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2024年04月20日 (土) 09:00:00

今週の読書は重厚な経済書や専門書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、マーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』(日本経済新聞出版)は、経済的な不平等の拡大がポピュリズムにつながって民主主義の危機をもたらすと主張しています。ジョン・メイナード・ケインズ『平和の経済的帰結』(東洋経済)は、第1次世界大戦後のベルサイユ条約の交渉過程や結論において、ドイツに対するカルタゴ的な平和がもたらされる危険を指摘しています。志駕晃『そしてあなたも騙される』(幻冬舎)は、SNS上で客を集める個人間融資の「ソフト闇金」で騙す人と騙される人を取り上げた小説です。小塩隆志『高校生のための経済学入門[新版]』(ちくま新書)は、高校生に経済学の初歩を学んでもらうための入門書です。ホリー・ジャクソン『受験生は謎解きに向かない』(創元推理文庫)は、ピップを主人公とする三部作の前日譚であり、ピップと同級生たちが犯人当てゲームに挑みます。石持浅海『男と女、そして殺し屋』(文春文庫)は、経営コンサルタントの男の殺し屋と通販業者の女の殺し屋が、場所や日付を特定した殺人依頼の謎を明かそうと試みます。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週までに13冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて96冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、葵祭の斎王代が決まったというニュースに刺激されて、別途、本多健一『京都の神社と祭り』(中公新書)も読みました。これは2015年出版であって新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。

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まず、マーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、英国の Financial Times 紙のジャーナリストです。英語の原題は The Crisis of Democratic Capitalism であり、2023年の出版です。ということで、別の機会に書いたような気がしますが、経済史的に考えて民主主義と資本主義には親和性があったとみなされていました。ただし、人々が平等な参加権を持つ民主主義と人々が持てる所得や富などに基礎を置く購買力に基づいた不平等が存在する資本主義とは、必ずしも親和性はありません。すなわち、本書で著者がノッケから主張しているように、資本主義は一定の平等性があるという前提のもとで民主主義と親和的であっただけであり、中産階級が崩壊の危機に瀕して格差が拡大する中では、民主主義と資本主義の間の親和性は薄れます。そして、私もそうですが、著者の主張は資本主義というよりも民主主義を重視すべきであって、民主主義にもっとも重要なプライオリティを置くべきである、というものです。この点については大きな反対は、少なくとも表立ってはないものと私は考えています。他方で、民主主義ではなく資本主義的な不平等に基礎を置く政治体制を志向する人々も無視し得ないボリュームで存在することも事実です。ただ、英語の原題にある通り、本書では民主主義と資本主義を邦訳タイトルのごとく別物として扱っているわけではありません。民主的な資本主義が危機に瀕している、というのが根本的な問題意識であり、邦訳タイトルに見られるように民主主義が危機に瀕して権威主義に取って代わられようとしているとか、資本主義から社会主義に移行する動きがあるとかといった2つのフェーズを論じようとしているわけではありません。あくまで、民主的な資本主義が権威主義的な資本主義に変質しないように警告を発しているのだと私は認識しています。資本主義はそれ自体としてはミラノビッチ博士のいう通り盤石で生き残っています。そして、資本主義的な所得や富の分配の不公平を残したままでは民主主義が機能しにくくなる点は、1980年代の新自由主義政策がもたらした現在の格差社会のもとで実感されている通りです。本来、古典派経済学の「完全競争」の用語に示されているように、資本主義においては大きな不平等ないとの前提で、個人の自由や権利を守り、契約の遵守などの一定のルールを守り、相互の信頼関係を尊重する市場が運営されていれば、民主主義と親和性高く存続します。しかし、所得や富の大きな不平等があれば、ルールがねじ曲げられたり信頼関係が損なわれたりするのは日本の例を見ても明らかです。裏金を受け取った国会議員は税務申告の必要がない一方で、昨年10月からはインボイス制が幅広く敷かれて、最後の1円まで所得をあからさまに把握される中小業者が続出しています。社会的地位の高い人々と一般市民の間が分断されて、「上級国民」は一般国民とは異なる権利を持って、異なるルールに従っているかのような印象すらあり、そこにつけ込んでポピュリズムが支持を獲得し始めています。そして、こういったポピュリズムが移民や外国人を敵視し、保護主義を正当化し、民主主義を侵食していると私は考えています。本書では、ポピュリズム台頭の理由として経済的な失望を重視しています。今まで、ややもすれば、宗教的な要因も含めて社会的地位を失うおそれや民族差別などの文化的な側面が重視されてきましたが、本書は違います。そして、具体的な処方箋には乏しいものの、新自由主義的、ネオリベな政策ではなく、経済的な格差を縮小し、中間層を分厚くするような方向性が模索されています。たぶん、我が国の官僚に実際の政策具体化を指示すれば、立派な政策ができるような気がします。

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次に、ジョン・メイナード・ケインズ『平和の経済的帰結』(東洋経済)を読みました。著者は、20世紀の偉大な経済学者です。英語の原題は The Consequences of the Peace であり、1919年の出版です。邦訳者は山形浩生さんです。巻末の邦訳者による解説もなかなかのものです。もう100年を経過した大昔のパンフレットですので、すでにパブリックドメインになっていて、Project Gutenberg のサイトで英文全文を読むことが出来ます。邦訳は山形浩生氏による新約です。本書はケインズ卿の著作物のうちで、もちろん、『貨幣論』や『貨幣改革論』や『確率論』などもあるとはいえ、おそらく、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』に次いで人口に膾炙したものではないか、と考えます。一言でいえば、第1次世界大戦後の平和条約であるベルサイユ条約の交渉過程を振り返り、ドイツに対するカルタゴ的な平和を強く批判しています。構成は7章から成っており、第1章で序論、第2章で戦争前のヨーロッパを概観し、第3章で会議、第4章で条約、第5章で賠償をそれぞれ論じ、第6章で条約後のヨーロッパ、最後の第7章で修正案を提示しています。よく知られたように、ケインズ卿は単にアカデミックな世界で活躍しただけではなく、そもそも、ケンブリッジ大学卒業後は高級公務員としてインド相で勤務したりしていますし、本書で明らかなように、当時の英国大蔵省の代表団の一員として、第1次世界大戦後にはパリでのヴェルサイユ条約交渉に参加し、第2次世界大戦後にもブレトン-ウッズ会議に出席して議論をリードしています。これまた、よく知られたように、ヴェルサイユ条約の交渉においては、議論の方向性や条約の素案について大きく失望し、辞表を出して本書を取りまとめています。ですので、本書はエコノミストとして精緻な分析を示しす、というよりも、政府代表団や広く一般国民を対象に訴えかけることを目的としたパンフレットであり、ボリュームはそれなりにあるものの、それほど難解な議論を展開しているわけではありません。そうです。マクロ経済学を一瞬にして確立した『雇用、利子及び貨幣の一般理論』などと比べると、格段に判りやすい内容といえます。欧州における戦後の生産能力の低下を粗っぽく試算し、ドイツが英仏をはじめとする連合国相手に賠償できる範囲を示した上で、その支払い能力も粗っぽく試算しています。その上で、最終的にヴェルサイユ条約ではドイツの賠償額は1320億金マルクと決定したわけですが、ケインズ卿はドイツの支払い能力を400億金マルク=20億ポンド=100億ドル、と試算しています。歴史的な事実として、ドイツの賠償額は削減され続け、ドーズ案を経てヤング案では358億金マルクにまで低下しているわけですので、ケインズ卿の試算結果の正確性が証明されたといえます。本書では、余りに多額の賠償がドイツの政情不安を惹起する、とまでは指摘していませんが、これまた歴史的事実として、世界でもっとも民主的と称されたワイマール憲法下であっても、民主的な投票に基づいてナチスが政権を奪取し、最終的には独裁体制が成立し、第2次世界大戦の原因のひとつとなったのは、広く知られている通りです。ケインズ卿が提示した、あるいは、本書で展開された的確な経済分析が第2次世界大戦を防ぐことが出来なかったのは、エコノミストならずとも痛恨の極みといえましょう。

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次に、志駕晃『そしてあなたも騙される』(幻冬舎)を読みました。著者は、映画化もされた『スマホを落としただけなのに』でデビューしたミステリ作家です。この小説は、「騙される人」と「騙す人」の2章建てになっています。主人公は、夫のDVから逃れて7歳の娘を育てるシングルマザーの沼尻貴代です。そして、テーマはソフト闇金、個人間融資です。主人公は、適応障害でコールセンターのクレーム処理の仕事を辞めざるを得なくなり、いろんな料金を延滞し始め、アパート家賃を払えなくなって住居を失うリスクに直面しながらも、親戚をはじめとしてどういった貸金業者からも融資を受けられなくなります。追い詰められた主人公が最後の頼みの綱として期待したのがSNS上で客を集める個人間融資の「ソフト闇金」でした。「未奈美」と名乗る見知らぬ貸主が、子育て中のシンママということで、やたらと親切に借金返済を猶予してくれる上に、新たな就職先や子育てなどプライベートな相談にも乗ってくれるます。そういった背景で、主人公はギリギリで風俗への就職を思いとどまったりするわけです。親切な貸主ということもあって、主人公の借金は雪だるま式に膨れ上がり、とうとう返済のメドが立たなくなったところで、「騙される人」の章が終わって、主人公は貸主の未奈美から資金調達して貸す方に回り、「騙す人」の章が始まります。そして、当然ながら、個人間金融を始めた主人公が返済を滞りがちな顧客に苦労する、というストーリーです。ミステリですので、出版社の紹介文や章立てなどから容易に理解できるので、あらすじなどはここまでとします。まず、エコノミストとして指摘しておきたいのは、日本は貧困の3要因として従来から上げられているのは、母子家庭、高齢家庭、疾病です。最近ではこれに非正規雇用という要因も加わっているのかもしれませんが、本書の読書の範囲ではシングルマザーというのが貧困の大きな原因となっていることは明らかです。そして、新自由主義的な棄民政策、「自助、共助、公助」の順を強調しつつ、実は、ほとんど公助が欠けている中で、生活に苦しむ母子家庭が舞台となっています。もちろん、DVも大きな要素です。その意味で、いかにも経済的側面からはありそうなストーリーだというふうに私は受け止めました。加えて、2章建てとなっていて、闇金から借りる方で返済ができなくなったら、闇金サイドで働いて、いわば、貸す方に転換する、というのは、すっかり忘れましたが、ほかの小説でも見た気がしますので、これまた、あり得るストーリーなのかもしれません。最後の最後に、出版社の宣伝文句で「2度読み必至」と書かれています。もともと、ミステリは読者を何らかの意味で騙そうとするものですし、そういった宣伝文句を与えられたミステリは少なくありません。でも、確かに、騙される読者もいるのかもしれませんが、それほど深い騙し方ではありませんし、私自身も、ひょっとしたら騙されたのかもしれませんが、2度読みは必要なかったです。

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次に、小塩隆志『高校生のための経済学入門[新版]』(ちくま新書)(ちくま新書)を読みました。著者は、私と同僚でもあった官庁エコノミストから早々に学界に転じて、現在は一橋大学の研究者です。[新版]と銘打っている通り、2002年版があるのですが、今年2024年になって新しい新版が出版されています。4月で私の勤務校でも大量に新入生を迎え、現時点で、失礼ながら、大学1年生なんて高校生と大きな違いはないわけで、特に、私は理工学部生や文学部生なんぞに日本経済を教えているわけですから、高校生に教えるのと大きな違いない部分も少なくなく、本書を手に取ってみました。タイトル通りに、本書冒頭で「高校生に経済学の初歩を学んでもらうための入門書」と明記されています。対象は基本的に高校生であって、たぶん、私は読者に想定されている対象外ということになります。ということで、経済学ですので、需要曲線と供給曲線の交点で価格と需要量=供給量が決まる、という広く知られた関係から始まります。すなわち、本書で取り上げられている順に、需要と供給、市場メカニズム、金利、格差、効率と公平、景気、物価、GDP、人口減少と経済成長、インフレ、金融政策、税金と財政、社会保障、円高と円安、比較優位、貿易と世界経済、ということになります。私は、カプラン教授の『選挙の経済学』などから経済学では想定しないような間違い、例えば、ロックフェラー一族とアラブの王様が結託して石油価格を釣り上げて庶民を苦しめている、といった反市場バイアスに対して、価格は市場で分散的に決まり、競争的市場で決まった価格シグナルによる資源配分は厚生経済学的に最適である、といった世間一般の誤解を解くとともに、経済学部生も含めて、もちろん、他学部生にも、経済や経済学であるので世間一般の常識をそのまま当てはめて理解することも十分可能である、と強調しています。例えば、学生でもスーパーで安売りをするのは量をたくさん売りたいという意図に基づいている、ということくらいは理解できますから、価格低下と販売量の増加が相関していて、逆は逆である、とかです。ですから、本書をテキストにして経済学を教えることも可能かもしれませんが、私は日本の経済事情というものを教える必要があるので、まあ、大学の授業に「高校生のための」という明記があるのを取り上げるのは少しはばかられます。最後に、1点だけ指摘しておくと、第5章の金融に関してミクロ経済学の視点がなく、マクロ経済学の観点だけからの説明しかないように感じました。すなわち、金融や金融機関、例えば、銀行のもっとも重要な役割は決済であり、支払いを滞りなく済ませるという観点が抜けていて、マクロの金融仲介機能とか、日銀の役割だけが取り上げられている気がします。したがって、「システミック・リスク」を防止する、といった観点もありません。その点だけは、もしも、3版が出るなら付け加えてほしい気がします。でも、トータルとしていい入門書だと思います。

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次に、ホリー・ジャクソン『受験生は謎解きに向かない』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国のミステリ作家であり、本作の前に同じピップを主人公とするの『自由研究には向かない殺人』、『優等生は探偵に向かない』、『卒業生には向かない真実』の三部作があり、本作はこの三部作の前日譚となっています。ですから、主人公のピップはまだ高校生です。ただし、三部作の最初の方で明らかにされている通り、ピップの通っているのは英国のグラマー・スクールですから、日本式にいえば「進学校」と位置づけて差支えありません。事実、ピップはオックスブリッジに進学しています。ということで、本作品では、架空の殺人事件の犯人探しゲームにピップが招待されます。そのゲームの舞台はスコットランド西方海上に浮かぶ小島のマナハウスで、時代設定は1924年、黄金の20年代、となっています。なお、招待された人たち、というか、ゲームの参加者はピップの高校の同級生たちとその兄の計7人です。ゲームの開始早々にマナハウス=富豪の豪邸の主人が殺害されて、その犯人探しが始まります。もちろん、ゲームですし、実際にスコットランド西方の島に行くわけでもなく、いろんな手がかりがブックレットに挟まれているメモによって明らかにされます。殺害された大富豪はカジノとホテルの会社を経営していて、息子が2人います。兄は会社経営に加わらないものの、父親から生計費を得ていて自由気ままに暮らしている一方で、弟の方は会社の後継者とみなされています。マナハウスの主人とソリの合わなかった執事も容疑者リストに入ります。最初のころは、適当にみんなと合わせているだけだった主人公のピップも段々とゲームに熱中し始め、最後は、ゲーム提供者の正解に対して、心の中で異議を唱えたりもします。私は読者として、先の三部作をすべて読んでレビューしたつもりで、最後の作品の終わり方からしてシリーズの続きはないと確信しています。ただ、こういった前日譚はあり得るわけで、いかにも「無邪気」とすら表現し得るような高校生たちの爽やかな青春ストーリーです。読者によっては、『自由研究には向かない殺人』の次に上げ、『優等生は探偵に向かない』や『卒業生には向かない真実』よりも高く評価する人がいても私は不思議に思いません。もっとも、三部作を最後まで読んだからそう感じるだけで、単体として独立して読めば評価は変る可能性があります。

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次に、石持浅海『男と女、そして殺し屋』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、『殺し屋、やってます。』と『殺し屋、続けてます。』に続く、シリーズ第3弾です。最初の『殺し屋、やってます。』では殺し屋は経営コンサルタントとして表の顔で働く富澤允だけが登場して、第2作の『殺し屋、続けてます。』では新たな殺し屋としてインターネット通信販売業を偽装する鴻池知栄が登場します。そして、本作は、当然ながら、というか、何というか、豪華にもこの2人とも登場する短編集です。私は、たぶん、前2作を読んでいると思うのですが、いずれも本作と同じように短編集だったという以外には、ほぼほぼ中身の記憶がありませんから、ひょっとしたら、再読するかもしれません。それはさておき、前2作と同じで、殺し屋が殺人を請け負うわけですが、その殺人は謎解きもヘッタクレもありませんから、情報が分断されている依頼者と殺害対象者の関係、あるいは、オプションで指定される殺害地域や日程などを謎解きの対象にしています。収録されている短編のあらすじは、順に、「遠くで殺して」は富澤允が請け負います。依頼者と殺害対象者のそれぞれの自宅の間では殺害しない、という地域のオプションの謎を解きます。「ペアルック」は鴻池知栄が請け負います。殺害対象者がジャグリングなどの大道芸を趣味にしていて、そのペアとなっているもう1人の男性の2人が、ほぼほぼ同じような服装をしている謎を解きます。「父の形見」は富澤允が登場します。無農薬有機野菜の販売を父親から引き継いだ男性が雇っていた営業担当者が殺された過去の事件の謎を解きます。「二人の標的」は鴻池知栄が請け負います。2人の友人YouTuber農地のどちらかを殺害するという風変わりな依頼の謎を解き、依頼人の意思に沿った殺人であるかどうかを確認します。最後に表題作の「女と男、そして殺し屋」は鴻池知栄と富澤允が2人とも登場し、別途の殺人依頼を受けます。文庫本で100ページを越える中編くらいの長さです。殺害日程を指定され、先の日程だった鴻池知栄の殺人が終わった後、富澤允の依頼は取り消されます。背景となった高齢者の運転ミスによる交通事故死、そして、その交通事故死から残された遺児の大学受験などの要素を突き合わせて謎が解かれます。いずれも殺し屋が殺人を請け負うわけですから、警察などの法執行機関が介入しての全面的な謎の解明にはならないのはいうまでもなく、情報収集に動き回るとはいえ、決定的な証拠物件を発見するわけでもなく、安楽椅子探偵の要素が強いミステリです。ですから、警察がやるような明示的な事実関係などの解明は提示されませんが、おそらくそうなんだろうという論理的な謎解きが披露されます。
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2024年04月13日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済学の学術書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、衣笠智子『少子高齢化と農業および経済発展』(勁草書房)は、世代重複モデルと一般均衡的成長会計モデルを用いたシミュレーションなどによる経済分析結果を集めた学術書です。島浩二『外食における消費者行動の研究』(創成社)は、消費者が外食サービスを選択する際の情報について分析しています。佐藤ゆき乃『ビボう六』(ちいさいミシマ社)は、京都文学賞最優秀賞受賞作であり、長命な怪獣ゴンスはひなた/小日向さんとともに京都の街で活躍します。神野直彦『財政と民主主義』(岩波新書)は、「根源的危機の時代」において新自由主義に代わって経済社会を立て直す公共部門や財政のあり方を論じています。筒井淳也『未婚と少子化』(PHP新書)は、やや的はずれな子育て対策に終止している政府の少子化対策を批判しつつ、さまざまな少子化問題に関する誤解を解消しようと試みています。宮部みゆきほか『江戸に花咲く』(文春文庫)は、江戸の祭りにちなんだ短編5話を収録したアンソロジーです。各短編の出来はいいのですが、アンソロジーとしてはややまとまりがありません。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週は7冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて90冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、衣笠智子『少子高齢化と農業および経済発展』(勁草書房)を読みました。著者は、神戸大学の研究者です。本書の副題は表紙画像にも見られるように「世代重複モデルを用いた理論的計量的研究」となっていて、出版社からも理解できるように、明らかに学術書です。ですので、経済学部で経済学を勉強している、もしくは、勉強していたとはいえ、学部生や一般のビジネスパーソンにはやや難しい内容を含んでいます。大学院修士課程レベルの学術書と考えるべきです。本書は3部構成で各部に3章ずつ配置されています。最初の第Ⅰ部は人口と農業、第Ⅱ部は人口と経済成長、第Ⅲ部は少子高齢化時代の農業と経済、をそれぞれテーマとしています。第Ⅰ部では、私も2021年の紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model: How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" で取りまとめたルイス的な開発経済学における二重経済モデル、すなわち、広範に限界生産力がゼロ、もしくは、ゼロに近い余剰労働力を有する農業・農村に対比して、限界生産力に応じて賃金が支払われる近代的な産業部門が発達した都市部の産業を対比し、農業の産業としての特徴を明らかにしようと試みています。特に、二重経済に関しては、私が分析対象とした初歩的なルイス・モデルではなく、非常に精緻な一般均衡的成長会計モデルを用いた分析結果が明らかにされています。また、第Ⅰ部と第Ⅱ部を通じて、経済成長や経済発展と人口の関係についても簡単に取り上げられています。すなわち、学説史的には18世紀的な古典派の世界ではマルサスの『人口論』に基づいて、食料生産は算術級数的にしか増加しないが、人口は幾何級数的に増加するという有名な命題があります。したがって、人口≅経済の伸びが食料生産に制約される、という考え方がある一方で、現在の日本が典型なのですが、人口縮小に伴って経済成長が制約される、という考え方もあります。第Ⅱ部の第5章では、人口や労働の伸び、人口規模、人口密度、平均寿命、年齢構成などに関する都道府県データを用いたシミュレーション分析がなされており、少なくとも、1960年代から90年代にかけての出生率の低下に伴う年少人口の低下や人口の伸び率の低下は経済成長にプラスのインパクトを持ち、いわゆる人口ボーナスが存在したことを確認しています。同じ第Ⅱ部の第6章では世界各国のデータに基づく人口ボーナスの貯蓄率と成長への影響も分析していますが、コチラの方は地域ごとに影響が異なる、という結果が示されています。第Ⅲ部は農業が主たるテーマとなっているようで、私の理解が及ばない部分もありました。特に、第8章の大阪府能勢町における都市と農村の交流に関しては、よく判りません。逆に、第9章では世代重複モデルと一般均衡的成長会計モデルのシミュレーション結果では、寿命が伸びる一方で人口が減少する現在の日本経済では、いずれにせよ資本蓄積の低下がもたらされるものの、農業よりも非農業部門の方にその影響が大きい、すなわち、相対的に農業部門の重要性が高まる、というのは、それなりの説得力を持っていると感じました。いずれにせよ、人口減少はともかく、農業というのは、経済学で正面から取り上げられることの少ない分野であり、こういった本格的な学術書はとても有益だと思います。

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次に、島浩二『外食における消費者行動の研究』(創成社)を読みました。著者は、大阪公立大学の研究者です。本書は、基本的に、マイクロ経済学の視点から取りまとめられています。すなわち、タイトル通りに、外食における消費者の選択をテーマにしています。ですので、経済学とともに、経営学的な要素も大いに含まれています。古典的な経済学では、情報が完全な市場において、生産物の品質(product)と価格(price)により消費者が選択を決定することになります。2pなわけです。しかし、マクロエコノミストの私ですら、今では2pではなく少なくとも4pにまで消費者選択の要素が拡大されていることを知っていたりします。すなわち、生産物と価格に加えて、場所や流通(place)とマーケティング(promote)です。特に、最後の要素のマーケティングが経済学というよりは経営学に近いことは広く認識されていることと思います。携帯デバイスの発達した現在では、こういった消費者が選択に際して必要とする要素がいっぱい増えていて、いったい、いくつのpが上げられるのか、私には理解が及びませんが、本書では消費の最後にあり得る要素として「投稿」(post)まで含めて論じられています。すべての消費に当てはまるわけではないのでしょうが、本書のテーマである外食を考える場合、SNS映えを意識した消費は分析の対象となり得ます。当然です。そこまでいかなくても、マイクロな経済学における選択では情報の果たす役割が大きく、供給サイドと需要サイドで情報が非対称であれば、アカロフ教授らの主張するように古典派的な市場が成立しない可能性もあります。本書では、そういった情報活用に着目した選択理論い基づいて外食について研究した成果を取りまとめています。ですので、まず、古典派経済学的な情報よりも、現代社会では情報過多になっている可能性が指摘されています。もちろん、ネット上にあふれる情報です。他方で、そういった過剰な情報を取捨選択するサイトもいっぱいあります。そして、そういったサイトはブラックボックスになっていて、ひょっとしたら、何らかの不正行為が行われている可能性も消費者サイドからはうかがい知れません。消費者の受け取る情報、本書では「刺激」(stimulus)と呼んでいる情報に、消費者がいかに反応(response)するか、という経済心理学的な分析です。それをいろんなケースに応じて分類しているのがp.35の図2-6で展開されている購買意思決定プロセスモデルです。消費者行動と注意(attention)を引きるけるマーケティングに分けて論じられています。加えて、消費者側には食欲を満たすという生存本能的な欲求だけではなく、マズロー的な意味での承認欲求もあるわけです。本書ではこういったさまざまな消費行動の基を形成する要因についてアンケート調査を実施した結果の分析を行っています。分析は、基本的に、仮想的市場評価法(CVM)により、支払ってもいい額や、放棄して我慢するに際しての補償額などについて調査し、とても有益な分析結果が得られています。プロスペクト理論やフレーミング効果などツベルスキー-カーネマンによる経済心理学の研究成果ともとてもよくマッチしています。また、第8章では、最近時点でのトピックとして、コロナ禍における外食への消費者需要を取り上げており、感染対策の充実を求めつつも、それらのコストを価格にに転嫁することを許容するのはわずかに1/4に過ぎず、デフレ経済ニッポンを象徴しているような気すらしました。

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次に、佐藤ゆき乃『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を読みました。著者は、私の勤務校である立命館大学文学部のOGであり、本作品で2021年度の京都文学賞最優秀賞を受賞して作家デビューを果たしています。主人公はひなた/小日向さんという女性とエイザノンチュゴンス(ゴンス)という怪獣です。小日向さんはゴンスといっしょに過ごす時間を持つ一方で、ひなたとしてアルコールを提供するラウンジでアルバイトしながら恋人である達也にやや蔑まれながら同棲する世界とを行ったり来たりします。トイウカ、メタバースなんだろうと思います。小日向さんは、ゴンスといっしょに白いカエルを探して二条城の周辺を夜のお散歩をしたり、木屋町の純喫茶「ソワレ」でゼリーポンチを楽しんだりしますが、ひなたさんとしては、ラウンジのアルバイトでは酔客から嫌な思いをさせられたりします。すなわち、「男の人が、飲み屋の女の子をからかっているときの顔。自分が圧倒的に優位だとわかっているときのみ男性が発揮する、この世で一番しょうもないサディズム。」と表現したりしています。ひなたさんは、同棲している達也から「おまえが天使とか、似合わなさすぎ」とけなされながらも、小日向さんとして背中の羽で空を飛んで事情上近くで白いカエルを探しに出かけます。ということで、ひなた/小日向が入り混じって、小日向さんの方には怪獣のゴンスが登場してと、とても不思議な小説です。私程度の読者のレビューでは、この小説の魅力を伝えきることは出来ないような気すらします。ひなたさんとしては、アルバイト先の酔客はもちろんのこと、同棲している恋人や育ててくれた祖母からさえも、やや見下されて生きてきた主人公なのですが、小日向さんとしては、長命のゴンスはそんな彼女に優しく接して、いっしょに白いカエルを探します。このゴンスという怪獣が不思議な存在です。手足が6本あるといいます。本書では「たいへん長生きの怪獣」とだけ紹介されていて、年数は明記していないように記憶していますが、出版社の宣伝文句などでは「千年を生きる怪獣ゴンス」と言及されていたりします。表紙画像の左側はそうなんだろうと思いますが、出来れば、ビジュアルにもより詳しくどういった怪獣なのかを知りたいと考えるのは私だけではないと思います。京都文学賞に応募しただけあって、京都のいろんな名所が登場します。小日向さんがゴンスと出会ったのは二条城でしたし、木屋町や祇園、そして、北野天満宮の縁日にもゴンスと出かけたりします。私は京都の南の方の出身ですが、本書では衣笠キャンパスに通学していた経験ある作者らしく、京都の北の方の紹介が中心になります。縁日、ということになれば、本書で言及されている北野天満宮の天神さんとともに、京都の南方では当時の弘法さんも有名です。毎月21日が弘法さん、25日が天神さんです。いずれにせよ、京都やファンタジー小説が好きな向きには大いにおすすめします。

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次に、神野直彦『財政と民主主義』(岩波新書)を読みました。著者は、東大名誉教授の研究者であり、ご専門は財政学です。実は、未読ながら Financial Times 紙のジャーナリストが書いたマーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』をつい最近勝ったのですが、まさに、本書の問題意識も同じところにあります。すなわち、マルクスの『資本論』ですら資本主義と民主主義は親和性あるものと示唆しているのですが、1980年代からの新自由主義=ネオリベ的な政策の採用により、政治的な民主主義と経済的な資本主義の乖離が目立つようになっています。経済的な格差や貧困が拡大し、環境破壊が進んで気候変動が深刻化しているわけです。すなわち、政治的な民主主義はすべての人の平等な権利や義務に基礎をおいている一方で、格差の大きい経済面ではすべての人は決して平等ではなく、保有する購買力、富または所得によって裏打ちされている経済力によってウェイト付けされているわけです。株式会社の株主総会の決定方式を想像すればいいかと思います。ですから、問題は経済力による支配を政治の面まで拡大しようとする方向性がある一方で、それに対抗して、政治的な平等を経済政策の分野まで拡大して格差の縮小や貧困、さらには、別の観点ながら、気候変動の抑制まで視野を広げようとする方向です。別の見方が提供されていて、前者の方向はコモンを縮小して私的領域を拡大することであり、後者の方向性はコモンの拡大とする見方もあります。たぶん、厳密にはビミョーに異なるのでしょうが、お起きは方向性としてはほぼ同じであり、少なくとも協力共同する可能性は大きいと私は想像しています。その民主主義的な政治的決定を経済、特に、市場に持ち込もうというひとつの手段が財政です。広く知られたように、財政は歳出にせよ、歳入=税収にせよ、議会の多数決により決定される財政法定主義を取っています。国民多数の意見が反映されるシステムといえます。その意味で、本書のテーマとなっているわけです。しかし、実際には、国民の意見が反映されていると感じる人の割合はどれくらいあるのでしょうか。実際には、「誰かエラい人」、あるいは、政治家が国民の意見とはかけ離れたことを決めている、と感じている人は少なくないと思います。パーティー券の売上を裏金にしたりして、どんなにあくどいことをしても政権交代という形で国民の声が反映されう余地は限られています。こういった私の問題意識を本書では、「根源的危機の時代」と呼んでいます。ですので、私も本書の方向性には大いに同意する部分があります。ただ、北欧のシステム礼賛はいいのですが、我が国のロールモデルになるかどうかは、やや怪しいとは思います。

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次に、筒井淳也『未婚と少子化』(PHP新書)を読みました。著者は、立命館大学の研究者ですが、私とは学部もキャンパスも違います。ご専門は家族社会学だそうです。本書でノッケから批判しているのは、政府の少子化対策が子育て対策に終止している点です。私も基本的には同じ考えであり、我が国では婚外子の割合が諸外国と比較してやたらと低いので、子育て対応を考えるず~と前に結婚促進、別の見方をすれば未婚・晩婚対策を重点的な目的のひとつにすべきだと主張しています。諸外国、特にフランスで婚外子の割合が高いのは、我が国でいうシングルマザーの割合が高いというのではなく、法律婚ではないカップルの割合が高いからです。その点も本書では適確に主張しています。その上で、本書では結婚に対する意識についても的確に主張していて、いい条件の結婚相手がいれば、結婚希望は高まるのは当然です。実際に、本書では3000万円の年収などを例示していますが、年収などの経済的な条件が重要な比率を占めるのは当然です。ですので、結婚適齢期という表現はもはやよろしくないのかもしれませんが、結婚を考える年齢において十分な経済的余裕があるかどうかが重要であろうと考えるべきです。もちろん、いわゆる「出会い」がないのが未婚率の上昇につながっている面があるのも確かなので、地方自治体が後援しているような婚活パーティーのようなイベントも決して不要というわけではありませんが、まずは、基礎的な条件として所得の増加を重視すべきです。所得の低下と出生率の低下は連動しているのではないか、と私は考えているのですが、それを計量的に確認した研究成果は今までのところそれほど蓄積されているわけではないように思えます。本書の目的のひとつは、少子化に関する誤解を解くことであろうかとも思いますので、本書にそこまでは望まないのですが、少なくとも結婚生活が送れる所得を政策目標のひとつに組み入れることは意味ないわけではないと思います。ただ、私が知る限りでも、十分安定的で結婚生活を送るにふさわしい所得を得ている人々でも結婚していない人がいっぱいいるわけで、その点については本書でも十分な分析がなされているとは思えません。おそらく、マクロの思考ではそういった個人の選択の問題を解明するのには限界があると思います。本書の冒頭で主張されているように、国家としてのグランドデザインの問題かもしれません。経済的な生産や消費の問題だけではなく、国防や安全保障の観点も動員しつつ、国家としての適正な人口規模を考える必要があるのかもしれません。

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次に、宮部みゆきほか『江戸に花咲く』(文春文庫)を読みました。5人の著者による江戸時代を舞台とする時代小説のアンソロジーです。ただ、私の感触では、タイトルと内容なチグハグです。「江戸の花」といえば、火事と喧嘩であると相場が決まっているのですが、本書ではなぜか祭りを主体においています。その祭りも大きな天下祭2つを中心にしていて、やや重複感があります。天下祭2つとは、すなわち、浅草の三社祭と神田明神の神田祭です。私は60歳の定年まで東京住まいで独身のころは浅草にほど近い三ノ輪橋の下町に住んでいましたので、三社祭の影響圏内でした。少し懐かしく感じます。ただ、どちらも天下祭であって、なぜそう呼ばれるかといえば、江戸城内まで入り込んで将軍のお目もじにかかるからです。ということで、収録作品とあらすじは以下の通りです。まず、西條奈加「祭りぎらい」は狸穴屋お始末日記シリーズの作品で、浅草三社祭を舞台にします。笛職人で祭囃子に使う笛も作っている親方の家から入り婿が離縁されようとしている問題を、離縁を専門とする公事宿「狸穴屋」が解決して復縁を図ります。諸田玲子「天下祭」では、2つの天下祭と並ぶ日枝神社の山王祭を舞台にして、武道の達人だった伊賀者の初老の男の屋敷に、何とお庭番の忍びの娘が押しかけてきて、沸き起こる騒動を描き出しています。三本雅彦「関羽の頭頂」は運び屋円十郎シリーズの作品で、モノや理由を詮索することなく淡々と運ぶハズの円十郎がいろいろと考えを巡らせます。祭の山車の描写がとても巧みで、そういった祭の中の動きや展開がとてもスピーディで楽しめます。高瀬乃一「往来絵巻」は貸本屋おせんのシリーズで、神田祭の豪華な絵巻を名主が注文したのですが、出来上がった絵には10人いるはずの人々の中から1人欠けている人がいて、その時間差からある出来事が推理されます。最後に、宮部みゆき「氏子冥利」は三島屋変調百物語シリーズの作品で、神田祭で小旦那の富次郎が助けた老人から不思議な話を聞き出します。怪談であって、在所での非道な行為が含まれているのですが、「人殺し」として自分自身を責める老人に関しては心温まる結果を引き出しています。収録された短編の中では質量ともに頭ひとつ抜けている気がします。ハッキリいって、繰り返しになりますが、火事でも喧嘩でもないのに「江戸の花」を称するのには疑問が残りますし、祭りを舞台にしているほかは特段のテーマもなく、いろんな有名作家のシリーズからつまみ食いして寄せ集めた印象があるのは確かです。でも、一話一話は完成度が高くて読み応えあります。個別の作品で評価すれば高い評価になりますが、アンソロジーとしてはそれほどではないかもしれません。各作家の作品はいい出来で、編集者は凡庸といえるかもしれません。
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2024年04月10日 (水) 15:00:00

『成瀬は天下を取りにいく』本屋大賞おめでとうございます

本日4月10日、明治記念館にて「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 2024年本屋大賞」の発表会があり、宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』が対象に選ばれています。
まことにおめでとうございます。
滋賀文学として滋賀県民の私は大いに喜んでいます。

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2024年04月06日 (土) 09:00:00

今週の読書は日本の企業や経済に関する経済書2冊のほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、伊丹敬之『漂流する日本企業』(東洋経済)は、従業員重視から株主重視に経営姿勢を転換し、設備投資に対して非常に消極的になった日本企業を論じています。櫻井宏二郎『日本経済論 [第2版]』(日本評論社)は、江戸時代末期からの日本経済の特徴を歴史的に後付けています。森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)では、ホームズはヴィクトリア朝京都で大変なスランプに陥っています。天祢涼『少女が最後に見た蛍』(文藝春秋)は、社会派ミステリの仲田蛍シリーズ第4弾、初めての短編集であり、主人公の仲田蛍が高校生や中学生の心を想像します。結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)も5話の短編から編まれていますが、コミカライズされていてマンガ版も出版されています。ラストのどんでん返しが各短編の特徴を引き立てています。田渕句美子『百人一首』(岩波新書)は、「百人一首」を編纂したのは藤原定家であり、小倉山荘の時雨亭で編まれた、とする通説に挑戦しています。東川篤哉『もう誘拐なんてしない』(文春文庫)は大学生が暴力団組長の娘を狂言誘拐する際の殺人事件の謎解きが鮮やかです。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って今週ポストする7冊を合わせて84冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
なお、新刊書読書ではないので、本日のレビューには含めませんでしたが、有栖川有栖の国名シリーズ第7弾『スイス時計の謎』と第10弾『カナダ金貨の謎』(講談社文庫)も読みました。そのうちに、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、伊丹敬之『漂流する日本企業』(東洋経済)を読みました。著者は、長らく一橋大学の研究者をしていました。専門は経営学です。私の専門の経済学とは隣接分野であろうと思います。本書では、財務省の「法人企業統計」などからのデータを基に、バブル崩壊意向くらいの日本企業の経営姿勢が大きく変化したことを後付けています。ズバリ一言でいうと、冒頭第1章のp.51にあるように、「リスク回避姿勢の強い経営」ということになります。一言ではなく二言でいえば、従業員重視から株主重視に経営姿勢を転換し、設備投資に対して非常に消極的である、ということです。後者については、バブル崩壊後、特にリーマン・ショック後に利益を上げつつも、株主への配当を増やす一方で設備投資がへの積極性が失われています。反論もいくつか取り上げていて、人口減少などから国内経済の成長が望めないから設備投資に消極的かというとそうでもなく、海外投資にも消極的である、と批判しています。ただ、海外投資に消極的なのは海外人材の不足も上げています。これは企業だけではなく、大学でもそうです。私は大学院教育は受けていませんし、大足の単なる学士であって収支や博士の学位は持っていませんが、海外経験が豊富だということから大学教員に採用されているような気がします。おそらく、私の直感では、大学にせよ企業にせよ、東京や首都圏であればまだ海外要員はいなくもないのでしょうが、いっぱしの都会である関西圏ですら海外人材は不足しています。おそらく、もっと地方部に行けば海外人材はもっと足りないのだろうと想像しています。ついでながら、同様に大きく不足しているのはデジタル人材であると本書では指摘しています。これは、ハッキリいって、教育機関たる大学の問題でもあります。リスク回避の強い経営に立ち戻ると、本書では「メインバンク」という言葉は使っていませんが、要するに、銀行に頼れなくなったからである、と指摘しています。かつては、メインバンクならずとも資金提供してくれる銀行が、同時に経営のチェック機能も果たしていたのですが、そういったいわゆる間接金融から直接金融に移行し、そのために株主に対する配当が膨らんでいる、という結論です。ただし、こういった過大な配当や設備投資の軽視は大企業だけに見られる現象と本書では考えていて、中小企業にはこういった動きは少ないとも結論しています。どうしてかというと、大企業のほとんどは株式を公開しており、官製のコ^ポレートガバナンス改革とか、海外投資家のうちのアクティビストへの対応などが必要になるというわけです。ですから、設備投資を抑制し、私も同意するところで、設備投資が不足するので労働生産性も高まらず、したがって、賃金が上がらない、という結論です。本書では明示していませんが、おそらく、企業の利益を投資だけでなく、賃金に分配することについても抑制的な経営がなされてきた結果であろうと私は考えています。ついでに、それをサポートするように政治や行政が暗に労働組合を弱体化させてきたことも寄与している可能性があります。そして、著者の古い著書である『人本主義企業』に立ち返って、注目企業のキーエンスを取り上げています。その詳細は本書を読んでいただくしかありませんが、1点だけ指摘しておくと、配当を増やすのではなく、株価を上げることで株主に還元している姿勢を指摘しています。最後に、私のようなマクロエコノミストの目から見て理解できなかった点なのですが、設備投資をすれば労働者の資本装備率が上がって生産性を向上させるだけではなく、特に大規模な設備投資であれば企画段階から大きな人材へのインパクトがあると主張します。企画段階における人的能力の向上や形成はいうに及ばず、心理的エネルギーが高揚し、意識や視野が広がる、との指摘です。ここは経済学ではなく経営学独自の視点で、私も勉強になった気がします。

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次に、櫻井宏二郎『日本経済論 [第2版]』(日本評論社)を読みました。著者は、日本政策投資銀行ご出身のエコノミストであり、現在は専修大学の研究者です。本書では、冒頭の第1章で日本に限定せずに経済を見る目や経済学の基礎や景気循環などについて解説をした後、日本経済をかなり長期に渡って歴史的に後付けています。すなわち、江戸時代の遺産と明治維新から始まって、殖産興業や戦時経済、敗戦後の戦後改革と高度成長、石油危機を転機とする高度成長の終焉と1980年代後半のバブル経済、バブル崩壊後の日本経済の低迷やアベノミクスの展開、そして、コロナのショックと最後は人口減長や高齢化などを論じています。長々と書き連ねてしまいましたが、私は大学で本書のタイトルと同じ「日本経済論」の授業を学部生向けと大学院生向けに担当していて、前の長崎大学でもやっぱり同じことでした。ただ、3月末で定年退職して特任教授になってからは大学院の方の日本経済論は担当から外れてました。ですので、こういった日本経済を論じた経済書はなるだけ読むようにしています。本書の特著は、繰り返しになりますが、歴史的に日本経済を解説していることです。ですので、学生はもとより一般的なビジネスパーソンにも取り組みやすい気がします。私が授業で教科書に指定しているのは有斐閣の『入門・日本経済[第6版]』で、前任の長崎大学のころに第3版を教科書に指定して以来、長々と使っています。冒頭の3章ほどで戦後の日本経済を振り返った後、制度部門別に、企業、労働、社会保障、財政、金融、貿易、農業などにおける日本経済の特徴について解説しています。私が授業をするのはこういった制度部門別の教科書のほうが使いやすい、というか、学生の学習には適していると考えています。ただ、本として、読み物として考えると、本書のように歴史を後付けるのも私はいい方法だと評価しています。ただ、現在の大学生は、10年余り前に私が長崎大学で教え始めたころと違って、ほぼほぼ今世紀の生まれ育ちですから、ハッキリいって、バブル経済の実感はまったくありません。今の大学生が生まれた時から、ずっと日本経済は低迷を続けているわけです。私自身はさすがに高度成長期の記憶はほぼ持っていませんが、今の大学生は高度成長期は完全に歴史の中の出来事であり、バブル経済もそうなりつつあります。ですので、逆に、高度成長期やバブル経済期の日本経済の姿を客観的に把握することができるような気すらします。もはら、高度成長期やバブル経済期の日本経済というのは、自国のことではなくて世界のどこかヨソの国の経済のような感覚だと思います。ですので、本書の弱点は日本経済の教訓を別の国で活かす方向性に乏しい点です。アジア諸国の経済開発の観点からすれば、江戸時代までさかのぼってしまうとどうしようもない点がいっぱいあり、戦後日本経済をより詳しく見た方が有益ではないかと考えています。というのも、日本経済の大きなひとつの特徴は、欧米以外のアジアの国で唯一の近代的かつ欧米的な経済発展を遂げて先進国を果たした点にあると考えられます。例えば、1人当たり所得で見て、日本よりもシンガポールの方が豊かなわけですが、日本は欧米的な農業国から工業国へ、そして、サービス経済化、という西欧的な経済発展の流れに乗っていますが、シンガポールは少し違います。ひょっとしたら、唯一の国というよりも韓国や台湾を考えれば、アジア最初の国という方が正確かもしれませんが、いずれにせよ、西欧的な経済発展の観点からは、韓国や台湾を含めてアジアの先頭を切ってきたわけで、これらの国に続くASEAN諸国や、あるいは、南アジアや中央アジアも含めて、今後の経済発展のロールモデルになる観点から日本経済を見ることもひとつの視点だと考えています。その意味で、日本経済を学ぶには開発経済的な視点も欠かせません。

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次に、森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)を読みました。著者は、エンタメ小説の作家です。この作品は、タイトル通りに、シャーロック・ホームズの探偵譚を相棒のワトソン医師が書き記しているというパスティーシュなのですが、ノッケから、ホームズやワトソンがいるのはヴィクトリア朝京都で、ワトソンはすでに結婚してメアリー・モースタンと新婚家庭を構えている一方で、ホームズはベイカー街ならぬ寺町通221Bのハドソン夫人のフラットに住んでいます。ただ、ヴィクトリア朝京都のホームズは決して名探偵ではありません。「赤毛連盟事件」で大失敗をしてスランプに陥って、鬱々と日々を過ごしているので、ワトソンが何とか元気づけて元の名探偵に復帰できるように、いろいろと気を使って、そのあげくにワトソン家の結婚生活が危機にさらされていたりします。ついでながら、「京都警視庁」に「スコットランドヤード」のルビが振ってあり、そのスコットランドヤードのレストレード警部も、難事件はホームズに解決してもらっていたわけですから、ホームズにシンクロする形でスランプだったりします。また、本来のホームズ物語ではロンドンの悪の巨頭であり、ホームズの宿敵であるモリアーティ教授は、寺町通221Bのホームズの部屋の上階に住んでいて、これまたスランプで研究も進んでいません。ほかに、「ボヘミアの醜聞」に登場するアイリーン・アドラーがヴィクトリア朝京都では名探偵の役割を果たして、ホームズに代わって難事件を解決します。ほかに、原典に基づいて登場するのはマスグレーヴ家の当主だったりしますし、ヴァイオレット・スミスはまったく原典から異なる役割を与えられていて、「ストランド・マガジン」の編集者を務めていたりします。原典には見当たらない霊媒師リッチボロウ夫人がヴィクトリア朝京都では重要な役割を果たします。まあ、ホームズの物語ですから、ネタバレを避けてあらすじはここまでとしますが。おそらく、本書を読むと作者の『有頂天家族』などといったファンタジーを連想して、本書もファンタジーではないか、と考える読者がいそうな気がしますが、そのようにファンタジーにも読めることを私も認めはしますが、ひょっとしたら、メタ構造になっているのではないか、そのようにも読めるのではないか、という気がします。あまりに突っ込んだレビューをするのはネタバレにつながりかねないので、ここまでとしますが、既読の方がおられれば、本書は『有頂天家族』などのようなファンタジーなのか、いやそうではなく、近代物理学や生物学に矛盾する部分は決してなくて、ファンタジーのように感じられるのはメタ構造の内部構造として読むべき、なのか、ご意見をお聞きしたく思います。

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次に、天祢涼『少女が最後に見た蛍』(文藝春秋)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書は社会派ミステリの仲田蛍シリーズ第4弾、初めての短編集です。このシリーズは神奈川県警生活安全課少年係の仲田蛍を主人公に、第1弾『希望が死んだ夜に』、第2弾『あの子の殺人計画』、第3弾『陽だまりに至る病』と、未成年による数々の事件を取り上げています。本書に収録された5話の短編を収録順に紹介すると、まず「17歳の目撃」では、決して豊かではない家庭環境ながら弁護士を目指す高校生が、地元の登戸で頻発しているひったくり事件を目撃します。高校のクラスメイトが犯人でしたが、波風を立たせないためにその目撃情報を警察には伝えず、ウヤムヤに終わらせようとします。仲田蛍がいつもの「想像」によって証言引き出します。「初恋の彼は、あの日あのとき」では、アラサーに達した仲田蛍が同窓生の女子会に出席し、小学校のころの思い出を4人で語り合います。物静かなイケメンスポーツマンとして人気がありながら、5年生の終業式の日に転校していった男子についてのお話が弾みます。でも、仲田蛍はその実態について鋭く考えます。「言の葉」では、元アイドルながら過激な発言でもってSNSを炎上させることでも有名な野党の女性議員の事務所のガラスにリンゴが投げつけられた事件で、防犯カメラの映像などから早くから犯人と特定されていた中学生男子に仲田蛍が相対します。こども食堂を助けるのがいいのか、それとも、こども食堂が不要になる社会を目指すべきなのか、社会派の真骨頂が伺えます。「生活安全課における仲田先輩の日常」では、同じ生活安全課の後輩である聖澤真澄が、あまりにも顔色の悪い先輩の仲田蛍の守護神として活躍します。有名進学校の防犯教室で仲田蛍に代わって説明役を引き受けたりします。最後の表題作「少女が最後に見た蛍」では、夜の男女トラブルで女性の事情聴取を行うことになった仲田蛍と聖澤真澄なのですが、その女性とは仲田蛍の中学校のクラスメートで仲田蛍の友人であった桐山蛍子を自殺に至らしめたいじめの張本人でした。仲田蛍は桐山蛍子をいじめから守りきれなかった、という後悔があります。このシリーズはミステリとしては少しずつクオリティが落ちてきて、特に第3作の『陽だまりに至る病』は謎解きとしては少し疑問があったのですが、本書に収録された短編はミステリとしてもいい出来だと思います。特に、仲田蛍の過去が語られる「初恋の彼は、あの日あのとき」と「少女が最後に見た蛍」は過去の出来事の謎解きですから、いわゆる安楽椅子探偵の役割を仲田蛍が果たし、本格的な謎解きに仕上がっています。もちろん、このシリーズの真髄である社会派として、単純な家庭の問題だけではなく学校におけるいじめについても取り上げられており、このシリーズ本来の姿である社会派ミステリを十分楽しめます。

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次に、結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)を読みました。著者は、『名もなき星の哀歌』で新潮ミステリー大賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。本書は、5話の短編から編まれていますが、コミカライズされていてマンガ版も出版されています。私はマンガの方は見ていませんが、直感的には文章だけの小説よりもマンガの方が売れそうな気がします。それはともかく、収録順に各短編のあらすじを紹介すると、まず、「惨者面談」では、家庭教師派遣業者の営業のアルバイトをしている御三家卒東大生が主人公で、営業活動で訪れた家の母親と子どもと面談しますが、玄関先で長々と待たされた上にどうもチグハグでかみ合わない面談です。ウラで何かが起こっています。「ヤリモク」では、マッチングアプリで娘とよく似た女性をお持ち帰りする中年男性が主人公です。同時に娘がパパ活して高価なアクセなんかを買ってもらっていることも懸念しています。そして、いわゆ美人局に遭遇して大きく物語が展開し始めます。「パンドラ」では、高校生の娘がいるものの、以前に不妊で悩んだ経験から妻の同意を得て精子提供をしている男性が主人公です。そして、中学生の女子からホントの父親の自分に連絡がきてしまいます。「三角奸計」では、大学のころの仲間3人でリモート飲み会を楽しむ社会人が主人公です。ただ、3人のうち1人はテキストチャットだけでの参加です。3人お家の1人のフィアンセが浮気しているということから話が大きくなります。最後に、「#拡散希望」では、YouTuberになろうと憧れながら長崎県五島列島に住む男女4人の小学生が主人公です。もっとも、4人のうち島で生まれ育ったのは1人だけで、後の3人は家族ともに移住してきています。移住組はややキラキラネームだったりします。そして、島にやってきたYouTuberの田所という男性が子どもたちと接触するのですが、島から去った後に殺害されます。そしかも、小学生4人のうち、1人の女子が崖から転落死してしまいます。ということで、ミステリですので消化不良気味のあらすじ紹介ですが、いずれも最後の最後にちゃぶ台返しのどんでん返しが待っているミステリです。しかも、多くの短編で殺人事件が起こります。ただし、途中まで読んでいて、なんとなく真相も明らかになるくらいで、一部には底の浅いトリックも見られますが、それなりにグロいところがあって、決して一筋縄では行きません。5話のうち、圧倒的に最後の「#拡散希望」の出来がよく、最後に真相が語られる部分はかなりの緊張感があります。めずらしくも私はついつい最初に戻って2度読みしてしまいました。

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次に、田渕句美子『百人一首』(岩波新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者であり、ご専門は日本中世文学・和歌文学・女房文学だそうです。本書では、タイトル通りに「百人一首」を題材に取り上げています。当然です。特に、私は書道をやっていた経験があって、大学の職を終えればもう一度習いたいと考えているので、色紙歌には興味があって、書道や美術品の観点からも「百人一首」は興味をそそられます。他方で、従来から、私のようなフツーの日本人は、「百人一首」あるいは「小倉百人一首」とは、勅撰和歌集ではないとしても、かなり著名な和歌の撰集であって、藤原定家が嵯峨野の小倉山荘の時雨亭で編んだものと考えられています、というか、伝えられています。しかし、著者の最近の研究成果でこういった一般日本人の「常識」が改めて考え直されていたりします。本書の考察のポイントは、「百人秀歌」と「百人一首」を比較衡量して、その異同から何が見えてくるかを考え、さらに、「百人一首」の配列を考え、当然ながら、権力史などの歴史をひも解き、和歌の解釈にまで考えを及ばせています。そして、考察における決定版としては、藤原定家の日記である「明月記」との比較衡量、日付の検討なども行っています。特に、「明月記」における文暦2年・嘉禎元年(1235年)5月27日の条の障子歌、色紙歌などを参照して、「百人一首」は藤原定家の撰になるものかどうかに、大きな疑問を呈しています。まず、配列については、勅撰和歌集にも見られるように、和歌は一首単独で考えられるべきものではなく、前後の配列の中、あるいは、巻の塊の中で鑑賞されるもの、という視点です。そして、歴史的な視点としては、いくつかの和歌に詠まれた「末の松山」というのは、津波ではないか、というものです。ほかにもいっぱいありますが、こういった歴史や文学の視点は、私のような専門外の読者にとっては目新しいものばかりで、それなりに勉強にはなりました。でも、だからどうした、という読者もいるように思わないでもありませんが、それが「教養」というものです。その意味で、ためになった読書でした、さすがは岩波新書、と感激しました。

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次に、東川篤哉『もう誘拐なんてしない』(文春文庫)を読みました。著者は、「謎解きはディナーのあとで」のシリーズなどで売れているユーモアミステリの作家です。本書も基本的にユーモアミステリのカテゴリの作品といえます。単行本が2008年に文藝春秋から、2010年には文庫本は文春文庫から、それぞれ出版されていますが、本書はさらにエピローグを加えて今年2024年1月に出版されています。出版社の宣伝文句として「斬新なカバーデザイン」というのもあったりしますが、前の表紙は不勉強にして私は知りません。ということで、舞台は基本的に下関なのですが、関門海峡を渡って北九州は門司にも行ったりします。基本的な地図は壇ノ浦古戦場や巌流島などとともに、本書冒頭に示されています。主人公は夏休み中の大学生と門司を地場にする暴力団組長の娘です。それに、人物相関的にはほとんど関係しませんが、印刷会社での偽札もからんできたりします。主人公の垂井翔太郎は夏休みのアルバイトで大学の先輩の甲本一樹からたこ焼きの屋台の軽トラを借りて、門司でアルバイトを始めます。その門司で、ヤクザから逃げる花園絵里香を助けます。花園絵里香は、門司港から発祥したバナナの叩売りを起源とするテキ屋系の任侠一家である暴力団花園組の組長の娘、正確には次女だったりします。なお、花園組の実権は組長ではなく、組長の長女である花園皐月が握っていたりします。その花園皐月と花園絵里香の母親が組長の父と離婚した後にできた妹の手術費用をせしめるために、狂言誘拐を企んで花園絵里香の父親、というか、花園組の組長から身代金を脅し取ろうとします。その身代金受渡しの過程で、花園組ナンバーツーの若頭である高沢裕也が失踪した上に、死体となって発見される謎を花園組の実権を握る花園皐月が探偵役となって解き明かすわけです。ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、まあ、このあたりの山口・広島・岡山の瀬戸内ご出身の作者らしく旅情あふれる、というか、ローカる情報を満載したユーモアミステリです。しかし、同時に、関門海峡で船を使うなどの身代金の受渡しや偽札との関係、さらに、身内の裏切りなどの要素がふんだんに盛り込まれている本格ミステリでもあります。ただ、私から2点だけ付け加えます。第1に、実は、殺人事件は若頭の高沢裕也が殺される前に、偽札を印刷していたと思われる印刷会社、というか、正確にはすでに倒産したハズの元印刷会社でも起こっていますが、ソチラの殺人事件はまったく謎解きがありません。私はヘーキなのですが、読者によっては少しモヤモヤするものを感じるケースがありそうな気がします。第2に、本書を原作としてフジテレビ系列でドラマ化されています。主演の樽井翔太郎役に嵐の大野智、花園絵里香役に新垣結衣の配役でした。これはご参考まで。
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2024年03月30日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小峰隆夫『私が見てきた日本経済』(日本経済新聞出版)は、経済企画庁で「経済白書」の担当課長などを務めた官庁エコノミストが1970年代からの日本経済を概観しています。根井雅弘『経済学の学び方』(夕日書房)は、京都大学の経済学史の研究者が歴史的な視野を持って経済学をいかに学ぶかを説いています。宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)は、ソ連崩壊の前後のエストニアでプログラミングに打ち込んだ主人公をジャーナリストが探す物語です。宮本昌孝『松籟邸の隣人 1』(PHP研究所)は、大磯の別荘である松籟邸の投手である少年時代の吉田茂が隣人とともに様々な事件に巻き込まれながらもそれらを解決します。船橋洋一『地政学時代のリテラシー』(文春新書)は、コロナ禍やウクライナ戦争などによる国際秩序の変容について論じています。岸宣仁『事務次官という謎』(中公新書ラクレ)は、官庁における事務次官の謎の役割を解明しようと試みています。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊の後、3月に入って先週までに25冊、今週ポストする6冊を合わせて77冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
それから、上の新刊書読書の外数ながら、2018年の日本SF短編の精華を収録した大森望・日下三蔵[編]『おうむの夢と操り人形』(創元SF文庫)を読みました。別途、Facebookでシェアする予定です。

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まず、小峰隆夫『私が見てきた日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、私も所属した経済企画庁から内閣府などで官庁エコノミストを務めた後、法政大学などに転じたエコノミストです。本書以外のご著書もいっぱいあります。本書は、日本経済研究センターのwebサイトで連載されていたエッセイのうち118回目までを取捨選択して編集されています。ですので、1969年の経済企画庁入庁から始まって、著者の半生をなぞる全10章で本書は構成されています。極めて大雑把に、前半は1969年から今世紀初頭くらいまでの経済を分析し、後半は著者の半生を後づけています。どうしても、これだけの年齢に達した方ですので自慢話が多くなるのはご愛嬌です。1970年代のニクソン・ショックに端を発した為替レートに固執した政策運営を批判し、2度に渡る石油危機を分析し、1980年代からのいわゆる貿易摩擦を解説しています。こういった経済分析に関しては、とてもオーソドックスですし、一般の学生やビジネスパーソンなどにも判りやすくなっています。その後の⅔は著者の半生を振り返りつつの自慢話なのですが、経済企画庁や内閣府における官庁エコノミストを極めて狭い範囲で定義し、「経済白書」や「経済財政白書」を担当する部局である内国調査課長の経験者、としているように見えます。私にはやや異論があるところです。ですので、日銀副総裁の経験もある日本経済研究センター(JCER)の理事長ですとか、「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」と題する私との共著論文があって、ご著書もいっぱいある上に、これまた日銀政策委員を務めた方とかが、ほぼほぼ無視されています。しかしながら、他方で、内国調査課長を経験していないにもかかわらず、香西泰教授と吉富勝博士については、特に別格扱いで官庁エコノミストのツートップのように取り上げています。もちろん、他省庁のエコノミストは入り込む余地はありません。まあ、こういった視点はともかく、やや内輪話的なところもいくぶんあり、私の面識あるエコノミストがいっぱい登場していますので、とても楽しく読めたのは事実です。

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次に、根井雅弘『経済学の学び方』(夕日書房)を読みました。著者は、京都大学の研究者であり、専門分野は経済学史です。本書は5章構成であり、順に、アルフレッド・マーシャル、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・メイナード・ケインズ、ユーゼフ・アロイス・シュンペーターを取り上げています。フツーであれば、経済学はスミスから始まるように思うのですが、マーシャルのあまりにも有名な需要曲線と供給曲線から始めています。私はこれはこれで見識ある見方だと思います。価格の決定に際して、労働価値説に立脚する古典派は供給サイドの理論であり、限界革命後の限界効用説は需要サイドの理論である、などときわめて判りやすい例えを引きながら経済学のいろんな学説を解説・紹介しています。ミルについては、経済や経済学の基礎となる『自由論』を取り上げて多数の専制に対する批判を解説しています。ケインズを取り上げた章では、ややマニアックに「合成の誤謬」に着目しています。最後の章のシュンペーターについては、もともとの本書の視点である正統と異端にあわせて、動学的な非連続性を論じています。私は歴史というのは、特に経済の歴史は微分方程式で表すことが出来ると考えています。でも、そうだとすると、初期値が決まってしまえば後の動学的なパスは自動的に決まります。すなわち、これがアカシック・レコードなわけですが、実は、淡々と微分方程式に従って進むだけではなく、特異点でジャンプする場合があります。すべての歴史が連続で微分可能なわけではありません。それを経済学的に表現したのがシュンペーターのイノベーションであろうと思いますし、本書でいう「正統と異端のせめぎ合いのなかからイノベーションが生まれる」ということなのかもしれません。いずれにせよ、経済学史を専門とする著者らしく、本書では歴史的な流れというものをそれなりに重視し、歴史的な視野を持って、現時点での正統派の経済学がその後も正統派であり続けるという「宗教的な信仰」を排し、外国語も学びつつ基礎を固めて、着実な経済学の学習を勧めています。ただ、副題が「将来の研究者のために」となっている点に現れているように、大学に入学したばかりの初学者を必ずしも対象にしているわけではありません。初学者にも有益な部分があるとはいえ、少し経済学の基礎を持った学生を対象にしているように私は感じました。

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次に、宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)を読みました。第170回直木賞ノミネート作であり、著者は小説家です。本書は、ソ連崩壊前の時代背景から始まり、タイトル通りに、エストニアに生まれたラウリ・クースクを追って、ラウリを探すジャーナリストの物語です。ラウリは小さいころから数字が好きで、コンピュータのプログラミングの才能が豊かでした。まあ、主としてゲームなのですが、その昔の1970年代のインベーダーなどが流行った記憶のある人は少なくないと思います。ラウリは小学校ではいじめっ子に意地悪されながら、父親からコンピュータを与えられ、ロシア版BASICでゲームをプログラミングします。そして、中学校に入ってロシア人のイヴァンと親友になり、プログラミングの能力を伸ばしていきます。同時にイラスト能力の高い少女のカーテャとも仲良くなり、3人でプログラム能力を競い合います。しかし、ソ連崩壊の中でエストニア独立の機運が高まります。イヴァンはもともとがロシア人ですが、他方で、カーテャはエストニア独立に熱心だったりします。その間でラウリは新ロシア派に加わり、デモの際にカーテャは怪我をして車椅子生活となります。繰り返しになりますが、本書はジャーナリストがラウリを探してエストニアを旅するストーリーなのですが、その現代のパートとラウリの少年時代から青年時代が叙述的に語られるパートが交互に現れます。ミステリではないので決して時代をごっちゃにして読者をミスリードさせる意図はないものと考えるべきです。ただ、ジャーナリストの正体が第2部の最後に明らかにされて、読者は軽く衝撃を受けるかもしれません。幼少期からプログラミングに能力あった少年少女の強い絆を縦糸にして、そして、ソ連崩壊という歴史上の大きな出来事になすすべなく翻弄される少年少女の動向を横糸にして、実に巧みに紡ぎ上げた作品です。ただ、最後の最後に、国家はデータではありません。記憶媒体にバックアップしておけばレストアできる、というわけではないと私は考えています。確かに、国土や統治機構は不要かもしれませんが、国家とは国民の集合体であることは間違いありません。国民はデータとしてバックアップできるわけではありません。

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次に、宮本昌孝『松籟邸の隣人 1』(PHP研究所)を読みました。著者は、時代小説を中心に活躍しているベテラン作家です。本書のタイトルにある「松籟邸」とは神奈川県大磯にある別荘であり、後に日本の総理大臣を務める吉田茂が旧制中学校のころに住んでいました。吉田茂の養父である吉田健三が松籟邸と名付けていますが、この作品が始まる時点ではすでに亡くなっていますので、若き吉田茂が松籟邸の当主ということになります。作品中で、茂は養子であることを養母の士子から知らされ、養父の吉田健三の記念碑の除幕式があったりもします。養母の士子はこの松籟邸に住んでいますが、主人公の吉田茂は普段は横浜の本宅や中学校の寮に住んでいて、夏休みなどの休暇期間に大磯にきます。巻の1の青夏の章となっていて、何年かの夏休みを連続して描写しています。この後、3巻まで予定されているようです。なお、場所が大磯ですので、松籟邸の他にも海水浴などを目的として別荘開発が進められているという時代背景です。表紙画像の帯に見えるように、伊藤博文、陸奥宗光、渋沢栄一の他にも岩崎弥之助や大隈重信といった明治の元勲らへの言及があります。そして、タイトルにあり小説の肝となる隣人、実は、ある意味で謎の隣人なのですが、その人物と使用人一家にスポットが充てられます。天人という名で米国帰りのような雰囲気を持ち、別荘は洋館建てです。明治の元勲も関係して少年・吉田茂が事件に巻き込まれたり、あるいは、米国のピンカートン探偵社から天人のことを探りに剣客が送り込まれてきたり、ミステリ仕立てのストーリー展開です。ただ、明治の時代背景ですので、明治維新の勝者に対して強烈な報復意識を敗者の側で持っていたりする例も明らかにされています。繰り返しになりますが、本書の1巻の後、3巻まで出版が予定されているようで、それなりに主人公の吉田茂は成長するのだと思いますが、何分、私のようなジイサンですら吉田茂といえば大宰相であって、葉巻をくわえた写真を思い出すくらいですから、旧制中学校の少年というのはなかなか想像するのが難しかったのは事実です。でも、私自身はこの先の2巻や3巻も読みたいと期待しています。

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次に、船橋洋一『地政学時代のリテラシー』(文春新書)を読みました。著者は、朝日新聞の主筆まで務めたジャーナリストです。現在は独立系のシンクタンクの理事長だそうです。本書は、2023年12月号で終了した『文藝春秋』のコラム「新世界地政学」を編集して収録しています。5章構成であり、コロナ危機による国際秩序の崩壊、ウクライナ戦争、米中対立、インド・太平洋と日本、地経学と経済安全保障から構成されています。その上で、本書冒頭には地政学リテラシー7箇条、そして、最後に地経学リテラシー7箇条が配置されています。まず、コロナ危機とウクライナ戦争は国際秩序を大きく様変わりさせた点については、大方の意見が一致することと思います。それに加えて、習近平一強時代が続く中で中国の国際秩序への関わりも大きく変化しつつあるように見えます。終章の経済安全保障についても、中国との関係の深い日本では気にかかるところです。ただし、私はほとんど本書の議論から益するところはありませんでした。キッシンジャー教授よろしく、リアリズムで国際情勢を考えるべき、というのが本書の視点だと思うのですが、何やら、相対して当たり障りのないことを婉曲に書き連ねているだけのような気がしました。実は、この読書感想文を書くに当たってamazonのレビューも見てみたのですが、評価が大きく二分されています。5ツ星の評価もあれば、中間はいっさいなしで1ツ星というのもあります。その低評価のものは「期待外れ」とか、「星1もあげすぎなほど」といった言葉で表現しています。私も特に一貫性のない細切れの時事問題解説に過ぎない気がしました。ただ、地経学はともかく、地政学は私の専門分野からかなり遠いので、この低評価に必ずしも自信があるわけではありません。

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次に、岸宣仁『事務次官という謎』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、読売新聞のジャーナリストであり、財務省の記者クラブなどに所属していたけんけんがあります。本書のタイトルは、pp.140-41にあるウェーバーの指摘から取られているようで、そこには「官僚組織における長の存在は明確にされておらず、いまだ謎のままである」といったふうに考えられているからです。私も長らく60才の定年まで公務員をしていて、何人かの事務次官を見てきました。私が大学を卒業して入った当時の役所は総理府の外局でしたから、大臣はその役所の設置法で置くことが決められていた一方で、事務次官は役所の設置法の上位法である国家行政組織法で決められていました。やや逆転現象が起きている印象がありました。そして、当時の役所の役職というのは、厳密にいえば、事務官と事務次官と技官の3種類しかなかったことを覚えています。私は「総理府事務官」を拝命したわけです。事務時間以外は、課長であろうと、局長であろうと、もちろんヒラもすべて事務官か技官かのどちらかです。本書でも指摘しているように、局長や統括官などと違って国会の答弁に立つことはなく、記者会見も開きません。でも、総理大臣説明には同行したりします。35年余りも公務員として勤務していると何とも感じませんが、本書で指摘しているように、何とも不思議な役職であることは確かです。いずれにせよ、内閣人事局が出来てから、その俎上に乗るような高位高官に私は達しませんでしたから、やや不明な部分もあるのですが、事務次官とは役所のトップであるという認識は従来から変わりありません。私が公務員を始めたころは、本書でいえば、事務次官が社長で、大臣は社外の筆頭株主、くらいの位置づけであった記憶があります。ただ、本書で主としてフォーカスしている大蔵省・財務省に限らず、役所の人事は次の次くらいまでは、コースに乗っている事務次官が透けて見えるようになっているのも事実です。最後に、私はキャリアの国家公務員でしたが、先輩から事務次官候補と報道されるのは難しくない、というジョークを聞いたことがあります。すなわち、何か破廉恥罪で逮捕される、例えば電車で痴漢して逮捕されたりすると、メディアはいっせいに「将来の事務次官候補だった」と報ずるらしいです。私はそんな経験がありませんので、何ともいえません。
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2024年03月23日 (土) 09:00:00

今週の読書は大分岐論争を考える経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、パトリック・カール・オブライエン『「大分岐論争」とは何か』(ミネルヴァ書房)は、ポメランツに由来する大分岐について中国などのアジアと産業革命が始まった西欧との比較をし大きな差がなかったと結論しています。岡本好貴『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)は、2023年の第33回鮎川哲也賞受賞作品であり、18世紀末の英国の帆船軍艦であるハルバート号で起こった殺人の謎を解くミステリです。天祢涼『陽だまりに至る病』(文藝春秋)は、仲田蛍の活躍する社会派ミステリの第3作であり、小学5年生の思春期直前の少女に仲田が寄り添って殺人事件も意外な解決を見ます。門井慶喜『東京、はじまる』(文春文庫)は、近代都市東京に建築で貢献し日本銀行本店や東京駅を建てた辰野金吾の一代記です。米澤穂信ほか『禁断の罠』(文春文庫)は、辻村深月ほか『神様の罠』に続く出版であり、ミステリ短編7作品を収録したアンソロジーです。最後に、東海林さだお『大盛り! さだおの丸かじり とりあえず麺で』(文春文庫)は、43巻1514篇に及ぶ丸かじりシリーズから麺に関するエッセイを集めて収録しています。ちゃんぽんが取り上げられていないのが残念です。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊の後、3月に入って先週までに19冊、今週ポストする6冊を合わせて71冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。


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まず、パトリック・カール・オブライエン『「大分岐論争」とは何か』(ミネルヴァ書房)を読みました。著者は、もう引退していますが、ロンドン・スクール・オブ・エコノミー(LSE)で長らく教鞭をとった経済史の研究者です。なお、邦訳は京都産業大学の玉木俊明教授が当たっています。私の尊敬する経済史研究者です。なお、英語の原題は The Economies of Imperial China and Western Europe であり、2020年の出版です。出版社から見て、かなり学術書に近いのですが、純粋な経済学の学術書、という表現はヘンなのですが、理論経済学で数式がいっぱい出てくるような学術書ではありませんから、歴史に興味ある多くの方々が楽しんで読めるのではないかと期待しています。「大分岐」=Great Divergence とは、2000年に出版されたポメランツの著書に由来します。従来からの見方では、18世紀の産業革命が西欧で始まる前に、すでに、西欧と中国やインドなどのアジアはかなり生産力や生活水準、もちろん、その基礎となる科学技術などで遅れを取っていた、とする西欧中心の歴史観が転換され、グローバル・ヒストリーなどの観点からも、産業革命の前夜に西欧とアジアのさは大きくなかった、とする歴史観です。私はその点は疑いないものと見なしています。多くの歴史家もそうだろうと思います。本書では、独特の表現なのか、あるいは、ヒストリアンには共通した用語なのか、私は知りませんが、産業革命によって有機経済から無期経済に転換した、としています。そして、産業革命がどうして西欧、中でもイングランドで始まったか、については、本書では、p.127に結論があります。石炭の発見と中国のスタートが早かったために、逆に、豊かな天然資源が失われ、慣性によりマルサス的な問題に対して科学技術を活用した解決を取らなかった、という2点を上げています。通常、グローバル・エコノミー以前の主流派経済史では制度学派が主要な論点を提供していて、所有権の確立により科学技術を体化した資本ストックの導入が進んだ、ということになっています。ノース教授がこういった経済史理論でノーベル経済学賞を受賞したのは1993年です。でも、2000年のポメランツ教授の『大分岐』からいろいろと議論が盛り上げっていますが、私は、誠に残念ながら、本書の観点も十分な説得力を持つには至っていない気がします。明らかに、現時点で、欧米が経済的なパワーでアジアに優位に立っているのは産業革命を早くに開始したからです。でも、どうして、中国やインドや日本ではなくイングランドで産業革命が始まったのかの謎は、本書でもまだ十分に解明されていない、と私は考えています。ついでながら、私の勤務校のサイトでも同じ問いを立てていて、答えは「答えはいまだに解き明かされていません。」と結論しています。はい。私もそう思います。

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次に、岡本好貴『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)を読みました。著者は、改題前のこの作品北海は死に満ちて」で2023年の第33回鮎川哲也賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。この作品は1795年、すなわち、フランス革命直後の英国の海軍、というか、タイトル通りに帆船軍艦である戦列艦ハルバート号を舞台にしています。英国がフランスに対して長い戦いによって英国海軍が慢性的な兵士不足の状態にあり、本書の主人公である靴職人のネビルは、先輩靴職人のジョージとともに強制的に徴募され、戦列艦ハルバート号に水兵として乗り込むことになってしまいます。なかなか細々と当時の軍艦に関するトリビア知識が散りばめられて、殺人事件がすぐに起こるわけではないのですが、歴史好きな読者などにはそれはそれでいいのかもしれません。船内での食事やハンモックでのざこ寝をはじめとする水兵としての生活がいろいろと記述されています。時代的な背景もあって、現代からは考えられない艦内における階層や序列もあったりします。ただ、これらは殺人事件には直接関係ないような気がしました。しかし、さすがに、タイトル通りに、どこにも逃げ場や隠れるところのないクローズドサークルである軍艦の上で殺人事件が起こります。真っ暗な暗闇の寝室での殺人なのですが、かなり近くにいたネビルがまっ先に疑われたりします。そうこうしているうちに、船倉で次の殺人事件が、また、懲罰房でさらにその次の殺人が起こったりするわけです。士官候補生出身ではなく水兵からの叩き上げの5等海尉であるヴァーノンが船長から指名されて事件解明に当たります。最後の謎解きまでヴァーノンが事件全貌を明らかにします。もちろん、軍艦ですからフランス海軍との海戦場面もあります。のんびりと航海しているだけではありません。ミステリですので、あらすじはここまでとします。帆船に関する詳細な知識は必要ないと思うのですが、やっぱり、帆船に詳しいと謎解きには便利なのかもしれません。必要最小限、という趣旨で本書冒頭の登場人物一覧のページの後の方に帆船軍艦の構造というか、いろいろな用具の名称なども紹介されているのですが、それを読んで理解が深まる人と、私のようにサッパリ理解できずに読み飛ばすに近い読者もいそうな気がします。ただ、収集された情報から論理性を持って本格的に犯人が突き止められます。反面、動機については、犯人の供述を持ってしか明らかにされません。そのあたりをどう考えるかで少し評価が違ってくる可能性はあります。

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次に、天祢涼『陽だまりに至る病』(文藝春秋)を読みました。著者は、社会はミステリ作家であり、本書は『希望が死んだ夜に』と『あの子の殺人計画』に続く神奈川県警の仲田蛍のシリーズ第3作です。一応、タイミングとしてコロナ禍の時期が含まれているのですが、決してコロナが前面に出てきているわけではありません。ということで、主人公は小学5年生の咲陽であり、コロナ禍の中で親から「困っている人がいたらなにかしてあげないと」といわれていました。そして、咲陽はクラス中で浮いた存在だった小夜子から「父親が仕事で帰ってこない」と聞き、心配して家に連れて帰って匿うことにします。というのも、小夜子は父親との2人家庭で、2人が住むアパートが咲陽の部屋から見えるくらいのご近所であり、しかも、町田のホテルで起きた女性殺人事件の犯人は、小夜子の父親でではないかと疑いを持っていたからです。ですから、小夜子を探しているという刑事が咲陽の家を訪ねてきた際も、2階の自室に匿っているにもかかわらず、「知らない」と嘘をついてしまったりします。咲陽は困っている小夜子を助けるといいながらも、警察や両親に嘘をついているという罪悪感があり、加えて、父親の経営するレストランがコロナ禍でダメージを受けていることが察せられ、今の生活を維持できずに貧乏になってしまうという恐怖感もあったりします。こういった思春期を目前に控えた少女の心理を仲田蛍が寄り添うわけです。ミステリとしては町田の女性殺人事件の謎解きが絡むのですが、とても意外な結末を迎えます。もうひとつのクライマックスは、お互いに気を使って本音をいえなかった小学5年生の咲陽と小夜子なのですが、小夜子が咲陽をどう見ているかについての爆弾発言、というか、手紙に咲陽が接して、何とも切ない気持ちになってしまいました。ただ、小夜子の父親のキャラが、やや私なんかから考えればあり得ないので、少しびっくりしました。最後に、ミステリの謎解きとしては前2作、特に『希望が死んだ夜に』に比べると大きく落ちます。コロナについてもタイミング的にその期間だから、というだけの言及程度の取り上げられ方で、いずれにぜよ、前2作からすれば大きく物足りない、と私は感じてしまいました。

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次に、門井慶喜『東京、はじまる』(文春文庫)を読みました。著者は、『家康、江戸を建てる』がベストセラーとなり、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した作家です。本書では、近代日本を象徴する首都東京の始まり、というか、江戸の終わりと東京の始まりを建築から説き起こしています。主人公は辰野金吾です。九州の下級武士の出であり、現在の東京大学建築学科を首席で卒業して英国に留学し、建築家として数多くの近代建築を完成させてきた学者・建築家です。本書の冒頭はその英国留学からの帰国から始まります。ちょうど、鳴り物入りで建築が進められていた鹿鳴館の建築中であり、恩師のコンドルとともに建築現場を見に行ったりします。そして、前半は生い立ちから始まって、お雇い外国人のコンドルから建築学を学び、そのコンドルの母国である英国に留学したりするわけです。前半のハイライトは日銀本店の建築です。すでに、恩師のコンドルの設計が決まっていたにもかかわらず、時の総理大臣の伊藤博文や日銀総裁の前でコンドルをこき下ろす大演説をぶち上げて、自らが建築を請け負います。そして、事務主任として高橋是清を迎えて建築を進めます。後半のハイライトは東京駅です。日銀本店が堅牢なドイツ的バロック様式であったのに対して、東京駅は英国的なクイーン・アン様式を取り入れ、「時代遅れ」という悪評にもめげずに完成に邁進します。英語の慣用句でも Queen anne is dead. という時代遅れを表す言葉あるくらいですから、アン女王様式というのは時代遅れなのかもしれません。そして、国会議事堂の建築に取りかかるも、第1次対戦直後のいわゆるスペイン風邪とよばれたインフルエンザで亡くなってしまいます。本書冒頭でも指摘されていますが、近代国家の首都である東京は「密」っであって、「疎」であってはならない、というのが出発点となっています。2020年のコロナからは三密を避けるなどと、密と疎の考えが逆転しかかっていますが、建築家として近代都市を作る基礎はそうなのだろうと私ですら同意します。実にエネルギッシュに東京を作った、そして、その裏では江戸を壊した明治期の建築家である辰野金吾の痛快な一代記です。最後に、高橋是清の存在がエコノミストとしてとても興味深く読みました。

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次に、米澤穂信ほか『禁断の罠』(文春文庫)を読みました。著者6人は、ともにミステリ作家であり、本書はミステリ短編7話を収録したアンソロジーです。なお、この前作に当たるのが辻村深月ほか『神様の罠』であり、このブログでは2022年6月にレビューしています。ついでながら、さらにその前作となるのが辻村深月ほか『時の罠』なのですが、私はこれは読んでいません。ということで、6話の短編の作者とタイトルをあらすじとともに収録順に取り上げると以下の通りです。まず、新川帆立「ヤツデの一家」は、政治家を父親に持つ女性が主人公で、主人公が政治家を継ぎます。でも、継母の連れ子の兄を秘書にしたところ、双子の兄弟であったので入れ替わったのではないか、というシーンが印象的でした。結城真一郎「大代行時代」では、銀行の支店を舞台に一般職の女性が総合職の新人男性の教育係になりますが、この新人クンが質問をするのが大の苦手ときています。斜線堂有紀「妻貝朋希を誰も知らない」は、例の寿司チェーン店の迷惑動画を題材にして、タイトルに氏名がある男性の関係者をジャーナリストが入れ代わり立ち代わり取材するという形式で進みます。米澤穂信「供米」は、亡くなった詩人の親友が主人公です。亡くなった詩人の遺稿集が出版されたことをきっかけに、主人公が昔の思い出を辿っていく、というストーリーです。最後の1文に思わず感激する読者もいそうです。表現力がすばらしく、言葉の選択が抜群です。それなりに読解力を必要としますが、本書の中でも出色の作品です。中山七里「ハングマン - 雛鵜」は、逆にやや物足りなくも曖昧な作品です。復習を代行する登場人物が何人かいて、ミステリ仕立てになっています。スマホにすべての人格が詰め込まれているというのは怖い気がしましたが、事実なのかもしれません。最後に、有栖川有栖「ミステリ作家とその弟子」では、ベテランのミステリ作家が弟子に語るという形式を取っています。昔話の「桃太郎」や「ウサギとカメ」の解釈も、この作者らしく凝っていた気がします。なかなかにして豪華な執筆陣です。中山作品を別にすれば、短編ミステリとして十分な水準に達していると思います。

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次に、
東海林さだお『大盛り! さだおの丸かじり とりあえず麺で』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、少し前に同じ作者と出版社の『パンダの丸かじり』をレビューしましたが、本書はその丸かじりシリーズから麺に関するエッセイを集めて収録しています。なお、出版社のサイトによれば、このシリーズは計43巻1514篇に上るそうです。なお、ついでながら、この丸かじりシリーズは『週刊朝日』に連載されていたエッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」から編まれています。もちろん、私はすべてを読破しているはずもありません。ということで、表紙画像から明らかなように、まず、ラーメンから始まります。ラーメンとセットでラーメン屋のオヤジも大活躍です。振り返ってみるに、私は公務員のころに福岡に出張した際に食べたラーメンが最後のような気がします。長らくラーメンは食べていません。もちろん、ラーメン以外にもそば・うどんはいうまでもなく、冷やし中華、鍋焼きうどん、さらには、スパゲッティやビーフンまで登場しますが、なぜか、ちゃんぽんが出てきません。まあ、皿うどんは譲るとしても、私は今の勤務校のずいぶん前に長崎大学経済学部に現役で出向していた経験があり、ちゃんぽんは、たぶん、ラーメンの一種、それも、本書でラーメンの次に取り上げられているタンメンの一種だと思っているのですが、ラーメンの中にも、タンメンの中にも、独立してでも、ちゃんぽんが出現しないのはやや不思議な気がします。カップ麺が軽い扱いなのは理解するとしても、また、長崎でいえば皿うどんは譲るとしても、懐かしのちゃんぽんは、専門的なチェーン店すらあるわけですから、本書にも欲しかった気がします。この点だけは不満です。
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2024年03月16日 (土) 09:00:00

今週の読書はコロナ期の労働市場分析を試みた経済書をはじめとして計8冊

今週の読書感想文は以下の通り計8冊です。
まず、樋口美雄/労働政策研究・研修機構[編]『検証・コロナ期日本の働き方』(慶應義塾大学出版会)は、国立の研究機関である労働政策研究・研修機構(JILPT)が独自に収集した個人を追うパネルデータの分析により、コロナ禍における労働市場や個人・企業の動向を明らかにしようと試みています。綿矢りさ『パッキパキ北京』(集英社)は、北京に単身赴任していた夫のもとに引越す風変わりな妻の行動と心情、さらに夫婦のやり取りを題材にしています。米澤穂信『可燃物』(文藝春秋)は、群馬県警の葛警部を主人公とするミステリであり、5編の短編から編まれています。榎本博明『勉強ができる子は何が違うのか』(ちくまプリマー新書)は、学力に直結する認知能力だけでなく、ガマン強さなどの非認知能力が備わっている子こそが勉強ができると主張しています。ジル・ペイトン・ウォルシュ『ウィンダム図書館の奇妙な事件』と『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』(創元推理文庫)は、英国ケンブリッジ大学の貧乏学舎セント・アガサ・カレッジの学寮付き保健師であるイモージェン・クワイが大学にまつわる謎を解き明かすミステリです。青崎有吾ほか『超短編!大どんでん返し』と浅倉秋成ほか『超短編!大どんでん返しSpecial』(小学館文庫)は、2000字、文庫本で4ページほどの超短編ながら、最後にどんでん返しが待っている作品を集めています。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊の後、3月に入って先週までに11冊、今週ポストする8冊を合わせて65冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、樋口美雄/労働政策研究・研修機構[編]『検証・コロナ期日本の働き方』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、国立の研究機関である労働政策研究・研修機構(JILPT)とその理事長です。特に、樋口教授は労働経済の専門家です。本書に同じ出版社から2021年に出版された『コロナ禍における個人と企業の変容』の続編です。前書もそうでしたが、本書でもJILPTが独自に収集した個人を追ったマイクロなパネルデータを基にした数量分析を実施しています。3部構成であり、第Ⅰ部で労働市場を分析した後、第Ⅱ部で働き方も含めて分析した上で、政策効果について検証しています。まず、日本の雇用については格差が大きいのですが、企業活動の格差とともにもっとも大きな格差が規模別です。そうです。大企業ほど企業活動も、雇用のお給料なんかもいいわけです。ですから、大学生は大企業への就職希望が強いというわけです。そして、企業活動はともかく、雇用の特にお給料の格差が大きいのが雇用形態別、すなわち、正規/非正規、そして、性別、すなわち男女別なわけです。ですので、格差がないわけではないものの、産業別とか、地域別の格差は決して大きくないと考えられます。こういった格差の観点から、コロナ禍は格差の拡大をもたらしており、本書の分析でもそれが裏付けられています。ただ、産業別の格差が新たに生じていることも事実で、典型的には飲食や宿泊といった対個人サービスがコロナ禍で大きなダメージを受けたことは説明するまでもありません。性別の格差の拡大については、決して日本だけの特徴ではなく、世界全体で recession ではなく、she-cession と呼ばれたことは記憶に新しいところです。その上で、本書では、ウェルビーイングや政策効果にまで分析領域を拡大しています。私の目についた分析結果としては、テレワークのウェルビーイングに及ぼす効果です。テレワークはそもそもウェルビーイングに正のインパクトを持っているのは当然理解されるところですが、テレワークの時間数や日数が増えてもウェルビーイングにはそれほど影響ない、というのは新たな発見であろうと私は受け止めています。テレワークとウェルビーイングは単調関数ではなく、どこかに反転する閾値があるわけで、その点は、最近の The Review of Economics and Statistics にアクセプトされた論文 "Is Hybrid Work the Best of Both Worlds? Evidence from a Field Experiment" などでも分析されているところです。そして、自営業者やフリーランスの労働者に関する分析にも注目しました。自営業者では持続化給付金を受給した人のほうが給付を受けていない人よりも、事業の継続期間が短い、というのはややパラドックスなのですが、理解できる気もします。政策としては、雇用を守るための雇用調整助成金、経営を守るための持続化給付金、資金繰り援助の実質無利子無担保のいわゆるゼロゼロ融資、の3本柱となりますが、本書では雇用継続にせよ、事業継続にせよ、所得の面からしか見ていませんが、私は雇用におけるスキルの維持の観点からもこういった労働者や企業に対する政策的な援助はまったくムダではないと考えています。批判的な観点からゼロゼロ融資の返済を取り上げる報道なども見かけますが、効率的な支援よりも幅広い支援を私は支持します。いずれにせよ、ほかにない独自データを用いて、かなり高度な数量分析を実施しています。私はこの労働政策研究・研修機構(JILPT)に勤務した経験がありますから、やや内輪誉めになりかねませんが、コロナ期における労働市場分析として貴重な研究成果です。

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次に、綿矢りさ『パッキパキ北京』(集英社)を読みました。著者は、芥川賞も受賞した純文学作家です。主人公は30代後半の既婚女性です。夫は分かれた妻と2人の男女の子供がいますが、現時点では中国の首都北京に単身赴任しています。時代背景は、2022-23年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミック最終盤の北京です。いろいろとあって、夫から北京に来て欲しいという連絡を受けて、主人公は北京に行くわけです。2022年12月に引越します。主人公は銀座のホステスを辞めて結婚し、まあ、悪い表現をすれば遊び回っているわけです。北京に来ても基本的な精神構造や行動原理は変わるわけではなく、中国人大学院生のカップルといっしょにショッピングや観光で遊び回っています。この中国人大学院生のカップルは、女性の方が日本語を勉強しているのですが、男性の方に主人公がちょっかいを出したりしてケンカ別れします。2023年が開けて、元旦にもかかわらず北京では日本的な正月行事とかはなく、むしろ、1月下旬の春節の際の方が正月っぽかったりします。もちろん、外を遊び回っていますので、というか、何というか、夫婦してコロナに罹患したりしますし、夫婦の会話から、魯迅の『阿Q正伝』の精神的勝利を「スーパー錬金術」と呼んで称賛したりします。夫婦間での考え方に私が共感したのは、電話で部下に指示を下す夫を見て、「いつか老いたらこんなふうにはできなくなるから、そのときは支えてやる、できなくなってからが本番」、という考え方です。うちのカミさんはともかく、世間一般の夫婦関係では真逆かもしれないと考えてしまいました。行動としては、ある意味で、チャランポランで外を遊び回っている主人公なのですが、夫婦の関係については、やや独特ながら、しっかりとした考えを持っているのは意外でした。最後に、やっぱり、海外生活は華やかでいいと思い出してしまいました。私は独身の時には在チリ大使館勤務を経験し、そして、結婚してカミさんと子供2人を連れてのジャカルタ暮らしもあって、それぞれ3年ほどの海外生活を2度送りましたが、もう一度、出来ることであれば人生最後に海外生活を送ってみたいと思います。まあ、年齢的に難しい、ないし、ムリかもしれません。

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次に、米澤穂信『可燃物』(文藝春秋)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は群馬県警の葛警部を主人公とする新たなシリーズです。ちなみに、この作者の一番の人気シリーズは古典部シリーズだと思いますが、長らく新作は出ていません。そして、本書はその葛警部を主人公とする短編集です。5編の短編が収録されていて、収録順にあらすじは以下の通りです。すなわち、「崖の下」では、スノーボードでバックカントリーを滑走中に崖の下に落ち遭難した30代男性2人のうち1人がもう1人を頸動脈を刺して失血死するも凶器が不明です。葛警部が意外な凶器を推理します。「ねむけ」のタイトルはロス・マクドナルドの『さむけ』へのオマージュかもしれません。深夜の交通事故にもかかわらず、コンビニ店員や工事現場の交通整理など目撃者が4人もいて、しかも、目撃情報が一致している不思議を葛警部は「情報汚染」と考えて、真実を解き明かそうと試みます。「命の恩」では、山で遭難した際に助けてもらった命の恩人をバラバラ殺人で殺したと自供する男性の供述について、葛警部が真実を見抜きます。タイトル作である「可燃物」では、ゴミ捨て場に時間外の早くから不法に投棄されていた燃えるゴミへの放火事件が相次いだところ、犯人はもちろん、この放火の裏に潜んだホントの目的は何かを葛警部が推理します。最後に、「本物か」では、ファミレスに拳銃を持った犯人が、店長ほかの人質を連れて立てこもりますが、拳銃はホンモノか、犯人は本気か、といった点を葛警部が推理します。全編を通じて、とても本格的な推理小説に仕上がっています。ただ、伝統的な whodunnit、すなわち、犯人探しではなく動機を考えたり、あるいは、表面的な事実の裏に潜むホントの事実を解き明かす点が主眼となっています。葛警部は群馬県警の捜査部隊の班長さんなのですが、上司の指導官や刑事部長とのやり取りも興味深く読めます。私はもともとホームズものなどの短編ミステリが好きなのですが、本書もオススメの短編ミステリです。最後に、本格的かつ論理的な謎の解明がなされます。レビューの最後の最後に、2話目の「ねむけ」のタイトルについて感想です。私はこの3月で定年退職し4月からは、一般的な民間企業では退職後再雇用に当たる特任教授になって、2人部屋に引越したのですが、もう1人の先生も私も大学支給品ではなく事務椅子を買い替えていて、もう1人の先生は背もたれなしの椅子で、かつ、足を複雑に組んでバランスを取って、眠気を追い払う目的の椅子のように見えます。私の考え方まったく逆で、ハイバックでヘッドレストまである上に、大きくリクライニングするタイプの椅子で、眠くなったら快適に寝ることを目的にしています。性格の違い、というか、勤勉さの差が出ているような気がしました。

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次に、榎本博明『勉強ができる子は何が違うのか』(ちくまプリマー新書)を読みました。著者は、私よりやや年長で心理学の博士号を持ち、MP人間科学研究所代表ということなのですが、私にはよく理解できません。本書では、タイトル通りに、小中学校の義務教育からせいぜい高校くらいまでの児童や生徒を対象に勉強ができるようになるには、いわゆる学力の認知能力だけではなく、その学力をつけるために忍耐力などの非認知能力が必要である、と指摘しています。まあ、その通りだと思います。少なくとも、じっと静かに座って一定時間の勉強がこませなければなりません。そして、その論拠として心理学だけではなく経済学でも言及されるマシュマロ・テストのガマン強さを上げています。特に、最近では身の回りに勉強を逃れて遊ぶ道具がいっぱいありますから、そういったいわゆる「誘惑」に屈することなく勉強する意志の強さです。加えて、非認知能力だけではなく、メタ認知能力についても言及しています。すなわち、どのような勉強方法、勉強時刻、などなどが自分にあっているかどうかを見極める能力です。そして、注目すべきなのは、メタ認知能力は別としても、「誘惑」に屈することなく勉強に打ち込む忍耐強さは、学校でも、親からも与えられないのが現実となりつつある点を強調している点です。学校では厳しく叱ることが避けられつつありますし、ましてや、体罰なんてもっての外、というところで、家庭でも「誉めて伸ばす」なんて、本書の著者からすれば「甘やかしている」としか見えないような子どもとの接し方が推奨されていて、厳しく叱って忍耐強い子に育てることが学校でも家庭でもできなくなりつつある、と著者は結論しています。こういった子どもに対する教育法というのは典型的なオープ・クエスチョンであり、すべてのケースに通用する正解というものはありません。本書の見方も、まあ、学力を支えるという意味での非認知能力の重要性は、それはそれとして認めるとしても、ひとつの見方、参考意見として考えるべきかという気はします。でも、年配の人からは支持が多そうな気がします。

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次に、ジル・ペイトン・ウォルシュ『ウィンダム図書館の奇妙な事件』『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国の小説家であり、児童文学や歴史小説のオーソリティです。たぶん、児童書の『夏の終りに』が日本ではもっとも有名ではないでしょうか。というか、私はそれしか読んだことがありません。しかし、というか、何というか、1993年に発表した『ウィンダム図書館の奇妙な事件』に始まるイモージェン・クワイのシリーズからミステリ作家に転身し、2作目の『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』でCWAゴールドダガー賞候補となっています。さらに、1998年にはドロシー L. セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿シリーズの公式続編である Thrones, Dominations を刊行したりしています。シリーズはすべてで4編発表されています。『ウィンダム図書館の奇妙な事件』の英語の原題は The Wyndham Case であり、1993年の出版、また、『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』の原題は A Piece of Justice であり、1995年の出版となっています。でも、ともに、本邦初訳だったりします。ということで、小説の舞台は1990年代の英国ケンブリッジです。名門ケンブリッジ大学の貧乏学寮であるセント・アガサ・カレッジの学寮付き保健師をしているのが主人公のイモージェン・クワイということになります。Imogen Quy と綴るそうです。日本でいえば、保健室の保健師さんあたりの存在でしょうか。まず、ミステリデビューを果たした『ウィンダム図書館の奇妙な事件』では、ウィンダム図書館でテーブルの角に頭をぶつけたように見える学生、1年生のフィリップの死体が発見されます。セント・アガサ・カレッジには図書館が2つあって、通常の図書館に加えて、寄贈された稀覯書などを所蔵する私設のウィンダム図書館があり、後者で事件が起こります。事件直後にトイレで泣き叫ぶ女学生がいたり、フィリップのルームメイトのジャックが行方不明になったりします。加えて、稀覯書収集に熱心なワイリー教授のコレクションが1冊消失し、ワイリー教授自身も失踪したりします。主人公のイモージェン・クワイは友人の警察官マイクとともに謎解きを進めます。この作品は少し骨が折れます。時系列をかなり乱れさせてミスリードするからです。でも、立派な本格ミステリだと思います。次に、第2作の『ケンブリッジ大学の途切れた原稿の謎』では、イモージェン・クワイの家に下宿する女子学生院生フランが指導教授からの指示で、数学者の伝記のゴーストライターを務めます。この数学者は、目立った業績は幾何学のパターンに関するたったひとつなのですが、なぜか、すでに3人の前任者が伝記執筆を断念、というか、死亡したり、行方不明になったりしています。それはすべて同じ時期、すなわち、1978年の夏にこの数学者が数日間の夏季休暇を取ったあたりを調査している直後に生じており、そのあたりの謎解きを進めるべく、フランとイモージェンが、マイクの助力も得つつ、この数学者の生涯に関してリサーチします。犯人探しの謎もさることながら、その動機に関する謎解きも秀逸です。最後に、英国のカレッジでは会計士が大学の資産運用を担当するので、「セント・アガサ・カレッジにもケインズ卿のような会計士がいたらよかったのに」、というイモージェン・クワイのモノローグには思わず感心してしまいました。また、本シリーズも登場人物のネーミングが判りやすくて素晴らしいと感じました。何てったって、殺人事件が起こるのがセント・アガサ・カレッジなのです。

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次に、青崎有吾ほか『超短編!大どんでん返し』浅倉秋成ほか『超短編!大どんでん返しSpecial』(小学館文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家などです。各冊ごとに50音順で著者を羅列すると、第1集の『超短編!大どんでん返し』の30名は、青崎有吾、青柳碧人、乾くるみ、井上真偽、上田早夕里、大山誠一郎、乙一、恩田陸、伽古屋圭市、門井慶喜、北村薫、呉勝浩、下村敦史、翔田寛、白井智之、曽根圭介、蘇部健一、日明恩、田丸雅智、辻真先、長岡弘樹、夏川草介、西澤保彦、似鳥鶏、法月綸太郎、葉真中顕、東川篤哉、深緑野分、柳広司、米澤穂信、そして、第2集の『超短編!大どんでん返しSpecial』の34名は、浅倉秋成、麻布競馬場、阿津川辰海、綾崎隼、一穂ミチ、伊吹亜門、伊与原新、小川哲、織守きょうや、加藤シゲアキ、北山猛邦、京橋史織、紺野天龍、佐川恭一、澤村伊智、新川帆立、蝉谷めぐ実、竹本健治、直島翔、七尾与史、野崎まど、乗代雄介、藤崎翔、万城目学、真梨幸子、宮島未奈、桃野雑派、森晶麿、森見登美彦、谷津矢車、結城真一郎、柚月裕子、横関大、芦花公園、ということになります。これだけ多彩な執筆陣ですから、読者から見てきっと好きな作家が含まれていることと思います。逆に、好きではない作家も含まれている可能性も十分あります。また、ミステリ、ホラー、SF、時代小説、恋愛小説、などなど、様々なジャンルで一級品の短編を楽しむことが出来ます。わずかに2000字、文庫本で4ページほどの凝縮された超短編集です。それなのに、タイトル通りに、超短編でありながら最後の最後にどんでん返しが待っています。出版社の謳い文句は「2000字で世界が反転する!」というもので、小説誌「STORY BOX」の人気企画をオリジナル文庫にして出版にこぎつけています。もうこれだけあると、個々の超短編作品のあらすじをすべて紹介するのは難しいのですが、まったくあらすじがないのもどうかという気がしますので、私が印象に残っているのは、第1集では、完璧な密室を作り上げた推理小説家の苦労、第2集では、硬直化した官僚システムを打破するために落語家が公務員試験を作成する、というそれぞれのストーリーが面白かったです、とだけ紹介しておきます。というのも、一応、私は現役の公務員だったころに人事院に併任されて、当時の国家公務員Ⅰ種経済職の試験委員を経験していたりします。もちろん、各短編は完全に独立していますので、バラバラに楽しむことが出来ますし、まあ、ヒマつぶしの読書にはピッタリです。
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2024年03月09日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書3冊に加えてミステリ1冊の計4冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、安中進『貧困の計量政治経済史』(岩波書店)は明治後期から戦前期くらいの日本の貧困を税不納や娘の身売りなどの統計を用いて歴史的な計量分析を試みています。寺井公子 & アミハイ・グレーザー & 宮里尚三『高齢化の経済学』(有斐閣)は、高齢化が進むと教育への公費負担やインフラ整備にマイナスの影響が出るのではないか、という仮説を検証しています。山重慎二[編著]『日本の社会保障システムの持続可能性』(中央経済社)は、内閣府経済社会総合研究所の国際共同研究の一環で、社会保障システムの強靭性(レジリエンス)に付いて分析しています。一本木透『あなたに心はありますか?』(小学館)は、人工知能(AI)の軍事利用について考えさせられる社会派ミステリです。なお、これら4冊の新刊書読書のほかに、エンタメの既刊書読書としてスティーブヴン・キングのミステリ3部作、すなわち、『ミスター・メルセデス』、『ファインダーズ・キーパーズ』、『任務の終わり』の各上下巻計6冊を文春文庫で読みました。これは本日の新刊書読書のレビューではなく、Facebookでシェアしています。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊、3月に入って先週7冊の後、今週ポストする4冊を合わせて57冊となります。今週のブログに取り上げたものについては、順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、安中進『貧困の計量政治経済史』(岩波書店)を読みました。著者は、弘前大学の研究者です。本書は、政治経済史とタイトルにあるように、通常の経済書よりはかなり長いタイムスパンで分析を実施しています。といっても、経済ですので通常は近代、すなわち、産業革命以降くらいを対象にするのが暗黙の前提であり、本書では1880年代から1900年前後からが分析対象となります。もちろん、西洋経済史であれば1700年代後半くらいからの分析も少なくありません。その上で、本書では貧困が大きなテーマですので、なぜか、直接的に所得をターゲットにするのではなく、貧困の表れである3点、すなわち、身代限を含む税不納、自殺、娘の身売り、乳児死亡を数量的に分析しようと試みています。デイタは本書でTSCS=Time Series Cross Sectionと命名しているデータなのですが、フツーの経済学であればパネルデータ、さらに、本書では府県別のデータですので、マクロパネルデータといっているものだと思います。私が知る限りはこういう呼び方は初めてです。学問分野が異なれば名称も違ってくる可能性がありますが、普通にパネルデータを分析するソフトウェアとして有名なSTATAでは「パネルデータ」を使っています。たぶん、STATAは経済学と医学の分野でもっとも使われているソフトウェアでしょうから、その他の学問分野では異なるソフトウェアで異なるデータ名称なのかもしれません。それはさておき、通常理解されるパネルデータ分析、明治期から昭和初期までの府県のパネルデータを用いています。まず、破産や税の不納、あるいは、身代限と呼ばれる差押えについては、本書の計量分析の結果として、松方デフレ期に米価と強い相関を示しています。1885年までの松方デフレは増発され続けた紙幣整理を目的とし、米価をはじめとする諸物価を強烈に引き下げて、これが身代限を含む税の不納、特に当時は地租でしたので土地関連税の不納を激増させた、と結論しています。極めて常識的な結論だろうと思います。続いて、自殺についても、警視庁の統計を用いて、松方デフレ期の経済状況が原因との結論を得ています。ただ、土地関連の税不納が及ぼす影響も無視できないとしています。バブル崩壊後の日本でも1990年代後半、特に、1997年の金融危機後に自殺が激増したのは記憶に新しいところです。逆に、待った起源大臣には心当たりがないのが娘の身売りです。その昔は、女性に限らず男性の奉公などもあったのですが、特に注目を集めたのが昭和恐慌からの娘の身売りです。他方、この時期には近代経済の萌芽として製糸工業や鉄道敷設が始まり、鉄道の普及が後進的であるとみなされている北海道や東北地方では娘の身売りに正の相関がある可能性が示唆されています。そして、製糸業は農家の現金収入を増加させた一方で、需要や価格の変動を通じて農家経済が世界と連動してしまう可能性もあり、製糸業の繭生産が減少すると娘の身売りが増加するという関係も見られます。最後に、乳児死亡については、日本というより世界のパネルデータを分析しており、民主化が長期的に乳児死亡率を低下させる結果が示されています。最後に、基本的に常識的な結果が示されていると私は考えていますが、ややデータの扱いが不明な部分があります。サンプル数がやや小さい気がするのでGMM分析にはムリがあるとしても、特に、ダイナミックパネルの分析がなされておらず、短期と長期の分析をもう少し掘り下げて欲しい気がします。

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次に、寺井公子 & アミハイ・グレーザー & 宮里尚三『高齢化の経済学』(有斐閣)を読みました。著者たちは、それぞれ、慶應義塾大学、カリフォルニア大学アーバイン校、日本大学の研究者です。本書は、この3人の著者が英語で書いた The Political Economy of Population Aging: Japan and the United States を基にしています。ただし、単純な邦訳ではないようです。本書も日本では都道府県別、米国も州別くらいのパネルデータ、マクロパネルデータを用いた分析を行っています。仮説として分析対象としているのは次の3点です。すなわち、高齢化により、高齢者の利益促進、あるいは、長期的な政策課題に対して否定的な作用があるのではないか、ということで、第1に、高齢化により教育への政府支出にネガティブな影響があるのではないか、これは人的資本への投資が過小になるリスクといえます。第2に、インフラへの政府支出へのネガティブな影響です。これは物的資本への投資が過小になるリスクです。そして最後に第3に、企業誘致やそれに基礎を置く雇用促進に不熱心で、法人税率の引下げや最低賃金の上昇に関心が低い、ということになります。これらにの3点については、内生性も考慮して操作変数法も活用しつつ、まあ、何と申しましょうかで、少なくとも日本については常識的な結果が示されています。高齢者比率が高いと中央及び地方政府の教育費支出が低くなり、同時に、インフラへの支出も低水準となります。ただ、最低賃金については引上げに対する高齢者の高いサポートがあります。これは、本書でも指摘しているように、定年を過ぎた高齢者が最低賃金で雇用されるケースが日本では非常に多くなっている、という現状の雇用・賃金を背景にしています。ただ、これらの政策志向の分析結果の結論に関しては、私はそもそも疑問があります。すなわち、医療費はもちろん、年金財政も今やほぼほぼすべての国で、日本はもちろん、賦課方式になっていて、現役世代の所得増加は医療保険料や年金保険料の上昇を通じて引退世代=高齢者にも裨益します。すなわち、勤労世代と引退世代の利害は正の相関を有しているのではないか、と私は考えています。政策あるいは財政的なリソースが、特に日本では希少性高く限定的であり、ゼロサム的な配分が前提されているのではないか、そ前提は正しいのだろうか、という疑問です。その点がやや忘れられている気がします。その代わりに、経済学の前提となる超合理的な利己主義ばかりではなく、利他主義を混入させたりするのはどうか、という気がします。もうひとつの疑問は、人的資本やインフラへの投資に影響を及ぼすのは、高齢化比率という水準なのか、あるいは、高齢化比率の変化、加速度なのか、という点にも疑問を感じます。ただ、たぶん、本書で前提しているような高齢者比率のレベルなのだろう、という気はします。1980年代くらいには日本では高齢者比率がまだ低かった一方で、高齢化のスピードはやたらと速かった時期があります。その経験を考えると、高齢者比率が問題であって、高齢化のスピードではないのだろうという点は理解できます。そして、3点めは、本書でもそれなりに考慮されているように、ティボーのいう「足による投票」です。日本の都道府県別、米国の州別のパネルデータ分析ですから、政治的意向を示すのに通常の投票行動、すなわち、自分の政策志向に合致する候補者に投票するだけではなく、都道府県、あるいは州をまたいで、自分の政策志向に合致する地方政府のある都道府県ないし州に移動する、という行為がありえます。少なくとも国境を越える移動よりはコストが小さいことは明らかです。この行為のことを「足による投票」(Voting with the Feet)といいます。ただ、本書では何ら言及されていないのですが、米国というのはこのモビリティが他国と比較してメチャメチャ高い点は指摘しておきたいと思います。大西洋岸の東海岸から、あの広大な国土を横断して太平洋岸の西海岸まで達したわけですから、米国民のモビリティの高さは飛び抜けていると考えるべきです。この「足による投票」に関して、日本と米国を一律に扱うべきかどうかには私は疑問があります。最後になりますが、そうはいっても、極めて常識的な高齢化の影響をフォーマルな定量分析によって確認した、という意味で本書の価値は十分だろうと思います。

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次に、山重慎二『日本の社会保障システムの持続可能性』(中央経済社)を読みました。著者は、一橋大学の研究者であり、本書は内閣府経済社会総合研究所(ESRI)における国際共同研究の成果を一般向けにも判りやすく、という趣旨で取りまとめたものです。ですから、かなり本格的な数量分析も引用したりしていますが、かなり本格的な内容hが理解しやすくなっています。英語の学術論文で読みたい向きには内閣府のサイトにpdfでアップロードされています。ということで、本書は3部構成であり、医療と介護の強靭化、家族と労働力の強靭化、子育て世帯の強靭化から成っています。私はハッキリいって「強靭化」なんていう用語は決して好きでもないし、使いたくもないのですが、ここではどうもresikience の邦訳語として当てているようです。序章と終章を別にして8章あり、繰り返しになりますが、3部構成を取っています。本書の基本的な問題意識のひとつは、医療や介護などの社会保障におけるリソースの不足です。リソースとしては財源と人材が考えられています。ですから、財源だけを必要とする年金についてはほぼほぼ無視されています。と同時に、医療や介護といったほかの社会保障関連の施策についても財源はかなり軽視されている印象です。ですので、リソースの観点はついつい人材に向けられることになっています。その上で、医療については医師の働き方改革がホントに実施されるとどうなるか、そして、何よりも介護の人材確保の取組み、育児についても家庭での子育てに加えて保育園の人材確保などが検討対象となっています。いくつか興味深い結果を私なりに整理すると、まず、昨今の物価上昇の中での社会保障人材の待遇改善なのですが、特に介護職員については、女性の非正規職員として考えれば、介護職に対しては競合職と比較して10~20%の賃金プレミアムが発生していると計測結果が示されています。やや信じがたい結果だと私は受け止めています。その一方で、経済学の理論に反して、賃金率が上昇すれば労働時間が減少するという既存研究が引用されていて、意地の悪い見方をすれば、介護職員に対してはすでに十分なお給料を払っていて、お給料を上げると労働時間が減ってしまう可能性すらある、という政府の立場を強烈に示しているのか、とすら思ってしまいます。直感的には国民一般の理解は得られない可能性があります。それから、少子化対策として重要な役割を果たすことが期待されている保育園の保育費用についても、やや疑問を感じます。従来から、保育費用の効果は欧州と米国で異なっていて、保育費用に対する補助金を増額すると、米国では母親の就業率が高まる一方で、欧州、特に北欧などではすでに十分な補助金が交付されている上に、もともとが女性の就業率が高いので、それほど大きな効果がない、というのは事実です。そして、本書の研究では日本における保育費用の引上げについては、大きな変化をもたらすわけではない、と結論しています。その理由が振るっていて、日本では保育園に漏れる可能性がある、というか、ほかの先進国に比較して漏れる可能性が高く、しかも、その次の年度にチャレンジするための基礎的な条件とされる場合もあり、すなわち、前年度保育園に落ちると次年度に保育園に「当たる」確率が増すなど、保育料金と大きな関係なく保育園に申し込んでいる可能性がある、という理由で保育費用を補助金により引き下げる効果が小さい可能性を示唆しています。どうも本末転倒な議論が展開されているように感じます。また、「東京都保育士実態調査」を用いて、すでに離職した潜在保育士の留保賃金を計算していますが、現役保育士の約3倍という結果が示されていて、やや非現実的な試算結果だと感じるのは私だけではないと思います。いずれにせよ、経済学的な分析ですので基礎となるモデルの設定により、試算結果や結論が大きく変わる可能性があるのは私も認識しています。例えば、本書でも指摘しているように、女性の労働参加率と出生率の間に正の相関があるのか、それとも負の相関があるのか、これはモデルの設定により違いが生じます。でも、本書の結論を見て、政府がEBPMを進めています、といわれるのには少し疑問を感じてしまいます。政策決定はしばしばオープン・クエスチョンになりますから、その昔は、どこかで決まった結論にあわせて理屈をつけていたのですが、現在ではmキチンとしたエビデンスに根拠を置くような政策決定が模索されています。この動きが進むことを願っています。

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次に、一本木透『あなたに心はありますか?』(小学館)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、前作の『だから殺せなかった』で第27回鮎川哲也賞優秀賞を受賞して、新聞記者から作家デビューを果たしています。本作では、人工知能(AI)をモチーフとして、まず、AIに人間のような「心」があるかどうか、次に、AIの軍事利用についてどう考えるか、を考えさせる社会派ミステリです。ということで、主人公は東央大学工学部特任教授の胡桃沢宙太です。交通事故で妻と子供を失い、自分自身も障害を負って車椅子生活を送っています。なお、東央大学は国立大学のトップ校ということですので、東京大学がイメージされているのだと思います。主人公の胡桃沢は盟友の二ツ木教授と産学官共同の巨大研究開発プロジェクトを立ち上げ、助教や研究員などとともに巨大企業も巻き込んでAIに心を持たせる研究をしています。その研究プロジェクトの一環となる講演会のパネルディスカッションで胡桃沢のほかに登壇した4人の研究者のうち、まず一番年配の研究者が壇上で倒れて死亡します。そして、メールで残る3人の研究者の殺害予告が届きます。胡桃沢自身は最後の4人目と予告されています。同時に、東央大学工学部の内部でのAI開発の主導権争いが始まります。断固としてAIの軍事利用を拒否する胡桃沢-二ツ木の研究室に対して、政府の要望や企業の意向に沿ってAI軍事利用を進めようという他の研究室へのデータや資金の移管が画策され、軍需品製造企業のトップも研究室に乗り込んできたりします。そして、予告された連続殺人はどうなるのか、といったミステリとしての進行に加えて、AIの軍事利用に歯止めはかけられるのか、といった政治経済社会的な動向もスリリングに展開します。頭の回転が鈍くて察しの悪い私なんかは、ラストの結末には驚愕しました。レビューの最後に、小説に対するコメントとしてはどうかという気もしますが、AIに「心」があるかどうかは「心」の定義次第だと私は考えています。その上で、私が考える「心」の定義は共感力です。少し脱線すると、その意味で、貴志祐介『悪の教典』の蓮美なんかは心がない、ということになりますし、ほかのホラー小説そのたに登場する人物で共感力のない登場人物はいっぱいいます。そして、共感力のひとつの形、人によっては最高の形というかもしれませんが、それは愛情だと考えています。脱線の最後に、私はホントの意味で「心」があるかどうかは別にして、少なくとも賢い人間やよく教育を施されたAIは、十分に心があるふりをすることが出来る、と考えています。ですから、AIに心があるように振る舞えるようにすることが出来る以上、AIに心があるかどうかの議論、あるいか、AIに心をもたせることが出来るような研究、というのは、まったく意味がないと見なしています。
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2024年03月02日 (土) 09:00:00

今週の読書は話題の『技術革新と不平等の1000年史』ほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダロン・アセモグル & サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』上下(早川書房)では、技術革新に基づく生産性向上が必ずしも生活の改善にはつながらず不平等が拡大する歴史をひも解いています。水野敬三[編著]『地域活性化の経済分析』(中央経済社)は、限られたリソースをどのように地域活性化に活用するかをゲーム論などを用いて分析しています。太田愛『未明の砦』(角川書店)は、巨大自動車メーカーの非正規工員4人が労働組合を結成して待遇改善を求める姿とを共謀罪を適用して取り締まろうとする権力や企業サイドの対決を描き出しています。宮部みゆき『ぼんぼん彩句』(角川書店)は、短い17文字の俳句に詠まれた背景を小説にする俳句文学を目指す短編小説集です。天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)は、児童虐待などの社会的な背景ある殺人事件を取り上げた社会派ミステリです。町田尚子『どすこいみいちゃんパンやさん』(ほるぷ出版)は、大きなミケネコのみいちゃんがパンを作ってお店を開店する絵本です。
ということで、今年の新刊書読書は先週までの1~月に46冊、3月第1週の今日ポストする7冊を合わせて53冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。また、ついでながら、天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)のシリーズ前作『希望が死んだ夜に』も読みましたが、新刊書ではないので本日のブログには取り上げずに、Facebookですでにシェアしてあります。

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まず、ダロン・アセモグル & サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』上下(早川書房)を読みました。著者は、ともに米国のエコノミストです。アセモグル教授はそのうちにノーベル経済学賞を取るんではないか、とウワサされていますし、ジョンソン教授は国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミストも務めています。英語の原題は Power and Progress であり、2023年の出版です。ということで、実に巧みに邦訳タイトルがつけられています。まあ、Progress が技術革新に当たっていて、Power の方が権力者による不平等の基礎、ということになるんだろうと思います。ものすごく浩瀚な資料を引いていて、さすがに、私も所属している経済学の業界でも優秀な知性を誇る2人の著者の水準の高さが伺えます。ただ、いろいろと傍証を引きつつも、結論は極めてシンプルです。すなわち、経済が発展成長する素である技術革新、イノベーションは生産性を向上させ、もちろん、生産高を増大させることは当然で、これを著者たちは「生産性バンドワゴン」と読んでいますが、こういった生産性向上が自動的に国民生活を豊かにするわけではなく、その利益を受けるのはエリート層であって、決して平等に分かち与えられるわけではない、ということです。特に、現在のような民主主義体制になる前の権威主義的なシステムの下では、生産性の向上により労働が楽になったり、短くなったりするとは限らず、逆に、労働がより強度高く収奪されてきた例がいくつか上げられています。例えば、中世欧州では農業技術の改良によって飛躍的な増産がもたらされましたが、人工の大きな部分を占める農民には何の利益もなく、むしろ農作業の強度が増していたりしましたし、人新世の画期となる英国の産業革命の後でも、技術進歩の成果を享受したのはほんの一握りの人々であり、工場法が成立するまでの約100年間、大多数の国民には労働時間の延長、仕事の上での自律性の低下、児童労働の拡大、それどころか、実質所得の停滞や減少すら経験させられていました。こういった歴史的事実を詳細に調べ上げた後、当然、著者2人は現時点でのシンギュラリティ目前の人工知能(AI)に目を向けます。すなわち、ビジネスにおいては、AIを活用して大量のデータを収集・利用して売上拡大や収益強化を図る一方で、政府もまた同じ手法で市民の監視を強化しようとしていたりするわけです。国民すべてに利益が及ぶように、テクノロジーを正しく用いて、社会的な不平等の進行を正すには、ガルブレイス的な対抗勢力が必須なのですが、組織率の長期的低下に現れているように労働組合は弱体化し、市民運動も盛り上がっていません。先進国ですら民主主義は形骸化し、国民の声が政治や経済に反映されることが少なくなっていると感じている人は多いのではないでしょうか。それでは、こういったテクノロジーの方向に対処する方法がないのか、という技術悲観論、大昔のラッダイト運動のようなテクノ・ペシミズムに著者たちは立っていません。かといって、技術楽観論=テクノ・オプティミズムでもありません。日本の電機業界が典型だったのですが、生産性の向上が達成されると雇用者を削減する方向ばかりでしたが、逆に労働者を増やす方向に転換すべきであると本書では主張しています。その典型例を教育に求めています。もちろん、エコノミストらしく税制についても自動化を進めつつ労働者を増やすようなシステム目指して分析しています。アセモグル教授は、かつて『自由の命運』で「狭い回廊」という概念を導き出していましたし、この著作でもご同様な困難がつきまとう気がしますが、企業に対する適切な規制や税制をはじめとする政策的な誘導、そして、何よりも、そういった技術を自動化とそれに基づく労働者の削減に向けるのではなく、テクノロジーを雇用拡大の方向に結びつける政策を支持するような民主主義に期待したいと思うのは私もまったく同じです。

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次に、水野敬三[編著]『地域活性化の経済分析』(中央経済社)を読みました。編者は、関西学院大学の研究者であり、本書は関西学院大学産研叢書のシリーズとして発行されています。地域経済の観点から、本書では限られた財政資源、人的資源、観光向けの社会的あるいは自然資源などのリソースを活用し、どういったシステム設計が可能なのか、についてゲーム論などを援用しつつ分析を進めています。まず、本書は2部構成であり、前半は地域経済の活性化、後半は地域サービズの活性化、をそれぞれテーマとしています。前半では、地方のインフラを始めとする社会資本整備について、いわゆるPPP(Public Private Partnershipp)を活かした社会資本整備について、地方政府に任せ切るのではなく中央政府の仲介機能を活用する、などの政策提言を行っています。また、公企業の役割については、民業圧迫を批判されることもありますから、民業補完と民業配慮について民業と官業=公企業の2企業の複占を考え、シュタッケルベルク的な反応とクールノー的な反応から分析を進め、短期では民業補完と民業配慮のどちらも社会厚生を上昇させる一方で、長期には公企業の民業配慮は社会厚生を悪化させる可能性があると結論しています。前半の部の最後には、雇用と就業のミスマッチについて、山形県庄内地方のケースを分析しています。後半のサービス経済の分析の部では、観光資源管理について富山県の立山黒部アルペンルート、また、兵庫県の城崎温泉に関して理論モデルによる分析、すなわち、コモンプール財の外部性を回避する方法につきゲーム論で分析しています。観光客の移動経路については、山形県酒田市のアンケート調査データなどを基に、ネットワーク分析を試みています。また、地域サービスとの関連が私には十分理解できなかったのですが、季節性インフルエンザのワクチン接種に関する公費助成の効率的な水準に関してゲーム理論からの分析を試みています。最後の章では結婚支援サービスの効果に関して理論分析を試みています。基本的に、ほぼほぼすべてマイクロな経済分析であり、ゲーム論を援用した分析も少なくありません。ですから、実証分析ではなく理論モデルの分析が主になっています。ただ、城崎温泉などをはじめとして、実際の地方経済分析の現場に即した理論モデル構築がなされている一方で、理論モデルそのものも明らかに地域経済分析のフレームワークを超えて一般性あるものではないかと私は受け止めています。私自身は東京で官庁エコノミストとして定年まで長らく働いていましたので、地域経済の現実はそれほど身近に接してきたわけではありませんし、本書のようなマイクロな理論モデル分析ではなく、マクロの実証分析を主たる活動分野としてきましたが、唯一の査読論文は長崎大学に出向していた際の長崎経済分析でしたし、関西に引越してからの我と我が身を振り返って、もう少し地域経済についても考えるべきではないか、と感じています。

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次に、太田愛『未明の砦』(角川書店)を読みました。著者は、シナリオライターが本業かもしれませんが、いくつか秀逸なミステリも書いていたりする脚本家・作家です。私は、探偵事務所の鑓水などが主人公となっている『犯罪者』、『幻夏』、『天上の葦』の社会派の三部作を読んだ記憶があります。本書と同じで、いずれも角川書店からの出版です。ということで、本書も社会派色が強くなっています。主人公は、日本を代表する大手自動車メーカーで働く非正規工員4人、すなわち、矢上達也、脇隼人、秋山宏典、泉原順平です。本書冒頭のプロローグでは、この4人が日本で初めて共謀罪で逮捕されようとしているシーンから始まります。本編では、この主人公4人が会社の正規社員である組長に誘われて、千葉県笛ヶ浜で夏休みを過ごすところから時系列的なストーリーが始まります。4人が労働組合を結成して巨大資本の自動車メーカーに対抗しようとし、御用組合に加入している正社員から差別され、様々な不利益をこうむります。かなりの長編ですので、この巨大資本の自動車メーカーの工場労働者とともに、経営トップも登場します。会社名と経営トップの名前が共通していますから、明らかにトヨタを意識したネーミングだと考えるべきです。もちろん、この自動車メーカーを巡って、与党政治家、キャリア官僚、そして、所轄の公安警察官、さらに、「週刊真実」なるネーミングで、いかにも「週刊文春」を想像させるような週刊誌のジャーナリストも登場します。作者の視点はあくまでも非正規労働者や彼らを支援する労働組合ユニオンの関係者に優しく、経営者、キャリア官僚、与党政治家などには批判的なまなざしが向けられます。過去に私が読んでいる同じ作者の小説に比べて、それほどスリリングな場面が多いわけではなく、自動車工場における労働の実態がかなり誇張され、ここまで死者が出るのも異常だろうと思わないでもありませんが、日本経済のもっとも基礎的、エッセンシャルな部分を構成する人々についてはよく描写されている気がしました。巨大資本には対抗するすべがなく、単に企業の言い分を受け入れるだけの存在から、自覚的で社会や、その前に自分の境遇をよくしようと考える方向に変わっていく様子が実に感動的に、決して現実的とは思えませんが、とっても感動的に描写されていました。その昔であれば、抑圧されたプロレタリアートが蜂起して革命を起こす、ということになるのかもしれませんが、今ではその選択肢は極めて限定的な気もします。最後に2点指摘しておきたいと思います。第1に、与党政治家が登場するのですから、野党政治家の活躍も何とか盛り込めなかったものか、という気がします。主人公の4人をサポートするのが労働組合関係者だけ、というのは、小説として少し視野が狭い気がしてなりません。もう少しジャーナリストのご活躍もあってよかったのでは、という気もします。あまりにもサポートが少なすぎる印象があります。ただし、労働関係の場合、私のような大学教員はそれほど出る幕はないかもしれません。他方で、ミャンマーのクーデタなどは大学教員もしゃしゃり出たりします。同僚教員の推測によれば、私はミャンマー軍政政府のブラックリストに入っている可能性が高いそうです。第2に、本書は小説であり、しかも、第1の点で指摘したように、救いの道が労働組合に限定されていますから、市民運動とのバランスを取るためにも、エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)をオススメします。チェノウェス教授は、非暴力の自覚的な市民抵抗者が人口の3.5%まで増加すれば社会は変わる、という研究成果を実証的に示した米国ハーバード大学の研究者です。昨年2023年10月末に、私はFacebookでこの本のブックレビューをポストしています。

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次に、宮部みゆき『ぼんぼん彩句』(角川書店)を読みました。著者は、日本でも有数の販売を誇っているであろう小説家であり、本書は俳句小説と銘打った新しい試みだそうです。短編集であり、俳句の17文字をタイトルに取って、以下の12編が収録されています。なお、短編タイトルの後のカッコ内の人名、というか、俳号はタイトルの俳句の作者となっています。好きな作者の作品ですし、かなりていねいに読んだので長くなります。まず、「枯れ向日葵呼んで振り向く奴がいる」(よし子)では、婚約解消した女性が主人公となります。婚約解消した相手の男性は二股をかけていて、もう1人の女性が妊娠したため婚約を解消したところです。バス代1800円の「長旅」をして市民公園に着き、そこにある熱帯植物園には向日葵がいっぱいでした。続いて、「鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす」(薄露)では、離婚する女性が主人公となります。主人公の女性は司法書士の高給取りですが、男性の方は15才の時に交通事故死したみっちゃんが忘れられず、妹をはじめとして家族ぐるみで思い出を共有しています。男性は、そのみっちゃんが描いた未完成の鶏頭の絵を形見のように、今もって大事にしていますが、実はみっちゃんが鶏頭を描いたのは別の理由からでした。続いて、「プレゼントコートマフラームートンブーツ」(若好)では、ハンドメイドを趣味とする男性が小学生の息子とともに、土地の神様が宿る大きな銀杏に住むリスを題材にクリスマスプレゼントの作成を始めます。そこに、男性に騙されたらしい女性がやって来ます。続いて、「散ることは実るためなり桃の花」(客過)では、すでに結婚した娘を持つ女性が主人公です。その娘の結婚相手が、司法試験に挑戦しながら働きもせず、善良を信じ過ぎる娘を騙しているようにしか見えず、他の女性との浮気すら許容しています。続いて、「異国より訪れし婿墓洗う」(衿香)では、やや近未来的でSFのような設定です。再生細胞が広範に医療に利用されるようになり、寿命が100歳を軽く超えるようになった日本で、主人公の女性の娘は国際結婚をして外国ぐらしをしていましたが、お盆の亡夫の墓参りに帰国します。続いて、「月隠るついさっきまで人だった」(独言)では、のんびりした姉としっかりものの5歳違いの妹の姉妹が主人公です。姉に彼氏ができたのですが、トンデモなタイプの男性で、祖母の葬式の名古屋まで追いかけて、ナイフを振り回したりします。続いて、「窓際のゴーヤカーテン実は二つ」(今望)では、アラフォーで子供のいない夫婦が主人公です。南西向きの部屋が暑いのでゴーヤをカーテン代わりに植えたところ、真冬になっても実がなったままで枯れそうにもありません。不妊治療に奇跡をもたらすゴーヤの実に使えるのではないかと夫がいいだしたりします。続いて、「山降りる旅駅ごとに花ひらき」(灰酒)では、家族の中の「黒い羊」のようなパッとしない次女、しかも、母親似の美貌の長女と次女に挟まれて、父親似の次女が主人公です。祖父の遺言状の確認のために温泉宿に一族が集まり、遺言状ではまたまたパッとしない腕時計を譲られますが、その宿の女将から重大な祖父の秘密を知らされます。続いて、「薄闇や苔むす墓石に蜥蜴の子」(石杖)では、小学生が主人公で、引越し先の裏山を探検しているとトカゲが走り去り、追いかけるうちにキラリと光る虫眼鏡を発見して、交番に届けたところ大騒動になります。というのも、虫眼鏡には5年前に行方不明になった小学生の名があったからです。虫眼鏡が発見された近くからとんでもないものが発見されます。続いて、「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」(蒼心)では、女子大生が主人公で、彼氏になってから豹変した男性とその取巻きから無理矢理に心霊スポットの廃墟の元病院に連れて行かれてしまいます。そこで出会ったのは人ならぬ存在だったりします。続いて、「冬晴れの遠出の先の野辺送り」(青賀)では、かなわぬ恋に敗れて26歳で自殺した男性の妹が主人公です。昔ながらの徒歩の野辺送りではローカル線に沿ったルートが設定されましたが、列車は停まってしまいます。県庁所在都市の名門校の女子高生と話しているうちに、主人公は亡き兄について、いろいろと感情を高ぶらせます。続いて、「同じ飯同じ菜を食ふ春日和」(平和)では、夫婦と女の子の家族3人が主人公です。父親の方の郷里に法事や何やで帰省するたびに訪れる展望台での会話で構成されているのですが、ざっと考えても十数年にわたっての会話です。展望台からは Remember 3.11 の文字が見えます。と長々とあらすじを展開しましたが、人ならぬ存在が登場する「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」がもっともよかったと感じています。12の短編の前半は、あるいは、後半のいくつかの短編も、やや常軌を逸した男性が登場し、どこまで現実的なお話なのかと疑問に思わなくもないのですが、まあ、そこは小説なのだと割り切って考えるべきなのかもしれません。

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次に、天祢涼『あの子の殺人計画』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書は、同じ作者の『希望が死んだ夜に』に続く社会派ミステリ仲田蛍シリーズの第2弾となります。前作と同じで神奈川県警真壁刑事といっしょに捜査に加わります。何の捜査かというと、風俗産業のオーナーの殺人事件です。前作と同じように川崎市の登戸付近の事件です。容疑者は、かつて殺害されたオーナーの経営する風俗店で働いていた女性なのですが、その小学生の娘が殺害当日の母親のアリバイを詳細に記憶しています。深夜でテレビがついていて、真夜中で日付が変わったシーンなどを克明に証言して、警察でも全面的ではないとしても証拠能力があると認定されます。その容疑者は今では風俗店ではなく、ファミレスで働くシングルマザーであり、容疑者の娘がきさらという名です。家庭ではシングルマザーの母親がこの小学生の娘を虐待、というか、ネグレクトしつつ虐待していて、食事を十分に与えなかったり、母親の気分次第で風呂場で水攻めにしたりします。もちろん、家庭での洗濯や入浴が行き届かないわけですので、小学校でもいじめにあっています。しかし、きさらは少なくとも母親から虐待されているという自覚はなく、一種のマインドコントロールの状態にあって、風呂場での水攻めがしつけであると思い込まされています。小学校では、同じクラスの翔太だけが味方になってくれていますが、きさらは少なくとも家庭での虐待については自覚しません。そこに、仲田が登場して謎解きをするのですが、ある意味で、本格的なミステリなのですが、時間のミスリードがあり、同様に、ノックスの十戒のひとつである双子のケースに近いミスリードもあったりしますから、ホンの少しだけ反則気味であると感じるミステリファンがいる可能性はあります。でも、なかなか見事なプロットだと思います。社会派のミステリファンを自負するのであれば、特に前作の『希望が死んだ夜に』を読んだファンであれば、ぜひとも抑えておきたいオススメ作品です。ただ、読者によっては、前作の方がクオリティ高いと支持する人がいそうな気もします。私もその1人です。

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最後に、町田尚子『どすこいみいちゃんパンやさん』(ほるぷ出版)を読みました。著者は、イラストレータ・絵本作家です。本書は単独での執筆ですが、私が読んだ範囲でも『なまえのないねこ』(小峰書店)なんかのように、原作者とともにイラストを担当したりしている作品も少なくないと思います。ということで、とても久しぶりの絵本の読書感想文です。私も周辺ではこの絵本の評価は高くて、それなりにはやっているようです。従って、出版社も力を入れているのか、特設サイトが開設されたりしています。「どすこいちゃん」の写真募集と称して、いわゆるデブ猫の写真を募集していたりします。なお、この絵本は4-5歳からが対象となっています。私も読んでみて、主人公のどすこいみいちゃんが、朝早くから起き出して、お相撲体型を利用して、というか、何というか、力仕事でパンを作るという労働を賛美する趣きがある一方で、それ以外はさほどの社会性があるわけでもなく、ましてや、何らかの人生の深い教訓を示唆しているわけでもなく、その上、表紙画像に見られるように、いかつくて、それほど愛嬌があるわけでもない表情のデブ猫が主人公ですので、絵本としてはいかがなものか、と私自身は考えないでもないのですが、繰り返しで、なぜか、私の周囲ではなかなか評判がいいようです。
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2024年02月24日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書3冊ほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、楡井誠『マクロ経済動学』(有斐閣)は景気循環の原因を外生的なショックではなく、設備投資、物価、資産価格に求め、冪乗則を援用してマクロ経済の動学を解明しようと試みている学術書です。野崎道哉『マクロ経済学と地域経済分析』(三恵社)は、ポストケインジアンのモデルに産業連関表を組み合わせたモデルを用いたり、地域産業連関表を用いた分析を試みています。田代歩『消費税改革の評価』(関西学院大学出版会)は、著者の博士号請求論文を基に、消費税と世代間不平等などを分析しています。吉田修一『永遠と横道世之介』上下(毎日新聞出版)は横道世之介シリーズ三部作の完結編であり、39歳になった世之介の日常生活を描き出しています。小林泰三ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』(角川ホラー文庫)と吉岡暁ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』(角川ホラー文庫)では、角川書店が主催する日本ホラー小説大賞という新人文学賞の短編賞を集成したアンソロジーです。なお、飯田朔『「おりる」思想』 (集英社新書)も読んだのですが、余りにも出来が悪くて論評するに値しないと考え、取り上げませんでした。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、2月第3週までに18冊の後、今週ポストする7冊を合わせて46冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、楡井誠『マクロ経済動学』(有斐閣)を読みました。著者は、東京大学の経済学者です。本書では、景気循環の原因を外生的なショック、例えば、戦争とか一次産品価格の上昇とか、海外要因や政策要因などを想定するのではなく、マクロ経済の内生的な同調行動を引き起こす冪乗則 power law を想定してマイクロな経済に基礎を置きつつ、マクロ経済の動学的な運動を解明しようと試みています。なお、出版社からしても明らかに学術書、そして、私の目から見てもかなり高度な学術書です。学部生には読みこなすには大きなムリがありますし、博士前期課程、というか、修士課程の大学院生でもややムリがあり、博士後期課程の院生でなければ十分な理解が得られない可能性があります。ハッキリいって、私も十分に理解できたかどうか自信はありません。ということで、本書は2部構成であり、序章と前半の3章で景気循環理論と対応する経済モデルを解説しています。本書が寄って立つのは、実物的景気循環モデル(RBC)に物価の粘着性を加えて、貨幣と実物の二分法の課程を緩めたニューケインジアン・モデルであり、景気変動の原因としては3つの震源、と本書では表現していますが、要するに経済変動、すなわち、設備投資、物価、資産価格を想定してます。繰り返しになりますが、海外要因や政策要因ではありません。そして、私が往々にして軽視する点のひとつですが、マクロ経済のミクロ的な基礎づけを考え、ミクロの経済行動が冪乗則によってマクロ的な期待値を集計できないようなエキゾチックな波動を考えています。本書では「波動」という言葉を使っていませんが、おそらく、波動なんだろうと私は受け止めています。後半では、景気変動の3つの「震源」、すなわち、設備投資、物価振動、資産価格についてモデルの拡張を含めて論じています。繰り返しになりますが、とても難解な学術書であり、私自身が十分に理解しているかどうか自信がないながら、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、合理性についてややアドホックな前提が置かれている気がします。限定合理性を仮定するのか、それとも、消費CAPMのような超合理性を考えるのか、モデルによりやや一貫しないような気がしました。第2に、個別企業の価格付け行動に基づく相対価格の変化が基本的に考えられているようですが、デノミネーションのような貨幣単位の変更といった極端な例を持ち出すのではなく、一般物価水準がマクロ経済に及ぼす影響については、もう少し分析があってもいいのではないか、という気がします。第3に、資産価格については合理的・非合理的を問わず、バブルについての分析が欠けている気がします。バブルによるブームの発生とバブル崩壊による、あるいは、バブル崩壊後の金融危機による景気後退については、もう少し踏み込んだ分析ができないものか、という気がします。ただ、いずれにせよ、トップクラスの経済学の学術書です。おそらく、一般的なビジネスパーソンでは読みこなすのは難しい気がいますが、大学院生にはチャレンジしてほしいと思います。

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次に、野崎道哉『マクロ経済学と地域経済分析』(三恵社)を読みました。著者は、岐阜協立大学の研究者です。出版社は、私の知る限りで自費出版などで有名な会社なのですが、本書が自費出版であるかどうかは言及がなかったと思います。本書は2部構成なのですが、前半と後半はほとんど関連性なく別物と考えたほうがよさそうです。中身は完全な学術書です。一般的なビジネスパーソンには向かないと思いますし、エコノミストでも専門分野が違えば理解がはかどらない可能性があります。ということで、前半部ではマクロ経済分析に関してケインズ型のモデルを考え、理論的な分析を試みています。最初の第1章でケインジアン・モデルについて考え、特に乗数分析についての理論を考察しています。具体的には、ケインズやカレツキの乗数分析をレオンティエフ的な産業連関表に統合した宮澤先生のモデルを用いて、東日本大震災後の宿泊などのリゾート産業における消費減少のインパクトを計測しようと試みています。続いて、第2章で2国間の国際貿易を明示的に取り込んだ理論モデルを基に、動学方程式モデルを用いたシミュレーション分析を実施しています。第3章で急にポストケインジアン・モデルを用いだインフレ目標政策の分析をしています。均衡の安定性が論じられています。第4章では、開放経済体系におけるインフレ目標政策を用いた分析により、積極財政政策と金融政策ルールとしてのインフレ目標が両立することが示されています。第5章では、ポストケインジアンのニューコンセンサス・マクロ経済学(NCM)と呼ばれるISSUE曲線はあるが、LM曲線を必要としない経済学を用いた分析を行っています。特に、バーナンキ教授等が行ったファイナンシャル・アクセラレーター・モデルの含意については、ポストケインジアン飲み方から批判的な検討が加えられています。後半部では産業連関表の作成や利用が中心となります。特に、大垣市の産業連関表の作成にページが割かれています。本書のタイトルの後半部分といえます。ただ、私はこの後半についてはなかなか理解がはかどりませんでした。また、第7章の表7.1と表7.2が10ページ超に渡って、老眼に私には苦しい大きさの数字で延々とデータ試算結果が示されています。これは、紙の印刷物でお示しいただくよりも表計算ファイルのフォーマットでダウンロードできる方が有益ではないか、という気がしました。実は、私も役所の研究所でAPECの貿易自由化政策の推計のために "Protection Data Calculation for Quantitative Analysis of MAPA" という論文を書いて関税率データを計算したことがあります。私の場合は、Excelファイルでダウンロードできるように、すでに25年以上の前の研究成果ながら、今でも国立国会図書館のサイトに収録されています。ご参考まで。

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次に、田代歩『消費税改革の評価』(関西学院大学出版会)を読みました。著者は、札幌学院大学の研究者であり、本書は関西学院大学に提出した博士論文を基にしています。タイトル通りに消費税に関する経済分析なのですが、序章と終章を除いて4章構成であり、世代間の受益と負担の公平性、所得階級別の軽減税率の効果負担の分析、同じく、年齢階級別の軽減税率の効果負担の分析、そして、年齢階級別の限界的税制改革のシミュレーション分析を主たるテーマにしています。博士論文ですので、極めて詳細なデータの出典やモデル構築時の詳細情報が含まれていて、とても参考になります。私自身は大学院教育を受けておらず、もちろん、博士号も取得していないので、こういった大学院生の博士論文を指導する機会はないものと考えますが、何人か博士論文審査の副査を務めた経験もあり、単なる経済学的な興味だけではなく、教育的な経験にもなるのではないか、と考えて読んでみました。まず、博士論文ですから非常に手堅く異論の出ない通説に寄って立った論文だという印象を受けました。例えば、財政に関して世代間の受益と負担の公平性に関しては世代重複(OLG)モデルを用いて分析し、通例、若年者が負担超過で高齢者が受益超過となります。ある意味で、シルバー民主主義の結果なのですが、どうして若年世代、あるいは、極端な場合には、まだ生まれていなくて、これから生まれる将来世代の負担が超過となるかといえば、財政赤字がリカード的に将来返済されると考えるからです。従って、本書のコンテクストでいえば、消費税率が低くて財政赤字が積み上がるような税率であれば、将来負担が大きくなって若年世代や将来世代の負担が、高齢世代よりも大きくなるわけです。逆にいえば、消費税率を高率にして財政赤字が積み上がらない、あるいは、財政赤字が解消されるような税率にすれば世代間の不公平は軽減ないし解消されます。本書では、この世代間不平等を解消する消費税率を24%程度と試算しています。既存研究からしてもいい線だと思います。ただ、ここは経済学の規範性を無視した議論であって、消費税率が24%とかきりよく25%となれば、マクロ経済がどうなるか、といった議論はなされていません。まあ、世代間不公平・不平等を解消するのと景気を維持するのとの間で、どちらにプライオリティを置くかの議論は別なわけです。あと、経済学ですので、評価関数によって差が生じます。すなわち、本書でも、低所得者層に配慮するロールズ的な厚生関数を前提にするのか、そういった違いを考慮せず同じウェイトで考えるベンサム的な厚生関数なのか、で政策評価が異なる例がいくつか示されています。そもそも、アローの不可能性定理によって推移律が成り立たないことから社会的な厚生関数を考えることがどこまで意味あるかは疑問なのですが、本書のような純粋に学術的、あるいは、教育的な経済学を考える場合には意味あるといえます。ちなみに、軽く想像される通り、低所得者層に配慮するロールズ的な厚生関数を前提とすれば、2019年10月から日本でも導入された軽減税率は意味がある、という結論となります。最後に、本書で興味深い点のひとつは、シミュレーションを多用している点です。基礎的で手堅いモデル設定に対して、シミュレーションを用いるのは、これからさらに注目されるかもしれません。

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次に、吉田修一『永遠と横道世之介』上下(毎日新聞出版)を読みました。著者は、日本でももっとも売れていて有名な小説家の1人ではないかと思います。本書は横道世之介シリーズ第3作であり、完結と銘打たれています。一応おさらいですが、シリーズ最初の『横道世之介』では、世之介が長崎から大学進学のために上京した1987年にスタートし、ほぼほぼ大学1年生の時の12か月をカバーしています。本書でも登場する社長令嬢で言葉遣いまでフツーと違う与謝野祥子との恋が私には印象的でした。最後に、16年後の現在である2003年から周囲の人々が世之介を振り返る構成となっています。私は小説を読んだのはもちろん、映画も見ました。2作目の『続 横道世之介』あるいは文庫化されて改題された『おかえり 横道世之介』では大学を卒業したものの、バブル最末期の売り手市場に乗り遅れて、パチプロ、というか、フリーターをしている24才の世之介の1993年4月からの12か月を対象としています。世之介は小岩出身のシングルマザーの日吉桜子と付き合って、世之介が知らないうちに勝手に投稿された写真コンテストで作品が「全量」と評価されて、プロカメラマンに成長していきます。そして、この続編でも27年後の2020年の東京オリンピック・パラリンピックのトピックが最後に挿入されています。今週読んだ第3作では世之介は38才から39才のやっぱり12か月です。もちろん、カメラマンの活動を続ける一方で、「ドーミー吉祥寺の南」なる下宿を所有するあけみと暮らしています。あけみは事実婚のパートナーで、芸者をしていたあけみの祖母が残した下宿を切り盛りしています。学生下宿というわけでもなく、世之介よりさらに年長の勤め人男性、書店員の女性、もちろん学生もいます。そこにさらに知り合いの中学教師の倅で、引きこもり男子高校生まで加わります。その9月から翌年の8月までの12か月が対象です。先輩カメラマンが壁に突き当たって活動を事実上停止したり、後輩カメラマンが子供を授かって結婚したり、緩いながらもいろいろな出来事があります。でも、世之介がいつも考えているのは事実婚のパートナーあけみではなく、付き合った時点で余命宣告されていた最愛の二千花であり、世之介は二千花と過ごした日々を何度も何度も回想します。そして、この作品でも15年後が挿入されています。表紙画像に見られるように、「横道世之介」シリーズ堂々の完結編とうたわれています。三部作の完結のようです。ただ、私は最初の『横道世之介』も読み終えた段階では、これで続編はないものと思っていました。今度こそホントに終わるのでしょうか。もう、世之介はアラフォーに達していますので、決して青春物語ではありませんし、初編と続編のように世之介は成長を見せるわけでもありません。でも、ほのぼのといい物語です。多くの読者にオススメします。

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次に、小林泰三ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』吉岡暁ほか『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』(角川ホラー文庫)を読みました。著者は、ホラー小説家がズラリと名を並べています。まずおさらいで、私が調べたところ、現時点では「横溝正史ミステリ&ホラー大賞」という文学賞があるのですが、これは「横溝正史ミステリ大賞(第38回まで)」と「日本ホラー小説大賞(第25回まで)」を2019年に統合したもので、角川書店の新人文学賞となっています。2019年が第29回ですから、回数は前者の「横溝正史ミステリ大賞」を引き継いでいます。そして、後者の「日本ホラー小説大賞」には、大賞、読者賞、優秀賞といった各賞のほかに、創設された1994年から2011年までは、大賞のほかに長編賞と短編賞に分かれていました。その短編賞を集成したのがこの2冊です。11編の短編が受賞順に収録されています。ただ、1年で2作の受賞作があったり、あるいは逆に受賞作がなかったり、はたまた、受賞したものの、この2冊には収録されていない短編があったりします。私が調べた範囲では、2001年吉永達彦「古川」と2010年伴名練「少女禁区」は収録されていません。理由は不明です。以下、ものすごく長くなりますが、収録順にあらすじです。なお、タイトルの後のカッコ内は受賞年です。まず、『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成1』から、小林泰三「玩具修理者」(1995年)では、子守していたときに弟を死なせてしまった姉が、何でもおもちゃを修理してくれる玩具修理者のところに死体を持込みます。回想する形の会話でストーリーが進みますが、ラストが秀逸です。沙藤一樹「D-ブリッジ・テープ」(1997年)では、横浜ベイブリッジにゴミとともに捨てられた少年の死体が、今はもう見ない60分テープとともに発見されます。そのテープに収録されていた質疑応答のような会話でストーリーが進みます。節ごとにこの会話と聞いている人たちの感想が交互に盛り込まれています。グロいです。残酷です。希望や救済といったものが微塵も見られません。かなりの読解力を必要とします。朱川湊人「白い部屋で月の歌を」(2003年)では、除霊のアシスタントを務める少年のジュンが主人公で、様々な霊魂を自分の体内に受け入れています。除霊している中で、ジュンは男に刺され魂が抜けた女子に恋してしまい、霊魂を閉じ込める白い部屋から月を眺めたりするわけです。しかし、ジュンの庇護者であり金儲け主義の霊媒師はこの恋を許してくれません。最初が幻想的で、ラストはジュン正体が明らかになってとってもびっくりします。森山東「お見世出し」(2004年)のタイトルは花街で修業を積んできた少女が舞妓としてデビューするための儀式を指します。主人公である綾乃のお見世出しの日は、お盆前の8月8日に決められて、33年前に自殺した幸恵という少女の霊を呼び出していっしょにお見世出しをすることになってしまいます。あせごのまん「余は如何にして服部ヒロシとなりしか」(2005年)では、主人公の鍵和田は同級生の服部の姉に連れられて、古い家屋を訪れたところ、文化祭のセットで作ったはりぼての風呂があり、お湯も張らずにいっしょにお風呂に入ったりします。なんとも、不条理、シュールで不可解なホラー小説であり、それはそれで背筋が寒くなります。タイトルの由来は読んでみてのお楽しみです。次に、『日本ホラー小説大賞《短編賞》集成2』から、吉岡暁「サンマイ崩れ」(2006年)のタイトルの「サイマイ」とは、三昧から派生していて方言でお墓のことです。舞台は和歌山県であり、熊野本宮に近い山村が大水害で多くの死傷者を出したと聞き、主人公の男性は精神科の病院を抜け出し、奇妙な消防団員2人と老人といっしょに熊野古道を進み、崖崩れで崩壊した隣村の墓地にたどりつきます。ラストに驚愕します。曽根圭介「鼻」(2007年)では、ややSF的に舞台は鼻の形で人々が二分され、「ブタ」と呼ばれる人たちが「テング」を呼ばれる人たちを差別して、その昔の「民族浄化」のような形で殺戮すらしていたりします。平文の医師が主人公の部分とゴシックの刑事が主人公の部分が交互に現れ、差別に批判的な医師は被差別者を救うために違法な手術をすることを決意する一方で、刑事は少女の行方不明事件の捜査中に、かつて自分が通り魔として傷つけた男に出会ったりします。雀野日名子「トンコ」(2008年)のタイトルであるトンコは、主人公ともいえるメスの子豚の愛称です。高速道路でトラックが横転事故を起こし、搬送中のブタの一部が行方不明になり、そのうちの1匹がトンコなわけです。トンコは山を下って用水路で犬をまいて、海にまで達するうちにいろいろなものに遭遇するわけです。田辺青蛙「生き屏風」(2008年)では、酒屋の主人の死んだ奥さんがあの世から帰ってきて屏風に取り憑いてしまいます。主人は仕方ないので、戻ってきてしまった奥さんの退屈を紛らすため、県境で魔や疫病の侵入から集落を守ってる妖鬼を選んで、酒屋に連れてきて話し相手をさせます。その妖鬼の親の鬼やいろんな話がそもそもホラーなのですが、最後に、屏風の奥さんが海に流して欲しいといい出してちょっとびっくりのラストになります。朱雀門出「寅淡語怪録」(2009年)では、夫婦で町会館の清掃奉仕に来た中年男性の主人公が、その町会館から地域の怪異話を収録している「寅淡語怪録」を持ち帰ります。読み進むうちに、収録されていた怪談の中に現れるぼうがんこぞうを100均ショップで見かけたり、勝負がつかないので組手を解くと3人いたという3人相撲などの怪談と同じ怪異を体験してしまいます。さらに、図書館の書庫に所蔵されている同様の100巻を借り出して、妻とともに怪異のあった場所を訪れたりします。最後に、国広正人「穴らしきものに入る」(2011年)では、主人公の男性は、洗車をしていた際に水道のホースに入って自動車の運転席側から助手席側に移動してしまい、それ以降、いろんな穴を通り抜けることを試みます。難易度でABCにランク付けしたりして一種の冒険を楽しんでいますが、電気の壁コンセントに入ったところで万事休してしまいます。ということで、何といっても新人文学賞ながら「日本ホラー小説大賞」の短編賞を受賞した短編のアンソロジーです。とてもレベルの高いホラー短編が集められています。私の趣味に基づけば、表紙デザインは今年2024年1月早々にレビューした「現代ホラー小説傑作集」の『影牢』や『七つのカップ』に比べてチト落ちるような気がしますが、デザインだけの問題で中身は充実しています。
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2024年02月17日 (土) 09:00:00

今週の読書は教育に関する学術書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は教育に関する学術書をはじめとして計7冊、以下の通りです。
まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)は先進国が加盟する国際機関が人的資本形成に重要な役割を果たす教育について分析しています。中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)は、教育学の観点から少規模学級による学力格差是正効果などの定量的な分析を試みています。万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)は、第170回直木賞受賞作品であり、8月の猛暑の京都の御所グラウンドにおける草野球のリーグ戦に参加した不思議な選手についてのストーリーです。東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)は、ラプラスの魔女こと羽原円華が知り合った中学生の父親が殺された殺人事件の謎の解明に挑みます。伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)は、戦間期におけるケインズの活動について、対ドイツ賠償問題と英国の金本位制復帰に焦点を当てて議論しています。阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)は、博士課程に進んだり海外留学を経験して、高学歴でありながら低所得に甘んじている「難民」について実例を引きつつ考察しています。西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)では、何と、20年間の人工睡眠から目覚めた主人公がバブル期の北海道経済界で注目されていた若手財界人殺害の事件に遭遇します。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、2月第2週までに11冊の後、今週ポストする7冊を合わせて39冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、経済協力開発機構(OECD)[編著]『教育の経済価値』(明石書店)を読みました。著者は、いわずと知れたパリに本部を置く国際機関であり、日本や欧米をはじめとする先進国が加盟しています。慶應義塾大学の赤林教授が監訳者となっていて、巻末の解説を書いています。かなり学術書に近いのですが、一般の教育関係者やビジネスパーソンにも十分有用な内容です。本書は5章構成となっていて、経済的に人的資本が重要であることを第1章で論じた後、第2章では経済に限定せずに、教育が広範な社会的な成果をもたらす点を指摘し、そして、第3章から第5章は学校教育の実践編となり、財政や予算配分などについて分析しています。私も大学の教員ながら、学校運営についてはシロートですし、ましてや学校財政や予算運営については大した見識があるわけではありませんから、主として、第1章と第2章を中心にレビューしておきたいと思います。まず、本書ではなぜかほとんど言及がないのですが、経済学的には生産関数という理論があり、生産要素、すなわち、資本ストックと労働をインプットして付加価値が生み出される、と考えます。この付加価値の一定期間の合計がGDPなわけで、GDPの伸び率を成長率というわけです。そして、本書でも言及あるように、資本ストックはともかく、もうひとつの生産要素である労働についてはシカゴ大学のベッカー教授の人体資本理論が教育を考える際の経済学の中心となります。人的資本は知識や経験をはじめとするスキルの限定的なストックであるとみなされていました。これはすなわち短期的な成長への寄与を中心に考えられていたことを意味します。しかし、ローマー教授などの内生的成長理論あたりから、人的資本はイノベーションへの貢献や普及を通じて長期的な成長にも寄与する部分が大きいと考えられるようになっています。日本でも「教育は国家100年の大計」といわれるように、人的資本形成に長期的な視点は欠かせません。ただ、2020年以降のコロナ禍の中で財政制約が厳しくなるとともに、目の前の命を救う医療や社会保障に比較して、教育に割り当てられる予算を見直す必要が生じたことも事実です。その上、コロナの前から格差問題がクローズアップされており、教育が経済的な格差にどのような影響を及ぼしてきているのか、といった分析も不可欠になっています。おそらく、教育にはスキル向上を通じた人的資本蓄積に寄与するのはもちろん、それ以上に、経済学的には外部性が大きいという特徴があります。例えば、感染症のパンデミックのケースを考えても、議論の絶えないマスク着用やワクチン接種の問題を差し置いても、衛生状態や栄養摂取の改善などについては、それなりの教育を受けて意識の高い人間が増加すれば、かなりの程度に解決される可能性があります。統計的なエビデンスは必ずしも十分には示せませんが、私の直感では明らかに学歴と喫煙習慣は逆相関しています。また、これも議論が分かれるかもしれませんが、2016年の英国のEU離脱の国民投票では、学歴とremainは正の相関があったと報告されています。加えて、本書では、メンタルヘルスの問題なども教育水準の向上とともに改善される可能性があると示唆しています。ただ、他方で、教育については普遍性と先進性の間にトレードオフがあるのも事実です。日本でいうところの「読み書き算盤」といった基礎的なスキルは義務教育で国民の多くが普遍的に身につける必要がある一方で、高等教育をどこまで普及させるべきかの観点は議論が分かれます。

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次に、中西啓喜『教育政策をめぐるエビデンス』(勁草書房)を読みました。著者は、桃山学院大学の研究者であり、専門は経済学ではなく教育社会学のようです。本書はほぼほぼ学術書と考えていいと思いますが、教育関係者にも配慮しているような気もします。例えば、経済学の学術書であれば、本書第1章の「科学的エビデンスとは何か」なんて議論はすっ飛ばしているような気がします。一般の教育関係者に配慮しているのか、それとも、教育学や教育社会学のエビデンスに対する考え方がまだこのレベルなのかは、私にはよく判りません。そして、本書では科学的エビデンスとは因果関係のことであると見なしています。いつも、私の主張のように、時系列分析の観点からは因果関係とともに相関見解も十分重要だと私は考えているのですが、そこは経済学との違いなのかもしれません。ただ、教育学や教育社会学と経済学で共通する観点、すなわち、実証的な分析と規範的な分析についてはキチンと押さえられています。例えば、本書でも少人数学級の有効性について分析をしているのですが、少人数学級が学習到達度の観点から有効であるかどうかと少人数学級を普及させるべきかどうか、の点は異なる観点から考えられるべき、ということです。経済学も同じで、例えば、財政支出拡大が成長に寄与るるかどうかは実証的に分析できますが、それでは、財政支出を拡大してまで成長を加速させるべきかどうかは別問題です。こういった実証と規範を考えた上で、いくつかの教育に関する論点をフォーマルな定量分析で実証的に明らかにしようと試みています。結論をいくつか抽出すると、まず、少規模学級による学力格差是正効果は小さいものの、その効果は本書では認められています。私のやや古い認識によると、週人数教育は学習到達度にはそれほど有効ではない、というのがこの世界の常識だったような気がしますが、学習到達度ではなく学力格差に着目すると効果あるという結論です。私自身としては一定の留保はつけておきたいと思います。大学のゼミナールが典型なのですが、少人数教育を尊ぶ考えについて、私自身は疑問を持っています。少人数教育ではそれだけ学習に対する圧力、まさに日本的な「圧力」、教師から、あるいは同じ生徒や学生間のプレッシャーがあるので学力への効果があると考えられますが、勉強するしないはそんなことで決まるものではありませんし、とくに、上級校になるに従って学校での学習の比率よりも家庭、というか、自分自身で学習すべき比率が高まりますから、私自身は少人数教育の効果には疑問を持っています。私の直感では、小学校の教員は少人数学級に好意的で、大学の教員はそうでもなさそうな気がします。しおれは、学校での学習と自分自身でやる学習の比率の差であろうと私は考えています。ただ、2点注意すべきなのは、まず、少人数学級ほど教員の負担が小さいことは事実だろうと思います。ですから、本書の分析結果のように、教師のサイドからすれば職務多忙の解消と学級規模の縮小が求められています。そして、従来からの定量分析結果に示されているように、学級規模を縮小させて15~20人くらいを境に学習効果が高まるのは事実だろうとおもいます。ギャクニ、コロナ禍の中で学級規模を40人から35人にしたくらいではほとんど効果はない可能性があると認識すべきです。そして、本書の分析結果として興味深かったのは、日本国民の間では、従来から教育は私的な活動であって、教育の便益は個人に帰属する可能性が高いことから、私的に費用を負担すべきものという感覚が先進各国と比べても高かったと私は認識しているのですが、その意識はかなり変化してきており、公的な支出をより増加させる機運が高まっている、との分析結果が示されています。よく主張される点ですが、日本位の先進国で高等教育機関である大学の無償化が進んでいないのは米国を別にすれば日本くらい、というのがあります。私自身は、大学学費がここまで高いのは雇用慣行の年功賃金が関係していると考えています。すなわち、雇用者の賃金が若年期に生産性より低い賃金しか支給されない一方で、中年以降の子育て期に生産性を上回るので教育費が負担できてしまう、という構図があります。大学の学費を政府が無償にするのではなく、企業に負担させているわけです。もうひとつは、少なくとも1950年代生まれの私くらいまでは、国公立大学は実質的に無償に近かった、という事実があります。私の京都大学の学費は年間36,000円だったと記憶しています。この額であれば、決して私の親は高給取りではありませんでしたが、かなり無償に近い印象でした。ただ、最近時点では国立大学でも年間50万円を大きく上回る学費が必要ですし、公的支出を拡大する機運が高まっているのは、ある意味で、当然かもしれません。

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次に、万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)を読みました。著者は、私の後輩の京都大学ご出身の小説家です。私はこの作者の作品はかなり大量に読んでいると自負しています。そして、この作品は、いわずと知れた第170回直木賞受賞作品です。作者の『鴨川ホルモー』のデビューから16年ぶりの京都を舞台にした青春小説です。本書は2部構成、2本立て、というか、順に短編ないし中編の「十二月の都大路上下る」と表題作の「八月の御所グラウンド」を収録しています。両者は密接にリンクしている連作なのですが、独立して読んでも十分楽しめます。ということで、前者の「十二月の都大路上下る」は全国高校駅伝で京都市内を走る県代表の女子高生が主人公です。この主人公JKは1年生なのですが、前日になって先輩の2年生JKが体調不良で交代で出場することになります。主人公JKは極度の方向音痴の上に、雪が舞う最悪のコンディションで、右に曲がるか左なのかのコースを間違えそうになるところ、よく見かける歩道を並走する人たちにコースを教えてもらいます。しかし、この野次馬の並走者が現在には決してマッチしない服装であり、駅伝翌日の買い物で主人公がそれに気づく、というストーリーです。「八月の御所グラウンド」は主人公が、いかにも京都大学を思わせる工学部の男子大学生になります。自堕落な生活を送ってきた学生なのですが、いよいよ卒業が近づいて卒論単位の条件に指導教員から、何と、夏の暑い真っ盛りの8月の御所グラウンドで開催される「たまひで杯」の野球リーグ戦に優勝するとの条件を示されます。京都の8月という極めて悪条件な天候の中で、野球をするための9人を集めるのに苦労し、中国人の大学院留学生の女性に加わってもらったりしていたのですが、とても不思議な3人組も出場することになります。そして、中国人の大学院留学生が調べたところ、確かに、大学に学籍はあったが、卒業も中退もしていない学徒出陣した学生だったことが明らかになり、さらにさらにで、あの伝説の名投手がピッチャーをしていたのではないか、と示唆されます。そして、中国人の大学院留学生は中国にいたころの経験からトトロを持ち出して、正体が明らかになるともう現れない、と主張しますが、彼らは野球に参加し続けます。はい、いい作品でした。ただ最後に、すごく最近の『ヒトコブラクダ層ゼット』あるいは、文庫化の際にタイトル変更して『ヒトコブラクダ層戦争』は別としても、私はこの作者の割合と初期の作品、特に、関西を舞台にした作品が好きです。すなわち、デビュー作の『鴨川ホルモー』、そして、『鹿男あをによし』、『偉大なる、しゅららぼん』、『プリンセス・トヨトミ』の4作です。順に、京都、奈良、滋賀(琵琶湖)、大阪を舞台にしています。これら4作品と本作品を合わせて5作のうちで、この作品『八月の御所グラウンド』が突出した大傑作、という気もしません。むしろ、5作品の中では『プリンセス・トヨトミ』が1番ではないのか、という気すらします。ですから、決してこの直木賞受賞作品をディスるつもりはありませんが、こういった一連の作品を合わせて合せ技1本で直木賞、ということなのではないか、と考える次第です。

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次に、東野圭吾『魔女と過ごした七日間』(角川書店)を読みました。著者は、日本でもっとも人気あるミステリ作家の1人ではないかと思います。この作品は「ラプラスの魔女」シリーズの長編ミステリであり、『ラプラスの魔女』の続編となります。従って、シリーズ作品を時系列的に順に並べると、『魔女の胎動』、『ラプラスの魔女』、そして本作品『魔女と過ごした七日間』となります。本作品は『ラプラスの魔女』から数年を経ていますが、このシリーズを通じて時代設定は近未来、ということになります。ですので、AIが広範に活用されていたりします。主人公は、まあ、シリーズに共通して羽原円華なわけですが、この作品では中学3年生の月沢陸真ともいえます。そして、羽原円華の「ラプラスの魔所」としての特殊な能力については特に本作品では解説なしで始まります。すなわち、羽原円華が糸のないけん玉を操るのを月沢陸真が目撃したりするわけです。羽原円華は独立行政法人数理学研究所で働いており、そこには特殊な能力を持ったエクスチェッドの解明を試みています。といったプロローグにに続いてストーリーが本格的に始まります。月沢陸真の母親は早くに亡くなっていて、その上、本書冒頭で父親の月沢克司が他殺死体となって多摩川で発見されます。父親を亡くした月沢陸真を気づかい、中学校の友人の宮前純也が家に誘い、自動車修理工場を経営する宮前純也の親も優しく接してくれたりします。月沢陸真の父親の月沢克司は警備会社に勤務していたのですが、その前には見当たり捜査員として町中を流しては指名手配犯を見つけ出す、という刑事をしていました。その月沢克司が他殺死体となって発見されたのですから、当然、警察の捜査が始まります。そして、羽原円華が「ラプラスの魔女」としてその特殊な能力を活かして闇カジノにルーレットのディーラーとして潜入したりするわけです。まあ、ミステリなのであらすじはここまでとします。本書で大きな焦点を当てられているのがDNAを活用した警察の捜査、あるいは、DNAのデータベースです。この作者の作品で、私が読んだ範囲では『プラチナデータ』と同じです。小説そのものは10年以上も前の作品ですが、時代設定は本作品と同じ近未来となります。ただ、極めて記憶容量のキャパに制限大きい私の記憶ながら、重複する、というか、同じ登場人物はいないと思います。最後に、DNAの活用に加えて、AIに対しても作者はかなり明確に否定的な態度を示していると私は受け止めました。例えば、AIによる顔認証や顔貌の識別よりも人間のプロである見当たり捜査員の優秀生を持ち上げたりしているわけです。そのあたりは、私はニュートラルなのですが、読者によっては好みが分かれるのではないかと思います。

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次に、伊藤宣広『ケインズ』(岩波新書)を読みました。著者は、高崎経済大学の研究者であり、専門は現代経済思想史だそうです。本書冒頭に、ケインズ卿はマーシャル以来のケンブリッジ大学の経済学の正当なる継承者であって、断絶を認めるに近いケインズ「革命」があったかどうかは言葉の問題、と指摘しています。まあ、そうなのかもしれません。本書では、第1次世界大戦後の対独賠償の問題を中心に据えて、第2次世界大戦後のブレトン-ウッズ体制については言及がほとんどありません。ケインズについては、2022年11月に平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』をレビューして、戦間期におけるワンマンIMFとしてのケインズの活動を実に見事に捉えていただけに、ブレトン-ウッズ体制構築時の交渉のの欠落や新書という媒体のボリュームの小ささも含めて、本書はやや物足りない気がします。でも、ケインズの「平和の経済的帰結」は極めて重要かつ高名なパンフレットですし、本書でも、ケインズの的確な賠償積算の正しさをあとづけています。この点は、その後にドイツが戦後賠償の過酷さに耐えかねてナチスの独裁を許してしまったという歴史的事実でもって、圧倒的にケインズの見方の正しさが証明されている、と考えるべきです。そういった国際舞台でのケインズの活躍とともに、本書で焦点を当てているのは英国国内の経済問題におけるケインズの考え方と活動です。大きな商店は戦間期の金本位制復帰です。いろんな観点があって、英国は旧平価でもって金本位制に復帰したのは歴史的事実です。そして、我が日本も英国と同じで旧平価で金本位制に復帰しています。ただ、この範囲では同じような経済政策に見えるのですが、本書では、旧平価での金本位制復帰は、ロンドンの国際金融市場としての活力の維持、あるいは、米国ニューヨークに国際金融活動の中心が移行しないような配慮、という観点で考えられた政策です。他方で、ケインズは平価を減価させた水準での金本位制復帰、ないし、金本位制の放棄を念頭に置いていたのですが、これは、国内の経済活動、特に製造業の国際競争力の観点から主張されています。ムリにポンド高の為替レートでもって金本位制に復帰すれば、国内経済はデフレに陥り、製造業の国際競争力は低下します。そして、英国の政策決定はケインズの減価政策を取らずに、旧平価での金本位制復帰を決めたわけです。そのあたりは、私は国内均衡を重視し、現時点からの後知恵とはいえ、国内均衡の重視や国際競争力の維持という観点が、当時は、希薄であったことにやや驚きます。ただ、日本が英国と同じように旧平価で金本位制に復帰したのは、国際金融市場としてのロンドンの地位の維持という政策目標が日本にはないわけですから、単なる誤解というか、経済政策に対する無理解から生じた悲劇であった、と考えるべきです。そして、こういった経済政策に対する無理解から国民生活を苦境に陥れる政策決定は、何と、今でも行われている、と考えられる例が少なくない、と私は指摘しておきたいと思います。

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次に、阿部恭子『高学歴難民』(講談社現代新書)を読みました。著者は、東北大学の大学院修士課程に進み、修士学位を取得した後、犯罪加害者の家族への支援組織を立ち上げて活動しています。間違えてはいけません。犯罪被害者ではなく、犯罪加害者の家族への支援です。本書では、実例に基づきつつ、ということはかなり極端な例である可能性があるわけですが、高学歴者の苦境を分析しています。本書での高学歴者難民とは、博士課程難民、法曹難民、海外留学帰国難民、にカテゴライズされ、いくつか実例を上げつつ、後半の章で家族からのヒアリングや社会構造的な解明を試みています。冒頭に強烈な例を持ってきています。すなわち、博士課程まで大学院を進みながら、結局、安定した職がなくて闇バイトで逮捕されたり、万引きを繰り返したりといった例です。繰り返しになりますが、かなり極端な例ですので、どこまで一般化して考えるかは読者の想定に委ねられている部分が大きいと私は考えます。ただ、おそらく、実例としてはあり得るのだろうと思います。また、法曹難民については、当然ながら、司法試験に合格しなかった人です。合格してしまえば何の問題もないのでしょうが、合格しなければ生活が成り立たない例はあるものと容易に想像されます。ほか、海外留学からの帰国者も含めて、私の実体験からしても、永遠に学生や院生、あるいは、資格試験挑戦者を続けて就職しない、ないし、出来ない人はいることはいます。ある意味で、高学歴難民といえるかもしれません。ただ、本書の著者のように犯罪加害者を身近に接していると、やっぱり、高学歴難民よりも低学歴であるがゆえに低所得の犯罪加害者が割合としては多いのではないか、と私は直感的に考えます。もちろん、高学歴であれば犯罪加害者になる可能性が低いと考える人が多いでしょうから、その反例を持ち出すことには意味があります。他方で、高学歴を目指すこと自体を疑問視するべきではないと私は考えます。私は高学歴そのものは否定されるべきではないと考えますが、博士課程まで終了して博士学位を取得しても、研究職への就職が容易ではないという現実があります。

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最後に、西村京太郎『石北本線 殺人の記憶』(文春文庫)を読みました。著者は、我が国でももっとも多作なミステリ作家の1人です。本書も、この著者の代表作である十津川警部シリーズのトラベルミステリです。本書はややSFがかったミステリで、20年間の人口睡眠から主人公が目覚めるところからストーリーが始まります。その主人公は、父親から受け継いだ銀行経営者であり、バブル期に思い切った融資を実行して、北海道経済界の若手6人衆の1人とされながら、1990年代後半の金融危機で銀行が破綻し、背任容疑で逮捕されて実刑判決を受け、1年半を刑務所で過ごす羽目になってしまいます。そして、刑務所を出所した後、米国NASAの技術に基づく「20年の眠り」に入ったわけですが、20年後の2月に目覚めてみると時代はコロナのパンデミックに入っていたわけです。そして、主人公が目覚めるとともに、連続殺人事件が発生します。バブル期にもてはやされた北韓道の6人衆のうち、主人公を除く経済界の財界人が次々を殺されます。主人公は20年を経て現在でも忠実な女性の秘書と行動をともにし、もう1人の男性秘書がJR石北本線特急オホーツク1号で主人公から目撃されたことから、犯人の可能性があると追跡を始めます。当然、東京でも殺人が発覚し、十津川警部も捜査にあたるわけです。タイトル通りに、北海道内のJR石北本線特急オホーツクでの移動に基づくアリバイトリックがあり、また、北海道にとどまらず、東京や京都でも主人公は出向きます。ただ、最後はややモヤッとした結末です。私には殺人までする動機の強さが理解できなかったのですが、それは、読んでいただくしかありません。小説の中のキャラがそれほど際立っているわけではなく、ハッキリいえば明確ではなく、逆に、ドラマ化はしやすいんではないか、と、ついつい、どうでもよくていらないことを考えてしまいました。
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2024年02月10日 (土) 18:30:00

今週の読書はデータサイエンスの学術書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、依田高典『データサイエンスの経済学』(岩波書店)は、理論的な面とともに、経済学、特にマイクロな経済学が我が国経済社会での選択にいかに役立つかを解説しています。塩田武士『存在のすべてを』(朝日新聞出版)は、誘拐事件の後3年を経て解放された男児が画家になってメディアに登場したことから、新聞記者が空白の3年を取材で埋めようと試みます。織守きょうや『隣人を疑うなかれ』(幻冬舎)は、連続殺人犯が同じマンションに住んでいるかもしれないという状況で、姉弟の2人が犯人探しを進めます。藤崎翔『モノマネ芸人、死体を埋める』(祥伝社文庫)は、引退した野球選手のモノマネしか出来ない芸人が、その野球選手から死体の処理を依頼されます。話題の達人倶楽部[編]『気の利いた言い換え680語』(青春文庫)は、対人関係の悪化を防止することも視野に入れて、ネガな表現をポジに言い換える例を多数収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は1月に21冊、先週6冊の後、今週ポストする5冊を合わせて32冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
なお、どうでもいいことながら、先週レビューした鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)をFacebookでシェアしたところ、ブックレビューしたスレ主の私を差し置いて、コメント欄がやたらとバズっていたりします。まあ、そろそろ終了ではないかという気がしますが、よく判りません。

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まず、依田高典『データサイエンスの経済学』(岩波書店)を読みました。著者は、私の母校である京都大学経済学部の研究者です。本書は、ビッグデータや人工知能(AI)に先立つ段階からデータを分析する手法をていねいに解説し、理論的な面とともに、経済学、特にマイクロな経済学が我が国経済社会での選択にいかに役立つかを解説しています。データサイエンスとしてデータを集めて分析するという意味で、RCT(randomized controlled trial) や差の差(DID)分析などに加えて、因果推論や機械学習もカバーしています。基本的に学術書であり、大学のレベルや分野によっては修士課程では少し難しい可能性もあります。ですので、一般社会人、というか、ビジネスパーソンの手にはおえないと思います。はい、かくいう私もマクロエコノミストですので、こういったマイクロなデータの分析には少し読み進んで困難を感じています。本書の構成としては三部構成であり、まず、第1部はデータ収集から始まります。ですので、私も総務省統計局でやならいでもなかったアンケート調査の設計から始まります。最近ではネット調査が多くなるんだろうと思います。そして、顕示選好も含めてコンジョイント分析と続きます。第2部では、行動科学の成果フィールド実験におけるも含めたRCTやオプトインとオプトアウトの比較など、そして、第3部では因果推論や機械学習が取り上げられて、コーザル・フォレストや限界介入効果の測定などを例にした議論が進められています。実際の例としては、著者のグループがフィールドで実施したインターネット接続、というか、インターネット接続における需要代替性・補完性の調査、コンジョイント分析では喫煙習慣、時間選好度、危険回避度の測定、そして、ダイナミックプライシングに関してはけいはんな丘陵における電力選択、などなど、実例も豊富に入っています。本書については、キチンと然るべき目的で然るべき水準の知性を持った人が読めば、大いに役立つと思います。そのうえで、少しだけ私の理解がはかどらなかった点を上げておきたいと思います。まず、第1点目は、本書冒頭でも言及されている行動経済学の再現性です。ただ、再現性という点については、私自身がお仕事として従事していた統計局の調査でも、完全な再現性は望めません。調査疲れ(survey fatigue)は避けられませんし、厳密に要求すべきではないのは判っていつつも、それでも気にかかります。世の中には、あれほど騒がれながら、「STAP細胞はあります」とだけ言い残して学界を去った女性もいるわけです。第2に、因果関係がすべてではない点は強調しておきたいと思います。本書での第1部でコンジョイント分析が取り上げられており、あくまでマイクロに原因と結果を追求する姿勢が見られますが、マクロ経済では必ずしも因果関係が重要とは思えない場面もあることは確かです。第3に、こういった資金的に大規模な調査、フィールド実験はそのリソースを持つ大企業に有利な結果をもたらす点は忘れるべきではありません。例えば、ダイナミックプライシングで時間別に電力料金を設定すれば、電力会社は収益アップにつながるのでしょうが、中小企業や消費者はギリギリまで高い料金を請求されるわけで、経済学の専門家であるエコノミストが誰のために研究をしているのか、についてはちゃんと考えるべきだと思います。

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次に、塩田武士『存在のすべてを』(朝日新聞出版)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私はグリコ・森永事件を題材にした『罪の声』ほかを読んだ記憶があります。ということで、いや、すごい迫力があり、よく考えられた小説でした。まだ2月も始まったばかりなのですが、ひょっとしたら、私が今年読むであろう中で今年一番のミステリかもしれません。物語は、神奈川県を舞台にした1991年の二児同時誘拐事件から始まります。1人は厚木の小学生男児、もう1人は横浜山手の未就学男児です。厚木の小学生は早々に、そして、横浜山手の男児は身代金受渡しに失敗しながらも、何と、3年後に無事に保護されます。そして、この小説では、後者の3年後に帰還した男児が3年間どこでどう過ごしていたのかについての謎解きを主たるテーマにしています。でも、その謎解きの開始は誘拐事件から30年後という大きな時の隔たりがあり、誘拐事件としては時効が成立しています。謎解きの主役、というか、事実関係を求めて全国を回るのは、誘拐事件当時は入社早々ながら、30年後には地方の支局長になっている大手新聞の記者の門田です。プロローグをおえて、誘拐事件当時の刑事であった中澤が死んで葬式に門田が出席するところから物語の幕が切って落とされます。ひとつのきっかけは、写真週刊誌に新進気鋭で期待の若手写実画家が、この誘拐事件の被害児童であった、とすっぱ抜かれたことです。そして、門田とともに、もう1人、この写実画家の高校時代の同級生であった画廊経営者の娘の里穂もこの画家を探します。もう後は読んでいただくしかありませんが、とても綿密な構成と感動的なストーリーです。特に、ラストはとりわけ感動的です。ということで、本書と深く関係する画壇と美術品について、雑談でごまかしておきたいと思います。ランガー女子による古い古い『芸術とは何か』(岩波書店)に従えば、芸術、もちろん、ハイカルチャーであって、サブカルを含まない芸術には4分野あり、順不同で、美日、文学、音楽、舞踏、となります。このうち、文学についてはグーテンベルク以来コピーがかなり容易になり、大衆性が増しています。音楽と舞踏についても、昨今の技術進歩によりかなりの程度にコピーが普及しています。他方で、美術、絵画や彫刻については、本書でもしてk敷いているように、「一品もの」であって、コピーは容易ではありません。ですから、というか、何というか、クリスチャン・ラッセンのようなデジタルアートでコピーが無制限に可能な絵画は、ややハイカルの中では価値が低いとみなされるわけです。他方、芸術については、特に美術については、経済学的にスピルオーバーが大きく、公共財的な周囲に広く便益を及ぼすことから、そのままでは過小供給に陥る可能性が高くなります。日本ではまだまだですが、欧米では芸術に関してはチャリティをはじめとして、公共的な財源も使って補助がなされています。本書では、公共的な補助はどうしようもなく皆無なのですが、美術愛好家の手厚い援助により芸術家の才能が伸ばされるさまがよく描かれています。美術界の旧弊あるしきたりなんかも、私がよく知らないだけで、本書に書かれている通りなのかもしれません。

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次に、織守きょうや『隣人を疑うなかれ』(幻冬舎)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私は『幻視者の曇り空』や『花束は毒』を読んでいます。本書は、同じマンションの連続殺人犯がいるのではないか、という設定のミステリです。謎解きの探偵役は姉弟であり、マンションに住む姉の今立晶と隣接したアパートに住む弟の小崎涼太です。小崎涼太の隣室の土屋萌亜が、殺人事件の被害者のJKを隣のマンションで見たと小崎涼太に相談した直後に行方不明になります。小崎涼太はフリーランスの事件を追うライターなのですが、隣接するマンションに住む姉の今立晶にその話をし、今立晶の高校の同級生だった友人で同じマンションに住む県警刑事にも相談します。他方、土屋萌亜が目撃したJKは3都県にまたがる連続殺人犯の3人目の被害者であり、その手口が25年ほど前の「スタイリスト」と呼ばれた未解決犯の手口に酷似している点が指摘されます。まず、どうして3都県にまたがる連続殺人事件だと判明したのかというと、持ち物リレーが施されていたからで、これが「スタイリスト」とまったく同じであることがキーポイントになります。持ち物リレーとは、この場合、1人目に殺された女性のネックレスが2人目に殺された女性の首にかけられていて、2人目に殺された女性の腕時計が3人目の女性の腕につけられていた、ということです。土屋萌亜はこの3人目の被害者のJKを隣接するマンションで目撃したわけです。ただ、土屋萌亜がJKを目撃した日付から1か月が経過しての殺人事件でしたので、防犯カメラの動画は上書き消去されてしまっていました。そして、探偵役の姉弟がマンションの住人の中に連続殺人犯がいると見立てて、犯人探しを始めます。本書のタイトルはこのあたりの事情を踏まえています。ですから、マンションの隣人が連続殺人犯であっても不思議はないわけで、事実、何度か黒いパーカーの男につけられるケースもあります。本書も、『幻視者の曇り空』や『花束は毒』と同じで、登場人物がかなり少ないです。海外ミステリなんかでは2ダースくらいの登場人物がいて、犯行の動機ある人物だけでも1ダースくらいいる小説が少なくなく、外国人の人名に不案内なことも相まって、なかなか理解がはかどらない場合もあるのですが、この作品の作者の場合、登場人物が少ないにもかかわらずラストで大きなサプライズを用意する、という特徴があります。本書でもそうで、探偵役の姉弟以外には、ほんの一握りの登場人物で、しかも、かなりキャラが明確なので読みやすいといえるのですが、ラストは少しびっくりします。ただ、難点は姉弟の2人の探偵役がいるので仕方ないかもしれませんが、視点が頻繁に入れ替わります。やや読みづらい印象を持つ読者がいそうな気がします。しかも、姉の今立晶がヤンキーの男言葉で語りますから、よりいっそうの混乱を生じかねません。その上、マンションの設定に少し疑問が残ります。マンション住人を片っ端から当たるので、わずか20戸少々という設定なのですが、そんな小規模マンションがどこまで不自然でないと感じるかは読者次第といえます。加えて、今どきのマンションはすべからくオートロックになっています。誰でも簡単にマンション内に入れるわけではありません。特に、関東首都圏のマンションは2重のオートロックになっているケースも少なくありません。少なくとも、我が家が住んでいた城北地区のマンションはそうでした。作者は関西在住なので、関西には私が知る限り2重のオートロックのマンションはほぼぼないのですが、本書の舞台は千葉県ですし、どこまでマンションの実態を作者が理解しているのか、やや疑問に感じないでもないところがいくつかありました。

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次に、藤崎翔『モノマネ芸人、死体を埋める』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、お笑い芸人から転じた小説家です。まず、あらすじですが、主人公の関野浩樹はタイトル通りにモノマネ芸人です。マネ下竜司の芸名で、プロ野球の往年の名投手竹下竜司のモノマネ一本で生計を立てています。竹下竜司ご本人にも気に入られ、晩酌のお供をして多額の小遣いまで稼ぐ順風満帆な芸人生活で、アルバイトの必要もなく生活できています。モノマネされているご本人の竹下竜司の方は、若い2人目の夫人と広尾の豪邸に住んでいて、現役時代に稼いだ貯金がワンサカとあって、マネ下竜司にも金払いがよかったりします。その一方で、荒っぽい気性でプロ野球チームのコーチや監督は務まらず、酒と不摂生でぶくぶくと太っていたりもします。ある夜破局が訪れて、竹下竜司は行きずりの女性を殺してしまいます。殺害現場である竹下竜司の広尾の自宅に呼び出された浩樹は愕然とする。竹下竜司が捕まれば、竹下竜司のモノマネしか芸のないモノマネ芸人であるマネ下竜司こと関野浩樹は廃業必至となるわけです。自首を勧めるといった選択肢がないでもなかったのですが、マネ下竜司こと関野浩樹は事件を隠蔽する道を選びます。まず、タイトル通りに、死体を北関東の山中に遺棄し、モノマネ芸人ならではの方法で警察のDNA検査をすり抜けたりします。最後がどういうラストを迎えるのかは読んでみてのお楽しみ、ということになります。ひとつの読ませどころはモノマネ芸人の会話や生活実態です。作者自身が元はといえば芸人さんですから、かなり真に迫ってリアルです。どこまで作者の実体験に基づいているのかは、私には知りようがありませんが、まったく私の知らない世界ですので、かなり面白おかしく接することが出来た気がします。そして、タイトルの死体が登場して埋めるあたりから、後半は怒涛の展開になります。チラッと言及した警察とのやり取りも含めて、なかなかよく考えられています。ラストは少し尻すぼみなのですが、それなりに楽しめます。

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次に、話題の達人倶楽部[編]『気の利いた言い換え680語』(青春文庫)を読みました。著者は、「カジュアルな話題から高尚なジャンルまで、あらゆる分野の情報を網羅し、常に話題の中心を追いかける柔軟思考型プロ集団」と出版社のサイトで紹介されています。本書は、1月末にブック・レビューした『すごい言い換え700語』の続編といえます。基本は、話し相手に不快感を与えないような形の言い換えなのですが、中には意味が違うんじゃあないの、といった例もあったりします。落語家と教員はしゃべるのがお仕事の要ですので、おしゃべりの「極意」とまではいわないとしても、それなりの判りやすい話し方が要求されます。ただ、私の場合は判りやすくかつ正確である必要があると考えています。というのも、今年度後期の期末リポートの採点を終えて成績をインプットしようとしたところ、非常に出来が悪いことに気付かされました。さすがに半分とはいいませんが、かなり高い割合で単位を認めない、「落単」という結果になりそうです。学生の理解が悪いとばかりはいい切れず、私の教え方も悪いのかもしれないと反省しています。ただ、本書のような言い換えで済む問題ではありません。本題に戻って、本書では聞く側の印象をかなり重視しているように見受けられます。典型的には、A but B. であればあとの方のBが強調された形になりますし、逆に、B but A. であればAが強調されます。この例では意味だけですが、言い換えの中にはネガな表現からポジな表現に置き換えるというのが少なくありません。「根暗」を「落ち着いている」とかです。ただ、私は京都人でひねくれた考え方、受け止め方をする傾向にありますので、本書の逆を念頭に人の話を聞いていることが少なくありません。本書では登場しませんが、よく持ち出される例で、「ピアノがうるさい」とはいわずに、「ピアノの練習ご熱心ですね」というのがあります。逆から考えて、「ピアノの練習ご熱心ですね」とまるで褒められているような表現をされたにもかかわらず、「ピアノがうるさい」という意味なんだと理解して、ピアノの練習は控える必要があるのかもしれない、と考えたりするわけです。話す方のサイドでは言い換えになるかもしれませんが、聞く方のサイドになった場合は、素直に聞くだけではダメなのかもしれません。
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2024年02月03日 (土) 09:00:00

今週の読書は高圧経済に関する経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)は、需要が供給を超過する高圧経済の特徴について、エコノミストだけではなく一般ビジネスパーソンにも判りやすく解説しています。宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)は、本屋大賞にもノミネートされた前作『成瀬は信じた道をいく』の続編であり、成瀬あかりの大学入試や大学生になった後のびわ湖観光大使としての活動などのパーソナル・ヒストリーを追っています。長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。もう、文庫本が出ているのですが、私は単行本で読んで、新刊書読書とはいえ4年ほども前の出版なのですが、次の作品との関係で取り上げてあります。その次の作品、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。一気に時間が流れて、啓子は定年退職してからも再雇用で犯罪捜査に当たり、菜月は大学生、さらに卒業して地元紙の記者になり、シングルマザーになっています。鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)は、ジャーナリストがワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)は、ホーソーンとの3作の契約が終わったホロヴィッツが殺人事件の容疑者となって逮捕され、ホーソーンに解決を委ねます。
ということで、今年の新刊書読書は先週まで、というか、1月には21冊で、今週ポストする6冊を合わせて27冊となります。順次、Facebookでもシェアしたいと思います。

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まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)を読みました。編著者は、内閣府の官庁エコノミストを経て日銀制作委員を経験した私の先輩と明治大学の研究者です。本書は9章からなり、それほど耳慣れない高圧経済についていろんな側面から解説を加えています。学術書っぽい体裁ではありますが、中身は一般ビジネスパーソンにも十分判りやすく考えられています。ということで、高圧経済とは、基本的に、インフレギャップが生じている経済といえます。すなわち、供給能力を上回る需要があり、経済が需要超過の状態にあることが基本となります。需要超過ですから、少し前までの日本経済が陥っていたデフレではなく、マイルドないしそれ以上のインフレ圧力があります。労働者の失業が減少して完全雇用に近くなり、そのため、労働者の流動性が高まって、より生産性が高くて、従って、賃金の高い職に就くことができます。もちろん、男女格差などの経済的合理性なく雇用者を差別的に扱う労働慣行は大きく減少します。加えて、需要が増加しますので労働生産性が需要の増加に応じて上昇します。雇用の流動性についても、現時点では、使用者サイドから低賃金労働者を求めて解雇規制の緩和などの方策が模索されていますが、高圧経済では雇用者のサイドから高賃金を求めて自発的に転職する、などの大きな違いが生じます。現在は、何とか黒田前日銀総裁の異次元緩和と呼ばれた金融政策によってデフレではない状態にまで経済を回復させましたが、高圧経済で需要超過となればインフレ圧力が大きくなります。日銀物価目標にマッチするマイルドなインフレで収まるか、あるいは、もっと高いインフレとなるかは需要超過の度合い次第ということになりますが、ここまでデフレ圧力が浸透している日本経済ですから、現在の物価上昇を見ても理解できるように、そうそうは高インフレが続くとも思えません。ですから、私なんかから見ればいいとこずくめの高圧経済なのですが、問題は実現する方策です。異次元緩和の金融政策だけでは、何とかデフレではない状態までしか均衡点をずらすことができませんでしたから、ここは財政政策の出番ということになるのが自然の流れだろうと思います。そして、現在の円安は高圧経済に必要です。小泉内閣からアベノミクスの少し前まで継続していた構造改革とは、需要を増加させるのではなく供給サイドを効率的にするという思想でしたから、高圧経済の観点からは真逆の政策でした。その意味で、日本経済に必要な経済政策を考える上でとても重要な1冊です。

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次に、宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)を読みました。著者は、本屋大賞にもノミネートされた『成瀬は天下を取りにいく』の作者であり、本書はタイトルから用意に想像される通り、その続編であり主人公の成瀬あかりは大学生に進学しています。学部は明記されていないものの、著者や私と同じ京都大学です。そうです。成瀬あかりが京都大学の後輩になって、私もうれしい限りです。出版社が特設ページを設けています。ということで、前作と同じ5話の短編からなる連作短編集です。各話のあらすじは、「ときめきっ子タイム」では、成瀬あかりの後輩に当たるときめき小学校4年3組の北川みらいが自由学習の時間の課題で成瀬と島崎みゆきのコンビデアルゼゼカラを取材することになり、調べを進めます。「成瀬慶彦の憂鬱」のタイトルは軽く想像される通り、成瀬あかりの父親で、京都大学の受験日に娘に試験場まで同行することになりますが、試験場で野宿しようとしている受験生を成瀬あかりが自宅に連れて帰ります。「やめたいクレーマー」では、大学生になった成瀬あかりが平和堂グループの一角であるフレンドマートでアルバイトしていて、その店の顧客であるクレーマーの女性とともに万引き防止に取り組みます。「コンビーフはうまい」では、成瀬あかりがびわ湖観光大使の選考に臨み、市会議員の娘で祖母と母もびわ湖観光大使を経験した女性とともに選考の結果任命され、観光大使-1グランプリなるゼゼカラの2人がチャレンジしたM-1グランプリのようなコンテストに臨みます。最終話の「探さないでください」では、いかにもタイトル通りに成瀬あかりが家出をします。それも大晦日です。その大晦日には東京から島崎みゆきが成瀬家にやって来て、ときめき小学校の北川みらいやフレンドマートのクレーマーも巻き込んで大捜索が行われます。以上のように、やや、成瀬あかりの奇行に焦点を当て過ぎているのではないか、という気がして、私の評価はハッキリと前作から落ちます。私は成瀬あかりの奇行に見える行動については、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也と同じで、世間一般から比べて異常なまでに合理的であるから「奇行」に見えるだけ、と考えていました。しかし、特に第2話で、見知らぬ受験生を自宅に連れ帰るというのは、まったく合理的ではありませんし、最終話もやや同じ傾向です。ただ、前作の流れがありますので、とても楽しく読めました。最後に、この作品にご興味ある向きは、本屋大賞にもノミネートされていることですし、前作の『成瀬は信じた道をいく』から先に読むことをオススメします。

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次に、長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。この作品では菜月は中学生になり、新聞記者になる夢を持って新聞部で活動しています。5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「黒い遺品」では、半グレの構成員が殺害され、現場には花が残されていたのですが、実は、菜月が犯人を目撃していたので似顔絵を書くことになります。啓子の相棒の黒木から、得意な道具で描くとうまく描けると示唆され、亡父の趣味のひとつだった囲碁の碁石を使って菜月が似顔絵を描いて犯人逮捕につながります。「翳った水槽」では、菜月の中学校の担任先生はアラサー独身なのですが、羽角家に家庭訪問に来て忘れ物をして菜月が届けるとベッドで横たわっていて、殺されたと後で知ることになります。表題作の「緋色の残響」では、菜月が4-5歳のころに習っていたピアノ教室で、菜月のクラスメートで勉強もピアノもよくできる子が死亡します。ピーナツのアレルギーで不慮の事故かと見られたのですが、何らかの殺意が感じられることから捜査が進められます。「暗い聖域」では、菜月がクラスメートの男子から料理を教わりたいといわれて男子生徒の自宅に行きます。アロエの苦みを取る方法を知りたいということです。直後に、その男子生徒が崖から突き落とされて大けがを負うのですが、啓子は謎の言葉「安全な場所に逃してあげる」と菜月に約束することになります。最後の「無色のサファイア」では、菜月がイジメにあっているのではないか、という上方が母親の啓子に伝えられます。他方、質屋での強盗殺人事件の被告に最高裁で無期懲役の判決が下されたが、菜月の所属する中学校の新聞部は長期に渡る徹底した調査を継続していた。このイジメに見える菜月の行動が、実は、長期戦の調査と深く関係しています。ということで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。私自身は「ノックスの十戒」に反している、とまでは思いませんし、各短編に詳しい説明がありますので、特に気にはなりませんが、本格ミステリと呼ぶのはためらわれる読者もいるかも知れません。

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次に、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。『緋色の残響』の続編となるこの作品では菜月は高校生から大学生、さらに、一気に地元紙の新聞記者になって、さらにさらにで、シングルマザーとなる20代後半までの長期をカバーしています。その時点では母親の羽角啓子は60歳定年後の再雇用で引き継式犯罪捜査に当たっています。前作と同じ5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「緑色の暗室」では、菜月は高校に進学しても新聞部に所属し、アナログ写真の現像のために、マンション一室を使ったレンタル暗室に行った際にネガを1枚階下に落とし、その部屋を訪ねると菜月が小学生のころに教育実習に来ていた女性が住んでいて、その菜月が卒業した小学校の教師をしていると聞きます。他方、同年代の20代後半の女性が殺されるという殺人事件が発生する。表題作の「球形の囁き」では、菜月はすでに大学生となって2年生で、夏休みにデパートの職員売り場でアルバイトした際に、とても懇意になり「もう1人のおかあさんみたいな人」といっていた女性が殺されます。その女性は保育士の資格を持っていて、同じデパートの託児ルームで手伝いをしていたことから捜査が進みます。「路地裏の菜園」では、菜月は大学生でベビーシッターのアルバイトをしている母親の啓子と同じ警察に勤務する事務職員の女性が大怪我を負う事件が発生します。家庭内暴力(DV)で離婚寸前の元夫が疑われることになります。「落ちた焦点」では、すでに菜月は地元紙の記者をしていて、杵坂署の刑事と恋仲にあります。一角の山の展望台から転落事故があり女性が殺されますが、証拠が不十分で容疑者は無罪判決を受け確定します。しかし、その後、この容疑者は遺書を残して自殺します。「黄昏の筋読み」では、菜月は引き続き地元紙の記者ですが、すでにシングルマザーになっており、母親の啓子は杵坂署を60歳で定年退職した後、引き続き再雇用で犯罪捜査に当たっています。菜月の娘の彩弓はお向かいの70歳くらいの元県庁職員によく懐いていて、彩弓の好きな昆虫を持って来てくれたりします。啓子は、早朝のジョギング途中に不審な死に方をした事件の操作を進めます。ということで、この作品も、前作『休憩の囁き』と同じで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。

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次に、鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)を読みました。著者は、医療問題を中心に活動しているジャーナリストです。ですから、医療関係者、というか、医師や医学研究者あるいは薬学の研究者ではありません。ですので、どこまで医学的な見識を想定するかは読者に委ねられている部分も少なくありません。本書では、タイトル通り、コロナワクチンに対する不信感を強調する情報収集活動の結果が集められています。ただ、コロナワクチンって、何種類かあったんではなかろうか、という疑問には答えてくれていません。そのワクチンの種類にはこだわらずに、ワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。本書でも冒頭に示されていますが、メリットとリスクの見合いで、単純にメリットがリスクを上回ればいい、という経済効果的な考えは廃されるべきという点は私も合意します。でも、私は現時点ではワクチンのデメリットやリスクがメリットを上回っているとは見なしていません。その点で著者の結論には同意しませんが、こういった議論が必要である点は大いに認めたいと思います。まず、コロナの症状の重篤化や死亡率に関しては、年齢との何らかの相関が強く疑われていた点は指摘しておくべきかと思います。典型的な比較対象のペアは戦争です。ばかげた見方かもしれませんが、戦争では、おそらく、20代や30代の男性が主たるリスクの対象と考えられる一方で、コロナのリスクは高齢者、特に、80歳以上の高齢者に大きなリスクあったと考えるべきです。その意味で、シルバー民主主義的な決定メカニズムが働いた可能性が否定しきれないと私は考えています。すなわち、コロナ対策、ワクチンも含めたコロナ対策に決定に関しては、国民の平均ではなく高齢者の方に有利なバイアスが働いた可能性が否定できません。その意味で、平均的な国民の意識とはズレを生じている可能性もあります。ただし、この点に関しては医学的な検証が必要と私は考えます。統計的な結果論だけではなく、疫学的な因果関係が立証されねばなりません。さらに広く、潜在的な利益・不利益も考え合わせる必要があります。ですので、総合的に考えれば、コロナパンデミックの2-3年後くらいに集中的にワクチン接種により社会的な同様を防止したという点は、私は評価されるべきかと思います。ただ、医学的にどう見るかは何とも自信ありません。おそらく、あくまで私の直感に基づいた感触だけの根拠ない見方ながら、コロナワクチンについては医学的・経済的・社会的な効用を考えれば、それなりの差引きプラスの効果があった、と私は考えています。ただし、個人としては、私はコロナワクチンはそれほど信用していません。ですので、教育者として学生に接する立場ですから、3度目まではワクチン接種しましたが、これで打止めとしています。

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国の人気ミステリ作家です。この作品はホロヴィッツ&ホーソーンのシリーズ第4作です。第3作までは、契約に基づいてホロヴィッツがホーソーンの事件解決を小説に取りまとめる、ということでしたが、その契約が終了した後の第4作になるわけです。ですから、冒頭で、ホーソーンの方から小説執筆を継続するようなお話がホロヴィッツにあるのですが、ホロヴィッツの方では印象悪くてすげなく断ってしまいます。でも、その翌週、ホロヴィッツの戯曲を酷評した劇評家のハリエット・スロスビーが死体で発見されます。凶器は、やっぱりホロヴィッツが脚本を手がけた戯曲の上演の記念品だった短剣で、ややネジが緩んでいるところがあって、ホロヴィッツの受け取ったものと断定され指紋まで発見されます。ホロヴィッツは警察に逮捕されて1時釈放されますが、困り果ててソーホーンに泣きついて事件解明を依頼するわけです。ホロヴィッツ本人にはまったく身に覚えがない一方で、多くの状況証拠がホロヴィッツが犯人であることを指し示しているわけです。そして、ハリエット・スロスビーが劇評家になる前の個人的なパーソナル・ヒストリーを追って、まあ、古典的ともいえるミステリの謎解きが始まります。典型的な whodunnit とともに、同時に whydunnit も解決されます。当然です。面白かったのは、タイムリミットが設定されていて、ホーソーンに協力する同じアパートの住人がコンピュータをハッキングして警察を混乱させたりしながら時間を稼ぎ、ロンドンを離れての調査をしたりしています。また、前3作で謎のまま放置されていたホーソーンのパーソナル・ヒストリーも一部だけながら明らかになります。世間のウワサではこのシリーズは10作あるようなので、これから小出しにしていくのかもしれません。繰り返しになりますが、古き善き時代のミステリであって、犯人探しや動機の解明など、ミステリの醍醐味をたっぷり味わえる佳作と私は思います。ただ、おそらく、シリーズの中盤に差しかかった作品ですので、前3作を把握しておかないと本作品の魅力はそれほど味わえません。加えて、後に数作続くわけですので、例えば、ホーソーンの生い立ちなんかが不明の部分多く残されるなど、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれません。10作をすべてコンプリートしてから一気に読む、という読み方もありかも、と思わないでもありません。
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2024年01月27日 (土) 09:00:00

今週の読書はマルクス主義の環境書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)では、晩期マルクスの研究から得られた地球環境に対するマルクス主義のインプリケーションが示されています。ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)では、家庭内暴力で収監されていた元夫が刑務所から釈放されたことにより逃げる母娘を保護するためにコルター・ショウが活躍します。川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)では、紙の本の読書、特に音読が脳機能の活性化に役立つ研究成果が紹介されています。物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)は、川下である教育現場の実情を考慮せずに、タブレットを活用したGIGAスクール構想を進めようとする川上の教育政策企画・立案の危うさを指摘しています。青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)では、徒目付の片岡直人が離縁した元夫を刺殺した元妻、また、大川を泳いで渡る商人の、それぞれの「なぜ」を追求します。話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)では、社交的に良好な関係の維持あるいは円滑な対人関係のために、適切な言い換えを多数収録しています。
ということで、先週まで計15冊の後、今週ポストする6冊を合わせて21冊となります。また、これらの新刊書読書の他に、昨年暮れに封切られた映画の原作となった倉井眉介『怪物の木こり』(宝島社)を読みました。新刊書読書ではないので、このブログには含めずに、別途、Facebookでシェアしておきました。

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まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)を読みました。著者は、著者は『人新世の「資本論」』で注目されたマルキスト哲学者、思想家であり、東京大学社会科学研究所の研究者です。本書では、晩期マルクスの思想を中心に、環境マルクス主義について議論を展開しています。なお、本書はケンブリッジ大学出版会から2023年2月の出版された Marx in the Anthropocene: Towards the Idea of Degrowth Communism をもとに邦訳された日本語版です。日本での出版は講談社ですが、もともとの出版社を見れば理解できるように完全な学術書であると考えるべきです。中心はマルクス主義経済学や思想としてのマルクス主義に基づく脱成長論といえます。ということで、このままでは資本主義の終わりよりも世界の、あるいは、地球の終わりの方が近い、というフレーズが本書にも収録されていますが、晩期マルクスの物質代謝やその物質代謝の亀裂から脱成長を本書では議論しています。というのは、マルクス主義というのは、私も実は歴史観についてはマルクス主義に近いと自覚しているのですが、唯物史観に基づいて生産力が永遠に成長していき、この生産力が伸びるために生産関係が桎梏となって革命が起こる、という考えに基づいています。しかし、晩期マルクスはこういった永遠の成長ではなく、地球環境のサステイナビリティのために脱成長を志向していた、というのが極めて単純に短くした本書の結論です。その中心は第3部の第6章にあります。このあたりまでは私にもある程度は理解できます。ただ、その後の第7章からは私の理解を大きく超えます。どうして、今までこういったマルクスの見方に誰も気づかなかったのかというと、エンゲルスが『資本論』だ異2巻とだ異3巻の編集ですっ飛ばしたからだ、ということのようです。この点は私には何ともいえません。ただ、私の疑問は主として以下の3点あります。第1に、マルクス主義経済学では、どうしてもマルクスに依拠しないと脱成長が正当化されないのか、という疑問です。例えば、私のような主流はエコノミストからすれば、単純に考えて、マルクスの『資本論』はスミス的な完全競争の世界に適用され、その後の市場集中が進み、独占や寡占が進んだ経済はレーニンの『帝国主義論』が分析を進める、といった経済学説史的な展開がなく、すべてがマルクスの考えでないと正当化されないというのは、とても不便に感じます。第2に、私の理解がまったく及ばなくなった第7章にあるのですが、成長と環境負荷が資本主義の下で見事にデカップリングされ、成長が続いても環境負荷が高まらない、という技術的なブレイクスルーがなされたとしても、「そのような社会が善き生を実現できる望ましい世界にはならないだろう」というのも、私の理解は及びません。別問題として切り分けることが出来ないものでしょうか。第3に、本書から私はそれほど強いメッセージとして読み取れなかったのですが、おそらく、本書では社会主義は無条件二脱成長を実現し、環境負荷を低減できる、ということにはならないものと私は想像しています。現在の資本主義的な生産様式のままでは脱成長が不可能であるというのは、ほのかに理解するものの、社会主義体制で脱成長を成し遂げるために何が必要なのか、やや理解がはかどりませんでした。同時に、私はまず社会主義革命があって、その後に、社会主義体制下で脱成長が成し遂げられるという二段階論と受け止めましたが、この私の受け止めが正しいのか、それとも間違っているのか、そのあたりを読み取るのに失敗した気がします。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)を読みました。著者は、ツイストとも呼ばれるどんでん返しがお得意な米国のミステリ作家です。本書は、コルター・ショウのシリーズ4冊目であり、前の3冊で三部作完成ともいわれていましたので、新しいシーズンに入ったのかもしれません。主人公のコルター・ショウは、開拓期の米国の賞金稼ぎを引き継ぐかのように、懸賞金を求めて難事件に挑み、人を探し出すというプロです。出版社のサイトによれば、「ドンデン返し20回超え」だそうで、この作者の作品の特徴がよく現れています。ということで、あらすじはごく単純に、優秀な原子力エンジニアであるアリソン・パーパーがひとり娘とともに姿を消します。理由は、家庭内暴力(DV)で逮捕投獄されていた元夫のジョン・メリットがなぜか刑期を満了せずに早期に釈放されたからです。元夫のジョンは優秀な刑事でしたので、そのスキルやコネやをフルに駆使して元妻と娘の行方を追います。別途、なぜか、2人組の殺し屋もこの母娘の後を追います。主人公のコルター・ショウはアリソン・パーカーの勤務する原子力関係の会社社長から、「ポケット・サン」と命名された超小型原子炉の部品だかなんだか、このあたりは技術的に私の理解が及びませんが、を取り戻すべく、母娘の失踪とは別件で雇われていたのですが、この母娘の発見と保護も追加的に依頼されます。ということで、母娘を追う3組のプロ、すなわち、主人公のコルター・ショウ、元夫で優秀な刑事だったのジョン・メリット、そして、謎の殺し屋、スーツとジャケットと呼ばれる2人組の追跡劇が始まります。母娘を匿ってくれる友人がいたり、あるいは、3組の追跡者が母娘の足跡を追うために情報を収集したりと、いろんな読ませどころがありますが、なんといってもこの作者ですので、ストーリー展開の構図が二転三転しコロコロと変わって行きます。どんでん返しですので、味方だと思っていた人物が実は敵であったり、あるいは、その逆だったりするわけです。そして、通常は、味方だと思っていた人物がいわゆる黒幕的に敵側であったり、あるいは、敵側と通じていたりして読者は驚かされるわけですが、本書の作者の場合は、逆も大いにあります。この作者のシリーズは、本作品のコルター・ショウを主人公とするシリーズ、ニューヨーク市警を退職した物的証拠に依拠するリンカーン・ライムを主人公とするシリーズ、取調べの際の言葉や態度から真相に迫るカリフォルニア州警察のキャサリン・ダンスを主人公とするシリーズ、の3つが代表作なのですが、いずれもどんでん返しを特徴としていますので、私の方でも、敵か味方か、あるいは、犯人かそうではない善意の関係者なのか、については疑ってかかるような読み方をしてしまいます。もっと素直に、読み進める読者の方が楽しめるのかもしれません。

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次に、川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)を読みました。著者は、医学者であり、東北大学の研究者です。どこかで見た名前だと思っていたのですが、ニンテンドーDSのソフトで有名な「脳トレ」の監修者だそうです。ということで、本書ではそれなりの統計的なエビデンスでもって、タイトル通りに、(紙の)本を読むことによる脳の若返りを含めた活性化について論じています。ただ、単に省略されているだけなのか、それとも、別の理由によるのか、私には明確ではありませんが、統計的な有意性に関する検定結果は明示されていません。ですので、グラフを示してのイメージだけ、ということになります。一般向けの新書ですので、単に省略されているだけだろうと、私の方では善意で解釈しています。結論については、それなりに首肯できる内容です。すなわち、紙の本を読むこと、特にマンガやイラストの多い絵本などではなく活字の本を読むことにより、ビジネスパーソンの創造性が向上したり、読書習慣により子供の脳の発達を促したり、認知症の症状が改善したりといった脳機能の改善や回復が見られる、という結果が得られる、ということです。最後の認知症の症状の改善については、一般的な「常識」として、認知症は進行を遅らせることができるだけで、回復は望めない、といわれていますが、音読によりアルツハイマー型認知症患者の脳の認知機能を向上させることができ、そのことはすでに研究論文も公表されている、と指摘しています(p.70)。私はまったくの専門外ですので、本書の主張が正しいのか、世間一般の常識が正しいのか、確たる見識を持ちませんが、本書の著者の主張は先述の通りです。そして、本書の前半がこういった読書、特に音読による脳機能活性化について取り上げられており、後半は、スマホ・タブレットによる脳機能へのダメージについて議論されています。本書の著者の主張によれば、スマホ・タブレットは依存性が強くて、長時間の使用は脳機能の発達に悪影響を及ぼすことがデータから明らかであって、酒と同じように法的に規制してもいいのではないか、ということになります。スマホやタブレットを長時間使うのは、結論からすれば、疲れないからであって、MRIで計測するとダメージが蓄積されていくことが確認できるとしています。他方で、GIGAスクール構想などでスマホやタブレットを勉強道具として活用することも進められているわけですが、著者は大きな疑問を呈しています。とくに、スマホやタブレットはマルチファンクションであり、勉強以外のことに集中力が削がれる可能性も指摘しています。本書では、コンテンツではなくデバイスに着目した議論が展開されていて、私のようにデバイスではなくコンテンツの方が問題ではないか、と単純に考える一般ピープルも多いことと思いますが、その点も本書では否定されています。デバイス主義ではなく、コンテンツ重視の観点からは、例えば、ポルノ小説を紙の本で読むよりは、ゲーム感覚でタブレットで勉強する方が脳機能の活性化にはいいような気がするのですが、本書は真逆の結論を然るべき研究成果に基づいて主張しています。やや意外な結論なのですが、そうなのかもしれません。

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次に、物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)を読みました。著者は、塾を経営する傍ら社会批評などの執筆活動をしている、と紹介されています。本書では、GIGAスクール構想に基づき、小中学校における教育のデジタル化、有り体にいえば、タブレットを使った教育について強く批判しています。私が読んで理解した範囲で、以下の理由によります。すなわち、まず第1に、タブレットの目的外使用をやめさせることがほぼほぼ不可能だからです。これは容易に想像できます。第2に、本書で「川上」と読んでいる文部科学省や国会議員などの教育政策の企画立案をするグループが、「川下」の教育現場にいる教師や教育実態をまったく把握せず、政策の企画立案をしていて、教育現場からかけ離れた方針を打ち出しているためです。本書でも指摘しているように、「川下に流し込む」ことにより、実施責任を教育現場に負わせることができるので、かなり無責任な政策決定になっている可能性はあります。よく言及されるように、を考案したアップル社のスティーブ・ジョブズは自分の子供にはスマホ、というか、iPhoneやタブレットのiPadは与えなかった、というのは、私自身は確認のしようもありませんでしたが、よく聞いた話です。本書では、冒頭で「2023年7月にオランダ政府が学校教室におけるタビレット、携帯電話、スマートウォッチの持込みを禁止した、とも指摘しています。オランダ政府のデバイス原因説よりは、私自身は、ややコンテンツ要因説に近い気がするのですが、本書でもコンテンツ要因説をとっているように感じました。確かに、タブレットを教室で使うようになれば目的外使用、というか、タブレットを勉強に使わずにゲーム、SNSなどに使う誘惑が大きくなるのは当然ですし、それを教員が効果的に防止するのは難しそうな気がします。ただ、デバイスについては工夫の余地があるのも事実です。20年くらい間に発売が開始された初期のニンテンドーDSのように通信機能なしで、半導体チップを差し込んで勉強のみに使用するデバイスを汎用的なタブレットの代わりに開発することは十分可能ではないか、という気がするからです。ただ、私は大学教員なわけですが、ある程度は学力でグループ分けされた結果の学生を受け入れている大学と違って、義務教育である小中学校ではあまりにも学力の分散が大きくて、一律なデジタル教育が難しい、というか、不可能に近いのは理解します。私の授業でも、学内サイトにアップロードした授業資料を教室内のモニターに映写したり、学生のPCやタブレットなどのデバイスで見ながら授業を進めることが多いのですが、私自身は少し強引にでも教科書を指定していて、教科書を教室に持って来て授業を受けるように指導しています。でも、決して少なくない先生方は教科書の指定はしていないような気がします。特に、経済学部ではそのように私は受け止めています。本筋から離れてしまいましたが、本書を読んでいて、タブレットを使った教育は、少なくともいっそう格差を拡大させる可能性があると感じました。すなわち、私自身の信念に近いのですが、教育というのはある意味で格差を拡大する可能性を秘めています。学力の高い高校生が大学入試で勝ち残ってトップ校に進学し、さらに学力を高めて卒業するわけです。教育のデジタル化についても同じで、教育や学習というのは自分に跳ね返ってくるのですが、そこまで深い理解ない小中学生であれば、遊ぶ子は遊んでしまうし、勉強する子はしっかりと勉強ができる、という環境を与える結果になるような気がします。タブレットに限らず、ICT教育デバイスを活用して学力をさらに伸ばす子、逆に、汎用的なデバイスでゲームやSNSなどで遊んで学力を十分に伸ばせない子、がいそうです。私の直感では、前者はもともと学力の高い子でしょうし、後者はもともと学力の低い子である可能性が高いような気がします。それがいいのか悪いのか、現時点では、私は望ましくない、と考えますが、容認するという考えもあり得るかもしれません。

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次に、青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)を読みました。著者は、時代小説の作家であり、本書は『半席』の続編となっています。前作は6編の明らかに短編といえる長さの6話から成る連作短編集でしたが、本作品は中編くらいの長さの2話からなっています。もちろん、「なぜ」を探る徒目付の片岡直人が主人公であり、その昔の徳川期には、今にも部分的に引き継がれている自白中心の取調べであり、しかも、今とは違って拷問をしてまでも捜査側の見立てに従った自白を引き出して、はい、それで終わり、という犯罪捜査でしたが、主人公の片岡直人は、「なぜ」を探る、ミステリの用語でいえば whydunnit を追求するわけです。しかも、前作のタイトルに見られるように、一代御目見得の御家人で世襲出来ない半席の立場からフルスペックの世襲できる旗本に上昇すべく努力を繰り返しているわけです。ということで、あらすじですが、その上役の内藤雅之が遠国ご用から戻って、馴染みの居酒屋で出会うところから物語が始まります。いろいろと、幕府の鎖国政策に対する批判めいた会話や周辺各国からの脅威や海防について語りつつ、片岡直人の活動が再開されます。「再開」というのは、前作『半席』の最後でいろいろとあって、主人公の片岡直人は心身ともに不調であった、という事情からです。最初の中編では、かなり年配の侍の家を舞台にした事件です。離縁されて3年半もけ経過してから、元妻が元夫を刺殺します。しかも、元夫は高齢で病床にあり、それほど先が長いわけではなさそうに見えました。そもそも、なぜ離縁したのかから謎解きを始め、元夫の郷里の越後の風習までさかのぼって刺殺事件の裏にある「なぜ」を解明しようと試みます。2番めの中編は、そこそこ繁盛している商家の主が10月の冷たい水をものともせずに、また、決して達者な泳ぎではないにもかかわらず、毎日決まった時刻に大川を泳いで渡っていると噂になり、片岡直人が見に行って少し話し込んだりします。そして、どのような理由で泳いでいたのかを突き止めようと、ご用のついでにこの泳ぐ者の出身地である三河まで立ち寄って、片岡直人が調べを進めます。前作の『半席』も同じで、この作品も明らかに時代小説とはいえミステリであると考えるべきです。繰り返しになりますが、whydunnit のミステリです。さすがに直木賞作家の作品ですし、特に、私のように、時代小説もミステリもどちらも大好きという読者には大いにオススメです。

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次に、話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)を読みました。編者は、出版社のサイトで「カジュアルな話題から高尚なジャンルまで、あらゆる分野の情報を網羅し、常に話題の中心を追いかける柔軟思考型プロ集団」と紹介されています。本書の1年後の昨年年央くらいに同じシリーズで『気の利いた言い換え680語』というのも出版されています。私は図書館の予約待ちです。ということで、本書では、「ダメだなあ」より「もったいない!」、「新鮮野菜」より「朝採れ野菜」、「迅速に対応」より「30分以内に対応」といった言換えを集めています。ナルホドと納得するものばかりで、なかなかにタメになります。その上で、いくつか考えるところがあります。まず、第1に、私は関西出身ながら大学卒業後に東京に行って、定年の60歳まで長らく公務員をしていました。独身のころは東京の下町に住んでいて、今でも相手次第ながら日常会話には東京下町言葉でしゃべっています。そして、私の実感からすると、関西弁はソフトで、東京下町言葉はややハードな印象を持っています。ですから、失礼をわびたり、学生を褒める際には関西弁で、何らかの強調を示したり、学生を叱る場合は東京下町言葉がいいんではないか、と勝手に思っています。例えば、後者の叱る場合は「アホンダラ」というよりも、「バッキャロー」と言い放つ方が効きそうな気がします。私の勝手な憶測です。第2に、あくまでタイトルのように「言い換え」ですから、書き言葉、文章に本書の指摘が適するかどうか不安があります。特に、学術論文を書く際には、当てはまらない場合がありそうな気がします。まあ、それは本書の目的から外れるので仕方ないと思います。第3に、これは苦情なのですが、「言い換え」ではなく明らかに意味の違う例が本書にはいくつか散見されます。典型的には、p.225の「万障お繰り合わせの上、お越しください」を「ご都合がつきましたら、お越しください」では来て欲しい度合いが明らかに異なります。最後に、私は「官尊民卑」という言葉もある日本で長らく国家公務員をした後、現在は大学で教員として学生に教える立場ですので、話し相手に対してはついつい目下に接するようになりがちです。ですので、なるべくていねいに表現するように努めているとしても、ついつい、上から目線の言葉になりがちなことは自覚しています。本書の最初の方にあるように、否定や不同意を表す際には、学生には明確に「違う」といってやるのもひとつの手ですが、相手が同僚教員などであれば、しかも、経済学というのはそれほど明快に割り切った回答を得られる学問領域ではありませんから、本書にはない表現で私は「疑問が残る」とか、「見方が分かれる」と表現する場合があります。私なんぞのサラリーマンをした後に大学に来た実務家教員よりも、自分の方がエラいと思っている大学院教育を長らく受けた学術コースの教員がいっぱいいるので、それはそれなりに表現を選ぶのもタイヘンです。
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2024年01月20日 (土) 09:00:00

今週の読書は開発経済学の専門書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、熊谷聡・中村正志『マレーシアに学ぶ経済発展戦略』(作品社)は、「中所得国の罠」から脱しつつあるマレーシア経済について、歴史的な観点も含めて分析しています。多井学『大学教授こそこそ日記』(フォレスト出版)は、優雅なのか、そうでなくて過酷なのか、イマイチ不明な大学教授のお仕事について、実体験を基に取りまとめています。井上真偽『アリアドネの声』(幻冬舎)は、地震でダメージ受けた地下の構造物から視覚や聴覚に障害ある要救助者をドローンで誘導しようと試みるミステリです。西野智彦『ドキュメント 異次元緩和』(岩波新書)は、昨春に退任した黒田日銀前総裁の金融政策の企画立案や決定の舞台裏を探ろうと試みています。ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)は、英国を舞台に高校を卒業して大学に進学するピップを主人公にしたミステリ三部作の最終作であり、それまでの単なる犯罪のリサーチを越えた大きな展開が待っていました。
ということで、今年の新刊書読書先週までの10冊に加えて、今週ポストする5冊を合わせて計15冊となります。なお、これらの新刊書読書の他に、藤崎翔『OJOGIWA』を読みましたので、そのうちにFacebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、熊谷聡・中村正志『マレーシアに学ぶ経済発展戦略』(作品社)を読みました。著者は、お二人ともアジア経済研究所の研究者です。私は20年ほど前にインドネシアの首都ジャカルタにある現地政府機関に勤務していて、それほどマレーシアに詳しいわけでもないのですが、アジアにおける経済発展のロールモデルとしては、欧米諸国ならざる国の中で最初に先進国高所得国になった日本が筆頭に上げられるのですが、マレーシアやタイなども東南アジアの中では経済発展モデルのひとつと考えられます。しかし、やや物足りないのは、本書で考えている「中所得国の罠」をマレーシアがホントに脱して現時点で高所得国入りしたわけではない、という点です。本書でも、この点はハッキリしていて、マレーシアは高所得国ではなく、「高所得国入り間近」と表現されています。まあ、そうなんでしょう。基本的に、学術書というよりは一般向けの教養書・専門書に近い位置づけではありますが、「中所得国の罠」に関して世銀が出した基本文書である Gill and Kharas による An East Asian Renaissance ではなく、アジア開銀(ADB)の Felipe らのワーキングペーパーを基に議論しているのも、見る人が見れば違和感を覚えかねません。ただ、そういった点を別にすれば、よく取りまとめられている印象です。すなわち、「中所得国の罠」についてはルイス的な二部門モデルを基に資本と労働を資本家部門で活用するところから始まって、要素集約的な成長から全要素生産性(TFP)による成長への転換、そして、より具体的には産業の高度化がキーポイントになる、というのはその通りです。その上、「中所得国の罠」を離れて、マレーシアの政治経済的な歴史を振り返るという点においては、私のような専門外のエコノミストにはとても参考になりました。二部門モデルに関しては、マレーシアではルイス的に生存部門と考えられる農村部におけるマレー人労働力を、都市部における資本家部門と考えられる商工業、多くは華人によって担われている商工業に移動させることにより経済発展が始まります。その過程で、マレーシア独自のプリブミ政策が導入され、人種間での均衡が図られることになります。この点は、いろいろな議論あるところですが、インドネシアにおいて反共産主義の立場から華人経営に対する、やや非合理的とも見える制限を課した政策に比べれば、まだマシと考えるエコノミストもいそうな気がします。ただ、現時点で考えれば、本書でもマレーシアが高所得国入りしたと結論しているわけでもなく、少し前までは、マレーシアこそが典型的に「中所得国の罠」に陥っている典型的な国、とみなされていただけに、本書で指摘するような外需依存が強い経済発展から内需主導の経済発展への転換が、この先成功するかどうかという、より実証的・実践的な検討が必要そうな気がします。マレーシアは、本書でも指摘しているように、インドネシアと比較すれば明らかですし、タイなどと比べても人口が少なくて国内市場の制約が大きいだけに、それだけに注目されるのは当然です。加えて、同じように「中所得国の罠」に陥っているように見える中国が、人口という点ではマレーシアと対極にありながら、どのように「中所得国の罠」を逃れるか、という観点からもマレーシアが注目されるところかもしれません。

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次に、多井学『大学教授こそこそ日記』(フォレスト出版)を読みました。著者は、関西の私大の現役教授だそうです。その1点では私と同じだったりします。もう少し詳しくは、大手銀行を経て、S短大の専任講師として大学教員生活をスタートし、以降、T国立大を経て、現在は関西の私大KG大に勤務している、と紹介されています。本書については、正体を隠すことで、学内外からの反発を気にせず、30余年にわたり大学業界で見聞きしたことを思う存分、表現したかったので執筆した、といった旨の執筆動機が記されていました。加えて、本書の内容はすべて著者の実体験だそうです。繰り返しになりますが、関西の私大の教授職にある、という1点だけで私と共通点があるわけですが、本書の著者は、銀行勤務経験があるとはいえ、大学院に進みいわゆる学術コースを経て大学の研究者になっているのに対して、私の場合は実務家コースで、60歳の定年までサラリーマンをした後に大学に再就職しているという大きな違いがあります。ですので、私は大学内の学務や教務と称される学内行政を担当したことはほとんどありません。講師から准教授そして教授へと昇進するために熱心に研究に取り組むほどでもありません。年に1本だけ紀要論文を書いておけばそれでOKと思っているくらいで、査読論文もほとんどありません。まあ、有り体にいって、私はすでにテニュア=終身在職権のある教授職についてしまったわけですし、性格的にも、また、年齢的にも上昇志向はまったくありませんので、釣り上げた魚に餌はやらない、と似通った対応になってしまう可能性も十分あるわけです。ですので、経済学部ですから、どうしてもマルクス主義経済学と主流派経済学が共存しているわけですが、私については学内の派閥活動なんかも関係薄く、人事についても双方から推薦者の連絡を受ける、といった状態となっています。しかも、まもなく定年に達して教授会の構成員ですらなくなります。勤務校は著者とそれほど大きなレベルの違いない関関同立の一角ですので、学生の就学態度やほかの何やも大きな違いはないと思います。ただ、私の場合は、大学生ともなれば18歳成人に達しているわけで、よくも悪くも独立した人格として接し、逆から見れば、それなりの自己責任を求めます。ですので、授業中の居眠りや私語を禁止したり、といった授業態度をの改善を要求するようなことはしません。「学び」は自己責任でやって下さい、ある意味で、演習生を甘やかしますから、後になって、「先生が厳しくいってくれなかったから勉強しなかった」といった逆恨みはしないようにお願いするだけです。たぶん、経済学部というのは、私の経験からしても、多くの大学でもっとも少ない勉強で卒業できるような気すらしますので、それなりの自覚が必要です。勉強する学生にはご褒美があり、勉強しない学生も卒業は問題ないとしても、授業料相当の成果を手にできるかどうかは自覚次第です。高校生までであれば、「よくがんばった」でOKなのかもしれませんが、大学生であればそれなりの結果も必要でしょうし、多くの経済学部生は卒業後は就職するわけで、仕事に就く準備が必要な一方で、仕事に就くまでの息抜き的な部分も必要そうに見える学生もいます。ただ、本書に収録された多くの著者のご経験は、たしかに、大学教授であれば多かれ少なかれ経験しそうな気もします。その意味で、荒唐無稽な内容ではありません。

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次に、井上真偽『アリアドネの声』(幻冬舎)を読みました。著者は、昔風にいえば覆面作家であり、年令や性別すら明らかにされていない作家で、基本的にミステリやサスペンス色の強いエンタメ小説をホームグラウンドにしているように感じますが、私はひょっとしたら初読かもしれません。ということで、あらすじです。主人公は高木春生という20代半ばくらいの男性、小学生のころに中学生の兄を事故で亡くしたトラウマがあります。その贖罪のためにということで、災害救助用の国産ドローンを扱うベンチャー企業に就職します。その業務の一環で障害者支援都市WANOKUNIを訪れます。これは、会社が参加しているプロジェクトで地下に都市が建設されています。まあ、都市というくらいの規模ではありませんが、集合住宅やショッピング街、リクリエーション施設や学校まである、というものです。そこで大地震に遭遇するわけで、所轄の消防署に勤める消防士長とともに、ドローンをオペレーションして、まさに、災害救助用ドローンの出番となるわけです。その要救助者が、WANOKUNIのアイドルである中川博美です。彼女はヘレン・ケラーのような三重苦、というか、三重障害者であって、視覚聴覚に加えて唖者でもあります。加えて、WANOKUNIのある県の県知事の姪というA級市民であったりもします。でも、障害のためにドローンから話しかけることが不可能なわけです。しかし、彼女がドローンの誘導に従ってシェルターに向かう中で、目が見えるのではないか、声や音が聞こえるのではないか、といった、まあ、何と申しましょうかで、障害者ではない、というか、障害を偽装している可能性を示唆する行動に出ます。結末は読むしかないのですが、軽く想像されるのではないかという気もします。私は、どうして要救助者の中川博美が視覚や聴覚を持っているかのような行動を示すのか、という謎を早々に気づいてしまいましたので、その分、私の感想はバイアスがかかっている可能性がある点をご注意下さい。ということで、視点が地上の安全地帯でドローンを操作する主人公の高木春生に限定されますので、それほど緊迫感を感じることができませんでした。まあ、視覚と聴覚のない要救助者の中川博美の視点が使えませんから、仕方ない面は理解します。、また、トリックの都合上、ドローンのカメラ機能が早々に壊れて、要救助者の様子が判らない、というのも緊迫感を欠きます。元々、ドローンのオペレーションなんて、ゲームをプレーするような感じではないかと想像していますが、それがさらに緊迫感を欠く結果となってしまいました。暴露系のユーチューバーも登場しますが、何のために出てきたのか、私にはサッパリ意味が判りませんでした。謎です。要救助者の中川博美の視点が使えないのと同じ理由で映像化も難しそうな気がします。その意味も含めて、ちょっと世間一般の高評価に比べると、私の見方は厳しいかもしれません。でも、要救助者の中川博美は、最後の最後ながら、とっても行動力あり爽やかでいいキャラだったんだと気づきました。ほかの読者が衝撃を受けたラストとは違うポイントに目が行っているかもしれません。繰り返しになりますが、どうして要救助者の中川博美が視覚や聴覚があるかのような行動を示すのか、という謎を早々に気づいてしまいましたので、その分、私の評価は厳しい目に振れるバイアスあると思います。悪しからず。そして、最後の最後に、ややアサッテを向いた感想ながら、これだけ地震が多くて活断層もアチコチに走っている日本で、この小説にあるような地下構造物はヤメておいた方がいいんではないかと思います。まったく同じことが原子力発電所についてもいえます。

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次に、西野智彦『ドキュメント 異次元緩和』(岩波新書)を読みました。著者は、時事通信のジャーナリストです。タイトルから判る通り、昨春に退任した黒田日銀前総裁の金融政策を振り返っています。世界でも前例の少ない異例の政策であったことは、本書のタイトルからもうかがい知ることが出来ます。逆にいえば、日本のマクロ経済が古今東西でも類例を見ないデフレにあった、ということです。よく、経済学には人間が出てこないといわれますし、私もその通りと考えているのですが、本書では金融政策をはじめとする経済政策の企画立案や決定などの背景にある人の動きがよく理解できます。特に、トップクラスの政府・中央銀行の人事については、私のようなキャリア官僚でありながらサッパリ出世しなかった者からすれば、目を見張るような驚きに満ちています。政策的には、黒田前総裁は白川元総裁からのゼロ金利を引き継ぎつつ、金利ターゲットから量的緩和へのレジームチェンジを果たすとともに、舞います金利やイールドカーブ・コントロール(YCC)などの非伝統的な手法を次々と導入しました。ただ、どうしても、黒田総裁の政策を評価する際には、本書では眼科医があるように思えてなりません。すなわち、私はアベノミクスの3本の矢の第1の金融政策、もちろん、第1であるだけでなく、圧倒的な重点が置かれていた金融政策とはいえ、アベノミクス全体での評価が必要と考えるからです。金融政策でデフレ脱却が十分でなかった大きな要因は、本書でも指摘されているように、3党合意に基づくとはいえ、2014年の消費税率引上げだろうというのが衆目の一致するところです。浜田先生なんかは、デフレ脱却のための財政政策の必要性について、考えを変えたと公言していたほどです。ただ、それでも黒田前総裁の異次元緩和を評価するとすれば、本書の最後の方にある雨宮前副総裁と同じ感想を私は持ちます。批判する向きには何とでもいえますが、この政策しかなかったという気がします。そのうえで、アベノミクスの評価が芳しくないのは、圧倒的に分配政策を欠いていたからであると私は考えています。よくいわれるように、アベノミクスではトリックルダウンを想定し、景気回復初期の格差拡大を容認していて、その後も分配政策の欠如により格差が拡大し続けた、と考えるべきです。特に、企業向け政策は株価を押し上げた一方で、国民向けの分配政策が欠如していたものですから、賃金引上げにつながる動きが企業サイドにまったく見えず、政策でも考慮されずで、国民が貧しくなっていったと私は考えています。ただ、この格差拡大について金融政策の責任を問うのは不適当です。私は異次元緩和に適切な分配政策が加わっていれば、デフレ脱却は可能性が大きかった、と考えています。もちろん、政策の重点の置き方に関する誤解や無理解に対する批判はあろうとは思います。ただ、繰り返しになりますが、異次元緩和だけではなく、より幅広くアベノミクス全体を評価することは忘れてはなりません。

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次に、ホリー・ジャクソン『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。この作品は三部作の3作目となっていて、1作目は『自由研究には向かない殺人』、2作目は『優等生は探偵に向かない』となります。この作品の最初の方は、当然ながら、2作目とのつながりが強いのですが、読み進むと1作目の方が直接的な関係が強い気がします。ややジュブナイルなミステリと見なす読者がいるかも知れませんが、まあ、立派な長編ミステリ作品です。ということで、簡単なストーリーは、主人公は相変わらずピップです。舞台は英国のリトル・キルトンというやや小さな街です。日本の高校、それもそれなりの進学校に当たるグラマー・スクールを卒業して大学に進学する直前の時期です。ピップはストーカーされているらしく、無言電話、首を落とされたハト、道路に描かれたチョークの人形、などに悩まされます。警察のホーキンス警部だったかに、相談しますが、まったく頼りになりそうもありません。というところからスタートします。2部構成ですが、ミステリですので、後は読んでみてのお楽しみ、ということになります。1作目も2作目も、基本的に、主人公のピップは犯罪行為、あるいは、犯罪行為とみなされた事件のリサーチを進めます。相棒はピップの恋人だったが1作目の発端となる自殺を遂げたサルの弟のラヴィです。そして、特に1作目ではかなり強気にリサーチを進めます。違法スレスレ、というよりも、ほぼほぼ違法な調査手段なわけです。この3作目でも基本は同じです。ただ、この3作目ではリサーチの枠を超えます。メチャクチャ大きく超えます。その意味で、第1部のラストは衝撃です。第2部はこの衝撃の第1部のラストの後処理となります。おそらく、この第1部ラストの出来事は評価や感想が大きく分かれると思います。私は否定的な評価・感想です。ただ、明らかに著者は警察や裁判をはじめとする英国の法執行機関や体制に対する大きな失望、というか、批判や不信感を持っていて、このような行動をピップにさせるのだろうという点は理解します。経済学の割と有名な論文に、2007年のノーベル経済学賞を受賞したハーヴィッツ教授の "Who Will Guard the Guardians?" というのがあります。本書を読んでいて、私はこれを思い出してしまいました。加えて、そのピップをとことんサポートするラヴィの姿勢には大きな共感を覚えます。出版順としてはこの3作目の後に、三部作の前日譚となるスピンオフ作品がすでに出ているようですが、明らかに、このシリーズはこれで打止めだと思います。主人公のピップに、従来通りの強気で違法スレスレのリサーチを続けさせるのはムリです。多くの読者の納得は得られないだろうと思います。最後に、三部作それぞれの出来ですが、1作目が一番だったと思います。その続きで2作目を読むと大きくガッカリさせられ、繰り返しになりますが、この3作目は評価が分かれそうです。私は共感しませんが、読者によっては1作目よりも高く評価する人がいても、私は不思議には思いません。
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2024年01月14日 (日) 15:00:00

綾辻行人『十角館の殺人』の実写映像化の試みやいかに?

今年2024年になってから、とても意外なことに、綾辻行人『十角館の殺人』の実写映像化の試みが明らかにされています。hulu のサイトにある『十角館の殺人』のトレイラは、わずか15秒ながら以下の通りです。


このミステリでは、大学ミステリ研究会の大学生が大分県沖合の島に渡っ角て十角館に泊まり、次々に殺害されていく、というストーリーで、島の方と本土の方の動向が交互に記述されて小説が進みます。島の学生たちはミステリ作家から取ったニックネームで呼び合い、本土の方ではフツーに氏名で呼び合うことがミスリードの源泉となっています。そして、俗にいう「驚愕の一行」があって、私なんぞは「エッ」となるわけです。しかし、実写画像化してしまえば、見た瞬間に犯人がバレバレになってしまいます。果たして、どう処理するのでしょうか。興味はありつつ、たぶん、あくまでたぶんですが、私自身は実写映像化された作品は見ないだろうという気がします。でも、そうはいいつつも、とても楽しみであることは確かです。
実に適当ながら、「読書感想文のブログ」に分類しておきます。
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2024年01月13日 (土) 09:00:00

今週の読書は環境経済に関する専門書のほか計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、野村総合研究所『排出量取引とカーボンクレジットのすべて』(エネルギーフォーラム)は、2050年を目処としたカーボンニュートラル達成のための排出量取引とカーボンプライシングの一環であるカーボンクレジットについて、いかにもコンサル会社らしく網羅的に情報を集めています。高橋祐貴『追跡 税金のゆくえ』(光文社新書)は、先進国の中でも異常に公的債務が積み上がっている日本の財政の、特に歳出についてのムダを一般財団法人を抜け穴にした予算支出のあり方に一石を投じています。吉田義男ほか『岡田タイガース最強の秘密』(宝島社新書)は、昨年2023年のシーズンにセ・リーグ優勝と日本一に輝いた阪神タイガースの強さの秘密を岡田監督の采配から探ろうと試みています。東海林さだお『パンダの丸かじり』(文春文庫)は『週刊朝日』に連載されていた食べ物に関するエッセイを収録しています。最後に、東海林さだお『マスクは踊る』(文春文庫)はコロナ前後のエッセイとともに、漫画の方も収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は先週5冊の後、今週ポストする5冊を合わせて計10冊となります。また、この5冊以外に、綾辻行人『十角館の殺人』も読んでいます。すでに、Facebookでシェアしてあります。

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まず、野村総合研究所『排出量取引とカーボンクレジットのすべて』(エネルギーフォーラム)を読みました。著者は、シンクタンクというか、コンサルタント会社であり、その野村総研のサステナビリティ事業コンサルティング部のスタッフが執筆に当たっています。タイトル通りに、カーボンニュートラルに向けて、二酸化炭素の排出権取引とカーボンクレジットという経済的な対策について網羅的に取りまとめています。今年に入って授業で不得手な農業と環境を講義する必要から、私も大学教員として、不断のお勉強を続けているわけです。ということで、本書でも指摘しているように、2018年4月に閣議決定された「第5次環境基本計画」においても、第1部第3章のp.13から始まる環境政策の基本的手法において7手法を上げていますが、大きく分けて規制的手法と経済的手法に分かれ、その経済的手法のうちでカーボンニュートラルを目指す政策手段の代表的なものが、 本書でいう排出権取引とカーボンクレジット、ということになります。排出権取引が数量アプローチであり、カーボンクレジットは価格アプローチです。カーボンクレジットの代表的なものがカーボンプライシングに基づく炭素税ということになります。数量アプローチの排出権取引は二酸化炭素排出量を確実にコントロールできる一方で、取引上で価格変動が十分ありえますのでビジネス上の不確実性が残ります。他方で、カーボンプライシングに基づく炭素税などの価格アプローチは、主として政府が炭素価格を税法で設定しますので、透明性が高くて価格固定のために安定したビジネス展望が開ける一方で、二酸化棚そ排出量のコントロールは確実ではありません。どちらもメリットとデメリットがあるわけで、本書ではその性格上、価格アプローチと数量アプローチのどちらかに軍配を上げることを明記しているわけではありませんが、世界の趨勢では炭素税などの数量アプローチが主流となりつつある、と私は感じています。特に、政府が炭素税を課す場合、透明性が高くて、しかも、いわゆる2重の配当が得られます。すなわち、炭素税の課税により二酸化炭素排出を減少させるとともに、税収をグリーン公共事業などに振り向けることが出来ます。二酸化炭素排出の量的コントロールは不確実かもしれませんが、税率の修正はそれほど、というか、少なくとも消費税率の引上げよりは国民的な合意が得られやすいように私は感じます。加えて、排出権取引については当初の排出権割当を行う際に、不透明性や利権が生じる可能性があるのではないかと危惧します。炭素税が税制の特徴からして一律に課せられるのに対して、排出権の割当は、過去の実績に基づくグランドファザリングにせよ、産業の技術特性に基づくベンチマーク方式にせよ、入札によるオークションを別にすれば、どうしても不透明性が残ります。最後に、私自身は大学の授業で取り上げてはいるのですが、環境政策に関して、例えば、国連のSDGsとか、日本政府の2050年カーボンニュートラルとかは、ハッキリいって懐疑的です。特に、我が国では2050年にカーボンニュートラ栂達成できるとは、まったく考えていません。まあ、私は2050年には90歳を超えますので見届けることはかないませんが、まあ、達成可能だと考えている人はどれくらいいるのでしょうか。政府の世論調査でも、例えば、2023年7月調査の「気候変動に関する世論調査」でも、2050年カーボンニュートラルが達成可能かどうかの設問はなかったように記憶しています。質問してはいけないのかもしれません。

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次に、高橋祐貴『追跡 税金のゆくえ』(光文社新書)を読みました。著者は、毎日新聞のジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、税金のゆくえ、すなわち、政府の歳出についての調査報道の成果を取りまとめています。5章構成であり、それぞれに歳出のムダを指摘しています。一般社団法人を使った電通やパソナなどによる中抜き、オリンピックマネーに注ぎ込まれた政府予算、コロナ対策として緊急性を重視したゼロゼロ融資の不透明性、消防団員への報酬が遊興費に消える昔ながらのしきたり、単年度で消化しきれない防衛費などを基金に積み立てる正当性、となっています。私は60歳の定年まで国家公務員をしていましたから、それなりにこういった予算の使い方を知らないわけでもなく、エコノミストとしてフツーに読み進みましたが、そうでなければ、大きな怒りさえ覚える読者がいそうな気がします。国民として、収めた税金がムダな有効に活用され政策に活かされているのかどうかは、当然に気にかかるところです。しかし、本書の著者による調査の結果は、政府予算の使い方には大いなるクダがある、というものです。電通やパソナが一般社団法人を「活用」して、政府からの収入を大いに中抜して収益を上げているのは、いっぱい報じられているところですし、オリンピックでは贈収賄までして私腹を肥やしている輩がいるのも事実です。コロナ禍の中で経営の苦しい事業者がいたのは事実ですし、救済の必要性は十分理解するとしても、それを悪用するチェックが不十分であるのも確かです。テレビドラマや小説の『ハヤブサ消防団』ではまったく言及されていないものの、地方の消防団員への報酬がジーサンの孫への小遣いに消えているというのショックでした。防衛費はロシアのウクライナ侵攻などに悪乗りする形で大幅な増額が決められてしみましたが、「基金」に積み立てる形で不十分なチェック体制のままに使われようとしています。ただ、本書で指摘されているような税金のムダ使いの大きな原因は、私は政府の公務員が少ないので、支出する政府の側のチェック機能が働いていないせいだと考えています。例えば、経済協力開発機構(OECD)の Government at a Glance 2023 p.181 にあるグラフ 12.1. Employment in general government as a percentage of total employment, 2019 and 2021 を見れば明らかな通り、日本の公務員は先進国の加盟する国際機関であるOECD平均の1/3に達しないくらい少ない水準です。これではチェック機能が行き届かないのは当然だと考えるべきです。本書で指摘するように、増税の前に排除すべき歳出のムダがあるのは確かですが、同時に、政府の機能も考える必要があります。

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次に、吉田義男ほか『岡田タイガース最強の秘密』(宝島社新書)を読みました。著者は、一応、経緯を表してなのでしょうが、何を見ても吉田義男をトップに持って来ていますが、収録順でいうと、掛布雅之、江本孟紀、金村曉、吉田義男、赤星憲広、田淵幸一、改発博明、ということになります。最後の方以外はすべて阪神タイガースOBで有名な方ばかりですが、最後の方は阪神タイガースに好意的な報道を旨とする「デイリースポーツ」のジャーナリスト、いわゆるトラ番記者から社長も務めています。ということで、昨年2023年シーズンにセ・リーグ優勝、そして、パ・リーグ覇者のオリックスを下して日本一に輝いた阪神タイガースについて、特に、タイトル通りに岡田監督の焦点を当てつつ論じています。まあ、阪神ファンであれば、あるいは、それなりのプロ野球ファンであれば、シーズン中からシーズン終了後に聞いたようなトピックばかりですが、改めて振り返るのも、阪神ファンには心地よいものです。岡田監督を褒め称える場合、水際立った試合の采配があります。当然です。横浜戦で代打で左投手を引っ張り出しておいて、代打の代打で原口選手を送ってホームランを打ったり、ジャイアンツ戦で初先発した村上投手を7回パーフェクトのまま交代させたり、あるいは、特に最終盤の日本シリーズでは、初戦で佐藤輝選手に初球から盗塁させて先取点を奪って、結果的に、日本でナンバーワンと目されていた山本由伸投手から大量点を上げ、また、第4戦では長らく戦列を離れていた湯浅投手を起用して甲子園の雰囲気を一変させてサヨナラ勝ちに持ち込んだりといったところです。ただ、私が注目したのは、これも言い尽くされた感がありますが、得点力向上のためのフォアボールの重視です。しかも、単に選手指導で「フォアボールを重視せよ」というだけではなく、球団の査定システムとしてフォアボールのウェイトを大きくするという制度面での改革に持ち込んだ点が重要と私は考えています。常々、エコノミストとしての私の主張は、気持ちやココロの持ちようだけでは何の解決にもならない、とまではいわないものの、本格的な対策や政策としては、制度的な裏付け、法令による規制、などといったシステムの変更が必要である、というものです。交通安全を願うココロだけでは交通事故死は減少しません。信号や横断歩道や歩道橋を設置し、スピード制限を設けて、加えて、違反した場合の罰則を法令で決めなければ実効ある交通安全対策にはなりません。こういった私のエコノミストとしての従来からの主張が、岡田タイガースのフォアボールの査定アップで証明されたと感じています。

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次に、東海林さだお『パンダの丸かじり』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、本書は『週刊朝日』に連載されていた「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムのうち、2018年1-10月掲載分を収録しています。単行本は2020年11月の出版でその文庫化です。出版社によれば、食べ物エッセイ「丸かじり」シリーズの第43弾だそうです。ということで、コラムのタイトル通りに、食べ物エッセイです。ただ、人間が食べるものだけではなく、これまた、タイトル通りに、パンダの食べる笹も含まれていたりします。すべては網羅できませんが、取り上げられている食べ物は、かっぱ巻き、七草粥、芋けんぴといった食品、というかすでに食べられる状態になっているものから、鶏むね肉などの素材まで、いろいろとあります。すべてのエッセイに1編2-3枚の挿絵があるのは漫画家ならではの特技を活かしているといえます。余りに話題が多岐に渡っているので、本書の方向性と異なる2点だけ指摘しておくと、まず、ビビンバです。いうまでもありませんが、丼や炊いたご飯とナムルや肉や卵などの具を入れ、よくかき混ぜて食べる料理です。本書の「ビビンバ」ではなく、「ビビンパ」と表記される場合がありますが、私は本書と違って後者の「ビビンパ」と書くのが正しいと思っています。というのは、「ピビン」が「混ぜ」の名詞形で、「パプ」が「飯」の意味となっていて、韓国の文化観光部2000年式のアルファベット表記でも "bibimbap" となるからです。次に、うどんの麺の太さを選ぶ際の無意識の根拠として、心細い時は細麺、心丈夫で心太い時は太麺、普通の時は並麺、というのは、さすがにあんまりだという気がします。まあ、そういった批判的精神を維持しつつ、心安らかに、また、心穏やかに読むべきエッセイだというのは確かです。

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次に、東海林さだお『マスクは踊る』(文春文庫)を読みました。著者は、漫画家、エッセイストであり、本書は『オール読物』の「男の分別学」に収録されていたエッセイ、また、『週刊文春』の「タンマ君」に連載されていたマンガについて、それぞれ2019年から2020年の期間のものを抄録しています。ですので、2020年のコロナ後のエッセイを含んでいますので、タイトルや表紙のようにマスクが登場するわけです。なお、エッセイだけではなく、対談も2本収録されています。エッセイや対談の方にも挿絵が数枚入っています。漫画の方はタンマ君がサラリーマンですから、そういった現役世代の中年を主人公に描かれている一方で、エッセイの方はかなり高齢者を重点にしている印象です。対談のテーマも認知症だったりします。特に、エッセイの後半はコロナの時代に入っているようで、パンデミックのころの運動としてクローズアップしている散歩については、日本人的に何でも「道」に仕立て上げて、散歩道としていろんな散歩を類型化しています。もちろん、マスクについても顔が半分ほども隠れるので、目と口で作られる表情について、なかなかに鋭い指摘をしていたりします。コロナ前と思しきバドミントンをディスるエッセイは、私には理解できませんでした。
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2024年01月07日 (日) 09:00:00

今週の読書は年始に経済書なく計5冊

今年初めての読書感想文は以下の通りです。
まず、川上未映子『黄色い家』(中央公論新社)は、アラフォー女性と20歳前後の女性3人による4人の奇妙で合法違法ギリギリの生活を実にリアルに描き出したノワール小説です。奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)は、17年振りに帰って来た精神科医伊良部医師のシリーズの短編集で、相変わらず、患者として伊良部医師を訪れた善良な人間が伊良部とマユミに振り回されつつも治療ははかどります。永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)は、芝居小屋のある木挽町の仇討ちについて目撃者のモノローグから真相を明らかにしようと試みる時代小説です。小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』と鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)は合わせて15人の豪華なホラー作家の執筆陣により、いわゆる怪物の出現しないモダンホラー短編を集めたアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は5冊から始まりました。

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まず、川上未映子『黄色い家』(中央公論新社)を読みました。著者は、芥川賞も受賞した作家です。本書については出版社も力を入れているのか特設サイトが開設されたりしています。通常、「黄色い家」といえば、ゴッホの絵画作品 La Maison Jaune だと思っていましたが、「朝日のあたる家」The House of the Rising Sun と同じで、何か特別な意味を含ませているのかもしれません。ということで、主人公は伊藤花という2020年時点でアラフォーの女性、結婚しているという言及はなく、総菜屋で働いています。ひょんなことで、母親と同年代の友人で、花からは20歳ほど年齢が上になる吉川黄美子が逮捕されたというニュースを見かけます。20年ほど前に、同年代の加藤蘭と玉森桃子とともに4人で暮らしていたことがあるので、まだ携帯電話に残っていた加藤蘭に連絡して相談したりしますが、加藤蘭は取り合ってもくれず、逆に、「若気の黒歴史」といわれて、警察に通報するなどを固く禁じられた上に、携帯電話の登録を消去するように要求されたりします。そして、ここから主人公である伊藤花の長い長い回顧が始まります。10代半ばの高校生であったころに始まり、世紀末1999年を過ぎて4人の共同生活が解消されるまでです。花は東村山のアパート暮らしの母子家庭から抜け出して、黄美子とともに三軒茶屋で生活を始めます。スナック「れもん」を経営し、キャバクラをやめた蘭もいっしょに生活するようになってともに働きます。高校生の桃子もその三軒茶屋の家に入り浸るようになって、事実上の4人での共同生活が始まります。アパートから一軒家に引越したりします。しかし、火事でスナックが焼けて収入の道が途絶え、不法行為で稼ぐようになります。最初はスキミングされた銀行の偽造カードを使った出し子だったのですが、スキマーを銀座の高級バーに設置して情報を入手する側に回ります。このあたりで、まあ、もともとが未成年でスナックで酒を飲んでいたころも、偽造カードでATMから出金していたのも違法ではあるのですが、小説としては、第10章のタイトルを「境界線」としているように、明らかに一線を越える活動を始めます。そして、伊藤花と加藤蘭と玉森桃子の3人は決裂し、共同生活が終わります。伊藤花は母親の死後、母親が借りていたアパートに住んで、現在の2020年を迎える、ということになります。出版社のセールストークでは「ノンストップ・クライム小説」ということで、確かに、600ページ余りの膨大なボリュームながら、一気に読むべき作品であろうという気はします。作者の力量だろうと思いますが、とても読みやすくてテンポよく、一気に読めます。ですので、「ノンストップ」の部分は了解です。でも、「クライム」かどうかは読者の見方によります。私は犯罪小説というよりはノワール小説ないし「貧困小説」に近いと受け止めました。ちらちらとみていた再放送の「VIVANT」でもそうでしたが、貧困がテロにつながる温床となるのと、まったく同じように、貧困が犯罪につながると考えるからです。今までの川上未映子の作品とは大いに異なる大作です。

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次に、奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)を読みました。著者は、小説家です。アノ伊良部医師シリーズ第4弾です。もう、このシリーズは紹介するまでもないのですが、精神科医の伊良部が看護師のマユミとともに患者を振り回して大活躍する短編集です。出版社のサイトによれば、伊良部は17年ぶりの復活だそうです。ということで、収録短編はあらすじとともに以下の通りです。まず、「コメンテーター」では、コメンテーターが診察に来るのではなく、コロナ禍で精神科医のコメンテーターを探しているテレビ番組のスタッフが、ひょんなことから伊良部と会って、伊良部自身がテレビのコメンテーターになります。これまでのお決まりのパターンは、患者が伊良部の診察に来て、その患者が伊良部に振り回される、というのでしたが、少し展開が違っています。少し展開が違うのはもう1話あります。「ラジオ体操第2」では、煽り運転の被害にあった男性が過呼吸に陥り、伊良部のところに診察に来て、アンガー・マネージメントができていないと診断されます。同じシリーズである『空中ブランコ』の「ハリネズミ」の主人公である尖端恐怖症の猪野が元ヤクザとして登場します。「うっかり億万長者」は、デイトレードで億万長者になりながら、公園で犬に噛まれてしまい、伊良部のところに運び込まれます。伊良部はパニック障害と診断し、その上、億万長者と知って往診に精を出します。「ピアノ・レッスン」では、コンサート・ピアニストが広場恐怖症になり、飛行機はもちろん、新幹線での移動もままならなくなります。そして、なぜか、キーボード奏者の抜けたマユミのロックバンドに参加することになります。「パレード」では、山形から東京に出てきた大学生が、リモート授業から対面授業に切り替わっていく中で、異変を来して社交不安障害と診断されます。伊良部病院の関連の老人施設で中学生とともに、治療と称してボランティアをさせられます。総じて、伊良部の17年ぶりの復活を評価する読者が多いようで、私もその1人です。ただ、あらすじにも書きましたが、今まではすべて患者として伊良部にところにやってきて、その患者が伊良部に振り回される、というお決まりのパターンだったのですが、この作品では、表題作のように医者のコメンテーターを探してテレビ局からやってくる、とか、億万長者のもとに伊良部がせっせと往診するとか、今までにはないパターンも試みられていますし、以前の作品の患者で伊良部に振り回された人物が登場する例もあり、これも初めての試みではないかと思います。伊良部自身はほぼほぼ進化していないのですが、作者はいろいろと試行錯誤して、もちろん、時代背景からしてコロナのトピックも盛り込みながら、小説としては、ひょっとしたら、進化しているのかもしれません。いや、進化しているのだろうと思います。

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次に、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)を読みました。著者は、小説家です。本書についても直木賞受賞により出版社が力を入れているのか、特設サイトが開設されたりしています。ということで、芝居小屋のある木挽町で新春早々、ど派手に森田座裏通りで、伊能菊之助が仇とする作兵衛を討ち果たします。そして、本書では、菊之助の国元から侍が上京して、木挽町で目撃者から聞取りをする、その目撃者のモノローグで構成されています。最初は、木戸芸者の一八、次に、立師の与三郎、女形の衣装係のほたる、小道具職人の久蔵とその妻のお与根、筋書の金治といった、芝居小屋の関係者というわけです。こういった聞取りから、菊之助の仇討ちの実態が徐々に明らかになるとともに、芝居小屋の関係者の来し方の人生も浮き彫りになっていきます。そして、この仇討の真相が背景とともに明らかにされます。ですから、この作品は明らかにミステリと考えるべくです。ただ、誰がやったのかの whodunnit やどうやったのかの howdunnit は明らかに見えます。菊之助は作兵衛を討ち果たして首級まで上げていますから、何をやったのかの whatdunnit もご同様です。ですので、なぜやったのか whydunnit に意識を集中して読んでいたのですが、実は、もっと奥深い仇討であったことが明らかになります。なぜなら、木挽町の芝居小屋の関係者に当たった後、聞取りをした侍は国元に帰って、菊之助ご本人から真相を聞き出しているからです。驚くべき真相で、しかも、その前の芝居小屋関係者からの聞取りの中に、伏線が大いに仕込まれていることが明らかになります。私はこの作品はミステリだと思いますので、あらすじの紹介はここまでとします。最後に2点指摘しておきたいと思います。まず、「仇討ち」の表記についてです。少し前に読んだ長浦京『リボルバー・リリー』では、タイトルは「リボルバー」なのですが、小説の中では一貫して「リヴォルバー」と表記されていました。本作品もよく似ていてタイトルは「あだ討ち」ですが、小説の本文ではほぼほぼ一貫して「仇討ち」とされています。この書分けは理由があります。本書の最後で明らかにされます。なかなかの趣向だったと私は受け止めています。次に、関係者から聞取りを行ったモノローグにより真相を明らかにするという小説としての手法は、松井今朝子『吉原手引草』がすでに試みており、花魁失踪の謎を廓の関係者から聞いて回るという形で、十数年前の直木賞を受賞しています。ですから、この作品は時代小説の手法としては、まあ、悪いんですが、二番煎じです。その上、『吉原手引草』は私の記憶にある限り、10人をはるかに上回る聞取りをしていますが、この作品はそれほど手はこんでいません。それだけに、真相の鮮やかさに目を奪われます。一級のミステリに仕上がっています。

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次に、小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)を読みました。著者たちは、小説家です。全員がホラー小説に特化した小説家ではありませんが、そういう小説家も少なくない気がします。2冊合わせて15人の作家によるホラー短編小説のアンソロジーです。ということで、まず、収録されている短編の作者とタイトルほか、カッコ内は初出、にあらすじについては、以下の通りです。すなわち、まず、小野不由美ほか『七つのカップ 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)については、小野不由美「芙蓉忌」(『営繕かるかや怪異譚 その弐』角川文庫)は、うら若き女性の死霊に魅入られた男性の主人公の何ともいいがたい心理状態を実に巧みに描き出しています。続いて、山白朝子「子どもを沈める」(『私の頭が正常であったなら』角川文庫は、高校生のころにいじめて、結果的に自殺した同級生JKそっくりの顔の赤ん坊を産んでしまい、その赤ん坊を殺してしまうかつてのJKのいじめる側の悲劇を取り上げいます。続いて、恒川光太郎「死神と旅する女」(『無貌の神』角川文庫は、大正時代を舞台に、死神から命じられるままに殺人を繰り返す少女フジを主人公に、死神フジにが与えた分岐点を境に、大きな時代の流れを取り込んだスケール大きなホラーです。続いて、小林泰三「お祖父ちゃんの絵(『家に棲むもの』)角川ホラー文庫は、孫に語って聞かせる祖母のモノローグの形を取りながら、祖母自身の結婚や生活を狂気を持って明らかにします。続いて、澤村伊智「シュマシラ」(『ひとんち』光文社文庫は、播州のUMAといわれる猿の一種であるシュマシラを探すマニアが異界に入ってしまうタイプのホラーです。続いて、岩井志麻子「あまぞわい」(『ぼっけえ、きょうてえ』角川ホラー文庫は、作者得意の明治期の貧しい岡山を舞台にしたホラーで、漁師夫婦が網本家の倅を殺害した悲劇を題材にしています。最後の表題作で、辻村深月「七つのカップ」(『きのうの影踏み』角川文庫は、信号のない交差点の横断歩道で子供を交通事故で亡くした女性が、その交差点で通学の小学生を見守りつつ、石を詰めたカップを置くという行為に秘められた恐怖をテーマとして、現在の都市伝説にも通ずるホラーです。続いて、鈴木光司ほか『影牢 現代ホラー小説傑作集』(角川ホラー文庫)については、まず、鈴木光司「浮遊する水」(『仄暗い水の底から』角川ホラー文庫)は、お台場に引っ越した母子家庭の母親が、マンション屋上でキティちゃんのバッグを拾ったところから異変が始まり、水の味の異変から同じマンションで少し前に行方不明になった少女の事故について推理します。続いて、坂東眞砂子「猿祈願」(『屍の聲』集英社文庫)は、不倫の末に結婚・妊娠にたどり着いた女性が、夫の母親に挨拶に行った際に見たのぼり猿とくだり猿の本当の意味を知るホラーです。続いて表題作で、宮部みゆき「影牢」(『あやし』)は、江戸時代の蝋問屋を舞台に、堅実で繁盛していたお店が代替わりで大女将を座敷牢に入れ、だんだんと狂気に包まれていく中で、毒物により主人一家が死んでしまう過程を大番頭が八丁堀の与力に語るモノローグです。続いて、三津田信三「集まった四人」(『怪談のテープ起こし』集英社文庫)は、諸対面お3人と登山をすることになった主人公なのですが、そもそもリーダーとなる唯一の知り合いが来なくなり、そのまま異界に入り込むような体験をします。続いて、小池真理子「山荘奇譚」(『異形のものたち』角川ホラー文庫)は、大学のお恩師の葬式で立ち寄った甲府の鄙びた旅館に関する怪異を主人公の属するテレビ業界で別の会社の女性に知らせたところ、その女性が取材に行って行方不明になるという奇怪な経緯をたどります。続いて、綾辻行人「バースデー・プレゼント」(『眼球綺譚』角川文庫)は、クリスマスと同じ日に誕生日、それも今年は20歳の誕生日を迎える女性が、クリスマスパーティーで奇怪なプレゼントを受け取るという幻想的なホラーです。続いて、加門七海「迷(まよ)い子」(『美しい家』光文社文庫)は、初老に差し掛かる夫婦2人が皇居から東京駅の地下のあたりで、現在と戦中の時代を、また、あの世とこの世の境を彷徨います。続いて、有栖川有栖「赤い月、廃駅の上に」(『赤い月、廃駅の上に』)は、自転車旅に出た高校生が旅の連れ合いとともに寝袋で駅寝するのですが、この世のものではない存在に襲われます。2冊に収録されている短編計15話を一挙に紹介しましたので、とてつもなく長くなりました。いわゆるモダン・ホラーとして有名な作品ばかりで、私は既読の作品も少なからずあります。でも、再読して十分楽しめました。何といっても、角川書店はホラー小説に力を入れている出版社のひとつですし、その昔、私は角川書店のモニターになっていて、澤村伊智のデビュー作であり、第22回日本ホラー小説大賞を受賞した『ぼぎわんが、来る』は、出版前のゲラ擦りの段階で送っていただいて、それを読んで感想を送ったりした記憶もあります。この2冊については、モダン・ホラーとして、いわゆる「怪物」が出てこないホラー小説を中心に朝宮運河が編集しており、最後の解説も担当しています。一昨年2022年と昨年2023年には年末に「ベストホラー2022」と「ベストホラー2023」をツイッタ上で公表していたのを私は見かけています。ホラー小説のファンであれば、必読の2冊です。これがシリーズ的になって3冊目が出版されるのかどうか、私は不勉強にして知りませんが、もしも継続されるのであれば、版権の関係もあるとはいえ、貴志祐介と今邑彩の作品を収録すべくお願いしたいと思います。
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2023年12月30日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書なしで6冊読んで年間読書は227冊

今週の読書感想文は以下の通りです。年末最後の読書では、とうとう経済書を読みませんでした。少し体調を崩していましたので、ごく簡単に以下の通りのレビューです。
まず、今野敏『署長シンドローム』(講談社)は、竜崎と伊丹を主人公とする「隠蔽捜査」シリーズの一環ながら、大森署の藍本署長を主人公として、その美貌とほんわかとした雰囲気で周囲のおっさんをメロメロにするミステリです。織守きょうや『幻視者の曇り空』(二見書房)は連続殺人犯を追い詰めた主人公なのですが、最後の最後に大きなどんでん返しがあります。上野千鶴子・髙口光子『「おひとりさまの老後」が危ない!』(集英社新書)では誰しも迎える老後、特に介護について東大名誉教授の社会学者と介護施設の経験豊富なケアマネが対談します。三浦展『孤独とつながりの消費論』(平凡社新書)は、コロナ禍の中での孤独化をキーワードに、消費の方向性を議論しています。特に、古着をはじめとするビジネスについても論じています。岡田晃『徳川幕府の経済政策』(PHP新書)では、元禄バブルを経て幕府財政が逼迫してからの諸改革を財政だけではなく通貨改鋳、新田開墾や通商政策も含めて幅広く解説しています。瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(文春文庫)では、月経前症候群(PMS)の女性とパニック症候群の男性がお互いを思いやって、誰もが抱える可能性のある困難に立ち向かう勇気を与えてくれる小説です。最後に、新刊書ではなく、もう3年半あまりの前の出版ですで、ここには取り上げませんでしたが、藤野可織『ピエタとトランジ 完全版』(講談社)も読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。
ということで、今年の新刊書読書は227冊となります。ほとんどをFacebookでシェアしていると思います。

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まず、今野敏『署長シンドローム』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ、特に、警察小説の人気作家です。本書は、竜崎と伊丹を主人公とする「隠蔽操作」シリーズとして位置づけられるのですが、竜崎が電話の向こう側に登場するだけで、伊丹の方は名前すら登場しません。では誰が主人公かというと、竜崎の後任として大森署の署長として赴任した藍本小百合になります。そして、語り手は大森署副署長の貝沼です。藍本署長はその超絶な美貌とほんわかとした天然の雰囲気で、男社会の警察において周囲のおっさんをメロメロにして要求を通すという、最終兵器的な抜群の強さを発揮します。ストーリーは、アジア系と南米系のギャングが東京湾で武器や薬物の取引をするという情報に基づいて大森署に前線本部が設けられ、無事に取引を阻止しギャングを逮捕したのですが、警察や厚生労働省の麻薬取締官を絶望に追い込むような取逃がしが発覚し、その最後の後始末に当たるという形で、最後の方のどんでん返しがあります。また、藍本署長だけでなく、大森署に新たに配属された山田刑事がとんでもない能力を発揮したりします。藍本署長の判断は極めて的確で、前の竜崎の合理的な判断を彷彿とさせます。私はこのシリーズについては前々から大好きだったのですが、本書もとってもおススメです。最後の最後に、映像化するなら誰が適任かと考えてみます。決して鋭いタイプではなく、ほんわかした雰囲気で、しかも、破壊力ある美貌ですから、30代半ば後半なら北川景子か、はたまた、佐々木希か、といったところでしょうか。

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次に、織守きょうや『幻視者の曇り空』(二見書房)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私はこの作家の作品は少し前の『花束は毒』しか読んだことがなくて、その作品では最後の舞台反転というか、どんでん返しがものすごく見事であったことに感激した記憶がありますが、この作品でも最後の最後に何ともいえないどんでん返しが待ち受けています。ストーリーは、タイトル通りに幻視者である久守一という大学生を主人公に、ホームレスなどに対するボランティア活動を行う団体を舞台に進みます。主人公はこの団体の手伝いを時折するだけで、正式なメンバーというわけではありません。そして、その団体に美大生でやや得体のしれないグレーヘアの男性が加わります。主人公は身体的な接触で幻視するのですが、その美大生の視点で人が殺される場面を幻視します。世間で話題になっている連続殺人事件とよく一致する場面を幻視することになります。しかし、主人公は幻視が未来を見ていることに気づき、次の殺人を防ぐべくいろいろと考えをめぐらせて工夫します。そして、最後に殺人者がナイフをふるって殺人を行おうとする場面に直面し、連続殺人犯は警察に取り押さえられます。しかし、このラストがすごいです。ジェフリー・ディーヴァーの長編ミステリのようにジャカスカ登場人物がいるわけではなく、これだけ登場人物が少ないにもかかわらず、しかも、語り手の主人公が未来のこととはいえ幻視できるにもかかわらず、ここまで犯人像を大きく反転させるプロットは、ミステリ作家としての著者の並々ならぬ実力の現れではないかと思います。この作者の作品を少しフォローしたい気がします。

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次に、上野千鶴子・髙口光子『「おひとりさまの老後」が危ない!』(集英社新書)を読みました。著者は、東大名誉教授の社会学者と介護の専門家であり、両者の対談を収録しています。上野教授の方はかねてより「おひとりさま」の老後について発言をしていて、本書では、対談相手の高口さんがその老後の介護の現場の見方や意見を述べています。広く知られている通り、介護保険制度の創設から20年超を経て、度重なる制度の改悪と待遇改善が滞っているため、介護現場は疲弊し利用者は必要なケアを受けられなくなりつつあります。上野教授は「在宅ひとり死」の提唱者なのですが、介護施設のプロフェッショナルとの対談により、長寿社会において誰もが迎える老後と、その介護のあり方に関して、何が重要かを浮き彫りにしています。

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次に、三浦展『孤独とつながりの消費論』(平凡社新書)を読みました。著者は、マーケターを本質としつつ、『下流社会』がベストセラーになっていて、消費分析も幅広く手がけています。本書では、主としてアンケート調査結果の独自データの活用もしつつ消費の最前線における分析を展開しています。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の影響により、国民の孤立化が進み、本書でいうところの「孤独」に基づく消費が増えているのは事実だろうと私も考えています。ただ、事例レポートで展開されているような古着ビジネスが経済社会のカギになるとは、さすがに私は考えていません。古着は確かにSDGsや循環型社会のひとつのありようではありますが、何か、本質的な要素が本書には抜けているように感じられてなりません。ただ、私の感覚が古いだけかもしれませんが、消費のカギとなる何かをエコノミストとして今後とも考えたいと思います。

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次に、岡田晃『徳川幕府の経済政策』(PHP新書)を読みました。著者は、日経新聞やテレビ東京で活躍したジャーナリストです。徳川幕府が成立したのが1603年の家康の征夷大将軍就任ですから、その後の天下泰平の時代における江戸の天下普請、そして、江戸に限らず各城下町の普請という地方公共事業に始まって、元禄バブルを経て、いずこも同じ財政逼迫により引締め政策が取られるという経緯があります。しかし、他方で、通貨改鋳により「出目」といわれる通貨発行益を手にするとか、あるいは、今でいうリフレ清濁に近いような金融政策が実行されたりもしています。本書で取り上げるのは、荻原重秀による積極財政と金融緩和、それを批判した新井白石による正徳の治の緊縮財政と金融引締め、享保の改革を主導した徳川吉宗による緊縮財政と金融引締め、しかし、享保の改革の後半では金融は緩和に転じます。田沼時代には金融緩和を継続し、積極的な成長政策も講じられ、松平定信による寛政の改革では復古主義に基づいて緊縮財政と金融引締めに転じた後、田沼の縁戚に連なる水野忠成が積極財政と金融緩和に戻すものの、徳川期最後の改革である天保の改革では水野忠邦が寛政の改革を手本に緊縮財政と金融引締めを実行する、という流れになります。もちろん、財政と金融だけではなく、株仲間による積極的なビジネス展開の支援、新田開墾による供給力の強化、蝦夷地の開発を通じたロシアとの交易をはじめとする貿易制限の緩和や強化などなど、さまざまな幕府の経済政策がいろんな転機で方向性を変えつつ実施されていくさまがよく理解できます。また、当時のことですから、現在のような純粋な経済政策ではなく、「武士たるものかくあるべし」といった倫理面の重要性も解説されています。

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次に、瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(文春文庫)を読みました。著者は、大阪出身の小説家です。本書を原作として、松村北斗と上白石萌音のW主演にて映画化が決まっています。来年2024年2月の封切りだそうです。ということで、PMS(月経前症候群)で感情を抑えられず、月経前には些細なことに怒りを爆発させる30歳過ぎの女性と、希望していたコンサル会社に勤めながらも、パニック障害になり生きがいも気力も恋人も失った20台半ばの男性を主人公に、交互に視点を入れ替えつつ物語は進みます。ある意味では、人生に絶望しつつも、まだまだ若い年代ですので、何とかしようという意欲も随所に感じられる主人公2人です。特に、女性の虫垂炎による入院から物語は大きく変化し始めます。主人公2人の奮闘を、中小企業の社長をはじめとする周囲では温かく見守り、そういった場面を作者はリアルに、時にユーアをもって描き出しています。PMSにせよ、パニック症候群にせよ、ごく一部の限られた人たちに限定された問題と考えがちですが、場合によってはこういった病気に限らず、誰もが抱える可能性がある困難に立ち向かう人に勇気を与えるストーリーです。多くの方にオススメします。
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2023年12月23日 (土) 09:00:00

今週の読書はいろいろ読んで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、夫馬信一『百貨店の戦後史』(国書刊行会)は、すでに閉店・廃業した百貨店を対象に、華やかだった戦後の百貨店の歴史をひも解いています。田村秀男・石橋文登『安倍晋三vs財務省』(扶桑社)では、安倍晋三元総理大臣の政策決定過程における財務省との関係を、ややバイアスありながらも、解説しようと試みています。ジェフリー・ディーヴァー『真夜中の密室』(文藝春秋)は、ニューヨークを舞台に深夜に1人暮らし女性の部屋を解錠して忍び込むロックスミスにリンカーン・ライムが立ち向かうシリーズ第15作です。福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)は、『紫式部日記』から来年のNHK大河ドラマ主人公の紫式部の実像に迫ります。山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)では、短歌から平安貴族の恋と職業、さらに、老いと死までの悩みを明らかにしようと試みています。鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)は、大きく低下した日本の食料自給率を向上させ、地政学的リスクや食料安全保障の観点から農業の振興と食糧生産の増加を目指す政策について考察しています。最後に、青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)は、福島第一原発のメルトダウンなどの経験から地震多発国日本における原発のリスクを考え、どうして日本は原発の停止・廃止に踏み切れないのかについて議論しています。年末ですので、ベスト経済書の関係では、私の勤務校の大橋陽教授と中本悟教授が共編者として2023年7月に刊行した『現代アメリカ経済論』(日本評論社)が、『ダイヤモンド』のベスト経済書ランキングで第16位に入り、大学のサイトでも取り上げられています。私はこの共編者2人とも親しいのですが、つい昨日、共編者のうちのお1人と顔を合わせて、「ベスト経済書に入れておいてくれた?」と聞かれたので、「はい、3番目でしたが入れておきました」とお答えしておきました。同じ『ダイヤモンド』12月23-30日合併号のベスト経済書特集で、ランキング2番めに入ったブランシャール『21世紀の財政政策』を取り上げたページp.227に私の書評が数行ながら、末端に氏名入りで紹介されているらしいです。ご参考まで。人に教えてもらっただけで、いまだ、見本誌が届かないので、また、日を改めてベスト経済書を取り上げるかもしれません。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、交通事故で3か月近く入院した後、6~11月に153冊を読みました。ですので、11月までに197冊、そして、12月第1週に6冊、第2週に6冊、先週第3週に5冊、そして、今週7冊で計221冊となりました。

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まず、夫馬信一『百貨店の戦後史』(国書刊行会)を読みました。著者は、ジャーナリストないしエディターだと思います。我が国現代史の書籍を何冊か取りまとめているようです。本書では、タイトルの通りに百貨店=デパートの戦後史に注目しています。戦後を6期に分割し、高度成長の1960年代、石油危機が日本経済の曲がり角を示唆していた1970年代、バブル前夜とバブル経済期の1980年代、バブル崩壊後の世紀末の時代に当たる1990年代、そして、2000年代と2010年代です。もちろん、百貨店の開店は大正ないし戦前期の昭和というお店も少なくありませんが、本書の特徴のひとつは、すでに閉店した百貨店だけを収録している点だと思います。すなわち、収録順に東急百貨店東横店(東京都渋谷区)、前三百貨店(群馬県前橋市)、伊万里玉屋(佐賀県伊万里市)、丸正(和歌山県和歌山市)、中合福島店(福島県福島市)、岡政/長崎大丸(長崎県長崎市)、棒二森屋(北海道函館市)、松菱本店(静岡県浜松市)、土電会館/とでん西武(高知県高知市)、五番舘/札幌西武(北海道札幌市)、小林百貨店/新潟三越(新潟県新潟市)、大沼山形本店(山形県山形市)となります。冒頭の序章で、2020年3月末日を持って閉店する東急百貨店東横店から始まるのですが、ハッキリいって、この東急百貨店東横店を除いて、私は知らない百貨店ばっかりです。首都圏の一都三県、関西の京阪神、名古屋圏の百貨店はほとんど入っていません。私が見知っている唯一の例外は、長崎大学に2年間単身赴任していましたので、長崎大丸だけです。お給料の振込みを長崎地場の地銀ではなく、東京勤務時のメガバンクにしていましたので、長崎市内唯一のそのメガバンクの支店の近くに長崎大丸があったことを記憶しています。なお、百貨店の名称から理解できる通り、大丸と西武が見られるくらいで、高島屋やそごう、ほかの都市部を走る電鉄系の百貨店はみられず、鉄道系も含めて地場の百貨店が中心となっています。そして、本書のもうひとつの特徴としては、物販の面から売上げや消費だけに着目するのではなく、地域の雇用の場としての働いていた人々にも目を配り、あるいは、イベントや催し物、また、食堂や屋上のミニ遊園地としての文化的な要素にも大いに着目しています。地味なオフィス勤務と違って、百貨店はそれなりに華やかな職場でしょうし、客としてお出かけするにしても、当時は、それなりに着飾って行くべき場所だったような気がします。もっとも、私個人としてはそれほど裕福な家庭の出身ではありませんでしたから、たぶん、私の父親はデスクワークなんてしたこともないくらいでしたから、実体験として百貨店に着飾って出かけた記憶はほとんどありません。昭和初期に地域の期待を背負って県知事や市長、あるいは経済界の重鎮を招いて開店セレモニーを挙行し、その後、敗戦を経て高度成長期に復興したとしても、1970年代の2度に渡る石油危機でダメージを受け、1980年代後半のバブル経済期に一息ついたものの、バブル崩壊後から長期に渡って百貨店の売上げは低迷を続けます。1990年代後期からのデフレ経済、2008年のリーマン証券の破綻、そして、2020年の新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミック、などなど、たんねんな資料の分析とインタビューに基づいて百貨店の戦後の歴史をひも解いています。歴史資料としての価値も十分あり、本書冒頭の20ページ近くはカラー図版ですし、本文中も、いくつかの例外を除けば、見開き右ページに本文、左ページにモノクロの図版、という構成になっています。最後の最後に、どうでもいいことながら、太田愛子『天井の葦』でひとつのカギとなる山手線の上を走るケーブルカーの図版が収録されています。これはこれで感激しました。

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次に、田村秀男・石橋文登『安倍晋三vs財務省』(扶桑社)を読みました。著者は、日本経済新聞と産経新聞のジャーナリストです。タイトルなどから軽く想像できることと思いますが、ひたすら、安倍晋三元総理大臣を持ち上げて、財務省をディスっています。ネットスラングで「アベガー」というのがあり、安倍元総理やその支持者などに対して脊髄反射的な嫌悪や反対を示す人々だと私は認識していますが、本書ではその真逆な認識が示されています。私がネットで見かけた範囲では「アベガー」に対して、「アベノセイダーズ」というのがありますが、これは「アベガー」の意見を皮肉交じりに批判する人々であって、本書のように手放しで褒め称える人々とは少し異なる印象があります。私自身は、極めて大雑把に、アベノミクスと呼ばれた経済政策は概ね評価しています。世界的にもリベラルな経済政策でしたが、キチンとした再分配政策が欠けていました。したがって、格差が広がりました。他方で、私の専門外ながら、政治外交的には右傾化が進んで、改憲を目指していたようですし、国内も世界も分断が広がって、その傾向を見ながら火に油を注ぐような政策であったとも批判も少なくありません。ですので、本書を読むとすれば、それなりの大きなバイアスが本書には含まれている点を注意すべきです。「vs財務」というタイトルですから、経済を中心に見ると、よくいわれるように、経済学には人間がほとんど出てきません。需要と供給で価格と数量が決まるという、お決まりのミクロ経済学から始まって、ケインズ的なマクロ経済学でも財政政策や金融政策は、特に、前者の財政政策は何らのバイアスない賢人の決定というハーベイロード仮説に基づいて、最適な政策決定がなされる、ということになっています。まあ、霞を食って生きているというにかなり近い経済学なのですから、本書では現れませんが、例えば、モジリアーニ=ミラーの定理によれば、税や規制などの歪みがなければ、株式発行も、社債発行も、銀行借入れもすべて資本コストは同じ、ということになりますし、効率的市場仮説が成り立って、強い効率性が実現できていれば、資産運用においてインサーダー情報を持ってしても平均以上のリターンを上げることは不可能、ということになります。しかし、実際には政策運営や投資運用は人間がやっているのであり、その上に、組織を通じた行動により歪みが生じます。本書では、ひたすら安倍元総理が正しい判断を下して、それを阻害するのが財務省、という結論が先になっているような気がしてなりません。カリスマ的な指導者でしたから、宗教的なまでの指導性があるのは不思議でもなんでもありませんが、例えば、p.250からの世間の世襲批判に対する反論などは、疑問を持つ読者も決して少なくないような気がしました。その意味で、あくまで常識的な判断力を持って読み進むべき本である、と私は結論しておきたいと思います。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『真夜中の密室』(文藝春秋)を読みました。著者は、ミステリ作家です。いくつかのシリーズがあり、本書はニューヨークを舞台に四肢麻痺の名探偵であるリンカーン・ライムを主人公とする最新刊です。ほかに、キャサリン・ダンスのシリーズとか、新しいところではコルター・ショウのシリーズもあるのですが、このライムのシリーズの作品が一番多いと思います。出版社ではなく、どこかのサイトで長編としては本書が15作目、とありました。ソースは明らかではありませんし、私が数えたわけでもありませんが、まあ、それくらいか、という気がします。ミステリ作家としては、ツイストというひねりを加えて、ラスト近くでどんでん返しを持ってくるストーリー展開を得意にしているといわれています。ということで、本書では、ニューヨークの1人暮らしの女性、当然ながら、厳重に鍵のかかった部屋で寝ている女性の部屋に侵入し、住人に何らの危害を加えることもなく、貴重品ではなくちょっとした物品を盗むだけで、すなわち、クッキーを食べたり、ワインを飲んだり、包丁を盗んだり、その上で、破った新聞紙に書いたメッセージを残して去って行くロックスミスと名乗る解錠師を相手にします。同時に、ニューヨークのギャングの大物の裁判で失態を演じたライムは市警のコンサルタントを解任された上に、警官との連絡を禁止されたりもします。このロックスミスと名乗る解錠師は、いわゆる粗暴犯でないのはいうまでもありませんが、何かにつけてウォッチメイカーと対比されます。ライムのライバル、というか、闇の芸術家、頭が良くて戦術に長けている、などと2人並べて称されます。ライム・シリーズの前作『カッティグ・エッジ』は2019年でしたから、新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミック前、ということになり、その後一定の期間が経過していることから、いろんな発展形が本作品では示されています。ZOOMでオンライン会議をしたり、といったのは当たり前ですし、ライムについては身体的にはかなり動く部位が増えているような気がします。私としては、前作の『カッティング・エッジ』よりは出来がよくって面白かった気がします。でも、このリンカーン・ライムのシリーズやキャサリン・ダンスのシリーズは、いわゆる頭脳戦で展開していくのですが、やや方向性の違ったコルター・ショウのシリーズがこの先も続くようであれば、そちらも気にかかるところです。

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次に、福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者であり、ご専門は平安時代の文学・日記文学だそうです。来年のNHK大河ドラマの主役は紫式部であり、当然ながら、書店や出版社では紫式部やその文学作品である『源氏物語』を特集して、いろいろと出版してくれています。私なんぞは、まんまとそれに引っかかって、11月11日には倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)と繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)をレビューし、今日は今日で本書なんぞを取り上げているわけです。紫式部や『源氏物語』に着目する場合、文学から解き明かすのと、歴史からひも解くのと2通りあると思いますが、本書は前者の文学から考察を進めています。ということで、本書では、冒頭章で紫式部の生立ちなどの個人に着目し、続いて女房というお役目について考え、そして、『紫式部日記』から本題の紫式部とその女房生活を追っています。女房というのは、天皇または高位の貴族に仕える女性で、語義からは部屋を与えられていたのだろうと思います。紫式部なんぞは中宮彰子に仕えていたのですから、今でいえば宮内庁勤務の侍従、国家公務員になぞらえることも出来そうです。主たる役目は中宮彰子の文化的な素養を高め、天皇のお渡りを増やして懐妊の確率を高める、というのが正直なところでしょう。おそらく、中宮の周囲の文化的なサロンの格調を高めていたことと思います。ですから、中世欧州で、貴族や金持ちの女性に仕えるコンパニオンという職業がありましたが、そういった女性の職業の日本的、あるいは、より高位貴族的なものではなかったか、という気がします。本書では、紫式部による『源氏物語』の執筆が先に始まっていて、それに目をつけた藤原道長が中宮彰子の女房としてスカウトした、というふうに解釈しています。年代的にもそうなのだろうと思います。当然のことながら、執筆に最適な環境が与えられ、墨・硯・筆に加えて、料紙なども最上のものが用意されていたものと思います。そういった恵まれた仕事の環境ながら、本書などによれば、中級貴族出身の紫式部は気詰まりで仕方なく、なるべく目立たぬように腐心していた、というように解釈されているようです。果たして、NHKの大河ドラマやいかに?

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次に、山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)を読みました。著者は、いくつかの大学を歴任され退職された後、現在はカルチャースクールなどで人気を博している研究者のようです。本書でも冒頭に来年のNHK大河ドラマを意識して、『源氏物語』からお話が始まっています。ただ、タイトル通りに、『源氏物語』に限定することなく、幅広く平安貴族の「悩み」について取り上げています。しかも、その悩みについて単価を示すことにより実例を持ち出して、とても判りやすい解説がなされています。もちろん、悩みは平安貴族でなくても現代人でも尽きぬわけで、まず、やや『源氏物語』や紫式部を意識して、第1章は女房生活のお仕事や恋の悩みから始まって、第2章で女流文学に癒やされる女性たち、第3章では男性に目を転じて出世競争に着目し、第4章では男性の恋の悩み、第5章では男女を問わずロイの悩みについて、第6章で人生最後のステージの病と死について、それぞれ議論を展開しています。繰り返しになりますが、冒頭章では紫式部や『源氏物語』を意識して、清少納言に対する紫式部の批判を取り上げつつも、それでも、「香炉峰の雪」ではありませんが、文学には漢文の素養が必要であったと指摘しています。私も、『源氏物語』を読んだ時に、すこし「オヤ」と思ったのは、夕霧の教育については、漢文を中心に据えるとの光源氏の考えを展開していた点です。まあ、当時のことですから、真名の漢文は男性、仮名の和文は女性、ということだったのでしょうし、国際関係で必要とされるのは現在の英語と同様の国際語の地位を占めていたのが中国語で漢文だったのでしょう。ですので、『和漢朗詠集』のような書物もありますし、仮名で物語を書く女性でも真名の漢文の素養が必要だったのは、ある意味で、当然なのかもしれません。ただ、それを清少納言がひけらかすのを紫式部は批判したのだろうと思います。まあ、男性、特に中級以下の貴族の男性が官位を求め、官職を求め、結果的に、金銭を求めるのは現在と変わりないように私は受け止めました。男女を問わず、老いや死についてもご同様かと思います

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次に、鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)を読みました。著者は、官界の勤務を経て、現在は東京大学の研究者です。本書のタイトルから理解できるように、現在の我が国の食料安全保障について極めて強い危機感を持って、我が国の食料自給率の向上の必要性などを議論しています。昨年2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻以来、エネルギーや食料品の値上がりが激しいのは誰しも実感しているところですが、もちろん、値上がりは需要と供給のバランスに依存するとはいえ、量的に食料が不足する事態がどこまで現実的なのか、あわせて、来年になれば授業で農業を取り上げますので、その勉強も兼ねて読んでみました。ただ、私は、世間の能天気なエコノミストとは違って、食料は比較優位に基づいて安いところから輸入すればいい、とだけ思っているわけではなく、農業が一定の公共財的な役割を果たしていることからも、何らかの補助を出してでも農業生産・食糧生産の増産は必要と従来から考えています。農業経済学は経済学部と農学部の両方に講座が置かれている場合が多いと思いますが、生産上の農業の特徴を工業を基準にして考えると、(1) 生産に要する期間が長く、季節性が高い、(2) 気候をはじめとする自然条件の影響が大きい、(3) 収穫逓減が概ね成り立ち、規模の経済はほぼほぼない、に対して、生産物である農産物の特徴として、(1) 統一的な規格の適用が困難、(2) 腐ったり傷んだりしやすく、保管や輸送が高コスト、(3) 国民生活上の必要性が極めて高いが、価格弾力性や所得弾力性が低い、といった特徴があります。ですので、標準的な経済学とは少し違った経済学の適用が必要である、と私は考えています。前置きがとっても長くなりましたが、本書のレビューに戻りますと、まず、本書の第1章では食の10大リスク、というタイトルなのですが、何をもって10大リスクと数えているのかは別にして、ロシアのウクライナ侵攻などの地政学的リスク、昨今の気候変動による異常気象のリスク、供給と価格の両面からのエネルギーのリスク、食料としての安全性のリスク、輸入途絶ないし輸入価格高騰のリスク、などが上げられています。単純に農作物だけではなく、国内生産に必要な種子の供給についても不安があると指摘しています。そして、日本の食料自給率低下の大きな原因は、輸入自由化と食生活改変政策であると分析し、最後に、農業再興政策として、農業保護の強化をはじめとして、ローカルフード法により、より地域に密着した農業と食の安全の徹底が必要、と結論しています。私の専門外でまだまだ勉強せねばならない分野で、100%の理解にはほど遠いのですが、私自身としては決して現在の日本の農業が過保護にされているわけではなく、いっそうの農業保護強化が必要であると考えていますし、もう少し自分自身でよく考えて来年の授業に臨みたいと思います。

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最後に、青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)を読みました。著者は、ジャーナリストです。2011年3月の大地震、そして、津波、福島第一原発のメルトダウンにより地震多発国日本における原発の危険性が改めて認識されながら、その後も、原発稼働年数の延長、また、福島汚染水の海洋放出などなど、原発廃止に舵を切ったドイツなどと比較して、日本では原発容認の姿勢が強すぎると私は考えているのですが、そういった疑問に適切に回答してくれる出版物です。本書は7章構成であり、第1章で、福島現地の復興の現状について、放射能の影響でさっぱり進んでいない現状を報告し、第2章から第3章で日本に原発が導入された歴史的経緯をあとづけて、第4章から本格的なリポートが始まります。まず、第4章では原子力ムラの権力とカネの構造について、原子力ムラの村長は内閣総理大臣であると喝破し、第5章で核兵器開発と原発の関係、第6章では原子力の安全神話について、そして、最後の第7章では原発ゼロで生きる方法について、ドイツやイタリアの例を引きながら考察を進めています。私はこういった物理学的な安全性についてはシロートですし、そういった場合は専門家の意見に従う方なのですが、原発についてだけは余りに専門家の見方の標準偏差が大きくて差がありすぎるため、自分自身でNoと考えることにしています。単純にいうと、原発を容認すべき根拠が見当たらないからです。経済学には、私の嫌いなシカゴ学派ながら、「規制の虜」という理論があります。規制する政府よりも、規制される業界・企業の方に情報が豊富で情報の非対称性があるため、規制する政府の意思決定がいくぶんなりとも、規制される業界や企業に取り込まれてしまう、あるいは、無能力化する、という趣旨です。これを以下の論文に取りまとめたのはシカゴ大学のスティグラー教授ですが、元来は、規制緩和や規制撤廃の理論的根拠を与えよう、という乱暴な議論でした。でも、規制をなしにして原発を自由に建設するのはとんでもないことで、とても国民のコンセンサスは得られません。ですから、原発を止める、という選択肢が有力だと私は考えています。原発なしでもカーボン・ニュートラルには無関係、というか、原発あってもカーボン・ニュートラルは無理筋ですし、原発がなくても電力需要は再生可能エネルギーで供給可能にするのが政府の役割であろうと考えます。そういった役割を放棄して電力会社のいうがままにさせてしまうのが「規制の虜」であると考えるべきです。
Stigler, George (1971) "The Theory of Economic Regulation," Bell Journal of Economic and Management Science 2(1), Spring 1971, pp.3-21
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2023年12月16日 (土) 09:00:00

今週の読書は金融と貿易に関する経済書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ベン S. バーナンキ『21世紀の金融政策』(日本経済新聞出版)では、米国の中央銀行である連邦準備制度理事会(Fed)議長を務めた著者が、金融政策の歴史を振り返りつつ、将来的な非伝統的金融政策にもスポットを当てつつ金融政策について論じています。遠藤正寛『輸入ショックの経済学』(慶應義塾大学出版会)では、本書で「チャイナ・ショック」と呼ぶ輸入ショックにより、我が国製造業の雇用と賃金がどのような影響を受けたのかについて、定量的な分析を試みています。夕木春央『時計泥棒と悪人たち』(講談社)は、大正時代を舞台にしたミステリ連作短編集であり、蓮野と井口が謎の解明に当たります。あさのあつこ『アスリーツ』(中公文庫)は、女子中学生が陸上競技を止め、名門進学高校Ⅱ入学してから射撃競技を始めて、とうとうトップアスリートとなる青春物語です。西村京太郎『近鉄特急殺人事件』(新潮文庫)は近鉄特急での毒殺事件などを伊勢神宮や宗教の歴史などを踏まえつつ、十津川警部が解き明かします。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、先週8冊の後、今週ポストする冊を合わせて冊となります。

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まず、ベン S. バーナンキ『21世紀の金融政策』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、米国のエコノミストであり、米国の中央銀行に当たる連邦準備制度理事会(FED)の議長を務めたことでも有名です。本書の英語の原題は 21st Century Monetary Policy であり、邦訳タイトルはそのままです。2022年の出版です。5部構成となっていて、第1部で20世紀の金融政策、といっても、ほぼほぼ米国の金融政策だけに焦点を当てて概観した後、第2部から第4部にかけて21世紀の金融政策を概観し、第2部では日本でリーマン・ショックと呼ばれていて、世界的にはサブプライム・バブル崩壊に端を発する世界金融危機に焦点を当て、第3部ではその後の新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミックに起因する景気後退、そして、第4部で将来展望を展開しています。まず、自慢話になりますが、私は日本のバブル経済末期の1990年初頭にごく短期間ではありますが米国の連邦準備制度理事会(Fed)のリサーチアシスタントとして経済モデル分析に基づくGreen Bookの作成の末端業務に携わったことがあります。当時はグリーンスパン議長の就任から間もないころでした。日本では新聞などの報道で今でも"FRB"と呼び慣わされているのですが、少なくともFed内部のエコノミストたちは自分の属する組織をFRBと呼ぶことはありませんでした。飲み会に行く時も"Leave Fed at 6."といった連絡が回ってきて、組織ないし建物としてはFedと称していました。しかし、本書でバーナンキ教授は組織・建物としてはFedを使い、理事会としてはFRBと呼び、使い分けています。末端のリサーチアシスタントには理事会は遠い存在でしたから、FRBは使いませんでしたが、そういうふうになっているんだ、と30年以上も前のことを思い返しています。いずれにせよ、FedとFRBに加えて、議決機関ないし決定機関としてFOMCを使い分けています。日銀に対して、政策委員会があるようなものです。ということで、自慢話が長くなりましたが、私が注目したのは今でも日銀が継続している非伝統的な金融政策手段に付いてのあバーナンキ教授の見方です。量的緩和(QE)とフォーワードガイダンスについては、Fedも実践しましたし、力強くかつ協調的に活用すれば「約3%の追加利下げに相当する」(p.371)と本書でも強調しています。しかし、もちろん、それ以外の非伝統的な政策オプション、マイナス金利やイールドカーブ・コントロールなどについてもFed内部の検討結果などを踏まえて、的確な評価がなされているように私は受け止めました。ただ、金融政策運営の基本となる点については、私には理解が及ばない点もいくつかありました。例えば、インフレには「自然インフレ率」はないが、失業率については長期的には「自然失業率」に収斂するというのは、どこまで実証的に理解されているのかは疑問です。至善失業率そのものではありませんが、インフレを加速させないという意味での失業率の下限は経済構造とともに変化しますし、失業率をその需給均衡の水準に一致させる自然利子率も変化します。本書では残念ながらまったく言及がありませんが、政府の政策決定のタイムスパンがかなり長期で場合によっては100年くらいある一方で、中央銀行の政策決定のタイムスパンは、おそらく、せいぜい長くても数年の景気循環1サイクル程度であろうと私は考えていますが、中央銀行の金融政策決定を考える場合、自然失業率への回帰をどのくらい視野に入れるべきかは議論あるところかもしれません。長くなりましたので、最後の興味の点として、中央銀行の独立という考え方についても、とても興味深い見方が示されています。すなわち、QE2の際に政治的な反発が強受かった仮説のひとつに「スケープゴート」理論があり、議会が中央銀行に付与している独立性は、政治的理由から議会が取りたくない政策や行動、必要ではあるものの不人気であるような政策や行動を中央銀行に引き受けさせる程度の独立性である、という見方にバーナンキ教授は共感を示しているように見えます。日本では、その昔に国会議員が大蔵省に押し付けていた役割かもしれない、と思ってしまいました。

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次に、遠藤正寛『輸入ショックの経済学』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、慶應義塾大学の研究者です。伝統的に、貿易理論は第1世代のリカードの比較優位論、第2世代のヘクシャー=オリーン・モデルの枠内で理解されていて、収穫一定とか完全競争とかのいくつかの前提の下で、国際貿易の拡大により先進国では熟練が高くて高学歴=高技能な労働が豊富に賦存すると仮定すれば、その高技能=高学歴=高賃金の労働者の賃金がさらに上昇し、低技能=低学歴=低賃金の労働者の賃金がさらに低下し、両者の賃金格差は拡大する、というストルパー=サムエルソン定理が成り立つとされています。第3世代のメリッツ・モデルはまだ雇用や賃金へ適用されていないように、私は不勉強にして、見ています。他方で、本書でも指摘している通り、低賃金国からの輸入は、理論を離れた実践的には、高賃金労働者の多い先進国の雇用を減らしたり、あるいは、賃金低下を招いたりする、という議論も指摘されます。典型的には、米国のトランプ前大統領がそういった議論を展開して、環太平洋パートナーシップ条約(TPP)から離脱したことは記憶に新しいところです。現在のバイデン米国大統領も、結局、TPPには復帰しませんでした。その意味で、本書が指摘するように、芸剤のバイデン米国大統領は、少なくとも、対中国通商政策はトランプ前大統領の方針を継承しているといえます。ほんしょでは、こういった輸入が我が国の製造業に対して、そうです、製造業だけなのですが、どういった雇用と賃金に影響を及ぼしているかを定量的に把握しようと試みています。第1章で基本的なモデルとデータを提示した後、第2章で雇用に対する影響を、第3章で賃金に対する影響を計測していて、このあたりがメインとみなされそうです。第4章で輸入ではなく海外生産、すなわち、オフショエリングにも焦点を当て、第5章で国内取引を通じた間接効果を考え、最終第6章でインクルーシブナ輸入のための政策を評価しています。まず、本書では輸入の雇用や賃金に対する効果をアセモグルらの論文に基づいて、直接輸入効果、間接輸入効果のほか、地域的な効果として再配分効果と総需要効果の4つの視点から考えています。ただ、著者は輸入が雇用現象にどの程度寄与したかを重視するのではなく、経路や効果の多様性を把握することの方が重要、と指摘しているのですが、実際の推計結果に基づけば、「チャイナ・ショック」と本書で読んでいる輸入増の効果により、製造業の雇用がそれなりのダメージを受けていることは確かです。これは実感にも合致します。ただ、地域ごとや産業ごとの差異は決して小さくなく、その多様な効果を分析するという結果が出ています。どうように、「チャイナ・ショック」は賃金を引き下げる方向の効果を持っている点も明らかにされています。加えて、輸入により従業員の⅔は年間給与が低下し、給与格差は16年間でさいだい6.8%拡大した、というストルパー=サムエルソン定理の実証結果も示しています。オフショアリングンについては、男女の性別と高卒までと大卒以上の学歴の4カテゴリーで分析していて、男性は残業を増加させて年間給与が増えたが、女性は残業を増やさず性別の格差は拡大した、との結果が示されています。最後の政策については、かなりお決まりの雇用の流動性に関する考えが示されていますが、本書では地域的な流動性についても着目しています。通常、使用者サイドが「雇用の流動性」を提唱する場合、日本的雇用慣行のひとつである長期雇用に基づいて同じ企業で働き続けることから、企業を転職することを指していることが多いと私は実感していますが、同じ企業の勤務を続けても地域感の流動性を内部労働市場の活用により実現することは十分可能です。輸入ショックに関しては、本書の分析で示されたように、地域感の違いが決して無視できないことから、長期雇用を維持しつつ地域間の流動性を企業内で実現するという視点は重要だと私は受け止めています。

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次に、夕木春央『時計泥棒と悪人たち』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。去年から今年にかけて、『方舟』や『十戒』が話題になったかと思います。なお、私は『方舟』の前の作品である『絞首商會』と『サーカスから来た執達吏』も読みました。ということで、本書はこの作者の作品のうち、私が読んだ初めての短編集です。短編を集めていますが、連絡短編集となっていて、『絞首商會』と同じで、ロシア革命後の大正時代を時代背景として、ホームズ役の蓮野とワトソン役の井口のコンビで謎解きに当たっています。すべてではないかもしれませんが、全般的に whydunnit に重点が置かれているように読めます。以下順に収録短編とそのあらすじです。6話の短編が収録されていますが、第3話の「誘拐と大雪」はタイトル通りに、誘拐編と大雪編に分割されていたりします。まず、「加右衛門氏の美術館」では老い先短い富豪が収集した美術品や骨董を集めて美術館を辺鄙な土地に建設し始めるのですが、その中に井口の父親が売却した欧州王室ゆかりの時計があり、蓮野と井口がその時計を盗みに入ります。どうして、富豪が美術館を建設し始めたのか、という whydunnit に焦点が当てられます。「悪人一家の密室」では、偏屈で悪人ばかりがそろった一家に、唯一常識人であった男性が密室で殺害されます。その密室自体の謎は蓮野がすぐに解き明かすのですが、どうして密室にしたのか、という whydunnit に注目です。加えて、殺害の動機がとても恐ろしい気がしました。「誘拐と大雪」では、井口の妻の姪が誘拐されます。あえて、銀行に行けない時間で身代金を要求した犯人が狙った意図が何なのかに注目し、加えて、誘拐された姪がどこにいるかも蓮野が謎解きをします。後編では、誘拐されていた姪を見張っていた犯人の1人が殺害されますが、もちろん、姪が殺人犯のハズもなく、その犯人を蓮野が謎解きするとともに、犯人が身代金として手に入れたがっていた金のホントの使い道が明らかにされます。「晴海氏の海外手紙」では、この作者のミステリのほぼほぼ全作品に何らかの登場をする晴海商事社長の晴海氏の妻が亡くなり、彼女宛てに外国からフランス語の手紙が届きます。ここで、晴海氏の素性や来歴がかなりクリアに明らかにされ、この作者の作品のファンには、その意味で必読かもしれません。もちろん、蓮野が手紙にまつわる謎を解き明かして、ひいては、晴海氏の妻にまつわる秘密も明らかにしますが、この秘密がとってもカッコいいです。「光川丸の怪しい晩餐」では、クローズドサークルの船上での殺人事件を蓮野と井口のコンビがとても論理的に解明します。この短編はさすがに whodunnit に重点が置かれていますが、殺人の動機がムゴい、というか、とっても強烈です。本格推理モノながら、心臓疾患とかがある方はパスするのも一案かという気すらします。「宝石泥棒と置き時計」は、何と、冒頭の短編に戻って、時計も含めていろんな装飾品につけられているルビーが盗まれる謎を蓮野と井口が解き明かします。whodunnit といえ、これもなかなかに論理的に解決、というか、謎が解き明かされます。全体として、各短編がなかなかに論理的に解決されるものが多く、その上に、時計に始まって時計に終わるなど、各短編の枠を超えて書籍としての完成度も高い連作短編集に仕上がっています。たとえが、判る人にしか判らないと思いますが、Art Pepper のアルバム Modern Art が Blues in に始まって、Blues out で終わっているような完成度です。はい、モダンジャズファンにしか理解できないと思います。申し訳ありません。最後に、私自身のこの作者の作品に対する今後の読書については、『方舟』と『十戒』の後継作品は読むかどうか、世間一般の評価などを参考にしつつ考えますが、この蓮野と井口のコンビの大正ミステリはできる限り優先順位高く読みたいと思います。

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次に、あさのあつこ『アスリーツ』(中公文庫)を読みました。著者は、人気の作家です。現代小説から時代小説まで幅広くご活躍です。特に、『バッテリー』や『ランナー』などのスポーツを中心に据えた青春物語のいい作品をいくつかモノにしている印象があります。この作品は、上の表紙画像を見ても理解できるように、射撃のアスリートを主人公にしています。アスリートの青春物語です。私の好きな青春物語のカテゴリーに入ります。しかも、というか、何というか、出版社の謳い文句によれば、初のライフル射撃部小説だということです。確かに、マイナーなスポーツかもしれません。ということで、主人公である結城沙耶は女子中学生から高校生になります。語り手は親友の松前花奈です。結城沙耶が中学2年生にして陸上部を退部して、松前花奈に誘われて、広島県内、というか、全国レベルでも屈指の進学校である大明学園高校を目指すところからストーリーが始まります。どうして、そんな有名進学校を目指すかといえば、通える範囲で射撃部のある高校だから、と松前花奈が説明します。高校入試対策についてはそれほど熱心な記述はなく、大明学園高校入学後、もちろん、2人は射撃部に入部します。童顔の監督の磯村辰馬に指導されて、結城沙耶はメキメキと実力を伸ばします。県内屈指の有力校で、昨年の全国大会でも好成績を収めた選手を集めた関谷第一高校との練習試合に臨んだりします。そして、あれよあれよという間に、全国でもトップレベルに達してしまいます。いいのかね、そんなに順調に実力を伸ばして、非現実的じゃないの、と私は考えなくもなかったのですが、競技人口がとても少ない分野ですので、そういった彗星のように現れる少女がいてもおかしくはないのか、という気もします。その昔の岩崎恭子のように中学生で金メダルを取った例がありましたし、最近では、スケートボードなどでローティーンのメダリストもめずらしくありません。ただ、順風満帆なストーリーではありません。そういって実力を伸ばすうちに、全国でも屈指の進学校ですから運動部がそれほど注目されるわけでもなく、高校内の先輩や友人と疎遠になったり、あるいは、イジメに近い嫌がらせを受けたりもします。そういったアスリート、というか、トップアスリートになる試練を主人公の結城沙耶は受けるわけで、飛び抜けた才能に対して周囲の接し方が違ってきたり、人間関係がよじれるといったリアクションがあるわけです。そのあたりは、読んでみてのお楽しみです。最後に、小説としては、やや中途半端な終わり方をしています。他方、マンガ化されていて、ソチラは私は読んでいません。ひょっとしたら、マンガの方がメインなのかもしれません。

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次に、西村京太郎『近鉄特急殺人事件』(新潮文庫)を読みました。著者は、人気のミステリ作家、トラベル・ミステリの名手であり、本書も十津川警部と亀井刑事が活躍する鉄道シリーズ、というか、地方鉄道シリーズです。殺人事件から始まります。まず、東京で、出版社に勤務する歴史雑誌の編集者である男性が刺殺されます。同棲していた会社同僚の女性が姿をくらましており、十津川警部がゆくえを追います。そして、京都発賢島行近鉄特急ビスタEXの車内で大学准教授が毒殺されます。この准教授は西洋史が専門ながら、日本史に関するテレビ番組で過激な意見を披露する出演者として広く知られていて、番組で伊勢神宮を貶める自説を主張する予定だったことが判明します。さらに、もう少し後で、この准教授の愛人である京都の女性も毒殺されます。十津川警部は容疑者の女性を伊勢神宮内宮の門前町であるおかげ横丁で発見しますが、何と伊勢神宮の巫女さんの姿で、第2の元寇として西からやってくる脅威に対抗して、伊勢神宮に向けてみんなで心をひとつにして祈念しようと呼びかけていました。ミステリですので、あらすじはここまでとします。何やら、ものすごくシュールというか、うまく表現できませんが、殺人事件と西からやってくる脅威に対する祈念と、さらに、そういった神々への信仰にまつわるお話と、さらにさらにで、さかのぼる神話の世界、すなわち、天照大神を祀る伊勢神宮に象徴される大和朝廷に対する出雲勢力からの「国譲り」もそれなりに詳細に取り上げられていますし、もちろん、太平洋戦争の際の宗教界の戦争礼賛への批判、などなど、伊勢神宮に関係するいろんなトピック、というか、宗教に関するうんちくがめいっぱい詰め込まれています。殺人事件の謎解きがほとんど霞んでいるとさえいえます。私もこの作者の鉄道シリーズのミステリをそれほど読んでいるわけではありませんが、特にどんでん返しがあるわけではなく、びっくりするようなトリックがあるわけでもなく、こういったシリーズなのかもしれません。まあ、何と申しましょうかで、別に近鉄特急で殺人事件が起こる必要もない、というか、主たる舞台は伊勢神宮であって、伊勢神宮に行くには京都からでも、名古屋からでも近鉄特急が便利、ということなのかもしれません。何はさておき、私は近鉄特急のファンでもありますので、この表紙には痛く感激した次第です。
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2023年12月09日 (土) 09:00:00

今週の読書は金融に関する学術書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は金融に関する学術書2冊のほか、以下の通り計6冊です。
まず、祝迫得夫[編]『日本の金融システム』(東京大学出版会)は、日本の金融について決済やバンキング・システムなどを分析した学術書です。金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』(名古屋大学出版会)は、貨幣供給の内生性についての学術書ですが、貨幣供給は外生的であって、本書の試みは失敗しているように私には見えます。夕木春央『十戒』(講談社)は観光リゾート開発を目指して島を視察する所有者や開発業者らの一行が殺人事件に巻き込まれるミステリです。中野剛志『どうする財源』(祥伝社新書)は、現代貨幣理論(MMT)の理論から貨幣や財政について論じています。NHKスペシャル取材班『中流危機』(講談社現代新書)は、かつては中流層が多数を占めた日本の経済社会における中間層の窮状を分析し、リスキリングの重要性などを論じています。加藤梨里『世帯年収1000万円』(新潮新書)は、ファイナンシャル・プランナーの観点から年収1000万円でも十分豊かな暮らしが送れるとは限らないと指摘し、年収1000万円世帯の生活上の工夫の必要性について示唆しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊で、3か月近い入院期間はほぼゼロでしたが、退院してから、6▲11月に153冊を読みました。12月第1週に6冊、そして、今週に6冊で計209冊となりました。

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まず、祝迫得夫[編]『日本の金融システム』(東京大学出版会)を読みました。編者は、一橋大学の研究者であり、各チャプターの著者も大学の研究者ばかりで、日銀をはじめとする金融機関の実務者やシンクタンクのエコノミストは含まれていません。出版社から見ても、完全な学術書と考えるべきです。ですので、金融機関にお勤めのビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。というどころか、私のような専門外の大学教授にすら難しい内容となっています。本書の構成は5部構成であり、順に主要なテーマな、決済、銀行業ないしバンキング・システム、資産市場、コーポレート・ガバナンス、資本のミスアロケーション、となっています。終章でも自ら指摘していますが、中央銀行デジタル通貨(CBDC)のトピックは、なぜか、取り上げられていません。決済については、クレジット・カードをはじめとして、「今買って、後で払う」Buy Now Pay Later (BNPL)の普及により、消費と支払いのタイミングのずれが経済活動にどのような影響を及ぼしているかの分析が参考になりました。ただ、その昔からいわゆる「月賦』という支払い方法があり、マイホームはもちろん、自動車についてもローンを使っての購入があるわけですので、消費と支払いの時期的なずれとともに、ローンを負った家計の消費行動分析も欲しかったところです。バンキング・システムについては、日本には銀行業の比較優位が乏しいという議論を見かけますが、既存研究で指摘されている過剰供給、規制荷重、独自衰退の3つの理由すべてが当てはまるような気もします。ただ、日本では他の先進諸国と比較して、総合商社という業態がとても発達していて、例えば、CPを発行してのプロジェクト・ファイナンスなんてのは銀行よりも総合商社が担っている部分が大きいのではないか、と私は考えています。その意味で、銀行業だけを取り出して分析対象とするのではなく、その昔の住専やノンバンク、あるいは、消費者金融といったややよくないイメージの金融機能を持つ会社組織があることは確かですが、日本では銀行業以外の金融仲介機能を担う業態まで含める必要がありそうな気がします。資産市場のうち、株式市場については、10年前ほどにノーベル経済学賞を受賞したものの、Famaらの効率的市場仮説がもはや成り立たないことは、実証的に明らかになっていて、例えば、米国株式についてはモメンタム効果により順張りのリターンが大きく、日本株式ではリターン・リバーサルにより逆張りのリターンが大きい、というのはほぼほぼ実証的には確認されています。コーポレート・ガバナンスについては、本書でも指摘しているように、ESG投資、特にEの環境への投資を私は注目しています。例えば、Glasgow Financial Alliance for Net Zero=GFANZ という機関投資家グループなどです。気候変動や格差是正と正面から向き合う機関投資家、特にCALPERS (California Public Employees' Retirement System)のような公務員や教員の退職者年金運用機関からの企業への圧力に期待する人は少なくないと思います。最後の資本のミスアロケーションの問題については、「ゾンビ企業」という表現があるように、世間一般の意見は精算主義に傾いていて、赤字企業は「放漫経営」なのだから市場から退出すべきであるとか、銀行や事業会社の救済に関する世論の批判は強いものの、雇用社のスキル維持のためには企業救済の一定のプラス面にも目を向けるべきである、と私は考えています。最後に繰り返しになりますが、完全な学術書と考えるべきであり、ハードルは決して低くありません。

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次に、金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』(名古屋大学出版会)を読みました。著者は、名古屋大学の研究者であり、名誉教授です。本書では、私を含む多くのエコノミストが「常識」としている貨幣供給外生説に対して、貨幣供給は内生的に決定されるとする説を。英国の金融師などをひも解いて解明しようと試みています。しかし、私の読後の結論からして、その試みは失敗しているとしかいいようがありません。まず、本書では貨幣の創造について、初めに預金ありきという説ではなく、信用供与が預金を創造するのであって、貸出に先立って銀行券による預金を集めておく必要はない、と論じています。まったくその通りです。100パーセント私も同意しますし、多くのエコノミストがそうだろうと思います。しかしながら、19世紀英国における通貨原理と銀行原理の論争のあたりから議論が怪しくなります。私は、本書の議論は貨幣需要が内生的に決まる、という論拠を並べているように見えます。それであれば、私は正しい議論であろうと感じますが、どうも、貨幣需要と貨幣供給がどこかで混戦しているのではないか、という直感的な思いがあります。とくに、ピール銀行法の下でのカレンシー・ノートについては兌換されずに流通のかなに残っている部分は、完全に貨幣需要に基づくものであり、その貨幣需要に基づいて、というか、おそらく英語であればaccommodate するという意味で貨幣供給がなされている、という解釈なのだろうと思います。かつての日銀論法そのものであり、中央銀行は貨幣流通量はコントロールできない、という意味です。しかし、現在の不換紙幣制度の下での中央銀行の準備預金について同じことなのかどうか、例えば、日銀当座預金は自由に日銀がコントロールしているように見えます。そして、その根本的な違いのひとつが本書pp.36-37にあり、英国ノカレンシー・ノートが債務であるがために自由に発行できるわけではない、という記述です。すなわち、貨幣というのはすべからく債務である点については、本書の著者の当然ながら十分に理解しているようですが、勢い余って、というか、何というか、負債であるがゆえに恣意的に発行できるわけではない、と結論しているように、私には見えてなりません。私は多くの主流はエコノミストから見れば、負債であるがゆえに中央銀行は自由に貨幣を供給できる、ということになるのですが、どうも本書では逆立ちした議論が展開されています。負債であるために通貨の供給を限定する、というのは、その昔の日銀理論にもありましたが、国民経済の観点よりも中央銀行の財務的な健全性を重視し、国民が非自発的失業に苦しんでも中央銀行の財務の健全性の方が重要、という見方につながりかねないリスクがあるような気がしてなりません。同様の視点は財政にもあって、経済が大きく停滞していてケインズ政策的な総需要管理が必要であるにもかかわらず、財政的な健全性をより重視して均衡財政主義を貫く、そして国民に「痛み」を押し付けるという政策運営がかつては見られましたし、現在でもそういった政策を志向するエコノミストはいます。どちらが正しいかは国民の民主主義に基づく判断です。その意味でも、やや脱線した結論で終わりますが、中央銀行の完全なる独立というのはありえません。何らかの民意は反映されるべきです。

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次に、夕木春央『十戒』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。前作の『方舟』が話題になったところかと思います。この『十戒』もクローズド・サークルの殺人事件を扱っていて、最後の最後に前作『十戒』からの連続性が示唆されている部分があったりします。主人公は芸大を目指して二浪中の大室里英です。父親の兄に当たる叔父が死んで、父親が無人島を相続することになります。そこをリゾート開発しないかという話が持ち上がって、大室親子に加えて、開発会社から沢村という30代後半の男性と研修社員の若い女性である綾川の2人、工務店社長の草加と設計士のアラフォー女性の野村の2人、不動産会社の30代前半くらいの藤原とその一回り上の年格好の小山内の2人、さらに、叔父の友人だった矢野口の合計9人が島に渡ります。島は枝内島という名で、直径300メートル、周囲1キロほどのほぼ真円に近い円形ながら、北側の船着き場のほかは絶壁になっていて海水浴などは出来そうもありません。このあたりは、ツイッタにある講談社文芸第三出版部の「あらすじ紹介マンガ」を見たほうが早いかもしれません。あらすじは、島に着いて視察を終えた翌朝、不動産会社の小山内が殺され、そして、十の戒律が書かれた紙片が発見されます。これが十戒なわけで、スマホで問題なく電波が拾えて通信が可能であるにも関わらず、島外との通信を禁止したり、もちろん、警察への通報もNGで、3日間島外に出ることは許されず、犯人探しもダメ、などと書かれているわけです。そして、どうしてこういった制約条件を生き残った人々が遵守するかといえば、島内の作業小屋に相当な爆弾が保管してあって、スマホ操作で島をふっとばして全員、犯人も含めた全員が死ぬ可能性が高いからです。ストーリーが進むと、もう2人が殺されて合わせて3人が殺される殺人事件となります。ミステリですのであらすじもこのあたりまでとします。最後に、一度探偵役の人物から犯人を明らかにする whodunnit のひとつが生き残った人々に対して明らかにされますが、実は、前作の『方舟』と同じで最後の最後にどんでん返しがあります。前作『方舟』のどんでん返しは、フツーの twist ではなく、上下ひっくり返るくらいの turnover だと私は前の読書感想文に書きましたが、この『十戒』はまあ twist のひと捻りくらいの感じではないでしょうか。前作『方舟』を読んだ後は随分と感激した記憶がりますが、今になって本作『十戒』とともに思い起こせば、まあ、あそこまで感激したのが不思議に感じます。この作品についての批判は、爆弾がどうして都合よく島内にあるのか、生き残った人々が従順に「十戒」に従ってばかりなのは不自然、といったあたりかと思いますが、私の感想は違います。すなわち、この作品の明らかな欠陥は、フェアではないことです。すなわち、本格推理小説で要求されるフェアということは、犯人以外は真実を述べることです。しかし、このストーリーの極めて重要な役割を担う人物が、嘘をついているわけではないものの、極めて重要な事実を隠しています。それは、犯人が指示した「十戒」に抵触するから、という理由で許容されるものではありません。その意味で、疑問が大きいミステリでした。この作者の次の作品である『時計泥棒と悪人たち』までは図書館から借りましたので読むことは読みますが、その先の作品も読むかどうかは現時点では何ともいえません。

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次に、中野剛志『どうする財源』(祥伝社新書)を読みました。著者は、経済産業省の公務員ではないかと思いますが、現代貨幣理論(MMT)に基づく経済観を主とした経済関係の書物を何冊か出版していて、私もいくつか呼んだ記憶があります。本書では、タイトルと違ってまず貨幣論から入ります。物々交換が不便だから貨幣が生まれたという商品化併設を否定したりしています。でも、そのあたりは読み飛ばしてタイトル通りのテーマに入ると、本書の主張はとてもクリアであって、日本経済はデフレを長らく放置したために資本主義的な経済システムが機能しなくなり、このままでは経済が崩壊するので、実物資源の成約に近づくまで財政支出を増加させるべきであって、その裏付けとしての財源は取りあえず放置して差し支えない、ということなのだろうと私は考えています。差位後の「財源は放置して差し支えない」というのは私の表現であって、本来、私自身は財政政策については政府支出と税制は独立に政策運営する方が望ましい、と考えています。当然ながら、ティンバーゲンの定理により政策目標と政策手段が同数必要であるとすれば、政策手段は多い方がいいわけです。こういった私の財政政策に関する姿勢は、その基礎である財政赤字や公的債務に対する見方について、最近の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability" でも示しているところです。そして、本書ではこの実物的な資源の限界についてはインフレで考えるという、これまた、MMT学派の主流の見方が示されています。その昔の非自発的失業に着目する献ず経済学では「完全雇用」が実物資源、中でも雇用者のリソースの限界とされていましたが、労働者だけではなく、ほかのリソースも含めた実物資源の限界がインフレによって現れる、というのはそれなりに自然な考え方です。ただ、インフレといえば現在のインフレは供給サイドから生じていて、需要サイドではないと議論されていますが、こういったインフレについてはどう考えるべきか、という点も本書ではていねいに解説されています。私は本書に示されている貨幣や財政に対する見方はほぼほぼすべてに賛成です。

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次に、NHKスペシャル取材班『中流危機』(講談社現代新書)を読みました。著者は、NHK番組の取材に当たった10人ほどのジャーナリストです。かつては、1960年代後半から1970年代にかけて「1億総中流」といわれた時期が日本にはありました。世論調査などで自分の属する階層について「中流」を選択する人々が圧倒的に多かった時代です。しかし、1980年代後半のバブル経済を経て、1990年代初頭にはバブルが崩壊し、その後、長らく日本経済が停滞を続ける中で、そういった中間層はかなり大きなダメージを受け、もはや中流とか、中間層とは呼べなくなっている可能性が指摘されています。1994年に日本の所得中間層の505万円だった中央値が2019年には374万円と、25年間で実に約130万円も減少しています。もはや、日本は先進国であったとしても、平均以下の先進国になってしまったといえます。なぜ日本の中流階層は急激に貧しくなってしまったのか、また、本書のタイトル通りに、「中流危機」ともいえる閉塞環境を打ち破るために、国、企業、労働者は何ができるのか、といった観点から、NHKが労働政策研究・研修機構(JILPT)と協力して実施した共同アンケート調査結果などから浮き彫りとなる日本経済に対する処方箋の提示を試みています。ということで、JILPTというのは私も勤務経験のある国立の研究機関なのですが、NHKとJILPTとの共同調査の結果では、イメージする中流の暮らしにはいくつかの要素があって、第1に正社員、第2に持ち家、第3に自家用車、第4に趣味にお金をかけている、第5に年1回の旅行、といったところです。最後の旅行については、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックから、大きく見方が変わりましたので、第4までで考えると、私個人は第1と第2しか当てはまりません。自家用車は海外勤務のころはありましたが、帰国してから20年余り持っていませんし、それほど高価でもない自転車に乗ってアチコチ走るのが趣味ですので、お金をかけているわけではありません。それはともかく、私は圧倒的に日本が貧しくなったのは、1995年に日経連が打ち出した「新時代の『日本的経営』」に乗っかって、政府が派遣労働を許容する派遣労働法を制定し、それをポジリストからネがガリストへ、さらに、製造業派遣も解禁して、果てしなく範囲拡大して非正規雇用が恐るべき勢いで増加した点に原因があると考えています。ですから、本書では、第2部で中流再生のためにデジタルイノベーション、リスキリング、同一労働同一賃金の3点を主張していますが、私は圧倒的に雇用の再構築が必要だと考えています。そもそも、雇用者のリスキリングの前提として、非正規雇用などのデスリングが生じた点を見逃すべきではありません。「デスキリング」とは、本来、中核的な工程に機械が導入されることにより、それまで当該工程を担ってきた熟練が崩壊する過程やその現象を指しますが、私は、低賃金で雇用されたがゆえにスキルが低下する現象として解釈しています。本来は潜在的な生産性が十分高いにもかかわらず、低賃金の職種で雇用されてしまって、その業務に必要とされるスキルを大きく上回るスキルを潜在的に有していたにもかかわらず、そういったスキルを活用する機会がなくて時間とともに徐々にスキルが低下する、といった現象が広く日本で見られます。それをリスキリングする必要があるのは、私から見れば悲しいことだという気がします。OECDののPISAの結果などを見る際にも、日本人の潜在的な優秀性は明らかなのに、それを活かしきれていない政府の政策や経営層のマネジメント能力に、私は大きな疑問を持っています。

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次に、加藤梨里『世帯年収1000万円』(新潮新書)を読みました。著者は、ファイナンシャル・プランナーです。本書では、ひとつの区切りのいい数字として世帯年収1000万円を考え、現在の我が国の平均年収400万円と比較して、十分中流以上の暮らしができる数字であるにもかかわらず、実際は生活が苦しい、という実情を分析し改善方策を提示しようと試みています。まず、世帯年収1000万円でも生活が苦しい実感がある原因として、住居費、教育費、生活費を上げています。私の暮らしているような地方圏ではともかく、私も2020年に引越す前は東京に住んでいましたから、東京の住居費の高さはそれなりに実感しています。教育費もご同樣で、我が家は2人の倅を中学校から6年間一貫教育の私立に通わせましたので、これまた実感しています。ただ、生活費については、本書では共働きの保育費やベビーシッターの費用を考えているようですが、我が家は専業主婦でカミサンがこういった分担に当たってくれていましたので、対外的は出費はありませんでした。そして、本書では最後に、国民的なキャラクターとして、クレヨンしんちゃん、サザエさん、ちびまる子ちゃんを例に、どういった出費が必要で、老後資金は大丈夫か、などの観点からシミュレーションを試みています。我と我が身を振り返って、我が家が何とかカミサンの専業主婦という贅沢を許容しつつ、その上で、倅2人を中学校から私立に通わせるという、これまた贅沢ができた事実を考えると、当然ながら、ここから漏れている私が大きなガマンを強いられていたような気がします。しかしその前に、本書で高コストのひとつとして取り上げられている「お受験」、すなわち、小学校から私立に子供を通わせるよいう選択肢は、幸か不幸か、我が家にはありませんでした。というのは、我が家は上の子が小学校に上がるタイミングは海外生活を送っていたからです。我が家の上の子が入学した小学校は海外の日本人学校で、日本に帰国してそこら辺の公立小学校に通い始めています。下の子は上の子にならって、当然のように、同じ公立小学校です。そして、本題の亭主たる私のガマンですが、自家用車という贅沢はさせてもらえませんでした。まあ、東京都心ど真ん中の南青山で、地下鉄の表参道駅までも近くて自家用車の必要性が低かったことも事実です。最後は、私が長々と働いているという点も強調しておきます。ひとつのガマンです。65歳になった現在でも正社員の教員として、大学にこき使われていますから、年金生活に入っている同級生をうらやましく感じつつも、正社員らしいお給料をもらっていることも事実ですし、来年からも何とか定年後再雇用でもう少し働き続けることも、働いている私自身はキツいのですが、そのお給料で暮らしている分には生活は苦しくはない、といえます。
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2023年12月02日 (土) 09:00:00

今週の読書は雇用や賃金に関する読書を中心に計6冊で年間読書200冊に達する

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995』(東京大学出版会)では、高度成長期に成立した長期雇用(終身雇用)と年功賃金などの日本的な雇用システムをオーラルヒストリーにより歴史的に後づけようと試みています。首藤若菜『雇用か賃金か 日本の選択』(筑摩選書)では、コロナの時期に需要が激減した航空運輸業界のケーススタディにより日本と欧米、特に米国での賃金と雇用の調整につき分析しています。高島正憲『賃金の日本史』(吉川弘文館)では、経済史の観点から古典古代の賃金や雇用に始まって、明治期までの超長期の賃金の推移とその背景にある分業について分析を試みています。米澤穂信『栞と嘘の季節』(集英社)は、北八王子の高校の図書委員である堀川と松倉を中心として、高校図書室の貸出本の忘れ物の栞が猛毒トリカブトの押し花であった謎を解明します。下村敦史『アルテミスの涙』(小学館文庫)では、自動車事故の入院患者で閉じ込め症候群により身動きひとつ出来ない若い女性患者の妊娠発覚から謎解きが始まるミステリです。瀬尾まい子『傑作はまだ』(文春文庫)では、引きこもり作家が誕生以来顔を合わせたこともない25歳の倅と一時的ながら共同生活を始める物語です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月には23冊を読み、先週までに197冊となっています。12月最初の今週も6冊を読みましたので203冊となりました。例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができました。

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まず、梅崎修・南雲智映・島西智輝『日本的雇用システムをつくる 1945-1995』(東京大学出版会)を読みました。著者は、それぞれ、法政大学・東海学園大学・東洋大学の研究者です。出版社からも軽く想像できるように本格的な学術書なのですが、タイトルから理解できるように小難しい計量分析ではありませんから、企業の人事担当とかのビジネスパーソンにも十分読みこなせる内容ではないかと思います。本書は3部構成であり、第Ⅰ部は1945~1995年を対象に日本的雇用システムの基礎を明らかにし、第Ⅱ部は1955~1995年を対象に日本的雇用システムの構成要素を分析し、最後の第Ⅲ部では企業の枠を越えた労使関係を幅広い視点から分析しています。ということで、タイトルに示された期間の戦後日本の雇用システムの特徴は3-4点あり、まず、長期雇用、その昔は終身雇用とさえ呼ばれた長期に渡る雇用関係があります。私なんかもそれに近いのですが、高校や大学を卒業して新卒一括採用で就職し、そのまま55歳ないし60歳の定年まで同じ企業や役所で働く、ということです。次に、長期雇用と相互に補完的な年功賃金です。若い時は生産性よりも低い賃金を受け取り、年齢とともに賃金が上昇して生産性よりも高い賃金が支払われるようになる、というものです。そして、企業内組合です。欧米のような職能による労働組合組織ではなく、企業単位で職能横断的な労働組合の組織により、企業への帰属意識が高くなる効果があります。こういった、戦後すぐくらいからバブル崩壊直後の1990年代半ばまでの日本的雇用システムの形成に関する歴史的な論考です。こういったかなり漠たるシステムの形成に関する歴史ですので、実証的な数量分析は難しいのでしょうが、オーラルヒストリーという手法を取っています。対応するのはドキュメント・ヒストリーとでもいうのか、文書の史料に基づく通常の歴史学的な分析なのだと思います。歴史学では史料の分析が中心になりますが、著者は労働経済学ないしは経済史の専門ですので、オーラルヒルトリーすなわち、インタビューや証言に基づく分析手法を取っています。そして、この日本的雇用システムの連鎖プロセスを、著者たちはカギカッコ付きの「企業内民主化」の過程として理解しようとしています。というのも、戦後も1950年代の近江絹糸ストライキでは、仏教信仰の強要反対、結婚の自由、寄宿舎での信書無断開封への反対、などなど、現在では考えられないような待遇があったという点も明らかにしています。戦後すぐはホワイトカラーの職員とブルーカラーの行員の身分問題の解決から始まって、日本的雇用システム形成に至る基本的な分析結果は、内部労働市場、すなわち、配置転換や人事異動などの人事施策が企業内で発達し、それに伴って長期に渡る雇用が実現され、同時に年功に従って上昇する賃金体系が取られるようになった、という結論かという気がします。この内部労働市場の発達していない米国などでは外部労働市場に依存するわけで、企業内で完結しない転職や人事コンサルタント、あるいは、派遣会社の活用につながることになります。そして、内部労働市場が発達していればスキルアップはOJTを中心とし、長期雇用とも相まって企業特殊的なスキルで十分なのですが、外部労働市場の活用の際には、社内だけで通用する企業特殊的能力ではなく、例えば、経済学部生に当てはめれば、語学力や簿記会計といった資格で明らかに外部に示せるような能力が必要とされます。そして、転職する際にはリカレント教育を受けるチャンスがあったりもします。ですから、どちらがいいか悪いかは何ともいえませんが、日本は内部労働市場を発達させて、転職ではなく企業内の配置転換で雇用者のスキルを活かす道を選んだということです。

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次に、首藤若菜『雇用か賃金か 日本の選択』(筑摩選書)を読みました。著者は、立教大学の研究者であり、専門は労使関係論や女性労働論だそうです。実は、本書についてはよく理解していなくて、というか、情報がなくて、ある経済週刊誌のベスト経済書アンケートのリストに入っていたもので、大学の図書館から借りて読みました。何を分析しているのかといえば、コロナ禍で需要が激減した航空運輸業界のケーススタディを行い、日本や米国、あるいは、ドイツなどの労使関係を量的な雇用の確保か賃金水準の維持かのトレードオフと考えられる関係に焦点を当てています。従来の雇用や労働に関する経済的な分析では実証分析に基づき、日本では賃金は伸縮的で雇用の量的な変動が小さいイポ腕、欧米、特に米国では賃金が硬直的、特に下方硬直的であって、レイオフなどの手法で雇用が量的に変動するという意味で流動性が高い、と考えられて来ました。基本的な分析結果は従来の通説を覆すものではないものの、日本でも量的な調整が過去よりも大きくなってきている、という結果が示されています。そして、高給運輸業界だけでなく、接客業という観点からは同じようにコロナ禍に見舞われた百貨店についても、食品販売という観点でコロナの影響が小さかったスーパーなどへの出向や転籍により量的な雇用維持に努力する労使関係を描き出しています。ただし、量的な調整に対する圧力も強まっており、短期的には従来からの縁辺労働者である非正規雇用が雇用の調整弁となって変動が大きい、という事実は広く観察される一方で、実は、長期的には中核労働者とみなされてきた中高年の男性労働者が量的な雇用調整のファクターになっている、という姿が明らかにされています。そして、最後の結論として、日本においては賃金調整はボーナス制度などの伸縮的な給与体系に基づいて、スピードも速ければ規模も大きい一方で、雇用の量的調整が米国と比較すれば3-4か月遅い、と指摘し、加えて、海外と比較すれば日本においては企業レベルでの雇用の保証はかなり高いといえるが、すべての雇用が守られているわけではないことは明らかであり、社会レベルでの雇用の保証、すなわち、労働の地域的、産業間などの移動を円滑にし、その労働移動のための支援策を充実させることが重要、という結論となっています。
なお、ついでながら、著者ご本人による財務省でのセミナー資料が公開されています。私の書評なんぞよりも的確な解説だと思いますのでご参考まで。
https://www.mof.go.jp/pri/research/seminar/fy2023/lm20230530.pdf

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次に、高島正憲『賃金の日本史』(吉川弘文館)を読みました。著者は、関西学院大学の研究者です。経済の歴史である経済史の研究者の場合、稀に文学部の歴史学のご出身の研究者がいます。本書の著者の場合は経済学部のご出身のようです。通常は、経済学の研究者の場合、せいぜいが産業革命以降の近代経済を対象にしているのですが、本書では我が国古典古代のころから近代少し前の近世徳川期を中心に明治期くらいまで、上の表紙画像に見られるように1500年という超長期を視野に収めています。ということで、本書は正倉院に保管されている我が国最古の賃金記録から説き起こしています。なお、タイトル通りに、賃金が主たる解明の対象となりますが、極めて関連の強い物価や家族構造・職業構造、労働時間・余暇時間などの幅広い観点から分析しています。私ははなはだ疑問で、賃金の歴史で賃金という場合、いわゆる職人の手間賃とは違って、一定の雇用関係が必要そうな気がします。そして、本書の書き起こしでは、写経生というお経の書写を業務とする学問僧のお給料から始めています。こういった写経を業務とする学問僧の採用には一定の試験があり、今でいうところの国家公務員であったと指摘し、まあ、要するに雇われているわけです。そのお給料を史料から明らかにしています。ハッキリいって、はなはだお安いものとなっています。こういった古典古代の賃金については、国立歴史民俗博物館が提供するデータベースれきはくからデータを取っています。かなり劣悪な労働環境と低い賃金から逃亡する写経生も少なくなかった、と結論しています。その後、律令官人の間では格差が極めて大きいとか、したがって、蓄銭叙位令などによって富裕層から売位・売官の代価を得ることは貧富の格差解消の一助として所得再配分に役立っていた点などを指摘しています。中世に入ると職人という階層が成立します。その背景には、生産性工場により農業に従事する人手がそれほど必要でなくなった、という事情があります。貴族や社寺などに雇われた職人の賃金データがその雇い主の収支から明らかになるわけです。日本に限らず、世界的に中世というのは停滞していた時期ながら、未熟練労働の賃金は上昇しなかった一方で、熟練動労の賃金には一定の上昇が見られた点を本書では指摘しています。そして、安土桃山時代から徳川期は天下統一がなされて天下普請の時代に入り、生産性の向上したことから、賃金を受け取るさまざまな職業が文化されます。スミス的な分業が成立するわけです。猫のノミ取りから始まって、本書でもいろんな職業が紹介されています。徳川期にはそういった職業の序列を並べてすごろくで遊んだり、といったことも明らかにしています。明治維新後も、後半に前近代的な労働市場が残り、NHKドラマの「おしん」のような奉公の慣習が残ったり、有名な『日本之下層社会』に収録されたような貧困が広範に存在していたわけです。経済学的なエッセンスを加えつつ、歴史学のように極めて長い期間を概観し、とても興味深い分析がなされています。

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次に、米澤穂信『栞と嘘の季節』(集英社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、この作品は図書委員シリーズの第2作です。前作の『本と鍵の季節』が連作短編集だった記憶がありますが、この作品は明らかに長編と考えるべきです。同時に、『黒牢城』で直木賞を受賞後の第1作だそうです。ということで、舞台は東京郊外の北八王子市の高校であり、図書委員は主人公の堀川二郎と友人の松倉詩門です。この2人は、同じ作者の古典部シリーズの折木奉太郎と福部里志を思い起こさせると私は受け止めています。前作では、松倉の困りごとが明らかとなって、堀川はやや距離を置いて図書室で静かに待つところで終わっていて、その前作ラストから2か月を経て松倉が無事に、というか、何というか、図書委員の職務に復帰したところからお話が始まります。前作承けはこのあたりまでで、この作品では、返却された図書に押し花の栞が挟んであり、というか、忘れてあって、それが実は猛毒のトリカブトであったところからミステリとしての謎が始まります。その忘れ物をした生徒を探すうちに、写真コンテストで金賞を取った写真にトリカブトが栽培されている現場が映り込んでいて、それが校舎の裏庭だと図書委員の2人が気づいて現場に行くと、超美少女の瀬野麗がトリカブトを処分しているところに出くわします。そして、トリカブトの被害者、死にはしなかったが救急搬送されたのは、生徒から嫌われている教師だったりして、この3人のによる謎の解明が始まります。どうも、姉妹団と称するグループでトリカブトの押し花の栞を配布しているらしく、受け取った人物は「お守り」とか、「切り札」として周遊している、という事実をつかみます。これから先はネタバレになりかねないので、ここでストップします。タイトルの栞にはそういった意味が込められてますし、タイトルのもうひとつの要素である嘘については、何と、松倉でさえ堀川にウソ、というか、隠しごとをしていたりします。最後には、謎は解明され、おそらく事件は無事に終了します。この作者の古典部シリーズや小市民シリーズと同じで、高校生くらいの未成年を主人公とした青春ミステリ作品であり、重大な殺人事件ではありません。ミステリとしては些細とも受け止められる日常の謎を解くシリーズなのですが、この作品だけは殺人につながりかねないトリカブトをストーリーに持ち込んでいますので、やや趣が異なると感じる読者もいるかも知れません。私はさほど違和感なかったのですが、やや重いストーリーに仕上がっていることは事実だろうと思います。

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次に、下村敦史『アルテミスの涙』(小学館文庫)を読みました。著者は、『屍人荘の殺人』で鮎川哲也賞を受賞しデビューしたミステリ作家です。この作品は、医療ミステリに分類されるのかもしれませんが、単なる謎解きや犯人探しのミステリではなく、医療に関連して人生観やもっと大きな価値観、そして、倫理観の琴線に触れるような作品と考えるべきです。主人公は病院の産婦人科医師をしている女性であり、エマージェンシーコールを受けて脳外科病室の入院患者を診ます。自動車事故によって四肢麻痺、身動きひとつできなくなってしまった閉じ込め症候群の若い女性患者の不正出血なのですが、何と、身動きひとつ出来ず、意思疎通も困難であるにもかかわらず、妊娠10週目であることが判明します。病院としては、あるいは、政治家であるこの入院女性の両親からしても、明らかな性的暴行による妊娠であろうと結論されます。もちろん、通報されて駆けつけた警察官もそう考えます。そして、この入院患者の両親が病院外の精神科医に依頼して、私にはよく理解できなかった催眠術で妊娠させた人物が突き止められ、その人物も否定せずに警察に逮捕されます。もちろん、両親は中絶を主張しますが、主人公の産婦人科医がなかなかに複雑なまばたきによる方法で妊娠している入院患者と意思疎通を取ったところ、出産を希望している事実が判明します。政治家の父親と母親の両親には理解ないが、祖父母であれば理解して出産後の子供の面倒を見てくれる、とも主張します。ということで、ミステリですので、あらすじはここまでとします。警察に逮捕された犯人、というか、妊娠させた人物についての whodunnit、どうしてそうなったのかという howdunnit の謎も読んでいただくしかありません。しかし、それほど社会性は高くないレアケースのような気がするものの、人間としての人生や生命や愛情などについての価値観・倫理観といったとても重大な問題を提起している可能性があります。私のようなエコノミストであれば、結婚や出産というのは経済的なバックアップをいくぶんなりとも必要としている、という理由で、こういったケースの出産はオススメしない可能性が高いと思いますが、まあ、そういったエコノミストの観点は、この小説を読む場合は野暮の極みなんだろうと思います。ハイ、それくらいは理解しています。

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次に、瀬尾まい子『傑作はまだ』(文春文庫)を読みました。著者は、小説家であり、ベストセラーとなった『そして、バトンは渡された』の次に書かれたのがこの作品です。前作では血のつながらない家族をテーマとし、この作品では同じように家族の大切さがテーマとなっているようなのですが、血はつながっていても疎遠、というか、生まれてから25年間まったく交流のなかったに等しい父と倅の関係に焦点を当てています。ということで、父親の方は50歳になる引きこもりの作家であり、そこそこ売れているので生活には困らず、それなりに広い一軒家で一人暮らしをしています。そこに、私から見て不自然でヘンな理由をつけて、25歳になる息子が現れて短期間ながら同居を始めます。父親は「おっさん」と呼ばれます。父親の方も倅を「君」と呼びます。この息子が確かに血のつながった倅である点は疑いの余地はなく父親の作家から受け入れられます。というのは、過去20年間に渡って毎月10万円の養育費を送り続けていたて、その見返りに毎月写真が1枚送られてきていたからです。ただし、それは倅が20歳になるまでで最近5年間はまったくの没交渉というわけです。25歳の倅はコンビニのアルバイトという極めてありがちな設定にされています。しかし、父親の方が近所付き合いもせず引きこもっていた一方で、この倅は社交的であって積極的にご近所の主としてお年寄りと接触して、近所付き合いを開始します。町内会に入会して、いくつかのイベントに参加したりします。まあ、一般論をいえば、父親と倅の世間一般での役割が逆転しているわけで、そのあたりのストーリ作りというのは作者の力量を感じます。そして、ある時点でストーリーが急展開します。私はこのあたりで少し不自然さを感じたのですが、まあ、それほど大きく気になる部分ではありません。読者によっては十分スムーズなストーリー展開であると感じる向きも少なくないものと思います。そして、最後は、倅が父親と同居を始めた理由が明かされ、母親や作家の両親も含めたハッピーエンドが待っています。そのあたりは読んでいただくしかないのですが、私はこの作品はオススメだと思いますし、その私の評価からすれば、決して期待は裏切られないものと思います。
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2023年11月25日 (土) 09:00:00

今週の読書はグローバル化の変質を論じた経済書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)では、かつてのグローバル化の方向が、最近では米中の対立に始まって、ロシアのウクライナ侵攻などに起因して、分断=デカップリングの方向に進んでいることから、地政学や経済安全保障の観点も含めたグローバル化の進展を論じています。東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)では、人気のミステリ作家による作品で、警視庁刑事の加賀恭一郎が避暑地の夏のパーティーの夜に起こった連続殺人事件の謎を解き明かします。吉原珠央『絶対に後悔しない会話のルール』(集英社新書)では、会話を台無しにする思い込みや決めつけを排して、観察に基づくコミュニケーションを論じています。新堂冬樹『ホームズ四世』(中公文庫)では、ホームズの曾孫に当たる歌舞伎町のホストがワトソンの曽孫と2人で行方不明の質屋の経営者を捜索します。伊坂幸太郎ほか『短編宝箱』(集英社文庫)は短編集であり、特に、米澤穂信「ロックオンロッカー」で、図書委員の高校生2人がケメルマンの「9マイルは遠すぎる」ばりの推理を披露します。最後に、青山美智子ほか『ほろよい読書 おかわり』(双葉文庫)も短編集で、冒頭に収録されている青山美智子「きのこルクテル」では、作家を目指す青年がライターとして雑誌のアルバイトで、下戸にもかかわらず、取材のためにバーを訪れます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週までに17冊、今週ポストする6冊を合わせて197冊となります。どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうな気がしてきました。

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まず、馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)を読みました。編著者は、順に、杏林大学・早稲田大学・慶応大学の研究者であり、専門分野は国際経済学や貿易論などです。本書では、従来のグローバル化、すなわち、世界経済に網を広げたサプライチェーンやグローバル・バリューチェーンが、米中対立や、さらに、ロシアによるウクライナ侵攻などにより分断ないしデカップリングを生じ、地政学や経済安全保障の観点もグローバル化の分析に必要となった段階の国際経済分析を展開しています。時系列的にガザ地区での軍事衝突は本書のスコープ外ですし、現時点では明白なな石油供給などにおける制約は出ていませんが、パレスチナとイスラエルの対立も深刻さを増しています。本書は5部構成であり、第Ⅰ部ではサプライチェーンやグローバル・バリューチェーン、第Ⅱ部ではロシアによるウクライナ侵攻に対する経済制裁、第Ⅲ部では自由貿易協定などの地域連携の進展、第Ⅳ部では経済安全保障について、それぞれ議論を展開しています。渡しの場合は、特に、サプライチェーンやグローバル・バリューチェーン、さらに、経済安全保障との関連で、私自身が弱くて等閑視していた分野ですので、授業準備も含めて勉強のために読みました。まず、冒頭から明らかなのですが、私の大きな疑問は、WTOドーハ・ラウンドでのシアトル会合が失敗した原因は反グローバル化の直接的な行動だったのですが、それと同様に、米国的なフレンド・ショアリング、すなわち、自由と民主主義といった価値観を同じくする友好国の間で経済関係を進化させ、場合によっては、自由と民主主義ではない専制的ないし権威主義的な国と分断してもしょうがない、あるいは、積極的に分断でカップリングする、という経済政策は、ブロック化のリスクが大いにある、ということです。第2次世界大戦の前における世界経済のブロック化から戦争に至った経緯を反省して、すべての国が平等に加盟する国際連合=国連が発足し、経済分野でも貿易に関してはGATT、その後のWTOがマルチの場を提供し、ラウンド交渉により最恵国待遇をテコにして世界全体での貿易や投資の拡大、ブロック化しないマルチの世界経済全体での繁栄を目指していたハズなのですが、ドーハ・ラウンドの失敗とその後のマルチの場での貿易交渉の停滞により、ブロック経済化が進んでいるように、私には見えます。ブロック経済化の背景には価値観を同じくする友好国でグループを結成し、分断ないしデカップリングが経済的にも政治外交的にも進んでいる、という事実があります。そして、世界経済だけでなく、先進国の国内経済や政治的な面でも分断が進んでいるおそれが散見されます。米国では前のトランプ政権の誕生がそうですし、英国のEUからの脱退、BREXITもそうです。大陸欧州諸国ではポピュリスト政党の躍進が見られましたし、アルゼンチンではとうとう極右の大統領が誕生しました。国内レベルでの分断は本書の分析とは少し離れますが、本書で着目する世界経済レベルでの分断を背景に、サプライチェーンの安全保障が、例えば、私が知る限りでも昨年の「通商白書2022」あたりから明示的に議論され始めています。日本の場合、米中対立においては、同盟関係から米国サイドに立つわけですし、自由と民主主義という価値観と専制的ないし権威主義的な価値観でも前者に属すると考えられるのですが、政治・外交的な見地からサプライチェーンやグローバル・バリューチェーンを構築するのか、あるいは、逆に、サプライチェーンやグローバル・バリューチェーン構築の必要から政治・外交の立場を決めるのか、難しい選択なのかもしれません。少なくとも、第1次及び第2次石油危機の際には、日本は後者の選択を取ろうとしたと見られる動きもあったと記憶しています。世界における日本のプレゼンスが大きく低下し、外交における発言力も小さくなっていますが、日本が世界に対して何らかの発信をする必要があるのかもしれません。

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次に、東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)を読みました。著者は、我が国を代表するミステリ作家の1人であり、私がクドクドと述べるまでもありません。本書も最近よく売れているミステリですから、簡単に紹介しておきたいと思います。謎解きは、警視庁刑事である加賀恭一郎で、リフレッシュ休暇っぽい長期休暇中の行動です。事件は8月上旬に、いかにも軽井沢を思わせる別荘地のパーティーの夜に起こった連続殺人事件です。犯人はすぐに捕まりますが、自供が得られずに真相が不明のまま2か月ほど経過します。この殺人事件を加賀恭一郎が、現場での遺族による事件後に開かれた検証会に出席して、少し現場を見て回りはするものの、安楽椅子探偵のように解決します。ただ、純粋に安楽椅子探偵ではなく、殺害現場で実に重要な発見をしたりします。地元県警所轄署の担当課長もこの検証会に出席しているのですが、ここまで重要な発見を警視庁刑事にされてしまうのも、大きな困りものだという気が私はしました。関係者、というか、殺された被害者や負傷者をはじめとするパーティー出席者は軽井沢を思わせる別荘地に別荘を持っているわけですから、いわゆる「別荘族」であり、お金持ちです。ある意味では、その昔にはやった言葉で「勝ち組」ともいえます。小説の登場人物は主要にはパーティーの出席者であり、その中で被害者はナイフで殺されたり怪我を負ったりしますが、順不同で私が記憶している登場人物は以下の通りです。第1に、公認会計士の夫と美容院経営の妻とその中学生の娘の一家は、夫婦2人が殺されます。第2に、病院経営の院長とその妻と夫婦の娘とその娘の婚約者の一家は、病院院長が殺され、娘の婚約者が軽傷を負います。第3に、企業のオーナー経営者夫妻が殺人事件が起こった夜のパーティーを主催しているのですが、夫人の方が実は夫よりも陰の実力者で「女帝」とされています。第3のオマケとして、従業員夫妻と小学生の子供もパーティーに出席しています。「女帝」の経営者夫人が殺害されます。第4に、夫を早くに亡くして東京から別荘に移り住んだ40代の女性とその姪と姪の夫の一家は、姪の夫が殺されます。加えて、登場人物ではあるもののパーティー出席者ではない登場人物が2人います。すなわち、まず加賀です。最後の家族の姪は看護師をしていて職場の同僚から加賀を紹介されて、検証会に加賀の同行を求めます。最後に、繰り返しになりますが、地元所轄署の刑事課長も検証会に同席します。検証会は2日に及び、初日は検証会出席者が宿泊するホテルの会議室、2日めは現場を歩いて回ります。謎解きは東野作品らしく鮮やかですが、まあ、特別なところはありません。でも、最後の最後にどんでん返しが待っています。これは鮮やかなものです。もっとも、『方舟』のような反転してひっくり返るような turnover のどんでん返しではなく、チョコっと付加されるヒネリという意味での twist のどんでん返しです。ミステリですので、謎解きは読んでいただくしかありませんが、最後に私個人の感想として、別荘を持つくらいのお金持ちであれば、やっぱり、こういった裏の顔があることは、人生60年余り生きて来てそうだろうと実感しています。その昔の公務員をしていて統計局に勤務していたころ、統計局には非常にナイーブな人が多く、役所で出世して局長だとか課長になっている人は人格も高潔なのだろうと考えている人ばっかりで大いにびっくりしたことがあります。国家公務員として役所で出世している人の中には、全員とはいいませんが、たぶん、腹黒さでは世の中の平均よりも腹黒い、というのが私の実感です。ひょっとしたら、大企業でもそういった例が決して少なくない可能性は感じます。平均的なキャリア公務員よりも出世できなかった私自身が自分で人格高潔と主張するつもりはありませんが、人並み以上に出世している公務員なんて、ロクなものではないと思うのが通常のケースではないかという気もします。このミステリでは、主目的ではないのは当然としても、そういった世間の「勝ち組」の裏の顔を見ることができます。

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次に、吉原珠央『絶対に後悔しない会話のルール』(集英社新書)を読みました。著者は、ANA(全日本)、証券会社、人材コンサルティング会社などを経てコミュニケーションを専門とするコンサルタントとして独立した活動をしている、ということです。いろんな職業の中で、噺家と教員ではしゃべるスキルが重要です。本書はよりインタラクティブな会話に焦点を当てていて、噺家や教員に必要とされる一方的なおしゃべりとは違うのですが、まあ、何と申しましょうかで、授業の改善に役立つかと考えて読んでみました。本書で主張されているのは、先入観に基づく何らかの思い込みや決めつけが会話を台無しにし、コミュニケーションを阻害する、ということで、これを防止して心地よい会話にするためには会話の相手をしっかり観察する必要がある、ということにつきます。ただ、それができないから苦労しているのではないか、という気もします。ゴルフで、ティーグラウンドでドライバーを振って、フェアウェイ真ん中に250ヤード飛ばせ、というアドバイスと同じで、それをするために何が必要かという点が必要になる、という意味です。加えて、会話ではないでしょうが、大学の講義の場合、数百人の学生を相手にするわけで、出席学生全員を正確に観察することも不可能に近いものがあります。ということで、私が公務員のころに政治家のいわゆる「失言」をいくつか見てきましたが、その大きな原因のひとつはウケ狙いでジョークを飛ばそうとして滑るケースです。ですから、それを避けるためには、ウケ狙いをせずに面白くなくていいので正確な表現を旨とすることです。そうです。そうすれば、役人言葉に満ちていて正確だが何の面白味もない会話が出来上がるわけです。基本的に、大学の授業とはそれでOKだと私は考えています。少し前に強調された「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」というのがありますが、大学の授業、少人数で顔と名前が一致してそれなりの親しい間柄といえるゼミなどでは、あるいはOKかもしれないと思うものの、数百人が出席する大規模な講義などでは差別的な発言などのポリコレに反した発言を含む授業はすべきではありません。これはいうまでもありません。でも、そうすると、繰り返しになりますが、正確かもしれない反面、面白味がなくて印象に残らず、したがって、専門知識や教養として身につかない授業になる恐れすらあるわけで、そこは公務員とは違って教員として面白くかつ印象に残る授業を模索する毎日です。長い旅かもしれません。

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次に、新堂冬樹『ホームズ四世』(中公文庫)を読みました。著者は、小説家です。タイトル通りに、シャーロック・ホームズの子孫が活躍するミステリ・サスペンス小説です。歌舞伎町ホストクラブ「ポアゾン」ナンバーワン・ホストである木塚響はホームズの曾孫、ひ孫に当たります。ホームズの孫に当たる父親は探偵事務所を経営しています。ホームズの子供、すなわち、主人公である木塚響の祖父が、ホームズ物語でも言及されているバリツ=柔術を極める目的で来日し、そのまま日本に居着いた、ということになっています。そして、この主人公のホストクラブの太客である加奈という質屋の経営者が行方不明になり、質屋の店長から捜索の依頼が入ります。そして、なぜか、その質屋の店長は別の探偵事務所の女性探偵である桐島檸檬にも同じ依頼をしていて、2人が共同で捜査に当たります。そして、この桐島檸檬はワトソン医師のひ孫であり、彼女の父親も探偵事務所を経営しています。桐島檸檬はとてもタカビーなキャラに設定されています。他方で、木塚響は割合と謙虚なキャラに設定されています。そして、ジェームズ・モリアティ教授の孫と称するする女性ラブリーが敵役キャラとして登場し、ついでに、モラン大佐の孫も登場したりします。ということで、とても突飛であり得なくも、ぶっ飛んだ設定のミステリ、サスペンス小説です。一応、失踪人捜索で謎解きの要素はそれなりにありますのでミステリといえます。ただ、登場人物がすべてホームズ物語の子孫というあり得なさの上に、モリアティ教授の孫と称するラブリーは世界政府のように、世界を裏で牛耳る組織の日本支部長で、政治家からヤクザの裏社会まで、すべてを動かせる権力を持っている、という、これまた、不可解かつ荒唐無稽な設定になっています。ただ、殺人や暴力の要素はほとんどなく、男女が入り乱れますが、エロの要素もほとんどありません。荒唐無稽な設定とはいえ、それは「ドラえもん」の道具と同じで、それなりに夢を感じる読者もいるかも知れませんし、そもそも、ホームズその人がフィクションの世界にいるわけですので、そういった設定を難じるのは野暮というものです。もちろん、ミステリですので、謎解きや事件の真相などは読んでいただくしかなく、あらすじなどもここまでとしますが、まあ、面白かったですし、それなりに記憶にも残る内容です。個人的な事情を明らかにすると、私は基本的に学術書を中心に据えた読書なのですが、町田その子の『52ヘルツのクジラたち』と『魚卵』を読んだ上に、辺見庸『月』でとどめを刺された形になって、先週までの重い読書のために、メンタルに変調を来す恐れすらあると自覚していたので、この小説を手に取りました。そういった軽い読書を求める目的、あるいは、それなりにページ数もありますので、時間つぶしにはもってこいです。その意味で、いい本でしたし、オススメです。

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次に、伊坂幸太郎ほか『短編宝箱』(集英社文庫)を読みました。著者と短編タイトル、さらに、簡単な紹介は以下の通りです。伊坂幸太郎「小さな兵隊」では、小学校4年生の岡田くんが教室にある他児童のランドセルに印をつけたり、学校の門にペンキをかけたりする問題行動を取るのは深いわけがありました。でも、その背景までは岡田くんには理解できていませんでした。奥田英朗「正雄の秋」では、ライバルとの局長への出世競争に破れた50歳過ぎのサラリーマンは総務局勤務あるいは関連会社の役員としての出向の選択肢を示されますが、妻とともに人生の進路についていろいろと考えを巡らせます。米澤穂信「ロックオンロッカー」では、図書委員の高校生2人がケメルマンの「9マイルは遠すぎる」ばりに、美容店店長の「貴重品は、必ず、お手元におもちくださいね」の「必ず」から推理を働かせます。東野圭吾「それぞれの仮面」では、ホテル・コルテシア東京の山岸尚美が元カレのトラブルを解決します。桜木紫乃「星を見ていた」でが、ホテル・ローヤルの従業員の女性に次男坊から優しい手紙が現金といっしょに送られて来ましたが、その稼ぎ方は本人が主張するように左官として働いたからではなく、犯罪行為に関与している疑いがあると報道されます。道尾秀介「きえない花の声」では、主人公の母親は夫、すなわち、主人公の父親が職場の若い女性と浮気しているのではないかと長らく疑っていましたが、後年、昔の勤務先近くに主人公といっしょに旅行した際に、職場での夫の秘密の行動の真相が明かされます。島本理生「足跡」では、人妻の不倫について、「治療院」と称する場で働く男性と主人公の関係から、この作者らしく、うまくいきそうでうまくいかない男女のビミョーな関係を描き出しています。西條奈加「閨仏」は江戸時代が舞台の時代小説で、青物卸商が妾4人を同じ家に住まわせるている中の1人、おりくが木製の仏像作成を始めますが、それが寝室=閨で使うものだったりします。荻原浩「遠くから来た手紙」では、30代で子供ができたばかりの女性が夫婦喧嘩で乳飲み子を連れて実家の静岡に帰って来ると、旧漢字で文字化けするメールが来るようになりますが、何と、差出人は戦争で亡くなった祖父からでした。浅田次郎「無言歌」では、戦争中に大学生から学徒動員された即席士官が海軍に入隊し、仲間や部下の下士官とともに短かった人生を語り合います。朝井リョウ「エンドロールが始まる」では、卒業式の日の女子高校生が図書室で高校生活を思い返すのですが、卒業する母校は他校と合併してなくなってゆくため、エンドロールのように思いが湧き上がります。ということで、長くなりましたが、かなり水準の高い著者による出来のいい短編集です。ただし、それだけに、私の場合は既読の作品が多かったです。直感的員、⅔くらいは既読だったような気がします。でも、再読であったとしても、水準高い短編ですので、特に、私のような記憶力のキャパが小さい人間には、とてもいい時間つぶしだと思います。


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次に、青山美智子ほか『ほろよい読書 おかわり』(双葉文庫)を読みました。なお、おかわり前の『ほろよい読書』も私は読んでいます。短編集で、作者はすべて女性小説家です。タイトルから理解できるように、お酒にまつわるエピソードを集めたアンソロジーです。収録順に、著者と短編タイトルとあらすじは以下の通りです。青山美智子「きのこルクテル」では、大好きな女性小説家の作品を目標に作家を目指す青年が、ライターとして雑誌のアルバイトで、下戸にもかかわらず、取材のためにバーを訪れると、美人バーテンダーがいて酒も飲まずにキノコの話題で盛り上がります。でも、その美人バーテンダーの正体が、何と…、というストーリーです。朱野帰子「オイスター・ウォーズ」では、高偏差値大学出身の女性とベンチャー企業の男性オーナーが、SNSを通じて知り合って、というか女性の方から男性を狙って、かつての復讐のために牡蠣を食べにオイスター・バーで2人で腹のさぐりあいを展開します。一穂ミチ「ホンサイホンベー」では、主人公の父親が死んで、再婚相手のベトナム人とベトナムのジンを飲んで、かつてのわだかまりを解消させる女性の心情を描き出しています。タイトルはベトナム語であり、Không Say Không V'ê と綴ります。「酔わずに帰れるか!」という意味だそうです。ただ、正確にベトナム語を写していないので、似たような記号を使っています。悪しからず。奥田亜希子「きみはアガベ」では、中学生の女子のあるべき姿への童貞と恋の物語をテキーラの原料となるリュウゼツランにからませて展開します。西條奈加「タイムスリップ」はちょっと不思議な体験で、主人公の女性がふらりと入った居酒屋で若い店員から薦められた日本酒をいくつか味わうのですが、別の日に同じ場所にある居酒屋に行くと、店の名が変わっている上に、働いているのもかなり年配のオジサンばかり、という経験をします。繰り返しになりますが、タイトル通りに、すべてお酒にまつわる短編で、作者のラインナップを見ても理解できるように、出来のいい上質な短編が収録されています。これはこれで、オススメです。
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2023年11月19日 (日) 15:00:00

今年2023年のベスト経済書やいかに?

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師走が近づき、例年通りに「今年のベスト経済書」のアンケートが届く季節になりました。今年は財政政策に関して、私の見方に極めてよく合致する本がいくつか出版されましたので、次の2冊を上げようと考えています。


私はこれら2冊を主たる参考文献として、今年の夏休みに紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" を書いています。例えば、論文の冒頭で、"In general, public debt is widely regarded as bad, as mortgaging the future, or government borrowing would cost our children/grandchildren. Public debt and fiscal deficit must be, however, analyzed from the viewpoint of economic welfare, i.e., from both sides of cost and benefit. Blanchard (2022), e.g., suggests that debt might indeed be good under the assumption of certainty." すなわち、「一般に、公的債務は悪であり、将来からの借入れであるため、子孫に損害を与えると広く考えられています。 しかし、公的債務や財政赤字は、経済厚生の観点、つまり費用と便益の両面から分析されなければなりません。 たとえば、Blanchard (2022) は、確実性を仮定すれば借金は実際に良いものであるかもしれないと示唆しています。」などなどです。参考文献の Blanchard (2022) は、上に示した今年のベスト経済書候補の1番手です。私は現代貨幣理論(MMT)のように政府債務は無条件のサステイナブルであるとまでは考えませんが、政府の財政赤字や公的債務についてヒステリックに否定するだけでなく、コストとベネフィットの両面からバランスよく分析する必要があると考えています。紀要論文に書いた通りです。
昨年は、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)をイチ推ししたのですが、大きくハズレてしまいました。今年も外すかもしれませんが、引き続き、ネオリベな経済政策に反対する立場を鮮明に打ち出したいと思います。ということで、果たして、今年のベスト経済書やいかに?
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2023年11月18日 (土) 09:00:00

今週の読書は一風変わった価格形成に関する学術書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、オラーフ・ヴェルトハイス『アートの値段』(中央公論新社)は、オランダの社会学者が絵画を例に取って一般的な規格品などとはまったく異なる芸術品の価格決定メカニズムの解明を試みています。ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店)は、経済学ではなく哲学の観点から因果性・因果関係について論じています。髙石鉄雄『自転車に乗る前に読む本』(ブルーバックス)は、「疲れない」をキーワードに自転車を活用した健康増進を推奨しています。町田その子『ぎょらん』(新潮文庫)は、死に際して死に行く人の思いが残されるぎょらんをめぐる人生の転変を描き出しています。次に、篠田節子『田舎のポルシェ』(文春文庫)は、長距離を自動車で移動する人々を主人公にした新しいタイプのロード・ノベルです。最後に、辺見庸『月』(角川文庫)は、相模原にあった障害者施設の津久井やまゆり園での殺人事件を題材にしたと思われるフィクションであり、入所者のきーちゃんから見てさとちゃんがどのように犯行に及んだかを描写しようと試みています。
また、新刊書読書ではないので、ここには含めませんでしたが、詠坂雄二『人ノ町』(新潮文庫nex)を読みました。Facebookですでにシェアしてあります。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週までに11冊、今週ポストする6冊を合わせて191冊となります。どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうな気がしてきました。

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まず、オラーフ・ヴェルトハイス『アートの値段』(中央公論新社)を読みました。著者は、オランダにあるアムステルダム大学の研究者であり、専門は経済社会学、芸術社会学、文化社会学であり、エコノミストではありません。英語の原題は Talking Prices であり、2005年に米国プリンストン大学出版局から出版されています。本書は、極めて希少性の高い美術品の価格設定についての研究成果です。ほぼほぼ学術書と考えて差し支えありませんが、経済学、というか、計量分析を多用しているわけではありませんので、それほど学術っしょぽくはありません。まず、私なりに経済学的に価格設定を考えると、多くの場合はコストにマークアップをかけている場合が多いのではないか、と感じています。需要が強かったり、独占度が高かったりすれば、マークアップの割合が高くなるのは当然想像できる通りです。しかし、美術品、本書では主要には絵画や彫刻を想定していて、おそらく、文学作品の出版物とか、音楽で言えばコンサート鑑賞のための価格、あるいは、録音メディアの価格ではなく、単品、すなわち、唯一それしかないという絵画や彫刻などの美術品を念頭に、価格設定について分析しようと試みています。主たる分析方法はインタビューと簡単な数量分析ですが、圧倒的に前者の方法論が取られています。インタビューの場所は米国ニューヨークと著者の地元であるアムステルダムです。まず、本書で考える美術品は、芸術家、アーティストが生産します。そして、まず第1次(プライマリー)市場であるギャラリーにおいて固定価格、あるいは、リストプライスでコレクターに対して売却されます。固定価格というのは、第2次(セカンダリー)市場のオークションにおける競り値と対比しているわけです。あるいは、第3次以降の市場があるのかもしれませんが、第1次市場から後の流通市場は第2次市場と一括して呼んでおきます。第2次市場では、コレクターが直接オークションに出品する場合もありますが、ディーラーないしアート・ディーラーが仲介する場合も少なくありません。美術品市場で特徴的なのは、第1次市場のギャラリーで、例えば、個展を開催してディーラーが仲介しつつモン、ここではディーラーとアーティストの協議に基づいて価格が設定される点です。ですから、個展に行くと「売却済み」の作品がいくつかあるのを見ることがあります。「売却済み」の札が貼ってあれば、より高い値段を申し入れても買えるとは限りません。すなわち、第2次市場のようなオークションで競売されるわけではありません。しかし、作品が、あるいは、作者である芸術家が評価を高めると、第2次市場に出回ることもあり、その場合は多くの場合で第1次市場の価格よりも高い価格で落札されることになります。ゴッホやセザンヌの場合、第1次市場ではほとんど値がつかずにタダで引き取られた作品も少なくない、というのは広く知られているところです。そして、美術品を仲介するディーラーが何よりも重視するのは、作品の芸術性を反映した価格が設定されることだと本書では指摘しています。しかし、芸術性だけでなく、芸術家、ディーラー、オークションハウス、コレクターなどの多くのプレーヤーによる「意味交換システム」の中で決定される、という結論です。この「意味交換システム」がどういうものかは、本書を読んでいただくしかありませんが、商業的な俗な方向に流されるのではなく、芸術本来の方向を守理、同時に、芸術家を守るという守護神の役割をディーラーは果たそうとして、資産としての商業的な価格ではなく、あくまで芸術品としての評価を反映した価格をディーラーは追求するわけです。実際に、芸術家やディーラーが、どのような考えに基づいて、どのような価格設定行動を取っているのか、私は専門外にして知りませんが、本書の著者が実施したインタビューでは、そのような回答が多くなっているようです。こういったあたりは、多くの読者が想像できる範囲ではありますが、それが学術的に詳細に既存研究を引用しつつ検証されているのが本書の特徴です。エコノミストの私でも、一読の価値があったと思います。

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次に、ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店)を読みました。著者は、CUBRC科学研究員ということのようですが、これだけでは私は何のことやらサッパリ判りません。まあ、ご専門は哲学のようです。英語の原題は Causation であり、2014年の出版です。なお、本書の邦訳書は2019年の出版であり、この読書感想文は新刊書読書を対象に最近2年くらいまでの出版物を取り上げているのですが、本書だけは別途の必要あって読みました。まったくの専門がいながら、ついでに読書感想文として含めておきます。ということで、まず英語の原題 Causation なのですが、因果関係がcusalityで、因果性はcausationなのか、と語学力に自信のない私なんぞは考えてしまったのですが、p.18のQ&Aで両者に違いはなくまったく同じ、と著者自身が記していて安心しました。哲学の学術書ですので、経済学の因果性や因果関係とは別の切り口になっています。すなわち、単称因果と一般因果、線形因果と非線形因果、産出的因果と差異形成的因果、影響ベース因果と累計ベース因果、の4つの観点から因果性を考えています。単称因果とは現実因果とも呼ばれ、実際の事象について当てはめられます。彼は自転車で転倒したので怪我をした、といった具合です。それに対して、一般因果は、一般的に当てはまる因果性で、ガラスのコップを落とすと割れる、といったカンジです。線形因果とはコイルのバネ秤に100グラムの重りを5コつけると500グラムになりますが、5コの重りはそれぞれ同じようにバネ秤に作用するのが線形因果で、何らかの限界値があって、例えば、50キログラムまでしか測れない秤に10キログラムの重り10コをつけて秤が壊れると、その因果関係は10コの重りに平等にあるわけではない、という非線形性です。産出的因果は、特定の原因が特定の結果をもたらすことで、自転車で転倒したのが怪我の原因、という因果関係で、差異形成的因果とは、誰かに自転車を貸してあげて、その借りた人が自転車で転倒して怪我をした、といった場合の自転車を貸すという行為と怪我という結果の間の因果性です。最後の影響ベース因果と累計ベース因果は、お酒を飲むと酔っ払う、というのが影響ベースであり、繰り返して何日もお酒を飲み続けるとアルコール依存症になる、というのが累積ベース因果です。ただ、やっぱり、経済学と哲学の因果性は大きく異なります。経済学では相関関係と因果関係を強く意識します。しかし、時には経済の循環の中でこの相関関係が逆の因果関係に転ずる場合が少なくありません。例えば、景気がよくなると失業が減り、失業が減れば経済全体として所得が増える人が多くなって、さらに売上げが伸びて景気がよくなる、というスパイラル的に正のフィードバックをもって経済が循環するケースが少なくないです。さらにやっかいなことに、景気と失業だけではなく、3つ以上の要因が複雑に絡まり合っているケースも経済学の分析対象ではいっぱいあります。日本だけではなく、世界的に、低所得と肥満と喫煙はお互いに強く相関し合っている場合が少なくないのですが、どれがどれの原因で結果なのかは判然としません。しかも、多くのデータサイエンティストが認めるところでは、サンプル数が多くなり、いわゆるビッグデータが利用可能になると因果関係がそれほど重要ではなくなり、相関関係の方が重視されます。さらにもっといえば、無相関なのに確実な因果関係が存在あする場合もあったりします。ある研究成果によれば、性交と妊娠は無相関なのですが、性交が妊娠の原因であることは、高校教育を受けたことがある常識的な日本人なら理解していると思います。ということで、とても難しい因果性・因果関係に関する哲学分野の学術書でした。

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次に、髙石鉄雄『自転車に乗る前に読む本』(ブルーバックス)を読みました。著者は、名古屋市立大学の研究者であり、自転車による健康づくりが主たる研究分野のひとつのようです。冒頭に本書の目的が明記されていて、食生活の西洋化などによって日本人の体型が変化してきており、例えば、ボディマス指数(BMI)で計測すると、特に男性の肥満化が進んでいることから、自転車による健康増進、それも、疲れないことをキーワードとして、つらくなく長続きする運動を科学的に解説しようと試みています。ほぼ第1章だけで著者のいいたいことは尽きている気もしますが、すべからく自転車による長続きする運動がいいことが強調されています。歩行、すなわち、ウォーキングよりも運動強度が高く、したがって、カロリー消費も多くなり、中年期以降では筋力アップにもつながります。さらに、屋外でのサイクリングは疲労感よりも爽快感の方が上回る、といった具合です。私自身は、退院した後にはさすがに屋外の自転車は自粛して室内のエアロバイク、本書でいうところの自転車エルゴメーター中心でしたが、たしかに、屋外の自転車は爽快感がタップリです。ただ、今年のような酷暑の際には考えものかもしれません。また、疲れにくいという点を強調して、ペダルを漕ぐ際に膝が伸びるようにサドルを高く設定する必要も主張しています。私の勤務している大学の自転車置き場にも、スポーツ自転車にもかかわらず、やたらとサドルを低くしてるケースを見かけたりしますが、単に私の目から見てカッコ悪いだけでなく、運動生理学の観点からもサドルを高くする必要が明らかにされています。そして、ロードバイクに乗っている上級者なんかを見て明らかなように、番号の小さい軽めのギアで回転数を上げて漕ぐことが推奨されています。どのタイプの自転車がいいかというと、クロスバイクを推奨しているように私には感じられました。まあ、常識的なラインではないかという気がしますが、私はカッコをつけるにはマウンテンバイクもいいと思っています。また、運動強度という観点から電動アシスト自転車には、私自身は手を出しかねているのですが、電動アシストでも立派に運動できると、使い方、というか、電動アシスト自転車の乗り方の解説もあります。自転車は有酸素運動ですから脂肪燃焼に役立ちますが、その際の運動強度の目安は心拍数であると指摘しています。もちろん、運動生理学の観点から、心拍数だけでなく、血糖値や何やといったデータも豊富に示されています。もっとも、統計局に勤務経験あるエコノミストの目からすれば、ややデータの取り方に気がかりな点がないわけではありませんが、学術論文に採択されているような結果もあり、私のような自転車シロートが気にすることではないかもしれません。最後に、自転車に関連して、最近、Moritz Seebacher "Pathways to progress: The complementarity of bicycles and road infrastructure for girls' education" という Economics of Education Review 誌に掲載された教育経済学の論文が面白かったです。道路インフラを整備し自転車を普及させれば、低所得国の女子教育の改善につながることを検証しています。まあ、エコノミストの中でもこんな論文を読んでいる人は少ないと思いますが…

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次に、町田その子『ぎょらん』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家です。この作品は連作短編集であり、収録されている短編は、「ぎょらん」、「夜明けの果て」、「冬越しのさくら」、「糸を渡す」、「あおい落葉」、「珠の向こう側」、「赤はこれからも」の7編です。最後の「赤はこれからも」は文庫化に当たって、単行本の短編に書下ろしで付け加えられています。ぎょらんとは、人が死に際しての願いや思いがいくらに似た形状の赤い珠になり、それを口に含むと思いが伝わるとされています。連作短編のすべてに登場するのは御船朱鷺という青年です。彼は、大学に入学したばかりのころに長い付き合いの友人が自殺し、そのぎょらんを口にして自殺した友人が自分に対して大きな恨みを持っていたことを知り、大学を退学して自宅に引きこもり30歳になります。ただ、いろいろとあって、葬儀社に就職して人を送る仕事を始めます。そもそも、ぎょらんというのは、マンガ雑誌に連載されていたマンガ、そのタイトルが「ぎょらん」というマンガに由来するのですが、作者はもう亡くなっており、ネット上にはぎょらんを解明、検証する掲示板(BBS)が設置されたりしています。そして、御船朱鷺は「珠の向こう側」でそのマンガ「ぎょらん」の作者の家族に会います。その女性からぎょらんとは何かを聞き出します。これはまったく私の想像通りでした。ヒント、というか、実際に、同様の例はハリー・ポッターのシリーズの第7巻最終巻『死の秘宝』におけるハリーとダンブルドア先生の会話に出てきます。ダンブルドア校長先生はすでに死んでいるのですが、ハリーと会話を交わします。ハリーはダンブルドアが死んでいるはずなのに、こうして会話できている点をいぶかしみ、このダンブルドアとの会話についてダンブルドアに質問し回答を得ます。ぎょらんは、その回答と基本的に同じといえます。ネタバレになるので、ぎょらんの正体についてはここまでとし、あとは小説を読んでいただくしかありませんが、それなりの常識ある読者であれば理解できると思います。最後に、この作者の作品は『52ヘルツのクジラたち』を呼んだところだったのですが、この作品も重いです。人が死ぬ際に残すぎょらんですから、常に死とともにあります。当然です。そして、ぎょらんを口に含んで死者の思いを得ることが、実際には、どのような結果をもたらすかについては、もう論ずるまでもありません。少なくとも、私は親しい人の死に際の思いを知ろうとは思いません。というか、絶対にカミさんの死に際の思いは知りたくありません。通常の夫婦は亭主の方が先に死ぬケースが多いと思うのですが、もしも我が家でカミさんが私よりも先に死んでぎょらんを残しても、私は絶対に口に入れないでしょう。

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次に、篠田節子『田舎のポルシェ』(文春文庫)を読みました。著者は、小説家なのですが、昭和の損保OLの小説『女たちのジハード』で第117回直木賞を受賞しています。この本は、短編というよりは少し眺めの中編くらいの3話を収録しています。順に、「田舎のポルシェ」、「ボルボ」、「ロケバスアリア」となります。すべて自動車にまつわるお話ですので、ロード・ノベルと紹介されているのも見かけました。「田舎のポルシェ」では東京出身で岐阜在住の女性が主人公です。主人公が、東京の実家まで自作米を引き取るため大型台風が迫る中、強面ヤンキーの運転する軽トラで東京を目指す道中のストーリーです。いろんなハプニングがいっぱい起こります。「ボルボ」は企業戦士だった男性2人が志を達することなく退職し、北海道までボルボで旅行します。このボルボが20年ほど乗り尽くされて廃車寸前ながら、北海道で熊を相手に大活躍します。最後の「ロケバスアリア」では、コロナでいろんなイベントが中止される中、カラオケ自慢の年配女性が、憧れの歌手と同じステージに立ちたいと浜松までロケバスで移動し、その歌唱をCDに収録しようとします。最後の「ロケバスアリア」はややコミカルなタッチで進行しますが、それ以外の2編はそれなりに重いというか、考えさせられる部分が少なからずあります。私自身は今世紀に入ってジャカルタから帰国して、東京ではもちろん、開催に帰ってきてからもまったく車を運転することはなく、ましてや、岐阜から東京とか、北海道まで自動車で旅行したりなんぞという遠距離を自動車で移動することがなく、近場で自転車、というばかりなのですが、自動車に愛着を感じる向きには実感するところがあるかもしれません。特に、「ボルボ」については、死にゆく廃車寸前のボルボの活躍に拍手したり、涙したりする人がいそうな気がします。作者のストーリー構成の上手さに感心しました。

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最後に、辺見庸『月』(角川文庫)を読みました。著者は、共同通信のジャーナリストであり、作家やエッセイストとしてもご活躍です。この作品はあくまで小説であり、巻末に「本作品はフィクションであり、実在の人物、団体、組織とは一切関係ありません。」というお決まりの文句が並べてありますが、相模原にあった障害者施設である津久井やまゆり園における入所者19人の殺害事件を描き出そうと試みていることは明らかです。この事件の殺害犯は植松聖(うえまつさとし)であり、すでに横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を受け、控訴を取り下げたことで死刑が確定しています。本書では「さとくん」として登場しています。そして、主たる語り手は入所者の「きーちゃん」であり、「寝たきりのごろっとしたかたまりにすぎないあたし」(p.93)と自ら称しています。さとくんの心境の変化が極めて写実的に描き出されています。教授の自慰行為あたりからさとくんの「人間」に関する定義に大きな変化が見られ始めるのが手に取るように判ります。実は、私自身の肩書が「教授」ですし、やや、ドキッとしたところがあります。それはともかく、これだけの重いテーマの作品ですから難解です。きーちゃんの視点と天からの視点が入り乱れています。というか、作者が意図的に入り乱れさせています。極めて抽象度が高くて、それなりの知的レベルにある読者にしか読解できないような気がします。それはそれで当然です。これだけの手練れの作者ですから、平易かつ具体的な描写で、誰にも判りやすい作品にするハズがありません。ある意味では、作者の妄想が大部分かもしれません。小説の形を擬したこの事件に関する作者の心象風景を冗長に記述しているだけかもしれません。私はそれほどレベルの高い読者ではないと思いますので、私の判る部分はこのあたりまでです。でも、すごい作品を読んでしまいました。とてつもなくオススメなのですが、これを読んで廃人になるおそれすらあります。覚悟して、そして、私の嫌いな言葉ではありますが、自己責任でお読み下さい。
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2023年11月11日 (土) 09:00:00

今週の読書は中間層や階級に関する経済書2冊に話題のミステリ、さらに新書4冊で計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、高端正幸・近藤康史・佐藤滋・西岡晋[編]『揺らぐ中間層と福祉国家』(ナカニシヤ出版)では、世界的に格差が拡大し中間層=ミドル・クラスが縮小する中で、福祉国家が向かう方向について財政学や公共経済学あるいは政治学の視点から分析を試みています。ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』(東洋経済)は、新自由主義的な経済政策によって格差が拡大し、中世的な身分制社会が再来する可能性を危惧し、そうならないような方向性について論じています。夕木春央『方舟』(講談社)は、大いに話題を集めたミステリであり、クローズド・サークルの犯人探しの後に、とてつもないどんでん返しが待っています。泉房穂『日本が滅びる前に』(集英社新書)は、3期12年の明石市長の経験を元に日本の経済社会の活性化について論じています。倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)は、歴史学の観点から紫式部の『源氏物語』とそのバックアップをした藤原道長の関係を解明しようとしています。繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)は、『源氏物語』の小説の世界の登場人物や出来事のモデルと考えられる実際の平安時代のリアルについて紹介しています。最後に、佐藤洋一郎『和食の文化史』(平凡社新書)では、さまざまな歴史と地域における和食の文化について、おせち料理などの「ハレの日」の食文化だけでなく、日々の庶民の暮らしで受け継がれてきた文化についてスポットを当てています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週5冊、今週ポストする6冊を合わせて185冊となります。今年残り2月足らずですが、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうです。
最後に、今年も「ベスト経済書」のアンケートが経済週刊誌から届きました。たぶん、ノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の『なぜ男女の賃金に格差があるのか』で今年は決まりだと思うのですが、私は別の本を推したいと思います。

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まず、高端正幸・近藤康史・佐藤滋・西岡晋[編]『揺らぐ中間層と福祉国家』(ナカニシヤ出版)を読みました。編者及び各章の執筆者は、すべて大学の研究者であり、専門分野は財政学や公共経済学ないし政治学が多い印象です。本書では、日本のほか、米国と英国というアングロサクソンの公共政策レジームの両国、ドイツとフランスという大陸保守派の公共政策レジームの国、そして、スウェーデンという北欧ないし社会民主主義レジームの公共政策レジームの国を取り上げて、世界的に格差が拡大し中間層=ミドル・クラスが縮小する中で、福祉国家が向かう方向について財政学や公共経済学あるいは政治学の視点から分析を試みています。国別には、日本に4章が割り当てられていて、ほかの5か国については2章ずつが割り振られています。したがって、計14章からなっています。バックグラウンドとなっているモデルは、ホテリング-ダウンズらの中位投票者定理、そして、Meltzer and Richardによる不平等と再分配に関するMRMモデルとなります。このあたりは、私の専門ないし関心分野に近いのでコンパクトに説明しておくと、要するに、前者は左派と右派の真ん中あたりの中間派がキャスティングボードを握る、というもので、後者は所得が平均を下回れば再分配を支持するという、当たり前のモデルなのですが、これが含意するところは、所得分布が高所得者に偏っている不平等な経済社会ほど再分配を支持する国民が多くなる、というか、支持する国民の比率が高くなる、という点が重要です。その上で、日本において小泉内閣の構造改革以来のステージで福祉縮減改革が人気を集め、特に生活保護に対するバッシングが高まった2012年の分析が秀逸でした。これは、芸能人の親が生活保護を受給している事実を、国会でも報道でも集中豪雨的に取り上げ、一気に生活保護の給付水準の1割削減を実現してしまいました。最近では、「生活保護は国民の権利」という当然の見方が浸透しつつありますが、いまだに生活保護に対する何らかの嫌悪感のような認識が広く残っているのは、多くの国民が感じているところではないでしょうか。そして、財政赤字や国債の累増を背景に、福祉縮減がさらに進められようとしている政策動向が現時点まで継続している点は忘れるべきではありません。また、福祉国家における選別主義と普遍主義については、エスピン・アンデルセンの福祉レジームの自由主義と社会民主主義レジームにかなり近いのですが、その中間に保守主義レジームがあり、大陸欧州、ドイツやフランスが該当します。選別主義的な米国の福祉政策では、給付が低所得層に偏っているため、幅広い国民の支持を得られないとの分析し、あるいは、英国ではニューレイバーでさえ選別的に「救済に値しない」貧困層を想定した政策を打ち出した背景などの分析が勉強になりました。また、大陸欧州のうちのフランスについては、福祉財源が日本のような保険料から1990年代初頭に創設された一般社会税という税財源に移行しつつあり、それが少なくとも当初は累進度が極めて低い比例税であったものが、徐々に税率が引き上げられたことから、公平な負担を求める「黄色いベスト運動」につながったと分析されています。高福祉で知られていた北欧のスウェーデンでも、福祉政策の重点が給付から就労支援の重点を移しつつある点が紹介されています。いずれにせよ、先進各国政府はコロナ禍を経て財政赤字が大きくなっています。いわゆる「野獣を飢えさせろ」starve-the-beastに基づいて福祉政策が縮減されていく可能性に対して、国民はどのような判断を下すのでしょうか?

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次に、ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』(東洋経済)を読みました。著者は、米国チャップマン大学都市未来学プレジデンシャル・フェローと本書では紹介されています。私はこれだけでは理解できませんが、本書冒頭の訳者解説によれば、都市研究の専門家とされています。英語の原題は The Coming of Neo-Feudalism であり、2020年の出版です。邦訳書タイトルはほぼ直訳のようなのですが、昨年暮れにタモリの発言になる「新しい戦後」にもインスパイアされているような気がします。私自身もご同様で、本書を手に取るきっかけになりました。本書は7部構成であり、タイトルだけ列挙すると以下の通りで、第Ⅰ部 封建制が帰ってきた、第Ⅱ部 寡頭支配層、第Ⅲ部 有識者、第Ⅳ部 苦境に立つヨーマン、第Ⅴ部 新しい農奴、第Ⅵ部 新しい封建制の地理学、第Ⅶ部 第三身分に告ぐ、となります。各部に3章あり、計21章構成です。s新自由主義的な経済政策によって格差が拡大し、中世的な身分制社会が再来する可能性を危惧し、そうならないような方向性について論じています。その昔の、例えば、フランスなどにおける中世封建制の身分構成は、祈る人、戦う人、働く人の3分割であり、第1身分が聖職者、まあ、カトリックの神父さんで、第2身分が貴族、第3身分がそのたの平民のサン・キュロット、ということになります。スタンダールの小説になぞらえれば、第1身分が黒で、第2身分が赤、そして、第3身分から第1身分や第2身分に移行するのは極めて困難、ということになります。本書でも同じ3つの身分を以下のように分析しています。第1身分は現代の聖職者であり、コンサルタント、弁護士、官僚、医師、大学教員、ジャーナリスト、アーティストなど、物的生産以外の仕事に従事し、高度な知識を有し支配体制に正当性を与える有識者の役割を担います。さらに重要なのは、市場のリスクにはさらされていません。そして、第2身分は新しい貴族階級であり、GAFAなどの巨大テック企業などの超富裕層であり、本書ではテック・オリガルヒと呼んでいたりします。第3身分はそのたです。中小企業の経営者、熟練労働者、民間の専門技術者などなのですが、本書ではヨーマンと呼ばれています。この身分は2つの集団から成っていて、土地持ちの中産階級で、その昔のイングランドのヨーマンと同じような独立精神を持ていますが、現在のヨーマンはテック・オリガルヒの下で苦しめられています。もうひとつの集団は労働者階級です。21世紀のデジタル農奴とか、新しい奴隷階級をなしていて、例えば、AIの命ずるままに低スキル労働を受け持ったりします。そして、中世封建制と同じように第3身分から第2身分や第2身分に上昇することは極めて困難です。第1身分は新しい宗教を生み出していて、ソーシャル・ジャスティス教は、まあ、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)を思い出させますし、グリーン教に基づいて、第2身分の富豪は温室効果ガスをまき散らしながらプライベートジェットでダボス会議に参加し、環境保護を訴えたりします。私が経済的に興味を引かれたのは、第2身分が第3身分を監視している、という下りです。昨年の日本でも経済書のベストセラーにズボフ教授の『監視資本主義』が入りましたし、そういった監視がジョージ・オーウェルの『1984』との連想で語られていると理解する人が多いのではないか、と私は危惧していますが、ハッキリと違います。ここでテック・オリガルヒが監視しているのは独裁政権が反対勢力を監視しているのではなく、データ駆動経済としてデータを収集しているのです。私の知る限りで、監視資本主義と収益のためのデータ収集を明確に結びつけたエコノミストは少ないと感じています。

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次に、夕木春央『方舟』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。話題のミステリです。出版社が開設したサイトで、ミステリ作家の大御所である有栖川有栖などによるネタバレ解説があります。私ごときの読書感想文を読むよりは、ソチラの方が参考になるかもしれません。ただし、読了者を対象にしているようで、真犯人の名前と真犯人のセリフの最後の4文字をユーザメイトパスワードに設定する必要があります。ということで、作品は一言でいえばクローズド・サークルにおける殺人事件の犯人探し、のように見えるように書かれています。「のように見えるように書かれています」というのは、最後の最後にとんでもないどんでん返しがあるのですが、ミステリですので、これ以上はカンベン下さい。登場人物とあらすじは、主人公の越野柊一はシステムエンジニアでワトソン役です。周辺地理に詳しい従兄弟の篠田翔太郎とともに、大学時代のサークル仲間と遊びに来て、地下建築に閉じ込められます。この篠田翔太郎がホームズ役で謎解きに当たります。大学のサークル仲間は5人で、名前だけ羅列すると、西村裕哉、絲山隆平と絲山麻衣の夫婦、野内さやか、高津花、となります。なお、篠田翔太郎と大学のサークル仲間のほかに、途中から両親に高校生の倅という矢崎家3人が加わり、計10人です。この10人が地震があって地下建築に閉じ込められます。さらに困ったことに、地下水の浸水があって、脱出できなければ1週間ほどで水没、すなわち全員溺死するおそれがあります。そのクローズド・サークルの中で、連続殺人事件が起こるわけです。そして、ホームズ役の篠田翔太郎が実に論理的に犯人を割り出します。ただし、論理的であるがゆえに犯人の動機については確定しません。そして、最後に大きなどんでん返しが待っているわけです。評価については、高く評価する向きと物足りないと考える向きに二分されているような印象を私はもっています。私自身は基本的に高く評価します。私自身はミステリの謎解きというよりはサスペンスフルな展開を評価します。そして、何といっても、最後の最後に大きなサプライズが待っているのが一番です。本書が評価されるの最大の要因のひとつといえます。ただし、物足りないという見方にも一理ある可能性は指摘しておきたいと思います。というのは、本書の図書館の予約待ちの間に、この作者の第1作『絞首商會』と第2作『サーカスからの執達吏』を借りて読んで判った欠点が含まれているからです。すなわち、第1作の欠点のひとつはキャラがはっきりしない点です。第2作の欠点は謎解きや謎解きに至るプロセスが余りにシンプルな点です。ただ、こういった部分的な欠点を考慮しても、よくできたミステリ・サスペンス小説だと思います。

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次に、泉房穂『日本が滅びる前に』(集英社新書)を読みました。著者は、3期12年に渡って兵庫県明石市の市長を務め、大きな注目を集めて、最近引退したばかりです。その前は民主党の国会議員に選ばれていたと記憶しています。冒頭の第1章がシルバー民主主義から子育て民主主義へ、と題されていて、それだけで好感を持ち読み始めました。ただ、安心して子育てができる環境を最初から目指しているのはいいとしても、子育ての前に子作りがあり、さらにその前に、婚外子が極端に少ない日本では結婚がある点が見逃されているような気もしました。もちろん、地方公共団体の首長の場合、住民とともに妙に企業誘致に力を入れるケースが少なくないことから、特に建設会社などに向けた企業目線をより少なくして住民目線を重視するのは好感が持てます。現在の岸田内閣が国民の支持をまったく失ってしまって、メディアで調べている内閣支持率は最低ラインにあることは広く報じられている通りであり、その大きな原因は国民目線を無視して企業目線で政治や行政を進めている点であると私は考えています。典型的には物価対策であり、エネルギー価格を抑制するために大企業である石油元売り各社や電力会社に補助金を出しまくっていますが、消費税率を変更すればより効率的に解決できると私は考えています。ただ、本書で主張している明石市の子育て支援については、私は少し疑問を持ちます。繰り返しになりますが、子育ての前の子作り、そして結婚を軽視するわけにはいきません。そして、もうひとつ、明石市でできることは他の自治体でもできる、まではいいのですが、「国でもできる」かどうかは判りません。エコノミストの目から見ると、現在の少子化は婚外子の極端に少ない日本の現状から考えて、結婚しない/できない男女が多いからで、結婚しない/できない最大の要因は低所得にあります。詳細は、10月29日付けの President Online の記事「『年収300万円の男性の63%が子どもを持たずに生涯を終える』交際への興味、性経験がない人の衝撃データ」にある通りで、巷間いわれている「恋愛離れ」は低所得が原因です。記事によれば、「交際相手がなく異性との交際に興味がないと答えた男性の内訳を見ると、年収300万未満で75%を占めており、年収800万円以上は0.1%しかいない。」ということです。まず、所得を上げて結婚を促す、という政策が必要で、地方公共団体でも進めつつ、政府レベルの取組みが必要なハズなのですが、今の内閣は企業に補助金を配ることに集中しているように見えます。パソナや電通がいい例です。加えて、明石市の子育て支援政策は他の自治体の結婚促進政策にフリーライドしている可能性があります。すなわち、結婚⇒子作り⇒子育て、との3段階を進むに当たって、近隣の市町村が結婚に向けたマッチングを進めても、通常、結婚する際には引越をするものですから、『他市町村で結婚マッチングをしたあげくに明石市に新婚さんが住み始める、ということになれば、成果が上がりません。本書で特筆大書している明石市の「所得制限なしの5つの無料化」はすべて子供を作ってからの政策的支援です。その前の結婚、そして結婚をする/できるようになる所得の拡大が必要です。その意味で、少しがっかりしました。

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次に、倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)を読みました。ご案内の通り、来年のNHK大河ドラマは「光る君へ」であり、紫式部が主人公、藤原道長はそのソウルメイト、とされていますので、読書意欲が湧いて読んでみました。著者は、国際日本文化研究センターの研究者であり、専門は日本古代史です。「光る君へ」では時代考証を担当したようです。著者が文学者ではなく歴史学者ですので、本書はノッケから1次史料で確認できる確実な歴史、歴史学で通用する歴史から成っている、と宣言されています。その意味で、『枕草子』を書いたといわれる清少納言はまったく1次史料に出てこないので、その実在は確認できない、などという書出しから始まっていたりします。私なんかの感触では、花山天皇の出家入道、というか、騙されて出家した事件なんかは重要そうに漏れ聞いていたのですが、本書では扱いが小さく、まあ、歴史学からすればそうなのだろう、などと感じていたりしました。また、歴史学の観点からは、一条天皇の生母である藤原詮子、すなわち、藤原道長の姉が、ここまで藤原道長の権力獲得に重要な役回りをしたのは不勉強にして知りませんでした。そういった歴史学の方面はともかく、当時の朝廷政治と貴族の家族制度、もちろん、紫式部の父である藤原為時の家族などをかいつまんで開設した後、藤原道長による権力の掌握、そして、その藤原道長の繰り出す作に必要不可欠な要素だった『源氏物語』などについて、極めて詳細に解説が加えられています。よく知られたように、清少納言が仕える中宮定子は藤原道隆の子、藤原伊周の妹であり、彼女に対抗して、藤原道長は彰子を一条天皇に嫁がせます。そして、一条天皇の彰子へのお渡りの一助として紫式部が『源氏物語』を書くわけです。まあ、一条天皇は『源氏物語』読みた差に彰子の元に通う、という要素もあったわけなのでしょう。ですから、紫式部は彰子のお世話もしたのかもしれませんが、小説執筆のために宮中に入るわけです。料紙や墨、筆、硯といったは小説執筆に不可欠な文具は最高品質のものが与えられ、おそらく、静かな個室で小説執筆に適した環境も整えられていたことと想像します。そして、表紙画像に特筆大書されているように、藤原道長と紫式部は持ちつ持たれつの関係であり、紫式部の『源氏物語』がなければ藤原道長の栄耀栄華はなかったでしょうし、藤原道長の政権によるバックアップがなければ世界最高峰の小説としての『源氏物語』もなかったであろうと結論しています。最後の最後に、やっぱり、『権記』や『小右記』は歴史資料として重要なのだということを実感しました。

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次に、繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)を読みました。ご案内の通り、来年のNHK大河ドラマは「光る君へ」であり、紫式部が主人公、『源氏物語』も当然にクローズアップされますので、読書意欲が湧いて読んでみました。著者は、神奈川大学の研究者であり、明記してありませんが、専門は文学ではなく歴史学ではなかろうかと思います。しかし、本書では、歴史学の立場からの『源氏物語』の解説とはいえ、たぶんに俗っぽい、といっては失礼かもしれませんが、光源氏、頭中将、六条御息所、弘徽殿女御など、『源氏物語』における主役、準主役から脇役、敵役まで、小説のモデルに措定される可能性のある人物、あるいは、物語にある事件を紹介しつつ、宮廷や貴族たちのリアルな政治や日常を解説してくれています。まず、本書で確認している点は、『源氏物語』が日本国内、というか、都でものすごい人気を博した流行小説であったと同時に、おそらく、世界でも一級の文学作品だという歴史的事実です。誰から利いたのか、何を見たのかは、私も忘れましたが、11世紀初頭にノーベル文学賞がもしあれば、『源氏物語』が文句なく受賞したであろう、ということは従来から聞き及んでいます。逆に、本書冒頭でも指摘されているように、本朝では流行小説であったがゆえに、『源氏物語』に没頭していたりすれば、決して評判はよくなかったであろう、ともいわれています。でも、紫式部が仕えた彰子のとついた一条天皇は『源氏物語』を高く評価する読者であったのも事実です。本書では、なかなか現代日本では理解しがたい存在の貴族について開設していて、よく男性の中でいわれる「どうして女性たちは、ああまで光源氏を受け入れたのか」という素朴な疑問に答えています。すなわち、天皇の皇子を拒むことなど当時の女性にはできなかった、というのが正解のようです。光源氏が見目麗しく立ち居振る舞いも立派だったのであろうことは容易に想像できますが、それだけではなく、身分をかさにきて女性を口説いていたわけです。まあ、 光源氏に限らず高貴な男性はみなそうだったのだろうと思います。時代は違って、徳川期に盗賊が岡っ引きや同心に囲まれて「御用だ、御用だ」と現行犯逮捕されるシーンなんかも、当時であれば、盗賊が抵抗するなんて考えも及ばず、お上に素直に逮捕されていたハズ、というのも聞いたことがあります、でも情報は不確かです。念のため。話を戻して、六条の御息所や弘徽殿女御などといった強烈なキャラも理解が及ばないところながら、まあ、現在日本でも強烈なキャラの女性は決していないわけではありません。私が本書で面白く読んだのは、そういったリアルなキャラや実際の事件だけでなく、『源氏物語』が言及しない不都合な出来事です。そういったエピソードは巻末にまとめて置いてあり、火災に遭わない、強盗に襲われない、疫病に脅かされない、陰陽師を喚ばない、などが上げられています。

ついでながら、やや見にくいですが、NHKのサイトにある「光る君へ」のキャストの相関図は以下の通りです。
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最後に、佐藤洋一郎『和食の文化史』(平凡社新書)を読みました。著者は、農学博士ということで、食について農学の面から研究しているのではないかと想像します。1年ほど前に同じ著者の『京都の食文化』(中公新書)を私は読んでいます。本書はタイトル通りに、和食について、特におせち料理や何やの「ハレの日」の和食ばかりではなく、「ケの日」の日々の暮らしの中で供される和食にもスポットを当てて、いろんな時代やさまざまな地域に成立した和食について、その文化としての歴史をひも解こうと試みています。まず、第2章では和の食材に注目し、伝統的な植物性の食材を紹介しつつ、明治以前にも動物性の食材が十分豊かであったと主張しています。また、和食独特の発酵食品や出汁についても紹介を忘れていません。第3章では和食文化の東西比較も試みていて、食材の中の動物性食材、すなわち、肉はといえば伝統的に関西では牛肉、関東では豚肉、といった常識的な見方に加えて、おせち料理では京風の丸餅+白味噌に対して、東京では角餅+すまし、などを比較しています。器の配置についても、汁物を左右どちらに置くかで東西の違いを論じたりしています。第4章では都会と田舎の食文化を対比し、都会の排せつ物を肥料として田舎の農村に売り、農村で収穫された野菜や果物を都会が買う、という究極の循環経済の成立について言及しています。いつの時代も都会と田舎は持ちつ持たれつであり、共存共栄の関係にあったといえます。第5章では江戸と髪型を対比し、徳川期の江戸は侍の街で、参勤交代に随行して江戸に来た単身赴任の侍などのため、男性比率が極めて高く、江戸の外食は今のファストフードと同じ役割を果たしていた、と主張しています。そうなのかもしれません。それに対する当時の大坂で始まった粉モンも、やはり、ファストフードの要素があったということを紹介しています。残りは軽く流して、第6章では太平洋と日本海を対比し、第7章では海と里と山を対比し、第8章では武家・貴族・町人の和食を論じ、第9章でははしっこの和食として、今ではもうそれほど残っていないクジラやイルカの食についても取り上げています。決して食に限るわけではなく、衣類は住まいやといった他の面も含めて、日本位は日本独特のそれぞれの衣類の文化、住まいの文化があります。自然条件や国民性に従って、あるいは、時代の流れとともに独特の分化が興っては変化していくわけです。それらをすべて残すわけにはいきませんが、逆に、グローバルスタンダードに合わせるだけではなく、それぞれのいい面を取り入れて生活を豊かにし、文化を育む強さやしたたかさを日本人は持ち合わせているのではないでしょうか。
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2023年11月04日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済学の学術書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)は、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)は、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから差別や不平等に関する4編を訳出しています。三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)では、日常生活や旅に出たエッセイが三浦しをんらしく炸裂しています。周防柳『うきよの恋花』(集英社)は、井原西鶴『好色五人女』を題材にした時代小説です。麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)は、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のショートストーリー集です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~10月に130冊を読みました。11月に入って今週ポストする5冊を合わせて179冊となります。今年残り2月足らずですが、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。
また、新刊書読書ではないので本日の読書感想文には含めませんでしたが、町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』を読みました。また、マンガということで含めなかった山岸凉子『鬼子母神』と『海の魚鱗宮』、いずれも文春文庫の自薦傑作集の第4集と第5集を読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)を読みました。編者は、一橋大学の名誉教授であり、現在は東京経済大学の研究者です。出版社から考えても、ほぼほぼ純粋な学術書と考えるべきで、野村資本研究所の研究者による第4章などの例外を除いて、時系列分析を主とした先進的な数量分析手法を用いた実証分析が並んでいます。一般のビジネスパーソンにはやや敷居が高いかもしれません。本書はコロナ後の世界経済について、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。2部構成であり、第Ⅰ部がグローバルリスクを、第Ⅱ部がグローバル市場の構造変化を、それぞれ分析しています。すべてのチャプターを取り上げるのもムリがありますので、いくつか私の着目したものに限定すると、まず、第2章ではサプライチェーンのデカップリング、すなわち、まるで敵対国のように相手国にダメージを与えることを意図した攻撃的なデカップリング政策と、逆に、供給途絶に備えるための防衛的なデカップリング政策を区別しつつ、日本のようなミドルパワーでは、同盟関係の中で同調的なあつ略がかかる前者の攻撃的な政策、例えば、ロシアに対する経済制裁、とかでは経済コストがかかることから、後者の防衛的なケースでは闇雲に過度の供給依存を回避するというよりも、供給途絶リスク実現の蓋然性と代替措置が可能となる期間とを分析することが重要であり、こういったデカップリングについては政府の政策というよりは、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済み」と指摘しています。昨年2022年の「通商白書」なんかでは、特に中国を念頭に置いて、過度の供給回避を論じていたように私は記憶しています。もちろん、サプライチェーンの地理的なホロ刈りが大きければ、それだけレジリエンスが高いのはいうまでもありません。それでも、さすがに、学術書らしくバランスの取れた経済学的に正しい議論を展開しています。また、第4章の中国の不動産業界の金融リスクについては、ほとんどフォーマルな数量分析はありませんでしたが、現下の世界経済のリスクの中心でありながら、私の専門外で情報を持ち合わせていない分野でしたので、それなりに勉強になりました。また、第Ⅰ部の第7章における国際商品価格の決定要因については、私は従来から、1970年代になって世界的に資産市場や商品市場が整備されるに従って、金融緩和によってマネーがモノやサービスに流れてインフレを生じるだけではなく、資産市場にも流れて資産価格の上昇をもたらし、その行き着いたはてが1980年代後半の日本におけるバブル経済であると考えています。マネーがモノやサービスにい向かわないのでインフレにはならず、中央銀行による資産市場対応が遅れるとバブルを生じます。しかし、日本は土地資産によるバブルでしたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻からは、エネルギーや穀物については資産としてマネーが流入すると同時に、モノやサービスの原材料となるわけで、インフレを生じています。こういったポストコロナの大規模金融緩和が国際商品の価格上昇に拍車をかけた点がリカーシブ型の構造VARモデルで実証されています。このあたりの計量経済学的な分析方法に関しては、私はコンパクトに説明する能力を持ち合わせません。理解がはかどらない向きには、学術書であるということでスルーして下さい。

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次に、トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)を読みました。著者は、フランスと米国の大学の研究者であり、巻末の訳者解説によれば、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから訳出されています。4章構成であり、タイトルと著者を上げておくと、第1章 人種差別の測定と差別の解消 (トマ・ピケティ)、第2章 キャンセルカルチャ - 誰が何をキャンセルするのか (ロール・ミュラ)、第3章 ゼムールの言語 (セシル・アルデュイ)、第4章 資本の野蛮化 (リュディヴィーヌ・バンティニ)、となります。私は不勉強にして、ピケティ教授の著作しか読んだことがないと思います。本書のタイトルにある差別については、その原因は人種や国籍、性別、学歴などさまざまですし、差別が現れるのも就職差別や結婚差別などさまざまなのですが、私はエコノミストなので顰蹙を買いまくった某大臣の「最後は金目でしょ」に近い考えをしています。すなわち、差別が所得の不平等につながる、という視点です。ただ、最近の読書では現在の日本における民主主義の危機、すなわち、国民の幅広い声や意見が無視されて、権力を握ってしまえば虚偽を発信しても、無策のままに放置しても自由自在、という点を深く憂慮していることは確かです。経済的な所得の不平等とともに、この点も、特に現在の日本においては重要です。別の表現をすれば、「最後は金目」なのかもしれませんが、それを主張することすら封じ込まれる可能性を懸念しているわけです。しかも、本書に即していえば、国家とまでいわないとしても、何らかのコミュニティが和気あいあいと仲良くやっているのではなく、何らかの要因で分断されているという状態にあリ、この分断が差別を大いに助長している点も十分考慮しなければなりません。ということで、第1章ではアイデンティティに関する考察から始めて、植民地主義に基づく人種差別を考え、それが、反人種差別の運動として具体化されたブラック・ライブズ・マター(BLM)などを第2章ではキャンセルカルチャーと呼ばれる抗議運動として理解しようと試みています。植民地主義とは別の起源ながら、BLMとともに#MeTooも同じキャンセルカルチャーの運動のひとつなのだろうと私は考えています。さらに、第3章では、このシリーズが刊行されたのがフランス大統領選挙ですから、大統領選の決選投票に進んだ極右の国民連合(旧: 国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンとともに右派の中で注目を集めた極右ポピュリストのエリック・ゼムールを取り上げています。私は、ゼムールについては移民排斥の中で、イスラム人がフランス人を支配するというグレート・リプレースメント論を提唱したトンデモ政治評論家であるとしか知りませんでしたが、言葉の暴力は凄まじいものだったようです。そして、最後の第4章では生産や経済の場としての資本の野蛮化が論じられます。特に、使用者サイドからの労働への野蛮な攻撃が激化していることは事実であり、フランスはともかく、日本ではものすごい勢いで雇用の非正規化が進み、特に女性の雇用者の非正規率は過半に達しています。繰り返しになりますが、差別や民主主義の破壊は経済的な不平等とともに手を携えて、車の両輪として進み国民生活をいろいろな面から破壊します。最悪の場合、国家社会を戦争に導くこともあります。私はエコノミストですので、こういった危機への対応は不得手なのですが、少なくとも市民としてしっかりと自覚した行動を取る必要があります。

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次に、三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)を読みました。著者は、ファンも多い直木賞作家ですが、この作品は小説ではなくエッセイです。しかも、この作者にしては真面目な方の、そうくだけてはいないエッセイです。というのも、この作者のくだけたエッセイであれば、1人称は「おれ」ですし、普段からプリプリト少し不機嫌気味の方らしいので、いたるところで「こるぁ」という恫喝の言葉が出てきますが、この作品ではそういったところは見受けられません。逆に、もっと真面目な方面で人形浄瑠璃や博物館巡りのエッセイであれば、まあ、同年代のエッセイストの酒井順子のようによく下調べの行き届いたエッセイもかけるようにお見受けするのですが、そこまで真面目一徹な作品でもありません。まあ、その中間のエッセイといったところなのかもしれません。それぞれのエッセイが、三浦しをんらしく愛と笑いと妄想に満ち溢れており、特に笑いすぎて抱腹絶倒となることが多いのではないかと思います。なお、本書は5章構成であり、章ごとのタイトルは以下の通りです。1章 美と愛はあちこちに宿る、2章 あなたと旅をするならば、3章 活字沼でひとやすみ、4章 悩めるときも旅するときも、5章 ささやかすぎる幸福と不幸、となります。1章では自宅で植物を育成したかってくる虫や鳥と格闘し、2章ではタイトル通りに紀行文中心となり、3章は読書感想文、4章も旅を中心としたエッセイで、5章はどちらかといえば雑多で分類しにくいエッセイを集めている印象です。繰り返しになりますが、くだけたエッセイではなく、版元から明確に上品なエッセイを求められているものもあるようですが、そこは三浦しをんらしくも上品ぶらない、というか、お茶目な、あるいは、モノによっては自虐的なエッセイに仕上がっているものも少なくありません。お父上は『古事記』研究で有名な学者さんだと思うのですが、家族のトピックも微笑ましく取り上げられています。お父上は三重県ご出身で、その地域性からか阪神タイガースのファンであり、コラボ缶を花瓶として活用しているのは、同じ阪神ファンとして深く理解します。ただ少し残念なのは、収録元のソースがバラバラで、それぞれのエッセイにも統一的なテーマがない点ですが、いかにも三浦しをんらしい筆の進みを堪能できますので、そういった短所はそれほど気になりません。まあ、私はエアロバイクを漕ぎながら音楽を聞いて読書も同時に進めるのですが、そういった時間つぶしにはもってこいです。

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次に、周防柳『うきよの恋花』(集英社)を読みました。著者は、小説家、しかも、主戦場は時代小説ではないか、と私は考えています。さらにいえば、時代小説の中でも江戸時代のチャンバラの侍が主人公となる小説ではなく、我が国の古典古代に当たる奈良時代や平安時代の文人を主人公に据えた時代小説の作品が私は大好きです。しかし、この作品は表紙画像に見られるように、江戸時代の井原西鶴の『好色五人女』を題材にした時代小説の短編集です。収録作品は、順に、「八百屋お七」、「おさん茂兵衛」、「樽屋おせん」、「お夏清十郎」、そして、最後は残る短編ならば「おまん源五兵衛」のハズなのですが、「おまん源五兵衛、または、お小夜西鶴」となっていて、「おまん源五兵衛」ではなく、実のところ、作者の井原西鶴と妻のお小夜についての短編に仕上げています。今さら、あらすじを書くのも芸がないのですが、それでも簡単に記しておくと、「八百屋お七」は、豪商八百八の娘お七が火事で避難した吉祥寺の寺男の吉三郎にもう一度逢いたいがために放火する、というものです。お七からの一方的な吉三郎への歪んだ愛情が元になっています。「おさん茂兵衛」では、大経師の後妻であるおさんが奉公人である茂兵衛と駆け落ちした事件で、亭主の大経師の性格や振舞いが大きな原因を作っています。「樽屋おせん」では、樽職人と祝言をあげたおせんなのですが、その樽職人の忠兵衛が樽屋の跡目を譲られて奉公人から樽屋の主人に出世するのですが、その忠兵衛の出入りの麹屋の入婿とおせんが不義をはたらきます。「お夏清十郎」では旅籠の主人である久左衛門の妹のお夏が懐いた清十郎だったのですが、清十郎とお夏が駆落ちしようとして捕縛され、清十郎が刑死した一方でお夏が狂乱してしまいます。そして、本来の「おまん源五兵衛」では、私の知る限り、衆道好きだった薩摩の武士源五兵衛に恋慕した琉球屋の娘であるおまんが、家出して、さらに、出家してしまったした源五兵衛のもと男装してまでしてに押しかけ結ばれ、しばし困窮生活を送るものの、おまんは両親から巨万の富を譲られる、というハッピーエンドです。しかし、これを作者は西鶴の衆道に置き換えて、妻のお小夜の振舞いをおまんになぞらえて、翻案し、というか、創作的に描き出しています。誠に残念ながら、これが成功しているようには私には見えません。ちょっと、ひねり過ぎた感がなきにしもあらずです。そして、井原西鶴の『好色五人女』の原点を私は読んでいないので詳細は不明ですが、5話を井原西鶴に持ち込むのは相州小田原の薬売りの山善です。最後に、繰り返しになりますが、この作家の作品で私が高く評価しているのは古典古代の文人を主人公にした時代小説です。事実上のデビューさうともいえる『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、あるいは、『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』、といったあたりの作品です。この『うきよの恋花』は時代背景を天下泰平の江戸時代に移しつつも、侍を主人公にするのではなく、あくまで文人である昨夏の井原西鶴を中心にお話を進めています。その意味で、この作者のひとつのバリエーションなす作品かもしれません。でも、古典古代に戻って欲しいというのが私の偽らざる本音です。

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次に、麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)を読みました。著者は、1991年生まれ、慶應義塾大学卒業というプロフィール以外は明かされていない覆面作家です。なお、本書は漫画化されて「週刊ヤングジャンプ」で連載されているようですが、私は詳細は知りません。悪しからず。本書は、短編集というよりは、ショートショートの長さくらいで、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のストーリー集です。キャッチフレーズを受売りすれば、「タワマン」、「港区女子」、「東カレデートアプリ」、「オンラインサロン」などの新しいキーワードを駆使して、デジタルプラットフォームで生まれた文学の歴史の中に「港区文学」と呼ばれるジャンルを打ち立てた作品、ということになります。各ストーリーの主人公となる語り手は、大学生からアラサーのころまでの年齢層の男女が中心で、中には大学受験前の年代から始まるストーリーもあります。主人公=語りてに共通しているのは、東京生活の経験に基づいて語っている点です。もとから生まれ育ちが東京なのか、あるいは、大学生として上京したのか、という点は違うとしても、人生の中で東京生活を経験している主人公ばかりで、地方生まれの地方育ちという主人公はいません。ただ、主人公にも明暗があり、いかにもヘッセの『車輪の下』のハンスのように、死んでしまわないまでも、東京に出て挫折して故郷に帰る、というケースもあれば、逆に、というか、何というか、リッチでバブリーな生活を送っていて、ハンスみたいな地方からの上京学生を見下しているような態度を取る主人公のストーリーも含まれています。何と申しましょうかで、読書感想文から少し脱線すると、私個人はこの両極端の中間くらいに位置する人生を送ってきていて、京都で生まれ育って京都大学を卒業した後、キャリアの国家公務員として東京で働き、バブル期に遊んで結婚が遅れ、海外勤務などの華やかな生活も堪能して60歳で型通りに定年退職し、今では郷里に近い関西で、それなりに名の知れた大学の教員として経済学を教えています。東京で公務員をしていたころには、数年だけですが南青山という港区住まいをした経験もあります。ただ、私の場合は、東京を離れてソンしたと感じています。もっとも、これは私の専門分野が経済ないし経済学だから、その経済の中心である東京を離れると、いくらインターネットが普及しようとも、経済情報の面では東京と地方圏で差がある、という事実に基づいているのだろうと認識しています。ですから、古典文学の専門家、例えば、来年のNHK大河ドラマのテーマである『源氏物語』を大学で教える、とかであれば、東京と京都の差は大きくないかもしれない、と想像しています。読書感想文に戻ると、本書では東京と地方の差は経済ではなく、文化の面であると強く示唆されています。もちろん、文学や美術などのハイカルチャーも差があるでしょうし、本書でもそういったストーリーが含まれていますが、もっと大きな差はサブカルチャーの面ではなかろうか、と私は感じています。例えば、いくつかのストーリーで言及されているマッチングアプリとかがそうです。経済学的にいえば、典型的に規模の経済が働く分野であり、集積の利益が大きく、東京と地方の差は人口規模や所得水準以上に大きくなります。長くなりましたが、いずれにせよ、自分の住んでいる地域が文化的にも経済的にも豊かな場所であることは、各個人にとって望ましいことであり、ではどうすればそれが実現されるのかというと、本書などでは、そう望む個人が東京に移住する、というのが結論っぽくって、その逆を行って自分の住んでいる場所を豊かにしようとするのが地域振興なのだろう、と私は受け止めています。
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2023年10月28日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書2冊をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、水野勝之・土居拓務[編]『負効率の経済学』(昭和堂)は、コスパやタイパに代表される効率性の絶対視に対して負の効率である負効率の用途や重要性を説きます。ジョナサン・ハスケル & スティアン・ウェストレイク『無形資産経済 見えてきた5つの壁』(東洋経済)は、現在の停滞を脱して無形資産経済に進む上での重要な方策について何点か指摘しています。エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)は、非暴力で政治や社会を変革することを目的とする市民的抵抗について膨大なケーススタディの成果を取りまとめています。リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、シリーズ第3作であり、10年ほど前にテレビの報道番組のサブキャスターが亡くなった事件の解決を木曜殺人クラブの高齢者集団が目指します。山口香『スポーツの価値』(集英社新書)は、筑波大学の研究者であり柔道のオリンピック・メダリストでもある著者が、混迷する日本スポーツ、スポーツ界について辛辣な批評を加えています。最後に、桜井美奈『私が先生を殺した』(小学館文庫)では、全校集会のさなかに校舎屋上から飛び降りた人気ナンバーワン教師の謎を解明します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週までに20冊、そして、今週ポストする6冊を合わせて174冊となります。今年残り2月で、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。
また、新刊書読書ではあるのでしょうが、マンガということで本日の読書感想文には含めなかった山岸凉子『鬼子母神』と『海の魚鱗宮』、いずれも文春文庫の自薦傑作集の第4集と第5集を読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、水野勝之・土居拓務[編]『負効率の経済学』(昭和堂)を読みました。著者は、明治大学と農林水産研究所の研究者です。先日レビューしたジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』の主張にもありましたが、従来の効率を重視する経済社会は、本書でも、どうやら終わりつつあるようで、『レジリエンスの時代』ではレジリエンスの重要性が増していると強調されていますし、本書では「負効率」も考え合わせることが必要という意見です。本書でいう「負効率」は非効率よりもゼロに近い、あるいは、ゼロの効率から、一歩進んで、というか、なんというか、効率がマイナス、すなっわち、効率としては逆であっても、結果として望ましい結末を迎える例がある、という点を強調しています。世間一般では、「コスパ」を重視し、最近ではコストの中でも、万人に等しく配分されている時間を節約する「タイパ」の重視も広がってきていますが、そういった世間一般の傾向に真っ向から対立しているわけです。それを経済学の視点から、マイナスの効率であってもプラスの効用が得られるケースを考えています。章別で論じられているのは、企業経営、経済効果、英語学習、大相撲、プロ野球、歩行、タクシー業界、地方/都会、PTAのそれぞれの負効率を論じています。ただ、「負効率」という目新しい用語を使っているだけで、途中からは伝統的な「急がば廻れ」といいだして、要するに、コスパやタイパを追認しているようにも見えます。すなわち、直線で行くよりも迂遠に見えても別の「効率的」な処理方法がある、というわけですから、結局は、本書の主張も形を変えているだけで、効率至上主義の別の現れであろうと私は考えています。もしも、マイナスをマイナスのままで価値あるものと考える、というのであれば、それは一定の方向性ある主張だと私も思いますが、結局、小手先で別の方法を取れば、マイナスをプラスに転じて、同じ目標をさらに「効率的」に達成できる、という点を強調しているだけに見えます。私の読み方が浅いのかもしれませんが、私の考える「負効率」、すなわち、マイナスをマイナスのままに受け入れる、とは大きく違って、さらに、リフキンのレジリエンスのような効率に対する代替案も提示されていなくて、とってもガッカリしました。読書の候補に上げている向きには、ヤメておいた方がいいとオススメします。

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次に、ジョナサン・ハスケル & スティアン・ウェストレイク『無形資産経済 見えてきた5つの壁』(東洋経済)を読みました。著者は、いずれも英国の研究者であり、インペリアル・カレッジ・ビジネススクールと王立統計協会に所属しています。英語の原題は Restartng the Future であり、2022年の出版です。私は、3年半前の2020年3月に同じ著者2人による『無形資産が経済を支配する』をレビューしています。前著では、無形資産が重要性を増す無形経済になれば、格差の拡大などを招いたり、長期停滞につながったり、経営や政策運営の変更が必要となる可能性を議論しています。本書では、そういった格差拡大などのネガな影響ではなく、そもそも、現状の経済社会について、経済停滞、格差拡大、機能不全の競争、脆弱性、正統性欠如という5つの問題点を指摘し、それが邦訳タイトルになっているわけです。そして、重要なポイントは、現在のこういった問題点は過渡期の問題であると指摘していることです。すなわち、アンドリュー・マカフィー & エリック・ブリニョルフソンによる『セカンド・マシン・エイジ』と同じで、新しい「宝の山」、すなわち、『セカンド・マシン・エイジ』では人工知能(AI)など、本書では無形資産を十分に活かしきれていないことが現在の停滞の原因のひとつである、という認識です。ですので、本書に即していえば、無形資産をさらに積極的に活用するための方策、特に制度面に焦点を当てた方策が取り上げられています。主要には4点あります。第1に、無形資産のスピルオーバーに対する政策的な知的財産権保護の強化あるいは補助金が必要としています。第2に、無形資産は担保として使えないことから負債ファイナンスに向かず、金融的な措置が必要と主張しています。第3に、無形資産のシナジー効果を発揮するには都市が最適であり、ゾーニング規制などの撤廃を求めています。そして、第4に、GAFAのようなテック企業をはじめとして競争政策の緩和から生まれた巨大企業の例を考えれば、無形資産経済では過度の競争政策は無用と強調しています。はい。私も理解できなくもないのですが、特に第4の競争政策なんて、無形資産経済とは何の関係もなく、単に、企業を巨大化させるためだけに主著されているような気がします。大企業の独占力の弊害も決して無視できません。まあ、前著についても、私はそれほど高い評価はしていませんが、本書についてもm,右傾資産経済とは何の関係もない点をシラッと入れ込んでいたりして、疑問に思わない点がないでもありません。ただ、山形浩生さんの邦訳はスムーズで読みやすいのは評価できます。

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次に、エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)を読みました。著者は、米国ハーバード大学の研究者であり、政治的暴力やテロリズムを研究しており、非暴力で政治・社会を変えることを目指す市民的抵抗に注目していたりします。英語の原題は Civil Resistance であり、2021年の出版です。邦題はほぼほぼ直訳です。本書は、いわゆる「3.5%ルール」を提唱した研究者による学術書であり、膨大なケーススタディから的確な結論を抽出しています。特に重要なポイントは非暴力であり、他の人を傷つける、あるいは、傷つけると威嚇することなく目的を達成する市民的抵抗を論じています。すなわち、非暴力運動は弱々しく見える、あるいは、効果も乏しいように感じられがちですが、実はそうではなく、1900年から2019年の間に非暴力革命は50%以上が成功した一方で、暴力革命はわずか26%の成功にとどまる、といった実証的な根拠を示しています。斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』のレビューでも指摘しましたが、少なくとも、教条的マルクス主義に基づく暴力革命なんてシロモノは、非暴力の市民運動よりも成功の確率低いことは明らかですし、かといって、その昔の統一教会よろしく選挙にすべてを賭けるのも、少し違う気がして、私はコモンの拡大と自治、あるいは、本書で取り上げているような市民的抵抗が、暴力的な運動と選挙一辺倒の間に位置して、それなりに重要性を増している気がしています。市民レベルの暴力的な抵抗は、少なくとも近代的な軍隊の前にはまったく無力でしょうし、同時に、他の市民の批判や反対を招くことになるとしか私には考えられません。ただ、私に不案内だったのは、何をもって市民運動の成功とみなすのか、という点です。本書で指摘しているようにマキシマリスト的に政権交代とか分離独立とかであれば、成功の基準は明らかです。さらに、定性的、質的な制度要求に基づく市民運動、例えば、私が熱烈に支持する市民運動のカテゴリーで、マイナ保険証反対、インボイス制度撤回、などについても、それなりに制度変更が勝ち取れれば成功といえますが、池袋西武百貨店のストライキをどう評価するのか、あるいは、労働組合の賃上げ要求が満額でなかった場合はどうなのか、といった点は私には不案内です。それぞれの市民運動を担ったご本人たちに自己評価を任せると、やや過大評価の方向に流れそうな気もします。その昔に、私の大好きなデモ参加者の数が主催者発表と警察発表でケタ違いだったのを思いまします。それはともかく、現在の日本では民主主義が崩壊の危機に瀕していて、第2次安倍内閣あたりから、権力を握ってしまえば、ウソをついても、不正をしても、やりたい放題という面が垣間見えます。ですので、暴力的な市民運動はNGで、選挙だけに集中するのもいかがなものかと考える私のような市民は、それでも民主主義の根幹をなす選挙を重視しつつ、同時に、車の両輪として、本書に見られるような的確な分析に基づく市民運動にも積極的に参加して、民主主義の危機に対応する必要があると思います。大いに思います。

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次に、リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読みました。著者は、テレビ司会者、コメディアン、ミステリ作家であり、本書はシリーズ第3作に当たります。私は第1作の『木曜殺人クラブ』、第2作の『木曜殺人クラブ 2度死んだ男』はともに読んでいます。英語の原作は The Bullet That Missed であり、ハードカバー版は2022年、ペーパーバック版は2023年の出版です。以前のシリーズと同じで、舞台は高齢者施設クーパーズ・チェイスであり、そこに住む4人の年金生活者が結成した「木曜殺人クラブ」の活躍を描いています。この作品では、地元の報道番組の女性サブキャスターであったペサニー・ウェイツの殺人事件です。この女性が殺された、というか、死体は見つかっていませんが、失踪した10年ほど前の事件です。死体が見つかっていなのに殺人事件と見なされるのは、彼女の自動車が海岸から転落したからで、死体は発見されていません。その時、この女性サブキャスターはVAT(付加価値税)にまつわる詐欺事件を調査しており、木曜殺人クラブのメンバーはこの報道番組や詐欺事件の関係者などにツテを頼って事情を聞いたりして事件を追求します。しかし、元諜報部員のエリザベスはやや認知症気味の夫スティーヴンとともに拉致され、スパイ時代の因縁浅からぬ旧友である元KGBのヴィクトル大佐を殺すことを強要されたりし、それができないなら、エリザベスの親友ジョイスを殺す、と脅されます。もちろん、最後は謎が解決されて、事件は無事にハッピーエンドの結末を迎えますが、段々とこのシリーズはミステリというよりはエンタメの傾向が強くなっています。相変わらず、物語の展開も登場人物の話し方や作者の描写など、すべてにおいてコミカルです。すでに、第4作が英国では出版されているやに聞き及びますが、シリーズ第3作にして、段々と面白くなっています。ただ、繰り返しになりますが、その逆から見てミステリとしての完成度はやや低下している気もします。最後に、このシリーズは第1作から順を追って読むことを強くオススメします。私自信は順を追って読んでいるのでOKなのだろうと思いますが、たぶん、あくまでたぶんながら、少なくともこの第3作から読み始めると理解が追いつかないと思います。その点は注意が必要です。

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次に、山口香『スポーツの価値』(集英社新書)を読みました。著者は、筑波大学の研究者ですが、おそらく、柔道のオリンピック・メダリストとしての方が名が通っているような気がします。表紙画像の帯に、エッセイストの酒井順子が「ここまで書いてしまっていいの?」という評価を寄せていますが、全般的に、かなり鋭くも辛辣な内容です。ただ、一部には及び腰の部分もあることは確かです。ということで、本書では最近のスポーツ界の諸問題、すなわち、部活動での体罰や、勝利至上主義、もちろん、東京オリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言とその後の辞任、などなど、なぜか、本書で取り上げられていない日大アメリカンフットボール部の一連の不祥事を除いて、さまざまな日本のスポーツ界に潜む病根を忖度なく指摘していて、スポーツの真の価値を提言しようと試みています。まず、スポーツによって磨かれるのは、論理的かつ戦略的な思考、コミュニケーション能力、そして何より忖度なくフェアにプレーする精神であるとし、その一義的な価値を示しています。まったく、その通りです。私なんぞは自分の健康目的、すなわち、体力面とともにストレス解消などのメンタル面も含めて、自分に利益ある範囲でスポーツを楽しんでいますが、トップレベルのアスリートの行うスポーツは、観客を引き寄せて経済効果あるだけではなく、見る人に感動を与えるわけです。そして、こういったスポーツの価値により社会の分断を乗り越え、スポーツはコミュニティを支える基盤ともなリ得ますし、また、スポーツによって鍛えられる分析力や行動力、戦略性は、学業やビジネスにも役立つと、本書では主張しています。さらに大きく出ると、スポーツには社会を変革する力がある可能性を秘めているという指摘です。まあ、そこまでいかないとしても、スポーツや文化の価値を認めない日本人は少ないと思います。しかし、現在の日本におけるスポーツは勝利至上主義、ジェンダー不平等、そして、何よりも汚職事件に代表されるような東京オリンピックの失敗などにより、こういった価値を、真価を発揮できないでいます。札幌の冬季オリンピック招致断念が象徴的と考える人も少なくないことと思います。ただ、勝利至上主義を批判しつつも、著者個人の経験からオリンピックのメダルの大切さ、というか、ご本人の誇らしさみたいな指摘もあり、しょうがない面もあるものの、その昔の総論賛成各論版たんになぞらえれば、本書は日本のスポーツ、スポーツ界に対して、総論批判各論擁護に議論を展開しているような部分もあります。しかし、私の感想からすれば、発言すべき有識者による思いきった発言であり、すべてのスポーツ愛好家からすれば、読んでおく価値はあると思います。

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次に、桜井美奈『私が先生を殺した』(小学館文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、私はこの作者の『殺した夫が帰ってきました』を読んだ記憶があります。ということで、このミステリは、トップ校ではないまでも、そこそこの進学校である才華高校を舞台に、全校生徒が集合する避難訓練中、学校でナンバーワンの好感度を誇る人気教師の奥澤潤が校舎屋上のフェンスを乗り越え飛び降り自殺します。しかし、奥澤が担任を務めるクラスの黒板に「私が先生を殺した」というメッセージがあったことで、自殺ではなく殺人事件の可能性が浮かび上がるわけです。実は、この前段階で、奥澤が校内で女生徒と「淫らな行為」に及んでいる動画がSNSにアップされていて、自殺であれば、その一因とも目されます。そして、この自殺/他殺の謎が解かれるわけです。各章は、何らかの動機があって、奥澤を殺した殺人犯の可能性ある4人の生徒の1人称で語られます。当然ながら、すべて、奥澤の担任クラスの生徒です。まず、授業態度が悪くて、勉強が進まず大学進学を諦めかけている砥部律です。クラスでも孤立気味で、親身になって接してくれる奥澤のことを逆に嫌っています。勉強もせずにSNSにのめり込み、動画を拡散して奥澤を追求します。続いて、勤勉で成績もよい生徒で、特待生として才華高校に通う黒田花音です。しかし、彼女は大学進学に当たって特待生として推薦入学の学校枠が確実といわれながらも、奥澤から推薦候補から外された旨を知らされます。もちろん、奥澤はその理由を明かすことはしません。続いて、素直で明るい性格で、奥澤のことを恋愛感情で見ている百瀬奈緒です。特定されませんでしたが、動画に奥澤と写っているのはこの女生徒です。最後に、進路について病院経営する父親や研究者の母親と意見があわず、奥澤に相談を持ちかける小湊悠斗です。しかし、黒田花音に代わって大学特待生の推薦枠を与えられたのがこの小湊悠斗で、しかも、その事実を黒田花音に知られてしまいます。ストーリーが進むに連れて、徐々に真相が明らかになる私の好きなタイプのミステリだと思って読み進むと、何と、最後の最後に大きなどんでん返しが待っていました。軽く、宮部みゆきの『ソロモンの偽証』の影響を読み取ったのは私だけでしょうか?
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2023年10月21日 (土) 09:00:00

今週の読書は今年のノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の学術書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、クラウディア・ゴールディン『なぜ男女の賃金に格差があるのか』(慶應義塾大学出版会)は、今年2023年のノーベル経済学賞を受賞したエコノミストによる学術書であり、米国における大卒女性の100年間のキャリアと家族の歴史を分析しています。斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』(集英社)は、コモンの再生や拡大とともに、単なる受益者ではなく当事者としての自治を拡大する必要性などを論じています。三浦しをん『墨のゆらめき』(新潮社)は、ともに30代半ばで独身の実直なホテルマンと奔放な書道家の交流を綴っています。牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)は、マイクロな労働経済学におけるジェンダー格差の分析結果の学術論文をサーベイしています。竹信三恵子『女性不況サバイバル』(岩波新書)は、コロナ禍における女性の経済的な苦境に焦点を当てつつ解決策を模索しています。夕木春央『絞首商會』(講談社文庫)は大正期を舞台にした無政府主義者によると見られた殺人事件の謎を解き明かします。夕木春央『サーカスから来た執達吏』(講談社文庫)は、借金返済のために華族の財宝を探すミステリです。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週までに13冊、そして、今週ポストする7冊を合わせて168冊となります。今年残り2月余りで、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。

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まず、クラウディア・ゴールディン『なぜ男女の賃金に格差があるのか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国ハーバード大学の経済学の研究者であり、今年のノーベル経済学賞を受賞しています。英語の原書のタイトルは Career and Family であり、2021年の出版です。本書では、コミュニティ・カレッジのような短大ではなく4年制の大学卒の学士、あるいは、それ以上の上級学位を持つ女性を対象にして p.30 の示してあるように、女性の大学卒業年として1900-2000年の100年間を取り、この期間における女性の職業キャリアと家庭の歴史を振り返りつつ、男女間の賃金格差を論じています。学術的な正確性ではなく、ふたたび大雑把にいって、キャリアは職=ジョブと職=ジョブをつなぐものくらいのイメージです。そして、タイトルにある "Family" は「家族」というよりは「家庭」です。その際、この100年間を大雑把に20年ごとの5期に分割しています。第1期、すなわち、1900年から1920年ころに大学を卒業した女性たちであり、家庭かキャリアか、どちらか一方を選ぶ選択に迫られていました。キャリアを選ぶ大卒女性は結婚して家族を持つことを諦めざるを得ないケースが少なくなかったわけです。そして、第2期の1920年から1945年の大学を卒業したグループは、卒業後にキャリアを始めるものの、日本の寿退社に相当するマリッジ・バーによりキャリアを諦めざるを得ないことになります。第3期の1946年から1965年に大学を卒業した女性たちは、米国人の早婚化に伴って早くに結婚し出産を経て、子供の手がかからなくなった段階でキャリアを積む世界に入りました。第4期の1960年代半ばから1970年代後半に大学を卒業した女性たちは、女性運動が成熟したころに成人し、避妊薬であるピルが利用可能になり、キャリアを積んでから家庭を持ちました。そして、第5期の1980年ころ以降に大学を卒業した女性たちは、キャリアも家庭も持つ一方で、結婚と出産は遅らせています。ここで分析対象になっているのが、大卒ないし上級学位を保持する女性ですので、日本的なサラリーマンとは少し違うキャリアが垣間見えます。職業としては、医師、獣医師、会計士、コンサルタント、薬剤師、弁護士などが取り上げられています。でも、こういった職業キャリアにはだいたい可能性という観点で大きな違いがあり、弁護士業務では弁護士間での代替可能性が低く、例えば、極端な例ながら、裁判の途中で担当弁護士が交代するケースは考えにくいわけです。したがって、長時間労働は時間当たりの賃金単価を引き上げることになります。他方で、薬剤師などは代替可能性が高く、誰が処方しても同じ薬が販売されるわけで、賃金単価は労働時間に影響を受けません。そして、現在までの経済社会におけるジェンダー規範により、男性が長時間労働を引き受け、女性が短時間労働で家庭内の役割を受け持つとすれば、弁護士では男性の賃金単価が女性よりも高くなるわけですし、薬剤師では賃金単価は男女間で変わらないものの、労働時間の長さにより一定期間で受け取る週給とか月給は男性の方が高くなりがちになります。といったような分析が明らかにされています。ただ、私が大きな疑問を感じているのは、「男性は外で長時間働き、女性は家庭内の役割を引き受ける」というジェンダー規範を前提にしている点です。このジェンダー規範を前提にすれば、多少のズレはあっても、ほぼほぼ男女間に賃金格差が生まれそうな気がします。ですので、この根本となるジェンダー規範がいかに形成され、いかに克服されるべきか、を分析し議論しなければならないのではないか、と思うのですが、いかがなものでしょうか。例えば、人種差別が存在するのを前提として白人と黒人の賃金格差を論じるのは適当かどうか、私には疑問です。歴史的な観点で女性のキャリアと家庭を分析する視点は大いに啓発されましたが、ノーベル経済学賞という看板を外すと、マイクロな労働経済学という私の専門外である点を考慮しても、やや物足りない読書でした。

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次に、斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』(集英社)を読みました。編者は、『人新世の「資本論」』で一躍有名になった経済思想家、東大の研究者と精神科医です。本書は7章構成であり、編者を含めて7人が執筆しています。収録順に、第1章 白井聡: 大学における「自治」の危機、第2章 松村圭一郎: 資本主義で「自治」は可能か?、第3章 岸本聡子: <コモン>と<ケア>のミュニシパリズムへ、第4章 木村あや: 武器としての市民科学を、第5章 松本卓也: 精神医療とその周辺から「自治」を考える、第6章 藤原辰史: 食と農から始まる「自治」、第7章 斎藤幸平: 「自治」の力を耕す、となります。バラエティに富んでいて私の専門外の分野も多く、それだけに勉強にもなりますが、レビューに耐える見識に不足する分野もあります。まず、本書のタイトルでカギカッコつきになっている「自治」とは何か、については、第6章で指摘されている定義めいたものを参考に、「受益者」から「当事者」のの側面を持つようになり、それを不断に維持していくプロセス、というふうに私は解釈しています。でも、現在の日本に民主主義下でも投票というプロセスを通じて、統治のシステムに何らかのコミットをしている、という意見もあるかもしれませんから、そのコミットをさらに拡大するプロセス、ということなのだろうと思います。ですから、もっと言葉を代えれば、「統治」を政治的なものだけでなく、より幅広いコンテクストで考えることを前提に、受動な受け身一方の統治される側から何らかの能動的な要素を加え、それを進め拡大するプロセス、ということなのだと思います。その典型が、言葉としても人口に膾炙している地方自治であり、東京都の杉並区長に当選したばかりの岸本区長が担当している第3章によく現れています。ただ、私は大きく専門外なので、例えば、第2章で論じられているようなテーマで、資本主義のもとで自治が可能か、不可能かについては見識を持ちません。判りません。今までは、コモンの拡大がひとつの目標のように見なされてきていた議論が、1ノッチ段階を上げてコモンをいかに自治するか、という議論が始まった点は私は大いに歓迎します。私の専門分野に引き寄せると、18-19世紀のイングランドにおける(第2次)エンクロージャーが私的所有権を確立して、希少性ある資源の効率的活用を通じて産業革命を準備した、という制度学派的な経済史に対して、生産手段の国有化やプロレタリアート独裁といった大昔の教条的マルクス主義から脱して、コモンを量的に拡大するとともに、さらに、その質的な向上のための自治を模索するという点は大いに見込みがある気がします。その理由のひとつは、現在の政治的な運動が余りに選挙に重点を置きすぎていると私が感じているからです。もちろん、これまた大昔の教条的マルクス主義のように暴力革命を目指すのは、明確にバカげていますし、選挙を通じた政権交代よりもさらに実現の確率が低く、結果の期待値が悪いのは判り切っています。それでも、選挙を通じた政権交代だけに望みを託して、その昔の統一教会みたいにせっせと選挙活動に邁進する、というのも、一方のあり方としてそれなりに重要性は理解はするものの、それだけではなく、車の両輪のようにコモンを量的に拡大し、そして同時に質的な向上を目指して自治への参加を促す大衆的な運動、を車の両輪として推進するのが必要と考えます。そして、この政治レベルの車の両輪の基礎にあるのが経済であり、第7章の p.271 にあるように、「<コモン>による経済の民主化が政治の民主化を生む」という点を忘れてはなりません。

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次に、三浦しをん『墨のゆらめき』(新潮社)を読みました。本書はAmazon Audibleでも提供されています。著者は、直木賞作家であり、私の大好きな作家の1人です。本書の登場人物は主要に2人であり、2人とも30代半ばの独身男性で、主人公の続は真面目で実直なホテルマン、規模は小さいながらアットホームな三日月ホテルに勤務しています。もうひとりは役者のようなイケメンで、自由奔放な芸術家の書道家の遠田です。書道教室を開いています。舞台は東京です。主人公の続がホテルのバンケットの招待状などの筆耕を依頼するために、下高井戸にある遠田の家を夏の暑い盛りに訪れるところから物語が始まります。遠田の家は、2階が生活空間で、1階は書道教室にもなっていて、小5男子の三木から手紙の代筆を頼まれ、続が文案を練って遠田が書き起こします。そうこうしてい、続の方はビジネスライクに筆耕のお仕事などを進めようとするのですが、遠田の方は手紙の代筆などで筆耕のお仕事を超えた個人的な付き合いを深める意図があるのか、続が遠田の書道教室を去るたびに「また来いや」と声をかけます。続も遠田のこういった姿勢に引かれてお付合いの度合いが深まるわけです。しかし、ラストには遠田の筆耕のお仕事について三日月ホテルから登録を解除せねばならない、という事態に立ち至ります。遠田が暴力団の解散式の招待状や席札などの筆耕を引き受けたため、反社との交際者はホテルの仕事ができないわけです。どうして、遠田が反社の仕事を引き受けたかは、読んでいただくしかありませんが、この作者は直木賞受賞作品の『まほろ駅前多田便利軒』でも星という若い反社、ないし、半グレを登場させています。この作者らしい明るくコミカルなテンポで物語が進みながら、ある意味で、ラストはとても悲しいストーリーです。しかし、いいお話です。多くの方にオススメできます。ちなみに、私は東京にいたころは書道を習っていました。段位には届きませんでしたが、ジャカルタに海外赴任するまで、それなりに熱心に杉並の大宮八幡近くのお教室に通っていました。私の師匠は、もうとっくに亡くなっていますが、警察官ご出身で「xx捜査本部」とかの木製の看板に揮毫していたりしたそうです。警察官を退官してから、パートタイムで都立高校の書道の教員をしていて、筆耕の典型である卒業証書の宛名を書いていた経験をお聞きしたことがあります。400-500人ほどの卒業生の名前を筆耕するわけですが、60歳を過ぎてなお初めて書く漢字が必ず年に1文字や2文字はあった、ということです。いうまでもなく、筆耕は誰にでも読めなければなりませんから楷書で書く必要があり、その上に、字の美しさが問われます。本書で出てくる範囲では、私は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」をお手本に、毎週土曜日の午後にお稽古に励んでいました。なお、私の姉弟子、という言葉があるのかどうかは知りませんが、師匠に先に弟子入りしていた女性が amebloで「筆耕房」というブログを開設しています。筆耕にご興味ある向きはご参考まで。

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次に、牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)を読みました。著者は、アジア経済研究所の研究者です。本書では、マイクロな労働経済学分野におけるジェンダー格差の学術論文をサーベイしています。当然のように、今年2023年のノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の研究成果も含まれています。私はマイクロな労働経済学、しかも、ジェンダー格差についてはまったく専門外ですが、一応、マクロの賃金決定について定番のミンサー型の賃金関数で分析した研究成果「ミンサー型賃金関数の推計とBlinder-Oaxaca分解による賃金格差の分析」というタイトルの学術論文は書いていますし、その中で男女間の格差を含めて、いくつかの賃金格差を分析しています。ただ、本書でサーベイしているような精緻なミクロ経済学の実証分析は専門外です。ということで、本書では、例えば、これもノーベル経済学賞を受賞したバーナジー教授とデュフロー教授で有名になったランダム化比較試験(RCT)、自然実験、あるいは、差の差分析(DID)などの手法により分析されたジェンダー格差の研究結果を取りまとめています。本書で指摘しているように、マイクロな実証分析においては、一般的な世間の常識とは大きく異なる結果が出たりすることがあります。マクロ経済学では、そういった突飛な結果は少ない、というかほとんどないのですが、マイクロな実証研究ではいくつか見られます。でも、本書ではそういった意外性ある研究成果はほとんどなく、安定感ある実証結果を取りそろえています。ひとつ注目していいのは、専門外ながら、私でも知っていたことですが、ゴールディン教授の『なぜ男女の賃金に格差があるのか』が経済社会のジェンダー規範を前提に議論を進めていた点を物足りなく感じていたところ、本書では、アレシーナ教授らの鋤仮説をジェンダー規範の起源として提示しています。すなわち、定住しての農耕生活に人類が入った段階で、土地が硬くて鍬では耕せない地域では鋤(plow)を使うわけですが、鋤で深く耕すためには力がいるために男性優位社会になった、という仮説です。ただし、この仮説については、私は疑わしいと考えています。どうしてかというと、この仮説が正しいのであれば、土地の硬い地域ほど男性優位な経済社会の規範が生まれているハズなのですが、おそらく欧州の中でももっとも土地の硬い北欧でジェンダー格差が小さいからです。また、私はマイクロな実証分析は、経済学でいうところの一般均衡的、というか、長期的な結果については不得手である、と感じていたのですが、不勉強にして、そうでもないという点は勉強になりました。例えば、ごく単純に、賃金上昇に伴う女性の労働参加の増加は、むしろ、家庭における家事労働を主婦から女児に移行させ、長期的には女性に対するジェンダー格差是正にはつながらない、などという例です。こういった長期的な効果のほか、もちろん、女性の労働参加が進むとどうなるのか、ステレオタイプな思い込みがジェンダー格差に及ぼす影響、学歴と結婚や出産の関係、避妊薬の普及や妊娠中絶の合法化による女性の性や結婚などに対する決定権の強化が何をもたらすのか、などの分析結果がサーベイされています。最後の方で、日本は産休や育休などの制度は立派に整備されているが、利用が低調でジェンダー格差が大きい、といった議論がなされています。

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次に、竹信三恵子『女性不況サバイバル』(岩波新書)を読みました。著者は、和光大学の名誉教授ですが、朝日新聞記者を経験したジャーナリストと考えた方がいいかもしれません。本書では、女性不況、すなわち、世界的にもshe-cessionと呼ばれた2020年からのコロナ禍の不況を鋭い取材により浮き彫りにしています。そして、コロナ禍の女性の苦境をもたらした要因について、「6つの仕掛け」として、夫セーフティネット、ケアの軽視、自由な働き方、労働移動、世帯主義、強制帰国を第1章から第6章まで、綿密な取材に基づいて詳細な議論を展開しています。この6つの仕掛けはともかく、世界的にもコロナ禍がもたらした経済不況が女性に重くのしかかったということは疑いなく、政府も「男女共同参画白書」令和3年版の冒頭の特集などで認めています。そして、特に日本の場合、世界経済フォーラムで明らかにしているジェンダーギャップ指数で低位に沈んでいることに典型的に現れているように、男女格差が依然として大きいことから、おそらく、先進各国の中でも日本の女性が特に大きなダメージを被ったことに関しては疑いありません。本書でも指摘しているように、日本のジェンダー格差については、高度成長期から女性労働を補助的なものとしてしか見ず、学生アルバイトや高齢者の定年後雇用とともに低賃金で酷使してきました。ですから、主婦パート、学生アルバイト、高齢者の定年後雇用、の3つの雇用形態は景気循環における雇用の調整弁と見なされ、低賃金かつ不安定な雇用を形成し、さらに、1990年代からはこれに派遣労働が加わって、これらの非正規雇用が日本経済停滞の最大の要因のひとつと私は考えています。ただ、本書の優れている点として、単に女性の悲惨な現況という取材結果を並べるだけではなく、第7章などで新しい女性労働運動の可能性が上げられます。加えて、女性労働だけではなく、性搾取に反対するcolaboなどの運動との連帯の可能性も示唆されているのも重要な視点です。コロナ禍の中で家庭に閉じ込められかねず、また、著者の主張する「仕掛け」によって声を上げることがなかなかできずにいる女性たちへの連帯が明らかにされ、実際に行動に立ち上がる必要性も強調されています。ともすれば、選挙では過半数を制する必要があるように見えますが、3.5%ルールで有名なチェノウェス教授の『市民的抵抗』にあるように、決してそれほど多数の動員ができなくても、自覚的な3.5%の人々がいれば非暴力で達成できることは少なくありません。大いに期待し、応援すべき方向だと私は考えています。さいごに、本書のサワリの部分はプレジデント・オンラインの『女性不況サバイバル』でも読むことができます。何ら、ご参考まで。

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次に、夕木春央『絞首商會』(講談社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、この作品でメフィスト賞を受賞して作家デビューを果たしています。舞台は大正期の東京です。血液学の研究者であり、東京帝国大学の教授であった村山鼓堂博士が自宅の庭先で刺殺されます。ただ、その前に、同居していた、というか、そもそも、この住宅を建てた文化人類学の学者である村山梶太郎博士が死んでいます。コチラは自然死であり、殺人ではありません。この両博士は遠縁に当たります。亡き村山梶太郎博士は、どうやら、無政府主義者の秘密結社である絞首商会のメンバーであったらしいのですが、逆に、被害者の村山鼓堂博士はこの秘密結社を警察に告発する準備をしていたということが判明します。そして、村山鼓堂博士の殺人に関して、容疑者は4人います。被害者の村山鼓堂博士の遠縁にあたり村山邸に同居していた水上淑子、近所に住んでいて亡き村山梶太郎博士と懇意にしていた白城宗矩と生島泰治、そして、これも近所に住んでいて被害者の村山鼓堂博士と懇意にしていた、というか、村山鼓堂博士の妹と結婚している宇津木英夫、となります。しかし、これら容疑者の態度が殺人事件に巻き込まれているにしては、とっても不自然なものでした。すなわち、殺人事件の容疑者としては信じられないくらい、事件の解決に熱心な態度で、その上、自らが犯人であると匂わせるような怪しい振る舞いを示す者までいたりします。そのため、というか、何というか、容疑者の1人ながら被害者の親戚に連なる水上淑子が、探偵として事件を解決するべく、蓮野に依頼をします。蓮野が探偵役で、画家の井口が主人公として主としてワトスン役を務める、ということになりますが、実は、蓮野は秘密結社メンバーと想定されている村山梶太郎博士がご存命のころに、この村山邸に泥棒をするために侵入したりしています。蓮野が事件解明に向けて活動を開始しますが、村山鼓堂博士の死体を発見した村山邸の書生が殺されたりします。あらすじの紹介は、ミステリですのでネタバレなしで概要だけで終わります。2点だけ指摘しておきたいのは、『リボルバー・リリー』と同じでタイトルと本文中の表記が異なります。本文中は「商会」なのですが、タイトルだけが「商會」としています。まあ、表紙に明らかに見えるタイトルはキャッチーなものの方がいい、という判断なのだろうと思います。もうひとつは、私の読み方が浅いのかもしれませんが、探偵役の蓮野のキャラが、単なる厭世家というだけで、イマイチ明確ではありません。ワトソンの井口に対するホームズの役回りなのですから、もう少し気の利いたキャラに仕上げて欲しかった気がします。でも、デビュー作ですから、ということで終わっておきます。

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次に、夕木春央『サーカスから来た執達吏』(講談社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、前作の『絞首商會』でメフィスト賞を受賞して作家デビューを果たしています。最近では、『方舟』なんかの話題作もモノにしています。この作品では、前作でキャラがイマイチ不明確と私が評価した蓮野ではなく、タイトル通りにサーカスにいたユリ子が謎解きの探偵役を務めます。やっぱ、作者の方でキャラを作りかねているかの影響があったりするんでしょうか。それはともかく、本書は明治末期の出来事を冒頭に配した後、基本的に、大正末期、関東大震災から2年後の東京を舞台にしています。物語は冒頭明治末年の出来事を別にして、震災によって多額の借金をこさえて破産寸前の華族の樺谷子爵家に、サーカスから逃げ出したユリ子が、これまた、タイトル通りに借金の取立てに訪れるところから始まります。かつよという名の馬に乗ってユリ子は現れます。ユリ子を送り出したのは晴海商事の晴海社長です。もちろん、華族ながら樺谷子爵に借金を返済できる当てもなく、ユリ子は別の華族の絹川子爵家の財宝を探して借金返済に当てることを提案します。絹川子爵家が関東大震災で一家が死に絶えていえるのです。しかし、この宝探しに協力し、さらに、担保にするために、樺谷子爵家の令嬢である三女の鞠子を担保としてあずかるといって連れ去ります。実は、ユリ子は読み書きができないので、鞠子の助けが宝探しに必要だったりするわけです。そして、鞠子とユリ子による絹川子爵家の財宝を探すことになります。絹川子爵が残したといわれる謎解きの暗号を入手して、暗号解読に挑戦したりします。別に、絹川子爵家の財宝を探している華族の長谷部子爵家や簑島伯爵家との確執・対立があり、鞠子が簑島伯爵家の別荘に監禁されたり、ユリ子と鞠子が人気女優の家にかくまってもらったり、といった事件がサスペンスフルに起こります。最後は、大時代的に名探偵役のユリ子が関係者を一同に集めて謎解きを披露して終わります。ミステリですので、あらすじはこのあたりまでで、私の感想は、『絞首商會』の探偵役である蓮野より、この作品のユリ子の方が大いにキャラが明確に立っているのはいいと思います。ただ、ミステリの醍醐味としては、謎解きそのものに加えて、その謎解きに至った経緯があり、私の読み方が浅かったのかもしれませんが、ユリ子が謎解きに至った経緯が私には十分に理解できませんでした。ホームズの有名な消去法があり、「すべての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙な事実であっても、それが真実となる」といった趣旨だったと思いますが、こういった真実に至る道筋が不明確です。ひょっとしたら、作者もその点を理解している可能性があり、樺谷子爵家にユリ子を送り出した晴海社長が無条件でユリ子を信頼していたり、あるいは、人気女優と昵懇の仲だったりして、ユリ子の「有能さ」を無理やりに演出しているような気がします。
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2023年10月14日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済史の学術書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、マーク・コヤマ & ジャレド・ルービン『「経済成長」の起源』(草思社)では、先進国だけとしても、世界の多くの国が豊かになった歴史をひも解き、まだ豊かになっていない国の分析を展開しています。玉木俊明『戦争と財政の世界史』(東洋経済)は、戦費を調達しては平和を取り戻して公的債務を返済するという財政と戦争の繰り返しの歴史を議論しています。笹尾俊明『循環経済入門』(岩波新書)は、単なる廃棄物処理ではなく、循環型経済への転換について経済学的な分析を加えています。村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)では、客観的あるいは数値的なエビデンスを求める姿勢が困窮者への支援の抑止につながりかねないリスクを考察しています。小川和也『人類滅亡2つのシナリオ』(朝日新書)は、AIと遺伝子編集というホモサピエンス滅亡につながるリスクを論じています。潮谷験『スイッチ』(講談社文庫)では、「純粋の悪」が存在するかどうかを検証しようとするマリスマ心理コンサルタントの実証実験を取り上げたミステリあるいはホラー小説です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週の7冊と今週ポストする6冊を合わせて161冊となります。今年残り10週間で、ひょっとしたら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるかもしれません。

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まず、マーク・コヤマ & ジャレド・ルービン『「経済成長」の起源』(草思社)を読みました。著者たちは、いずれも米国にあるジョージ・メイソン大学とチャップマン大学の研究者です。専門は経済史や経済発展史です。本書は世界経済がテイクオフを経て、どのように豊かになったのか、また、現在でも豊かな国や地域とそうでない国や地域があるのはどうしてか、さらに、持続的な経済成長を達成した諸条件について、かなり制度学派的な発想から解き明かそうと試みています。もちろん、制度学派に偏っているわけではなく、かなり幅広い経済史を概観しています。その意味では、産業革命前後の経済史をサーベイしているわけです。私は専門外なもので、現時点まで西洋、というか、欧米が経済的な覇権を握っていたのは、イングランドで産業革命が始まり、それが欧米諸国で広まったからであって、どうしてイングランドで産業革命が始まったのかについての決定的な議論はまだ確定していない、と考えていましたが、本書を読んで新たな視点を得られた気がします。すなわち、従来は、欧米と中国やインド、という視点だったのですが、14世紀くらいから欧州の中での覇権の動きに本書は注目しています。まあ、何と申しましょうかで、経済史のご専門の研究者では当然のことだったのかもしれませんが、私は中国やインドで産業革命が始まらず、どうして欧州で始まったのか、について考えるあまり、イングランドの前に欧州で覇権を握っていたポルトガル、スペイン、オランダ、特にオランダで製造業の産業革命が起こらず、イングランドで始まった、という点はそれほど重視していませんでした。でも、本書でそういった視座も手に入れた気がします。ただ、相変わらず、産業革命については極めて複雑な要因が絡み合ってイングランドで始まった、というだけで、制度学派的に所有権が明確であるがためにエンクロージャーがイングランドで実行された、という以上の根拠は見い出せませんでした。少なくとも、ウェーバー的な「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義における欧州の興隆を支えたわけではなく、識字率に代表される教育とかの成果である、という点は確立された議論のようです。そして、本書の特徴のひとつは、単に経済史をさかのぼって眺めるだけではなく、現在まで欧米の経済水準にキャッチアップしていない国や地域について、かつての制度や文化だけではなく、人口増加の抑制が効かなかったのか、植民地時代の収奪に起因するのか、といった視点で現代経済を捉え直そうとしている点であり、これは評価できます。少なくとも、現在の先進国から途上国への国際協力や援助が、それほど経済発展を有効にサポートしていないように見えるだけに、いろんな複雑な要素要因を考える必要があるのだと実感します。とてもボリューム豊かな本で、400ページを大きく超えますが、とても読みやすくて読了するのにそれほど時間はかかりません。邦訳もいいのだろうと思います。

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次に、玉木俊明『戦争と財政の世界史』(東洋経済)を読みました。著者は、京都産業大学の研究者であり、ご専門は経済史です。本書では、序章のタイトルを「国の借金はなぜ減らないのか」として、アイケングリーンほかの『国家の債務を擁護する』を意識しているのか、と思わせつつも、中身はあくまで歴史であって財政プロパーについては重視されていない印象です。ということで、先ほどの本書の序章のタイトルの問いに対する回答は早々に示されており、その昔の欧州などでは戦争のために国が借金をして、イングランド銀行などの画期的な財政金融イノベーションによって、戦時に公債を発行して資金調達する一方で、戦争が終われば償還する、という古典派経済学が対象にした夜警国家の財政運営であったのが、現在の福祉国家では戦費ではなく社会福祉に財源をつぎ込んでいますから、on-going で続く福祉が終わってから国債を償還するという段取りにはならないわけです。そして、コヤマほかの『「経済成長」の起源』から続いて本書を読むと、現在のオランダに当たるネーデルランドが州ごとに公債を発行して戦費を調達していたのに対して、イングランドではイングランド銀行を設立して国債でもって資金調達していた点が、両国でビミョーに異なるという主張があります。ひょっとしたら、オランダで産業革命が始まらず、イングランドで始まったのと何か関係があるかもしれません。ないかもしれません。本書は終章で、ウォーラーステインのいうような近代的な世界システムがフロンティアの消滅により終焉する可能性を示唆しています。ただ、私自身の直感、そうです、あくまで直感としては、フロンティアが消滅すれば、主権の及ぶ範囲としての国境内で税を取り立てる余地が狭まるだけであって、中世的な低成長の時代にあってはフロンティアの獲得は死活問題であったでしょうが、技術革新で成長が期待できる近代社会では領土的な拡大は成長には不要だと考えています。むしろ、近代社会を支える持続的な成長に成約となるのは、その技術革新の停滞、あるいは、経済外要因、すなわち、気候変動や地球温暖化の進行、はたまた、武力衝突といった要因ではなかろうかと私は考えています。

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次に、笹尾俊明『循環経済入門』(岩波新書)を読みました。著者は、立命館大学経済学部の研究者、すなわち、私の同僚です。研究室も同じフロアで近かったりします。本書では、従来の廃棄物処理対応の延長線上で循環型経済社会を考える日本式の政策ではなく、欧州的なサーキュラー・エコノミーを展望し、持続可能な経済社会のための方向を明らかにしようと試みています。ただ、意図的なものかもしれませんが、SDGsという用語はほとんど出てきませんでした。ということで、SDGsについてはついつい2050年カーボンニュートラルに目が行くのですが、私はこの目標は、控えめにいっても、極めて達成が難しいと考えています。ハッキリいえば、ムリです。ムリとまでいわないまでも、少なくとも現時点で2050年カーボンニュートラル達成のトラックには乗っていません。まあ、2050年といえば、私がもしも生きているとしても90歳を超えていますので、たぶん、カーボンニュートラルの目標達成を見届けることができません。ですので、ついつい、SDGsやサステイナビリティに関しては別の目標を見てしまいます。毎年1本しか書かない今夏の論文のテーマは財政のサステイナビリティでした。そして、この本はサステイナビリティの中でも廃棄物ないし循環型経済社会をテーマにしています。第4章では、経済的インセンティブに焦点が当てられていて、私も常々の主張とも整合的に、意識や気持ちでは限界がある点を強調した後、ごみ処理有料化やビン・カンなどのデポジット制度が経済学的な理論を使って、実に見事に説明されています。私の不得意な分野ですので、このあたりのグラフは授業にも使わせていただこうと考えていたりします。そして、本書後半では、循環経済の重点分野として、第7章でフードロス、第8章でプラスチックの2点がクローズアップされています。どちらも注目されている論点であり、後者のプラスチックについては、2020年7月からスーパーやコンビニのレジ袋が有料化されて、大学生でも何らかの体験を持っています。今さら、「入門」とタイトルにあるの岩波新書を研究費で買うのもためらわれたのですが、専門外の私にも判りやすい良書です。とってもオススメです。

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次に、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)を読みました。著者は、大阪大学の研究者であり、専門は現象学的な質的研究となっています。これだけでは私には理解不能です。本書の視点はかなり明確で、客観性とか数値的なエビデンスを求める姿勢は、かなりの程度に、困窮者に対する差別的な姿勢と共通するのではないか、という疑問を出発点にしています。私はこの視点はかなり的を得ていて客観的で明確なエビデンスを、まあ、ハッキリいえば、ムリやりに求めて、困窮者への支援の妥当性に疑問を投げかける、という方向に進む可能性があるからです。ただ、もしもそうであるならば、タイトルはミスリーディングです。客観性に対応する概念が主観性であるというのは、たぶん、気の利いた小学生なら理解しています。でも、本書の議論はそうではありません。その上に、やや若年者向けの本であることを承知しているつもりながら、かなり上から目線で「君たちは間違っている。私が教えてやる。」という雰囲気が濃厚です。もちろん、第3章のタイトル「数字が支配する世界」とか、第4章の「社会の役に立つことを強制される」とかは、経済社会的な何らかの病理のようなものであるという主張は十分理解しますが、客観性とは違うのではないかという疑問は生じます。本書の著者が主張したい社会的な病理のようなものは、客観性や明確なエビデンスを求める姿勢ではなく、何らかの原因に基づいて困窮する人たちへの共感を欠く態度、そして、その一環として、困窮する人たちへの支援の根拠を過剰に求める態度ではなかろうか、と私は想像します。タイトルや表紙の帯などで、売上を伸ばすためのやや軽度のフェイクがあるような気がしてなりません。

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次に、小川和也『人類滅亡2つのシナリオ』(朝日新書)を読みました。著者は、グランドデザイン株式会社という会社のCEOであり、人工知能を用いた社会システムデザインを業務としているようです。本書では、表紙画像に見えるように、AIと遺伝子操作を人類滅亡のリスクと考えています。まったくもって同感です。ただ、本書の著者がよく考えている点は、人類=ホモサピエンスであって、滅亡とは人類が死に絶えることだけではなく、新たな段階に生物学的に進化することも「滅亡」とされています。直感的には、ホモサピエンスによってネアンデルタール人が滅亡したとかいった場合、もちろん、ネアンデルタール人は死に絶えたのでしょうが、遺伝子的にはホモサピエンスにかなりの程度残っていますし、まあ、それをいいだせば、チンパンジーだってホモサピエンスの遺伝子と大部分は共通するわけですから、少し「滅亡」を違う意味で捉える向きもありそうな危惧は持ちます。私は新たな段階に進化するのも滅亡でいいと考えていますので、申し添えます。繰り返しになりますが、表紙には「悪用」という文字がありますが、これは正確ではありません。特に、AIについてはホモサピエンスの誰か、マッドサイエンティストのような人物が悪用する、というよりは、AI自らが、ホモサピエンスから見て「暴走」する、ということなのだろうと思います。でも、ホモサピエンスから見た「暴走」はAIから見ればまったくもって当然の合理的行動なのだろうという点は忘れるべきではありません。私は基本的に本書の議論に同意します。すなわち、ホモサピエンスはそれほど遠くない将来、たぶん、数世代のうちに滅亡する可能性が十分あります。ただ、今夏の気候などを考慮すると、本書で取り上げるリスクが現実化する前に、気候変動というか、地球温暖化で滅亡するほうが早いかもしれません。また、ロシアのウクライナ侵略を見ていると、何らかの武力衝突もありえます。ということで、覚えている人は覚えていると思いますが、その昔に英国オックスフォード大学のグループだったか、誰かだったかが、12 Risks That Threaten Human Civilization という小冊子を出しています。ネット上でどこかにpdfファイルがアップロードされていると思います。これを、最後の最後にリストアップしておくと、以下の通りです。世に出たのは2015年だったと記憶していますが、コロナのずっと前にパンデミックとかが上げられています。もちろん、AIも含まれています。何ら、ご参考まで。
  1. Extreme Climate Change
  2. Nuclear War
  3. Global Pandemic
  4. Ecological Catastrophe
  5. Global System Collapse
  6. Major Asteroid Impact
  7. Super-volcano
  8. Synthetic Biology
  9. Nanotechnology
  10. Artificial Intelligence
  11. Future Bad Global Governance


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最後に、潮谷験『スイッチ』(講談社文庫)を読みました。著者は、京都ご出身のミステリ作家であり、この作品でメフィスト賞を受賞してデビューしています。表紙画像に見えるように、副題が「悪意の実験」とされています。ということで、どう考えても、龍谷大学としか思えない大学が舞台となっていて、大学出身のカリスマ心理コンサルタントの実験にアルバイトとして加わる女子大生が主人公です。このカリスマ心理コンサルタントは、「カリスマ」だけあって資金が豊富なもので、中書島にあるパン屋に援助していますが、6人のアルバイト大学生を集めて、意味なくスイッチを押すと、そのパン屋への援助を打ち切って、パン屋の経営が成り立たなくなる、という仕組みで、スイッチを押す人がいるのか、いないのか、また、押すとすればいつ押すのか、といった観点から心理実験をするわけです。心理コンサルタントはこれを「純粋な悪」と呼んでいたように思います。アルバイトは大学生6人で、期間1か月で、アルバイトには毎日1万円が支払われ、実験終了後に毎日の1万円に加えて100万円が支払われます。誰かがスイッチを押したとしても、実験は中断されることなく継続され、報酬は全員に全期間分、すなわち満額130万円ほどが支払われます。そして、重要なポイントは、誰がスイッチを押したかは雇い主の心理コンサルタントにしかわからない、ということになります。少し趣向は違いますが、タイトルといい、山田悠介の『スイッチを押すとき』を思い出させます。結果は、アルバイト期間最終日にスイッチが押されます。しかし、そのスイッチは主人公が目を話したスキに誰かに押されてしまったので、実際に誰が押したのかは不明です。スイッチを以下に押すかというハウダニットを軽く済ませた上で、誰がスイッチを押したのかのフーダニット、もちろん、もっとも重要なポイントで、どうしてスイッチを押したのかのホワイダニットの2点が主要に解明されるべきポイントとなります。そして、見事に論理的にこれらの謎が解明されます。しかし、バックグラウンドに新興宗教、カルトではなさそうなのですが、とにかく、新興宗教があって、やや不気味さを漂わせます。新興宗教は私の苦手な展開です。ややホラーがかっているものの、謎解きミステリとしては一級品だと思います。でも、大学生なのに僧侶、とか、飲んだくれて留年を繰り返している女性とか、作者としてはキャラを極端なまでに書き分けているつもりなのでしょうが、どうもすんなりと頭に入りません。まあ、私の頭が悪いだけかもしれません。その上、カリスマ心理コンサルタントの会話がかなり軽いです。ですから、アルバイトの大学生と変わりない「水平的」な会話が交わされてしまいます。もう少しメリハリをつけるのも一案か、という気がします。でも、繰り返しになりますが、謎解きミステリとしては一級品だと思います。世間で話題になっていることもありますから、読んでおいてソンはないと思います。
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2023年10月07日 (土) 09:00:00

今週の読書は幅広く経済をとらえる本から時代小説やエッセイまで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヘイミシュ・マクレイ『2050年の世界』(日本経済新聞出版)は、経済などの指標を用いて2050年の世界像を明らかにしようと試みています。ジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』(集英社)では、効率を尊ぶ進歩の時代から、自然界と共存するレジリエンスの時代への変化を説きます。石井暁『自衛隊の闇組織』(講談社現代新書)では、謎の自衛隊のスパイ組織に迫るジャーナリストの取材結果が明らかにされています。大村大次郎『日本の絶望 ランキング集』(中公新書ラクレ)は、日本の世界におけるランキングを統計的に明らかにしてグローバルな地位低下を示しています。酒井順子『処女の道程』(新潮文庫)は、性体験のない処女が時代とともにどのように異なった扱いを受けてきたのかに何するエッセイです。青山文平『江戸染まぬ』(文春文庫)は、江戸期の侍を中心にした義理人情の時代小説の短編7話を収録しています。最後に、津村記久子『サキの忘れ物』(新潮文庫)はアルバイト先に忘れられていたサキの小説を読んで人生が変わっていく高校中退の女性を主人公にする短編ほか計9話を収録しています。また、新刊書読書ではないので、この読書感想文のブログには含めていませんが、瀬尾まいこ『戸村飯店 青春100連発』(文春文庫)も読んで、軽くFacebookでシェアしていたりします。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~9月に104冊を読み、今週ポストする7冊を合わせて155冊となります。

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まず、ヘイミシュ・マクレイ『2050年の世界』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、英国『インディペンデント』紙経済コメンテーターなどを務めていますので、ジャーナリストなのだろうと思います。30年ほど前には本書でも何度か言及されている『2020年 地球規模経済の時代』を出版しています。英語の原題は The World in 2050 であり、2022年の出版です。ネタバレはしたくないのですが、アマゾンのサイトに「2050年の世界の10の展望」として明記されていますので、それを引用しておくと以下の通りです。すなわち、(1) 世界人口の約⅔が中間層と富裕層になる、(2) アメリカの先行きは明るい、(3) アングロ圏が台頭する、(4) 中国が攻撃から協調に転じる、(5) EUは中核国と周辺国に分かれる、(6) インド亜大陸の勢力が強まり、世界の未来を形成する、(7) アフリカの重要性が高まり、若い人材の宝庫となる、(8) グローバル化は<モノ>から<アイデアと資金>にシフトする、(9) テクノロジーが社会課題を解決する、(10) 人類と地球の調和が増す、ということになります。(8)なんてのは、論じるまでもなく当然ではないか、という気もします。本書でも引用していたかと思いますが、GDPで計測した経済規模だけで考えれば、ゴールドマン・サックス証券のリポート The Path to 2075にもあるように、我が日本は2022年には米中に次ぐ3番めの大きさでしたが、2050年には6位、2075年には12位までランクを落とします。それでも十分な経済大国だと私は考えていますが、本書のスコープである2050年には、私は命長らえていても90歳を超えますし、2075年ということになれば軽く100歳を超えます。ですので、私よりも15歳も年長である本書の著者のスコープに感激しつつ、なかなか責任ある見通しを語る残り寿命も、見識も私にはなかったりします。ただ、本書については、やや人口動態に重点を置き過ぎているのではないか、という気がしてなりません。中国が一度経済規模で世界のトップに躍り出ながら、そのトップは短命でインドに追い抜かれる、というのは、ほぼほぼ人口動態だけを根拠にしているように見えます。高等教育という観点で、世界トップクラスの大学がそろっている米国が量的な人口動態以外の質的な人材面で、まだまだトップクラスの影響力を持ち続ける、という点に関しては私も同意見です。本書の特徴のひとつはボリュームとなっていて、決して枚数をいとわないようで、通常であれば、欧米を中心にアジアでは中国とインドと日本くらいに焦点を当てる気がするのですが、アフリカにも目が行き届いており、私が3年間外交官として暮らして愛着あるラテン・アメリカも忘れてはいません。そういった広い視野で、まさに、世界を対象にしてボリューム豊かに議論を展開しています。ただ、人口動態に重きを置き、しかも、ほぼほぼ現状からの静学的な予想に徹している気がします。すなわち、「このまま歴史が進めばこうなる」というに尽きます。その意味で、意外性はありません。まったくありません。最後に、別の読書の影響もあって、2045年にシンギュラリティを迎えるというカーツワイル説もありますところ、ひょっとしたら、2050年には現在の人類は滅亡している可能性もゼロではありません。まあ、ゼロに近いとは思いますが…

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次に、ジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』(集英社)を読みました。著者は、経済社会理論家と本書で紹介されていますが、まあ、私から追加すべき情報はないと思います。英語の原題は The Age of Resilience であり、2022年の出版です。なお、本書は集英社から「シリーズ・コモン」の一環として出版されており、シリーズ2冊めとなります。1冊目は『人新世の「資本論」』で有名な斉藤幸平・松本拓也[編]『コモンの「自治」』だったりします。ということで、本書で示される著者のモットーは、地球を人類に適応させる「進歩の時代」から、人類が地球に適応し自然界と共存する「レジリエンスの時代」へ、という方向転換です。しかし、本書では「レジリエンス」という言葉を、通常の「ショックからの回復」という意味ではなく、変化への適応という意味で使っています。ですから、今までの進歩の時代は効率を重視し、ムダを省くことに重点が置かれていたのに対し、レジリエンスの時代には適応力が重視されます。20世紀的に効率を重視した経済活動は、本書でも指摘されているようにテイラー主義による工程管理などです。しかし、ムダを省き過ぎれば適応力が低下することは容易に想像されるところであり、トヨタのジャストインタイムの在庫システムなどは本書の用語でいえばレジリエンスが十分ではい、という可能性があります。そして、経済学でいえば制度学派的に所有権を重視し、エンクロージャーによる囲い込みでエネルギーをはじめとする資源を収奪すれば、当然に資本以外の労働者や自然界は疲弊し貧困化します。あるいは、マルクス主義が正しいのかもしれませんし、はたまた、マルクス主義的なイデオロギーとは無関係に事実としてそうなっているのかもしれません。本書では、こういった方向転換の4つの要素を第4部で上げています。すなわち、インフラ、バイオリージョンに基づく統治、代議制民主主義から分散型ピア政治への転換、そして、生命愛=バイオフィリア意識の高まり、となります。それぞれの詳細については本書を読んでいただくのがベストと考えますが、エコノミストとしては経済面の将来像にやや物足りなさを感じます。統治論や政治学的なパースペクティブはとても重要であり、先ほどの第4部の4要素でかなりイイセン行っている気がしますが、マクロの経済政策として何が重要なのかが浮かび上がってきません。生命愛=バイオフィリア意識の高まりという要素については、いつも私が繰り返し主張しているように、「意識」でもって経済を動かすにはムリがあります。もっとも、私の認識や読み方が浅いだけなのかもしれませんが…

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次に、石井暁『自衛隊の闇組織』(講談社現代新書)を読みました。著者は、共同通信のジャーナリストです。ついつい、興味本位で「VIVANT」に影響されて読み始めてしまいました。本書は、陸上自衛隊の非公然秘密情報部隊「別班」の実体に迫ろうと試みています。このスパイ組織は、文民統制=シビリアン・コントロールのまったく埒外にあって、総理大臣や防衛大臣ですら存在を秘匿していて、例えば、p.73では共産党が政権を取ったら、「躊躇なくクーデターを起こします」と関係者が言い放っていたりします。身分を偽装した自衛官に海外でスパイ活動をさせ、ロシア、中国、韓国、東欧などにダミーの民間会社を作り、民間人として送り込ん自衛隊員がヒューミントを実行している、と本書では指摘しています。おそらく、どんな組織でも何らかの情報収集活動はしていて、エコノミストも新聞やテレビやインターネットから経済情報を得ています。ヒューミントをしているエコノミストも少なくないものと想像します。そして、エコノミストの中には、それらの情報を基に何らかのアクションを取る人もいると思います。シンクタンクでリポートを取りまとめたり、所属する企業の金融市場での行動にアドバイスして、例えば、国債や株式の売買に影響を及ぼすことはありえます。でも、本書で指摘しているスパイ組織については、情報収集だけではなく、いわゆる謀略活動をしているわけです。その昔、旧関東軍では張作霖爆殺事件や柳条湖事件を独断で実行したわけですが、そこまで大規模な軍事活動ではないとしても、文民統制の利かない場面で謀略活動をしているわけです。本書では、まず、文民統制が利いていない点を問題に上げています。すなわち、外国の中でも米国の国防情報局(DIA)のように、ヒューミントの情報収集や、あるいは、実働部隊の軍事的行動を含む謀略活動を行う場合があっても、シビリアン・コントロール下にあるわけで、自衛隊のこのスパイ組織は独断専行している点に怖さがあります。ただ、私はホントの実態を知らないので何ともいえませんが、共産党政権を倒すべくクーデターを起こすまでの実効性ある行動を取れるかどうか、というのは疑問に思わないでもありません。このスパイ組織は、どこまで影響力があるのでしょうか。首相や防衛大臣にも知らされていないわけですし、おそらく、自衛隊の大部分も知らないこういった部隊が自衛隊の大きな部分を動かせるとはとても思えない、ましてや、政権に対するクーデターを起こすだけの実力があるかどうかは疑わしい、と私は考えています。もしも、私の見方が正しいとすれば、自衛隊内での単なる自己満足である可能性すらあります。実態に謎が多いだけに、私も詳細には判りかねます。悪しからず。


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次に、大村大次郎『日本の絶望 ランキング集』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務し退職後、ビジネス関連を中心にフリーライターをしています。本書では、6章に渡って日本が世界で占めるランキング、というか、ポジションを明らかにしています。6章は、インフラ、病院と医療、経済、格差、対外債権、少子化対策や教育、となっています。従来から指摘されていて、それなりに人口に膾炙している事実も少なくないですし、国民が誤解しているためにびっくりするような新事実があるかといわれると、決してそうではありませんが、いろんなところから実際のデータを集めて実証的に統計で明らかにしている点は好感が持てますし、ある意味で、実用的でもあります。従来から広く知られている事実としては、無電柱化率が低いとか、人口あたり医師数や集中治療室の数が少ないとか、格差が大きいとか、非正規雇用比率が高い、なんてのはひょっとしたら、意識の高い高校生なら知っている可能性もあると思います。ただ、生産性が低いというのはエコノミストとしては誤解があるという気もします。最終章の少子化の進行やそのバックグラウンドとなった諸要因については、よく取りまとめられています。日本の合計特殊出生率が低い、したがって、少子高齢化や人口減少が進行している、という点については広く認識がされている一方で、教育政策が極めて低レベルにある点はそれほど意識されていないような気がします。特に、大学などの高等教育の学費がものすごく高い点は見逃されている気がします。本書ではお気づきでないようですが、高い教育費のバックグラウンドは年功賃金にあります。よく知られているように、日本の長期雇用における生産性と賃金の関係を見ると、働き始めたばかりの比較的若い時期には生産性に比べて賃金が低く抑えられている一方で、中年くらいから後の時期になると賃金が大きく引き上げられて生産性を超える水準となります。これは生活給として必要、すなっわち、教育費などのライフステージに合わせてお給料が支払われているためであり、逆に、政府が手厚い政策で教育費を抑制しなくても、企業の方がお給料を弾んでくれる、ということです。ですから、これだけ国民負担率が高い先進国であるにもかかわらず、教育費がここまで高いのはめずらしいといえます。しかし、非正規雇用で昇進カーブがフラットな労働者が増えると、こういった教育費負担が大きく感じられます。今後の大きな課題と考えるべきです。

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次に、酒井順子『処女の道程』(新潮文庫)を読みました。著者は、エッセイストです。なかなかお行儀のいいエッセイをいくつか出版していますし、性に関するエッセイも少なくありません。ということで、本書は、性に開放的だった古典古代のころから説き起こして、儒教の貞操観念が浸透した封建社会、明治維新から純潔が尊ばれた始める大正期、そして、子供を産む機械みたいに出産を国に推奨された戦時下、さらにさらにで、「やらはた」のような性的な経験不足ないし未経験が恥ずかしかったくらいの1980年代を経て、芥川賞作家の村田沙耶香の生殖と恋愛を切り離す『消滅世界』を引きつつ、性交渉しない自由を得た令和へと、古今の文献から日本の性意識をあぶり出す画期的な性に関するエッセイです。私自身は、10歳も違いませんが著者より少し年長で、1970年代に中学生・高校生から大学生でした。でしたので、著者のいう「やらはた」に近い感想を持っていたりしました。特に、高校の雰囲気に大きく影響されますが、男子単学ながら制服のない高校に私は通っていて、質実剛健・バンカラというよりはチャラついた派手めの高校でしたので、そういった性体験は周囲も含めて早かった気がしないでもありません。ですので、性体験ナシという意味での「処女」を重視するような文化とは無縁です。さらに、20代半ば後半からバブルの時代に入りましたので、チャラついた派手めの性行動が増進された気すらします。しかし、他方で、「処女」とか、男性の「童貞」も含めた「純血」を重視していた時代背景も理解できなくもありません。おそらく、本書でも指摘されているように、処女や純血の推奨は男性のサイドの勝手な要求だろうと思います。すなわち、よほどのことがない限り、生まれてきた子供の母親は同定できるのに対して、父親の方は推定されるだけであり、妻女に貞操や純潔を求めないと遺伝子の伝達が確実ではない、と男性の側が考えて権力や暴力に任せて女性に押し付けたモラルなのではないか、という気もします。もちろん、男女間のパワーバランスも大いに反映されています。ただ、完全否定するには難しい考えであることも確かで、少なくとも排除すべき思考とも思えません。まあ、要するに、時代による流行り廃りはあるとしても個人の自由の範疇であろうと思いますので、逆に、こういった行き届いたエッセイで歴史を振り返るのも有益ではなかろうか、と考える読後感です。

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次に、青山文平『江戸染まぬ』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説作家であり、『つまをめとらば』で直木賞を受賞しています。謎解きを含んで、少しミステリのような味付けをした時代小説作品も少なくありません。私は直木賞受賞の『つまをめとらば』とともに、ミステリっぽい『半席』を読んでいたりします。ということで、本書は江戸期を舞台とする時代小説短編を7話収録しています。収録順に、「つぎつぎ小袖」、「町になかったもの」、「剣士」、「いたずら書き」、表題作の「江戸染まぬ」、「日和山」、「台」の各短編となります。「つぎつぎ小袖」では、娘の肌を守るため疱瘡除けのつぎつぎ小袖を親類7家に依頼する母親を主人公に、いつも快く引き受けてくれる「仏様」の家からの借金の無心を断ったことなど、江戸期の下級武家の慎ましい暮らしぶり、母親の娘を思う気持ちなどが垣間見えます。「町になかったもの」では、月に6回も市が立つ六斎市を源にしている大きな町の上問屋の晋平が町年寄の願いで御番所への訴えで江戸に出他経験を基に、故郷の町になかった書肆を帰郷して開きます。「剣士」では、部屋住みの厄介叔父として年齢を重ねた主人公が、同じ境遇の幼馴染と川釣りで出会って、お家の口減らしのために立会いに及びます。「いたずら書き」では、藩主側近の1人である御小姓頭取の主人公に、藩主が内容を知る必要はないといわれた書状を評定所前箱に投函するよう命じられたものの、藩主のためにどうすればいいかを考え続けます。「江戸染まぬ」では、主人公は1年限りの武家奉公の主人公が、隠居した前藩主のお手がついて子をなした女中の宿下がりに付き添い、下女のために資金調達を志してスキャンダルを売ろうとします。「日和山」では、婿入り先が見つかったばかりの旗本家の次男が、戯作の書写で重追放となった父親や嫡男と別れて、太刀を打って中間奉公しながら、伊豆の賭場の用心棒に収まり、新しい時代の到来を見ます。「台」では、これも武家の次男が主人公となり、嫡男が惚れているのではないかと疑った下女をモノにすべく家に戻って学問に励みますが、その下女が祖父の子をなしてしまい、学問に励んだ挙げ句、優秀な成績で取立てられてしまいます。表題作の「江戸染まぬ」を基に長編『底惚れ』ができたらしく、中央公論文芸賞と柴田錬三郎賞をダブル受賞しています。ただ、私は不勉強にして『底惚れ』は未読です。本書に収録された短編は謎解きやミステリめいたところはそれほどなく、むしろ、時代小説の純文学、というところがあって、それほど明確な落ちのある短編は少なかった気がします。でも、時代小説の黄金期である江戸の徳川期を舞台に、侍を主人公に据えた短編も多く、私好みといえます。

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次に、津村記久子『サキの忘れ物』(新潮文庫)を読みました。著者は、『ポストスライムの船』で芥川賞を受賞した純文学の小説家です。不勉強な私でも『ポストスライムの船』は読んでいたりします。本書は9話の短編が収録された短編集です。収録作品は順に、表題作の「サキの忘れ物」、「王国」、「ペチュニアフォールを知る20の名所」、「喫茶店の周波数」、「Sさんの再訪」、「行列」、「河川敷のガゼル」、「真夜中をさまようゲームブック」、「隣のビル」となります。短編小説のご紹介が続いて、少し疲れてきたのですべての短編ではなく、印象的だったのをいくつか取り上げます。まず、表題作の「サキの忘れ物」では、高校を中退して病院内の喫茶店でアルバイトをする主人公が、喫茶店の常連客の女性が忘れていった「サキ」の作品を読むことにより人生が変化してゆきます。「王国」を飛ばして、「ペチュニアフォールを知る20の名所」では、旅行先を探す主人公に対して、旅行代理店のガイドが観光名所案内の形式をとりつつ、穏当を欠くペチュニアフォールの歴史を展開して、最後の落ちがお見事です。「Sさんの再訪」では、大学時代には「S」のイニシャルの友人がおおく、しかも、日記をイニシャルでつけていたために混乱する主人公のコミカルな思い出と現実が交錯します。「行列」では、美術館らしいが、実のところ何を目的にしている行列なのかが明確でない中で、主人公と同じ行列に並ぶ人びとのあいだに起こる不協和音のような出来事を綴っています。とってもシュールです。「河川敷のガゼル」では、小さな町の河川敷に迷い込んだガゼルを見守る警備員のアルバイトをしている休学中の大学生を主人公が、ガゼルや自然保護のために何が必要かを考えます。「隣のビル」では、トイレ休憩の長さにまで文句をいいだす常務のパワハラに悩まされている主人公が、ある日、隣のビルは実は手を伸ばせば届きそうに近いという事実に気づいて、パアハラ常務のいる職場の日常から一歩踏み出すことを考えます。たぶん、真っ当な読者であれば、冒頭に収録されている表題作の「サキの忘れ物」とか、最後の「隣のビル」が一番印象的なのでしょうが、私のようなひねくれた読者は、「ペチュニアフォールを知る20の名所」や「行列」といった不自然極まりない不穏当な作品も大好きだったりします。
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2023年09月30日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済学の学術書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山本勲・石井加代子・樋口美雄[編]『コロナ禍と家計のレジリエンス格差』(慶應義塾大学出版会)は、コロナ禍における家計のダメージの大きさとそのダメージからの回復が家計の属性と同関係しているかを分析しています。証券税制研究会『日本の家計の資産形成』(中央経済社)は、家計における公的年金以外の収入を得るための資産形成を分析しています。アンソニー・ホロヴィッツ『ホロヴィッツ ホラー』(講談社)は、ジュブナイルの向けに10代の少年少女が主人公となって怖い体験をするというホラー短編9話を収録しています。養老孟司『老い方、死に方』(PHP新書)は、450万部に達した『バカの壁』の作者の解剖学者が4人の識者と対談し、アンチアイジングや認知症介護など、老いと死を考えます。ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)は、マルクス主義の観点から資本主義を搾取だけでなく収奪の過程として分析します。北上次郎・日下三蔵・杉江松恋[編]『日本ハードボイルド全集 2』(創元推理文庫)は、「野獣死すべし」をはじめとする大藪春彦の比較的初期の作品を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~8月に76冊の後、今週ポストする6冊を入れて9月には34冊を読み、6~9月の新刊書読書は110冊、今年の新刊書の読書は合わせて154冊となります。交通事故による入院がありましたが、ひょっとしたら、今年も年間200冊に達するかもしれません。

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まず、山本勲・石井加代子・樋口美雄[編]『コロナ禍と家計のレジリエンス格差』(慶應義塾大学出版会)です。編者たちは、慶應義塾大学の研究者です。出版社からしてもほぼほぼ学術書と考えるべきですが、それほど小難しい計量経済分析を展開しているわけではありませんので、一般のビジネス・パーソンでもそれほど読みこなすのに苦労するとは思えません。ということで、コロナ禍を経験した後、その後の回復過程においてレジリエンスが注目されています。本書ではレジリエンスについて「何らかのショックや困難・脅威が生じた際に、素早く元の状態に回復できる力」と定義し、日本家系のコロナ禍からのレジリエンスを検証しています。本書は3部構成であり、第Ⅰ部 パンデミックで露呈したレジリエンスの重要性、第Ⅱ部 パンデミックに強い働き方・暮らし方、第Ⅲ部』家計のレジリエンス強化に向けて、となっています。データは、日本家計パネル調査(JHPS)とコロナのパンデミックに応じて実施された特別調査(JHPS-COVID)を用いています。いくつか特徴的なファクト・ファインディングがあります。まず、前提として、レジリエンスを考える前に、コロナのパンデミックに際して家計のダメージがあります。当然ながら、ダメージも、そのダメージからの回復過程におけるレジリエンスも、家計ごとに異なっていて一様であるはずもありません。加えて、容易に想像されるように、ダメージが大きかった家計のレジリエンスがはかばかしくないのは実感にも合致しています。これまた、容易に想像されるように、家計の属性的には、母子家庭をはじめとする女性が主たる稼得者となっているケース、低所得家計、非正規雇用や自営業、そして、産業別に考えると飲食や宿泊といった対面サービス、エッセンシャル業務の業種、などがダメージ大きくレジリエンスも弱かった可能性があります。例えば、在宅勤務はパンデミック下でも就業を継続できるという意味でレジリエンスの高い働き方といえますが、男性、正規雇用、対面を要しない産業、で採用され、レジリエンス格差が露呈したといえます。また、所得階層や正規雇用といった経済社会的な条件以外にも、勤勉性や粘り強さ、ポジティブ思考などがレジリエンスの高い要因として上げられています。加えて、低所得階層や自営業などではコロナのパンデミックに伴って、将来的な不確実性が大きくなり、所得減少以上に大きなショックとなっている分析結果が示されています。そして、政策インプリケーションとしては、医療制度をはじめとする社会保障の拡充や効率化、特定給付金をはじめとする各種の支援制度の迅速化・適正化、などなどがコロナ禍における家計のリスクや心理的な不安を縮小する上で重要な役割を果たした点が明らかにされています。また、こういった格差については、特に、ウェルビーイングに関してはパンデミック前のいわば平時のウェルビーイングはパンデミック後とかなりの相関があり、パンデミックの有無にかかわらず平常時からのウェルビーイングが重要であるという観点も示されています。1点だけ、私から指摘しておくと、ドイツとの比較分析はありましたが、データの制約が強いのは理解するものの、諸外国との比較は絶対に必要です。我が国のコロナ禍のひとつの特徴は、そもそも感染者数も感染による死者数も、諸外国と比較して決して多くなかったにもかかわらず、ショックはそれほど小さくなかった、という事実です。今後の研究に期待します。

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次に、証券税制研究会『日本の家計の資産形成』(中央経済社)です。著者は、証券経済研究所におかれた研究会組織ですし、それなりに、証券業界の提灯持ちのような分析ではありますが、例の金融庁のリポート「高齢社会における資産形成・管理」、そうです、老後資金に2000万円必要と指摘したリポートとともに、老後資産運営の観点も含んでいますので、簡単に見ておきました。まあ、提灯論文満載でNISAやiDeCoの推奨、さらに、貯蓄から投資への動きを進めようとする分析が主となっているのは当然です。その昔に、消費者金融の分析で、東京にある有名私大の先生方がライフサイクル仮説の一つの条件である流動性制約の解消に消費者金融が大きな役割を果たす、といった論文集を出版していましたが、そういった業界のポジションを反映する分析と考えつつ、眉に唾つけて読んだ方がいいと思います。なお、本書は4部構成であり、第1部 私的年金の役割、第2部 家計の資産形成と税、第3部 老後の資産形成のモデル分析、第4部 証券市場・個人投資家のデータ分析、となっています。本書のポジションを明確に表しているのは、基本的な認識であって、「公的年金だけでは老後資金が不足する」というものです。「老後資金2000万円」のリポートと同じ論旨なわけです。そういう基本認識なのであれば、私のような左派リベラルなエコノミストは「もっと年金をくれ」ということになるのですが、ネオリベな見方をすれば、あくまで自己責任で稼ぐ必要あるということになり、もっと働くか、資産運用する、という方向が示され、本書はそのうちの後者の資産運用を分析しているわけです。大きな特徴は、繰り返しになりますが、公的年金では不足するといいつつ、バックグラウンドでは成長が考えられているようで、労働市場参加を促して自ら生産に参加するか、あるいは、貯蓄を進めて成長資金を供給するか、という選択を迫っているように私には見えます。岸田内閣のひとつの看板政策である「資産所得倍増」の観点が盛り込まれていて、資産の少ない所得階層は資産運用が出来ないので、労働市場にとどまって働くべし、ということのようです。ですので、資産運用のひとつの形態で、最初は私的年金の分析から始まります。米国やカナダの退職者勘定(IRA)、特に確定拠出年金などが分析対象となります。そして、第2部以降ではさまざまな老後の資産運用が論じられています。基本的に、研究会を構成するメンバーが論文執筆を担当していますので、精粗区々の論文で成り立っています。第7章なんかは参考文献リストもなく、学術論文の体裁を外れているような気もします。これも繰り返しになりますが、消費者金融会社からそれなりの額の研究助成金をせしめて、ゼミの学生までも海外研修旅行に連れ回していた先生方の卒業生は、今はどうしているのでしょうか?

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『ホロヴィッツ ホラー』(講談社)です。著者は、英国のミステリ作家です。私もいくつか作品を読んでいます。本書は9話の短編から編まれており、この作者が得意とするジュブナイル作品となっています。すなわち、主人公はほぼほぼティーンエイジャーです。私の直感では、日本人でも小学生高学年生から中学生くらいが対象のような気がします。でも、年長者でも、B級ホラーや都市伝説的なホラーが好きな読者には気楽に楽しめると思います。収録作品タイトルは収録順に、「恐怖のバスタブ」、「殺人カメラ」、「スイスイスピーディ」、「深夜バス」、「ハリエットの恐ろしい夢」、「田舎のゲイリー」、「コンピューターゲームの仕事」、「黄色い顔の男」、「猿の耳」となります。「恐怖のバスタブ」では、アンティーク家具の趣味ある親が買ってきたバスタブが、実は、かつての殺人鬼のもので、主人公の少女がバスタブに尋常ならざるものを見ます。「殺人カメラ」では、主人公の少年が蚤の市で父親の誕生日プレゼントにアンティークなカメラを買いますが、このカメラで写真を撮るとその被写体に何かが起こります。「スイスイスピーディ」では、競馬の勝ち馬を予言するパソコンを主人公の少年が入手しますが、不良の年長者にカツアゲされて奪われてしまいます。「深夜バス」では、ハロウィンのパーティーから帰りが遅くなった主人公の少年が弟ともに乗り込んだ深夜バスの物語です。「ハリエットの恐ろしい夢」では、わがままな主人公の少女が父親の事業の失敗により従来の生活を送れないことから、ヨソにもらわれていって恐怖の体験をします。「田舎のゲイリー」では、母方のおばあさんの住む田舎に来た主人公の少年が帰れなくなってしまいます。本作だけは、私の理解がはかどりませんでした。「コンピューターゲームの仕事」では、日本でいうニートの少年が主人公で、コンピューター・ゲームの会社に雇われて仕事を始めるのですが、日常生活に異変が起こります。「黄色い顔の男」では、主人公がティーンのころを振り返って、駅に設置してあるセルフサービスの写真撮影をしたところ、4枚出来上がったうち見覚えのない写真が混じっていたのですが、その後、鉄道事故に遭遇して見覚えのない写真の正体を理解します。最後の「猿の耳」では、3つの願いを叶える猿の手ならぬ猿の耳は4つの願いを叶えるのですが、ビミョーに聞き間違えをして大変な事態を招きます。繰り返しになりますが、これは児童書です。でも、私はそれなりに楽しめました。

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次に、養老孟司『老い方、死に方』(PHP新書)です。著者は、『バカの壁』などでも有名な解剖学者です。本書は4章構成となっており、すべてが対談の結果を取りまとめた内容です。第1章は「自己を広げる練習」、と題して曹洞宗僧侶の南直哉師と、第2章は「ヒトはなぜ老いるのか」、と題して遺伝子学者の小林武彦教授と、第3章は「高齢化社会の生き方は地方に学べ」、と題して日本総研エコノミストの藻谷浩介氏と、そして、第4章は「介護社会を明るく生きる」、と題してエッセイストの阿川佐和子氏と、それぞれ対談しています。私自身はエコノミストですので、ついつい第3章に注目してしまいましたが、もうそろそろ都会と地方の二分法には限界が来ている気にさせられました。対談相手の主張に従って、地方は「里山資本主義」で、ネオリベでお金中心な都会と違う価値観がある、というのは、思い込みにしか過ぎないように私は考えています。例えば、「渡世の義理」の世界のヤクザや宗教、特に、新興宗教の世界はお金そのものです。統一教会が先祖の霊を持ち出して壺を高額で買わせるのが、もっともいい例ですし、ヤクザの世界も義理や何やといいながら、結局はカネの世界であって、それ以外の価値観は大きな影響はないように私は感じます。高齢化という意味では、確かに地方の方が都会の先を走っているように見えますが、それでは、地方の現在が都会に適用できるかといえば、私は疑問なしとしません。ただ、第3章で正鵠を得ていると考えるのがp.133であり、「経済学は旧式の学問で、常に生産のほうがボトルネックだった20世紀までに発展したものですから、生産ではなく消費のほうが足りないといういまの日本の状況を説明できません。」というのはまさにその通りです。ただ、逆から見て、その生産を下回る消費というのは都会のお話であって、地方では生産が、輸送や流通も含めた供給サイドが、いまだにボトルネックになっているように見えるのは私だけでしょうか。私はもう60代なかばの高齢者に入って、老い方や死に方を考えるために本書を読みましたが、それほど参考にはなりませんでした。

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次に、ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)です。著者は、米国 New School for Social Research の研究者であり、私よりも10歳くらい年長であったと記憶しています。専門は政治学です。経済学ではありません。英語の原題は Cannibal Capitalism であり、2022年の出版です。原書のタイトルを直訳すれば、「共喰いの資本主義」ということになります。ということで、著者が明記していますが、資本主義についてマルクス主義の観点から批判的な議論を展開しています。すなわち、マルクス主義的にいえば、労働者を搾取して資本蓄積を進めるということになっているわけですが、本書では搾取とともに収奪にも重点を置いています。古典的な植民地からの収奪や人種や性などの差別的扱いから生じる収奪だけではなく、現代ではケア労働者の収奪、さらには自然に対する収奪が環境問題を生じている、といった点が明らかにされ、そういった収奪により民主主義が危機に瀕している、という議論が展開されています。そうした中で、基本的な議論として、私のような左派ではありながらも改良主義というか、何というか、資本主義が悪いというよりは現在の新自由主義的な政策、ネオリベが悪いんじゃあないの、という議論ではなく、根本的に資本主義がダメなのである、という結論という気がします。その点は私にはマルクス主義の根本が理解できていないので、十分にレビューすることができません。悪しからず。特に、環境問題については、私は現時点では未確認ながら、成長と環境負荷がデカップリングできれば、あくまで、デカップリングできれば、という前提ですが、成長を続けて希少性が減じる社会を達成できる可能性があると考えています。私自身は、本書でいう外部経済のような市場の不完全性だけでなく、長期の資源配分などにも適していないし、伝統的な主流派経済学が想定するほど市場の機能が優れているとは考えていません。しかしながら、同時に、本書のようにネオリベな新自由主義ではなく、そもそも資本主義がダメなのである、とまでは考えていません。そういった中途半端な私のスタンスからして、マルクス主義の色濃い本書の理解はなかなかはかどりませんでしたが、ひとつの参考意見としては傾聴に値すると考えてよさそうです。

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最後に、北上次郎・日下三蔵・杉江松恋[編]『日本ハードボイルド全集 2』(創元推理文庫)です。編者3人は、文芸評論家、編集者などです。このシリーズは現時点で7巻まで発行されており、第7巻だけが1作家1編の16話からなるアンソロジーなのですが、それ以外は各巻すべて同一著者の作品を収録しています。この第2巻は大藪春彦であり、順に、第1巻は生島治郎、第3巻は河野典生、第4巻は仁木悦子、第5巻は結城昌治、第6巻は都筑道夫、となっています。各巻では、各作家の割合と初期の作品を収録している印象です。この第2巻は、繰り返しになりますが、大藪春彦の初期の作品、すなわち、デビュー作である「野獣死すべし」から始まって、長編の『無法街の死』、さらに、「狙われた女」、「国道一号線」、「廃銃」、「黒革の手帖」、「乳房に拳銃」、「白い夏」、「殺してやる」、「暗い星の下に」が収録されています。冒頭収録のデビュー作である「野獣死すべし」があるいはもっとも有名かもしれません。かなりの程度に自伝的な内容であり、ソウルで生まれた後、徴兵された父と生き別れになりながらも日本に帰国し、東京の大学に入学し英文学教授の下請けで小説の翻訳をしつつ、暴力的かつ非合法な手段で資金を得て、米国の大学院に留学する、というのがストーリーなのですが、銃器がいっぱい出てきますし、それ以外にも暴力満載で、さらに、それらがグロテスクな表現で描写されています。ほかの収録作品も、ストーリーとか、プロットとかの展開ではなく、各シーンのグロで暴力的な描写が大きな特徴となっています。21世紀の現時点から考えれば、ほとんど理由のない暴力とすら感じられるかもしれません。当時の日本の現状をよく反映していて、銃器は欧米製、自動車も米国車中心に欧米製が頻出します。また、編者の1人である杉江松恋による巻末解説はとても充実しており、加えて、馳星周によるエッセイも収録されていて、私のようにハードボイルド作家としての大藪春彦についてそれほど情報がなくても、いっぱしのファンを気取ることができそうです。
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2023年09月23日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書に小説や新書を合わせて計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)は、経済の基盤をなす信頼についてゲーム論を援用しつつ分析しています。池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)は、父親の郷里の田舎に移住したミステリ作家の周囲で起こる事件の謎を解き明かすミステリです。宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、大津に住む女子中学生・高校生を主人公に「滋賀愛」あふれる小説です。安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)は、双子研究の成果も踏まえて教育よりも遺伝が強力である点を明らかにしています。島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)は、世界的な帝国における宗教の役割を歴史的に明らかにしています。最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)は、ニートの若者が遺産相続した保養所のある離島に送り込まれて、移住してくる仲間を探して生活を成り立たせます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~8月に76冊の後、今週ポストする6冊を入れて9月には28冊を読み、今年の新刊書の読書は合わせて148冊となります。
なお、新刊書読書ではありませんが、50年近く前に出版された堺屋太一『団塊の世代』を読んでいます。Facebookでシェアしてあります。

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まず、ベンジャミン・ホー『信頼の経済学』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、米国ヴァッサー大学の研究者であり、専門は行動経済学だそうです。どうでもいいことながら、私はヴァッサー大学といえば米国東海岸のアイビー・リーグにも相当するくらいの名門女子大学といわれるセヴン・シスターズの一角だと思っていたのですが、とうの大昔から共学化されているようです。英語の原題は Why Trust Matters であり、2021年の出版です。ということで、本書は出版社からして基本的に学術書なのですが、著者は行動経済学の専門とはいえゲーム理論をもって信頼の経済学を展開していますので、それほど難しい内容ではありません。私はゲーム理論やマイクロな経済学はまったくの専門外なのですが、読んでいて十分に理解できました。ただ、最近の全米経済研究所(NBER)のワーキングペーパーとして私が読んだ "Mistrust, Misperception, and Misunderstanding: Imperfect Information and Conflict Dynamics" で取り上げられているような国際関係の分析に用いられる one-shot security dilemma/spiral model などではなく、個人の意思決定、すなわち、ミクロ経済学の理論で行動や選択を主眼にしています。ですので、最初に生物学的な基礎として、オキシトシンといった脳内分泌物質のお話から始まります。私の苦手な分野です。ただ、貨幣が市場取引において一般的な受容性を持つ点とか、信頼の重要性は経済学でも重要ですから、そういった分析は本書でも十分なされています。私の場合、基本的に、信頼という個人的、あるいは、集団的な認識の問題ではなく、経済学においては情報の問題として分析されるべきだと考えています。この情報本質論については、本書では実にサラッとしか言及されていません。ミクロ経済学にせよ、マクロ経済学にせよ、経済学で考える経済主体は個人ないし家計と企業と政府が国内経済主体となり、海外経済主体も開放経済では考えます。身近な個人、親戚とか大学の同級生とかについては情報が十分あるので高い信頼を置いて少額であればお金を貸したりするわけですが、見知らぬ個人には気軽にお金を貸せないわけです。また、ほぼ常にホームバイアスがあって、国産食品は情報量が豊富で安心安全という信頼感がある一方で、情報が不足しがちな輸入食品は国産食品に安心安全の点で及ばなかったりするわけです。そして、これは本書で指摘している点ですが、取引における情報が大きく偏って非対称であれば市場取引そのものが成立しないケースもあるわけです。米国財務長官のイエレン女史のご亭主であるアカロフ教授の研究の成果であり、ノーベル賞が授賞されています。ただ、本書では専門家に対する信頼とか、さまざまな観点から信頼の経済学を議論しています。経済社会のオンライ家、というか、デジタル化が進んで、今まで会ったこともなければ、名前も知らない個人や企業とコンタクトを取る機会も少なくない中で、スムーズな関係を築くためにも信頼関係が重要であることはいうまでもありません。ただ、直感的にあるいは経験的に思考して行動しているだけではなく、それなりの信頼に関する理論的なバックグラウンドも必要です。そういった意味も含めて、大きな国際関係などではなくもっと身近なところの信頼を考える上で、なかなかいい良書だと思います。

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次に、池井戸潤『ハヤブサ消防団』(集英社)です。著者は、いうまでもなく小説家であり、『下町ロケット』で第直木賞を受賞しています。日本で一番売れている小説家の1人といっていいと思います。本書はテレビ朝日系にてドラマ化されています。もう放送は終わったにもかかわらず、交通事故で入院中に図書館の予約が回って来たようで、予約を取り直して読んでみました。ということで、まず、本書は作者の思惑は別として、私はミステリとして読みました。すなわち、作品の主人公がそもそもミステリ作家で、自然豊かな田舎に移住してきたところ、連続放火事件が発生し、さらに、死人まで出るわけですから、いわゆる名探偵という存在は明確ではないものの、動機や犯人探しなどからしてミステリと呼ぶにふさわしい気がします。少なくとも、以前の半沢直樹シリーズのような企業小説ではありませんし、「アリバイ」という言葉も登場します。そして、振り返れば、前作の『アルルカンと道化師』についても、半沢直樹シリーズながら、どうしてあの出版社をIT長者が熱心に買収したがるのか、という動機の点はミステリみたく読むことも可能であったのだろう、と今さらながらに思い返しています。本書に戻ると、亡父の故郷のハヤブサ地区にミステリ作家が移り住んで来て、地元の人の誘いで居酒屋を訪れて消防団に勧誘され入団する、というところからストーリーが始まります。そのハヤブサ地区で不審な火事が立て続けに起こるわけです。その合間に、というか、ヤクザとも関わりあるとウワサされていた問題児の青年が滝で死体で発見されたり、保険金目当てや怨恨からの放火という見方が出る中で、太陽光発電会社による土地買収や、その太陽光発電会社というのは実は新興宗教のフロント会社であったとか、いろいろと事情が入り組む中で、少しずつ事件の真相が明らかになっていきます。その意味で、最後に名探偵が一気に事件を解決するわけではなく、少しずつ真実が明らかにされるタイプのミステリで、私は評価しています。ただし、新興宗教の信者が地区の中の誰なのか、あるいは、信者でないまでも教団と関係する人物は誰なのか、といった謎も出て来て、これには私も大きく驚きました。最後に、ドラマを見逃して公開しているのは、新興宗教の教団が売りつけるロレーヌの十字架によく似た地区の名門家の家紋がどんなのであったのかをビジュアルに見ておきたかった気がします。私は、一応、カトリック国の南米チリに3年間外交官として滞在してお仕事していましたので、ロレーヌ十字は知っています。ロレーヌ十字はこの作品には明記されていたかどうか覚えていないのですが、フランス愛国の象徴で、たぶん、ハンガリー十字がロレーヌから伝わったのであろうといわれています。ですから、というか、何というか、ハンガリー十字も横2本です。なお、チリ人の中で日本でもっとも名前を知られているであろうピノチェト将軍はフランス系です。十字架に戻ると、ほかに、モラビア十字もあったと記憶しています。繰り返しになりますが、ハヤブサ地区の名門家の家紋も、したがって、横2本なのだろうと想像しています。最後の最後に、まったくこの作品とは関係ないながら、最近のドラマでは「VIVANT」を熱心に見ていました。でも、スパイ、というか、公安のお仕事はともかく、自衛隊のスパイはああなんだろうか、と思ってしまいました。

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次に、宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)です。著者は、小説家なんでしょうが、私は不勉強にして、この作品が初読でした。私は出身からして京都本はフィクションもノンフィクションも年間何冊か読むのですが、現住地である滋賀本は初めて読むのではないかと思います。まあ、有名な琵琶湖が舞台になった小説であれば、万城目学『偉大なる、しゅららぼん』とかは読んでいます。ほかにもありそうです。それはともかく、作者は私の後輩であり、経済学部ではありませんが、京都大学のOGです。当然、滋賀県在住です。主人公は成瀬あかりであり、この作品の中で女子中学生から女子高生に成長します。大津市内のにおの浜から膳所駅に向かうときめき坂野マンションに両親と住んでいます。また、全部ではないものの、語り手はあかりと同じマンションに住む幼馴染みの島崎みゆきであり、みゆきは「成瀬あかり史」の大部分を間近で見てきたという自負でもって、成瀬あかりを見守るのが自分の務めだと考えていたりします。そうです、この作品を読めば理解できると思いますが、「成瀬あかり史」を残すのは人類に対する重要な責務と島崎まゆみは考えていて、私もまったく同感です。ただ、誠に残念ながら、島崎みゆきは成瀬あかりとは違う高校に進学し、さらに、父親のお仕事の都合で高校を卒業したら東京に引越すことが決定しているようです。主人公の成瀬あかりは、県内トップ校である膳所高校に進学し、本書では高校進学当初は東大を目指していて、東京まで出向いてオープン・キャンパスのイベントに出席したりしていたのですが、最終的には京都大学志望で落ち着いています。私も小説を読んで余りに感動して、レビューの順番がとっちらかっていますが、収録されているのは強く関連する短編6話です。短編タイトルは、「ありがとう西武大津店」、「膳所から来ました」、「階段は走らない」、「線がつながる」、「レッツゴーミシガン」、「ときめき江州音頭」となります。冒頭の短編では、コロナ禍の中で閉店する西武大津店を地元テレビ局が毎夕中継することになり、その中継に映るために出かける成瀬あかり、そして、時々くっついて行く島崎まゆみ、しかし、テレビ局スタッフからは完全無視されながら、地元民のお客さんの記憶に残る、というストーリーです。ほかに、2話目では漫才コンビの登竜門であるM-1に成瀬あかりが島崎まゆみとともに挑戦したりします。3話は飛ばして、4話では違う高校に進学した島崎まゆみに代わって同じ膳所高校の同級生である大貫かえでの視点からストーリーが進み、東大のオープン・キャンパスに参加します。第5話では、膳所高校の競技かるた部、というか、膳所高校では「部」ではなく「班」と呼ぶのですが、競技かるたの全国大会が滋賀県で開催され、広島代表の男子高校生の視点からストーリーが進み、成瀬あかりがこの広島の男子高校生を外輪船ミシガンで接待したりします。最終話では、成瀬あかりの普段の生活の一端が明らかにされ、地元の夏祭りにM-1に挑戦した島崎まゆみとともに司会として参画したりします。ほかにも、メインのテーマではないですが、ひと月に1センチ伸びるといわれる髪の毛の伸び方を実測するために坊主頭にしてみたり、200歳まで生きるといい出したり、まあ、要するに、成瀬あかりは、決して羽目を外すことなくお行儀よくて、学校の成績も東大を目指すくらいですのでトップクラスなのですが、通常の感覚からすれば、やや変人、変わり者、という印象が得られるかもしれません。言葉も関西弁ではありませんから、川上未映子や綿矢りさの小説のようなテンポいい会話は出てきません。でも、私の目には極めて合理的な行動・思考に基づいているのだと見えます。ですから、繰り返しになりますが、学校の成績は飛び抜けて優秀です。私が読んだ範囲で、ほかの小説で成瀬あかりと同じようなキャラを探すとすれば、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也がやや近いか、あるいは、竜崎伸也をもっと極端に合理的にしたような存在が成瀬あかりか、という気がします。最後に、成瀬あかりは作者と同じ、というか、私とも同じ京都大学に進学することが想定されます。ぜひ、私が滋賀県民である間に続編を読みたいと思います。強く思います。

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次に、安藤寿康『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)です。著者は、慶應義塾大学の名誉教授、研究者であり、専門は行動遺伝学だそうです。実は同じ著者が、『能力はどのように遺伝するのか 「生まれつき」と「努力」のあいだ』というタイトルでブルーバックスから、本書と同じように双子研究の成果を踏まえて、より専門的な議論を展開しています。しかし、ブルーバックスの方をパラパラとめくると、私のような頭の回転の鈍い読者には難しすぎて、本書を当たってみました。ということで、ブルーバックスの方も本書も、いずれもそのタイトルは極めて議論を呼ぶ疑問点であり、私の直感からすれば、信念として、あくまで信念として、遺伝的要素よりも教育や環境の方が重要、と考えている日本国民が多いと実感しています。その意味で、私は少数派です。そして、本書の結論も少数派の私と似通っています。例えば、あくまで思考実験なのですが、ヒトとチンパンジーはDNAでは2%ほどの違いしかないといわれていますが、ヒトとチンパンジーの認知能力の差を教育で埋められると考えている読者はほとんどいないと思います。まあ、ヒトとチンパンジーの例は良くないんじゃないの、という考え方には半分くらい賛成しますが、ブルーバックスの広告には、大谷翔平と一般人の遺伝子は99.9%まで同じ、とありましたから、この0.1%の差を教育や訓練・努力で解消することがどこまで可能かは、考えて見る価値があるような気がします。ヒトとチンパンジー、あるいは、大谷翔平と一般人の比較から類推するに、遺伝的な要素というものは極めて強力に生物に作用している点は認めざるを得ないと私は考えています。本書では、繰り返しになりますが、双子研究の成果を踏まえて、さらに、実例を豊富に引いて、遺伝的な要因が極めて大きい点を強調しています。昨年の流行語に「親ガチャ」がありましたが、これは生活環境だけでなく、遺伝も含むと解釈するほうがよさそうです。そういった遺伝の要素も踏まえて、本書後半では親としてできることが何かについても考察を進めています。私は決して親としては遺伝子を子に伝えて終わり、というわけではないと考えており、遺伝子に沿った環境を整備することも重要であることはいうまでもありません。ただ、本書のタイトルに沿って考えると、教育は遺伝には勝てない、というのが本書の結論であり、私も同意します。たぶん、科学的根拠なく信念だけで、本書の結論に反対する向きは少なくないんだろうと想像します。加えて、経済社会が自由になれば遺伝的要素がより明確に発揮される場が整うことになり、権威主義的あるいは全体主義的な国家よりも民主主義体制の方が遺伝的要素が強く開放される点も忘れるべきではありません。米国の例ながら、上位の社会階層においては学力や知能に遺伝の影響が出やすく、逆は逆、という研究成果も本書では明らかにしています。ひょっとしたら、民主主義体制で自由が拡大すれば遺伝的な要因により格差が拡大する可能性すらあるわけです。ですから、エコノミストとしていえるのは、右派的な機会の平等というのは決して十分ではなく、事後的な結果についても格差を縮小する政策が必要である、ということです。しかし、他方で、本書のスコープがイながら、社会階層が低いクラスの方が結果ではなく機会の平等に賛成しがち、という研究成果もあり、悩ましいところです。

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次に、島田裕巳『帝国と宗教』(講談社現代新書)です。著者は、日本女子大学の教授をしていた研究者であり、専門は宗教史です。ということで、本書では帝国の宗教を歴史的に解き明かしています。帝国の表舞台である政治や外交の裏側には宗教が控えているわけです。ということで、歴史的にはまずローマ帝国のキリスト教、中華帝国の華夷思想、儒教の易姓革命、仏教などなど、イスラム教のオスマン帝国とムガル帝国、そして、海の帝国たる米国のキリスト教、などなどとなります。まず、歴史的に帝国とは不断の領土拡大を目指すと強調し、なぜなら、技術革新などの緩慢な古代から中世においては領土を拡大して税を獲得する必要がある、と解説します。その帝国拡大の背景に宗教があるわけです。ただ、同時に、宗教には社会秩序維持の機能とその逆の秩序破壊の機能の両面があると主張し、それが帝国の興亡につながっている、ということです。まず、ローマ帝国のキリスト教については、アレクサンドロス大王の世界制覇に続いて帝国が出来なかったひとつの根拠として宗教の不在が上げられ、まず、ローマ帝国では皇帝に対する個人崇拝から宗教が始まったとし、それが4世紀末にはキリスト教がローマ帝国の国教となるわけです。中国については、基本的に、中華思想とそれに基づく朝貢貿易などを外交の基礎に置きつつ、内政では儒教思想が統治の中心に据えられました。そして、これも秩序の維持と破壊の両面を持っていて、後者が易姓革命に当たるのはいうまでもありません。中国の帝国の中でも征服王朝というのがいくつかあり、典型的にはモンゴル民族の元がそうで、中華民国成立直前の清も漢民族ではありません。元については、モンゴル人という遊牧民に由来することから、寺院のような建物を立てて崇拝の中心にすることはなく、宗教的には寛容と見なされる一方で、白蓮教徒の乱で滅亡するわけです。イスラム教については、いわゆる聖と俗の区別がなく、聖職者という存在がありません。それがオスマン帝国やサラセン帝国やムガル帝国の基礎となっていたわけです。私が宗教について従来からとても不思議に思っていた点のひとつが、キリスト教における異端の迫害や極端には魔女狩りなどの強烈な宗教的行為です。これは統治の手段として利用するのであれば、これくらいに強烈な方法も必要なのかもしれない、というふうに私は受け取りました。最後に、立論はかなりいい加減で、恣意的ですらあります。おもしろおかしい歴史書として、私のようにヒマ潰しのために読むのであればともかく、真面目な批判に耐える本ではありません。ハッキリいって、新書としてはレベルが低いです。中国の宗教に関しては特にそうです。

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最後に、加納朋子『二百十番館にようこそ』(文春文庫)です。著者は、日常の謎を解き明かすストーリーが得意なミステリ作家です。殺人事件が出てこないなど、ノックスの十戒では許容されないかもしれませんが、本書でも謎解きめいたストーリー構成となっています。ということで、就活に失敗し、オンラインゲームに熱中して「ネトゲ廃人」となった主人公が、とうとう親からも見放され、叔父が遺産相続で残した離島の社員研修施設だか、保養所だかに放り出されて、オンラインゲーム仲間などといっしょに生活する、流行りの言葉でいえばシェアハウスする、というのがストーリーです。ハッキリいって、有川浩の『フリーター、家を買う。』の二番煎じ小説であることは明らかで、タイトルの210は日本的に「ニート」とも読める、ということで主人公が名付けます。高齢者ばかりの離島に、まず、呼び寄せる、というか、やって来るのはオンラインゲームの知り合いではなく、ひどいマザコンでこれも親から見放されつつある東大卒の気弱な青年です。この青年に主人公はオンラインゲームを教えこみます。そして、次の移住者は産婦人科医に嫌気が差した元医者の青年です。そして、最後には筋肉隆々のマッチョな体型の体育会系の青年が加わります。そして、最後には、『フリーター、家を買う。』とまったく同じ結末で、主人公はそれなりに安定した収入のある職業に就くことになります。周囲の高齢者との交流がうまく出来すぎていて、東京から滋賀県に引越した私が少し悩まされているような田舎っぽい閉鎖性というものが微塵もなく、小説らしい作為的非現実的な「作り」を感じます。主人公の次に島に来た東大での青年がどうして母親に送り込まれて来たのか、については軽い日常的な謎という作者得意の謎解きの要素が含まれていますが、ミステリというにはそれらしくない気がします。こういった出来過ぎのストーリー展開は、おそらく、好きな読者もいるのでしょうが、私には少し馴染めませんでした。ただし、お約束通りのハッピーエンドですので、小中学生向きにはいいんではないか、でも、私のようなひねくれた高齢者にはどうだろうか、という気がします。
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2023年09月16日 (土) 09:00:00

今週の読書は経済書3冊をはじめとして計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)では、我が国の財政政策の影響について、特に労働市場にも焦点を当てつつ実証的な分析がなされています。佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)では、開発社会学を用いて戦後日本の経済開発/発展について、特に、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てつつ分析されています。前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)では、現在の経済学の研究が理論研究ではなくデータ分析に偏重しているのではないか、という危惧が明らかにされています。荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)では、政府の推進するマイナ保険証にさまざまな観点から強く反対しています。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)では、主として10代の若者は決して読書離れしていないと統計的に明らかにしつつ、読書の傾向などを分析しています。エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』、『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』、『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(いずれも角川文庫)では、ポーのホラー、ミステリ、ユーモアといった短編を浩瀚に収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、交通事故による入院の後、6~8月に76冊の後、9月に入って先週先々週合わせて14冊、今週ポストする8冊を合わせて142冊となります。

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まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)です。著者は、東京都立大学の研究者です。国際通貨基金(IMF)などの勤務経験もあるようです。本書は2部構成になっていて、第Ⅰ部が財政政策効果の決定要因、第Ⅱ部が財政政策と労働市場、ということで、いずれにせよマクロ経済学の分析です。本書はほぼほぼ学術書と考えるべきであり、それなりに難解な数式を用いたモデルが提示された上で、そのモデルに沿って然るべく定量分析がなされています。定量分析に用いられているツールは、構造VAR=SVARとDSGEモデルです。ただ、DSGEモデルには失業を許容する変更が加えられています。分析目的からして、当然です。ですので、大学院生から研究者や政策当局の担当者などを対象にしていると考えるべきで、一般のビジネスパーソンには少し敷居が高いかもしれません。本書では、財政乗数について分析した後、第3章の高齢化と財政政策に関するフォーマルな定量分析では、高齢化が進んだ経済では財政政策の効果が低下すると結論しています。当然ながら、経済活動に携わる、という意味での現役世代の比率が低いのが高齢化社会ですので、財政政策に限らず、高齢化社会ではおそらく金融政策も含めて政策効果は低下します。景気に敏感ではない年金を主たる所得とする引退世代の比率が高くなると政策効果は低下します。公共投資の分析でもガバナンスと労働市場の柔軟性が重要との結論です。ひとつ有益だったのは、財政政策の効果はジェンダー平等に寄与する、という結論です。p.102から4つの要因をあげていますが、私は3つ目のピンクカラー職と呼ばれる職種への労働需要増が財政ショックによりもたらされ、4番目のパートタイム雇用を通じた労働需要増が女性雇用の拡大をもたらす、という経路が重要と考えます。ただし、本書では何ら考えられていないようですが、逆に、財政再建を進める緊縮財政が実施されて、ネガティブな財政ショックが生じた場合、女性雇用へも同様にネガな影響が発生し、あるいは、ジェンダー平等が阻害される可能性も、この分析の裏側には存在する、と考えるべきです。その観点からも、たとえ公的債務が大きく積み上がっているとしても、緊縮財政は回避すべきと私は考えています。第Ⅱ部では財政政策と雇用や労働市場に関する定量的な分析がなされていて、理論的には、というか、実証的にも、離職や就職がない静的であるモデルを用いるのか、あるいは、そうでないのか、が少しビミョーに結果に影響します。おそらく、現実の経済社会ではほぼほぼすべての労働市場における決定や選択が内生的に行われると考えるべきですので、分析結果にはより慎重な検討が必要です。最後に、本書p.172で指摘されているように、失業分析に関しては両方向のインパクトがあり得ますので、DSGEモデルを用いる場合、パラメータの設定がセンシティブになります。通常、理論的なカリブレーションや定評ある既存研究から設定されるわけですが、場合によっては、恣意的な分析結果を導くことも可能かもしれません。私は役所の研究所でDSGEモデルではなく、もっと旧来型の計量経済モデルを用いた分析にも従事した経験がありますが、「モデルを用いた定量分析の結果」というと、無条件に有り難がる、というか、否定し難い雰囲気を出せるのですが、それなりに批判的な視点も持ち合わせる必要があります。

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次に、佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)です。編者は、アジア経済研究所の名誉研究員ということでアジ研のOBの方かもしれません。ということで、本書は開発経済学ではなく、開発社会学の観点から戦後日本の開発/発展を後付けています。分野としては、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てています。私は高度成長を準備した経済的な条件としては、日本に限らず、二重経済における労働移動と資本蓄積であると考えていて、一昨年の紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model : How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" でも理論モデルで解析的に分析を加えています。本書は、私の論文のようなマクロ経済ではなく、もう少し地域に密着したマイクロな観点から日本の戦後経済発展を分析しています。ただ、本書では戦後日本は、自動詞的に、途上国から先進国に発展し、それには、他動詞的に、GHQをはじめとする米国による開発援助があった、との背景を考えています。私も基本的に同じなのですが、私の論文では自動詞的な発展を分析しています。他動詞的な開発については、本書でも言及されているロストウの経済発展段階説におけるビッグプッシュに先進国からの援助がどのように関わるか、という見方になると思います。ただ、ロストウ的な発展段階としては、一般的に、(1) 伝統社会、(2) 過渡期、(3) テイク・オフ、(4) 成熟期、(5) 高度大衆消費時代、をたどるということになっていて、日本は20世紀初頭にはテイクオフを終えている、という見方もあることは確かです。その意味で、戦後日本の経済発展を途上国としての出発点に求めることはムリがある、という本書ケーススタディのインタビュー先のご意見も理解できます。でも、やっぱり、終戦直後の日本は援助を必要とする途上国であった、というのは、大筋で間違いではないと思います。その前提に立って、21世紀の現時点でも途上国から先進国に発展を遂げた国が少ない点は留意されるべきかと思います。すなわち、戦後の極めて典型的な例では、いわゆる西洋諸国、欧米以外のアジア・アフリカなどでの経済発展の成功例は日本くらいしかないという見方もできます。その意味では、本書に欠けている視点として、日本の成功例をいかにアジア・アフリカなどの途上国に応用するか、という点があります。和葦は経済学的に発展や開発を考えれば、日本の成功例は労働移動と資本蓄積にある、と考えているのですが、残念ながら、本書ではそういったスコープが見えません。

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次に、前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)です。著者は、日経新聞のジャーナリストから退職して経済関係の研究をされているようです。ということで、タイトルからも理解できるように、経済学の研究をざっくりと理論研究と実証研究に二分割すると、かつての理論研究中心から現在は実証研究、というか、データ分析が中心になっているが、それでいいのか、という問題意識だろうと思います。はい。私もそれに近い感覚を持っていて、特に、経済学においては第がウインレベルでプログラミングを勉強する必要があまりにも高く、それだけに、私のような大学院教育を受けていないエコノミストには難しい面がある点は認識されるべきです。でも、私自身はかなり初歩的な計量分析しか出来ませんが、それで十分という面もあり、現在の経済学研究がデータ偏重であるとまでは思っていません。ただ、私の場合はマクロ経済学の研究で、マクロ経済データ、ほとんどは政府や中央銀行の統計を用いていますが、あまりに独自データを有り難がる向きが少なくないことは確かにあります。ですから、一般にはまったく利用可能性がない政府統計の個票を活用するというのはまだしも、本書で指摘しているように、RCT(ランダム化比較実験)への偏重、特に、マイクロな開発経済学の援助案件の採択などにおけるRCTへの偏重はいかがなものかと思わないでもありません。もちろん、ヨソにないデータを集めるために、独自アンケートの実施については、WEBの活用でかなりコストが低下したことは確かです。しかし、RCTについては時間も金銭もかなりコストが高く、個人の研究者では大きな困難を伴います。本書で取り上げている順とは逆になりますが、因果関係についても本書の指摘には考えるところがあります。おそらく、現在の大学院教育では修士論文レベルでは、それほど因果関係を重視するわけではなく、むしろ相関関係でかなりの立論ができると思いますが、博士論文となれば外生性と内生性を厳密に理解し、因果関係を十分立証しないといけない、という雰囲気があることも確かです。私は困っている院生に対して、ビッグデータの時代なのだから因果関係も重要だが、相関関係で十分な場合もある、と助け船を出すことがあります。いかし、あまりに理論研究に偏重するのも好ましくないのは事実です。以前に取り上げた宇南山卓『現代日本の消費分析』にもあったように、消費の決定要因としてライフサイクル仮説モデルを信頼するあまり、フレイビン教授らの過剰反応の実証を否定するような方向は正しくないと考えます。ですから、本書でも認識されているように、経済学に限らず、理論モデルをデータで実証し、実証結果に沿ってモデルを修正する、というインタラクティブな研究が必要です。私もそうですが、大学院教育を受けていないエコノミストにはデータ分析やプログラミングのハードルが高いのは事実で、そういった難しさを著者が感じているのではないか、と下衆の勘ぐりを働かせてしまいました。しかし、繰り返しになりますが、理論研究と実証研究のどちらに偏重しているのかは、現時点では私はそれなりにバランスが取れていると理解しています。ただ、実証研究に沿った理論モデルの修正という作業を多くのエコノミストが苦手にしているのも事実かもしれません。

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次に、荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)です。著者は、経済ジャーナリストであり、引退世代に深く関係する年金や相続などに詳しいと私は理解しています。今年2023年7月には、老齢期に健康を維持する経済効果について論じた『5キロ痩せたら100万円』(PHP新書)を読書感想文で取り上げています。ということで、本書のタイトルから理解できるように、著者は強くマイナ保険証に反対し、現在の保険証の存続を求めています。私もまったく同感です。まず、私も知りませんでしたが、マイナンバーとマイナンバーカードは異なるものであるという点は、おそらく、ほぼほぼ国民に知られていないと思います。マイナンバーは国民もれなく付与し、政府が管理し、トラブルには政府が責任を持つ、という一方で、マイナンバーカードはあくまで取得は任意であり、本人に希望に応じて持ち、トラブルは自己責任、ということになります。こんなことを知っている国民は少ないと思います。私は60歳の定年まで国家公務員をしていて、役所に入る入館許可証、というか、その情報はマイナンバーカードに記録する、ということになっていましたので、マイナンバーカードを強制的に取得させられ、国家公務員としての関連情報をマイナンバーカードに記録し、役所の建物に入るための入館許可としてマイナンバーカードを出勤時は持って来なくてはなりませんでした。もう役所を辞めて随分経ちますが、たぶん、今でもそうなのだろうと想像しています。加えて、マイナンバーカードは任意取得ですので、「立法事実がない」点も本書では指摘しています。私は1990年代前半という大昔の30年前ですが、在チリ大使館勤務の外交官として3年余りチリで過ごした経験があります。チリでは身分証明書の携行が義務つけられていて、少なくとも私のような外交官は不逮捕などの外交官特権を有することを明らかにするために身分証明書を常に携行していました。でも、現在の日本国内においては、私のようなペーパードライバーであれば、運転免許証を携行することすらしていない人も決して少なくないと思います。私は大学のIDカードも研究室に置きっぱなしです。というのも、大学のIDカードには図書館の入館証の機能があって、それ以外にはキャンパス外で必要ないものですから、私のような図書館のヘビーユーザには家に忘れた時のダメージの方が大きいもので、研究室に置きっぱなしにしています。話を元に戻すと、マイナ保険証にしてしまうと介護施設で大きな混乱を生じる可能性があるとか、英国では国民IDカードがいったん2006年に法律ができながら、2010年には早々に廃止されたとか、一般にも広く報道されている事実が本書には詳しく集められています。私はほぼほぼ本書の著者に賛成で、マイナ保険証には強く反対です。ただ、1点だけ、やや踏み込み不足な点があります。というのは、政府がマイナ保険証をここまで強引に推進しようとするウラ事情です。おそらく、なにか巨大な利権が絡んでいるのか、それとも、政府に国民無視の姿勢が染み付いてしまっているのか、そのあたりも知りたい気がします。

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次に、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)です。著者は、編集者の後に独立し、現在ではWEBカルチャーや出版産業などの論評をしているようです。本書を読んだきっかけは、実は、先週読んだ波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』の主人公の北関東の田舎のJKである朴秀美がアトウッドの『侍女の物語』を読んでいて、大いにびっくりして、最近の中高生の読書事情を知りたくなって図書館から借りた次第です。本書では、著者は「当事者の声」を聞くインタビューというケーススタディに頼ることなく、マクロの統計を中心に中高生の読書について論じています。私はこういった姿勢は高く評価します。というのも、マーケティングなどの経営学の成功例のケーススタディを集めた本はいっぱいあるのですが、その裏側で失敗例が成功例よりケタ違いに多いのではないか、というのが私の疑問だからです。ということで、統計的な事実から2点上げると、第1に、本書のタイトルの疑問は否定されています。すなわち、中高生の読書は平均的に毎月1冊台であって、少なくともここ20年ほどで読書離れが進んだという事実はありません。他方で、この読書量が「読書離れではない」とまでいえるのかどうか、すなわち、その昔からずっと読書離れだったんではないか、という疑問は残ります。第2に、大人も含めて、日本人の不読率は40%から50%の間、というか、50%を少し下回る程度、というのも、ここ20年ほどで大きな変化はなく、繰り返しになりますが、中高生だけでなく、大人も同じくらいの不読率がある、ということになります。つまり、「近ごろの若いモンは、本を読まない」なんていっている人がいたとしても、実は、大人も若者と同じくらいに本を読まない人がいる、ということです。その上で、10代の小学校上級生から中高生くらいまでによく読まれている、あるいは、受け入れられやすい本の属性を分析しています。それは、第2章で読まれる本の「3大ニーズ」と「4つの型」で明らかにされています。その内容は読んでみてのお楽しみ、ということで、この書評では明らかにしませんが、第3章ではこの観点から、児童文学/児童書、ライトノベル、ボカロ小説、一般文芸、短篇集、ノンフィクション、エッセイの7つのカテゴリー/ジャンル別に、よく読まれている本が分析されています。ボカロ小説というジャンルは不勉強にして知りませんでした。初音ミクとポケモンがコラボして、「ポケミク」なんてハッシュタグの付いた画像がツイッタに大量にポストされているのは見かけました。ツインテールならざる初音ミクもいたりしました。それはともかく、ボカロが小説になっているのは初耳でした。最後の章で、今後の方向性や中高生のひとつ上の大学生の読書などが論じられています。結局、当然ながら、アトウッド『侍女の物語』はまったく言及されていませんでした。いくつか、私の視点を加えておくと、しつこいのですが、アトウッド『侍女の物語』のような海外文学がまったく取り上げられていません。それは、実際に中高生が読んでいない、ということもあるのだろうと思います。というのは、韓国エッセイなどはよく読まれているとして取り上げられているからです。他方で、もう10年とか15年も昔のことですが、我が家の倅どもが小学校高学年や中高生だったころ、『指輪物語』とか、その発展形ともいえる「ハリー・ポッター」のシリーズがよく読まれていた記憶があるのも事実です。現在、こういった中高生向けの海外文学がどうなっているのか、私はよく知りませんが、まったく息絶えたとも思えません。第2に、マンガとの関係が不明でした。いくつか、マンガからのノベライズ、例えば「名探偵コナン」のシリーズなどが言及されていましたが、マンガと文字の読書の間の関係が少し判りにくかった気がします。それにしても、10年ほど前に赴任した長崎大学では、『リアル鬼ごっこ』などの山田悠介作品が全盛期だった気がするのですが、今はすっかり下火になったとの分析もあり、時代の流れを感じました。

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次に、エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(角川文庫)です。著者は、エドガー・アラン・ポーであり、私なんぞから紹介するまでもありません。邦訳者は、河合祥一郎であり、各巻末の作品解題ほかの解説も執筆しています。私の記憶が正しければ、ほぼ私と同年代60歳過ぎで東大の英文学研究者であり、シェークスピアがご専門ではなかったかと思います。ということで、3冊まとめてのズボラなご紹介で失礼します。3冊まとめてですので、どうしても長くなります。悪しからず。繰り返しになるかもしれませんが、各巻の巻末に詳細な作品解題が収録されており、私のような頭の回転が鈍い読者にも親切な本に仕上がっています。ものすごくたくさんの短編が収録されていて、いわゆる小説だけではなく、詩や評論・エッセイもあります。出版社のサイトからのコピペ、以下の通りの収録作品です。『黒猫』ポー傑作選1の収録作品は、「赤き死の仮面」The Masque of the Red Death (1842)、「ウィリアム・ウィルソン」William Wilson (1839)、「落とし穴と振り子」The Pit and the Pendulum (1842)、「大鴉」* The Raven (1845)、「黒猫」The Black Cat (1843)、「メエルシュトレエムに呑まれて」A Descent into the Maelstrom (1841)、「ユーラリー」* Eulalie (1845)、「モレラ」Morella (1835)、「アモンティリャードの酒樽」The Cask of Amontillado (1846)、「アッシャー家の崩壊」The Fall of the House of Usher (1839)、「早すぎた埋葬」The Premature Burial (1844)、「ヘレンへ」* To Helen (1831)、「リジーア」Ligeia (1838)、「跳び蛙」Hop-Frog (1849)となります。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2の収録作品は、「モルグ街の殺人」The Murders in the Rue Morgue (1841)、「ベレニス」Berenice (1835)、「告げ口心臓」The Tell-Tale Heart (1843)、「鐘の音」* The Bells (1849)、「おまえが犯人だ」Thou Art the Man」 (1844)、「黄金郷(エルドラド)」* Eldorado (1849)、「黄金虫」The Gold Bug (1843)、「詐欺(ディドリング)- 精密科学としての考察」Diddling (1843)、「楕円形の肖像画」The Oval Portrait (1842)、「アナベル・リー」* Annabel Lee (1849)、「盗まれた手紙」The Purloined Letter (1844)となります。そして、最後の『Xだらけの社説』ポー傑作選3の収録作品は、「Xだらけの社説」X-ing Paragrab (1849)、「悪魔に首を賭けるな - 教訓のある話」Never Bet the Devil Your Head: A Tale with a Moral (1841)、「アクロスティック」* An Acrostic (c. 1829)、「煙に巻く」Mystfication (1837)、「一週間に日曜が三度」Three Sundays in a Week (1841)、「エリザベス」* Elizabeth (c. 1829)、「メッツェンガーシュタイン」Metzengerstein (1832)、「謎の人物」* An Enigma (1848)、「本能と理性 - 黒猫」** Instinct versus Reason: A Black Cat (1840)、「ヴァレンタインに捧ぐ」* A Valentine (1849)、「天邪鬼(あまのじゃく)」The Imp of the Perverse (1845)、「謎」* Enigma (1833)、「息の喪失 - 『ブラックウッド』誌のどこを探してもない作品」Loss of Breath: A Tale neither in nor our of 'Blackwood' (1833)、「ソネット - 科学へ寄せる」* Sonnet - To Science (1829)、「長方形の箱」The Oblong Box (1844)、「夢の中の夢」* A Dream Within a Dream (1849)、「構成の原理」** The Philosophy of Composition (1846)、「鋸山奇譚」A Tale of the Ragged Mountains (1844)、「海中の都(みやこ)」* The City in the Sea (1831)、「『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/苦境」How to Write a Blackwood Artilce / A Predicament (1838)、「マージナリア」** Marginalia (1844-49)、「オムレット公爵」The Duc de L'Omlette (1832)、「独り」Alone (1829)となります。日本語タイトル後につけたアスタリスクひとつは詩であり、ふたつは評論ないしエッセイです。全部はムリですので、有名な作品だけ簡単に紹介しておくと、『黒猫』ポー傑作選1ではゴシックホラー編のサブタイトル通りの作品が収録されています。詩篇の「大鴉」では、各パラグラフの最後が "nevermore" = 「ありはせぬ」で終わっています。タイトル作の「黒猫」は、冥界の王であるプルートーと名付けられた黒猫と殺した妻を壁に塗り込めますが、当然に露見します。「アッシャー家の崩壊」ではアッシャー家の一族が息絶えて、語り手がアッシャー家を離れた直後に、文字通りに屋敷が崩壊します。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2では怪奇ミステリー編ということで、ホラー調のミステリが収録されています。タイトル作である「モルグ街の殺人」は密室ミステリといえますが、事情聴取でイタリア語がどうしたとか、いろいろと情報を散りばめつつも、犯人がデュパンによって明らかにされると、大きく脱力して拍子抜けした読者は私だけではないと思います。「黄金虫」では、暗号トリックが解明されます。『Xだらけの社説』ポー傑作選3はブラックユーモア編であり、ホラーと紙一重のストーリーも収録されています。タイトル作である巻頭の「Xだらけの社説」は出版物で活字が足りなくなるとXの活字を代替に使い、まるで伏せ字のような社説を掲載する新聞を揶揄しています。「一週間に日曜が三度」では、金持ちの叔父が結婚を認める条件として、1週間に日曜日が3度ある週に結婚式を上げるよう申し渡された甥が、日付変更線を利用したトリックを思いつきます。ウンベルト・エーコの『前日島』と同じような発想だと記憶しています。評論の「構成の原理」では、知的・理性的・合理的に作品を構成すべきと考え、人間を超越した絶対的な価値を直感的に把握しようとする超絶主義に反対するポーの姿勢がよく理解できます。繰り返しになりますが、各巻に収録された作品の解題がとても詳細に各巻末に収録されていて、収録作品の出版年を見ても理解できるように、ポーの作品は200年ほど前の19世紀前半の社会背景の下に書かれているわけですので、こういった解説はとても読書の助けになります。また、各巻末の作品解題の他にも、第1巻『黒猫』の巻末には、「数奇なるポーの生涯」と題する解説や「エドガー・アラン・ポー年譜」が、また、第2巻『モルグ街の殺人』巻末には、「ポーの用語」と「ポーの死の謎に迫る」といった解説が、さらに、第3巻『Xだらけの社説』の巻末には、「ポーを読み解く人名辞典」と「ポーの文学闘争」と題する解説が、それぞれ置かれています。作品解題も含めて、すべて邦訳者である河合祥一郎氏によるものです。東大の英文学研究者による解説ですので、とても有益です。この3巻を読めば、私のような手抜きを得意とする読書ファンなら、いっぱしのポー作品のオーソリティを気取ることができるかもしれません。
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2023年09月09日 (土) 09:00:00

今週の読書も経済書を2冊読んで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)は、ライフサイクル仮説を中心に日本の消費を分析する学術書です。イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)は、初学者にも読みやすい経済の解説書で、当然ながら、物価や金融について詳しいです。小川哲『地図と拳』(集英社)は、第168回直木賞を受賞した大作であり、20世紀前半の満州についての壮大な叙事詩を紡いでいます。山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)は、現代の官庁や企業までつながる江戸期の幕府組織などを解説しています。染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)では、読売新聞のジャーナリストがパチスロや競艇などのギャンブル依存に苦しむ人へ取材しています。波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)は、北関東の田舎の工業高校の女子高生を主人公にした痛快かつ疾走感のある青春物語です。坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)では、明治維新で没落した武家の若い当主が志願して西南の役に出陣します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に27冊、そして、9月に入って先週7冊の後、今週ポストする7冊を合わせて133冊となります。年間150冊は軽く超えそうですが、交通事故による入院のために例年の200冊には届かないかもしれません。

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まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、京都大学の研究者であり、消費分析が専門です。私は総務省統計局で消費統計を担当していた経験がありますので、一応、それなりの面識があったりします。出版社からも容易に想像できるように、本書は完全な学術書であり、経済学部の上級生ないし大学院生、また、政策担当者やエコノミストを対象にしており、一般的なビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。副題が「ライフサイクル理論の現在地」となっているように、ライフサイクル仮説とその双子の兄弟のような恒常所得仮説について分析を加えつつ、それらに付随する消費のトピックも幅広く含んでいます。本書は5部構成であり、タイトルを羅列すると、第Ⅰ部 消費の決定理論、第Ⅱ部 ライフサイクル理論の検証と拡張、第Ⅲ部 現金給付の経済学、第Ⅳ部 家計収支の把握、第Ⅴ部 貯蓄の決定要因、となります。繰り返しになりますが、本書の中心を占めるのは消費の決定要因としてのライフサイクル仮説であり、これに強く関連する恒常所得仮説も取り上げられています。本書では、ケインズ的な限界消費性向と平均消費性向の異なる消費関数は、流動性制約下におけるライフサイクル仮説と変わるところないと結論していますが、Hall的なランダムウォーク仮説やFlavin的な過剰反応と行った実証研究からして、私はライフサイクル仮説がモデルとして適当かどうかはやや疑わしいと考えています。特に、Flavin的な過剰反応については、彼女の論文が出た際には私もほぼほぼ同時代人でしたので記憶にありますが、本書でも指摘しているように、ライフサイクル仮説が正しいという前提でFlavin教授の実証のアラ探しをしていたように思います。通常、理論モデルが現実にミートしなければ、理論モデルの方に現実に合わせて修正を加える、というのが科学的な学術議論なのですが、経済学が遅れた学問であるひとつの証拠として、理論モデルを擁護するあまり、理論モデルに合致しない実証結果を否定する、ないし、例えば、市場経済の効率性を実現するために実際の経済活動を理論モデルに近づける、といった本末転倒の学術活動が見られます。本書がそういった反科学的な方向に寄与しないことを私は願っています。ライフサイクル仮説のモデルを修正するとすれば、経済政策の変更に関するルーカス批判と同じで、消費と所得の一般均衡的なモデルが志向されるべきだと私は考えています。すなわち、消費と所得の相互作用、所得から消費への一方的なライフサイクル仮説ではなく、ケインズ的な所得が増加すれば消費が増加し、消費の増加に伴いさらに所得が増加するという乗数過程を的確に描写できるモデルが必要です。現時点で、ライフサイクル仮説がこういった消費と所得のリパーカッションを的確に表現するモデルであるとは、私は考えていません。最後に、本書はマクロ経済学的な消費を中心とする分析を展開しているわけですが、マイクロな消費についてももう少し分析が欲しかった気がします。マイクロな消費分析というと、少し用語が不適当かもしれませんが、支出対象別の消費に関する分析です。例えば、その昔は「エンゲル係数」なんて指標があって、食費への支出割合が低下するのが経済発展のひとつの指標、といった考えが経験的にありました。現在に当てはめると、教育費支出の多寡が生産性や賃金とどのような関係にあるのか、スマホなどの通信費への支出は幸福度と相関するのか、医療や衛生への支出と平均寿命・健康寿命との関係、などなどです。リアル・ビジネス・サイクル理論などにおけるマクロ経済学のミクロ経済学的な基礎については、私自身はまったく同意できませんが、消費のマイクロな支出先による国民生活や経済活動への影響については、今少し研究が進むことを願っています。

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次に、イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)です。著者は、英国の中央銀行です。本書のクレジットでは「イングランド銀行」が著者となっているのですが、まさか全員で書いたわけもなく、ルパル・パテル & ジャック・ミーニングが著者として名前を上げられています。基礎的な経済学の入門書であり、第1章と第2章はマイクロな経済学、第3章で労働や賃金を取り上げてマクロ経済学への橋渡しとし、第4章からはマクロ経済学となります。イングランド銀行の出版物らしく、第6章からは物価や金融を詳しく取り上げています。ということで、本書からインスピレーションを得て、私の授業では、ミクロ経済学については制約条件の下での希少性ある財・サービスの選択の問題を対象とし、マクロ経済学では希少性ある資源の供給増加や分配の改善、あるいは、可能な範囲での制約条件の緩和を目指す、と教えています。まあ、経済学の定義なんて、教員が100人いれば100通りありそうな気はします。それはともかく、後半、というか、マクロ経済学の解説は秀逸です。第5章では経済成長を取り上げて、歴史的に経済、というか、国民生活は豊かになってきた姿を示し、第6章では貿易などの国際取引に焦点を当てています。そして、第6章からは中央銀行における経済学の中心的な役割の解説が始まります。すなわち、第6章では物価やインフレを考え、第7章ではお金、マネーとは何なのか、第8章では民間銀行や中央銀行の役割、そして、第9章ではリーマン・ショックから生じた金融危機の予測に失敗した際の女王からの質問やエコノミストの回答まで含めて、幅広く金融危機について言及し、最後の第10章ではマクロ経済政策、とくにサブプライム・バブル崩壊後の経済政策について解説を加えています。後半の各章では日本もしきりと取り上げられています。特に、第10章ではノッケのp.364から量的緩和などの非伝統的な金融政策の先頭を走った日本について詳しく言及されています。全体として、いかにも中央銀行らしく、検図理論を中心に据えたマクロ経済学の解説となっています。マネタリズムや古典派的な貨幣ヴェール論などについては貨幣の流通速度が変化することから否定的に言及されています。もちろん、金融政策が政府から独立した専門家によって中央銀行で運営され、財政政策は政府が管轄する、といった基礎的な事項についてもちゃんと把握できるように工夫されています。大学に入学したばかりの初学者はもちろん、高校生でも上級生で経済学や経営学の先行を視野に入れている生徒、さらに、就職して間もないビジネスパーソンなど、幅広い読者に有益な内容ではなかろうかと考えます。ただ、数式がほぼほぼ用いされていないのがいいのかどうか、私には不明です。