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2023年03月04日 (土) 09:00:00

今週の読書は観光経済学に関する学術書や話題のミステリなど計4冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山内弘隆ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)は、初学者向けの入門書ながら観光経済学に関する学術書です。呉勝浩『爆弾』(講談社)は、我が国で昨年もっとも話題になったミステリのひとつです。吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)では、長らく朝日新聞のジャーナリストだった著者が勢力均衡の考えに基づく核抑止策を「解体」し、新たな各シルク抑制の方策を議論しています。最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)では、11人の作家がいわゆる事故物件などの怖い物件についてホラーを展開しています。ただ、新刊書読書は今週4冊だったのですが、新刊書ならざるミステリを何冊か読んでいます。すなわち、近藤史恵『ダークルーム』(角川文庫)と伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』(講談社)、そして、麻耶雄嵩『化石少女』(徳間書店)です。最初の2冊はすでにFacebookでシェアしてあります。最後の『化石少女』のブックレビューもそのうちに、と考えています。
ということで、今年の新刊書読書は、1月2月ともに各20冊ですから1~2月で計40冊、3月に入って今週の4冊で、合計24冊となっています。

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まず、山内弘ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)です。著者は、交通経済学や文化経済学などの研究者が多くなっています。でも、エコノミストであることは明らかそうです。いずれにせよ、本書は学術書ですが、初学者の入門書でもありますので、研究者だけを読者に想定しているわけでもなさそうです。まず、最初にお断りしておきますが、私は観光経済学の専門家ではありません。しかも、本書については、4月に研究費が復活したら購入しようと考えていますので、やや雑な読み方になっている可能性はあります。構成は4部からなっており、最初にマイクロな経済学の基礎、次に、観光産業、そして、地域政策、最後に当kリヤ実証に、それぞれスポットを当てています。最初のマイクロな経済学は、通常のいわゆるミクロ経済学と大差ないのですが、私の印象で重要なポイントは2点あります。第1に、供給に関しては通常の財やサービスなどよりも供給制約が激しい点です。もちろん、普通のモノやサービスなどでも、売り切れになったり、サービス提供を受けられないケースはあり得ます。でも、バブル期のレストラン予約とか、いまでも繁忙期のホテルや飛行機の予約は通常以上に売切れ、というか、予約いっぱいとなるケースが多いのではないでしょうか。従って、観光に関する供給曲線はかなりスティープと考えるべきです。加えて、第2に、通常のミクロ経済学では市場における完全情報を前提にしますが、観光に関しては情報の非対称性はかなり大きと考えるべきです。観光に関する情報が完全であれば、わざわざ観光のために旅行して出向く必要はないからです。そして、第Ⅱ部の観光産業については、そもそも、通常の統計や経済学における産業分類は供給する財やサービスに従っていますので、観光サービスというカテゴリーはあり得なくはないものの、一般的ではありません。ですから、この第Ⅱ部ではいわゆる旅行代理店のような仲介業、宿泊と交通という3つの産業をそれぞれの章で取り上げています。すなわち、観光業というのは宿泊業とか、飲食サービス業とか、交通業にまたがって観察される一方で、例えば、交通では観光ばかりでなく通常の通勤通学も含まれてしまいます。ですから、統計的に観光のアウトプットを把握するのは少し難しい課題となります。そして、第Ⅲ部と第Ⅳ部は少し簡略に飛ばすこととし、私が今までに大学院生の修士論文指導などで勉強してきた観光経済学のいくつかのポイントを書き記しておきたいと思います。まず、広く観光とは旅行とほぼほぼ同じで日常生活を離れたアクティビティであり、英語では travel になります。ですから、狭い意味での sightseeing ではありません。英語の論文で勉強したもので英語が続いて申し訳ありませんが、やや記憶は不確かながら、観光目的は主として4つあります。(1) natural wonder、(2) urban convenience、(3) resort hospitality、(4) business、となります。最初の(1)はアフリカの大自然、野生の動物、ナイアガラの滝などに行くことです。(2)は主として都会で可能となる活動、美術館・博物館、あるいは、観劇などで、かつての訪日観光客の「爆買い」などのショッピングも含めていいかもしれません。(3)はいうまでもなく、ハワイやサイパンなどのビーチリゾートのほか、ニセコのスキー場などが上げられます。(4)はsightseeingの観光には含まれないと考える日本人が多そうですが、ビジネス客だって出張先には飛行機や列車などで移動しますし、レストランで食事してホテルに泊まったりします。おそらく、これらの観光目的別だけでなく、観光施設とその基礎となる施設、すなわち、ホテルやレストランは民間企業が受け持つとしても、飛行場や高速道路、あるいは鉄道網などのインフラをどのように整備するか、といった観点から地方進行の政策に結びつける観点も必要です。観光経済学とは決してマイクロだけな経済学ではありません。

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次に、呉勝浩『爆弾』(講談社)です。著者は、ミステリ作家です。おそらく、この作品は昨年2022年中の我が国ミステリ作品の中でも、夕木春央の『方舟』とともに、もっとも話題になった作品のひとつではないかと思います。酒の自動販売機を蹴って、酒屋に暴行を働くという微罪で野方署に連行されたスズキタゴサクと名乗る男が、取調べの際に霊感があると称して「10時に秋葉原で爆発がある」と予言し、その予言が的中して秋葉原の廃ビルが爆破されるところからストーリーが始まります。ここから東京都内で連続爆弾事件が展開するわけです。広い東京でどこの爆弾が仕掛けられたかをシラミ潰しに捜索するわけにもいかず、警察の方では警視庁捜査一課特殊犯捜査係を所轄の野方署に派遣して尋問を続け、次の爆発を防ぐにはこのスズキタゴサクの繰り出す「ヒント」をクイズのように解くしかなくなります。果たして、次の爆破地点はどこか、いつなのか、単独犯か共犯がいるのか、などなど、スズキタゴサクの発言を軸に、極めてテンポよくストーリーが進みます。そして、これも私の好きなタイプのミステリで、最後の最後にどんでん返しのように名探偵が真相を解き明かすのではなく、少しずつ 少しずつタマネギの皮を剥くように真相が明らかになっていきます。私のような単純な読者からすれば、一気読みしたくなるようなテンポのよさをもっているミステリです。尋問する方の警察官、もちろん、スズキタゴサクも極めて明快なキャラを持っていて、スズキタゴサクについては、とぼけたキャラながら、残虐な性格を隠し持っているほかに、何とも実に鋭い知性と演技力のようなものを兼ね備えていることが徐々に明らかになっていきます。しかし、日本警察の悪弊のひとつかもしれませんが、事件解決。真相解明のために、無差別爆破テロとはいえ、極めて極端に自供・自白に偏重した真相解明の方向が示されます。ほぼほぼ、物証はまったくないに等しく、論理性についても、クイズ・パズルを解くための屁理屈はいくつかでてきますが、選択肢をしっかりと絞れるほどではありません。せいぜいが「蓋然性が大きい」という程度のものです。犯人と警察の心理戦、といういい方が出来るのかもしれませんし、それはそれで、結構息詰まるバトルではあるのですが、もう少しミステリとしての論理性が欲しかった気がします。

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次に、吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)です。著者は、現在は長崎大学に設置されている核兵器廃絶研究センターの研究者なのですが、長らく朝日新聞のジャーナリストをと務めています。長崎大学は私も出向していましたから、少しくらいは土地勘あるのですが、この研究センターは知りませんでした。本書では、したがって、世界の常識とは少しズレているかもしれませんが、広島ではなく長崎を中心に据えています。すなわち、「長崎を最後の被爆地に」というスローガンが随所に引用されています。本書は4部構成であり、最初に最新のウクライナ情勢を引きつつ、ロシア、というか、ロシアのプーチン大統領による「核による恫喝」が現実のものとなった点を強調します。そして、勢力均衡の核兵器版である現在の核抑止システムのリスクを検証し、核抑止を「解体」しつつ、日本が核抑止で果たしている役割などを分析しています。そして、最後に、核抑止に代わるポスト核抑止のあり方を議論しています。おそらく、第3部までの議論は多くの日本人が十分に受入れ可能な内容だと私は考えます。特に、核抑止における日本の役割は、佐藤総理のころのその昔は、本書では日本が何ら自律的な行動を取らない「お任せ核抑止」だったのが、徐々に積極的な役割を果たすようになった危険性を指摘しています。およそ、この点については、核抑止だけでなく安全保障上の我が国の政策がここ数年で極端に積極化したことは多くの日本人の目に明らかです。昨年は貿易費=軍事費の倍増が議論されて、事実上決定されました。子育て予算の倍増が「子供が増えれば、子育て予算も増える」というのんきな議論とは違うレベルで決められたことは広く報じられている通りです。その上で、最終パートでは、現在の勢力均衡に基づく核抑止を支持し強硬な姿勢を取るタカ派、そして、逆に、耐候性力に対する融和策を思考するハト派、の2つの考え方ではなく、各リスクの逓減を目的とするフクロウ派の考えを提唱しています。ただ、本書でも指摘しているように、私の知る限りナイ博士の提唱するフクロウ派は、いわゆる「正しい戦争」や「正しい核兵器の使用」を含んでおり、どこまでの有効性や実現性があるのか、やや疑問です。そのあたりは、本書を読んだ読者がそれぞれに考えて議論すべき点かもしれません。でも、いずれにせよ、核兵器のリスク低減のためのひとつの方向性を含んだ良書だと私は受け止めています。

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最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)です。著者は、小説家ですが、11人の作者による短編集のアンソロジーです。収録作品は、宇佐美まこと「氷室」、大島てる「倒福」、福澤徹三「旧居の記憶」、糸柳寿昭「やなぎっ記」、花房観音「たかむらの家」、神永学「妹の部屋」、澤村伊智「笛を吹く家」、黒木あるじ「牢家」、郷内心瞳「トガハラミ」、芦花公園「終の棲家」、平山夢明「ろろるいの家」となっています。出版社は文庫オリジナル、と宣伝していますが、いくつかの短編は別のアンソロジーや短編集に収録されています。タイトルから容易に推察されるように、アパートなどの賃貸不動産で自殺などがあったような事故物件をはじめとする不動産や家にまつわるホラー短編を集めています。すべてのあらすじを取り上げるのは難しいので、いくつかに絞って言及すると、収録順に、まず、宇佐美まこと「氷室」は、古民家を購入した主人公が、そこにある氷室が気にかかるということで、ストーリーが進みます。そして、コーディネータの女性がどのようにして古民家の人気物件が空いて貸せるようにするかの謎が怖いです。糸柳寿昭「やなぎっ記」と花房観音「たかむらの家」は、小説という体裁ではなく、何となくノンフィクションのルポルタージュを思わせる文体となっています。神永学「妹の部屋」は、自殺した妹の部屋がいきていたときのままに「修復」というか、元通りになってしまいます。澤村伊智「笛を吹く家」は同じ作者の『葉桜の季節に君を想うということ』を読んだことがあれば、その類似性に気づくものと思います。黒木あるじ「牢家」は、家の真ん中に360度から見張れるような座敷牢があり、その謎に迫ります。そして、最後の平山夢明「ろろるいの家」は、家庭教師に来た家の超怖いお話で、おそらく、この収録作品の中の最高傑作だと私は思います。たぶん、タイトルに付けた「超」はやや誇張が含まれていて、まあ、フツーのホラーと考えるべきです。でも、最後の平山夢明「ろろるいの家」はホントに怖いです。「超」を付けてもいいと私が思うのはこの作品だけです。
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2023年02月25日 (土) 09:00:00

今週の読書は不平等に関する教科書をはじめとしてミステリ小説まで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)では、社会学ないし経済学の教科書として執筆されていて、格差や不平等について、特に、現在の日本で機会の平等はホントに確保されているのか、について議論しています。続いて、鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)では、東日本大震災の際の福島第1原発の運営にかんする「吉田調書」の「誤報」事件の際にデスクだったジャーナリストが、ご自分の半生を振り返るとともに、メディアと権力の関係などについて論じています。続いて、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)では、中世イングランドにタイムトラベルするとすれば、どのように生き残るか、について解説しています。続いて、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)は、芥川賞を受賞した小説家が、持ち前のやや不気味な雰囲気ある短編小説4話を収録しています。続いて、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)では、社会学者と経済学者が不倫という婚外性交症について定量的な分析を加えています。最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)は、英国を舞台に女子高校生が行方不明になった友人の兄を探すというミステリです。シリーズの第2作です。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで14冊、今週の6冊を含めて計40冊となっています。これらの新刊書読書のほかにも何冊か読んでいますので、順次、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。

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まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)です。著者は、北海道大学の研究者であり、専門分野は社会学です。第2版であり、しかも、2021年年末の出版で1年余りを経過していますが、私の興味分野のひとつである格差や不平等に関する学術書ですので、まあ、いいとしておきます。繰り返しになりますが、出版社から軽く想像されるように、学術書です。しかし、本書冒頭にあるように、教科書としての役割を期待されているように、学生諸君にも理解しやすいような工夫がなされており、定量分析のいくつかのテクニカル・タームを別にすれば、一般ビジネスパーソンにも判りやすい内容となっている気がします。やや先進的な部分は「発展」として別枠で記述されていますし、「コラム」も適切に配置されています。ということで、本書の結論として、おそらくは社会学の観点から、平等と不平等を論じる際にもっとも重要な観点である「機会の平等」が現代日本では必ずしも確保されていない、という点が重要であると私は考えます。経済学的には、ついつい、平等と不平等を結果としての所得を代理変数として考えますが、社会学ですので排除や包摂とも考え合わせて、まあ、複雑ながら経済学よりも深みのある議論が展開されています。そして、平等と不平等を考える際に、原因から結果に向かう中間経路として、本書では教育ないし学歴を大きなポイントに据えています。要するに、制度上はあくまで義務教育ではないにも関わらず、ほぼほぼ事実上の全入制となった高校進学を前提として、ホントに機会の平等が保証されているのであれば、誰でもが大学に進学する機会を平等に有しているかどうか、について定量分析も含めて考察を加えています。そして、その結論は否定的といわざるを得ません。すなわち、日本では大学進学における機会の平等は確保されていない、ということになります。その詳細な議論は本書を読むしかないのですが、私は少なくとも機会の平等を考える上で、あるいは、貧困からの脱出を考える上で、大学進学は重要なポイントになると考えています。その点は本書の著者と基本的によく似た見方をしています。米国の「大統領経済報告」ではじめて示されたグレート・ギャッツビー曲線を援用したりして、定量的なパネル分析からも大学進学が「親ガチャ」からは独立ではありえない、という分析結果です。本書は社会学的な分析ですが、経済学的に私が授業で教えているポイントは、その昔の高度成長期に広く観察された雇用慣行である年功賃金制にあります。チョット見では、いかにも子供達が大きくなって大学進学などで教育費がかかる時期にお給料が上がるのは好ましく思えますが、実はそうではありません。というのは、親が大学授業料を負担できる給与体系である年功賃金をもらっているがために、いわば、行政がサボって大学の学費を低く抑える必要がなかったわけです。すべてではありませんが、米国などの一部を除いて欧州諸国、特に北欧諸国では大学の学費を極めて低く、しばしば無料にしている点は広く知られているとおりです。

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次に、鮫島浩『朝日新聞政治部』』(講談社)です。作者は、長らく朝日新聞で記者をし、政治部を主にキャリアを積んだジャーナリストです。東日本大震災の折の福島第1原発の吉田調書に関する報道で処分を受けて、現在ではネットメディアを主催しているようです。本書では、基本的に著者自身の経験とある程度の憶測を交えながら、著者の半生の自伝を語りつつ、同時に、メディア論についても展開しています。すなわち、権力とメディアの距離感、そして、メディアの企業としてのあり方、などです。まず、よく知られたように、著者は朝日新聞特別報道部のデスクとして「吉田調書」を入手した部下とともに読み解き、吉田所長の待機命令に反して福島第1から第2に退避した職員がいたことを明らかにするスクープをモノにします。「新聞協会賞」に相当する快挙として社内ではもちろん、広く称賛されますが、実は、吉田所長の待機命令に反してではなく、その命令を知らずに避難した職員がいたのではないか、また、実際に退避した職員への取材がなされておらず、裏付けが取れていない、などといった疑問が持ち上がって、逆に「捏造」としてバッシングを受けます。社長が辞任し、現場の記者やデスクだった著者も処分を受けます。そして、同時に慰安婦問題に関する「吉田証言」も虚偽であったことなどをはじめとして、著者はここで朝日新聞は死んだと表現します。すなわち、権力の対するチェック機能とか、「社会の木鐸」と呼ばれる存在でなくなった、という意味なのだろうと私は考えています。そして、大手全国紙が横並びで東京オリンピックのスポンサーとなり、オリンピック開催反対の意見はしぼんでゆきます。現在では、大手メディアは権力と癒着し提灯持ちの記事が多くなっていることも事実です。本書に関して、私から2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、問題の「吉田調書」の読み方ですが、「待機命令に反して退避」というのは、「命令違反」というコンポーネントと「退避」というコンポーネントの2つの要素があり、私は報じられた当時から前者の「命令違反」がどこまで重要かを疑問視していました。むしろ、重点は「退避」の方にあるのではないか、という気がしていたからです。すなわち、現場を放棄して退避することが問題なのであって、命令違反というのはその退避という行動の悪質さをより重くするものであることは確かです。しかし、現場を放棄しての退避が重要と私が考えるにもかかわらず、本書でも「命令違反」の方に重点が置かれています。不思議です。この重心おき方を誤らなければ、この問題はここまでこじれることはなかったような気がします。本書で指摘する朝日新聞社内の危機管理体制以前の報道の問題です。第2に、本書の著者もそうですが、メディアと権力との距離感に関しては、記者クラブ制というシステムを考慮する必要があります。記者クラブという極めて特殊で排他的なシステムを、おそらく、全国紙やテレビのキー局の記者は当然のように考えているのでしょうが、地方紙や海外メディアからすれば、とてつもない特権としか見えません。こういった特権を与えたれているわけですから、全国紙やテレビなどのキー局が権力に近いという印象を持たれるのは当然です。私は、役所が主催する閣僚の出席する会議の写真を撮ろうとして、写真を撮れるのは記者クラブ所属のカメラマンだけ、といわれて諦めざるを得なかったことがあります。会議の事務方の公務員ですら写真が撮れなかったわけです。こういったべらぼうな特権を与えられている記者クラブ制がある限り、メディアの権力依存は続く、あるいは、少なくとも眉に唾つけて見る国民がいるような気がします。

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次に、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)です。著者は、歴史家、作家となっています。英語の原題は How to Survive in Medieval England であり、2021年の出版です。原題からほのかに理解できるように、21世紀の現代人が中世、本書では1154-1485年のプランタジネット王朝のころのイングランドにタイムトラベルしたとすれば、どのように生き残るか、という観点で記述されています。単純な修正の歴史書ではありません。まず、中世ですから、私が時折主張するように、英国=イギリスあるいは連合王国とイングランドが区別すべきです。本書でも、イングランドはスコットランドと戦争したりしています。おそらむ、本書の対象とする中世初期にはイングランドとウェールズでは言語がビミョーに違っていたのではないかと私は想像しています。そういった意味からも現代的にイングランドを英国やイギリスと同一視するべきではありません。ただ、細かい点ながら、タイトルに "survive" を用いているにも関わらず、以下に生計を維持するか、稼ぎを得るか、という観点は本書では極めて希薄であり、もっと原始的、というか、まるで無人島で生き残るかのような観点が支配的である点は申し述べておきたいと思います。まず、今もってそうなのですが、欧州諸国、というか、日本以外の多くの国は階級社会であって、所属する階級によっていかに生活するかは大きく異なります。最初の第2章の社会構造や住宅事情などは本書でもその観点がありますが、食べ物や医療事情になると、かなりの程度に忘れられている気がします。おそらく、電話や鉄道などはいかんともしがたいと思いますが、居宅近くでの日常生活では上流階級の人々は現在とそう遜色ない生活を送っていたのではないか、と私は想像します。だた、第2章の社会構造に次に第3章に信仰や宗教に関する歴史を持ってきているのは秀逸です。私はイングランドに限らず、おそらく、日本でも前近代においては宗教の果たしていた役割がかなり大きいと考えています。本書の対象とする期間のイングランドの宗教は、いうまでもなく、キリスト教の中でもカトリックなのですが、普段の日常生活を律するのは死後の天国と地獄ではなかったか、と私は想像しています。日本の中世のひとつの時代区分である鎌倉時代に仏教の新宗教が浄土宗や日蓮宗のように日本地場で起こるとともに、禅宗の臨済宗や曹洞宗が中国から持ち込まれたように、中世の12世紀から15世紀くらいまでは宗教の役割は大きかったですし、変化もありました。私の勝手な想像では、ゲーテが「もっと光を」といって死んだように、光が不足する、というか、夜が暗かったのが地獄をはじめとする異世界を想像たくましくさせたような気がします。今でも都会に比べて夜が暗い、というか、早くに暗くなる地方部では必ずしも宗教に限らず信心深い気がします。

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次に、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)です。著者は、芥川賞を受賞した純文学の作家です。この作品は短編集であり、4話を収録しています。まず、表題作の「とんこつQ&A」では、大将と坊っちゃんで切り盛りする中華料理店「とんこつ」で30代半ばの独身女性である主人公が働き始めます。しかし、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」すらいえなかったため、しゃべるのではなくメモを読み上げることで克服します。それから、挨拶をはじめとする店内で発するあらゆる会話、例えば、店の名前の由来、おすすめメニューなどをメモに記入し、「とんこつQ&A」を作り上げます。おしゃべりではなく、メモを読むことで対応するわけです。そこにもうひとり、主人公よりももっと鈍なアルバイトの丘崎さんが働き始めることになり、いろいろとお話が展開します。最後の結末は、思いもしなかったものでびっくりです。続いて、「嘘の道」では、小学校でのイジメられっ子の与田正のクラスメートの少女を主人公に、いじめられていた与田正が「イジメはよくない」という教師の指導などもあって、逆に、チヤホヤされるようになります。でも、おばあさんが教えられた近道でケガを負うという事件があり、濡れ衣を着せられた与田正が再びイジメにあいます。でも、おばあさんにその近道を教えたのが誰であるか、という真相は別のところにあるわけです。「良夫婦」では、小学生のタムに親切にする若妻を主人公に、タムがその主人公の家の庭にあるサクランボを取りに来て期から落ちて大怪我する時間があった際、すべてを処理する夫の事件処理のやり方を描き出しています。それは、夫婦が結婚前にそろって勤務していた介護サービス事業所での妻が起こした不都合な出来事の処理方法と同じでした。最後に、「冷たい大根の煮物」では、高校を卒業してひとり暮らしの工場勤務を始めた女性を主人公に、同じ工場の同僚で中年女性の柴山さんとの人間関係を描き出しています。柴山さんには寸借詐欺のウワサあるにも関わらず、主人公にはそれなりに親切で料理してくれたり、レシピを教えてくれたりします。でも、結局、柴山さんは工場を辞めることになります。あらすじは以上の通りですが、読者としては、主人公とそれ以外の登場人物の間のズレをどう考えるか、という点がポイントになります。ある意味で、ものすごく深い読み方をしなければ、この作者の作品をホントに味わうことが出来ないと私は考えており、その意味で、この短編集はこの作者の典型的な作品ともいえます。特に、4話の短編の中でも短めな「嘘の道」と「良夫婦」はホラーとすらいえる内容ですが、スラッと読めばホラーでも何でもなく読めてしまう可能性もあります。最後に、私もこの作者の作品をすべて読んだわけではありませんが、この作品の理解を進めるためには、『あひる』を読んでおくと参考になりそうな気がします。

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次に、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)です。著者は、社会学の研究者と経済学の研究者であり、おそらく、ともに計量分野のご経験が豊富と思います。本書ではタイトル通りに、不倫、本書では婚外性交渉と定義されている行為について定量的な分析を試みています。ただし、婚外性交渉とはいっても風俗店での行為や風俗店できっかけの出来たものは除外されています。定量的な分析ですから、その基礎となる情報を得るために、NTTコムオンラインでアンケート調査を実施しています。ただし、選挙におけるブラッドリー効果のように、アンケート調査で真の結果を得られていない可能性もありますから、そのあたりはリスト実験などの工夫がなされています。ということで、構成として、第1章で不倫とは何かを考え、第2章でどれくらいの人が不倫しているのかの把握に努め、p.31表2-1のような結果を得ています。すなわち、既婚男性の半分近く、既婚女性の15%ほどが、結婚後に現在進行形も含めて何処かの段階で不倫の経験あり、という結論です。第3章で、不倫しやすい属性を検討し、第4章で誰と不倫するのかを解明しています。軽く想像される通り、男性の場合は職場で不倫相手が見つかりやすい、ということがいえます。第5章で不倫の終わり方、あるいは、なぜ終わらないのか、を検討し、不倫行為に関する定量的な分析はここまでなのですが、最後の第6章で社会的に不倫を非難する人たちについても考察を進めています。本書でも言及されているように、シカゴ大学のノーベル経済賞を受賞したベッカー教授などの「経済学帝国主義者」が結婚の経済学を分析したことは有名ですが、本書は経済学的なアプローチもなくはないですが、基本的に、社会学的なアプローチを取っていると私はみなしています。日本においては、ほぼほぼ先行研究のない分野ですし、本書も新書とはいえ、定量分析の手法の選択や参考文献の渉猟など、学術書とみなしていいと私は考えます。いくつかの章の終わりに置かれている補論は学術書っぽくなないですが、まあ、いいとします。ですから、基本的に、本書の不倫に関する分析結果は、諸外国、特に、米国の先行研究との整合性も考えると、十分に受入れ可能なものだといえます。分析結果は本書を読んでいただくしかありませんが、十分に評価するという私の基本を踏まえた上で、たった1点だけ指摘したのは、不倫においてマッチング・サービスの果たす役割です。基本的に、マッチング・サービスは結婚を希望する人々に開かれていて、私のような高齢の既婚者には関係ないと考えていますので、私はまったく情報がありませんが、おそらく、あくまでおそらくですが、既婚者の不倫行動に対して何らかのポジティブな役割を果たしている可能性が否定できません。でも、本書では、それについてはまったく無視しているように見えます。

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最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。この作品は、英国のリトル・キルトンのグラマー・スクール最上級生のピップ(ピッパ)が探偵役を務めるシリーズの第2作であり、前作は『自由研究には向かない殺人』であり、3部作といわれています。英語の原題は Good Girl, Bad Blood であり、2020年の出版です。3部作最後の As Good As Dead もそのうちに邦訳されることと私は想像しています。ということで、この作品では、主人公のピップに友人のコナー・レノルズから兄のジェイミーが失踪したので行方を探して欲しいと依頼が入ります。ほぼほぼ1週間7日が経過してもジェイミーは見つかりません。その間に、ピップは着々とリサーチを進めるわけです。前作と違って、この作品ではPodCastが多用されます。ミステリですので、あらすじも早々に、5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、前作では主人公のピップはきわめて強気に捜索を進めたのですが、この作品では少なくとも前作に比べれば控えめです。最後の方に、ピップの仲間、すなわち、前作で相棒になったラヴィ・シンとこの作品の依頼者のコナー・レノルズが家宅侵入をしたりしますが、まあ、強気な捜索というよりは控えめといっていいと思います。第2に、前作でも女子高生(当時)の行方不明事件であって、殺人事件とは確定していませんでしたが、本作品でもやっぱり行方不明事件です。ただ、この作品では最後の最後に殺人事件が起こります。主人公のピップの目前での銃撃殺人ですので犯人探しは不要ですが、生々しい殺人が描かれていることは確かです。第3に、この作品では有色人種に対する差別はそれほど大きく扱われていません。記者のスタンリーは前作では差別意識が激しい人物とされていたように私は記憶していますが、別の事情もあって、この作品ではとても好意的に、しかも、主人公のピップも同情を寄せるように描かれています。やや矛盾を感じる読者は私だけではないと思います。第4に、先週レビューした『罪の壁』で少し言及しましたが、このシリーズは登場人物が多岐に渡り、隠れた顔がいっぱいあります。それを「深みがある」と称するかどうかはともかく、極めて複雑なミステリ作品に仕上がっていることは確かです。第5に、最初の作品である『自由研究には向かない殺人』に比較して、この作品はミステリとしてクオリティは大きく落ちます。3部作の最後の作品がやや心配です。最後に、おそらく、作者はまったくあずかり知らぬことなのでしょうが、日本人であれば神戸の連続児童殺傷事件、俗にいう「酒鬼薔薇事件」を強く思い起こさせる可能性があります。
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2023年02月18日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書や人類学書のほかミステリも合わせて計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)は、1971年8月の米国ニクソン政権による金ドルの交換停止を決定したキャンプ・デービッドでの会議をルポしています。続いて、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)は、ソロモン諸島におけるフィールド・ワークに基づき、人類学の新しい方向などにつき論じています。続いて、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)は、正面からのプロット勝負の本格ミステリの短編5話を収録しています。続いて、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)は、昭和期の主として第2次世界対戦前後の陸海軍の軍人を中心とする人物評伝を編集しています。最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)は、後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association)最優秀長篇賞の第1回受賞作品であり、兄の死の真相を弟が解明するものです。
ということで、今年の新刊書読書は、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで9冊、今週の5冊を含めて計34冊となっています。

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まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)です。著者は、米国イェール大学経営大学院の名誉学長ということですが、この著書からはジャーナリストなのかと思わせるものがあります。副題が「キャンプ・デービッドの3日間」となっているように、米国ニクソン政権において米ドルの金との交換停止を決断した会議のルポとなっています。エコノミストの間ではよく知られているように、1944年に米国東海岸の保養地であるブレトンウッズにおいて議論・決定された国際金融体制が崩壊し、終焉したわけです。ブレトンウッズ体制とは、本書では米ドルを金にリンクさせ、35ドルと1オンスの金との交換を保証しつつ、米ドルと各国通貨の間に固定為替相場制を敷いたものです。他方、こういった国際金融制度をサポートするために、世界銀行や国際通貨基金(IMF)といった組織を設立しているのですが、コチラの方は本書ではほぼほぼ無視されています。もちろん、同時に戦後経済体制を形作ったGATTについても、ここまで米国の貿易収支に注目しながらもほぼほぼ無視しています。ですので、本書は4部構成で、幕開け、配役、その週末、終幕、となっています。中心となる読ませどころは第3部でクロノロジカルに詳述されるルポだと思いますが、第2部ではエコノミストはほとんど注目しない会議参加者のパーソナリティなどが紹介されています。逆に、貿易収支以外の客観的な経済情勢はかなりの程度に省略されています。私と同じように、物足りないと感じるエコノミストは少なくないと思います。もちろん、エコノミストが注目していない点で、いくつか興味をそそられる事実も明らかにされています。そのひとつは、このニクソン政権の決定、訪中とその結果としての米中の国交樹立と並んでニクソン・ショックと称されるブレトンウッズ体制の崩壊、あるいは、一連の経済政策、すなわち、金ドル交換停止以外にも物価と賃金の凍結などが、米国民から熱狂的に支持された、という点は私も知りませんでした。その支持の強さは「パールハーバー以来」と表現されています。もっとも、私は1971年当時は中学生でしたので、言い訳しておきます。株式市場は株高で支持を表明し、米国以外の、特に日本の株価市場が大きく下げたのとは対象的です。加えて、1971年8月15日の当時のニクソン大統領のスピーチが、かなり詳細な脚注を付して紹介されているのは、それなりの資料的な価値もあると私は考えます。私が本書を読んで不可解なのは、著者が金ドル交換に大きな重点を置いている点です。ブレトンウッズ体制が終焉したのは、金ドル交換が停止されたからではなく、固定為替制が崩壊したからです。スミソニアン合意という一時しのぎではどうしようもなく、変動相場制に移行したのは歴史的事実です。その点まで、どうも、著者の理解が進んでいない気がします。経済学的な理解を基にするのではなく、むしろ、ジャーナリスティック、というか、インナー・サークルのセレブしか知りえない事実に対するのぞき見趣味的な満足感を得ようとするのは、私はどうも違和感あります。むしろ、巻末の「解題」が経済学的な興味を満たしてくれるような気がします。しかし、解題が判りやすいのは本文が判りにくいともいえ、いく分なりとも邦訳がそれほど上質ではない点は指摘しておきたいと思います。

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次に、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)です。著者は、早稲田大学の研究者であり、専門は文化人類学です。本書は3部構成であり、他者、歴史、自然、から構成されています。2011年7~9月における著者のフィールドワーク、ソロモン諸島マライタ島におけるフィールドワークを中心に、幅広く人類学の方法論や学説史にまで言及されています。タイトルは、当然ながら、レヴィ-ストロースによる Tristes Tropiques を念頭に置いているんだろうと思います。「不穏な熱帯」だったら、"Inquiétantes Tropiques" とでもなるんでしょうか。私はスペイン語はともかく、フランス語はサッパリですので、自信はありません。なお、私の専門は、もちろん、経済学なのですが、経営学なんぞよりも人類学などの方が、より、経済学に近い隣接領域だと考えています。終章「おわりに」のエピグラフにあるように、精神分析と文化人類学は人間という概念なしで済ませられる、といいますが、経済学はもっとです。人間が出てきません。合理的な経済活動を営むのであれば、人間でなくても動植物やロボットでもOKです。そういう意味で、本書もとても刺激的でした。例えば、民族誌的な記述と自然概念についての哲学的な思索という両極端を本書の中で統合させようとした著者の試みは、高く評価されるべきだと考えます。しかし、いかに隣接領域とはいえ、私は人類学にはトンと専門性がありませんので、人類学の方法論について、少し論じたいと思います。すなわち、本書で「存在論的転回」と称されている人類学の転換とか、自然/文化の二分法については、私はマイクロな学問/観察とマクロな学問/観察の違いではないか、と考えています。自然科学は別にして、社会科学ないし人文科学で学問領域をマイクロとマクロに分割する二分法が明快に確立しているのは経済学と心理学であると私は受け止めています。経済学ではモロにミクロ経済学とマクロ経済学が併置されています。心理学でも、フロイト的な個人を対象とする臨床心理学とツベルスキー=カーネマンに代表される社会心理学が並立しています。おそらく、人類学でも従来の民族誌的なエキゾチシズムに立脚する多文化の研究、という側面と、もっとマクロに自然と人類の間のインタラクティブな関係を考察する学問領域が出来るのではないか、という気がしています。本書でいうところの「岩が育つ」、「岩が死ぬ」といった自然を外部と考えるのではなく、人類の活動の内なる対象と考える人類学がありそうな気がします。というのは、ごく当たり前に考えている労働について、経済学では自然に対する働きかけ、と定義する場合が少なくありません。もちろん、英語表現で2種類ある "made of" と "made from" の違いはあるとしても、少なくとも製造業においては、自然に存在する原料や燃料を基にして、労働という人間作業を加えて製品を作り出す過程であると考えられます。サービス業で少し製造業とは違う側面があることは否定しませんが、ごく一部の例外を除けば、自然にはあり得ないサービスの提供であることは間違いありません。例えば、理美容というサービスについて考えると、こういったサービスなしに自然のままでは髪の毛は伸び放題だったりします。そして、いうまでもなく、労働という人間作業がサービスを生み出しているわけです。本書の幅広い論点をカバーし切るだけの能力が私にはありませんが、少なくとも自然/文化の二分法については、人類学よりは経済学の方が新たな論点を提供できる可能性が高い、と考えています。最後の最後に、数多くのソロモン諸島とおぼしき写真が収録されていますが、何の説明もなく、ランドスケープの横長写真がポートレートの縦長に回転させて配置されています。何とかならなかったものでしょうか?

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次に、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)です。著者は、ミステリ作家です。そして、昨年の芥川賞受賞の高瀬隼子、今年の直木賞受賞の千早茜と同じように、というか、何というか、私の勤務校の卒業生です。3人とも文学部のご主審であり、経済学部ではありませんが、私は実は文学部や法学部などでも授業を持っていたりします。琵琶湖キャンパスから京都の衣笠キャンパスに週イチとはいえ、通勤するのはなかなかタイヘンだったりします。ということで、本書は、5編の短編が収録されていて、堂々の王道ミステリです。ホラーの要素はほぼほぼなく、倒叙ミステリや叙述ミステリでもって、表現で読者をミスリードするわけではなく、正面からプロットでもってパズルを解こうとします。不勉強にして、この作者の作品は初めて読んだので、ほかの作品もそうなのかは不明です。あらすじを収録順に追うと以下の通りです。「ボールがない」は、そこそこ名門、というか、古豪の高校野球部の新入生を主人公とし、上級生が対外試合に出かけた際の居残り練習で、練習開始時に100個あったボールが練習終了時には1個不足し、消えたボールを探し出そうと論理的に考えます。記念ボールの扱いが上手です。「夢も死体も湧き出る温泉」は、ひなびた温泉の食堂の倅が主人公で、川原の手掘り温泉で突如として死体が発見され、その犯人はもちろん、死体出現のトリックについても解き明かそうと試みます。この作品と最後の表題作は行きずりの旅人っぽい登場人物が謎解きをします。「宇宙倶楽部へようこそ」は、10年前を振り返るという形で、その当時の高校の宇宙倶楽部=天文部を舞台に、相談に来た高校新入生を主人公に、主人公宛てに届いたナゾのメールについての解明が天文部員によって試みられます。なかなか、カッコいい終わり方です。「ベッドの下でタップダンスを」は、会社社長の奥さんに間男をする従業員を主人公に、社長が思わぬ時刻に帰宅したためベッドの下に逃げ込んだものの、見張りをしている社長がいるために抜けでられないうちに居眠りしてしまいますが、何と、その居眠りの間にベッドを見張っていたハズの社長が撲殺され、その犯人と方法が主人公によって解明されます。「秘境駅のクローズド・サークル」は大阪にある大学の鉄道研究会の新歓イベントで土讃線の秘境駅を旅行している新入生を主人公に、周囲に何もない秘境駅のクローズドサークルで先輩の女性部員が殺される事件を、これまた、通りすがりの別の鉄道オタクが解明します。繰り返しになりますが、正面から堂々のトリック勝負の本格ミステリです。すべてではありませんが、最初の作品の記念ボール、あるいは、最後の表題作の鉄研OB/OGの登場などのように、短い作品ながら、キチンと伏線が張られている作品もあり、それなりに読み応えはあります。5篇の短編のうち、いかにもミステリらしい殺人は3話、高校生の日常の謎解きが2話、まあ、バランスも考えられています。ただ、高校生や大学生、あるいは、社会人でも若い主人公が多いことは確かです。いずれにせよ、私の勤務校の卒業でもあり、これからも応援したいと思います。

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次に、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)です。著者は、昨年なくなった『文藝春秋』の編集者であり、昭和市に関する書籍も多数出版しています。まあ、昭和史の研究者といっていいかもしれません。本書は、タイトルが人間学ですから、多くの人物が議論されています。ただ、年代としてはタイトルにある昭和全体というよりは、第2次対戦前後に限定されています。ですから、本書の構成は7章構成なのですが、最後の章の政治家と官僚を別にして軍人で占められています。すなわち、卓抜、残念、その他の3カテゴリーかつ陸軍と海軍で2×3の6章となります。もちろん、著者はすでに亡くなっているわけですので、既発表の雑誌記事などを編集しています。私自身は本書に取り上げられている人物については、もりとん、あったこともなければ、それほど評伝のようなものを読んでいるわけでもないので、本書の人物評については何とも評価し難いのですが、巷間いわれている評価にかなり近い、というか、本書の著者などの評価が広く人口に膾炙している、という気がします。ただ、軍人については軍事作戦や軍事行動に関しては、何とも評価は難しいのだろうと想像しています。卓抜の軍人について褒めちぎるわけではありませんが、残念な軍人については容赦なく批判を加えています。中には、戦争が終わってからインタビューをした対象者もいますが、それほどインタビューの有無が人物評の中心となっている印象は読み取れませんでした。ただ、私の直感としては、ある意味で、異常な状態だった戦時ではなく、歴史として戦争を振り返る時点でのインタビューに、それほど大きな意味があるようには思えません。もちろん、粉飾のおそれもありますから、むしろ、古文書のような考えで資料をひも解くのが一番かという気もします。本書は、それほど取りまとめられた文献とは思えませんが、だんだんと遠ざかる昭和、特に、戦争に関するひとつの見方を提供してくれる貴重な資料だと思います。

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最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)です。著者は、英国人作家であり、本作品は後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association=CWA)最優秀長篇賞の第1回受賞作品です。しかも、出版社の宣伝文句では本邦初訳のオリジナル作品、ということです。1950年代なかば、戦争の影がまだ残り、同時に東西冷戦の対立が厳しい英国から欧州大陸、オランダとイタリアを舞台にしています。主人公は、ターナー兄弟末弟3番めのフィリップです。米国カリフォルニアで航空機の開発の仕事をしていましたが、考古学者としてジャカルタで発掘作業をしていた次兄グレヴィルが帰国途上のオランダで死んだと知らされて、家業を継いだ長兄のもとに帰国します。兄グレヴィルは優秀な物理学者であったにもかかわらず、マンハッタン計画の原爆開発に関与することから逃れるために考古学に転じています。しかし、フィリップはグレヴィルがオランダの運河に身を投げて自殺したと知らされて、到底信じることが出来ず、自ら真相を解明すべくオランダに乗り込みます。その際、レオニーという謎の女性とバッキンガムという英国人が関係している疑いがあると聞き及び、バッキンガムを知ると紹介されたコクソンに動向を依頼します。コクソンはスコットランド貴族の血筋の英国人です。そして、当地警察で、レオニーという名の女性との恋愛に敗れて自殺したらしい、と聞き込みます。さらに、レオニーがイタリアに滞在しているとの情報があり、事情で同行できないコクソンと別行動し、単身でイタリアに向かいます。もちろん、最後に兄グレヴィルの死の真相を解明します。いかにも、大時代的ではありますが、驚愕の真相です。思っても見なかった人物がバッキンガムだったりします。また、繰り返しになりますが、1950年代半ばの時代背景ながら、古さをまったく感じさせません。どうしても、電報での連絡が出て来たりしますが、飛行機での移動などは現在と同じです。ただ、オランダとイタリアの違いがどこまで書き分けられているのか、やや疑問がありました。ジャカルタでの考古学の発掘作業、ということで、旧宗主国のオランダということになったのでしょうが、せっかくですから、国情や警察の対応の違いなんかも言及した方がいいような気もしないでもありませんでした。私の知る範囲では、同じラテンの国でスペインとイタリアならよく似ているのに、とついつい思ってしまいました。
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2023年02月11日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書をはじめとして計4冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)は、イノベーションの期待大きいスタートアップ企業に関する教科書的な分析を取りまとめています。続いて、降田天『事件は終わった』(集英社)は、地下鉄内無差別殺人事件に関わった人々の後日譚を短編で収録するミステリです。続いて、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)は、安倍内閣から菅内閣まで続いたアベノミクスについて金融政策から財政政策へのシフトをドキュメンタリとして追跡しています。最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)は、LGBTQへの差別に関して、キチンとした制度的な担保が必要であって、思いやりや優しさでは解決しないと主張しています。そして、この4冊に加えて、今週は、アンソニー・ホロヴィッツ『その裁きは死』(創元推理文庫)と松尾由美『バルーン・タウンの殺人』、『バルーン・タウンの手品師』、『バルーン・タウンの手毬唄』(創元推理文庫)のバルーン・タウン3部作を読みました。新刊書ではないのでこのブログでは取り上げませんが、Facebookでシェアしたいと思います。というか、『その裁きは死』はすでにシェアしてあります。Facebokkでは続編が『殺しへのライン』というのは明記したつもりですが、「もう新作出てますよ」という残念なコメントをもちょうだいしたりしています。バルーン・タウン3部作は、たぶん、一気にFacebookでシェアするのではないか、と思います。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週の5冊と今週の4冊の計29冊となっています。

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まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)です。著者は、関西学院大学の研究者です。通常の企業に関するマイクロな経済学と違って、スタートアップに関する経済学は、外部性や情報の非対称性が強く作用し、ある種の特別経済学を必要とします。もちろん、マクロ経済学におけるイノベーションについても、スタートアップ企業が担う部分が少なくないわけですから、ここでも通常の企業や産業に関する経済学とは別の経済学研究が進められるべきです。本書はそういったニーズに即してスタートアップの経済学に特化した研究成果を集めています。まず、スタートアップ企業では市場の失敗が通常の企業や産業と比べて大きいと私も認識しています。本書では「新規性の不利益」としています。というのは、おそらく、従来ある業態でのスタートアップというよりは、新しいニッチを探してのスタートアップに重点が置かれているためであろうと私は推測します。例えば、フランチャイジーとしてコンビニを新規に出店するとか、クリーニングの取次店を開くというスタートアップよりは、何らかのイノベーションを利用した新い製品とか、新しい製造方法に即した生産とか、いわゆるシュンペーター的なイノベーションを実用化するスタートアップに重点が置かれています。ですから、かなり外部性が大きいにもかかわらず市場では評価されず、また、新規性故に情報の非対称が大きい、といったことがあります。その上で、スタートアップ企業を起業するアントレプレナーの個人的な資質を論じ、スタートアップ企業を取り巻く企業環境について明らかにしています。ただ、本書でも指摘されているところですが、スタートアップ企業については成功例ばかりが注目される一方で、じつは、その背後には失敗して市場から退出するスタートアップが大量にある、という点は忘れるべきではありません。最も、本書では特に第8章で、スタートアップ企業の退出は決して常にバッド・ニュースであるわけではない、と指摘しています。そして、スタートアップに対する公的支援については、市場の失敗に起因する創業支援や資金不足に対する支援は、もちろん、あり得るとしても、企業のハードルを一律に低下させる公的支援については大いに否定的です。その意味で、アントレプレナーシップ教育の重要性が浮き彫りになります。日本では、リスクを取った挑戦ということが、積極的・肯定的な受け止めをなされず、むしろ、ギャンブルのようなムチャで好ましくない「暴挙」のようにみなされる意識が、デフレ経済下で高まっています。逆に、そいうか、それだけに、中央・地方の政府を上げてスタートアップ支援については大盤振る舞いされる傾向もあります。また、大企業のほうがイノベーションには有利であるとするシュンペーター仮説を無視して、スタートアップ企業に対して過大にイノベーションを期待する向きもあります。私自身はマクロ経済学を専門としていて、本書のようなマイクロな経済学はややや苦手なのですが、こういったキチンと学術的な分析を基にした議論がなされるよう期待したいと思います。ただ、ひとつだけ本書の難点を上げると、データ・研究成果ともにやや古いキライがあります。私は専門外だけに印象論となってしまいますが、「ホントにこれが最新データで、最新の研究論文なのか。もっと新しいのはないのか?」といった疑問を感じないでもない部分がいくつかありました。

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次に、降田天『事件は終わった』(集英社)です。著者は、ミステリ作家なのですが、その昔のエラリー・クイーンや岡嶋二人よろしく、執筆担当の鮎川颯とプロット担当の萩野瑛の2人による作家ユニットです。ということで、本書は12月20日という年の瀬も迫った折に起こった地下鉄内無差別殺人事件、すなわち、犯人がナイフで妊婦に切りつけようとして、止めに入った老人を刺殺するという事件について、冒頭の「00 事件」で短く紹介した後、その後日譚として始まります。「00 事件」を除いて6編の連作短編を収録してます。各短編でクローズアップされる事件関係者はまず、「01 音」では、一目散に事件現場から逃げ出したことをSNSにさらされて、その行為から非難されたことにより、職を失って引きこもりとなった20代の元サラリーマンは、毎日のように正体不明の音に悩まされます。続いて、「02 水の香」では、切りつけられた妊婦は幸いにも軽症ですみましたが、事件後に「霊が見える」といい出し、水の腐った匂いに悩まされます。続いて、「03 顔」では、事件発生の車両に乗っていたという高校テニス部員がケガを克服してインターハイに出場する過程を、同じ高校の報道部員が取材します。続いて、「04 英雄の鏡」は、私のような浅い読み方の読者は、少し理解に苦しんだのですが、ホストを主人公にしています。詳しく書くと叙述トリックのネタバレになりますのでヤメにしておきます。続いて、「05 扉」では、「03 顔」の高校テニス部員と報道部員が、未来を知ることが出来る「未来ドア」のインチキを暴きます。最後の、「06 壁の男」では妊婦を守って刺殺された老人が、どういった人となりで、なぜ妊婦を守ろうとしたのかの理由が明らかにされます。ということで、世間的には一般的にいって事件が終わった、と考えられるつつも、じつは、事件に何らかの形で関わった関係者には、決して事件は終わっていない、ということです。そして、私は、基本的に、ミステリとして読みましたが、隣接ジャンルで、かなり、オカルトやホラーの要素も含んでいます。でも、そういった超自然現象は、本書では科学で解明されます。そういった観点では、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズに似ているかもしれません。

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次に、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)です。著者は、時事通信をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。岩波新書から、本書の前に『官僚たちのアベノミクス』、『ドキュメント 強権の経済政策』を出版していて、本書で3部作の完成、ということのようです。私自身は『官僚たちのアベノミクス』は既読ですが、『ドキュメント 強権の経済政策』は読んでいません。ということで、ジャーナリストによるアベノミクスの記録、といえそうです。そして、もちろん、アベノミクスが変化していったさまをあとづけています。ジャーナリストらしく、政治家の影響力を中心に変化の要因を考えていますので、客観的、というか、政策変更の背景となる経済動向については、それほど詳細な観察がなされているわけではないような印象を持ちました。あるいは、逆から見て、私は政策変更の背景の政治家の影響力についてはほぼ無視していますので、私の目から見て経済動向が軽視されているようにみえるだけかもしれません。ということで、私は政治家や官僚あるいは中央銀行幹部のインタラクティブな関係や影響力の行使などにはそれほど興味はありませんので、経済動向との関係で政策変更を考えると、何といっても本書でも指摘しているように、金融政策と財政政策のバランスだろうと考えます。2012年年末の政権交代から、本格的にアベノミクスが始まった2013年には、金融政策も財政政策も、どちらも脱デフレに向けて景気拡大的に運営されていた一方で、2014年4月に消費税率引上げが実施され、軽減品目無しで5%から8%になりました。そして、この緊縮的に運営された財政政策がアベノミクス最大の失敗であった、と私は考えています。ただ、本書でも指摘されているように、震災からの復興税の増税には国民が好意的であることが世論調査の結果などから明らかにされた点も政治的には考慮されたんだろうと思います。加えて、浜田教授をはじめとしてシムズ論文から「物価水準の財政理論」に関心が移ったのは事実かもしれません。でも、安倍内閣の後の菅内閣まで含めたアベノミクスを考えるとしても、私は2014年4月と2019年10月の2度に渡る消費税率引上げを見る限り、財政政策はアベノミクスのしたので緊縮的に運営された、と考えています。ですから、財政政策が緊縮的であっただけに、金融政策が過剰に緩和的に運営される必要があったと考えるべきです。ちょうど、来週に日銀総裁・副総裁の候補が国会に示されると報じられていますが、黒田総裁の異次元緩和という記入政策だけを取り出して議論するのではなく、アベノミクスの下で緊縮的に運営された財政政策とセットとして経済政策、アベノミクス、あるいは、現在の岸田内閣の下でのポストアベノミクスについて、評価する必要があります。

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最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)です。著者は、LGBT法連合会事務局長ということですが、市民活動家のカテゴリーに当てはまるのではないか、と私は考えています。本書の副題が「ジェンダーやLGBTQから考える」となっており、いろんな差別がある中で、LGBTQから見た差別を中心に議論していますが、それ以外にも当てはまる論点が提示されていると私は考えています。LGBTQの問題に関しては、私自身はしす現だ~のヘテロセクシュアルであって、しかも、中年・初老の男性として、ある意味で、もっとも保守的と考えられるクラスに属しています。ですから、頑迷固陋な意見を持つ同僚や友人はいっぱいいます。ただ、私自身は基本的にリベラルなナチュラリストであって、ご本人や周囲がよければ構わない、と考えています。よく引用する文句は「いいじゃないの、幸せならば」だったりします。ただ、本書に関して2点付け加えたいと思います。第1に、私はエコノミストとして、大学生向けに経済学の授業をする際に、基本的に、「思いやりでは解決しない」と同じことをいっています。すなわち、「経済学とは政策科学であって、ひとのココロの問題ではない」ということです。小学生レベルであれば、「人のココロから憎しみがなくなれば戦争しない」なんてのもいいのですが、経済学を学ぶ大学生に対しては、キチンと制度的な対策や組織的な政策が必要と教えるべきだと私は考えています。反論する学生は今までいませんが、反論されたら、「交通安全を願うココロだけでは交通事故はなくならない。信号や横断歩道や速度制限などの交通ルールが必要」と回答します。第2に、総理秘書官の放言や辞任問題と関連して、岸田総理自身の「社会が変わってしまう」発言が問題視されていますが、私は別の意味で「社会を変えたい」という観点も必要と考えています。直接にLGBTQではないのですが、私は女性の管理職を大幅に降らすことが出来れば、日本の経済成長を大いに加速することが出来ると期待しています。それはまさに、「社会が変わるほどのインパクト」を持った大変革であるべきです。繰り返しになりますが、LGBTQには詳しくありませんが、まさに、保守的な人々が「社会が変わる」と思うくらいの大変革をもたらすインパクトある制度を構築する必要があるのではないか、と考えています。そうすれば、保守的な人々の「ココロ」の持ちようも変わると期待できます。
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2023年02月04日 (土) 09:00:00

今週の読書はまたまた経済書なしで計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)は、社会主義時代の旧東ドイツのジョークを収録しています。あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)は、小暮進次郎と遠野屋清之介が主人公となる弥勒シリーズの時代小説で、シリーズ第11巻目となります。絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)は、十数年前の『逃亡くそたわけ』の続編であり、富山県を舞台にしています。保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)は、太平洋戦争を中心に昭和史をひも解いています。最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)は、新宿歌舞伎町を舞台に中年男性から風俗産業で資金を得た女性がホストに貢ぐというエコシステムを貧困女性に対するインタビューをてこに明らかにしています。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って今週の5冊の計25冊となっています。後期の授業を終えて、何となくだらけて経済書を読んでいないのは別としても、『乱鴉の空』は私はミステリと考えていますが、最近の読書では極めてミステリが少なくなっています。来週こそはしっかりとミステリも読みたいと思います。

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まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)です。著者は、ドイツ製品文化・サブカルライターと東ベルリン生まれでドイツ語ネイティブのフリーライターです。実は、1月21日付けの朝日新聞の読書欄で紹介されていて大学の生協で買い求めました。日本人的な観点からすると、欧州のジョークは英国が一番であって、ドイツ人はそれほどジョークを得意としているわkではない、特に、社会主義体制下の旧東ドイツは尚さら、という見方がありそうな気がしますが、私はそれなりに外国生活を経験して、旧ソ連や社会主義だったころの東欧圏でもジョークはいっぱいあるのは知っていました。例えば、先日のブログでも取り上げましたが、東ドイツ製の自動車トラバント(あるいは、ソ連製のラダでも何でもOK)とロバが道で出会った際の会話で、ロバがトラバントに対して「自動車くん」っと挨拶を呼びかけるのに対して、トラナbトが挨拶を返して「ロバくん」と呼びかけると、ロバが不機嫌になり、ロバの方はトラバントに対して「自動車」とサバを読んで格上げしているのだから、トラバントもロバのことを「ウマ」くらいにお世辞をいえないのか、と文句を垂れる、といったものです。トラバントは「自動車」ではない、それは、ロバがウマではないのと同じ、という趣旨です。もっとも、私の知っているこのトラバントに関するジョークは本書には収録されていませんでした。ただし、本書でも、そういった種類の旧東ドイツに関するジョークが、ドイツ、ないし、東ドイツの概要の解説から始まって、政治ジョーク、お役人ジョーク、生活ジョーク、インターナショナルなジョーク、ブラックなジョーク、などと分類されて収録されています。ドイツ語の表現とともに収録されていて、当然に、邦訳するよりもドイツ語そのままの方がヒネリが利いている、というジョークが少なくありません。実は、私は大学生の頃は第2外国語はドイツ語を取った記憶が鮮明にあるのですが、まったくドイツ語は理解しません。むしろ、在チリ大使館に3年間勤務しましたので、スペイン語の方が理解がはかどります。でも、東欧のスラブ語ではなく、西欧のラテン語から派生した言語はそれなりに共通性があります。英語で clear は日本でも理解されやすい外来語ですが、ドイツ語では klar、スペイン語では claro になります。英語では限られた意味しか持ちませんが、ドイツ語やスペイン語では単独で使うと「もちろん」という肯定の回答になったりします。おそらく、イタリア語とスペイン語は大元のラテン語にもっとも近いんではないか、と私は想像しています。でも、他の言語をそれほど理解しませんし、パリに行った際にはフランス語ではなくスペイン語ですべて済ませていた程度の語学力ですので、詳細は不明です。脱線しましたので本書に戻ると、私も知っている範囲で、モノ不足をモチーフにしたジョークと情報制限や情報操作をモチーフにしたジョークが印象的でした。前者では、資本主義地獄に対して社会主義地獄では生産が不足して針山ができない、とかですし、後者ではナポレオンが東ドイツの製品でもっとも欲しがるのはご当地の新聞で、ワーテルローで破れたことを知られずに済む、というものです。ナポレオンについては、本書では言及していませんが、ロスチャイルドがワーテルローで英国勝利の情報をいち早く得て巨利を得た、という史実を踏まえています。本書で欠けている最後のポイントなど、もう少しドイツから視野を広げた方がジョークをより楽しめる、という些細な難点はありますが、まあ、面白い本でした。

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次に、あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)です。著者は、『バッテリー』などの青春小説でも有名な小説家です。本書は「弥勒」シリーズの最新刊であり、シリーズ第11作めに当たります。私は、たぶん、全部読んでいると思います。主人公は、極めてニヒルですべてを見通したかのような八丁堀同心の小暮進次郎、そして、国元では刺客・暗殺者として育てられながら江戸に出て商人として成功した遠野屋清之介ですが、小暮進次郎の手下の岡っ引きである伊佐治も重要や役回りを演じます。ということで、本書では、小暮進次郎の屋敷が奉行所の探索にあって小暮進次郎が姿をくらますとともに、手下の伊佐治が大番屋にしょっぴかれて取調べを受けるところからストーリーが始まります。まずは、遠野屋清之介が伊佐治の店である梅屋に現れて、商いのツテから伊佐治の釈放に努めます。そして、小暮進次郎の行方は遠野屋清之介がつきとめ、別の案件に見えた鍛冶職人やその関係者が襲われるという事件から、謎が解かれていきます。実に大きな天下国家にかかわる事案であることが明らかにされます。本書では、最後の方に遠野屋清之介に発見されるまで、ほぼほぼ小暮進次郎が不在なので、いつもとは違う雰囲気のストーリー展開です。その分、というわけでもないのでしょうが、伊佐治の家族、というか、梅屋の一家の様々な面を垣間見ることができます。また、このシリーズは時代小説ながら、基本的にはミステリだと私は理解しており、これまた、小暮進次郎の頭の中だけで謎解きがなされる、というのもこのシリーズの特徴です。ある意味で、このシリーズの終りが近いことを感じさせた作品でした。というのは、このシリーズは町方の小さな事件から始まって、少し前には抜け荷=密輸のお話が出てきましたし、この作品では、繰り返しになりますが、公儀を揺るがせかねないほどの天下国家の大事件が背景に控えている可能性が示唆されます。同心と岡っ引きの事件探索に実は凄腕の剣術家の商人が関わってストーリーが展開される、という基本ラインはほぼほぼ終了した気がします。でも、少なくとも遠野屋に手妻遣いの新たな人物が送り込まれてきましたし、少なくとも次回作には続くんだろうと思います。まあ、何と申しましょうかで、シリーズ終了まで私は読み続けそうな予感があります。最後の最後に、有栖川有栖の本格ミステリに『乱鴉の島』というのがあります。大丈夫と思いますが、お間違えにならないようご注意です。

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次に、絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)です。著者は、小説家であり、「沖で待つ」により芥川賞を受賞しています。たぶん、私はこの「沖で待つ」と、本書の前作に当たる『逃亡くそたわけ』とか、やや限られた作品しか読んでいません。ということで、前作に当たる『逃亡くそたわけ』は福岡の精神病院から20歳過ぎの女子大生の花ちゃんが、名古屋出身で慶応ボーイの20代後半サラリーマンのなごやんが脱走して、阿蘇や鹿児島までクルマで逃走する、というストーリーでした。本書は、何と、その花ちゃんとなごやんが十数年を経て富山県で再会し、ともに家族持ち、というか、結婚して配偶者を得、さらに、子供もともに1人ずつもうけるという舞台設定での続編です。ですから、前作で何度も登場したマルクス『資本論』からの一節はまったく出てきません。そして、前作では、まだ精神病が治り切っていない段階でも逃亡劇でしたが、本作では薬の服用はあるものの、ライオンめいた精神科医に飛び込んで診察して薬の処方箋を出してもらう、といったシーンはありません。ストーリーは、2人が富山県で再会して家族ぐるみのお付き合いが始まる、というところから始まり、共通の趣味であるキャンプに行ってなごやんの家の犬が行方不明になって探したり、さまざまな人生、もちろん、タイトル通りのまっとうな人生に起こり得るイベントへの対応で進みます。最後の方で、なごやんが音楽フェスに行くかどうかで、絶対に行くというなごやんと反対する花ちゃんやなごやんの奥さんが仲違いしそうになったり、といったクライマックスに向かって進みます。このあたりは、コロナ文学の一部が現れています。実に、作者の筆力がよく出ている優れた作品です。ストーリー、というか、大衆文学に求められがちなプロットの面白さ、あるいは、結末の意外性などをまったく持たなくても、これだけ書ければ読者は満足する、という意味での純文学のパワーが感じ取れます。まあ、シロートが書いているわけでもないですし、芥川賞作家なのですから当然といえます。ただ、プロットではないかもしれませんが、「沖で待つ」にせよ、前作『逃亡くそたわけ』にせよ、この作品でも、恋愛関係にない男女の仲、というか、関係や心の動きなどを実にうまく表現しています。他の作品をそれほど読んでいるわけではありませんが、この作者の真骨頂を増す部分かもしれない、と思ったりしています。男女の機微も含めて、本書では風景や情景というよりも、登場人物の心の動きが実に繊細かつ美的に描写されています。それらを表現する言葉を選ぶセンスが抜群です。まあ、これも当然です。最後に、2011年3月の東日本大震災やそれに起因した原発事故の後には、震災文学と呼ばれる作品がいくつか発表されました。本書は、その意味でいえば、コロナ文学といえるかもしれません。私は不勉強にして、ほぼほぼ初めてコロナ文学を読んだ気がします。なごやんの音楽フェス待望論ではないですが、コロナとの付き合い方を登場人物が正面から考え、小説としてコロナのある日常を描こうという試みの小説は、他にもあるとは思うものの、その中心をなす作品かもしれない、と思ったりも足ます。

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次に、保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)です。著者は、作家、評論家とされていますが、私は基本的にジャーナリストに近いラインと考えています。ですから、文藝春秋の半藤一利と同じような属性、と考えていたりします。なお、本書の最終第5章のそれも最後の方で半藤一利が言及されていて、本書の著者はそれに対して「作家の」という形容詞を付けていて、やや笑ってしまいました。他方で、著者は太平洋戦争当時の軍部に対してき分けて批判的な見解を本書でも明らかにしており、ある意味で、リベラルなのかもしれない、と思ったりします。まあ、違うかもしれません。ということですので、本書のタイトルに即していえば、昭和史の最大重視されるべき史実は太平洋戦争、ということになります。ただ、それは本書の著者でなくても大部分の日本国民は同意することと思います。ですから、ハッキリいって、本書はそれほど歴史の勉強になるものではありません。著者独自の見解がいくつか見られますが、たぶん、平均的な日本人と大きくは違わないものと私は受け止めています。加えて、本書巻末で示されているように、本書に初出の論考はありません。すべて、毎日新聞、信濃毎日新聞、共同通信から配信されたコラムなどを編集し直したものですので、新たに発見された歴史的事実が示されているわけでもありません。ただ、いくつか考えるべき論点は示されています。すなわち、著者の最も関心深い戦争についてで、本書では軍部が日清戦争の教訓から戦争を「儲かるもの」として捉え、太平洋戦争でも勝つまで遂行する、という姿勢を崩さなかった、と指摘していますが、私は違うと思います。というのは、基本的に儲かるかどうかを経済学的に考えると、設備投資と同じで投資とリターンの収益性を考えることになりますので、「勝つまで止めない」ではなく、そもそも「始めるかどうか」についてキチンと原価計算する、ということが要諦です。ですから、原価計算が出来ていなかった、というのが真相ではなかろうか、あるいは、原価計算を判断する主体がいなかった、ということだろうと思います。後者から考えるに、本書でも指摘しているシビリアン・コントロールが欠如していた、ということになります。日清戦争や日露戦争では、明らかに、政府首脳が戦争をやるかやらないか、あるいは、どこで止めるか、についてしっかりと判断を下しています。まあ、第1次世界対戦が欧州の勝手で始まって、勝手で終わってしまったために、やや感覚がおかしくなった面はあると思います。でも、経済計算や原価計算で戦争を考えるのは限界、というか、軍部の態度がそうだったとするのにはムリがあります。加えて、ほぼほぼ日本国内で議論が尽きていて、海外の反応という要素がまったく欠落しています。このあたりを批判的に考えながら読み進み必要があります。

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最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)です。著者は、ノンフィクション・ライターで、少し前までは風俗ライターだったと本書では自ら記しています。本書は、タイトル通りに、新宿歌舞伎町、特に、ゴジラヘッドが特徴的な新宿東宝ビルができた2018年以降に、そのあたりに集まり出したトー横キッズなどを中心に、風俗産業や街娼などで中年男性から得た資金をホストに貢ぐといった使い方をする貧困女性などを取材して取りまとめた結果です。なお、おそらく、本書では言及されていませんが、プレジデントオンラインにて本書と同じタイトル、同じ著者による『歌舞伎町と貧困女子』という連載がありますので、おそらく、かなりの程度には連動しているのだろうと想像されます。取材対象はあくまで歌舞伎町貧困女子であり、繰り返しになりますが、表裏を問わず風俗産業で男性から得た資金を持って、多くの場合はホストに貢いだり、何らかの暴力的な要因も含みつつ男性に奪取されたり、といったために貧困に陥っている女性です。そして、中には月収100万円超の女性もいますが、それをホストに貢ぐために稼いでいるのであって、自分の消費に回す部分は極めて小さい、ということが想像されます。加えて、こういったインタビュー対象の女性の中には、何らかの精神的な疾患や障害を抱えている人もいます。個別のインタビィーは本書を読むか、プレジデントオンラインを見るのがベストですので、個々では詳細には言及しませんが、とても悲惨な現状が明らかにされています。まあ、合いの手に、警察の規制が厳しくなって活動範囲が大きく制限されるようになったヤクザの現状なども、まあ、歌舞伎町のエコシステムの一部でしょうから、簡単にルポされていたりします。私は性産業で搾取される女性に極めてシンパシーを感じていて、一般社団法人Colaboの活動などは強く支持していますが、ただ、本書でも例外があって、パパ活の定期19人で月に150万円以上稼いで、ホストに入れあげることもなくガッチリ貯金している女子大生がいましたので、こういうのをクローズアップしてColaboの活動などに反論したりするする連中もいるのだろうと思います。何と申しましょうかで、60歳の定年まで公務員だった私のような凡庸な人間には、なかなか目につかない世界なのだという気はしますが、こういった現実がまだまだある点は忘れるべきではないと思います。最後に、歌舞伎町における資金の流れ、というか、中年男性から風俗産業の女性が資金を得て、それがホストに貢がれる、という歌舞伎町のエコシステムに何度か言及されていますが、その食物連鎖の底辺の男性にはインタビューがなされている一方で、頂点のホストへのインタビューはありません。少し物足りないと感じる読者もいそうな気がします。
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2023年01月28日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書なしで計3冊にとどまる

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)は、早大探検部出身のノンフィクションライターの語学学習に関するエピソードです。続いて新書が2冊で、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)は、総合商社のマルチな活動に焦点を当てており、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)は、毎日新聞のジャーナリストがマルチ商法をルポしています。
ということで、今年の新刊書読書は1月中に計20冊になりました。なお、新刊書ならざる読書については、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)、絲山秋子『逃亡くそたわけ』(講談社文庫)、さらに、萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)も読みました。最後の萩尾望都の漫画はすでに昨日にこのブログで取り上げていますが、それ以外も順次 Facebook などでシェアしたいと予定しています。

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まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)です。著者は、早大探検部語出身の辺境ノンフィクション作家です。表紙画像の帯にあるように、学んだ言語は25以上だそうです。フランス語やスペイン語、ポルトガル語などの西欧言語、あるいは、中国語やタイ語、ビルマ語などのアジア言語のほか、本書の冒頭第2章ではアフリカ言語もリンガラ語の他、いくつか学習しています。もちろん、外国語学習の絶対的なモチベーションは現地に赴いて何らかの活動を行うことですから、本書の眼目としては、タイトル通りの語学学習、そして、辺境を含めた現地事情、の2点となります。後者の現地事情については、著者の他の著作でも広範に紹介されているようですのでサラリと流して、主として語学学習を取り上げたいと思います。というのも、私も在チリ大使館で3年間の勤務経験があり、スペイン語の理解は一応あります。今は今で、大学では英語の授業をいくつか受け持っています。本書の著者は語学学習の要諦として、ネイティブについて学ぶ、とか、ボキャブラリーを重視し、文法は会話するうちに自分で見つける、とかあるのですが、私もかなりの部分は同意します。私の知る限りでも、インドネシアのマレー語もそうで、アフリカの言語などでも動詞の活用がほとんどない言語があります。あるいは、主語と動詞と目的語の語順をそれほど神経質に考えなくてもいい言語もあります。ドイツ語のように助動詞が入れば動詞が語尾に来るとか、フランス語やスペイン語のように目的語が代名詞であれば動詞の前に来るとか、などなどです。ですから、私としてはボキャブラリーが重要と考えています。また、語学に限定せずに、いろんな勉強に当てはまるという示唆もいくつか本書には含まれています。例えば、第4章にあるのですが、近い場所、安い授業料、融通の利く時間帯、というのはよくない場合があり、高いお金を払って、遠い場所までわざわざ行って、固定された時間に最優先で授業を受ける勉強こそが身につく、というのは真実の一部を含んでいると思います。25年ほども前の大昔ながら、私は公務員試験委員として人事院に併任されて試験問題の作成を経験したことがあるので、今でも学生諸君から公務員試験のアドバイスを求められたりするのですが、公務員試験対策の講座は取った方がいいと思っています。たぶん、30万円以上かかると思います。でも、それくらいの金銭的時間的な負担をしてモチベーション低下を防止した方がいい場合も少なくありません。最後に、私も本書にあるような挨拶や感謝や謝罪のない言語というものは想像できませんでした。英語とスペイン語はもちろん、マレー語にも時間帯ごとの挨拶の言葉がありますし、感謝や謝罪の表現は何通りかあります。意思疎通というよりは、社会生活を送る上で困らないのか、と考えてしまいました。

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次に、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)です。著者は、サービス・マーケティング研究家ということになっています。総合商社勤務の後、コンサルタントとして活動し、その後、大学教授もしているとされています。基本的には、総合商社の提灯持ちの本なのですが、実体の判りにくい業態だけにこういった解説書は有益です。副題にあるように、総合商社を「最強のビジネス創造企業」と位置づけています。まず、本書にもある通り、総合商社ではない専門商社という卸売業の企業も日本にはいっぱいあります。典型的に、私が知る範囲では鉄鋼商社や食品商社などです。しかし、本書でも指摘しているように、総合商社では単なる売買の商行為だけではなく、金融や投資も含めた幅広い活動をしています。私はこういった幅広い活動については、まさに、「マルチ」という用語を当てるのが適当だと考えます。マルチな活動をするだけに、本書では言及していませんが、英語で総合商社に相当する定訳がありません。というか、正しくは sogoshosha であって、サムライ、フジヤマ、ゲイシャなどと同じで日本語がそのまま英語になっています。それほど独特なマルチの活動を展開しているといえます。本書では、そのマルチな活動として、主として8つの活動をp.178以降で取り上げています。本書では、冒頭で社史をひも解いていて、まあ、それはそれでいいのですが、このあたりのマルチな活動はもっと早い段階で紹介しておくのも一案かと思います。そして、総合商社の活動の基本になっているのは、やはり、マルチな活動であるがゆえに業としての規制がほぼほぼないという点も忘れるべきではありません。私の学生時代には、大規模な製造業、日立とか、トヨタとか、当時の新日鉄とかに加えて、今でいうところのメガバンク、当時の表現でいえば都市銀行、総合商社などが人気の就職先でした。私のゼミの先輩で本書でも紹介している堅実経営の総合商社に就職したものの、ヘッジのための為替取引を担当し2-3年おきに胃潰瘍を患って入院をしていた人もいたりします。それなりに体力的には過酷な業務ながら、やりがいもあると聞き及んだことがあります。私のゼミの学生で総合商社に就職する学生が出るよう願っていたりします。

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最後に、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)です。著者は、毎日新聞のジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、街中で「いい居酒屋知らない?」と声をかけて、マルチ商法のマインドコントロールに追い込んで、人間関係からカネを搾り取る脱法マルチについてルポしています。こういったマルチ商法は、基本的に、カルト宗教と同じで、人間関係からマインドコントロールに入って、基本的には、経済的に金銭を搾り取る、という形になります。マインドコントロールという点では宗教カルトと同じです。そして、カネを目的としている点も同じです。マルチ商法とは、経済学的にはすでに解明されていて、いわゆるポンジスキームという名称まで与えられています。ポンジースキームとは、マルチ商法の逆回りでいえば、借金で借金を返すという雪だるま式に借金が増えるだけで、サステイナブルであるハズもなく破綻に向かうだけです。合理性はまったくありません。このスキームは、それらしく、本書p.189に図解されていますが、ネズミ講=無限連鎖講と同じで、いつかは破綻します。なお、宗教については、合理性ないのは明らかなで「信ずる者は救われる」ので世界すが、マルチ商法のように一見経済行為と見える活動に対して合理性が働かないのは私はかねてからとても不思議に関していたのですが、マインドコントロールで宗教的に、というか、心理学的にコントロールされているのだとは知りませんでした。結局のところ、近づかないのが一番、という気がします。というのは、私が父親からいわれたのとほぼ同じ注意を倅どもが高校を卒業して大学に入る時にした記憶があり、第1に宗教は絶対にダメ、第2にマルチ商法は逃げられるのなら見極めて逃げるべし、第3に学生運動はホントに正しいと心から信じるのであればOK、というものです。しかし、マルチも宗教と同じでマインドコントロールされるのであれば逃げられない確率が高く、最初から手を出すべきではない、ということになりそうです。最後に、私は実は国民生活センターに勤務した経験があり、マルチ商法にはそれなりに知見があります。その目で見れば、やや取材が甘くて踏込み不足な点も見受けられます。でも、まったくマルチ商法について情報ない向きには、それなりに参考になると思います。
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2023年01月27日 (金) 12:00:00

萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読む

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萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読みました。1967年に出版された光瀬龍の同名のSF小説を原作として萩尾望都が漫画化しています。原作の小説にせよ、漫画にせよ、いくつかのバージョンがあるのですが、今回、私が読んだ漫画は小学館のプチコミックスから1985年に出版されたものでした。でも、この漫画が『少年チャンピオン』に連載されていたのは1970年代後半だと思います。どうでもいいことながら、1985年なんて大昔という印象がありますが、私はすでに公務員として働き始めていましたし、この年に阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制しましたので、役所で祝勝会をやった記憶もあります。
ということで、なぜ読んだのかというと、先週の読書感想文ブログで、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)を取り上げた際に、人類は肉体を棄てる、という結論を紹介しました。同時に、この『百億の昼と千億の夜』の漫画では、「A級市民はコンパートメントが提供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていた」と不確かな記憶を引いておきました。その私の記憶を確認するために読みました。はい。私の記憶が正しかったです。ゼン・ゼン・シティではでっぷりと太ったA級市民はコンパートメントで眠っており、B級市民がコンパートメントを欲しがる、という部分があります。
またまた、どうでもいいことながら、いくつか不確かな知識を並べておくと、第1に、この1970年代から1980年代前半くらいまで、このころの日本の上流階級、というか、今でいうところの富裕層というのはゼンゼン・シティのA級市民のように、でっぷりと太っていた記憶があります。北朝鮮や中国の政権トップの体型は今でもそうなっているという気がします。40-50年くらい前までは日本の政権トップも似たようなものでした。ひょっとしたら、ある種のステータスであったのかもしれません。別のトピックながら、三島由紀夫が「人間というのは豚になる傾向をもっている」と予言したと、適菜収『日本人は豚になる』(KKベストセラーズ)では指摘しています。何かの関連があるかもしれません。ないのかもしれません。第2に、呼び方はともかく、A級市民とB級市民への階級分化については、ほかにもいろんな小説や映画などで扱われています。中でも、強烈に私の印象に残っているのが、貴志祐介『新世界より』(講談社文庫)です。人間とバケネズミの関係などで言及されています。さらに、どうでもいいことながら、この小説も及川徹が漫画化しています。

まったく新刊書読書でもなんでもないのですが、大学の授業や定期試験監督が一段落して、ややココロにゆとりがある週末の前に、冗長ながら、取り上げておきたいと思います。
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2023年01月21日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書のほかに新書4冊も含めて計6冊

今週の読書は以下の通りです。
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)では、古典派ないし新古典派への回帰を図るネオリベな経済理論を強く批判しています。井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)は、メタバースの基本を解説しつつ、メタバースで供給・消費されるデジタル財からなる経済について解説を試みています。中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)では、いわゆる空想的社会主義のサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人の思想や実践に焦点を当てています。牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)は、ナチスをはじめとする全体主義の恐怖を取り上げています。鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)は、徳川期から昭和期1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展史を地形にも注目しつつ跡付けています。辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)は、終戦直後の過酷なシベリアでの捕虜収容所で未来への希望を失わなかった山本一等兵の物語です。
ということで、今年の新刊書読書は今週の6冊を含めて計17冊になります。
どうでもいいことながら、最近、ミステリを読んでいない気がします。ようやく、図書館の予約の順番が回ってきましたので、新刊ではないながらディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)を借りることができました。映画化もされ、話題になったミステリですので、早速、読んでみたいと思っています。

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まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)です。著者は、フランスのエコノミストであり、レギュラシオン理論の第1人者でもあります。フランス語の現代は Une discipline sans réflexivité peut-elle être une science? であり、2021年の出版です。フランス語の現代を直訳すれば「再帰的反省なき学問は科学たり得るのか?」という意味だと思います。キーワードは「再帰的反省」であり、フランス語では "réflexivité" あるいは、英語にすれば "reflexivity" ということですから、英語の "recursivity" や "recursion" ではありません。訳注(p.15)では「研究対象に対する研究主体を客観的に反省すること」とされています。ただ、こういった議論は別にして、本書では20世紀終わりころから、そして、典型的には2008年のリーマン証券破綻からの金融危機、さらに、2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより混乱まで、レギュラシオン学派ならざる主流派経済学、特に、新自由主義=ネオリベな実物的景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクル=RBC理論)の破綻について論じています。もちろん、その解決策がレギュラシオン理論、ということになります。ボワイエ教授の考えでは、本書に限らず他の著作などでも、理論は歴史の娘であって合理性の娘ではない、という点が強調されます。ケインジアンないしニュー・ケインジアンの経済理論を「ミクロ的基礎づけ」の観点から批判し、古典派ないし新古典派への回帰を図る経済理論を強く批判しています。特に、私が強く同意するのは経済学の数学化に関する第5章から第6章の議論であり、何度か私も主張しているように、エコノミストが用いている経済学のモデルは現実に合わせて修正されるのではなく、逆に、モデルに適合するように政策的に現実の経済社会が古典派の世界に近づけられている危惧が本書でも指摘されています。もちろん、どうしてエコノミストがそのようなインセンティブを持つかといえば、エコノミストのヒエラルキーがあるわけで、私のように上昇志向を持たない例外は別にして、トップ・ジャーナルへの掲載を志向すれば、いろいろと制約条件が重なるわけです。経済学が専門職業化し、さらに学問分野が細分化され、個々のエコノミストの視野狭窄が始まると、経済学が現実の経済社会の問題を解決する能力が低下しかねない、というのはその通りで、現実に生じていいるといえます。そして、経済学をもとから考え直すべき基礎は歴史である、と著者は強く主張します。私はこの点にも合意します。経済学があらぬ方向に向かってしまった今となっては、さまざまな観点からの経済学の再生めいたアクションが必要なのかもしれません。

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次に、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)です。著者は、駒澤大学のエコノミストです。冒頭にタイトルとなっているメタバースの簡単な解説をした後、本書の主張はノッケから、将来の経済がスマート社会とメタバースに分岐する、というところから始まります。すなわち、どちらもAIやデジタル技術が大いに活用されるわけですが、現実社会がAIの活用などによって純粋機械経済に近づくのがスマート社会であり、後者のメタバースとは、大雑把に、仮想現実(VR)や拡張現実(AR)が進化したものであり、通貨も仮想、あるいは、暗号通貨だったり、アバターで活動して生身の人間の所在が問われないわけです。もちろん、本書は現実社会の空間がスマート化していくことはスコープ外であって、後者の仮想・拡張空間の進化型の経済活動を対象にしています。ですから、メタバースにおける経済活動は純粋デジタル経済になります。そのココロは、純粋なデジタルな財とサービスだけが供給される経済、ということになります。実体経済のスマート化が進み、デジタルでない実体あるモノやサービスはスマート社会から供給され、メタバースで供給・消費されるデジタル財は実体のあるモノやサービスではありませんから、資本財は不要で、限界費用はコピーですからゼロになり、差別化された財の供給という意味で独占的競争が支配的になります。ですから、希少性に従って市場で価格付がなされ、その価格に応じて資源配分されれば効率的、という経済学ではなくなります。限界費用がゼロで供給が無限、というか、経済学的に正しくいえば、希少性がゼロになります。私のような単純エコノミストがパッと思い付きで考えれば、資本主義社会の次に来る社会主義を飛び越して共産主義になるようなものです。ですから、本書でも真剣に資本主義がどう変わるかを第5章で議論しています。現在の企業に代わって、分散型自立組織=DAO (Decentralized Autonomous Organization)が経済活動の中心になれば、資本家/経営者/労働者といった階級分化はなくなり、デジタル通貨により銀行支配が大きく縮小する可能性が示唆されます。同時に、格差についても、明らかに、地域格差は縮小、というか、消滅の方向に向かいます。気候変動=地球温暖化も緩和される可能性が示唆されます。そして、本書の最後の結論は人類は肉体を棄てる、というものです。ここまでくると、まるっきりSFチックなものですから、眉唾で懐疑的な見方が増えそうな気もします。この結論は別としても、メタバースないしメタバース経済に関する入門書としては適切ではないか、と私は考えます。最後の最後に、人類が肉体を棄てるかどうかについて、光瀬龍の原作を基にした萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』では、A級市民はコンパートメントが供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていたように私は記憶しています。まあ、やや記憶が不確かなのは認めます。

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次に、中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、専門は政治学です。本書でいうところの「社会主義」は、理論とか運動場の社会主義であって、しかも、その前夜ですのでマルクス主義的な科学的社会主義ではなく、サン=シモン、オーウェン、フーリエの3人を軸とする空想的社会主義について、経済社会の時代背景などとともに振り返っています。すなわち、資本主義社会黎明期としての19世紀初頭から半ばにかけて、フランス革命後の政治的、あるいは、産業革命期に不安定だった経済社会、資本家と労働者のはなはだしい貧富の格差、貧困層の劣悪な労働・生活環境といった問題に取り組んだ理論・思想・運動としての社会主義の誕生の時期にスポットを当てています。後には、暴力革命による体制変革を目指すマルクスとエンゲルスによって空想的社会主義と名付けられ、まあ、マルクス=エンゲルスの科学的社会主義よりもやや質落ちの印象が与えられましたが、オーウェンが米国で始めた労働協同村ニューハモニーとかの実践も本書では取り上げています。ただ、空想的社会主義のその後の歴史的な発展は本書ではややスコープ外とされているようで、英国ではフェビアン協会から労働党が組織されたり、あるいは、欧州各国で革命的な共産主義ではなく改良主義的な社会民主主義の正統が政権に参加したりといった活動は本書では取り上げられていません。もちろん、マルクス=エンゲルスによる科学的社会主義が現在の共産主義につながっていることは明確なのですが、空想的社会主義が社会民主主義につながっているのかどうかは私はよく判りません。ただ、病気の治療なんかもそうですが、経済社会の問題解決に当っては対症療法というのも決して無視してはいけない、と私は考えています。例えば、人類はほぼほぼ天然痘を地球上から駆逐したといわれていますし、こういった病気の克服というのは、もちろん、ある意味での最終目標なのかもしれませんが、熱を下げたり咳を止めたり痛みを緩和したりといった対症療法も必要な場合は少なくないと考えます。また、マルクス=エンゲルス的な社会主義/共産主義がソ連東欧で失敗したわけですし、対症療法として、あるいは、空想的とはいえ、こういったサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人が果たした役割というのは決して小さくない、と私は考えています。

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次に、牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)です。著者は、広島大学名誉教授で専門は政治学や政治思想史です。タイトル通りに、ハンナ・アレント女史を反全体主義という観点から取り上げています。ハンナ・アレントといえば、アイヒマン裁判の傍聴から「悪の凡庸さ」を指摘した、くらいしか情報を持たない私のような専門外のエコノミストはちゃんと認識していなかったのですが、権威主義体制と暴政(専制)と全体主義を区別して、判りやすい概念図としてpp.40-41に示してあります。暴政(専制)は1人の暴君がその他すべてを等し並に支配するのでやや判りやすくなっています。他方で、権威主義では超越的な指導者から取り巻きがヒエラルキー=階層構造を成している一方で、全体主義では指導者から同心円的な構造をなしていて階層構造を成していない、という違いがあるそうです。そして、というか、なぜなら、ハンナ・アレントが喝破したように全体主義とは運動である、と考えるべきだからです。もちろん、ハンナ・アレントの全体主義はほぼほぼナチス/ヒトラーと同じと考えるべきですが、当然ながら、イタリアのファシズムや日本の戦前体制も同様の特徴を兼ね備えています。他方で、本書では反ユダヤ主義や全体主義について、かなり歴史的に古くまで概観しているのはいいとしても、同時に、特に、反ユダヤ主義的行為、というか、ユダヤ人虐殺が権威主義的なパーソナリティに基づいて実行されている点は軽く扱われているような気がします。トイウノハ、アイヒマン的にユダヤ人虐殺に対して何らの人道的な痛みも感じることなく、いわば「上司からの命令に基づく業務遂行」のような形で実行している点は私はそれなりに重要な点だと考えています。のちの、ジンバルドー教授によるスタンフォード監獄実験の結果と同じで、役割を割り振られれば良心に反する行為でも実行されかねない危うさは指摘してもしすぎることはないと思います。他方で、私のようなエコノミストの目からすれば、反ユダヤ主義がナチスの残虐行為の源泉とみなされるのも、やや危うさを感じます。ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で指摘したような過酷な賠償という要因も忘れるべきではないからです。最後に、私の読み方が浅かったからかもしれませんが、やや読後感がよくなかったのは、どこまでがハンナ・アレントの考えで、どこからが著者自身の考えかが、必ずしも判然とはしなかった気がします。一般向けのコンパクトな新書ですから、学術論文的に引用や参考文献をどこまで示すかは議論あるところですが、少なくとも、ハンナ・アレントの主張と、それを基にした著者自身の考えは、もう少し判りやすく記述してほしかった気がします。

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次に、鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)(ちくま新書)です。著者は、東京都水道局ご勤務の公務員のようです。ただ、おそらくは技術者ではなく、ビジネス関係の大学のご卒業です。ということで、タイトルから明らかなのですが、近世徳川期から現代、大雑把に昭和の1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展を跡づけています。ただし、タイトルのように地形で跡づけているのは江戸期だけで、明治期以降の近現代はあまり地形には関係なく、というか、科学技術の進歩によって地形の制約が薄れた、ということなのだろうと思いますが、結果的に地形とは関係薄い東京の発展、ということになっています。お仕事柄なのかどうか、江戸期の上水道に関してはとても詳細な解説でした。でも、地形に即しているとはいえ、やや土木技術的な観点が多くて、専門外の私には判りにくかった気がします。他方で、社会科学的な観点から江戸・東京の発展史について、背景も含めて、判りやすく、かつ、多くの読者が興味を持てるように語られているわけでもないわけで、私の目から見て、やや辛い評価なのかもしれませんが、歴史書や事業史といった既存の参考文献をひもといて事実関係を羅列したに近い印象でした。まあ、私のように、浅草に使い下町から城北地区、世田谷区や杉並区といった山の手の住宅街、さらには多摩地区までいろいろと東京の中でも移り住んで、それなりの土地勘ある読者にはいいような気もしますが、それ以外の東京についての情報が少ない読者には大きな興味を持てる内容とは思えませんでした。私は年に何冊か「京都本」を読みますし、おそらく、それほど京都に土地勘ない読者にも興味を持てるように工夫されている感覚が判るのですが、本書については東京在住者の、しかも、読解力が一定の水準に達した、もしくは、マニア的な読者がターゲットなのかもしれません。でもまあ、それだけ東京や首都圏に人口が集中しているわけなので、読者も多数に上るのかもしれません。

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最後に、辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)です。本書は映画のノベライズ小説です。著者は、映画の原作となった『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の作者の小説家と映画の監督です。表紙画像にあるように林民夫監督作品として、二宮和也と北川景子の主演で昨年2022年12月に封切られています。私は不勉強にして映画は見ていません。まあ、何と申しましょうかで、映画は見なくてノベライズ小説を読んでおく、というのは、『すずめの戸締まり』と同じパターンだったりします。それはさておき、まず、「ラーゲリ」とはロシア語で強制収容所を意味します。そうです。この小説は、終戦直前に中国の旧満州から一家が帰国しようとする際に、家族と離れてシベリアの強制収容所に捕虜として抑留された山本幡男一等兵の物語、というか、映画のノベライズです。以下、ストーリーを追いますので、結末までネタバレと考えられる部分を含み、この先は自己責任で読み進むことをオススメします。ということで、十分な食事や休養も与えられずに、まったく国際法や基本的人権を無視されたまま強制労働に従事させられ、栄養失調や過酷な労働で病気や怪我をした上に、十分な治療もなされずに亡くなったり、あるいは、自ら命を断ったりする収容者が続出する中で、主人公の山本幡男一等兵は未来への希望、すなわち、家族の待つ日本への帰国の希望を持ち続け、人間らしい尊厳を保ちつつ、日々を過ごします。こういった人柄が収容所の周囲の人々にも伝播し、少しずつ収容者の気持ちにも変化が見られます。しかし、山本幡男一等兵を病魔が遅い十分な治療を受けられずに亡くなります。その直前に、長い長い遺書を書くわけですが、こういった遺書は収容所では許されず没収されるリスクがあることから、宛先別、すなわち、母宛、妻宛、子供達宛に分割して周囲の友人が記憶し、待ちに待った帰国の際の船中で文書に書き残し、帰国後に遺族を探し出して遺書を届ける、というストーリーです。私は感激しながらも涙なしで読み終わりましたが、読者、あるいは、映画の鑑賞者によっては滂沱の涙を流す人がかなりいそうな気がします。たぶん、泣きたい人にはオススメでしょう。
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2023年01月19日 (木) 23:30:00

千早茜『しろがねの葉』直木賞受賞おめでとうございます

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千早茜『しろがねの葉』(新潮社)、直木賞受賞おめでとうございます。作者は、我が勤務校の立命館大学OGだそうです。私は受賞直前に読んでおきました。
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2023年01月14日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書なしで小説を中心に計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)は織豊政権末期から徳川初期にかけての石見銀山での女性の生き様を描き出しています。直木賞候補作であり、私は『光のとこにいてね』とともに、受賞を期待しています。なお、作者は私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。続いて、石井幸孝『国鉄』(中公新書)は、国鉄に技術者として務め、国鉄の分割民営化後はJR九州の初代社長を務めた著者の国鉄に関する歴史や企業体としての記録です。そして、佐伯泰英『異変ありや』、『風に訊け』、『名乗らじ』(文春文庫)は、「居眠り磐音 江戸草紙」のシリーズを引き継ぐ「空也十番勝負」のシリーズです。九州での武者修行を終えた坂崎空也が東に向かいます。
ということで、今年の新刊書読書は、先週の6冊と合わせて11冊となります。

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まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)です。著者は、もちろん、小説家なのですが、私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。この作品『しろがねの葉』のほか、『あとかた』と『男ともだち』が直木賞候補作としてノミネートされています。ということで、時代背景は織豊政権末期から徳川期初期にかけて、地理的には石見銀山、ということになります。主人公はウメという女性であり、農村に生まれますが、逃散の途中で父母と生き別れになって山師の喜兵衛により、石見銀山で育てられます。時代が徳川の世になり、徳川御料地となっても石見銀山の活動に大きな変化はありません。ウメの育ての親である喜兵衛は石見銀山から佐渡に去りますが、ウメは石見銀山に残り、夫婦となって子をなします。しかし、銀山の鉱毒で夫は亡くなり、さまざまな試練に直面しながらも強い生き方が印象に残ります。ウメの生きざまが凛として美しい、と感じました。

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次に、石井幸孝『国鉄』(中公新書)です。著者は、技術者として国鉄に勤務し、分割民営化後はJR九州の初代社長も務めています。戦後の国鉄の公営企業としての社史を跡付けるとともに、技術上の革新や進歩、あるいは、経営上の問題点などを極めてコンパクトに取りまとめています。ただ、「コンパクト」とはいっても、そもそも国鉄は超巨大企業体でしたので、新書としては異例の400ページ近いボリュームとなっています。経済学的にいえば、電力などの多くのインフラ企業と同じで、大規模な鉄道はいわゆる限界費用低減産業であり、規模の経済が働きます。ですから、ある程度の規模を持たないと経営は成り立ちません。でも、国鉄の場合は巨大であっただけに経営も困難となった面があります。一般的には、鉄道から輸送手段がモータリゼーションによって自動車に転換したのが輸送量減少の一因とされますが、必ずしも輸送量が減少したからといって、あそこまでの赤字を計上するとは限らないわけで、どこかに非効率があったといわざるをえません。でも、「親方日の丸」の非効率だけですべての国鉄赤字を説明できるわけでもなく、さまざまな複合的な要因があるわけです。それを経営だけでなく技術や歴史も含めた新書くらいのボリュームで取りまとめた本書は、ある面では、ムリがある一方で、それなりにコンパクトで有り難い、という気もします。

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最後に、佐伯泰英『異変ありや』『風に訊け』『名乗らじ』(文春文庫)です。著者は、時代小説家です。というか、最初はスペインを舞台にした小説を書いていたようなのですが、サッパリ売れずに渋々時代小説に転じた、といったところのような気がします。この「空也十番勝負」のシリーズの主人公は坂崎空也なのですが、その父親の坂崎磐音を主人公にした「居眠り磐音 江戸草紙」シリーズが51巻に渡って続いていました。私はすべて読んでいます。親子で剣術家であり、時代は江戸期の田沼時代から少し下がったあたりです。「居眠り磐音」のシリーズは、双葉文庫で出版されていた後、文春文庫に移行しています。「空也十番勝負」のシリーズは最初から文春文庫だったのかもしれません。ということで、坂崎磐音の郷里である関前から武者修行に出た坂崎空也が、長崎での修行を終える際に、薩摩藩の刺客に襲われて、ほぼほぼ相討ちとなって大怪我を負い、長崎らしく蘭方医の手当を受けたところからこの第6巻が始まります。そして、、空也は東に向かい、萩藩城下、さらに、東に向かいます。武者修行の終わりは姥捨の里と決めているようです。「居眠り磐音」のシリーズと違って、この「空也十番勝負」のシリーズは剣劇ばっかりで、やや私は退屈しました。「居眠り磐音」のシリーズでは江戸を中心に侍だけでなく、町民の暮らしや政治向きのトピックなども豊富に取り上げられていましたので、退屈しませんでしたが、この「空也十番勝負」シリーズは剣術ばっかりです。なお、すでに第9巻の『荒ぶるや』が1月に出版されていて、3月に出版される第10巻で終結、というスケジュールのようですが、私はまだ第9巻は読んでいません。集結する第10巻と合わせて読みたいと予定しています。
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2023年01月07日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』(文藝春秋)は、伝記作家としても著名なジャーナリストが生命科学の最前線をルポしています。梨『かわいそ笑』(イースト・プレス)は、インターネットに関連するホラー短編を収録しています。佐藤洋一郎『京都の食文化』(中公新書)は、かなりの高級趣味ながら幅広く京都の食文化について紹介しています。山本文緒『自転しながら公転する』(新潮文庫)は、とても美しくも貫一おみやのラブストーリーです。最後に、瀬名秀明『ポロック生命体』(新潮文庫)は、AIと将棋、小説、絵画などの文化や芸術の関係についてのSF短編集です。
ということで、今年の新刊書読書は、まず、6冊から始まります。

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まず、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』上下(文藝春秋)です。著者はジャーナリストであり、米国の『TIME』誌の編集長やCNNのCEOなどを務めています。また、ノンフィクション・ライター、特に、伝記作者として有名であり、『スティーブ・ジョブズ』は世界的なベストセラーとなりました。私は、この作者の伝記モノでは『イノベーターズ』を読んだ記憶があります。ということで、本書の副題は「生命科学革命と人類の未来」となっていて、伝記ではありませんが、2020年にノーベル化学賞を受賞した米国カリフォルニア大学バークレイ校のジェニファー・ダウドナ教授を主人公に据えています。生命科学、特にゲノム編集に関する科学史にもなっています。ダウドナ教授のノーベル賞受賞の基となった貢献はゲノム編集技術キルスパー・キャス9です。そして、本書では必ずしも方向性すら示されていませんが、ゲノム編集により医療行為を超えて、例えば、デザイナー・ベビーについてどう考えるのか、という生命倫理的な課題を含んでいることは明らかです。邦訳本の表紙もそう暗示しているのではないでしょうか。私は、基本的に、ナチュラリストなのですが、医療行為一般は「ナチュラル」の範囲を超える部分も含むと考えています。ですから、それほど単純かつ原理主義的なナチュラリストではありません。私のことはどうでもいいので、医療行為に戻ると、信仰の力による回復を信じて医療行為を、投薬も含めて拒否する宗教は存在します。クリスチャン・サイエンスがそうですし、多くの信者がいると聞き及びます。決して、カルトとは見なされていません。ただ、行き過ぎるとエホバの証人のようにカルトに近いと見なされる場合もあります。ですから、盲腸を手術で切除する医療行為は許容できて、ゲノム編集によるデザイナー・ベビーはダメな理由は何か、と問われれば、社会的通念と回答するしかありません。例えば、マリファナについて、現時点でも、許容する社会と許容しない社会があります。おそらく、時代の流れとして、カッコ付きの「ナチュラル」な部分が減少して行き、そうでない人為的な部分、あるいは、人為的な範囲を超える神の領域まで踏み込んだ人間の行為が許容される部分が拡大するのが現在までの方向性であるように私には見えます。ただし、経済における事象でいえば、日本の人口減少や世界経済のグローバル化などといっしょで、私自身としてはどこかで反転する可能性は否定できない、と考えています。他方で、キチンと考えておかねばならないのは、生命科学の実践的な応用は反転縮小する可能性があるとしても、科学としての真実の解明の方向は決して反転することはないだろう、というか、科学的な真実の追求はその応用技術が社会的にストップさせられたとしても、継続されるべき場合が十分に考えられる、と私は考えています。そのあたりの基礎研究によす真実の追求と応用や適用による実践活動とは、キチンと分けて考えるべきです。その応用については、例えば、医療行為について、まあ、反転するとしても、盲腸の手術や解熱剤の投薬などが否定されるところまで戻りはしないと思いますが、決して、一直線にナチュラルな部分が減少して、人為的・超人為的な部分が拡大していくとは私は考えていません。おそらく、私の寿命が先に尽きるだけだと思います。真実の追求ではなく応用技術としての生命科学の拡大が反転するのを見届けるだけの寿命は、私には残されていないように思います。

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次に、梨『かわいそ笑』(イースト・プレス)です。著者は、インターネットを中心に活動する怪談作家となっています。本書は連作短編5編から成っています。年代的には2000年代、トイウカ、ゼロゼロ年代の末から2010年前後にかけての時期です。ですから、その時期には国産SNSのmixiが主流だったりします。もっとも、mixiは私はまだ使っています。そして、インターネット、というか、デジタル技術的に分類すれば、最初の短編はワープロファイル、2番めは画像ファイル、3番めが電子メールのテキスト、そして、4番目の短編で前3話が一挙に、というか、やや乱暴に結合された形になります。小説としては、怪談、というか、ホラー小説なのですが、死体描写や虫描写はちょっとリアルでグロいですし、ゴア表現なども含まれているものの、直球のホラー小説ではありません。まあ、テレビ番組で年末年始よりは夏休みに放送するタイプの「ホントにあった怖い話」みたいなホラー小説という気がします。個々の短編は、それ自体としても怪談であって、ひょっとしたら、私なんぞが知らないだけで、ホントにネットで流されている部分もあるのかもしれませんが、全体として、すべてのお話が第1話のタイトルに入っている横次鈴という人物、女性を憎んで呪う、という目的のために書かれているのが読み取れると思います。ネット上にある噂話的なネタを集めた体裁を取っているので、実際に作者ないし作品中の語り手が体験したわけではない、という表現がいくつかあり、それはそれで何ともいえない不気味さを漂わせていました。また、最後の謎解き、というか、種明かしは秀逸でした。私自身はほぼほぼ信じていない心霊現象ばっかりなのですが、それなりに説得力ある表現も少なくなく、ホラー小説としての仕上がりは悪くないと思います。最後に、これもネットに取材したホラー小説というひとつの試みとして、何か所かにQRコードが貼り付けられています。たぶん、どこかのサイトにつながるんではないかと思いますが、私は本書のQRコードを読み取ってはいません。

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次に、佐藤洋一郎『京都の食文化』(中公新書)です。著者は、よく判らないのですが、農学博士であり農学を専門分野とする研究者ではないかと思います。タイトル通りの本であり、私が年に何冊か読む「京都本」です。本書冒頭には4ページにわたって和菓子などの何枚かのカラー写真があり、見た目にも気を配っているようなのですが、本書の中身にはそれほど京料理の見た目にはこだわっていないようです。ということで、料理だけではなく、和菓子や野菜なども含めて、タイトル通りに、食文化一般を対象に含めています。ただし、私の読後感では基本的にグルメ本であって、料理人やお店などを固有名詞で紹介していますので、そういったグルメ本としての価値も追求しているように見えます。私自身は京都の洛外もいいところのうじの出身で、現在の大学キャンパス近くに引っ越すまでは六地蔵という宇治と伏見の境い目に近いところに住んでいました。ということで、食文化をタイトルにしているだけあって、お店や食文化関係者の固有名詞の他にも、食材や調理・処理方法、さらには、消費や生活まで幅広くカバーしています。ただ、グルメ本ですので高級なところが中心で、長らく京都の洛外に住んだ私なんぞは知っていても口には入りそうもない高級品がズラリと並びます。私としては、この高級趣味を別にすれば、なかなかいい京都食の指南書だろうと受け止めています。その高評価を前提に、ただ、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、京都の酒蔵は洛中が中心であって、伏見に移ったのは明治期以降との記述はホントなのでしょうか。何で見たのかは忘れましたが、まったく逆の酒蔵の伏見中心説も読んだ記憶があるからです。少なくとも、江戸期には地の利がよくなかったというのは疑問です。淀川の水運を無視しているような気がします。薩摩藩をはじめとして伏見に半屋敷を置いていた大藩は少なくありません。第2に、農学の研究者なのですから、文化的な方面もさることながら、京野菜についてもう少し丁寧な解説が欲しかったです。鹿ヶ谷カボチャは結構なのですが、聖護院ダイコン、九条ネギのほかにもいっぱいあると思います。最後に第3に、京都の範囲として府下を考えるのであれば、宇治の普茶料理もスコープに入るような気がします。

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次に、山本文緒『自転しながら公転する』(新潮文庫)です。著者は、2001年『プラナリア』で直木賞を受賞した小説家です。2021年に膵臓がんで亡くなっています。私はバブル経済期に集英社コバルト文庫で少年少女向けの作品をいくつか読んだ記憶がありますが、もう30年以上も前のことですので、不純な動機で読んだこともあって、タイトルも中身もすっかり忘れました。本書は、2020年に単行本として出版されていますが、昨年2022年に文庫化されましたので読んでみました。単行本と文庫の表紙はほぼほぼ同じではないか、と思います。ということで、この作品は、一言でいえば、『金色夜叉』ではありませんが、貫一おみやの恋愛小説です。主人公の都は30歳を少し過ぎて、東京のアパレルで働いていたのですが、母親の看病のため茨城の実家に戻り、地元のアウトレットのショップで店員として働き始めます。しかし、職場ではセクハラなど問題続出、実家では母親の更年期障害に続いて父親も体調を崩してしまうなど、難題続きのところに、通勤用の軽自動車のバッテリが上がって、寿司職人である貫一と知り合って付き合い始めます。しかし、実際のところ、貫一はとってもナイスガイなのですが、経済力や生活力に欠けていて、なかなか結婚には踏み切れません。といった、まあ、ありがちな恋愛小説なのですが、繰り返しになるものの、貫一がとってもナイスガイです。性差別をするつもりは毛頭ありませんが、魅力ある男性だと私ですら思います。ただ、文庫本ですから解説のあとがきがあり、そこでも指摘されているところで、少し読者をミスリードするようなプロローグとエピローグが入っています。私はこれはないほうがずっと作品としての出来がよくなるような気がしました。私は一時松戸に住んでいたことがあり、一応、少しくらいであれば、常磐線沿線の土地勘もあります。でも、そういった要素がなくても、なかなかに質の高い恋愛小説でした。

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最後に、瀬名秀明『ポロック生命体』(新潮文庫)です。著者は、ホラー小説作家であり、『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞を受賞しています。薬学の分野で博士号を持っていたりします。どうでもいいことながら、私の好きなホラー・ミステリ作家の綾辻行人も教育学の博士号を取得していたと記憶しています。2020年に単行本が出版されていますが、昨年2022年に文庫化されましたので読んでみました。表紙デザインは単行本と文庫本でかなり異なっていたりします。ということで、この作品はAIに関するSF短編4編から編まれています。収録作品は、「負ける」、「144C」、「きみに読む物語」、そして、タイトル編の「ポロック生命体」となっています。AIが応用される分野は、将棋、小説、そして絵画です。有名なIBMのディープブルーがカスパロフをチェスで破ったり、AlphaGoが囲碁のイ・セドルに勝ったりして、チェス・将棋・囲碁といった対戦型のボードゲームの世界でのAIの活用・活躍は広く報じられていますが、この短編集では、死んだ芸術家の小説や絵画の新作が世に現れる、という世界を描き出しています。そして、興味深いことに、小説の作品のSQ=共感指数のレベルが高すぎず低すぎない作品がベストセラーになってよく売れる、という、極めてもっともらしい発見が紹介されたりしています。それはともかく、おそらく、指紋や声紋のほかにも、文体や絵画の特徴、はては、キーボードの打ち方、しゃべり方や歩き方に至るまで、かなり確度高く個人を識別する方法はいっぱいあって、極めて大量の情報を短時間で処理できるAIであれば、小説や絵画に限定せずに、いろんな個人あるいは故人の特徴を真似ることが出来るのだろうと思います。ただ、生命科学と同じで、こういったAIの模倣による芸術作品をどう考えるのか、という点に関しては、少なくとも私が見る限り、現時点では社会的なコンセンサスは出来ていないような気がします。こういったSF小説などを通じて、肯定的・否定的ないろんな認識が醸成されるのもいいことか、と私自身考えています。
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2022年12月31日 (土) 10:30:00

今年読んだ本の総集編やいかに?

私のバーチャルな知り合いで、毎月の月末にその月に読んだ本をランキングにして日記にしている人がいます。そのマネッこながら、月単位での読書量は私の場合たかが知れていますので、1年かけて今年の読書で印象に残った本をジャンル別に上げて、今年2022年の読書の総集編としたいと思います。特に印象的だった本は強調しておきます。

(1) 経済書部門
オリヴィエ・ブランシャール&ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶應義塾大学出版会)
ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)
マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)
平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)
大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)
(2) 教養書部門
スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)
ジェイク・ローゼンフェルド『給料はあなたの価値なのか』(みすず書房)
ジェフリー S. ローゼンタール『それはあくまで偶然です』(早川書房)
(3) 純文学部門
吉田修一『ミス・サンシャイン』(文藝春秋)
高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)
(4) エンタメ小説部門
万城目学『あの子とQ』(新潮社)
三浦しをん『エレジーは流れない』(双葉社)
(5) ミステリ部門
莫理斯(トレヴァー・モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』(文藝春秋)
シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)
織守きょうや『花束は毒』(文藝春秋)
有栖川有栖『捜査線上の夕映え』(文藝春秋)
方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社)
(6) SF小説部門
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下(早川書房)
(7) 時代小説部門
周防柳『身もこがれつつ』(中央公論新社)
宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)
(8) ノンフィクション部門
平野啓一郎『死刑について』(岩波書店)
佐藤明彦『非正規教員の研究』(時事通信社)
鳥谷敬『明日、野球やめます』(集英社)
上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ)
(9) 新書部門
倉山満『ウルトラマンの伝言』(PHP新書)
笹山敬輔『ドリフターズとその時代』(文春新書)
小野善康『資本主義の方程式』(中公新書)
小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)
橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)
(10) 番外部門
松尾匡『コロナショック・ドクトリン』(論創社)

まず、(1)経済書ですが、左派リベラルの経済書が並びます。日本共産党の経済論客の経済書もあったりします。どうしても、マイクロな経済学よりもマクロ経済学の本が多くなります。(2)教養書はこんなもんでしょう。専門のマクロ経済に近い分野の本が多いのは当然ですが、今年は歴史書に恵まれなかった気がします。(3)純文学はそれほど読まないのですが、勤務校OGの芥川賞受賞作は敬意を表して入っています。(4)エンタメ小説もミステリ以外はそれほど読んでいません。(5)ミステリ部門は『辮髪のシャーロック・ホームズ』がピカイチです。今年といわず、ここ数年の中でも最高の一作です。(6)SFもあまり読んでいないのですが、ウィアーは『火星の人』から一貫して評価しています。(7)時代小説はあさのあつこの「小舞藩シリーズ」も考えないでもなかったのですが、この2作にします。(8)ノンフィクションは死刑反対の私の意見に似通った本のほか、野球とピアノを入れました。(9)新書部門は大量に読んでいますので、このセレクションには自信があります。(10)9部門では中途半端なので第10部門を入れて、勤務校の同僚からご恵投いただいた本を取り上げておきます。
この中でたった1冊だけを選ぶとすれば、ミステリ部門の『辮髪のシャーロック・ホームズ』といいたいところですが、同じ趣味の分野ながら、新書部門の『ウルトラマンの伝言』を上げたいと思います。今年もっとも印象に残った本といえます。

みなさま、よいお年をお迎えください。

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2022年12月30日 (金) 13:00:00

今週の読書は大物読書もあって年間245冊の新刊書読書の集大成

今週の読書感想文は以下の通りです。年末年始休みに入って、大物読書がいくつかあります。
まず、ゲオルク・フリードリヒ・クナップ『貨幣の国家理論』(日本経済新聞出版)は1905年の出版であり、話題の現代貨幣理論(MMT)に理論的な影響を及ぼしているとされています。オデッド・ガロー『格差の起源』(NHK出版)は、ホモ・サピエンスの出アフリカ以降の歴史をひも解いて、人類の成長・繁栄と格差についての統一理論の構築を試みています。岩波講座世界歴史『構造化される世界』第11巻(岩波書店)では、ポストモンゴルの14-19世紀の近世を対象にグローバル・ヒストリーによる歴史分析を試みています。万城目学『あの子とQ』(新潮社)は、人気作家が吸血鬼の青春物語を展開しています。太田肇『何もしないほうが得な日本』(PHP新書)は、挑戦をリスクとして考える消極的利己主義に代わって、積極的な挑戦を可能にする組織を考えています。及川順『非科学主義信仰』(集英社新書)は、NHKのジャーナリストが米国における非科学主義信仰の実態をルポしています。そして、秦正樹『陰謀論』(中公新書)では、計量政治学の専門家が陰謀論を親和性のある属性について定量的な分析を試みています。
本年も残すところ後2日となりました。この2日で、可能であれば、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』上下(文藝春秋)を読み切って、お正月からはマンガなどの軽い読み物に切り替えたいと思っています。

ということで、今年2022年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先週までに17冊、今週は7冊ですので新刊書読書合計は245冊となりました。今さらながら、もう少しがんばれば250冊だったのか、と思わないでもありません。

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まず、ゲオルク・フリードリヒ・クナップ『貨幣の国家理論』(日本経済新聞出版)です。著者は、ドイツのエコノミストであり、マックス・ウェーバーに高い評価を与えて学界での登用を促した慧眼の経済学者としても有名です。そして、本書は1905年、すなわち、100年以上も前の出版であり、ドイツ語の原題は Staatlische Theorie des Gelds となっています。英語なら State Theory of Money といったところでしょうか。本書が今ごろになって注目されるのは、異端の経済学とされつつも注目を集める現代貨幣理論(MMT)の核心となる貨幣理論の基礎を提供しているからです。その基礎とは、タイトル通りに、「貨幣は法制の創造物である」、すなわち、貨幣は国家の強制力によって通用している、というものです。MMTでは少し言い換えて、国民が租税を納める際に使う手段として、国家あるいは政府が貨幣を定めている、といった定義にしていると私は記憶しています。参考までに、MMTの財政理論の基礎となっているのは Lerner A.P. (1943) "Functional Finance and the Federal Debt" といえます。というか、私が大学院の授業でリポートさせているフランス銀行のワーキングペーパー "The Meaning of MMT" ではそのように解説しています。MMTから戻ると、本書では「表券理論」として現れます。そもそも、ミクロ経済学では貨幣は交換においては本来的に必要とされるものではなく、物々交換では不便だから便宜的に流通しているにすぎず、したがって、古典派的な貨幣ベール論とか、貨幣数量説とかが幅を利かせるわけです。他方で、ケインズ理論によるマクロ経済学では交換や支払いの尺度だけではなく、価値保蔵手段などとしての貨幣の役割が付加されます。そして、またまたMMTのトピックとなりますが、クナップの本書はケインズ理論につながり、ラーナー的な機能的財政理論は実はケインズ経済学をやや極端なまでに強調した内容であることは明らかで、少なくともラーナー教授は一貫してケインズ経済学を支持し続けています。私はフォーマルな大学院教育を受けていないので、経済学史についてはそれほど詳しくありませんが、MMTはいわゆるポストケインジアンであって、ニューケインジアンではないと理解されています。ですから、MMTはケインズ的なマクロ経済学の正当な末裔ではないと考えられているわけですが、少なくとも本書を通読した私の感想としては、MMTも異端ながらマクロ経済学のひとつの支流につながるものと考えるべきです。その根拠のひとつとしては、本書では「貨幣のセット」、すなわち、本位貨幣と補助貨幣、制限貨幣と無制限貨幣、正貨と非正貨、また、国庫証券、銀行券などなど、「セット」としての貨幣を考えています。古典派的な交換や支払いだけを考えるのであれば、こういったセットの理論は出てきません。加えて、第3章では外国為替を取り上げて、国定貨幣の間での交換を考えています。なかなかに、短い書評では書き尽くせませんが、おそらく、金本位制という時代の制約の中で貨幣理論の教科書を書こうと試みた結果であると考えれば、極めて明快かつ正確、すなわち、金本位制に限定されない科学的な貨幣理論の提供を試みた、という意味で、画期的な存在であったろうと思います。ただ、惜しむらくはドイツ語で書かれています。邦訳書である本書でも、何箇所かドイツ語の原語で補っている部分が散見されますが、私は英語とスペイン語は理解するものの、ドイツ語は英語と比べて、あるいは、スペイン語と比べてさえもマイナーな言語です。私は去年も今年も年1本しか書かない論文は英語で書いています。大昔の ECONOMETRICA なんぞにはフランス語の論文が収録されていたりしますが、言語としてのドイツ語の不利な点、日本語ならもっと不利、であろう点は、止むを得ないながらも、心しておきたいと思います。

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次に、オデッド・ガロー『格差の起源』(NHK出版)です。著者は、米国の名門校アイビーリーグの一角を成すブラウン大学の研究者です。英語の原題は The Journey of Humanity であり、2022年今年の出版です。邦訳タイトルは原書の副題を取っているようです。本書は2部構成であり、第1部では、何が成長をもたらし、人類は繁栄したのか、を解き明かし、第2部では、その背景で何が格差をもたらしたのかを考えています。ですから、成長=反映と格差の発生・拡大をコインの両面のように考えて、この2つを統一的に、しかも、ホモ・サピエンスの誕生=出アフリカから長期にわたって理論的に跡づけようと試みています。まあ、ハラリ『サピエンス全史』あたりからの影響ではなかろうか、と思わないでもありません。まず、成長=繁栄の基礎としては、いわゆるマルサスの罠からの脱却が重点となります。すなわち、何らかの技術革新、このころは農業の収穫の増大にむすびつく技術革新が生じると、その農業収穫の増大に応じて人口も増えてしまい、結局、1人あたりの豊かさはもとに戻ってしまうというのがマルサスの罠なわけですが、この罠からの脱出がひとつのキーポイントとなります。そして、このマルサスの罠からの脱出による成長と繁栄、及び、格差の発生と拡大も同じ原因からであり、ともに、制度的・文化的・地理的要因を基礎にしつつも、結局のところ、人的資本への投資がキーポイントとなると結論しています。ただし、この人的資本への投資の重要性については、そう目新しい論点ではなく、例えば、本書第2部の格差拡大の観点からはサンデル教授の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』はまさにそういった議論を展開しています。大学卒業という学歴は自分の実力だけではない、という結論だったと記憶しています。本書に戻ると、本書の大きな特徴のひとつは地理的な環境を重視している点です。ホモ・サピエンスという集団が長期にわたって分裂しつつ全地球規模で拡散・移動してきた中で、マルサスの罠から脱する「特異点」のひとつの要因として地理的な要素を考えているわけです。これは、私なんかからすれば、ややズルい論点であって、その「特異点」がどうして、そこで、その地理的条件で生じたかについて、すなわち、具体的に事例を上げると、18-19世紀のイングランドで産業革命が始まったのか、を解明しないと回答にならないような気がするからです。ただ、逆に、経済学の見方からすれば、収斂という変化が生じていることも事実です。すなわち、新興国・途上国の成長率は先進国よりも高く、1人綾理GDPは多くの国で収斂する可能性も理論的・実証的に示唆されています。はたして、こういった「収斂理論」に対して、本書が打ち出した成長=繁栄と格差を説明するグランドセオリーが適用されるのか、あるいは、「収斂理論」が幻想なのか、私の残された寿命では見届けることが難しそうな気がしますが、とても興味あるポイントです。

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次に、岩波講座世界歴史『構造化される世界』第11巻(岩波書店)です。「岩波講座世界歴史」のシリーズの最新配本のひとつです。なお、全24館の構成については、本書の巻末にも提示されていますが、岩波書店のサイトでも見ることが出来ます。その全24巻構成の中にあって、本書第11巻『構造化される世界』は、まさに、グローバル・ヒストリーの典型的な分析として14~19世紀という長い期間、そして、地理的にも全世界を包括的に対象としています。すなわち、ポストモンゴルが始まる14世紀、そして、近代の幕開けとなる19せいきまで、いわゆる「近世」を対象としています。かなり長い期間ですが、いわゆる封建制の残滓を残しつつ、絶対王政のもとで近代につながる期間です。英語では early modern と称される場合が多いのです、本書では近代の直前という西洋中心史観を配して「近世」という用語を用いています。我が国でいえば、室町期から戦国時代を経て織豊政権や江戸期に渡る期間です。これをまず、問題群-Inquiryとして、グローバル・ヒストリーの観点から、政治的な動向、まさにキリスト教の宗教改革に当たる時期ですので宗教の観点、そして、奴隷制から農奴制、さらに近代的な身分制を廃した時代への展望を含めて、奴隷についての世界史を概観しています。加えて、焦点-Focusとして、アジア海域における近世的国際秩序、近世スペインのユダヤ人とコンベルソのグローバルなネットワーク、インド綿布と奴隷貿易といった商品連鎖のなかの西アフリカ、感染症・検疫・国際社会にまさに焦点を当てつつ歴史的な考察を進め、最後に、高校世界史を取り上げてグローバル・ヒストリーのの授業実践などを取り上げています。さらに、5点ほどのテーマで短いコラムも収録しています。本巻の対象が極めて多岐多様にわたり、何とも書評としては取りまとめにくいのですが、専門外の私の目から見ても高水準の歴史分析が並んでいます。まあ、全24回をすべて読破することは到底叶いませんが、いくつかは読んでおきたい気がします。ただ、惜しむらくは、このシリーズを蔵書している公立図書館はそう多くないような気がします。私は大学の図書館で借りましたが、府立県立あるいは政令指定市クラスの図書館でなければ、利用可能ではないかもしれません。

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次に、万城目学『あの子とQ』(新潮社)です。著者は、人気の小説家です。我が後輩で京都大学のご出身だと記憶しています。本書では、吸血鬼、でも、昔ながらの吸血鬼ではなく、もはや吸血行為はせずに人間世界に同化しようと努力している吸血鬼を主人公にしています。ということで、主人公は嵐野弓子という17歳の誕生日を直前に控えたJKの吸血鬼です。弓子は「ハリー・ポッター」のハーマイオニと違って純血の吸血鬼であって、両親ともに吸血鬼の一家に生まれ育っています。この弓子にQが現れて監視が始まります。17歳の誕生日までに、「血の渇き」を覚えて人間を襲うことがないかどうかを監視しています。Qとは、たぶん、固有名詞ではなく、集団名詞というか、そういった何匹・何人かのQがいるようで、姿形としては直径60センチほどでウニみたいなトゲトゲの異形で浮かんでいるのですが、その後に明らかになるところからすれば、何らかの罰を受けた吸血鬼の成れの果てであり、吸血鬼の大親分であるブラドに命じられて、こういった役目をこなしているようです。弓子はJKですので、部活もすれば、友人もいますし、その友人の恋の橋渡しをしたりもします。そして、その友人との恋の橋渡しの一環で4人のダブルデートをするのですが、その4人が乗ったバスが大事故を起こします。4人とも結果的には命に別状なく助かるのですが、何かが起こっていて弓子のQが吸血鬼界で査問を受けることになり、弓子が吸血鬼の世界に乗り込む、というストーリーです。もちろん、人間と同化して脱・吸血鬼化しようという吸血鬼もいれば、昔ながらのエターナル=不死の吸血鬼であって、今でも人間の血液を吸血している吸血鬼も登場します。そして、明らかに、続編があるような終わり方をします。いままで、私は万城目作品はエッセイも含めてほぼほぼすべて読んだつもりなのですが、続編があるシリーズものは初めてです。この作品自体が極めてテンポよく。小説というよりはラノベに近く、しかもキャラがハッキリとしていて、ストーリーも万城目作品らしくファンタジーの要素がふんだんにあり、とてもクオリティ高く仕上がっています。私もそうですが、万城目作品の中でも最高傑作のひとつに上げる読者も少なくないと思います。いろんな意味で、とってもオススメです。続編が出たら私は読みたいと思います。

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次に、太田肇『何もしないほうが得な日本』(PHP新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、組織研究で有名です。そして、本書では、企業のエラいさんなんかがチャレンジを推奨する一方で、実は、チャレンジして起業したりするのはリスキーだと考えて、何もしないことを選択する社員が多いことを取り上げています。今月12月10日付けの読書感想文で取り上げた野村総研の『日本の消費者はどう変わったか』でも同じ論点が入っていて、「挑戦=チャレンジというのは積極果敢なアニマル・スピリットの現れであって、起業家精神を肯定的に表現する言葉ではなく、むしろ、リスキーでギャンブル的なネガな言葉」と考える消費者が多くなっている、という指摘がありました。本書でも独自に実施した「2022年ウェブ調査」を基に、同様の分析結果が示されています。特に、本書冒頭では公務員の行動原理としてコロナ禍で多くの施設が閉鎖され、イベントなども中止になった点に着目し、公務員だけではなく、一般の民間企業の従業員も同じという視点から分析を進めています。特に、日本ではワーク・エンゲージメントが低く、ヤル気がない社員が多い点も明らかにされています。そして、おそらく、エコノミストとして私も同意しますが、それが個人の行動原理としては合理的なのだろうと考えられます。挑戦よりも保身が重視される制度的な根拠があるわけです。それを「消極的利己主義」と呼んでいます。結論としては、「するほうが得」な仕組みにするためにはどうするか、ということで、p.200で組織再設計の「民主化の3原則」として、自由参加、最小負担、選択の3点を上げています。経済学はアダム・スミスの古典派の時代から、有名な例で、パン屋の慈悲心ではなく利己心に基づく行為が社会全体の利益につながる、と考えてきました。しかし、本書では個人と社会全体の利益が一致しない世界を前提しています。それだけで、私には少し違和感あるのですが、もちろん、理解できないでもありません。シンプルにベーシック・インカムを導入するのが大きな解決策ではないか、と実は私は考えないでもないのですが、そういった解決策はもう少し先の時代にならないと議論にすらならないのかもしれません。

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次に、及川順『非科学主義信仰』(集英社新書)です。著者は、NHKのジャーナリストです。米国の実情をていねいに取材して、トランプ大統領登場の前後から、いったい米国社会に何が起きているのかを明らかにしようと試みています。基本的に、個別の取材結果のルポを収録していますが、最終章で、非科学主義との向かい合い方にも言及しています。実際の取材結果として、第1章で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関連して、ワクチン接種の拒否、マスク着用の拒否、から始まって、気候変動=地球温暖化の否定、さらに横断的な現象として、Qアノンの陰謀説、ヘイトクライムの増加を上げています。そして、第2章で、こういった非科学主義が政治家を巻き込んで影響力を増している現状を取り上げ、第3章では、非科学主義の背景として、所得格差の拡大、メディアや宗教の暴走などに着目しています。そして、最後の第4章では非科学主義とどう向かい合うか、について議論しています。すなわち、非科学主義を排除するのではなく、むしろ、いかにお付き合いするか、という観点なのかと私は受け止めました。私自身は基本的に経済学という科学を専門分野にしていて、非科学主義は右派の戦略である面が強い、と感じています。すなわち、事実から社会の目をそらせて、自分たちの主張に盲目的に従わせようとしている可能性がある、と感じています。逆に、こういった非科学的な主張をどうして信じる、あるいは、信仰するかという疑問があります。SNSがフェイクを撒き散らしている可能性は否定しませんが、そのフェイクを信じるのはなぜか、という疑問です。単に、非科学的な考えや行動を盲目的に信じているのか、あるいは、何らかの付随する利益を感じているのか、私には謎です。

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最後に、秦正樹『陰謀論』(中公新書)です。著者は、京都府立大学の研究者であり、専門は計量政治学なんだろうと思います。ということで、非科学的な信仰、陰謀論に対する信頼感などが発生するバックグラウンドについて定量的な分析を試みています。ですから、陰謀論が右派の何らかの戦略であるということではなく、例えば、左派の信じている日米合同会議の謎についても対象にしています。要するに、陰謀論は何かの客観的な裏付けのある事実に基づいているわけではなく、信じるかどうかはその人次第であって、陰謀論を信じる人はどのような属性を有しているか、に付いての科学的なデータ分析を試みています。その中で、いくつか、興味深い結論が導かれています。その最大の結論は、どんな人でも心理的な不安感があるわけであって、自分の信念に合致していれば、非科学的な陰謀論でも信じてしまう、ということになります。もちろん、他方で、SNSから情報を得ている人とマスメディアの情報に接している人との間に違いはあるのは当然ですし、特に、SNS利用者は第3者効果と密接なリンクが見られます。「第3者効果」とは、自分以外の人はフェイク情報や陰謀論に左右されやすい、とする見方です。まあ、逆から考えれば、自分は大丈夫、ということなのかもしれませんが、まったくこれは反対の結果となっていることも本書では明らかにされています。すなわち、自分は大丈夫という人ほどでいく情報に踊らされたり、陰謀論を信じたりする傾向がある、ということです。ただ、私自身の実感としては、SNSやネット情報はもともとある情報受領者の傾向を増幅するだけであって、方向転換することはレアである、という気がしています。この点は本書でも支持されていると思います。では、もともとある傾向とはなにか、という点が問題になるのですが、本書ではこの点についてそれほどクリアにされていません。おそらく、バックグラウンドとして、所得、学歴、年齢、地域などが関係している、というか、私の目から見て逆に、これら以外の関係すべき要因は見当たらない、と思っています。例えば、私が知る限りでは、BREXIT投票において、初発の Politico の Guàrdia リポート、あるいは、もっとフォーマルな学術論文なら Parliamentary Affairs に投稿された Clarke et al (2017) "Why Britain Voted for Brexit: An Individual-Level Analysis of the 2016 Referendum Vote" などでも、経済状態が悪化しているほど、年齢が高いほど、学歴が低いほど BREXIT に賛成していることが明らかにされていますし、2020年の米国大統領選挙でも同様に年齢が高くてほど、学歴が高い低いほどトランプ候補に投票している、との記事を見かけたことがあります。まあ、BREXITに賛成し、トランプ候補に投票する人が陰謀論を信じやすいかどうかは議論あるところですが、一定の傾向は見て取れるような気がします。出来れば、我が国でもこういったレベルの研究や分析が欲しい気がします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、もうしっかりと分析されているのかもしれません。
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2022年12月24日 (土) 15:00:00

今週の読書は文庫が多くて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、玉木俊明『手数料と物流の経済全史』(東洋経済)では、出アフリカからの人類の歴史を壮大に追って、プラットフォームを構築して手数料を取るというコミッション・キャピタリズムを跡づけようと試みています。残念ながら、この試みは失敗しているように私には見えます。岸見一郎『エーリッヒ・フロム』(講談社現代新書)では、『自由からの逃走』などで有名な社会学者の思想について哲学的に解明を試みています。新海誠『小説 すずめの戸締まり』(角川文庫)は、アニメ映画の監督自らが映画のノベライズを行っています。松井今朝子『江戸の夢びらき』(文春文庫)では、初代市川團十郎の一代記を妻の恵以の視点から描き出しています。望月麻衣『満月珈琲店の星詠み ライオンズゲートの奇跡』と『満月珈琲店の星詠み メタモルフォーゼの調べ』(文春文庫)は、三毛猫のマスターが注文を取ることなく差し出す飲み物やスイーツで登場人物が癒やされるラノベのファンタジーです。順次、Facebookとmixiでシェアしてゆきたいと予定しています。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先々週が6冊、先週が5冊、今週は6冊ですので、今年に入ってから238冊となりました。

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まず、玉木俊明『手数料と物流の経済全史』(東洋経済)です。著者は、京都産業大学の研究者です。専門は経済史なのですが、私の記憶が正しければ、経済学部の経済史ではなく、文学部の歴史学科のご出身ではないかと思います。大きな違いはありません。私の勤務校の西洋経済史担当の准教授もこの著者を高く評価していると聞き及んだことがあります。ということで、本書は「覇権」をキーワードとしつつ、プラットフォームの形成者が手数料を徴収するという観点からの経済史、なんと、出アフリカ out-of-Africa からの歴史をひも解こうとしています。たぶん、私の勝手な想像では、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』のネットワークの歴史に対抗して、プラットフォームの歴史に挑戦したのではないか、という気がします。でも、残念ながら、長い歴史を概観しているだけで、覇権はともかく、プラットフォームの形成者が手数料を徴収する経済史、という試みは失敗している、としかいいようがありません。最後の方の第13章と第14章でコミッション・キャピタリズムについて少しだけ言及されているに過ぎません。悪いですが、ファーガソン教授と玉木教授の差なのかもしれません。ただ、長い経済史を概観することについては成功していますし、ややピンボケとはいえ一読の価値はあります。流通の輸送経路を掌握するという観点も、まあ、なくはないのですが、かなり希薄です。覇権の基礎となったプラットフォームとは、本書ではいくつか提示されていて、私も理解し同意する部分が少なくありません。例えば、文字で記録する、あるいは、現在では英語がプラットフォームになっていますし、会計的な記録では複式簿記がプラットフォームになっています。特に会計についてはIFRS何ぞという国際的な基準が作成されていますが、これらの言語や会計記録方式が手数料を徴収できるわけはありません。内容についても、明代の海禁政策によって中国が欧州のような産業革命を経験しなかった一因、とか、イングランドないしええ異国の戦争遂行の原動力は金融にあり、戦時に国債を発行して資金調達し平時に償還する、なんてのはもう言い古されているわけですから、それほど目新しさがあるわけでもありません。イングランドから始まった産業革命にしても、英国が海路を押さえているのも、確かに、工業化を大いにサポートしたとは思うのですが、それが工業化の推進要因のひとつであったとしても、主要な要因とは考えるべきではありません。例えば、21世紀の中国は「世界の工場」として製造業の振興が著しいわけですが、中国が輸送路を押さえているのかどうか、やや疑問だったりします。ただ、いわゆる「一帯一路」政策により、そういった志向が見られるのはその通りです。どうも、最近のギグ・エコノミーのAirbnbとかUberとか、あるいは、日本のメルカリなんかを注目しつつ、繰り返しになりますが、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』のネットワークに対抗しようと試みたのはいいのですが、どづも違うと感じます。総合的包括的な歴史を考えたいのであれば、ボリュームは大いに違いますが、岩波講座「世界歴史」のシリーズがいいように感じてしまいました。玉木先生のご著書に関しては、次の小ネタの新書などを期待したいと思います。

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次に、岸見一郎『エーリッヒ・フロム』(講談社現代新書)です。著者は、よく判らないのですが、京都大学系の哲学者ではないかと想像しています。ですから、本書の対象としているエーリッヒ・フロムとは少しズレがあるわけで、かなり難しい内容になっています。本書の対象であるフロムは社会学者、特に、『自由からの逃走』によるナチス分析で有名かと思います。私も読んだ記憶があります。本書は、100ページ少々のボリュームなのですが、繰り返すと、かなり難しい内容です。たとえb、個人の性格というマイクロな心理学については、フロイトの影響を受けつつも、マルクス主義的な経済の下部構造というものをフロムの思想の中に見出していたりします。ただし、フロムの主眼は「技術」=artであり、まあ、さすがに、テクニックではないのでっすが、決して哲学を主眼としているわけではないと強調されています。ですから、本書の副題のように、自由に生きるためには孤独を恐れてはいけない、ということになります。孤高に生きる自由という技術なわけです。その上で、いろんなものを分類しようと試みています。このあたりが、フロム由来の思想なのか、それとも、著者による分類なのか、という点は私にはイマイチ不明でした。例えば、実人的二分性と歴史的二分性、合理的権威と非合理的権威、権威主義的権威とヒューマニズム的権威、などなどです。基本的に第4章自由からの逃走が読ませどころなのでしょうが、第5章のフロムの性格論もマルクスとフロイトの融合的な内容で、それなりに読ませるものがあります。しかも、現在目の前にある日本では、まさに、軍事費の議論などを聞いている限り、何かの権威に自分自身の自由を委ねて、あるいは、故意は無作為家は別にして、日本という国の先行きを決めかねない重要な議論から耳をふさいで、関知しないところまで逃走して、その意味で、自由から逃走している日本人がかなり多いと私は感じています。そして、そういった権威主義的な民主主義の否定について論じるとすれば、個々人で「孤独を恐れない自由」を求めるのではなく、経済社会のシステムとして国民生活を支えて、そして重要な決定に国民の目が向かう余裕ができるようにスルノガ、ホントの政治的なリーダーシップではないか、と考えています。戦争が個々人の善意で回避できるとは私は考えていませんし、国民が広く自由を、あるいは、基本的人権を享受できるようにするためには、マルクス主義的な経済の下部構造をしっかりと構築することが必要です。

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次に、新海誠『小説 すずめの戸締まり』(角川文庫)です。著者は、アニメの映画監督であり、本書も映画バージョンを小説にしたもの、と考えてよさそうです。というのは、不勉強ん敷いて、私はアニメ映画の方を見ていないからです。ということで、これだけ話題になって流行しているアニメ映画ですので、荒っぽくは知っている人が多いかと思います。宮崎のJKすずめが閉じ師の草太とともに、というか、草太が呪文をかけられた子供用の椅子とともに、宮崎を出て、白猫のダイジンを追って四国は宇和島、神戸、東京、福島と旅をして、地震を引き起こすみみずを閉じ込めるべく努力する、というストーリーです。繰り返しになりますが、鳥の雀ではなく、このJKの名前がすずめ、なわけです。ファンタジーですので、何と申しましょうかで、大きなみみずが地震を起こすわけですから、決して科学的ではありませんし、ある意味で、荒唐無稽なわけで、どうして宮崎のJKがこれに巻き込まれるかというのは、私も理解がはかどりませんでした。ただ、主人公のすずめは母子家庭で暮らしていた福島で東日本大震災に遭遇し、母親を亡くしています。そして、この戸締まりの旅の最後には福島にたどり着きます。みみずが地震を引き起こすという点からも、東日本大震災がこの映画や小説の大きなモチーフになっている点は明らかです。アニメ映画ですが、ポケモンのロケット団のような敵役は登場しません。まあ、強いていえば、宮崎から逃げ出した要石のダイジンがそうなのかもしれませんが、少なくとも、すずめと草太の旅路を邪魔するような悪役めいた登場人物はいません。というか、すべての登場人物、宇和島で民宿に泊めてくれるJK、神戸までヒチハイカーのすずめを運んでくれるスナックのオーナーママ、そして、東京から福島までBMWを走らせる草太の同級生などなど、草太やすずめを力強く応援してくれる人であふれています。そうした人々に支えられ、常世と現世を行き来したりして、大災害を不正で、しかも、椅子に変えられた草太を救出するというミッションをすずめはやり遂げるわけです。そういったいろんな人々の強力や援助の大切さを感じられ、人のつながりでピンチを乗り越えるすばらしさを感じることのできる名作でした。ただ、チャンスがあれば、ビジュアルの感じることのできるアニメ映画も見ておいたほうがいいような気がします。なお、映画のポスターはドラえもんの「どこでもドア」を思い出させる図柄となっています。

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次に、松井今朝子『江戸の夢びらき』(文春文庫)です。著者は、時代小説家にして、直木賞受賞作家です。私はとても時代小説が好きなのですが、この作者の作品は直木賞を受賞した『吉原手引草』は読んだものの、ほかは歌舞伎をテーマに取り入れたものが多いせいか、それほど読んでいません。本書は2020年に単行本として出版されたものを今年文庫化されましたので読んでみました。ということで、一言でいえば、本書は初代市川團十郎の一代記です。團十郎の妻である恵以の視点で書かれています。すなわち、10才そこそこの恵以、当時は浪人の娘だったころに、目黒で團十郎と出会ってから、団十郎が舞台で刺殺され、2人の長男が2代目團十郎を継ぐあたりまでがとても簡潔に取りまとめられています。まさに、お江戸の花の盛りの元禄時代ころから、大地震や大火や、果ては富士山の噴火まで、いろいろな事件が江戸周辺に起こる中で、初代市川團十郎が年700両の契約を取り付けたり、あるいは、私生活では次男坊を舞台稽古の事故で亡くすとか、京都に團十郎とともに出向くとか、いろんなイベントが盛り込まれています。その中でも、特徴的なのが、まだ團十郎が若手のころにある殿様のお城で芝居を披露し、豪華なふすまをずたずたにしたとか、江戸の地震や大火の後に團十郎が辻々で舞台小屋復興の資金集めに精を出したとか、やっぱり、個人的な生活とともに、歌舞伎の芸術としての発展を跡づけているのが印象に残ります。舞台での荒業の大立ち回りの「荒事」を完成させ、京に上っては坂田藤十郎と座談したり、成田山への信心熱くて「成田屋」の屋号をつけられたりと、初代市川團十郎の魅力が余すところなく描き出されています。ただ、逆から見て、かなり團十郎が美化されているおそれがないか、と危惧します。例えば、信心が強いにもかかわらず僧にはならず、その理由として欲が強く、特に女性に対する欲望が強いと言わしめておきながら、妻の恵以の視点を借りているという理由もあるとはいえ、女性遍歴がまったく言及されていません。「芸の肥やし」くらいの女性遍歴があってもいいような気まそますが、そこは省略されてしまっています。ただ、芸術としての歌舞伎の発展や進化の過程については、よく追っている気がします。

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最後に、望月麻衣『満月珈琲店の星詠み ライオンズゲートの奇跡』『満月珈琲店の星詠み メタモルフォーゼの調べ』(文春文庫)です。著者は、京都在住のラノベ作家です。この2冊は、「満月珈琲店の星詠み」シリーズの第3巻と第4巻ということになります。なかなかに、私や我が家の構成員のように平々凡々とした人生を送ってきた人ではなく、かなり得意な人生で、いかにも小説になりそうな人生が描き出されています。その意味で、私は決して高く評価するわけではありませんが、時間つぶしにはこういったラノベがぴったりです。それから、私は料理という嗜みは持っていませんが、本書では三毛猫のマスターが言うに、注文は取らずに店側で飲み物やスイーツを用意する、ということになっていて、私は不勉強で知りませんでしたが、このシリーズで出てくる喫茶店のメニューがレシピとともに紹介されているサイトや本があるらしいです。つい最近、聞き及びました。主婦の友社から『満月珈琲店のレシピ帖』として、本書のイラストを書いている方が出版されているそうです。私はもう食べたり飲んだりする方の欲はすっかり抜けてしまいましたが、確かの本書冒頭のイラストなどを見ていると、そういったレシピ本の需要もありそうな気がします。本格的に隠居生活に入ったら、料理も趣味のひとつとして始めてみようかと思わないでもありません。
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2022年12月17日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書とミステリと新書を合わせて計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、島倉原『MMT講義ノート』(白水社)は、異端ながら話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の解説書です。荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)は、第68回江戸川乱歩賞受賞作です。そして、安倍元総理の銃撃・暗殺事件に関連して、島田裕巳『新宗教と政治と金』(宝島社新書)、文藝春秋[編]『統一教会 何が問題なのか』(文春新書)、福田充『政治と暴力』(PHP新書)の新書3冊です。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先週6冊に今週5冊を合わせて、今年に入ってから232冊となりました。やっぱり、年250冊はムリそうです。

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まず、島倉原『MMT講義ノート』(白水社)です。著者は、クレディセゾンの研究者です。研究費で購入した記憶がないにもかかわらず、なぜか研究室にあったので読んでみました。基本的に現代貨幣理論(MMT)の概説で、かなり忠実にMMTの理論概要を伝えるとともに、著者独自の観点も提供されています。たぶん、コンパクトに論文を読みたいのであれば、我が勤務校の起用論文が一番と考えるのですが、まあ、短い起用論文では抜けがあるかもしれませんので、これくらいのボリュームの本を読むのも一案です。たぶん、元祖のレイ『MMT現代貨幣理論入門』よりも日本人的には判りやすいような気がします。ということで、MMTの理論的な柱はいくつかあって、(1) Knapp の State Theory of Money に基づく貨幣理論、(2) Lerner の Functional Financial Theory に基づく財政理論、(3) Job Guarantee Program を中心とする構造政策、をメインとして、ほかにも、Monetary Circuit Theory と Debt Hierarchy (Pyramid)、などです。ただ、Stock-Flow Consistent Model については、部門別の貯蓄投資バランスが相殺されてゼロになる、と言うのは主流派でも同じだと思います。私はこういった柱となる理論のうち、かなりのものに賛同するわけですが、必ずしもすべてのMMT理論に合意するわけではありません。まず、MMTではほぼほぼ金融政策を無視していて、まるで、Real Business Cycle (RBC) 理論みたいだと初期に感じましたが、せっかくある政策ツールを使わないのはもったいないと考えています。いわゆるティンバーゲンの定理から政策目標の数だけ政策ツールが必要なわけですし、金融政策は決して有効性が低いわけではありませんから、「使えるものは親でも使え」の精神でOKだと考えています。第2に、Job Guarantee Program (JGB) がもっとも怪しいと感じていて、政府が現在の最低賃金と変わらない賃金水準で、しかも、かなりフレキシブルな雇用量を確保できるような decent job があるのかどうか、それを運営できる主体があるのかどうか、やや疑問です。日本でやれば、またぞろ、多額の委託金で持って電通あたりが運営することになりかねないと危惧しています。最後に、本書を好ましいと私が感じた点は、MMT理論を決して鵜呑みにすることなく、同時に、決して強く否定するわけでもなく、ビミョーなバランスでこれから先のMMTの理論的な彫琢の方向を示している点です。例えば、私が読んだ中で、昨年出されたフランス銀行のワーキングペーパーでは、MMTについて "a more that of a political manifesto than of a genuine economic theory" と評価しています。まあ、その昔の「共産党宣言」と同じ意味合いなのかもしれません。私もMMTの今後の理論的展開に期待しています。

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次に、荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)です。著者は、デビューしたてのミステリ作家であり、本作は第68回江戸川乱歩賞受賞作です。ということで、ややトリッキーな設定ながら、地球滅亡前夜の殺人事件の謎解きが展開されます。すなわち、小惑星「テロス」が日本の九州に衝突することが2022年9月に発表され、半年後の2023年3月には地球上の生物の大部分が絶滅する、人類も生き延びられない、ということで世界は大混乱に陥ってしまいます。当然です。ムダだといわれていても、日本から離れた南米に向かって逃げる人も少なくなく、特に九州ではほぼほぼすべての人が脱出し、警察や消防といった公共サービスも機能せず、事実上の無法地帯となっています。そんなパニックをよそに、主人公の20代女性である小春は、淡々とひとり太宰府で自動車の教習を受け続けていたりします。もちろん、小春を教えている教官のイサガワも九州を脱出せずにいるわけで、刑事を退職した女性だったりします。タイミング的に、あるいは、状況的に、なぜ自動車教習所に通うのかという疑問はありますが、かの名作『渚にて』でも、タイピストを目指してモイラは学校に通い続けるわけですし、少なくとも私はこういった心情は理解できます。そして、年末になって教習を受けるためにトランクを開けると女性の刺殺死体を発見してしまいます。もはや、警察もほとんど機能していない中、女性2人で殺人事件の解決を目指して独自捜査が始まります。交通手段としては、まだガソリンが残っている自動車教習所のクルマしかなく、ほぼほぼすべての人が九州から脱出してしまっていますが、まだ、ごく一部のコミュニティには集団で身を寄せ合って生活している数人単位のグループが北部九州には残っています。そういった出会いがあったり、イサガワが刑事だった時の後輩警察官がまだ活動していたり、それほど不自然ではない状況が作り出され、その中で、おそらく同一犯によるであろう第2,第3の死体も発見されます。人類が絶滅して、そもそも、地球が滅び、社会秩序はほぼほぼ完全に崩壊している中で、いったい誰が殺人に走り、しかも、それを捜査して真相を突き止めようとする人がいる、というのか、とても特殊な設定といえます。もちろん、殺人犯も操作する小春やイサガワなども、滅亡する地球の中で、真っ先に消えてなくなる日本の九州に、それを知りつつ残っている人たちですから、メンタルが強いというよりは、むしろ、冷めているというか割り切って覚悟を決めている人たちです。ただ、謎解きはかなり本格的であり、誰が殺されて、同時に、誰がなぜ殺したのか、がキチンと論理的な回答として示されます。

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次に、島田裕巳『新宗教と政治と金』(宝島社新書)です。著者は、日本女子大学教授などを歴任した宗教研究者です。ヤマギシ会に入ったご経験もあるようです。ということで、本書のモチーフは、当然ながら、旧統一協会信者の2世が安倍元総理を銃撃暗殺した事件となっています。そして、本編は、1948年のクリスマスイブに岸信介、笹川良一、児玉誉士夫の3人が釈放されたところから始まり、岸~安倍家の統一協会とのつながりなどを示唆しつつも、この方面はそれほど深く分析検討がんされているわけではありません。他方で、私が考えるに、20世紀半ばからのお話でなくても、また、日本に限らなくても、その昔は祭政一致だったわけで、政治と宗教は一体であった期間が長いのはいうまでもありません。もちろん、時代が下って、祭政一致でなくても、江戸期には寺請制度で戸籍を仏教寺院が把握していたわけですし、明治期には国家神道が昭和に入って暴走した面があったりもします。そして、本書では昭和期の創価学会から始まって、生長の家や今もいくつかの選挙に挑戦していると聞き及ぶ幸福の科学などの新宗教の実態を明らかにしようと試みています。そして、タイトル通りに、政治に食い込んできた宗教団体の代表として創価学会が取り上げられています。そして、創価学会とは関係なく津地鎮祭訴訟から政教分離が進んだ経緯を解説し、でも、政治と宗教の分離に議論が進み、最後には、政教分離はともかくも、ホントに日本人的な無宗教はいいことなのかどうか、という議論がなされています。じつは、本書冒頭で著者ご本人のヤマギシ会の経験が明らかにされていて、やや引っかかるものがあったのですが、読んでみると、とてもニュートラルで一方的な偏りのないバランスの取れた内容の良書です。新宗教を考える基礎的な知識を得る上でとてもオススメできる内容です。フランスにおけるカルト規制についても取り上げています。最後に、本書の最終章は「『無宗教』であることの問題」と題されていて、無宗教について議論しています。実は、私が家族とともに海外暮らしをしたインドネシアでは無宗教は許容されません。役所への届出では、家族4人ともに仏教徒であると明記しておきました。なぜ、無宗教が許されないか、というと、無宗教は共産主義者に近い存在と見なされるからです。その基本的な論点は本書でも共有されています。そして、旧統一協会の別働隊、というか、同一なのかもしれませんが、勝共連合というのがあります。韓国本拠ですから、北朝鮮都の関係で共産主義への意識が高いのかもしれませんが、日本では宗教に縁薄い人たちが共産主義に近いかといえば、決してそうではありません。そのあたりの日本の実情についても、本書ではしっかりとスポットを当てています。

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次に、文藝春秋[編]『統一教会 何が問題なのか』(文春新書)です。本書のモチーフもご同樣で、旧統一協会の2世信者による安倍元総理の銃撃・暗殺事件に基づいて、月刊誌の「文藝春秋」2022年9月号と10月号の特集記事を基に、8編のルポと論考、最後は座談会という構成で新書として編まれています。本書のタイトルに基づいて、冒頭の記事で、旧統一協会の中核となる宗教行為、すなわち、伝道と強化の方法、献金と物品購入の強制、合同結婚式への勧誘の3点がすべて違法であるとする判例が確定していることが明らかにされています。この冒頭章に続いて、「山上容疑者はなぜ安倍元首相を狙ったのか」がもっともボリュームがあり、実に詳細に渡る山上容疑者の意識や行動が明らかにされています。さらに、献金問題にもスポットが当てられていて、信者の高額献金により苦しむ家族の姿も浮き彫りにされています。また、献金だけでなく、合同結婚式で海を渡った日本人花嫁の実態も取材に基づいて明らかにされています。最後の座談会の前には、教義を解明しつつ、その中で、創始者の文鮮明の位置づけも言及されています。最後の座談会では元信者も含めて、いろんな意見が交換されています。本書は、タイトル通りに、新宗教一般ではなく、安倍元総理との関係で旧統一協会だけにスポットを当てています。ただ、その見方はかなり冷めていて、旧統一協会の主張が自民党に取り入れられたのではなく、むしろ、イベントの盛上げ役、あるいは、そういう表現はありませんが、「人寄せパンダ」としての有名政治家の価値を明確に認めた上で、むしろ、旧統一協会の方で家族観などについては自民党の方にすり寄ったのではないか、との見方が示されています。もっとも、考えるべきポイントとしては、旧統一協会については、宗教という側面からアクセスする政治家よりも、むしろ、勝共連合との関係で反共の立場からつながりを持つ政治家も少なくないのではないか、という点です。加えて、選挙における固定票というのは政治家にとって魅力的であったろうというのは私にも理解できます。逆に、昨今のように投票率が大きな低下を示して、固定票としての宗教票が投票の中で占めるウェイトが結果として高まってきている、というのが実態でしょう。もしも、政治に宗教団体の意見を持ち込ませるのを阻止したいのであれば、直接に宗教団体に批判・非難をするのではなく、宗教団体の意向ではなく自分の判断で投票する有権者を増やすことが必要だと思います。最後に、ネトウヨの世界で、ハングルを駅などの街中で見かけるだけで気分を害するような嫌韓・嫌中の人たちが、どうしてここまで旧統一協会に寛容なのか、私には謎です。

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最後に、福田充『政治と暴力』(PHP新書)です。著者は、日本大学の研究者であり、専門は危機管理学とリスク・コミュニケーション、テロ対策です。本書では前の2書と違って、宗教は無関係にタイトル通りに政治と宗教の関係について、特に、テロ防止の観点から議論を展開しています。まあ、安倍元首相の銃撃・暗殺事件をモチーフにしながらも、「テロリズムとはなにか?」と題された第3章から、ほぼほぼ、一般的なテロのお話に終止している印象があります。ということで、第3章ではテロリズムの定義や分類などに言及され、プロパガンダ機能を持った心理的な武器であり、その意味で政治的なコミュニケーションの一種であることが明らかにされます。第4章では日本でのテロリズムの歴史が解き明かされ、そもそも、大化の改新につながる乙巳の変、すなわち、中大兄皇子と藤原鎌足による蘇我入鹿の暗殺がテロリズムであるとされ、日本では歴史的に要人が暗殺されてきた歴史がある、ということになります。まあ、私も5.15や2.26は正規陸軍部隊による武装蜂起とはいえ、決して内戦ではなくテロリズムだとは思いますが、いわゆる「拡大自殺」的な大量殺人、京アニ事件とか、大阪のクリニック放火事件とか、これらまでテロリズムというのであれば、あまりにも幅広くテロリズムを拡大しているような気がしないでもありませんでした。自分の専門分野ですから大きく考えるのは通常のバイアスだろうとは思います。経済学についても、極めて幅広い適用を志向する経済学帝国主義のような傾向は否定できません。ただし、仇討ちが一種の文化的伝統となっている点は、私も否定できません。そのために復讐心が強くて、先進国の中では数少なく死刑を廃止できない国民性であることは確かです。こういった議論の上で、第7章と第8章のテロリズム対策が議論されて、本書を締めくくっています。すなわち、オール・ハザード対応としてのテロリズム対策としては4点あり、(1) 情報の収集・分析・共有からなるインテリジェンス、(2) 事前対策のリスク・マネジメントと事後対応のクライシス・マネジメントを合わせたセキュリティ、(3) 対応に必要な物資、人員、組織の整備といったロジスティックス、最後に、(4) 社会一般に情報を伝達し、共有することで合意形成を図るリスク・コミュニケーション、となります。ただ、本書でも十分に意識されていますが、テロリズムへの根本的な対応、というかテロリズムの根絶のためには、民主主義がキチンと機能する基礎が必要です。正しく確実な民主主義の運営こそがテロリズムの芽を摘み取るもっとも重要な事前予防策であろうと私は考えます。
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2022年12月10日 (土) 09:00:00

今週の読書はカーネマンほか『NOIZE』を中心に計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダニエル・カーネマン & オリヴィエ・シボニー & キャス R. サンスティーン『NOIZE』上(早川書房)では、人間の判断におけるエラーのうちのノイズを取り上げて、アルゴリズムに沿った、あるいは、ルールに基づく決定の方がノイズが少ないと主張しています。野村総合研究所『日本の消費者はどう変わったか』(東洋経済)では3年ごとの1万人アンケート調査に基づき、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミック後の消費者のマインドや行動パターンなどの変化をリポートしています。小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)では平均的な収入があってもなお生活が苦しい国民生活の実態をリポートしています。高山正也『図書館の日本文化史』(ちくま新書)では図書館が文化的な豊かさに果たした役割を歴史的にひも解いています。貴志祐介『罪人の選択』(文春文庫)はSFとミステリの4編の短編を収録し、特にSFとではこの作者独特の世界観が味わえます。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~月には49冊、12月に入って今週は6冊ですので、今年に入ってから227冊となりました。ひょっとしたら、今年は250冊に届くかもしれません。

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まず、ダニエル・カーネマン & オリヴィエ・シボニー & キャス R. サンスティーン『NOIZE』上下(早川書房)です。著者は基本的に3人ともエコノミストといえますが、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞した経済心理学や行動科学の専門家、シボニー教授はマッキンゼー出身の経営学者で意思決定などの専門家、サンスティーン教授は法哲学や行動経済学の専門家です。英語の原題も NOIZE であり、2021年の出版です。ということで、基本的にカーネマン教授の前著『ファスト&スロー』の続編といえます。最初に、エラーをもたらす2つの要因としてバイアスとノイズを上げ、射的の結果から直感的に判りやすく解説しています。すなわち、精度高く的の近くに着弾したシグナル中心のいい例がある一方で、外している2例をもとに、一貫性なくアチコチにばらつきがあるのがノイズ、ばらつきはないがどこか・どちらかに偏っているのがバイアス、と分類しています。当然ながら、本書は前者のノイズを分析対象とし、標準偏差でもって計測される、と定義します。そのノイズの実例として、裁判での量刑、保険の査定結果、医師の診断、採用を含めた人事の評価などを上げて、実に多くのノイズで満ちた判断が下されていることを強調しています。そして、直感的にも理解できますが、バイアスは一方向に偏っていますから、例えば、裁判の量刑で厳しい/甘い、などの偏りを排除することはそれほど難しくない一方で、ノイズのばらつきは、いわば、一貫性なくアチコチの方向にばらついていますので修正が困難といえます。そのノイズを除去するために、本書では「判断ハイジーン」、すなわち、判断の事前にハイジーン=衛生管理をするイメージで、いくつかの手法を提案しています。そのひとつが、まさにAI時代にふさわしくアルゴリズムを用いた人間による解釈の裁量の余地の少ない方法です。逆にいえば、人間がその裁量で判断している限り、カスケード効果によりノイズが連鎖する可能性も十分あるわけです。要するに、ルールを設定して裁量の余地を狭めることが重要なわけです。その例としては、産婦人科のアプガー・ガイドラインを上げています。そして、私が考える中では金融政策のインフレ目標がこれに当たります。インフレ目標を採用する前の日銀が裁量政策にこだわって、日本経済にデフレをもたらし、ひどいトラック・レコードを記録して世界から笑いものにされていたのは記憶に新しいところです。最後に、私が読み進むうちに強い既視感に襲われました。すなわち、本書でノイズを除去すべく提案されているいくつかの方法は、ウェーバー的な官僚制に通ずる手段であるという点です。そして、最終第28章で、著者たちもそれを認めています。官僚制とは前例踏襲で融通が利かず、個別案件の特殊性を考慮せずに、一律にルールを適用する、と考えられていますが、まさにその通りです。おそらく、全部ではないとしても、エラーだらけの専制君主の判断に対して、ルールを議会で設定し、そのルースに従った執行体制を求めた結果が官僚制なのだろうと私は認識しています。本書ではノイズを削減・除去するためには、そういった官僚制のような融通の利かないルールの厳格な適用が必要、と主張しています。この点は忘れるべきではありません。

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次に、野村総合研究所『日本の消費者はどう変わったか』(東洋経済)です。著者は、いうまでもなく我が国でも最大のコンサルタント会社のひとつです。本書では1997年から開始され、3年おきに実施されている「生活者1万人アンケート」のい2021年調査結果を中心にタイトル通りの調査結果が示されています。主として、マーケターを主たる読者に想定していて、当然、マーケティング活動への活用に主眼が置かれています。でも、私のようなエコノミストにも十分活用できる結果ではないかと思います。特に、今回調査では2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより、どのような消費者の志向や行動の変化が現れたかを追跡調査しています。とても興味深い結果なのですが、一言でいえば、まあ、常識的な結果と私は受け止めています。まず、私が就職してキャリアの国家公務員となってから、大きな経済社会的な変化がいくつかありました。バブル崩壊(1990年)、阪神・淡路大震災(1995年)、リーマン証券破綻(2008年)、東日本大震災(2011年)、そして、COVID-19パンデミック(2020年)です。おそらく、こういったイベントにかかわりなくトレンドとして進んでいく変化もあれば、循環的な変化もあります。そういった中で、私は消費者の意識や行動に強く影響をおよぼすのは雇用だと考えています。まず、1990年代から進んだのは非正規雇用の拡大です。これを基礎として結婚せずに子供も少ない流れが一気に加速したと考えるべきです。そして、COVID-19パンデミックはこの流れを加速したといえます。ですから、本書でも指摘されているように、挑戦=チャレンジというのは積極果敢なアニマル・スピリットの現れであって、起業家精神を肯定的に表現する言葉ではなく、むしろ、リスキーでギャンブル的なネガな言葉に受け止められたりしています。加えて、COVID-19パンデミックの最大の影響はテレワークの普及にあります。おそらく、特に日本では非公式な同僚との横の連絡が失われた結果として、かなりの生産性の低下を見たのだろうと思いますが、パンデミックを過ぎたとしても、100パーセント元の対面就業に戻るわけではありません。もともとテレワークに親和性があって生産性が確保できている産業・職業や、あるいは、テレワークに習熟して生産性の低下が食い止められている企業などでは、引き続きテレワークが継続されるのはいうまでもありません。その意味で、働き方のダイバーシティが進みましたので、幸福度は決して大きく低下したわけではありません。他方で、渡辺教授の『世界インフレの謎』で主張されていた宿泊や飲食などのサービス消費の低迷とモノ消費への回帰については、少なくとも本書では外食への需要については決してCOVID-19によってダメージを受けているわけではない、と指摘しています。そして、デジタル化については一気に進んだのは従来から指摘されている通りです。本書では「半ば強制的に」という表現を使っています。いずれにせよ、政府統計などに現れる消費のバックグラウンドを知る上では貴重な資料です。ただ、最後に、SNS誘発消費についてはそれほど重視されていません。インフルエンサーの影響については、私は雇用環境よりずいぶん弱いと考えているので、ある意味でOKなのですが、本書ではまったく無視しています。

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次に、小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)です。著者は、ジャーナリストです。タイトルの年収443万円というのは、国税庁の「民間給与実態統計調査」における2021年給与所得者の平均年収となっています。ハッキリいって、とても低い額なのですが、これはあくまで平均であって、平均はトップモストの層に引っ張られますので、中央値はもっと低いことになります。バブルが崩壊した後、ここ30年でお給料はほとんど上がっていないわけです。3部構成となっていて、第1部と第2部はインタビュー内容を1人称で取りまとめています。第1部が平均年収がっても生活が苦しい人たち、第2部は平均年収以下のインタビュー結果です。第3部で著者の視点が示されます。ということで、平均的に、というか平均以上の年収1000万円でも生活が苦しいという訴えに満ちています。子供の教育費であったり、老親の介護であったり、あるいは、非正規雇用の不安定さと所得の低さであったり、生活が苦しい原因は必ずしも同じではありませんが、収入と支出のバランスの間で、30年以上前のバブル崩壊から苦しみ続けている国民の姿が浮き彫りにされています。私は何をどこから見ても、明らかに、収入の不足であると考えています。読者によっては家計の節約不足やムダな出費を指摘する向きがあるかもしれませんが、そうではありません。現代の技術水準に基づく豊かな生活を送ろうとすれば、それ相応の出費が必要です。テレビや自動車は文化的な生活には必要性高いといわざるを得ませんし、生活が苦しいからといって、インターネットへの接続の出費を切り詰めるのは、ひょっとしたら、選挙などで基本的人権の正当な行使が出来なくなるおそれすらあります。あるいは、権力者にはそれが狙いなのかもしれないと勘ぐったりもします。ですから、支出を切り詰めるのではなく、収入を増加させる必要が力いっぱいあるわけです。しかし、他方で、本書もやや踏み込み不足といえます。収入の増加や所得の確保には何といっても雇用がもっとも重要な要因なのですが、本書ではやや雇用についてアサッテの見方しか示されていません。すなわち、まず第1にマクロの視点で、経済の拡大を目指す必要がスッポリと抜け落ちています。気候変動=地球温暖化の抑制やほかのSDGsについて考えれば、脱成長とか、ゼロ成長とかが目標になりかねませんが、まず、経済の拡大による雇用の確保が大前提と考えるべきです。しかし、本書ではそこには目がつけられていません。第2にマイクロな視点では、安定した高収入の雇用のためにはスキルの向上が何よりも必要です。大学に戻ってのリカレント教育などにも目を向ける必要がありますが、本書では残念ながら、採用面接の際のテクニックだけが重視されている印象です。この2点をしっかりと政策的に支えて、国民を貧困状態から引き上げる措置が必要です。そして、何度も繰り返しましたが、国民生活の基礎は雇用にあります。まず、短期的には手始めに非正規雇用に対する規制緩和の行き過ぎの是正が必要です。本書にも「非正規雇用の拡大によるコストカット」といった旨企業サイドの見方が批判的に紹介されていますが、正規雇用の拡大という雇用者サイドの政策のためには、非正規雇用の行き過ぎた規制緩和の是正が現時点では必要です。非正規雇用を悪者視するわけではありませんが、正規雇用を求める雇用者に非正規の職しかないという現状は、行き過ぎた規制緩和の是正により改める必要があります。

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次に、高山正也『図書館の日本文化史』(ちくま新書)です。著者は、慶応大学の図書館学の研究者です。国立公文書館の館長も経験しているようです。ということで、本書では、図書館文化を中心に据えつつ、その前提としての文字文化、書籍の歴史なども押さえています。ですから、大陸からの漢字文字の導入なども重要かもしれませんが、やや著者の歴史認識に歪みがあるように私は感じましたので、それほど重視する必要もないかと思います。というのも、本書では何度かハティントンの『文明の衝突』を引いて、日本は中国漢字文化とは少し異なる独自の文明圏を形成していて、その日本の文明の発展を図書館が担っている、という説を何度か主張しています。ということで、私が図書館の役割として重要と考えているのは、文書の保存と利用者への提供です。しかし、この2点はある意味でトレードオフである点を、著者は暗黙裡にしか理解していないような気がします。私は国立国会図書館の図書カードも持っていましたし、東京では日比谷図書館をはじめとして、公立図書館も大学などの研究機関の図書館も、かなり数多くの図書館を利用してきました。ハッキリいって、図書館のヘビーユーザだろうと思います。おそらく、私が接してきた国公立の図書館では、主として文書・図書の保存を主眼に置かれているタイプと、逆に、利用者への提供を主眼に置いているタイプがあります。私自身は各図書館ごとにバランスが重要と考えているわけではなく、図書館によってその役割を特化させてもいいくらいに考えています。すなわち、利用者への提供はほとんどせずに図書や文書の保存を主眼にした図書館もそれなりに重要です。現時点では、図書ではなく文書に関する国立公文書館がこれに当たります。国会図書館もこれに近いような気がします。逆に、おそらく、多くの市区町村レベルの公立図書館が貸出に精を出すシステムになっており、適宜古い図書を処分しつつ地域住民へのサービスに努めているわけで、本書では「無料の貸本屋」とやや揶揄した表現を用いている部分もありますが、行政サービスとして重要な役割を果たし、良識ある市民層の形成にて大いに役立っていることはいうまでもありません。ただ、本書でも指摘しているように、図書館に関する政策が文教政策には入っておらず、国会図書館という頂点を持った立法府に属しているため、政策的な重点がぼやけているのは事実だろうと思います。最後に、本書では電子図書の役割、あるいはさらに進んで電子図書を図書館でどのように扱うか、については、p.267で「時間がかかる」としか述べられておらず、少し不満が残ります。この先、デジタル本が比率を高めていくことは明らかなのわけですし、実は、私自身は図書館のヘビーユーザでありながら確たる見識は現時点では持ち合わせていませんから、本書の著者には何らかの見識を持った見方を示してほしかった気がします。

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最後に、貴志祐介『罪人の選択』(文春文庫)です。著者は、私と同世代で、京都大学経済学部出身の小説家です。本書では短編4話から構成されており、ハッキリいって、やや寄せ集めの感があります。単行本は2020年に発行されていますが、今年になって文庫本が出版されましたので読んでみました。収録されている短編は、「夜の記憶」、「呪文」、「罪人の選択」、「赤い雨」であり、タイトル編となっている「罪人の選択」はミステリですが、ほかの3話はSFです。特に、冒頭に置かれている「夜の記憶」は『十三番目の人格 -ISOLA-』や『黒い家』で著者が本格デビューする前に書かれた貴重な一編といえます。節が交互になっていて、人間ならざる生物と人間がそれぞれ登場し、人間編の方では、男女の結婚前カップルが南の島のバカンスで太陽系脱出前の最後の時を楽しんでいます。浅い読み方しかできない私のような読者には、かなり難しいSFだと感じさせられました。第2話の「呪文」では、主人公は文化調査で植民惑星『まほろば』に派遣され、諸悪根源神信仰を調べ、集団自殺や大事故などを引き起こす危険な信仰を防止することを目的にしています。唯一のミステリである「罪人の選択」では、1946年と1964年の2時点を舞台に、罪人が選択を迫られます。すなわち、焼酎の入った一升瓶とフグの卵巣の缶詰を前に、どちらかに猛毒が入っていて、他方は無害、という選択です。最後の「赤い雨」は遺伝子組換え生物として誕生したらしいチミドロによって汚染された世界と選ばれた人間だけが入れるドームの世界を対比し、以下に破局的な終末を阻止するかという研究をしている男性とチミドロが引き起こすRAINという病気の治療を研究する女性を主人公にしています。何といっても、私は最後のSF「赤い雨」を高く評価します。私が貴志祐介のSF作品としては最高傑作と考える『新世界より』にやや近い世界観、すなわち、分断され上下関係に支配されつつも、協力し合う2つのグループが、地球という狭い世界でいかに生きるか、という観点が示されています。ミステリの「罪人の選択」は、まあ、標準的なレベルという気がしますが、繰り返しになるものの、冒頭の「夜の記憶」は私の理解がはかどりませんでした。「呪文」も短いストーリーにいろんな要素を詰め込んだSFをの好編です。長編小説のようなスケールはありませんが、なかなかに中身の濃い短編が収録されています。ただし、まあ、一貫したテーマはなく寄せ集めです。

最後に、最新号の ECONOMIST 誌にて年末特集のひとつだろうと思いますが、以下の今年の読書的な2つの記事を見かけました。雑誌としてのオススメと寄稿者のオススメのようです。中身はまだそれほど詳しく見ていませんが、面白そうであれば取り上げてみたいと思います。
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2022年12月03日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)では、やや私には確信の持てない未来社会について著者たちの強い信念が展開されています。米澤穂信『黒牢城』(角川書店)は、今さら感強いとはいえ、直木賞も受賞した時代ミステリ小説です。浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)は、女性ジャーナリストが企業における女性登用の重要性を解明しています。佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)は、これもジャーナリストが宇沢教授の人となりを解明しようと試みています。橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)では、広く市民生活に影響を及ぼしていたギリシアの民主政について歴史家が議論を展開しています。最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)は、我が国最高峰の小説家が父親について語るエッセイです。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで18冊で今週は6冊ですので、今年に入ってから221冊となりました。

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まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)です。著者は、世界的な起業家・未来学者・テクノロジスト、そして、政府政策アドバイザー・起業家と紹介されています。私にはよく判りません。英語の原題は The Rise of Technosocialism であり、2021年の出版です。著者から本書の前に『拡張の世紀』と『BANK 4.0』が出版されているそうですが、不勉強にして私は前者の『拡張の世紀』だけしか読んでいないと思います。『拡張の世紀』については、本書とともに壮大な未来予想を展開していますが、どこまで現実化されるのかはまったく判らない、と感じたことを記憶しています。というのも、著者たちの強い信念に基づく情報だけが取捨選択されて、その上で未来予想がなされていますので、それほど客観性があるとは思えません。すなわち、本書ではp.53とp.235に同じ4つの未来シナリオを示しており、本書のタイトル「テクノソーシャリズム」では、テクノロジーが普及して自動化が進み、公平性や幅広い繁栄を謳歌できるそうです。別に3つのシナリオがあります。新封建主義」では、格差拡大が極限にまで達し、富裕層はゲーテッド・コミュニティで生活することが予想されています。「ラッダイト世界」では、科学やテクノロジーは拒絶され、法により制限されるらしいです。最後に、「失敗世界」では、気候変動が極限まで達して気候が崩壊し、経済的には不況となり、全面的な独裁政治が世界を支配するとされています。私には、賛同できる論点は少なかったとしかいいようがありません。著者2人の見方はこうですと、かなり強引に示されていて、その方向性に賛同できる読者には、まあ、「内輪褒め」のような形で、それなりに受け入れられやすいのかもしれませんが、議論の進め方はかなり強引かつ独断的で、しかも、翻訳も決してよくないし、さらに、原著の段階で構成なんかも私の理解を超えていて、第7章で革命リスクの緩和について論じられているのは、何の話なのだろう、と思ってしまいました。何よりも私が節s技に感じたのは、AIによる自動化が進み、公平性が担保されるテクノソーシャリズムが未来のひとつの姿である点は、決して拒否しないとしても、その実現可能性、というか、未来への分岐点が何なのかについては、まったく理解できませんでした。何がどうなれば、どのシナリオの実現性が高まるのか、現時点でまったく公平性が担保されていないのはなぜなのか、必要な問いに対する回答はまったくなく、「ボクたちはこう考える」に関して、「将来こうなればいいね」というのが示されているだけな気がする。しかも、その未来社会の中身はアチコチで広く論じられていて、ほとんど著者たちの新たな視点というものは含まれていません。まあ、分厚い本でしたが、それほどタメにならない読書だった気がします。

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次に、米澤穂信『黒牢城』(角川書店)です。著者は、日本でもっとも注目されているミステリ作家の1人であり、本書により直木賞を受賞しています。したがって、というか、何というか、出版社もご褒美的に特設サイトを開設していたりします。舞台は有岡城で、主人公は荒木村重です。これだけでは不親切ですので、もう少し詳しく書くと、時代は戦国時代末期、あるいは、織豊政権の成立前夜というくらいで、荒木村重とは毛利と通じて織田信長に反旗を翻した北摂の戦国武将です。その荒木村重が立てこもるのが有岡城というわけです。そして、その有岡城に織田方の使者として黒田官兵衛が来て、殺されもせず、帰されもせずに、有岡城の土牢に閉じ込められてしまいます。なお、細かいことながら、この当時、黒田官兵衛は黒田姓ではなく小寺姓を名乗っています。そして、本書は4偏の連作短編から構成されています。いずれも、有岡城内、あるいは、城下で不可思議な出来事が起こり、それを官兵衛の知恵を引き出しながら解決する、というものです。第1章では牢の人質が殺され、第2章では戦陣で討ち取った敵将の首の特定が困難を極め、第3章では使者と頼んだ旅の僧が殺された犯人を考え、そして、第4章では第3章の僧殺しの犯人に鉄砲を発射した者を特定します。それぞれの謎解きは興味深くて、それなりに感心しますが、私には少し物足りません。というのは、やはり、馴染みのない時代背景では謎解きに対して感情移入するのが、渡しの場合ということですが、難しいのだろうと思います。不器用なミステリ読者なのかもしれません。その意味で、早く『栞と嘘の季節』図書館の予約が回ってくるのを待っています。古典部シリーズも再開しないものでしょうかね。

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次に、浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)です。著者は、朝日新聞や『AERA』の記者を務めたジャーナリストで、特に、『AERA』に関しては編集長の経験もあるようです。そして、タイトル通りの内容です。ジャーナリストらしく、大きの企業関係者に取材して、あるいは、ご自身の体験も踏まえながら、男性中心企業の終焉を見越しています。まったく、私もその通りと感じています。エコノミストとしてキチンと論理的に説明できないながら、私も、日本企業が女性をクリティカル・マスを超えて、例えば、30%の管理職を女性にすれば、かなり大きく生産性が上がるのではないか、と考えています。そして、何よりも強調すべきであるのは、この女性管理職大幅増の起点となるのは企業サイドである、という点です。何かと、企業での女性活躍が進まない口実として、家庭における男女の役割分担が上げられます。しかし、おそらく因果関係は反対なのだろうと私は考えています。まあ、因果関係などと小難しい議論をせずとも、女性が企業の管理職の半分くらいを占めて、それにともなってお給料が大いに稼げるようになれば、時間がかかる可能性はあるにしても、家庭内の役割分担も必ず地滑り的な変化が生じることは明らかです。マルキストでなくても、経済が社会の下部構造をなしていることは実感しており、その経済の中でも雇用関係が最重要な規定的要因であることは明らかです。家庭内で伝統的な男女の役割分担がなされているから、男性が企業で無限定に働いているわけではなく、男性が企業で無限定に働かされているために、家庭内の家事育児や介護まで女性が担わざるを得なかったのではないでしょうか。ですから、雇用関係で女性の管理職登用が進めば、家庭内でも性別に基づく役割分担が変化すると考えるべきです。日本経済にはそういった女性管理職の大幅増を、逆差別を押してでも進める必要があります。経済政策の切り札だろうと私は考えています。

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次に、佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)です。著者は、ジャーナリストであり、前著『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』は私も読みました。前著の感想文でも書きましたが、私の極めて大雑把な宇沢教授に対する印象としては、米国時代はアカデミアの1人として経済学研究に励み、東大、というか、日本に帰国してからは、アカデミックな分野ではなく、むしろ、アクティビストとしてご自身の信念に基づいた活動家としての方にも、もちろん、東大教授としての学術面での活動に加えて、という意味ですが、アクティビストの面も強かったのではないか、と考えています。私とは時代が違いますし、親しいわけでもありませんから、単なる印象ながら、帰国して学術面での貢献がストップしたわけではありませんが、宇沢教授による本当の経済社会への貢献としては、アクティビストとしての活動ではなかったか、と思う次第です。ですから、本書では、生い立ちから始まって、米国における研究での宇沢の2部門モデルの理論的貢献、もちろん、帰国してからの社会的共通資本の研究も重要な論点ですが、米国のベトナム戦争、日本の水俣病などの外部不経済など、宇沢教授の経済学に基づく実践行動にもスポットが当てられています。ただし、止むを得ない面は理解するとしても、やや宇沢教授を美化している面は否定できません。すなっわち、バイアスあるものの、それはそういうもの、と割り切って読むことも必要かもしれません。

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次に、橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)です。著者は、東大の研究者であり、専門は古代ギリシア史です。本書のあとがきにある著者の思いを引用すると、「古代ギリシアの民主政を、政治のしくみとしてだけではなく、そこに生きた人びとの生業・社会・文化・宗教が織りなす一つの全体として描きたい。そのような願いに衝き動かされて書いたのが本書である。」ということであり、新書というややボリューム不足な出版物という点を考慮すれば、十分に目的が達せられていると私は評価しています。というのも、民主政は単なる多数決による決定方式ではなく、平等の原則に基づく幅広い思考様式や行動様式の中心となるシステムだからです。その意味で、本書では議会活動や行政活動だけではなく、裁判までも民主政の中に含めて考え、市民裁判という解説を加えているのは、ある意味で、自然なことだと私は受け止めました。その他にも、ギリシアでも中心となるアテナイでは、国家としての最盛期を過ぎてから、民主政が成熟して最盛期を迎えた、とか、区単位で民主政が実践され、もちろん、奴隷という身分制であって、近代的な国民すべてが市民というわけではないとしても、市民が生涯の間に何らかの民主制における役割を担うとか、いろいろと私自身も不勉強で知らなかった事実がいっぱいありました。決して大上段に振りかぶって、現代の民主主義に対する何らかの示唆を得るというわけではなく、民主主義発祥のギリシアにおけるシステムや暮らしのあり方を教養として身につけておくのも必要なことではないでしょうか?

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最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)です。著者は、日本を代表する作家であり、日本人としてもっともノーベル文学賞に近い存在であることは、多くの読者が認めるところだろうと思います。本書は、猫を棄てるという行為を起点として、著者が父親について、そのパーソナル・ヒストリーを簡単に取りまとめるとともに、親子関係を語っています。明示してはいませんが、フィクションではなく、ノンフィクションなんだろうと思います。著者は、何だったかは忘れましたが、エディプス・コンプレックスについて語っていますが、本書ではご自分から父に対するエディプス・コンプレックスは、少なくともその言葉と関連付けては出てきません。父親のパーソナル・ヒストリーを語る際、どうしても時代背景から軍役の関係が多くなります。そして、著者は大学入学とともに親元を離れていますので、大きな段差を感じたりもしますが、父親と倅との間には何らかの確執があるのは当然ですし、確執がありながら淡々と父親について調べて、それを出版物にするというのは、かなり大きな作業なのだろうと感じます。
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2022年11月26日 (土) 09:00:00

今週の読書は国際交渉でのケインズの活躍を収録した経済書ほか計5冊

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)は、欧州諸国を相手に回して、戦間期においてケインズ卿がワンマンIMFの働きを見せる姿が活写されています。道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)では、第1作の蝦蟇暮倉市から箕氷市に舞台を替えて、不気味な出来事が連作短編の形で4話収録されています。重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)では、経済学で前提される合理的な個人について政治社会思想史の観点から跡づけています。渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)では、物価に関する我が国第1人者のエコノミストが、日本の慢性デフレと急性インフレについて分析を試みています。最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)では米国東海岸を舞台に殺人事件の謎解きがなされます。最後に、読み通したわけではなく、辞書的に座右においてあるだけで、読書感想文の5冊の外数ですが、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)を買い求めて活用に励んでいます。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで13冊で今週は5冊ですので、今年に入ってから215冊となりました。

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まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)です。著者は、上智大学名誉教授であり、ケインズ学会会長ですから、我が国のケインズ研究の大御所といえます。そして、特筆すべきはタイトルであり、まさに、ヴェルサイユ体制にたった1人で孤軍奮闘して立ち向かったケインズ卿の姿が分析対象となっています。もちろん、若き日のケインズから始まって、ケンブリッジでの生まれ育ちやブルームズベリー・グループにも言及されていますが、「平和の経済的帰結」からのあまりにも有名なケインズ卿の慧眼に焦点が当てられています。本書の図コープとしては、対ヴェルサイユ体制であって、第2次世界対戦の後処理である世銀・IMFの創設までは含まれていませんが、ヴェルサイユ体制を相手に回してのケインズ卿の1人国際機関としての活躍が余すところなく活写されています。そうです。まさに、ケインズ卿1人で国際機関の役割を果たしていたといえます。私は劇画の「ゴルゴ13」が好きで、まさに、ゴルゴ13がワンマンアーミーとして20-30人の軍を相手に立ち回るシーンを何回か見てきましたが、本書でのケインズ卿は、現時点での国際機関になぞらえれば「ワンマンIMF」であり、国際金融制度を1人で背負って立っています。対独報復的なフランスの過剰な賠償要求に対して、キチンとした経済計算に基づいて反論し、債務返済の現代流にいえばヘアカットの必要性につき分析しているのがケインズ卿です。歴史がその正しさを立証していて、ヴェルサイユ体制がナチスにつながったのは明らかといえます。しかも、私も経済学者=エコノミストの端くれとして驚愕するのは、戦間期にこういった国際金融制度の中で大きな役割を果たすと同時に、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』によりマクロ経済学を確立し、米国のニューディール政策の理論的基礎を打ち立てている点です。私なんぞは、キャリアの国家公務員として経済政策策定の最前線に60歳の定年までいながら、政策策定の実務上も、もちろん、理論展開上も、何らの目立った貢献も出来ませでしたが、まるでモノが違います。国際金融交渉の場におけるワンマンIMFとしての活躍、さらに、マクロ経済学樹立のアカデミックな活躍に加えて、おそらく、ケインズ卿は母国である英国に何らかの有利な方向性も模索していたのだろうと私は想像しています。ただ、そういった英国の国益追求という面は、本書では強調されていません。最後に、出来うべくんば、平井先生に本書の続編を書いていただき、第2次世界対戦の戦後処理のうち、世銀・IMFの創設、特に有名な英国のケインズ案と米国のホワイト案の議論なども取り上げていただきたい、と切に願っております。

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次に、道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)です。著者は、中堅どころのミステリ作家であり、やや暗い作風ながら、私の好きな作家の1人です。本書の前編の位置づけであろう『いけない』は海岸沿いの蝦蟇倉市から、本作品では箕氷市に舞台を移します。海は出てこずに山が舞台となる作品がいくつか収録されています。牡丹農家も多いようです。4編の短編を収録しています。第1話「明神の滝に祈ってはいけない」では、1年前に忽然と姿を消した姉のSNS裏アカを発見した妹が、姉が最後に訪れたとみられる明神の滝に向かい、同じように失踪してしまいます。その明神の滝には願い事をかなえてくれる代わりに、大事なものを失うという言い伝えがあったりします。第2話「首なし男を助けてはいけない」では、小学5年生の少年が主人公となり、引きこもりで首吊り人形を作り続けている伯父さんに、ちょっとエバッた同級生に肝試しでいたずらを仕かける人形の工作の相談に行くところから始まります。収録された4編の小説の中では、ストーリーとしては一番怖い気がします。第3話「その映像を調べてはいけない」では、家庭内暴力を振るう子供を殺したと老夫婦が警察に自首するところから始まります。しかし、この第3話の中心は、いかにも怪しい老夫婦の自主内容ながら、その怪しさは次の第4話で謎解きされます。第4話「祈りの声を繋いではいけない」では、第3話の謎解きを中心に、それまでのすべての謎が明らかにされます。ストーリー、というか、小説で語られる事実としては、第2話が一番怖い気がしますが、第1話とこの最終第4話は、ともに、子供を失った、あるいは、亡くした両親の心理描写がとても狂気にあふれるとまではいいませんが、かなり不気味で、このあたりに道尾秀介のミステリ作家としての本来的な能力を感じます。そして、各短編が終了した最後のページに写真が示されています。第3話の写真なんか、ネットでの謎解きを見るまで、感性も頭の回転も鈍い私には理解が進まなかったのですが、第2話の最後の写真は、すぐに理解できました。とても不気味な事実を示唆しています。合わせて、感じるものがある、あるいは、怖がることができたりすれば、さらに本書の、あるいは、道尾作品の読書の楽しみが増えそうな気がします。

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次に、重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)です。著者は、明治大学の研究者であり、専門は現代思想・政治思想史のようで、フーコー研究者です。ですから、本書の副題は『「利己的人間」の思想史』とされており、経済学的な合理性や限定合理性とか経済哲学的な観点は希薄になっていて、歴史的に経済学がホモ・エコノミクスを前提にする前から、政治社会的な部分も含めての思想史をひも解いています。ですから、逆に、一般ビジネスパーソンには読みやすくなっている気もします。3部構成であり、第1部は富と徳に焦点を当てて、この両者が必ずしも両立せず、古代・中世などの前近代においては、決して「金儲け」が徳ある行為とみなされずに、やや蔑まれていた事実を指摘しています。第2部ではホモ・エコノミクスの経済学を取り上げて、スミスらの古典派経済学から現在までの主流派経済学の中核をなしている新古典派的な限界革命を経て、経済活動だけではなくホモ・エコノミクスが広範な領域に進出し、自己利益の追求が「背徳」的な行為ではなくなって、普遍的な価値観として受け入れられる時代を概観します。そして、最終の第3部ではホモ・エコノミクスの席捲として、シカゴ学派のベッカー教授の経済学帝国主義的な視点などを取り上げています。私の方から、2点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、第1に、本書冒頭で取り上げている公正世界仮説が心理学の学問領域でどこまで認識されているかについて、私は不勉強にしてよく知りませんが、ほかの学問領域は別としても、少なくとも、経済学においてはホモ・エコノミクスを経済モデルの前提にするのは第1次アプローチ=接近としては、十分に合理的であろう、と私は考えています。このホモ・エコノミクスのモデルから、現実に合わせる形でモデルの修正がなされればいいわけです。ただ、従来から指摘している通り、経済学の未熟な点として、モデルを現実に合わせるのではなく、現実の方をモデルに合わせてしまうという欠点は忘れるべきではありません。ですから、ホモ・エコノミクスの合理性のうち、何らかの前提を緩めるという作業が必要なわけです。合理性で前提される完備性、推移性、独立性のうち、ツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論では独立性の前提を緩めているわけですし、そもそも、個人レベルではなく社会レベルではアローの不可能性定理により推移律が成り立たない点は証明されています。限定合理性を含めたモデル化も進んでいます。第2に、ホモ・エコノミクスとは、本書でも指摘しているように、私利私欲を基にした強欲な個人的利益追求主体であるというわけではなく、何らかの効用関数に則って合理的に行動する経済主体と考えるべきです。ですから、「強欲」とかのネガなイメージは効用関数に含まれる説明変数とその偏微係数の大きさによります。かなり説明を端折りますが、結論として、現在、「行動経済学」としてもてはやされているインセンティブによる個人の選択行動へのパターナリスティックな「介入」には、私は大きな疑問を持っています。場合によっては、そういったインセンティブによるナッジなんてものに影響をまったく受けないホモ・エコノミクスの方が、まあ、強くいえば、私には好ましい存在にすら見える場合があります。ひょっとしたら、暗黙裡にそういうホモ・エコノミクスを私自身は目指しているのかもしれません。

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次に、渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)です。著者は、日銀ご出身の東京大学の研究者であり、物価の研究に関しては我が国の第1人者と見なされています。本書では、現在の世界的なインフレは、従来型の需要の超過によるディマンドプルのインフレではなく、供給サイドに起因するインフレであると結論つけています。そんなことは判りきっていえるというエコノミストも多いかと思いますが、単純にコストプッシュだと分析しているのではなく、供給が不足もしくはミスマッチしており、その背景には新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックに起因する消費者や労働者や企業の行動変容があると指摘しています。すなわち、サービス経済化の逆回転が生じて、旅行や外食やといったサービス需要から、巣ごもり需要のモノに消費者の支出がシフトし、労働者は密な職場に帰りたがらず、在宅勤務できる職種に転職したり、あるいは、縁辺労働者は非労働力化したりし、最後に、企業活動ではグローバル化の逆回転が生じ始めている、といったところです。その上で、世界インフレから日本国内の経済とインフレに目を転じて、日本では慢性デフレと急性インフレが共存していると指摘しています。そして、かつての物価上昇期における賃金-物価のスパイラル、すなわち、企業が製品価格引上げ⇒生計費上昇分の賃上げ要求⇒賃金引上げ⇒コストアップ分の価格転嫁⇒製品価格引上げ、のサイクルが、現在の日本ではまったく同じメカニズムにより製品価格と賃金がともに上昇率ゼロで「凍結」されている、と指摘しています。そして、この「凍結」を賃金を起点に「賃金解凍」する条件として3点上げています。第1にインフレ期待の醸成、第2に賃上げ部分が価格転嫁できるという期待の醸成、そして、第3に労働需給の逼迫、となります。細かい論旨は本書を読むしかありませんが、とても注目すべき分析です。もっとも、私が感銘したのは、世界のインフレと日本国内の「慢性デフレに「急性インフレ」を切り分けて分析を進めている点です。世界が利上げしているのだから円安が進み、円安抑制のために日本も利上げすべき、といった乱暴は議論とは大きく異なります。ただ、金融政策の役割に関して疑問点があり、2点だけ上げておきたいと思います。第1に、現在の世界的なインフレをほぼほぼ実物の需給だけで理解しようと試みていますので、金融政策のインフレに果たした役割がスッポリと抜け落ちています。現在のインフレは大きく緩和されていた2022年初頭までの金融政策が、フリードマン教授のようにすべての原因、とまで私は考えませんが、ひとつの無視できない要因だと考えています。すなわち、あくまで一般論ながら、金融緩和の下で大きく増加した通貨供給は中央銀行の準備預金として「ブタ積み」される部分もありますが、一定の購買力となってフローの財・サービスとストックの資産に向かいます。前者の財・サービスに向かえばインフレとなりますし、後者の資産に向かえば、すぐではないとしても、行き過ぎればバブルになります。そして、今回の世界インフレの元凶であるエネルギー価格の高騰は、おそらく、ドル通貨の過剰供給が資産としての石油に向かったのが一因です。金とか、その昔のゴルフ会員権とか、有名画家の絵画、などであれば実物経済への影響はそれほど大きくありませんが、石油価格は実物経済への影響はかなり大きいと考えるべきです。ですから、商品市況で金などの貴金属、あるいは、非鉄金属や穀物といった商品=コモディティという資産として石油が価格高騰し、その資産価格の高騰がフローの財・サービスに影響を及ぼしている可能性を忘れるべきではありません。ですから、米国の金融引締めによってドル供給が縮小すれば石油価格は落ち着きを取り戻すと考えられます。おそらく数四半期、すなわち、1年から、早ければ来年半ばにも事実として観察されるものと私は考えています。第2に、金融政策は需要のみの管理にとどまる政策ではありません。このあたりは、中央銀行と政府の政策のタイムスパンの考え方の違いで、すなわち、私の理解によれば、中央銀行では景気循環の1循環、すなわち、数年をタイムスパンとして金融政策を考えているのに対して、政府では、極端な例としては「教育は国家100年の計」なんてのがありますが、もっと長いスパンで政策を考えます。景気循環1循環では、確かに、金融政策は供給サイドに大きな影響を及ぼすことは難しそうですが、もっと長いタイムスパンで考えれば、利子率が設備投資に影響し生産や供給に何らかのインパクトを持つことは明らかです。まあ、第2の点は大したことではないかもしれませんが、第1の点の緩和的な金融政策が現在の世界インフレをもたらしたひとつの要因であるという事実を本書ではほぼほぼ無視しており、私の目にはこの点がとても奇異に感じます。ですから、現在の米国における金融引締めは、単に米国の国内需要を下押しするだけでなく、資産価格としての石油の価格を引き下げる効果も十分持っていますし、この米国の金融引締めに日本はフリーライドして、棚ぼたの利益を受ける可能性がある、と私は期待していたりします。

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最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)です。著者は、米国のミステリ作家であり、私はこの作者の『そしてミランダを殺す』も読んでいます。実は、この作者の作品としては、本書と『そしてミランダを殺す』の間に『ケイトが恐れるすべて』という作品があるのですが、これは未読です。英語の原題は All the Beautiful Lies であり、ハードカバーもペーパーバックもともに2018年の出版です。まあ、この英語の原題と邦訳のタイトルを考え合わせると、いかにも、アリス=主人公の継母が嘘をつきまくっている、あるいは、重要な事実を隠しているのだろうという想像ができてしまいますが、ここまでは読まなくてもタイトルだけから感じ取れる範囲ですので、何らネタバレではなくOKと考えます。2部構成となっていて、第2部に入るとガラッと景色が変わり、謎の解明が大きく進展します。ということで、主人公は稀覯本書店を経営する父親を持ち、大学を卒業する直前の大学生です。舞台はメイン州、典型的なニューイングランド、米国の東海岸です。そして、卒業式を数日後に控えた主人公に父親が海岸から転落死したという知らせが入り、卒業式を欠席して大学から実家に戻ります。稀覯本書店を経営していた父の後妻がアリスなわけです。後に警察の調べが進んで、転落による事故死ではなく殺人の線が浮かび上がります。邦訳本で10ページ前後からなる各章が交互に、厳密ではありませんが交互に、現在の主人公の実家周辺と過去、主として、アリスの過去にスポットを当ててストーリーが進行します。まあ、有り体にいえば、現在の捜査の進展とともに、アリスの暗い過去が明らかにされるわけです。その暗い過去の中には、首を絞めたり銃で射殺したりといった明確な殺人ではありませんが、ミステリでいうところの「プロバビリティーの犯罪」あるいは「可能性の殺人」にアリスが関わっていた事実が含まれます。これ以上はネタバレになりかねませんので、最後に2点指摘しておきたいと思います。第1に、途中で名前を変える登場人物がいます。ノックスの十戒の10番目に "Twin brothers, and doubles generally, must not appear unless we have been duly prepared for them." というのがあり、双子はこの作品に登場しますし、途中で名前を変えるというのは「1人2役」のような気もします。でも、作者が "duly prepared" だと認識している可能性がゼロではありません。第2に、この作品はイヤミスです。欧米ミステリ界でカテゴリとして確立しているのかどうかは、不勉強にして私は知りませんが、明らかに日本でいうところのイヤミスです。したがって、読者によっては読後感が悪いかもしれません。

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ホントの最後の最後に、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)です。著者は、英国マンチェスター大学の研究者です。本書は、最初の1ページから始めて最後まで読み通す、といった通常の読書には馴染まないタイプの本で、それこそ、座右において「辞書的に」必要に応じて参照するという使い方だろうと思います。でも、アマゾンのレビューがやたらと高かったので研究費で買ってみました。私は、今の大学に再就職して毎年1本の論文を書くことを自分に課しているのですが、最初の2020年は日本語で仕上げて、その後、昨年2021年と今年2022年はともに英語で執筆しています。しかも、大学院生の修士論文指導を別にしても、通常の授業で年間2コマは英語の授業を受け持っていたりします。従って、本書のようにアカデミックなフレーズを多数収録した参考文献はとても助かります。論文を書く際には、リサーチなんて英語そのままの用語もある一方で、私は explore とか examine なんて、外来語にすら認定されていない用語もいっぱい使うわけですから、用例や用法について豊富に収録されているようで参考になりそうです。ただ、パンクチュエーションはさすがに通り一遍です。私自身の感触としては、mダッシュとnダッシュの使い分けなんて、ネイティブでも相当に教養なければ難しいと感じていますが、本書では、「一般論としては、フォーマルな学術文書の場合には使用を避け、代わりに、コロン、セミコロン、括弧などを適宜使用すること。」とされています。私でも、コロンとセミコロンの使い分けはなんとか初歩的なレベルながら理解しています。
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2022年11月20日 (日) 15:00:00

今年のベスト経済書のアンケートに回答する

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ある経済週刊誌から寄せられていた今年のベスト経済書アンケートですが、結局、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)をトップに上げて回答しておきました。政府が後景に退いて企業の自由な活動を前面に押し出すネオリベラルな資本主義ではなく、政府と企業がミッションを軸にコラボ=共同作業を行う経済の重要性を指摘している経済書です。ネオリベな資本主義に対するアンチテーゼとして推しておきました。もちろん、政府と企業とのコラボ=共同作業の有力な候補はSDGsの推進です。17のゴールすべてというわけにいかないとすれば、何といっても重視されるべきは人類の生存をかけた気候変動=地球温暖化の防止のために温室効果ガス排出削減、いっぱい言い換えがありますが、カーボンニュートラルだけ上げておきます。イノベーションの重視はもちろん必要なのですが、ネオリベな経済観に基づく「スタートアップ信仰」、すなわち、スタートアップがイノベーションを担うという考えは、ハッキリいって、もう過去のものであり、現在では打破されるべきと私は考えています。そして、SDGsのもうひとつとしてはジェンダー平等が経済学的に重要だと私は考えています。実証的に示すことは出来ませんし、定量的な把握は不可能ですが、女性管理職比率を無理やりでも30%に引き上げれば、我が国企業の生産性は大きく向上すると思います。

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また、昨年のアンケートにこういう項目があったかどうか失念してしまったのですが、日本の進路に重要な指針を与える経済書・経営書というのがあり、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)を強く推しておきました。冷たい=格差拡大、弱い=成長できない、から、結局、岸田内閣が腰砕けになってしまった分配の重視、ないし、成長から分配への経済の流れを戻す試みがいくつか提案されています。賃上げと社会保障の充実による所得の底上げ、また、環境重視の気候変動抑止や、ジェンダー平等の達成による成長力の強化といった方向が明確に示されています。『ミッション・エコノミー』の繰り返しになりますが、気候変動=地球温暖化の防止を政府と企業とのコラボに基づき、特殊日本の財政状況だけかもしれませんが、財源がないなら国債を発行しまくってでも、カーボンニュートラルのための技術開発を進めることによりイノベーションが大いに促進されます。そして、民間企業に強力なインセンティブを与えてでも、あるいは法的に強制してでも、ジェンダー平等に基づいて女性管理職比率を飛躍的に引き上げることができれば、我が国企業の生産性は大きく向上します。生産性が向上すれば、雇用者の賃金引上げも進むことになります。現在の岸田内閣は、企業の内部留保に着目して、外生的に賃上げを促進しようとしており、それはそれで一案と私は考えていますが、もしも、ホントに賃上げが内閣の重要課題であるなら、企業の内部留保に課税すべきです。そうではなく、まあ、何と申しましょうかで、女性の管理職比率を障害者の雇用比率と同列に論じるのは適当ではないかもしれませんが、何らかの法制度により女性の管理職比率を引き上げる制度的な改革がなされることから始め、それによる生産性引上げを賃上げに結びつける、というのも十分に実現可能性があると思います。

経済書アンケートにかこつけて、私自身の経済観、政策観を展開していしまいましたが、現在のネオリベな経済政策を打破するために、引き続き、いろんな主張を繰り返したいと思います。
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2022年11月19日 (土) 09:00:00

今週の読書はウェルビーイングに関する経済書のほか計5冊

今週の読書感想文は以下の通りウェルビーイングに関する経済書2冊と明治史に関する新書、そして、ミステリ小説2冊の計5冊です。
まず、山田鋭夫『ウェルビーイングの経済』(藤原書店)は、あまりウェルビーイングとは関係なく、レギュラシオン学派の観点から資本主義の先行きや調整について論じています。草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)は、やや「ユートピア的」なウェルビーイングの考え方ではないかと思えるほどですが、成長モデルからウェルビイングのモデルへの転換について論じています。瀧井一博[編]『明治史講義【グローバル研究篇】』(ちくま新書)は、明治期の日本の歴史についてグローバル・ヒストリーの視点から、黒船来航という外圧による開国、そして、アジア各国が明治期日本を参照するという歴史をひも解いています。ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(HAYAKAWA POCKET MYSTERY)は、1880年代の大英帝国の植民地であったインドを舞台にしたミステリです。最後に、ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は、ポール・オースターの別名義によるハードボイルドなミステリです。ニューヨークを舞台にしています。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先々週と先週で8冊で今週は5冊ですので、今年に入ってから210冊となりました。

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まず、山田鋭夫『ウェルビーイングの経済』(藤原書店)です。著者は、名古屋大学を退縮された研究者です。本書では、レギュラシオン学派の調整理論に基づきつつ、大量生産・大量消費といったフォーディズムがどのように将来にわたってウェルビーイングな価値を重視しつつ、資本主義の調整がなされるか、に焦点を当てています。本書の構成は前編と後編にそれぞれ4章ずつを収録し、前編では内田義彦らの市民社会概念を紹介しつつ、ウェルビーイングの観点からの資本主義像を論じています。中国などの権威主義的な経済社会と市民社会が対象的に議論されます。特に、現在の岸田総理が持ち出した「新しい資本主義」については、分配が後景に退いて成長重視に回帰するとともに、賃上げや「所得倍増」ではなく試算所得の倍増に化けたのではないか、と批判しています。ただ、私の理解不足により、物質代謝については十分には判りませんでした。後編では、レギュラシオン理論に基づく資本主義の調整をテーマとしています。すなわち、資本-労働の関係では、テイラー・システムに基づく科学的管理を労働者が受け入れる一方で、労働需給による賃金決定ではなく生産性に基づく賃金が労働者に支給され、結果として、大量生産-大量消費というフォーディズムが資本主義に好循環をもたらした、というのがおそらく、1970年代の石油危機やニクソン・ショックまでのブレトン-ウッズを支えていました。それが、アマーブルのいうような多様性に富む資本主義がウェルビーイングの概念を軸に、いかに資本主義の新たな方向性として目指されるのか、について議論を展開しています。おそらく、私の目から見て、次の草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』と同じで、自由かつ格差が小さいという意味での平等が実現され、さらに、ウェルビーイングな経済社会を、少なくとも短期間で構築することは、ユートピア的・空想的であって、それほど現実性は大きくないと考えるべきです。他方で、こういった大きな方向性について、多様な資本主義の累計を念頭に置きつつ議論することは、単なる「頭の体操」を超えて、現在の日本経済を始めとするいわゆる「閉塞感」、あるいは、欧米経済学のコンテクストでいえば、「長期不況」secular stagnationからの方向転換を考える上でとても重要です。ただ、難点をいえば、内容が難しいです。やや専門外であるとはいえ、私には「物質代謝」を含めて、理解が及ばない点がいくつかありました。一般ビジネスパーソンには難解に過ぎる可能性は指摘しておく必要がありそうです。

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次に、草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)です。著者は、関西大学の社会学部の教授です。本書では、国連のSDGsなどを引用しつつ、p.40で示した利益拡大の競争社会である経済成長モデル、現在のモデルから、p.115で示している循環型共生社会であるウェルビーイングモデルへの転換について考えています。基本的な方向性としては私は大賛成であって、まったく異論ありません。ただ、2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、一時期にせよ成功していたように見える経済成長モデルがどうしてダメになったのかについては説明を要します。経済成長モデルが経済的格差を構造的に生じさせ、社会的な分断をもたらし、現時点でこのままではよろしくない、というのは、百歩譲っていいとしても、高度成長期の1950-60年代くらいまではこの経済成長モデルで日本だけでなく多くの先進国が成功してきたわけであり、21世紀に入った現時点で、どうしてダメになったのかについては、こういったステレオタイプの紋切り型ではなく、もう少していねいな説明がほしい気がします。第2に、ではウェルビーイングモデルをどう実現するか、については水俣市と長久手市の例が示されているだけで、どこまで一般性あるのか、はなはだ疑問です。当事者主体の地域協働を醸成するための6つのポイントがp.172に上げられていますが、後に、リーダーの存在の必要性などが述べられているとしても、はなはだ不親切であると私の目に映ります。ウェルビーイングについては所得と幸福度の関係についてイースタリンのパラドックスを展開したり、あるいは、センやヌスバウムらの潜在能力アプローチ、あるいは、ヘリウェル-サックスなどの幸福度に関する計測の研究、などなど、しっかりとした理論的な基礎があるだけに、方法論があまりにも貧弱と感じてしまいます。まあ、マルクス主義的な暴力革命からプロレタリアート独裁というのも乱暴な方法論だと大学生のころに感じた記憶はあるものの、本書はどうも科学的な観点が少し不足する「ユートピア的あるいは空想的ウェルビーイング理論」のような気がします。もっとも、現状の幸福度やウェルビーイングの研究はほぼほぼすべてこういった水準にとどまっているのも事実です。ひょっとしたら、経済学以上に未熟な科学なのかもしれません。逆に、私自身はウェルビーイングなモデルを大いに支持していますので、今後の学術的、科学的な発展を期待します。大いに期待します。

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次に、瀧井一博[編]『明治史講義【グローバル研究篇】』(ちくま新書)です。編者は、国際日本文化研究センター(日文研)の研究者です。本書は、2018年に明治維新150年を記に開催されたシンポジウムの報告から構成されています。なお、同様の出版物として、同じちくま新書から【テーマ篇】と【人物篇】はシンポジウム直後の2018年に刊行されていますが、なぜか、本書【グローバル研究篇】だけは4年遅れでの出版となっています。私も役所の研究所に勤務していたころにこういったコンファレンスの出版を担当した記憶がありますが、私の担当で大きく出版が遅れたのは最終稿の確認が、おそらくたった1人のために、遅れに遅れたことが原因であったと覚えています。それはともかく、本書では内外の16人の報告を収録しています。出版社のサイトに各報告のタイトルが示されています。大雑把にいって、私の理解として、国家近代化として捉えるべき明治期の日本については、その出発点である明治維新がいわゆる外圧、すなわち、象徴的にはペリー提督による黒船来航によってもたらされ、そして、明治期の日本での国家建設がアジアをはじめとする当時の途上国によって参照された、というのが明治期の歴史をグローバル・ヒストリーの中で位置づけるひとつの視点ではなかろうか、と考えています。明治期の歴史の最終的な仕上げのひとつのエポックは日露戦争であり、日本が大国ロシアに勝利したという事実により、当時の途上国から国家の発展モデルとして大いに注目を集めたことは容易に想像できるかと思います。特に、当時の清-中国あるいは台湾や朝鮮といった近隣諸国への影響は無視し得ないものであったと想像しています。本書では、さらに範囲を広げて、タイ、ベトナム、トルコといった国への影響も報告されています。本書のまったくのスコープ外ながら、私が同様に日本の歴史的な発展がアジアをはじめとする途上国のモデルとなったのは1950-60年代の高度成長期であったと考えています。逆に、20世紀なかば以降の戦後の世界経済において、いわゆる経済開発に成功して先進国の仲間入りをしたのは日本モデル以外には、現時点では、ないものと考えています。韓国についてはかなりの程度に日本モデルを採用して経済開発が進められました。ただ、中国が日本モデル以外の新たな経済発展モデルとなるかどうかは、大いに注目です。激しく脱線しましたが、明治期の日本をグローバル・ヒストリーの視野で捉えるとすれば、国家の近代化≈西洋化の際の発展モデルであろうと私は考えます。そして、本書はそういった明治史について、さまざまな観点を提供してくれます。

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次に、ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(HAYAKAWA POCKET MYSTERY)です。著者は、インド生まれで現在は米国在住のミステリ作家です。英語の原題は Murder in Old Bombay であり、2020年の出版でこの作品は作者のデビュー作で、そして、米国探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の最優秀新人賞にノミネートされています。ということで、舞台は1892年のインドのボンベイ、今でいうところのムンバイです。インドは大英帝国の植民地として発展を遂げており、時代はまさにシャーロック・ホームズの活躍したビクトリア時代です。主人公はインド人女性と英国人男性の混血として生を受けていますが、父親は不明で、姓はインド系、しかも、カースト最上位のバラモンである一方で、名はジェームズ(ジム)と名付けられています。軍人として大尉まで務めましたが、30歳にして傷痍退役し新聞社に勤務します。そして、数か月前にボンベイで話題となった2人の裕福な若い女性の時計塔からの転落死事件について、その被害者の1人である女性の夫から調査依頼を受けます。被害者やその夫はパールシーです。すなわち、ペルシャ系のゾロアスター教徒であり、同じ宗教の信者としか結婚しません。ということで、主人公が謎解きに挑み、もちろん、成功するのですが、とてもびっくりするような謎でした。ハッキリいって、どうもあり得ないような解決だと私は考えます。一応、何と申しましょうかで、莫理斯(トレヴァー モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』がとてもよかったので、同じような本ということで借りてみましたが、決してオススメしません。かなりのボリュームある長編ですし、解決は現代の日本人には想像できないような内容です。しかもしかもで、パールシーの結婚観に触れておきましたが、女性に対する興味を示さなかった本家のホームズと違って、この作品の主人公の探偵役は、たぶん、ヒンデュー教徒であるにもかかわらず、パールシーの女性に対して求婚したりします。捜査方法もどこまでホームズを参考にしているのかは不明です。少なくとも、『辮髪のシャーロック・ホームズ』で組織されていたベイカー街イレギュラーズを模した少年たちは登場しません。ただ、米国での評価はそれなりですし、ミステリとしては謎解きの妙は味わえます。評価はビミョーなところです。

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最後に、ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(新潮文庫)です。著者は、米国の作家なのですが、通常は、ポール・オースターとして理解されている作家であり、本書は別名義で執筆しています。英語の原題は Sueeze Play であり、本書巻末の主要著作リストに従えば、何と40年前の1982年の出版ながら、本邦初訳だそうです。ペーパーバック出版の1984年の翌1985年には米国私立探偵作家クラブによるシェイマス賞最優秀ペーパーバック賞を受賞しています。ということで、主人公はニューヨークの私立探偵なのですが、米国東部アイビーリーグの名門校を卒業し、州の検事局を最近辞職しています。そして、この探偵への依頼者は、これまた、アイビーリーグの名門校出身で5年前まで大リーグのスタープレイヤーであって、キャリアの絶頂期に交通事故で片足を失いながらも、今は政治家として注目され、州上院議員に民主党から立候補するとウワサされている人物です。その依頼者が殺意すら匂わせている脅迫状を受け取り、探偵に事実調査を依頼します。いろいろと調査を進めているうちに、実に、その依頼人は実際に毒殺されてしまいます。ほかにも、死者がいっぱい出ます。作風としては、いわゆるハードボイルドであって、私は大好きです。謎解きについては、今となってはそれほど目新しさもなく、ありきたりな気もします。ミステリですので、これ以上は詳細について触れず、どうでもいい脱線をいくつか書いておくと、第1に、タイトルの「スクイズ・プレー」はまさに、野球、特に、高校野球でよく見かけるスクイズそのものを指しています。主人公の探偵が離婚した妻といっしょに暮らしている9歳の息子と大リーグの試合観戦に行って、日本でいうところのツーラン・スクイズ、すなわち、3塁走者だけではなく2塁走者もホームに生還するスクイズからヒントを得て事件を解決に導きます。なお、私がスクイズ・プレーのある競技として知っているのは、野球のほかはコントラクト・ブリッジだけです。第2に、サム・スペード、リュウ・アーチャー、フィリップ・マーロウというハードボイルド御三家ともいえる探偵は3人とも西海岸カリフォルニアで活動しているのですが、私はハードボイルドにはニューヨークが似合うと常々考えています。本書ではハードボイルド探偵はニューヨークを舞台に事件解決を成し遂げます。その意味でも、いい読書でした。
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2022年11月12日 (土) 09:00:00

今週の読書は中国に関する経済書のほか計3冊にとどまる

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、李立栄『中国のシャドーバンキング』(早稲田大学出版部エウプラクシス叢書)はタイトル通り、中国のシャドーバンキングを3分類してその活動の規模や規制当局の方向性などについて取りまとめています。宮本弘曉『51のデータが明かす日本経済の構造』(PHP新書)では、日本の賃金が上がらない理由について、極めて陳腐にも、生産性と結びつけた上で労働の流動性を促すといった的外れな議論がなされているように見えます。小谷賢『日本インテリジェンス史』(中公新書)は戦後日本のインテリジェンス史を概観し、いくつかの興味深い事件についてその裏側を解説しようと試みています。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週5冊で今週は3冊ですので、今年に入ってから205冊となりました。また、本日の読書感想文で取り上げる以下の3冊のほかに、今週は太田愛『天上の葦』上下(角川文庫)を読んでいます。新刊書読書ではありませんから、別途、Facebookでシェアしたいと思います。さすがに、『ハヤブサ消防団』と『嫌いなら呼ぶなよ』はなかなか図書館の順番が回ってきません。

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まず、李立栄『中国のシャドーバンキング』(早稲田大学出版部エウプラクシス叢書)です。著者は、亜細亜大学の研究者であり、本書は著者が早稲田大学に提出した博士学位請求論文が基になっています。タイトル通りに中国における銀行ならざる金融仲介業を営むシャドーバンキングを分析しています。ただ、博士学位請求論文にしては、仮説の提示とその検証という学術論文ではなく、基本的に、中国のシャドーバンキングに関する情報を網羅的に収集した上で整理しています。ですから、というか、逆に、難解な計量分析などは少なく、一般ビジネスパーソンにも判りやすい内容になっている気がします。ということで、中国におけるシャドーバンキング業者をSB①、SB②、SB③の3種類に分類し、分析を進めています。p.20に簡単に分類が示されていますが、少し詳しく見ると、第1に、SB①については米国のシャドーバンキングや日本のいわゆるノンバンクと同じように、規制当局の監督対象となり、米国ではMMF、あるいは、日本の信託会社や証券会社、保険会社やファンド会社などが該当します。主たる業務は銀行の貸出債権をオフバランス化して理財商品に転換することですから、満期転換機能や流動性転換機能などを発揮します。ただし、預金を受け入れる銀行よりも当局からの規制は緩やかとなっています。第2に、SB②は中国の金融システムが近代化される前から存在する投資組合や質屋などの伝統的な個人間貸借から派生した業態です。そして、第3に、SB③はSB②の逆で超近代的、というか、フィンテックを活用した業態であり、P2Pレンディング、クラウドファンディングなどが該当します。そして、これらの業態ごとに、規模、特徴、性質、金融における役割、などが分析されていますが、SB②とSB③については、本書ではしばしばいっしょくたに議論されている恨みはあります。読ませどころは後半の第5章の潜在的なリスクの分析、さらに、第6章の規制当局の対応に関する現状分析と今後の方向性、などが私には大いに参考になりました。特に、SB②への規制については、その昔の日本における消費者金融の金利上限規制を思わせるものがありましたし、SB③については、逆に、過剰な規制がフィンテック企業の成長を阻害しかねない危惧が示されています。まあ、日本でも同じなのでしょう。米国との比較などは理解を進める点で役立っています。最後に、著者の中国語に関する語学力が大いに生かされています。私はやや専門外なのですが、それでも、これだけの情報に接することが出来るのは有り難く感じます。研究だけでなく、通常のビジネスにも役立てられそうな気がします。ただ、難点を上げれば、シャドーバンキングをシャドーバンキングとして分析しています。すなわち、シャドーバンキングをほかの経済活動との関係性から理解しようとはしていません。ですから、日本でも米国でもシャドーバンキングでは土地や不動産との関係が深く、中国でも同じなわけですので、シャドーバンキングを単なる金融業として分析するだけではなく、不動産との関係でもう少し深く掘り下げて欲しかった気もします。銀行やシャドーバンキングが単独で金融危機を引き起こすことは稀ではないでしょうか。

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次に、宮本弘曉『51のデータが明かす日本経済の構造』(PHP新書)です。著者は、東京都立大学の研究者なのですが、労働経済がご専門と記憶しています。私が役所にいたころにコンファレンスに来ていただいた記憶があります。ということで、賃金や雇用を切り口にして、賃金が下落し続ける日本経済の現状について、その原因を国民が平等に貧しくなる「未熟な資本主義」に求めて、いくつかの、というか、51のデータから解き明かそうと試みています。ただ、結論を先取りすれば、典型的な主流派エコノミストと同じで、個別の労働者の生産性が上がらないから賃金が上がらない、という極めてありきたりな結論で終わっています。この点は残念です。章立ては、物価、賃金、企業経営と労働、そして、「未熟な資本主義」を脱却する方法、と4章構成です。日本経済が低迷し低賃金が継続しているのは、一言でいえば、p.12にあるように、企業が安価な非正規社員や技能実習生などの人件費の安い外国人労働力に頼り、「また、デジタル化などの必要な投資を怠った結果であり、そのために、生産性が低下した、と結論しています。そして、賃金上昇のためには量的な人で不足や失業率の低下などではなく、労働市場の構造的な問題の解決が必要とし、長期雇用や年功賃金といった硬直的な雇用慣行を改革し、労働市場の流動化の必要性を唱えています。しかし、同時に、賃上げが進まない背景として労働組合の役割の低下も視野に入れています。まあ、私から見ればガッカリというしかありません。長期雇用や年功賃金といった「硬直的」な雇用システムを流動化させて、派遣雇用の適用範囲を広くし、安価な外国人労働者を技能実習生という名目で入国させたりして、雇用の流動化をここまで進めたために賃金が上がらない、という現実がまったく見えていないようです。こういった本書のような論調を持ち上げて、非正規雇用の拡大に歯止めをかけなければ、賃金はさらに下落を続ける可能性すらあります。

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最後に、小谷賢『日本インテリジェンス史』(中公新書)です。著者は、日本大学の研究者です。本書の内容はタイトル通りなのですが、ここで、インテリジェンスとは、インフォメーションの情報という中立的な用語ではなく、諜報とか、機密の印象に近く、国家の政策決定のための、特に、安全保障上の情報という意味で使われています。そして、その歴史は本書では終戦後から始めています。ただし、戦前・戦中のインテリジェンス活動にも軽く触れており、交換評価されているほど日本政府や軍はインテリジェンスを軽視していたわけではなかった、と評価しています。実は、私も同じような考えを持っていて、戦前・戦中もインテリジェンス活動はそこそこ行われていて、それが軽視されていた、とする方がホントのインテリジェンス活動には有利だからなのだろう、と解釈しています。ということで、占領期のインテリジェンス活動、組織の創設から始まって、やっぱり、読ませどころはソ連崩壊までの冷戦期のインテリジェンス活動史であることは明らかです。結局、モノにならかった秘密保護法制、ソ連のスパイ事件、ソ連からのベレンコ亡命事件、KAL機の撃墜事件、などなど、私でも聞いたことがあるくらいのエポックをなす出来事について詳しく解説されています。そして、さいごは、第2時安倍内閣での特定機密保護法、国家安全保障会議(NSC)と国家安全保障局(NSS)の創設と活動、米英などとの連携、などなど、これまた、エポックとなるイベントを網羅しています。分析や記述対象がインテリジェンス活動ですから、どこまで明らかにできるか、明らかにするべきか、といった議論はあるとしても、国民の支持がなければこういった活動は成り立ちませんから、少しタイミングが遅れてもかまわないので、インテリジェンス活動についても情報開示が進むことを願っています。
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2022年11月07日 (月) 16:00:00

ふたたび、今年のベスト経済書やいかに?

先週の11月3日文化の日にポストしたように、予想通り、というか、何というか、今年も経済週刊誌のベスト経済書のアンケートが来ました。候補書として150冊あまりがリストアップされていましたが、文化の日に私がお示しした10冊のチョイスの中で、漏れていたのは2冊めの福田慎一[編]『コロナ時代の日本経済』(東京大学出版会)だけでした。なぜ漏れたかの理由はよく判りません。純粋に学術書なので、その経済週刊誌の読者層にマッチしない、という判断かもしれません。なお、的外れと指摘しておいた2冊も、ちゃんと、候補書リストに入っていました。まあ、当然でしょう。

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今日のところは、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、文化の日11月3日に私が10冊リストアップした中で、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)が漏れていました。米国1960年代の「アポロ計画」を引き合いに出して、政府と企業がミッションを軸にコラボ=共同作業を行う経済の重要性を指摘しています。送られてきたアンケートの候補書リストを見て、私がこれを忘れていた点に気付かされました。この本は、私の見方からすれば、文句なく今年の経済書トップテンに入るべきです。第2に、候補書リストを見て、ダニエル・カーネマンほか『NOISE』(早川書房)を、私はまだ読んでいない点に気づきました。早速に、大学の図書館で借りました。第3に、前回のポストの直後に、日経・経済図書文化賞が明らかにされ、長岡貞男『発明の経済学』(日本評論社)ほか全5冊に授与されています。少なくとも、この5冊のうち、『発明の経済学』と渡辺努『物価とは何か』(講談社)は私は読んでいます。でも、10冊には入れませんでした。それはそれで、私の考え方です。

最後に、さて、どれをベスト経済書に回答しようかと迷っていると、何と、私が昨年のアンケートに回答した野口旭先生の『反緊縮の経済学』(東洋経済)が候補書リストに入っていました。しかも、「半緊縮の経済学」と間違ったタイトルになっています。改めてこの本の奥付を見ると、2021年8月19日発行となっていて、私は出版直後の9月11日付けの読書感想文ブログで取り上げています。ホントに今年2022年の候補書リストに入れていいのかしらん、でも、許されるなら今年ももう一度、この本で出してみようかしらん、と考えないでもありません。
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2022年11月05日 (土) 08:30:00

今週の読書はゲーム論の入門的な解説書をはじめ計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。ゲーム理論に関する入門的な解説書である岡田章『ゲーム理論の見方・考え方』(勁草書房)、経済や教養に関する新書を2冊、すなわち、夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書)とレジー『ファスト教養』(集英社新書)、そして、海外ミステリの長編であるホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)と短編集のピーター・トレメイン『修道女フィデルマの采配』(創元推理文庫)、となって計5冊です。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~10月に66冊と少し跳ねて、10月には25冊、11月に入って第1週の今週は5冊ですので、今年に入ってから202冊となりました。200冊に達したから、というわけでもないのですが、少し経済書をお休みしようかなと考えないでもありません。ミステリを中心とした小説が図書館の予約で届き始めています。今週も2冊が海外ミステリなのですが、こういった読書も進めたいと思っています。

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まず、岡田章『ゲーム理論の見方・考え方』(勁草書房)です。著者は、一橋大学の名誉教授です。本書は、『経済セミナー』2022年10・11月号の新刊書紹介で書評が掲載されていましたので、大学の図書館で借りて読んでみました。冒頭に著者が「ゲーム理論の入門的な解説書」と書いているように、ゲーム理論について私のようなシロートでも判りやすく解説してくれています。一般の経済社会で見られるような実例も豊富に取り入れられています。9章構成なのですが、前半のいくつかの章では、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済行動』から始まるゲーム理論の歴史について、実際のエピソードなどとともに簡単に取り上げています。さらに、そもそも、ゲーム理論とはどういった学問分野であるか、とか、意思決定や効用あるいは利得の考え方なども解説されています。私の解釈では、マイクロな経済学ではすでに基数的な効用という考え方は捨てられているのですが、マクロ経済学では国民所得やGDPといった基数的な計算が用いられていますし、マイクロな経済学の中でもゲーム理論だけは利得=ゲインという考え方で基数的な効用を考えているのではないかと、専門外ながら、受け止めています。もちろん、「社会とは、ルールを守りながら自分の価値や利益を求める人びとがプレイするゲームである。」わけですから、経済に限定せずにさまざまな分野での応用が可能ですし、特に、経済学では成長よりも分配との親和性が高いと私は考えています。また、最近、私は開発経済学のセミナーに参加したのですが、第6章p.151から3人非対称ゲームを取り上げて、コアが存在するゲームは限界生産性が逓増する経済に対応し、存在しないゲームでは逓減する経済に対応する、とされていて、開発初期の段階、日本では高度成長期の時期、また、開発を終えた成熟経済の現在に分析可能だとされていて、それなりに勉強になりました。最後に、基本的に入門的な解説書ですので、それほど複雑な理論は取り上げておらず、例えば、限定合理性などについてももう少し詳細な解説が欲しかった気がしますが、これくらいのボリュームの本で、入門的な解説といえども、ゲーム理論を網羅的に取り上げるのはムリなのか、と考えざるを得ません。出版社こそ、学術書が多い印象ですが、決してそう難しくはありません。その一方で、ここ10年くらいのある程度最新の専門論文にも言及があり、たぶん、それなりの専門知識あるエコノミストでも十分満足できる読書が楽しめるのではないか、という気がします。

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次に、夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書)です。著者は、いろんな肩書があるのですが、基本的に経営・金融コンサルタントではないか、と思います。本書では、基本的なメッセージとして、機関投資家がESG投資をはじめとしてサステイナブル経済に目覚め始めている現状では、マルクス主義的な社会変革や、あるいは、脱成長による環境負荷軽減に頼らずとも、機関投資家から経営者層に投資の結果としての気候変動=地球温暖化の抑制、あるいは、サステイナビリティへの配慮というシグナルを送れば、その方向でのイノベーションが促進され、成長を維持したままで環境負荷軽減というデカップリングが成立する可能性が大いにある、ということです。長くなりましたが、そういうことです。もう少し詳しく敷衍すれば、環境破壊や環境負荷の増大は、基本的に、資本主義的な経済成長や人口増加からもたらされ、さらに、その大本は強欲で利潤最大化を目的とする19世紀的な資本家の経済活動が根本原因である、という認識が基本にあります。ですから、マルクス主義的な社会変革、あるいは、そこまでいかなくても、何らかの資本主義的な経済活動を規制する脱成長が必要、という認識が広がっていたわけです。しかし、本書では、Glasgow Financial Alliance for Net Zero=GFANZ という機関投資家の活動を紹介しつつ、機関投資家が投資対象企業の経営者にサステイナビリティへの配慮を促すシグナルを送り、経営者がそのためのイノベーションに励むことにより、成長や人口増加と環境負荷増大は絶対的にデカップリングされる、という仮説を提唱しています。繰り返しになりますが、確認された事実を提示しているわけではなく、私はあくまで、本書では仮説を提唱していると受け止めています。ですから、実証の一例として、高収益なESG投資を上げています。専門外の私でも、ESG投資などのサステイナビリティを重視する投資がハイリターンを上げている実証研究が出始めていることは知っています。もちろん、疑問が残らないでもありません。この仮説が成立するには5点の実証的な確認とリンケージが必要です。第1に、ホントにサステイナビリティ重視の投資がハイリターンであるかどうか、第2に機関投資家がそれに気づくかどうか、第3に企業が機関投資家の意向に沿った経営をするかどうか、第4に経営者がサステイナビリティを重視する経営の方向性を決めたとしても実際に環境負荷軽減のイノベーションが可能かどうか、第5にこれらのイノベーションによって経済成長や人口増加と環境負荷軽減が絶対的にでカップリングされるかどうか、の5点となります。もちろん、可能性としては、大いにあると思いますが、第1の点については先進国では実証的に確認されている一方で、途上国や新興国ではどうなのでしょうか。特に、中国の動向が気がかりなのは、私だけではないと思います。この5点がすべて満たされないと、本書のデカップリング仮説は成り立ちません。発明のO-ring理論みたいで、関数はかけ算で示されて、ひとつでも失敗でゼロなら結果もゼロなわけです。ですから、単なるグリーンウォッシュにならないように願っています。

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次に、レジー『ファスト教養』(集英社新書)です。著者は、一般企業に勤務しつつのライター・ブロガーというようです。本書について論じる前に、軽く前口上を述べておくと、今年6月25日の読書感想文ブログで稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を取り上げましたが、本書でも同じ視点を提供しています。すなわち、本書では、教養がビジネスに直結し、金銭的な利益をもたらす現状の教養欲求について、やや否定的な見方を提供しています。例えば、第5章のタイトルは「文化を侵食するファスト教養」となっていたりします。他方で、本書でも、何も教養的な活動をしないよりはマシ、という視点も示されています。私は、以前の麻生副総理的な表現ですが「民度」について同時に考えるべきではないか、と受け止めています。というのは、岸田総理が今国会冒頭の所信表明演説で用いた「リスキリング」≅学び直し、の反対の言葉として熟練崩壊を使う場合があります。現在の日本では非正規雇用という雇用形態の拡大や賃金上昇の抑制などから、マクロでスキルの低下や、さらに、熟練の崩壊が生じている可能性があります。進んで、こういった経済の下部構造をなす雇用の劣化から、教養や文化活動の劣化につながる「民度の低下」が生じている可能性を憂慮しています。日本人は、その昔から、手先が器用だとか、まじめな性格の人が多いとか、時間に正確であるとか、いろいろと労働者として高い生産性を持つ可能性を示唆する特徴を指摘されてきています。今でも、「日本人スゴイ」論とか、「日本スゴイ」論を取り上げる書籍やテレビ番組が少なくないのは広く知られているところです。他方で、賃金が上がらない理由として、私の目から見て完全な需要不足であるにもかかわらず、生産性が低い点を根拠にする議論も見かけます。スキルと生産性が需要不足によって乖離しているわけです。しかし、この賃金が抑制されていたり、あるいは、かなりの部分が重なりますが、非正規雇用が広がっていたりするために、日本人の「民度」が大きく低下し、この雇用という下部構造が文化や教養といった上部構造の歪みをもたらしている可能性がある、と私は考えているわけです。私の憂慮が杞憂に終わることを願っていますが、私の年齢では見届けられない可能性があるのが心残りです。

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次に、ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。英語の原題は A Good Girl's Guide to Murder であり、2019年の出版です。主人公は、高校最終学年のJKであるピッパ(ピップ)で、英国のグラマー・スクールに通っていますから、日本では進学校の高校といったところです。事実、本書の最後の方で、主人公はケンブリッジ大学への入学を許可されたりしています。ということで、主人公が大学入学のひとつの参考資料となる自由研究で、自分の住む街で5年前に起きたJK失踪事件をリサーチするところから始まります。5年前に失踪したJKはあ同じグラマー・スクールに通っていましたので、まあ、数年先輩に当たるわけです。この失踪事件は、被害者の死体が発見されないながらも殺人事件ということで処理され、被害者の同級生、アルイハ、ボーイフレンドが犯人と目されますが、その同級生は事件直後に自殺します。主人公のJK箱の戸津急性は犯人ではない可能性がある、と考えて調査を始めるわけですが、途中からこの犯人と目された同級生の弟が調査に加わります。関係者へのインタビューから始まって、調査を続けるうちに、動機があったり、アリバイがなかったり、次々と新たな容疑者が浮かび上がります。通常のインタビューだけでなく、なりすましの電話で情報を引き出したり、いくつか倫理的に許容されなさそうな手法で調査を続け、最後に、結論にたどり着きます。もちろん、英国のことですから、高校生であっても、ドラッグや、ポルノまがいの写真や、もちろん、人種差別なんかも出て来ます。日本の読者には名前から人種を想像するのが難しい嫌いはありますが、何となく差別される側であることは理解できるような気もします。そして、あくまで主人公のJKは強気に調査を進めるわけです。最後は、衝撃の結末では決してなく、それなりに論理的なエンディングなので安心できます。ただ、耳慣れな名前が続々と登場しますので、その点だけは混乱する読者もいるかも知れません。他方で、文庫本で600ページ近いボリュームですが、途中で放棄する読者は少ないと思います。なお、続編で同じ主人公の『優等生は探偵に向かない』も図書館に予約を入れてあります。

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最後に、ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの采配』(創元推理文庫)です。著者は、英国生まれのけると学者であり、ミステリ小説も数多く執筆しています。英語の原題は Whispers of the Dead であり、2004年の出版です。ただし、原書の15話から5話だけを収録した短編集です。7世紀のアイルランドを舞台にして、タイトル通りに、修道女フィデルマが主人公となるミステリです。英語の原書はいっぱい出ていますし、邦訳も原書の半分までは行きませんが、相当数出ています。私も何冊か読んでいます。というか、大部分読んでいる気がします。私の場合、このシリーズは、エリス・ピーターズ作品の「修道士カドフェル」のシリーズとともに愛読しています。ノルマン・コンクェストの直後の12世紀前半のイングランドを舞台にした「修道士カドフェル」のシリーズは20巻ほどあって、私は全部読んでいると思います。ということで、フィデルマの活躍する7世紀アイルランドは、当時としてはかなりの先進国の仲間であり、法秩序のしっかりと安定した時代と考えてよさそうです。その次代と地理的な背景で、フィデルマはアイルランドにいくつか並立している王国の王の妹という高い身分で、しかも、法廷弁護士にして裁判官の資格を持つ修道女です。本書でも、アイルランドの各地を巡って難事件を解決するとともに、別の本では、キリスト教の総本山であるローマに出向いたこともあると記憶しています。まあ、ラテン語を理解すれば、現在の英語以上に、当時のキリスト教国では広く理解された国際語だったのでしょうから、特段の不便はなかった、ということなのだろうと私は理解しています。繰り返しになりますが、収録されている短編は5話であり、占星術で自ら占った通りに殺された修道士をめぐる事件で訴追された修道院長の無実を明らかにする「みずからの殺害を予言した占星術師」のほか、「魚泥棒は誰だ」、「養い親」、「「狼だ!」」、「法定推定相続人」の計5話となります。ブレホンとか、ドーリィーとか、耳慣れない用語がありますが、ミステリとしては一級品だと思います。このシリーズがさらに出版されれば、私は読みたいと考えています。
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2022年11月03日 (木) 11:00:00

今年のベスト経済書やいかに?

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昨日から11月に入って、そろそろ、経済週刊誌から今年のベスト経済書に関するアンケートが送られてくる季節になっています。昨年は、私は野口旭先生の『反緊縮の経済学』(東洋経済)を推して、確か、この本自体がまったく上位に入らなかった記憶があります。昨年は『監視資本主義』なんかが流行ったんではなかったでしょうか?
今年の読書感想文ブログを振り返って、以下の10冊が私のチョイスとなります。なお、10冊といいながら、実は11冊リストアップしてあるのですが、最後のスティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』については、心理学の要素が強くて経済書ではないのではないか、という観点からオマケで付け加えてあります。
  1. オリヴィエ・ブランシャール & ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶応義塾大学出版会)
  2. 福田慎一[編]『コロナ時代の日本経済』(東京大学出版会)
  3. ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)
  4. ロバート・スキデルスキー『経済学のどこが問題なのか』(名古屋大学出版会)
  5. チャールズ・グッドハート & マノジ・プラダン『人口大逆転』(日本経済新聞出版)
  6. カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社)
  7. ペリー・メーリング『21世紀のロンバード街』(東洋経済)
  8. 岩田規久男『資本主義経済の未来』(夕日書房)
  9. 小林光・岩田一政『カーボンニュートラルの経済学』(日本経済新聞出版)
  10. 大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)
  11. スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)


まあ、『格差と闘え』で決まりなのかという気はします。

逆に、以下の2冊は、何人かのエコノミストは選定すると思いますが、私が読んだ中では、やや的外れな印象を持った2冊といえます。これは、単なるご参考です。
  1. 中曽宏『最後の防衛線』(日本経済新聞出版)
  2. 河野龍太郎『成長の臨界』(慶應義塾大学出版会)


世間一般は文化の日のお休みながら、私は祝日授業日ですので出勤しています。軽く読書感想文のブログに分類しておきます。
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2022年10月29日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、経済学ではなく社会学的に消費を分析した学術書、ダニエル・ミラー『消費はなにを変えるのか』(法政大学出版局)をはじめとして計6冊です。水越康介『応援消費』(岩波新書)は消費の関連で読み、岡崎守恭『大名左遷』(文春新書)と浅田次郎『大名倒産』上下(文春文庫)は、廣岡家文書をひも解いた先週の読書『豪商の金融史』に触発されて読んでみました。リサ・ガードナー『噤みの家』(小学館文庫)は海外ミステリです。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで19冊、今週が6冊ですので、今年に入ってから197冊となりました。200冊に達するのにカウントダウンに入った気がします。カウントダウンに入ったから、というわけでもないのですが、少し経済書をお休みして、ミステリを中心とした小説が図書館の予約で届き始めています。少しコチラの方の読書も進めたいと思います。

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まず、ダニエル・ミラー『消費はなにを変えるのか』(法政大学出版局)です。著者は、英国のユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の人類学の研究者です。英語の原題は Consumption and Its Consequences であり、2012年の出版です。出版社から受ける印象ほどには学術書ではありません。ビジネスパーソンにも十分理解できると私は考えています。ということで、繰り返しになりますが、著者は人類学者であって、エコノミスト=経済学者ではありません。ですから、消費について考えるにしても、経済学的な観点よりも、人類学的な観点から分析しているのはいうまでもありません。経済学的には、おそらく、マイクロな経済学では個人ないし家計が予算制約下で効用を最大化するように市場において消費財を選択する、というだけで終わりかもしれません。しかし、実際に、一般的に「消費」という用語を用いる際には、市場での選択ではなく、辞書的な意味で、「費やしてなくすること。つかいつくすこと。」といった使い方をするのではないでしょうか。本書では、まさにそういった消費を考えています。実は、経済学でも基本は同じです。家計は効用を最大化し、企業は利潤を最大化するという目的で行動しています。他方で、政府の経済運営の目的はマクロ経済の安定化だったりするわけですが、マイクロな経済においては、将来に渡る消費の現在割引価値を最大化することがひとつの目的とされています。迂回生産のための投資は、あくまで、その後の消費の最大化のためです。ただ、この消費の中身を経済学がややおろそかに扱ってきたという批判は、まあ、あり得るような気がします。私が読んだ限りでは、最初と最後のクリス、グレース、マイクの3人による会話、特に、最後の気候変動=地球環境問題と消費に関する議論については、ほとんど理解できなかったのですが、フィールドワークから得られたトリニダード島の消費社会、著者のホームグラウンドであるロンドンでのショッピング、ブルージーンズが消費者に好んで買われる理由の考察など、とても示唆に富んでいます。購入した後の使用についての文化的、あるいは、人類学的な分析、もちろん、購入する前の検討段階での経済学的ならざる分析などなど、加えて、購入されたものがマイクロに使われるだけではなく、マクロ社会の中でいかに文化を作り出してゆくものなのか、私のような底の浅いエコノミストにはとても勉強になりました。経済学では、あくまで市場における交換、あるいは、取引を考えるのですが、その背景にある何らかの財に対する欲求とか、そして、その購入された財がどのように使われるのか、そして、その使われ方の理由は何なのか、興味は尽きません。ただ、2点だけ指摘しておくと、経済学的な観点からは消費財は耐久性に応じて3分類されます。すなわち、食料などのすぐに使い尽くす非耐久財、衣類など一定期間はもつ半耐久財、かなり長期にわたる効用をもたらす耐久財の3累計です。この分類は人類学的に有効な分類なのかどうか、知りたかった気がします。加えて、同じことのように見えますが、財だけではなくサービスについての消費をどうみるべきなのか、本書ではスコープ外に置いているような気がします。実は、この著者の前作は『モノ』 Stuff であり、サービスがどこまで考慮されているかが不安な気がします。すなわち、現代社会の消費であれば、モノを買うよりもサービスに費やす比率の方が高いケースも少なくなく、また、古典的なサービスである理美容とかはファッションとの関係で文化的行動であると私は考えます。でも、こういった点を別にしても、消費に対するとても有益な読書でした。

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次に、水越康介『応援消費』(岩波新書)です。著者は、東京都立大学の研究者であり、専門はマーケティング論です。ですから、本書では消費についてマーケティングの観点から分析していますが、その消費の中で、応援消費に付いて焦点を当てています。ということで、応援消費は本書によれば2011年の東日本大震災の後に東北地方に対する応援目的で始まった、と指摘しています。逆に、1995年の阪神・淡路大震災においては応援消費は生まれなかった、ということです。この応援消費の対象は、震災の被災地から始まって、好きなブランドはもちろん、推しのアイドルなどに及びます。『推し、燃ゆ』の世界かもしれません。また、本書のスコープ外ながら、私が時折チェックしているニッセイ基礎研究所のリポートでも、「おひさしぶり消費」とか、「はじめまして消費」といった耳慣れない消費が現れているようです。このリポートでは「推し活とステイホームは相性が良かった」と分析していたりします。こういった新しい、かどうかは別にして、消費の中でも、本書では応援消費が個人の購買力の向かう先のひとつとして注目しているわけです。そして、本書では、まあ、データがないので仕方ないとは思いますが、実際の市場における消費の中の応援消費ではなく、地方自治体に対する「ふるさと納税」を主として分析しています。ちょっと違う気がするのは、私だけではないと思います。でも、著者の専門分野らしく、マーケティングをいかに応援消費に結びつけるか、特に、欧米的な寄付文化が十分に育っていない日本社会における応援消費を、倫理的な意味でも、マーケティング手法を用いつつ広げることは決して理由のないことではない、と私も思います。特に、推しのアイドルなどではなく社会的責任を果たそうという消費は何らかの推進力が必要な場合がありそうな気がします。いわゆるボイコットの反対概念である「バイコット」も同じです。日本におけるバイコットについてネット調査をしている分析も本書に収録されています。最後の方で、マーケティングの統治性を持ち出して、英米的な新自由主義=ネオリベとドイツ的なオルド民主主義を対比させているのは、私の理解が及びませんが、決してマーケティングの対象にはならないものの、新自由主義=ネオリベとオルド民主主義を対比させるのではなく、消費に対比するに投資を考えるのも理解がはかどるような気がします。すなわち、投資の分野では、すでに明らなように、ESG投資という概念がかなりの程度に確立していて、すかも、ESG投資はパフォーマンスがいいという実証分析結果もいくつか出始めています。応援消費の場合は、まあ、印象だけかもしれませんが、やや価格競争力の面からは劣位にある可能性ある商品を「応援」の目的で効用が追加されて消費につながる、という結果が生まれるわけで、したがって、何らかのマーケティングによるプッシュが必要となる一方で、投資については、純粋に経済合理的にリターンがいいのでESG投資を選択する、という経済行動が現れているわけです。応援消費がESG投資のように、むしろコスパがいい、という時代が近づいているのかもしれません。

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次に、岡崎守恭『大名左遷』(文春新書)です。著者は、日経新聞のジャーナリストなのですが、歴史エッセイストとしても江戸期を中心にいくつかの出版物を上梓しています。本書では、まさに、タイトル通りに、織豊政権期から江戸期における大名の改易=取潰しを含めた転封について焦点を当てています。ただ、転封ですから、必ずしも「左遷」ばかりではなく、当然に、「栄転」も含まれています。もちろん、大名ですから上は老中や大老までのそれなりのお役目もあって、ソチラの左遷や栄転を取り上げているのではなく、あくまで所領地の交代や変遷といった改易・転封を取り上げています。8章省構成であり、最初の章の棚倉に着目した章だけが所領地の地理的な位置を軸にしていり、2章以降は大名の家を軸にしています。第2章以下では、高取藩植村家、津山藩森家、福知山藩稲葉家、松本藩水野家、松平大和守家、堀江藩大沢家、そして、最後は明治維新とともに将軍家から一大名に大きく格下げされた静岡藩徳川家、となります。水野家と田沼家の失脚からの失地回復のストーリーなどは、まあ、サラリーマン社会に近いものがあるかもしれませんが、やっぱり、私が定年までお勤めしたサラリーマン社会とは大きく異なります。当然です。一代の間に5回も転封されて映画の「引っ越し大名!」の元ネタにもなった実例も面白かったです。タイトルからして、大名や大名家を中心にお話が進みますが、お引越しですから、お殿様が直接に引越し準備や作業をしたわけでもないと思います。家老以下の家臣の苦労もしのばれます。

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次に、リサ・ガードナー『噤みの家』(小学館文庫)です。著者は、米国のミステリ作家です。英語の原題は Never Tell であり、2019年の出版です。本書は、ボストン市警のD.D.ウォレン部長刑事が主役となる『棺の女』と『完璧な家族』のシリーズの続編であり、私の知る限り、邦訳は3冊なのですが、米国内では1ダース近く出版されていると聞き及んでいます。なお、本書は、ミステリというよりはサスペンス小説と米国内で評価されているようです。小説の舞台はボストンで、銃声に気づいた地域住民からの通報により警察が駆けつけると、部屋には頭を撃ち抜かれた男性の遺体と大量の弾丸を受けたラップトップ、そして銃を手にした被害者男性の妻イーヴィ、という状況でした。拳銃から発射された15発の弾丸のうち、3発が男性に、12発がラップトップに打ち込まれています。当然、D.D.ウォレン部長刑事が捜査に当たります。銃を手にしていた女性イーヴィは32歳なのですが、16年前にも銃の暴発により自分の父親を撃って死なせています。その際は事故ということで罪には問われていません。その16年前と同じ刑事弁護士が今回の事件でも弁護に当たります。父親は数学の天才といわれてハーバード大学教授を務めていて、弁護にあたった刑事弁護士は古くからのイーヴィの両親の友人でした。捜査が進むと、射殺された男性の偽造された身分証明書が数種類見つかります。さらに、D.D.ウォレン部長刑事に対する秘密情報提供者のフローラからの情報が寄せられたりします。フローラは6年前に472日間にわたる誘拐・監禁から生還者した女性なのですが、その犯人に連れられて行ったバーで、一度だけイーヴィの夫、すなわち、被害者の男性に会っていました。この射殺された男性は、一体、何者なのか。また、今回の事件は16年前の銃の暴発事故とどんな関係があるのか。いろんな謎が解き明かされます。謎自体はかなりシンプルで、決して、凝ったミステリに見られるような難解な謎解きではないのですが、人間関係がやや入り組んでいる印象でした。

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最後に、浅田次郎『大名倒産』上下(文春文庫)です。著者は、著名な小説家です。私もいくつか作品を読んだ記憶があります。本書では、幕末期第13大将軍徳川家定のころの江戸と越後を舞台にした時代小説です。主人公は丹生山松平家13代当主であり、次男三男を飛び越えて庶子の四男から21歳独身のまま大名となります。しかし、その裏では、先代第12代の当主がタイトル通りに大名倒産を企んでいるわけです。というのは、天下泰平260年の間に借金が累積して合計25万両に膨れ上がり、その利払いだけでも年3万両となることから、3万石の領地で年間1万両の収入しかない藩財政は借金の返済のしようもなく、いわゆる「雪だるま式」に借金が増える構造となっています。しかるに、事情をよく理解していない第13代当主を藩主に立てて、先代第12代藩主は計画的に蓄財を進めて、最後は藩財政が悪化して幕府から取潰しになることを覚悟の上、第13代藩主の切腹をもって藩を倒産させるというムチャな策に出ます。しかし、9歳になるまで足軽の下士の倅として育てられていた第13代藩主は融通がきかない真面目一辺倒で、襲封後に初のお国入りをし、倹約に継ぐ倹約、名物の鮭を使った殖産興業、国家老や大商人を巻き込んでの金策、などなど藩財政の立て直しにこれ努めます。そこに、何と、この作者らしくファンタジーで神様が絡んできます。貧乏神が、また、七福神が、はたまた、間接的ながら薬師如来が、この藩財政の立て直しに助力し始めるわけです。最後の結末までなかなか面白く読めたエンタメ時代小説でした。それにしても、神頼みは別にして、巨額の債務を残して後世代に負担を押し付けようとするのは、まさに、現在の日本の財政の姿をそのまま引き写しているような気すらしました。
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2022年10月22日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、純粋な経済書はないものの、いくつかの学術書をはじめとして、ミステリや新書まで合わせて計5冊です。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで14冊、今週が5冊ですので、今年に入ってから191冊となりました。200冊に達するのにカウントダウンに入った気がします。それから、新刊書読書ではありませんから、このブログの読書感想文には取り上げませんが、第164回芥川賞を授賞された『推し、燃ゆ』を読みました。そのうちに、Facebookあたりでシェアしたいと思っています。

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まず、ダニー・ドーリング『Slowdown 減速する素晴らしき世界』(東洋経済)です。著者は、英国オックスフォード大学の研究者です。専門分野は地理学です。英語の原題も Slowdown であり、2020年の出版です。振幅と位相をもった独特の時系列図で、およそあらゆる減速をオンパレードで示しています。すなわち、人口、経済成長、情報、債務、などなど、これでもかこれでもか、というくらいに、いっぱいデータを示して実証しています。注を入れれば軽く500ページを超えるボリュームです。もちろん、世界の中で減速の先頭に立っている国は日本です。もちろん、科学的な減速の証明は十分ではありません。しかも、将来時点で仮置きされているのは2222年だったりします。ですから、気候変動=地球温暖化が十分進んで、海水面が数メートルも上昇した後だったりします。私から見ても、スローダウン=減速の原因が何かについては本書でも明確にされていません。その意味で、科学的な主張とは見なさない向きもあるかもしれません。ただ、いわうる経験則というのはマラゆる科学にあるのではないかと思いますし、とりわけ、経済や経営分野には「ジンクス」も含めた理由の不明な経験則がいっぱいあります。日本に住んでいて日本人をしているからというわけでもなく、私もスローダウン=減速は進んでいるのではないか、と思わないでもありません。特に、経済学に関しては、サマーズ教授が長期停滞論を主張し始めたり、ロバート・ゴードン教授の『アメリカ経済 成長の終焉』にあったように、イノベーションの先行きに不安があったりと、停滞色が強くて成長鈍化あるいは成長停止の議論がある一方で、生産力は加速しないまでも、もっと長期にわたって伸び続ける、とする見方も少なくありません。本書でも指摘されているように、気候変動=地球温暖化をはじめとするサステイナビリティの議論との関係も重要ですが、本書で仮置きされているように、2222年までに地球はすでにサステイナビリティを失ってしまっているという可能性もゼロではないと、私は危惧しています。いずれにせよ、一見して悲観論に見える減速を持って楽観的な将来を語っている点は評価すべきか、と考えています。最後に1点だけ、本書で世代の呼び方に、X世代とか、Y世代とかありますが、通常の世代の時代区分と異なっています。米国と英国の違いかもしれませんが、十分気をつけて読み進む必要があります。

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次に、高槻泰郎[編著]『豪商の金融史』(慶應義塾大学出版会)です。編者は、神戸大学の研究者であり、専門分野は日本経済史です。本書は、数年前のNHKの朝ドラで放送された「あさが来た」で注目された廣岡家の古文書発見により、その研究成果として公開されています。ですから、タイトルのように広く豪商一般というわけではなく、あくまで、現在の大同生命の創業家である廣岡家の歴史をひも解いています。そして、出版社から受ける印象ほど、カッチリした学術書ではありません。江戸期の大坂における先物市場、デリバティブ市場などについては、それ相応の金融に関する知識が必要ですが、経営者としての廣岡家の歴史ですから、広く一般ビジネスパーソンが楽しめる読書ではなかろうかと思います。ということで、廣岡家の創業の地である大阪からお話が始まります。「天下の台所」大坂で米市場が開かれ、堂島の米市場で先物やデリバティブが取引されるようになった歴史をひも解くとともに、同時に、廣岡家が加島屋久兵衛=加久として、こういった世界でも稀に見る先進的な金融業に乗り出したことが明らかにされます。堂島米市場におけるデリバティブ取引から、三井家家訓では「博打」として否定された大名貸しに乗り出し、巧みにリスクをコントロールしながら業績を伸ばしてゆく様子が伺えます。そして、明治維新とともに大名貸しという事業形態ではなくなって、近代的な金融業を始め、加島銀行は昭和金融恐慌で破綻した一方で、大同生命は長らく生き残る、という歴史が実証的に分析されています。しかも、学術書ではないという意味で、適度にコラムを設けて、廣岡家の邸宅とか、節句飾りとか、西本願寺への信仰とか、いろいろなテーマで断片的な情報ながら、廣岡家の事業活動以外の側面を浮き彫りにしようと試みています。今となっては、岩崎家の三菱は明治維新直前の成立とはいえ、三井、住友などの財閥の家系からすれば廣岡家の加島屋はすっかり歴史に霞んだ気がするのですが、こういった古い文書の発見とともに、まあ、NHKの朝ドラに起因する発見であり、かなり気を使って加島屋の廣岡家を持ち上げている提灯本とはいえ、我が国の経済史の新たな発見があるのは決して悪くないと私は考えています。

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次に、莫理斯(トレヴァー・モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』(文藝春秋)です。著者は、香港出身で、英国のケンブリッジ大学を卒業後、香港に戻り、映像業界で活躍中ということです。いわゆるホームズもののパスティーシュであり、ホームズ役が福邇、満洲旗人であり、ワトソン役が華笙、武科挙の進士であり、負傷して現役を退くと香港で医師をやっています。この2人は下宿しているわけではなく、ホームズ役の福邇が立派な住まいを所有し、そこにワトソン役の華笙が下宿しています。ハドソン夫人の役割をこなすのは鶴心という名の小間使です。なお、依頼のうちいくつかは差館(警察)から寄せられ、英国人の養子となった中国生まれのクインシー警部やインド人のグージャー・シン警部がスコットランド・ヤードのレストレイド警部やグレグスン刑事、ということになるのかもしれません。舞台はもちろん香港で、主人公たちは荷李活道(ハリウッド・ロード)221乙に暮らしています。時代は1880年代のホームズと同時期のビクトリア女王のころです。ということで、前置きが長くなりましたが、収録されている短編は6編で、「血文字の謎」、「紅毛嬌街」、「黄色い顔のねじれた男」、「親王府の醜聞」、「ベトナム語通訳」、「買弁の書記」となります。冒頭短編の「血文字の謎」でホームズ役の福邇とワトソン役の華笙が出会います。ついでながら、正典ではベイカー街イレギュラーズとして登場するストリート・チルドレンのグループが本書でも登場し、この「血文字の謎」で荷李活道義勇隊として活躍します。また、「ベトナム語通訳」はタイトルからして「ギリシア語通訳」を思い起こさせるのですが、ストーリーは大きく違います。でも、何と、シャーロックの兄のマイクロフトが登場した短編ですから、この短編でも福邇の兄の福邁が登場します。やっぱり、政府機関にお勤めだったりします。中でも私が最も高く評価するのは「親王府の醜聞」であり、コナン・ドイルの正典の「ボヘミアの醜聞」に当たります。正典と違うのは、ホームズ役の福邇とワトソン役の華笙が最高級ホテルの一室に呼び出されて、京劇の面をつけた依頼者+ボディガードの計5人と会って依頼される点などです。ひょっとしたら、ミステリ・ファンの中には正典の「ボヘミアの醜聞」よりも、出来がいいと感じる人もいそうな気がします。実は、私もそうです。私は詳しくないのですが、ミステリとして上質であるだけでなく、当時の香港に関する歴史小説としても読めるかと思います。なお、訳者あとがきによれば、このシリーズは全4巻が予定されており、最後の4巻ラストは1911年の辛亥革命だそうです。本書出版時点では「第2巻を完成させつつある」ということだったのですが、すでに出版されているという情報にも接しました。邦訳されたなら、私はまた読みたいと思います。

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次に、中野剛志『奇跡の社会科学』(PHP新書)です。著者は、経済産業省にお勤めで、MMTに近い財政政策観を持っている方であると、私は認識しています。ということで、本書では古典的な社会科学者8人が取り上げられています。順に、官僚制に関してマックス・ウェーバー、保守主義に関してエドマンド・バーク、民主主義が生み出す専制制についてアレクシス・ド・トクヴィル、市場経済を「悪魔の挽き臼」と称したカール・ポランニー、自殺についての考察を進めたエミール・デュルケーム、戦争の起こる機器を歴史的に見ようとしたE.H.カー、リアリズムの極致ともされるニコロ・マキアヴェッリ、そして、マクロ経済学の創始者であるJ.M.ケインズです。現在からの視点としては、すべて、それなりにリベラルな社会科学者に注目した、といえそうです。私のようなエコノミストからすれば、最後のケインズ卿がもっとも親しみあるのですが、不況の世の中にあふれる失業者に思いを致し、生活に困窮する失業者に職をもたらすべく、古典派的な自由放任から政府による雇用創出を理論的に解明した功績はとても大きいと思います。ほかの7人にしても、活躍した当時だけでなく、21世紀の現在に至るまで理論的な正当性はいささかも失われていません。私は大学のゼミで「古典を学ぶ」と称してケインズを学生に読ませていますが、こういった古典的名著を振り返る余裕も欲しいものだと改めて感じました。

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最後に、野田隆『にっぽんの鉄道150年』(平凡社新書)です。著者は、都立高校の教員ご出身で、鉄道に関するノンフィクションのライターです。ということで、今年は広く知られているように、新橋~横浜間で1872年10月14日に鉄道が開業してから150年という記念の年であり、さまざまなイベントなどもありましたが、本書もそれを記念する意味で出版されています。まずは、走る車両の歴史ということで、蒸気機関車から始まって、何と、高速鉄道に飛んで新幹線となり、私鉄で走っている電車、ブルートレインの寝台車や豪華列車・観光列車、その間に、青函トンネルや瀬戸大橋などの本州と北海道・四国を結ぶ線路の拡充が語られ、最後の方は、廃止された路線、もうすっかり廃れた切符、鉄道ミュージアムが取り上げられています。私は決して鉄道ファンではありません。でも、鉄道唱歌で「線路は続くよ、どこまでも」というのがありますが、私は長崎大学に出向した折に、長崎駅では線路が終わっていて「続かない」のを目にして、ある種の衝撃を受けた記憶があります。中学校の通学から電車に乗り始め、ほぼほぼ私鉄の通学が多く、東京に出てからも私鉄や地下鉄を使う通勤が多かったのですが、関西に戻って、今では主としてJRに乗っています。20歳前後の今の学生諸君と話をしていても、「国鉄』というのは、まったく死語になったと感じています。中曽根内閣の1980年代後半に、国鉄だけでなく、専売公社や電電公社の3公社が民営化される法案審議の際には、私はすでに国家公務員として働いていたのですから、年を取るはずです。最後に、本書は300ページを超えるボリュームで、新書としては分厚い本なのですが、モノクロながら写真が多数収録されていて、写真を眺めるだけでも楽しい気分にさせてくれます。
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2022年10月15日 (土) 09:00:00

今週の読書は金融危機に関する経済書のほか計4冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、日銀前副総裁による金融危機対応の経済書のほか、ミステリが2冊と新書の計4冊です。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで10冊、今週が4冊ですので、今年に入ってから186冊となりました。まもなく200冊に達することと思います。

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まず、中曽宏『最後の防衛線』(日本経済新聞出版)です。著者は、日銀前副総裁であり、現在は大和総研理事長です。エコノミストというよりは、金融危機対応の中央銀行実務家という印象で、本書もそういった視点から書かれています。ということで、本書でも指摘されている通り、金融政策の大きな特徴として、私も大学で教えているように、金融政策とは市中の民間金融機関、主として銀行に働きかけるわけですから、市場が正常に機能していて、金融機関が経済合理的に反応してくれることが前提条件となります。財政政策はそうではありません。すなわち、政府支出や徴税やで直接に家計や企業といった経済主体の購買力を操作することが出来ます。でも、金融政策は市場における通常の経済合理的な反応が必要ですので、金融危機に陥っては正常な効果を期待できなくなるおそれがあるわけです。その意味で、本書で具体的に取り上げられているのは1997-98年の日本国内の金融危機、すなわち、三洋証券、山一證券、拓銀、長銀、日債銀などの破綻、さらに、2008年のリーマン証券の破綻です。特に前者については、著者が最前線で活躍してたようですので、とてもリアルに描写されています。リーマン・ショックに際しても、その直前に担当者にドルオペのフィージビリティ調査を命じたりしていたのはやや驚きましたが、まあ、自慢話の類かもしれません。加えて、1997-98年の金融危機の際には、「日本発の世界金融危機」とならないように腐心した一方で、リーマン・ショックに関しては、そういった観点があったのかどうか疑問を呈しています。そして、直後のAIGの救済に関してはリーマン証券破綻の影響に驚いて方針変更した可能性すら示唆しています。まあ、ややアサッテの批判かもしれません。さらに、本書でも自ら指摘しているように、日銀は金融危機に際しても、もちろん、通常の「平時」でも、金融緩和に消極的な中央銀行とみなされていて、特に、1990年代初頭のバブル崩壊、さらに、1997-98年の金融危機の際の日銀の危機対応は世界から中央銀行の失敗例とされているのも事実です。ですから、著者が、失敗の典型と世界から指摘されつつも、「現場でがんばっていたのだ」といくら主張したところで、少なくとも私は共感は覚えませんでした。不首尾に終わって、なお「よくがんばった」と誉められるのは高校生までであり、いい年齢に達した公務員や中央銀行員が結果を無視して、「ボクたち、がんばったもんね」と、自らに評価を下すのは、やや見苦しい気がします。

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次に、東川篤哉『スクイッド荘の殺人』(光文社)です。著者は、『謎解きはディナーのあとで』などのヒット作のあるユーモア・ミステリ作家です。そして、この作品も烏賊川市シリーズ最新作であり、出版社の宣伝文句によれば、シリーズの中では13年ぶりの長編作品だそうです。烏賊川市シリーズですから、探偵事務所署長の鵜飼杜夫と調査員の戸村流平が主人公となります。ただ、探偵事務所の入居しているビルオーナーの二宮朱美はほとんど、あるいは、まったく登場しません。スミマセン。私は読み飛ばしていますので、詳細不明です。なお、烏賊川警察署の砂川警部と志木刑事も登場しますが、ほぼほぼ謎解きの終わった最終盤での登場となります。ということで、本作品では、閑古鳥が鳴きまくってヒマヒマしている鵜飼探偵事務所に久しぶりに依頼人が訪れます。しかも、烏賊川市のパチ・スロやボウリング場などの遊戯施設を運営する有力企業の社長が依頼人だったりします。依頼内容は、脅迫状が来たのでクリスマスの旅行にボディガードとして同行するよう、ということです。そのクリスマスを過ごす宿泊施設がタイトルのスクイッド荘なわけです。ロケーションとしては、烏賊川市のゲソ岬の断崖絶壁にあり、しかも、クリスマスのシーズンですので大雪が降って孤立します。ミステリによくあるクローズド・サークルなわけです。謎解きはかなり複雑で本格的なのですが、動機がかなり薄弱だったりします。この作者らしく、ユーモアたっぷりのミステリなのですが、謎解きは本格的でかなり複雑です。この作者の、あるいは、特に烏賊川市シリーズのファンであれば、是非とも押さえておくべき1冊です。

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次に、シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)です。著者は、ロンドン生まれの英国の作家です。2007年に乳癌のため47歳で亡くなっています。英語の原題は The London Eye Mistery であり、2007年の出版ですが、その出版年に作者は亡くなっているわけです。本書はジュブナイル向けのミステリなのですが、かなり本格的です。ということで、ロンドンに住む12歳のテッドが主人公です。ご本人は「症候群」と称しているのですが、現在でいえば自閉スペクトラム症、当時の表現ではアスペルガー症候群ではなかろうかと推測されます。サヴァンに近いのかもしれません。両親と姉のカット(カトリーナ)と4人家族でロンドンで暮らしています。タイトルの「ロンドン・アイ」とは、大きな観覧車であり、30分で1周します。テッドの母親の妹、テッドからすれば叔母に当たるグロリアがその息子のサリムとともに、テッドの家を訪れます。マンチェスターに住んでいたグロリアとサリムはニューヨークに引越す途中にロンドンに立ち寄るわけです。そして、子供3人、すなわち、テッドとカットとサリムがその観覧車のロンドン・アイに乗りに行きます。チケット売り場に並んでいると、無精髭の男からチケットが余っているからと11時30分のチケットを1枚だけ無料でわけてもらいます。そして、サリムが1人でロンドン・アイに乗ることになるわけですが、観覧車が30分かけて回っている間にサリムが消えます。下りて来ないわけです。その謎をテッドが解き明かします。とっても本格的な謎解きです。決して、ジュブナイル小説と軽く考えて読むのはオススメできません。

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最後に、都留康『お酒はこれからどうなるか』(平凡社新書)です。著者は、一橋大学の名誉教授であり、したがって、というか、何というか、経済学者です。ですから、本書は酒作りの醸造技術なども、もちろん、取り上げていますが、主として経済学的な観点から「酒」に取り組んでいます。なお、同じ著者の前著に『お酒の経済学』(中公新書)というのがあるのですが、不勉強にして未読です。ということで、前半の第1章から4章までがお酒の種類別に、日本酒、ワイン、梅酒、ジンという順で国内における製造の歴史や消費・普及を跡づけ、後半の第5章から9章ではもっとお酒に関する飲み方や場所などのソフトな情報について取り上げています。すなわち、家飲み、居酒屋、醸造所・蒸溜所が併設された飲食店、ノンアルコール市場の拡大、となっています。一見して、ビールが無視されているように感じてしまい、ジンよりもビールじゃないの、という気がしますが、後半の第6章とか第7章で触れられています。私はビールか、ワインか、といった感じで、特に50代も後半に入ってからお酒をよく飲むようになった気がします。年齢とともに、ヒゲが濃くなり、サケを飲む量が増えた、といったところです。日本酒については吟醸酒などの最近の高級酒の解説が多く、別の機会に明らかにされているのかもしれませんが、私は清酒の開発についても取り上げてほしかった気がします。どぶろくなどのにごり酒から透明の清酒になったのは、その昔の造り酒屋でお給料の引上げがかなわなかった杜氏さんが、お酒の醸造樽に火鉢の灰を投げ込んだところ、翌朝には透明の酒になっていた、という伝説を聞いたことがあります。ホントか、どうか、は知りません。いずれにせよ、日本のワインや梅酒、あるいは酒にまつわる文化などについてよく取りまとめられている教養書だと思います。オススメです。
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2022年10月08日 (土) 09:00:00

今週の読書は地経学書をはじめとして計4冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、地経学書、安全保障に関する専門書、小説2冊で、うち1冊はミステリの計4冊です。お手軽に読める新書や文庫がなく、やや重厚な本が多かった上に、今週から大学の後期授業が本格的に始まって、読書量は少し減っているかもしれません。ただ、新刊書ではないので、このブログの読書感想文には取り上げませんが、太田愛『幻夏』(角川文庫)を読みましたので、Facebookでシェアしていたりします。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週が6冊で、今週が4冊ですので、今年に入ってから182冊となりました。11月早々には200冊に達することと思います。

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まず、片田さおり『日本の地経学戦略』(日本経済新聞出版)です。著者は、一橋大学後出身の南カリフォルニア大学の研究者であり、英語の原題は Japan's New Regional Reality となっています。地経学=Geoeconomics はサブタイトルに Geoeconomic Strategy in the Asia-Pacific という形で入っています。原書は2020年の出版です。ということで、やや用語法などが私の感覚とは違うのですが、地経学のテキスト、というか、日本への応用ということで読んでみました。というのは、地経学ではなく、地政学として今世紀に入ってからの中国の台頭に関する分析はよく目にするのですが、地経学的な分析は十分ではないような気がするからです。用語法で少し違和感あるとしても、日本の場合は、地経学的には国家主導のリベラルな戦略への国際社会、というよりは、米国からの圧力を受けている、と本書では指摘しています。ここでの「リベラル」な戦略というのは、ネオリベとかに対置される用語ではなく、市場を活用した、とか、市場経済に基づく、といった形容詞に近くて、中国やロシアなどの権威主義的な政治体制の下での経済に対応しているようです。また、埋め込まれた=エンベッドされた重商主義というのも、実に的確に日本の地経学的なポジションを表していると受け止めています。いかにも、世界に出て稼いでこい、という感じです。そして、本書の指摘と私の感覚が一致するのは、地経学的な重要戦略は「世界に出て稼ぐ」ために国家間の経済交流、貿易という財・サービスの交易と資本移動に関するルールのセッティングである、という点です。TPPが当時のトランプ米国大統領により米国抜きでスタートした一方で、RCEPがかなり質の高い貿易投資協定として作用し始めています。こういった世界あるいは地域における経済活動の交流に関するルールの設定に対する関与、あるいは、場合によっては、単にナイーブに内外無差別のルールだけではなく、自国利益に沿ったルールのカッコ付きでの「押し付け」のできるパワーを保有するための戦略、ということです。古典派経済学的な自由貿易や自由な資本移動、というのも重要なのですが、それを、いわば口実として自国の都合を優先させたりするわけです。ただ、私は本書でやや物足りない点が3点あります。第1に、ODAをはじめとする国際開発援助を地経学的に以下に利用できるか、あるいは、利用するべきではないか、という点です。この国際開発援助については、中国がアフリカ諸国などに対してかなり強引に実行していて、スリランカなどでは借款が返済できずに検疫を中国に差し出している例があるとも報じられていたりします。私は日本が経済大国であることを授業で説明する際に、このODAの統計を示したりしています。地経学的な戦略でもひとつの指標として取り上げるべきではないかと考えています。第2に、サプライチェーンの形成です。レピュテーションも含めて、サステイナブルではないサプライチェーンの再構築は重要な問題だと思うのですが、サプライチェーンは企業任せ、でいいのか悪いのか、やや気にかかる点です。第3に、地政学的には覇権国に対して新興国が台頭するとツキディディスの罠によれば、武力衝突が生じる可能性が高まります。他方、地経学的に中国の台頭に対して米国はどのように反応するのか、あるいは、対応すべきなのか、本書では日本の地経学の分析ですから、ややスコープ外なのかもしれませんが、私は懸念しています。最後に、その昔の『レクサスとオリーブの木』では、マクドナルドが展開している国の間では武力衝突は起こらない、といった旨のグローバリズム礼賛が表明されていましたが、実際には、武力行使に及んだ国からはマクドナルドが撤退する、という事実がロシアのウクライナ侵攻により明らかにされました。地政学や地経学の戦略に関しては時々刻々とリアリティ=現実に基づいてアップデートされます。専門外とはいえ、武力行使がインフレや成長鈍化をもたらしているのも事実ですし、少し勉強しておきたい気がします。

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次に、森本敏・小原凡司[編著]『台湾有事のシナリオ』(ミネルヴァ書房)です。編著者は、民間から貿易大臣も経験した研究者と笹川平和財団の研究者です。本書も笹川平和財団の研究会の成果を取りまとめています。地経学に関する専門書を読んだのに合わせる形で本書も読んでみました。ただ、コチラは安全保障の専門書であり、基本的な中国の台湾観から勉強する必要がありそうな気すらします。すなわち、私のような安全保障戦略のシロートですら、「ひとつの中国」という原則に基づいて、台湾が独立国としての国家主権を認められていない一方で、香港などでは一国二制度といいながら、実は、香港を権威主義的な中国化する動きが急ピッチで進んでいる、という事実は見知っています。ただ、1980年代までの米ソを筆頭とする東西冷戦が終了したのは、経済力に基づくソ連の崩壊であり、決して武力により社会主義体制が崩壊したわけではない、という事実も明らかです。ですから、本書のタイトルのように、台湾有事として武力により中国が名目的な「ひとつの中国」を達成する方向にある、という点は理解が進みにくくなっています。しかも、台湾のバックには米国の武力が控えている、というのも、なかなか直感的には理由が明らかではありません。ただ、その背景はあくまで安全保障戦略に基づく地政学的な理由であり、台湾が中国に「併合」されると、経済的には何が生じるのかは、本書のスコープ外となっています。すなわち、香港については権威主義的な中国政府の圧力が高まると金融市場としての魅力が一気に低下するわけで、台湾の製造業とは少し経済的な影響が異なる気がします。もちろん、製造業としても金融業ほどではないとしても、市場に基づく自由で分権的な生産体制のほうが効率的であることは間違いありませんが、香港金融市場の魅力が低下するとシンガポール市場が相対的に浮上する可能性があるのと同じように、台湾が生産力を低下させると別の製造業エリアが代替するだけ、という点から情報処理産業という面が強い金融業よりも製造業のほうが大体はスムーズ、と考えるのは私のようなシロートだけなんでしょうか。まあ、それは別としても、本書では台湾有事の経済的な影響はスコープ外となっていて、武力衝突に関する分析が本書では取り上げられています。戦力比較た軍事的な体制などについては、私は理解が及びませんでしたが、中国の軍事的かつ経済的な台頭を受けて、台湾海峡に緊張感が高まっているという事実は感じ取ることができました。でも、実際に武力衝突が生じれば、日本の戦略なんて独自視点はまったく考慮されず、自衛隊は米軍指揮下に入って、米軍の軍事戦略に100パーセント従う形で台湾有事に対応することになるんではないか、とシロートながら私は想像しています。でも、それなりのシナリオ分析は必要かもしれません。

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次に、越谷オサム『たんぽぽ球場の決戦』(幻冬舎)です。著者は、ファンタジー・ノベルでデビューし、『陽だまりの彼女』文庫版がミリオンセラーとなった小説家なのですが、私は初読でした。表紙画像を見て理解できる通り、野球に関する小説です。埼玉県北あだち市を舞台にし、主人公は20代半ばのアルバイターなのですが、高校2年生まではいわゆる「超高校級」のピッチャーとして埼玉県内では大いに注目されていました。しかし、肩を壊して野球を止めた挫折してしまいました。ところが、20代半ばになって、市会議員をしている母親から勧められて野球チームを結成することになります。そして、主人公がとても社交性に欠けることから、主人公と同じ高校の同級生で野球部の主将も務めていた社交性バツグンのチームメイトにコーチ役の助っ人を頼み、2人で新チームを立ち上げます。何と募集のひとつの条件は野球で挫折した経験を上げていたりします。もちろん、大したチームが出来るわけではなく、老人とその孫とか、野球はマネージャーをやった経験があるだけという女子大生とか、まるっきり運動不足の大学生とか、いろいろとクセのある選手が、なんとか9人のチームが結成できるだけ集まります。他方で、主人公は高校時代にかなりの「ビッグマウス」であったらしく、他校の選手などから決して好意を持たれていたわけではなく、市営の河川敷球場のとなりのグラウンドで練習している草野球チームの主力投手から敵意むき出しで対応されたりします。そして、何と無謀にも、その草野球チームと対外試合を行うことになるわけです。まあ、タイトルの「決戦」というのはかなり大げさなのですが、許容範囲かもしれません。ただ、試合結果がやや疑問残るという読者もいるかも知れません。いかにも主人公チームの寄せた結果とみなす読者からは試合結果についての異議が出る可能性はあります。ギリギリ、ネタバレにならない範囲でこれくらいにしておきます。

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最後に、東川篤哉『うまたん』(PHP研究所)です。著者は、『謎解きはディナーのあとで』がミリオンセラーとなったミステリ作家です。単なるミステリ作家ではなく、「ユーモア・ミステリ作家」というべきかもしれません。ということで、この作品もユーモア・ミステリなのですが、同時に、特殊設定ミステリでもあります。私が最近読んだ中では方丈貴恵の作品がとびっきりの特殊設定だったのですが、それはそれとして、この作品では人間の言葉を理解するウマが推理して謎解きをします。主人公は房総半島にある牧場、牧牧場(まきぽくじょう)の牧場主の娘のJK牧陽子で15歳、他方、推理の謎解きをするウマ15歳で、函館大賞典優勝のサラブレッド、名はルイスです。ユーモア・ミステリですので、ウマ探偵のスイスは主人公のことを「マキバ子」ちゃん、すなわち、牧陽子ではなく、牧場子と呼んだりします。まあ、重賞優勝馬ではないので種牡馬としてではなく、馬主のご厚意によりウシ中心の房総半島にある牧場で悠々の老後の生活を送っているという設定です。しかも、このウマ、ルイスが人間の言葉を理解し、人間の言葉をしゃべります。というか、正しく表現すれば、主人公の牧場主の娘だけが聞き取れる言葉をしゃべり、他方、人間の言葉はすべからく理解できたりします。我が家からもほど近い栗東のトレセンで長らく過ごしたせいか、コテコテの関西弁をしゃべります。この作品は短編5話から編まれており、うち2話では殺人が起こります。ウマ探偵ルイスが真相を解き明かして、主人公の牧陽子に話して聞かせ、然るべく事件が解決する、というストーリーです。収録短編作品のタイトルだけ列挙すれば、「馬の耳に殺人」、「馬も歩けば馬券に当たる」、「タテガミはおウマの命」、「大山鳴動して跳ね馬一頭」、「馬も歩けば泥棒に当たる」となります。殺人事件は1作めと3作めであり、私がもっとも評価する短編は4作目です。ルイスの事件の取りまとめが秀逸だったりします。
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2022年10月01日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書や海外ミステリをはじめとして計6冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り経済書やミステリをはじめとして計6冊です。
来週から本格的に大学の後期授業が始まりますので、これからは読書ペースがやや落ちるかもしれません。なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月で66冊、10月に入って今週が6冊ですので、今年に入ってから178冊となりました。10月中か、11月早々には200冊に達することと思います。

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まず、前田裕之『経済学の壁』(白水社)です。著者は、日経新聞のジャーナリストを長く務めています。本書では、第Ⅰ章で大学などのアカデミズムにいる経済学者と官庁や民間シンクタンクなどのエコノミストを比較するという、ハッキリいって、無意味な議論を展開した後、第Ⅱ章で経済学について、これまた、それほど意味があるとも思えない自説を持ち出しています。まあ、こういった思い込みの部分を書きたいのも本書を執筆する動機としてあったのかもしれません。そして、第Ⅲ章から経済学の各流派についての概観が始まります。経済学には経済史と経済学史という学問分野があり、本書は経済学史のような体系的な解説ではありませんし、もちろん、大学での講義の教科書として使えるハズもないのですが、いろんな経済学の流派について、ミクロ経済学とマクロ経済学に分けて並べています。私でも明確に認識していない学派についても詳細に特徴つけていて、その意味では、なかなかに参考にはなります。主流派に属するニュー・ケインジアンと異端とみなされるポストケインジアンなんて、一般には理解されにくい部分もそれなりにキチンと解説がなされています。その意味では、決して学術書ではありませんが、経済学の主流派とそれ以外の学派を概観するのには役立ちそうです。ただ、惜しむらくは、世間一般で注目を集め始めている現代貨幣理論(MMT)が抜け落ちています。理由はよく判りません。最後に、数年前に話題になったところで、ノーベル賞経済学者のカーネマン教授が『ファスト & スロー』を出版した際の目的として、オフィスでの井戸端会議での会話の話題提供を上げていた気がするのですが、本書も同様に、オフィスでの井戸端会議や飲み会の際に経済学の知識をペダンティックに示すためにはとても有益な役割を果たすと思います。

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次に、日本経済研究センター[編]『使える!経済学』(日本経済新聞出版)です。編者、というか、おそらく、日本経済研究センター(JCER)のスタッフがインタビューするか、講演会に招くいた際のお話を取りまとめていて、主として、マイクロな経済学をビジネスに活用している例が収録されています。一部に慶應義塾大学の例がありますが、ほとんどが東京大学です。そうなのかもしれません。因果推論や構造推計、あるいは、マーケット・デザインを基にしつつ、ダイナミック・プライシング、オークション理論、マッチング理論、などなどの経済学がビジネスにどのように応用されているかの実例がよく判ります。繰り返しになりますが、かなりマイクロな経済学の応用がほとんどで、マクロエコノミストの私に理解が難しい最新分野なのですが、それなりに、経済学の応用について理解が深まった気がします。ただし、こういった経済学を活かしたエコノミストのコンサルティング活動について、2点だけアサッテの方向から指摘しておくと、第1に、行動経済学も含めて、こういった分野の経済学は、厳密な再現性を求める科学としての経済学ではなく、ビジネスに応用されることは、ある意味で、本来の目的であり、とても相性がいいと私は考えています。第2に、こういったコンサルティング活動は、基本的に、コンサルタントを雇える大企業に有利な結果をもたらす、という点です。典型的にはダイナミック・プライシングとかで、消費者余剰をすべて企業のものにすることを目指す場合があったりします。もちろん、マッチング理論などはいろんな意味で有益ですし、経済学が保育園の待機児童の解消に応用されている例もあったりするのですが、基本、コンサルタントを雇える大企業にコンサルティング活動は向かいます。ですから、コンサルタントを雇えない消費者にも利益になるような経済学のビジネスへの活かし方も考慮されるともっといいんではないか、と私は考えています。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『ファイナル・ツイスト』(講談社)です。著者は、セカイでももっともうrているミステリ作家の1人ではないかと思います。私もこの作者の作品のファンで、リンカーン・ライムのシリーズ、キャサリン・ダンスのシリーズなどの作品はほぼほぼすべて読んでいます。本書は、新しく始まったコルター・ショウのシリーズであり、『ネヴァー・ゲーム』、『魔の山』に続く第3巻です。邦訳の出版前は、このシリーズはこの第3回で終了、とウワサされていたのですが、どうも、シリーズ第1期の終了、ということらしいです。ということで、本書では、ショウの父親の死の謎に迫ります。1906年のカリフォルニア州法に関する文書、コードネーム「エンドゲーム・サンクション」をショウとともに、ショウの父をしに至らしめた民間諜報会社「ブラックブリッジ」が追います。この文書の桁外れの内容が明らかにされるとともに、この文書に絡んだトリックも、作者のディーヴァーらしいツイスト=どんでん返しで明らかにされます。このショウのシリーズは、ディーヴァーらしいどんでん返しの要素が少なく、特に、前作の『魔の山』にはほとんどなかったのですが、本書では、「アッ」とびっくりのどんでん返しが用意されています。私も読み終えて、「何だ、そうだったのか」と独り言をいってしまいました。このシリーズの先行きは、私はよく知りませんが、この作者のファンであれば本書は必読といえます。

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次に、佐藤千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書)と小島慶子『おっさん社会が生きづらい』(PHP新書)です。著者は、毎日新聞のジャーナリストとTBSアナウンサーからエッセイストやタレントになった女性です。ということで、本日10月1日付けの「朝日新聞」朝刊から天声人語に女性執筆者が初めて加わった、とありました。メディアのコラムでも男性の執筆陣で運営されていたことが明らかなわけです。私なんかはまごうことなくオッサンなわけです。ですから、これらの女性が感じるオッサン社会の生きづらさなんかは、ほとんど感じたことはないどころか、逆に、生きづらさを増幅させているところがあるんではないか、と反省しています。日本のビジネス社会では、おそらく、1990年のバブル崩壊くらいまで男性社会であり、しかも、年功序列が色濃く残っていましたから、年配男性=オッサンの天下だったわけです。女性は明示的に差別され、中年男性=オッサンを中核労働者としてメンバーシップ的に正規職員として雇用され、企業に無限定に奉仕させて働かせつつ、家庭は専業主婦がやりくりする、という世界だったわけです。ここで「家庭」には家事は当然、育児、場合によっては老親の介護まで含まれます。そして、子育てが一定ラクになった段階で、主婦層がパートなどの形で、あるいは、学生がアルバイトとして非正規の縁辺労働者として労働市場に参入するわけです。年功序列は当然のように年功賃金に基づいており、子育て期に年功賃金が支給されることから学校教育の費用については、中央・地方の政府ではなく家庭が学費を負担する、というシステムが出来上がっているわけです。ですから、現在の非正規雇用のように年功賃金でなくなってフラットな賃金プロファイルがドミナントなシステムに移行すれば、教育費は中央・地方の政府が負担すべきです。やや脱線しましたが、オッサン社会の弊害は、単に、女性進出やダイバーシティの推進を阻害しているだけでなく、あらゆるところで見られる気がします。

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最後に、万城目学『べらぼうくん』(文春文庫)です。著者は、私の母校である京都大学出身の小説家です。私自身も著者のデビュー作である『鴨川ホルモー』から始まって、最新作の『ヒトコブラクダ層ぜっと』まで、おおむね読破しているつもりです。独特の「万城目ワールド」といわれる世界観が私は好きだったりします。その小説家がご自分の半生を振り返るエッセイです。なぜか高校時代を終えた浪人時代から書き始めて、京都大学の学生だったころの海外旅行の経験、年齢的にバブル期ではなかったハズですが、海外旅行が通常生活に入り込んでいる世代だという気がします。そして、大学を卒業して就職して工場勤務となった後、離職して『バベル九朔』の作品そのままに、ビル管理人をしたりしています。というか、実体験が『バベル九朔』の作品として結実した、ということなのでしょう。なかなかに、興味ある作家の半生を知ることが出来るエッセイなのですが、最初に書いたように、私はこの作家の作品の世界観が好きなのですが、私の読解力がないせいなのか、このエッセイからは世界観の出どころのようなものは読み取ることができませんでした。私は三浦しをんなどは小説もエッセイもどちらも大好きなのですが、この万城目学の作品、というか、出版物としては、こういったノンフィクションのエッセイよりも、フィクションそのもの、というか、かなりファンタジーも入った小説の方が私は好きです。
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2022年09月24日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済所や歴史書をはじめとして計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、経済書、歴史書、教養書と新書の計4冊です。ややボリュームのある本が多かった気がします。ただし、いわゆるシルバー・ウィークでお休みが多かったので、新刊書読書だけでなく文庫本も何冊か読んでいて、葉室麟「いのちなりけり」のシリーズ、すなわち、『いのちなりけり』、『花や散るらん』、『影ぞ恋しき』上下を再読していたりします。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~8月で45冊、先週までの9月で16冊、今週が5冊ですので、今年に入ってから172冊となりました。

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まず、河野龍太郎『成長の臨界』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、BNPパリバ証券のチーフエコノミストです。とても包括的に金融と経済について論じています。出版社から受ける印象ほど学術書ではありません。一般のビジネスパーソンでも十分読みこなせると思います。著者は、日銀の異次元緩和をはじめとする金融緩和の継続に疑問を呈したり、あるいは、財政では赤字財政を批判して財政再建を目指すべき議論を提起したりと、アベノミクスにはかなり批判的な意見を持っていたエコノミストであり、本書でも同様の議論が展開されています。特に、星・カシャップのラインに沿って、緩和的な金融制作や財政政策が日本のように長期にわたって継続されると、というか、正確には完全雇用を超えて緩和策が継続されると、本来は市場から淘汰されるべき企業がゾンビのように生き残ってしまったり、あるいは、企業単位でなくても本来は採算性の高くない設備投資が実行されたりして、逆に、生産性に悪影響を及ぼして不況が長引く可能性を指摘しています。ですから、日本経済の現状を人で手不足で完全雇用を達成している状態と考えていて、この状態ではむしろ構造政策により生産性を引き上げるべき、との見方が示されています。完全雇用なのに賃金が上がらない理由についてはやや根拠薄弱です。また、利子所得のために金利引上げなども志向しています。私も判らなくもないのですが、明らかにバックグラウンドとなるモデルに混乱を生じている気がします。例えば、自然利子率と潜在成長率の議論が少し判りにくかったりします。加えて、というか、何というか、政策提言がややアサッテの方向になってしまっています。すなわち、3年ごとに社会保障負担を減らすのと同時に消費税を+0.5%ポイントずつ引き上げる、というのが目を引く政策となっています。ゾンビ仮説に立つのであれば金利引上げも選択肢になりそうな気がするのですが、さすがに、日本経済の現状を考慮すれば現実的ではない、ということなのでしょう。そして、経済が停滞しているのは企業の成長期待が低いからであり、企業の成長期待が低いのは消費が伸び悩んでいるからであり、と、ここまでは私も著者に賛成します。そして、何人かの論者は、消費が伸び悩んでいるのは年金が少ないために老後に備えて貯蓄に励んでいるためである、という議論がある一方で、さすがに、著者はこの年金増額論は却下、というか、触れてもいません。私は消費が伸び悩んでいるひとつの要因は非正規雇用という不安定かつ低賃金な雇用にあると考えています。そして、この論点も著者は無視しているように見えます。いずれにせよ、経済に関する流行の議論が網羅されている一方で、日本経済のバックグラウンドにある構造、あるいは、モデルについての理解が少し私と違うと感じました。

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次に、アダム・トゥーズ『世界はコロナとどう闘ったのか?』(東洋経済)です。著者は、ロンドン生まれで、現在は米国のコロンビア大学の歴史学の研究者です。英語の原題は Shutdown であり、2021年の出版です。出版年からも理解できるように、それほど新しい情報が盛り込まれているわけではなく、むしろ、2020年のパンデミック当初の時期に、ワクチンはなく、特効薬もない段階で、隔離を含むソーシャル・ディスタンスを取るしか感染拡大防止の決め手がない段階で、外出禁止といったロックダウンだったり、対人接触の多いセクターごとシャットダウンしたりといった措置と経済活動との間のトレードオフについて、歴史研究者らしくたんねんにコロナ危機に見舞われた世界を経済の面に焦点を当てつつ俯瞰しています。その差異、どうしても国別とか、地域別の記述になっていて、トランプ政権下の米国、さまざまなアプローチを取った欧州、そして、何よりもパンデミックの発祥の地となった中国、加えて、インドやロシアなども加えられています。米国では、何といっても、科学的な見方に対して根拠なく独自路線を取るトランプ政権に対応が危機を拡大させていたと考えるべきです。欧州についてはスウェーデンのように社会的な集団免疫の獲得を目指しつつも、結局、通常対応にせざるを得なかった例もあれば、イタリアのように感染拡大に歯止めが効かなかった国もあります。そして、何よりも、経済活動との関係が焦点とされています。本書では、コロナ危機における経済問題を供給面からのショックと捉えており、対人接触の多いセクターが本書のタイトル通りに「シャットダウン」されることによる経済停滞、と考えています。ですから、日本の例を上げると飲食店とかとなりますが、感染拡大を防止するためにシャットダウンされたセクターの産業としての活動が停止し、経済的な活動が停滞する、というのをどのように解決するか、の観点からの記述が多くなっています。逆に、米国やブラジルのように、感染拡大防止を軽視して経済活動を継続し、危機を深めた例もあったりするわけですから、トレードオフの関係にある感染拡大防止と経済活動の両立が、米国、欧州、中国をはじめとするアジアで、どのように進んだか、に着目されています。そして、アジアについては、中国にもっとも大きな紙幅が割かれており、次いでインド、韓国についても初期段階ではコロナ封じ込めに成功した例として取り上げられていますが、我が日本は経済規模ほど言及がありません。日本国内では日本は感染者も死者も世界的な標準からすれば少なく、何か、xファクターがあるのではないか、という議論を見かけましたが、世界的な視野ではほとんど注目されていなかった、という事実が明らかになった気がします。まあ、そうなのかしれません。

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次に、平野啓一郎『死刑について』(岩波書店)です。著者は、我が母校の京都大学在学中に『日蝕』で芥川賞を受賞した小説家です。本書は、弁護士会での講演録をもとに加筆修正されて単行本として出版されています。そして、著者の基本的な立場は死刑反対、というか、死刑廃止論です。もちろん、被害者感情から死刑存置論にも十分配慮しながら、死刑に反対し廃止する議論を展開しています。その論拠は基本的に3点あります。私なりの言葉で表現すれば、第1に、冤罪があり得るからです。人間が裁判で判断する限り、事実の誤任はあり得ます。第2に、犯罪の結果について自己責任だけを問うことにムリがある可能性です。すなわち、死刑になる犯罪は、少なくとも日本では殺人だけであり、殺人といった重大犯罪に至る経緯については、加害者の生育環境などの考慮すべき事情があり、こういった事情を含めて犯罪の結果をすべて自己責任として負わせることに対する疑問です。第3に、基本的人権との関係で、自然人を殺すということの是非です。著者の主張によれば、人間としての存在を否定されることは絶対的にあるべきではなく、「xxの犯罪を犯した場合」といった相対的な基準で人間存在を抹消されることは許容できない、ということです。私は、ほぼほぼ、この著者の見方に賛成であり、死刑は廃止されるべきであると考えています。ただ、経験はありませんし、あまり考えたくもないですが、もしも、私の身近で大切に考えている人が、殺人事件の被害者として殺された場合、すなわち、私が被害者の遺族となった場合、いかなる心情に達するか、という点では、この死刑反対論を変更しない、という万全の自信があるわけではありません。その点はビミョーなところです。そして、講演録という観点からはムリあるものの、巻末の資料として世界各国での死刑制度の導入につて取りまとめてあります。どうして、世界の多くの国では死刑制度がないのか、についても私は知りたい気がします。最後に、さらに外れた感想で、本書からは完全にスコープ外となりますが、人が死ぬ、ないし、殺されるケース、しかも大量に死者が出るケースとしては戦争があります。戦争については、死刑以上に、というか、死刑と比較するのが論外であるくらいに、絶対に反対と私は考えています。おそらく、死刑存置論者でも、戦争だけは反対、という人が多いのではないか、と私は考えています。日本国憲法第9条はこれを体現している、と考えるべきです。

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次に、ミチオ・カク『神の方程式』(NHK出版)です。著者は、米国の物理学研究者であり、統一理論の有力候補であるひも理論の専門家であるとともに、ポピュラー・サイエンス・ライターとしても何冊かの科学書を出版しています。英語の原題は The God Equation であり、2021年の出版です。ということで、タイトル通りに、物理学の統一理論を物理学史もひも解きながら一般向けに判りやすく解説しています。ただ、統一理論だけでなく、その基礎をなす系の対称性にも焦点が当てられています。西洋の古典古代であるギリシア・ローマから始まる物理学史ですが、もちろん、主としてニュートンの古典力学から始まり、マクスウェルの電磁気学、アインシュタインの相対性理論、さらに量子力学などなど、専門外の私でも名前を聞いたことがある理論が並びます。そして、それらを統一する理論の筆頭としてあげられているのが10次元のひも理論です。宇宙の始まりとされるビッグバン、素粒子やブラックホールとワームホール、あるいは、未だに正体不明なダークエネルギーやダークマター、さらには、宇宙の始まりのビッグバンと最後の姿はどうなるのか、などなど、興味は尽きませんが、ともかく難解です。本書でも前半部分はニュートンやアインシュタインなど、知っている名前が並んで理解が進みますが、おそらく、私だけではなく、量子力学あたりから難解さが増します。ここが経済学とは違うところです。経済や経済学の場合、通常のビジネスパーソンであれば、経済活動に常時接していますし、そうでなくても、お金を払って買い物をするのは小学生でも体験します。しかし、物理学については日常の生活では意識することはありません。ただ、それだけにこういった専門書や教養書で読書する意義はあります。最後に、本書で指摘されている重要ポイントのひとつは、物理学の発展と経済活動が密接に関係しているということです。ニュートン力学の完成とともに産業革命の基礎が築かれ、ファラデーとマクスウェルによって電気力と磁気力をの研究が進むと電気の革命が幕を開け、アインシュタインの相対性理論や量子力学の発展から現在進行中のパソコンをはじめとするコンピュータや通信技術の革新が始まった、などが示されていて、ひょっとしたら、本書でいうところの「神の方程式」によって統一理論が解明されれば、またまた経済活動も新たな段階に進むのかもしれません。

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最後に、週刊文春[編]『少女漫画家「家」の履歴書』(文春新書)です。『週刊文春』に「新・家の履歴書」という連載があるらしいのですが、2004年から2021年までに掲載された連載の中から、少女漫画の黄金期である1970年代までにデビューした漫画家の「家」に関する記事を取りまとめています。もちろん、タイトル通りに「家」の履歴書をメインにしつつも、幼いころからの半生を振り返り、家とともに執筆していた漫画を振り返る形になっています。収録されているのは12人であり、掲載順に、水野英子、青池保子、一条ゆかり、美内すずえ、庄司陽子、山岸凉子、木原敏江、有吉京子、くらもちふさこ、魔夜峰央、池野恋、いくえみ綾となっています。ついつ、敬称略にしてしまいましたが、私なんかからすれば、それぞれに「先生」をつけたくなるような大御所ばかりです。魔夜峰央先生を除いてすべて女性であり、それなりのご年配の方々です。スポットを当てている「家」については、漫画家になる前に家族と暮らしていた家の場合もありますし、漫画家として油が乗り切っていて名作をモノにしていた時期の家、あるいは、現在住んでいる家、といったいくつかのバリエーションがあり、一定していません。しかし、漫画家ですので、間取りや何やをイラストで間取り図として、とても判りやすく美しく示してくれていて、その当時の生活や作品執筆作業などについて想像力をかき立てられます。少女漫画家に限らず、漫画家の「家」で有名なのは、何といっても、手塚治虫先生をはじめとするキラ星のような漫画家が住んでいた「トキワ荘」でしょうが、少女漫画家に限定しても萩尾望都先生と竹宮惠子先生が暮らしていた「大泉サロン」も有名です。収録された12人の中では水野英子先生が「トキワ荘」に住んでいたことがあるそうで、「トキワ荘にいるだけで絵が月ごとに上達しました」ということだそうです。そうかもしれません。単なる住まいとしてだけではなく、漫画執筆の作業、集合住宅での同業漫画家との切磋琢磨、あるいは、アシスタントたちとの共同作業などについても、とてもいきいきと活写されています。私自身はそれほどではありませんが、少女漫画ファンには大いに訴えかけるものがありそうな気がします。
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2022年09月17日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!

今週の読書感想文は、大学の同僚教員からご恵投いただいた経済書、デジタル社会やAIに関する社会学の教養書、ミステり小説、宗教に関する新書など、以下の通り計6冊です。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~8月で45冊、先週までの9月で10冊、今週が6冊ですので、今年に入ってから167冊となりました。ほかに、新刊書ならざる読書も何冊かありますので、可能な範囲でFacebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、松尾匡『コロナショック・ドクトリン』(論創社)です。著者は、私の勤務する大学の同僚教員であり、早くにご恵投いただいていたのですが、研究室に埋もれて発掘に時間がかかってしまいました。本書のタイトルはナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を踏まえており、いわゆる惨事便乗型資本主義という意味で、それに「コロナ」という形容詞が付け加わっているわけです。岸田政権前の菅政権下で押し進められた新自由主義的な政策を批判し、資本主義の最終段階である帝国主義と位置づけています。それにコロナが乗っかった惨事便乗型なわけです。ですから、それまでの円安誘導で「輸出で稼ぐ」から、円高誘導で「海外で稼ぐ」にビジネスモデルを転換し、雇用者はヘクシャー-オリーン定理に従って低賃金の海外労働者と競わせる「底辺への競争」を仕向け、安価な輸入品が国民生活を支える、という方向を志向すると指摘しています。この方向をコロナという惨事に便乗して一気に進める、というのが日本の支配層の意図であるわけです。私もかなりの程度には同意します。しかし、現在の岸田内閣の評価については、現状ではまだ時間が足りずに決定的な結論は得ていないようです。私は基本的に同様の新自由主義的な政策が志向されるものと考えていますが、ある程度の弥縫策、主として分配政策の適用などは考えられると想像しています。本書の分析で、人口減少社会で必然的に景気が停滞する、という前提が置かれているような気がしますが、それを別にしても、ひとつだけ疑問があるのは、雇用の非正規化をどのように位置づけるのが適当か、という点です。すなわち、自然人ベースでは多くの人数を雇用しつつ、各個人の労働時間は短時間雇用=パートだったり、あるいは未熟練労働に限定して低賃金で多くの国民を雇用する、というのは、新自由主義的な経済政策のような気もしますが、そうでない気もします。資本主義経済でいかなる意味があるのか、という点がもう少し深く分析されているとさらに良かった気がします。

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次に、アンソニー・エリオット『デジタル革命の社会学』(明石書店)です。著者は、オーストラリア出身の社会学研究者です。英語の原題は The Culture of AI であり、2019年の出版です。英語の原題から理解できるように、主としてAIに関する社会的な方向性を論じていますが、同時に幅広くデジタル化の文化についても展開しています。しかしながら、単なるオートメーションについても同様に当てはまる部分が少なくないような印象です。この点は著者も意識しているようで、デジタル化、AIやロボットの実用化、あるいは、そういった全般的な動向が今までのオートメーション化に対して、かなり根本的な変革をもたらすという意味で、変容的であるとの指摘を紹介する一方で、他方には変容に対する懐疑的な見方も両論併記的に示しています。この議論は、実は雇用に対して向けられるべき疑問であると私は考えています。すなわち、産業革命やラッダイト運動のころから始まって、21世紀初頭の現在くらいまで、各種の技術革新、オートメーションに限らない機械化は雇用を破壊するわけではなく、新たな高付加価値な雇用を生み出してきたのが歴史的な事実として認識されるべきです。しかし、AI活用やデジタル経済化が変容的であるとすれば、雇用が破壊され、人的労働がAIやロボットに従属する方向で「変容」する可能性が考慮されるべきです。私は、何人かの悲観論者はシンギュラリティでマシンの能力が人間を超えると、まさにその意味で、変容的に社会がすべて変わって、人間は現在のウマやウシのようにAIの家畜になる可能性がある、と考えています。本書はその根本的な問いに対しては、唯一の回答を用意しているわけではありません。経済学書ではないので、生産や消費ではなくついつい生活面での変化を追いがちなのですが、セックス・ロボットがそれほど重要とは私は思わないのですが...

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次に、未須本有生『天空の密室』(南雲堂)です。著者は、東京大学工学部航空学科卒で、大手メーカーで航空機の設計に携わり、本書のような航空機に関するミステリなどを書いている作家です。本書では、近未来の時代背景をもって、「空飛ぶクルマ」の開発を進めている自動車部品メーカーが、試作段階になったにもかかわらず、国土交通省航空局からテストのための飛行計画の許可が下りず、開発計画が頓挫しかけます。役所の表向きの理屈としては安全確保が不十分ということなのですが、さまざまな要因が絡んでどうしようもなくなった折に、その航空局の担当官が殺されて東京湾岸のヘリポートに死体が遺棄されます。千葉県警の刑事が捜査に当たるのですが、殺人犯も死体の運搬も一向に謎が解明されません。ということで、実は、読めば犯人が誰かはそれなりに想像がつきます。死体運送方法については私くらいの雑な頭では判りませんでしたが、ミステリファンであれば理解できるラインではないかという気がします。ただ、私が本書をミステリと呼ぶかどうか迷う点があります。というのは、名探偵が事件をさかのぼって謎を解明するのではなく、犯人自身が警察に自首して真相を明らかにするからです。倒叙ミステリというジャンルがあるのはよく知られたところですが、本書はそれでもないようです。何か、少し違和感を感じる読後感でした。もっとも、気にならない読者も多いかもしれません。

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次に、未須本有生『ミステリーは非日常とともに!』(南雲堂)です。同じ著者です。ただし、本書は前の『天空の密室』の前作となります。航空機に関するミステリではなく、別の乗り物、すなわち、クルーズ船とクラシックカーに関する短編、というよりはやや長い中編の2章を収録しています。登場人物はビミョーに重なっているので、連作中編集とみなす読者もいそうですが、私は独立した2編と考えています。少なくとも、最初の中編はタイトル通りの非日常なのですが、2編目はそれほどの非日常ではない気がします。ということで、最初のクルーズ船の方は、ミステリ作家の友人が主人公となり、ミステリ作家のファン80名ほどと数日の交流会を豪華クルーズ船で行う企画が舞台となります。完成されたミステリではなく、2社から依頼を受けた原稿のテーマを探すクルーズ旅行であり、ファンに対してミステリの謎を提供し、粗っぽく謎解きを解説する、という趣向です。ですから、本格的なミステリ小説の完成は本作の後段階になる、ということのようです。2編目は、映像作家が主人公で、30年くらい前のBMWのクラシックカーを入手し、頻度高い故障を修理してもらいつつ、友人の警察官僚から持ち込まれる車に関する謎を修理業者とともに解明する、というストーリです。私自身は、クルーズ船に乗ったこともなく、クラシックカーどころか、自動車の工学的な特性などもサッパリ理解できず、その意味でなかなかに難解なミステリでした。

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次に、松長有慶『空海』(岩波新書)です。著者は、高野山大学の学長や高野山真言宗管長を務めた経験ある碩学です。岩波新書から、1991年に『密教』、2014年に『高野山』をそれぞれ出版しており、三部作の完成かもしれません。ということで、空海=弘法大師から密教や、あるいは、さらに仏教全般の教義についても幅広く解説がなされています。いくつか対立的な存在、すなわち、無限と有限、対立と融合、自と他などのいわゆる不二に付いての簡単な解説があり、加えて、自然観について明らかにされた後、ズバリ、空海のいう仏性についての独自性が議論されます。すなわち、いわゆる「成仏」とは、人間が修行の上で、人間ではない仏になると考えられていたのに対して、自分が本来持っている仏性、自分が仏であるということに気づくことである、と定義し直されます。即身成仏なわけです。加えて、綜芸種智院式と呼ばれる教育理念、生死観、さらには、空海はまだ死んでいないとする入定信仰などまで含めて、かなり具体的で判りやすい解説が続いています。しかし、空海の教義そのものがもともとかなり難解であったわけですから、平易な解説といっても限界があります。そのあたりはそれなりの覚悟を持って、仏教や空海に深い関心ある向きにオススメする読書ではないか、と思います。

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最後に、道尾秀介『いけない』(文春文庫)です。著者は、売れっ子のミステリ作家であり、本書の短酵母は2019年に出版されています。実は、このブログでも2019年9月に読書感想文を取り上げています。文庫本で出版されましたので、まあ、2度読みなわけです。ということで、タイトル通りに「xxしてはいけない」という章が3章あり、ほかに最終章が置かれています。舞台はすべて蝦蟇倉市という設定なのですが、第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、他の作家の短編作品とともにアンソロジーに収録されています。第1章から第3章までは数年のタイムラグがあります。全体として、ややホラーがかった短編ミステリ、あるいは、連作短編集ですが、キチンとした論理的な推理、説明がなされています。その意味で、エドワード D. ホックの「サイモン・アーク」シリーズの短編と共通点があります。ホラーがかっているひとつの理由は、事件の裏側に十王還命会なる新興宗教団体が関係しているからです。ただ、もちろん、この作者の作風がもともと少しホラー気味なのも広く知られている通りです。第1章からして、読者をミスリードする仕掛けが随所に盛り込まれていて、短編ながら、すべてが殺人事件ではないとはいえ、各章で人が死にます。そして、最終章で、新興宗教団体の浸透ぶりが明らかにされます。(旧)統一協会みたいなものかもしれません。単純明快な謎解きではありませんが、私のようにこの作者のファンであれば、読んでおくべき作品だと思います。
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2022年09月10日 (土) 10:00:00

先週と今週の読書はいろいろ読んで計10冊!!!

先週と今週の2週間分の読書感想文は以下の通り計10冊です。
新刊書のほか、羽生飛鳥『蝶として死す』(東京創元社)と深木章子『極上の罠をあなたに』(KADOKAWA)も新幹線の車中で読んでいたりしますので、まあ、通常通りに週5-6冊、といったペースのような気がします。この2週間では、新書が多かった気がします。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月23冊、8月に22冊、先週と今週の9月で10冊、従って、今年に入ってから161冊となりました。

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まず、長岡貞男『発明の経済学』(日本評論社)です。著者は、東京経済大学の研究者です。タイトル通りの内容であり、日米及び日米欧の独自データを基にした実証分析がなされています。いわゆる発明ですから、基礎研究よりは商品開発、ないし、本書でいうところの商業化に近い段階のイノベーションを対象としています。おそらく、本書でいうところの「サイエンス」となる基礎研究は公共財に近くて経済学の分析対象としては困難が伴うような気がします。本書で転回される発明については、私はKremerのO-ring理論くらいしか馴染みがなく、このように実証されるのかと勉強になりました。最終章のノードハウス教授の特許に関するトレードオフについては、やや疑問があります。というのは、このトレードオフとは、ライセンサーからライセンシーへの特許使用料が高ければ新たなイノベーションに対するインセンティブが高くなる一方で、特許の使用が限定的となり、逆は逆、というものです。マクロ経済学の失業率と賃金上昇率の間にあるフィリップス曲線のように経験的なトレードオフではなく、理論的には明らかにトレードオフがあるにもかかわらず、実証的に必ずしも必然ではない、というのは、それに続くもうひとつの結論、発明の貢献に合わせた権利画定によりトレードオフを小さくする、というのと、矛盾を来たしているような気がしないでもありません。最後に、繰り返しになりますが、基礎研究の公共財としての役目の研究にも注目したいと思います。

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次に、伊坂幸太郎『マイクロスパイ・アンサンブル』(幻冬舎)です。著者は、日本でも有数の売れっ子のミステリ作家です。本書は、猪苗代湖で2015年から開催されている音楽フェス「オハラ✩ブレイク」のために、著者が毎年書き続けた短編「猪苗代湖の話」を基に編まれています。このフェス会場でしか手に入らなかった7年分の連作短編が書籍化されたわけです。ですから、各章は1年目から7年目と構成されていて、おまけで7年目から半年後があったりします。表題に関連して、エージェント・ハルトなどの登場人物もいて、スパイ気分が盛り上がるのですが、特に、私が印象的だった登場人物は、いつも謝ってばかりの門倉課長です。実際の社会、というか、組織の一員としての会社員として、スムーズにコトを運ぶのに重要なポイントがいくつか含まれているような気がします。

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次に、池田清彦『SDGsの大嘘』(宝島社新書)です。著者は、生物学の研究者であり、山梨大学や早稲田大学の研究者でした。本書では、誰も反対の出来ないSDGsについて逆から見た見解を展開していて、大きな疑問を呈しています。基本的には、私もSDGs推進派なのだろうと思いますし、SDGsの一部ながら地球環境や気候変動についてもそれなりの関心を持っていますので、こういった逆からの見方についても、十分な見識や常識を持って接しておきたいと従来から考えています。上の表紙画像にもあるように、本書では、脱炭素は欧州発の「ペテン」であり、環境ビジネスで利益を得ているグループについて、著者なりの見解を示しています。繰り返しになりますが、SDGsに限らず、正面切って反対できない世間一般の動向についても、盲目的に従うばかりではなく、それなりの批判的な見解に接しておくことは重要だと私は考えています。

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次に、坂本貴志『ほんとうの定年後』(講談社現代新書)です。著者は、リクルートワークス研究所の研究者であり、本書は定年後の生活、というか、雇用や労働の観点から定年後を分析しています。本日の朝日新聞に大きな宣伝が掲載されていました。統計的なマクロの分析とともに、マイクロな個別のケーススタディも豊富に収録されています。上の表紙画像にも見られる通り、定年前の「大きな仕事」ではなく、定年後は「小さな仕事」で低収入で十分OK、という考えが明らかにされています。私も十分に60歳オーバーですから、求人情報を見たりすると、定年後の求人はデスクワークではなく現場仕事となり、介護、警備、清掃といった職種が大きな比率を占めます。しかも低賃金です。しかし、60歳の定年と65歳の年金支給開始にややズレはあるものの、年収は300万円くらいで生活でき、年金を別にした収入は年100万円で十分、という主張にはそれなりに説得力があります。ですから、それくらいであれば、世間的に大きな貢献が求められる大プロジェクトに携わるのではなく、もっと限定的な「小さな仕事」で生活には十分であり、同時に、体力的なものも含めて、年齢的に何かしら衰えるわけですから、そういった「小さな仕事」でOKという考えも理解できます。私も役所を定年になり、さ来年には今の大学も定年になりますから、こういった定年後の仕事に関して理解が深まりつつあるような気がします。なお、本書は著者からご寄贈いただきました。感謝申し上げます。

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次に、勢古浩爾『定年後に見たい映画130本』(平凡社新書)です。著者は、私はよく知らないのですが、「洋書輸入会社に34年間勤務」と紹介されています。タイトル通りに、定年後に見たい映画のオススメ130本といくつかのオマケを収録しています。自由な時間が比較的多く取れる定年後の趣味には、手っ取り早く気軽に楽しめて、それなりの時間つぶしもできる映画とか、読書はオススメであると私も思います。ということで、面白く見られる作品から、いわゆる名画のたぐいまで、幅広く収録しています。ただ、こういった趣味の分野ですので、あくまで個人差はあることは承知の上で読み進む必要があると思います。邦画の収録がやや少ないという印象を持つ読者はかなりいそうな気がします。加えて、DVDで借りるという映画の見方になると思いますので、アベイラビリティにも注意する必要があります。

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次に、福田充『リスクコミュニケーション』(平凡社新書)です。著者は、日本大学の研究者です。少し前に、吉川肇子『リスクを考える』(ちくま新書)を読んで、このブログでも取り上げましたが、『リスクを考える』が心理学的なコミュニケーションであったのに対して、本書は危機管理上の手段として取り組んでいます。本書では、日本の危機管理の一環としてのリスクコミュニケーションは自然災害に由来する分野に偏りがあると指摘し、例えば、北朝鮮のミサイル発射とか、政治的あるいは地政学的なリスクに対応する必要性を強調しています。そして、これは多くの人が合意する点だと思いますが、リスクをゼロにすることを目指すのではなく、リスクが顕在化する確率を低下させ、同時に、顕在化した場合のダメージを小さくするリスク・マネージメントの必要を強調しています。巻末には対談を収録し、感染症パンデミック、自然災害、メディアに関してリスク・コミュニケーションのあり方を展開しています。

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次に、飯塚友道『認知症パンデミック』(ちくま新書)です。著者は、お医者さんであり、認知症や脳神経内科の専門医です。本書のタイトルは少し驚かされますが、著者の認識としては、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックによる「ステイホーム」によって認知症がパンデミックを引き起こしている、ということです。もちろん、行政からの行動制限だけではなく、高齢者による自発的な、というか、著者によれば過剰な反応による「自発的ロックダウン」もあって、認知症の発症を引き起こしている、という主張です。そうかもしれません。それに対して、生活習慣の改善、すなわち、いわゆる有酸素運動的な軽い運動と社会的な刺激を受ける環境整備を強調しています。後半は医学的な認知症や脳のメカニズムの解説で、私のような専門外に人間には少し難しいのですが、認知症に関する理解は深まったような気がします。

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次に、岩波明『増補改訂版 誤解だらけの発達障害』(宝島社新書)です。著者は、発達障害専門外来を担当する昭和大学医学部の医師・研究者です。2019年尼出版された「増補改訂」前のバージョンから「増補改訂」されています。まあ、当たり前です。発達障害に関しては、私もシロートですので、本書で指摘するように「空気の読めない変わった人」と受け止めたり、あるいは、アスペルガー症候群、特に、サヴァン症候群のように、なにか傑出した能力がある可能性を考えたりと、ややバイアスのかかった見方を従来はしていたのかもしれないと反省し、どこまで理解が進むかは判らないものの、少し夏休みに勉強してみました。発達障害については、後天的に発症するのではなく、生まれつきのものであるとの理解以外は私は持ち合わせていませんでしたが、症状や診断基準などについて勉強になりました。本書でも紹介されている映画「レインマン」は私も見た記憶があり、ダスティン・ホフマンの役の自閉症と発達障害は別ものと思っていましたが、誤解は解消されつつあります。NHKドラマの「アストリッドとラファエル」の主人公の1人であるアストリッドが自閉スペトラム症(ASD)という設定なのですが、このドラマについても理解が深まった気がします。

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次に、ドナルド E. ウェストレイク『ギャンブラーが多すぎる』(新潮文庫)です。著者は、多作なことでも知られる米国のミステリ作家です。本書の英語の原題は、上の表紙画像にも見えるように、Somebody Owes Me Money であり、1970年ころの出版ではないかと思います。ということで、1960年代のニューヨークを舞台に、とても雰囲気のあるミステリです。タクシー運転手チェットは大のギャンブル好きで、客から入手した競馬の裏情報が的中します。その配当金を受け取りにノミ屋のトミーを訪ねるのですが、トミーは射殺されていて、第1発見者のチェットが警察から容疑者にされ、さらに、相対立する2つのギャング組織から追われることになります。その中で、チェットはトミーの妹と組んで真犯人を探すことになします。小説冒頭は競馬から始まりますが、ギャンブルについてはポーカーが中心に展開されます。こういった賭場を開いているのがギャング組織なわけです。二転三転する推理、手に汗握るサスペンスフルな脱出劇、男女間の時ならぬロマンス、その挙げ句の半身に関する謎解き、いろいろと楽しめるミステリです。

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最後に、桜井美奈『殺した夫が帰ってきました』(小学館文庫)です。著者は、小説家、ミステリ作家なんですが、私はよく知りません。本書の主人公である茉菜は都内のアパレル企業に勤務していて、取引先の中年男性から言い寄られ、帰宅した際にアパートに入ろうとされますが、茉菜の夫を名乗る男性に助けられます。しかし、この夫を茉菜は事故に見せかけて数年前に殺害したハズなので、極めて不審なスタートです。これがそのままタイトルにされているわけです。もちろん、殺したハズの夫について、妻であった茉菜が必ずしも的確に識別できなかったわけですから、妻であった主人公の茉菜の方にも読者は何らかの不信を感じざるをえないわけで、結局は、こういった謎が解明されるのですが、それほど奇抜なトリックではなく、ひとつひとつ順を追って明らかにされていくタイプのミステリです。
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2022年08月28日 (日) 23:00:00

先週の読書は小説と新書で計4冊!!!

今週の新刊書読書の感想文は以下の通りです。感想文というよりも、読んだ本のリストに近いです。どうしても、ポパー『開かれた社会とその敵』に読書の中心がありましたので、感想文も軽めに済ませておきます。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月23冊、8月に入って先週の4冊を含めて22冊、したがって、今年に入ってから147冊となりました。

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まず、羽生飛鳥『揺籃の都』(東京創元社)です。著者は、2018年「屍実盛」で第15回ミステリーズ! 新人賞を受賞してデビューしています。デビュー作と本作品はともに『平家物語』に題材を取った時代推理小説といえます。タイトルの都とは平清盛が無理やりに遷都した先の福原です。よからぬ風聞を流す青侍の捜索、清盛の部屋から消えた厳島神社の小長刀、厩舎の魔除けのサルの死、といった謎を清盛の異母弟であり、源氏と通じていた平頼盛が解き明かします。

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次に、山本康正 & ジェリー・チー『お金の未来』(講談社現代新書)です。著者は、よく判らないんですが、2人ともDXとかデジタル技術に関するコンサルなんだろうと思います。ということで、従来は法貨に限られていたマネー=お金について、暗号資産とかデジタルマネーについての解説書です。著者の1人が聞き役で、もうひとりが回答するという対話形式で展開されます。現在のデジタル技術とマネーの関係は、あくまで現時点であって、その後の進行方向も進行速度も予測がそれほど簡単ではなく、また、確実に年々情報が古くなるのですが、それでも、こういった入門書や解説書で追いかけるしかありません。来年には確実に情報が古くなっている可能性は指摘しておきたいと思います。

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次に、吉川肇子『リスクを考える』(ちくま新書)です。著者は、慶應義塾大学の研究者です。専門は組織進路学とか、社会心理学のマクロの心理学です。本書では、リスクについて、顕在化した際のハザード=ダメージと顕在化する確率の積で定義していて、リスクを評価するとか、評価する際のバイアスとかよりも、むしろ、リスク・コミュニケーションの方に重点を置いています。リスク・コミュニケーションとは、リスクをきちんと伝え、話し合い、共有すること、とインタラクティブな関係で捉えています。専門家や行政からの一方的な発信でなく、情報公開と透明性に基づく開かれた議論によって、初めてリスクは的確に理解され、よりよい社会が可能になる、と指摘しています。

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最後に、倉知淳『ドッペルゲンガーの銃』(文春文庫)です。著者は、私とほぼ同年代のベテランのミステリ作家です。「文豪の蔵」、表題作の「ドッペルゲンガーの銃」、「翼の生えた殺意」の3編からなる短編ミステリ集です。「文豪の蔵」と「翼の生えた殺意」は密室殺人事件、「ドッペルゲンガーの銃」はアリバイ・トリックに分類されると思います。この作者は、何となく、ユーモア・ミステリの印象があるのですが、この短編作品はいずれもガチガチの本格ミステリです。何と申しましょうかで、短編なのですが、3作品とも殺人事件です。キチンと論理的に解決されます。
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2022年08月27日 (土) 09:00:00

今週の読書はポパー『開かれた社会とその敵』だけ?

今週の新刊書の読書感想文は、別途ポストします。

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カール R. ポパー『開かれた社会とその敵』(未来社)を読みました。著者は、ドイツ出身の英国の社会科学者であり、ユダヤ人ですからナチスから逃れて、ニュージーランドに滞在している時に本書を書いています。1945年刊で、邦訳の底本は1950年の改訂版です。上巻=第1部は「プラトンの呪文」、下巻=第2部は「予言の大潮」と題されています。
内容は、よく知られたように、ファシズムと共産主義をいわゆる「左右の全体主義」として批判しています。すなわち、部族的・呪術的でタブーに満ちた「閉じた社会」と批判的な思考を持ち合理性による非暴力的改良を目指す「開かれた社会」とを対置し、上巻=第1部は「プラトンの呪文」においてプラトン、下巻=第2部は「予言の大潮」においてヘーゲルやマルクスに代表される歴史主義的な哲学が「閉じた社会」から「開かれた社会」への移行を阻害する、と主張しています。
専門外である私が読んだ印象では、哲学が時の政権に「阿諛追従」するという意味では、ファシズムにつながった、というのは真実としても、ヘーゲルやマルクスといった歴史主義的な哲学が共産主義につながるというのも、ある意味で、真実ながら、ファシズムと共産主義とを同列で集産主義として捉えるのは間違いだと考えます。共産主義はその前段階の社会主義で集産主義的であることは同意しますが、ファシズムが独裁主義という意味での集産主義であるかどうかが疑問だからです。ただ、この点は自信がありません。
第2に、歴史主義が共産主義につながるのは真実だと思います。しかし、本書が歴史主義を決定的に論破しているとはとても思えません。私は基本的に歴史主義に同意していて、生産力が向上する限り、経済学的な意味での希少性が減じるため、将来的には共産主義に移行します。伝統的な経済学でいうところの定常状態がこれに当たると考えています。ただし、その共産主義に至る前段階で、プロレタリア独裁の下でのマルクス主義的な社会主義が必然かどうかは不明です。

古典的な学術書であり、学術書らしく、注釈が多いです。上巻なんて、本文と同じくらいのページ数が私はそれなりに学術書は読み慣れているので、それほど注意深くではないとしても、注釈はちゃんと読みます。しかし、さすがに、「プラトンの『xx』も参照」くらいの注釈は読み飛ばしました。
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2022年08月20日 (土) 09:00:00

夏休みの今週の読書は小説と新書ばかりで計7冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。経済書はナシで、小説と新書ばかりの計6冊です。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月23冊、8月に入って先々週5冊、先週6冊、今週は7冊ですから、今年に入ってから147冊となりました。年間200冊のペースを超えているかもしれません。なお、新刊書読書ではなく、古典を読む方はカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』第1部プラトンの呪文を読み始めました。

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まず、伊坂幸太郎『ペッパーズ・ゴースト』(朝日新聞出版)です。著者は、私なんぞが紹介する必要のないくらいの売れっ子のミステリ作家です。出版社でも力が入っていて、特集サイトがあったりします。ということで、飛沫感染により他人の明日のことを少しだけ「事前上映」によって見ることが出来るという不思議な能力を持った中学校の国語教師を主人公にしてストーリーが進みます。この特殊能力は父親からの遺伝らしいです。そして、中学校の担任をしているクラスの女子生徒から自作の小説を渡されるのですが、そこではネコを虐待する人達に対する復讐、というか、懲罰を実行する2人組が登場します。実に、劇中劇のようないわゆるメタ構造になっているわけですが、sこはいかにも伊坂幸太郎作品らしく、その女子生徒の小説に登場する2人組が現実化して、というか、何というか、中学校教師の前に実際に現れ、別の男子生徒の父親である内閣情報調査室のエージェントを巻き込んで、大きな事件、自爆テロの被害者のサークルが企てる陰謀を未然に防ぐべく中学教師が奮闘する、というミステリです。さらに、そこに、野球の話が絡んだり、ニーチェの哲学、特に、永遠回帰が大きな役割を果たしたり、テレビのワイドショーの不埒なコメンテータが登場したりと、私ごときの読書感想文の範囲では扱い切れないくらい、とても複雑怪奇ながら、いかにもこの著者らしく、ジェットコースターに乗ったようなスリリングな展開が楽しめます。なお、タイトルとなっている「ペッパーズ・ゴースト」という用語はp.210に解説があり、劇場や映画の手法のひとつで、照明やガラスを使って別の場所の存在をあたかもそこにあるように登場させるものだそうです。女子生徒の小説に登場する2人組のことを指す意味で使われています。ついでながら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られる哲学が随所に登場するのですが、超人とか、永遠回帰とか、いろいろとニーチェ哲学についても、私のような教養の水準が低い読者向けなのか、何なのか、p.256あたりから、登場人物の会話という形で解説がなされています。出版社からして、新聞連載小説だったのかと思わせつつ、我が家で購読していながら記憶になかったのですが、書き下ろしのようです。繰り返しになりますが、ジェットコースターに載っているようなスピーディでスリリングな展開とともに、いろんな伏線がばらまかれて、それが終盤にかけて見事に回収される、という意味で、いかにも伊坂幸太郎らしいエンタメ小説に仕上がっています。私のように、この作者のファンであれば、控えめにいっても、読んでおいて損はないと思います。

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次に、今野敏『探花』(新潮社)です。著者は、これまた、警察ミステリの第一人者であり、日本でももっともポピュラーなミステリ作家の1人です。この作品は「隠蔽捜査」シリーズの第9巻ですが、途中に3.5巻とかがあって、10冊目ではないかと思います。ということで、警察庁のキャリア官僚であり、大森警察署長から前作の最後に神奈川県警の刑事部長に人事異動した竜崎を主人公に、同期入庁で警視庁の刑事部長であり、幼なじみでもある伊丹を配した警察ミステリです。この作品では、横須賀で起きた殺人事件が発端となります。この事件の目撃者が、現場からナイフを持った白人が逃走した、という目撃証言があったことから、米海軍の犯罪捜査局から特別捜査官が派遣されることになります。日経米国人で日本語にも流暢なこの特別捜査官が捜査本部に加わって、県警上層部からは敬遠されながらも着実に捜査が進みます。そこに、まったく別件で竜崎の長男が留学先のポーランドで逮捕連行されたとみられる動画がSNSにアップされ、竜崎は知り合いの外務省の官僚から情報を収集したりします。加えて、竜崎と伊丹の同期入庁のキャリア警察官僚で、同期入庁の中でトップの成績を収めた八島が福岡県警から神奈川県警警備部長に異動してきます。なお、入庁者の間の成績順位をこの作品中ではハンモックナンバーと称されていますが、キャリア公務員を定年退職した私なのですが、初めて聞き及びました。このハンモックナンバーの順で、昔の中国の官吏登用試験である科挙になぞらえて、1番が状元、2番が榜眼、そして、3番が探花であり、竜崎の合格順位を象徴させているようです。そして、ハンモックナンバー1番の八島は、昇進のために同期入庁者を遠慮なく追い落としたり、陥れたりする、という情報を竜崎は伊丹から仕入れるのですが、結局、殺人事件はその八島が一定の役割を果たして解決し、竜崎の倅の動画の件も解明されます。まあ、ハッピーエンドで終わる小説が多いんですから当然です。作品冒頭で波乱を予感させた米海軍との関係は、特段の悶着を生じることなく、平穏無事に捜査は進みます。竜崎と共同戦線を張って八島に仇なそうと考えていたらしい伊丹だけがややフラストレーションを残していたようで、「八島をやっつけようぜ」といって終わります。続巻が楽しみです。

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次に、窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋)です。著者は、いうまでもなく小説家なんですが、この作品は先日の第167回直木賞受賞作品です。短編5話から編まれています。全体として、何らかの喪失感のようなものを持った登場人物が希望をつかむという意味で、とても前向きで肯定的な小説に仕上がっています。本のタイトルから理解できるように、星や星座がモチーフとして各短編に含まれています。ということで、「真夜中のアボカド」では、コロナ禍で世の中が一変した中で、30歳を過ぎた独身女性を主人公に、婚活アプリで出会った恋人との関係、30歳を前に早世した双子の妹の婚約者との交流を通して、人の別離の悲しみを描きつつ、その先にある希望を強く示唆しています。「銀紙色のアンタレス」では、男子高校生の主人公が夏休みに海から近い祖母の家に泊まりに来て、小さな赤ちゃんを抱いていた女の人が気になり強い関心を持ちます。他方で、高校は違うものの幼なじみの女子高校生が泊まりに来る、という、何だか三角関係のような高校生のほのかな恋心を暖かく描いています。「真珠星スピカ」では、交通事故で他界した母親が幽霊となって主人公の女子中学生の家に戻ってきて、無言のまま同居します。主人公は目がつり上がっていて狐女と呼ばれていじめにあいますが、霊感鋭い同級生から霊が憑いていることを見抜かれたり、学校で流行しているこっくりさんのお告げなどにより、クラスの同級生の態度が変わっていきます。「湿りの海」では、中年男性が主人公で、妻が別の男に恋して娘を連れて米国アリゾナに行ってしまったのですが、隣室に娘と同じくらいの年齢の女の子を連れたシングルマザーが引越してきて、日曜日はその母子といっしょに公園で遊んだりするようになります。このあたりの距離感の設定、というか、描写はとても感じがいいものでした。最後の「星の随に」では、小学生男子の主人公に継母、というか、新しいお母さんが来て、しかも、年の離れた弟まで出来ます。そして、学習塾からの帰りに部屋から閉め出されてしまいますが、同じマンションで絵を描くおばあさんが夕方から面倒を見てくれることになります。5編の短編のうち、3編が小学生、中学生、高校生で、それぞれの年代を代表するような意識や行動を見せます。それがかなり自然なものに私は受け取りました。まあ、私の子供のころ程は無邪気ではなく、意識が高く、情報も豊富なのだろうという気はします。それほど、単純なハッピーエンドではありませんが、たとえ誤解に基づく結論であっても、前向きな姿勢を感じ取れる作品でした。

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次に、佐野広実『誰かがこの町で』(講談社)です。著者は、江戸川乱歩賞受賞のミステリ作家であり、本書は江戸川乱歩賞受賞後の第1作です。ギリギリ東京通勤圏にあり、それなりの高級住宅街を舞台に、強力な忖度と同調圧力の下で、あからさまな違和感ある住民行動が見られるようになり、明白な犯罪行為がまかり通るようになった街における殺人事件を明らかにするミステリです。首都圏にある弁護士事務所に若い女性がやって来て、孤児で自分の出自を知りたく、事務所の主である女性弁護士の大学時代の友人の娘ではないか、と依頼します。小説の主人公となるのは、この弁護士事務所の調査員で、この事件と人生がシンクロしたりします。そして、依頼者の若い女性と主人公の調査員が事件の舞台となった町に乗り込んで現地調査を始めます。住宅地化される前からの、まあ、いわば土着の住民の協力を得つつ、弁護士の大学時代の友人であり、依頼者の両親かもしれない一家が、この新興住宅地でどのような事件に巻き込まれたかが徐々に明らかになります。その背景として、その町の異常性が浮き彫りにされます。町の住民はすべて品行方正で正しく、何らかの不都合はすべて町の外の侵入者の仕業であるとか、逆に、町の運営に非協力的な家族は追い出しかねないとか、現在の首都圏では潜在的には可能性は否定しないまでも、とても考えられないような町と住民の姿勢が恐ろしく感じられます。ミステリとしては、初めから真相がほのかに明らかにされている上に、タマネギの皮を剥くように徐々に真実が明らかにされるタイプのミステリであり、私が好きな展開なのですが、町と住民のありようがとても異常過ぎて、リアリティに欠ける印象を持ちました。ただ、ここまでではなくても、一部とはいえ、こういった雰囲気を持つ町はあるのではないか、という気もします。

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次に、嶋田博子『職業としての官僚』(岩波新書)です。著者は、人事院出身で、現在は京都大学の研究者です。私の知る限り、経済学や心理学にはミクロとマクロの2つのアプローチがあるのですが、大雑把に、本書でも統計から公務員制度を把握するマクロの観点と個別のインタビューによるミクロの公務員像を提供しようと試みています。ただ、私から見れば、少なくともミクロの公務員像の提供には失敗しています。すなわち、かなりの高位高官しかインタビューの対象にしていないからです。ですから、上司から部下を見た公務員像しかなくて、「私の若いころに比べて」といったお話に終止している気がします。私が公務員に就職した1980年代前半は、まだ週休2日制ではなく、私が記憶する限り、土曜日がお休みになったのは1991年からですし、中曽根内閣の時には人事院勧告が凍結されたりもしました。本書でも、p.65で労働三権の制限は公務労働者として一定の合理性を認めていますし、私もそう思うのですが、その労働権制限の代償措置としての人事院勧告が無視されるのは由々しきことだろうと思います。ただ、キャリアの公務員の場合、お給料を考える場合は大学時代の同窓生と比較になりますので、まあ、東大や京大の卒業生と比べるわけですので、もう少し欲しい気もしました。よく、教員給与が国民平均よりも高いのは大卒だから、という理由が上げられますし、キャリア公務員も同じかもしれません。最後に、本書を読む限り、公務員の実像はかなりアッサリとしか取り上げられておらず、少し物足りない気もします。

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次に、杉田弘毅『国際報道を問いなおす』(ちくま新書)です。著者は、共同通信のジャーナリストです。タイトルは国際報道ということで、海外情報一般へのアクセスを対象にしているように見えますが、エコノミストから見て経済情報は本書ではまったく無視されている気がします。でも、戦争や政治・外交などに着目した本書も十分迫力あります。私の知り合いはジャーナリストはエッセンシャルワーカーであり、リモート勤務では正しい報道は出来ない、という意見を持つ人もいて、本書でも同じ姿勢が示されている気がします。参考になったのは、第3章の米国のジャーナリスト対応です。親米的なジャーナリスト、というか、ジャーナリストに限らず文化人などで影響力ある人物に対する米国のアプローチは秀逸だという気がします。加えて、現在の日本でも問題になっているように、広告代理店と行政、あるいは、報道との関係についても考えさせられるものがありました。最後に、いつものテーマで権力との距離感についても、回答のない問かもしれませんが、ウォーターゲート事件に対する考え方などから、ジャーナリストとしての著者の矜持を見ることが出来た気がします。情報を持っている権力に近づいて情報を得るジャーナリストは、他方で、権力への忖度だけでなく、権力との同化まで起こす可能性があります。権力との一定の距離を保ち、緊張感ある報道が望まれます。

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次に、塚崎公義『大学の常識は、世間の非常識』(祥伝社新書)です。著者は、興銀勤務から大学の研究者に転じたエコノミストです。私も似たような職歴なのですが、経済系の場合、こういった実務経験教員が他の学問分野よりも多そうな気もします。私もそうです。私の場合はいかにも日本的な地方大学で、まったく国際化が進んでいないにもかかわらず、何故か外国人留学生をいっぱい受け入れてしまったため、留学大学院生ばっかり対応させられています。2年半で3人の外国人留学生の修士論文指導をしましたので、そろそろ解放されたいと思っています。そういった特殊技能がなければ、例えば、本書の著者の場合、地方大学で楽しく過ごすのは難しいかもしれません。すなわち、東大卒で興銀に入って、絵に書いたようなエリートコースに乗っていたと自負していたのでしょうが、九州の地方圏の大学に赴任して論文執筆で評価される中、その論文を書けず、博士号も持っていないとなれば、大学教員カーストでは下位に甘んじなければならず、大きなルサンチマンを感じていたのであろうと想像します。それが行間ににじみ出ています。私は年1本なりとも、査読なしの紀要論文なりとも、学術論文を書くようにしていますが、くだけた一般向け書籍は書けても、作法に則った論文は書けない人は多かろうと思います。それはそれで、訓練なのですが、本書の著者におかれましては、あまりにプライドが高くて、そういった作法を身につけるという観点がなく、独自の価値観のままに日々を過ごしたのではなかろうかという気がします。論文の作法という点では茶道と同じです。別にノドの乾きをいやすのであれば、七面倒な作法は必要ないのですが、それでもお作法を重視しなければならないケースはあります。それに対する理解がなく、ヘンにプライドばかりが高いと、本書の著者のような目に遭うハメに陥るんだと思います。私のような出世からほど遠かった公務員が、定年退職後に生まれ故郷に戻るのであればともかく、わざわざ地方大学に転職してヤな思いをするくらいなら、東京でエリート銀行員をしていた方がいいのに、と思ってしまいました。
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2022年08月13日 (土) 09:30:00

今週の読書は行動科学の心理学書をはじめとして計6冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、厳密には経済書はなしで計6冊です。ただし、最初の2冊上下巻は心理学的な観点から書かれているのですが、経済心理学や行動科学も含めた意味では経済書ともみなせるかもしれません。
まず、そのスティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)は、合理性の観点からフェイクミュースやポスト真実についての見方が参考になります。続いて、あさのあつこ『舞風のごとく』(文藝春秋)は、小舞藩シリーズの第3作であり、城下の大火の後始末から重大な真相が突き止められます。続いて、文藝春秋[編]『秋篠宮家と小室家』(文春新書)は、昨秋にご結婚されニューヨークに移られたご夫妻に関する『文藝春秋』や『週刊文春』の記事を編集しています。最後に、ジェフリー・ディーヴァー『フルスロットル』と『死亡告示』(文春文庫)は、2014年の英語版では1冊の短編集を邦訳の際に2冊に分割していて、この作者のリンカーン・ライムやキャサリン・ダンスといった有名なシリーズを含む短編集です。
なお、今週の6冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えているのではないか、と思います。Facebookのアカウントが回復すれば、また、シェアしたいのですが、そうすると、またまたアカウントを止められるかもしれません。悩ましいところです。

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まず、スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)です。著者は、米国ハーバード大学の心理学者であり、おそらく、私が知る限り、世界でももっとも影響力の強い心理学者の1人です。英語の原題は Rationality であり、2021年の出版です。ということで、私が興味をもつのは、ここ数週間で何冊か読みましたが、経済学的な合理的選択に関する考え方を明らかにするためです。著者は、合理性とは何かについての定義を下巻第6章p.16から7つの公理として上げています。第1に共約可能性、と称していますが、要するに完備性です。選好に関して、A>B、A<B、あるいは、AとBは無差別のいずれかが成り立つわけです。第2に推移率です。A>B、B>CならばA>Cなわけです。そして、いつも指摘しているように、マイクロな個人の合理的選択であれば、この推移率は成り立つのですが、社会的には推移率は成り立ちません。じゃんけんのグー、チョキ、パーのように3すくみ、4すくみ、あるいは、もっと、になってしまうわけです。第3に閉包、すなわち、選択の確率と余事象の確率が明らかとなる必要があります。第4に連結、すなわち、入れ子の確率となる可能性です。本書では、一定の確率で当たる宝くじの商品が、また一定の確率で当たる宝くじのようなもの、と表現しています。第5に独立性であり、これは明らかです。第6に一貫性で、少し難しいのですが、上巻で登場するリンダの職業のようなものです。すなわち、AとBの選択の際に、A>Bの選好であれば、100%確実にBを得ることよりも、Aを手に入れる1%とBになる確率99%であれば、後者の選択の方が選好される、ということです。最後の第7は交換可能性です。選好の順がA>B>Cである時、100%確実に中間選択のBを得られるケースに対して、AになるかCになるかが確率的に与えられた際に、100%確実のBと同じ効用水準のAとCの得られる確率の組合せが存在する、ということです。そして、独立性の公理を緩めたトベルスキー=カーネマンノプロスぺクト理論などが紹介されたりするわけです。大雑把に、上巻では合理性にマイナスとなるバイアスを説明し、特に、上巻から下巻にかけての第3章から第9章で合理性を発揮させるためのツール、相関関係と因果関係などを取り上げ、第10章から結論について言及しています。特に、第5章のベイズ推論の解説はとても判りやすくオススメです。結論としては、結論として合理性や何かの進歩により人類のwell-beingが向上したわけではない、としていて、合理性についての客観的な見方を示しています。また、本書がとても現代的だと私が感じたのは、フェイクニュースやポスト・トゥルース、というか、本書では「ポスト真実」と訳していますが、こういったものについて、メルシエの直感的 intuitive 信念と反省的 reflective 信念の分類、あるいは、ロバート・アベルソンらの説を援用した検証可能な信念 testable belief 遠い信念 distal berief などから「神話ゾーン」と「現実ゾーン」を考えている点です。オカルト、都市伝説なども含めて、フェイクニュースやポスト・トゥルースは「神話ゾーン」にあるのであって、そうでない合理的な思考の結果たどり着く結論、私がしばしば「健全な常識」と呼ぶものを「現実ゾーン」に置いて分類します。2016年の米国大統領選挙の際に、ヒラリー・クリントン上院議員がピザ店を拠点に児童売春をしている、というフェイクニュースは大いに流布されましたが、実際に銃器を持って当該のピザ店に児童の救出に向かったのは1人だけで、警察に届けた人は皆無だった、といった根拠などから、コノフェイクニュース、なのか、何なのか、はほぼほぼすべての米国民が「神話ゾーン」に置いて、日本語的には「眉につばして」聞いていたのだろうということです。都市伝説やオカルトについてはエンタメとして楽しむ向きが少なくない一方で、こういったフェイクニュースやポスト・トゥルースをエンターテインメントとしてのみ受け取っていたわけではないと想像しますが、それでも、エンタメではないとしても、遠いところにあって自分には関係ない情報として処理していたのかもしれません。それが、合理的な情報処理なのだろうという気はします。強くします。

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次に、あさのあつこ『舞風のごとく』(文藝春秋)です。著者は、小説家であり、「バッテリー」の青春小説のシリーズが有名ではないかと思います。この作者の作品の中では、私はどちらかというと時代小説をよく読んでいて、弥勒の月シリーズや小舞藩シリーズなどです。この作品は『火群のごとく』、『飛雲のごとく』に続く小舞藩シリーズの3冊目に当たります。シリーズの最初は元服前の12歳の少年だった新里林弥が、山坂半四郎とともに、前作では筆頭家樫井家の後嗣である透馬の側近として取り立てられるところで終わりました。この作品では、小舞藩における大火から始まります。新里林弥は前作で元服し、烏帽子親である元大目付の小和田から名をもらい、この作品では新里正近と名乗っています。妻を娶ったものの、この作品ではすでに離縁した後、という設定です。繰り返しになりますが、主人公の新里正近は山坂半四郎とともに筆頭家老家の後嗣の樫井透馬の側近であり、大火の後始末の領民救済に対して藩の執政の動きが鈍い点に立腹するとともに、理由を探ります。同時に、新里正近の兄嫁であった七緒は、新里家当主の結の丞の死後に落飾して尼寺である清照寺に入って恵心尼として、大火で焼け出された人の世話をしています。恵心尼の生家の姪に当たる千代も清照寺で罹災者の救済に当たっています。そして、この大火の原因が付け火=放火である疑いが持ち上がり、新里正近と樫井透馬らは調査を行います。小和田正近が隠居して遠雲に名を変えた元大目付を訪問して町方から情報を収集したり、派閥争いの敵方の生き残りの中老と接触したり、そして、最後には重大な事実を突き止めます。藩の執政の動きが鈍かった原因も明らかにされます。

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次に、文藝春秋[編]『秋篠宮家と小室家』(文春新書)です。タイトルからして、秋篠宮家のご長女であった眞子さまと小室圭さんのご結婚にまつわるトピックと理解できますが、まさにその通りであり、月刊誌の『文藝春秋』や『週刊文春』に掲載された記事や対談などを収録しています。初期にはご結婚に前向きで、結婚とは両性の合意によってのみ成り立つと規定している憲法に則った判断であった秋篠宮と宮妃両殿下の考えが、いわゆる「400万円の借金」なる小室家の金銭問題や国民の見方、あるいは、ご結婚相手の小室圭さんの経済力、はたまた、皇統の行方などに影響を受けたのか、また、何らかの疑問を感じたのか、徐々に反対に傾くとともに、妹宮の佳子さまが一貫して強く姉宮の眞子さまを支持していた点が明らかになっています。特に、姉妹宮の眞子さまや佳子さまが皇族からの離脱が結婚に基づく降嫁よって可能である、とお考え点などにつき、とても興味深く読みました。最後の章には「日本の女性には結婚以外の"飛び道具"がないから。」という言葉にも、やや悲しいものを感じてしまいました。でも、実は、私自身としては民主国家に王族はそれほど必要ではない、と考えています。左派リベラルの中でもかなり極左に近い考えかもしれませんが、然るべき段階で天皇は退位し、宮家は廃止するのも一案、そして、その天皇家や宮家の動向については国民の意見により判断する、ということです。さすがに、国外追放やましてや死刑、なんて極論は持っていません。あくまで国民の判断、ということですから、国民の支持に基づいて天皇制は存続、という結果もアリだと思います。ただ、こういった宮家のゴタゴタを見ると、あるいは、本書のスコープの外ながら、英国王室のサセックス公爵ヘンリー王子ご夫妻なんかの動向を見るにつけ、やっぱり、王族なんて民主主義国家には必要ないんではないか、という気にさせられることも確かです。ただ、私なんぞの支持ではなく、もちろん、天皇皇后両陛下や上皇上皇后をはじめとするその他の天皇のご家族や宮家の方々の意思や意見などではさらさらなく、国民の支持が天皇家の唯一の存続理由である点は、何度でも強調しておきたいと思います。

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最後に、ジェフリー・ディーヴァー『フルスロットル』『死亡告示』(文春文庫)です。著者は、米国のミステリ作家であり、現時点で世界でもっとも売れているミステリ作家の1人だと思います。2冊とも短編集なのですが、どうして、この2冊をいっしょにしたかといえば、もともと英語の原書は1冊だからです。原題は Trouble in Mind であり、2014年の出版です。ということで、この作者の短編集で邦訳され出版されているのは、前作の『クリスマス・プレゼント』と『ポーカー・ゲーム』であり、私はどちらも読んでいたりしますが、いずれも文春文庫から出ていて、英語の原題が TwistedMore Twisted であり、まさに、この著者のミステリの特徴である「どんでん返し」を大きな特徴としていました。逆に、この『フルスロットル』と『死亡告示』はそれほどのどんでん返しはありません。まったくないわけではないのですが、大きな特徴ではない、というわけです。収録作品は、『フルスロットル』では、キャサリン・ダンスの登場するタイトル編「フルスロットル」、「ゲーム」、「バンプ」、リンカーン・ライムの「教科書どおりの犯罪」、ジョン・ペラムの「パラダイス」、そして、「30秒」であり、『死亡告示』では、「プロット」、「カウンセラー」、「兵器」、「和解」、ライムの登場するタイトル作の「死亡告示」、そして、「永遠」です。ややネタバレ気味なのですが、収録短編のうちでタイトル作品としている「フルスロットル」と「死亡告示」はいずれも犯人に対する反則気味の騙しを含んでいます。私の感想としては、『フルスロットル』ではリンカーン・ライムの「教科書どおりの犯罪」が面白かったです。ライムが書いた犯罪捜査の教科書をなぞるような事件をライム自身が解決に導きます。『死亡告示』では最後の「永遠」を評価します。文庫本ながら200ページをラクに超える長さであり、もはや長編ミステリとしても通用するくらいです。数学オタクの刑事とクマのような大男の刑事のデコボコ刑事コンビがありえないような確率で発生する心中事件を殺人として立件します。ほかにも、ややオカルト的な、というか、ホラーのような要素を含んだミステリもあり、評価は分かれるところですが、私のようにこの作者のミステリのファンであれば、控えめにいっても、読んでおいてソンはないと思います。
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2022年08月06日 (土) 09:00:00

今週の読書は芥川賞作品をはじめとしていろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)は、財政危機の折にギリシアの財務大臣をしていたエコノミストによる経済を題材にしたSF小説です。続いて、鳥谷敬『明日、野球やめます』(集英社)は長らく阪神タイガースの遊撃手として活躍し、2000本安打を達成した名選手による自伝的なエッセイです。高瀬準子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)は第167回芥川賞を受賞した純文学であり、著者は私の勤務大学の文学部OGです。川上未映子『春のこわいもの』(新潮社)も芥川賞作家による短編集です。最後に、松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱ふたたび』(新潮文庫)は東京ディズニー・リゾートの舞台裏での人間関係を題材にしたエンタメ小説です。「ふたたび」なしの方も私は読んだ記憶があります。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えています。

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まず、ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)です。著者は、ギリシア出身のエコノミストであり、特に、2015年にはギリシャ債務危機のさなかにチプラス政権の財務大臣に就任し、緊縮財政策を迫るEUに対して大幅な債務減免を主張し注目を集めています。その際のノンフィクションが『黒い匣』であり、私は2019年4月にご寄贈いただいて読んで、このブログに読書感想文をポストしています。また、『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』と『わたしたちを救う経済学』についても読んでいます。ということで、本書は、正しくいえば経済書ではなくSF小説です。すなわち、2008年のリーマン・ショックで世界が分岐し、その分岐先のパラレル・ワールドである「公平で正しい民主主義」が実現した2025年にいるもう1人の自分と遭遇するところから始まります。主要な登場人物は、コチラ側では3人、アチラ側との接点を見出していしまうエンジニアの男性、急進左派の女性、そして、リバタリアンの女性エコノミスト、となります。コチラ側では、最後の女性の子供が登場したりします。また、リーマン・ショックで分岐したアチラ側には、コチラ側の人物と同じDNAをもっていて対応する人物がいるようです。要するに、分岐した後のアチラ側の経済社会では、旧ソ連時代のようなモノバンク、すなわち、商業銀行が機能していなくて、すべての金融取引が中央銀行によってなされます。中央銀行により一律のベーシックインカムが支給されます。そして、株式会社はあるのですが、株式市場はなく、社員が1人1株1票を持ちます。データ取引規制により巨大テック企業GAFAは消滅しています。仕事は、株式会社の中でなされますが、ピラミッド型の組織ではなくタスクに応じて適切な仕事相手とチームを組んで基本給は社員全員が同額を支給されます。しかもこういった大きな変革が暴力的な革命を景気としているわけではなく、とても民主的な方法で改革がなされています。しかも、この社会は市場で資源配分を行っていて、決して中央司令経済ではない、という意味で資本主義社会といえます。日本のように特定のカルト教団が選挙で票の割振りをするような社会では実現可能性はとても低いと思いますが、あるいは、社会主義ならざる次の資本主義、どこかの国の総理がいうような「新しい資本主義」として可能性はゼロではないかもしれません。ただし、私が最後に強調したいのは、民主主義の下であっても大きな社会経済変革のためには、過半数の賛同を得る必要は必ずしもないという点です。よく「3.5%ルール」といわれるものです。以下の米国ハーバード大学の論文やBBCやEconomist誌の報道をご参考まで。最後の最後に繰り返しますが、あくまでSF的な経済小説です。



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次に、鳥谷敬『明日、野球やめます』(集英社)です。著者は、我が国野球界でも最高の遊撃手の1人として早稲田大学や阪神タイガースなどで活躍し、昨年のシーズンオフにロッテを最後に引退した野球選手です。私は2016年3月に前著の『キャプテンシー』(角川新書)を読んでこのブログに読書感想文をポストしています。ということで、阪神からロッテに移籍した際の経緯から始まって、プロ野球の世界での活動を振り返り、さらに、家庭や個人的な活動についても触れています。私がもっとも印象に残っているのは、ほかの多くの野球ファンと同じで、WBC台湾戦の9回の「鳥谷の二盗」でしょう。今でも、動画サイトのどこかに残っているような気がします。阪神の遊撃手としては、牛若丸と称された吉田義男が有名なのですが、私とは世代が違って、阪神のショートといえば鳥谷敬でした。しかし、私個人としては、阪神の選手としてもっとも好きだったのは、何といっても、江夏豊です。次は、掛布雅之ですかね。本書に戻って、鳥谷敬の場合はメジャーとの契約がものにならず、結局、阪神に残留する歳の契約もおかしなものになって、高学年俸のために阪神でのプレーを継続することが出来なくなったという悲劇があります。そのあたりは、さすがに露骨には取り上げられていませんが、行間を読むに忍びないものがあります。監督をはじめとする首脳陣や球団フロントに対しては、阪神タイガースとはゴタゴタのある球団ですから、私は鳥谷敬に同情的です。プロ野球選手であるからには、試合に出られなければ評価されないという、鳥谷哲学のような言葉が何回か繰り返されています。私はまったく違う世界に住んでいるのですが、阪神ファンとして深く理解を示したいと思います。

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次に、高瀬準子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)です。著者は、本作品で第167回芥川賞を受賞しています。私の勤務大学の文学部のご出身なもので、生協で買い求めようとしたのですが、ずっと売切れ状態が続いていて、カミさんに近くの本屋で買ってもらいました。私に続いて、カミさんも本書を読んでいるのではないかと思います。京都ジャンクション(JCT)という文芸グループのご出身らしいのですが、我が母校の京都大学ミス研より少し知名度が落ちるかもしれません。まあ、知っているのは本学関係者くらいのような気がします。本書は150ページほどで短編でも長編でもなく、まあ、中編といったところです。小説の舞台は東京近郊の大手企業の支店であり、冒頭で支店長が社員を連れてランチに出かけるなど、タイトルから容易に想像される通り、ものを食べるシーンがいっぱいあります。ストーリーは主人公の男女2人の視点で進められます。職場でソツなく働きながらも食には大きなこだわりなくカップ麺を常食している男性の二谷、そして、その2期後輩で仕事への熱意も能力も十分な女性の押尾の2人に加えて、この2人の中間、すなわち、二谷の1期後輩で押尾の1期先輩の芦川という女性がジョーカーの役割を果たし、支店次長の藤とパートの女性を合わせて主要な登場人物は5人です。二谷のマンションに週末いりびたっていた芦川が、結構な頻度でお菓子を作って職場で配り始めるところから、ビミョーな雰囲気が出て物語が本格的に始まります。日本のサラリーマンらしく、職場での同調圧力が強い中で、二谷と押尾がホンネを隠しつつこのお菓子の配布にアクションを起こします。お仕事のお話はあまり出てこないのですが、もちろん、仕事からもストレスあるでしょうし、仕事以外でも職場でのいわゆる人間関係などからストレスが大いに感じられます。そして、そのストレスからやや切ない行動に走る主人公2人、なわけです。特に、二谷の行動については嫌悪感を示す読者がいそうな一方で、私と同じく深く理解する読者もいそうな気がします。

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次に、川上未映子『春のこわいもの』(新潮社)です。著者は、私がもっとも期待する純文学作家の1人であり、当然に芥川賞受賞作家です。本作品は長さがまったく異なる短編6作品を収録しています。タイトルだけを羅列すると、「青かける青」、「あなたの鼻がもう少し高ければ」、「花瓶」、「淋しくなったら電話をかけて」、「ブルー。インク」、「娘について」となります。私が読んだ限りでは、ongoingで継続しているものの、2020年春から始まった新型コロナウィルス感染症(COVI D-19)のパンデミックが春のこわいもの、という気がします。そして、そのパンデミックとともに東京から関西に引越した我が身としては、東京を思い起こさせる作品が「あなたの鼻がもう少し高ければ」と「娘について」です。「あなたの鼻がもう少し高ければ」はクレオパトラに関するパスカルの名言 "Le nez de Cléopâtre: s'il eût été plus court, toute la face de la terre aurait été changée." を基にしていますが、ありふれた容貌の女性が東京ではレストランのウェイトレスにも凄い美人がいる点を強調しますし、「娘について」は東京で共同生活を送っていた高校の同級生2人が主たる登場人物で、高卒で母子家庭に育った主人公が作家になった一方で、地方の素封家の家で育った友人が舞台女優になれずに帰郷する、というストーリーです。主人公の女性が友人の母親と交わす電話での会話が印象的です。この作品が最も長くて、それなりの力作だと思いますが、私は本書の中ではもっともいい出来だと考えているのは、実に淡々と筆を進めている「淋しくなったら電話をかけて」だったりします。周囲の状況を観察しつつ、あるいは、評価しつつ、「あなたは」という書き方で読者に対して語りかけています。この作品だけでなく、ほかの短編でもSNSがしきりと登場しますが、この「淋しくなったら電話をかけて」ではタイトルになっていたりします。ラストの唐突感が何ともいえずに印象的です。

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最後に、松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱ふたたび』(新潮文庫)です。著者は、私も好きなエンタメ作家で、「万能鑑定士Q」のシリーズなんかも読んだことがあります。本書のタイトルにあるように「ふたたび」ですので、「ふたたび」なしの前編が十数年前に出版されています。私も読んでいます。本書もディズニー・リゾート、というか、ディズニー・シーの方ではなくディズニー・ランドの方ですが、社員と準社員=アルバイト、さらに、準社員の中での「カースト」的なランクなどにも配慮して、そうでありながらも、夢を追うストーリーに仕上がっています。「ふたたび」なしの前編で主人公であった後藤少年が社員としてご夫人とともに登場して、両作品のつながりも示されています。前作ではミッキー・マウスのスーツが紛失し発見され回収されるところがクライマックスだったのですが、本作では高校を卒業したばかりの19歳の少女が主人公となります。ディズニー・ランドに準社員=アルバイトとして採用されるも、カストーディアルキャスト=掃除スタッフとして働きつつ、アンバサダーを目指す、という前作と同様の青春小説です。最後は『車輪の下』ほどではないにしても夢がかなわない終わり方をするのですが、前作と比較して、主人公のキャラの造形が弱い気がします。主人公の他には、シニアスタッフの年配男性とディズニー・ランド内のカラスの駆除に猟友会が関係しているとの陰謀論を追求する男性の同僚の2人が主たる登場人物なのですが、この2人のキャラがそれなりに強烈なだけに、逆に、主人公のキャラが弱い気がします。前作と同じで、ディズニー・リゾートのバックステージは謎に包まれていて、どこまでが取材した事実に基づくのか、それとも、完全にフィクションなのか、私には何とも判断がつきかねますが、それなりに納得する部分も少なくありません。そのあたりも読ませどころかもしれません。
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2022年07月30日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済学の学術書をはじめとして計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月に入ってから先週までに19冊、今週の4冊と合わせて7月は23冊ですから、今年に入ってから129冊となりました。年間200冊のペースを少し超えています。また、新刊書ならざる読書もしているのですが、Facebookのアカウントが不明な理由で停止されていてシェアできません。

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まず、ロバート・スキデルスキー『経済学のどこが問題なのか』(名古屋大学出版会)です。著者は、ケインズ研究、特に全3巻の『ケインズ伝』で有名なエコノミストであり、もう80歳を超えているハズですが、ウォリック大学の研究者です。英語の原題は What's Wrong with Economics? であり、2020年の出版です。なお、出版社から考えても明らかに学術書であり、一般ビジネス・パーソンを読者に想定しているわけではないような気がします。ということで、序文にもある通り、1980年前後における新自由主義=ネオリベの経済政策の導入、すなわち、英国のサッチャー内閣や米国のレーガン政権のあたりからの不平等の拡大を経て、日本ではリーマン・ショックと呼ばれている金融危機までの約30年間をあとづけています。そして、その間の主流派経済学はネオリベの「共犯者」とされています。私もそう思います。そして、主流派経済学、主として、新古典派経済学がケインズ的なマクロ経済学のミクロ的基礎づけを試みようとする動きを完全に否定しています。このミクロ的基礎づけというのは、合理的な経済人=ホモ・エコノミカスによる合理的な選択という観点からあらゆる経済的帰結、すなわち、マクロ経済学的な景気循環まで含めた経済的帰結を説明しようと試みるものです。ですから、本書の例でいえば、景気の悪化による失業の発生というマクロ経済現象について、賃金低下に応じて各個人がミクロ的に労働時間を短縮しようとする合理的判断の集計量である、というようなものであって、まったく馬鹿げた試みであることは、私も強く同意します。その上で、昨今のビッグデータ、もっと昔には経済計算論争のようなものを持ち出して、十分なデータと計算能力があれば経済学は自然科学、あるいは、ハードサイエンスになることができる、という考えにも本書は疑問を呈します。ひとつはケインズ的なアニマル・スピリットや期待などのマインドが経済に果たす役割を強調しつつ、もうひとつはツベルスキー=カーネマンのような経済心理学などの知見から、人間の合理性が限定的であることも指摘しています。ただ、私はいくつか付け加えるべき点があるように感じています。第1に、先々週に取り上げた清水和巳『経済学と合理性』でも同様にマクロ経済学のミクロ的基礎づけを目指していて、私が疑問視した重要なポイントのひとつとして、社会的な推移率が成り立たない点を忘れるべきではありません。完備性と推移律と独立性と決定性が合理性の条件であるとされる場合が多いのですが、個人の選好であればまだしも、社会的には推移率は成り立ちません。大学の授業なんかでは、教育的見地から推移率を前提する場合がありますが、それは例外です。もうひとつは合成の誤謬です。みんなで貯蓄を増やそうとして貯蓄率を上げれば、貯蓄総額は減少してしまうわけです。そして、これは私だけのやや特殊な主張かもしれませんが、ハードサイエンスでも経済学でもモデルを分析対象とすることは同じである一方で、物理学などの自然科学の場合、モデルで説明できない観察結果が得られるとモデルの方を修正しようとするのに対して、経済学では厚生経済学に従って現実の経済社会の方を政策的にモデルに近づけようとする試みが可能であり、ネオリベ的な政策はまさにそれをやろうとしています。この3点が本書に付け加えられるべき点だと私は考えます。

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次に、エリオット・ヒギンズ『ベリングキャット』(筑摩書房)です。著者は英国出身であり、オープンソース調査集団「ベリングキャット」の創設者です。「ベリングキャット」とはその名のごとく、ネコに鈴をつけるという意味であり、この場合のネコとは国家ないし政府と考えて差し支えないのですが、ただ、自国というよりはほぼほぼロシアに限定されているような気がします。英語の原題は we are bellingcat であり、2021年の出版です。ということで、お話はロシア軍情報局の大佐であり、英国の二重スパイであった人物が家族とともに毒殺されかけた時点から始まり、より人口に膾炙したナワリヌイ氏、ロシアのプーチン大統領の政敵であったナワリヌイ氏の放射性毒物による暗殺未遂に進みます。そして、そのロシアの公然たる支援を受けたシリア国軍の内戦などにも事実関係の調査の手が伸びます。ということで、冒頭に書いたようにオープンソース、すなわち、ネット上にある何らかのソースを基にした調査活動により、ロシア政府のフェイクを暴く、という活動を詳しく紹介しています。内線やテロに関して兵器の特定などを多く取り上げていて、私の専門外ですので理解ははかどりませんでしたが、ロシア政府が虚偽情報を流している事実をオープンソースにより明らかにする活動のようです。ということで、広く認識されているように、いわゆる旧来型のジャーナリズム、新聞とか放送メディアの取材についてはオープンソースではありません。逆に、ニュースソースの秘匿が許されますし、場合によっては、秘匿されるべきケースも少なくないのではないか、と私なんかは想像しています。ですから、ニュースソースについての扱いは真逆なわけです。ですから、ニュースソースがオープンであることに関して私なんかが懸念するのは、第1に、ニュース提供者の安全です。ただし、この点については、提供者が自主的な判断によってネットに情報をポストしているわけですので、自己責任と考えるべきかもしれません。そして、第2に、もっと懸念が強いのは、ニュース提供者がこういった団体などのニュースソースになることを承知の上でフェイクを流すことです。当然ながら、ネット上にソースがあるという事実は、その情報が真実であることを保証しません。ソースを秘匿しようと、オープンであろうと、その情報が真実であるかどうかはジャーナリストの側の責任で保証せねばならない、と私は考えています。国民一般がメディアの情報を正確であると考えるのは、特に、ニュースソースを秘匿された情報を正確であると受け止めるのは、特定の新聞社や特定の放送局を信頼しているからであって、ニュースソースを信頼しているからではありません。ですから、べリングキャットのようなグループの情報については、情報を提供するべリングキャットに対する信頼に加えて、ソースの信頼性についても情報の受け手の側で一定のリテラシーを磨いておく必要があるのではないかと私は思います。個別具体的にべリングキャットが掘り起こした情報に関する興味は、私自身はそれほど持ち合わせませんでしたが、現在の情報あふれるネット社会での信頼性の置き方を深く考えさせられました。その意味で、とても面白い読書でした。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『魔の山』(文藝春秋)です。著者は、世界で最も人気あるミステリ作家の1人だと思います。私はこの著者の作品の中では、ニューヨークを舞台にしたリンカーン・ライムのシリーズがもっとも好きなのですが、カリフォルニアの事件に取り組むキャサリン・ダンスのシリーズも見逃せません。本書はコルター・ショウを主人公とするシリーズであり、『ネヴァー・ゲーム』に続く第2弾で、すでに、第3弾の『ファイナル・ツイスト』の邦訳が出版されています。そして、この第3話で完結らしいと聞き及んでいます。この作者の作品は結構なハードボイルドなんですが、このコルター・ショウを主人公とするシリーズは特にハードボイルドの色彩月容器がします。タフガイです。なお、『ネヴァー・ゲーム』は昨年2021年1月末に読書感想文をこのブログにポストしています。英語の原題は The Goodby Man であり、2020年の出版です。邦訳は昨年2022年9月に出ていますので、まあ、1年以内ですので新刊書読書と考えています。ということで、本書ではコルター・ショウがカルト教団オシリスに潜入します。実に、安倍元総理の暗殺事件の後に、旧統一協会として知られる世界平和統一家庭連合のカルト振りが広く報じられるようになりましたが、本書でもカルト教団を取り上げています。本書の主人公のコルター・ショウは、同じ作者の作り出したリンカーン・ライムやキャサリン・ダンスと同じでスーパーマンなのですが、同時にサバイバル術に長けたタフガイでもあります。というか、そのタフガイ振りがスーパーマンであるわけです。ただ、本書についてはカルト教団潜入の動機がかなり弱いと言わざるを得ません。主人公であるコルター・ショウは懸賞金ハンターであり、もちろん、私立探偵のような働きもするのですが、何の懸賞金もかかっていない、もっといえば、何の稼ぎにもならないカルト教団への潜入を実行するいわれがないような気がします。でも、それはいっても仕方ないので、まあ、タフガイの主人公がカルト教団に潜入するわけです。そして、サスペンス的にハラハラドキドキはするものの、さして面白みはありません。ただ、タフガイの主人公がワンマンアーミーよろしく1人で活躍するだけではなく、同じような目的を持ってカルト教団に潜入しているタフな人々と協力してカルト教団と対決するわけです。ただし、カルト教団の創設者が少し物足りないキャラです。この創設者を取り巻く側近の造形にも物足りなさが残ります。新興カルト教団の活動については、まあ、想像される通りであって、多額の金銭的な献金、これは旧統一教会と同じ、というか、かなり多くの新興宗教にも当てはまりそうな気がします。そして、セックスです。こちらはどこまで当てはまるか、私は情報を持ち合わせません。そして、ジェフリー・ディーヴァーらしからぬ結末、というか、特に何のツイストもなくカルト教団が壊滅させられます。大味なストーリーであるものの、映画化されればアクションシーンはそれなりに話題になりそうな気もします。しかし、重要なのはカルト教団潜入ではなく、父親の死、あるいは、行方不明となっている兄にまつわる真相究明というポイントが残ります。それがすでに邦訳が出版されている『ファイナル・ツイスト』で解明されるのだろうと楽しみにしつつ図書館に予約を入れました。

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次に、神山典士『トカイナカに生きる』(文春新書)です。著者は、ノンフィクション作家であり、埼玉県のご出身ですので、「トカイナカ」の中でもやや埼玉県にスポットが当たっているような気がしました。ということで、広く知られたように「トカイナカ」という表現は経済評論家の森永卓郎氏の造語であり、森永氏が居住している埼玉県所沢市のようなロケーションを念頭に置いているのではないか、と私は想像しています。私も2年前に関西に引越してくる前は、東京23区内ながら5分も歩けば埼玉県、という土地に住んでいましたので、かなり雰囲気は理解できるつもりです。トカイナカが注目されているひとつの理由は、2020年からの新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のためのテレワークとか、リモートワークといわれる在宅勤務の普及にあります。ですから、トカイナカに住みつつ、リモートワークで主要な仕事を遂行するとしても、週に1日や2日は東京都心のオフィスに出向く、という仕事スタイルが念頭に置かれているのだろうと想像します。その割には、まったく都心に出ない地方、すなわち、トカイナカではないイナカ一色の生活も大いに取り上げられている気がしなくもありません。すなわち、地方新興的な色彩の強い部分も大いに含まれています。ただ、トカイナカについては今後の方向性としてはいいと私も考えますが、現時点で花まだ未成熟な部分が少なくないと思います。ですから、19世紀後半の米国におけるゴールドラッシュのような状態で、何がいいたいかというと、ホントに金を掘り当てて大金持ちになったのは、いわゆる49ersの中の極めて少数の例外的な存在で、幅広く儲けたのは49ersに対して金を掘るツルハシなどの道具や衣食をはじめとする生活に必要な日用品を売りさばいた人々であった、という事実は忘れられるべきではありません。すなわち、本書でも東大卒の財務省経験者や総務省から出向の副市長などがクローズアップされていますが、こういったトカイナカ推進のコンサルタント的な人物がトカイナカで利益を上げている段階だと私は考えています。もちろん、この先、トカイナカがもっと成熟してホントのトカイナカ生活で大きなゆとりを手に入れる人々が出現することを私自身は願っていますが、他方で、米国のゴールドラッシュの歴史的経験が教えているのは、多くの49ersは夢に見たように金を掘り当てることによってではなく、カリフォルニアに移住してその地で別の産業に従事してより豊かな生活ができるようになったわけです。ですから、トカイナカ生活についても、あくまで東京を標準にしてトカイナカでテレワークに従事し、時折東京のオフィスに出向く、という以外の方法でより豊かな生活に移行する可能性があるように思われてなりません。その別の方法が現時点で私には不明なのは事実なのですが...

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最後に、和田秀樹『老いの品格』(PHP新書)です。著者は、灘高-東大医学部という超高偏差値コースをたどったことで著名な精神科医です。本書では、上の表紙画像に見られるように、老いてゆく私のような人に対して、上品、賢明、洒脱の3点をオススメしてくれています。誠に、私も同意できる点がいっぱいです。過去に、何かで書いたような記憶があるのですが、高齢になるに従って頑固で不機嫌になるのは、私が考える限り2点理由があります。第1に所得が減少するからです。第2に従来出来ていたことができなくなるからです。ですから、自分で勝手に頑固で不機嫌にしているだけならまだしも、大昔の「いじわるばあさん」、長谷川町子さんの4コマ漫画でも、それを原作にしたテレビドラマでも、どちらも同じことですが、周囲の人に意地悪で仇なしてストレス解消を図ったりする場合もあったりするんだろうと思います。ですから、本書では第4章でお金や肩書に対する執着を捨てることをオススメしています。私は60歳で公務員を定年した後、再就職したので65歳でもう一度大学教員を定年退職しますが、その後は、特任教授でサラリーマンでいうところの定年後嘱託みたいに働くとしてもお給料はガクンと落ちるのではないかと想像していますし、さらに、最終的には年金生活に入ればもっと収入は減ります。ただし、経済学的にいえば、フローとしての年々の収入は減る一方で、ストックとしてはかなり蓄積されるだろう、というか、蓄積せねばならない、と考えています。ここで、ストックというのは衣類のようなハードなモノもあれば、知識やノウハウといったソフトなものも両方です。この蓄積が本書の副題の「品よく、賢く、おもしろく」をカバーしているような気がします。そして、第2章で加齢を怖がる必要はないと主張して、以前は出来ていたことができなくなる、という点にも言及しています。特に、加齢のひとつの結果としての認知症までOKという幅広い寛容度を示しています。私も実は大いに賛同するところがあります。やや差別的な表現を含んでいるかもしれませんが、その昔は、というか、今でも「ボケたもん勝ち」くらいに考えています。すなわち、現時点で認知症を怖がるのはムリないのですが、認知症になったら、それはそれで決して不幸でもないような気がします。こういった議論を知り合いとしてたところ、その知り合いから「認知症になったら食生活が大きく乱れて、残り寿命が短くなる」との反論を受けたのですが、まあ、それはそれでいいのではないか、という気もします。最後に、ケインズ卿が言及した血気=アニマル・スピリットというのは、じっとしていられなくて何かに取り組むという意味で、ハッキリいって、「落ち着きのなさ」の一種だと私は理解しているんですが、老いるに従って、というか、私の場合はこういったアニマル・スピリットをいうものを若いころから持ち合わせません。起業しても失敗するだけだということは大学生になる前から認識していました。ですから、私自身はムリをしない、がんばらない、そして、子供達や学生諸君にもがんばるとしてもムリはしない、というのを教えてきたつもりです。年齢を経るに従ってますますこの傾向が強まるような気がします。そして、私の場合だけかもしれませんが、最後は認知症、のような気がします。強くします。
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2022年07月23日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書をはじめとして新書3冊を含めて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計126冊となりました。年間200冊のペースを少し超えているような気がします。

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まず、福田慎一[編]『コロナ時代の日本経済』(東京大学出版会)です。編者は、東京大学経済学部の研究者であり、日本におけるマクロ経済研究の第一人者の1人といえます。編者や出版社からして学術書なのでしょうが、それほど小難しげな内容ではなく、幅広い読者にオススメできます。序章と終章を編者が執筆していて、それ以外は2部構成となっています。第Ⅰ部では経済政策を取り上げて、財政政策、競争政策、地域金融の3章を置いていて、第Ⅱ部では日本経済の現状分析というのか、サプライチェーン、雇用とリカレント教育、そして、気候変動やサステイナビリティの3章となっています。第2章の競争政策については、確かにコロナ禍で在宅勤務が進むなどのデジタル化が加速したとはいうものの、ややコロナにこじつけた感がないでもありませんが、ほかの5章については、確かにコロナによって新たに提起された諸問題であろうと私は受け止めています。中でも、私が注目したのは、やっぱり、第Ⅱ部のいくつかの章です。悪いのですが、第Ⅰ部の初っ端の財政政策では、いかにも主流派エコノミストの観点から財政赤字削減を論じ立てられると、やや方向性が違いすぎると感じていしまいました。加えて、終章では福田教授の従来からの主張なのでしょうが、コロナ禍で傷んだ日本経済になお「痛みを伴う構造改革の必要」を主張しています。そこまで財政赤字削減や緊縮財政が重要なのでしょうか。私の経済に対する見方とはかなり方向性が異なるとしかいいようがありません。ということで、第Ⅱ部に着目し、まず、サプライチェーンにおけるリスク管理なのですが、これについては決定打はありえません。コロナに限らず気候変動の下で天災や異常気象によるリスクも大きくなってきている印象があり、雇サプライチェーンの維持管理のみならず、自社の生産や流通のマネジメントにもプランBによるカバーなども考えられるべきなのでしょう。そして、私がもっとも注目したのが、雇用とリカレント教育です。もっとも重要なコロナの経済的帰結のひとつは産業構造の変化です。付加価値ベースの産業構造とともに、雇用構造も大きく変化しました。高校でも教えているペティ-クラークの法則に沿って、農林水産といった第1次産業から、製造業などの第2次産業、そして非製造業、というか、サービス業の第3次産業へと付加価値生産や雇用者が時とともにシフトします。そして、最先端産業のひとつが極めて労働集約的な対人サービス、典型的には、ホテルやレストランなどのサービス業であり、コロナによるダメージがもっとも大きかった分野のひとつです。しかし、ホテルやレストランで対人サービスに従事していた人材を、人手不足だからといってデジタル産業で活躍してもらう、というのは簡単ではありません。ミスマッチが大き過ぎます。いわゆる職業訓練も重要なのですが、何らかの大規模な実践的な教育過程が必要になります。しかし、現状ではリカレント教育とは、あくまで私が見る範囲ですが、かなり実践的な色彩が薄い気がします。私が知る限り、もっとも早くからリカレント教育に取り組んだのは日本女子大学で、現状でももっとも進んでいる気がしますが、日本女子大学クラスの実践的なリカレント教育に取り組んでいる大学はとても少ない、という印象を私は持っています。私の単なる「印象」が間違っていることを願います。

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次に、福田ますみ『ポリコレの正体』(方丈社)です。著者は、ノンフィクション・ライターだそうです。タイトル通りに、PC、とか、「ポリコレ」と略称されるポリティカル・コレクトネス、すなわち、政治的に正しい言葉の使い方、に関して、大きな疑問を提起しつつ、ポリコレ以外のリベラルな運動全体を疑問視しています。構成は実に巧みで、確かに大きな疑問を生じる可能性の高いトランスジェンダー女性の運動能力から始めています。トランスジェンダー女性ですから元は男性であったわけです。オリンピックをはじめとしてさまざまな運動競技が男女別に分かれて競っているのは、男性の方が運動能力が高いと一般には考えられているからであって、男性からトランスジェンダーした女性の方が運動能力が高い可能性があるわけで、そのトランスジェンダー女性を女性枠で競技させることの是非から説き始めています。それから、LGBT一般にお話を拡大し、かつての誰かさんのように、著者の気に食わないポリコレを重視する人達を「反日」のレッテルを貼って、それでお仕舞です。その中に、チラリとブラック・ライブズ・マター(BLM)も忍び込ませたりしています。加えて、日本では少し反応の薄い宗教も含めていたりします。例えば、米国のオバマ元大統領は「メリー・クリスマス」とはいわずに、「ハッピー・ホリデイ」のカードを送っていたとかで、ポリコレだとメリー・クリスマスと言えなくなる、というような示唆をしています。私自身は宗教にはそれなりに敏感で、私が死んだ後には「冥福」という言葉は使って欲しくないと考えています。私は浄土真宗の門徒ですので、死んだ瞬間に浄土に生まれ変わるわけで、冥土の幸福なんて言及しないで欲しいと考えています。ということで、話を本題に戻すと、本書はかなりお粗末なリポートだと私は受け止めました。要するに、ポリコレを重視する向きとか、LGBTに寛容な人とか、BLMを支持する人達に、左翼、リベラル、マルクス主義などのレッテルを貼って、それで著者は満足しているようです。著者と考えを同じくして、さらに、同じ論証のレベルで満足できる読者であればOKなんでしょうが、私には疑問だらけでした。そして、ノンフィクション・ライターらしく、何人かにインタビューしているようなのですが、左翼とか、マルクス主義のレッテルを主張するうちの1人は、今話題の統一協会、現在は名称変更して、世界平和統一家庭連合の機関紙である「世界日報」の編集者だったりします。もう1人は私のよく知らない大学の外国人研究者です。この2人にインタビューした結果を著者の主張のバックグラウンドに置いています。統一協会の関係者が「ポリコレは左翼だ、共産党だ、マルクス主義だ」といったインタビュー結果を引いた主張にどれだけ信頼を置けるのかは疑問です。ただ、私はこういった私自身の方向性の反対を主張する本は、可能な範囲で読んでおくべきかと考えています。本書の他には、例えば、2019年10月に読書感想文をポストしたマーク・モラノ『「地球温暖化」の不都合な真実』なんかもそうです。私自身の主張は極めてクリアなのですが、一応、反対意見にも目配りが必要です。本書はそういう意味の読書でした。

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次に、永濱利廣『日本病』(講談社現代新書)です。著者は、第一生命経済研のエコノミストです。その昔に「英国病」というのがあって、かなり先進国病に近いニュアンスで使われていたようなところがありました。すなわち、キャッチアップ型の成長が難しい段階に経済社会の発展段階が達した、というものです。しかし、本書では「日本病」とは、低所得・低物価・低金利・低成長の4低をもって「日本病」の特徴としています。そして、この4低を解き明かして、現在の金融緩和を継続扨せつつ、新たに財政支出の拡大をもって、言葉としては出現しませんが、「高圧経済」を実現し、「日本病」の克服を目指しています。まず、そもそも論で、1990年代初頭のバブル崩壊後の政策対応で、もっともマズかったのは金融機関の不良債権処理を再優先課題として取り組んでしまって、大規模な金融緩和が遅れた点を指摘しています。まったく、その通りだと思います。金融緩和による景気対策がなく、加えて、財政政策による需要拡大も大きく遅れて1990年代後半になり、結局、プルーデンス政策としての不良債権処理が最重要課題とされてしまい、しかも、政府による公的資金投入ではなく、不良債権の切離しによる処理が優先されましたので、いわゆる貸し渋りや貸し剥がしが横行したわけです。それに対して、リーマン・ショック後の米国では当時のバーナンキ議長の指導力の賜か、大規模な金融緩和を素早く実施し、かなりの程度に景気回復を軌道に乗せました。もちろん、サマーズ教授らによる「長期不況論」は根強く残っており、さらに、2020年からは新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が経済社会に大きなダメージを及ぼしましたから、低成長が継続しているという見方は根強く残っています。また、所得という点に関しては、本書では韓国における最低賃金の引上げを例に上げています(p.20-21)。最低賃金については、ムリに引き上げれば負担力ない中小企業の倒産が増えたり、生産性低い労働者の間で失業が発生したりという伝統的な見方もあって、議論のあるところですが、不平等や貧困の解決には有効という実証結果も出てきており、日本でも議論が深まることを期待しています。特に、本書の結論では一定の留保が必要と私は考えます。第1に、欧米での格差の拡大が高所得層のさらなる所得増によってもたらされている一方で、日本では逆に低所得層の所得の伸び悩みから格差が拡大し貧困が深刻化しています。本書では日本の「総貧困化」を強調するあまり、この点が軽視されています。ですから、本書での主張、すなわち、アベノミクスでは金融政策は成功したが、財政政策が緊縮に運営されたのでデフレ脱却には力不足だった、という点は私も同意しますが、財政政策の中でも闇雲な財政支出拡大ではなく所得の再分配に十分配慮した財政政策が必要と私は考えています。アベノミクスが失敗したのは財政政策が緊縮だったからというのは否定しないものの、財政政策の中でも分配政策が欠けていたから、というのが最大の要因だと私は考えています。第2に、本書の結論のひとつになっている雇用の流動化の促進については疑問があります。この雇用流動化は、本日つけの朝日新聞のインタビューでも著者は繰り返して主張しています。しかし、雇用の流動化は、現時点までの経験でいえば、本書で主張されているように、高生産性労働者が高賃金職へ移動することを容易にする道を開くわけではなく、逆に現在まで一貫して賃金切下げという結果をもたらしてきました。加えて、雇用の流動化が進めば、いわゆるデスキリング deskilling = 熟練崩壊にもつながりかねません。従って、ここまで非正規雇用の割合が拡大した中で、雇用の流動化をさらに進めるべきかどうか、私は大きな疑問を持っています。

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次に、保坂俊司『インド宗教興亡史』(ちくま新書)です。著者は、中央大学の研究者であり、専門は比較宗教学、比較文明論、インド思想だそうです。私は仏教徒です。それも、浄土真宗の門徒です。仏教はインドに由来することは多くの日本人が知っていることと思いますが、同時に、英国の植民地となったときのインドはムガル帝国というイスラム国家でしたし、現在はヒンズー教徒が多い、というのもかなりの程度に知られているのではないかと思います。すなわち、何がいいたいのかというと、インドでは宗教的な変遷がそれなりに繰り返されてきた、ということです。それはそれで、産業革命以前の先進国であった、という意味なのかもしれませんが、同時に産業革命以前の先進国であった中国はインドほどの宗教的な変遷はなく、中国に由来する大規模な宗教も、せいぜいが道教くらいではないか、それも、世界的なレベルでの宗教には達していない、という気がします。世界的な大宗教といえば、欧米先進国のキリスト教、南アジアから東南アジア、さらに、東アジアにかけての仏教、中東や北アフリカ諸国、あるいは、インドネシアとマレーシアのようなイスラム教、の3宗教があり、ディアスポラで世界に拡散したユダヤ教も4番目に入れる人がいるかも知れません。本書におけるインド宗教概念はp.37の図に明確に示されています。そして、私のような専門外のものからすれば、とても新鮮だったのは、インドに由来する仏教はインドでは実はバラモン教化し、バラモン教に教義や儀礼とともに吸収され、そのバラモン教はヒンズー教に進化発展した、という見方です。それらとは独立に、イスラム教のシク教、さらに別に、ジャイナ教などについても不勉強にして、本書で改めて教義について知ったくらい、私は宗教に関してはシロートですので、実に新鮮なインドにおける宗教の変遷を勉強した気になりました。私が宗教に関して不勉強なのは、圧倒的に他力本願の浄土宗の門徒であるからです。「南無阿弥陀仏」と念仏すれば、それだけで輪廻転生から解脱して極楽浄土に生まれ変われる、というお気楽な宗教ですのでそれ以外の宗教には目が向きません。ですから、子供達が大学に入学した際には3点だけ「ヤメておいた方がいい活動」に関して注意を垂れています。すなわち、第1に宗教については手を出すべきではなく、浄土真宗の門徒で満足しておいた方がいい、ということです。もちろん、子供達の信教の自由を侵害しようとする気はありませんが、安倍元総理の暗殺で話題になっている統一協会なんてのが、今でも大学では活動していたりします。第2に、マルチ商法の勧誘が来たら、逃げられると自信があれば手を染めてもいいが、友達を失うだろうからヤメておいた方がいい、第3に、学生運動は信念を持って取り組むのであれば反対はしない、ということです。宗教については、私はその程度の知識ですので、インドの宗教に関してとても勉強になった読書でした。最後に、例の安倍元総理の暗殺に関する報道などで「統一教会」という書き方を見かけますが、私は統一協会だと考えています。というのは、下村文部科学大臣の時に名称変更を許可された世界平和統一家庭連合の旧称は、世界基督教統一神霊協会であり、略称にするのであれば最後の2文字はカルトならざるキリスト教と紛らわしい「教会」ではなく、「協会」とすべきと考えています。なお、日本基督教団の「統一協会に関するご相談について」と題するサイトでも「統一協会」と表記されていることを付け加えておきます。

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最後に、笹山敬輔『ドリフターズとその時代』(文春新書)です。著者は、たぶんオーバードクターの演劇研究者です。タイトル通りに、ドリフターズ(ドリフ)に関して論じています。何といっても、1970年代から80年代はじめにかけてのテレビ番組「全員集合」が圧倒的な記憶にあります。そして、本書で論じるところでは、少なくとも志村けんが加入する前までは、ドリフは明らかに音楽バンドであり、私でも知っているところですが、ビートルズが初来日した際に武道館で前座バンドのひとつを務めています。ただ、志村けんはミュージシャンではありません。ということで、コミック・バンドとしては、ドリフの前の高度成長期に活躍したクレイジー・キャッツがあまりにも有名で、まさに、そのラインでドリフも活動を始めています。戦前・戦中には敵性音楽として禁止されていたジャズやハワイアンなどの米国の音楽なのですが、戦後米軍が進駐してきて、ダンスホールやナイトクラブなどで一気に需要が高まります。そして、日本でもこういったバンドが活動を始め、その中で音楽とともにコミカルなコントなども入れた活動も見られ、日本国内でも人気を博するわけです。時はちょうど映画、さらにテレビといった映像が音声だけのラジオに代わって前面に出た時代です。そして、ドリフと同じ時代にコント55号が出現し、お茶の間の人気となります。萩本欽一なわけです。そして、本書では、コント55号や萩本欽一は浅草的なアドリブで進めるコント、ドリフはきっちりと計算され尽くしたアレンジに基づくコント、と見なしています。加えて、ドリフではリーダーたるいかりや長介の絶対的・独裁者的な存在にも着目しています。そして時代が流れて、1980年代には土曜日の8時という同じ枠でドリフの「全員集合」と北野武や明石家さんまなどの「ひょうきん族」が視聴率を競って激突するわけです。「ひょうきん族」がコスチュームにも工夫したコントを繰り広げたのに対し、ドリフの「全員集合」では生活や学校・職場などに密着したコントが展開されます。このあたりの本書の対比も見事です。そして、荒井注に代わって加入した志村けんがドリフの新たな時代を切り開き、いかりや長介に取って代わって21世紀には「喜劇王」の立場に上り詰めた、と評価しています。もちろん、2020年のコロナ感染拡大の初期に志村けんは亡くなります。我が家の子供達は「バカ殿様」が大好きでした。私もDVDを買ったりして、大いに楽しみました。まったく、惜しい人物が亡くなったものだと私も思います。
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2022年07月16日 (土) 09:00:00

今週の読書はやや疑問の残る経済書など計4冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りの計4冊です。
まず、チャールズ・グッドハート & マノジ・プラダン『人口大逆転』(日本経済新聞出版)では、人口の高齢化に従ってディスインフレないしデフレに終止符が打たれてインフレと金利上昇局面が始まり、平均で見た国別の格差が縮小する、と主張しますが、人口高齢化で世界をリードしている日本の現状をうまく説明し切れていないと私は考えます。清水和巳『経済学と合理性』(岩波書店)は、マクロ経済学のミクロ的基礎付に挑戦していますが、私の目からすれば疑問が残ります。エマニュエル・トッド『第3次世界大戦はもう始まっている』(文春新書)では、ウクライナ支持とロシア非難に大きく偏っている日本や欧米の論調に対して別の視点を提供しています。最後に、まさきとしか『彼女が最後に見たものは』(小学館文庫)は複雑な殺人事件の背景を三ツ矢刑事が解き明かします。
なお、今週の4冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計125冊となりました。新刊書読書だけでなく、太田愛『犯罪者』上下(角川文庫)、山田宗樹『聖者は海に還る』(幻冬舎文庫)、松岡圭祐『ミッキーマウスの憂鬱』(新潮文庫)も読みました。できれば、Facebookでシェアしたかったのですが、コミュニティ規定違反だそうでアカウントが制限されてダメでした。

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まず、チャールズ・グッドハート & マノジ・プラダン『人口大逆転』(日本経済新聞出版)です。著者は、英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの名誉教授であるエコノミストと投資銀行の実務家です。英語の原題は The Great Demographic Reversal であり、邦題はそのまんまだという気がします。2020年の出版です。ということで、人口の高齢化により現在までのディスインフレないしデフレ、さらに、不平等の拡大などの経済動向が逆転する、という点に主眼をおいた経済書です。キトンと学術文献を抑えていて、なおかつ、文章が判りやすい良書です。まず、今週に入ってから、7月11日の世界人口デイに合わせて国連から World Population Prospects 2022 が公表され、例えば、来年2023年にはインドの人口が中国を抜くとか、今年2022年11月15日には世界人口が80億人に達する、などの見込みが広く報じられています。そして、平均寿命の延伸も同時に見込まれています。経済学的には人口の高齢化が進むと、本書の主張のようにインフレ圧力が高まり、同時に、不平等が緩和される、ということになります。まず、簡単な方はディスインフレないしデフレが、人口の高齢化に伴って、インフレの方に転換します。同時に、インフレ圧力とともに金利にも上昇圧力がかかります。これは明らかです。本書でも指摘しているように、退職年齢がかなり固定的であるのに対して平均寿命の延伸が進みますから、引退期間が長くなります。引退期間では生産をせずに消費だけをしますから、供給の伸びに比べて需要の伸びの方が大きくなる傾向があります。ですから、経済学的な需要と供給の関係に従って価格は上昇する方向に転換します。加えて、医療費などの高級サービスへの需要も引退期間には一段と高まります。ただし、本書の著者も気づいているのですが、世界の先進国の中でもっとも高齢化が進んでいる日本で、もっともデフレが深刻となっていて、一向にインフレ圧力が高まらないのも事実です。本書では9章を章ごとこの問題の解明に当てています。海外直接投資などの資本の流出、失業率に見えるほど労働のスラックは少なくない、などを上げていますが、私の目から見て、インフレ圧力や金利上昇に関する日本例外論の論証は明らかに失敗しています。他方、やや判りにくいのは不平等の緩和です。というのは、本書でいう「不平等の縮小」というのはあくまで国別で見た inter-nation な不平等の縮小であって、別の表現をすれば成長の収束 convergence という意味です。ですから、国の中で見た intra-nation な不平等は拡大すると本書でも考えています。ピケティ教授と同じで資本収益率が成長率や賃金上昇率を上回るとともに、教育で代理される人的資本の収益率が上昇するからです。高学歴者が有利になるわけです。加えて、市場集中度=独占が進んできているのも労働との交渉力に影響を及ぼして格差拡大の一因となることを本書では示唆しています。そして、最終的には、この人口の高齢化の影響に対する政策対応として、土地課税をはじめとする税制、マクロ経済政策などを上げていますが、これまた、それほど説得力ありません。最後に、繰り返しとなりますが、人口の高齢化に伴ってインフレ圧力の高まりと金利上昇が見込まれるのは、経済理論的にまったく間違っていません。しかし、人口高齢化の先頭に立っている日本でそうなっていないというパズルがあるわけですから、日本例外論をキチンと成り立たせるか、あるいは、この先、日本もこのインフレ圧力の増大というトレンドに乗ることを論証して欲しかった気がします。

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次に、清水和巳『経済学と合理性』(岩波書店)です。著者は、早稲田大学の研究者であり、本書は岩波書店のシリーズ ソーシャル・サイエンスの中の1冊として発行されています。ということで、本書は200ページに満たないコンパクトな本ながら、いわゆるマクロ経済学のミクロ的基礎づけ、しかのも、合理性に基づくミクロ的基礎づけを目指しています。まず、合理性については、6月25日付けの読書感想文で取り上げたダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』とかなり似通ったマイクロな見方を示しています。すなわち、『経済学の哲学入門』では、すべての選択肢の間で効用の順序付けが出来るという意味での完備性と順番が逆転することがない推移性を満たすと合理的な選択、ということになり、加えて文脈からの独立性と選択の決定性を4条件としているのですが、本書では決定性は含めておらず、完備性と推移性と独立性の3条件を持って合理的と見なしています。ただ、マイクロな経済学における合理性とマクロ経済の合理性で決定的に異なるのは、マクロ経済では推移律が成り立たないことです。例えば、熊谷尚夫先生の「経済学の範囲と方法」においては、p.8において「個人の場合には選好順位についての推移性(transitivity)を想定してよい理由があるのに反して、社会的厚生関数が社会状態に対する個々人の任意の選好から合成されるべきものと考えるかぎり、独裁や全員一致のような例外を別にすれば、社会的厚生関数が推移性をもちえないであろうということはむしろ明白であるように思う」と指摘しています。アローの不可能性定理からして、マクロ経済分野においては合理的な選択は成り立たないわけですので、本書でも指摘している通り、マクロエコノミストとして私はマクロ経済学のミクロ的基礎付は、可能であればそれに越したことはないが、少なくとも必要不可欠とは考えませんし、基礎付けができなくても仕方がない、くらいに受け止めています。私の受け止めで考えるべきもうひとつの要因は、いわゆるルーカス批判です。マクロ経済においては、ひょっとしたら、マイクロ経済もそうなのかもしれませんが、政策変更によるパラメータの変化がついて回ります。そして、ルーカス批判はマクロ経済学のミクロ的基礎付の根拠ともされるわけですが、はたして、カリブレーションによってルーカス批判がクリアできるのかどうか、本書では言及ありません。最後に、予測を考える場合、基本は何らかの微分方程式体系があってパラメータが頑健であるとすれば、初期値が決まれば先行きは決まってしまう可能性があります。経済学ではありませんが、物理学におけるラプラスの悪魔なんかがそうです。ただ、物理学では不確定性定理により、ラプラスの悪魔は存在しないことが明確になった一方で、経済学においてはルーカス批判で指摘されたようにパラメータが必ずしも頑健ではないわけです。従って、本書でも指摘しているように、解析的にエレガントに微分方程式体系が解けないのであれば、リカーシブに、というか、本書ではシミュレーションに縒りと表現していますが、同じで、先行きを考える必要がありますが、パラメータが確定しないシミュレーション二どこまで信頼性を置くべきか、カリブレーションでどこまで補えるか、についても考える必要があります。マクロ経済学をミクロ的に基礎づけるというのは、大きなチャレンジなのですが、必要性が疑わしい上にムリスジな気すらします。

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次に、エマニュエル・トッド『第3次世界大戦はもう始まっている』(文春新書)です。著者は、フランスの歴史人口学者・家族人類学者です。そして、EUによる統合は欧州のドイツ化であり明確に反対の姿勢を示しています。ということで、本書は『文藝春秋』2022年5月号の「日本核武装のすすめ」を中心にいくつかの論考を収録しています。そして、日本を始めとして欧米などのメディアではロシアのウクライナ侵攻を強く避難し、ロシアに対する批判が極めて優勢となっている中で、別の角度からの視点を提供するものとなっています。すなわち、2014年のウクライナにおけるユーロマイダン革命は民主主義的な方法によらずに親EU派が政権をクーデタにより掌握したと主張し、ロシアによるクリミア編入に対する理解を示しています。加えて、その前に欧米から繰り返し主張された「NATOは東方に拡大しない」という方針が保護にされた点を重視し、これまた、ロシア寄りの見方を示しています。このあたりはミアシャイマー教授の見方を支持する形で示されています。そして、ミアシャイマー教授とは違う見方を示しているのが、「死活問題」意識であり、ミアシャイマー教授はウクライナ危機はロシアにとって死活問題である一方で、米国から見れば遠い国の問題であり、いかなる犠牲を払っってでも勝利を目指すロシアの方が優位に立っている、との見込みを示していますが、本書では米国にとっても死活問題であり、ミアシャイマー教授の説は成り立たない、と主張しています。私ははなはだ専門外であって、何ともいえません。ただ、本書の結論で、「核の共有」も「核の傘」も幻想にすぎないから、日本も核武装すべし、という結論には同意できかねます。同意できるのは、ウクライナ危機の現状を見るにつけ、英米から軍事支援を受けているとはいえ、ウクライナを制圧できないロシアの軍事力が、実は、大したことなかった、という軍事力の見方、さらに、中国などの一部の例外を除いて世界各国から経済制裁を受けているにもかかわらず、ロシアの経済が崩壊していないという意味で、ロシア経済の底力を認めざるをえない、という経済面での事実関係の2点です。いずれにせよ、日本や欧米ではメディアの主張はかなり一方的で、ウクライナに対する同情を引き立てて、難民受け入れなんかで極めて異例の措置を大きく報じる一方で、ロシアに対する非難一辺倒であるように私には見えます。それはそれで理解しますが、本書のような逆の視点を提供するジャーナリズムの必要性も理解すべきではないか、と考えています。

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最後に、まさきとしか『彼女が最後に見たものは』(小学館文庫)です。著者は、ミステリ作家であり、私は前作の『あの日、君は何をした』も読みました。前作と同じく警視庁捜査1課の三ツ矢秀平と戸塚警察署の田所岳斗がコンビを組んで事件解明に当たります。前作では、何ともいえないジョーカーがいて、事件をややこしくしていたのですが、本作品はそういったジョーカーはいません。ただ、事件が入り組んでいて複雑な点においては、前作を上回っている気がします。ということで、まず、クリスマスイブの夜に新宿の空きビルの1階で50代女性の遺体が発見されます。そして、その女性の指紋が、千葉で男性が刺殺された未解決事件の現場で採取された指紋と一致します。女性はホームレスでした。そして、千葉で殺された男性は公務員であり、この女性が生活保護を申請した際の窓口担当者として、いわゆる悪名高き「水際作戦」で生活保護申請を受け付けない仕事ぶりでした。さらに、この女性の夫がトラックにひかれて死んでいたのですが、実は、ひかれる直前にクモ膜下出血で死んでいて、ただ、ひいたトラックの運転手もこの一連の事件に関係してきたりします。生活保護申請でも判る通り、警察官を別にすれば、生活が苦しい登場人物が多い気もして、また、そうでない生活保護担当で役所の公務員だった男性は殺されたりしています。かなり複雑に絡み合った人間関係を解きほぐして、三ツ矢が全貌を解明します。ただし、ケーサツ的に物証があるわけではない点は、やや弱点と受け止める読者もいるかも知れません。他方で、その昔の警察ミステリ的に動機を重視し、やや行ったり来たりは当然あるものの、時系列的な事実関係の進行を解き明かす手法は魅力的です。特に、巻末の解説にもあるように、この作品は決して「イヤミス」ではなく、人間のいやらしさをえぐり出しつつも、本来人が持つ人間性に対する前向きかつ肯定的な暖かさを感じます。人間にとって幸福とは何か、について考えさせられるところがありました。続巻があれば、また読みたいと思います。
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2022年07月09日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済に関する専門書と新書と小説を合わせて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大澤真幸『経済の起源』(岩波書店)は、社会学の観点から経済の起源についての議論を展開しています。ただ、生産と交換からなると私が考えている経済を交換の方に重点を置き過ぎているきらいはあります。続いて、小沼宗一『経済思想史入門』(創成社)は、タイトル通りに経済思想をアダム・スミスから始めて、ケインズとシュンペーターまで、代表的な6人のエコノミストの思想を取り上げています。続いて、桑木野幸司『ルネサンス情報革命の時代』(ちくま新書)は、活版印刷によって大量の情報が溢れ出てきたルネサンス期の文化を紹介するとともに、DXによるコモンプレイス化についても視野に入れています。最後の2冊は小説であり、あさのあつこ『飛雲のごとく』(文春文庫)は小舞藩シリーズの第2作であり、主人公の元服式からストーリが始まります。そして、最後の最後の山口恵以子『トコとミコ』(文春文庫)は、大正生まれの2人の女性、伯爵家のご令嬢と伯爵に使える家臣の娘が、戦中戦後を経て没落する特権階級とのし上がる実業家を代表しつつも、強い絆で結ばれあう90年に渡る長い長いストーリーです。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えていますので、少し余裕を持って新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、小説とマンガを読みました。すなわち、小舞藩シリーズ第1作であるあさのあつこ『火群のごとく』は『飛雲のごとく』の前日譚であり、『日出処の天子』の作者として著名な山岸凉子の短編マンガ集『天人唐草』(ともに、文春文庫)を読みました。いずれもFacebookの然るべきグループでシェアしてあります。もちろん、本日の新刊書の読書感想文も、適当なタイミングで個別にシェアしたいと予定しております。

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まず、大澤真幸『経済の起源』(岩波書店)です。著者は、社会学の研究者であり、本書も経済学の学術書ではなく、岩波書店の「クリティーク社会学」のシリーズとして出版されています。ですから、経済を交換の側面から捉えています。一応、交換と生産を考えているのですが、生産はまったく注目されていません。もっぱら交換に焦点を当てていると考えるべきです。そして、広く認められているように、最初に「物々交換」ありきではなく、贈与を置いています。もちろん、貨幣、ないし、貨幣的な目的で使われる貴金属などの商品貨幣も含めて、貨幣が導入されて現在に至っているわけですが、贈与を交換の前に置いているのは注目すべきかもしれません。そして、贈与については、贈る義務と受け取る義務とお返しをする義務の3つの側面を考えます。重要なのは、贈与の場合には購入や交換による所有ではなく、保有として処分に何らかの制約が加わる点です。すなわち、交換により入手した財については所有が適用されて、処分は意のままです。少し前の読書感想文で稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を取り上げ、私はサブスクであろうと何であろうと映画やドラマを早送りで観るのは消費の方法としてOKであり、芸術の鑑賞だけではなく、そういった早送りの消費も受容される旨を書きましたが、まさにそのような意味です。他方で、贈与されたものは勝手に処分することは憚られる、と本書では指摘します。本書では言及ありませんが、白い象がこれに当たりそうな気がして、私は読み込みました。よく知られた伝説で、その昔、タイの王が自分の嫌いな家臣に白い象を贈与し、維持費のかかる無用の長物として持て余す、という昔話があります。まさに、こういったことだろうと私は受け止めています。そして、貨幣が普及する中でヒエラルキーが形成され、逆に、分配の重視といった考えも生まれ、最終的には現在のような資本主義経済で商品として交換されるに至る、という歴史観が展開されています。私はエコノミストとして、本書で対象になっているような経済の歴史について、おおむね一致した歴史観をもっているつもりなのですが、唯一、生産をここまで軽視するのはどうか、という気がしています。すなわち、交換、あるいは、贈与については本書では一方的な経済行為であるとはみなしておらず、一種の交換、あるいは、少なくとも交換に先立つ経済行為と考えているようですから、贈与も含めた経済的な交換を考える場合、生産力が一定段階以上に発達して生産物に余裕があるとともに、社会的に分業が成立しているという条件が必要です。日本の昔話ではありませんが、海彦と山彦の間で、分業が成立していて、さらに、生産物を交換に回す余裕が生産力あって、その上で初めて贈与を含む交換が成り立ちます。その意味で、贈与を始めとする好感のバックグラウンドにある生産力の増大、そして、その生産力の拡大に伴う分業の進展も、出来ることであれば、経済の歴史でしっかりと見据えて欲しかった気がします。

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次に、小沼宗一『経済思想史入門』(創成社)です。著者は、東北学院大学の研究者であり、専門は経済思想史です。本書は6章構成となっており、アダム・スミス、リカードウ、J.S. ミル、マーシャル、ケインズ、シュンペーターを、それぞれ取り上げています。タイトルに「入門」がついているだけに、比較的入門編の経済思想史といえます。逆に、本書の各章は大学の紀要論文が基になっているようなのですが、紀要論文のレベルがやや心配になったりします。それはともかく、スミスについては経済学の主著である『国富論』だけでなく、『道徳感情論』における共感の働きも含めて、平易にその経済思想を解説しています。ただ、いかにも古典派的な、というか、その後にケインズに批判された「節約の美徳」については、これも交易の重視から生じている点を見逃している気がします。リカードウやJ.S.ミルも同じ古典派と考えるべきなのですが、リカードウの比較生産費説も基本は同じで、分業に基づく交換、あるいは、交易の利益を強調しています。現在の用語で言い換えれば、ダイバーシティといっていいかもしれません。みんながバラバラであってもいろんなものを生産していて、それを交換すれば豊かな生活が送れる、という基本認識です。たとえ、バラバラに個人が勝手に生産をしていても、ある程度の期間があれば、市場の「見えざる手」が調整してくれる、という考えです。そして、その交換に出すためには、すべての生産物を自家消費していては交換が成り立ちませんから、生産力を伸ばすか、自家消費を節約するか、どちらかで交換、あるいは、言葉を変えれば、市場に出る生産物が増えるわけです。本書では、この意味を正しく把握していないのではないか、と私は危惧しています。いずれにせよ、ケインズが正しく批判したように、生活が苦しかったり、景気がっ悪かったり、あるいは、今のように物価が高かったりする時は、古典派的に家計レベルでコストを切り詰めるのではなく、ケイジアン的に政府のレベルで収入を増やすような政策を取るべき、というのがマクロエコノミストの結論ではないか、と私は受け止めています。本書では、マルクスは取り上げられていませんが、古典派が活躍した英国の時代背景として、土地持ちの地主と産業資本家の階級対立があった点は、本書でもしっかりと把握されています。エンゲルスの編集にして正しければ、マルクスの『資本論』第3巻は三大階級の章で締めくくられています。そして、これも有名なことながら、マルサスが地主の利益を代表して人口抑制を説いた一方で、ケインズが新興の産業資本家、マルクス的にいえばブルジョワジー、の立場に立って、マクロ経済学を展開していたのは広く知られているところです。最後に、ミルのような古典派では、いわゆる定常状態、本書では「停止状態」とされている定常状態に、いつかは、達するかどうか、について、イノベーションにより定常状態にはならない、というか、かなり先まで定常状態は来ない、と主張したシュンペーターの章で締めくくられています。

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次に、桑木野幸司『ルネサンス情報革命の時代』(ちくま新書)です。著者は、大阪大学の研究者であり、専門は西洋美術・建築・都市史・ルネサンス思想史となっています。タイトル通りであれば、ルネサンスとは活版印刷に代表されるように情報革命が生じた時期、という議論が展開されていることを期待するのですが、ルネサンス期のさまざまな文化の紹介がほとんどを占めます。私はそれはそれでOKです。ルネサンスの文化といえば、そのものズバリで、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』があまりにも有名で、私も読んだことがあります。本書はさすがに並べて称するには引けを取ります。まあ、当然です。構成としては、ルネサンス期の地図から始まって、ルネサンスのひとつの大きな特徴であるエンサイクロペディックな百学連環、私の日本語変換では「百學連環」が出てきてしまいますが、まさに、さまざまな学問分野での知の進歩を概観し、本題の活版印刷に焦点を当てます。従って、その流れで、「書物は知の貯蔵庫から、情報伝達のメディアへと変容を遂げた」(p.106)といった主張も盛り込まれています。さらに、活版印刷で文字情報の洪水が現れた中で、コモンプレイス化=情報の固定化や典型化が進み、さらに、文字情報だけでなくイメージ情報も普及し、イメージとして記憶術も注目されるようになります。そして、文字情報とイメージを総合したものとして博物学が進歩し、世界の目録が作成される、ということになります。本書では、明るく肯定的なイメージのルネサンス文化の光に対して、逆に影を対地するでもなく、極めてニュートラルにルネサンス文化を考えています。21世紀のゲン菜も、ある意味では、ルネサンス期と同じような「情報の洪水」を我々は体験しているわけであり、ルネサンス期に開発された活版印刷の成果物としての書物に対応して、通信技術の進歩に伴ってサーバに蓄積される文字のテキスト情報とイメージの画像情報のどちらもが激増している、という点ではルネサンス期と同じです。本書のタイトルで「情報革命の時代」に我々は生きているのかもしれません。従って、溢れ出る情報をどのように整理するかを考える重要性が明らかで、まあ、流行りのキーワードでいえばデジタル・トランスフォーメーション(DX)なわけです。そして、そのDXの後に、というか、同時に考えるべき方向は、ひとつは、本書では何の言及もありませんが、GAFAのようにビジネスにDXされた情報を活かす、という方向性は考えられます。もうひとつは、私の属する業界である教育にいかに活かす、という方向性も考慮されるべきであると私は考えています。もちろん、特定の業界や方向性に従うだけではなく、それぞれの部署での作業効率の向上に活かす、というのも一般的かもしれません。ルネサンス期とは技術特性がまったく異なりますから、大量の情報処理に関しては、直接の応用は難しいと考えるべきですが、情報をいかに整理してコモンプレイス化するか、という観点では、ひょっとしたら、ルネサンス期から何か参考になる視点が得られるかもしれません。

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次に、あさのあつこ『飛雲のごとく』(文春文庫)です。著者は、とても売れている小説家であり、「バッテリー」のシリーズのような現代小説とともに、本書の「小舞藩」シリーズや私も新作を熱心に追いかけている「弥勒」シリーズのような時代小説の作品もあります。どうでもいいことながら、「弥勒」シリーズは光文社ですが、この「小舞藩」シリーズは文藝春秋だったりします。ということで、本書は「小舞藩」シリーズの第2作であり、第1作の『火群のごとく』から4年を経過しています。主人公の新里林弥の元服の儀からストーリーが始まります。元服の儀における烏帽子親を務めるのは先の大目付である小和田正近です。この烏帽子親について詳述すると、第1作の『火群のごとく』のネタバレになってしまいます。なお、以下、本書では特段の謎解きなんかがないと思いますので、ストーリーを少していねいに追いますが、あるいは、解釈によってはネタバレを含むかもしれません。未読の方はご注意ください。元服して新里家の当主となりましたので、林弥は兄の名であった「結之丞」を名乗ることを小和田正近から示唆されますが、林弥は今しばらく「結之丞」の名乗りを控えます。さらに、元服して一家の当主となってもお役には就けません。ですから、まあ、ヒマにして引き続き道場に通ったりしているわけです。樫井透馬は傷の手当のために江戸に去り、そして、同じ道場に通う友人であった上村源吾は前作で亡くなっていますし、山坂和次郎はすでに普請方の勤めに出ていたりします。しかし、当然のように、樫井透馬が小舞藩に戻って来て、まずは、前作と同じように新里家に居候します。そして、この『飛雲のごとく』では、前作の『火群のごとく』と違って、かなり淡々とストーリーが進みます。しかし、樫井透馬が居候している新里の家が刺客によって襲われます。山坂和次郎の助太刀もあって、樫井透馬と新里林弥はこの襲撃を退けます。そして、樫井透馬と新里林弥は樫井の家老宅に乗り込みます。樫井透馬はすでに父親で家老である信右衛門から跡継ぎに指名され藩からも認められています。その代償として新里林弥と山坂和次郎を樫井透馬の近習とすることが決まります。最後に、新里林弥の兄嫁の七緒が落飾します。というストーリーなのですが、私が気にかかっているのはただ1点です。すなわち、新里林弥と山坂和次郎は下士とはいえ、藩主の直接の家臣である一方で、この作品では家老の家柄とはいえ樫井透馬の近習、すなわち、藩主の家臣の家臣、陪臣となるのですが、それはどのように考えるべきなのでしょうか。封建時代の昔にあっては、やや不名誉な雇われ方、と受け止められないのか、やや心配です。むしろ、現代的に実質を取って、藩政への影響力という点では下士でいるよりも、陪臣とはいえ家老の家臣になる方がいいのでしょうか。まあ、私はこの「小舞藩」シリーズの第1作と第2作の本書はともに新刊された文庫本で読んでいて、単行本ではすでに第3作の『舞風のごとく』も出ていますので、私の疑問への回答は明らかになっているのかもしれません。第3作は昨年2021年10月の出版ですから、新刊書読書の範囲でしょうし、読み進みたいと思います。

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最後に、山口恵以子『トコとミコ』(文春文庫)です。著者は、当然に小説家なのですが、この作品よりも「食堂のおばちゃん」シリーズで有名なのではないか、と私は受け止めています。これまたどうでもいいことながら、本書は文藝春秋から出版されていて、私の勤務大学は文春文庫をシッカリと所蔵してくれているのですが、「食堂のおばちゃん」シリーズはハルキ文庫ではなかったかと記憶しています。なぜか、大学の図書館では所蔵されていません。ということで、本書は大正から昭和、平成に渡る2人の女性の6歳から96歳までの90年間の人生を描き出しています。トコこと六苑塔子は大名華族の伯爵家のご令嬢であり、ミコこと寺井美桜子はその伯爵家の家扶として資産運用にあたっている旧家臣の家の娘です。伯爵のお屋敷の敷地内にある御小屋で両親とともに暮らしています。六苑伯爵は外交官としてロンドン勤務で、トコも英国生まれなんですが、トコとミコが小学校に上る直前の昭和2年に帰国します。そして、ミコがトコの御学友に指名されて、お屋敷でトコと遊ぶことになるわけです。小学校は学習院と地元の区立小学校に分かれますが、学校から帰ってからはミコがお屋敷に向かう、ということになります。そして、英国帰りのトコからミコは英語や英国刺繍(イングリッシュ・ニードルポイント)を習います。戦後に華族制度は廃止されるわけですが、まだ、終戦まで間のある時期に1人娘のトコは婿養子をもらうのですが、その際の伯爵家のお国入りが、ちゃんと取材されているとはいえ、やたらと豪華でびっくりさせられます。講座派の歴史家が戦前の日本では封建制の残滓がいっぱい残っていて、社会主義革命の前に民主主義を徹底するために前段階の革命が必要である、と二段階革命論を論じた理由がよく理解できます。それはともかく、戦後、当然にして、六苑伯爵家はお屋敷を占領軍に接収されたりして大いに没落するわけです。それを実業家として支えるのが、日本女子大を卒業したミコなわけです。占領軍将校と渡り合って、六苑伯爵家のお屋敷に併設されていた離れでナイト・クラブを営むことから始めて、旧伯爵家が経済的に困窮しないように働きまわるわけです。独立を回復してからは、旧伯爵のお屋敷を買い取って結婚式場として、団塊の世代がその昔の「適齢期」に達する時期を見計らって事業展開したりして、ミコは女性実業家としても頭角を現します。他方で、トコは旧華族の肩書もあって、マナーの専門家としてテレビで活躍したりします。しかし、バブルの波に襲われて旧伯爵家のお屋敷は地上げにあってしまい、ミコの事業も結婚式から葬式に転換を失敗し、ミコは行方不明となります。しかし最後に、英国刺繍(イングリッシュ・ニードルポイント)の縁で2人は20年ぶりに96歳で再会する、というストーリーです。かなりスッ飛ばしましたが、トコとミコの関係は決してベッタリではありませんし、もちろん、旧藩主と家臣ではありえません。実に、ビミョーな関係です。そのうちに、大河ドラマには苦しいでしょうが、NHKの朝ドラになることを願っています。
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2022年07月02日 (土) 09:00:00

今週の読書は雇用形態感の格差を分析した経済学術書をはじめ計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、禿あや美『雇用形態別格差の制度分析』(ミネルヴァ書房)は、正規と非正規の雇用形態別の格差、特に正規職員とパート職員の間の格差について、電機製造業と小売業の実態をかなり長い期間にわたってケーススタディしています。続いて、亀田達也『連帯のための実験社会科学』(岩波書店)では、社会科学における実験を活用して人間の行動や人間の集合体である社会をどこまで探究できるのか、にスポットを当てています。森永康平『スタグフレーションの時代』(宝島社新書)では、用語としては「高圧経済」とはいっていないものの、需要が供給を超過する「高圧経済」の必要性を論じています。石川幹人『だからフェイクにだまされる』(ちくま新書)では、進化心理学の観点からフェイクに騙されるバイアスを指摘しています。最後に、鴨崎暖炉『密室黄金時代の殺人』(宝島社文庫)は、第20回『このミステリーがすごい! 』大賞の文庫グランプリを受賞した作品であり、6ケースの密室殺人の謎を解き明かしています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えていますので、少し余裕を持って新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、あさのあつこ『火群のごとく』(文春文庫)を読み、Facebookの然るべきグループでシェアしてあります。本日の新刊書の読書感想文も、適当なタイミングで個別にシェアしたいと予定しております。

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まず、禿あや美『雇用形態別格差の制度分析』(ミネルヴァ書房)です。著者は、跡見学園女子大学の研究者で、職務評価の専門家のようです。ですから、私のようなマクロエコノミストと違って、マイクロな雇用や労働を専門にしているように受け止めています。本書は3部構成となっており、第Ⅰ部で電機製造業、第Ⅱ部で小売業の、それぞれのパートタイム労働者の歴史を詳細にケーススタディした後、第Ⅲ部で職務評価などに基づいて人事や処遇の分析を試みています。出版社から見ても、完全な学術書であり、一般の学生やビジネスパーソンにはオススメしません。読み進むには、ある程度の専門性が必要です。ということで、まず、第Ⅰ部と第Ⅱ部のケーススタディは極めて詳細に渡っており、1950年代や60年代のいわゆる高度成長期、作れば売れる、商品があれば売れるという需要超過の時期に、特に電機製造業などで人手不足を埋めるために主婦を中心とする臨時工や、小売業でのパートが、縁辺労働者として雇用され、男性正規職員で構成される中核雇用者の穴埋めをする形から始まっている歴史を明らかにしています。しかし、特に電機製造業の臨時工は労働組合運動の後押しもあって正規職員に変換したり、小売業のパートも基幹パートと補完パートのうちの前者は一定割合で正社員化しています。ですから、この初期のころから、臨時工やパートは中核雇用者に対して、景気の調整弁や低賃金を生かしたコスト削減の役割を果たしていると指摘しています。加えて、1970年代の2度の石油危機や1980年代からのグローバル化、そして、1990年代初頭のバブル崩壊が決定的な契機となって、非正規雇用はさまざまな給与や人事処遇の観点からも景気の調整弁やコスト削減の目的で活用が拡大しています。第Ⅰ部と第Ⅱ部のケーススタディは大雑把に2000年までの20世紀を対象に歴史を振り返っていますが、第Ⅲ部での職務評価は2010年以降も分析対象としており、人事評価における能力評価や仕事の評価、すなわち、分業に基づく賃金では決してなく、むしろ、勤務地=転勤や正規職員に対する生活給の保証などという「職務内容に見合った賃金を拒絶する障壁」(p.303)を設けた上で、賃金という処遇ありきで分業を逆から決める、という少し歪な職務分担になっている点を指摘しています。ですから、よく話題になるメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用に当てはめれば、本書では後者のジョブ型雇用という用語しか見当たりませんが、正規職員が生活給≈年功賃金を支給され、非正規職員が職務給を支給される、ということになる理解なのかもしれません。ただし、本書では正規職員は内部労働市場、非正規職員は外部労働市場という単純な分類には懐疑的です。とてもていねいに臨時工やパートといった非正規雇用のケーススタディを積み重ね、結局のところ、男性正規職員という中核雇用者と主婦パートという縁辺雇用者、ただし、「縁辺雇用者」という用語は使いっていませんが、の対比を浮き彫りにし、後者の非正規雇用者が景気の調整弁として好況期に雇用され、逆に、不況期に職を失う、という景気循環に応じた役割を果たすとともに、景気循環からは独立にトレンドとして低賃金をテコとしてコスト削減の役目を果たす、といった姿を明らかにすることに成功しています。マイクロな雇用・労働に関する分析としてはこれで十分なのですが、私自身の感想として2点コメントしたいと思います。第1に、雇用形態論として臨時工やパートなどの非正規雇用を取り上げるとすれば、1993年のパート労働法についてはその後の改正・改悪も含めて独立した章を設けて、キチンとフォローするべきです。本書では第5章のダイエーを取り上げた章で、ホンの少しだけ触れているに過ぎません。まあ、博士学位請求論文を基にしているのですから、仕方ない面はあるとしても、一般読者への配慮も欲しかった気がします。第2に、データがどこまで利用可能なのかが不明なのですが、雇用や労働に関する分析なのですから、ケーススタディでデータを2次元のカーテシアン座標にプロットするだけではなく、フォーマルな定量分析を加えて欲しかったと思います。最後に第3に、マクロ経済学の立場から、非正規職員の役割のひとつとして「雇用の調整弁」を重視するのであれば、単に、好況期に雇用され、不況期に職を失う、というだけではなく、不況が継続していれば就労意欲を減退させて労働市場には再参入せず非労働力化してしまう傾向も指摘して欲しかったと思います。それが、バブル崩壊以前に日本の失業率を2%程度の低率に抑えた主因であることは明らかです。ただ、この点も事業所データを中心とした分析ですので、家計のデータの利用可能性が低い点から止むを得ないのかもしれません。

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次に、亀田達也『連帯のための実験社会科学』(岩波書店)です。著者は、東大人文研の研究者であり、専門は社会心理学です。ちなみに、私の知る限りでは、心理学は経済学と同じようにマイクロとマクロがあり、臨床心理学がマイクロな心理学、そして、著者の専門である社会心理学がマクロの心理学と私は認識しています。本書は岩波書店のシリーズ ソーシャル・サイエンス全8巻の第3巻に当たり、実は、第4巻が私の専門分野にさらに近くて『経済学と合理性』とのタイトルで、私はすでに生協に発注して昨日入手しています。たぶん、このシリーズはマイクロな経済学ですので、私のようなマクロ経済学を専門とする研究者には難しいかもしれませんが、出来るだけ早く読みたいと考えています。ということで、本書では自然科学ならざる社会科学における実験を用いることにより、人間の行動や社会をどこまで探究できるのか、にスポットを当てています。ただし、このテーマは余りにも広すぎますので、特に、タイトルの通り、連帯に絞って議論しています。もっといえば、連帯をもたらす共感=empathyを呼び起こす作用について実験的な手法を用いて解明を試みています。笑顔を見せれば笑顔で返されるような身体的模倣から始まって、エモーショナルな共感、さらに、エコノミストにとって気になるところの分配の公平性に対する一種の正義感までお話は進みます。ただし、エモーショナルな点については、やっぱりオキシトシンの働きが出て来てしまいます。私は従来から経済政策の目的は主観的な幸福感の増進ではない、と主張していて、もっとハードデータとして把握可能な指標を経済政策の目標にすべき、と考えていますが、やっぱり、主観的な幸福感を目標とすれば、国民の間にオキシトシンを配布すればいいのか、ということになってしまいそうな気がして、少し怖いことを改めて認識させられました。分配の公平性に関しては、オマキザルでの実験が紹介されていて、トークンとの交換でもらえるのがキュウリとブドウでは、オマキザルの間ですら不公平感を生じるとの実験結果が示されています。同じトークンとの交換でキュウリしかもらえないオマキザルは、そのもらったキュウリを投げつけて不満を表明するそうです。これだけの経済的社会的格差の拡大に耐えている日本人の従順性に疑問を感じさせられてしまいました。そして、その公平性の原点としてロールズ的なマキシミン戦略、すなわち、もっとも恵まれない階層に手厚く分配する方法を論じています。私はこれを外国人大学院留学生に対して、貧困指標の計算問題として宿題を出したりしています。それはともかく、本書では「ロールズ実験」の結果を取り上げて、格差に注目した不平等回避傾向が実験における選択を繰り返すうちにロールズ的なマキシミン的配慮に置き換わる点を強調しています。この不平等や格差に関する議論に私は一番思い入れがありますから、ほかは軽く流しますが、公共財への拠出に関するフリーライダーに対するサンクション(賞罰)に関する議論なども興味深く読みました。ただ、最終章の実験社会科学の将来のあり方については、技術的な面を強調する本書と違って、私はより倫理的な面が強調されるべきであると考えています。すなわち、例えば、開発経済学で実験を行う際に、カギカッコ付きで「流行」となっているRCT(ランダム化比較実験)については、貧困状態にある集団を処置群と対照群に分けて効果を図る方法が、ホントに開発経済学目的に照らして望ましい方法であるのか、については私は強い疑問を持っています。その昔の心臓移植なんかについて、先進的な医学の臨床実験が医学者の名声のためと批判されたこともありますし、エコノミストも心して実験に取り組む必要があるように、私には思えてなりません。

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次に、森永康平『スタグフレーションの時代』(宝島社新書)です。著者は、エコノミスト・実業家であり、少し前までは「森永卓郎の倅」という紹介も有効だったかもしれませんが、今では立派に父親から独立した存在だと思います。私は同じ作者で同じく宝島社新書で出ている『MMTが日本を救う』を読んだ記憶があるのですが、なぜか、ブログの読書感想文の過去ログを見ても出現しませんでした。謎です。ということで、本書も前著と同じ基本的なスタンスであり、デフレが日本経済を蝕んでおり、明らかにマイルド・インフレの方が望ましく、財政出動などの高圧経済が必要、という私の政策論と方向性を同じくする議論に依って立っています。ただし、ロシアのウクライナ侵攻のホンの少し前から始まっているインフレを的確に捉えて、スタグフレーションを論じています。はい。その通りです。というのは、2021年4月から今年2022年3月まで、当時の菅内閣の強引な手法により携帯電話通信料が大きく引き下げられ、消費者物価(CPI)上昇率に対しておおよそ▲1.5%近いマイナス寄与を持っていたため、CPI上昇率はいかにも低く抑えられているように見えていましたが、じつは、この携帯電話通信料を別にすれば、すでに+2%近いインフレが始まっていました。その後、ウクライナ危機にともなって石油を始めとする資源価格や食料価格が大きく高騰したり、米国金融政策が引締めモードに入って金利差が広がって円安が進んだりして、さらにインフレ率が拡大したのは広く報じられている通りです。そして、本書公刊以降に値上げが幅広く拡大して現在に至っているわけです。ですから、本書では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)がインフレを引き起こした側面が強調されています。それはそれで真実です。そして、そのインフレに対して、デフレマインドが根強く残っているために資源価格や食料品価格の高騰にもかかわらず価格転嫁が進まず、加えて、従来からの緊縮財政によって需要が伸び悩んでいるために、日本経済が一向に活性化しない現状を実に的確に分析しています。本書でも何度か繰り返されているように、経済へのダメージが大きいのはインフレではなくデフレであり、こういった経済へのダメージが通り魔的な無差別殺人を引き起こしているひとつの要因である、と鋭く指摘しています。そして、現在の萎縮した日本経済への処方箋として、緊縮財政の放棄、具体的には、消費税率の引下げ財政政策と金融政策による高圧経済の実現、などを上げています。もっとも、「高圧経済」というのは著者の意を汲んだ私の解釈であって、著者自身はそういった表現はしていません。繰り返しになりますが、基本的な方向性については、私とまったく同じと受け止めています。

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次に、石川幹人『だからフェイクにだまされる』(ちくま新書)です。著者は、明治大学情報コミュニケーション学部の研究者であり、専門は認知科学だそうです。本書では、フェイク時代にふさわしい道しるべは進化心理学である、という観点から議論が進みます。やや、私には意外でした。というのは、私の偏った知識によれば、「進化心理学」とは子孫を残す重要性を強調するあまり、もっぱら、異性とセックスするためには何が必要か、を、各個体は考えている、という認識のもとに発達した学問体系だと思っていたからです。そうではなくて、本書によれば、原始時代、というか、狩猟採集時代から協力集団と運命をともにし、単独ではなく協力して狩りを行うという利点を認識した上で、こういった集団を形成して信頼し合うことが出発点となっている、ということのようです。ですから、逆に、フェイクに騙されやすいのが人間の進化上の「欠陥」といえるかもしれません。従って、本書の構成でいえば、他人のお話を信じるバイアスを持つがために共感に訴えるフェイクから始まり、さらに似たような言葉から言語がフェイクを助長するケースがあります。本書では蛾の「モス」と「マンモス」による行き違いを例示しています。承認欲求が暴走して自己欺瞞がフェイクのきっかけとなることについては、宗教的な演出が行き過ぎるきらいを本書では指摘します。同時に、SNSがここまで広く行き渡ると、承認欲求が暴走する可能性も高まると危惧するのは私だけではない気がします。また、科学の信頼性を利用したフェイクもあると本書では指摘しており、例えば、実体験に基づくとはいえ、やや過剰に科学的な装いをまとった健康法なんかがこれに当たるかもしれません。また、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論で明らかにされた損失回避のバイアス、確率に関する誤解、あるいは、移民に犯罪者が多いといった単なる偏った思い込みなどの語階からフェイクが生まれる可能性もあります。最後に、結束を高めるために集団の外部に敵を作るなど、部族意識からフェイクによって結束が高まってしまう、ということになります。最後のフェイクはナチスのユダヤ人攻撃に見られるフェイクだということは容易に理解できるのではないでしょうか。フェイクというよりはバイアスに基づく事実の誤認なのかもしれませんが、それを悪用されればフェイクと考えるべきです。しかも、私が恐れているのはそういった誤解を意図的に生じさせるやり方が、行動科学と称して研究されていることです。ナチスまでさかのぼらなくても、ケンブリッジ・アナリティカが2016年の米国大統領選挙で悪名をはせたことは記憶に新しいと思います。こういった行動科学の研究については、大学や然るべき研究機関でしっかりとした倫理基準を作成・運用する必要を指摘しておきたいと思います。

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最後に、鴨崎暖炉『密室黄金時代の殺人』(宝島社文庫)です。著者は、新進のミステリ作家であり、本作品で第20回『このミステリーがすごい! 』大賞の文庫グランプリを受賞しデビューしています。タイトルから明らかなように、不可能犯罪の中でも密室ミステリに挑戦しています。ということで、この作品では連続して密室殺人事件が起こるという実際にはありえない設定で、いかにも本格ミステリの大がかりな舞台が用意されています。その舞台は、著名なミステリ作家である雪城白夜が亡くなった後に遺した雪白館です。この雪白館に通じる橋が落とされ、Wi-Fiや携帯電話も通じない陸の孤島がクローズドサークルになる、という本格ミステリのお約束の展開です。そして、6つの密室殺人が盛り込まれています。主人公は高校2年生のノーマルな存在ですが、3歳年上の大学2年生と雪白館に行きます。そうすると、その雪白館に主人公のかつての部活仲間がやって来て、「光速探偵ピエロ」として謎解きに当たります。その他の登場人物は、雪白館のメイドと支配人、国民的アイドルとマネージャー、貿易会社社長、医師、密室探偵、日本語が流暢英国人少女、そして、極めつけで怪しい宗教団体の幹部などなどです。これらの登場人物のキャラ立てがかなり独特で、しかも、ネーミングが常識外れでおかしいのですが、それは別としても、6つもあるのですから、やや的外れに見えるものも含まれていますが、本格ミステリとしてはかなりいいセンいっていると思います。特に、当然かもしれませんが、最後のトリックが一番よかったように私は感じました。なお、やや軽いネタバレながら、主人公とその連れの大学生とかつての部活仲間の3人は殺人犯ではありませんが、プロの殺し屋が混じっていたり、恨みを持たれていて殺人の標的にされる可能性を自覚していて逃走しようとする人物がいたり、怪しげな新興宗教の幹部が含まれていたり、キャラの点でもいろんな仕掛けがあります。その中で、私が個人的に評価している点は、明るいタッチでストーリーを進めていることです。繰り返しになりますが、ネーミングも含めてコミカルな表現といってもいいかもしれません。加えて、ストーリー展開以上に表現がよく練られており、読みやすく仕上がっています。私なんかはスラスラと進み過ぎて、作者の仕掛けを見逃しているポイントがいくつもありそうで、やや怖い気すらします。独特の文体である点も新人作家としてはよく考えているような気がします。ただし、最後に、トランプに「十戒」、すなわち、ミステリ的なノックスの十戒とユダヤ教のモーセの十戒、の両方が重ねられている点、というか、十戒に見立てた殺人、というのは、評価する読者もいるかも知れませんが、私にはちょっとやり過ぎに感じました。やや無理やり感がありました。もちろん、ハナからリアリティは一切無視して謎解きに特化していることは理解しますし、それだけに、何らかのストーリーとして読者を引き付ける要素として「見立て殺人」が欲しかったのだろうという点は理解します。
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2022年06月25日 (土) 09:00:00

今週の読書はかなり難解な経済学の学術書からミステリのアンソロジーまで幅広く計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)は、マイクロ経済学の理論の中心のひとつを形成する選好や選択の基礎となる効用=utikityに関して議論し、さらに、そもそも、エコノミストが何を考察しているのか、何を分析しているのか、について哲学的な考えを取りまとめています。かなり専門性の高い学術書です。続いて、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)では、歴史的に人間の寿命が延びてきた医学や衛生学の進歩を跡付けるとともに、ケース-ディートンの研究成果に着目して、長らく延び続けてきた寿命が反転して、逆に短縮化している可能性について議論しています。稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)は、サブスクで限界費用が無料になった映画やドラマの視聴について、タイトル通りに、早送りで観る人たちについて考察しています。私は特に財の消費方法についてエコノミストとしてわだかまりはありません。続いて、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)は、戦前・戦中的な個人よりも全体を尊ぶ、まさにその意味で全体主義的な部分が決して敗戦で一掃されず、今でも戦争を美化し占領軍に「押し付けられた』という意味で憲法「改正」を目標とする勢力が残存した理由について議論しています。最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)は昨年年央に出版されて、ミステリを中心にアンソロジーを編んでいます。それほど大した作品が集められているとは思えませんが、私の好きな作家の作品が収録されています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計116冊となりました。半年で軽く100冊を越え、昨年の112冊のペースを超えました。ですので、少し余裕を持って、新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、近藤史恵『ホテル・ピーベリー』と方丈貴恵の『孤島の来訪者』を読みました。特に後者については、これで方丈貴恵の主たる作品、すなわち、長編ミステリ3冊は全部読んだと思います。本日の読書感想文と併せて、これら2冊もFacebookの然るべきグループでそのうちに個別にシェアしたいと思います。

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まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)です。著者は、米国ウィスコンシン大学の名誉教授です。英語の原題は Preference, Value, Choice, and Welfare であり、2011年の出版です。本書はミクロ経済の選択に関する学術書であり、ハッキリいって難しいです。200ページほどのボリュームであるにもかかわらず、一応、大学の経済学部の教授職を務めている私が3日かけて読んでいます。学部生や一般のビジネスパーソンにはオススメしません。専門分野が近い大学院生レベルの理解力が必要そうな気がします。まず、何を本書で議論しているかといえば、マイクロな経済学者が何をやっているのか、そして、その方法論は正しいのか、という議論から始めています。そして、私の理解では、マイクロな経済学における選択の基準となっている効用=utiliyuとは、いったい何なのか、という問いに本書では答えようと試みています。そして、著者の結論として早々に示されるのは、効用とは総主観比較評価をもとにしていて、これに基づいて経済的な選択が行われているにもかかわらず、経済学者による選択理論、例えば、顕示選好などは総主観比較評価に基づいた効用概念となっていない、と批判します。私のようなマクロエコノミストからすれば、選択が総主観比較評価に基づいているという点は当然なのですが、逆にいって、マイクロな経済学者が総比較評価以外の評価で選択を決定しているとは、とても思えません。しかし、セン教授の選択理論なんかは、確かに、本書で指摘しているように総主観比較評価ではないかもしれない、という程度には理解します。でも、経済学者がそれほど大きな問題と考えていない「効用とは何か」という点について、ここまで取り上げて議論する意味は私には理解できません。こういった議論を、さらに、ゲーム理論に拡張し、さらに、厚生経済学にも適用されます。ここまでは書評をパスします。私が何とかキャッチアップしたのは、最後の経済心理学に入ってからです。選択には合理性という観点から、すべての選択肢の間で効用の順序付けが出来るという意味での完備性と順番が逆転することがない推移性を満たすと合理的な選択、ということになり、著者は加えて文脈からの独立性と選択の決定性を4条件としているのですが、経済心理学に入れば、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論が登場し、文脈からの独立性を犠牲にし、さらに、完備性と推移性を修正した上で、決定性を保持する、といわれれば、よく理解できます。最後に、マクロエコノミストである私にとって難しかったのはもう2点あり、第1は英語と日本語の対応関係です。本書ではadvantageという英語に「便益」という日本語を当てています。確かに、何らかの「お得感」というくらいの表現かもしれませんが、実に何度も何度も登場します。第2に、マイクロな経済学における選択の問題を哲学していますので、序数的なカウントを前提にしています。私のようなマクロエコノミストには、これが馴染みありません。マクロ経済学ではGDPにせよ、インフレ率にせよ、失業率にせよ、すべてが基数的なカウントとなります。すなわち、順番だけが問題なのではなく、絶対量の数値が把握できるわけです。マイクロな経済学では選択を考える際に、その昔のベンサム的な功利主義をとうに卒業していますので、効用=utilityを定量的に把握することをしません。それでも、効用が何になのかについては重要、というのが経済哲学の考え方なのかもしれません。繰り返しになりますが、それなりの専門性高く、しかも、必要性も高い、という読者にのみオススメします。

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次に、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)です。著者は、パリ在住の肝臓・消化器疾患の専門医、医学博士であり、欧州最大の病院グループである公的扶助パリ病院機構で特別研究員を務めています。フランス語の原題は La Grande Extension であり、2021年の出版です。本書は4部構成となっていて、先史時代から20世紀初頭の第1次世界大戦のグレート・インフルエンザ、いわゆるスペイン風邪までを「微生物の時代」とし、大雑把にそれ以降、特に第2次世界大戦後の1945年以降を「医学の時代」として、時代順に医療や衛生の歴史を振り返った後、21世紀の健康を巡る問題を取り上げ、最後に、寿命が後退し始めた直近足元の状況を取り上げています。第1部と第2部は、それほど私自身も興味ないのですが、後半の2部、21世紀に入ってからは医療や衛生だけではなく、健康格差や慢性疾患、特に、大きな問題として、タバコ、アルコール、運動不足、肥満を4つのリスクとして上げています。そして、本書の最大のテーマであろう寿命の後退については、経済社会的な問題としてケース-ディートン夫妻の研究成果、すなわち、非ヒスパニックの白人中年男性の米国人の死亡率上昇について、さまざまな考察を展開しています。もちろん、健康や寿命については、医療と衛生だけではなく、経済社会的な食事、というか、栄養状態とかが関係し、本書で指摘しているタバコ、アルコール、運動不足、肥満の4つのリスクも重要です。ですから、ごく単純にオピオイドの過剰摂取だけでもってケース-ディートンの研究成果を説明するのはムリがあります。しかも、それに自殺が加わります。それにしては、本書では精神疾患についてはかなり手を抜いています。平均寿命の延びが止まって、一部のクラスでは反転を見せているのは事実でしょうし、おそらく、永遠に寿命の延伸が続くとは誰も考えていません。ただ、ケース-ディートンによる『絶望死のアメリカ』(みすず書房)を私も読んで、昨年2021年9月の読書感想文をポストしていますが、この寿命の後退の原因は、自殺、薬物、アルコール、クオリティの低い医療制度、そして、何よりも貧困や格差の拡大であると分析されており、その上で、医療制度の改革、労働組合とコーポレートガバナンス、累進税制とユニバーサルなベーシックインカムの導入、反トラスト政策の推進、レントシーキングの防止策、教育制度の改善、などを対応策として上げています。本書でも、基本的な対応策のラインはケース-ディートンと変わりありませんが、特に、本書独自の分析、というか、表現として行動と環境に着目しています。環境とは、気候を指しており、気候変動が人類の寿命に影響する可能性は鋭く指摘されています。繰り返しになりますが、人類の平均寿命がどこまでも果てしなく延びてゆくとは考えられないわけで、その上で、ケース-ディートン的な個別米国における限定されたクラスの分析ではなく、地球上の人類の寿命を考えるのであれば、確かに、寿命の後退は気候変動=地球温暖化によってもたらされるのかもしれない、と専門外の私なんかは考えてしまいました。

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次に、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)です。著者は、ライター、コラムニスト、 編集者と紹介されています。本書では、タイトル通りに、映画やドラマを早送りで観る人たちについて考えています。一言でいえば、映画やドラマを芸術として鑑賞するのではなく、コンテンツとして消費する、という表現が取られていて、判ったような判らないような言葉遊びと感じる読者もいるかも知れません。サブスクで限界的に無料になったこういった「見放題サービス」二無限とは言わないまでも、大きな需要が生じるのは当然で、その需要を満たそうとすれば時間を圧縮してタイパのいい早送り、というのはある意味で当然、という気もします。ただ、小学生と同じようなレベルで、映画やドラマを「観た」ことにしておかないと、仲間内での会話についていけない、という意味で「幼稚化」との考えも成り立つかもしれません。さらに、見ていないと仲間内で話題についていけずに、本書では「マウントを取られる」、と表現してます。加えて、映画やドラマのこういった早送りで観るコンテンツ消費から、生産者サイドにリパーカッションがあって、映画やドラマでやたらとセリフで説明してしまう例が現れ始めた可能性についても言及しています。ということで、私から独自に2点指摘しておきたいと思います。第1に、映画やドラマを早送りで観るというのは、製作者や提供者の意図に反している、あるいは、通常のやり方から異なっている、という趣旨なのかもしれませんが、そんな財・サービスの使用や消費なんていくらでもあります。まず、何を持って問題とする、という表現は違うかもしれませんが、観察対象に置いて解明しようとしているのか、私には十分には理解できませんでした。まあ、ほのかには判るわけですが、十分には理解できなかったわけです。包丁を調理に使うのではなく人殺しに使う、といった極端な例は別としても、例えば、自動車やオートバイを本来の移動や運輸で使うのではなく、ドライブ、あるいはもっと言えば、スピードを出してストレス解消、スカッとする、という用途に使うのはどうなのか。それがさらに進んで、暴走族ならどうなのか。いろんな論点があると思います。あるいは、映画やドラマに近いところでいえば、書画・骨董や稀覯本を鑑賞目的ではなく、資産として値上がり待ちで所有するのはどうなのか。エコノミストとしては、すべてがOKに見えます。その意味で、理解が及びませんでした。第2に、映画やドラマを早送りしてまでして観て、知り合いから観ていないことを指摘されてマウンティングされるのを防止するという意味が、これは、著者の言いたい意味ではなく、早送りして見る人の言う意味が、私には判りません。私はもともとマウンティングを取る意欲に欠けていて、生物的なオスとして欠陥がある可能性は自覚しています。ついでにいうなら、1980年代後半のバブル期にいわゆる「適齢期」を迎えたために、両方相まって結婚が遅れたのだろうと自己分析していたりします。それはともかく、映画やドラマに関してマウントされるというまでのポピュラリティある映画やドラマがもしあるのであれば、それは著者のいう芸術を飛び越えて教養と表現すべきではなかろうか、とすら思います。この点も浅はかにも理解が及びませんでした。いずれにせよ、消費財、あるいは芸術であっても、非常に変わっら使い方をし、そして、それが一定理にかなっている、というのはままあることです。テレビなんかでも面白おかしく紹介されています。違いますかね?

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次に、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)です。著者は、戦史・紛争史の研究家だそうです。私はそれほど馴染みがありません。本書はタイトルから直感的に受ける印象は戦史とかの関係なのかもしれませんが、内容は敗戦によって決して昔の「大日本帝国」的な非民主的だった日本が民主的な国家に生まれ変わったわけではない、ということで、私も大いに賛同します。誰も責任を取らずに国民や部下を使い捨てにするような非民主的な昔の日本は敗戦では一掃されなかった、ということですから、歴史観としては私と同じで民主主義的な革命、ないし、大改革が必要と考えるべきです。そして、その先に社会主義革命を考えるのであれば、まさに、戦前からの講座派的な歴史観と一致します。まず、現状分析として、かつての戦前・戦中的に個人の価値観が国家や集団に従属するという部分が日本には大きく残っていることは事実として認められるのだろうと私は考えます。そして、その最悪の例として本書では靖国神社や太平洋戦争の「美化」、例えば、植民地アジアを欧米列強から「解放」する戦いであったとみなしたり、逆に、南京事件などの日本軍の蛮行を否定したりする歴史修正主義を上げています。そして、戦後の憲法を占領軍に「押し付けられた」と考えて改憲を企てる勢力も広く残っている、というか、それを党の綱領に掲げる政党が国会の第1党として政権を担って総理大臣を輩出しているわけです。私自身は、個人として戦死者を偲んで靖国神社に参拝するのは、百歩譲ってOKとしても、公人として戦争賛美につながりかねない靖国神社参拝はお止めになった方がよろしい、という考えです。そして、本書では保守と革新という言葉でそういったグループ、ないし、アンチ・グループを呼んでいますが、私は保守というよりは反動なのではなかろうかという気がします。私の考えでは、歴史は前進するものであり、その前進を止めようとするのは保守、前進どころか歴史を前に戻そうとするのが反動、そして、歴史をさらに前に進めようとするのが進歩派なのだろうと考えています。そして、こういった日本の民主化が不徹底に終わったのは、本書で指摘する通り、東西冷戦であることは明らかなのですが、では、なぜ、ドイツではナチスが徹底的に否定されている一方で、日本の民主化、というか、戦前の戦争推進派の否定が進んでいないのか、という疑問は残ります。私も専門外ですので大きな謎です。まあ、西欧と極東という位置だけではなく、民度の差がある、といわれればそれまでなのかもしれませんが、謎は謎です。もうひとつの要因として、本書の著者は教育を重視しています。批判的な観点を育成する教育になっていない、というわけです。ただ、これは双方向であって、教育に批判的な人格形成の要素が盛り込まれていないから、個人として民主主義的に未成熟であるともいえますが、民主主義が不徹底だから教育のこういった個人としての批判的見方の涵養が含まれない、とも考えられます。ただ、教育の一端を担う身としては考えさせられる見方であることは自覚しています。いずれにせよ、日本の経済社会、あるいは、日本人の国民性などを考える上で重要な視点を提供してくれた読書でした。

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最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)です。なかなか豪華にも、人気のミステリ作家6人によるアンソロジーです。収録順に、乾くるみ「夫の余命」、米澤穂信「崖の下」、芦沢央「投了図」、大山誠一郎「孤独な容疑者」、有栖川有栖「推理研VSパズル研」、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」の6作品で構成されています。すべて、文藝春秋社の『オール読物』に収録された作品です。最初の「夫の余命」は、余命1年と宣告されながらも結婚した若いカップルについて、日付を明記しつつ時系列を逆にたどります。『イニシエーション・ラブ』の作者らしく、みごとに読者をミスリードします。「崖の下」は、男女4人のスキーヤーが雪山で遭難し、うち1人が明らかな他殺体で見つかった殺人事件の謎解きです。凶器は何か、がポイントになります。「投了図」は、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のための緊急事態宣言か何かの行動制限下で、古本屋の主人について、将棋のタイトル戦の中止を訴える張り紙をした自粛警察ではないかと、妻が疑います。ミステリとみなさない読者もいそうです。「孤独な容疑者」は、迷宮入りした過去の殺人事件を再捜査する中で、アリバイトリックを解き明かす、という作品ですが、こんなことが現在の日本で可能なのだろうか、という意味で、やや納得いかない点が残りました。「推理研VSパズル研」は、学生アリスの作品です。パズル研から推理研に出題された謎解きについて、江上部長が見事に解決するという論理パズルをテーマにしています。最後の「2020年のロマンス詐欺」も、コロナ禍で行動制限が続く東京で、山形から出て来たばかりの大学生がロマンス詐欺の片棒を担ごうとしつつも、思い込み激しく見事に脱線する、というストーリです。私の読み込み不足なのかもしれませんが、少し物足りない作品、疑問ありの作品が多く、これだけの作者を集めたにしては、それほどいい出来のアンソロジーではありません。その中で、冒頭の乾くるみ「夫の余命」と米澤穂信「崖の下」の2作が光っていると私は思います。逆に、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」はあまりにナイーブ、というか、いかにも田舎から東京に出てきたばかりの大学生を主人公に据えるのがよさそうな作品、という気がします。ちなみに、どうでもいいことながら、「ナイーブ」という用語の私の用法について、簡単に記しておきます。その昔、絵画に「ナイーブ派」ないし「ナーブ・アート」一派がありました。19世紀末から20世紀初頭ですから、印象派なんかとよく似た時期に活躍していて、今でこそ「素朴派」と邦訳されていますが、私の知る限り、その昔は「稚拙派」と呼ぶ評論家がいたりしました。「ナイーブ」とは決してニュートラルな表現ではないし、ひょっとしたらよくない意味で使われている可能性がありますのでご注意ください。
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2022年06月18日 (土) 08:30:00

今週の読書は日本共産党国会議員による経済書をはじめ計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)は日本共産党の国会議員が新自由主義=ネオリベな現在の経済政策に代わるリベラルな経済政策を提言しています。私はほとんどの論点で賛成なのですが、金融政策運営と財政収支均衡に関して疑問を持っています。続いて、ジリアン・テット『ANTHRO VISION』(日本経済新聞出版)は英国「フィナンシャル・タイムズ」紙のジャーナリストが、経済や金融に人類学的な視点を導入する利点を強調しています。さらに、宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)は人気のミステリ作家の時代小説仕立ての謎解きです。「きたきた捕物帖」シリーズの第2巻です。そして、宮内悠介『かくして彼女は宴で語る』(幻冬舎)は、これも人気のミステリ・SF作家が実在の「パンの会」を舞台にした短編ミステリで、女給が安楽椅子探偵となって謎解きをします。最後に、おおたとしまさ『ルポ 名門校』(ちくま新書)では、日本各地の高校の名門校を取り上げて、単なる大学進学校とは違う顔を持つ名門校の取材結果を取りまとめています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計111冊となりました。6月半ばで軽く100冊を越えました。昨年は6月最後の土曜日で112冊でしたので、昨年を少し上回るペースです。ですので、少し余裕を持って、新刊書ならざる読書にも励みたいと思います。また、本日の読書感想文は、Facebookの然るべきグループでそのうちにシェアしたいと思います。

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まず、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)です。著者は、日本共産党の国会議員であり、経済問題の論客としても知られています。本書では、新自由主義=ネオリベな冷たく弱い経済から、より分配を重視した表題通りのやさしく強い経済を目指す経済政策のアウトラインを示す試みがなされています。ただ、150ページ余りのやや小振りな経済書ですので、足りない部分はいっぱいあります。2章構成で、第1章はネオリベ経済政策への批判に費やされており、第2章が私からすればメインとなります。その第2章では、第1章からの議論の続きで、極めて大雑把な私の理解ながら、冷たい=格差拡大、弱い=成長できない、から、結局、岸田内閣が腰砕けになってしまった分配の重視、ないし、成長から分配への経済の流れを戻す試みがいくつか提案されています。成長から分配へ、の「やさしい」方の大きな流れについては、私も従来から主張しているように、大企業を中心に内部留保利益=利益剰余金への課税、さらに、富裕層への課税強化、そして、消費税率の引下げを主張しています。まったくその通りです。そして、第2章後半の「強い」方の政策としては、賃上げと社会保障の充実による所得の底上げ、環境重視の気候変動抑止の政策による成長の強化、ジェンダー平等の達成による成長力の強化、個人情報保護を徹底したデジタル社会の発展の方向性、そして、教育や研究の自由を保証し中小企業を支援するなどの人的資本の重視の5点を上げています。私は諸手を挙げて賛成です。一応、というか、何というか、富裕層減税によるトリクルダウンが生じなかったという Hope and Linberg "The economic consequences of major tax cuts for the rich" キチンとした最新の学術文献も参照されています。その上で、あえて、その上で、3点、大きな2点とやや細かな1点について疑問を呈しておきます。まず、本書では、中央銀行の金融政策に関して何の言及もありません。大きく片手落ちだと私は感じています。私は現在の黒田総裁のもとでの異次元緩和は継続されるべきであり、金融政策が引締めに転じるのは間違った政策だと考えています。もっといえば、現在の水準くらいの円安は日本経済に決して大きなマイナスではなく、少なくとも政策的に、為替介入であれ、金融政策であれ、為替をターゲットにした政策によって「円安修正」を行うべきではないと考えています。加えて、物価についても、2013年には+2%のインフレ目標が政府と日銀で合意されており、現状のコアCPI上昇率+2%近傍の物価上昇は批判の対象にはならないと考えています。おそらく、私を含めた多くのエコノミストは、年内に+5%には遠く及ばずコアCPI上昇率はピークアウトするものと予想しています。その上で、黒田総裁の例の「物価上昇に対して家計の許容度が上昇している」発言に、たぶん、著者も批判を加えたのであろうと想像していますが、まさか、今さらながらに「中央銀行は政府から独立」なんてお題目で逃げを打つことなく、国民生活に大きな影響を及ぼす金融政策に関しても正面から発言することを期待します。もうひとつの大きな点は、財政政策における収支均衡の問題です。10年余前に当時の民主党を中心とする政権交代がありました。その差異、私はまだ総務省統計局に勤務していましたが、マニフェストに盛り込まれた政策を実行するための財源を確保するために、いわゆる「事業仕分け」が行われて、結局のところは緊縮財政に陥って国民の支持を失った記憶があります。そのあたりについても、例えば、プライマリ・バランスの黒字化達成目標なども何ら言及はありません。最近の岸田総理による軍事費拡大方針の表明についても、軍事費拡大とともに財源についても日本共産党の志位委員長がツイッタで疑問を呈しています。軍事費拡大は反対だが、国債による財源調達ならもっと反対、ということなのでしょうか。そうだとすれば、日本共産党が政権を取った際には国債ならざる財源で財政政策を運営するのか、という疑問もあります。もっと簡潔に、れいわ新選組と同じく「国債による財源調達もアリ」というのを大っぴらに認めるのも一案かと思わないでもありません。最後に、小さな点ですが、プライバシの確保についてです。私は市場との関わりにおけるプライバシがどこまで保護されるのかについては、それほど自信がありません。もちろん、他方で、市場との関わりのないベッドルームのプライバシについてはガッチリと保護されるべきであると考えますが、市場と個人の間の売買や資産購入や雇用と労働については、それほどプライバシはないものと覚悟しています。マネーロンダリングとまでいわないとしても、市場との取引情報はプライバシ保護の対象とすべきかどうか、かなりの程度にオープンにすべきではないのか、私は現時点でEUのGDPRのような規制はやややり過ぎのおそれがあると考えています。GAFAは、こういった市場との関係の個人情報を収集していますので、私自身はそれほど問題は大きくないし、少なくとも、現時点で国民が一方的に大きな損失を被っているのではない、と考えています。アマゾンのリコメンドなんかも、プライバシ侵害というよりは利便性の向上をもたらす部分も無視できない、と考えています。このプライバシの問題はやや別としても、中央銀行の金融政策と財政政策の大きな論点については、ぜひとも、正面から論じていただきたいと思います。

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次に、ジリアン・テット『ANTHRO VISION』(日本経済新聞出版)です。著者は、フィナンシャル・タイムズ紙(FT)のジャーナリストであり、ケンブリッジ大学から社会人類学の博士号を取得しています。FTは日経に買収されたとはいえ、ロンドンをベースにした経済紙であり、人類学とは関連薄い気もしますが、逆に、というか、それだけに、経済や金融に関する問題を読み解く際に、経済学や経営学ではなく人類学を応用する可能性を本書では議論しています。そして、その試みはハッキリいって失敗しています。そりゃあそうです。ムリがあります。確かに、感染症のパンデミックについては、まだ、人類学的な観点からのアプローチが可能だといえます。本書だけではなく、例えば、イタリア人はハグをするので感染が拡大した、なんて議論もありました。でも、金融などのデータがしっかりした分野ではモデルをキチンと組んで分析する学問体系が有利に決まっています。私は人類学はほとんど知りませんが、データのに基づくモデルを組んで分析する学問であるかどうかは疑問を持っています。もちろん、何らかの科学である限りはモデルを組んで分析をするわけですが、そのモデルがデータを基に組まれているとは限りません。経営学のケーススタディなんかは、観察結果をデータ化するのではなく、別の方法でモデル化しているようにしか私には見えません。ですから、ケーススタディでは良好な結果があ示されているとしても、確率的に失敗ケースがいっぱいありそうな気がしてなりません。失敗ケースに目を向けることなく、成功ケースだけを取り出してケーススタディしても、幅広い応用が可能であるかどうかは怪しいと思います。ただ、本書でも指摘しているように、将来の不確実性が大きく高まっている時代にあっては、経済学や経営学だけではない幅広い知見を総動員する必要が高まっていることも事実です。最も、他方で、AIがビッグデータを用いて問題解明に当たる時代なのですから、人類学の方法論から大きく遠ざかっているのも認めざるを得ません。加えて、著者自身が明らかにしているように、著者はリーマン・ブラザーズの破綻も、ケンブリッジ・アナリティカの暗躍も、実は、見逃していると明記しています。まあ、人類学の知見がそれらの対しては実践的には役に立たなかったわけです。当然のように、失敗ケースも成功ケースの裏側に数多くあるわけで、そのあたりのバランスを取りつつ読み進むのが吉かもしれません。

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次に、宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)です。著者は、我が国でももっとも売れているミステリ作家の1人です。本書のサブタイトルは「きたきた捕物帖(二)」となっていて、一昨年2020年9月26日に読書感想文をポストした『きたきた捕物帖』に続いてシリーズ第2弾となります。出版社の方でも力が入っているようで、特設サイトを開設していたりします。キャスティング、というか、人物相関図がとても判りやすくなっています。しかも、このシリーズに限定せず、同じ作者の他の作品とのリンケージも明らかにしてくれています。例えば、本書の主人公である北一が住んでいるのは、勘右衛門が差配する通称富勘長屋なのですが、『桜ほうさら』の主人公であった古橋笙之介も江戸では同じ富勘長屋に住んでいました。また、出版社は違いますが、政五郎親分やその配下だった記憶力抜群のおでこは「ぼんくら」シリーズにも登場します。おでこが記憶をたどるのは「ぼんくら」シリーズとまったく同じだったりします。ということで、この作品は3章構成なのですが、ストーリとしては2つの物語が詰め込まれています。第1章では、宝船の七福神の絵から子供を授かった家でありながら、子供が亡くなった後には弁財天が下船していた絵が見つかった事件が2件相次いで生じ、その絵を書いた酒屋で騒動が持ち上がって、町衆が解決するものの、北一は遅れて真相に気がつく、という軽い謎解きです。第2章と第3章が続き物で、弁当屋の親子3人がトリカブトの毒で死にます。そして、拷問により犯人が「自白」し、そのまま獄死して一件落着となるのですが、真犯人を北一が追いかけます。その北一を奉行所の検視役である栗山周五郎がバックアップします。この一家3人殺人事件で政五郎親分やおでこが登場します。実は、私は宮部みゆきの時代小説のシリーズの中では「ぼんくら」がもっとも好きで、出来もよかったと評価しているのですが、どうも、このままシリーズの続きは出ないようなウワサです。従って、というわけでもないのですが、出版社が違うにもかかわらず、ホンの少しだけリンケージをこの「きたきた捕物帖」シリーズに残しているのではないか、と私は想像しています。ひょっとしたら、この「きたきた捕物帖」は宮部みゆきの時代小説の集大成となるシリーズなのかもしれません。本書だけは大学の生協で買って読みました。1割引は有り難いです。

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次に、宮内悠介『かくして彼女は宴で語る』(幻冬舎)です。著者は、人気の若手ミステリ・SF作家であり、私はどちらかというとSF作家として評価していたりします。本書はサブタイトルに見えるように、明治期末から大正期にかけて活躍した作家や画家といった文人墨客が「牧神=パンの会」に集まって、各回ごとに謎解きをする、という趣向です。5話構成となっています。ホントは、それだけでなく、実は、最終話にちょっとしたサプライズが隠されていたりします。この作品の登場人物は、私もそう詳しくないのですが、ほぼほ実在していたようですし、「パンの会」そのものは確実に実在したもので、『スバル』系の詩人たちと『方寸』系の画家たちが語らって作ったロマン主義運動のサロンだったと、物の本には書かれていたりします。しかも、その第1回の集まりが「第一やまと」という料理屋で開催されたのも事実でそうです。そして、毎回謎解き、ということで、女給のあやのが安楽椅子探偵の役割を演じて解明をして、パンの会にご出席の上流階級の文人墨客を出し抜きます。ただ、ミステリに詳しい読者であれば、これがアシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズで給仕のヘンリーが謎解きをするのと同じ趣向であることは明確でしょうし、本書の第1章の最後の覚え書きでも作者自身がそう記しています。というか、この覚え書きを付すのもまた「黒後家蜘蛛の会」シリーズと同じといっていいかもしれません。そして、謎解きそのものは、ハッキリいって、凡庸です。しかも、「黒後家蜘蛛の会」と同じで、真相を確かめようがありませんから、まあ、言葉は悪いですが、出席者を納得させ説き伏せればそれで謎解きとして成立、ということになります。ただし、「頃後家蜘蛛の会」シリーズと異なる点がいくつかあります。まずは、「黒後家蜘蛛の会」シリーズの登場人物が、たぶん、上流階級ではあっても、まあ、一般ピープルと大きくは違わない人物像を前提としているのに対して、この作品では明治-大正期の実在の文人墨客を登場させていますし、それなりに、私のようなシロートからすれば、雰囲気ある会話をしているように見えます。ただ、登場人物に生気は感じられません。会話が面白いだけです。そして、「黒後家蜘蛛の会」シリーズと圧倒的に異なるのは、最終話でいくつかのとんでもない仕掛けがなされていることです。まず、ややネタバレかもしれませんが、謎を解く安楽椅子探偵役のあやの正体に驚かされる読者が多いと思います。そして、これもネタバレしてしまいそうなのですが、ある意味でメタ構造になっていて、最終5話で前の謎解きが振り返られるとともに、本書を離れた歴史のタイムトラベルめいた小説としての構造に驚かされます。いや、ミステリなのに、やや突っ込んだ感想文になってしまいました。少し反省しています。

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最後に、おおたとしまさ『ルポ 名門校』(ちくま新書)です。著者は、教育ジャーナリストであり、同種のものとして、私は同じ著者の『名門校とは何か?』(朝日新書)を2015年5月23日の読書感想文でポストしています。ということで、ここでいう「名門校」というのは、高校レベルの名門校です。ですから、大学ではありません。最後の方で明かされますが、著者の頭には、英国のパブリック・スクールのようなものがイメージされているようです。そして、決して大学進学一本槍ではないティーンエイジャーのころの高校生活の楽しさを満喫できる名門校が取りそろえて紹介されています。私も本書の見方には賛成です。というのも、学年が進むほど専門性が高くなり、高校というのは、ギリギリでその後の専門分野が入り乱れて学生間での異質性がかなり高いからです。異質性高くダイバーシティが進んでいる方が、ある意味で、友人関係というのは面白い可能性があります。一応、ここであからさまな自慢なのですが、私と2人の倅が卒業した高校は3校とも本書で取り上げていただいております。一応、我が母校は名門校の末席に連なっているという誇りは確認できました。ただ、男女比では圧倒的に男子校が多いような気がします。もちろん、公立校も数多く取り上げられていますし、私立高でも男女共学校は少なくないのですが、やっぱり、男子単学が多いのは、まさか、取材不足ではないのでしょうが、どうしても大学進学がひとつの名門高校の目安になるためであると私は理解しました。ただ、少なくとも、私の出身校は本書で言うところの自由とか、リベラルとよくマッチしています。バンカラで統制の行き届いた高校も、ある意味では魅力なのかもしれませんが、名門校とまでいわないとしても、特色ある教育という意味では自由な校風とリベラルな教育、ということになりそうです。ただ、本書では緩いという意味での自由ではない、と指摘していますが、私の出身校はハッキリいって緩かったような気がします。そして、自由な校風であるのは、言って悪いですが、そもそも大学受験に適した、というか、それなりの大学に合格するくらいの学力を持った生徒を集めているから、シャカリキになって詰め込む必要がない、というのもあります。生徒や学生ではなく、ある学校を名門校に育て上げていくためには、大学進学実績を作り上げるのが近道であることはいうまでもありませんし、実際にそういうコースを辿って名門校となった高校も少なくないと思いますが、その名門校といわれるステータスを得ることができれば、後は、自然といい生徒が集まっていい大学進学実績が残せる、という好循環に入るような気もします。ただ、そういった名門校入りすることがそもそも難しいのかもしれません。
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2022年06月11日 (土) 09:00:00

今週の読書は興味深い経済書のほか合わせて計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、ダニエル・サスキンド『World without Work』(みすず書房)は、マシンの能力が人間に追いついて超えるとどうなるか、という思考実験の場を与えてくれます。「特異点=シンギュラリティ」という言葉こそほとんど使っていませんが、その後の経済や労働についてのヒントが得られます。パラグ・カンナ『移動力と接続性』上下(原書房)は、気候変動と地球温暖化が進み、内陸部であれば高地、あるいは、北方の未開の地に移住する可能性を示唆しています。ただし、移民は現地に「同化」することが前提の議論のような気がしますので、多様化やダイバーシティとは少し違う気もします。塩田武士『朱色の化身』(講談社)はグリコ・森永事件を扱った『罪の声』の作者の手になるミステリです。ガンで闘病中の父からの依頼により女性を探す中で、さまざまな社会問題を含めて事実関係が明らかになります。最後に、ジョン・メイナード・ケインズ『ケインズ 説得論集』(日経ビジネス文庫)はインフレとデフレ、あるいは、金本位制などについて論じています。100年近い昔の議論とはとても思えないほど、現在のマクロ経済にも通ずる慧眼に驚かされます。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計106冊となりました。6月半ばで100冊を越えましたので、何とか、年間200冊を少し超えるレベルには達するのではないかと考えています。これら新刊書読書のほかに、先週書いておくのを忘れたのですが、6月に入ってから、東野圭吾『美しき凶器』(光文社文庫)を読みましたのでFacebookでシェアしておきました。

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まず、ダニエル・サスキンド『World without Work』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学のエコノミストであり、AI倫理研究所の研究者でもあります。英語の原題はそのままに World without Work であり、2020年の出版です。3部構成となっていて、第1部が背景、第2部が脅威、第3部が対策を扱っています。ということで、とても秀逸な経済書です。現状分析にやや偏って、対応策が少し弱い気もしますが、私なんかはもっとそうです。まずもって、いわゆるシンギュラリティ、すなわち、マシンの能力が人間を超える、という意味を本書の著者は正確に理解してます。もちろん、本書でも的確かつ明確に指摘しているように、シンギュラリティが突然やって来て、今日からは昨日までとまったく違う、というわけではなく、徐々に切り替わっていくのでしょうが、要するに、機械が人間の能力を超える、ということは、人間が何もしなくていい、というか、何も出来なくなってしまう、ということなのです。機械がすべてをやってくれて、特に、機械が機械を作り出したり、修理したり出来る、という意味なのです。ですから、本書の第2部で指摘しているように、機械は徐々に人間のタスクを侵食してきて、すなわち、人間労働や芸術活動までを代替してきて、そして、シンギュラリティからはすべてを代替することになります。シンギュラリティまでは、スキル偏重型の技術進歩の下で、マシンを扱える高スキル高賃金労働とマシンではなく従来型の人間労働に依存する低スキル低賃金労働に二極分解していましたが、シンギュラリティ以降、人間はマシンを扱う能力がマシンよりも低くなるわけですので、マシンを扱うのはマシンであって、人間はすること、というか、労働という名の活動は不要になります。より高性能なマシンを作るのは現在あるマシンであり、人間ではありません。ですから、馬が自動車に取って代わられたのと同じです。今でも馬はいて、何らかの活動にいそしんでいるわけですが、もはや、自動車が現れる前に馬が運送や移動で果たした役割はほぼほぼなくなっているのは広く知られている通りです。あるいは、猫の親子を考えれば、子猫が怪我をすると親猫は舐めて傷の治りを早くしようと試みる場合がありますが、人間の獣医が出現すれば、おそらく、親猫は相変わらず子猫を舐め続けるとは思いますが、そういった行為はそれほど必要ではなくなります。それと同じと考えるべきです。この点を理解しているエコノミストは極めて少ない、というか、個人としてのエコノミストにせよ、経済書にせよ、この点を理解して明記明言している例は不勉強にして私は知りません。ただ、私自身は本書の著者に賛同していて、この意味でのシンギュラリティは、2045年や2047年ではないかもしれないですが、やって来ると思っています。ただ、アセモグルとレストレポのように、マシンが人間労働を代替すると、さらに複雑な人間労働が生み出されて、永遠に、ではないとしても、かなり先までシンギュラリティは来やしない、と見なす向きも少なくありません。そのあたりは経済学的見地というよりも工学的な見方であろうと私は考えています。ただ、このシンギュラリティの後で行うべき本書第3部の対策がやや貧弱です。学校教育や職業訓練を鼻でせせら笑うのはOKとしても、ユニバーサルなベーシックインカム(UBI)ではなく、条件付きのベーシックインカム(CBI)で対応、というのは、まあ、それしかないのかもしれませんが、やや疑問なしとしません。というのは、経済政策運営でも、ひょっとしたら、人間よりもマシンの能力が上回る可能性があると私は考えており、そうなると、チンパンジーを動物園に入れたような扱いをマシンが人間に対してする可能性は否定できないと想像しています。ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモデウス』と似た見方かもしれません。

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次に、パラグ・カンナ『移動力と接続性』上下(原書房) です。著者は、インド出身のグローバル戦略家だそうです。同じ出版社から『「接続性」の地政学』を出版しており、これまた同じ出版社から『アジアの世紀』上下を出版していて、私は2020年2月15日付けの読書感想文をポストしています。英語の原題は Move であり、2021年の出版です。上の表紙画像に見られるように、日本語のサブタイトルは「文明3.0の地政学」となっていますが、大雑把に文明1.0とは放牧を含む農耕社会であり、文明2.0は製造業中心の工業社会、そして、本書の第13章のタイトルとなっている文明3.0が現在の世界であり、移住が繰り返されながらも、接続性も保たれる、という意味なんだろうと思います。しかし、ここで「移住」とは二重の意味を持たされており、積極的によりよい環境を求めて移住する場合と何かの厄災から逃れるべく移住する場合の両方を含んでいます。ですから、移住先として好まれるのは、いうまでもなく、人口動態のバランスが良く、政治的に安定しており、経済的にも繁栄し、環境も安定している場所、ということになります。本書ではこういった移住先について、いろんな観点から議論を進めていますが、気候変動が進む結果として地球は温暖化し、内陸部であれば高地、あるいは、北方の未開の地に移住する可能性を示唆しています。ロシアによるウクライナ侵攻の前の出版ですので、シベリアなんかがターゲットのひとつになっているわけです。そうした中で、本書の著者は世界人口が21世紀半ばに減少に転じるというシナリオを基本としています。このため、若年層の奪い合いが生じる可能性もありますし、いずれの観点からも移住や移民が増加するトレンドは不動のものとして前提されています。でも、欧州諸国で、あるいは米国でもネオナショナリストによる移民に対する嫌悪感の拡大が見受けられるのですが、著者はこういった勢力は高齢世代に指示されているだけであり、時間とともに支持を失う、と考えているようです。そうかもしれません。従って、世界の対立軸は若者対年長者となる未来が描かれています。その後、長々と世界各地の移住先としての魅力が取り上げられており、日本では沖縄にスポットが当たっています。ただし、こういった移住の魅力を語る大前提が、いわゆる移民の「同化」に置かれています。すなわち、半ば多様性を否定しているように私には見受けられます。もしも、移民が同化せずに母国の文化を守り続けるのであれば、本書の議論は半分くらい否定されそうな気すらします。ただし、私の直感では移動=移住出来るのは、移住のための十分な資金を持っている富裕層が中心となるように見受けられ、こういった富裕層は容易に同化しない可能性が高いのではないかと考えています。いずれにせよ、本書の著者の議論でもっとも感心したのは、移動=移住により大きな混乱がもたらされることは否定できないながら、それが進化というものである、と指摘している点です。悪く評価すれば「開き直り」とも見えかねませんが、私はかなりの程度に同意します。単なる安定であれば中世に人類は達成しているわけで、その後の産業革命以降の人新世は混乱しつつも進歩していた、と考えるべきなのかもしれません。

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次に、塩田武士『朱色の化身』(講談社) です。著者は、ミステリ作家あであり、特に、私の印象に残っているのはグリコ・森永事件について解き明かそうと試みた『罪の声』です。確か、私は見ていませんが、昨年映画化されています。ということで、主人公はライターの大路亨です。物語は、その主人公がガンを患う元新聞記者の父から辻珠緒という女性を探すように言われるところから始まります。この女性は、かつては、一世を風靡したゲームの開発者として知られた存在だったのですが、突如として姿を消しました。そして、ほぼほぼストーリーは主人公がこの女性を探す中でインタビューした相手、すなわち、辻珠緒の元夫や大学の学友、銀行時代の同僚などが語る言葉、ということになります。それらから浮かび上がるのは、昭和31年1956年の福井あわら温泉の大火が何らかのきっかけとなっているという点でした。チェーン・インタビューという言葉があるのかどうか私は知りませんが、辻珠緒の生涯を追って次々とインタビューを重ね、バブル初期の男女雇用機会均等法、もちろん、バブル期の銀行活動、そして、ゲーム開発車となってからのゲーム依存症などなど、女性個人の動向とともに社会問題を浮き彫りにしつつ人探しは進みます。ですから、最後の最後に山場があるのはミステリの常套手段ですが、私の好きなタイプのミステリであり、タマネギの皮をむくように徐々に真実が明らかにされてゆきます。ただし、難点はいくつかあって、まず、海外ミステリのように登場人物が多すぎます。まあ、私が読んだ範囲でも仕方なく、というか、必要あってインタビューしているのですが、もう少し要点をかいつまんでコンパクトに仕上がらなかったものか、という気はします。もうひとつは、社会的な問題点をミステリに入れ込もうとした松本清張以来の我が国ミステリ界のひとつの潮流ではありますが、やや社会問題の質が異なりすぎて、バブルや男女雇用機会均等法までは1980年代半ばから後半にかけて社会的に広く認識されたことは事実ですが、ゲーム依存症については、私なんかがそうで、それほど広く国民一般に関係するわけではなく、逆に、関係ない人は関係ないのではないか、という気もします。ただ、ジャーナリスト的にひとつひとつ事実を明らかにした上で、それらのリンケージを考え、論理的に必然な結論を導く、という意味では上質のミステリに仕上がっています。ただし、考え方にもよりますが、ラストがやや物足りないと感じる読者はいそうな気がします。私もそうです。繰り返しになりますが、ジャーナリスト的にひとつひとつ事実を積み上げるプロセスは大いに評価しますが、そのプロセスに対して結果がショボい、と感じてしまうのは私の読み方が未熟で浅いのかもしれません。でも、劇的な幕切れが欲しいという読者は、私以外にも少なくないのではないか、と想像しています。

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最後に、ジョン・メイナード・ケインズ『ケインズ 説得論集』(日経ビジネス文庫) です。著者は、いうまでもなく、偉大な英国人エコノミストであり、マクロ経済学の創始者といえます。基本的に、5部構成を取っていて、インフレとデフレ、金本位制、自由放任の終わり、未来、繁栄への道、を取り上げています。学術誌ではなく、一般メディアへの投稿を中心に収録していて、判りやすくはなっていますが、それなりに昔の文体だという気がします。邦訳の時点で工夫されているのだとは理解しますが、40年ほど前に私が大学生だったころに読んだ経済書とはこんなものだったか、と思い起こさせるものがありました。ということで、小説を読んだのではないので文体に関してはともかく、マクロ経済学に関して現時点でも通用する立派な理論が集められています。というのは、本書に収録された記事をケインズが書いたのは1920年代から30年代にかけてであり、第2部で論じられているように、金本位制が世界的なスタンダードとなっている経済社会です。そういった時代の制約があるハズなのですが、それを感じさせません。インフレとデフレについては、現時点でも同じ議論が通用します。インフレとデフレのどちらもストックとしての富や資産への影響を及ぼし、単純化すれば、インフレは負債のある人に有利で、資産や債権のある人に不利に作用します。デフレは反対です。ただし、インフレが生産刺激的であるのに対して、デフレは生産を抑制する方向で作用します。こういったマクロ経済学の面で、今でも十分に理解されているとは言い難いポイントを極めて正確に指摘しています。そして、金本位制や自由放任については経済政策運営の観点からとても否定的な議論を展開します。少なくとも、その時点の英国でトピックとなっていた第1次世界対戦後の英国の金本位制復帰における為替レートについては、現在でも通用する議論です。広く知られたように、実は、我が国でも従来レートでの金本位制復帰を目指したがために、ひどいデフレを経験したのは英国と同じです。現時点でも、円安が金融政策の湿性のように報じるメディアがいくつかありますが、というよりも、そういった論調での報道の方が多いくらいですが、おそらく、ケインズであれば為替レートについては現時点での我が国のメディアとは違う方向の議論を展開したものと私は想像します。ケインズが明らかにしたのは、不況期ないし景気後退期に需要が不足するのであれば、政府が需要を創出するのか、それとも、民間経済でコストを削減するのか、のどちらかが必要となる中で、前者の方がいいのではないか、という点を説得しようとしているのだと思います。円安が短期的に家計や企業といった国内経済主体の実質所得を低下させるのは事実ですが、円安をいかに所得増加につなげるか、を考えるのがエコノミストの役割です。まあ、いずれにせよ、戦後経済社会では、特に1950-50年代は米国のニクソン大統領がいうように "We are all Keynesians now" だったわけですから、ケインズは説得に成功したんだろうと思います。
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2022年06月04日 (土) 09:00:00

今週の読書は統計書をはじめとしていろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書感想文は以下の通り、経済書やエッセイ、さらに新書まで計5冊です。
まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会)は、統計の歴史に関する資料集のような位置づけで読むのが適当かという気がします。ただ、著者の統計に関する専門性はそれほど高くないと感じました。、次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版)は、タイトル通りに、京都の経済や地域振興に関してコンパクトに取りまとめられています。続いて、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ)は、世界で活躍する日本人ピアニストのエッセイです。こういった超一流の人物のバイタリティ溢れる活動には、ただただ圧倒されるばかりです。さらに、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)は、ドンキホーテを例にして、社会学的な観点から、チェーンストアの進出が決して地方に画一性をもたらすものではない、ということを考察しています。最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書)では、仏教伝来のころや聖徳太子の古典古代から始まって、大きな活気となった鎌倉仏教の開花、江戸期の停滞を経て、明治初期の廃仏毀釈、そして現在へと我が国仏教史をコンパクトに後付ています。
最後に、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計101冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊を少し超えるレベルには達するのではないかと考えています。

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まず、佐藤正広『数字はつくられた』(東京外国語大学出版会) です。著者は、一橋大学・東京外国語大学の研究者です。はしがきでタイトルの意味を述べていますが、「ねつ造」ではないという意味らしく、単にアイキャッチャーなのだろうと私は解釈しています。ですから、相次ぐ政府統計部局の統計改ざんとは関係ありませんし、そういった「期待」を基に読むのはNGだろうと思います。基本的に、我が国の統計史をひも解こうとしているのですが、統計に関係するグループとして5つを考えます。すなわち、統計学者、統計に関する意思決定を下す政治家、統計実務家、調査対象、統計利用者、です。これをムリヤリに2次元のカーテシアン座標に落とし込もうとします。そのあたりが第2章で取り上げられています。少なくとも、私は第5の統計利用者を第2の意思決定者と同一視するのはムリがあると考えますし、少なくともこの試みは明確に失敗していますから、これ以上考える必要はありません。むしろ、統計史としての資料集として考える方がいいと私は考えます。著者のオリジナルな主張も少なくありませんが、統計資料名を一覧にしているとか、調査票をそのまま転載している部分が「半分」は言い過ぎとしても、かなりのボリュームに上ります。その資料的な価値はあるといえます。ただ、極めて残念なのは2点あり、第1に、日本の統計の歴史であって、明治期に先進国から輸入された諸外国の統計とは何ら比較がなされていません。例えば、ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(東京創元社)では、当時のフランスでは統計局が情報部の一部門であるかのような記述があります。日本ではどうだったのか、一考に値する歴史の一場面だという気がするのは、私だけでしょうか。第2に、日本の統計の歴史を概観するとしても、日本の統計に関する組織上の無理解が目立ちます。私も経済官庁から一時的に総務省統計局に出向していただけで、それほど詳しくもないのですが、それでも、統計局の統計と各省庁の統計の違いくらいは理解しています。すなわち、2001年の中央省庁再編まで日本では当時の「省」は業所管であり、「庁」はそうではありませんでした。今では、防衛省とか、環境省とかが、業所管でない「省」なのですが、2000年まではそうだったわけです。統計にはその当時の組織上の特色が残っていることから、業を所管している省では、その業の統計、あるいは、その省の業務に関する統計を作成しています。典型的には、経済産業省の鉱工業生産指数とか、商業販売統計とか、財務省の通関統計、厚生労働省の有効求人倍率、などで、役所の所管する業に関する統計と、役所そのものが遂行している業務に関する統計です。他方で、多くの場合は、事業所ではなく一般家計に対する調査になるのですが、所管する業や業務に関係ない社会全体を俯瞰する統計は統計局で作成しています。典型的には、国勢調査とか、消費者物価指数とかです。ということで、結論なのですが、そもそも、分析する2次元モデルに無理がある上に、諸外国との比較がなく、しかも、日本における統計組織に関する基礎知識も十分ではないようなので、結論はあってなきがごときもので、それほど参考にもなりません。最後の最後に、しかも、製本が悪くてページがバラバラになってしまいそうな雑な作りです。私は何か新聞の書評で見て読んだのですが、決してオススメしません。

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次に、坂本信雄『京都発 地位経済の再考』(八千代出版) です。著者は、ノンキャリアながら、私の役所の先輩であり、京都学園大学での研究者としてご活躍でした。たぶん、私とは面識があると思います。ということで、京都学園大学は、今では、京都先端科学大学といって、亀岡市にあります。私自身は宇治市の出身なものですから、やや方向は違います。本書では、京都府や亀岡市などの経済動向や人口減少の影響、コロナと観光事業、NPO法人などによる市民活動、地方における公共サービスの行方、自治体における幸福度、などについてエコノミストや地方振興の立場からいろんな論点について議論しています。私はマクロエコノミストとして、ほぼほぼ地方振興には無関心であり、長崎大学に出向していた折には九州や長崎についてまったく見識がなくて、郷土愛に燃える長崎経済人などには辟易したものですが、さすがに自分の出身の関西に戻ってきて、それなりに地方経済には関心があります。一応、地域学会の会員でもあります。ただ、地方において将来不安があるのは財源です。日銀が政府の「子会社」であるかどうかはともかく、中央政府は国債を発行して中央銀行が市中から買い取ってくれれば、税収が不足してもインフレにさえならなければ、それなりの財源を確保することが出来ます。しかし、発券銀行を持たない地方公共団体はそうは行きません。財源を確保した上でなければ公共サービスの提供はサステイナブルではありません。ですから、本書ではスコープ外としていますが、京都市は深刻な財源不足に陥っており、2019年度決算では、いわゆる「将来負担比率」が190%を超えており、政令指定市20市の中で最悪です。ダントツといっていいかもしれません。最大の要因は京都市地下鉄です。料金がバカ高で、私も使い勝手が悪く感じていましたが、私の実感では、時間帯によっては、いわゆる「敬老パス」で無料で乗車しているお年寄りの方が多いくらいではないか、とすら見えました。加えて、小学生の虫歯治療費の全額助成とか、ムダに手厚い市民サービスが充実しています。市役所職員の給与水準が極めて高く、私は地元民ですので、府庁職員と市役所職員のご夫婦を知っているのですが、市役所の給与水準に不調職員の方がびっくりしていました。こういった支出が多くて、ムダなサービスがいっぱいですから、京都市の財政難も理解できます。段々と、脱線が激しくなってしまいましたが、ことほどさように、地方経済や地域振興には無知なもので、本書はとても参考になりました。

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次に、上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ) です。著者は、ピアニストです。チャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門でグランプリを獲得しています。小柄な体をめいっぱい使って、躍動するようなプレー・スタイルと記憶しています。そのエッセイです。ヤマハの教室から、東京のマスタークラスに通い、パリで生活してヨーロッパを舞台に活躍しながら、本書で私は初めて知りましたが、20代半ばで、いわゆる「できちゃった婚」で結婚して女の子3人の母親となり、それでもめいっぱいピアニストとして活躍しています。実は、私もピアノを習っていた経験があります。もっとも、私の場合は大学生の大人になってから習い始め、一番熱心に弾いていたのは30代前半で、在チリ大使館に赴任した折に88鍵フルスケールの電子ピアノを日本から地球の裏側まで持って行き、現地の音大教授に習っていました。でも、今となっては、自動車の運転とピアノの演奏についてはまったく自信がなく、私自身の満足感よりも周囲の迷惑の方が大きかろうと思いますので、決して手を出すまいと決めています。でもこういったピアニストのエッセイを読むのは大好きです。また、もう30年近くも前のことながら、ワルシャワに出張する機会があり、お土産でショパンの手の石膏像にとても心動かされながらも、自制心強く買わなかったことも思い出します。やや話が脱線しましたが、いずれにせよ、私はこういった世界的に活躍している芸術家のエッセイとか、あるいは、すでに引退した米国政治家の回顧録とかを読んで強く感じつのは、そのバイタリティ、というか、エネルギー溢れる活動ぶりです。私のような凡人にはとてもかないません。凡人の悲しいところで、私なんかは何をやっても世界レベルどころか日本レベルにも達しません。最後に、どうでもいいことながら、本書で「オヤ」と思ったのは、著者の中学生くらいの折の写真が何枚か収録されているのですが、メガネをかけています。スコアを見るのに必要だったのかもしれません。私も、先生が弾いて下さるのを後ろから見るというレッスンがあって、とてもスコアが見にくかったのを記憶していたりします。そして、私が知っているレッスン仲間の高校生の女の子で、「メガネをかけるくらいなら、ピアノを諦める」といって、実際にピアノレッスンをやらなくなってしまった人がいたりします。メガネとピアノ、お年ごろの女性には、もちろん、男性にも悩ましい選択なのかもしれません。本題に戻って、本書では、さまざまな作曲家の作品についての著者の感想めいた実体験談もコラムで収録されています。ショパンがやや軽く扱われているような気がしますし、リストは取り上げられていません。でも、ロシア派のピアニストらしく、チャイコフスキーをはじめとして、私のような初心者にはとても難しそうな作曲家が並んでいます。あまりにも当たり前のことですが、大きな差を感じてしまいます。

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次に、谷頭和希『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書) です。著者は、早大の大学院生のようです。本書では、ドンキに代表されるチェーンストアの出店が、地域の商店街と対比される形で、地方や地域の特色を減じ画一性をもたらすのではないか、という懸念に対して、ドンキのケーススタディによって反論しようと試みています。ただ、やや私の目から見て心配なのは、第1に、そういった地方色にマイナスなのはチェーンストアではなく、マスメディアではないのか、という気がするのですが、ソチラにはスコープが向いていないようです。第2に、本書のタイトルに象徴されるようにドンペンと回遊型の商品ディスプレーに特化した議論を展開していて、何を売っているかという商品ラインナップには目が向いていません。以上が、特に第2の点がエコノミストの私の目から見てやや心配な点です。ということで、本書で注目しているドンペンは、目立つということが主たる目的なのだろうと思いますが、本書では、思い切って拡大解釈して、レヴィ-ストロースの砂時計型形象まで持ち出して、内と外とを渾然一体とする作用を強調しています。このあたりは、作者の意図とともに、私にはよく理解できません。さらに、ジャングルのような商品ディスプレーといったドンキの特徴を羅列していき、本屋さんのヴィレッジ・ヴァンガードと対比させる形で、セミ・ラティス型にしかなり得ないヴィレヴァンとセミ・ラティス型にもツリー型にもなれるドンキの違いについても解説してくれます。ここはそれなりに理解できます。ただ、その昔に、ドンキに集まったDQNについては、現時点で掘り起こすのはムリがあります。そもそも、「DQN」は差別用語ではなかったでしたっけ、という危惧もあります。こういったさまざまな対象を持ってきてドンキの特徴を浮かび上がらせようとしますが、私の目から見て、ここまでは、むしろ、チェーンストア代表たるドンキが地方に対して画一性をもたらす懸念を増加させかねない主張に見えます。そして、私から見てドンキが唯一地方に画一性を持ち込まない、と見られる根拠は、いわゆる「居抜き」による買収を主とした店舗展開です。まったく何もないグリーンフィールドから新たな店舗を展開するのではなく、居抜きで買い取ってドンキにしてしまうわけですから、ドンキになる前のお店の特徴は一定残ることになります。ただ、居抜きの店舗展開をしないチェーンストアであれば地方に画一性を持ち込むことになるので、この議論はドンキをはじめとする居抜きの店舗展開をするチェーンストアだけに成り立つわけで、やや不安を覚えます。最後に、本書の著者は、小さいころにドンキの北池袋店に行って恐竜キングで遊んだ記憶から始めています。我が家の子供達でいえば、恐竜キングの1世代前のムシキングに当たります。しかも、私は2年前に完済に引越す前まで城北地区の川越街道近くに住まいし、ドンキの練馬店とか北池袋店には、ある種の懐かしさを覚えます。その前に青山に住んでいた折にはドンキ六本木店もよく利用しました。東京住まいであれば、ちょっとした大きなチェーンストアに行くのが、日常生活を少しだけ離れた家族の楽しみのような気がします。その目的地のひとつは、確かにドンキなのかもしれません。

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最後に、松尾剛次『日本仏教史入門』(平凡社新書) です。著者は、山形大学の名誉教授であり、専門は日本中世史、宗教社会学だそうです。本書は、タイトル通りに大陸から日本にもたらされた仏教の歴史をとてもコンパクトに取りまとめています。ということで、私は日本仏教を語る際には、自分の宗派である浄土真宗=一向宗の宗祖親鸞聖人の生きた鎌倉仏教がいつも気にかかるのですが、本書でも、最大のハイライトのひとつであり、いろんな意味で、とても常識的な日本における仏教史となっています。というか、私がほぼほぼ理解してい仏教史といえます。もちろん、私は専門外もいいところなので、勉強になった点はいくつもあります。まず、仏教伝来は末法の始まりを措定して552年であるとされ、当初は、国家鎮護の役割を持たされたというのは、中学校や高校で学ぶ通りです。まあ、疫病退散なんて、いまでも新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に対してアマビエ様を持ち出すくらいなのですから、日本の古典古代期にはそうだったんだろうと思います。そして、国家公務員と同じ官僧しかいない中で、鎌倉期には個人の救済が始まって、法然、親鸞、日蓮などが他力本願の宗派を開いたのに対して、道元と栄西が禅宗を中国から持ち込んだわけです。他力本願と自力の宗派が対比されています。ただ、浄土真宗の本願寺なんかは典型ですが、従来宗派と同じように武装し始めたのは鎌倉期から戦国の武家の世になったためであろうと私は考えています。自力・他力とも、いずれにせよ、天下国家を救うのではなく、自分という個人を救うという観点は重要であろうと私も思います。そして、本書では『歎異抄』を引いて、「ただ親鸞1人がためなり」ということを強調しています。それから、聖と俗の境目については、浄土宗と浄土真宗で少し差があり、私は在家の方から見てこの宗派2つにほとんど違いはないと考えているのですが、僧の側に違いがあります。すなわち、浄土宗の僧侶が得度して戎を守らねばならないのに対して、浄土真宗は僧侶の受戒は必要ないのではないかと思います。まあ、専門外ですから、私の理解が間違っているかもしれません。そして、徳川期には寺請制度とか檀家制度によって、典型的には仏教が大きく堕落して、現在の葬式仏教になる方向性が明らかになったわけです。ですから、私のような専門外の通俗的な理解では、その反動もあって明治期の廃仏毀釈が幅広く実行された、ということになります。ただ、本書ではその徳川期にも仏教界には一定の進歩が見られた、と指摘しています。すなわち、戒律復興運動や釈迦への回帰が志向されています。僧だけのレベルではなく、俗人にも十善戒が説かれたりしています。このあたりは、さすがに、私も知りませんでした。また、ほのかにしか知らなかった点で、隠元禅師が日本に持ち込んだのは黄檗宗という禅宗の一派だけでなく、その名の通りのインゲン豆や普茶料理などがあったとは、明示的な理解は初めてです。江戸末期から昭和期にかけての新宗教として、神道系の天理教、仏教系の創価学会が正面から取り上げられており、「個」を超える絆の重要性を本書では指摘していて、それなりの影響力が想像されます。仏教の難しい教義は最小限に止められており、さまざまな 仏教の影響力を知る上で参考になります。
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2022年05月28日 (土) 09:00:00

今週の読書はアダム・スミスに関する教養書とミステリと新書の3冊!!!

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)は英国の保守党国会議員による評伝であり、スミスに関するいくつかの神話ないし誤解の解明を試みています。次に、東野圭吾『マスカレード・ゲーム』(集英社)は我が国でもっとも売れているミステリ作家の1人によるミステリであり、ホテル・コルテシアを舞台とするシリーズ4作目にして、出版社では「総決算」と呼んでいます。最後に、トム&デイヴィッド・チヴァース『ニュースの数字をどう読むか』(ちくま新書)は報道などで示されるデータについて、そもそも、データの算出プロセスにおける誤解、というか、誤解を誘おうとするかのようなプレゼン、そして、データを解釈する際のバイアスなどについて広く解説しています。
今週は、新刊書読書はこの3冊なのですが、やや旧作のミステリを何冊か読んでいます。すなわち、翔田寛の『真犯人』(小学館文庫)、東野圭吾『白馬山荘殺人事件』(光文社文庫)、方丈貴恵のデビュー作『時空旅行者の砂時計』(東京創元社)の3冊です。この3冊についてはFacebookでシェアしておきました。さすがに、旧作ミステリを3冊読むと新刊書読書は少し伸び悩んだりします。
最後に、今週の3冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計96冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊くらいには達するのではないかと考えています。

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まず、ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』(早川書房)です。著者は、英国の現役の保守党国会議員であり、哲学の博士号を持っていたりもします。英語の原題は Adam Smith: What He Thought, and Why It Matters であり、2018年の出版です。ということで、第1部 生涯、第2部 思想、第3部 影響、の3部構成を取って、スミスに関するいくつかの神話ないし誤解の解明を試みています。すなわち、自己利益の養護者、金持ち贔屓、政府嫌い、本質的には経済学者、などの5点です。そして、基本的に、本書の結論では否定されていたりします。特に、私のようなエコノミストはアダム・スミスの第1の功績は『国富論』であり、近代的な経済学の確立者の1人である、と考えていますが、本書では、道徳哲学者、特に哲学者であるとの主張です。本書では、もちろん、『国富論』がもっとも人口に膾炙いていることは認めつつ、その前の著書である『道徳感情論』と『国富論』の間の『法学講義』も重視しつつ、エコノミスト=経済学者だけでなく、法学者や哲学者としてのアダム・スミス像を浮き彫りにしてくれています。同時に、経済学の文献としてはアローの一般均衡理論を重視しています。このあたりは、私にはよく理解できません。私はマクロエコノミストですので、英国人であれば特にケインズが登場してしかるべきと思うのですが、違います。もちろん、アダム・スミスは昨今の新自由主義=ネオリベなエコノミストとは違って、市場が機能するためには政府の力が必要だと考えていましたし、本書の著者が主張するように不平等や貧困に対しては厳しい見方をしていました。特に、市場における見えざる手については、市場での交換=取引を損得だけで考えるのでははなく、市場での取引が法律、制度、規範、アイデンティティなどに支えられている点を重視していることが明らかにされています。もう15年近くも前に、大阪大学の堂目教授が『アダム・スミス -「道徳感情論」と「国富論」の世界』を中公新書で出版して話題を集めましたが、本書も、著者の視点からした哲学者という面も重要ながら、私のようなエコノミストが「経済学の父」としてのアダム・スミスを念頭に置きつつ読むのにも最適です。400ページを超える大作ですが、おそらく、経済学の専門的知識がそれほどなくてもスラスラと読めるような気がします。たぶん、邦訳がいいのではなかろうかと考えています。

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次に、東野圭吾『マスカレード・ゲーム』(集英社) です。著者は、私がコメントする必要のないくらい、我が国で最も売れているミステリ作家の1人といっていいと思います。今作品は「マスカレード」のシリーズの第4作となります。順に、『マスカレード・ホテル』、『マスカレード・イブ』、『マスカレード・ナイト』、そしてこの作品です。私の勝手な感想ながら、最初の『マスカレード・ホテル』は長編ながら連作短編集として読めましたし、次の『マスカレード・イブ』は第1作の事前譚の純然たる短編集ですし、おそらく、『マスカレード・ナイト』がシリーズで初めての本格的な長編で、この作品も長編です。まあ、何と申しましょうかで、箱崎の近くにあるホテル・コルテシア東京を舞台に、ホテルのコンシェルジュ、従業員である山岸尚美と警視庁の刑事である新田浩介のコンビがホテルでの犯罪を未然に防止するというものです。新田はホテルの従業員に扮して潜入捜査を行います。その点に関してはシリーズに共通しています。この作品では、まず、おそらく同じナイフを用いたと考えられる3件の殺人事件が短期間に発生します。そして、これらの殺人事件の被害者がかつて人を死なせた経験があり、しかも軽微な罪にしか問われなかったりして、被害者感情には合致しない形で「更生」と認められて、フツーの人生を送っている点が共通しています。そして、とても偶然とは思えない中で、クリスマスイブに3件の殺人事件で殺された人物に命を奪われた遺族が、はい、ややこしいです、なぜか全員コルテシアに宿泊します。加えて、殺人事件の4人目の被害者の候補となり得る人物、すなわち、心神耗弱で罪に問われなかったものの、恋人を刺殺した女性もホテルに宿泊します。どう見ても偶然とは思えないわけで、この4人目が被害者とならずに事前に犯罪を防止する目的で、新田は女性警部の梓とともに潜入捜査を命じられます。そして、梓警部がやや暴走したりする一方で、米国ロス・アンゼルスの系列ホテルで働いていた山岸が帰国して新田ら刑事たちをサポートします。もちろん、ミステリですので犯人のネタバレはしませんが、出版社がこの第4作をシリーズの「総決算」と呼ぶのは理由があります。すなわち、最後の最後に、新田が警視庁に辞表を提出して刑事を辞職しようとし、ホテル・コルテシアの総支配人がホテルの警備マネージャーに新田をスカウトしようとします。はたして、このシリーズは新田がホテル従業員となって継続されるんでしょうか。それとも、辞表は受理されないんでしょうか。続きがとても楽しみだったりします。

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最後に、トム&デイヴィッド・チヴァース『ニュースの数字をどう読むか』(ちくま新書) です。著者は、英国のサイエンス・ライターとエコノミストです。同じ苗字ですので、兄弟なのか、親子なのか、私には判然としません、訳者のあとがきでも触れられていません。英語の原題は How to Read Numbers であり、2021年の出版です。更生としては区別されていませんが、大雑把に2つのグループから成っていて、前半で数字を提供するサイドでの統計的なごまかしや誤解を招く手法について解説されていて、後半では数字を受け取るサイドでのバイアスなどを取り上げています。特に目新しさはなく、私が今までに読んだ類書と同じなのですが、新書らしくコンパクトに取りまとめていますし、各トピックについて明確に章で分割していますので、とても読みやすく仕上がっています。表紙画像にあるように、22章構成で260ページほどですので、各章平均的に10ページあまりのボリュームです。反面、簡略な解説に終わっているので、キチンとした数式などが示されておらず、pp.25-26のSIRモデルの式はカッコが足りなかったりします。もうひとつだけ疑問に思ったのは、RCTとかを用いて、確かに因果関係を把握することは重要なのですが、最近のビッグデータの世界であれば相関関係も十分役に立つ、という点はもっと強調されていいんではないかと私は受け止めています。例えば、日本では低所得と喫煙と肥満が、まるで「三位一体」のように特定の層に現れることがよくあるのですが、この3要素はいずれがいずれの原因で結果か、ということを考えるのは適当ではありません。まあ、そういっ細かい点は抜きにして、本書のように統計的なリテラシーを高めようと試みる方向性は望ましいと私は考えています。加えて、行動科学によって悪い方向に引きずられないような観点もこれから必要になるかもしれません。
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2022年05月21日 (土) 09:00:00

今週の読書は観光に関する学術書をはじめ以下の通りの計5冊です!!!

今週の読書感想文は以下の通りの計5冊です。
まず、遠藤英樹[編著]『アフターコロナの観光学』(新曜社)はタイトル通りに、コロナ禍の後における観光学に関する社会学から見た理論とフィールドワークを収録した学術書です。竹中佳彦・山本英弘・濱本真輔[編]『現代日本のエリートの平等観』(明石書店)は1980年に実施された同種のアンケート調査を40年の時間の経過の後に再度実施し、さまざまな数量分析を行っている学術書です。特に「運の平等主義」に関わる考え、さらに、「機会の平等」の重視に関する重要な示唆を与えてくれます。クーリエ・ジャポン[編]『海外メディアは見た 不思議の国ニッポン』(講談社現代新書)かいろいろな海外メディアで報じられた日本の経済社会における奇妙な特徴についてコンパクトに取りまとめています。宮城修『ドキュメント <アメリカ世>の沖縄』(岩波新書)では、1952年産フラシンスコ講和条約で日本が独立を取り戻してからも、1972年の本土復帰まで米軍の過酷な軍政下にあった沖縄の実体を取りまとめたドキュメントです。最後に、板野博行『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』(王様文庫)は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも参考にされているらしい北条執権得宗家の準公式歴史書である『吾妻鏡』を同時代の『愚管抄』の著者である慈円の視点から解説しています。なお、どうでもいいことながら、本日5月21日付けの朝日新聞の書評欄で、4月30日の読書感想文で注目した『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が取り上げられています。ご参考まで。
最後に、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計93冊と去年に比べてちょっぴりスローペースながら、少しずつ追いついてきた気がします。何とか、年間200冊くらいには達するのではないかと考えています。また、新刊書読書ではないのですが、西村京太郎の『特急ゆふいんの森殺人事件』(光文社文庫)を読みましたので、このブログではなくFacebookでシェアしておきました。

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まず、遠藤英樹[編著]『アフターコロナの観光学』(新曜社) です。著者は、実は、私の勤務する大学の研究者なのですが、私と同じ経済学部ではなく、観光社会学を専門としています。本書も社会学から分析した観光の専門書といえます。実は、9月卒業の外国人留学生の修士論文が最終盤に入っており、観光の新しい視点を求めて図書館で借りて読んでみました。2部構成であり、第1部が社会理論、第2部がフィールと的考察となっています。いろんなフィールドの論文を集めています。観光の社会学については英国のジョン・アーリ教授が有名であり、『場所を消費する』、『モビリティーズ』、『オフショア化する世界』の3冊を読んだ記憶があります。ただし、もっとも有名な『観光のまなざし 』については未読だったりします。まあ、専門外ですから手が届かない、というところです。ということで、観光とともに、ポップカルチャーについても少し論じられていて、第1部の理論については、少し「観光」というものの定義が必要そうな気もします。なぜなら、オンラインによる観光は私自身は十分観光であろうと考えるのですが、アーリ教授などのモビリティとか移動、あるいは、場所の消費という点から観光とは、少なくともその昔は、考えられていない可能性があるからです。特に、歓待=ホスピタリティの観点から、実際にその場所に移動する必要についてどう考えるかの整理も必要です。私は移動ではなく体験という観点から、オンライン観光は十分アリだと考えています。VRによる観光も同じです。そうなると、エコノミストとしては観光が収益につながりにくくなるケースも考えるべきかもしれません。交通費がかからず、飲食費も場合によっては不要で、参加費だけが必要になる観光です。でも、現時点でもこういった観光はあるわけで、アミューズメントパークでの活動は、こういったオンライン観光に近い気もします。そして、コロナとともに発達したデジタル技術はこういったバーチャルな観光を、リモートワークとともに大いにサポートし、新しい仕事のあり方や観光様式を生み出しつつあります。第2部は、「フィールド」という観点から、基本的にケーススタディが集められていあmす。コロナの時代における移動についての与論島のケース、浅草での和装しての観光、ペナン島ジョージタウンでのオーバーツーリズムの是正、インドネシア観光のレジリエンス、北タイ山地民カレンの観光に関するモラル・エコノミーの考察、コロナ禍における宗教観光となっています。「コロナ」と「観光」が2つの大きなテーマとなっている本書ですので、移動を伴う観光とともに、オーバーツーリズムの是正も重要な観点であろうと思います。特に、SDGsの観点からも観光のサステイナビリティを回復すべき観光地はペナン島以外にも少なくないと私は感じています。最後に、一昨年に取りまとめた紀要論文が典型的ですが、私はマクロエコノミストですので、マイクロな観光振興とかは不得手な分野で、観光や観光消費の数量分析が主たる興味分野になります。本書は、観光学やフィールドしての観光実践に関するコロナ後の展開について、そういった分析の基礎となる参考文献として役立ていたいと考えています。

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次に、竹中佳彦・山本英弘・濱本真輔[編]『現代日本のエリートの平等観』(明石書店) です。著者たちは、政治学の研究者です。同志社大学の研究者であった三宅教授らが1980年に行った「エリートの平等観」調査をアップデートした内容の調査を2018-19年度に筑波大学を中心に実施した結果を10人ほどの研究者が取りまとめています。本書でいう「エリート」とは、政党・政治家、官僚・自治体職員、経済団体、労働団体、農業団体、商工団体、市民団体・NPO、専門家、学者・文化人、マスコミの10分野から全国レベルと地方レベルで選ばれています。もちろん、「エリート」という母集団は明確ではありませんが、大雑把に緩やかなコンセンサスが出来る範囲か、という気はします。大規模な調査に基づいて、数多くの専門家が定量的な分析を加えていますので、かなり大量のファクト・ファインディングが得られています。例えば、前回調査の1980年から今回調査の2018-19年にかけて、多くの回答が経済的な不平等が拡大していることを認めています。まあ、当然です。この間、40年近くが経過しているわけですが、ほぼ「1億総中流」と称された時代の末期から、1979年に英国のサッチャー政権が、そして、1981年に米国のレーガン政権が、それぞれ発足し、あるいは同時期に日本でも中曽根内閣が政権に就いて、いわゆるネオリベラルな経済政策が展開され、現在まで経済的な不平等が大きく拡大した最近時点までの不平等の進行については、幅広い社会的なコンセンサスがあると考えるべきです。さらに、経済的なものばかりではなく幅広い平等観を考えると、いわゆる権力エリートとか、支配エリートと呼ばれ、主流を構成するエリートは平等意識が弱い一方で、こういった主流派に反対の目標や異なる体制の樹立を目指す対抗エリートでは平等意識が高い、という、これまた、かなり明白な結果が得られています。私が忠告したのは、特に、「運の平等主義」に関わる考えです。すなわち、自らの選択の結果として生じた不平等は共用される一方で、個人の選択が及ばない理由によって生じた不平等は許容されない、という考え方です。これに基づけば、親ガチャによる子供の不平等は救済されるべきである、ということになります。しかし、他方で、この考え方は、いわゆる「機会の平等」さえ確保されていれば、その結果については自己責任である、という考え方にもつながります。我が業界である教育については、教育の機会が各個人に平等に与えられる点が重要であり、その選択の結果としての学歴と能力などに基づく所得の不平等は許容されるのが機会の平等であり、そうではなくて、教育の結果である学歴や能力などにかかわりなくすべての人が大きな差のない所得を受け取る、というのが結果の平等です。この機会の平等の重視が1980年時点では77%であったのですが、2018-19年には84%に上昇しています。加えて、今回調査で明らかになったのは、エリートばかりではない有権者レベルでも66%と⅔の日本人が機会の平等を支持している点が明らかにされています。しかし、私自身はこの結果の平等の重視に大きな疑問を持っています。というのは、これも何度も書きま