決定的に琥珀になり切っていて、生物として復活させることは不可能である一方で、せいぜい2~3000年前に死んで、しかも死後に急速冷凍されたマンモスは復活させることが可能、というか、アジアゾウに遺伝子を組み込んでマンモス化することは可能だそうです。そこは私にはよく理解できません。ただ、私のようなシロートから見ると、単なる科学的な、あるいは、知的好奇心という以上に、このプロジェクトの持つ意味が理解できませんでした。途中でスアム研究所というのが紹介されていて、富裕層を顧客にしたクローン・ビジネスを展開している営利企業だそうで、実際に何をやっているのかといえば、可愛がっていたペットのイヌが死んだ後に、そのクローンを再生する、というビジネスだそうです。これなら営利企業として成り立つような価格設定にすればいいわけですから、エコノミストの私にもビジネスとして理解できます。しかし、マンモス復活に何の意味があるのか、単なる見せ物なのか、私には根本的な意味がよく理解できませんでした。
次に、松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』(新潮選書) です。著者は、大学・大学院終了後にNECに就職して基礎研究に従事し、今では独立しているような経歴です。本書では、人工知能(AI)の研究の歴史とともに、人間の知覚についてもニューロンからの理解を展開しつつ、最終的にはシンギュラリティの到来、特に人間を凌駕する知性としてのAIに対する懐疑論を展開しています。本書の著者が「無限定な空間」と表現している知覚の対象は、レーニン的には無限の認識対象を人間は有限にしか認識できない、ということになるんですが、私が考えるに、AIについてはあくまでアルゴリズムに基づくデータ処理の問題であり、それを人間のような知覚や認識と同一視するのは、少し違うような気がします。著者の定義するような人間の知を超えるAIは将来ともに出来ないかもしれませんが、それは逆から見て、将来にも出来そうにないAIの存在を見越した人間の知を定義しただけ、という気もします。少なくとも、チェスや将棋や碁に関しては「勝つ」という意味で人間の知を超えたAIが誕生していることは明らかであり、それにハードウェアたるロボットの筐体を組み合わせれば、あるいは、情報処理の面でも肉体能力の点でも、人間を超える存在が出来、それが人類を滅ぼす可能性も否定できない、というのが悲観派の見方ではないでしょうか。こういった現実的な実際の存在としてのAIやその入れ物としてのロボットを考慮することなく、将棋の羽生の「ルール変更」でAIを撃退するといった、定義の問題でリアルな問題を回避できるかのような議論な私には疑問だらけです。私はこの著者の『人工知能の哲学』を読んだ記憶があるんですが、やっぱり、ピンと来なかった気がします。
次に、山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館) です。著者はノンフィクション・ライターであり、私は初めてでした。ややクセのある文体で少し戸惑うかもしれませんが、読み始めればそうでもないと思います。カルピス創業者の三島雲海を中心に据え、明治期から大正・昭和の戦争の時期を経て、戦後の高度成長期までを視野に入れた長期にわたるドキュメンタリーです。表紙画像からもうかがわれる通り、カルピスのルーツは中国東北部からモンゴルあたりの遊牧騎馬民族の発酵食品だそうで、箕面の浄土真宗の寺に生まれた主人公が戦前期に大陸に渡って日本語教員をしながら、モンゴルまで足を伸ばした経歴が下敷きとなっています。ただ、企業経営者としての活動の中心となる高度成長期以降は、さすがに、著者の専門範囲外なのかどうか、「今は昔の物語」の感があります。実際に、カルピスは企業としては味の素の傘下に入り、さらにアサヒビールのグループに売られたわけですから、評価はいろいろなんだろうという気がします。ただ、本書でも紹介されているように、市その昔に「初恋の味」というキャッチフレーズで宣伝され、国民の99.7%が飲用経験ある国民的飲料ですから、誰もが何らかの思い入れがある身近な飲み物ですし、親しみを持って本書を読む人も少なくないと思います。その昔、私などはカルピスを希釈して飲むという経験を持っていますが、20歳前後の我が家の倅どもなんぞはペットボトルに入ってストレートで飲むカルピスしか知らないような気もします。その時代の移り変わりを実感できる読書であろうと思いました。
次に、尾脇秀和『刀の明治維新』(吉川弘文館) です。著者はポスドクの歴史研究者です。本書のタイトルは刀なんですが、あとがきにもある通り、帯刀という行為についての歴史的な位置づけや世間一般の受け止めの変遷について、戦国期から江戸期を通して明治初期の廃刀令までの期間です。当然、場所的には江戸や京といった大都会が中心なんですが、都市部からやや遅れがちな地方についても目を配っています。ということで、刀といえば、江戸期の前の豊臣秀吉のもとで刀狩りが実施され、支配者たる武士階級以外から武器を取り上げたんではないかと私は認識していたんですが、本書ではきっぱりと否定されており、江戸期は農民や町人も刀を所持していたと指摘しています。その上で、人に何らかの司令を下す立場にある豪農とか神職、あるいは、大工の棟梁や鳶職などはその立場を象徴する刀を帯びていた、との事実を史料から明らかにしています。しかも、そういった支配層だけでなく、一般大衆でも旅行中や正月などの非日常の場においては帯刀していた事実を確認しています。進んで、豪商がお上に寄進したり、何らかの寄付行為などで苗字帯刀が許されたわけですから、何らかの象徴的な身分標識としての帯刀行為を浮き彫りにしています。そして、上の表紙画像にある通り、明治維新からはその帯刀という行為がガラリと意味を変じたわけで、ザンギリ頭に洋装で刀を捨てて馬に乗った文明が、ちょんまげ和装で刀にしがみついた旧弊を見下ろしているわけです。手の平を返すように、帯刀という行為が権威の象徴や身分標章から、単なる凶器の携行と貶められた、と結論しています。まあ、そうなんでしょうね。
最後に、有栖川有栖『インド倶楽部の謎』(講談社ノベルス) です。著者はベテランの領域に入りつつある新本格派のミステリ作家であり、本書は後期の作家アリスの火村シリーズの中でも特に人気の国名シリーズ最新刊です。7人のメンバーがインド、特にその思想的背景かもしれない輪廻転生で結ばれたインド倶楽部で、前世から自分が死ぬ日まですべての運命が予言され記されてインドに伝わる「アガスティアの葉」のリーディングの後に、関係者2名が相次いで殺されます。まあ、「アガスティアの葉」というのは、著者の独創なんでしょうが、アカシック・レコードの個人版みたいな位置付けなんでしょうね。それはともかく、舞台は神戸ですので兵庫県警の樺田警部、火村を快く思っていない野上警部補、遠藤刑事などが登場します。その昔の、名探偵、みなを集めて、「さて」といい、あるいは、名探偵コナンのように「犯人はお前だ」と指差すような派手なラストの犯人指摘を含む全貌解明シーンでなく、ページ数で真ん中あたりから少しずつ事件の概要が読者にも判るように手じされ始め、タマネギの皮をむくように一歩一歩すこしずつ事件の真相に迫りつつ、それでも、最後は驚きの結末が待っています。新本格派ですから、やや動機が軽く扱われていると感じる読者もいるかも知れませんが、謎解きとしてはとても良質のミステリです。
2018年09月29日 (土) 11:57:00
やや時間的余裕あった今週の読書はとうとう2ケタ10冊に達する!!
まず、小黒一正[編著]『薬価の経済学』(日本経済新聞出版社) です。編著者は財務省から法政大学に転じた経済学の研究者です。各チャプターごとに研究者が担当執筆しています。タイトルは薬価になっているんですが、さすがにそこまで狭い議論ではなく、幅広く社会保障における医療、その中の投薬や薬価や、その他、お薬に関する分析が集められています。本書にもある通り、国民医療費年間40兆円のうち約10兆円が薬に投じられており、ジェネリック薬普及のキャンペーンなどもあるものの、高齢化の進展が進む我が国経済社会ではすべからく社会保障関係経費が増加し、そうでなくても世界中を見渡しても我が国では例のない財政赤字が積み上がっている中で、単に国民の傾向に関する厚生労働省の製作というだけでなく、財政政策としても重要な論点です。ただ、本書はやや中途半端な議論に終始しているきらいは否めません。制度論も中途半端ですし、情報の非対称性に関する経済学的な議論も少なく、財政収支への影響の分析も物足りません。社会保障の経済学のうち、さらに狭い医療、さらに薬価の狭い分野の絞った議論を展開するのであれば、もっと突っ込んだ分析が求められると私は考えます。従来にこのような分析が決して多くはなかった、という意味ではそれなりの評価が出来る一方で、やや物足りない読後感も同時に持ってしまいました。
次に、ダグ・スティーブンス『小売再生』(プレジデント社) です。私は専門外で詳しくないながら、著者は世界的に著名は小売りコンサルタントだそうです。アマゾンなどのネット通販の急成長を前にして、冒頭に、著名な投資家マーク・アンドリーセンの「もう小売店は店をたたむしかない」との発言を引くところから始まって、最後の結論ではこれを否定してリアル店舗の生き残りに関してご高説を展開しています。私もシンクタンクのマイクロな消費を見ているエコノミストなどから、ミレニアル世代の消費を見るにつけバブル期のような爆発的な消費ブームはもうあり得ない、といった意見を聞くこともあるんですが、私はこういったマイクロな消費動向を将来に単に外挿してマクロを判断しようとする見方には賛成できません。私が青山に住んでいたころには、アップル・ストアの行列を目の当たりにしましたし、あのアマゾンがシアトルにリアル店舗を構えたわけですから、本書で指摘する通り、五感すべてで商品やブランドを体験する、という意味で、リアル店舗の存在は消費には欠かすことは出来ません。同時に、英国などのミレニアル世代の消費動向の変化についても興味深い分析が紹介されています。
次に、砂原庸介『新築がお好きですか?』(ミネルヴァ書房) です。著者は、神戸大学の政治学の研究者であり、副題は「日本における住宅と政治」となっており、経済学的な観点から中古住宅流通の問題もなくはないですが、副題に沿った中身と考えて差し支えありません。ですから、近代的な都市の形成と、特に、戦後の核家族化や地方からの労働シフトに起因する大都市での住宅不足の解消などのプロセスを、取引費用などの経済学的な観点を踏まえつつ、政治的な意思決定のプロセスに関する議論も重視して、解き明かそうと試みています。日本人が新築が好きな一方で、経済学的な選択の問題としても、終身雇用の下で社宅などの給与住宅から始まって、アパートを借りたり、公団住宅に入ったりした後、いわゆる「住宅双六」で最後の上がりに一戸建てを購入し、終の棲家とするというプロセスです。しかし、私が疑問なのは、従来の人生50年とか60年であれば、「住宅双六」の上りで終わったかもしれませんが、高齢化が進み、特に女性が配偶者を亡くした後に一定の単身時期を過ごすような人生を送る現在、郊外の一戸建てで「住宅双六」を上がりには出来ず、さらにその先があるんではないか、という気がする点です。我が家の私が定年近くに達し、給与住宅である公務員住宅を出てマイホームを購入したわけで、さらにその先を考える時期に差しかかった気もします。
次に、高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社) です。著者は、越前町織田文化歴史館学芸員を経て安田女子大学の研究者であり、日本中世・近世史が専門です。我が国の古典古代である奈良時代の和同開珎が国の手によって発行されてから、本書で対象とする織豊政権期から江戸期には、高額貨幣は国=幕府または藩から発行された一方で、銭については中国からの輸入や民間発行に任されていた、という事実があります。特に、江戸期は各藩の藩札などを別にすれば金貨、銀貨、銭の3種の貨幣が流通している中で、幕府では金貨と銀貨を発行し、庶民の使う銭は幕府ではほとんど発行していませんでした。その銭について、基準貨の移り変わりを論じた議論に興味を持ちました。すなわち、戦国ないし織豊政権期からタイトルにある撰銭が始まり、この時点では品位が高く、正貨と見なされる銭が基準貨となっていて、品位の低い銭、そのうち、もっとも品位が低いのがビタなわけですが、の正貨との換算比率などを領主が定めていたところ、時代を下るについて、ビタが基準貨になった、というものです。最初はビタに対して品位の高い正貨からディスカウントする、という方法だったんですが、グレシャムの法則よろしく、品位の高い銭をビタに比較してプレミアムを付ける、という方向に変更したわけです。とても合理的な方法だと私は受け止めました。
次に、先崎彰容『維新と敗戦』(晶文社) です。著者は日大の研究者です。本書は第Ⅰ部と第Ⅱ部に分かれており、第Ⅰ部では福澤諭吉から始まって戦後の吉本隆明や最後の高坂正堯まで明治期以降のオピニオン・リーダー23人の人としての軌跡や論調を振り返ります。我が国の国のかたち、近代化とは何か、福沢は圧倒的に近代化とは西洋化であると考えていたのに対し、西郷隆盛は日本的な要素、アジア的な何かを大切にしていた、と著者は主張し、そこからナショナリズムの萌芽を認めています。第Ⅱ部ではテーマ別に、ナショナリズムとパトリオティズムの対比、水戸学の流れを明らかにしたりと、私のような官庁エコノミストにして左派を任じている視点からは、かなり右派的な観点からの論調が多いような気もします。ただし、本書のタイトルにあるような明治維新と終戦の対比はそれほどクリアではありません。産経新聞などに連載されていたコラムなどを取りまとめて単行本として出版したもののようですが、それほど矛盾、というか、違和感はなく、第Ⅰ部で取り上げるオピニオン・リーダーにより濃淡はもちろんあるものの、それなりに整合性は感じます。
次に、山本義隆『小数と対数の発見』(日本評論社) です。著者は有名大手予備校に勤務だそうで、本書の著者略歴を見る限りでは、数学講師かどうかは明らかにされていません。決して学術書ではないんですが、読み進むに当たっては、それなりの数学的なリテラシーは要求されると考えるべきです。タイトル通りに、小数と対数をテーマにしていますが、小数が小学校レベルであるのに対して、対数は高校レベルですから、やや不思議な取り合わせで、この違和感は読後でも解消されませんでした。小数の60進数小数は、やや面食らいましたが、英語やドイツ語の12進数的な計数、すなわち、twelve の後に thirteen が来る、というのはよく知られた事実ながら、ラテン語系の言語、典型的にはスペイン語は15進数で計数する、というのも視野に入れて欲しかった気がします。対数については、自然対数のベースをネイピア数というがごとくにネイピアの貢献はとても大きいんですが、ネイピアは指数に至る前に対数の概念を得ていた、というのは私には大きな驚きでした。また、対数の発展におけるケプラーの貢献は、私も含めて知られていない事実かもしれませんが、ケプラーといえば何といっても天文学となり、天文学に対する対数の貢献なども議論を展開して欲しかった気がします。といった点からして、私はやや物足りない気がしました。
次に、永野裕之『数に強くなる本』(PHP研究所) です。著者は大人のための数学塾の塾長だそうで、これだけでは何のことやら私は理解できません。ただ、タイトルにあるようにあくまで「数」であって、「数学」ではない点は注意すべきかという気はします。ということで、「数字を比べる」、「数字を作る」、「数字の意味を知っている」の3つのテーマを基に、数学を一部含みつつも、数に対するシテラシーについて論じています。友愛数や完全数といった整数論も少し出現しますし、ラングドン教授っぽい黄金比やフィボナッチ数列も登場しますが、やっぱり数を論じる時はフェルミ推定が欠かせません。私はこのフェルミ推定については、桁数であっていればいい、という観点は別にして、まるでミステリ作家が自分自身の作品の犯人当てをするようなインチキっぽさを感じてしまいます。答えを知っている人が推定しても仕方ないような気がするんですが、どうでしょうか。最後に、経済で把握しておくべき数字を4つ上げており、それらは、GDP、労働分配率、国家予算、出生率だそうです。なかなかイイセンいっているような気がしますが、経済部門では、数字そのものよりも系図的な複利の概念が重要ではないか、という気が私はします。
次に、ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房) です。著者は科学ジャーナリストであり、宗教的な出版はほとんどないと思うんですが、本書ではかなり日本人が考える仏教とは異なる仏教を取り上げている気がします。すなわち、著者はマインドフルな瞑想から仏教に入っていて、禅宗の座禅とも少し違っていて、やや原始仏教に近い瞑想観ではないかと思ってしまいました。さとりについて、輪廻転生からの解脱という観点はなく、瞑想からつながるさとりを論じています。仏教は、原始仏教のころから心理の体系、システムであり、それはキリスト教と同じだと私は考えていたんですが、より創始者のイエスに強く依存するキリスト教と、ブッダは崇めつつもそれほどの依存はなく、父なる神と子なるイエスと精霊の三位一体を説くキリスト教の一方で、仏と創始者ブッダが同じわけではない仏教の特徴かもしれません。人の心がモジュールで出来ていて、直観的な判断を下す点については、カーネマン教授のシステム1に近く、瞑想で熟慮するのがシステム2なのか、とエコノミスト的な見方をしてしまいました。
次に、国分拓『ノモレ』(新潮社) です。著者はNHKのディレクターであり、南米アマゾン源流の秘境で未開の原住民を取材した記録を基にしたドキュメンタリーだと私は受け止めています。でも、ひょっとしたら、フィクションの小説として読むべき本なのかもしれません。タイトルの「ノモレ」とは、友人とか仲間とか、場合によっては家族などの極めて親しい間柄の人をア指す言葉だそうです。舞台はアマゾン源流とはいえ、我々文明人が引いた国境に従えば、ブラジルではなくペルーの施政下になります。本書での表現に基づいて、私なりの表現に従えば、我々文明サイドと未開の原住民サイドの交流をテーマにしています。表紙画像が雰囲気をよく表しています。主人公はペルー政府を代理して先住民との交流の最前線の役割を担う男性です。第2部では、接触先の原住民のクッカも登場します。開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、私自身は西洋化あるいは近代生活化を進めるのが圧倒的な目標と考えていて、本書でもあるように、未開の原住民を現代人から隔離するがごとき政策はムリがあると考えています。ただ、それがホントに国民、というか、人々の幸福につながるかどうかはたしかに疑問が残ります。他方で、永遠にバナナをあげ続けることは出来ないような気もします。少し考えさせられるところのある議論展開でした。私なりに消化するのに時間がかかるかもしれません。
最後に、島田荘司『鳥居の密室』(新潮社) です。著者は、我が母校の京大ミス研の綾辻行人や法月綸太郎などのいわゆる新本格派の生みの親といえるミステリ作家であり、本格派といえます。本書は謎解きの探偵役に御手洗潔を配し、1964年の東京オリンピックから10年後の1970年代半ばの京都を舞台に、東野圭吾のガリレオ張りの工学的、というか、自然科学的な要因も取り入れたミステリ作品です。経済社会の下層や底辺に位置する恵まれない階層に対する著者の温かい眼差しを感じることが出来ます。クリスマスとサンタクロースを隠しテーマに、心温まる物語です。
2018年09月22日 (土) 11:41:00
今週の読書はバラエティ豊かに計8冊!!
まず、若林公子『金融市場のための統計学』(金融財政事情研究会) です。私はこの著者はまったく知らないんですが、研究者というよりは実務家のようで、各章末に数学的捕捉と題した解説があって数式もいっぱい出て来る一方で、金融市場の実際の商品取引の実務で統計がいかに生かされているかも取り上げられています。なお、数式も偏微分はごくわずかに出て来るに過ぎず、その意味で、高校レベルの数学の知識でも何とかがんばれば理解できそうな気もします。ただ、VaR = Value at Risk については、もう少し解説して欲しかった気もします。最近では今年2018年8月11日付けの読書感想文で三菱UFJトラスト投資工学研究所『実践金融データサイエンス』を取り上げたんですが、ソチラの方がやや学術的な内容かという気がします。その昔、ジャカルタにいたころには慶應義塾大学の蓑谷千凰彦先生の『よくわかるブラック・ショールズモデル』とか、『金融データの統計分析』などで勉強していたんですが、実務上の金融市場の商品開発に比べて、それほど大きな進歩があったようには見受けられないのは、私の見識が不足しているからかもしれません。
次に、朝倉祐介『ファイナンス思考』(ダイヤモンド社) です。著者は、私の知る範囲では、コンサルのマッキンゼーからのご転身でmixi社長だったと記憶しています。本書では、タイトル通りのファイナンス思考に対比して、PL脳という概念を批判的に捉え、ファイナンス思考でキャッシュフローを重視するのではなく、PL脳で売上げや収益を重視し、無借金経営や経常黒字に重点を置く経営を批判しています。こういったPL脳的な目先の会計上の数字を重視して、逆に、将来的な収益の芽を育てない経営ではなく、ファイナンス思考では、将来的な成長の姿を描き、キャッシュを有効の使いつつも回収する意思決定を推奨しています。また、別の観点ではPL脳に過去という視点を当て、ファイナンス思考は未来を構想する、という見方も提供しています。長らく公務員をしてきた身にはやや縁遠いながら、エコノミストとしては判る部分もあります。
次に、玉木俊明『逆転の世界史』(日本経済新聞出版社) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者なんですが、実は、私も経済史ながら、私が経済学部卒業であるのに対して、著者は文学部の歴史学科ではなかったかと記憶しています。なお、今年2018年2月17日付けの読書感想文で、同じ著者の『物流は世界史をどう変えたのか』を取り上げており、物流がご専門のようです。従って、本書でも物流や交易を軸に、長い人類の歴史をヘゲモニーの観点から解き明かし、従来の定説に対比させる新しい観点を提示しています。特に、アジアに位置する日本人研究者として、中国を中心とする先進地域アジアが、後発の欧州によってい大航海時代から産業革命の時期くらいに経済力で逆転され、そして、再び、21世紀になって逆転しつつある現状を解説し、最後に、中国の一帯一路政策を取り上げて本書を締めくくっています。中国の中原の統一は現在の欧州EUになぞらえたり、世銀・IMFといった国際機関を米国ヘゲモニーの手段として捉ええたり、決して丸ごと斬新とはいいかねる視点ですが、それなりに面白くはあります。
次に、前田雅之『書物と権力』(吉川弘文館) です。著者は研究者なんですが、略歴を見ても、歴史学なのか文学なのかは判然としません。古典学というべき分野があったりするんでしょうか。本書では、印刷技術が未発達で書物の大量生産が出来ない中世、おおむね平安期から江戸初期の書物の占めるポジションについて、特に、源氏物語や平家物語などの古典的な価値ある文学作品の書物の権力との関係を解き明かそうと試みています。ケーススタディとでもいえましょうが、宗祇などの連歌師の書物の流通への関与、伏見宮家から足利将軍への『風雅集』贈与の持つ意味、また、書物の贈与と笛などの名器の寄贈の異同の解明、さらに、書物の伝播・普及と権力との結びつきを解明すべく議論を展開しています。中世期における古典的な価値ある書物を持つことの意味がよく判ります。ただ、ページ数もそれほどない小冊子ながら、古典的な書物以外の文物、本書でも取り上げられている笛の名器、あるいは、もっと時代が下がれば茶の湯の茶器など、本書で「威信財」と呼んでいる関連ある名器文物との比較ももっと欲しかった気がします。書物が政治的権威を帯びるには「古典」としての正統性を得る唯一の「威信財」ではなかった気がするからです。ただ、終章で、別の比較ながら、私もずっと念頭に置いていた欧州中世の修道院を舞台にしたウンベルト・エーコ教授の『薔薇の名前』との直接的な対比が検討されています。とても興味深い視点です。
次に、ナオミ・クライン『NOでは足りない』(岩波書店) です。著者は米国出身のカナダ在住の左派ジャーナリストであり、同時に活動家 activist の面も持っていたりします。私は10年ほど前に同じ岩波書店から出版された『ショック・ドクトリン - 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読もうとチャレンジしたことがあったんですが、何と諦めました。邦訳が悪い可能性もありますが、私がこの10年で途中で読むのをギブアップしたのは、外国書を含めて片手で数えるくらいであり、中には、海外旅行中に日本から持っていった本を読みつくして、現地で2冊10ドルで買い入れたペーパーバックの『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』もあったりします。ハリーがエラ昆布を食べて湖に潜るあたりまで読んだ時点で我が家に帰宅したと記憶しています。それはともかく、本書はタイトルから容易に想像される通り、トランプ米国大統領に対して「NOでは足りない」No is not Enough と表現しています。最近の気候変動の観点を含めて、さまざまな視点からトランプ米国大統領にNOを超える意見を突き付けていますが、私に印象的だったのは、通商制限的な公約によりトランプ支持に回った労働組合幹部への著者の冷ややかな視線です。米国だけでなく、独裁的な政治指導者、それもポピュリズム的な指導者に対しては、かなりの程度に成り立つ視点かもしれません。
次に、安田正美『単位は進化する』(DOJIN選書) です。著者は産業技術総研の研究者であり、専門は時間の測定ということです。本書では、国際単位系(SI)で定義されている7つの単位のうち、長さ、質量、時間、電気、温度を取り上げ、さらに、単位の定義の歴史的な変遷を振り返る際に、経済社会的な要因も忘れずの盛り込んでいます。科学の進歩は生産を通じて経済社会の発展に直結し、その同時進行的、というか、共存して進行する車の両輪のような存在を感じさせます。経済では基本的に有効数字は3ケタです。私は統計局で消費統計を担当する課長として、家計で月単位に支出する金額が円単位で6ケタになることから、そこまでの有効数字は保証できないと主張した記憶がありますが、その昔は4ケタだったのが、経済の成長とともに6ケタまで達したわけです。でも、単位の世界では最低でも8ケタ、場合によっては十数ケタの精度が必要とされます。有効数字のケタ数の中途半端な経済の世界のエコノミストでよかった、と思わないでもありません。
次に、知念実希人『祈りのカルテ』(角川書店) です。著者は慈啓会医大卒の医師であるとともに、医療分野のミステリなどの著書も少なくない売れっ子の作家ですが、私は作品は初めて読みました。大学病院の研修医を主人公に、内科、外科、小児科、皮膚科などを研修で回り、患者のさまざまな、そして、ちょっとした謎を解き明かしていきます。すなわち、睡眠薬を大量に飲んで救急搬送されてきた女性、初期の胃がんの内視鏡手術を拒否する老人、薬の服用を回避して入院することを希望するかのような女児、循環器内科に入院し米国での心臓移植を待つ我が儘な女優、などなど、決して健康ではない入院患者の心情をちょっとした謎解きで解明します。計5章の長編ともいえれば、連作短編集ともみなせます。決して、出版社のうたい文句のように「感涙必至」とは私は思いませんし、それほど読後感がいいわけでもなく、でも、一定の水準をクリアしてまずまずの出来ではないかという気はします。ただし、今後もこの作家の本を読むか、といわれれば、ややビミョーかもしれません。
最後に、本格ミステリ作家クラブ[編]『ベスト本格ミステリ 2018』(講談社) です。収録作品は、岡崎琢磨「夜半のちぎり」、阿津川辰海「透明人間は密室に潜む」、大山誠一郎「顔のない死体はなぜ顔がないのか」、白井智之「首無館の殺人」、松尾由美「袋小路の猫探偵」、法月綸太郎「葬式がえり」、東川篤哉「カープレッドよりも真っ赤な嘘」、水生大海「使い勝手のいい女」、西尾維新「山麓オーベルジュ『ゆきどけ』」、城平京「ヌシの大蛇は聞いていた」、有栖川有栖「吠えた犬の問題」であり、最後の『バスカビル家の犬』を素材にした評論を除いて短編ミステリとなっています。すべてではないかもしれませんが、「どんでん返し」をテーマにする作品が少なくなく、なかなか楽しめます。代表的なミステリ近作を集めているので、別のアンソロジーなどで読んだ作品もありましたが、出来のいい作品ばかりですので、結末を記憶しているミステリでも2度楽しめるかもしれません。
2018年09月15日 (土) 13:23:00
今週の読書は経済書を中心に大量に読んで計8冊!
まず、ロバート J. ゴードン『アメリカ経済 成長の終焉』上下(日経BP社) です。著者は米国のマクロ経済学を専門とするエコノミストです。本書は、英語の原題は The Rise and Fall of American Growth であり、2016年の出版です。かなり注目された図書ですので、ボリュームの点から邦訳に時間がかかったのだろうと私は受け止めています。米国の生活水準やその背景となる技術水準などにつき、米国の南北戦争後の1870年から直近の2015年までを、1970年を境に2期に分割して歴史的に跡づけています。そして、さまざまな論証により、1970年以前の第1期の時期の方が、197年以降の第2期よりも、生活水準の向上や生産の拡大のペースなどが速かった、と指摘し、その原因はイノベーションであると結論しています。そして、現在の「長期停滞」secular stagnation の原因をこのイノベーションの停滞、というか、イノベーションの枯渇に近い技術水準に求めています。要するに、「低いところになっている果実を取り尽くした」というわけです。加えて、現在進行形のIT産業革命についても、生産の現場におけるイノベーションというわけではなく、国民生活における娯楽や生活様式の変化に及ぼす影響の方が大きく、生産性向上や生産の拡大にはつながりにくい、とも指摘しています。ただ、マクロにこれら生産性や生産そのものを計測するGDPについては、たとえ物価指数がヘドニックで算出されていたとしても、生活の質の向上などが正しく計測されているとは思えない、とも付け加えています。ですから、定量的なGDP水準は生活水準を過小評価している可能性が高い一方で、たとえそうであっても、生産性や成長は1970年くらいを境に大きく下方に屈折したのではないか、という結論となっています。それは本書の対象である米国経済だけでなく、我が国でもご同様と私は考えています。その意味で、本書の結論は私のエコノミストとしての直観と共通する部分が少なくありません。ちなみに、私が官庁エコノミストの先輩で現在は日銀審議委員まで出世された方と共著で分析した「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」という学術論文もあったりします。
次に、イリス・ボネット『WORK DESIGN』(NTT出版) です。著者はスイス出身で、現在は米国ハーバード大学の研究者です。かなり大きなタイトルなんですが、実際は男女間の不平等を是正するための行動経済学ないし実験経済学に関するテーマが主であり、女性に限らずいわゆる多様性とかダイバーシティの問題についても取り上げています。しかし、ハッキリいって、内容はかなりありきたりです。私はかなりの程度にすでに読んだことのある中身が多かったような気がします。逆に、この分野について初学者であれば、包括的な知識が得られる可能性が高いと受け止めています。ステレオタイプやバイアスといった平易な用語で行動経済学の原理を解説し、女性に対するアファーマティブ・アクションの重要性についてもよく分析されています。次の『医療現場の行動経済学』については別途の論点があるんですが、本書では、正義の問題について考えたいと思います。というのも、p.314 でダボス会議を主催する世界経済フォーラムのシュワブ教授が「ジェンダーの平等が正義の問題」と指摘しているからで、正義の問題として考える場合と、損得として取り上げるのは少し差がある可能性を指摘しておきたいと思います。というのは、この差を多くのエコノミストは無視して、すべてを損得の問題で片付けようとするように私は受け止めており、例えば、行動経済学や実験経済学ではなく、合理的な経済人を前提しつつ、殺人について、その殺人から得られる効用と捕まって処罰される可能性の期待値の比較考量で判断する、というのがかなり標準的なエコノミストの考え方ではないかと思いますが、行動経済学や実験経済学では違う可能性を指摘しておきたいと思います。すなわち、私が殺人や窃盗をしないのは正義の問題であり、ギャンブル、例えば、競馬やパチンコをしないのは損得の問題です。伝統的な合理的経済人を前提としない行動経済学や実験経済学では、こういった正義の問題と損得に基づく選択を扱えるハズです。その意味で、もう一歩のこの学問領域の発展を願っています。
次に、 大竹文雄・平井啓『医療現場の行動経済学』(東洋経済) です。これも行動経済学がタイトルに取り入れられていますし、医療の分野で生き死にを扱いますので、実験経済学の要素は極めて薄くなっていますが、伝統的な経済学が大勝とする合理的経済人ではない、非合理性を全面に押し出している点については、ご同様ではないかと私は受け止めています。ただ、ジェンダーの問題と異なり、医療については医師と患者の情報の非対称性の問題が避けて通れないんですが、本書ではかなり軽く扱われている気がします。その昔の医師による一方的な医療行為の決定や選択から、インフォームド・コンセントが重視され始め、今では本書にもあるようなシェアード・ディシジョン・メーキングに移行しつつあるとはいえ、また、インターネットで病気や薬について豊富な知識が得られるとはいえ、まだまだ医師や薬剤師などと患者の間には情報の隔たりがあるのも事実です。ですから、政府は医療・投薬行為を規制し、自由な市場原理に任せておくことはしないわけです。その意味で、医療行為をほぼほぼ自由な市場行為に近い医者と患者の間の取引のように本書で描写しているのは少し疑問が残ります。基本は、医師と患者の間の十分な意思疎通による医療や投薬に関する決定に基づきつつも、正当な医療行為、特に、保険で賄うのと保険外になるのとでどこが違うのか、どう違えるべきか、といった議論も欲しかった気がします。類書と異なり、本書では患者のサイドに立った選択だけでなく、医師のサイドの選択も取り上げているだけに、もう一歩踏み込んで、医療や投薬を規制する政府当局の選択についても行動経済学や実験経済学の観点から解き明かして欲しかったと考えるのは私だけでしょうか。
次に、大前研一『世界の潮流 2018~19』(プレジデント社) です。昨年2017年12月の公演記録を基に編集されているようです。このままでは我が国はスペインやポルトガルと同じように400年間の衰退に過程に入るといいつつ、それに対する対抗策のようなものは提示されていません。その意味で、無責任といえなくもありませんが、まあ、どうしようもないのかもしれません。日本はこの先も大きなパニックに陥ることもなく、政治的な安定性を維持しつつも、かつてのような活気ある高度成長期やバブル経済期の復活はありえず、移民を受け入れることもなく、かといって、内生的な大きなイノベーションもなく、平たい言葉でいえば「ジリ貧」といわれつつも、それなりに安定して豊かな社会や生活を享受できるのではないか、という意味では、私と同じような見方なのかもしれません。生産性の高い社会という目標はいいんですが、ご同様に、そのための方策というものはなく、個々人が努力するというのが本書の著者の基本的なスタンスなのかもしれません。
次に、ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』(みすず書房) です。著者はオーストラリアの統計や確率などの概念史などの研究者です。英語の原題は The Science of Conjecture であり、2001年の出版です。今週読んだ本の中で最大のボリュームがあり、軽く600ページを超えます。確率論が学問として登場したのはルネッサンス後の17世紀半ばというのが定説であり、本書でもその立場を踏襲しています。なお、確率の歴史をひもとくに当たって、本書ではホイッグ史観の立場を取っています。そして、パスカルないしデカルトといった近代冒頭の数学者で本書は終わっています。歴史を詳細に見ると、やや逆説的ながら、確率理論は17世紀以前にも発達していたし、同時に、ランダムな確率論が問題となるのは資本主義の確立を待たねばならなかった、というのが本書の著者の見方です。開発経済学の他に、私の専門分野のひとつである景気循環論や経済史の見方を援用すれば、マルクス主義的な商品による商品の生産や拡大再生産の考えを待つまでもなく、近代資本主義とは資本蓄積とその資本を所有するブルジョワ階級の出現で特徴づけられますし、その近代の前の中世では資本蓄積がなく、それゆえに成長はほとんど見られず停滞そのものの時代であり、従って、キリスト教だけでなく金利徴収は成長のない中で、禁止されていたわけです。ただし、生産の成長や資本蓄積ないながらも、リスク・プレミアムの観点からの金利はあり得ると本書の著者は見ており、その確率計算のため蓋然性の概念が発達した、との考えも成り立ちます。ただ、本書では私のようなエコノミスト的な確率に近い蓋然性の議論だけでなく、英語の原題通りに、論理学的な証明や論証、それも、数学的な論理学ではなく、法廷における論証や証明に近い議論も冒頭から展開されており、そのあたりでつっかえると読み進めなくなる可能性もあります。
次に、松本創『軌道』(東洋経済) です。本書のテーマは、2005年4月25日に死者107名と負傷者562名を出した福知山線脱線事故から、いかにしてJR西日本が収益性や上場への展望を安全重視の姿勢に転換したかであり、著者は地元神戸新聞のジャーナリストとして、その10年余りの軌跡を追っています。事故はすべて現場の運転士の責任であり、民鉄との競合の激しいJR西にあって、「天皇」とさえ呼ばれた絶対的なワンマン経営者、そして、官庁よりも官僚的とさえいわれた国鉄からの体質をいかにして、自己被害者らとともに転換したかを跡づけています。加えて、著者のジャーナリストとしての視点だけでなく、ご令室さまとご令妹さまを事故で亡くし、ご令嬢さまも重篤な負傷を負ったご遺族の淺野弥三一氏の視点も導入し、複眼的な分析を展開しています。順調な組織運営の時には目につかないながら、こういった大規模事故はいうに及ばず、何かの不都合の際に顔を覗かせる組織の体質があります。事故は個人のエラーなのか、それとも組織の体質に起因するのか、また、別の視点として、何かの功績は経営者の業績としつつも、不都合は現場の末端職員に押しつける、などなど、組織体質を考える上での重要なポイントがいっぱいでした。日本企業は一般に、「現場は一流、経営は三流」と評価されつつも、本書で取り上げられているJR西日本のように国鉄大改革の功労者として居座り続けるワンマン経営者が現場の運転士を締め付けるような組織運営をしている例外的な企業もあるんだ、ということが、ある意味で、新鮮だった気すらします。この時期に出版されたのは、私には不思議だったりします。
最後に、湊かなえ『未来』(双葉社) です。著者はモノローグの文体も特徴的なミステリ作家であり、本書は著者の得意とする教師や学園ものと位置づけられ、デビュー作である『告白』などと同じモノローグで物語が展開します。もっとも、単なるモノローグだけでなく、手紙とか日記のような形をとる場合もあります。女性である主人公が小学生の10歳のころから中学いっぱいから高校に入学するくらいまでのかなり長い期間が収録されており、主人公以外にモノローグを語るのは、友人、小学校の担任の先生、そして、モノローグを語る中では唯一の男性である主人公の父親、などです。相変わらず、暗い文体であり、主人公やほかの登場人物には学校でのいじめをはじめとして、さまざまな不幸な出来事がこれでもかこれでもかというくらいに発生します。伝統的なミステリのように最後に一気に謎が解明されるわけではなく、タマネギの皮をむくようにひとつひとつ謎が解き明かされていきます。そして、最後には主人公を取り巻くすべてが明らかになるんですが、だからといって、主人公が幸せになるわけでもなく、じっとりと暗い思いを残したままストーリーは終局します。私のように、この作者の作品が好きならば、読んでおくべきだと思いますが、いわゆるイヤミスというほどでもなく、また、私は従来からこの作者の最高傑作はデビュー作の『告白』であると考えており、それは本書を読み終わった後でも変更の必要はありません。すなわち、やや出来もイマイチという気もします。評価は難しいところです。でも、すでに出版された次の『ブロードキャスト』も私は借りるべく予定しています。
2018年09月09日 (日) 14:26:00
先週の読書は経済書は少なくいろいろ読んで計7冊!
まず、ティム・ジョーンズ & キャロライン・デューイング『[データブック] 近未来予測 2025』(早川書房) です。著者2人は英国出身であり、未来予測プロジェクトである「フューチャー・アジェンダ」の創設者だそうです。本書の英語の原題も Future Agenda であり、2016年の出版です。もっとも、本書は「フューチャー・アジェンダ」の第2段であり、第1段は2020年をターゲットにしてすでに2010年に出版されていて、本書の著者2人は2018年の現時点で約90%が達成されたと豪語しています。基本はマルサス的な人口爆発など、その昔のローマクラブのような発想なんですが、コンピュータのシミュレーションをしたような形跡はありませんし、エネルギーの枯渇はアジェンダに上っていないようです。そのかわり、といっては何ですが、覇権といった地政学、あるいは、水資源や宗教的な要素を取り入れるなど、より幅広いアジェンダの提起に成功しているような気もします。しかし、さすがに、結論を明確に提示する点についてはやや物足りない気がします。曖昧な表現で正解率が上がるのかもしれません。ただ、明確な将来像の提示を期待するよりも、そこに至る議論の過程を透明に示している点は評価されるかもしれません。
次に、大貫美鈴『宇宙ビジネスの衝撃』(ダイヤモンド社) です。著者は宇宙ビジネス・コンサルタントだそうで、私の想像を超えているので、よく判りません。本書の冒頭に、なぜIT業界のビッグビジネスは宇宙事業に参入するのか、という問いが立てられていて、ビッグデータの処理とか、移住計画までが並んでいるんですが、IT以外のビッグビジネスが食指を動かしていそうにない現状については不明です。確かに、宇宙にはまだまだビジネスの、というか、イノベーションのシーズが眠っているような気がしなくもありませんが、ロバート・ゴードン教授にいわせれば「低いところの果実は取り尽くした」、ということなのかもしれませんので、高いところに中にある果実を取りに行くんだろうと私は理解しています。それにしては、とてもコストがかかりそうなのでペイするんでしょうか。そのキーワードはアジャイル開発で、IT業界と同じように走り出しながら考える、ということのようです。役所に勤める公務員の私の想像力には限りがあるのだということを強く実感しました。もうすぐ定年退官ですから、しっかり勉強したいと思います。
次に、西垣通『AI原論』(講談社選書メチエ) です。著者は情報学やメディア論を専門とする研究者であり、東大名誉教授です。本書では、かつての確率論的なAIから進化した現在のAIについて、機械であるAIに心があるかとか、感情が宿るか、などを考えようとしています。私はこの問題設定は間違いだろうと考えています。すなわち、心とか、感情の定義次第であり、その定義に従った機能を機械に搭載するだけの話ですので、心があるか、とか、感情はどうだと問われれば、そのような機械を作ることができる技術段階に達しつつある、ということにしかなりそうにないんではないでしょうか。そして、現段階では心や感情については解明されておらず、従って、機械にインストールすることが出来ない、ということだと私は理解しています。蛇足ながら、心や感情が完璧に解明されて、従って、機械にインストールされれば、それが新しい人類になって現生人類は滅ぶんだろうと思います。ネアンデルタール人とホモサピエンスのようなものと、私のように理解するのは間違いなんでしょうか?
次に、稲垣栄洋『世界史を大きく動かした植物』(PHP研究所) です。著者は農学の研究者であり、本書では歴史や世界史のサイドからではなく、植物のサイドから世界史をひもとこうと試みています。取り上げられている植物は順に、コムギ、イネ、コショウ、トウガラシ、ジャガイモ、トマト、ワタ、チャ、サトウキビ、ダイズ、チューリップ、トウモロコシ、サクラの12種であり、コショウのように大航海時代を切り開く原動力となった植物もあれば、もっと地味なものもあります。なお、冒頭のコムギについては、コムギそのものではなく穀物としてのイネ科の植物全体の特徴を取り上げています。ジャガイモの不作がアイルランドから米国への移民を促進した、というのはやや俗説っぽく聞こえますし、オランダのチューリップ・バブルが世界で初のバブルだったのはエコノミストでなくても知っていそうな気もします。職場の井戸端会議でウンチクを語るには好適な1冊ではなかろうかと思います。
次に、畠中恵『むすびつき』(新潮社) です。この作者の人気のしゃばけシリーズの最新刊第17弾だそうです。この作者の人気シリーズ時代小説は私が読んでいる限り2シリーズあり、妖の登場するしゃばけと登場しないまんまことです。しゃばけは体の弱い長崎屋の若だんな一太郎とそれを守る2人の妖の兄や、すなわち、犬神の佐助と白沢の仁吉を中心に、さまざまな妖が登場します。この巻では、生まれ変わりとか、輪廻転生がテーマとなっていて、長崎屋の若だんなの前世ではなかろうか、という200年くらい前の戦国時代くらいの物語をはじめとし、いつもの通り、ちょっとした謎解きも含めて、色んなお話が展開されます。やや佐助と仁吉の出番が少なく、一太郎も出番も多くはありません。一太郎の両親である藤兵衛とおたえに至っては、まったく顔を見せません。活躍するのは、いつもの鳴家は別格としても、付喪神の屏風のぞきと鈴彦姫、さらに、猫又のおしろと貧乏神の銀次、などなどです。私の出版されれば読むようにしていますが、そろそろマンネリなのかもしれません。どちらかといえば、まだまんまことシリーズの方が私は楽しみです。
次に、高槻泰郎『大坂堂島米市場』(講談社現代新書) です。作者は経済学部出身の、おそらく、経済史の研究者です。本書では、大坂の米会所が8代将軍徳川吉宗により許可され始まって、さらに、おそらく、世界で初めて先物取引や今でいうデリバティブ取引を始めた歴史を跡づけ、実際に市場における取引と絶対王政に近かった江戸期の幕府権力との関係などが歴史的に分析の対象とされています。当時の「米切手」はコメの現物の裏付けなしに発行され流通しており、その意味では、現在の管理通貨制に近いと考えることができる一方で、歴史的な背景は近代的な自由な資本制ではなく、農奴制ないし封建制の経済構造下でいかにして近代というよりも現代的な裏付けなしの証券が取引されていたのかを、現実にはレピュテーションの面から解き明かそうとしています。江戸幕府やその地方政府である藩、あるいは大坂奉行所などが、極めて現代的な中長期的な取引費用の観点から行動していることがよく理解できます。江戸時代は支配階級として武士が君臨する一方で、本書でも「コメ本位制」と呼ばれているように、武士の経済的基礎はコメであり、コメ価格を高めに維持することが支配階級から要請されており、その意味で、コメの先物取引やデリバティブ取引が位置づけられています。
最後に、更科功『絶滅の人類史』(NHK出版新書) です。著者は、分子古生物学の研究者であり、本書では、長い長い生物の進化の歴史の中で、ヒトとしては我々ホモサピエンス1種だけが生き残り、その前のネアンデルタール人などが絶滅した要因を解明しようと試みています。決して我々ホモサピエンスの頭脳が優れていて、能力的に優れた種として生き残ったわけではない可能性を示唆しつつ、ホモサピエンスの生存戦略の合理性にもスポットを当てています。私は従来から恐竜が絶滅しなければ、この地球上の生物の王者は何だったのか、おそらく、人類ではなかった可能性も小さくない、と思っているんですが、そこまで深く突っ込んだお話ではありません。未だに、人類がサルから進化したというダーウィン的な進化論を否定するキリスト教原理主義が一定の影響力を持っていて、人種間の偏見が払拭されていない現状にあって、私はこのような進化論的な科学的見方、すなわち、決して現生人類が何らかの意味で「優れている」ために生き延びたわけではない、という観点は重要だと受け止めています。ただ、大量にたとえ話が盛り込まれているんですが、判りにくい上にややレベルが低い気がします。それだけが残念です。
2018年09月01日 (土) 11:10:00
今週の読書はいろいろ読んで計7冊!
まず、鷲田祐一[編著]『インドネシアはポスト・チャイナとなるのか』(同文舘出版) です。著者は一橋大学商学部の研究者ですが、学生などといっしょに執筆にあたっています。対象となる国は明らかにインドネシアなんですが、一橋大学のアジア的雁行形態論の流れの中で、先行する日本や中国との比較も大いに盛り込まれています。すなわち、日本はポストモダンの位置にあり、中国はモダンからポストモダンへの移行期にあり、インドネシアはモダンの最終段階にあることから、西洋的でまだ画一化された安価な大量生産品が売れる、といった見方です。そして、このインドネシアの歴史的な発展段階を米国マサチューセッツ工科大学のハックス教授らの提唱するデルタモデルなる戦略論フレームワークに沿って説明しようと試みています。私は商学やマーケティングは専門外なので、このあたりでボロを出さないうちに終わっておきます。
次に、小谷敏『怠ける権利!』(高文研) です。著者は大妻女子大学の研究者であり、社会学のご専門ではないかという気がします。本書では、19世紀末に活動したフランスの社会主義者であるラファルグの考えを基本に、1日3時間労働を提唱したり、エコノミストの間では有名なケインズの「わが孫たちの経済的可能性」にも言及しつつ、「過労死」という言葉が世界的に日本語のままで通用するようになった悲しい我が国の労働事情を勘案しつつ、タイトル通りの怠ける権利や1日3時間労働で済ませる方策について考えを巡らせています。そして、最後の方でその解決策のひとつとしてベーシック・インカムが登場します。もともとそれほど勤勉ではないというのもありますが、私も命を失うくらいであれば怠ける方がまだマシな気がします。キリスト教プロテスタント的な勤労の概念に真っ向から反論する頼もしい議論です。
次に、ジョニー ボール『数学の歴史物語』(SBクリエイティブ) です。著者は、想像外だったんですが、コメディアンであり、テレビ司会者の仕事から数学に興味を持ったようです。ただ、惜しむらくは、確かに数学の歴史を追おうとはしているものの、数学ではない物理学や化学、あるいは、天文学などの分野が大いに紛れ込んでいるほか、ニュートンの時代くらいまでの近代レベルの数学にとどまっています。すなわち、ガウスやリーマン、あるいは、ヒルベルトなどの名前こそ触れられていますが、彼らの業績はまったくスルーされていて、リーマン積分の限界を克服したルベーグ積分については人名すら取り上げられていません。中国の数学にはホンの少しだけ触れていますが、目は行き届いていませんし、やや仕上がりが雑な気がします。
次に、前川喜平『面従腹背』(毎日新聞出版) です。話題になったモリカケ問題の主管官庁であった文部科学省の次官経験者の半分くらいの自伝です。かなり、忠実にご自身の半生を追っていますが、間もなく定年を迎える私自身の公務員人生を振り返って、こういった人物と仕事していたら、上司であっても、部下であっても、とてもストレスが溜まったのではないか、という気がします。要するに、「面従腹背」とは私のような京都人からすれば、嘘をついている、日会員証です。でも、公務員としてのトップである事務次官まで上り詰めたわけですので、それはそれで不思議な気もします。
次に、薬丸岳『刑事の怒り』(講談社) です。作者は売れっ子のミステリ作家であり、本書は人気の夏目刑事シリーズ最新刊です。4編の中短編から成り、それぞれのタイトルは「黄昏」、「生贄」、「異邦人」、「刑事の怒り」となっています。冒頭に収録されている「黄昏」だけは、何かのアンソロジーで読んだ記憶がありました。なお、夏目刑事は池袋から錦糸町に異動になり、表紙画像に見られる通り、スカイツリーのあるあたりをホームグラウンドにした捜査活動になります。病院での医療関係者による殺人事件など、場所には関係ないながらも、最近の社会的な事件を背景にした作品も含まれていて、相変わらず、いい出来に仕上がっています。
次に、筒井忠清『戦前日本のポピュリズム』(中公新書) です。著者は引退したとはいえ京都大学の研究者を長らく務めた近現代史歴史学者であり、歴史社会学の方面の大家です。ここ何年かの米国のトランプ大統領の誕生や英国のBREXIT国民投票、あるいは、ドイツ以外の大陸欧州における反移民を標榜する右翼政党の進出など、ポピュリスト的な政治動向が強くなる中で、新書のタイトル通りに、戦前の我が国のポピュリズムを歴史的にひもといています。すなわち、日露戦争直後の和平を不満とする日比谷焼き打ち事件、朴烈怪写真事件、軍縮交渉に関連した統帥権干犯事件、あるいは、高校でも習うような天皇機関説などなど、最終的に国際連盟を脱退し戦争に突き進んでしまう我が国の政治的なポピュリズムの傾向を歴史的に跡づけています。
最後に、マージェリー・アリンガム『ホワイトコテージの殺人』(創元推理文庫) です。作者は前世紀初頭の英国ビクトリ女王時代末期1904年に生まれた女性推理作家であり、この作品の舞台は1920年代後半の戦間期の英国です。1928年の出版であり、この作家のデビュー作です。とても評判が悪い、というよりも、誰からも憎まれていて殺人を犯しそうな動機ある人物が周囲にウジャウジャいる悪漢が銃で殺された犯人探しです。動機ある人物がいっぱいいますので、ホワイダニットは成り立ちそうもありませんし、テーブルクロスが焼け焦げていてテーブル上に置かれた散弾銃での殺人であってハウダニットも明らか、ということで、フーダニットだけが成り立つんですが、推理小説の初期作品で、チンパンジーだか何かのサルだかが人の入れない隙間から入り込んで密室殺人を完成させた、というのがありましたが、この作品もそれに近いです。クリスティのレベルの作品を期待して読むとガッカリします。
2018年08月25日 (土) 13:11:00
今週の読書は統計学の大御所の経済書など計6冊!
まず、竹内啓『歴史と統計学』(日本経済新聞出版社) です。東大経済学部教授を退いてもう十数年になり、竹内先生も80代半ばではないかと推察するんですが、まだ統計学の大家であり、雑誌「統計」に今春まで連載されていた50回近いエッセイを取りまとめてあります。実は、私も今週にシェアリング・エコノミーに関して雑誌「統計」から寄稿を求められており、9月半ばには原稿を提出する予定となっているわけで、竹内先生と同じ号に掲載されることはなさそうですが、なかなに光栄なことであると受け止めています。前置きが長くなりましたが、本書は、通常は近代初期とされる統計学の歴史について概観し、古代中国の人口統計や古典古代のローマ帝国の人口センサスまでさかのぼって、詳細なエッセイを展開しています。もちろん、焦点は近代的な統計学、さらには、20世紀に入ってマクロの経済統計、すなわち、GDP統計が大きな位置を占めるようになった統計学が、私のようなエコノミストには読みどころだろうという気がします。他方、統計学史の本流に沿って、前近代における統計学の源流を、国家算術、国情論、確率論の3つとし、国情論は今ではかえりみられなくなったものの、最初の国家算術はまさに人口統計たるセンサスやマクロのGDP統計などで現在にも大いに活用されているとした一方で、確率論の歴史も詳細に展開しています。ですから、本書は横書きで数式が大量に展開されています。それほど難しくはないので、私のような文系人間であっても大学の学部レベルまでキチンと数学を履修していればOKだという気もしますが、私の知り合いの何人かのように大学入試に数学がないという観点で志望校を選択していた向きには少し苦しいかもしれません。加えて、≈ は見かけなかったんですが、≃ と ≅ が区別されているんではないかと思わせる記述がいくつかありましたし、別のパートでは、≒ も使われていたりしました。私はこれらを数学的な正確さでもって区別できませんので、かなり高度な数学が使われているのかもしれません。単なるタイプミスかもしれません。
次に、牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書) です。著者は経済学部の研究者ですから、あるいは、経済史のご専門、ということになるのかもしれません。タイトル通りの内容なんですが、特に、陸軍の秋丸機関という組織に集まったエコノミストたちを実名を大いに上げて、その人となりまで追った形で、日米英開戦と経済学者の戦争遂行能力分析の関係を考察しています。今までの理解では、秋丸機関をはじめとして、経済学者や実務家はとても冷静に米英と日本の工業品などの生産規模をはじめとする戦争遂行能力の差を定量的に、例えば、製鋼規模の差から20倍という数字がよく取り上げられますが、こういった定量的な数字も含めて、大きな戦争遂行能力の差があることから、開戦は無謀な行為であり、陸軍をはじめとする軍部が精神論で生産規模などの差を乗り越えられるというムチャな理論を振り回して専門家の意見を無視したんではないか、と考えられてきました。かなりの程度にそれは正解なんでしょうが、本書では、トベルスキー・カーネマンによるプロスペクト理論に基づく行動経済学的な損失回避行動とか、フランコ将軍の独裁下で戦争を回避したスペインと対比させつつ集団的な意思決定における集団極化ないしリスキーシフトの2点で説明しようと試みています。私自身エコノミストとして、どこまで説得的な議論が展開されているのかはやや疑問なんですが、一定の方向性が示されたのは興味深いところです。こういった見方が展開されているのは5章で、これが本書の核心たる部分で読ませどころなんでしょうが、7章の敗戦を見通しての戦後処理の政策策定過程におけるエコノミストの活躍も、私にはとても新鮮でした。連合国が戦後を見通して国連創設を決めたり、あるいは経済の分野ではブレトン・ウッズ会議でIMF世銀体制を戦争抑止力の一環として構築したりといった点は人口に膾炙しているものの、我が国で戦争終了を見越した経済政策策定がなされ、それが戦後の傾斜生産方式につながった、という歴史は不勉強な私は初めて知りました。
次に、佐々木裕一『ソーシャルメディア四半世紀』(日本経済新聞出版社) です。著者は東京経済大学のコミュニケーション学部の研究者であり、本書はタイトル通りであれば、1990年代前半から現時点の25年間、ということになりますが、実際に重点を置いているのは2001年以降です。この点は理解できます。そして、この期間における、著者のいうところの「ユーザーサイト」の動向を歴史的に跡付けています。第1部は2001年であり、まさに、私のような一般ピープルが情報発信の場を持った、というきっかけです。それまでは、自費出版などという方法がなくもなかったわけですが、大きなコストをかけずに自分なりの情報をインターネット上で発信できるようになった、という技術進歩は大きかった気がします。我が家のようなパッとしない一家でも、2000年から海外生活を始めましたので、ジャカルタ生活の折々にちょうど幼稚園くらいのカワイイ孫の姿を私の両親などに見せるため、無料のwebサイトを借りて、これまたフリーのftpソフトでデジカメ画像をアップロードしていました。ただ、2001年は米国などでのいわゆるドットコム・バブルの崩壊があり、景気は低迷しました。第2部は2005年であり、私の記憶でも、2003年に帰国した後、2003-04年ころからmixiやGREEなどのSNSサイトが本格的にスタートし、ブログの無料レンタルも始まっています。私のこのブログの最初の記事は2005年8月ではなかったかと記憶しています。そして、この2005年の後にネットの商業化が大規模に始まります。我が国でいえば、楽天や当時のライブドアといったところかもしれません。第3部の2010年からはオリジナルの情報発信としては最盛期を迎え、その意味で、ユーザーサイトにおける情報発信は衰退が始まったと結論しています。一例として、ツイッターでのフォローに終始するケースが上げられています。第4部が2015年、そして最終第5部が2018年から先の未来のお話しですから、ユーザーサイトの運営や閲覧がパソコンからスマホに移行し、独占が寡占始まって格差拡大につながった、と指摘しています。とてもコンパクトなユーザーサイトの歴史の概観で、かなりの程度に性格でもあるんですが、ひとつだけ個人情報をマーケティングに生かすという点で、日本企業は決定的に米国のGoogle、Amazon、Facebook、Appleなどに後れを取ったわけで、エコノミストとしては、その点の分析がもう少し欲しかった気もします。
次に、佐藤卓己『ファシスト的公共性』(岩波書店) です。著者は、メディア史を専門とする京都大学の研究者です。教育学部教授らしいんですが、私は我が母校の教育学部出身者に関しては、小説家の綾辻行人のほかには1人しか知りません。メディア史といった分野は文学部かと思っていました。それはともかく、本書のタイトルはとても判りにくくて、というか、「ファシスト」の部分はともかく、「公共性」のて定義次第であり、本書ではハーバーマスの定義を引いて「輿論/世論を生み出す社会関係」、というやや一般には見かけない定義を与えています。普通、「公共性」といわれれば、公共的という形容詞の名詞形、あるいは、公共的なること、すなわち、広く社会一般のみんなの利害にかかわる性質とか、その度合い、という意味で使うんですが、まあ、そこは学術的に定義次第です。さらに脱線気味に、本書の著者は、一般に「国家社会主義」と訳されるナチズムについて、「国民社会主義」が正しいと主張しています。ナチズムは、本来ドイツ語ですが、英語的に表現すれば、national socialism ということになろうかと思いますが、これは「国民社会主義」であり、state socialism こそが「国家社会主義」に当たる、ということらしいです。はなはだ専門外のエコノミストにとっては、よく判りません。ということで、実は上のカバー画像に見られるように、副題は『総力戦体制のメディア学』となっていて、この方がよっぽど判りやすい気もします。ただ、時期的にも長い期間に渡る著者の個別の論文や論考を取りまとめて本書が出来上がっていますので、やや統一性には難があると見る読者は少なくなさそうな気がします。細かい点では、日本語に対応する言語を付加している場合、章ごとにドイツ語だったり、英語だったりします。戦争遂行のためのメディアの役割については、米国ローズベルト大統領のラジオを通じた炉辺談話が有名なんですが、ナチス下のドイツや米国のように、積極的に戦争遂行に邁進する国民の意識の積極的な鼓舞ではなく、我が国では反戦思想を体現した表現の自由を奪うという形での消極的な取り締まり体制の強化だったわけで、その違いを浮き上がらせています。そして、著者は、理性的討議にもとづく合意という市民的公共性を建て前とする議会制民主主義のみが民主主義ではなく、ナチスの街頭行進や集会、あるいは、ラジオの活用による一体感や国民投票により、大衆が政治的公共圏への参加の感覚を受け取り、近代初頭の19世紀とは異なる公共性を創出した、と結論しています。現代のポピュリズムについて考える際にも参考になりそうな気がします。
次に、メリー・ホワイト『コーヒーと日本人の文化誌』(創元社) です。著者は米国ボストン大学の文化人類学の研究者であり、トウキョウオリンピック直前の1963年に初来日したといいますので、かなりの年齢に達しているんではないかと想像しています。英語の原題は、上の表紙画像に見られる通り、Coffee Life in Japan であり、ロナルド・ドーアの名著 City Life in Japan を大いに意識したタイトルとなっています。原書は2012年の出版です。ということで、本書は日本におけるコーヒー飲用の文化について解き明かしています。ただ、日本全国津々浦々というわけでもなく、基本的に都会限定です。しかも、ほぼほぼ東京と京都だけに限られているようで、あとはせいぜい関西圏の大坂と神戸、加えて名古屋くらいが対象とされているに過ぎません。さらに、コーヒー飲用とはいっても、家庭での飲用ではなく、お店、すなわち、カフェや純喫茶におけるコーヒー文化に焦点を当てています。本書冒頭には歴史を感じさせる写真や挿絵がいくつか収録されており、中にもかなり多くの部分は京都にあるカフェや喫茶店の写真が取り入れられています。日本のコーヒーの歴史から解き明かし、コーヒーが供される場所としてのカフェや喫茶店におけるしきたりやマナーについて、やや過剰なバイアスを持って紹介し、そのしきたりやマナーの源泉となっている喫茶店マスターについて論じ、日本のコーヒー文化について考察し、結論として、我が国ではコーヒーを供する場としての喫茶店やカフェは「公共」と邦訳されていますが、まさに、英語でいうところのパブリックな場所として位置付けられています。ですから、米国人の著者にはやや過重な期待かもしれませんが、英国のパブに当たる場所が日本の喫茶店かもしれない、という着眼点はありません。私はそれに近い感想を持っています。
最後に、三浦しをん『ののはな通信』(角川書店) です。電子文芸誌での6年に及ぶ連載が単行本として出版されています。著者は直木賞や本屋大賞も受賞した売れっ子の小説家であり、私の好きな作家の1人でもあります。著者は横浜雙葉高のご出身ではなかったかと記憶していますが、本書では、横浜のミッション系女子高に通う2人の友人の間の、基本的には、高校の授業中に回したメモやハガキの類も含めて、アナログの手紙や電子メールのやり取りの形でストーリーが進みます。タイトル通りの「のの」こと野々原茜と「はな」こと牧野はなが主人公です。堅実ながら決して経済的に恵まれた家庭に育ったわけではないののが成績優秀で東大に通ってライターになる一方で、はなは外交官一家に生まれて海外生活を経験して、ごく平凡な大学を卒業した後に外交官と結婚します。単なる親友にとどまらず、レズビアン的な恋愛関係も芽生え、別れと出会いを繰り返しながら、最後は、はながアフリカの赴任地が内戦で帰国する外交官の亭主と離婚してまで現地に残ってボランティア活動に身を投じます。主人公2人以外は、ののの家族はほとんど出て来ませんし、はなの家族も結婚後の亭主と妹が少し登場するくらいで、とても濃密な女性2人の関係が描き出されます。やや男性には理解しにくい世界かもしれません。バブル経済を謳歌していた女子高生時代に始まって、東北で震災のあった2010年代初頭の主人公たちの40代まで、極めて長い期間を対象にした小説でもあります。ですから、私の好きな著者の青春小説、すなわち、デビュー作の『格闘するものに◯』や『風が強く吹いている』とは趣が異なります。でも、ファンは読んでおくべきだと私は思います。
2018年08月18日 (土) 11:37:00
今週の読書はやや抑え気味に計5冊!
まず、福田慎一[編]『検証アベノミクス「新三本の矢」』(東京大学出版会) です。編者はマクロ経済を専門とする東大経済学部教授であり、すでに退職した吉川教授とともにマクロ経済分析の第一人者といえます。ただ、福田教授の場合は、もともとのオリジナルのアベノミクスの三本の矢に対しては批判的な見方を展開していて、本書で取り上げている新三本の矢については、その意味ではやや肯定的な取り上げ方ではないかという気もします。どうして新三本の矢が福田教授の評価を得たかというと、要するに、福田教授の好きな構造改革に近いからです。すなわち、名目GDP600兆円の強い経済はさて置き、希望出生率1.8を目指す子育て支援、さらに、介護離職ゼロを目指す社会保障改革については、かなり構造改革の色彩が強くなる、という見方なんだろうと思います。私はオリジナルの三本の矢、特に最初の矢である金融政策を高く評価しており、かなり方向性が違います。成長戦略などの構造改革は潜在成長率を高めることにより、少し前までの日本経済に漂っていた閉塞感の打破に役立つと、素直に考える向きは少なくありませんが、現状の人手不足経済の中でどこまで有効でしょうか。私には疑問のほうが大きく感じられます。
次に、W. チャン・キム & レネ・モボルニュ『ブルー・オーシャン・シフト』(ダイヤモンド社) です。かなり前にこの著者から『ブルー・オーシャン戦略』という本が出されていますが、その実践編、というか、続編であることは明らかです。コモディティ品で溢れて、血に泥の競争を繰り広げているレッド・オーシャンから、独自製品や新たな市場開拓による競争のないブルー・オーシャンへのシフトを眼目にしているわけですが、基本的に、ブルー・オーシャンを開拓できる企業はとても限られていると私は見ていて、ハッキリいって、本書のお題目は非現実的です。当然ながら、本書を読んだ経営幹部がすべてブルー・オーシャンにシフトできる、と考えるのは控えめに言ってもバカげています。本書のようなサクセス・ストーリーに着目したケーススタディを展開しているような経営本を読むにつけ、その反対側で数百倍、数千倍の失敗例が山を成しているという事実を忘れるべきではありません。むしろ、うまくブルー・オーシャンにシフトした例と失敗した例を並べて分析するほうが役立ちそうな気もします。現自社社会の経営幹部にとって、ほとんど何の役にも立たない本ではないか、と私は考えています。すなわち、実際の企業経営で活用するというよりも、むしろ、シミュレーションゲームのシナリオの基にする方ががまだ本書の使い道がありそうな気がします。4次元ポケットから取り出したドラえもんの道具で経営改革を進めましょう、と主張しているに近いという受け止めです。
次に、ニック・トーマン & マシュー・ディクソン & リック・デリシ『おもてなし幻想』(実業之日本社) です。タイトルだけを見れば、我が国のおもてなしについて批判しているような見方が成り立つんですが、広い意味でそうつながらないでもないものの、本書で主として強調しているのは、カスタマーサービスを強化しても、顧客のロイヤリティは飽和点がかなり低く、カスタマーサービスの限界生産性はすぐにゼロに達する、従って、別の観点から顧客のロイヤリティを維持ないし引き上げる努力が必要、という議論を長々と展開しています。ですから、BtoBにせよ、BtoCにせよ、顧客と直接接するカスタマーサービス部門、ないし、日本的な表現をすればクレーム処理部門のお仕事に焦点が当てられており、それ以外の製造や研究開発や、もちろん、経理や人事と行った管理部門などはまったく関係がありません。そして、カスタマーサービスとして、顧客に積極的に働きかけるよりも、むしろ、顧客自身が選択を可能にするようなシステムが推奨されています。例えば、クレームとか何らかの問い合わせなどにおいては、オペレータによる電話対応ではなく、webサイトにおける決定樹などに基づくソリューションの提供などです。ただ、私自身の評価として、こういったカスタマーサービスは、日本のおもてなしが典型で、プライシングに失敗しているんではないか、という気がしています。レベルの高いおもてなしであれば、それ相応の料金をちょうだいすべきであり、無料で提供すれば効用が高まるのは当然ですから、評価も得やすくなります。顧客にどこまで評価されるかに従った価格付を放棄して無料ないし割に合わない低価格でサービスを提供しているんではないか、と私は疑っているわけです。我が国のデフレの一員である可能性も排除しません。
次に、バラク・クシュナー『ラーメンの歴史学』(明石書店) です。英語の原題は Slurp! であり、音を立ててすすって食べる、くらいの意味かと思います。邦訳タイトル通りに、ラーメンに大きな焦点を当てつつも、日本の食文化を幅広く取り上げており、それも、家庭における食文化ではなく、外食の食文化です。ですから、実質的に、日本で料理屋などが広く普及し始めたのが江戸期のそれも徳川吉宗将軍くらいからではないかといわれていますので、それほど長い歴史をたどるわけではありません。しかも、我が国の食文化の場合、諸外国からの影響をかなり強く受けており、中国や朝鮮は言うに及ばず、てんぷらはもちろん、明治期以降のカレー、そして、本書で焦点をあてている昭和期以降くらいのラーメンもかなり外来文化の色彩を有していることは明らかでしょう。ただ、てんぷら、刺し身、寿司といった食文化の中のハイカルチャーに対して、おそらく、カレーやラーメンは、牛丼などとともにサブカルの位置を占めますから、中国由来のラーメンを取り上げるのであれば、インド由来のカレーについてももっと着目して欲しかった気もします。でも、外食のラーメンとともに、家庭食のインスタント・ラーメンに着目したのは秀逸な視点だと私は受け止めています。
最後に、戸谷友則『宇宙の「果て」になにがあるのか』(講談社ブルーバックス) です。著者は、どちらかといえば、理論物理の専門家ですが、宇宙の果てについてかなり専門的な議論を紹介しています。もちろん、空間的な宇宙の果てだけでなく、時間的なビッグバンの始まる前の宇宙についても十分に考慮されています。それにしても、私のようなエコノミストの目から見て、100年経っても何らゆるぎを見せないアインシュタインの相対性理論というのは、とてつもなく立派な理論構造をしているのであろうと想像され、同時に、実証の結果に支えられていることも想像され、経済学なんぞという貧素な科学と対比するにつけ、物理学の学問体系の広さと堅牢さに驚くばかりです。そして、その相対性理論と量子理論に基づく現代宇宙論が本書では展開されています。ただ、ダークマターとダークエネルギーのいい加減さ、不透明さ、アドホックさについては、まだまだ物理学にして解明すべき課題が多く残されている、と感じてしまいました。
2018年08月17日 (金) 19:39:00
夏休みの米国短編ミステリ集の読書やいかに?
お盆休みの週に、米国とカナダの短編ミステリ集を3冊ほど読みました。各巻20話を収録し2段組で600ページ近いボリュームで、収録作品は以下の通りです。
- ジェフリー・ディーヴァー[編]『ベスト・アメリカン短編ミステリ』(DCH)
- 錆の痕跡/N.J.エアーズ
- 復讐人へのインタビュー/トム・ビッセル
- 勝利/アラフェア・バーク
- ビッグ・ミッドナイト・スペシャル/ジェイムズ・リー・バーク
- ビーンボール/ロン・カールソン
- 父の日/マイクル・コナリー
- かわいいパラサイト/デイヴィッド・コーベット
- それまでクェンティン・グリーは/M.M.M.ヘイズ
- 2000ボルト/チャック・ホーガン
- 狂熱のマニラ/クラーク・ハワード
- 懐かしき青き山なみ/ロブ・カントナー
- 俺の息子/ロバート・マックルアー
- フリーラジカル/アリス・マンロー
- 愛する夫へ/ジョイス・キャロル・オーツ
- お尋ね者/ニック・ピッソラット
- カミラとキャンディの王/ギャリー・クレイグ・パウエル
- 切り株に恋した男/ランディ・ローン
- Gメン/クリスティン・キャスリン・ラッシュ
- 水晶玉/ジョナサン・テル
- 砂漠/ブー・チャン
- ハーラン・コーベン[編]『ベスト・アメリカン短編ミステリ』(DCH)
- 大胆不敵/ブロック・アダムス
- きれいなもの、美しいもの/エリック・バーンズ
- 清算/ローレンス・ブロック
- が俺のモンキーを盗ったのか?/デイヴィッド・コーベット & ルイス・アルベルト・ウレア
- パトロール同乗/ブレンダン・デュボイズ
- ハイエナのこともある/ローレン D.エスルマン
- 彼の手が求めしもの/ベス・アン・フェネリー & トム・フランクリン
- 人生の教訓/アーネスト・J・フィニー
- 単独飛行/エド・ゴーマン
- 運命の街/ジェイムズ・グレイディ
- 殺し屋/クリス F.ホルム
- 名もなき西の地で/ハリー・ハンシッカー
- 幼児殺害犯/リチャード・ラング
- 星が落ちてゆく/ジョー R.ランズデール
- ジ・エンド・オブ・ザ・ストリング/チャールズ・マッキャリー
- ダイヤモンド小路/デニス・マクファデン
- 最後のコテージ/クリストファー・メークナー
- ハートの風船/アンドリュー・リコンダ
- チン・ヨンユン、事件を捜査す/S.J.ローザン
- 死んだはずの男/ミッキー・スピレイン & マックス・アラン・コリンズ
- リザ・スコットライン[編]『ベスト・アメリカン短編ミステリ 2014』(DCH)
- 覆い隠された罪/トム・バーロウ
- 細かな赤い霧/マイクル・コナリー
- 重罪隠匿/オニール・ドゥ・ヌー
- 写真の中の水平/アイリーン・ドライヤー
- 後日の災い/デイヴィッド・エジャリー・ゲイツ
- 道は墓場でおしまい/クラーク・ハワード
- 越境/アンドレ・コーチス
- イリノイ州リモーラ/ケヴィン・ライヒー
- シャイニー・カー・イン・ザ・ナイト/ニック・ママタス
- 漂泊者/エミリー・セイント・ジョン・マンデル
- ケリーの指輪/デニス・マクファデン
- 獲物/マイカ・ネイサン
- いつでもどんな時でもそばにいるよ/ジョイス・キャロル・オーツ
- 電球/ナンシー・ピカード
- 弾薬通り/ビル・プロンジーニ
- インディアン/ランドール・シルヴィス
- 彼らが私たちを捨て去るとき/パトリシア・スミス
- シナモン色の肌の女/ベン・ストラウド
- 二つ目の弾丸/ハンナ・ティンティ
- 束縛/モーリーン・ダラス・ワトキンス
ミッキー・スピレインの遺稿もあれば、マンローやオーツのような短編の名手、というよりも、ノーベル文学賞クラスのビッグネームも収録されている一方で、ほぼ新人に近いような無名の作家もいます。中身も、クイーンやクリスティのような本格的な謎解きのミステリもあれば、編者のディーヴァーの言葉を借りれば、「文学的」なミステリ、あるいは、ミステリというよりもホラーに近い作品などなど、さすがに幅広く収録されている印象です。夏場のヒマ潰しにはピッタリかもしれません。
2018年08月11日 (土) 11:55:00
今週の読書は経済書を中心に計8冊!!!
まず、ケネス・シーヴ & デイヴィッド・スタサヴェージ『金持ち課税』(みすず書房) です。英語の原題は Taxing the Riches であり、著者はどちらも米国の大学に在籍する研究者ですが、経済学を専門分野とするエコノミストではありません。政治学の教授職を務めています。ですから、効率性を考える経済学者と違って、社会的なコンセンサスの形成の観点からタイトルにあるような富裕層に対する課税を歴史的に分析しています。日本も含めて、西欧や北米などの20か国の所得税と相続税のデータベースを作った上での分析のようです。そして、大雑把に、私が読んだところの結論は、戦争や武力紛争に対する人的貢献を勘案して、貢献した層に税を免除ないし軽課して、それを逃れた層に課税する、というのが正当化されたのが、20世紀に入って第1次世界大戦前後から第2次世界大戦終了後の1950~60年代くらいまで、の歴史的な考察の結果ではないか、という気がします。もっとさかのぼれば、日本と違って、西欧では貴族とは騎士であって戦争や武力紛争の矢面に立つ階層ですから、その観点から無税の恩恵に浴していた可能性を示唆しています。そして、20世紀の大きな戦争においては国民皆兵の徴兵制が敷かれた一方で、富裕層は徴兵から逃れる確率が高く、戦争に人的貢献をしなかった階層、すなわち、富裕層への累進課税が公正と見なされて正当化された、という結論のように私には読めました。逆から見て、明記はされていませんが、ベトナム戦争が終了した後の1980年ころから現時点までの半世紀近くは、大きな武力衝突もなく富裕層への累進課税の正当性が弱まった、という見方なのかもしれません。そして、この累進課税の正当性の弱体化を背景に不平等や格差の広がりが見られる、という結論を導こうとしているようにすら見えます。確かに、1980年前後は英米でサッチャー政権やレーガン政権が成立した時期であり、現在までの不平等や格差の広がりの起点と考えるエコノミストも少なくないんですが、私の見方からすれば、少し疑問なしとしません。
次に、武者陵司『史上最大の「メガ景気」がやってくる』(角川書店) です。著者は大和総研からドイツ証券のエコノミストを務めた経験があり、ご本人は本書の中で経済予測を当てたと自慢していますが、個別には指摘しないものの、外した経済予測もかなり多いと私は認識しています。本書では、人生100年株価10万円をキャッチフレーズに、我が国経済、というよりも我が国株価の黄金時代が来ると予測しています。もちろん、経済学らしい科学的な予測ではなく、希望的観測も含めた著者ご自身の直感的な予測です。ですから、検証は可能ではありませんし、逆から見て反論も難しい、という面があります。ただ1点だけ、企業が溜め込んだ利益=キャッシュを生産性に応じて従業員に還元する、というのが日本株価の黄金時代を迎える1つの条件になっているんですが、それには私も同意します。悲しくも、能力低い館長エコノミストとして、それを実現する政策手段を見出だせないだけです。本書について、ある意味では偏った見方、と受け止める向きもあるでしょうし、宗教的な信仰の対象のように有り難い見方と考える投資家もいそうで、私には評価の難しいところですが、すでに一線を引退したエコノミストですから、激しくポジション・トークを展開しているようにも思えず、ただ、タイトルに典型的なように、一般読者の目に止まりやすいような工夫は見受けられます。さすがに、「キワモノ」とまではいいませんが、角川書店の出版物って、こんなでしたっけ、というのが私の感想です。図書館で借りて、1時間半から2時間くらいの時間潰しには有益そうな気もします。新幹線で東京と大阪の片道相当の時間です。大きさもかさばらずに手軽に持ち運べます。
次に、ジャック・アタリ『新世界秩序』(作品社) です。著者はご存じの通り、現在の世界のトップクラスの頭脳の1人であり、フランスのマクロン大統領の生みの親、とまで称されているエコノミスト、有識者です。私の記憶が正しければ、ミッテラン社会党政権期に頭角を現したので、やや左派系ではないか、という気もしますが、それほど自信はありません。ということで、中世の終了から第交易期ころから歴史的な見方を交えて、世界的な秩序や権力あるいは統治機構に関する見方を披露し、先行きの方向性を示唆しています。19世紀は大英帝国によるパクス・ブリタニカ、20世紀は米国によるパクス・アメリカーナが支配的であった一方で、最近では、欧米におけるポピュリズムの台頭、典型的には英米でのトランプ政権の成立とBREXIT国民投票の成立、フランスでの国民戦線の台頭などが見られ、経済的にはグローバル化が急速に進んで国境を超えた経済活動を行う多国籍企業を民族国家の政府が制御しきれず、米国の孤立化や内向き政策とともに紛争地域でのテロ集団の跋扈が見られたり、などなど、カオス化とまで表現すると行き過ぎかもしれないものの、世界の経済社会の不安定性が増しているように見えるんですが、それに対して、世界的な秩序の形成や権力あるいは統治機構のあり方などを本書で歴史的な見方も交えながら展開しています。前著の『2030年ジャック・アタリの未来予想』などでもそうだったんですが、底流には世界政府の建設への流れなどが設定されているように感じられてなりません。現時点ではかなり空想的な構想としか受け止められませんが、世界政府の実現とそのガバナンスによってしか世界の秩序が保たれない、というのはやや米国の力を過小に見ているような気がします。何かの本で読んだ記憶がありますが、西アフリカでエボラ出血熱が発生した際、10億ドル単位の予算を当てて3,000人の軍隊を派遣し、その鎮圧が出来るのは米国くらいしか私は思い浮かびません。その米国の地位が低下して中国やあるいは他の国がこういった世界秩序の維持に取り組めるとは、私にはとても思えないんですが、単なる想像力が貧困なのかもしれないと反省も同時にしています。
次に、三菱UFJトラスト投資工学研究所『実践金融データサイエンス』(日本経済新聞出版社) です。ネット検索でヒットしなかったんですが、この投資工学研究所からはその昔にも何冊か、あるいは、1冊だけこういった本が出ていて、私は地方大学に出向していた折に入手して読んだ記憶があります。中身はすっかり忘れました。本書ではビッグデータが利用可能となった現時点で、その膨大なデータをテキスト・マイニングも含めて、いかに投資情報として活用するか、という観点で編まれています。すなわち、資産運用や金融におけるリスク管理や金融マーケティングなどのデータ分析業務がビッグデータの利用可能性の高まりにより、どのように変わってきたのかを概観しつつ、これらのデータを活用することでどのような知見が得られ、どのように金融に活用できるのかを解説しています。具体的には、有価証券報告書のテキストからデータを抽出し、企業間の関係情報をビジュアル化する手法、ある企業に生じた何らかのショックが取引先のみならず幅広い関連企業の株価に与える影響の速度の分析、米国連邦公開市場委員会のステートメントなどの文書が何を話題にしているのかを機械にテキスト分析させ米国金融政策の今後の方向性などの見通しをスコア化する手法、政府・中央銀行・マスメディア・民間エコノミスト・市場関係者に加えて、一般人も含めて各種の市場関係者が発信する多種多様なデータを統合し、ナウキャスティングなどのマクロ経済分析、すなわち、経済環境のリアルタイム評価を行う手法、などなど金融工学的な手法の紹介や、その実践も含めて、かなり平易に解説を加えています。もっとも、冒頭に各章別の難易度のグラフがあり、第6章の難易度が高いのが見て取れます。
次に、渡辺由美子『子どもの貧困』(水曜社) です。著者はNPO法人を主宰しており、特に、子供達の学習教育に大学生などのボランティアを動員して無料塾タダゼミの活動を行っているそうです。本書にもある通り、まず、現代の貧困は社会一般から見えにくくなっていることに注意が必要です。普通のオシャレな服装でスマホを持ってマクドナルドで友達と外食している子供が貧困家庭かもしれない、という現実があります。昔のようにボロを着ておなかを空かせているわけではない、ということです。従って、貧困バッシングや自己責任論のはびこる温床があります。スマホを諦めて教育費の足しにすればいいんではないか、という議論です。それを本書の著者は否定しています。社会的に必要な最低限の生活に含まれる可能性が示唆されている、と私は考えています。続いて本書では、著者の活動の背景にある我が国の教育予算の少なさを指摘します。すなわち、本書の読者の疑問は、貧困家庭の子供に対してタダゼミなどの活動で応えるんではなく、学校教育の充実が本筋ではないか、と考える読者は少なくないかもしれません。でも、我が国教育予算が先進国の集まりであるOECD平均よりも、GDP比で▲1%超も少ないわけですから、巷間指摘されている通り、先生方は大忙しで子供に十分対応する時間的な余裕もなく、学校教育を補完する何らかの学習機会を提供することは十分に意味あることだと私は理解しています。そして、貧困の連鎖、すなわち、親から子へと貧困が受け継がれるのを防止するには教育が決定的に重要な役割を果たします。それほどボリュームのないパンフレットのような本書ですが、子どもの貧困や学習による貧困からの脱出などを考える上で、多くの方に手に取って読んでもらいたくなる良書です。
次に、北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房) です。著者は高校の世界史教師から、現在は大学の研究者になっています。タイトルにもなっているグローバル・ヒストリーとは、個別の地域や国を独立に取り上げるのではなく、ネットワークでつながった世界全体を対象とする歴史の見方です。ですから、現在の通常の歴史書でもそうかもしれませんが、コロンブスに発見されるまで米州大陸は登場しませんし、アフリカも欧州諸国に植民地化されるまで、歴史に出現することはほとんどありません。私の高校時代は社会科では日本史と世界史に歴史は分かれていましたが、グローバル・ヒストリーでは通史となっています。ネットワークという観点からは交易が重視されますから、例えば、その昔は大航海時代と称していた大交易時代、すなわち、中世末期ないし近代からの歴史に重点が置かれているきらいはありますが、それ以前のモンゴルによる世界帝国成立などもしっかりと把握できるように考えられています。そして、十字軍は宗教的な意味合いを薄れさせ交易のネットワーク拡大の機会と見なされたりします。確かに、コンスタンチノープルに攻め込んだ第4回十字軍などはその通りでしょう。最後に、私の直観では、その昔に「極東」という言葉がありましたが、日本は世界の極東に位置する島国なんだということが実感されます。高校レベルで読める教養書です。
次に、ジョン・チェニー=リッポルド『アルゴリズムが「私」を決める』(日経BP社) です。著者は米国の大学の研究者であり、デジタル市民権、アイデンティティーとプライバシー、監視社会などの研究を専門としています。それから、最後に先週の読書感想文で取り上げた『さよなら、インターネット』の著者である武邑教授が解説を寄せています。英語の原題は We Are Data です。ということで、私も含めて我々人類の一員は、何らかの属性を有しており、それをデータであるということも可能です。例えば、個人情報を羅列して、氏名、生年月日、住所、電話番号、血液型、といったデータがあれば個人を特定できるでしょうし、DNAが判ればさらにバッチリです。ただ、こういった個人情報は決定論的な情報=データであり、本書で取り上げているようなGoogleやFacebookといったネット企業が保有しているビッグデータをはじめとした個人情報は、もっと確率的です。本書にもある通り、ネットに対してかくかくしかじかの接し方をする個人は男性である確率が80%、ということです。性別が判りやすいので例に取ると、女性用の下着をネットショップで買ったり、最新の口紅の流行色を検索したりすると、女性と判断される確率が高まる、といったことです。ただ、先週取り上げた『さよなら、インターネット』と本書が違っているのは、武邑教授がネット企業が個人情報を企業の収益最大化に用いていて、本来、というか、別の向きであるソーシャル・キャピタル、あるいは、グラミン銀行のようなソーシャル・ビジネス向けに活かされていない、という観点が本書では希薄です。もっぱら、プライバシーの保護という、私にとってやや疑問の残る観点からの議論に終始しているような気がします。もちろん、デジタルな個人情報は、アナログな個人情報が本とかプリントアウトされた紙媒体となって、図書館などの隅っこで朽ち果てることなく、いつまでもネット上に残って、放りおかれる権利や忘れ去られる権利が十分でない、という指摘は私もその通りだと思います。
最後に、海保博之『心理学者が教える読ませる技術聞かせる技術』(講談社ブルーバックス) です。心理学の大御所が冒頭に皮肉っぽく引用した判りにくい文章や言語表現を示しつつ、どうすれば判りやすくなるか、について認知心理学の知見をフル活用して解説しています。基本は取扱説明書の判りやすさを基にしているんでしょうが、それにとどまらず、会議での提案、学会発表、講演、道の案内板、上司の指示、コンピュータからのメッセージ、大学の教科書などなど、さまざまな例題、あるいは、質問も盛り込まれており、親切で丁寧な仕上がりになっています。私のような一般ピープルでも、このようなブログなどで情報発信の機会が持てるデジタル社会で、巷にあふれるかえる情報の中で、自分の発信する文章をどうしたら読んでもらえるか、あるいは、言葉を聞いてもらえるか、に対する大きなヒントになりそうです。でも、頭では判っていても、実際に実践するのは難しいかもしれません。私も反省の毎日です。
2018年08月05日 (日) 14:56:00
今週の読書は歴史書を中心に計7冊!
まず、関辰一『中国経済成長の罠』(日本経済新聞出版社) です。著者は日本総研のエコノミストであり、中国出身のようです。本書では、中国経済の現状を日本のバブル期と極めてよく似た状況と分析し、日本のようなバブル崩壊とは表現していませんが、p.46にて「中国で5年以内に景気失速が見られる可能性は40%」としています。私はブレマー称するところの国家資本主義であろうとも、5年以内の中国の景気後退入りならもっと確率が高そうな気もしますが、繰り返しになるものの、決して「バブル崩壊」という表現は使っていません。日本ではモラル・ハザードもさることながら、いわゆる「土地神話」によりユーフォリアが形成された面があるんですが、中国では国営企業に対する救済措置の存在がモラル・ハザードとなって過剰なリスクテイクを生じる可能性を本書では指摘しています。ただ、解明されていない点もあり、それは、中国のような国家資本主義に関して先進国と同様な資本主義観で評価していいのかどうか、という点です。著者は無条件で先進国並みの資本主義観、例えば、モラル・ハザードや中央銀行の独立性などを肯定しているように私には読めましたが、国家資本主義の中国で同じ評価基準が適用できるのかどうか、そこはもう一度振り返って考える必要があるかもしれません。
次に、ジャレド・ダイアモンド & ジェイムズ A. ロビンソン『歴史は実験できるのか』(慶應義塾大学出版会) です。歴史学や社会科学については、ランダム化比較試験(RCT)を行うことが出来ないか、極めて困難なため、いわゆる自然実験のようなケースを利用することがありますが、本書は歴史学だけでなく、考古学、経済学、経済史、地理学、政治学など幅広い専門家たちが、それぞれのテーマに基づいて自然実験の手法により比較史を分析した論文を集めています。すべてが興味深い研究成果なんですが、特に、ダイアモンド教授による第4章のイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国の比較、さらに、アセモグル教授等による第7章のドイツにおけるナポレオンによる制服地域と非征服地域の比較が、私のようなエコノミストから見て判りやすかった気がします。もちろん、それ以外の論文についてもかなりの水準に達しており、別の観点から、これだけ多彩な研究内容を、自然実験というテーマで横ぐしを刺して統一感を持たせ、一冊の読み物としてまとめあげた編者の力量には恐れ入ります。出版社から考えても、完全な学術書です。読みこなすには歴史学などのそれなりのリテラシーが必要です。
次に、デイヴィッド W. アンソニー『馬・車輪・言語』上下(筑摩書房) です。著者は米国の考古学者であり、原著は2007年の出版です。本書では、基本的に前文明史の考古学について、日本語のようなウラル・アルタイ系の言語ではなく、印欧語族というグループを分析の中心に据えて、ポントス・カスピ海ステップから青銅文明が東西両脇の中国とギリシアに漏出した、という歴史を跡づけています。同時に、世界最古の文明のひとつであるメソポタミアについても、農耕文明以外に産出がないことから、ステップからの資源の持ち込みを想像させ、逆方向の拡散も言語によって確認されており、馬や車輪による世界、とはいわないまでも、ユーラシア規模の交易の可能性を示唆しています。本書も基本的に学術書な上に、歴史言語学の説明において見慣れない印欧祖語の横文字が頻出するので、一見読みにくい本なんですが、文字を追うのではなく、豊富に挿入されている図版を追うことにより、理解はかなり捗るような気がします。もちろん、印欧語という共通のルーツで一括りにしていますから、中国まではいいんでしょうが、その先の日本は域外の蛮族、という扱いなんだろうか、という気にはさせられます。
次に、武邑光裕『さよなら、インターネット』(ダイヤモンド社) です。著者はドイツ在住のメデイア美学者であり、今年2018年5月にEUで施行された「一般データ保護規則(GDPR)」をひとつのキーワードにしつつ、ビッグデータの名の下に個人情報を縦横無尽に活用して収益を上げるインターネット企業を断罪し、真に民主的な個人情報の扱いについて論じています。ただ、私の見方なのかもしれませんが、本書ではプライバシーは1種類しか考えておらず、私はプライバシーや個人情報は何種類かあると理解しており、典型的には市場へ参加する際、すなわち、市場からの調達と労働力としての投入の際には、私はプライバシーは決してフルで認められるべきではないケースがあり得ると考えています。他方、市場参加とは関係のないベッドルームのプライバシーは、個人としての尊厳の観点を含めて、保護される必要があります。前者のプライバシーについては、市場経済への参加だけでなく、公衆衛生の観点からの伊藤計劃の『ハーモニー』のような世界、と考えることも出来ます。ですから、無条件のプライバシーを基本にした本書の見方には疑問を感じないでもありません。すなわち、EUのGDPRとかのプライバシー保護をもって、GoogleやFacebookの個人情報収集活動に何らかの規制を加えようとすると、大義名分、というか、目的が不十分で失敗する可能性が高まるような気がします。より広範な経済社会に通底する理由をもって個人情報を基に利益を貪り続けるインターネット企業への何らかの、あるいは、広い意味での規制が経済学的に必要であることを、キチンと正面から主張することが必要だと思います。
次に、佐藤順子[編著]『フードバンク』(明石書店) です。その名の通り、フードバンクに関する教養書です。場合によっては学術書と受け止める読者がいるかもしれません。本書にもある通り、我が国のフードバンクは米国に本部のあるセカンド・ハーベストの支所(?)として2000年に活動を開始したのが始まりのようですが、その源流はさらに20年ほどさかのぼって、1980年前後に英国サッチャー内閣や米国レーガン政権をはじめとして、いわゆる新自由主義的な右派経済学の実践が始まり、格差が急速に拡大したことを背景としています。経済社会全体の格差拡大や貧困の増加に政府による社会福祉政策が追いつかず、チャリティ精神が旺盛な英米社会でその受け皿的にフードバンクの活動が始まっています。ですから、政府の役割を軽視しかねない、という意味でフードバンクに批判的な目を向ける向きも少なくありません。もちろん、逆サイドの食品廃棄やフードロスを減少させようとする試みとともに車の両輪を形成しています。チャプターごとの執筆ですので、単なる活動報告的な章から学術的で分析内容豊富な章まで、精粗区々という気はしますが、私のようなシロートにも判りやすく解説してくれています。
最後に、吉野精一『パンの科学』(講談社ブルーバックス) です。著者は辻製菓専門学校の製パン特任教授だそうで、ブルーバックスから出版されている点で理解可能なように、かなり理系の内容の本でありながら、最後の方はおいしく食べるためなど、一般向けにもなっています。コメを炊いたご飯と小麦粉をイーストの発行も利用しつつ焼いたパンの大きな違いは、勝手ながら私はメイラード反応の有無ではないかと考えていて、例えば、少しくらい時間がたった後でも、焼きオニギリにすると風味がよくなると感じる人は少なくないような気がします。ということで、コメのご飯を擁護するつもりは毛頭なくて、私も朝食は手軽なパン食で済ませています。本書は、大昔の大学生のころに女子大の、それも家政学部なんぞの食物科に在席していたガールフレンドが、新しいお料理などに夢中になっておしゃべりしてくれた、でも、私は半分も理解できなかった、青春時代を思い起こさせてくれる面もあります。基本的に、私は美食家でも食いしん坊でも何でもないんですが、ファッションの衣には何らセンスなく、住の方もウサギ小屋とまで称された日本の住居についても見識なく、衣食住のうち残るのは食だけですので、ブルーバックスでもビールやパンやといった本を読んでいたりします。
2018年07月28日 (土) 10:03:00
今週の読書はいろいろ読んで計6冊!
まず、トム・ヴァンダービルト『好き嫌い』(早川書房) です。著者はジャーナリスト、というか、サイエンス・ライターであって、研究者ではありません。行動経済学にも関連して、好みや好き嫌いについてのエッセイです。結局のところ、トートロジーの循環論法でしかないんですが、人間というのは関心あるものに目が行ったり聞こえてしまったりで、そのように認識の内側に入ったものに関心が向く、ということなんだろうという気がします。特に、合理的なホモ・エコノミカスを前提とするような伝統的な経済学では好みの問題は説明できない、としか考えません。というか、そこで思考停止します。ただ、特に生産的とも思えない芸術の好き嫌い、例えば、私の父親はいわゆるクラシック音楽のドイツ・ロマン派が好きでしたが、私はモダン・ジャズが好きです。ただ、高校生や大学生のころはコルトレーンのサックスが特に好きだったんですが、寄る年並みとともに、もっと静かなピアノ・トリオの演奏が好きになりました。もっとも、私はサックスは吹けませんが、ピアノは習っていたことがありますので、当然の好みの変化かもしれません。そして、私自身でも不思議なのが、阪神タイガースに対する好みの問題です。昨夜も東京ヤクルトにボロ負けしたにもかかわらず、タイガースへの愛情だけは一向に衰える気配がありません。まったく、不思議なことです。
次に、康永秀生『健康の経済学』(中央経済社) です。著者は東大医学部教授であり、本書の表題を私のようなエコノミストの視点からではなく、医者の視点から解明しようと試みています。高齢化が進む日本の経済社会において、いかにして医療費の増加を抑制するか、という観点から議論が進められています。ということで、最終章で、結論として、質を犠牲にするか、費用を犠牲にするか、アクセスを犠牲にするか、の3択を著者は提案しています。医療費抑制が本書の眼目なんですから、2番めの費用を犠牲にして、多額の財政リソースをつぎ込む選択肢はもともとあり得ません。ですから、医療の質を犠牲にするか、現在のフリーアクセスを放棄してアクセスを犠牲にするか、という2択になります。そして、著者は医学研究者らしく医学の進歩を止めて質を犠牲にすることなく、アクセスを制限して英国型の医療を提案します。私はエコノミストとして、やや逆説的ではありますが、もうここまで平均寿命が伸びたんですから、医学の進歩も停滞させていいんでないかという気がして、質を犠牲にするのも一案ではないかと考えています。私のようなシロートから見ても利幅の大きな老人向け医療よりも、小児科とか子供や若年者向けの医療の充実や質の向上を目指すティッピング・ポイントに差しかかっている気がしてなりません。その意味で、本書の結論のひとつで明確に間違っているのは、子供向け医療費の無料化が子育て費用の軽減を通じて有効な少子化対策になる点を見逃していることです。「医療費無料」にのみ過剰に反応している気がしてなりません。
次に、朝日新聞取材班『権力の「背信」』(朝日新聞出版) です。合せて「モリカケ」と称された森友学園と加計学園に関する報道ないしスクープの現場をメイキング調で明らかにしたノンフィクションです。森友学園の国有地取得に関する不透明な手続き、さらに、加計学園の獣医学部創設にまつわる総理の意向とその忖度のあり方、そういった行政の中立性や透明性に関する疑念を生じかねないスキャンダルについて朝日新聞記者が、どのような取材活動を行い、国民にメディアを通じて伝えたかを跡付けています。第1部で森友学園を取り上げ、第2部で加計学園に焦点を当てていますが、さまざまな報道がなされた上で、もちろん、内閣支持率への影響もあったこととは思いますが、結局のところ、本書にもある通り、昨年の総選挙では現政権に圧倒的な信任が示されたわけですし、それを影響力絶大とはいえ個人の「排除」発言ですべてを論じるのもムリがあるような気がします。また、森友学園と加計学園で結果として前者が学校理事長夫妻の逮捕とか、学校開設の断念とかで終ったのに対して、後者が今年4月に獣医学部を創設し、それなりの倍率の入試で学生を集めてスタートを切ったのと、かなり差が大きいように私は受け止めているんですが、この差が何から生じたのか、個別に2つの事案を取り上げるだけでなく、総合的な評価も示して欲しかった気がします。でも、極めて緊迫感や臨場感あふれるルポで、400ページ余りでかなり小さい文字のボリュームにもかかわらず、一気に読ませる迫真のリポートです。今年一番の読書でした。
次に、キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(インターシフト) です。著者は数学の博士号を持つデータ・サイエンティストです。上の表紙画像に見られるように、英語の原題は Weapon of Math Destruction であり、普通は、"Math" の部分に "Mass" が入って、「大量破壊兵器」と日本語に訳されるわけです。ということで、数学的なモデルの普遍性、例えば、三児の母親である著者が夕飯の献立を考える、といった実に実践的な人間行動においても数学的なモデルが背景にあるということを本書では解説しつつ、そういった数学モデルが経済的な効率性にのみ奉仕し、正当性とか、倫理性を放棄している現状を批判的に議論しています。そして、こういった数学モデルを用いたスコアの測定、例えば、オンライン広告の極めて倫理観の欠如した売り込み、就職の時の適正スコアに対する疑問、サブプライム・バブル崩壊時にも疑問視されたクレジット・スコアの適正さに対する疑問、などなどを実に理論的に取り上げ、現在のAIを活用し、ビッグデータを取り込んだデータ解析のあり方を批判的に取り上げています。ただ、視点としては理解できるものの、現状分析としては、その通りなのかもしれませんが、そういった憂慮すべき現状に対する処方箋が物足りない気がします。でも、マルクス主義的に考えると、そこがまさに資本主義の限界なのかもしれません。でも、そこで思考停止するのも問題のような気がします。
次に、マーチン・ファン・クレフェルト『新時代「戦争論」』(原書房) です。著者はオランダ生まれで、イスラエルの歴史研究者です。こういった戦争論や兵法でいえば、中国の孫子やクラウゼヴィッツによる『戦争論』が有名なんですが、本書の英語タイトルは More on War であり、クラウゼヴィッツを強く強く意識しているようです。というのは、最後の解説でも示されている通り、クラウゼヴィッツ『戦争論』のドイツ語のタイトルは Vom Kriege であり、英語に直訳すると On War ということになります。本書はそれに More をつけているわけです。ということで、孫子やクラウゼヴィッツには、なぜか、海戦が取り上げられていない点や、あるいは、その後の技術的な進歩による宇宙戦やサイバー戦はいうに及ばず、大量破壊兵器が実戦で使われるようになったり、また、戦争を開始する主体が国王という君主から議会という国民の代表、さらに、国連決議に基づく戦闘行為といった変遷を遂げた現在までの新しい時代における戦争について論じています。もちろん、私は専門外もいいところなんですが、従来説である「戦争は政治や外交の延長」という見方が必ずしも成り立たない現在の戦争について、要するに、戦争プロパーについて戦略のみならず兵站まで含めた戦争に焦点を当てています。孫子やクラウゼヴィッツに代わる新たなスタンダード、とまでは決して思いませんが、私のようなシロートにもなかなかタメになりそうな気がします。
最後に、渡淳二[編著]『ビールの科学』(講談社ブルーバックス) です。数年前の同名のブルーバックスをカラー版として豪華に再編集したものだそうで、かなりの程度にアップデートもされているようです。編著者をはじめとして、サッポロビールの面々が本書の製作に当たっています。ブルーバックスですから、かなり理系の本です。大昔に食物科の女子大生の友人から聞いたようなお話だと感じてしまいました。なお、我が家では、上の倅は私以上に酒飲みなんですが、20歳過ぎの大学生ということもあって、ビールなんぞの低アルコール酒よりは、より男っぽい、というか、何というか、スピリッツ系のウィスキーなどを好む一方で、私は酒が強くもないので、もっぱらナイター観戦のお供のビールで済ませています。阪神が弱いのでビールもおいしくないんですが、私は違いの判らない男ですので、本書で詳細に解説されているようなビールと発泡酒と第3のビールについては、少なくとも味の違いは判りかねます。もっぱら値段の違いで買い別けています。ただ、本書ではビールの本場ドイツには着目しているものの、圧倒的な消費量を誇る米国のビール事情が少し足りないような気がします。私が米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていた1980年代終わりころには、すでにクアーズがロッキーを超えていて、高所得層はクアーズ、低所得層はバドワイザーといった雰囲気がありました。また、ちょうど発売が始まったのか、輸出が始まったのか、米国でキリンの一番搾りが飲み始められたころで、「キリン・イチバン」と称されていて、「イチバン」がそのまま英語化していたような気がします。ジャズを聴きに行くと、ピアニストのハロルド・メイバーンが「イチバン・メイバーン」と紹介されていたのを思い出します。
2018年07月21日 (土) 13:11:00
今週の読書は経済書中心に計7冊!
まず、嶋中雄二『第3の超景気』(日本経済新聞出版社) です。著者は民間金融機関である三菱UFJモルガンスタンレー証券の景気循環研究所の所長を務めるリフレ派のエコノミストであり、私と同じく景気循環学会の会員だったりもします。本書では、名目設備投資がGDPに占める割合の偏差をバンドパス・フィルターを通すことにより景気循環のサイクルを抽出する手法を取っています。すなわち、univariate なアプローチであり、ある意味で、どマクロな方法論ですから、右派の経済学、例えば、リアル・ビジネス・サイクル(RBC)で論じられているように、経済主体の最適化行動といったマイクロな基礎付けはまったく考慮されていません。その上で、キチンの短期循環、ジュグラーの中期循環、クズネッツの長期循環、コンドラチェフの超長期循環の複合循環を論じています。すなわち、これらすべての4サイクルがそろって上向くゴールデン・サイクル、短期ないし中期循環のうちのひとつが欠けながらも長期及び超長期循環とともに3サイクルが上向くシルバー・サイクル、長期と超長期の2サイクルが上向くブロンズ・サイクル、といったふうです。そして、通常は政府の景気循環日付は短期のサイクルで見ていたりするんですが、著者は長期と超長期のサイクルを重視し、この2つの複合循環であるブロンズ・サイクルこそが短期と中期の景気循環を超越した存在として、本書のタイトルである超景気と呼べるものと位置づけ、直近では2011年を大底に超景気が始まり、その景気のピークが足元の2017~18年に到来し、いったん2021~22年に厳しい景気後退期に見舞われるものの、2024~25年には再び次のの好景気がやってくると予測しています。また、補論で人口動態を超える景気サイクルのパワーを論じています。とても大胆な分析と予測であり、なかなか興味深い読書でした。
次に、ジェレミー・リフキン『スマート・ジャパンへの提言』(NHK出版) です。著者は2016年1月23日付けの読書感想文でも取り上げた『限界費用ゼロ社会』の著者でもあり、こういった分野の権威とも目されています。本書は来日した際のインタビューなどを中心に、我が国への『限界費用ゼロ社会』の適用について議論を展開していますが、もちろん、日本への我田引水に満ちています。我が国経済社会は高度な技術を持つとともに、インフラも整っていて、第3次産業革命への備えはバッチリ、ということになっていますが、別稿ではインフラの整っていない途上国でもリープ・フロッグのように次の段階にすっ飛ばすことが出来るので、インフラの整った先進国よりも第3次産業革命に進みやすい、なんて議論もあったりします。やじ馬的に、とても参考になるのは、小谷真生子がインタビューした「いまの産業革命は第3次なのか、第4次なのか?」と題するコラムです。ダボス会議を主催する世界経済フォーラムのシュワブ教授の第3次産業革命が累積して行って速やかに第4次産業革命にいたる、という、まるで、我が国戦前の講座派のような歴史観を真っ向から否定し、現在のデジタル化の進展が第3次産業革命であり、最後の産業革命である、といい切っています。なかなかの見識だという気がします。
次に、ナイアル・キシテイニー『若い読者のための経済学史』(すばる舎) です。著者は英国のエコノミスト、ジャーナリストだそうで、本書は上の表紙画像に見られるように、Yale University Press Little Histories の1冊です。タイトル通りに、経済学史をひも解いているわけですが、古典古代の哲学者による経済学的な要素の検討から始まって、アダム・スミスによって古典経済学が樹立される前夜の重商主義や重農主義の経済学、そして、スミスによる古典派経済学の開闢とリカードらによるその完成、加えて、これ他の古典派経済学を基礎としつつも、階級闘争理論も加味したマルクス経済学、もちろん、その後の新古典派経済学から現代経済学への流れも的確に解説されています。私の専門分野に引きつけて論じれば、ノーベル経済学賞を授賞されたルイス教授やセン教授の令名があらたかなんでしょうが、開発経済学についても大いに取り上げられています。少なくとも、私が在学していたころの京都大学経済学部には開発経済学の授業はなかったように記憶していますので、新たな学問分野なのかもしれません。繰り返しになりますが、マルクス経済学までを視野に収めた極めて幅広い経済学の歴史を収録しています。そして、タイトルに沿って、かなり平易に解説を加えています。ひょっとしたら、かなりレベルの高い進学校の高校生なら読みこなすかもしれません。同時に、経済学にそれなりの素養あるビジネスマンでも物足りない思いをさせることもありません。
次に、山口真一『炎上とクチコミの経済学』(朝日新聞出版) です。著者は国際大学の経済学研究者で、ブリニョルフソンらの研究に基づいて、消費者余剰の計測を行った論文を私も読んだことがあります。本書ではネット上のいわゆる「炎上」について数量的な分析を加えて、炎上とクチコミという「ネット上での情報発信」の実態を明らかにすることを目的にしています。例えば、炎上参加者には「年収が高い」「主任・係長クラス以上」が多い、とか、また、炎上の参加者はネット利用者のわずか0.5%であり、ネット世論は社会の意見を反映してはいるわけではない、といった主張を展開しています。さらに、炎上を早期に小規模で食い止めたり、あるいは、逆方向に利用したりした実例を豊富に取り上げ、炎上を過度に恐れずに、ビジネスでソーシャルメディアを最大活用する方法について論じています。同時に、第4章で「炎上対策マニュアル」を示し、最後の第5章でフェイクニュースの拡散とか、最近のネットの話題を解説しています。私は個人でしかSNSを利用しておらず、ビジネスでソーシャルメディアを活用するような役割は担っていませんが、そういう立場になくても、例えば、最終的には炎上にはメディアで取り上げられるケースが多いなど、それなりに参考になるネット事情に関する情報だという気がします。
次に、山本芳明『漱石の家計簿』(教育評論社) です。著者は学習院大学の文学研究者だそうですが、夏目漱石が一時期つけていた家計簿や印税に関する資料などを参照しながら、漱石の家計事情や作品への影響などにつき、漱石の生存中と死後に分けて論じています。すなわち、文学者、というか、明治期の作家がかなり経済的に恵まれない境遇にあった一方で、漱石は英国留学を経験した上に教職について十分なお給料をもらっていたり、あるいは、教員を辞めた後には朝日新聞のお抱え作家として、さらにいいお給料を取っていた月給取りだったんですが、それでも、明治大正期の格差の極めて大きな経済社会では、三菱や三井といった大財閥のとんでもない金持ちがいて、漱石もその時期の清貧に甘んじる文学者・作家らしく金持ちを批判する姿勢を示していたわけです。特に、漱石が金持ちを嫌った背景として、報酬は労力に見合って支払われるべきであり、投資などの「金が金を産む」システムを嫌ったという倫理的側面が強調されていたりもします。ただ、夏目家の家計の実際は妻の鏡子が握っていて、漱石個人は小遣いをもらって使っていたようで、大正バブル期で株でかなりもうけたとか、漱石の死後には人造真珠会社に手を出してスッカラカンになってしまったとか、いろいろな漱石文学とは違った観点からの論考が明らかにされています。本書でも指摘されているように、『吾輩は猫である』とか、『坊ちゃん』で読み取れる漱石の文学は明るくのんきでユーモアたっぷり、といったところかもしれませんが、その背景にはしっかりと定期的なそれなりの収入があった、という点も忘れるべきではないのかもしれません。
次に、辻村深月『青空と逃げる』(中央公論新社) です。著者はご存じ今年の本屋大賞受賞『かがみの孤城』の著者であり、私も大好きな作家のひとりです。本作は読売新聞連載を単行本に取りまとめており、ストーリーとしては、日本各地を逃避行する母子、子どもは小学5年生の男子、の2人の物語です。小学5年生の男の子の両親は劇団員のいわば職場結婚で、母親は劇団を辞めて、パート勤務はしているものの、ほぼほぼ専業主婦となっていて、父親がまだ劇団の俳優をしているんですが、その売れない劇団員の父親が有名女優の運転する自動車に同乗して事故にあい、ヤバい筋もからんだ有名女優のプロダクションから逃げ回ります。高知、瀬戸内海の家島、別府、仙台、そして、北海道で父親と再会を果たします。いろんな要素が盛り込まれている上に、母親の1人称の語り、小学5年生男子の子供の語り、はたまた、3人称での語りと、各節ごとに極めてテクニックを弄しているような気もしますし、読みこなすのにムリはありませんが、ホントに深く読むことが出来るのはそれ相応の読み手でないと難しい気もします。でも、私のように、この作家のファンなら読んでおくべきでしょう。
最後に、葉室麟『青嵐の坂』(角川書店) です。昨年亡くなった人気時代小説作家の扇野藩シリーズの最新刊です。というか、作者が亡くなっていますので、事実上、4巻目の本作はこのシリーズの最終巻といえます。扇野藩シリーズは江戸時代の譜代大名で京大坂の上方と江戸の間のどこかにある扇野藩を舞台に、重臣たちがお家騒動を繰り広げる、私の考える典型的な時代小説なんですが、本作では城下の家事を起因として財政がひっ迫する扇野藩の立て直しのために藩札発行を目指す中老とその上位者である家老との確執を取り扱っています。私はこの扇野藩シリーズの中では、赤穂浪士の討ち入りを絡めた第2話の『はだれ雪』が好きだったりする一方で、この第4話『青嵐の坂』は特にいい出来とも思えませんが、扇野藩シリーズの第2話である『散り椿』が今秋封切りで映画化されていますので、読んでおいて損はないかもしれません。
2018年07月14日 (土) 13:42:00
今週の読書は話題の『大英帝国の歴史』など計7冊!
まず、ニーアル・ファーガソン『大英帝国の歴史』上下(中央公論新社) です。人気の歴史学ないし経済史学の研究者による2003年放送のTVシリーズの書籍化です。出版も2003年となっていて、TVシリーズ全6回を6章として本書の上下巻に収録しています。上巻の方がやや厚くて「膨張への軌跡」と副題があり、下巻のサブタイトルは「絶頂から凋落へ」となっています。私の方で少し誤解があったんですが、本書はあくまで大英帝国の帝国主義的な海外政策、特に植民地政策や貿易政策などを歴史的に跡付ける研究成果ないしは教養シリーズであり、国内的な産業の発展、すなわち、この時期はいわゆる産業革命に当たる時期を含んでいるものの、ソチラの方への関心はほとんど本書では示されていません。邦訳者あとがきの最後で、日本語タイトルは出版社のご意向ということが明らかにされており、邦訳者は少し抵抗したのかもしれないと勝手に邪推しています。それはともかく、もっぱら、帝国の諸外国に対する対応ぶりに焦点が当てられていて、その際の中心は北米とインドであり、ここでもアジア軽視、というか、例えば、アヘン戦争やシンガポール開発などにはそれほど重点は置かれていません。でも、さすがに、最盛期には太陽没することなき大帝国であった大英帝国の歴史を振り返った重厚な歴史書に仕上がっています。著者のスコットランド人としてのアイデンティティが強調されている部分も見受けられますし、特に、自由と民主主義の価値観を世界に広める上で大英帝国が果たした役割がポジティブに強調されています。また、奴隷制度に関する強く批判的な立場が貫かれています。現在の米国の帝国としての方向性を考える上でも大英帝国の歴史は参考になるかもしれません。
次に、イアン・ブレマー『対立の世紀』(日本経済新聞出版社) です。著者はご存じ、よく知られた地政学情報の会社ユーラシア・グループを率いています。私はこの著者の本はかなり読んでいるんではないかと思います。本書では、Gゼロ時代に英国のBREXITや米国のトランプ大統領当選、さらに、大陸欧州のいくつかの国でのポピュリズムの台頭を念頭に、邦訳タイトルで「対決」とされていますが、US vs THEM、すなわち、われわれ対彼ら、との対比を設定し、THEMないし彼らを典型的にはイスラム教徒の移民になぞらえて排外的な傾向を見せるポピュリズムを対象にした議論を展開しています。そして、著者のひとつの解決策として提示されるのが、政治や哲学の面からはポピュリスト政治家の主張のような壁を作るのではなく、社会契約の書き換えを目指す方向であり、経済的にはベーシック・インカムの導入です。とても興味深い結論です。安全保障上の本来の集団安全保障とは、世界各国がブロック化せずに国連の下にすべての国が同じ安全保障体制に加われば戦争への抑止力になる、というものではなかったかと、大学で習ったような気がしますが、経済的にベーシック・インカムですべての人を公務員にしてしまえばいい、というのは秀逸な議論ではないかと思ってしまいました。
次に、ピーター・チャップマン『バナナのグローバル・ヒストリー』(ミネルヴァ書房) です。20世紀初頭から1970~80年代にかけて、ほぼ活動を終息させるユナイテッド・フルーツの活動をグローバル化の視点からリポートしています。典型的には、米国の多国籍企業が中米を舞台に企業活動のためには政権の転覆をはじめとする非合法活動や謀略活動にも手を染めかねない、という活動実態を描き出しています。ユナイテッド・フルーツの基本は中米におけるバナナのプランテーションなんですが、当然ながら、米国内での宣伝活動も含まれており、我が国でよく見かけるフィリピンや台湾のバナナとは違うのかもしれません。ユナイテッド・フルーツのブランドはチキータ、そして、本書で登場するライバル社はドールとデルモンテです。ユナイテッド・フルーツの活動だけではなく、IT&Tが関係したチリのアジェンデ政権に対するピノチェット将軍のクーデタ、イランのパーレビ国王の擁立などもチラリと触れられています。その昔の英国の東インド会社を思わせるような悪逆非道な活動が戦後の20世紀で行われていたのは驚くばかりです。
次に、青木理『情報隠蔽国家』(河出書房新社) です。著者は共同通信出身のジャーナリストであり、本書は『サンデー毎日』に掲載された記事やコラムなどを収録しています。また、平凡社新書で出版された『日本会議の正体』は私も読んでいます。ということで、権力への対抗軸のひとつとしてのジャーナリズムやメディアの存在意義を感じさせる力作です。主として、私の専門外である安全保障政策やインテリジェンス活動に焦点を当てていますが、本書のタイトルは必ずしも内容を的確に反映していない恨みもあります。私はかなり本書の議論に賛同する部分が少なくないんですが、それでも、2点だけ疑問を呈しておきたいと思います。すなわち、メディアについては権力に迎合するタイプの報道をしているものが少なくないという点と、その背景となっている役所の記者クラブ制度、特にその昔の排他的なクラブ制度については、私は常日ごろから疑問を感じています。メディアのジャーナリストでこれだけ意識高い報道がありながら、それでも現政権が高支持率を維持しているのはなぜなのか、そのあたりも興味あるところです。
次に、ドン・ロス『経済理論と認知科学』(学文社) です。著者は南アフリカ出身の英国の経済哲学者であり、本書ではミロウスキーの Machine Dreams などを基本として議論を進め、意識、志向性、エージェンシー、セルフ、行動、などなど、生身の人間のこういった経済活動についえ、経済学はこれらをどのように捉えるべきなのか、本書では、伝統的な経済理論の歴史と認知科学の最新の知見に基づいて、両者を結びつける正しい経済学のあり方を探求しています。経済学とはその昔から、人間が登場しないといわれており、生身の人間の経済活動、あるいは選択行動などに関しては、最近の行動経済学や実験経済学などで、伝統的な経済学が前提として来た合理的な経済人の過程を満たさない限定合理性とかが明らかにされつつあり、そういった新たな経済学に哲学的基礎を与えると同時に、認知科学に基づいて合理性を前提とする伝統的な経済学について考え直す、というかなり学際的な試みを展開しています。完全な学術書であり、数式がないにもかかわらず横書きをしていたりしますし、本書で展開されている議論の中身も高度なものがあります。一般のビジネスマン向けとは思えません。
最後に、河合薫『残念な職場』(PHP新書) です。冒頭の印象的な警句が、日本の会社やオフィスの「現場は一流、経営は三流」というもので、経営サイドの「残念な経営者」や「残念なオフィス」が数多くのケーススタディから明らかにされています。私はキャリアの公務員ながら、いわゆる民間企業でいうところの経営レベルまでは出世しませんでしたので、部分的には判る気もします。特に、著者の関心分野なのか、女性活用については鋭い見方がしばしば提示されています。
2018年07月08日 (日) 14:27:00
先週の読書は経済書を中心に計7冊!
まず、小林慶一郎[編著]『財政破綻後』(日本経済新聞出版社) です。本書の基礎となった研究分析は東京財団による「財政危機時の政府の対応プラン」(2013年7月)なんだと思うんですが、家計資産残高と政府債務残高の多寡や経常収支の赤字化などについて、危機発生のトリガーと想定されるシナリオを分析した部分がなくなっていて、むしろ、無条件に政府の財政破綻が近づいているような印象がないでもありません。ただ、シルバー・デモクラシーによる高齢者向け施策の過剰な「充実」が財政破綻の引き金になる可能性は増しているとの認識は共有します。トリアージと称したプライオリティ付けが目を引きますが、私の目から見て、統合政府化で日銀の国債買い入れが債務残高とどう関係するかは、やや疑問が残りました。私は日銀が国債を買い入れれば償還の必要がなくなる、というか、償還が形だけになって、その金額が遅かれ早かれ国庫に返納されると考えているんですが、そうではないというのが本書の主張です。よく判りません。財政破綻すれば、既得権益がゼロベースに戻るので、年金や医療・介護などの社会保障の新たな制度設計が重要という指摘は、従来からコッソリと囁かれてきた点ですが、ここまで表に出して主張すると影響力がありそうです。最後に、本書で考えられている程度の財政破綻後の対応策は、とっくに財務省は持っているような気が私はするんですが、いかがなもんでしょうか。
次に、スティーヴ・キーン『次なる金融危機』(岩波書店) です。私はなじみなかったんですが、著者はオーストラリア出身の英国をホームグラウンドとする経済学者であり、カオス理論を応用して、金融危機が起こるプロセスのシミュレーションに成功したといわれています。特に、民間債務残高の危険度を指標とした予測モデルから導出されるいくつかのグラフィックスはなかなか見応えがあります。もとも、カオス理論でどこまで金融危機の発生が予測できるかは議論の残るところであり、少なくとも、本書で主張するように、利潤最大化を超えて投資を行い資本ストックが積み上がり、その後のストック調整が大規模かつ長期にわたるのは、事実としてそうなっているのは現実経済を見れば明らかな通りに理解できるが、そのカオス理論に基づく根拠が私には不明でした。どうしてそうなるのか、カオス理論で解明できたとは到底思えません。これは、利益最大化を超えて投資するという行為について、利益最大化が何らかの矛盾を持っていると考えざるを得ないと私は予想しているんですが、バブル期に過大にに投資したり、デフレ期に過少な投資しかしなかったりとする投資家心理の問題なのか、それとも、利益最大化の合理性が失われているのか、本質的な疑問に答えてくれていない恨みはあります。
次に、ルチル・シャルマ『シャルマの未来予測』(東洋経済) です。著者はインド出身でモルガン・スタンレーの市場エコノミストです。私は同じ著者の前著である『ブレイクアウト・ネーションズ』は読んでいないんですが、よく似た内容であり、著者はBRICsやVISTAの台頭を予見したといわれていますので、それほど理論的ではなく、市場エコノミストの直感的な、というか、経験則的な見方で、人口構成・政治サイクル・格差などの本書でいう10の観点から先行きを大胆に予測しています。ということで、モロなネタバレなんですが、成長する国は、日本、アメリカ、メキシコ、アルゼンチン、フィリピン、インドネシア、インド、パキスタン、バングラディシュ、ドイツ、ルーマニア、ケニアで、現状維持は、コロンビア、イギリス、イタリア、スペイン、沈む国は、中国、韓国、台湾、タイ、マレーシア、オーストラリア、ロシア、フランス、トルコ、中東諸国、南アフリカ、ナイジェリア、などとされています。日本についてはアベノミクスの貢献が明記されています。
次に、丸山俊一『欲望の資本主義 2』(東洋経済) です。前シリーズの『欲望の資本主義』の続巻なんですが、いずれもNHK「欲望の資本主義」制作班によるノベライズです。ですから、基本は対談を文字に書き起こしたわけであって、放送をバッチリと見ていた、聞いていた視聴者には必要ない本なのかもしれませんし、逆に、本で読むならテレビ番組を見る必要はないのかもしれません。副題が「闇の力が目覚める時」とされていて、ややマルクス主義的な考え方がこの「闇の力」に相当するような記述も見られ、私はやや不愉快でした。コンピュータの進化やAIの登場などを細かに主張しながらも、大筋の議論が出来ていない印象があり、細かな表現でテレビ・ラジオ的には映えるのかもしれませんが、ホントに資本主義の今後の方向性を議論する題材にはなりそうもありません。
次に、ジャック・ペレッティ『世界を変えた14の密約』(文藝春秋) です。邦訳タイトルは英語の原題とかなり違っており、上の画像の帯にあるような「企業間の密約」により世界の動向が決められているかのような本の内容ではありません。14の中身について出版社のサイトから引用すると、「現金の消滅」、「熾烈な格差」、「ダイエット基準」、「買い替え強制の罠」、「フェイクニュースの氾濫」、「投機リスク」、「租税回避のカラクリ」、「薬漬け」、「改革されない働き方」、「新自由主義の誕生」、「企業の政府支配」、「AIに酷使される未来」、「知性の取引」、「21世紀のインフラ」、ということになります。著者はイタリア系英国人のジャーナリストであり、本書の内容はBBCにて映像化されて反響を呼んだようです。14項目がそのまま章立てになっているわけですが、やや内容や視点にバラツキがあるものの、14項目を見るだけでも十分にリベラルで左派的な視点であることは想像されようかと思います。英国の現状だけでなくごろーばる化の進む現在では我が国にもそのまま当てはまるポイントが少なくないと受け止めています。
次に、西岡壱誠『東大読書』(東洋経済) です。今さらながら、なんですが、私はキャリアの国家公務員であり、東大卒業生の比率が異常に高いオフィスに勤務していますし、日曜日のTBSテレビで東大王なるクイズ番組を見ることがあったりして、それなりに東大生の優秀性は理解しているつもりです。本書では明記されていないんですが、著者の出身高校は宝仙学園とネットでウワサされています。この出身校については私には確認のしようがありませんし、ネットでは疑問が呈されていたりするんですが、ただ、読書を効率よくしっかりと実りあるものにするという点から、本書の中身は秀逸だと思います。少なくとも、読書についてはそれなりに準備すべきという点は忘れるべきではありません。もっとも、本書では読書をものすごく狭い意味でとらえており、少なくとも、教科書をはじめとする学術書や教養書や実用書などに限定しているような気がして、文芸書や小説は本書ではスコープに入っていないようです。その上、私はもっとも読書の内容を濃くするためにはノートを取るべきであると考えており、例えば、大昔に公務員試験の準備や対策をしていたころに、経済学のミクロ・マクロの教科書を読んで取ったノートが我が家にはまだ残っていたりするんですが、本書では付箋で代用されていて、やや中途半端な気がします。それなりにタメになるとはいえ、やや物足りない気もします。加えて、副題が『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく』とされているところ、後者の「地頭力」については何の言及もないような気がしてなりません。これも残念な点です。
最後に、我孫子武丸『怪盗不思議紳士』(角川書店) です。作者はご存じ新本格派のミステリ作家で京都大学のミステリ研究会出身です。綾辻行人や法月綸太郎や麻耶雄嵩などと同じ系統なわけです。でも、本書の舞台は終戦間もない東京です。戦災孤児の草野瑞樹は上野の闇市での事件をきっかけに探偵の九条響太郎の助手になり、警察にも頼りにされる名探偵・九条響太郎は「不思議紳士」と名乗る怪盗と対決したりします。ということで、江戸川乱歩の少年探偵シリーズをそっくりそのまま、明智小五郎を九条響太郎に、その助手の小林少年を草野瑞樹に、さらに、怪盗20面相を不思議紳士に、それぞれ置き換えているわけですが、とても新たな趣向も取り入れられています。まず、わけも判らず、占領軍の高級将校が事件に介入してきます。もちろん、警視庁の刑事なんぞよりはよっぽどエラそうに捜査を指揮したりします。そして、名探偵・九条響太郎が早々に死んでしまい、その身代わりを立てて少年助手が身代わり探偵を操る、となります。怪盗のサイドでも、本来の「不思議紳士」は怪盗20面相と同じで、殺人はおろか人を傷つけることも忌避する性向があるんですが、最初の事件では被害者の一家皆殺しをしたりします。新本格らしい謎解きではないんですが、それなりに楽しめる作品です。
2018年07月03日 (火) 19:56:00
カルチュア・コンビニエンス・クラブによる『読書に関するアンケート調査』の結果やいかに?
読書に関するアンケート調査ダイジェスト
- "親子の日"に子どもへ贈りたいものは、モノ消費よりもコト消費が1位に
1位「レストランなどでの食事」 2位「衣服・くつ」 3位「書籍」
中学生の子どもへ贈りたいものは1位「書籍」- 書籍を月に1冊以上読む人は4割
書籍を手に入れる場所 1位「書店」 2位「ネット通販」 3位「図書館で借りる」- 子どもへ本を贈りたい人は4割、贈りたい本の1位は「君たちはどう生きるか」
- 学生時代に親から本を贈られたことがある人は1割 ※小学生時代を除く
親から本を贈られた時の気持ちは?「うれしかった」「楽しめた」「学べた」- 理想の親子だと思う有名人
1位「高橋英樹さん・高橋真麻さん」 2位「関根勤さん・関根麻里さん」
3位「三浦友和さん・山口百恵さん・三浦祐太朗さん・三浦貴大さん」
なお、やや不親切だったかもしれませんが、上のダイジェストの冒頭にある「親子の日」とは、7月の第4日曜日を指しており、2003年から始まった記念日、というか、運動のようなものらしく、その日に本を贈る、というアンケートの趣旨なのかもしれません。よく判りません。まあ、この調査結果について、私の興味の範囲で、グラフを引用しつつ自分の読書にも引き付けて簡単に取り上げておきたいと思います。
まず、カルチュア・コンビニエンス・クラブのサイトから、「あなたは普段書籍を読みますか。」の問いに対する回答を引用すると上のグラフの通りです。30%近い大人が本を読まないと回答しているのには驚きます。私の読書量は毎月15~20冊くらい、年間200冊前後ではないかと思います。たぶん、というか、かなり確実に読書量は多い方だろうと自覚しています。
次に、カルチュア・コンビニエンス・クラブのサイトから、「あなたは普段本をどこで手に入れますか。」の問いに対する回答を引用すると上のグラフの通りです。常識的に本屋さんか、インターネットで買う、というカンジなんでしょうが、もう還暦を迎えて人生経験長く、本があまり帰っている我が家に置く場所もない私は、年間200冊の読書のうち、買い求めるのは10冊くらいで、残り190冊くらいは、すべて図書館で借りています。最近では話題のダン・ブラウン『オリジン』上下を買いました。三浦しをん『ののはな通信』を買おうかどうしようかと、激しく悩んでいるところです。
2018年06月30日 (土) 11:49:00
今週の読書は話題のダン・ブラウン『オリジン』を含めて計8冊!
まず、トーマス・セドラチェク & オリヴァー・タンツァー『資本主義の精神分析』(東洋経済) です。NHK特集の「欲望の資本主義」でもそうだったんですが、この著者の要諦は借金をしてまで成長を追求する必要はない、ということなんではないかという気がします。あまりにも経済学の見方から外れすぎていて、これなら何を言っても可、という気もします。
次に、内田樹[編]『人口減少社会の未来学』(文藝春秋) です。かなり大量の著者人を集めた論文集なんですが、左派的な拡大均衡を目指す志向もあれば、右派的な財政圧縮を求める声もあったりで、まとまりの悪さが目立っています。本としての一貫した視点や主張はほぼないに等しいんではないかと受け止めています。
次に、岡部恭宜[編著]『青年海外協力隊は何をもたらしたか』(ミネルヴァ書房) です。逆に、本書については本としての主張は極めて明確で、青年海外協力隊(JOCV)は有益であり、事業仕分けにより予算削減の憂き目を見るのは困る、ということに尽きます。JOCVの受け入れサイドの意見がまったく取り入れられていないのも大きな特徴のひとつです。
次に、ダン・ブラウン『オリジン』上下(角川書店) です。ご存じ宗教象徴学者ラングドン教授シリーズ最新作です。今回の舞台はスペインです。コンピュータ科学者が人類、というか地球生命の起源と行く末についてプレゼンしていたんですが、その場で暗殺され、そのプレゼンの続きの動画のパスワードをラングドン教授が謎解きをする、その謎解きに、従来通りのボンド・ガールならぬラングドン・ガールとともに、ウィンストンという名のAIが協力する、というストーリーです。謎解きも、地球生命の起源と行く末も、どちらも、やや物足りませんでしたが、AIの退場は鮮やかでした。一気に読ませるスリリングな作品です。
次に、麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』(角川書店) です。著者の出身地である三重県伊賀の里にある工場を舞台に、JK探偵が殺人事件を解決します。新本格派の著者らしく、論理的に犯人を追いつめます。なお、伊賀は忍者の里であると同時に、その忍者でもあったといわれている俳聖松尾芭蕉の出身地でもありますので、俳句が頻出します。なかなかの作品です。
最後に、文芸第三出版部[編]『謎の館へようこそ 白』と『謎の館へようこそ 黒』(講談社) です。新本格30周年を記念するアンソロジーです。収録作品を以下に列挙すると、『白』は東川篤哉「陽奇館(仮)の密室」、一肇「銀とクスノキ~青髭館殺人事件~」、古野まほろ「文化会館の殺人 - Dのディスパリシオン」、青崎有吾「噤ヶ森の硝子屋敷」、周木律「煙突館の実験的殺人」、澤村伊智「わたしのミステリーパレス」、そして、『黒』ははやみねかおる「思い出の館のショウシツ」、恩田陸「麦の海に浮かぶ檻」、高田崇史「QED ~ortus~ -鬼神の社-」、綾崎隼「時の館のエトワール」、白井智之「首無館の殺人」、井上真偽「囚人館の惨劇」、となっています。
2018年06月23日 (土) 11:26:00
今週の読書はいろいろ読んで計7冊!!
まず、神津多可思『「デフレ論」の誤謬』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀OBであり、典型的にリフレ派の経済学を否定して旧来の日銀理論にしがみついています。ですから、本書の唯一の主張は需要の構造の変化のスピードに供給がついていけていない、という1点なんですが、少し考えれば理解できるように、需要に供給がついていけないのであれば、デフレではなくボトルネック・インフレが生じるはずであり、まったく、私には理解できません。加えて、必ずしも明記されているわけではありませんが、要するに、複合的な要因で持ってデフレに陥っていること、さらに、デフレの何が悪いといわんばかりのマイルド・デフレ肯定論ですから、繰り返しになりますが、旧来の破綻した日銀理論を振り回しているだけであり、特段の見るべき内容はありません。デフレの本質は物価の持続的な下落であり、従って、今日買うよりも明日買う方がおトクなわけですが、それに対する本質的な議論はなされていません。理論的にも実証的にも破綻した大昔の議論を展開しているとしか思えません。ムダな読書だった気がします。
次に、アーサー R. クローバー『チャイナ・エコノミー』(白桃書房) です。著者は中国在住の英国人エコノミストではないかと思うんですが、確信はありません。極めて包括的に中国経済を論じている一方で、よく見かけるたぐいの中国共産党の決定文書の引用とか、制度論に深入りするとかの傾向が一切なく、私のような中国経済のシロートにもとても判りやすい解説書となっています。特に私の目を引いたのは、第5章であり、国営企業を含む企業に対する見方です。さらに特定すれば、中国企業の成長が資本主義的なイノベーションに基づいているか、それとも、資本と労働を大量に投入することによる要素投入型の成長か、という点に関しては、強く後者であることが示唆されています。その流れの中で第9章のルイス転換点の議論を読むべきです。ただ、ルイス転換点については、私もエレガントに数式を解いたペーパーを書いたりしましたが、現在の我が国の労働市場において賃金が上昇しないこともルイス転換点で説明する向きもあり、おそらく、中国のような人口超大国では数十年のスパンで持って分析する必要がありそうな気がします。ひょっとしたら、中国経済に詳しい向きには物足りないのかもしれませんが、なかなかオススメな1冊です。
次に、セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』(光文社) です。著者はニューヨーク・タイムズにコラムなどを寄稿する研究者であり、前職ではグーグルのチーフエコノミストであるハル・ヴァリアン教授らと研究をしていたということのようです。特に、大きな影響を受けたのは10年近く前に出版されたレヴィット教授らの『ヤバい経済学』であると明記しています。ということで、博士号も持ったビッグデータ研究のデータサイエンティストと考えてよさそうで、必ずしもポリティカル・コレクトネスに合致しないかもしれないものの、ビッグデータから明らかになる人間の本性のようなものを本書では議論しています。そして、そのビッグデータはグーグル検索から得ています。そして、人間の本性を明らかにする以外で、データサイエンス的に興味深かったのはビッグデータの使い道です。例えば、統計学的に標本の平均は母集団に一致することなどはハナから明らかなんですが、ですから、どマクロ的に平均値を出すのにビッグデータを使うのは意味ありません。ビッグデータはもっと細かいセグメント化されたグループの特徴をあぶり出すのに使うべきだと主張しています。地域別の特徴とか、年齢階級別の特徴とか、ということです。データを使えば、いろんな事が判る、という点では『ヤバい経済学』の続編ともいえそうです。
次に、中野雅至『没落するキャリア官僚』(明石書店) です。著者は、地方公務員・国家公務員から研究者に転じたようです。私もその一員であるキャリア官僚に関する分析です。キャリア官僚に関する定義はいろいろありますが、広義には最上位の採用試験合格者であり、狭義には採用時の事務次官資格者です。本書は、キャリア官僚を「エリート」として対象にしていますので、大きな違いはないかもしれません。本書では、バブル崩壊後のキャリア官僚について没落の始まりとみなしているんですが、もう少し分析が欲しかった気がします。要するに、経済が成長しなくなって、それまで既得権を保証しつつ経済成長の果実を分配することにより官僚がパワーを奮っていたものが、その成長の果実が消滅したことが没落につながった、ということなのかもしれません。さらに、官界の周辺事情がやや狭く考えられていて、政官関係で私が不思議に感じている選挙制度との関係には行き届いていません。すなわち、中選挙区制度下では与党政治家が複数名当選しなければならないことから、いわゆる族議員として専門領域を持ち、それが政官関係に影響を及ぼしていたのが明らかなんですが、そういった政治家=国会議員の専門性が低下しつつある現在、典型例は税調なんでしょうが、それでも専門性高い官僚が政治家に対して専門性で優位に立てないのは不思議な気がします。終章近い6~7章で右傾化やポピュリズムとの関係を考察していますが、感心しません。
次に、吉田修一『ウォーターゲーム』(幻冬舎) です。著者はご存じ売れっ子の小説家であり、本書はアジアネット(AN)通信の産業スパイを主人公とするシリーズです。このシリーズは既刊に『太陽は動かない』と『森は知っている』があるらしいんですが、私は前者を読んだ記憶があります。ひょっとしたら、後者も読んだかもしれません。記憶はあいまいです。本書はタイトルから想像される通り、水資源を巡る産業スパイの暗躍をテーマとしています。欧州の水メジャー企業による我が国水資源の制圧などなど、です。そして、水資源を巡る本筋とは別に、シリーズ第2段『森は知っている』でかなり明らかにされているようなんですが、AN通信の産業スパイの訓練とかその前段階のリクルートの秘密について、『森は知っている』未読の私は初めて知りました。そして、そのルートからドロップ・アウトした人物が水メジャーの一角に食い込んだりしています。また、水メジャーの暗躍をすっぱ抜くのが九州のローカル新聞の女性記者だったりするのはなかなか凝った作りになっていますが、長崎出身の著者らしいともいえます。ラストの終わり方がさすがといえます。どうでもいいことながら、相変わらず、謎の女性アヤコが「ルパン3世」の峰不二子のイメージのように私には思えて仕方ありません。
次に、川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』(新潮社) です。久し振りの川上作品短編集です。私はこの作家を極めて高く評価していて、今年こそノーベル文学賞は持ち越しと発表されていますが、我が国で村上春樹に次いでノーベル文学賞に近い作家ではないかと考えています。表題作はとても暗い雰囲気で、「死」を濃厚に感じさせる作品でもありますから、好き嫌いはあるかもしれません。しかも、いわゆる純文学であって、エンタメ作品ではありませんから、起承転結を期待する読者にはややハードルが高い気もします。でも、尋常でないくらいの表現力の豊かさや、何ともいえずに「透明感」ある文体など、文学としても水準の高さを読み取れる読者であれば、この作者のいいところが随所に感じられます。私は5月末の産経新聞のインタビューを見て借りて読む気になったんですが、そのインタビューの最後は「次はまた、まったく違う文体で、一番長い話を書くつもりです」と結ばれています。次回作もとても楽しみです。
最後に、三浦しをん『ビロウな話で恐縮です日記』(新潮文庫) です。私は三浦しをんの小説やエッセイはかなり読んでいて、この作品も読んだような気になっていたんですが、ブログを遡って確かめると読書感想文の記録がなく、文庫本で出版されたのを機に読んでみました。三浦しをんのエッセイは太田出版で単行本が出て、新潮文庫に収録されるというパターンが多く、本書もそうです。そして、私はついつい対象的なもので、酒井順子のエッセイと三浦しをんを比べてしまうんですが、いかにも優等生が下調べよくリポートを取りまとめたような酒井順子のエッセイに比べて、三浦しをんのエッセイは生活実感が丸出しで、特に本書などでは少女マンガのBLモノに話題が集中しています。まほろ駅前シリーズのバックグラウンドがよく理解できるエッセイです。ただ、好き嫌いはあるかもしれません。
2018年06月16日 (土) 09:26:00
今週の読書は新書の5冊を含めて大量9冊!!!
まず、アンドリュー・マカフィー & エリック・ブリニョルフソン『プラットフォームの経済学』(日経BP社) です。著者は米国MITの研究者であり、前作は『ザ・セカンド・マシン・エイジ』であり、ムーアの法則に基づく指数関数的なコンピュータの高性能化や経済のデジタル化が、19世紀の第1次機械時代に匹敵する衝撃を社会にもたらす、と論じられたわけですが、本書では第1部でマシンを、第2部でプラットフォームを、第3部でクラウドとコアの3つに焦点を合わせており、本書のタイトルはかなりミスリーディングです。というのも、商店としてあげた3つの潮流のうち、実は、第2部のプラットフォームはもっとも軽く扱われているからです。かなり容易に想像される通り、第1部のマシン編では当然のようにAIやロボットが取り上げられ、第2部のプラットフォーム編ではAmazonやFacebookやGoogleなどのネット企業のビジネスについて分析され、第3部のクラウド編では資金やアイデアのクラウド・ソーシング活用の現状がフォーカスされます。先行きにかなりのバリエーションがあって、必ずしも確定的な方向性を提示できないのは理解しないでもないんですが、研究者ですのでもう少し今後の方向を提示してほしかった気がします。ジャーナリスト的にいろんな事実を羅列するにとどまっているのは少し残念です。
次に、外山文子・日下渉・伊賀司・見市建[編著]『21世紀東南アジアの強権政治』(明石書店) です。東南アジアのいわゆるASEAN創設時の5か国のうち、シンガポールを除くタイ、フィリピン、マレーシア、インドネシアの4か国におけるストロングマン時代のリーダーを概観しています。タイについてはタクシン-インラックの兄妹政権におけるポピュリスト的な傾向の政治、フィリピンの義賊ドゥテルテ政権、マレーシアのナジブ政権、インドネシアのジョコ大統領です。このうち、マレーシアのナジブ首相については、何と、90歳超のマハティール首相が政権に返り咲いています。東南アジアの民主化についてはフィリピンのマルコス大統領の追放がもっとも先駆けていましたが、いまではドゥテルテ大統領が麻薬追放などで人権虫の非合法活動を容認するような「規律」を展開しています。ただ、ドゥテルテ大統領については、ダバオ市長のころのアンパトゥアン一家に対抗する上で、少し勘違いした、という点もありそうな気がします。また、インドネシアのジョコ大統領は私の考えでは決してストロングマンではないと考えるべきです。いずれにせよ、例えば四国4県の知事さんの共通項があるとは限らないように、東南アジアを一色で染めようとする試みは無謀だという気がします。
次に、クリストフ・ボヌイユ & ジャン=バティスト・フレソズ『人新世とは何か』(青土社) です。著者2人はフランスの国立科学研究センターの研究員であり、同時に、社会科学高等研究院でも教えていると著者紹介にあります。本書では、人新世 Anthropocène を18世紀半ばの蒸気機関の発明から現在までと提唱し、環境や資源などの有限性を基に、サステイナブルではない人間生活について、必ずしもタイトルと落ちに地質学的な分析ではなく、かなりの程度に社会科学的な研究成果が明らかにされています。その意味で第3部がメインになることは明らかなんですが、熱の発生、戦争を含む死の累積、爆食の実態、環境破壊、などなどが取り上げられ、現在の生産と消費のあり方のままでは、地球が気候や環境をはじめとして、決して、サステイナブルではない現状と悲観的な先行き見通しをこれでもかと並べています。著者2人の主張も判らなくもないんですが、先行きの技術革新を含めて、私はもう少し楽観的です。
次に、新書5冊を一挙に、橋本健二『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)、吉川徹『日本の分断』(光文社新書)、野口功一著『シェアリングエコノミーまるわかり』(日経文庫)、新戸雅章著『江戸の科学者』(平凡社新書)、太田肇『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書) の5冊です。上の2冊は我が国の格差社会について分析を加えています。格差はもはや階級に転じたとの主張や大学進学を境目に乗り越えられない分断が社会に生まれた、との見方が示されています。私の従来からの主張通りに、格差や貧困に対する「自己責任論」が粉砕されています。3つ目はAirbnbやUberなどのシェアリング・エコノミーについての概説書です。仕事の関係もあって少し読んでみましたが、まあ、私のように研究対象にしているエコノミストからすれば、参考程度の内容ではないかという気がします。4冊目の新書では、江戸の科学者について、人口に膾炙した平賀源内や和算学者の関孝和をはじめとして、さまざまな分野の科学者が紹介され、江戸末期には当時の西洋先進国に遜色ない陣容であった点が強調されています。最後は、イヌ型人間とネコ型人間が対比され、標準的な小品種大量生産の近代工業社会ではイヌ型人間が有利であった一方で、情報化社会が進展しデータやノウハウの重要性が高まった現代はネコ型人間の時代を迎えた可能性が示唆されています。
最後に、綾辻行人ほか『7人の名探偵』(講談社ノベルス) です。どこからカウントするのか、私にはイマイチ不明なのですが、帯にある通り、昨年2017年が新本格ミステリ30周年であったことを記念するアンソロジです。我が母校の京大ミス研の3人を中心に、7つの短編を収録しています。すなわち、麻耶雄嵩「水曜日と金曜日が嫌い - 大鏡家殺人事件 -」、山口雅也「毒饅頭怖い 推理の一問題」、我孫子武丸「プロジェクト: シャーロック」、有栖川有栖「船長が死んだ夜」、法月綸太郎「あべこべの遺書」、歌野晶午「天才少年の見た夢は」、綾辻行人「仮題・ぬえの密室」で、最後の綾辻作品だけはミステリかもしれませんが、エッセイとして仕上がっています。少なくとも、タイトルに異議ありで、綾辻作品には名探偵は登場しません。いずれも読み応えある短編ミステリです。なお、出版社である講談社の「新本格30周年記念企画」のサイトには本書のほか、『謎の館へようこそ 白』と『謎の館へようこそ 黒』、さらに、『名探偵傑作短編集 御手洗潔篇』、『名探偵傑作短編集 法月綸太郎篇』、『名探偵傑作短編集 火村英生篇』などが紹介されています。ご参考まで。
2018年06月15日 (金) 19:51:00
ご寄贈いただいた『そろそろ左派は<経済>を語ろう』(亜紀書房) を読む!
とても久し振りに図書をご寄贈いただきました。ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』(亜紀書房) です。私個人のブログなんぞはとても貧弱なメディアなんですが、図書をご寄贈いただいた折には、義理堅く読書感想文をアップすることにしております。当然です。
まず、私自身については、官庁エコノミストにして左派、という独特の立ち位置にあり、少なくとも左派であることを隠そうとはしていません。例えば、もう定年に達しようという年齢なんですが、そもそもの採用面接でのアピール・ポイントとして、「大学においては経済学の古典をそれなりに読んだと自負している。スミス『国富論』、リカード『経済学と課税の原理』、マルクス『資本論』全3巻、ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』などである。」と、堂々とマルクス『資本論』を読んだことを明らかにした上で経済官庁に採用されたりしています。まあ、その後、立身出世とは縁遠い人生を送ったことも事実ではあります。
ということで、本書の関連としては、著者のおひとりである松尾教授の『この経済政策が民主主義を救う』(大月書店) をほぼ2年前の2016年5月28日の読書感想文で取り上げ、「ジャカルタから2003年に帰国して以来、ここ十数年で読んだうちの最高の経済書でした。まさに、私が考える経済政策の要諦を余すところなく指摘してくれている気がします。」と極めて高く評価しています。その折にも指摘したところですが、痛みを伴う構造調整による景気拡大でなければ「ホンモノ」ではなく、金融緩和による「まやかし」の成長は歪みをもたらし、加えて、財政赤字を累増させるような拡張的財政政策なんてとんでもないことで、逆に増税で財政再建を進め、デフレや円高を容認して、それらに耐えるように構造改革を進めるべし、といったウルトラ右派的かつ新自由主義的な経済政策観が幅を利かせる一方で、現在のアベノミクスの基礎をなしているリフレ派な、かつケインジアンな政策に対する世間一般の理解が進まないことを私自身はとても憂慮しています。そして、こういった私の懸念を払拭するために強力なサポートが本書でも得られるととても喜んでいます。
北田教授の社会学的な視点などの専門外の部分は別にして、そういった100点満点の本書であることを前提に、ご寄贈に応えるために、今後のご出版のご参考として私見をいくつか書き加えると、国際経済の視点をもう少し盛り込んだ経済政策論が欲しい気がします。というのも、本書で指摘されている通り、右派は内向きであり、左派は外向き、というのはその通りで、私はそれをナショナリストとインターナショナリストと呼んだりもするわけですが、米国や欧州におけるポピュリズムの台頭も横目で見据えつつ、本書では移民に対する左派的な promotive な見方が示されている一方で、自由貿易に対する見解はまったく見受けられません。私は、移民政策も同じなんですが、自由貿易についても、基本は条件付き賛成です。すなわち、移民にせよ、自由貿易にせよ、国民経済全体としてはプラスのインパクトがある一方で、平たい表現をすれば、損をする集団もあれば、得をする集団もあるわけで、その得をする集団の経済的厚生増加の一部を、たとえ期間限定であっても、損をする集団に補償することが必要です。その分配政策なしで無条件に、まあ、誤解を招きそうな表現かもしれませんが、いわば「弱肉強食」に近い形で、移民や貿易の自由化を進めるのは、私は大いに疑問を持っています。例えば、実証なしの直観的な議論ですが、高度な技能を持った移民は大企業に有利にはたらく一方で、低賃金な移民は中小零細企業で活用できそうな気がしますし、レシプロカルに自由貿易を進めると仮定すれば、メリッツ教授らの新々貿易理論の示す通り、大雑把に大企業ではないかと想像される国際競争力ある産業に有利なことはいうまでもなく、逆に、国際競争力ない産業や途上国の低賃金労働に支えられた製品と競合する産業には不利であり、後者は極めて大雑把に、大企業も含まれているかもしれないものの、中小企業も少なくないような気がします。もうひとつは、現在の日本経済の景気観です。左派は多くの場合、景気が悪くて賃金が上がらず、失業が蔓延している、といった否定的な景気観を表明することがあり、本書でもそのラインが踏襲されているような気がします。日本経済の現状は、景気局面について、左派はどう考えているのか、失業率が大きく低下しながら賃金が上がらない、あるいは、労働分配率が低下を続けるのはなぜかのか、そして、それはどのように経済政策で対応すればいいのか、とても重要なポイントのように私は受け止めています。特に、現在の安倍政権のアベノミクスを左派的な視点から高く評価しつつも、他方で、党派的な見地からか、何なのか、本書でも踏襲されている「実績が上がっておらず、景気が悪い」と、一見すれば矛盾するような結論を示されると、私のような左派でありながらも頭の回転の鈍い人間には、なかなか左派の語る経済に関する理解がはかどらないような気がします。最後の方は少し筆が滑りましたが、以上の2点はいずれも本書を批判するわけではありません。あくまで、今後のご出版のご参考です。失礼いたしました。
いずれにせよ、過去何度かの選挙結果を見れば、国民がアベノミクスの経済政策をかなりの程度に支持していることは明らかです。メディアなどで見受けるオピニオン・リーダーらの経済実感と違って、国民の経済観や景気観は決して悪くないんだろうと、少なくとも選挙結果からはうかがえます。もちろん、森友・加計問題の解明や安全保障政策の議論、さらに、憲法改正に対する意見表明などはとても大事ですが、日々の生活を抱えた国民の支持を得られるような経済政策の提示は、いずれの政党党派においても極めて重要な課題であり、その昔の米国大統領選挙で当時のクリントン候補の掲げた "It's the economy, stupid." は今でも忘れるべきではないポイントだと私は考えています。
2018年06月09日 (土) 00:32:00
今週の読書は経済書などいろいろあって計7冊!
まず、太田康夫『没落の東京マーケット』(日本経済新聞出版社) です。著者は日経新聞のジャーナリストであり、本書に代表されるように、金融セクターに強いんではないかと想像しています。我が国の金融市場のアジア、ひいては世界におけるプレゼンスが1990年前後のバブル期から大きく低下している事実を取り上げています。そして、その原因のひとつとして日銀による緩和的な金融政策運営を上げ、規制緩和なども進んでいない現状を批判していたりします。確かに、著者の主張は私にも判らないでもないんですが、では、金融市場でそれ相応の金利を復活させて金融機関の利益が上がるようにするのが、果たして国民経済にとっていい金融政策なのか、といわれると大いに疑問です。金融政策は金融機関の健全な経営や運営もマンデートのひとつなんでしょうが、国民経済を犠牲にしてまで特定業界の利益を図るとすれば別問題で、私は大いに疑問です。そもそも、エコノミストの中には金融産業が我が国の比較優位であるかどうかを疑問視する意見もありますし、比較優位にないからこそ、本書でいうところの「没落」する産業なのに、どこまで政策リソースをつぎ込むかは見方が分かれるといわざるを得ません。著者ご自身が取材の対象としていて、おそらくは、知り合いも多いと考えられる業界の支援策をどこまで優先順位高いと考えるかは、ジャーナリストとしての資質にもかかわる可能性すらあります。
次に、デヴィッド S. エヴァンス & リチャード・シュマレンジー『最新プラットフォーム戦略』(朝日新聞出版) とニコラス L. ジョンソン『プラットフォーム革命』(英治出版) です。一方向への直線的な経済活動を行う伝統的な企業と異なり、ITC技術の進展に裏付けられたデジタル・エコノミーの発達とともにマルチサイドのプラットフォーム企業の活動の場が整備されて来ています。もちろん、中小企業金融などで、その昔からマルチサイドなプラットフォーム企業、あるいは、そういった経済活動は決して存在しなわけではありませんでしたが、民泊などのシェアリング・エコノミーやアマゾン、グーグル、マイクロソフト、アリババ、フェイスブック、ツイッターなどはプラットフォームを顧客に対し提供し、顧客同士がつながるビジネスを展開しています。ここで取り上げる2冊のうち、『最新プラットフォーム戦略』の方がやや理論的な側面が強く、『プラットフォーム革命』はビジネスの実務的な側面が強いといえます。私は開発経済学を施文とするエコノミストとして、『最新プラットフォーム戦略』で取り上げられているケニアのMペサの成功などがとても参考になりました。ただ、『プラットフォーム革命』でも、3~4章あたりではかなり理論的な解説を加えており、5章からの実務的なケーススタディと少し趣きが異なります。『最新プラットフォーム戦略』では、Rochet and Tirole (2003) "Platform Competition in Two-sided Markets" の理論がキチンと解説されています。なお、同じように「プラットフォーム」というバズワードをタイトルに含むマカフィー & ブリニョルフソン『プラットフォームの経済学』(日経BP社) も手元に届きましたので、来週の読書感想文で取り上げたいと思います。
次に、元村有希子『科学のミカタ』(毎日新聞出版) です。著者は毎日新聞のジャーナリストであり、科学環境部長を務めています。章別に、「こころときめきするもの」とか、「すさまじきもの」とかの、『枕草子』の引用をタイトルにしており、物理、化学、生物をはじめとする自然科学を広くカバーしつつ、さらに、宇宙、医療、気象、などなど、親しみやすいテーマで取り上げています。教育学部出身ながら教員免許は「国語」ということで、必ずしも専門知識のない一般読者にも判りやすく解説を加えています。私は第Ⅱ章 すさまじきもの が印象的でした。気候変動や生物多様性の問題など、今後の地球に対する科学的なリスクが取り上げられています。最終章の医療分野の尊厳死や再生医療などは科学的にできることと社会的に受け入れられることの違いがキチンと表現されていたような気がします。さすがに、ジャーナリストらしく読みやすい文章で、スラスラと一気に読めます。ただ、それだけに、頭に残りにくいような気がしたのは私だけかもしれません。
次に、トーマス・フリードマン『遅刻してくれて、ありがとう』上下(日本経済新聞出版社) です。著書はご存じの通りの「ニューヨーク・タイムズ」のジャーナリストであり、世界的なベストセラーとなった『レクサスとオリーブの木』や『フラット化する世界』の著者でもあります。本書では、現代を「加速の時代」と位置づけ、そのバックグラウンドにはICT技術の中でも、いわゆるムーアの法則に則った指数的なハードウェアの高集積化、さらにこれに伴うソフトウェアも高度化高速化しています。グーグルのマップリデュースからハドゥープといったソフトウェアがまさにそれに当たります。他方で、著者は『孤独なボウリング』的なコミュニティの崩壊には同意せず、特に第12章以降では著者が生まれ育ったミネソタ州のユダヤ人の比率の高いコミュニティへの回帰を希望を持って楽観的に示唆しています。ただ、ICT技術の発展と対をなすグローバル化の進展で、もはや、中スキルで高所得といった職はなくなったことも事実として受け入れています。本書のタイトルは、宣伝文句にあるように、今までの常識が通用しない世界に入りつつある、ということと、同時に、少し立ち止まって遅刻した相手を待つ間にでも思考のための一時停止が必要、という二重の意味を込めているようです。伏見威蕃の訳であり、クルーグマン教授の著書の翻訳で有名な山形浩郎や少し前にクイーンの国別シリーズの新訳を上梓した越前敏弥などとともに、私のもっとも信頼する翻訳者の1人です。
最後に、スティーブン・スローマン & フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり』(早川書房) です。心理学とマーケティングのそれぞれの認知科学の学際領域の専門家2人が共著者となっています。何を論じているかでどちらの著者が書いているのかがよく判ったりします。幅広くいろんなテーマについて認知の問題を論じているいんですが、特に秀逸だったのは認知の観点から民主主義のあり方を論じた第9章、そして、賢さについて論じている第10~12章です。ポピュリズムの議論を待たずとも、直接民主主義は代議制の間接民主主義よりも望ましい制度とは私にはとても思えなかったんですが、本書の著者たちも同じ考えのようで心強かったです。また、少し前に人間と動物の賢さについて生物学的な観点から論じたフランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』を昨年2017年11月4日に取り上げましたが、同じような問題意識が共有されているような気がしました。難をいえば、いわゆるボケ老人の認知症についても何らかの言及が欲しかった気がしますが、何かが判ったようで判らない、認知の不思議さに触れた気がします。
2018年06月03日 (日) 18:39:00
先週の読書は経済書・経営書を中心に大量8冊!!
まず、 カール・シャピロ + ハル・ヴァリアン『情報経済の鉄則』(日経BPクラシックス) です。クラシックスのシリーズ名通り、前世紀の終わり、1998年だか、99年だかに出版された本です。さすがに、現時点で読み返すと、ロータス1-2-3が出て来たりして、ややふるさは感じられるんですが、「ネットワーク外部性」とか、「規模の経済」とか、「勝者総取り」とか、「ロックイン」などは情報経済で今でも有効な分析の視点だという気はします。クラシックス=古典と銘打たれていても、そこは『国富論』や『資本論』なんぞとは違うわけですから、出版された時点の制約を十分に意識して、読みこなせば役立つんではないかという気がします。
次に、森健・日戸浩之・[監修]此本臣吾『デジタル資本主義』(東洋経済) です。野村総研が取りまとめたデジタル経済分析の第1弾であり、3部作として出版される予定と明記してあります。最終的には、GDPではない新しい指標の構築について議論する、ということのようですので、それなりの試算も示されることともいます。基本的な出発点は、日本経済におけるGDPの成長がほぼ停止したにもかかわらず、それなりに豊かな経済社会を提供しているのは、GDPに計上されない消費者余剰が大きいからではないか、という疑問から始まっていて、私の現時点での研究課題にかなり近いと思います。
次に、竹中平蔵・大竹文雄『経済学は役に立ちますか?』(東京書籍) です。著者2人の対談です。何ともいえずに、その昔の用語を使えば、とても市場原理主義的な香りがしてしまいます。大竹教授の専門分野ですから、半ばくらいに「働き方改革」のお話が出てくるんですが、この話題について私が常に不満に思っているところで、要するに、企業サイドの利点しか思いつかないようで、「働き方改革」ではなく「働かせ方改革」であることが明らかです。働く労働者の権利や待遇についてはまったく考慮されていません。どこまで適切かは自信がありませんが、マルクス主義的な観点でいえば、末期の状態を迎えた資本主義において企業がいかに労働者をさらに搾取するかを助ける法律ではないのか、という疑いが払拭されません。
次に、佐藤将之『アマゾンのすごいルール』(宝島社) です。2000年のアマゾン日本法人立ち上げから15年間勤務したアマゾニアン経験者によるアマゾンのすごいところを詰め込んでいます。ただ、私が疑問に思うのは「顧客優先第一主義」はどこの企業でもそれなりに浸透しているんですが、その逆もアマゾンはすごい点は忘れるべきではありません。すなわち、私の友人が少し前に酒の席で言っていたんですが、アマゾンは納入業者と配送業者から利益を得ており、さらに、倉庫の非正規社員を低賃金で雇っており、これも利益の源泉となっている、という説もこれありで、私は本書にかかれていない納入業者・配送業者・倉庫番の非正規社員についても実態を知りたいと思います。まさに、外資系企業だからできたことであり、日本企業ではこういった利益の上げ方は難しいんだろうと思います。なお、上に取り上げた『トマト缶の黒い真実』の著者であるジャン=バティスト・マレはフランスのアマゾン配送センターに臨時工として勤務したルポをものにしています。ただし、邦訳は出版されていないような気がします。
次に、安岡孝司『企業不正の研究』(日経BP社) です。いくつかの最近起きた企業の不正事案のケーススタディを第1部で展開し、第2部でもう少し一般化したリスク・マネジメントに関する問題点のQ&Aを示しています。かなり幅広く企業不正を考えているようですが、本書にもあるように、経営トップの指示による不正事案、例えば、その昔の山一証券や最近の東芝の粉飾決算については、企業内部では防ぎようがないような気もします。それをいかにして経済社会への影響をミニマイズするかの観点は、本書では持ち合わせていないような気がして残念です。会社が消滅するくらいのインパクトを持った企業不正事案、山一證券の粉飾ですとか、雪印の事件を取り上げていない恨みはあります。それから、本書で俎上に載せている企業不正やリスク・マネジメントなどの経営学の分野については、ケーススタディがメインで、それらに共通する一般法則のようなものの抽出は難しそうな気がします。たくさんのリンゴが落ちるところを観察しつつも、それぞれに異なる原因で落ちているような気が私はしますし、万有引力の法則の発見に至るには私は力不足です。
次に、ヨハン・ノルベリ『進歩』(晶文社) です。その昔の2011年1月29日付けの読書感想文のブログで取り上げているマット・リドレー『繁栄』と同じような趣旨で、邦訳の山形浩郎があとがきで書いている通り、100年くらいの長いスパンで括った場合、ほぼほぼ常に現在は過去よりもいい状態にある、ということなんだろうと思います。ただ、リドレー『繁栄』の方がイノベーションを基本に先行きの明るい方向性を強調していたのに対し、本書では過去を振り返った歴史書の側面が強そうな気がします。
次に、ジャン=バティスト・マレ『トマト缶の黒い真実』(太田出版) です。著者はフランス出身のジャーナリストであり、我が国での邦訳書出版は初めてのようですが、フランスのアマゾン配送センターに臨時工として勤務したルポをものにしていたりします。本書では、トマトのピューレを題材にしてグローバル化された世界経済における食品流通の問題点を浮き彫りにしようと試みています。すなわち、例えば、中国で3倍に濃縮されたトマト・ピューレをイタリアに持ち込んで2倍濃縮にしただけで「イタリア産」の表示で世界に流通するとか、その生産・流通過程における劣悪な労働環境やマフィアの介在、などなどを明らかにしています。身近な隣国として中国の暗躍が目につくのは私だけではなさそうな気がします。
最後に、藤井青銅『「日本の伝統」の正体』(柏書房) です。現時点で、我が国の「伝統」と考えられていて、古くから連綿と続いているように受け止められているしきたりや風習や生活慣行や文化について、必ずしも古くからの歴史があるとは限らない、という視点から考え直したものであり、実は、ここ100年くらいで発見あるいは発明された「伝統」がかなりあり、そういったものを集めて解説しています。エッセイストの酒井順子の作品のように、なかなかよく下調べが行き届いている気がします。まあ、一見すると、どうでもいいような知識の詰め合わせかもしれませんが、「何かおかしい」と思えるようなリテラシーを身につけるにはいいように思います。
2018年05月26日 (土) 18:38:00
5月後半の読書、来週からブログを再開します!!
まず、今野敏『棲月』(新潮社) です。隠蔽捜査シリーズ第7話です。シリーズの主人公は竜崎なんですが、隠れキャラの戸髙に続いて竜崎署長に対して「マジっすか?」とタメ口を聞く署員が現れたりする一方で、大森署での最後の事件です。サイバー犯罪への対応も初めてです。
次に、陳浩基『13・67』(文藝春秋) です。中華圏ミステリの連作短篇集です。タイトルの通りに、香港での事件を2013年から1967年にさかのぼります。

次に、連城三紀彦『悲体』(幻戯書房) です。島田荘司にもあるんですが、在日朝鮮人のストーリーは私は少し苦手です。
最後に、ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム 5 復讐の炎を吐く女』上下(早川書房) です。スティーグ・ラーソンのシリーズを引き継いだシーズン2の第2作です。次の第6話で終了予定と私は聞き及んでいます。
次に、5月第4週20日(日)から本日26日(土)の読書は以下の通りです。
まず、村田晃嗣『銀幕の大統領ロナルド・レーガン』(有斐閣) です。同志社大学の前の学長である政治学者の分析した米国1980年代ののレーガン大統領伝です。やや強引に映画と結びつけたりしています。久し振りに、とても読み進むのに苦労しました。私にしては3日がかりというのはとても遅いペースです。
次に、生駒哲郎『畜生・餓鬼・地獄の中世仏教史』(吉川弘文館) です。仏教徒として考えさせられ、勉強にもなる本でした。
次に、関根達人『墓石が語る江戸時代』(吉川弘文館) です。墓石に残された記録を読み解く歴史書です。その昔に、九成宮醴泉銘を書道のお手本にお稽古に励んだ記憶が蘇ってしまいました。
次に、ステファノ・マンクーゾ『植物は<未来>を知っている』(NHK出版) です。植物に関する知性や進化の考え方が大きく改めさせられます。とても美しい写真も満載です。
次に、山本理顕・仲俊治『脱住宅』(平凡社) です。やや手前味噌な住宅に対する考え方が見受けられますが、土地制約の大きな日本で住宅にとどまらないコミュニティのあり方に関する興味深い分析です。ただ、経済性はまったく無視されている気がします。
最後に、イサベル・アジェンデ『日本人の恋びと』(河出書房新社) です。少し前に、平野啓一郎『マチネの終わりに』を読んで感激した記憶がありましたが、本書も大人の恋の物語です。著者はチリのアジェンデ元大統領の姪だったりします。私はチリの大使館に3年間勤務しましたので、なんとなく親しみを勝手に覚えています。スペイン語の翻訳がとてもいいです。
2018年05月12日 (土) 17:57:00
5月に入ってからの読書やいかに?
ということで、我が家ではなくヨソから読書記録だけアップしておきますが、まず、4月最終日から5月第1週、すなわち、4月29日(日)から5月5日(土)の読書は以下の通りです。
まず、ブレット・キング『拡張の世紀』(東洋経済) です。未来予想の本ですが、どこまで正確なのかは判りません。
次に、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済) です。シンギュラリティは来ないし、AIが人間に取って代ることはないという結論ですが、実は、AIが苦手な分野は現在の子供達にも苦手であり、読解力の強化の重要性を強調しています。
次に、清水真人『平成デモクラシー史』(ちくま新書) です。日経新聞記者による平成の政治史です。
次に、菅原潤『京都学派』(講談社現代教養新書) です。戦争推進派だった京都学派の哲学を取り上げています。
最後に、根井雅弘『サムエルソン』(中公文庫) です。数年前に選書で出版されたものの文庫化です。サムエルソン教授のどのバージョンのテキストを読んだかでエコノミストの世代が判ると著者は主張しますが、私は原書第10版でした。もちろん、サムエルソン教授の単著であり、上下2分冊でハードカバーの箱入り豪華本です。まだ、我が家の本棚に飾ってあります。
次に、5月第2週6日(日)から12日(土)の読書は以下の通りです。
まず、玄田有史『雇用は契約』(筑摩選書) です。幸福学ではなく、労働経済学の本です。特に雇用契約の期間を重視しています。
次に、ピーター・ラビンズ『物事のなぜ』(英治出版) です。精神科医が因果関係の把握などを考察していますが、物理学のの不確定性定理や数学・論理学の不完全性定理なども引きつつ、真実の把握は不可能という結論です。
次に、マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(堀之内出版) です。マルクス主義的なポストモダン・ポスト構造主義の観点から資本の運動と資本主義を論じています。経済学というより哲学のカテゴリーかと考えます。
次に、志賀健二郎『百貨店の展覧会』(筑摩書房) です。単なる小売業にはとどまらない文化の拠点としての百貨店の役割を強調しています。
次に、萩尾望都『私の少女マンガ講義』(新潮社) です。イタリアでの講演録ほかが収録されています。少女マンガといえば、私は1980年代の山岸涼子「日出処の天子」が好きでした。
最後に、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ』(双葉文庫) です。7巻まで既読だったんですが、主人公の葵が大学生になってからの8~9刊を読みました。今夏からアニメ化されるそうです。たぶん、私は見ないと思います。
2018年04月28日 (土) 18:12:00
4月の読書やいかに?
まず、4月第1週1日(日)から7日(土)の読書は以下の通りです
まず、ブルック・ハリントン『ウェルス・マネジャー 富裕層の金庫番』(みすず書房) です。
次に、白河桃子・是枝俊悟『「逃げ恥」にみる結婚の経済学』(毎日新聞出版) です。
次に、落合陽一『日本再興戦略』(幻冬舎) です。
次に、デービッド・アトキンソン『新・生産性立国論』(東洋経済) です。
次に、ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』上下(岩波書店) です。
最後に、道尾秀介『風神の手』(朝日新聞出版) です。
次に、4月第2週8日(日)から14日(土)の読書は以下の通りです
まず、ダニ・ロドリック『エコノミクス・ルール』(白水社) です。
次に、阿部正浩・山本勲[編]『多様化する日本人の働き方』(慶應義塾大学出版会) です。
次に、城田真琴『大予測 次に来るキーテクノロジー』(日本経済新聞出版社) です。
次に、波頭亮『AIとBIはいかに人間を変えるのか』(幻冬舎) です。
次に、エリック H. クライン『B.C.1177』(筑摩書房) です。
次に、白石雅彦『「ウルトラセブン」の帰還』(双葉社) です。
最後に、軽部謙介『官僚たちのアベノミクス』(岩波新書) です。
次に、4月第3週15日(日)から21日(土)の読書は以下の通りです
まず、リチャード・ボールドウィン『世界経済大いなる収斂』(日本経済新聞出版社) です。
次に、小野塚知二『経済史』(有斐閣) です。
次に、ロバート H. フランク『ダーウィン・エコノミー』(日本経済新聞出版社) です。
次に、ロバート H. フランク『幸せとお金の経済学』(フォレスト出版) です。
次に、デビッド・ウォーラー/ルパート・ヤンガー『評価の経済学』(日経BP社) です。
最後に、藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書) です。
次に、4月第4週22日(日)から本日28日(土)の読書は以下の通りです
まず、 ガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道』(プレジデント社) です。
次に、松尾博文『「石油」の終わり』(日本経済新聞出版社) です。
次に、ジェリー Z. ミュラー『資本主義の思想史』(東洋経済) です。
次に、塩田潮『密談の戦後史』(角川選書) です。
次に、ボブ・ホルムズ『風味は不思議』(原書房) です。
次に、塚崎朝子『世界を救った日本の薬』(講談社ブルーバックス) です。
最後に、佐藤成美『「おいしさ」の科学』(講談社ブルーバックス) です。
2018年03月31日 (土) 18:41:00
今週の読書は印象的な経済書をはじめとして計6冊!
まず、ケイト・ラワース『ドーナツ経済学が世界を救う』(河出書房新社) です。著者は英国の研究者であり、長らくオクスファムのエコノミストを務めていました。英語の原題は Doughnut Economics であり、邦訳タイトルはそのまんまです。2017年の出版です。極めて大胆に表現すれば、新しい経済学の構築を模索しています。先週の読書感想文で取り上げたユヌス教授のソーシャル・キャピタルに基づく経済学といい勝負で、基本的には、同じように貧困や不平等、あるいは、環境問題や途上国の経済開発などを視野に入れた新しい経済学だと言えます。それを視覚的にビジュアルに表現したのがドーナツであり、本書冒頭の p.18 に示されています。成長に指数関数を当てはめるのではなく、S字型のロジスティック曲線を適用し、ロストウ的な離陸をした経済は着陸もする、という考え方です。そして、現在の先進国はその着陸の準備段階という位置づけです。同時に、平均的な統計量としての成長ばかりではなく、分配にも目を配る必要があるというのが第7章でも主張されています。また、本書ではこういった視点を含めて7点の転換を主張しており、例えば、第3章では行動経済学や実験経済学、あるいは、ゲーム理論の成果も含めて、合理的な経済人から社会適用人への視点を変更した経済学を志向していたりします。とても素晴らしい視点の新しい経済学を目指しています。先週取り上げたユヌス教授の本とともに、私は2週連続で大きな感銘を受けました。
次に、木内登英『金融政策の全論点』(東洋経済) です。著者は野村総研のエコノミストであり、本書の基となる公的活動としては、2012年から17年にかけて5年間、日銀政策委員を務めています。とても非凡なエコノミストなんですが、民主党内閣期に就任したものですから、その後の黒田総裁の下の日銀執行部の議案には反対する場面もあり、少し違った見方を示したような気がします。しかし、少なくとも私が認識している限り、公式のボード・ミーティングでは2%のインフレ目標に反対したのではなく、ごく初期の2年間での達成とか、その後の期限を切った目標達成に反対したのであって、いわゆる「拙速批判」ではあっても、2%のインフレ目標に反対したわけではないと受け止めています。本書は3部構成でタイトル通りの内容なんですが、いわゆる非伝統的金融政策、政府からの独立を含む日銀の役割、そして、ごく手短にフィンテックを取り上げています。私が強く疑問に感じたのは、日銀と金融政策をかなり国民生活や日本経済から遊離した観点を強調していることです。政府や内閣からの中央銀行の独立というのはインフレ抑制の観点から先進国では当然と考えるとしても、中央銀行や金融政策がその時々の国民生活や経済状況から無関係に運営されるはずはありません。しかし、本書の著者は、どうもその観点に近く、例えば、本書の著者に限りませんが、日銀財務についてバランスシートを膨らませ過ぎると債務超過に陥る、との指摘がなされる場合があるところ、こういった見方は国民生活や日本経済の実態から遊離した見方との批判は免れません。日銀財務の健全性と国民生活のどちらが重要なのか、もう一度考えてみるべきではないでしょうか。こういった日銀中心史観も、白川総裁時代で終了したと私は考えていたんですが、まだまだ大きな船が舵を切るには時間がかかるようです。
次に、伊丹敬之『なぜ戦略の落とし穴にはまるのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は著名な経営学者であり、一橋大学を退職してから国際大学学長を務めています。本書では、「戦略」というあいまいな表現ながら、何らかの企業行動を実行に移す際の落とし穴について論じています。第Ⅰ部が戦略を考え練り上げる際の思考プロセスの落とし穴、第Ⅱ部が戦略を実行する際の落とし穴、をそれぞれ論じています。具体的には、「ビジョンを描かず、現実ばかりを見る」、「不都合な真実を見ない」、「大きな真実が見えない」、「似て非なることを間違える」、「絞り込みが足りず、メリハリがない」、「事前の仕込みが足りない」などなど、落とし穴にはまるパターンとそれをどのように回避したり、リカバリしたりするかを解き明かそうと試みています。経営学の読み物としてはめずらしく、成功事例と失敗事例を割合とバランスよく取り上げています。でも、相変わらず、私の経営学不信の源のひとつなんですが、結果論で議論しているような気がします。基本はケーススタディですから、現実の事例をいかに解釈するかで勝負しているんですが、成功した例から成功の要因を引き出し、失敗事例からその要因を引き出そうとする限り、その逆はあり得ず、どこまで科学的な事例研究になっているかは私には計り知れません。すなわち、バックワードな研究になっていると考えざるを得ず、成功事例と同じ準備をしたところで、戦略が成功するかどうかは保証の限りではないような気がしなくもありません。
次に、エミリー・ボイト『絶滅危惧種ビジネス』(原書房) です。著者は、米国のジャーナリストであり、サイエンス・ライターでもあります。本書の英語の原題は The Dragon behind the Glass であり、2016年の出版です。本書で著者はアロワナにまつわるビジネスを追跡するとともに、ハイコ・ブレハなる魚類を専門として前人未到の冒険をしている怪人物とともに、実際に特殊な野生のアロワナを求めて冒険に加わっています。その原資はピューリッツァー研修旅行奨学金だそうです。英語の原書のタイトルは、中国でアロワナを「龍魚」と称するところから由来しています。そして、邦訳本の表紙は、原書を踏襲して赤いアロワナをあしらったデザインとなっていますが、本書では「スーパーレッド」と呼ばれています。また、邦訳書の表紙では頭部が欠けていますが、本書を紹介しているNational Geographics のサイトでは、この真っ赤なアロワナの画像を見ることが出来ます。本書では、ワシントン条約で取引を禁止ないし制限された絶滅危惧種に指定されると、闇市場での取引価格が上昇し、むしろ、絶滅に至る可能性が高い、ないし、早まる、という仮説が提示されています。要するに、絶滅危惧種に指定されると希少性が広く認識されるため、価格が上昇するというメカニズムが発動する可能性は、確かにエコノミストでも否定しないだろうという気はします。そして、絶滅危惧種として指定されると、自然系に存在して、いわゆる野生の種は絶滅に向かう一方で、養殖の種が量産されて、世の中にはいっぱい出回る、と本書の著者は主張しています。そして、養殖の魚類と自然系の野生の魚類は、まったく違う生き物と認識すべきとも主張しています。すなわち、ダックスフントをツンドラに放り出すようなものであると表現しています。そして、本書では絶滅危惧種の魚を巡って犯罪行為が横行しているプロローグから始まって、本書の最終章のいくつかでは、冒険家とともに著者自身がアジアのアロワナを追っています。すなわち、ボルネオでスーパーレッドのアロワナを、政治体制も極めて閉鎖的なミャンマーでバティックアロワナをもとめ、ともに失敗した後、ブラジルのアマゾン川源流でシルバーアロワナを捕獲しています。そのあたりはサスペンス小説顔負けだったりします。
次に、磯田道史『日本史の内幕』(中公新書) です。著者はメディアなどで人気の歴史研究者であり、今年のNHKの大河ドラマ「西郷どん」の時代考証を担当しているらしいです。書物としては、私は映画化もされた『武士の家計簿』を読んだ記憶があります。また、別の著者ながら、中公新書では『応仁の乱』のヒットを飛ばすなど、日本史の類書が話題となっていて、私の大学時代の専攻は基本的に西欧経済史なんですが、まあ、歴史は好きですので読んでみました。サブタイトルは『戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』であり、著者が読み解いた古文書を手がかりに、主として、戦国時代に始まって織豊政権期から江戸幕府期、さらに、幕末期にかけての歴史のエピソードが60話以上収録されています。基本的に文学でいえば短編集であり、繰り返しになりますが、著者が読み込んだ古文書から日本史の裏側、というか、決して高校の教科書なんぞでは取り上げないようなトピックを選んで、なかなか興味深く仕立てあげています。
最後に、小山慶太『<どんでん返し>の科学史』(中公新書) です。著者は早大出身の物理学系の研究者であり、本書のサブタイトル通りに、「蘇る錬金術、天動説、自然発生説」に加えて、不可秤量物質やエーテルなど、近代科学では一度否定されながら、何らかの意味で別の視点から復活した科学について取り上げています。一例として、本書の冒頭で取り上げられている錬金術については、近代科学の基礎を提供したといわれるほどの流行振りだったそうですが、まあ、「賢者の石」が空想的である限りにおいて、少なくとも化学的に混ぜたり熱したりという範囲では金は作り出せないことは科学的に明らかにされた一方で、原子レベルで電子と陽子と中性子を自由に操作できるのであれば金の元素は作り出せる可能性はあるわけで、ただ、市場価格と照らし合わせてペイしない、ということなんだろうと、科学のシロートである私なんぞは理解しています。別のトピックとしては、空間がエーテルで埋め尽くされている、という見方も、ダーク・エネルギーやダーク・マターに置き換えれば、決して的外れな主張ではなかったのかもしれません。アマゾンのレビューがとても高いのでご参考まで。
2018年03月24日 (土) 18:42:00
今週の読書はいろいろ読んで計8冊!
まず、ムハマド・ユヌス『3つのゼロの世界』(早川書房) です。著者はバングラデシュの経済学者・実業家であり、グラミン銀行の創業者、また、グラミン銀行の業務であるマイクロクレジットの創始者として知られ、その功績により2006年にノーベル平和賞を受賞しています。英語の原題は A World of Three Zeros であり、邦訳タイトルはそのままで、2017年の出版です。上の表紙画像に見える通り、3つのゼロとは貧困ゼロ、失業ゼロ、CO2排出ゼロを示しています。そして、著者の従来からの主張の通り、ソーシャル・ビジネスの促進、雇われるばかりではなく自ら事業を立ち上げる起業家精神の発揚、そして、マイクロクレジットをはじめとする金融システムの再構築の3つのポイントからこの目標を目指すべきとしています。定義はあいまいながら、著者は資本主義はもう機能しなくなり始めているという認識です。経済学的には分配と配分は大きく違うと区別するんですが、資源配分に市場システムを用いるというのは社会主義の実験からしても妥当な結論と考えられる一方で、著者の指摘の通り、所得分配に資本主義的なシステムを適用するのは、もはや理由がないというべきです。そして、ここは私の理解と異なりますが、著者はやや敗北主義的に現在の先進国の政府では事実上リッチ層が支配的な役割を果たしており、政府による再分配機能は期待すべきではないと結論しています。「見えざる手は大金持ちをえこ贔屓する」ということです。ただ、政府に勤務していることもあって、私はまだ期待できる部分はたくさん残されていると考えています。そして、雇用されることではなく、自ら起業することによる所得の増加については、資本形成がかなりの程度に進んでしまった先進国ではそれほど一般的ではなく、途上国のごく一部の国にしか当てはまらない可能性があります。特に、私の専門分野である開発経済学においては、途上国経済における二重構造の解消こそが経済発展や成長の原動力となる可能性を明らかにしているんですが、マイクロクレジットによる小規模な企業では二重構造を固定化しかねず、農漁村などの生存部門から製造業や近代的な商業などの資本家部門への労働力のシフトがないならば、日本の1950~60年代の高度成長による形でのビッグ・プッシュが発生せず、途上国から抜け出せない可能性もありますし、いわゆる中所得の罠に陥る可能性も高くなるような気がします。ただ、マイクロクレジットとは関係なく、本書で指摘している論点のひとつであるソーシャル・ビジネス、すなわち、利己利益に基づく強欲の資本主義ではなく、隣人などへの思いやりの心に基づく非営利活動が経済の主体となれば、人類は資本主義の次の段階に進めるかもしれません。そして、本書が指摘するように、貧困と失業を最大限削減し、地球環境の保護に役立つことになるかもしれません。
次に、北都光『英語の経済指標・情報の読み方』(アルク) です。著者はジャーナリストで、金融市場の情報に詳しいようです。出版社は英辞郎で有名なところです。ということで、本書では投資のプロがチェックしている海外の経済指標・経済情報の中で、いくつか金融市場に与える影響が特に大きいものをピックアップして、着目ポイント、読み解き方などをわかりやすく解説しています。基本的に、データの解説なんですが、中央銀行の金融政策決定会合の後の総裁の発言なども取り上げています。具体的には、第2章の基礎編にて、米国雇用統計、米国ISM製造業景況指数、CMEグループFedウオッチ、ボラティリティー・インデックス(VIX)、経済政策不確実性指数、米国商品先物取引委員会(CFTC)建玉明細報告、のほかに、一般的なデータのありかとして、米国エネルギー情報局(EIA)統計、国際通貨基金(IMF)の各種データ、経済協力開発機構(OECD)景気先行指数(CLI)、欧州連合(EU)統計局のデータを取り上げています。エネルギー関係のデータなどについては私も詳しくなく、なかなかの充実ぶりだと受け止めています。さらに、第3章の応用編では投資に役立つ英語情報の活用法として、要人発言を含めて、データだけでない英語情報の活用を解説しています。最終章では英語の関連する単語リストを収録しています。誠にお恥ずかしいお話しながら、commercialが実需であるとは、私は知りませんでした。これは英辞郎を見ても出て来ません。なお、私が数年前に大学教員として出向していた際にも、実際の経済指標に触れるために2年生対象の小規模授業、基礎ゼミといった記憶がありますが、その小規模授業にて日本の経済指標を関連嘲笑や日銀などのサイトからダウンロードしてエクセルでグラフを書くという授業を実施していました。日本ですから、GDP統計や鉱工業生産指数や失業率などの雇用統計、貿易統計に消費者物価にソフトデータの代表として日銀短観などが対象です。20人ほどの授業だったんですが、理由は不明ながらデータのダウンロードにものすごく時間がかかるケースがあって往生した記憶があります。
次に、中村吉明『AIが変えるクルマの未来』(NTT出版) です。著者は工学関係専門の経済産業省出身ながら、現在は専修大学経済学部の研究者をしています。本書のテーマであるAIによる自動運転で自動車産業が、あるいは、ひいては、日本の産業構造がどのように変化するかについて論じた本はかなり出ているんですtが、本書の特徴は、自動運転車で人や物を運ぶ方法のひとつとして、乗り物をシェアするUberなどのシェアリング・エコノミーを視野に入れている点です。もっとも、だからといって、特に何がどうだというわけではありません。今週、米国でUberの自動運転中に死亡事故があったと報じられていましたが、自動車の運行については、私もそう遠くない将来に自動運転が実用化されることはほぼほぼ間違いないと考えていて、ただ、自分で自動車を運転したい、まあ、スポーツ運転のようなことが好きな向きにはどうすればいいのだろうかと思わないでもなかったんですが、本書の著者は乗馬の現状についてと同じ理解をしており、日本の現時点での公道で乗馬をしていないのと同じ理由で、自動運転時代になれば自動車の運転をするスポーツ運転は行動ではなく、まあ、現時点でいうところの乗馬場のようなところでやるようになる、と指摘しており、なるほどと思ってしまいました。また、将来の時点で自動運転される自動車は、現時点での自家用車のような使い方をされるのではなく、鉄道化すると本書では主張していますが、まあ、バスなんでしょうね。決まったところを回るかどうかはともかく、外国では乗り合いタクシーはめずらしくないので、私にはそれなりの経験があったりします。また、政府の役割として、規制緩和はいうまでもなく、妙に重複投資を避けるような調整努力はするべきではなく、むしろ、重複投資を恐れずにバンバン開発研究を各社で進めるべし、というのも、かつての通産官僚や経産官僚にはない視点だという気がしました。最後に、特に目新しい点がてんこ盛りとも思いませんので、自動運転の論考は読み飽きたという向きにはパスするのも一案かと思います。
次に、マイケル・ファベイ『米中海戦はもう始まっている』(文藝春秋) です。著者は長らく米軍や米国国防総省を取材してきたベテランのジャーナリストであり、特に上の表紙画像に示された中国軍との接近事件などを経験した米軍関係者らにインタビューを基に本書を構成しています。英語の原題は Crashback であり、「全力後進」を意味する海洋船舶用語から取っており、米国のミサイル巡洋艦カウペンスが中国の空母・遼寧に接近した際に、間を割って入った中国海軍の軍艦との衝突を避けるためにとった回避行動を指しています。原書は2017年の出版です。ということで、上の表紙画像にも見られるように、中国海軍の戦力の拡充に対し、米国のオバマ政権期の対中国融和策について批判的な視点から本書は書かれています。本書冒頭では、かつての米ソの冷戦に対して、現在の米中は「温かい戦争」と呼び、米ソ間の冷戦よりも「熱い戦争」に近い、との認識を示しているかのようです。ただし、オバマ政権期であっても米国海軍の中にハリス大将のような対中強硬派もいましたし、それほどコトは単純ではないような気がします。中国が経済力をはじめとする総合的な国力の伸長を背景に、南シナ海などの島しょ部の占有占領を開始し、中には小規模ながら東南アジア諸国軍隊と武力衝突を生じた例もありますし、その結果、中国軍の基地が建設されたものもあります。もちろん、米国政府や米軍も黙って見ていたわけでもなく、カウペンスの作戦行動をはじめとして、中国海軍へのけん制を超えるような作戦行動を取っているようです。ただ、私は専門外なのでよく判らないながら、日米両国は中国に対して国際法を遵守して武力でなく対話による紛争解決など、自由と民主主義に基づく先進国では当たり前の常識的な対応を期待しているわけですが、平気で虚偽を申し立てて、あくまで自国の勝手な行動をダブル・スタンダードで世界に認めさせようとする中国の軍事力が巨大なものとなるのは恐怖としか言いようがありません。加えて、戦力的には現時点での伸び率を単純に将来に向かって延ばすと、陸軍では言うに及ばず、海軍であっても米軍の戦力を中国が超える可能性があります。そして、この観点、すなわち、覇権国の交代に際してのツキディデスの罠の観点がスッポリと本書では抜け落ちているような気がします。単純に狭い視野でハードの軍事力とソフトの政権の姿勢だけを米中2国で並べているだけでは見落とす可能性があって怖い気がします。加えて、日本の自衛隊にはホンのチョッピリにしても言及があるんですが、北朝鮮はほとんど無視されており、まあ、海軍力という観点では仕方ないのかもしれませんが、日本や韓国を含めた周辺国への影響についてはとても軽視されているような気がします。
次に、森正人『「親米」日本の誕生』(角川選書) です。著者は地理学研究者であり、同じ角川選書から出ている『戦争と広告』は私も読んだ記憶があります。本書では、終戦とともにいわゆる「鬼畜米英」から、「マッカーサー万歳」に大きく転換した日本の米国観について論じているものだと期待して読み始めたですが、やや期待外れ、というか、ほとんど戦後日本のサブカルチャーの解説、特に、いかに米国のサブカルチャーを受け入れて来たか、の歴史的な論考に終わっています。ですから、対米従属的な視点もまったくなく、講座派的な二段階革命論とも無関係です。要は、終戦時に圧倒的な物量、経済力も含めた米国の戦争遂行力の前に、まったく無力だった我が国の精神論を放擲して、その物質的な豊かさを国民が求めた、という歴史的事実が重要であり、進駐軍兵士から子どもたちがもらうチョコレートやガムなどの物質的な豊かさに加えて、社会のシステムとして自由と民主主義や人権尊重などを基礎とした日本社会の再構築が行われた過程を、それなりに跡付けています。ただし、繰り返しになりますが、音楽はともかく、美術や文学やといったハイカルチャーではなく、広く消費文化と呼ばれる視点です。すなわち、洋装の普及に象徴されるようなファッション、高度成長期に三種の神器とか、そののちに3Cと称された耐久消費財の購入と利用、そして、特に家事家電の普及や住宅の変化、米国化とまではいわないとしても、旧来の日本的な家屋からの変化による女性の家庭からの解放、などに焦点が当てられています。ただ、私の理解がはかどらなかったのは、米国化や米国文化の受容の裏側に、著者が日本人のひそかな反発、すなわち、米国に対する愛憎半ばするような複雑な感情を見出している点です。それは戦争に負けたから、というよりは、米国的なものと日本的なものとを対比させ、例えば、自動車大国だった米国を超えるような自動車を作り出す日本の原動力のように評価しているのは、私にはまったく理解できませんでした。そこに、戦前的な精神性を見出すのは本書の趣旨として矛盾しているような気がするのは私だけでしょうか。
次に、佐藤彰宣『スポーツ雑誌のメディア史』(勉誠出版) です。著者は立命館大学の社会学の研究者です。そして、本書は著者の博士論文であり、ベースボール・マガジン社とその社長であった池田恒雄に焦点を当てて、その教養主義を戦後の雑誌の歴史からひも解いています。ほぼほぼ学術書と考えるべきです。なお、雑誌としての『ベースボール・マガジン』は1946年の創刊であり、まさに終戦直後の発行といえます。その前段階として、野球という競技・スポーツが、戦時中においては米国発祥の敵性スポーツとして極めて冷遇された反動で、戦後の米軍進駐の下で、価値観が大転換して、米国の自由と民主主義を象徴するスポーツとして脚光を浴びた歴史的な背景があります。他方、メディアとしての雑誌媒体は、新聞がその代表となる日刊紙に比べて発行頻度は低く、週刊誌か月刊誌になるわけですが、戦後、ラジオに次いでテレビが普及し、リアルタイムのメディアに事実としての速報性にはかなわないわけですから、キチンとした取材に基づく解説記事などの付加価値で勝負せざるを得ないわけで、その取材のあり方にまで本書では目が届いておらず、単に誌面だけを見た後付けの解釈となっているきらいは否めません。でも、スポーツを勝ち負けに還元した競技として捉えるのではなく、その精神性などは戦時中と同じ地平にたった解釈ではなかろうかと私は考えるんですが、著者はよりポジティブに教養主義の観点から雑誌文化を位置づけています。スポーツは、究極のところ、いわゆるサブカルチャーであり、美術・文学・音楽といったハイカルチャーではないと考えるべきですが、競技である限り、スター選手の存在は無視できず、相撲でいえば大鵬、野球でいえば長島、らがそれぞれ本書では取り上げられて注目されていますが、他方で、マイナーなスポーツとして位置づけられているサッカーでは釜本の存在が本書では無視されています。少し疑問に感じます。でも、ひとつの戦後史として野球雑誌に着目した視点は秀逸であり、サッカーなんぞよりは断然野球に関心高い私のような古きパターンのスポーツファンには見逃せない論考ではないかと思います。
最後に、アンディ・ウィアー『アルテミス』上下(ハヤカワ文庫) です。著者は新々のSF作家であり、本書は何とまだ第2作です。そして、第1作は『火星の人』Martian です。といっても判りにくいんですが、数年前に映画化され、アカデミー賞で7部門にノミネートされた「オデッセイ」の原作であり、本書もすでに20世紀フォックスが映画化の権利を取得しています。実は、私はそれなりの読書家であり、原作を読んだ後に映画を見る、という順番のパターンが圧倒的に多いんですが、原作『火星の人』と映画「オデッセイ」については逆になりました。私の記憶が正しければ、ロードショーの映画館で見たのではなく、「オデッセイ」は飛行機の機内で見たんですが、とても面白かったので文庫本で読みました。そして、最近、本屋さんで見かけたんですが、『火星の人』の文庫本の表紙は映画主演のマット・デイモンの宇宙服を着た顔のアップに差し替えられています。大昔、私が中学生だか高校生だったころ、『グレート・ギャッツビー』が映画化により映画のタイトルである『華麗なるギャッツビー』に差し替えられ、主演のロバート・レッドフォードとミア・ファローの写真の表紙に差し替えられたのを思い出してしまいました。それはともかく、本書の舞台はケニアが開発した月面コミュニティです。その名をアルテミスといい、それが本書のタイトルになっています。直径500メートルのスペースに建造された5つのドームに2000人の住民が生活しており、主として観光業で収入を得ています。もちろん、本書冒頭にありますが、超リッチな人が移住したりもしていて、例えば、足が不自由な人が重力が地球の⅙の月面で、地球より自由な行動を取れることをメリットに感じる、などの場合もあるようです。ただ、この月面都市でもリッチな観光客やさらに超リッチな住民だけでなく、そういった人々をお世話する労働者階級は必要なわけで、主人公は合法・非合法の品物を運ぶポーターとして暮らす20代半ばの女性です。本人称するところのケチな犯罪者まがいの女性なんですが、月面で観光以外に活動している数少ない大企業のひとつであるアルミ精錬会社の破壊工作を行うことを請け負います。でも、月面の資源を基にアルミと副産物である酸素とガラス原料のケイ素を産するプラントの爆破を実行するんですが、実は、この破壊工作にはウラがあって、前作の『火星の人』と同じように、月面都市や天下国家を巻き込んだ大きなお話し、というか、陰謀論に展開して行きます。相変わらず、というか、前作の『火星の人』と同じように、少なくとも私のようなシロートには大いなる説得力ある綿密な化学的バックグラウンドが示され、キャラの設定も自然で共感でき、クライム・サスペンスとしてのスピード感も十分です。映画化されたら、私は見に行きそうな気がします。
2018年03月17日 (土) 11:49:00
今週の読書は小説まで含めて5冊にペースダウン!
まず、田中洋『ブランド戦略論』(有斐閣) です。著者は中央大学ビジネス・スクールの研究者なんですが、それよりも実務面で電通マーケティング・ディレクターをしていたことで有名かもしれません。なお、同じ出版社から数年前に似たタイトルで『ブランド戦略全書』という本が出版されており、コチラでは編者となっています。ということで、サバティカルの期間を利用して本書を取りまとめたようで、全体は理論編、戦略編、実務編、事例編の4部構成となっていますが、私がついて行けたのは第Ⅰ部だけでした。後はせいぜい第Ⅳ部の個別の会社のサクセス・ストーリーを面白く読んだだけです。本書の冒頭に、スティグリッツ教授のテキストから引用があり、「経済の基本モデルに従えば、ブランド名は存在してはならない」とあります。市場における完全情報が前提されている合理性あふれる伝統的な経済学ではブランドなんてものは存在する余地がありません。でも、実際にあるわけですから、経済主体の合理性が限定的であり、市場の情報が完全ではない、ということをインプリシットに含意しているんだろうと私は理解しています。ですから、昨年のノーベル経済学賞は行動経済学・実験経済学のセイラー教授に授与されましたが、経済学者がエラそうに限定合理性を前提に行動経済学や実験経済学を論じるよりも、実務的なマーケターの方が実際の価格の値付けや量的な需給を表現する売れ行きをよく知っているような気がします。そして、ブランドとは市場の情報に関していえば、不完全な情報を補完するものであり、限定合理性に関していえば、需要曲線を上方シフトさせる要因です。重ねて強調しておきますが、経済学者が行動経済学や実験経済学を新しい試みとして有り難がっている一方で、実務的なマーケターはより実践的にブランドなどを活用して売上を伸ばして利益を上げているんだろうと思います。その点を考慮すると、経済学で行動経済学や実験経済学を限定合理性の下で理論的に精緻化するのは、それほど大きな意味があるわけではないのかもしれません。私はよく若い人に例として持ち出すんですが、内燃機関の理論を知らなくても、最低限、ブレーキとアクセルとハンドルの働きを理解していれば自動車の運転はできなくもありません。工学研究者とドライバーは違うのだと理解すべきです。
次に、ニック・ボストロム『スーパーインテリジェンス』(日本経済新聞出版社) です。著者はスウェーデン出身の哲学者であり、現在は英国オックスフォード大学の教授を務めています。私の限られた知識の中では、人工知能(AI)脅威論をもっとも強烈に提唱している最重要人物のひとりです。英語の原題は SUPERINTELLIGENCE であり、2014年の出版です。タイトルも、そして、表紙デザインも、邦訳書は原書とほぼ同じです。ということで、本書はAIをコントロールできるか、そして、その上で、人類はAIの脅威から逃れること、すなわち、絶滅を回避することができるかどうかを論じています。最終的には、観点相対的な視点で考えると、AIに職を奪われるどころか、今後100年で人類は絶滅する、という結論に達しています(p.519)。原注、参考文献、索引まで含めて700ページを超える本書の結論を手短に書けば、そういうことになります。私は本書の著者ほどAIの進歩と人類の絶滅に関しては悲観的ではないんですが、別の面からさらに悲観的な見方をしています。すなわち、本書の著者は人類vsAIという意味で、観点相対的な視点から議論を進めているんですが、実は、人類の敵は人類なのではないかと私は考えています。すなわち、AIが人類には向かうのではなく、というか、その前に、一部のグループの人類がAIを悪用して、別のグループの人類を抹殺に取りかかることがリスクであって、それはAIの発達段階にもよりますが、かなりの程度に成功する可能性が高いのだろうと私は考えています。おそらく、悪意を持った攻撃サイドのグループの人類によって操られたAIと、防御サイドのAIが攻防を繰り返しつつ、同等の技術ないし知識水準に達するんではないかと思いますが、ヒトラーの電撃作戦のように奇襲を用いれば攻撃サイドの方が有利になる可能性が高いんではないかと思います。本書の著者が考えるように、AIが一致団結して人類に攻撃を加える可能性よりも、その前の段階で、すなわち、AIが人類に対して悪意も善意も持っていない段階で、悪意ありげな攻撃サイドの人類のグループにAIが悪用されて、別のグループの人類が絶滅、とまで行かないとしても、大きなダメージを受ける可能性の方が大きいし、より早期に実現されてしまうように理解しています。そして、最悪の場合は現在までの文明を失う可能性がある、と考えています。一例としては、北朝鮮ではないにしても、サイバー攻撃を考えれば明らかです。もっと身近なレベルではコンピュータ・ウィルスとワクチン・プログラムもそうかも知れません。サイバー攻撃に関しては、私の認識する範囲では攻撃側がかなりアドバンテージがありそうな気がします。ただ、コンピュータ・ウィルスについては、まだ防御サイドのほうが圧倒的なリソースを持っていますから、防御サイドに有利に展開しているのが現状です。いずれにせよ、本書でも同じような問いかけがなされていますが、2007年にノーベル経済学賞を授賞されたハーヴィッツ教授の有名な論文に "But Who Will Guard the Guardians?" というのがあります。フクロウに守ってもらおうとしたスズメの例は示唆的ですが、たとえフクロウがスズメを守ってくれたとしても、そのフクロウは誰が守るのか、という問題は永遠に残ります。最後に、繰り返しになりますが、本書の著者の結論は2点あり、第1に、AIは極めて大きな人類に対する脅威となり、人類はおそらくAIにより絶滅する、第2に、それでもAIの進歩を止めることは出来ない、ということであり、私はおそらくどちらも合意します。ただし、第1の結論に達する前に人類感の争いが生じる可能性が高く、その場合、現在の文明が滅んで、あるいは石器時代くらいの文明レベルの逆行する可能性があるんではないか、という気がします。ガンダムの世界のように、もう一度人類史のやり直し、になるのかもしれません。
次に、ジュールズ・ボイコフ『オリンピック秘史』(早川書房) です。著者は米国の政治学の研究者で大学教授なんですが、元プロサッカー選手であり、米国代表メンバーとしてオリンピック出場経験もあるという異色の存在です。英語の原題は Power Games であり、リオデジャネイロ五輪開催の2016年の出版です。何かもう、近代オリンピックに対して、あらゆる角度から批判を加えたみたいな論考で、まあ、どんなに立派なイベントでも、文句の付け方はあるものですし、オリンピックくらい問題あるイベントなら、右からでも左からでも、上からでも下からでも、前からでも後ろからでも、何とでも批判のしようはあると思います。逆に、何とでも称賛のしようもあるような気がします。本書の著者は、商業化が進みプロの参加が促進される前の段階のオリンピックについては、性差別や原住民への差別、人種差別などを上げて、オリンピックの非民主主義的な側面を批判していますが、ベルリン五輪におけるナチスのオリンピック政治利用に関しては、むしろ記録映画について容認的な態度をとっているとすら見え、やや私のような単細胞な見方をする人間は戸惑ってしまいます。最近、1980年代以降くらいの商業化が進み、プロフェッショナルなアスリートにも門戸を開いたオリンピックについては、施設のムダや華美な設備などに対する批判があり得ます。しかしながら、本書でも認めている通り、オリンピックとは所詮はエリートのためのイベントであり、スポンサーにしても大企業しか貢献し得ない大規模な催しとなっているわけで、それを分割して複数国で開催したりしても、見る方も楽しくないだろうし、参加するアスリートにもインセンティブが大きく低下しそうな気がします。要するに、それほど意味のないイベントにするのが本書の著者の目論見なのかもしれませんが、私のような一般ピープルのこれ代表のような人間にまでオリンピックが開かれている必要はないわけで、何らかのオリンピック改革がなされたところで、それなりの閉鎖性や選別された選良意識のようなものは残る可能性が高いんではないでしょうか。いずれにせよ、本を出版したり、テレビで自分の意見を述べたり、ましてやオリンピックに出場したりということになれば、一般ピープルの域を大きく超えるわけで、いくら批判したところで、特権階級のイベントであることは認めざるを得ないのではないでしょうか。
次に、橋本素子『中世の喫茶文化』(吉川弘文館) です。著者は京都府茶業会議所勤務の研究者です。本書はタイトル通り、平安末期ないし鎌倉期から織豊期までの期間の喫茶文化に着目しています。著者に従えば、この期間で喫茶文化は寺院から出て、茶の湯の文化にまで達します。実は、私は京都は伏見の産院で生まれたんですが、たぶん、物心つく前の2歳くらいの時に宇治に移り住み、以来20年余り、大学を出るまで両親とともに宇治に住んでいましたし、親戚筋にはお茶屋さんもいます。私の代になると血縁も薄くなるんですが、私の父親の従兄弟が伝統ある宇治茶の茶園を経営していました。その一代前はというと、私から見た父方のばあさんの姉がその茶園に嫁いでいるわけです。私の父の従兄弟に当たる茶園経営者は当然ながら地域の名士であり、私の通う小学校のPTA会長さんでした。その名門茶園では代々京都大学農学部を出た経営者なんですが、私と同じ代になると、京大農学部出身の兄の方は伏見の酒造会社の研究者になってしまい、弟の方の一橋大学OBが後を継いだと記憶しています。いずれにせよ、私が今年還暦で同じ小学校に通っていたんですから、似たような年齢に達しているハズです。まあ、どうでもいいことです。本書とは関係薄い我が家の血縁について長々と書いてしまいましたが、要するに、私は平均的な日本人よりも喫茶文化に親しみがある、と言いたいわけです。私は宇治市立の小学校を卒業していますので、例えば、p.31に見える明恵の駒の蹄影伝説なんぞも知っていたりしますし、また、これも現地生まれの私には明らかな事実なんですが、宇治茶とは宇治で栽培されたお茶ではなく、もちろん、宇治で栽培されたお茶っ葉も含むのは当然ながら、おそらく、宇治から南の奈良との県境くらいにかけての地域で栽培されたお茶っ葉であって、宇治で製茶されたものの呼称だと考えるべきです。宇治は栽培後というよりは製茶業の地であるわけです。ただ、よく知られている通り、また、本書でも明らかにしている通り、中世初期の茶の産地でもっとも名高かったのは栂尾、特にその中心地の高山寺の寺域であり、宇治が茶生産の一番と目されるようになったのはせいぜいが室町期、15世紀以降くらいではないかと考えられます。いずれにせよ、私はきれいに整地された茶畑を周囲に見ながら小学校の子供時代を過ごしましたし、季節になれば母親は茶摘みのアルバイトに出たりもしていました。ですから、前世紀末から我が家が暮らしたインドネシアに行って、実に人工的に整備されたココヤシやゴムなんかのプランテーションを見て、京都南部の茶畑と同じ雰囲気を感じて、ある意味で、懐かしさを覚えたのも事実です。
最後に、牛島信『少数株主』(幻冬舎) です。著者は弁護士であり、コーポレート・ガバナンスやM&Aなどに詳しいようです。この作品では主人公が2人いて、高校の同級生だったりするんですが、バブル期に不動産で大儲けをした企業家と弁護士です。ともに70歳の少し前ですから、まあ、後者の弁護士は作者自身をモデルにしているのかもしれません。ということで、この作品は株式が未公開というか、非上場企業の株式を保有していながら、いわゆるオーナー経営者が過半数ないし⅔の株式を保有しているため、実質的に経営に関して何の権利も発揮できない少数株主をテーマとしています。ほぼほぼ同族会社であるために経営に加われずに、わずかな配当しか得られない株式を、多くの場合は相続によって保有してる少数株主なんですが、本書の主人公の1人である弁護士によれば、経営している同族者の1人と認定されれば、配当のディスカウント・キャッシュ・フローからではなく、会社の保有する資産額の比例配分で株価が算定され、場合によってはとんでもない相続税が課される場合がある、ということで、大日本除虫菊の判例などが引かれています。ただ、私のようなサラリーマンと違って、同族会社の経営者はいろんな場面で公私混同が許容されている場合も少なくなく、自動車は社有車で、専務の社長夫人の毛皮のコートも社員の制服で、ともに経費で落とし、自宅は何と社員寮で固定資産税も払わず、やりたい放題にやっている経営者像が本書では浮き彫りになっています。ただ、私なんぞの平均的なサラリーマンから見れば、たとえ少数株主であっても、生涯の長きに渡って得られる所得階層からすれば、かなりの富裕層であり、しかも、経営者の同族と見なされるほどの近親者であれば、本書で保有している少数株を「解凍」してもらって、その株を会社に買い取らせることにより、さらに億単位の収入を得ることに、「よかったね」と共感する読者は少なそうな気もします。そういう意味で、極めて限定的な読者層を対象に考えているのか、それとも、作者ないし編集者が何か勘違いをしているのか、私にはよく判りませんでした。
2018年03月11日 (日) 17:39:00
先週の読書は経済書や小説も含めてまたまた計9冊!
まず、ジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』(白水社) です。著者は米国ハーバード大学の労働経済学者であり、専門は移民の経済学です。本書は2015年にハーバード大学出版局から刊行されたテキスト Immigration Economics に続いて、一般向けに手ごろな分量でシンプルで率直な刊行物として2016年に出版された We Wanted Workers の邦訳です。前者のテキストは未訳ではないかと思います。なお、英語の原所のタイトルは、本書でも出て来る "We wanted workers, but we got poeple instead." すなわち、「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった。」というスイスの作家フリッシュの発言に由来しています。ということで、我が国でもそうですが、企業経営者が声高に人口減少に対抗する手段として移民の必要性を強調するのは、安価な労働者としてなんでしょうが、実は、社会保障の対象となったり、あるいは、本人だけではなく子弟が教育の対象となったりするという意味も含めて、実は、生身の人間がやって来るわけです。もちろん、生活や文化もいっしょですから、話は逸れますが、隣国に人口規模という意味で超大国が控えている日本においては、私は移民には反対しているわけです。数百万人単位で生身の人間が隣国の人口超大国から移住してくれば、「安価な労働者」の範疇を大きく超える日本社会へのインパクトになることはいうまでもありません。本書の書評に戻って、本書の著者は、米国における移民の経済効果を極めて率直かつドライに定量的に評価しています。すなわち、例えば高度技能を持った移民が現在の国民と補完的な役割を果たせれば、お互いにウィン-ウィンの関係を結べる可能性があるものの、移民と同じ、というか、代替的な技能を持つクラスの国民に対しては賃金引き下げ要因となり、その結果、5000億ドルの所得移転が労働者から企業にる、と結論し、「移民とは単なる富の再配分政策」と指摘しています。日本でも同じだろうと私は受け止めています。そして、ある意味で、あらゆる手段を駆使して移民が我々全員にとっていいことだとの証明を試みたコリアー教授を批判的に紹介しています。まあ、自由貿易もそうですが、すべての国民にプラスということはあり得ません。トータルでプラスなので、何らかの所得補償を実施すれば、という前提の下で自由貿易も国民のマクロの厚生にプラス、ということなんだろうと思いますし、移民も同じと考えるべきです。ただ、これらの計量的な結果をもってしても、12歳で母親とともにキューバから移民して来た著者は移民に対する暖かい眼差しを忘れません。欧米でポピュリズムが台頭し、排外的な思想の下で移民に対する見方がネガティブに傾く中で、しっかりと基本を押さえている経済書・教養書だと思います。
次に、木内登英『異次元緩和の真実』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研・野村證券のエコノミストであり、2012年から5年間日銀の政策委員会の審議委員を務めています。そして、少なくとも任期後半、特にマイナス金利の実施以降は日銀執行部の議案に反対を続けて来たような印象があります。まあ、私のような部外者が見ていて、民主党内閣で任命されたので、アベノミクスに経済政策が大きくレジーム・チェンジしても、最後まで任命してくれた民主党に義理を感じ続けたんだろうか、という気もしなくもなかったんですが、本書を読んで認識の間違いに気づきました。というのは、以前から何となく雰囲気で理解していたつもりなんですが、やはり、マイナス金利については金融機関、特に銀行出身者にはとても過酷な政策に見えるようです。要するに、金融機関の収益を収奪しているような見方が主流のようです。しかも、本書でも指摘しているように、そのころの日銀執行部、というか、黒田総裁は金融政策当局と市場の対話については重視せず、むしろ、サプライズの方が政策効果が上がると見ていたフシもあり、その唐突な登場とともにマイナス金利がいかに金融機関の収益を圧迫するがゆえに忌み嫌われているのか、を改めて強く実感しました。加えて、イールドカーブ・コントロール(YCC)も同じように長期の利ザヤを稼ぐ機会を奪うことから金融機関に嫌われており、本書の著者は強く反対しています。その昔の旧法下では、総裁などの執行部のほかに、都銀・地銀・商工業・農業代表、などと出身のグループが明らかでしたが、現在もほのかに透けて見えるものの、出身母体の利益を代表するポジション・トークではなく、もう少し国民経済の観点からの議論をお願いしたいものだという気もします。加えて、日銀財務の健全性を相変わらず強調し、言うに事欠いて、日銀が物価の安定という本来のマンデーとよりも日銀財務の方のプライオリティが高いと見えかねない行動を取れば、円通貨に対する信認が失墜する可能性を示唆し、まさに、そのように日銀に行動させようと考えている著者の見方は何だろうかと不審を持ってしまいます。さすがに、ハイパー・インフレの可能性こそ言及されていませんが、旧来の日銀理論も随所にちりばめられており、かなり批判的な読書が必要とされそうです。
次に、肖敏捷『中国 新たな経済大革命』(日本経済新聞出版社) です。著者はSMBC日興証券のエコノミストであり、中国経済を分析するリポートを配信しています。昨年の党大会にて「核心」となり、着々と権力の一極集中を測り、本書によれば毛沢東以来の権力者と見なされつつある習近平主席について、本書の著者の見立てによれば、反腐敗などによる権力闘争はほぼ終了し、経済の軸足を移行しつつある、と分析されています。しかも、それまでの成長一辺倒、というか、雇用の拡大による量的な民政安定から、分配を通じた安定化の方向に転換を図ろうとしている、ということのようです。私は中国経済の専門家ではありませんし、それほど中国経済をフォローしているわけでないんですが、本書の著者も指摘している通り、中国においては政策運営は、経済中心ではなくあくまで政治が主導し、共産党がすべての指導原理となっている、と私は認識しており、従って、私のようなエコノミストの目から見て、経済合理性に欠ける政策運営も辞さない政治的な圧力というものがあるんだろうと想像して来ましたが、他方で、経済的には別の動きがあるのかもしれません。それにしても、中国に限らず、アジアの多くの国は雁行形態論ではないんですが、やっぱり、日本の後を着実に追っている気がします。例えば、現在の我が国の若者などがインバウンドの中国人旅行者のマナーの悪さを指摘したりしますが、実は、1985年のプラザ合意後に大きく円高が進んで円通貨の購買力が高まって海外で買い物に走った日本人も30年ほど前には同じような視点で欧米先進国の国民から見られていたんではないか、という気もします。加えて、日本で高度成長が終了した1970年代前半と同じような経済状況が現在の中国にもありそうな気がします。その意味で、何と、本書ではまったく出世しない私が、現在は日銀審議委員まで出世されたエコノミストと共著で書いた学術論文「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」を大きくフィーチャーして引用(pp.86-87)していただいているのは誠に有り難い限りです。昨年、私自身が所属する国際開発学会で学会発表した最新の学術論文 "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" ももっと売れて欲しいと願っています。
次に、佐藤雅彦・菅俊一・高橋秀明『行動経済学まんが ヘンテコノミクス』(マガジンハウス) です。タイトル通り、昨年のノーベル経済学賞を授賞されたセイラー教授の授賞理由である話題の行動経済学をテーマにし、まんがで伝統的な経済学の前提するような合理性をもたない「ヘンテコ」な人間の経済活動を解説したベストセラーです。まんがは23話に上り、なかなかよく出来ている気がします。そして、まんがを終えて最後のパートに出て来るグラフはとても有名なツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論のS字形のグラフです。我が家がジャカルタにいた2002年にカーネマン教授がノーベル経済学賞を授賞された功績の大きな部分をなしている理論です。フレーミング効果アンカリング効果、おとり効果など、おそらくは実際のマーケティングに大いに活用されている行動経済学の原理を分かりやすく解説していますが、ホントに合理的な経済活動を実践している人には不思議に思えるかもしれません。例えば、私の所属する研究所では忘年会にビンゴをするんですが、私は毎年のようにビンゴのシートを始まる前に交換を申し入れます。すると、ビンゴが始まる前ですから、各シートはすべて確率的に無差別のハズなんですが、一度配布されて自分のものとなったシートを交換に応じてくれる人はとても少数派です。たぶん、80%くらいの圧倒的多数はビンゴのシートの好感には応じません。また、第1話の最後のページの解説に国民栄誉賞の授賞が決定したイチロー選手が辞退したニュースが取り上げられていて、報酬が動機を阻害するアンダーマイニング効果として紹介されていますが、本書でも取り上げられているハロー効果=後光効果の一例として、リンドバーグを上げることが出来ます。ロックバンドのリンドバーグではなく、「翼よ、あれがパリの灯だ」の大西洋横断飛行に成功したリンドバーグです。私の小学生か中学生のころの1970年代前半に米国がベトナム戦争の中で、いわゆる北爆=北ベトナムへの空爆を強化するとの方針が明らかにされたことがあり、何と、中身はすっかり忘れてしまいましたが、リンドバーグが何かコメントしていました。新聞で見かけたような気がします。大西洋横断飛行を成功させたのが1927年で、その45年ほど後にも飛行機にまつわる話題の専門家としてコメントしていたのだと想像しています。イチローとりがって、若くして偉業を成し遂げて、その後忘れ去られていたのではないか、という気もします。
次に、森本敏・浜谷英博『国家の危機管理』(海竜社) です。著者は防衛大臣も務めた安全保障の専門家と同じく安全保障や危機管理を専門とする研究者です。冒頭で、日本語の危機管理のうちの「危機」が英語のcrisisなのか、risukなのか、あるいは、「管理」がcontrolなのか、managementなのか、から始まって、いわゆる他国との武力衝突めいた安全保障だけでなく、テロ活動はもちろん、震災や津波などの自然災害なども含む幅広い危機を対象とし、さらに、管理の方でも事後的な後始末めいた活動だけではなく、発生を予防したり、あるいは、災害などで減災と呼ばれる方向、もちろん、情報収集活動も含めた幅広い活動を取り上げています。一般に、リスクが進行したり拡大したりしてクライシスになるんだということのようですが、経済分野ではその昔のナイト流の危険の分布が既知のリスクと不明な不確実性に分ける方法もありますし、また、明らかにクライシスの分類に入りそうなのに「システミック・リスク」と呼ばれるものもあります。ということで、私は大きく専門外ながら、本書でいえば第3章後半のISILによるテロ活動とか、第4章の原発事故や北朝鮮の核開発などが読ませどころかという気がします。私の認識している北朝鮮との軍事衝突シナリオと、ほぼほぼ同様の見方が本書でも提供されている気がしました。米国や韓国が先制攻撃するとすれば、一瞬で戦闘を終わらせて北朝鮮を制圧しなければ、国境を接する中国と韓国に戦闘が広がることはないとしても、難民が流れ込むなどが生じたりしますし、逆に、北朝鮮としてはとてもではないが米国とそれなりの黄な戦闘行為を継続するだけの能力はない、といったところではないかと思います。また、自然災害にほぼ絞られるんですが、米国のFEMAにならったREMAなる緊急対応組織を日本にも設置するような提案がなされています。私は危機対応における私権制限が気がかりだったんですが、本書では極めてアッサリと、道路では日常的に私権が制限されている、と指摘して緊急の危機時に私権が制限されるのは当然、という見方のようです。でも、一般道におけるスピード制限とか、信号によるゴー&ストップ規制が私権制限とは、私には考えられないんですが、いかがなものでしょうか。
次に、古川勝久『北朝鮮 核の資金源』(新潮社) です。著者はどういう人か知らないんですが、本書との関係では、国連安全保障理事会・北朝鮮制裁委員会の専門家パネルの委員経験者です。2016年4月まで4年半の国連勤務だそうです。ということで、日米韓を先頭に独自制裁も含めて、厳しい国連の経済制裁を受けながらも、私のようなシロートにも北朝鮮は着々と核ミサイルの技術力を向上させているように見えるんですが、どういったカラクリで輸出を実行して外貨を資金調達し、同時に、国内で入手困難な開発必需品を輸入しているのか、それを明らかにしようという試みが本書に結実しています。要するに、いかに北朝鮮が制裁をかいくぐって、あるいは、他国からお目こぼしを受けているかを取りまとめています。例えば、お目こぼしをしている主要な大国として中国とロシアが上げられますが、中国の林業用トラックが北朝鮮に輸出されてミサイル運搬に使われていたりする一方で、輸出した中国企業の方では、軍事転用しないと一札取っているのでOKなんだ、と言い張ったりするわけです。ただ、似たような話は昔からあって、例えば、日本に寄港する米国の軍艦などが核兵器を搭載しているのではないか、という野党の追求に対して、非核三原則を堅持している日本への核兵器の持ち込みだったか、安保条約の事前協議に対象だったか、私はすっかり忘れましたが、日本へ核兵器を持ち込むに際しては米国からの事前協議があるハズであり、その事前協議がないので核持ち込みはない、と政府は強弁していたわけです。私が役所に入った1980年代前半なんてそんなもんでした。そして、世界でもっとも北朝鮮に厳しく対応している我が国でさえ、霞が関の官僚のサボタージュに近い対応により、抜け穴がいっぱいあったりします。例えば、日本には船舶を資産凍結する法律がない、と本書の著者は指摘しています。もっとも、パチンコ資金が北朝鮮に流れているんではないか、という伝統的な見方は本書では取り上げられていませんでした。我が国以外のアジア諸国では、ひとつの中国政策により、国として認められていない台湾はダダ漏れのようですし、東南アジアも決して効果的な政策を採用しているわけではありません。アジア以外でも、中南米もワキが甘いと指摘されていますし、欧州大国でも縄張り争いなどにより、決して効率的に制裁が実行されているわけではありません。もちろん、国連の査察でも、本書にある通り、それほど強力なものではありません。何となく、私のようなシロートは、大柄で重武装した米兵がドアを蹴破ってどこでも入り込み、銃を構えているところに国連職員が乗り込んで、洗いざらい書類や証拠品を持ち去るイメージだったんですが、あくまで当事国の合意ベースの査察のようです。ともかく、やや誇張が含まれていそうな気がしないでもないんですが、私のようなシロートが知らないイベントやエピソードが山盛りです。しかも、ノンフィクションとしてとてもよく書けています。ある意味で、エンタメとしても面白く読めたりもします。
次に、万城目学『パーマネント神喜劇』(新潮社) です。著者はご存じ売れっ子のエンタメ小説化であり、我が母校京都大学の後輩だったりもします。ですから、大阪などの関西方面を中心にご活躍と思います。本書は、名も知られぬ縁結びの神社の神様を主人公に、コミカルでありながらも心温まるストーリーの短編を4話収録しています。主人公やその仲間の怪しげな神様が、いかにも神様らしく時間を停止させて対象者に語りかけ、願いを成就させるわけで、男女間の恋愛がうまく行ったり、作家として新人賞を受賞して文壇デビューしたり、オーディションに合格してドラマや映画に出演したり、などといった夢を見させてくれるという形で、いわば神頼みのエンタメ小説です。ただ、神様が何から何まですべてをアレンジしてくれるわけでもなく、まあ、行動経済学のセイラー教授的な用語を用いれば、そっと肩を押すナッジのような役割を果たしています。もっとも、本書ではもっと現実的に2度発言することにより、行動を根本から変える言霊を神様が打ち込むことにより願い事が実現の方向に向かいます。第1話「はじめの一歩」では、付き合って5年も経つのに一向に進展しない同期入社カップルの話、第2話「当たり屋」では、神さまが神宝の袋にストックしていた言霊の源7コが当たり屋の男に届き、いろいろと当たりまくりながらも男がまっとうな仕事につく話、第3話「トシ&シュン」では、作家志望の男と女優志望の女のカップルが主役でともに神様の力で成功する夢を見る話、そして、第4話の表題作では地震がテーマとなり、東北大地震なのか、熊本地震なのかは私にはハッキリしませんでしたが、正面切って「地震をなくして欲しい」という願い事が神様に届けられながらも、地震で神社の神木は折れ、お調子者の神もただ沈黙する状況下で、神と人と自然の力が一体となり小さな奇跡が起こる話、の4話構成です。基本的に、この作家本来の、といってもいいですし、関西風の、と表現もできますが、コミカルで軽妙なストーリー展開や豊かな表現力の中に、ある意味で、シリアスで人生や自然というものを考えさせられる短篇集です。なかなか出来のいい小説で、私はほぼ一気読みしてしまいました。
次に、柚月裕子『盤上の向日葵』(中央公論新社) です。著者は売れっ子のミステリ作家であり、私は堅持を主人公にした佐方貞人シリーズの短編が好きなんですが、長編小説で何度か直木賞の候補に上がったこともあると記憶しています。長編でも、刑事を主人公にしたミステリを何冊か読んだことがあり、この作品もそうです。平成6年が舞台ですから、まだっさいたま市になる前の大宮市の山中で発見された遺体が一式数百万円の値がつく高価かつ貴重な将棋の駒を持っていたことから、この名駒の所有者を探して埼玉県警でも指折りの名刑事が、何と、奨励会出身ながら年齢制限でプロ棋士になり損ねた刑事と組んで捜査に乗り出します。私の場合、このあたりから早々に現実感覚が失われていった気がします。そして、章ごとに、平成6年の本書の舞台となっている時点での将棋のタイトル戦の挑戦者のパーソナル・ヒストリーが明らかにされて行きます。すなわち、小学生3年生の時点で母親を亡くし、父親から虐待を繰り返される中で、定年退職した教師による将棋の手ほどきや生活面での支援があり、天才的な頭脳を有する高IQ児でもあることから、東大から外資系企業に就職し、すぐに独立起業して億万長者となった後に、今度は将棋の世界では破格の進撃からプロ棋士となり、そして、本書の舞台である平成6年の時点で将棋界でもっとも栄誉あるタイトルに挑戦するまでの半生です。ただ、埼玉県警の名駒を追った捜査とこの棋士のパーソナル・ヒストリーの構成がとても雑で、埼玉県警の捜査の方は1年くらいの期間である一方で、棋士のパーソナル・ヒストリーはラクに25年を超えるわけですし、その上に、無駄に長くて、しかもしかもで、ほとんどあり得ないパーソナル・ヒストリーなものですから、とても読みにくくて少し落胆も覚えてしまいました。将棋の棋譜については、私はまったくのシロートなんですが、面白く読む上級者もいそうな気がします。この作品の作者はだんだんと作品のボリュームが増えて行くような気がしてならないんですが、それが単なる冗長に堕しているように私には見えます。繰り返しになりますが、検事を主人公とした短編シリーズが、ある意味で、この作品の作者の代表作だという気もします。
最後に、福田慎一『21世紀の長期停滞論』(平凡社新書) です。著者は東大経済学部でマクロ経済学を担当する教授であり、マクロ経済に関して我が国を代表するエコノミストの1人といえます。ただ、私の目から見て、例えば、先日3月7日付けの日経新聞の経済教室の寄稿のように、やや経済の構造面、中長期的な側面を重視する傾向がありそうで、それゆえに、人口減少を過大に重視し、逆に、数年くらいのスパンで運営される金融政策の効果を軽視しているような気もします。ということで、こういった福田先生のマクロ経済学説に対する私の見方を強めこそすれ、改めようという気にはさらさらなれない本です。通常、日本のみならず米国や欧州も含めた広範な先進国において21世紀型の長期停滞とは、サマーズ教授のいい出した secular stagnation であり、本来の実力より低いGDP水準に加えて低インフレと低金利の状態が長期に渡って続くという特徴を持ちます。そして、その原因は需要不足ないし供給過剰にあると世界的なエコノミストが多く指摘しているところなんですが、著者の福田先生は、日本では、というか、日本に限って、2013年のアベノミクス以降、雇用関連など力強い経済指標は存在するが、賃金の上昇は限定的で物価上昇の足取りも依然として重い上に、構造的に少子高齢化や財政赤字の拡大などの成長を促進するとは思えない要員が目白押しであり、日本では需要不足や供給過剰への対応、要するに、需給ギャップ対策の経済政策ではなく、構造改革こそが必要だと主張します。ですから、アベノミクスのような従来からあるケインズ型の需要喚起策では不十分であり、人口減少に対応する移民受け入れ策を検討すべき、となります。なんだか、やっぱりね、という既視感に襲われます。裁量労働制の拡大による絶対的剰余価値の生産は、ようやく働き方改革法案から削除されましたが、経営側はどうしても安価な労働力が必要と考えているようです。今週の読書感想文の最初に取り上げたボージャス教授の『移民の政治経済学』に実に適確に示されているように、移民の拡大は労働者から企業への所得分配を促進しますので、我が国で移民を受け入れれば、今以上に労働分配率は低下し、企業の内部留保は積み上がります。そうではありません。現在の景気回復・拡大が実感を伴わずに、力強さに欠けると認識されているのは、企業が内部留保を溜め込んで労働者に分配せず、賃金が上がらず消費も増やせないことに起因しています。移民受け入れはまったく逆効果の政策対応であり、企業サイドの党派的、もしくか、階級的な要求事項だということを認識すべきと私は考えています。
2018年03月03日 (土) 11:55:00
今週の読書は経済書をはじめとしてとうとう9冊読んでしまう!
まず、清田耕造・神事直人『実証から学ぶ国際経済』(有斐閣) です。著者は慶応大学と京都大学の国際経済学を専門とする研究者です。なぜか、私は母校の京都大学の神事教授ではなく、東京にあるという理由だという気もしますが、慶応大学の清田教授と面識があったりします。ということで、かなり標準的な国際経済学の理論モデルと実証について、ヘクシャー・オリーンの要素均等化定理から始まって、とても幅広くサーベイしています。本書では著者が国際経済に関して独自に実証研究をした結果を示している、というわけではなく、定評あるジャーナルなどから実証研究の結果をサーベイしているわけです。最初の方は、ヘクシャー・オリーン定理に基づいて貿易を決定する要因を分析したモデルの実証結果を示し、続いて、クルーグマン教授のまさにノーベル経済学賞の受賞理由となった差別化と規模の経済に基礎を置く産業内の水平貿易の理論モデルと実証を示し、メリット教授の企業の生産性と海外展開に関する新々貿易理論モデルと実証結果にスポットを当てています。第5章以降では貿易政策を分析対象とし、関税や保護貿易の理論モデルと実証結果をサーベイしています。付録として、データの在り処や簡単な入門編の計量経済分析の手法の紹介なども収録されています。全体として、学部生というよりは、博士前期課程くらいの大学院生を対象とするテキストのレベルかと思います。終章で、無作為化比較実験(RTC)に関する脚注で、「国際経済学の隣接分野である開発経済学では、フィールド実験などの手法を取り入れ…」(p.270)といった記述が見られて、私の専門分野の開発経済学は国際経済学の隣接分野なんだ、ということを改めて実感しました。しかしながら、海外生活の経験も豊富で、開発経済学を専門とし昨年は所属の国際開発学会で研究成果の学会発表もしていて、私自ら「国際派エコノミスト」を自称しているんですが、国際経済学に関しては見識があまりないことを実感しました。大学院教育を受けていないから仕方ないのかもしれませんが、それなりに官庁エコノミストとしてのお仕事で実証研究はしてきたつもりですが、この年齢に達してなお勉強不足を感じさせられた1冊でした。
次に、松島斉『ゲーム理論はアート』(日本評論社) です。著者は東大経済学部教授であり、本書のタイトル通り、ゲーム理論について『経済セミナー』に連載したコラムや賀寿靴論文の解説などを本書で取りまとめています。いろいろな日常生活に関する話題から、ハッキリと日常生活から大きく離れたトピックまで、ゲーム理論でどのように解釈できるかについて数式を交えずに解説を加えています。ただ、冒頭のサッカーのPK戦でゴールキーパーの取るべき戦略について考えた上で、「ランダムに左右に飛ぶ」というのは、ゲーム理論の結果導出される最適戦略としても、やや情けない気もします。それは別としても、本書では、ヒトラーのような全体主義的な独裁制が現出するかどうか、また、オークションなどもテーマとして取り上げ、いわゆるマーケット・デザインやメカニズム・デザインを積極的にゲーム理論により我が国に適用しようという意欲はあるようです。他方、本書の著者らの設計による「アブルー・松島メカニズム」の簡単な解説も盛り込んでおり、アカデミックな自慢話もしたい意欲も大いに感じられます。ただ、悪いんですが、著者ご本人は本書を一貫したテーマで見つめることが出来るのかもしれませんが、一般読者を代表した私の目から見て、ハッキリとバラバラで取りとめないテーマが並べられているように感じてしまいます。メカニズム・デザインに話を絞って入門書的に構成を改めた方がよかった気がしますが、まあ、著者の好みなんでしょうね。また、細かい点を指摘すれば、確かにオークションにおける勝者の呪いは、情報の非対称性のために誤った情報に基づいて高値で競り落としてしまった、ということも出来るんですが、通常は違う理解ではないかという気もします。ヒトラーを支えたアイヒマンに対するハンナ・アーレントの「小役人的」という評価についても、ゲーム理論というよりも、本書でも取り上げられているジンバルドー教授のスタンフォード監獄実験などで示された心理学的な知見に基づいて理解したほうが、一般的にはすんなりと頭に入るような気もします。もちろん、私のような末端のエコノミストでも経済学中華思想というのを持っていて、東大教授がゲーム論中華思想に浸っているのは当然という気もします。ビジネスマンなどの一般の読者には少しオススメしにくい本かもしれません。
次に、高橋洋『エネルギー政策論』(岩波書店) です。著者はよく判らないんですが、学部レベルでは東京大学法学部を卒業した後、大学院レベルでは東京大学大学院工学系研究科の博士課程を修了して学術博士の学位を取得し、現在は都留文科大学社会学科教授だそうです。本書は出版社の紹介を見る限り、明記はしていませんが、エネルギー政策論の入門編ないし大学の学部上級生向けの教科書を意図して企画されたようです。私の大学生時代は遥か彼方の昔ですが、環境経済学すら講座としては確立されていませんでした。今は、京都大学経済学部にも環境経済学の授業があるようですが、エネルギー政策論については、おそらく経済学部が適切ではないかという気もしますが、大学や大学院のどこの学部に置けばいいのかも確立された結論はないような気がします。その中で、公共経済学や環境経済学はもちろん、安全保障を含む国際関係論、そして、工学的な知識も必要でしょうし、エネルギー政策論は極めて学際的かつ多角的な位置にある一方で、2011年の福島原発事故から、本書でエネルギー・ミクスと呼ぶエネルギーの将来像、もちろん、原発の位置づけも含めたエネルギー調達のあり方に関する議論の必要性が高まっているのも事実です。そういった中で、極めて高品質な試みといえますし、和y太氏のような専門外のエコノミストが太鼓判を押しても仕方ないんですが、確かにこのまま教科書としても適用可能なレベルに達しているような気がします。そして、その昔、私が公務員試験を受ける際にミクロ経済学のテキストは岩波書店の『価格理論』でしたし、岩波書店とはそういった良質の教科書を刊行する出版社のひとつであると目されていました。その面目躍如という気がします。その上で、いくつか指摘しておきたい点があります。第1に、1次エネルギーと2次エネルギーに関して、同じ点と違う点をもっと明確にすべきではないかと思います。現在の技術水準からして、かなり多くのケースでは燃料か何かで熱を発して水を沸騰させて、その昔の蒸気機関の応用でタービンを回して動力を得る、というケースが多いかと思います。もちろん、蒸気機関でタービンを回して電気という2次エネルギーを得る場合もありますし、そのまま動力として用いるケースもあります。私の限定的な工学の知識からすれば、タービンを回さ図に直接電力を得るのは太陽光発電だけです。タービンを回すものの熱は発しないのは風力発電や潮力発電などです。いずれも2次エネルギーである電力を取り出すために用いられると認識しています。この燃料と電力の同じ点と違う点をもう少し工学的な視点と経済学的な視点から解説して欲しい気がします。第2は、細かい点ですが、経済成長と二酸化炭素排出のでカップリングまで取り上げるのであれば、その背景にあるクズネッツ環境曲線も紹介しておけばいいんではないか、という気がします。第1の点に比べて