2023年09月16日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書3冊をはじめとして計8冊
まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)では、我が国の財政政策の影響について、特に労働市場にも焦点を当てつつ実証的な分析がなされています。佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)では、開発社会学を用いて戦後日本の経済開発/発展について、特に、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てつつ分析されています。前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)では、現在の経済学の研究が理論研究ではなくデータ分析に偏重しているのではないか、という危惧が明らかにされています。荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)では、政府の推進するマイナ保険証にさまざまな観点から強く反対しています。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)では、主として10代の若者は決して読書離れしていないと統計的に明らかにしつつ、読書の傾向などを分析しています。エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』、『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』、『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(いずれも角川文庫)では、ポーのホラー、ミステリ、ユーモアといった短編を浩瀚に収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、交通事故による入院の後、6~8月に76冊の後、9月に入って先週先々週合わせて14冊、今週ポストする8冊を合わせて142冊となります。
まず、宮本弘曉『日本の財政政策効果』(日本経済新聞出版)です。著者は、東京都立大学の研究者です。国際通貨基金(IMF)などの勤務経験もあるようです。本書は2部構成になっていて、第Ⅰ部が財政政策効果の決定要因、第Ⅱ部が財政政策と労働市場、ということで、いずれにせよマクロ経済学の分析です。本書はほぼほぼ学術書と考えるべきであり、それなりに難解な数式を用いたモデルが提示された上で、そのモデルに沿って然るべく定量分析がなされています。定量分析に用いられているツールは、構造VAR=SVARとDSGEモデルです。ただ、DSGEモデルには失業を許容する変更が加えられています。分析目的からして、当然です。ですので、大学院生から研究者や政策当局の担当者などを対象にしていると考えるべきで、一般のビジネスパーソンには少し敷居が高いかもしれません。本書では、財政乗数について分析した後、第3章の高齢化と財政政策に関するフォーマルな定量分析では、高齢化が進んだ経済では財政政策の効果が低下すると結論しています。当然ながら、経済活動に携わる、という意味での現役世代の比率が低いのが高齢化社会ですので、財政政策に限らず、高齢化社会ではおそらく金融政策も含めて政策効果は低下します。景気に敏感ではない年金を主たる所得とする引退世代の比率が高くなると政策効果は低下します。公共投資の分析でもガバナンスと労働市場の柔軟性が重要との結論です。ひとつ有益だったのは、財政政策の効果はジェンダー平等に寄与する、という結論です。p.102から4つの要因をあげていますが、私は3つ目のピンクカラー職と呼ばれる職種への労働需要増が財政ショックによりもたらされ、4番目のパートタイム雇用を通じた労働需要増が女性雇用の拡大をもたらす、という経路が重要と考えます。ただし、本書では何ら考えられていないようですが、逆に、財政再建を進める緊縮財政が実施されて、ネガティブな財政ショックが生じた場合、女性雇用へも同様にネガな影響が発生し、あるいは、ジェンダー平等が阻害される可能性も、この分析の裏側には存在する、と考えるべきです。その観点からも、たとえ公的債務が大きく積み上がっているとしても、緊縮財政は回避すべきと私は考えています。第Ⅱ部では財政政策と雇用や労働市場に関する定量的な分析がなされていて、理論的には、というか、実証的にも、離職や就職がない静的であるモデルを用いるのか、あるいは、そうでないのか、が少しビミョーに結果に影響します。おそらく、現実の経済社会ではほぼほぼすべての労働市場における決定や選択が内生的に行われると考えるべきですので、分析結果にはより慎重な検討が必要です。最後に、本書p.172で指摘されているように、失業分析に関しては両方向のインパクトがあり得ますので、DSGEモデルを用いる場合、パラメータの設定がセンシティブになります。通常、理論的なカリブレーションや定評ある既存研究から設定されるわけですが、場合によっては、恣意的な分析結果を導くことも可能かもしれません。私は役所の研究所でDSGEモデルではなく、もっと旧来型の計量経済モデルを用いた分析にも従事した経験がありますが、「モデルを用いた定量分析の結果」というと、無条件に有り難がる、というか、否定し難い雰囲気を出せるのですが、それなりに批判的な視点も持ち合わせる必要があります。
次に、佐藤寛[編]『戦後日本の開発経験』(明石書店)です。編者は、アジア経済研究所の名誉研究員ということでアジ研のOBの方かもしれません。ということで、本書は開発経済学ではなく、開発社会学の観点から戦後日本の開発/発展を後付けています。分野としては、炭鉱・農村・公衆衛生の3分野に焦点を当てています。私は高度成長を準備した経済的な条件としては、日本に限らず、二重経済における労働移動と資本蓄積であると考えていて、一昨年の紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model : How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" でも理論モデルで解析的に分析を加えています。本書は、私の論文のようなマクロ経済ではなく、もう少し地域に密着したマイクロな観点から日本の戦後経済発展を分析しています。ただ、本書では戦後日本は、自動詞的に、途上国から先進国に発展し、それには、他動詞的に、GHQをはじめとする米国による開発援助があった、との背景を考えています。私も基本的に同じなのですが、私の論文では自動詞的な発展を分析しています。他動詞的な開発については、本書でも言及されているロストウの経済発展段階説におけるビッグプッシュに先進国からの援助がどのように関わるか、という見方になると思います。ただ、ロストウ的な発展段階としては、一般的に、(1) 伝統社会、(2) 過渡期、(3) テイク・オフ、(4) 成熟期、(5) 高度大衆消費時代、をたどるということになっていて、日本は20世紀初頭にはテイクオフを終えている、という見方もあることは確かです。その意味で、戦後日本の経済発展を途上国としての出発点に求めることはムリがある、という本書ケーススタディのインタビュー先のご意見も理解できます。でも、やっぱり、終戦直後の日本は援助を必要とする途上国であった、というのは、大筋で間違いではないと思います。その前提に立って、21世紀の現時点でも途上国から先進国に発展を遂げた国が少ない点は留意されるべきかと思います。すなわち、戦後の極めて典型的な例では、いわゆる西洋諸国、欧米以外のアジア・アフリカなどでの経済発展の成功例は日本くらいしかないという見方もできます。その意味では、本書に欠けている視点として、日本の成功例をいかにアジア・アフリカなどの途上国に応用するか、という点があります。和葦は経済学的に発展や開発を考えれば、日本の成功例は労働移動と資本蓄積にある、と考えているのですが、残念ながら、本書ではそういったスコープが見えません。
次に、前田裕之『データにのまれる経済学』(日本評論社)です。著者は、日経新聞のジャーナリストから退職して経済関係の研究をされているようです。ということで、タイトルからも理解できるように、経済学の研究をざっくりと理論研究と実証研究に二分割すると、かつての理論研究中心から現在は実証研究、というか、データ分析が中心になっているが、それでいいのか、という問題意識だろうと思います。はい。私もそれに近い感覚を持っていて、特に、経済学においては第がウインレベルでプログラミングを勉強する必要があまりにも高く、それだけに、私のような大学院教育を受けていないエコノミストには難しい面がある点は認識されるべきです。でも、私自身はかなり初歩的な計量分析しか出来ませんが、それで十分という面もあり、現在の経済学研究がデータ偏重であるとまでは思っていません。ただ、私の場合はマクロ経済学の研究で、マクロ経済データ、ほとんどは政府や中央銀行の統計を用いていますが、あまりに独自データを有り難がる向きが少なくないことは確かにあります。ですから、一般にはまったく利用可能性がない政府統計の個票を活用するというのはまだしも、本書で指摘しているように、RCT(ランダム化比較実験)への偏重、特に、マイクロな開発経済学の援助案件の採択などにおけるRCTへの偏重はいかがなものかと思わないでもありません。もちろん、ヨソにないデータを集めるために、独自アンケートの実施については、WEBの活用でかなりコストが低下したことは確かです。しかし、RCTについては時間も金銭もかなりコストが高く、個人の研究者では大きな困難を伴います。本書で取り上げている順とは逆になりますが、因果関係についても本書の指摘には考えるところがあります。おそらく、現在の大学院教育では修士論文レベルでは、それほど因果関係を重視するわけではなく、むしろ相関関係でかなりの立論ができると思いますが、博士論文となれば外生性と内生性を厳密に理解し、因果関係を十分立証しないといけない、という雰囲気があることも確かです。私は困っている院生に対して、ビッグデータの時代なのだから因果関係も重要だが、相関関係で十分な場合もある、と助け船を出すことがあります。いかし、あまりに理論研究に偏重するのも好ましくないのは事実です。以前に取り上げた宇南山卓『現代日本の消費分析』にもあったように、消費の決定要因としてライフサイクル仮説モデルを信頼するあまり、フレイビン教授らの過剰反応の実証を否定するような方向は正しくないと考えます。ですから、本書でも認識されているように、経済学に限らず、理論モデルをデータで実証し、実証結果に沿ってモデルを修正する、というインタラクティブな研究が必要です。私もそうですが、大学院教育を受けていないエコノミストにはデータ分析やプログラミングのハードルが高いのは事実で、そういった難しさを著者が感じているのではないか、と下衆の勘ぐりを働かせてしまいました。しかし、繰り返しになりますが、理論研究と実証研究のどちらに偏重しているのかは、現時点では私はそれなりにバランスが取れていると理解しています。ただ、実証研究に沿った理論モデルの修正という作業を多くのエコノミストが苦手にしているのも事実かもしれません。
次に、荻原博子『マイナ保険証の罠』(文春新書)です。著者は、経済ジャーナリストであり、引退世代に深く関係する年金や相続などに詳しいと私は理解しています。今年2023年7月には、老齢期に健康を維持する経済効果について論じた『5キロ痩せたら100万円』(PHP新書)を読書感想文で取り上げています。ということで、本書のタイトルから理解できるように、著者は強くマイナ保険証に反対し、現在の保険証の存続を求めています。私もまったく同感です。まず、私も知りませんでしたが、マイナンバーとマイナンバーカードは異なるものであるという点は、おそらく、ほぼほぼ国民に知られていないと思います。マイナンバーは国民もれなく付与し、政府が管理し、トラブルには政府が責任を持つ、という一方で、マイナンバーカードはあくまで取得は任意であり、本人に希望に応じて持ち、トラブルは自己責任、ということになります。こんなことを知っている国民は少ないと思います。私は60歳の定年まで国家公務員をしていて、役所に入る入館許可証、というか、その情報はマイナンバーカードに記録する、ということになっていましたので、マイナンバーカードを強制的に取得させられ、国家公務員としての関連情報をマイナンバーカードに記録し、役所の建物に入るための入館許可としてマイナンバーカードを出勤時は持って来なくてはなりませんでした。もう役所を辞めて随分経ちますが、たぶん、今でもそうなのだろうと想像しています。加えて、マイナンバーカードは任意取得ですので、「立法事実がない」点も本書では指摘しています。私は1990年代前半という大昔の30年前ですが、在チリ大使館勤務の外交官として3年余りチリで過ごした経験があります。チリでは身分証明書の携行が義務つけられていて、少なくとも私のような外交官は不逮捕などの外交官特権を有することを明らかにするために身分証明書を常に携行していました。でも、現在の日本国内においては、私のようなペーパードライバーであれば、運転免許証を携行することすらしていない人も決して少なくないと思います。私は大学のIDカードも研究室に置きっぱなしです。というのも、大学のIDカードには図書館の入館証の機能があって、それ以外にはキャンパス外で必要ないものですから、私のような図書館のヘビーユーザには家に忘れた時のダメージの方が大きいもので、研究室に置きっぱなしにしています。話を元に戻すと、マイナ保険証にしてしまうと介護施設で大きな混乱を生じる可能性があるとか、英国では国民IDカードがいったん2006年に法律ができながら、2010年には早々に廃止されたとか、一般にも広く報道されている事実が本書には詳しく集められています。私はほぼほぼ本書の著者に賛成で、マイナ保険証には強く反対です。ただ、1点だけ、やや踏み込み不足な点があります。というのは、政府がマイナ保険証をここまで強引に推進しようとするウラ事情です。おそらく、なにか巨大な利権が絡んでいるのか、それとも、政府に国民無視の姿勢が染み付いてしまっているのか、そのあたりも知りたい気がします。
次に、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(平凡社新書)です。著者は、編集者の後に独立し、現在ではWEBカルチャーや出版産業などの論評をしているようです。本書を読んだきっかけは、実は、先週読んだ波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』の主人公の北関東の田舎のJKである朴秀美がアトウッドの『侍女の物語』を読んでいて、大いにびっくりして、最近の中高生の読書事情を知りたくなって図書館から借りた次第です。本書では、著者は「当事者の声」を聞くインタビューというケーススタディに頼ることなく、マクロの統計を中心に中高生の読書について論じています。私はこういった姿勢は高く評価します。というのも、マーケティングなどの経営学の成功例のケーススタディを集めた本はいっぱいあるのですが、その裏側で失敗例が成功例よりケタ違いに多いのではないか、というのが私の疑問だからです。ということで、統計的な事実から2点上げると、第1に、本書のタイトルの疑問は否定されています。すなわち、中高生の読書は平均的に毎月1冊台であって、少なくともここ20年ほどで読書離れが進んだという事実はありません。他方で、この読書量が「読書離れではない」とまでいえるのかどうか、すなわち、その昔からずっと読書離れだったんではないか、という疑問は残ります。第2に、大人も含めて、日本人の不読率は40%から50%の間、というか、50%を少し下回る程度、というのも、ここ20年ほどで大きな変化はなく、繰り返しになりますが、中高生だけでなく、大人も同じくらいの不読率がある、ということになります。つまり、「近ごろの若いモンは、本を読まない」なんていっている人がいたとしても、実は、大人も若者と同じくらいに本を読まない人がいる、ということです。その上で、10代の小学校上級生から中高生くらいまでによく読まれている、あるいは、受け入れられやすい本の属性を分析しています。それは、第2章で読まれる本の「3大ニーズ」と「4つの型」で明らかにされています。その内容は読んでみてのお楽しみ、ということで、この書評では明らかにしませんが、第3章ではこの観点から、児童文学/児童書、ライトノベル、ボカロ小説、一般文芸、短篇集、ノンフィクション、エッセイの7つのカテゴリー/ジャンル別に、よく読まれている本が分析されています。ボカロ小説というジャンルは不勉強にして知りませんでした。初音ミクとポケモンがコラボして、「ポケミク」なんてハッシュタグの付いた画像がツイッタに大量にポストされているのは見かけました。ツインテールならざる初音ミクもいたりしました。それはともかく、ボカロが小説になっているのは初耳でした。最後の章で、今後の方向性や中高生のひとつ上の大学生の読書などが論じられています。結局、当然ながら、アトウッド『侍女の物語』はまったく言及されていませんでした。いくつか、私の視点を加えておくと、しつこいのですが、アトウッド『侍女の物語』のような海外文学がまったく取り上げられていません。それは、実際に中高生が読んでいない、ということもあるのだろうと思います。というのは、韓国エッセイなどはよく読まれているとして取り上げられているからです。他方で、もう10年とか15年も昔のことですが、我が家の倅どもが小学校高学年や中高生だったころ、『指輪物語』とか、その発展形ともいえる「ハリー・ポッター」のシリーズがよく読まれていた記憶があるのも事実です。現在、こういった中高生向けの海外文学がどうなっているのか、私はよく知りませんが、まったく息絶えたとも思えません。第2に、マンガとの関係が不明でした。いくつか、マンガからのノベライズ、例えば「名探偵コナン」のシリーズなどが言及されていましたが、マンガと文字の読書の間の関係が少し判りにくかった気がします。それにしても、10年ほど前に赴任した長崎大学では、『リアル鬼ごっこ』などの山田悠介作品が全盛期だった気がするのですが、今はすっかり下火になったとの分析もあり、時代の流れを感じました。
次に、エドガー・アラン・ポー『ポー傑作選1 ゴシックホラー編 黒猫』と『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』と『ポー傑作選3 ブラックユーモア編 Xだらけの社説』(角川文庫)です。著者は、エドガー・アラン・ポーであり、私なんぞから紹介するまでもありません。邦訳者は、河合祥一郎であり、各巻末の作品解題ほかの解説も執筆しています。私の記憶が正しければ、ほぼ私と同年代60歳過ぎで東大の英文学研究者であり、シェークスピアがご専門ではなかったかと思います。ということで、3冊まとめてのズボラなご紹介で失礼します。3冊まとめてですので、どうしても長くなります。悪しからず。繰り返しになるかもしれませんが、各巻の巻末に詳細な作品解題が収録されており、私のような頭の回転が鈍い読者にも親切な本に仕上がっています。ものすごくたくさんの短編が収録されていて、いわゆる小説だけではなく、詩や評論・エッセイもあります。出版社のサイトからのコピペ、以下の通りの収録作品です。『黒猫』ポー傑作選1の収録作品は、「赤き死の仮面」The Masque of the Red Death (1842)、「ウィリアム・ウィルソン」William Wilson (1839)、「落とし穴と振り子」The Pit and the Pendulum (1842)、「大鴉」* The Raven (1845)、「黒猫」The Black Cat (1843)、「メエルシュトレエムに呑まれて」A Descent into the Maelstrom (1841)、「ユーラリー」* Eulalie (1845)、「モレラ」Morella (1835)、「アモンティリャードの酒樽」The Cask of Amontillado (1846)、「アッシャー家の崩壊」The Fall of the House of Usher (1839)、「早すぎた埋葬」The Premature Burial (1844)、「ヘレンへ」* To Helen (1831)、「リジーア」Ligeia (1838)、「跳び蛙」Hop-Frog (1849)となります。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2の収録作品は、「モルグ街の殺人」The Murders in the Rue Morgue (1841)、「ベレニス」Berenice (1835)、「告げ口心臓」The Tell-Tale Heart (1843)、「鐘の音」* The Bells (1849)、「おまえが犯人だ」Thou Art the Man」 (1844)、「黄金郷(エルドラド)」* Eldorado (1849)、「黄金虫」The Gold Bug (1843)、「詐欺(ディドリング)- 精密科学としての考察」Diddling (1843)、「楕円形の肖像画」The Oval Portrait (1842)、「アナベル・リー」* Annabel Lee (1849)、「盗まれた手紙」The Purloined Letter (1844)となります。そして、最後の『Xだらけの社説』ポー傑作選3の収録作品は、「Xだらけの社説」X-ing Paragrab (1849)、「悪魔に首を賭けるな - 教訓のある話」Never Bet the Devil Your Head: A Tale with a Moral (1841)、「アクロスティック」* An Acrostic (c. 1829)、「煙に巻く」Mystfication (1837)、「一週間に日曜が三度」Three Sundays in a Week (1841)、「エリザベス」* Elizabeth (c. 1829)、「メッツェンガーシュタイン」Metzengerstein (1832)、「謎の人物」* An Enigma (1848)、「本能と理性 - 黒猫」** Instinct versus Reason: A Black Cat (1840)、「ヴァレンタインに捧ぐ」* A Valentine (1849)、「天邪鬼(あまのじゃく)」The Imp of the Perverse (1845)、「謎」* Enigma (1833)、「息の喪失 - 『ブラックウッド』誌のどこを探してもない作品」Loss of Breath: A Tale neither in nor our of 'Blackwood' (1833)、「ソネット - 科学へ寄せる」* Sonnet - To Science (1829)、「長方形の箱」The Oblong Box (1844)、「夢の中の夢」* A Dream Within a Dream (1849)、「構成の原理」** The Philosophy of Composition (1846)、「鋸山奇譚」A Tale of the Ragged Mountains (1844)、「海中の都(みやこ)」* The City in the Sea (1831)、「『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/苦境」How to Write a Blackwood Artilce / A Predicament (1838)、「マージナリア」** Marginalia (1844-49)、「オムレット公爵」The Duc de L'Omlette (1832)、「独り」Alone (1829)となります。日本語タイトル後につけたアスタリスクひとつは詩であり、ふたつは評論ないしエッセイです。全部はムリですので、有名な作品だけ簡単に紹介しておくと、『黒猫』ポー傑作選1ではゴシックホラー編のサブタイトル通りの作品が収録されています。詩篇の「大鴉」では、各パラグラフの最後が "nevermore" = 「ありはせぬ」で終わっています。タイトル作の「黒猫」は、冥界の王であるプルートーと名付けられた黒猫と殺した妻を壁に塗り込めますが、当然に露見します。「アッシャー家の崩壊」ではアッシャー家の一族が息絶えて、語り手がアッシャー家を離れた直後に、文字通りに屋敷が崩壊します。『モルグ街の殺人』ポー傑作選2では怪奇ミステリー編ということで、ホラー調のミステリが収録されています。タイトル作である「モルグ街の殺人」は密室ミステリといえますが、事情聴取でイタリア語がどうしたとか、いろいろと情報を散りばめつつも、犯人がデュパンによって明らかにされると、大きく脱力して拍子抜けした読者は私だけではないと思います。「黄金虫」では、暗号トリックが解明されます。『Xだらけの社説』ポー傑作選3はブラックユーモア編であり、ホラーと紙一重のストーリーも収録されています。タイトル作である巻頭の「Xだらけの社説」は出版物で活字が足りなくなるとXの活字を代替に使い、まるで伏せ字のような社説を掲載する新聞を揶揄しています。「一週間に日曜が三度」では、金持ちの叔父が結婚を認める条件として、1週間に日曜日が3度ある週に結婚式を上げるよう申し渡された甥が、日付変更線を利用したトリックを思いつきます。ウンベルト・エーコの『前日島』と同じような発想だと記憶しています。評論の「構成の原理」では、知的・理性的・合理的に作品を構成すべきと考え、人間を超越した絶対的な価値を直感的に把握しようとする超絶主義に反対するポーの姿勢がよく理解できます。繰り返しになりますが、各巻に収録された作品の解題がとても詳細に各巻末に収録されていて、収録作品の出版年を見ても理解できるように、ポーの作品は200年ほど前の19世紀前半の社会背景の下に書かれているわけですので、こういった解説はとても読書の助けになります。また、各巻末の作品解題の他にも、第1巻『黒猫』の巻末には、「数奇なるポーの生涯」と題する解説や「エドガー・アラン・ポー年譜」が、また、第2巻『モルグ街の殺人』巻末には、「ポーの用語」と「ポーの死の謎に迫る」といった解説が、さらに、第3巻『Xだらけの社説』の巻末には、「ポーを読み解く人名辞典」と「ポーの文学闘争」と題する解説が、それぞれ置かれています。作品解題も含めて、すべて邦訳者である河合祥一郎氏によるものです。東大の英文学研究者による解説ですので、とても有益です。この3巻を読めば、私のような手抜きを得意とする読書ファンなら、いっぱしのポー作品のオーソリティを気取ることができるかもしれません。
2023年09月09日 (土) 09:00:00
今週の読書も経済書を2冊読んで計7冊
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)は、ライフサイクル仮説を中心に日本の消費を分析する学術書です。イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)は、初学者にも読みやすい経済の解説書で、当然ながら、物価や金融について詳しいです。小川哲『地図と拳』(集英社)は、第168回直木賞を受賞した大作であり、20世紀前半の満州についての壮大な叙事詩を紡いでいます。山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)は、現代の官庁や企業までつながる江戸期の幕府組織などを解説しています。染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)では、読売新聞のジャーナリストがパチスロや競艇などのギャンブル依存に苦しむ人へ取材しています。波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)は、北関東の田舎の工業高校の女子高生を主人公にした痛快かつ疾走感のある青春物語です。坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)では、明治維新で没落した武家の若い当主が志願して西南の役に出陣します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に27冊、そして、9月に入って先週7冊の後、今週ポストする7冊を合わせて133冊となります。年間150冊は軽く超えそうですが、交通事故による入院のために例年の200冊には届かないかもしれません。
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、京都大学の研究者であり、消費分析が専門です。私は総務省統計局で消費統計を担当していた経験がありますので、一応、それなりの面識があったりします。出版社からも容易に想像できるように、本書は完全な学術書であり、経済学部の上級生ないし大学院生、また、政策担当者やエコノミストを対象にしており、一般的なビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。副題が「ライフサイクル理論の現在地」となっているように、ライフサイクル仮説とその双子の兄弟のような恒常所得仮説について分析を加えつつ、それらに付随する消費のトピックも幅広く含んでいます。本書は5部構成であり、タイトルを羅列すると、第Ⅰ部 消費の決定理論、第Ⅱ部 ライフサイクル理論の検証と拡張、第Ⅲ部 現金給付の経済学、第Ⅳ部 家計収支の把握、第Ⅴ部 貯蓄の決定要因、となります。繰り返しになりますが、本書の中心を占めるのは消費の決定要因としてのライフサイクル仮説であり、これに強く関連する恒常所得仮説も取り上げられています。本書では、ケインズ的な限界消費性向と平均消費性向の異なる消費関数は、流動性制約下におけるライフサイクル仮説と変わるところないと結論していますが、Hall的なランダムウォーク仮説やFlavin的な過剰反応と行った実証研究からして、私はライフサイクル仮説がモデルとして適当かどうかはやや疑わしいと考えています。特に、Flavin的な過剰反応については、彼女の論文が出た際には私もほぼほぼ同時代人でしたので記憶にありますが、本書でも指摘しているように、ライフサイクル仮説が正しいという前提でFlavin教授の実証のアラ探しをしていたように思います。通常、理論モデルが現実にミートしなければ、理論モデルの方に現実に合わせて修正を加える、というのが科学的な学術議論なのですが、経済学が遅れた学問であるひとつの証拠として、理論モデルを擁護するあまり、理論モデルに合致しない実証結果を否定する、ないし、例えば、市場経済の効率性を実現するために実際の経済活動を理論モデルに近づける、といった本末転倒の学術活動が見られます。本書がそういった反科学的な方向に寄与しないことを私は願っています。ライフサイクル仮説のモデルを修正するとすれば、経済政策の変更に関するルーカス批判と同じで、消費と所得の一般均衡的なモデルが志向されるべきだと私は考えています。すなわち、消費と所得の相互作用、所得から消費への一方的なライフサイクル仮説ではなく、ケインズ的な所得が増加すれば消費が増加し、消費の増加に伴いさらに所得が増加するという乗数過程を的確に描写できるモデルが必要です。現時点で、ライフサイクル仮説がこういった消費と所得のリパーカッションを的確に表現するモデルであるとは、私は考えていません。最後に、本書はマクロ経済学的な消費を中心とする分析を展開しているわけですが、マイクロな消費についてももう少し分析が欲しかった気がします。マイクロな消費分析というと、少し用語が不適当かもしれませんが、支出対象別の消費に関する分析です。例えば、その昔は「エンゲル係数」なんて指標があって、食費への支出割合が低下するのが経済発展のひとつの指標、といった考えが経験的にありました。現在に当てはめると、教育費支出の多寡が生産性や賃金とどのような関係にあるのか、スマホなどの通信費への支出は幸福度と相関するのか、医療や衛生への支出と平均寿命・健康寿命との関係、などなどです。リアル・ビジネス・サイクル理論などにおけるマクロ経済学のミクロ経済学的な基礎については、私自身はまったく同意できませんが、消費のマイクロな支出先による国民生活や経済活動への影響については、今少し研究が進むことを願っています。
次に、イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)です。著者は、英国の中央銀行です。本書のクレジットでは「イングランド銀行」が著者となっているのですが、まさか全員で書いたわけもなく、ルパル・パテル & ジャック・ミーニングが著者として名前を上げられています。基礎的な経済学の入門書であり、第1章と第2章はマイクロな経済学、第3章で労働や賃金を取り上げてマクロ経済学への橋渡しとし、第4章からはマクロ経済学となります。イングランド銀行の出版物らしく、第6章からは物価や金融を詳しく取り上げています。ということで、本書からインスピレーションを得て、私の授業では、ミクロ経済学については制約条件の下での希少性ある財・サービスの選択の問題を対象とし、マクロ経済学では希少性ある資源の供給増加や分配の改善、あるいは、可能な範囲での制約条件の緩和を目指す、と教えています。まあ、経済学の定義なんて、教員が100人いれば100通りありそうな気はします。それはともかく、後半、というか、マクロ経済学の解説は秀逸です。第5章では経済成長を取り上げて、歴史的に経済、というか、国民生活は豊かになってきた姿を示し、第6章では貿易などの国際取引に焦点を当てています。そして、第6章からは中央銀行における経済学の中心的な役割の解説が始まります。すなわち、第6章では物価やインフレを考え、第7章ではお金、マネーとは何なのか、第8章では民間銀行や中央銀行の役割、そして、第9章ではリーマン・ショックから生じた金融危機の予測に失敗した際の女王からの質問やエコノミストの回答まで含めて、幅広く金融危機について言及し、最後の第10章ではマクロ経済政策、とくにサブプライム・バブル崩壊後の経済政策について解説を加えています。後半の各章では日本もしきりと取り上げられています。特に、第10章ではノッケのp.364から量的緩和などの非伝統的な金融政策の先頭を走った日本について詳しく言及されています。全体として、いかにも中央銀行らしく、検図理論を中心に据えたマクロ経済学の解説となっています。マネタリズムや古典派的な貨幣ヴェール論などについては貨幣の流通速度が変化することから否定的に言及されています。もちろん、金融政策が政府から独立した専門家によって中央銀行で運営され、財政政策は政府が管轄する、といった基礎的な事項についてもちゃんと把握できるように工夫されています。大学に入学したばかりの初学者はもちろん、高校生でも上級生で経済学や経営学の先行を視野に入れている生徒、さらに、就職して間もないビジネスパーソンなど、幅広い読者に有益な内容ではなかろうかと考えます。ただ、数式がほぼほぼ用いされていないのがいいのかどうか、私には不明です。
次に、小川哲『地図と拳』(集英社)です。著者は、小説家であり、SFの作品も手がけています。というか、むしろ、SF作家とみなされているようです。広く報じられているように、この作品で第168回直木賞を受賞しています。この作品は、20世紀初頭から半ばまでのほぼ半世紀に渡り、中国東北部、当時「満州」と呼ばれた地域を舞台にした壮大な叙事詩といえます。私は、最近の直木賞受賞作では、あくまで私が読んだ中では、という意味ですが、北海道のアイヌを取り上げた川越宗一『熱源』が同様の壮大な叙事詩だと感じています。この作品も、ボリュームとしては『熱源』を上回っており、ただ、作品の出来としては私は『熱源』に軍配を上げますが、とても大きなスケールを感じます。どうでもいいことながら、『熱源』が直木賞に選出された第162回の選考会でもこの作者の『嘘と正典』がノミネートされています。ということで、とても長いストーリーなので、舞台は満州としても、主人公が誰なのか、というのは議論あるところかもしれません。朝日新聞のインタビューでは、作者自らが「あえていえば物語の主人公は李家鎮という都市ですね。」と回答していたりします。ただ、ストーリーの冒頭からほぼ最終盤まで、細川という男性がずっと出ずっぱりとなっています。細川は中国語の他にロシア語も堪能で、密偵の役目を帯びた陸軍士官の通訳として中国の満州に渡ります。そして、架空の満州の街である李家鎮を舞台にさまざまな人間模様が繰り広げられます。細川のほかに、ロシアの鉄道網拡大に伴って派遣された神父クラスニコフ、叔父にだまされて不毛の土地である李家鎮へと移住した孫悟空、地図に描かれた存在しない島を探して海を渡った須野、李家鎮の都市計画に携わった建築学科の学生である須野の倅、李家鎮の陸軍憲兵である安井、などなどです。そして、とっても詳細に書き込んでいます。歴史的な事実関係は私は詳しくありませんし、この作品でも歴史的な事実を下敷きにした小説ではないと理解していますが、SF作家の作品だけに、どこまでが歴史的事実で、どのあたりから架空のフィクションになるのか、を見極めるのも読書の楽しみのひとつかもしれません。なお、出版社の特設サイトに登場人物一覧や関連年表などがpdfファイルでアップされています。ボリュームある長編で視点の切り替りもいっぱいあるので、なかなか読み切るのは骨ですので、こういった関連資料は読書の助けになります。最後に、『熱源』に及ばないと私が判断した点は3点あり、第1に、満州の気象に関して、須野の倅が気温や湿度をピタリといい当てるにもかかわらず、『熱源』のようなリアリティを持って伝わってきませんでした。第2に、『熱源』における日本人とアイヌ人との関係が、この作品では日本人と現地の中国人、そして、満州人との関係が十分に捉えきれていない恨みがあります。また、第3に、ストーリーが最後に失速する感じがあります。したがって、ボリュームあるにもかかわらず、読後感が軽くてイマイチな読書だった雰囲気を持ってしまいます。その分、星1つ『熱源』の後塵を拝する気がします。
次に、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)です。著者は、東京大学の史料編纂所などで歴史研究者をしていましたが、2020年に亡くなっています。副題が「現代企業も官僚機構も、すべて徳川幕府から始まった」となっているのですが、明治期以降の組織人についてはまったく言及がありません。ただ、この副題の通りなんだろうという気はします。ということで、基本的に、江戸幕府の組織とそこで働く主として高官について歴史的にひも解いています。現在にも通ずるような表現にて、キャリアの公務員とノンキャリアの公務員、といった具合です。おそらく、組織と組織人については、江戸期と現在で大きな変化はないものと思いますが、家柄と能力で比重の置き方が違っているのだろうと思います。江戸期には家柄と能力のうち、家柄の方に相対的に重きが置かれ、現在では本人の能力の方が重要、ということなのでしょう。もちろん、江戸期にも能力の要素が十分考慮されていた点は本書でも何度か強調しています。本書では言及ないのですが、現在でも家柄や出自がまったく無視されているわけではありません。それは公務員の勤務するお役所だけでなく、フツーの民間企業でも同じことだろうと思います。ただ、江戸期の方が現在よりも圧倒的に不平等の度合いが高く、したがって、出世した方が格段に収入などの面で有利になるので、出世競争は激しかったのだろうという気はします。ただ、本書では冒頭で士農工商を無視して、侍の士分と町民だけの二分法で始めていますが、現在でも江戸期のような士農工商は一部に残っている事実は忘れるべきではありません。すなわち、士農工商のうちの工商です。知っているビジネスマンは決して少ないとは思いませんが、工=製造業が上で、商=サービス業が下、という構図は残されています。典型的には、日本でトップの経営者団体である経団連ですが、会長は必ず製造業から出ます。銀行や商社から出ることは決してありません。これは基本的に江戸期の名残りといえます。というのは、工商だけで士農を別にすれば、お江戸は職人=製造業従事者の町であり、他方で、大坂は商人=サービス業の町です。ですので、江戸を大坂の上に位置させようとして、この序列が決められているのではないか、と私は訝っています。今でもものづくりや製造業を重視し、商業を卑しめる考えが広く残っているのは忘れるべきではありません。実は、経済学でもアミスやマルクスのころまでは製造業が圧倒的な中心を占めていて、サービス業が無視されていたのも事実です。組織人とは関係ありませんが、身分や序列に関しても江戸期の名残りが随所に見られるのは忘れない方がいいような気がします。
次に、染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)です。著者は、読売新聞のジャーナリストであり、医療・健康を中心に活動しているようです。本書では、タイトル通りにギャンブルに対する依存を取材により、その破滅的な典型例を紹介しています。6章構成となっており、5章まではパチスロ、競艇、宝くじ、パチンコ、闇カジノの実例を取材に基づいて明らかにしています。最後の第6章で本書を総括しています。ということで、平たくいえば、ギャンブルで身を持ち崩した実例、それもとびっきり悲惨な例を5人分取材しているわけです。依存症の対象はいっぱいあって、依存症というよりは「中毒」と呼ばれるものもあり、人口に膾炙しているのはアルコール依存症、あるいは、「アル中」と呼ばれるもので、タバコのニコチン中毒なども広く知られているのではないでしょうか。ただ、そういった物質への依存と違って、ギャンブルの場合はモロにお金の世界ですので、ギャンブルをする資金をショートすれば誰かから借りることになります。最後は、いわゆる消費者金融から借りて雪だるま式に借金が膨らむ、ということになります。本書では言及がありませんが、大王製紙の御曹司がラスベガスで散財したのは例外としても、サラリーマンが数百万円を超える借金をすれば返済はかなり困難となります。日本の消費者金融は独特のビジネスモデルで、厳しい取立てが、少なくとも以前はあったということは広く知られているのではないでしょうか。ある一定の限界を超えれば、仕事も家庭も破綻するわけです。しかも、ギャンブルについては、確率的に必ず胴元が儲かるシステムになっていることは、ほぼほぼ万人が認識していて、それでもギャンブルにのめり込むということは、なんらかのビョーキである可能性が示唆されています。経済学は合理的な経済人を前提にしていますので、基本的に、ギャンブルは排除されます。しかし、ギャンブルで金儲けをするのではなく、何らかの効用を見出す場合もあります。ストレス発散だったり、社交の一部として知り合いと親交を深める、とかの効用です。ただ、私を含めて、ギャンブル依存で人生が破綻するまでのめり込むというのは、なかなか理解できないことであり、203年秋には大阪に統合型リゾート(IR)という名のギャンブルをする場としてのカジノができるわけですし、こういった本で不足する情報を補っておくべきかもしれません。
次に、波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)です。著者は、たぶん、小説家といっていいのだろうと思いますが、この作品は「弱冠21歳の現役大学生による松本清張賞受賞作」としてもてはやされました。今年になって文庫化されましたので、私もFacebookなどで話題になったこともあり読んでみました。主人公は北関東の「クソ田舎」にある工業高校に通う朴秀美というJK高校2年生です。朴はヒップホップとSF小説を心の逃げ場としています。というのも、工業高校のクラスは機械工業学科の生徒ばかりで、女子は3人しかいません。朴秀美のほかの女子は、朴と同じ陰キャの岩隈、そして、男子とフツーに接している陽キャの陸上部の矢口です。そして、何とこの3人がチームを結成して犯罪に手を染めます。すなわち、朴がひょんなことで入手した大麻の種子を栽培し、それを売りさばいて大金を手に入れるわけです。しかも、栽培するのは高校の屋上だったりします。このあたりまでは、普通に紹介されていますが、私が不思議だったのは高校生がどこまで大麻を楽しめる、というか、大麻を吸えるか、という点です。というのは、私や我が家の倅どもには大麻は無理な気がするからです。どうしてかといえば、大麻を吸うとすれば、少なくとも通常のやや重めのタバコは無理なく吸えなければ、とってもじゃないですが大麻なんて吸引できません。我が家では誰も喫煙しません。しかし、読み進んでみて、主人公の朴はヒップホップの仲間といっしょに缶チューハイは飲むし、タバコも吸うしで、大麻の栽培もそういった素地の上に構築されているんだと、作者の構成の鋭さに感心してしまいました。小説としては、Facebookなどで「痛快」という表現が使われていた気がするのですが、私はそれよりも若者らしい疾走感を感じました。何か、コトを成して痛快とか、爽快、というのではなく、やや方向はムチャだとしても精一杯突き進んでいる疾走感です。ただ、私も60代半ばですので、映画や音楽曲のタイトルがいっぱい出てくるのは閉口しました。半分も知りません。また、特に朴は読書家でかなり本を読みこなしています。おそらく、これは作者自身からくる人物造形だと思います。でも、現実の北関東の底辺高校生に当てはめてみると、むしろ、もっとゲームとアイドル/芸能人なんじゃないの、という気がします。もちろん、ゲームもある程度は登場しますが、やや違和感あるのは私だけでしょうか。あと、関西人の観点かもしれませんが、会話のテンポがよくない気がします。田舎の高校生だから仕方ないのかもしれませんが、会話がモッチャリしています。最後のオチもややビミョーです。ただ、今後の作品に期待したいと思います。大いに期待します。
次に、坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)です。著者は、小説家なんですが、2019年にこの作品で第26回松本清張賞を受賞してデビューしています。私は一昨年2021年に文庫化された作品を読んでいます。この作者の作品としては、ほかに、終戦直後の大阪を舞台にした『インビジブル』と返還直前の沖縄を舞台にした『渚の螢火』を私は読んでいますが、本作を含めてこの作者の長編小説はその3作品が出版されているだけだと思います。ということで、この作品も大阪を最初の舞台にしていますが、神戸から出向して西南の役の戦乱の舞台となった熊本なども主人公は出向いています。主人公は大坂詰めの武士の家のでなのですが、当然ながら明治維新で大きく没落し、大阪道修町の薬問屋で丁稚奉公を始め、17歳になった現在は手代になっています。そこの西南の役が起こり、武功を上げる最後のチャンスを逃すまいとして、政府軍の兵役に応募します。しかし、応募して主人公と同じ分隊に編成された兵は、一癖も二癖もある、というか、個性が強くて、そう大して兵隊として役立ちそうもない連中ばかりです。でも、分隊長に任命された主人公は仲間とともに神戸から出向し、熊本で戦い、まあ、歴史的事実ですから、政府軍の勝利に終わるわけです。この作者の作品のひとつの特徴で、本書には乃木希典、犬養毅、嘉納治五郎など同時代人が登場します。また、西郷札などの経済情勢をはじめ、軍事的な情報も含めて、西南の役当時の経済社会情勢がよく調べられており、大阪人の行動や意識などとともに楽しむことが出来ます。そういった細部の組立てとともに、ストーリーの大きな流れもキチンと筋立てられており、読んでいて強く引き込まれます。繰り返しになりますが、この作者が今までに出版した長編小説を、私は『渚の螢火』、『インビジブル』とこの『へぼ侍』と、出版とはまったく逆順に読んでしまいましたが、いずれも平均的な水準を十分にクリアしている立派な作品でした。これからもこの作者の作品に注目した位と思います。
2023年09月02日 (土) 09:00:00
今週の読書は米国を分析した経済書をはじめ計7冊
まず、大橋陽・中本悟『現代アメリカ経済論』(日本評論社)は、現在の米国バイデン政権で進められている反トラスト政策の背景にある米国経済における独占の進行について分析しています。奥村皓一『転換するアメリカ新自由主義』(新日本出版)は、これも米国バイデン政権下で進められている新自由主義的な経済政策からの脱却について分析を加えています。島田荘司『ローズマリーのあまき香り』(講談社)は、1997年時点のストックホルム在住の御手洗潔が1977年に起こったニューヨークでの世界的バレリーナ殺害事件の謎を解き明かす本格派のミステリです。奥田祥子『シン・男がつらいよ』(朝日新書)は、右肩下がりの日本経済において「男らしさ」のジェンダー規範を具現化できず苦しむ男性について取りまとめています。泡坂妻夫『ダイヤル7をまわす時』(創元推理文庫)は、作者の生誕90周年を記念して再出版されたミステリ短編集です。最後に、泡坂妻夫『折鶴』(創元推理文庫)も同じで、それほどミステリ色の強くない短編を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、先週8冊の後、今週ポストする冊を合わせて冊となります。
まず、大橋陽・中本悟『現代アメリカ経済論』(日本評論社)です。編者は、いずれも私の勤務する大学の研究者であり、まあ、平たくいえば同僚です。本書の副題は「新しい独占のひろがり」となっています。広く報じられている通り、本書のいくつかの章で強調されていたように、2021年からの米国バイデン政権下で連邦取引委員会(Federal Trade Commission=FTC)の委員長にリナ・カーン女史が委員長に就任し、昨年2022年11月には Federal Trade Commission Act の Section 5 に関する Policy Statement として "Rigorous Enforcement" 「厳格な執行」を軸にした "Policy Statement Regarding the Scope of Unfair Methods of Competition Under Section 5 of the Federal Trade Commission Act Commission File No. P221202 " を公表しているだけに、極めてタイムリーな分析が提供されています。なお、本書は、3部構成であり、第Ⅰ部 現代アメリカ経済における新たな独占、第Ⅱ部 独占のグローバル・リーチの新展開、第Ⅲ部 独占と経済・規制政策論、となっています。私も米国の反トラスト政策は気になっていて、2年ほど前の2021年6月の読書感想文でティム・ウー『巨大企業の呪い』を取り上げましたので、その観点から読んでみました。ただ、やや未成熟な議論を展開している部分もあり、やや物足りない仕上がりとなっています。例えば、第2章の金融に関する分析において、プライベート・エクイティ(PE)によるメイン・ストリートの収奪に関しては、単に、党派や立場によって見解が様々、というだけでなく、何らかのPEの投資行動の評価基準を提起できるだけの分析が欲しかったと思います。厳密にはプライベート・エクイティとは異なりますが、いわゆる機関投資家におけるGFANZ (Glasgow Financial Alliance for Net Zero)のような動きもありますし、SDGsの観点も含めて金融の分析が欲しかった気がします。また、ITのビッグテック、GAFAなどの巨大な企業体によるデータの独占的な収集については、一定の分析がなされていますが、なぜか、エネルギー企業についてはスルーされています。その昔のAT&Tとともにスタンダード石油の分割でもってエネルギー企業の独占は終了したとは考えられません。シカゴ学派的な、というか、スティグラー教授の「規制の虜」は、私の直感ではエネルギー企業にもっともよく当てはまると思うのですが、本書のスコープに入っていない点は私には理解がはかどりませんでした。最後に、これも本書のスコープ外なのでしょうが、独占企業体での雇用について、第9章で高度人材について、また、第10章でインフレとの関係で取り上げられていますが、生産段階における独占企業による競争企業の収奪という企業間の関係だけではなく、企業と労働者の関係についても、何らかの特徴があるのかどうか、もう少し突っ込んだ分析が欲しかった気がします。でも、繰り返しになりますが、米国での競争促進政策は今後注目されるところであり、私も本書をはじめとして勉強しておきたいと思います。
次に、奥村皓一『転換するアメリカ新自由主義』(新日本出版)です。著者は、東洋経済でジャーナリストであった後、大東文化大学や関東学院大学で研究者をしていました。本書は、2021年1月から始まった米国バイデン政権下でシカゴ学派の主導する新自由主義的な経済運営への反省から、1930年代の民主党ルーズベルト大統領の下でのニューディール政策のような資本主義の枠内での経済政策について分析しています。当然ながら、古典派経済学のような自由放任を排し、政府と経営者と労働者の共同による経済再生、大不況からの脱出ということになります。ただし、本書ではケインズ政策という表現はほとんど出てきません。やや不思議な気がしました。本書は3章構成であり、第1章のバイデン生還における脱新自由主義的経済政策を中心都市、第2章のIT巨人・GAFAMの解体的規制をめぐる攻防、に加え、第3章では金融危機における米国銀行システム崩壊とメガバンク再構築による金融寡頭制、となっています。私は読んでいて、第3章の位置づけや内容が本書のスコープと当関係するのか、理解がはかどりませんでした。申し訳ないながら、第3章をほぼほぼ無視して、第1章を中心に見ていくこととします。まず、米国経済の脱新自由主義については、私の理解では労働サイドのテコ入れが主たる制作集団であろうと考えています。広く知られた通り、1940年代後半の米軍を中心とする占領軍による日本経済の三大改革は、農地開放、財閥解体、労働民主化です。労使のバランスが1981年からの当時のレーガン政権により決定的に労働者に不利になるような政策が取られてきています。典型的には航空管制官1万人余りの解雇と代替者の雇用です。我が国では、1987年の三公社の民営化に伴う国労解体かもしれません。本書では、1935年ワグナー法の基本に立ち返るべくタスクフォースからの報告を求めた旨の分析が目を引きます。2009年からのオバマ大統領はウォール・ストリートの利益代表に近い経済政策により、その次のトランプ大統領への道を開いてしまいましたが、バイデン大統領は労働組合の復権に力を注いでいる印象です。ただ、これは政策的にどうこうというよりも、むしろ、人口動態的な人手不足、特に、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)後の労働市場への戻りの遅さも含めた人手不足が大きな要因となって、労使間の力関係のバランスを労働サイドに有利に作用した、と私は考えています。おそらく、その方向性を政策的にバックアップした、ということなのだろうと思います。長期的には日本や米国に限らず、労働組合の組織率が低下の方向にあることは事実ですが、日本でも西武百貨店池袋店の労働組合が米国ファンドへの売却を巡ってスト権を確立していることは広く報じられていますし、日本でも現在のような反動的な内閣のもとでも、何らの政策的支援を受けずに、少子高齢化や人口減少の流れの中で人手不足が進み、労使間のバランスが労働サイドに有利な方向に動いているのが実感できます。いずれにせよ、米国では脱新自由主義が意図して政策的に進み始めています。日本でも早くに脱新自由主義が進むことを私は願っています。
次に、ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』(東洋経済)です。著者は、エスワティニ(旧スワジランド)のご出身で英国王立芸術家協会のフェローであり、専門は経済人類学だそうです。英語の原題は Less Is More であり、2020年の出版です。本書では、人新世=anthropoceneないし資本新世=capitaloceneにおける生態系の破壊を防止するために、脱成長の必要性を分析しています。特に、資本主義の下で企業の行動原理は利潤の最大化ということですので、計画的陳腐化や不必要な買換を促進させようとする広告戦略などに基づく過剰な生産を減速させ、不要な労働から労働者を開放しすることを目的とした方向性が示されています。もちろん、完全雇用を維持するために労働時間を短縮し、また、フローの所得とストックの富=資産を公平に分配し、医療や教育や住宅などの公共サービスへのアクセスを拡充することも重視しています。ただ、過去の歴史を振り返り、植民地化による桎梏、あるいは、自然と人間という啓蒙主義における二元論などから説き起こし、マテリアル・フットプリントの考えの導入なども、とっても有益な方向性なのですが、具体的な方策への言及がほとんどありません。プラネタリ・バウンダリの考えはいいのですが、消費を地球が供給できる範囲に抑えるために、まず、計測の問題があり、次に、その実現のための方策が必要です。さらに、本書ではグリーン成長論を否定しています。成長と環境負荷のデカップリングが出来ないという前提なのですが、これについても計測が不十分ではないか、と私は考えています。おそらく、本書の主張はほぼほぼすべてが正しく、啓蒙主義的な二元論を脱するなら、自然からの収奪ができなくなれば労働からの収奪になる、というのもその通りなのだと思うのですが、もう少し具体的な計測と方向性が示されれば、さらに充実した主張になる気がします。私が常に主張しているのは、環境保護や生態系破壊の防止などは心がけとか気持ちの問題では解決しません。実際に実行力ある何らかの制度的な枠組みや規制がなければ、どうにもなりません。計測の問題にしても、GDPは一定の目的に即した指標であって、環境保護や生態系破壊防止のためには、GDPに代替する別の指標を考えねばなりません。それは、幸福指標ではないと私は考えています。気候変動防止や生態系保護の必要性を主張するのは簡単です。その実現のための計測と具体的な方策の提示が重要です。
次に、島田荘司『ローズマリーのあまき香り』(講談社)です。著者は、私なんぞがいうまでもない本格ミステリの大御所です。本書は、その大御所の御手洗シリーズ最新刊であり、1997年の時点でスウェーデン在住の御手洗潔がその20年前1977年のニューヨークで起こった不可解な殺人事件の謎を解きます。その殺人事件とは、当時の世界トップであり、ナチスの絶滅収容所からの生き残ったという意味でも生きた伝説といえるバレリーナ、35歳と最盛期を迎えたフランチェスカ・クレスパンがニューヨークの劇場で上演された4幕もののバレエの主役を務めた際に、いわゆる楽屋の休憩室の密室で撲殺されます。死亡時刻から考えて、2幕と3幕の間の休憩時間に殺害されているのですが、彼女は最後まで、すなわち、3幕と4幕も踊っていることが多くの聴衆に目撃されています。この密室殺人と死亡時刻の謎が、実際に起ってから20年を経て、御手洗潔によって解明されるわけです。殺害場所は、ニューヨークのロックフェラー・センターを思わせる、というか、モデルにしたであろうウォールフェラー・センターです。そして、ユダヤ人とユダヤ教、もちろん、繰り返しになりますが、ナチスによる絶滅収容所、さらに、ナチスから逃れた後の旧ソ連における芸術家の待遇、また、ユダヤを代表するウォールフェラー一族の時刻までも十進法で表現する家法、などなど、島田荘司らしい数多くの奇想が盛り込まれています。最後には、もちろん、御手洗潔によってローズマリーの香りが現場に残されていたのかも明らかにされます。トリックについては疑問なくすべてが明らかにされるのですが、難点としては、「ノックスの10戒」や「ヴァン・ダインの20則」に、おそらく、抵触している可能性が高い点です。しかも、謎解きというよりは、私の感想としては力技です。ですので、騙された読者が、「なるほど」と感心するのか、それとも、「これは反則である」と感じるのかはビミョーなところかという気がします。ちなみに、私はフィフティ・フィフティで謎解きの鮮やかさに感激しつつも、どうも反則っぽいところが気がかりになった読後感でした。まあ、殺されたクレスパンのファーストネームのフランチェスカはイタリア人じゃないの、というのは別にします。
次に、奥田祥子『シン・男がつらいよ』(朝日新書)です。著者は、読売新聞のジャーナリストを経て、現在は近畿大学の研究者を務めています。本書では何の言及もありませんでしたが、私は「プレジデント・オンライン」で同じ連載を一部見た記憶があります。5章構成となっており、4章までが取材の結果を取りまとめたルポ編で、最終5章が分析と解決のための考察編となっています。最初の4章では、女性に虐げられる男たち、男性に蔑まれる男たち、母親に操られる男たち、「親」の代償を払わされる男たち、とタイトルされていて、出世しなかったり、定年で権力を失ったり、マザコンで配偶者よりも母親を忖度したり、といった男性を取材し、それぞれをケーススタディしています。実際の取材例は本書を読むしかないのですが、私自身の経験に引き付けると、やや極端という気もします。私自身はキャリアの公務員として定年まで東京の本省で働いていましたから、平均的な民間企業よりも男女の性差はあまりなくて平等で、体育会的な要素はほぼほぼなく、営業のノルマやリストラなどはまったくない、という意味で、働きやすい良好な職場でした。私自身は上昇志向がほとんどないこともあって、平均以下の出世しかしませんでしたが、それほど不満はありませんでした。キャリアの場合は課長の上の局次長とか審議官まで出世する人が少なくない中で、課長止まりでしたので、繰り返しになりますが、キャリア公務員としては出世したのは平均以下でした。でも、キャリアですので、ノンキャリアも含めたすべての公務員の平均は軽く超えていたことも事実です。ですから、それなりに居心地がよかったのかもしれません。また、本書では何らかのハラスメントを受けたり、逆に、ハラスメントの加害者として告発されたり、といった例が散見されますが、そういった競争の激しさもそれほどなかった気がします。ですから、私のように出世は諦めてエコノミストとして経済学の勉強に励むべしという人事のはからいもあったのか、なかったのか、研究や調査の仕事をすることが多かった気もします。ただ、第5章で分析されているように、日本人男性の幸福度が国際的に低い水準にあることも確かで、中高年男性の生き難さが現れている可能性もあります。また、母親や父親からの影響という点に関しては、大学まで親元にいながら働き始めるに当たって東京に出る、という移動パターンでしたので、現在のように通信手段が多岐に渡って発達していたわけでもなく、公務員の仕事や役所についてほとんど情報のない親からの干渉はほとんどありませんでした。まあ、要するに時代が違うという面はありますし、私自身がそう気張らない性格とテンションの高くない職場でしたので、本書のような「つらい男たち」にはならなかったのかもしれません。
最後に、泡坂妻夫『ダイヤル7をまわす時』(創元推理文庫)です。著者は、家業の紋章上絵師として働く一方で、ミステリ作家やマジシャンとしても活躍し、2009年に亡くなっています。この本と次の本はともに短編集であり、今年2023年になって作者の「生誕90周年記念」として再出版されています。この本はミステリ色が強く、次の本はミステリ色はほとんどありません。したがって、読書感想文を分けています。なお、最初の出版は『ダイヤル7をまわす時』は1985年に光文社から単行本が出ています。収録されている短編は、「ダイヤル7」、「芍薬に孔雀」、「飛んでくる声」、「可愛い動機」、「金津の切符」、「広重好み」、「青泉さん」となっています。ほぼほぼ表題作といえる「ダイヤル7」は、問題編と解答編で構成されたロジカルな犯人当てミステリとなっていて、抗争する暴力団の片方の組長が殺害されるのですが、何せ、1985年代前半の電話機ですので、ボタンではなくダイヤル式です。やや、今どきの若い読者には理解しにくいかもしれません。「芍薬に孔雀」は、客船内で口に靴にポケットに全身に稀覯モノのトランプのカードを詰め込まれた奇妙な死体の謎を解き明かします。「飛んでくる声」では、団地内で不思議に会話の声が反響して別棟の部屋に聞こえてしまい、殺人劇の解明へとつながります。「可愛い動機」では女性らしい動機から自動車を海に突っ込ませるという犯罪です。ラストの1行が鮮やかです。「金津の切符」はコレクター心理が読ませどころとなっています。倒叙ミステリなのですが、警察が解明するラストも興味深いところです。「広重好み」では、殺人事件は起こらず、なぜか、「広重」が名前に入る男性に興味を引かれる女性の謎に迫ります。最後の「青泉さん」では、小さな町で常連客しか来ない喫茶店に来るようになった画家の青泉さんが殺されますが、作品がすべて持ち去られるという謎が、殺人者の解明よりも重点を置かれています。
最後に、泡坂妻夫『折鶴』(創元推理文庫)です。著者は、家業の上絵師として働く一方で、ミステリ作家やマジシャンとしても活躍し、2009年に亡くなっています。この短編集には、「忍火山恋唄」、「駈落」、「角館にて」、「折鶴」の4話が収録されています。ややミステリ色のある作品も含まれていますが、前作の『ダイヤル7をまわす時』がハッキリとミステリ短編集であったのに対して、この作品はかなり色合いが異なります。作者の「生誕90周年記念」として東京創元社からの再出版ですが、もともとは1988年に文藝春秋から単行本が出ています。第16回泉鏡花文学賞受賞作です。「忍火山恋唄」では、新内語りの名人の人生に絡んだ殺人事件と幽霊の怪談譚に本格ミステリの手法を加えているのですが、ミステリではなく人情話しとして私は読んでしまいました。「駈落」では、悉皆屋の男性が若かったころに経験したたった3日間の駈落事件が語られます。実は、大きなお釈迦様の手のひらでの操られた形で、最後には鮮やかなどんでん返しで終わります。「角館にて」では、男女の微妙な価値観や物の考え方のすれ違いが鮮やかに対比されています。ミステリ色の薄いこの作品の中でも、もっともミステリ色が薄い作品です。最後に、「折鶴」では、ミシンの導入により仕事が大きく変化する職人が主人公になります。投宿先で自分の名を騙られた主人公が、その謎の男の正体を名刺を渡した相手を回想しながら考えるという趣向で、ラストが鮮やかです。ミステリ色の薄いこの作品の中でも、謎解きという意味で、もっともミステリ色が濃い作品です。泡坂作品の中でも、どんでん返しはあるものの、よりしっとりとした大人の恋や人間関係を扱っている作品が多く、ミステリ色の強い作品と読後感がかなり違ってきます。
2023年08月26日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書をいっぱい読んで計6冊
まず、渡辺努・清水千弘[編]『日本の物価・資産価格』(東京大学出版会)では、主として研究者を対象に物価や資産価格の決定について分析しています。リンダ・スコット『性差別の損失』(柏書房)は、主として途上国における男女格差に基づいて性差別が大きな経済損失をもたらしていると主張しています。道重一郎『イギリス消費社会の生成』(丸善出版)は、産業革命前夜の近世の長い18世紀における英国の消費社会の成り立ちについて、産業革命を主眼に据えた生産面からではなく、需要や消費の面から歴史的に後付けています。櫻本健・濱本真一・西林勝吾『日本の公的統計・統計調査 第3版』(三恵社)は、統計調査士の資格試験テキストなのですが、公的統計についてコンパクトに取りまとめています。柏原光太郎『ニッポン美食立国論』(日刊現代)は、ガストロノミー・ツーリズムについて、ほぼケーススタディで個別の成功例を取り上げています。ミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』(集英社文庫)は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』をモチーフにしており、仏領ポリネシアのヒバオア島で「創作アトリエ」に集まった作家志望の女性が次々に殺さるミステリです。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に入って先週までに21冊の後、本日ポストする6冊を合わせて119冊となります。
最後に、新刊本ではないので、このブログでは取り上げませんが、森村誠一『高層の死角』を再読しました。そのうちに、Facebookあたりでシェアしたいと予定しています。ただし、どうでもいいことながら、奥田英朗の『コメンテーター』の予約が回ってくる前にと、精神科医・伊良部シリーズの前作『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』を先週のうちに読んでいるのですが、この3冊は未だにFacebookでシェアできていません。
まず、渡辺努・清水千弘[編]『日本の物価・資産価格』(東京大学出版会)です。編者はそれぞれ、東京大学と一橋大学の研究者です。本書は、30年余り前の1990年に同じ東京大学出版会から公刊された西村清彦・三輪芳明[編]『日本の株価・地価』の後を受けて編集されています。タイトルに合わせて2部構成であり、第Ⅰ部全7章で物価を、第Ⅱ部全6章で資産価格を取り上げています。出版社から考えても、ほぼほぼ完全な学術書であり、ビジネスパーソンというよりも研究者を対象にしている印象です。すべてのチャプターを取り上げることが出来ませんので、第Ⅰ部を中心に私の印象に残った分析について考えたいと思います。第1章では日本の価格硬直性を取り上げ、フィリップス曲線がフラットになり、企業が価格形成力(プライシングパワー)を喪失したとしています。なぜかというと、需要曲線が屈折し、価格据置きが長引く中で、小売店で買回り品が値上げされている場合、別の小売店に回る、という消費者行動が一般的になったためである、と指摘しています。もしも、緩やかな物価上昇が継続しているのであれば、別の小売店に行っても同じように価格が上昇している可能性が高いのですが、価格据置きが長く継続しているのであれば、別の小売店では従来通りの据え置かれた価格で販売している可能性が高い、と消費者が考えるから、と説明されています。ただ、これは購買対象がかなり幅広く存在する都会部ではそうかも知れませんが、地方圏でも当てはまるかどうか、私はやや疑問です。また、第2章では貨幣量と物価の関係について、インフレ率や貨幣成長率が高い経済では古典派的な貨幣数量説に近い状態となって、物価と貨幣量に正の相関がある一方で、日本のようにインフレ率や貨幣成長率が低い経済では特に相関はない、と指摘しています。これは私もそうかもしれないと思います。また、第Ⅰ部最後の第7章では、人口高齢化がインフレにどのような影響を及ぼすかを分析していて、貯蓄-投資バランスから自然利子率に影響するとともに、政治経済学的な要因、すなわち、高齢者が名目貯蓄額を維持するために低インフレを選好するのに対して、労働年齢階層は雇用や賃金のために高インフレを志向することから、年齢構成が高齢化すると低インフレが好まれ、中央銀行がインフレ目標を低位にする可能性がある、と指摘してます。これもそうかもしれません。第Ⅱ部の資産価格については、第12章で日本が、と明記していませんが、キャッチアップ型の成長が終わって世界経済の中でトップランナーとなった段階で、銀行がリスク回避型の貨幣や国債などの安全資産を需要するようになり、現在の日本のような安全資産の膨張が志向される可能性があると示唆しています。まあ、それぞれに説得力ある分析なのですが、3点だけ私から指摘しおきたいと思います。まず第1に、物価上昇率ないしインフレ率とは積上げで各消費財の価格を計算する、と言う暗黙の前提があるような気がするのですが、果たしてそうなのでしょうか。逆から考える見方も分析目的によっては必要そうな気がします。すなわち、物価とは貨幣価値の逆数であるという見方です。デフレで価格が低下する、というのは、逆から見て貨幣価値が上昇している、という意味である、という点が忘れられている気がします。ですから、円が希少性を高めてデフレになるのと、円高が進むのは表裏一体の同じ現象なのではないか、ということです。そして第2に、物価を計測するに際して、母集団、というか、真の物価水準をどう考えるかです。本書で見第3章で建築物価指数をアウトプット型で計測する試みがなされていますが、現状の消費者物価指数(CPI)がラスパイレス式で上方バイアスあるのは広く知られていますが、それでは、真の物価水準は何なのか、という視点も必要です。例えば、景気動向については、観測できない真の景気指標が存在して、それを観測可能な指標から状態空間モデルで計測しようとする試みもなされていますし、真の物価が何なのかについて考えるのもムダではないと私は考えています。最後に第3に、本書のように、財サービスの、いわゆる物価と資産価格を分割することの意味です。昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、石油や穀物の価格が上昇してコストプッシュ・インフレが進行していることは広く報じられています。しかし、石油や穀物は原材料となって財価格に波及するだけでなく、国際商品市況で取引される資産でもあります。原価のインフレの大きな特徴は、このように石油や穀物といった資産でもあり財の原材料でもある物資が資産価格と財・サービスのインフレをリンクする点だと私は考えています。でも、この点に着目した分析はそれほどなされているようには見えません。少なくとも、本書には含まれていません。本来でしたら、マクロエコノミストである私自身が取り組まねばならない課題なのかもしれず、それほど無責任な態度は取れませんので、私も勉強を進めたいと思います。
次に、リンダ・スコット『性差別の損失』(柏書房)です。著者は、米国生まれで現在は英国オックスフォード大学やチャタムハウスの研究者をしています。世界的に有名な経済開発の専門家です。英語の原題は The Cost of Sexism であり、2020年の出版です。ということで、私の従来からの主張は、女性の経済社会への進出が大きく画期的に進めば、まだまだ日本経済も成長の余地が十分残されている、というものです。そして、いうまでもなく、日本での女性に対する不平等の度合いは先進国の中では飛び抜けて高く、6月21日に世界経済フォーラムから発表されたジェンダーギャップ指数でも世界146か国中の125位に位置しています。健康や教育はまだしも、政治経済の分野での男女格差がひどくなっています。本書では、その経済的な性的格差が大きな損失に結びついていると指摘しています。その前提として、本書から2点指摘しておきたいと思います。第1に、p.205に示されているルーカス-トンプソンほかのメタ分析、すなわち、Lucas-Thompson et al. (2010) "Maternal Work Early in the Lives of Children and Its Distal Associations With Achievement and Behavior Problems: A Meta-Analysis" により、1970年代ながら働く母親と専業主婦の母親の子供たちには行動面でも学業面でも何らの違いがないことが明らかにされています。加えて、p.224に示されているハネット・ハイドほかの分析、すなわち、Hyde, Janet S. et al. (1990) "Gender Differences in Mathematics Performance: A Meta-Analysis" により、少年少女の数学の成績に性差がないことが明らかにされてています。これらは、第1に、専業主婦のほうが子育てに有利であるとか、第2に、女子は男子より数学の能力が劣っているとかの俗っぽい迷信を否定するものです。その上で、女性を高等教育からは除していることにより世界経済がこうむっている損失が30億ドルに達するとかの統計的なエビデンスを提供しています。ただ、専門分野のために途上国における例が多く、先進国のエコノミストからすればかなり極端に見える事例が多いことも確かです。ただ、こういった女性を教育から、そして、経済から排除することのコストが極めて大きい点は理解すべきです。そして、一面では、地球上の耕作可能地の80%が男性所有である、あるいは、マルクス経済学を持ち出している点など、本書でも十分に意識しているように、女性が生産手段を持たないことが原因になっているケースがかなり多く見受けられます。この男女格差の課題解決はかなり難しいことは事実です。私は何らかのクオータを設ける必要を感じていますが、本書では第14章が救済への道と題されているものの極めて短い章になっていますし、エピローグでは米国が取り組むべき優先課題6点に加えて、世界や個人ができることをいくつか上げています。これまた、私が常に主張しているように、男女格差是正に限らず、個人のココロや意識改革に訴えるだけでは解決につながりません。制度的に、あるいは、法令によっても何らかの強制力ある措置が必要です。強力な政治的リーダーシップの基で、女性のクオータを設けるのが私はベストだと思いますが、その政治的リーダーシップがいつまでも実現されないおそれもあります。そうでなければ、英国のサフラジェットのような直接的な行動に出ることを厭わない人々が現れる可能性も否定できません。
次に、道重一郎『イギリス消費社会の生成』(丸善出版)です。著者は、東洋大学の研究者であり、専門は経済史です。歴史学ではなく経済史がご専門です。本書では、イギリス消費社会の経済史について、生産関係や供給サイドから後付けるのではなく、消費・支出や需要サイドからの歴史を明らかにする試みです。対象となる地域は英国であり、英国の中のイングランドには限定していません。そして、時代としては、本書でいう長い18世紀であり、17世紀後半から19世紀初頭の時期を指しています。この時期には都市化の進行とともに、ひと目で見て洗練されているとか、上品であるとか行った文化的な価値が重んじられるようになり、英国で消費社会が実現された、と指摘しています。そして、それを裏付ける史料として、都市における女性向け服飾品消費を破産したメアリー・ホールの目録から、また、都市における男子服飾品消費をセイヤー文書から、そして、農村における消費活動をハッチ家文書から、それぞれひも解いています。小売業者が残した経営文書を史料として活用しているわけです。もちろん、会計的な商店サイドの史料だけでなく、トーマス・ターナーなど個人の日記も大いに援用されています。そこから垣間見えるのは、現在と少し違って、店舗は店先のカウンターで売るだけではなく、カーテンで仕切られた奥にはテーブルと椅子があって、馴染客にとってはお茶を飲みながらの社交の場でもあった、といったあたりです。本書では、ほとんど意識されていませんが、おそらく public と private の違いがカーテンの仕切りだったのだろうと私は認識しています。他方で、英国が世界の工場となり、20世紀初頭まで世界の覇権国となったのは産業革命をいち早く開始したからであることは明白なのですが、本書が指摘するように、ここでは英国ではなくイングランドにおける消費社会の実現は、その産業革命に歴史的に先行していた、という事実は重要です。供給サイドからの産業革命の重要性はいうまでもありませんが、消費社会の実現という需要サイドから産業革命を導いたの要因も見逃すべきではありません。そして、本書でも指摘しているように、都市化に伴って見た目で判る上品さや洗練などの消費に対しては、女性的であるとか、フランスかぶれとかの批判もありましたが、18世紀後半の啓蒙主義を待たねば克服されなかった、との本書の指摘は重要だという気がします。いずれにせよ、中性的な自給自足に近い生活から、本書でターゲットにする近世=アーリー・モダンの時期は、分業の発達とともに生産力が伸びて、個人がひとつの職業に特化して剰余物を販売するとともに、自分で生産しない物資を商品として購入するという意味で、市場経済の成立に向かう時期です。その最先端を走る英国の消費社会について、とても勉強になるいい本でした。経済学や経済史を専門にしていなくても、多くの方が楽しめると思います。
次に、櫻本健・濱本真一・西林勝吾『日本の公的統計・統計調査 第3版』(三恵社)です。著者は、立教大学社会情報教育研究センターの研究者や研究アシスタントです。本書は、立教大学社会情報教育研究センター(CSI)の統計調査士の資格試験テキストとして開発されています。したがって、その資格試験の練習問題が各部の最後の方に収録されていたりします。この統計調査士の資格は、社会調査士などとともに、どちらかというと、経済学部学生よりも、マーケティングなどを学んでいる経営学部や商学部の学生に馴染みあるように思います。それはともかく、本書は、資格試験を志す学生はテキストとして通して読むのでしょうが、一応、手元に置いて辞書的に活用する場合も多そうな気がします。pp.130-33にかけての見開きには政府が取り組んでいる基幹統計の一覧表が掲載されています。ただし、統計局を中心とする調査統計が主となっており、業務統計は含まれていません。ですから、何と申しましょうかで、調査票を作ってわざわざ統計として調査するわけです。そうでないものは主として業務統計です。ハローワークのお仕事から有効求人倍率を弾き出したり、通関業務から貿易統計が出来たりするわけです。主要な統計は、人口統計、雇用統計、生活関連統計、物価統計、産業・企業統計、国民経済計算の各章に分かれています。差以後の国民経済計算だけが、いわゆる加工統計で2次統計とも呼ばれます。調査票を配布して調査する1次統計をいくつか組み合わせて加工して統計を作ります。そして、基礎的な統計データ分析も収録しています。クロスセクションの分布を見たり、時系列の変化を追ったりという分析です。おそらく、表計算ソフトでできるレベルの分析であって、それほど高度な計量経済学的な分析ではありません。記述統計が主となっていますが、いくつかの統計には必要とされるので、季節調整についてはそれなりの解説がなされています。いずれにせよ、夏休みの宿題とか、何かの機会に、手元にある、あるいは、近くの図書館で借りることができると便利そうな気がします。
次に、柏原光太郎『ニッポン美食立国論』(日刊現代)です。著者は、60歳の定年まで文藝春秋社で編集に携わった後、現在は美食倶楽部「日本ガストロノミー協会」を設立し会長を務めています。本書では、「立国論」と銘打っているものの、まあ、そこまで大きな風呂敷を広げているわけではなく、具体的な個別のガストロノミー・ツーリズムの成功例を取り上げています。インバウンドとともに国内富裕層のガストロノミー・ツーリズムだけでなく、いわゆるラグジュアリー・ツーリズムへの示唆も豊富に含んでいます。ただし、成功例から演繹して、部分的に、より一般的なコンサルのような方向性も示していますが、ガストロノミー=美食の関係はあまりにも好みが分かれているため、一般論の展開は難しそうな気もします。ということで、私自身はガストロノミーにはまったくご縁がありません。食事とは基本的に体力維持や活動のためのエネルギー補給だと考えていて、もちろん、マズい食事よりは美味しい方がいいに決まっていますが、それほどのこだわりはありません。富裕層、というよりも、超富裕層のツーリズム、ガストロノミーだけを主眼とするものだけではなく、ガストロノミーも含めてラグジュアリーなツーリズムは、私のような庶民の目から見てもツーリズムの多様性を広げるには大いに有効だと見えます。例えば、本書でも第4章で「7.30.100」の壁として指摘していますが、1泊2食付きの高級旅館でも1泊7万円の値段を付けるには心理的な抵抗がある、というもので、それでも、インバウンドも含めて超富裕層であれば、例えば、JR九州の「ななつ星」で1泊30万円の実例はありますし、さらにその上を行く1泊100万円もあり得る、と指摘しています。私はこういった超富裕層からの波及効果、本書では、特に食に関しては「ヘンタイ」と呼んでいるフーディーから滴り落ちるという意味で、「トリクルダウン」というやや評判の悪い言葉を使っていますが、何らかの超富裕層からの波及は考えるべきだと思います。もちろん、インバウンドはともかく、国内の超富裕層からの波及は、できれば、政府がキチンと徴税した上で所得の再配分を実施するというのがもっとも好ましいのですが、現実にできていないのであれば、ビジネスでこういった同じ効果を模索するのも一案かもしれません。例は違いますが、私が経験した範囲では、スポーツジムが典型的に高齢者から若年層への所得移転を実行しているように見えました。高齢者が会費という形でおカネを払ってスポーツに励む一方で、インストラクターやスタッフの年齢は若くて、量的に十分かどうかはともかく、一定の所得の移転ないし再配分されている気がします。本書では、ガストロノミーだけでなくアートも含めて、ラグジュアリー・ツーリズムの成功例をいくつも上げています。私の従来からの指摘で、こういった成功例の裏側にはその数倍以上の失敗例があるのだと思いますが、行政によるフォーマルな所得再配分に加えて、富裕層・超富裕層からの所得の移転を受けるよう、ビジネス面からの何らかの方策も合わせて考える価値があると思います。
次に、ミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』(集英社文庫)です。著者は、地質学者で、元ルーアン大学教授、2006年に作家デビューしています。私は、たぶん、『黒い睡蓮』と『彼女のいない飛行機』を読んでいるのではないかと思いますが、すっかり忘れ去っていたりします。本書は、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』をモチーフにしたミステリです。舞台は画家ポール・ゴーギャンやシャンソン歌手ジャック・ブレルが愛した南太平洋仏領ポリネシアのヒバオア島です。日本ではその近くのタヒチ島やパペーテの方が有名かもしれません。実は、私もタヒチ島には行ったことがあります。また、アルファベットの表記では Hiva Oa ですので、「ヒバ・オア島」とカタカナ表記した方が一般には通用しやすいかもしれません。それはともかく、謎めいた石像ティキたちが見守るこのヒバオア島在住のカリスマ的な人気ベストセラー作家であるピエール=イヴ・フランソワ(PYF)が、彼の熱烈なファンでもある作家志望の女性5人とその同行者を招いて、「創作アトリエ」なる7日間のセミナーを開催します。彼女たちの宿泊すバンガローがタイトルの「恐るべき太陽」荘、ということになります。しかし、ここからが『そして誰もいなくなった』的なストーリーが始まります。招かれたのは、野心的な作家志望の女性、ベルギーの人気ブロガーの老婦人、パリ警察の主任警部には夫の憲兵隊長が同行し、黒真珠養殖業者の夫人にも娘が同行し、謎の多い寡黙な美女、ということになります。加えて、バンガローのオーナーと娘やパリの出版社の編集者なども重要な登場人物を構成します。ストーリーの冒頭でまずホストのPYFが疾走した上に、招かれた女性が次々に殺されます。タヒチからの警察は到着が期待されながら、まったく現れません。その意味で、「恐るべき太陽」荘ではなく、ヒバオア島が全体としてクローズド・サークルを形成しています。ストーリーの進行とともに、パリでの昔の殺人事件など、登場人物の黒歴史、というか、いろんな秘密が明かされ、人間関係の交錯した、また、決してきれいごとで済まない部分が明らかにされていきます。ただ、徐々に真実が明らかにされるタイプのミステリではなく、最後の最後に大きなどんでん返しの大仕掛けがあります。中には、冒頭から再読するミステリファンもいそうな気がします。明示されるとはいえ、語り手が時折変わる点は、私にはマイナス点と映りますが、決して『そして誰もいなくなった』のいわゆる二番煎じではありませんし、本書を高く評価するミステリファンもいっぱいいそうです。私もそうです。ひょっとしたら、ミステリの中では今年一番の収穫かもしれません。
2023年08月19日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書2冊をはじめ計8冊
まず、大塚節雄『インフレ・ニッポン』(日本経済新聞出版)は、日経新聞ジャーナリストが我が国と世界のインフレについて考えていますが、小売店や消費者にはまったく取材せず、日銀当局の「大本営発表」みたいな公式見解をそのまま右から左に流すという形で、ジャーナリズムとして日経新聞のリテラシーの低さが垣間見える仕上がりになっています。メアリー L. グレイ & シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』(晶文社)では、アマゾンのMタークというプラットフォームに象徴されるようなweb上で仕事を請け負い、ソフトやアルゴリズムを補完する仕事に関して、人的資本や雇用の観点から強い警鐘を鳴らしています。綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』(河出書房新社)は、作者の芥川賞受賞作家の独特の軽妙でコミカルな語り口を堪能できる短編が収録されています。宮永健太郎『持続可能な発展の話』(岩波新書)では、SDGsなどに集大成されているサステイナビリティの議論を幅広く解説していますが、残念ながら、解決策や政策対応が抜け落ちていて物足りない印象です。有村俊秀・日引聡『入門 環境経済学 新版』(中公新書)は、20年余り前の旧版を改定した新版であり、環境経済学の理論を第1部で解説した後、第2部では日本の環境問題の実践編を展開しています。山形辰史『入門 開発経済学』(中公新書)では、マクロの開発経済学を基礎にし、資本蓄積や技術の応用、そして、国際開発援助まで幅広く論じています。一穂ミチほか『二周目の恋』(文春文庫)では、7人の豪華な執筆陣が短編、タイトル通りに成熟した「二週目の恋」の短編を収録したアンソロジーです。最後に、織守きょうやほか『ほろよい読書』(双葉文庫)は5人の作家によるお酒にまつわる短編を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に入って先週までに13冊、そして、今週ポストする8冊を合わせて113冊となります。
なお、新刊本ではないので、この読書感想文のブログには取り上げていませんが、奥田英朗『コメンテーター』の図書館予約待ちの間に、その前の精神科医・伊良部シリーズ3冊、すなわち、『イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『町長選挙』も読んでいたりします。新刊書読書とともにFacebookあたりでシェアしたいと予定しています。
まず、大塚節雄『インフレ・ニッポン』(日本経済新聞出版)です。著者は、日経新聞のジャーナリストです。冒頭のプロローグで、日本の異常性について指摘があり、物価上昇を異常だと考えること自体が世界的には異常である、と喝破しています。まさにその通りだと思います。そして、ウクライナ危機の少し前2021年秋以降の物価上昇について、輸入インフレから企業間インフレ、そして消費者インフレに波及していったとし、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)による需給両面からのインフレ圧力、交易条件悪化による所得の海外流出、などなど、かなり的確な指摘だと思います。しかし、そう思ったのはこのあたりまでであり、ジャーナリストらしく、メディアで大きく取り上げられたトピックに引きずられている印象もあります。典型的には、当時の黒田総裁の「インフレ許容度」発言で、強制貯蓄の積上がりを根拠にした発言を、メディアといっしょになって議論するのはいかがなものかという気はします。また、タイトルと違って、物価やインフレに直接に向き合うのではなく、ニュースソースである金融政策当局に焦点を当てるのも、やや違和感を覚えます。マクロ経済学的には金融政策はとても重要なのですが、メディアのジャーナリストとしては金融政策当局に取材するだけではなく、企業行動や消費者マインドなどのマイクロな視点ももう少し欲しかった気がします。その意味で、本書は強烈に物足りません。金融政策当局の動向に着目するとしても、日銀をはじめとする多くの中央銀行と違って、米国の連邦準備制度理事会(FED)は物価安定とともに最大雇用の達成も、いわゆるデュアルマンデートにしているわけですので、そのあたりはもう少していねいに書き分けて欲しかった気がします。いずれにせよ、民間部門、というか、繰り返しになりますが、価格戦略をはじめとする企業活動、小売店の価格対応、購買や支出の基となる所得や消費行動や消費者マインド、こういったジャーナリストが本来得意とすべき個別の分野で地道な取材をした上での分析ではありません。私はもともと日経新聞の報道姿勢については懐疑的なのですが、財政政策については財務省に取材して、また、物価については金融政策当局に取材して、それぞれの政策当局の公式見解を鵜呑みにして政府や日銀の広報活動を補完するようなジャーナリズム成り下がっているような気がします。やや悪い意味で「大本営発表」に近いと感じてしまいました。国民や企業、メーカーや小売店や消費者に取材したりはせず、日銀での取材結果をそのまま取りまとめている印象で、たぶん、その方がジャーナリストとしてはラクなんでしょうし、そういった公式発表の寄集めが「勉強になる」と感じる読者がいるのは判らないでもありません。そこは理解しますが、それでも、ジャーナリズムとしては独自のニュース・ソースを持って、それらに当たる取材をすべきであると私は考えています。例えば、東大の渡辺教授がプライシングパワーと呼んでいる価格形成力、というか、コストプッシュ・インフレの価格転嫁力を企業が持っているのかどうか、企業に取材して真実に迫るような方向性はジャーナリズムとして持っていてほしい気がします。その意味で、本書は記者クラブに流される政策当局の公式発表を寄せ集めたり、政策当局、特に、政権幹部のウラ情報を有り難がったりするばかりで、国民や中小零細企業に目を向けて取材しているのかどうか疑わしい日本のジャーナリズムのリテラシーの低さが詰まっていて、それほどオススメ出来ないと感じてしまいました。
次に、メアリー L. グレイ & シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク』(晶文社)です。著者は、2人ともマイクロソフトリサーチの研究者であり、専門分野は経済学ではなく人類学、メディア学、社会学などだそうです。英語の原題は Ghost Work であり、2019年の出版です。まず、タイトルのゴースト・ワークなのですが、典型的には、アマゾンのメカニカル・ターク(Mターク)というWebインターフェースやAPIを通じて、色々な仕事を世界中の人に依頼することができるクラウドソーシングサービスで仕事を請け負う人達のこなすお仕事です。Mターク以外にもこういったプラットフォームがあるのかもしれません。本書でも指摘されていますが、現時点の人工知能(AI)やアルゴリズムでは、すべてをソフトとマシンで仕上げることは出来ず、アンケート、美しさの評価、ニュースの分類などを人力でやっているわけで、こういったお仕事です。リクエスターがMタークに仕事内容と報酬や納期などの条件をアップロードし、そのゴースト・ワークを請け負うのがワーカー、というわけです。リクエスターは主要にはGAFAなどのIT大手らしいです。たぶん、それなりにリクエスターとして発注している側のマイクロソフトの研究所の研究者が、こういった問題点を研究できるのですから、私はやや驚いています。60歳の定年まで国家公務員をしていた私には馴染みのない世界なのですが、馴染みなくても、容易に問題点は理解できます。まず、雇用関係ではありませんから、日本語のニュアンスでいえば、独立請負契約ということになり、当然ながら、最低賃金や労働災害などは適用されず、何らの雇用者保護も受けられませんし、必要なPCやネット接続などもワーカー側の負担となります。いろんなゴースト・ワークの実態を紹介し、問題点を指摘するとともに、18世紀産業革命からの雇用と労働の大雑把な歴史についても概観していたりします。たぶん、不勉強な私だけでなく、こういった働き方については知らない人が少なくないでしょうから、米国とインドだけながら、事実関係を情報として集めただけでもそれなりの価値があると私は受け止めています。最後に解決策を10点、社会的変化を起こすための技術的解決策5策と技術的な専門知識を必要とする社会的解決策5策です。これらの解決策については、私には評価が難しいのですが、AIやアルゴリズムが広く活用されるに従って、こういった働き方も増えていくことは明らかだと思います。私は雇用をもっとも重視するエコノミストであり、現在の日本経済の停滞は派遣やパートをはじめとする非正規雇用の拡大を深く関係していると考えていて、たとえ「規制強化」になるとしても、非正規雇用の拡大を食い止めたいと考えています。おそらく、現在の政権や経済界は私と真逆の方向性なのだろうということは認識しています。それだけに、近い将来の日本の問題として考えておくべき問題かもしれません。
次に、綿矢りさ『嫌いなら呼ぶなよ』(河出書房新社)です。著者は、芥川賞作家です。本書には、関連のない、というか、独立した4話の短編を収録しています。順に、「眼帯のミニーマウス」、「神田タ」、表題作の「嫌いなら呼ぶなよ」、唯一の書下ろし「老は害で若も輩」となります。この作者は私は不勉強にしてそれほど読んでいないのですが、なかなかに軽妙な文章のテンポとクセのある登場人物が魅力だと考えています。本書では、そのどちらも楽しめます。「眼帯のミニーマウス」では、学生のころのファッション趣味から、社会人になってちょっとした美容整形を繰り返すようになり、その事実を職場でカミングアウトし、仲間内で話題になる、というストーリーです。なお、作者のデビュー20周年記念作の『オーラの発表会』の主人公の1人だった海松子が端役で登場します。「神田タ」では、飲食店のアルバイト女性から素人ユーチューバー神田への応援コメントが過熱していくさまがコミカルに描かれています。表題作の「嫌いなら呼ぶなよ」では、不倫を突き止められて、結婚前からの親しい友人宅の落成パーティーで吊るし上げられる男性を主人公に、口から出る謝罪の言葉と心の声である本音の対比が、どちらもありえないくらいに自然だったりします。最後の唯一の書下ろし「老は害で若も輩」では、女性作家にインタビューした女性ライターの原稿が女性作家に大きく手直しされ、男性編集者が間に板挟みになって苦しみつつ、でも、三者三様にバトルを展開します。なお、「老」を代表する女性作家の名字は作者と同じ綿矢だったりします。いずれの短編も、ある意味で設定はとても怖い毒なのですが、決してその怖さや毒を前面に打ち出すのではなく、コミカルで軽妙なテンポで文章が進み、さすがに芥川賞作家の筆力を感じさせます。私は『オーラの発表会』を読んでからこの作品を読むようにと、その昔の文学少女にオススメされたのですが、『オーラの発表会』を読まずにこの作品を読みました。オススメに従っておけばよかったかもしれません。
次に、宮永健太郎『持続可能な発展の話』(岩波新書)です。著者は、京都産業大学の研究者であり、専門は環境ガバナンス論だそうです。ということで、本書は環境に限定せずに、いわゆるSDGsに集約されているサステイナビリティに関する概説書です。ですので、地球環境問題、あるいは、環境の一部と考えられがちな廃棄物問題、生物多様性、水資源問題などを幅広く扱っています。当然ながら、現在のサステイナビリティ問題の元凶は人新世=Anthropocene であり、人間活動です。まあ、広い意味での経済活動といっていいと思います。本書では、私の見方に比較的近くて、環境サービスや生態系サービスが提供されていて、価格が付けられていないことから市場の失敗が生じている、というのが基礎にあります。ただし、私は Steffen 教授の Planetary boundaries と同じで、何らかの限界を越えると不可逆的な変化をもたらす、と考えていますが、そのあたりは本書では不明です。SDGsについては、その前のMDGsがほぼほぼ政府に責任を限定していた一方で、責任論をひとまず棚上げして、先進国だけでなく新興国や途上国も含めた「全員参加型」の目標設定になっていますが、それだけに、というか、逆に、参加意識の希薄なグループも少なくない、というのが私の印象です。でも、2030年に向かってもうSDGsの中間年を過ぎて、本書では、まだ、解決編が示されていないのが最大の弱点です。問題の指摘はいっぱいあって、いかにも岩波新書らしい気がしますし、研究者でなくてもジャーナリストでもこの程度の指摘はできそうな気がしますので、問題はSDGsの最終目標年である2030年に向けて、どういった行動が必要なのか、政府や企業の活動はどうあるべきか、という点はほのかに明らかになっていますが、そのためにどのような対策や解決策があるのか、そして、それらの評価やいかに、といった重要なポイントが本書ではスッポリと抜け落ちていて、外宇宙から地球を見た宇宙人の評論家のような視点しか提供されていません。その意味で、とても物足りないと感じる読者が多そうな気がします。
次に、有村俊秀・日引聡『入門 環境経済学 新版』(中公新書)です。著者は、いずれも大学の研究者です。本書は「新版」とあるように、20年余り前に出版されたものを改版しています。ということで、本書は2部構成であり、第1部は理論的な環境経済学について解説し、第2部で日本の環境問題についての実例を引いています。本書では、環境経済学はやや狭く外部性で解説しようと試みています。私は大学の講義で環境経済学とは自然環境から得られる環境サービスに関する経済学であり、いくつかの特徴として、外部性とともに不可逆性についても付け加えています。すなわち、経済学においても、いくつか不可逆的な動きは観察されるのですが、自然環境から得られる環境サービスについては不可逆性があると考えています。例えば、気候変動が進んで極地の氷が溶けるともう元通りにすることが出来ない、といった点です。ただ、本書第1部の経済理論については、不可逆性を持ち出すことなく外部経済だけで極めて明快に解説されています。この方がいいのかもしれないとついつい考えてしまいました。私の専門はマクロ経済学ですので、マイクロな経済学から環境を説明しようとすれば、本書のようなやり方がいいそかもしれません。第2部では、廃棄物問題、大気汚染、気候変動について現実の問題とその解決方法について解説しています。ただ、経済学の弱点なのかもしれませんし、むしろ長所かもしれませんが、ゴミなどの廃棄物も含めて、汚染物質とかほかの何らかの排出をゼロにしようとすれば、経済活動をストップさせて生産をゼロにしなければならないわけで、結局、本書でも重視されている費用便益分析で最適点を探る、ということになりますが、実はこれはそう簡単ではなく、経済学のような不確定な学問に基礎を置くと、それぞれの主張者に都合のいい結果が示されかねません。他方で、政府に委任しても政府の失敗も無視できません。あまりにこういった点を強調すると、不可知論に陥ってしまいますが、環境をどの程度重視し、それとのトレード・オフの関係にある経済活動をどの程度重視するか、これにかかってきますし、場合によっては党派性もむき出しになります。理論的には可能でも、実践がどこまでできるかは疑問、というのが、環境経済学かもしれません。
次に、山形辰史『入門 開発経済学』(中公新書)です。著者は、私の所属する国際開発学会の会長も経験したエコノミストであり、当然ながら、開発経済学の専門家です。本書で扱っている開発経済学はあえて分類すればマクロの開発経済学であり、大塚啓二郎教授の最近の出版『「革新と発展」の開発経済学』が個別の政策や国際協力案件の評価といったマイクロな開発経済学を主たる眼目にしているのとかなり趣が違っています。ですから、本書で何度か強調されているのが公平や平等の観点であり、「理不尽な悲惨さ」を低減させ回避することを本書では主たる眼目のひとつにしているようです。ですので、私が一昨年の夏休みに書き上げた紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model: How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" と同じように、二重経済における資本蓄積や成長からお話が始まっています。ただ、私も何度か強調していますが、この21世紀になっても、というか、戦後80年近くを経過して、途上国から先進国レベルの所得を達成した国はそれほど多くありません。おそらく、産業革命以降で欧州と北米を除いて、いわゆる先進国レベルの所得を実現したのは、日本のほかはシンガポールと韓国くらいなのだろうと思います。その意味で、大塚教授の本と同じ用に、本書でもイノベーションの重要性が強調されていますが、私はそこまで大上段に振りかぶらなくても、先進国へのキャッチアップを主眼にした開発が可能なのではないか、という気がしています。もちろん、日本の場合は、当時の欧米から技術を導入し、それを洗練された、というか、日本流に変化・変形させて対応する、という方法を取ったわけですが、途上国ではまだまだ応用可能なキャッチアップがあるのではないかと考えています。最後に、私はインドネシアの首都ジャカルタでのお仕事だった国際協力の虚しさを感じています。本書では最終第4章で取り上げています。日本ではJICAが受け持っている国際援助や国際協力なのですが、ホントにこれらを活用して先進国並みの所得を実現できるのでしょうか。本書では、「外交の視点」という名の国益重視を批判していますが、批判、ないし、反省すべきは、それだけではない気がするのは私だけでしょうか。
次に、一穂ミチほか『二周目の恋』(文春文庫)です。7人の作家によるアンソロジーです。収録作品は順に、島本理生「最悪よりは平凡」、綿谷りさ「深夜のスパチュラ」、波木銅「フェイクファー」、一穂ミチ「カーマンライン」、遠田潤子「道具屋筋の旅立ち」、桜木志乃「無事に、行きなさい」、窪美澄「海鳴り遠くに」となります。「最悪よりは平凡」は、魔美という特別な名を持つ平凡な容姿の女性を主人公に、家庭のトラブルと恋愛遍歴を描き出しています。「深夜のスパチュラ」は、合コンで気の合った男性に対してバレンタインの手作りチョコを渡すべく悪戦苦闘する女性のコミカルな騒動を題材にしています。タイトルは料理とかお菓子作りに使うヘラのことのようです。「フェイクファー」では、大学の手芸サークルに入ったものの、実は着ぐるみの愛好家が集まっていて、その魅力に引かれた男性の数年後の物語です。「カーマンライン」では、19歳の女子大生が日米で分かれて育った双子の男性が来日して再会します。タイトルのカーマンラインとは地球と宇宙を分けるラインだそうで、私は線=ラインじゃなくて平面=プレーンじゃないの、と思ってしまいました。「道具屋筋の旅立ち」では、年下でありながらファッションや化粧まで口出しする横暴で強引な恋人に、かつての太っていたころの自分を思い出す女性の物語です。「無事に、行きなさい」では、アイヌの血を引くインテリア・デザイナーとレストランのシェフの恋物語です。最後の「海鳴り遠くに」では、夫を早くに亡くした女性が別荘に隠棲して自分の性に目覚める、というストーリーです。本書のタイトルの「二周目」からも理解できるように、初恋の物語ではなく、やや年齢を重ねた雰囲気があり、成熟したラブストーリーを集めています。しかも、作者を見ただけでも理解できるように、豪華執筆陣です。決して女性向けとか、もちろん、女性限定というわけではなく、私のような年齢のいった男も含めて楽しめる短編集だと思います。
最後に、織守きょうやほか『ほろよい読書』(双葉文庫)です。5人の作家によるアンソロジーです。収録作品は順に、織守きょうや「ショコラと秘密は彼女に香る」、坂井希久子「初恋ソーダ」、額賀澪「醸造学科の宇一くん」、原田ひ香「定食屋「雑」」、柚木麻子「barきりんぐみ」です。表題から理解できるように、何らかのお酒にまつわる短編を収録しています。一応、双葉社の発行する月刊誌『小説推理』に掲載されていた作品を集めているのですが、まったくミステリではありません。念のため。ということで、まず、「ショコラと秘密は彼女に香る」では、チョコレートボンボンが取り上げられます。海外勤務もしたカッコいい独身の叔母の登和子を姪のひなきが語ります。叔母が姪の自宅である実家を訪れる際に定番のお土産で持ってきてくれたのがチョコレートボンボンです。その思い出を追って、主人公ひなきは神戸に旅して叔母の過去の友人さくらを訪ねます。「初恋ソーダ」では、果実酒が取り上げられます。主人公の果歩は自分でも果実酒を漬けるとともに、果実酒のバーにも通います。そこで同じ常連の中年バツイチ男が果歩のアパートに寄って来たりします。「醸造学科の宇一くん」では日本酒です。同じ一族の親戚ながら、仲のよくないご両家の酒造一家の娘と息子が同じ大学の醸造学科に相次いで入学し、しかも同じ学生寮の男子寮と女子寮で生活するという青春物語です。「定食屋「雑」」では、たぶん、ビールなのだと思いますが、酒類は特定せずに食事と飲酒をテーマにします。新婚ながら、亭主が食事時に飲酒するのが我慢できない女性沙也加が主人公です。結局、沙也加の主人公は気詰まりで家を出ていってしまうのですが、主人公は亭主が通っていた定食屋でアルバイトを始め、いろいろな発見をしたりします。最後の「barきりんぐみ」では、名門カクテルバーkilling meのバーテンダー有野は、コロナ禍で店が立ち行かなくなった時、大学の同級生である大塚からオンライン飲み会でシェーカーを振る腕前を披露してくれと、かなり破格のギャラで誘われます。しかし、そこは、コロナ陽性の疑いある保育士を出して一時的に閉鎖されている保育園きりん組の保護者がオンラインで集まってストレス発散を図っている場でした。そこで、主人公の有野はありあわせの材料でできるカクテル、モクテル、お料理を紹介する。というストーリーです。私のような酒好きには、とっても身にしみるような短編集です。
2023年08月12日 (土) 09:00:00
今週の読書はケインズ卿の伝記やミステリなど計7冊
まず、ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946』上下(日本経済新聞出版)は、マクロ経済学の偉大なる創始者のケインズ卿の伝記といえます。リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』と『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』(ハヤカワ・ミステリ)は、英国の高級高齢者施設による殺人事件などの謎解きを取り上げたミステリです。ゴジキ『戦略で読む高校野球』(集英社新書)は、たけなわとなった高校野球の戦略について2000年以降の甲子園覇者の高校を分析しています。青崎有吾『11文字の檻』(創元推理文庫)は、表題作のミステリをはじめとする短編集です。最後に、アリス・フィーニー『彼は彼女の顔が見えない』(創元推理文庫)はスコットランドの廃チャペルを舞台にして読者をミスリードし大きなどんでん返しを作者が用意しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊の後、8月に入って先週6冊、そして、今週7冊を合わせると計105冊となります。
なお、新刊本ではないので、この読書感想文のブログには取り上げていませんが、綾瀬はるか主演で映画化されて昨日封切られた長浦京『リボルバー・リリー』も読んでいたりします。新刊書読書とともにFacebookあたりでシェアしたいと考えています。
まず、ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946』上下(日本経済新聞出版)です。著者は、英国の研究者であり、経済学というよりは歴史の専門家です。英語の原題は John Maynard Keynes 1883-1946: Economist, Philosopher, Statesman であり、2007年の出版です。いくつかのバージョンがありますが、マクロ経済学を切り開いたケインズ卿の伝記です。家系をたどり、死後の経済学の広がりまで広範に取り上げています。1年近く前の昨年2022年11月末の読書感想文で、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)を取り上げた際に、第2次世界対戦開戦前の段階で「1人IMF」としてのケインズ卿の活躍を実感しましたが、本書では国際舞台のみならず、1929年の米国ウォール街の崩壊から始まった世界不況において、英国内の緊縮派の大蔵省やイングランド銀行と対決する「1人リフレ派」の実践行動もスポットが当てられています。もっとも、国際舞台はまだしも、英国内では経済学に限定されないブルームズベリー・グループ、あるいは、経済学に限定しても、著者がケインズ・サーカスと呼ぶグループの支援はあったように感じますが、まあ、ケインズ卿のご活躍が本書の主たる眼目です。また、スラッファのように第1次大戦中は「敵性外国人」として収容所に入れられていたエコノミストがいることも確かです。私の関心は、もちろん、経済学、特にマクロ経済学であり、その中でも、不況期の経済博の実践です。この観点からケインズ派の特筆すべき点を著者は5点に取りまとめています。すなわち、本書下巻p.154からのパートを要約すると、1) 循環的な予算均衡、として、単年度で予算を均衡させるのではなく、不況期に債務を増やして好況期に返済すべき、2) 当時の英国は総和では需要不足ではないが、産業構造が硬直的で、産業や地域ごとに大きな需要不足が見られる場合がある、3) 幅広く公共投資の必要性を強調し、4) 需要管理のために国民所得統計の整備が必要、5) 恒久的な低金利が必要、という5点です。いわゆる長期不況=secular stagnation の下で、我が国にも当てはまる点だろうと私は受け止めています。しかし、日銀総裁の交代があって、「アンシャンレジーム復活」と称されるような金融政策の変更がなされ、財政も軍事費や少子高齢化対策のために着々と増税が模索され、日本の行く末を危惧する数少ないエコノミストに私は成り果てたのかもしれません。
次に、リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』と『木曜殺人クラブ 二度死んだ男』(ハヤカワ・ミステリ)です。著者は、英国のコメディアンなのですが、第1作の『木曜殺人クラブ』からミステリの執筆を始めています。英語の原題は The Thursday Murder Club であり、2007年の出版です。タイトルはミス・マープルを主人公にしたアガサ・クリスティーの『火曜クラブ』を踏まえたものである、という点はミステリ・ファンであれば、すぐに気づくことと思います。なお、本シリーズ第3作の『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』も同じ出版社から邦訳が出版されています。ということで、このシリーズが英国の高級高齢者施設クーパーズ・チェイスを舞台に、70代の高齢者が施設の中のいくつかあるサークルのひとつである木曜殺人クラブの活動により、過去の殺人事件の解決に乗り出すことから、現在進行形の身近な殺人事件や謎解きに迫る、というものです。まあ、高齢者施設のサークル活動ですので、この木曜殺人クラブに限らず、基本的にヒマ潰しの活動なのですが、実際の事件の解決や謎解きに貢献するわけです。クラブのメンバーは、主人公で第1作では過去に関して謎の多いエリザベス、元看護師のジョイス、元精神科医のイブラハム、元労働運動家のロンの4人となっています。しかし、この4人には入っていないものの、エリザベスと2人でクラブを結成した時のメンバーのペニー元刑事がいて、退職直前に警察から未解決事件のファイルを持ち出して情報提供した、ということが素地になっています。第1作では、クーパーズ・チェイスを建設した業者であり、施設の経営にも携わるトニー・カランが自宅で何者かに撲殺されるという殺人事件が起こります。そして、施設の共同経営者であるイアン・ヴェンサムが容疑者と見なされますが、このヴェンサムも殺されてしまいます。しかも、約50年前の事件も浮かび上がり、これらの謎を木曜殺人クラブのメンバーが解き明かす、ということになります。第2作の『二度死んだ男』では、主人公のエリザベスの過去が元諜報員と明かされます。そして、エリザベツのところに離婚した元夫であり、同じく諜報員でもあるダグラスが助けを求めて連絡を取ります。ダグラスは米国のマフィアから2000万ポンドもの多額のダイヤモンドを失敬した、というのです。しかしそのダグラスが殺されてしまいます。加えて、クラブのメンバーであるイブラハムが地元のストリートギャングの強盗によりスマートフォンを奪われます。この2作では、ミステリよりもマフィアとか、ストリートギャングが絡むサスペンスの色彩が強くなり、ミステリとしての謎解きもさることながら、ダイヤモンドを巡っての騒動もひとつの読ませどころとなっています。whodunnit のミステリの謎解きとしては第1作の方が評価できるような気がします。でも、この2作については、単なるミステリとしての謎解きだけでなく、登場人物の会話の間合い、高齢者のコミカルな志向や行動、といった要素も十分加味すべきですから、2作品ともかなり水準の高いエンタメ小説に仕上がっています。加えて、邦訳がよく出来ていて、たぶん、原作のコミカルなタッチをちゃんと表現できている気がします。また、いろんなところで紹介されていますが、平文は3人称で書かれているのですが、いくつかのパートではジョイスと明記して、メンバーであるジョイスの1人称、というか、日記やモノローグの形でストーリーを進めています。私自身はこういった形式はそれほど評価しませんが、視点が移動する妙を感じる読者がいるかもしれません。いずれにせよ、私は第3作も読んでみたいと思います。
次に、ゴジキ『戦略で読む高校野球』(集英社新書)です。著者は、野球著作家と紹介されていますが、私は本書が初読でした。高校野球を題材にしていて、いろんなデータも豊富に収録しています。広く知られたように、ブラッド・ピット主演で映画化もされたビリー・ビーンの『マネーボール』で野球のデータ分析であるセイバーメトリクスが、というか、その一部が紹介されていて、収益につながるプロ野球だけでなく、高校野球でもデータ分析を生かした戦略が幅広く採用されていることはいうまでもありません。しかし、本書ではデータ分析の実態を明らかにするというよりは、2000年以降の高校野球の、しかも、春夏の甲子園大会というトップレベルの高校野球で日本一になる戦略を分析しようと試みています。ただ、実際には、私は我が家で購読している朝日新聞の記事「立命館宇治を支える教諭4人の分析チーム 選手の成長率をグラフに」なんぞを見て、テレビ観戦していたりして、勤務校の系列校であり、私の出身地を代表する高校でもあって、熱烈に応援していたのですが、あえなく大敗してしまったわけですから、まあ、それほど重視すべきでもないかな、という気もします。第2章と第3章ではいくつかの典型的な強豪校が甲子園大会で勝ち進んで優勝するまでの軌跡を後付けています。ただ、戦略とまでいえるかどうか、かつては三沢高校の太田幸司投手が典型で、1人のエースが大会を通じて投げ抜く、あるいは、超高校級の選手が投げてはエースで、打っては4番打者で、スターに頼って勝ち抜く、という程度のレベルであった高校野球が、投手は分業体制を敷き、打者もいくつかのポジションをこなす、というふうに変化しているのも事実です。その意味で、夏の高校野球まっただ中、野球をテレビ観戦しながら楽しむにはいい1冊かもしれません。
次に、青崎有吾『11文字の檻』(創元推理文庫)です。著者は、ミステリ作家であり、本書は表題作をはじめとする短編集です。特に統一的なテーマの設定はありません。巻末に作者自身による作品ごとの解説が付されています。収録されている作品は、「加速してゆく」、「噤ヶ森の硝子屋敷」、「前髪は空を向いている」、「your name」、「飽くまで」、「クレープまでは終わらせない」、「恋澤姉妹」、最後に表題作の「11文字の檻」、ということになります。繰り返しになりますが、巻末に著者人による解説があり、特に、著者から「前髪は空を向いている」については解説を先に読んだ方がいいというオススメがあります。私はオススメにより先に解説を読んだのですが、それでも十分な理解が出来ませんでした。海浜幕張駅前の地理などについて詳しくないからかもしれません。それから、「噤ヶ森の硝子屋敷」と「飽くまで」は既読でした。前者は文芸第三出版部[編]『謎の館へようこそ 黒』(講談社)に、後者は講談社[編]『黒猫を飼い始めた』にそれぞれ収録されています。ということで、実は、恥ずかしながら、私はこの著者の著作は初読でした。というのは、前に上げた2短編だけでなく、いくつかの短編をアンソロジーで読んだ記憶はあるのですが、本として取りまとめられているのは初めてでした。ということで、8話の短編すべてを取り上げることはしませんが、かなりミステリ色の強いのが「噤ヶ森の硝子屋敷」と表題作の「11文字の檻」、ということになります。でも、さすがに冒頭に置いた「加速してゆく」もいい出来です。JR西日本の福知山線脱線事故を題材として、地方紙の報道カメラマンが、現場に隣接する駅で見かけた高校生に関する謎を解き明かします。3年B組金八先生の第6シリーズがキーワードです。続く「噤ヶ森の硝子屋敷」は、見取り図付きで密室殺人の謎解きを展開します。少し省略して、「クレープまでは終わらせない」は、ガンダムを思わせる巨大ロボットにまつわるSFなのですが、戦闘ではなく整備に関するストーリーです。「恋澤姉妹」は作者自身が百合小説と称していますが、これこそ接近戦を含む戦闘小説です。師匠を殺害された主人公が、中東を舞台に恋澤姉妹に挑みます。そして、本格ミステリとして評価が高いのが最後の表題作「11文字の檻」です。近い将来でファシスト国家となった日本を舞台にしたディストピア小説です。言論統制国家である東土で敵性思想により収監された主人公らが、当てれば釈放されるという日本語の11文字のキーワードを論理的に推理しようと挑戦します。この最後の短編だけでも読む値打があるような気がします。
次に、アリス・フィーニー『彼は彼女の顔が見えない』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家であり、2年前に同じ出版社から前作『彼と彼女の衝撃の瞬間』というミステリも出ていますが、私は未読です。ということで、私のような頭の回転が鈍い田舎者はすっかり本作には騙されました。主要な登場人物はたった3人であり、40歳を少し過ぎた中年夫婦であるアダムとアメリアと、それに、ロビンという名の同じ年ごろの女性です。アダムは脚本家であり、アメリアは動物愛護団体で働いています。取りあえず、ロビンは謎の人物です。タイトルになっているのは、相貌失認という病気をアダムが持っていて、顔が見分けられない、という病気だそうです。もちろん、これがストーリー展開のカギになります。この相貌失認も一因で、夫婦関係がうまく行かない夫婦がコンサルタントに勧められて、2020年2月の真冬に2人で旅行する、というのが主たるストーリーで、その旅行先というのがスコットランドの雪の積もる廃チャペルを改造したところ、ということになります。着いた途端に、窓の外を人の顔が通り過ぎ、それが近くに住むロビンということになります。チャペルの方では停電や断水したり、また、夫婦が乗って来た自動車のタイヤがすべてパンクさせられていたり、と、さまざまな不気味な出来事が起こります。その中で、主としてアダムの過去について、ただし、アラサーで結婚して以降の人生遍歴、作品の映像化をまったく許可しない人気作家から指名を受けて、その作品の脚本を執筆し、当然ながら、注目を集めて脚本家として充実した活動に入る、という点が明らかにされます。そして、繰り返しになりますが、私がすっかり騙された点がp.318から明らかにされます。そこは読んでのお楽しみ、ということになります。殺人事件が起こって、その謎、すなわち、whodunnit 誰が、あるいは、whydunnit どうして、あるいは、howdunnit どのように、といった謎を解き明かすタイプのミステリではありませんが、読者をミスリードし、隠されていた事実を明らかにするどんでん返しの作品です。
2023年08月05日 (土) 09:00:00
今週の読書は大御所による経済書をはじめミステリも含めて計6冊
まず、大塚啓二郎『「革新と発展」の開発経済学』(東洋経済)は、開発経済学の第1人者がご自身の自慢話も交えつつ、途上国の経済発展における農業と工業での革新と集積の重要性を解き明かしています。平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)は、芥川賞作家が我が国の作家として川端康成などとともにノーベル賞候補に擬せられていた三島由紀夫の文学について論じています。近藤史恵『ホテル・カイザリン』(光文社)は、既発表の短編8話を収録しています。各作品は基本的に独立で関連はありません。紫金陳『知能犯の時空トリック』(行舟文化)は、中国の人気ミステリ作家が法執行機関のトップに対する復讐劇を倒叙ミステリの作品にまとめています。田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)では、ガバナンスが崩壊し、危機にある大学の現状をルポしています。坂上泉『インビジブル』(文春文庫)では、昭和29年1954年の大阪を舞台に、政治家の秘書が刺殺される殺人事件をはじめ、3件の殺人事件の謎が解明されます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~7月に48冊の後、今週ポストする6冊を合わせると計98冊となります。
まず、大塚啓二郎『「革新と発展」の開発経済学』(東洋経済)です。著者は、開発経済学を専門とするエコノミストです。英文論文146本とか、あるいは、本文中にも研究者としてのアドバイスなんかがあったりして、いかにも年配の方の自慢話がいろいろと盛り込まれています。それはさておき、本書はかなりレベルの高い学術書に仕上がっています。はしがきには、学部4年生から大学院修士課程の院生、そして経済学の基礎がある実務家が読者として想定されている旨が記されています。まあ、私のような研究者も入っているんだろうと思いますが、一般のビジネスパーソンは含まれていない可能性があります。ということで、本書のスコープは農業と製造業(工業)であり、いわゆるペティ-クラークの法則で示されている第1次産業から第2次産業、そして第3次産業へと付加価値生産や雇用者がシフトするという第3次産業はスコープに入っていません。まあ、開発経済学ですからそうなのだろうと思います。タイトルにも示されているように、農業にせよ工業にせよ革新が重要であると強調しています。ただし、人口に膾炙したシュンペーター的な創造的破壊までのマグニチュードを持った革新でなくても、もっと普通の革新、本書では日本のQCサークル的な「カイゼン」まで含めて考慮されているように見受けられます。そして、もうひとつのキーワードが発展なのですが、これは、本書を読む限りでは発展というよりは集積のほうが適当そうな気がします。編集者の目から落ちたのか、著者の強力な思い入れ7日、私には判りかねます。集積については、平屋的集積という表現で繊維産業などで同じような生産関数を持った小規模零細企業が一定の地域に集まる集積に加えて、ピラミッド型の集積、すなわち、自動車産業のようにトップのアセンブラーに対して、部品を供給する1次サプライヤー、さらに2次サプライヤー、あるいは、3次、4次とあるのかもしれませんが、そういったピラミッド構造の集積を想定しています。そして、当然ながら、途上国の特性に応じた技術が採用されるべきであり、まずは、繊維産業やアパレルなどの平屋的な集積を分析の対象としています。さらに、「キャッチアップ」という用語は見かけませんが、当然、先進国からの直接投資(FDI)を受け入れ、あるいは、グローバル・バリュー。チェーン(GVC)に組み入れられ、何らかのスピルオーバーを受けて発展する、ということなのだろうと思います。ただ、日韓のように国内貯蓄を活用してライセンス的に技術だけを導入するケースと東南アジアや中国のように技術とともに資本も含めて受け入れる場合の違いについては、私自身は興味あるのですが、本書ではそれほど重視していないような印象でした。いずれにせよ、とてもレベルの高い議論が展開され、経済史と開発経済学のリンケージも指摘されていて、私にはとても勉強になりました。本書で強調しているように、開発経済学は戦後の新しい経済学の領域であって、まあ、財政学とか金融論とかの政府の経済政策を分析したり、あるいは、ミクロ経済学やマクロ経済学のようにいわゆる経済原論的な学問領域ではありませんので、私のような官庁エコノミストにも開かれている部分が少なくなく、したがって、私もマクロの開発経済学についてはそれなりに馴染みないこともないのですが、途上国の経済実態も含めてマイクロな開発の現場についてはよく知りません。これもとっても勉強になりました。大くの読者が対象になるわけではないのでしょうが、それでもできるだけ多くの方に読んでほしい気がします。
次に、平野啓一郎『三島由紀夫論』(新潮社)です。著者は、芥川賞作家であり、本書でも明らかにしているように、三島由紀夫に深く傾倒しているようです。700ページ近い本書は、序論、結論、あとがきを除いて4部構成であり、それぞれ三島の代表作を年代順に取り上げています。すなわち、『仮面の告白』論、『金閣寺』論、『英霊の声』論、『豊饒の海』論、となります。もちろん、これ以外にも三島作品は数多く取り上げられていて、私が読んだ印象では小説では『禁色』や『鏡子の家』、戯曲では『サド侯爵夫人』への言及が多かった気がします。実は、恥ずかしながら、私はこの4冊の中では『金閣寺』しか頭に残っていません。ほのかな記憶として『仮面の告白』は読んだ記憶があるのですが、中身は記憶からスッポリと抜け落ちています。一応、我が家には『豊饒の海』4冊の箱入りの本があって、カミさんのものなのですが、上の倅の中学校・高校の文化祭に行くたびにこの箱入り4巻セットの『豊饒の海』がバザーに毎年出されていて、4冊で500円というお値段でしたので、売れ残っている上に大した価格ではない、という印象しかありませんでした。まあ、それはともかく、大雑把に650ページ強のコンテンツで、最初の3部、すなわち、『仮面の告白』論、『金閣寺』論、『英霊の声』論がそれぞれ、これも大雑把に100ペジくらいなのですが、第4部の『豊饒の海』論は残り300ページ強あります。『豊饒の海』を構成する4巻、『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』については、ごていねいにもpp.326-27であらすじを紹介していたりします。でも、最後の第4部『豊饒の海』論については、p.350過ぎあたりから仏教のご説明があり、阿頼耶識、説一切有部の存在論、唯識や唯識における輪廻が三島論とともに展開され、私はその後は文字を追うだけで、中身が頭に入りつつも理解が及ばない、という状態になってしまいました。三島の文学をきちんと読んでいる読者でしたら、もっと理解がはかどったのだろうと思います。ただ、ひとつだけ指摘しておきたいのは、三島由紀夫は1970年に市ヶ谷で割腹自殺を遂げた右翼的な行動の人なのですが、平野啓一郎はツイッタのつぶやきを見ても理解できるように、我が京都大学の後輩らしく極めて左派リベラルな志向を示している文化人です。私も同じ方向性ですので、私自身は三島由紀夫や石原慎太郎の作品はそれほど多く読んでいません。文字や文学を用いて表現する創作活動と肉体や姿勢を持って表現する行動とは別物と考えるべきなのでしょうか、それとも、基本は同じとみなすべきなのでしょうか。私には不明です。三島の割腹自殺は1970年で、私自身はまだ小学生でした。しかし、政治的な行動に嫌悪感を覚えた記憶がありますし、その直後の1972年のあさま山荘事件の極左の行動にも同じく嫌悪と恐怖しかありませんでした。他方、石原慎太郎については私自身も投票した東京都知事としての政治的姿勢や活動は、一定の評価ができると考えていて、少なくとも、私の目から見て現在の小池都知事よりは「マシ」泣きがします。話を元に戻すと、三島についてはノーベル賞候補にも擬せられた文学者とシテの高い評価、それに対して、楯の会を組織し右翼として行動する政治的な面、本書については、後者はかなりの程度に捨象した上で前者の文学を論じていると考えてよさそうです。ただし、最後の最後に、本書の三島論は著者である平野啓一郎の「読書感想文」です。学術的な文学論と考えて読むのは適当ではないように私は受け止めています。
次に、近藤史恵『ホテル・カイザリン』(光文社)です。著者は、ミステリ作家であり、ホラー超の小説も少なくない作家です。ほとんどハズレがないですし、私は大好きです。本書は短編集であり、悪くいえばやや寄せ集めの感があります。出版社のサイトでは、「失ったものと手に入らなかったものについて」という統一的なテーマが設定されているかのような宣伝なのですが、統一したテーマは私には感じられませんでした。まあ、よく考えれば、バラエティにとんだ短編8話が収録されている、ということです。さらに、アミの会のアンソロジーなどにすでに収録されている短編もいくつかありますので、買う前には確認をオススメします。収録されているのは、「降霊会」、「金色の風」、「迷宮の松露」、「甘い生活」、「未事故物件」、「ホテル・カイザリン」、「孤独の谷」、「老いた犬のように」です。「降霊会」では、高校の文化祭でやらせの降霊会を仕組んだ女生徒なのですが、友人の大姿勢との妹が亡くなった死因について、知りたくもない事実が明らかになったりすして、ややホラーテイストに仕上がっています。「金色の風」では、短期の留学でパリに来た女性がチェコ人の女性と犬と知り合って成長するというストーリーで、モロッコに感傷旅行する女性を主人公にした「迷宮の松露」とともに、それほどミステリでもなく、ホラーでもなく、この作者にしては純文学的な作品ではなかろうかと思います。「甘い生活」は幼少のころから人も持ち物を欲しがる女性を主人公にして、甘い生活を意味するイタリア語のネーミングがなされたボールペンにまつわる少しホラーな作品です。「未事故物件」とは、アパートなどで自殺などがあった部屋を指す「事故物件」に「未」がついた物件で、空室なのに人がいる気配のする部屋にまつわる事件を未然に回避した女性の物語です。表題作の「ホテル・カイザリン」は、その名もホテル・カイザリンで出会って友情を深める女性2人なのですが、会えなくなった事情が生じた際に、そのうちの1人が取った行動がとってもホラーでした。「孤独の谷」では、まあ、SF調のホラーというか、その昔に「読者が犯人」という謳い文句のミステリがありましたが、そんなことで人は死ぬのか、というカンジで私は読んでいました。最後の「老いた犬のように」では、主人公の男性小説家を中心にして、離婚した妻と男性の作品のファンの若い女性と、ある日突然に態度が豹変する女性に対して戸惑う男性を描き出しています。2話ほど既読の短編があり、どれもまずまずの作品なのですが、最後の「老いた犬のように」はちょっと何だかなあ、というカンジで、男性を主人公にするストーリーの面白みはなかったです。ただ、逆に、というか、何というか、「金色の風」、「迷宮の松露」あるいは表題作の「ホテル・カイザリン」などで、女性を主人公にした旅を題材にする作品はとってもよかったです。特にミステリファン必読、とまでは思いませんが、この作者のファンであれば読んでもいいのではないかという気がします。
次に、紫金陳『知能犯の時空トリック』(行舟文化)です。著者は、中国のミステリ作家であり、官僚謀殺シリーズや推理の王シリーズがヒットしているそうで、映像化されている作品も多いと聞き及んでいます。でも残念ながら、日本で邦訳されている作品は多くないようです。なお、表紙画像に見えるように、本書は前者の官僚謀殺シリーズの作品です。舞台は中国の寧県で、当然、ミステリですので殺人です。寧県検察院のトップである検察長が喉をかき切られて殺害された後、寧県人民法院の裁判長が自宅マンションの入り口で落下してきた敷石の直撃を受けて死亡し、さらに、寧県公安局長が海岸から投身自殺をしたように見える死に方をします。最初の殺人事件は市公安局の刑事捜査担当の副局長である高棟が捜査に当たります。そして、高副局長は事故死に見える人民法院裁判長や自殺に見える公安局長の死についても捜査を進め、かなり真相に近いラインに到達します。すなわち、最初の検察長の殺人とその後の2人の事故死ないし自殺に見える事件は犯人が異なっていて、特に後者については、物理学や力学の知識を十分持った教師とかエンジニアとかによる計画犯罪ではないか、という見立てです。ということで、小説としては、いわゆる倒叙ミステリの形を取っています。ですから、私が読んだ感想としては、日本のミステリである貴志祐介『青の炎』とよく似た印象でした。でも、犯人の犯行に及ぶ知的レベルが極めて高く、逆に、というか、捜査側の高副局長もかなり真相に迫るのですが、最後は、犯人の自供を持ってしかホントの真相にはたどり着けません。しかも、これまた、日本のミステリになぞらえると、東野圭吾『容疑者Xの献身』に似た方法でDNAなどを偽装した上で、犯人は逃げ切ったのではないか、と示唆する終わり方になっています。犯人と捜査側の知恵比べ、心理戦という色彩もあります。その上で、シリーズ名になっている官僚謀殺に示されているように、国家公務員として定年まで長らく勤務した私には心苦しいながら、中国の治安当局トップの官僚の実に腐敗にまみれた実態も明らかにされています。同じ作者と邦訳者のコンビで、この作品の前作に『知能犯之罠』というタイトルのミステリがあると紹介されていますので、読んでみたいという気にさせられました。ただし、邦訳がそれほどこなれていません。やや読みにくい、と感じる読者もいるかも知れませんが、それを補って余りあるプロットやストーリー展開の素晴らしさを感じます。中国の小説としてはSF作品で『三体』が余りに有名ですが、ミステリもいくつかいい出来の作品が出始めているように感じます。
次に、田中圭太郎『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書)です。著者は、ジャーナリスト、ライターであり、大学の雇用崩壊やガバナンス、ハラスメントなどを執筆しているようです。本書では、タイトル通りに大学の崩壊について、国立大学、私立大学、ハラスメント、雇用崩壊、文部科学省からの天下りの5章の章立てで論じています。我が母校の京都大学が突端で吉田寮の問題や立て看板の撤去などの大学の自由と自治の観点から始めています。ただ、最終的には文科省からの天下りで大学の自治がおかしくなったり、教職員の人事が専断されたりといった観点からの結論になっているように感じて、少し違和感があります。本書の観点はすべてに重要なのですが、3点ほど抜けているように思うからです。第1は学問の自由、第2に人事と絡めた業務分担、第3に大学院の過剰な定員です。まず、学問の自由については、軍事研究の観点からチョッピリ触れられているだけで、例えば、日本学術会議の任命拒否問題などもう忘れ去られている印象です。次に、大学の観点ばかりで、学部の観点も入っていません。というのは、教員人事など、最終的には大学評議会的な全学の会議で決定されるとはいえ、学部教授会の権限である場合が少なくないわけで、私のようなヒラ教員は学部執行部が直接の「上司」筋に当たることから、大学執行部というよりは学部執行部からのハラスメントなんぞの可能性の方が高いわけです。たしかに、初等教育や中等教育の場での教師の負担が大きくなっている点は報道などで注目されていますが、大学などの高等教育機関でも同じです。ですから、サバティカルで1年間の研究休暇をチラつかせて「やりがい搾取」まがいの業務割当てがあったり、何らかの人事的な扱いを眼目に授業の担当を増やしたりといった行為はハッキリとあります。私の経験からも、授業の担当コマ数を割り当てすぎたので、むしろ、学部執行部の方から減らすべく働きかけを受けた教員もいたりします。最後に、本書で忘れられている点は大学院です。バブル経済崩壊後、1990年代半ばの就職氷河期・超氷河期あたりから、就職の先延ばしのために大学院の定員がやたらと増員されています。ですから、経済学部だけなのかもしれませんが、15年ほど前の長崎大学でも、現在の勤務校でも、日本人学生だけでは定員に達せず外国人留学生を大量に受け入れている大学があります。というか、それが経済学部に関しては大半だろうと思います。教員サイドでどこまで英語での大学院授業や論文指導をできるのか、そうでなければ、院生サイドでどこまで日本語授業を消化できるのか、不安に感じる場合すらあります。そういった点も含めて、本書だけではカバーしきれていない分野で大学は崩壊を始めているのかもしれません。
次に、坂上泉『インビジブル』(文春文庫)です。2021年に単行本が出版され、大藪春彦賞と長編および連作短編部門の日本推理作家協会賞を受賞しています。今年2023年になって文庫化されて私も読んでみました。著者は、ミステリ作家であり、社会派の骨太でサスペンスフルな作品が多い印象です。私は、沖縄返還直前のドル円交換を題材に盛り込んだ『渚の螢火』を読んだ記憶が鮮明に残っています。ということで、この作品は、まだ戦争の記憶が色濃く残っている昭和29年1954年の大阪を舞台にしています。このころは、現在の自衛隊はもちろん、警察組織もまだ完全に整備されているとはいいがたく、自治体警察と国家警察が並立されていて、大阪市の自治体警察は警視庁と呼ばれていたころです。まあ、国家警察というのは、米国の連邦捜査局=FBIになぞらえた組織だったのでしょう。そして、その大阪、シンボルの大阪城付近で代議士の秘書が頭に麻袋を被せられた刺殺体となって発見されます。中卒の若手ノンキャリアながら刑事になっている20歳そこそこの新城は初めての殺人事件捜査に意気込み、国家警察の東京帝大卒のキャリア警察官である守屋と組んで捜査することになります。その後、同じように頭に麻袋を被せられた殺人が2件連続して発生します。そして、刺殺体の凶器は軍の武器である銃剣で刺された痕であることが判明します。さらに、冒頭から満州開拓団の挿話が挟まれたり、街中で覚醒剤の使用による犯罪が発生したり、華僑を顧客とする金融機関でのマネロンまがいの金融取引があったり、なぜか、えびす信仰が注目されたりと、いろいろな伏線がばらまかれます。ついでながら、ストーリーの本筋にはあまり関係ありませんが、競艇事業を手がける大物フィクサーの笹川という人物も登場したりします。そして、大阪市警視庁の刑事部長が政治家を巻き込んだ汚職事件の匂いを嗅ぎつけて、大いにやる気を出したりした後、少しずつ少しずつ真相が明らかになります。これまた、最後の最後で名探偵が真相を一気に明らかにするタイプのミステリではなく、少しずつtラマネギの皮を剥くように真相が明らかになっていくタイプの、私の好きなミステリです。ホームズやポアロなどのようなたった1人の名探偵はこの作品には存在しません。ミステリとしての謎解きだけでなく、当時の経済社会情勢もふんだんに盛り込まれて、大いに雰囲気を盛り上げます。政治家の汚職だけでなく、太田愛『天上の葦』を思わせるような戦争に関する壮大な社会的テーマを底流に秘めています。
2023年07月29日 (土) 09:00:00
今週の読書は歴史から見た本格的な経済書やミステリをはじめとして計6冊
まず、バリー・アイケングリーン & アスマー・エル=ガナイニー & ルイ・エステベス & クリス・ジェイムズ・ミッチェナー『国家の債務を擁護する』(日本経済新聞出版)は、歴史的な観点から国家の債務の有用性について、戦費の調達やインフラ整備、あるいは、福祉国家の構築などの観点から論じています。なお、監訳者は東京大学経済学部で経済史を担当する岡崎哲二教授です。三上真寛『景気把握のためのビジネス・エコノミクス』(学文社)は、初学者ないし一般ビジネスパーソン向けに日本経済の景気動向の把握に関する実務的な情報を提供してくれます。方丈貴恵『アミュレット・ホテル』(光文社)は、我が母校の京大のミス研出身のミステリ作家の作品であり、犯罪者ご用達のホテルで生じる殺人事件の謎解きをしています。伏尾美紀『数学の女王』(講談社)は、第67回江戸川乱歩賞を受賞してデビューしたミステリ作家の受賞後第1作で、札幌の新設大学における爆破事件の謎解きなのですが、ハッキリいって期待外れの駄作でした。稲田和浩『落語に学ぶ老いのヒント』(平凡社新書)では、必ずしも落語からの出典に限らず、幅広い古典芸能から高齢気に入る生活上のヒントなどを解き明かします。最後に、エリカ・ルース・ノイバウアー『メナハウス・ホテルの殺人』(創元推理文庫)は、アガサ賞最優秀デビュー長編賞受賞のミステリで、エジプトの高級ホテルにおける殺人事件の謎解きをします。6冊の新刊書読書のうち、3冊がミステリであり、夏休みに向けてミステリの読書が増えそうな予感がしています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6月に19冊、7月中に今日の分まで含めて29冊となり、合計92冊となります。今年は年間200冊には届きそうもありません。
まず、バリー・アイケングリーン & アスマー・エル=ガナイニー & ルイ・エステベス & クリス・ジェイムズ・ミッチェナー『国家の債務を擁護する』(日本経済新聞出版)です。著者は、メディアなどでも人気の歴史研究者と国際通貨基金(IMF)の現役及びOG/OGの研究者です。監訳者は東京大学経済学部で経済史を担当している岡崎哲二教授です。ということで、ほぼ1か月前の6月24日の読書感想文で取り上げたオリヴィエ・ブランシャール『21世紀の財政政策』とおなじように、政府債務について経済厚生などのポジティブな面を歴史的観点から後付けています。すなわち、中世のハプスブルグ家の没落から始まったオランダや英国の勃興とともに、その近世、いわゆるアーリー・モダンの時期の戦費調達に国債発行や借入れの果たした役割から始まって、産業革命前後からのインフラ、特に鉄道の整備に政府債務や借入れが資金調達に用いられ、また、20世紀前半は再び戦費調達の必要が生じた後、第2次世界大戦後の福祉国家の構築にも国家債務が役立った、と歴史を後付けています。一般に、日本ではメディアのナラティブで政府の債務は好ましくないものとされ、国債残高が積み上がるとデフォルトの可能性が示唆され、果ては、ハイパー・インフレ、資本の国外逃避(キャピタル・フライト)、極端な円安の進行などなど、とても否定的な視点が提供されています。しかし、先週取り上げた森永卓郎『ザイム真理教』もそうですし、もちろん、ブランシャール『21世紀の財政政策』も同じですが、政府債務は十分有用性があり、決していたずらに忌避する必要はない、という考えが浸透しつつあります。私も基本的には同じであり、検図経済学の基本にある需要不足の場合は政府支出でGDPギャップを埋める、というのは合理的な経済学的結論だと受け止めています。本書でも、第7章補遺で経済学におけるドーマー条件と同じような、というか、ドーマー条件に外貨建て国際を評価する際の為替調整などを含む調整項をつけて、3条件で債務のサステイナビリティを分析しています。すなわち、ドーマー条件と同じ基礎的財政収支(プライマリー・バランス)、及び、利子率と成長率の差、そして、本書独自の調整項です。日本では、7月27日に公表された内閣府による「中長期の経済財政に関する試算」でも、基礎的財政収支の黒字化を政府の財政運営の目標のひとつとし、これに偏重した政策が実行されています。本書では違う視点を提供しており、例えば、1990年代初頭のバブル崩壊後の債務の積み上がりについては、財政政策への過度の依存ではなく、経済が回復の兆しを見せるたびに政府は緊縮財政に走ったため、成長が低迷して歳入が落ち込んで、債務残高のGDP比が上昇した、との分析を示しています。今では、この理解がかなり多くのエコノミストに浸透していると私は考えています。加えて、国債発行や債務残高の積み上がりに関して、現代貨幣理論(MMT)を持ち出して、主権国家として通貨発行権を持つ中央銀行があり、変動相場制を採用している国では政府債務は無条件にサステイナブルである、という考えも示されていますが、私はこのような異端の経済学(heterodox economics)を持ち出さなくても、現在の主流派経済学の枠内で、十分に国債発行や政府債務の有用性を指摘できる理論的な枠組みは整っていると考えています。いずれにせよ、国債発行や債務のパイルアップに関する間違った志向を正すべきタイミングに達しているのではないでしょうか。
次に、三上真寛『景気把握のためのビジネス・エコノミクス』(学文社)です。著者は、明治大学の研究者です。所属は経営学部とのことですが、本書ではタイトル通りにビジネス・パーソンや大学の学部性向けの入門編の経済学を解説していると考えてよさそうです。2部構成となっていて、前半では日本における景気動向の現状把握など、後半で経済政策に関して論じています。私は大学の授業で、日本経済における企業の役割を考える際に、極めて大雑把ながら、供給サイドあるいはミクロ経済学的にはイノベーションの実現などの能動的な役割が期待されている一方で、需要サイドあるいはマクロ経済学的には景気動向に売上げが左右されルド度合いの強い受け身的な存在、と教えています。本書では前者の供給サイドやミクロ経済学ではなく、後者のパッシブな需要サイドやマクロ経済学に焦点が当てられていると考えています。その意味で、基礎的なマクロ経済学を学んだ経済学部生やビジネスの初歩について理解できているビジネス・パーソンなどには、なかなか判りやすくて、さらに、実用的な良書だと思います。さすがに、日本経済にも大きな影響を及ぼす米国や欧州などの海外経済動向には目が向いていませんが、初歩的なマクロ経済学についてもていねいに解説されている上に、政府や日銀が公表するマクロ経済統計についても多くの紙幅が割かれており、新聞などのメディアでは不十分な理解しか得られない点も十分に考慮されている印象です。私は大学で「日本経済論」を教えていることから、こういった参考文献的な書籍も目を通しておきたい方なもので、本書などにも興味があります。本書については、大学の授業における教科書としてはやや物足りないかもしれませんが、学生や若い世代のビジネス・パーソンが独学する上では有益な教材と受け止めています。最後の最後に、とっても好ましい良書であるという前提で、ひとつだけ難点を指摘すれば、第5章冒頭の雇用量の決定要因いついては、あまりにもマイクロ経済学的な説明に終止しています。家計サイドにおける収入を得る労働と効用を得られるレジャーの間の代替関係で家計からの労働供給を説明するのは古典派経済学からの伝統であり、それはそれでいいのですが、それだけではケインズ経済学的な非自発的失業が抜け落ちることになります。マクロ経済学の視点からの失業は同じ章の少し後に出て来ますが、少し整合性にかける説明であり、本書で独習するとすれば混乱を来す可能性がある点は忘れるべきではないと感じました。
次に、方丈貴恵『アミュレット・ホテル』(光文社)です。著者は、京都大学ミス研ご出身のミステリ作家であり、その意味で、かなり年齢は離れていますが、綾辻行人や法月綸太郎や麻耶雄嵩などの後輩ということになります。京都大学出身という点では私の後輩でもあります。ですので、私はやや極端なまでにこの作者を強く強く推しています。長編作品としてはすでに3冊を出版しており、鮎川哲也賞を受賞したデビュー作から順に『時空旅行者の砂時計』、『孤島の来訪者』、『名探偵に甘美なる死を』ということになります。この作品に至るまでの3作品はすべて東京創元社からの出版であり、三部作とでもいうべきで、竜泉家の一族シリーズとして独特の特殊設定ミステリに仕上がっています。すなわち、タイムリープにより過去が改変されて、いわゆるタイム・パラドックスが起こったり、時空の裂け目から変身ができる極めて特殊な異次元人が殺人を実行したり、VRで事件解決に当たったり、といったものです。しかし、この『アミュレット・ホテル』は犯罪者ご用達の特殊なホテル、ただし犯罪者の中でも大物の上級犯罪者だけが使える会員制の高級ホテルを舞台にしているものの、21世紀における物理学の成果を無視するような特殊な設定はありません。その舞台がタイトルとなっているアミュレット・ホテルです。4章構成で、長編というよりは連作短編集とみなした方が自然です。第1章のエピソード1の次に、その事前譚であるエピソード0が第2章に配されていて、後は、普通に第3章と第4章なのですが、第4章ではホテル開業のころの事件の解決も示されてます。ということで、前置きが長くなりましたが、本書の舞台となるアミュレット・ホテルのルールは2つだけ、すなわち、(1) ホテルに損害を与えない、(2) ホテルの敷地内で傷害・殺人事件を起こさない、ということです。まあ、第2点を考慮すれば窃盗や詐欺などは構わない、ということなのだろうと思います。しかし、犯罪者ご用達ですので殺人事件が起こるわけです。そして、第2章エピソード0に結果としてホテルに探偵として採用された桐生が謎解きをします。私は60歳の定年まで長らく国家公務員として働いていましたので、犯罪者の世界は皆目見当がつきませんし、ミステリにネタバレは禁物ですので、これ以上は詳細は控えますが、少し酷かもしれませんが、この作家の作品の中では全3作からは少し落ちる気がします。というか、私には前作の『名探偵に甘美なる死を』の方がよかったと思います。謎解きの質に加えて、登場人物のセリフにも、また、地の文にも説明調が多過ぎる気がします。最後に、冒頭の第1章エピソード1は芥川龍之介の短編「薮の中」を踏まえたミステリです。というか、もっといえば、芥川作品が典拠とした『今昔物語』の巻29第23話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語 (妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」を踏まえています。最近、あをにまる『今昔奈良物語集』を読んだところでしたので、私はすぐに判りました。この点を指摘している書評があれば、もしあれば、かなり教養ある書評者だと思います。と、自分で自慢しておきます。
次に、伏尾美紀『数学の女王』(講談社)です。著者は、「北緯43度のコールドケース」で第67回江戸川乱歩賞を獲得し、デビューしたミステリ作家です。私はこのデビュー作を読んでいて、今年2023年3月4日付けの読書感想文でチラリと紹介しています。でも、読んだ時点で新作ではなかったので読書感想文はFacebookでシェアしただけです。この『数学の女王』は江戸川乱歩賞受賞後の第1作、ということになります。結論からいうと、前作からは大きく落ちます。前作では数年前の女児誘拐事件と絡めて、実に見事な謎解きがなされ、ミステリとしては上質の出来に仕上がっていましたが、何せ、若年性痴呆症まで含めて、いっぱいのトピックを詰め込み過ぎたので、謎解きを主眼とするミステリ小説としてはいいとしても、書物、というか、小説としてはそれほど評価できなかったのですが、最新作の本書はジェンダー・バイアスなどの社会性あるトピックはうまく処理されているものの、ミステリとしての謎解きは実に低レベルといわざるを得ません。主人公は前作と同じで、社会科学の博士号を持ち、北海道警察に勤務する警察官である沢村依理子です。そして、本作品の事件は札幌市内の新設大学院大学で発生した爆弾爆破事件です。何が起こったのか、という事件に関する whatdunnit は爆破事件ということで明らかで、howdunnit についても鑑識などの科学捜査から明らかですので、ミステリとしては whodunnit と whydunnit が焦点となります。そして、ミステリとしては、余りに登場人物が少なく、犯人候補がほとんどいませんから、whodunnit はそれほど考えなくてもすぐに判ってしまいます。その点で何ら意外性はありません。著者の方にも読者をミスリードしようとする意図は感じられません。ですから、whydunnit を中心にしたミステリと受け止めるべきなのですが、冒頭からジェンダー・バイアスが声高に盛り込まれていて、まあ、そうなんだろうという理解に達するには大きな障害はありません。これも、伏線を張っているつもりなのかもしれませんが、あるいは、ネタバレに近い伏線の張り方に見る読者もいそうです。私にとっての読ませどころは、むしろ、爆破事件やミステリの謎解きとは関係なく、主人公の大学院のころの恋人の回想であった気がします。次回作に期待します。
次に、稲田和浩『落語に学ぶ老いのヒント』(平凡社新書)です。著者は、大道芸能脚本家と紹介されていて、本文中に落語の新作噺も扱っているような記述があります。本書は6章構成であり、第1章 <ご隠居>になるには、第2章 働く老人たち、第3章 女たちの老後、第4章 人生の終焉、第5章 最期まで健康に生きるには、第6章 第二の人生における職業、第7章 大江戸長寿録、となっています。タイトル通りに落語から題材を引いているのは第5章までで、最後の2章は落語とはあまり関係ありません。でも、第5章までは落語ですので、長屋の八つぁん、クマさんとご隠居がいろいろと会話を交わす場面が想像され、なかなかに示唆に富む内容となっています。第6章は伊能忠敬、歌川広重、大田南畝(蜀山人)、清水次郎長が取り上げられ、第6章は文字通りに男女別に長寿だった人々のリストとなっています。老後とは、私の考える範囲では、時間を持て余すことであって、何をするのか、どこに行くのかで老後生活の豊かさが決まるような気がします。実は、我が家でも、私はまだ正規雇用の身分を保持していて、それなりに労働時間があって、お給料も公務員のころから考えれば見劣りするものの、来年3月の2度めの定年まではそれなりに正規職員のお給料をもらっています。しかし、我が家では気軽に東京から京都、そして現在の大学至近地まで引越したウラには事情があって、子供たちが2人とも独立しているわけです。ですから、専業主婦のカミさんは掃除や洗濯や料理といった私の世話はなくもないのですが、ものすごく自由時間を持て余しています。その上で、知り合いもなく、土地勘にも欠ける地で、少し前までのコロナの時代には気ままな外出もできず、時間を持て余していたりして、私も自分自身の老後を考えて反面教師的に観察していたりします。本書では「人生100年時代」を標榜していますが、さすがに、私はそこまで長生きはできないと予想するものの、現実として長い老後をいかに過ごすのか、少しずつ考えを進めたいと思います。
最後に、エリカ・ルース・ノイバウアー『メナハウス・ホテルの殺人』(創元推理文庫)です。著者は、軍隊・警察に続いて、高校教師を経験した後に作家となり、この作品でアガサ賞最優秀デビュー長編賞を受賞しています。この作品では、1920年代半ばのエジプトの首都カイロの郊外にあるメナハウス・ホテルを舞台としています。ストーリーとしては、米国人未亡人が主人公で、22歳で戦争未亡人となった現在30歳の主人公はアパー・ミドルの階層に属しているのですが、結婚により上流階級の仲間入りをした叔母の付添いでメナハウス・ホテルに滞在して、リゾートライフを堪能しています。でも、ミステリですので、当然、殺人事件が起こり、第1発見者となった主人公は、現地警察の警部から疑いをかけられ、真犯人を探すべく奔走する、ということになります。助力してくれるのは同じホテルに滞在している自称銀行家です。しかし、そうこうしているうちに、主人公への殺人疑惑は薄れたものの、第2の殺人事件が起こったりします。そして、ストーリーが進行していくうちに、次々と主人公や主人公の叔母の黒歴史が明らかにされていきます。どうして、エジプトが舞台に設定されているのかについても明快な理由が明かされます。どうも、明確な名探偵は存在せず、ストーリーの展開とともに少しずつ謎解き、というか、真相が明らかになっていくタイプの、いわば、私の好きなタイプのミステリで、最後の最後に名探偵が推理を展開してどんでん返しがある、というタイプのミステリではありません。ミステリとしてはかなり上質の出来栄えであり、約100年ほど前の遠い異国の地を舞台にしていることから生ずる違和感もありません。なお、すでに同じ作者の第2作『ウェッジフィールド館の殺人』も邦訳・出版されていますので、私は楽しみにしています。
2023年07月22日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書2冊のほか計6冊
まず、マーク・フローベイ『社会厚生の測り方 Beyond GDP』(日本評論社)は、フランスのエコノミストがGDPに代わる経済指標を模索し等価所得アプローチを提唱しています。森永卓郎『ザイム真理教』(フォレスト出版)は、財務省による財政均衡主義について強い批判を展開しています。平和博『チャットGPT vs. 人類』(文春新書)は、生成型AIと人類の関係についてプライバシーの侵害や雇用の消失を例に考えています。佐伯泰英『荒ぶるや』と『奔れ空也』(文春文庫)は、「空也十番勝負」の締めくくりの第9話と第10話であり、坂崎空也が武者修行を終えます。最後に、夏山かほる『新・紫式部日記』(PHP文芸文庫)は、平安期におけるとても上質な宮廷物語に挑戦しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6月に19冊、7月に入って先週までに17冊の後、今週ポストする6冊を合わせて86冊となります。今年は年間150冊くらいかもしれません。
なお、新刊書読書ではないので、本日の読書感想文では取り上げませんが、三浦しをんのエッセイ『のっけから失礼します』(集英社)と松本清張『砂の器』上下(新潮文庫)を読みました。『砂の器』は再読ですし、まあいいとしても、『のっけから失礼します』は相変わらずおバカなエッセイ炸裂で楽しめましたので、Facebookあたりでシェアするかもしれません。
まず、マーク・フローベイ『社会厚生の測り方 Beyond GDP』(日本評論社)です。著者は、フランスのパリ・スクール・オブ・エコノミクスの研究者であり、本書は学術論文である Fleurbaey, Marc. (2009) "Beyond GDP: The Quest for a Measure of Social Welfare." Journal of Economic Literature 47(4), December 2009, pp.1029-75 の全訳に訳者の解説などを加えた出版となっています。その昔から主張されているように、GDPは市場で取引される財の付加価値を集計したものであり、市場取引だけでは計測できない経済的厚生をどう扱うかは経済統計の大きな課題となっています。本書では、等価所得アプローチを取り、経済的厚生の個人間比較を行って、分配に配慮した経済社会的評価を行うことを推奨しています。と簡単にいうと、それだけなのですが、これだけで理解できる人はかなり頭がいいということになります。ハッキリいって、かなり難解な学術論文を邦訳していますので、訳者の解説やコラムがあっても、もちろん、そう簡単に理解できるものではありません。一般のビジネスパーソンを読者に想定するには少しムリがあるような気がします。例えば、判りやすい例でいうと、p.69の確実性等価があります。確率½で100万円、残りの確率½でゼロのギャンブルと、100%確実にもらえる50万円は、合理的な確率の上では等価と考えるべきですが、実際の人々の選択では、後者の確実な50万円が選択されます。ですから、後者は例えば30万円のディスカウントすれば等価と考えることができますが、こういった個人間で評価の異なる比較をどこまで可能なのかが、私には疑問です。ただ、本書では、環境などを考慮に入れた補正GDPについても、あるいは、セン教授の提唱した潜在能力アプローチも、そして、もちろん、国民総幸福量といった指標も、すべて否定的に取り上げています。私も基本的にこれらの点は同意するのですが、本書をはじめとして抜け落ちている視点をひとつだけ指摘しておきたいと思います。それは、雇用の視点です。現在のGDPは批判が絶えませんが、雇用との関係は良好です。例えば、本書ではストックが喪失した場合に、例えば、地震で道路が損壊した場合など、そのストックの修復に費やす市場取引がGDPに計上される計算方法に対して疑問を呈していますが、私は道路が地震で損壊したら、その修復のためにGDPが増加するわけで、そして、そのGDPの増加は雇用と結びついているわけですから、経済指標を雇用との関係で考えるとすれば、決して、GDPが有用性を失うことはない、と考えています。何か宙に浮いたような社会的な厚生を議論するのもいいのですが、雇用を重視する私のようなエコノミストには、GDPは雇用との連動性が高いだけに、まだまだ有用な経済指標であると強調しておきたいと思います。
次に、森永卓郎『ザイム真理教』(フォレスト出版)です。著者は、テレビなどのメディアでもご活躍のエコノミストです。本書は、財政均衡主義に拘泥する財務省について強い調子で批判を加えています。まず、著者が当時の専売公社、今のJTに入社した当時の財務省との折衝から始まって、ザイム真理教を宗教的な教義、でも、カルトと指摘しています。特に興味深いのは第4章でアベノミクスの失敗の原因を消費税率の引上げと指摘している点です。私もまったく賛成です。さらに、強力なメディアなどのサポーターを得て、公務員をはじめとするザイム真理教の「教祖」や幹部の優雅な生活を暴き、最後に、現在の岸田内閣は財務省の傀儡であると糾弾しています。これまた、私もほぼほぼ大部分に賛成です。残念ながら、理論的な財政均衡主義に対する反論はほとんどありませんが、インフレで持って財政の規模をインプリシットに考える、という点は現代貨幣理論(MMT)と通ずるものがあると私は理解しています。そして、実は、私が戦慄したのは最後のあとがきです。pp.189-90のパラ4行をそのまま引用すると、「本書は2022年末から2023年の年初にかけて一気に骨格を作り上げた。その後、できあがった現行を大手出版社数社に持ち込んだ。ところが、軒並み出版を断られたのだ。『ここの表現がまずい』といった話ではなく、そもそもこのテーマの本を出すこと自体ができないというのだ。」とあります。著名なエコノミストにしては、失礼ながら、あまり聞き慣れない出版社からの本だと感じたのは、こういった背景があったのかもしれません。安倍内閣から始まって、現在の岸田内閣でも政権批判に関して言論の自由度が大きく低下していると私は危惧しているのですが、コト財政均衡主義に関してはさらに厳しい言論統制が待っているのかもしれません。というのは、日本に限らず世界の先進国の多くで、財政均衡主義というのは、右派や保守派ではなく、むしろ、左派やリベラルで「信仰」されているからです。政府の規模の大きさとしては、確かに、右派や保守派で「小さな政府」を標榜するわけで、左派リベラルは「大きな政府」を容認するように私は受け止めていますが、その政府の規模ではなく財政収支という点では、むしろ、左派リベラルの方が財政均衡主義を「信奉」し、逆に緊縮財政を志向しかねない危うさを私は感じています。それだけに、本書のような財政均衡主義に対する反論は左派からも右派からも批判にさらされる可能性があります。ただ、最後に、本書で指摘している点、まあ、公務員に対する批判はともかくとして、財政均衡主義がほとんど何の意味もない点については、広く理解が進むことを願っています。
次に、平和博『チャットGPT vs. 人類』(文春新書)です。著者は、ジャーナリスト出身で、現在は桜美林大学の研究者です。実に、タイトルがとても正確なので、私もついつい手に取って読み始めてしまいました。本書では、GPT-2くらいのバージョンから話が始まって、GPT-3、GPT-3.5、そして現在のGPT-4くらいまでをカバーしています。AIの影響が大きいのは、軽く想像されるように、学校とメディアです。特に、私が勤務する大学教育のレベルでは、例えば、リポート作成にAIが活用されると、学習の達成度は測れませんし、果たして、人類が頭を使ってAIを使いこなすという教育と、人類がAIに回答を作成するよう依頼する教育と、どちらを実践しているのか、まったく不明になります。ここは混乱するのですが、何かの目標に向かって、例えば、売上げ目標達成のためにAIを活用して戦略を練る、というのはOKなのですが、その目標が授業のリポート作成だったりすると困ったことになるわけです。今年から急に持ち上がった点ですので、大学教育の現場でも試行錯誤で決定打はなく、しばらく混乱は続きそうな気もします。ということで、私自身の身近な困惑は別にして、果たして、AIは人類とどのような関係になるのか、という点が本書の中心です。ただ、やや本質からズレを生じている気はしました。すなわち、AIが「もっともらしいデタラメ」、あるいは、はっきりとしたフェイクニュースを作成し始める、という事実はいくつかありますし、プライバシーが侵害されるという心配ももっともです。そして、こういった観点から本書で指摘されているプライバシーの侵害、企業秘密の漏出、雇用の消失、犯罪への悪用といったリスクだけではない、と覚悟すべきです。すなわち、こういった本書で指摘されているリスクは、あくまでAIが悪用されるリスクであって、例えば、ウマから自動車に交通手段が切り替わった際に、交通事故が増えた、という点だけに本書は着目している危惧があります。私はむしろAIの暴走がもっとも大きなリスクだと考えています。今までの技術革新では、自動車や電話やテレビが、自分から暴走することはなく、それらを製造する、あるいは、利用する人類の不手際がリスクの源泉だったわけですが、AIの場合はAIそのものが暴走してリスクの源泉となる可能性が十分あります。人類のサイドからすれば「暴走」ですが、AIのサイドからすれば「進化」なのかもしれませんが、それはともかく、その暴走あるいは進化したAIに人類は太刀打ちできない可能性が高いと私は考えています。その上、本書では経済社会面だけに着目していますが、軍事面を考えると暴走・進化したAIが人類を滅亡させる、そこまでいわないとしても、人類がその規模を大きく縮小させる可能性も私は否定できないと考えています。
次に、佐伯泰英『荒ぶるや』と『奔れ空也』(文春文庫)です。著者は、小説家であり、この2冊は「空也十番勝負」のシリーズを締めくくる第9話と第10話となっています。出版社も力を入れているようで、特設サイトが開設されていたりします。時代は徳川期の寛政年間、西暦でいえば1800年前後となり、主人公の坂崎空也は江戸の神保小路で剣道場主をしている坂崎磐音の嫡男であり、その坂崎家の郷里がある九州から武者修行に出ています。まず、薩摩に入り、九州を北上して長崎から、何と、上海に渡ったりした後、山陽道を西へ向かい、京都から武者修行の最終地と決めた姥捨へと向かいます。第9話となる『荒ぶるや』では、京都の素人芝居で、祇園の舞妓さん扮する牛若丸・義経に対する武蔵坊弁慶を空也が演じたりします。最終第10話『奔れ空也』では、京都から奈良に向かう途中で小間物屋のご隠居とともに柳生の庄を訪ねたりします。そして、サブタイトルになっている「空也十番勝負」が繰り広げられ、もちろん、空也は勝負に勝って生き残ります。私は空也の父の坂崎磐音を主人公にした「居眠り磐音江戸草紙」のころからのファンで、磐音を主人公にするシリーズは全51話を読み切っています。この空也のシリーズは、何となく、もう読まないかも、と思っていたのですが、やっぱり、時代小説好きは変わりなく全話を読み切りました。なお、どうでもいいことながら、作者はもともとが時代小説の専門ではないのですが、こういったシリーズに味をしめたのか、あとがきで続編がありそうな含みを持たせています。
最後に、夏山かほる『新・紫式部日記』(PHP文芸文庫)です。著者は、本書の巻末の紹介では短く「主婦」とされているのですが、学歴としては九州大学大学院博士後期課程に学んでいますし、本書で日経小説大賞を受賞して作家デビューを果たしています。本書は2019年に日本経済新聞出版社から単行本で出版され、今年になってPHP文芸文庫からペーパーバックのバージョンが出版されています。ということながら、広く知られている通り、『紫式部日記』というのは存在します。本家本元の紫式部ご本人が書いています。当然です。なお、私自身は円地文子の現代訳で『源氏物語』を読んでいますが、本書の基となった『紫式部日記』は読んでいません。そして、紫式部というのは『源氏物語』の作者であり、来年のNHK大河ドラマで吉高由里子を主演とし「光る君へ」と題して放送される予定と聞き及んでいます。何と、その新板の『新・紫式部日記』なわけです。ストーリーはもう明らかなのですが、本書では紫式部ではなく、多くの場合、藤原道長より与えられた藤式部で登場しますが、紫式部は学問の家にまれ育って漢籍にも親しみながら、父が政変により失脚して一家は凋落します。しかし、途中まで書き綴った『源氏物語』が評判となって藤原道長の目に止まり、お抱えの物語作者として後宮に招聘され、中宮彰子に仕えることになります。帝の彰子へのお渡りを増やそうという目論見です。まだまだ、亡くなった先の中宮の定子の評判が高い中で彰子を支えて、さらに、物語の執筆も進めるという役回りを負い、さらに、紫式部自身が妊娠・出産を経る中で、藤原道長が権謀術数を駆使して権力を握る深謀に巻き込まれたりします。もちろん、この小説はフィクションであって、決して歴史に忠実に書かれているわけではない点は理解していますが、実に緻密かつ狡猾に練り上げられています。フィクションであることは理解していながらも、かなり上質の「宮廷物語」ではなかろうか、と思って読み進んでいました。
2023年07月15日 (土) 09:00:00
今週の読書はノーベル賞エコノミストの経済書をはじめとして計6冊
まず、ウィリアム・ノードハウス『グリーン経済学』(みすず書房)は、気候変動の経済学でノーベル経済学賞を受賞したエコノミストによる「グリーン」な経済に関する考察ですが、ハッキリいって、ものすごく物足りない内容です。ウィリアム・クイン & ジョン D. ターナー『バブルの世界史』(日本経済新聞出版)は、英国の歴史家がバブルの歴史を「良いバブル」もある、との観点から取りまとめています。早見和真『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)は、高校の同級生2人の友情を裏切り、また、虚々実々の政治の舞台裏を描き出そうと試みています。藤井薫『人事ガチャの秘密』(中公新書ラクレ)は、企業における人事の要諦について解説しています。鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)は、死の直前にネット右翼的な傾向を示した父親について、一般的な観点と家族独特の観点から解釈を試みています。最後に、文藝春秋[編]『水木しげるロード全妖怪図鑑』(文春新書)は、鳥取県境港の水木しげるロードに配置された177体の妖怪のブロンズ像などを写真とともに紹介しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6月に19冊、7月に入って先週までに11冊の後、今週ポストする6冊を合わせて80冊となります。交通事故で3か月近く入院した影響で、今年の読書は200冊には届きません。
まず、ウィリアム・ノードハウス『グリーン経済学』(みすず書房)です。著者は、米国イェール大学の研究者であり、2018年に気候変動をマクロ経済学に組み込んだ功績によりノーベル経済学賞を受賞しています。英語の原題は The Spirit of Green であり、2021年の出版です。ということで、とっても期待して読み始めたのですが、やや期待外れでした。本書では、「グリーン」の本質について冒頭序文p.3で持続可能性に置いていますが、読み進むとそうでもないように思います。何か極端ではない中庸の政策を志向しているとしか私には思えませんでした。他方で、何度も繰り返して気候変動については2050年のカーボンニュートラルは達成不可能、という著者の見通しを明らかにしています。カーボンニュートラルの達成が難しく見えるのであれば、もっとドラスティックな政策を志向すべきではないのか、というのが私の見方です。ただ、その萌芽的な観点は提示されており、例えば、炭素価格については米国の現行の炭素税による価格設定が低すぎて、さらに大幅に引き上げる必要について議論しています。温暖化ガスの排出規制については、どうしても経済学的なインセンティブに頼って、直接的な輝空性を避ける方向性が先進各国で示されていますが、2つの方策があります。すなわち、排出権市場と炭素税です。排出権市場では炭素排出の量的な確実性はありますが、炭素価格の見通しが不確実で、ビジネス活動には不透明ですし、政府の歳入に裨益することもありません。ですから、私は圧倒的に炭素税に好意的なのですが、その観点は本書でも共有されています。もうひとつ、私は訳書にいた折にGDP統計の不十分な面について研究していて、主たる眼目はシェアリング・エコノミーの補足だったのですが、本書では当然ながら環境への影響を加味したGDP統計について議論しています。そして、私も同意する結論が導かれています。すなわち、確かに環境への影響を考慮すればGDPの水準としては現在の統計で補足されている水準をかなり下回る付加価値額しか計上されないであろうが、時系列的に考えると、つまりGDPの額ではなく成長率で見ると、1970年代くらいを底にして地球環境は改善されてきている可能性が高く、成長率は現在のGDP統計で計測したものよりも高くなる可能性が高い、と結論しています。私は少しだけ目から鱗が落ちる思いでした。環境を考慮すると現在のGDP統計は過大評価されている、というのは頭に入っていましたが、成長率に引き直すと別のお話になり、ここ数十年で地球環境は改善されており、おそらく、日本国内でも各種の環境数値はよくなっているでしょうから、成長率については現行GDP統計で過小評価されている可能性がある、というのは納得できました。最後に、もう一度同じ結論の繰り返しですが、環境経済学でノーベル賞を受賞したエコノミストの本ながら、余りに過大な期待を持って読むのはオススメできません。
次に、ウィリアム・クイン & ジョン D. ターナー『バブルの世界史』(日本経済新聞出版)です。著者2人は、英国北アイルランドにあるクイーンズ・ユニバーシティ・ベルファストの金融史の研究者です。英語の原題は Boom and Bust であり、2020年の出版です。まず、私はブームとバブルは違うものだと考えているのですが、本書ではほぼほぼ同じと考えられているようで、でも、私の考えるブームとは異なるバブルについての歴史を収録しています。本書はあくまで歴史書であり、その意味で、エピソードを選び出して並べているだけに見えます。決してバブル経済に関する分析が豊富に入っているわけではありません。ということで、冒頭第1章でいくつかの基礎的な著者たちの考えが取りまとめられています。p.13ではバブル・トライアングルとして、燃焼になぞらえて、燃焼の酸素に当たるのが金融の市場性、つまり、市場で売買できる流動性の付与、そして、燃料に当たるのが通貨と信用、これは当然でしょう。そして、燃焼の熱に相当するのが投機、さらに、火花となって火をつけるのは技術革新と政府の政策、と定式化しています。そのうえで、本書で取り上げるバブルの一覧がp.23に上げられています。当然、1929年の暗黒の木曜日におけるニューヨーク株式市場の崩壊に始まる世界恐慌も、1980年代後半の我が国のバブルも、そして、21世紀初頭の米国のサブプライム・バブルも含まれています。私自身はエコノミストとして少し異論がないわけではないのですが、最近の研究を踏まえると、本書が指摘する少し異質な2点は認めざるを得ません。すなわち、バブルは予測できる、とバブルには良いバブルと悪いバブルがある、という点です。まず、予測可能性については、いかにも予防原則を取る欧州らしい見方ではありますが、最初に引用したバブル・トライアングルの要素がそろうとバブルになる可能性がある、という軽い理解で私はスルーしました。本書の何処かにバブル発生の必要十分条件という言葉があったやに記憶していますが、まあ、そこまでのエビデンスはないと軽く考えておきます。そして、悪いバブルと良いバブルについては、各章で歴史上のバブルを取り上げる結論として考察されています。例えば、今世紀初頭の米国を震源とするITのドットコムバブルについては、技術革新を促進した可能性と不良債権が発生せずに経済への打撃が小さかった点を評価して、良いバブルに分類されています。なお、日本の1980年代後半のバブル経済については、第8章のタイトル「政治の意図的バブル興し」に典型的に現れているように、政府の政策、この場合は中央銀行たる日銀の政策によって生じたと結論されています。もっとも、日本人エコノミストである私の目から見て、政策的なバブル発生というのはいっぱいあります。米国のサブプライム・バブルにしても、「グリーンスパン・プット」により生じたわけですし、本書でも火花としては技術革新とともに政府の政策が上げられています。加えて、ITドットコムバブルの時期に設立されたり、企業活動が飛躍的に活発になったりした例として、GAFAなどを上げている一方で、日本のバブル経済の時期にはそういった例はあまりないと、本書では結論していますが、私はユニクロを持ち出して反論したいと思います。
次に、早見和真『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)です。著者は、もちろん、小説家なのですが、たぶん、作品の中で私が読んだ記憶があるのは『店長がバカすぎて』だけのような気がします。ということで、この作品は、40代の若き官房長官誕生をプロローグに置き、その前の段階を高校の入学のころにさかのぼって、愛媛県にある西日本でも有数の男子単学の私立の進学校における友人関係から始めます。清家一郎と鈴木俊哉に、さらに、佐々木光一の3人の高校同級生の友人関係、特に東京から愛媛に来た前2者の関係に焦点が当てられます。高校の生徒会長選挙から始まって、表に立って候補者となる清家一郎とそれを支える秘書役の鈴木俊哉、そして、それに協力する佐々木光一、という図式です。大学生の学生生活を経て、27歳で清家が国政選挙に立候補して当選し、衆議院議員となります。その後はトントン拍子に出世して47歳で官房長官となります。そのころ、全国紙の文化部に所属する30歳そこそこの女性記者がインタビューに来て、「この男はニセモノだ。誰かの操り人形にすぎない」と感じ、彼の過去を暴くために動き始め、次々と不審な事実を暴き出す、というストーリーです。国会議員となる清家が大学の卒論で取り上げたハヌッセンに着目し、ハニッセンがヒトラーをスピーチライターとして操っていたように、秘書の鈴木が清家を操っているのではないか、と見立てるのですが、清家を取り巻く女性にも着目し、さらに、事故で不審死を遂げた故人にも着目し、でいろいろと政治家の裏側の事情が明らかになっていきます。そして、ラストはとても驚かされますが、ものすごく秀逸な終わり方です。もちろん、途中までは、人を操るという点で少し物足りない部分もあり、特に、小説としてはとてもおもしろそうなプロットなのですが、果たしてそこまで実態がなくて他人に操られる人物が政治家になれるのか、それも、官房長官といった重責をこなせるのか、という基本となる点とともに、実務的な面でも、操っている人物と操られている政治家がどのような連絡を取っているのか、といった疑問が残ります。ミステリ作家の中山七里の「作家刑事毒島」シリーズでも、人を操って殺人をさせたり、あるいは、もっと入り組んでいて、二重に人を操って、すなわち、操った人がさらに人を操って殺人をさせる、といったプロットがありましたが、私は、まあ、犯罪レベルであればともかく、政治のレベルでは小説の中だけにあるんだろうという気がしました。ただ、繰り返しになりますが、ラストは秀逸です。
次に、藤井薫『人事ガチャの秘密』(中公新書ラクレ)です。著者は、パーソル総研シンクタンク本部の研究者です。本書では、人事ガチャ、配属ガチャ、上司ガチャ、などと称して人事に関する不満がある中で、どういった観点から人事担当部局が人事の配属や昇進などを決めているのか、という解説を試みています。主たる読者層としては就活を迎えた大学生から入社10年目の30代前半くらいまでの総合職を想定しているようです。まあ、私のような定年退職者は想定外なのですが、就活に臨む大学生を相手にする教員ですし、加えて、私は公務員のころに人並み以下の出世しかしませんでしたので、興味を持って読んでみました。本書では、入社後10年で平均的に3つのポジションを人事異動するパターンが多いとしつつも、場合によってはまったく10年間人事異動ないケースもあると指摘しています。公務員は、おそらく、平均的な民間企業よりは人事異動のサイクルが短いといえます。ひとつには、いわゆる癒着を防止するためです。ですから、私自身の10年目くらいまでを振り返ると、5つのポジションを回りました。平均で2年なわけです。しかも、その5つのポジションには海外勤務、大使館勤務も含まれています。ですから、人事担当部署を経験したこともありませんし、私自身の経験は度外視した方がよさそうな気がします。そして、本書の指摘で目が開かれたのは、ミドルパフォーマーには目が行き届いていない可能性です。人事担当部署としても、役員候補のようなトップエリートは、もちろん、それなりの配慮を持って育成に努めるのでしょうし、私のような不出来な職員に対しては尻を叩くなどの必要があるのかもしれませんが、その中間的なミドルパフォーマーは放っておかれるのかもしれません。いろんな人事のからくりを知ることができましたが、定年退職前に知っていたところで、少なくとも私の場合は何の役にも立たなかった可能性が高い、と感じていしまいました。
次に、鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)です。著者は、ルポライターであり、貧困に題材を取った著書が多いと紹介されています。本書では、いろいろとあるルポのうちで、私にはどうしても馴染めない「私小説」的な自分の家族をルポしています。タイトルの通りです。すなわち、ヘイトスピーチによく出るようなスラングを口にしたり、いかにもネトウヨなYouTubeチャンネルを視聴したり、あるいは、とっても右翼的で反韓反中なのになぜか旧統一協会だけは許容するような雑誌を広げたり、といった死の直前の父親について事実を確認するとともに、その心情の変化などを考察しています。まあ、読み始める前から想像豊かな読者には理解できると思いますが、決して父親はネトウヨになったわけではない、という結論を探し求めているような気がします。著者のネトウヨの見方がそれはそれで参考になります。すなわち、p.72にあるように、① 盲目的な安倍晋三応援団、② 思想の柔軟性を失った人たち、③ ファクトチェックを失った人たち、① 言論のアウトプッが壊れた人たち、という4点なのですが、今はもうほとんど見かけなくなりましたが、①を別の方向にすれば、トロツキスト的な左翼もこれらの条件に一部なりとも合致しそうな気がします。こういった観点も含めて、一般論は第3章までで、第4章からは自分の家族に対する楽屋落ち、というか、手前味噌的なパートに入ります。まあ、第3章までは一定の参考になるかと思います。最後に、私の考える保守派とは、歴史の流れを止めようとする人たちで、歴史の流れに沿って人類を前進めようとするのが保守の反対の進歩派、そして、保守からさらに強硬に歴史の流れを反対にしようと試みているのが反動派、だと思っています。歴史はそれほど単純に進むわけではありませんし、循環的な動きだけで進歩するわけではないことも少なくありません。しかも、極めて東洋的、というか、中国的な歴史観でははありますが、円環的に進む、というか、円環的なので進まない、という見方もあります。大雑把に進歩派を左翼、反動派と保守派をいっしょにして右翼と呼んでいる気がしますが、私自身は進歩派でいたいと考えています。
最後に、文藝春秋[編]『水木しげるロード全妖怪図鑑』(文春新書)です。編者のほかに、境港観光協会が協力し、水木プロダクションが監修しています。見開きで一方のページに妖怪のブロンズ増のカラー写真が、そして、もう一方のページにその解説が配置されています。フルカラー写真集といえますから、350ページを超えるボリュームでこのお値段は安いと感じました。取り上げている妖怪は境港の水木しげるロードに配置されている177体のブロンズ製の妖怪像となっています。177体の妖怪像はもとはといえば、かなり無秩序に存在していたらしいのですが、水木しげるロードに移築され、1~51が水木マンガの世界、52~58が森にすむ妖怪たち、59~78が神仏・吉凶を司る妖怪たち、79~148が身近なところにひそむ妖怪たち、そして最後の149~177が家にすむ妖怪たち、とみごとに分類されています。これらに加えて、隠岐島のブロンズ像もも何点か収録されています。ただし、すべてが妖怪というわけではなく、隠岐島の最初のブロンズ像は踊る水木しげる先生だったりします。私はこの分野に詳しくないので、ほぼほぼ知らない妖怪ばっかりなのですが、水木しげる先生の作品に登場するような愛嬌のある妖怪も少なくありません。私は決して水木しげる先生の作品、例えば、「ゲゲゲの鬼太郎」などの熱烈なファン、というわけではありませんし、境港のこういった場所を訪ねたこともありませんが、それでも本書は十分楽しめましたし、ファンであればぜひとも抑えておきたいところです。
2023年07月08日 (土) 09:00:00
今週の読書は日本の経済成長に関する経済書をはじめ計6冊
まず、平口良司『入門・日本の経済成長』(日本経済新聞出版)は、標準的なマクロ経済学を基に成長論の基礎とその日本への応用を試みています。中島京子『やさしい猫』(中央公論新社)は、スリランカ人に対する入管当局の差別的・非人道的な扱いを直木賞作家が取り上げています。堤未果『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)と『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)は、気鋭の国際ジャーナリストがデジタル化の推進に置いて、あるいは、震災やコロナといった惨事に便乗してネオリベな政策で国民が犠牲にされる様子を的確な取材でルポしています。現代ビジネス[編]『日本の死角』(講談社現代新書)は、日本や日本人について常識とされていたり、固定観念になっている理解を改めて考え直そうと試みています。最後に、辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)は、神話であって実在しない神武天皇や神功皇后などのナラティブから戦前とは何だったのかを考えています。なお、中島京子『やさしい猫』(中央公論新社)と堤未果『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)については、2年ほど前の出版なのですが、まあ、新刊書読書として含めています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6月に19冊の後、7月に入って先週は5冊、さらに今週も6冊、ということで、合わせて74冊となります。今年は交通事故による入院で、新刊書読書はたぶん例年の200冊には達しない気がします。
まず、平口良司『入門・日本の経済成長』(日本経済新聞出版)です。著者は、明治大学の研究者であり、専門はマクロ経済学です。経済成長に関してのタイトル通りの入門書であり、3部構成となっています。特に、第3部では日本経済の現状から高齢化、教育、マクロ政策、環境の4つの課題をから解明しようと試みています。しかし、こういった4課題だけに着目しているわけではなく、第1部では、コブ-ダグラス型の生産関数を基に、ソロー-スワンの新古典派成長理論、マンキューらの定量分析、また、ローマーらの内生的成長理論と幅広く、かつ、標準的な成長論を取り上げています。続く第2部では、特に生産性や格差の議論がよく取りまとめられている印象です。ただし、金融については Arcand らによる有名な "Too much fimance?" という金融過剰の問題はバブル経済との関係で、次の第3部の日本経済との関連で手短に触れられているに過ぎません。そして、最終第3部では最初の4課題に即して日本経済の成長について論じられています。私は、大学の授業でGDPの3ステージと称して、GDP=人口×(労働者数/人口)×(GDP/労働者数)の要因分解を示し、GDPとは人口と人口当たり労働者数と労働者当たりGDP=労働生産性の積であり、人口が増え、専業主婦や高齢者が労働に参加する割合を高め、労働生産性が上がればGDPの成長も促進される、と教えています。しかし、他方で、経営者がいうように、賃金が上がらないのは労働生産性が伸びないからである、ということはあるとしても、本書でも指摘しているように、労働生産性が伸びないのは投資が進まずに労働者あたりの資本ストックが増えないという要因も大いに関係しています。そして、投資が進まず資本ストックが増えないのは、元に戻って、賃金が上がらず相対的に資本よりも労働のほうが安価であるからです。賃金と生産性と投資が悪循環を来しているわけです。その当たりの突破口をどこに見出すか、本書では必ずしも明確ではありません。もちろん、生産性は需要の伸びに大いに依存しますので、経済政策によってGDPギャップを埋めて労働生産性を上げる、というのがひとつあります。金利を下げるなどによって投資を促して労働生産性を上げる、という手もあります。ややトリッキーですが、賃金を上げて相対的に有利になった投資を促進する、という手すら考えられます。さまざまな方策が考えられる中で、本書p.219から指摘している通り、脱成長論には疑問もいっぱいあります。ということで、やや取りとめありませんでしたが、基本的に、本書では主流派的な経済成長論をしっかりと論じています。その意味で好著、良書と考えられます。ただ、影付きの数式がやたらと日本語になっていて、かえって見にくい、という点は減点材料かもしれません。学部3-4年生くらいからビジネスパーソンまで幅広くオススメできます。
次に、中島京子『やさしい猫』(中央公論新社)です。著者は、小説家であり、2010年に『小さいおうち』で直木賞を受賞しています。本、というよりも、今年2023年6月24日(土)を第1回として夜の10時から同名のタイトルでNHKドラマとして放送されています。全5回だそうです。実は、本書は2年前の出版であって、私の基準からする新刊書とはいいがたいのですが、ドラマで話題になっていることも考慮して、新刊書読書として取り上げました。悪しからず。ということで、本書では、我が国の入管制度についての鋭い批判が展開されています。もちろん、バックグラウンドとして、名古屋入管の施設でスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった事件を思い浮かべる読者も多いと思います。物語は、東京で決して豊かではないながらも穏やかな生活を送っていた母子家庭において、大震災のボランティア活動から知り合ったスリランカ男性との家庭生活を守るための入管当局との闘いです。主人公は保育士ミユキさんの娘であるマヤさんで、この主人公が小学4年生の時に、震災ボランティアで現地入りしたミユキさんが、8歳年下の自動車整備工でスリランカ人のクマさんと知り合ったところからストーリーが始まります。ストーリーは主人公のマヤが誰かに語りかける形を取っています。最後にこの点は謎解きされます。なお、マヤの父親はマヤが3歳の時に病没して、震災ボランティアからいろいろあって、保育園でのスリランカデーといった催しもあって、ミユキさんとクマさんが同棲して結婚することになりますが、その6月に予定されていた結婚式の直前にクマさんの勤める工場が倒産してクマさんが失業し、そのあたりからおかしくなり始めます。クマさんは4月に失業しながら、ミユキさんに打ち明けることができず、就労機会を求めたアルバイトしたりします。そうこうしているうちに、クマさんのビザが9月に失効します。それでも、ミユキさんとクマさんは12月に結婚を役所に届けます。そして、入管当局に配偶者としてのビザ申請に行こうとして、品川駅から入管に向かうところで警官に職務質問され、オーバーステイの不法滞在で逮捕されてしまいます。ミユキさんとクマさんの結婚はビザ取得のための偽装ではないか、という見方に基づいています。そして、クマさんが入管に収容され強制送還が決定されながら、ミユキさんは主人公のマヤがハムスター先生と呼ぶ恵弁護士を雇って裁判に訴え、もちろん、ハッピーエンドで滞在許可を取り付ける、というストーリーです。主人公のマヤは高校3年生になっています。本書の中でほぼ10年近くが経過するわけです。とても心温まるとともに、日本の入管当局に対する大きな疑問が発生します。入管当局だけでなく、日本人にあまねく広がっている外国人差別、特に、白人の欧米人はいいとしても、アジア人に対する大きな差別というのは、私の心を暗くしました。最後に、どうでもいいことながら、クマさんのする頭の動きで、本書で「スリランカ人のイエス」と呼ばれている動きは、私の知る限り、スリランカ人というよりは、Indian Nod として知られているものではないか、という気がしています。ちゃんとドラマを見ていないので不明です。
次に、堤未果『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)です。著者は、気鋭の国際ジャーナリストです。本書では、コロナ禍の下でデジタル化の推進という美名に隠れて、怒涛のような「売国ビジネス」が進んでいる実態を明らかにしようと試みています。その「売国ビジネス」3項目に基づいて、行政、金融、教育の3部構成としています。デジタル庁の創設からデジタル化が進められ、現在のマイナンバーカードにつながっている点は広く知られている通りだと思います。さらに、健康保険証の廃止と相まって大混乱を来しそうな予感がするのは私だけではなかろうと思います。地方再生やスマートシティの推進でも、国内の巨大資本とともに外資の暗躍が見られます。金融でも、キャッシュレス化の推進という名目を上げて、クレジットカードはもちろん、QRコード決済などが進められようとしています。もちろん、高額紙幣が犯罪に悪用されかねないのは可能性としてあるとしても、IT企業がこぞってQRコード決済に乗り出す現状を不思議に感じている人も少なくないと思います。さらに、教育については、タブレットを生徒や学生に配布してオンライン教育を進める必要がどこまであるのか、それよりも過酷な教員の働き方を見るにつけ、タブレットを購入するよりも教員増の方に予算を振り向ける方がいいんではないか、と思うのも私だけではないと感じています。そして、こういったデジタル化の裏側に巨大な利権があり、しかも、国内企業だけではなく、海外資本にこういった利権を提供しようとしている政府の姿が本著で浮き彫りになっています。ネオリベな政策の下で、ポジな面だけが強調されて進められているデジタル化について、ネガな面も含めて評価し、デジタル化の推進が国家統制やファシズムにつながらないように監視する必要性が痛感されました。なによりも、国家や国家の運営をあずかる政府のシステムは「三権分立」に象徴されるように、性悪説に立った制度設計がなされる必要があり、デジタル化についても、事故の可能性を含めて、国民に不利益をもたらさないような方向性が求められることは再確認しておきたいと思います。なお、本書の次に先週取り上げた『ルポ 食が壊れる』が来て、そして、さらに次に『堤未果のショック・ドクトリン』が公刊にされています。
次に、堤未果『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)です。著者は、前所前書と同じで注目の国際ジャーナリストです。本書にもあるように、「ショック・ドクトリン」とはカナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインの著書のタイトルに基づいており、テロや大災害などの惨事が発生した際に、恐怖で国民が思考停止しているところに政府や巨大資本が、どさくさ紛れに過激なネオリベ政策を推し進める悪魔の手法のことで、日本語訳としては「惨事便乗型資本主義」と訳されることもあります。ということで、我が国でも2011年の大震災、そして、2019年末、というか、本格的には2020年からの新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックなどに乗じてネオリベな政策が推し進められ、現在では、その総仕上げとして防衛費=軍事費の倍増やマイナンバーカードの健康保険証との紐づけなどが着々と進行していることは、広く報じられているとおりかと思います。本書ではp.43で、死産災害などに加えて、政府自らがショックを起こすという観点も含めて、以下の5段階で示しています。すなわち、① ショックを起こす、② 政府とマスコミが恐怖を煽る、③ 国民がパニックで思考停止する、④ シカゴ学派の息のかかった政府が、過激な新自由主義政策を導入する、⑤ 多国籍企業と外資の投資形が、国と国民の試算を略奪する、という具合です。そして、こういった手法で日本を絡め取る具合的な動きが3章に渡って展開されています。マイナンバーカードによる国民監視、コロナ・ショックに乗じた外資製薬会社の丸儲け、そして、SDGsや環境重視の先に見えるディストピア、です。最後のSDGsなんかは反論の難しいところなのだという気がしますが、キチンとした取材に基づいて法外な利権の存在を浮き彫りにしています。ただ、本書で強調されすぎているのは「日本vs外資」という構図です。どうしても、我が国支配層の対米従属が強いので、こういった見方になりがちですし、私も部分的にはしょうがないとは思うのですが、「国民vs巨大資本」という見方に早く修正することが必要です。この巨大資本の典型、というか、一部が外資なだけであって、国内巨大資本も含めた国民収奪の構図を見逃すリスクがあると思ってしまいました。
次に、現代ビジネス[編]『日本の死角』(講談社現代新書)です。編者は、201年創刊のビジネスメディアだそうです。タイトルは「死角」となっていますが、むしろ、日本に関する固定観念や常識に対する疑問を提示し、必要に応じて反論することを趣旨としているようないがします。その固定観念の一例が本書冒頭のpp.3-4にあり、日本の集団主義、衰退、非婚、移動しない、学校のいじめ、などなどとなっています。簡単に編者のサイトからコピペで内容を羅列すると以下の通りです: ●「日本人は集団主義」のウソ ●中国で見た「日本衰退の理由」 ●なぜ若者は結婚しないのか? ●「ハーバード式・シリコンバレー式教育」の落とし穴 ●日本の学校から「いじめが絶対なくならない構造」 ●地方で拡大する「移動格差」 ●「死後離婚・夫婦別墓」の時代 ●「中国の論理」に染まるエリート学生たち ●若者にとって「個性的」が否定の言葉である理由 ●なぜご飯は「悪魔」になったのか? ●「ていねいな暮らし」ブームと「余裕なき日本社会」 ●災害大国の避難場所が「体育館」であることの違和感 ●女性に大人気「フクロウカフェ」のあぶない実態 ●性暴力加害者と被害者が対面したらどうなるのか? ●アフリカ人と結婚した学者が考える「差別とは何か」 ●“褐色肌・金髪・青い眼”のモデルが問う「日本社会の価値観」、となります。まあ、何と申しましょうかで、精粗区々という表現がピッタリなのですが、私が秀逸と感じた分析は、移動に関して「『移動できる者』と『できない者』の二極化が進んでいる。かならずしも地方から出る必要がなくなるなかで、都会に向かう者は学歴や資産、あるいは自分自身に対するある種無謀な自信を持った特殊な者に限られているのである。」といった部分とか、中国に関する見方で「そしてこの国(引用者注: 中国を指す)は、身体を動かせる若い労働力にあふれている。つまり、老齢をむかえて思うように身体が動かなくなった日本がいまの中国から新しく学べることは、おそらく何もない。」といったところでしょうか。加えて、若者考で、空気を読んで周囲から浮きたくないセンチメントとか、いじめ考で、学校というものの定義の変化なども読んでおくべきポイントだという気がします。ただ、そうでなくて参考にもならないパートもいっぱいありますので、そのあたりは読者のセンスが試されるところかもしれません。
最後に、辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書)です。著者は、評論家・近現代史研究者、となっています。本書中で半藤一利のことが歴史研究者と出てきますので、大学などの研究機関の研究者というわけではないのかもしれません。ということで、やや期待外れでしたが、「戦前」について神話から解き明かそうと試みていて、まさに神話の範囲で実在の疑わしい神武天皇とか神功皇后とかにさかのぼって、さらに、徳川期末期の国学などの「研究成果」を基に、日本が神国であって世界を統べるべき、という思想がどのように生まれたのか、についていろいろと事実関係を集めてきています。それを総称して、本書冒頭のp.7では、「いうなれば本書は、神話を通じて『教養としての戦前』を探る試みだ。」ということになっています。まあ、何と申しましょうかで、私にも何となく、教養としての明治維新、とか、教養としての大正デモクラシー、というのは理解できる気がしますが、「教養としての戦前」というのは、本書p.253の八紘一宇が「時代をあらわしたことば」とされて、中身がはっきりしないわりには反対しづらい、といったふうに受け止められる用語としてチェ維持されているような、同じ感触の言葉、ということになりそうな気がします。でも、ひとつだけ残念だったのは、冒頭にタモリの「新しい戦前」を引いておきながら、「教養としての戦前」を探る最後の結論として、現在の「新しい戦前」という見方が当てはまるのかどうか、あるいは、当てはまるのはどの点で、当てはまらないのはどの点か、といった考察は欲しかった気がします。本書では「上からの統制」とともに、「下からの参加」についても目配りしており、実に、今の政府の強引なネオリベ政策の展開と、それを「下から」支えるネトウヨの動きは、まさに「新しい戦前」と言い得る要素を持っている、と私は見ていますので、私の見方が適当なのかどうか、気にかかるところです。
2023年07月01日 (土) 09:00:00
今週の読書はボリュームたっぷりの経済書のほか計5冊
まず、伊藤隆敏・星岳雄『日本経済論』(東洋経済)は、日本経済に関して主として海外学生・院生を対象にした英語版のテキストの邦訳書です。講談社[編]『黒猫を飼い始めた』(講談社)は、タイトルの1文を冒頭に配置するショートショートの作品で、主としてミステリ作家26人の作品集です。荻原博子『5キロ痩せたら100万円』(PHP新書)は、経済ジャーナリストが老齢期に健康を維持する経済効果について論じています。堤未果『ルポ 食が壊れる』(文春新書)は、気鋭の国際ジャーナリストが単に遺伝子組換え食品(GM)などの安全性にとどまらず、食料安全保障や広く農業や食糧生産の経営上の問題について問題提起しています。最後に、源川真希『東京史』(ちくま新書)は、日本近現代史を専門とする歴史学者が7つの視点から東京の近現代史をひも解いています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6月に19冊の後、7月初めてポストする今週の5冊を合わせて68冊となります。どうでもいいことながら、現在の大学に転職して3年余り、この3年間のうち最初の2年間は1本10万円クラスのソフトウェア購入で研究費のそれなりの部分が飛び、昨年度はiPadを買ったり東京に出張したりで研究費を使っていましたが、今年度はしっかり本を買いたいと思っています。
まず、伊藤隆敏・星岳雄『日本経済論』(東洋経済)です。著者は、米国コロンビア大学と東京大学の研究者です。本書は、この著者達2人が英語で出版した The Japanese Economy (MIT Press) を日本語に邦訳したもので、英語の原書は2020年の出版です。もっというなら、本書は第2版=Second Edition であり、英語の初版は伊藤教授の単著であり、1992年の出版です。ですから、初版本は日本のバブル崩壊のころまでしかスコープに収めていませんでしたので、ハッキリいって、現時点では使い物にならず改訂版が待たれていたところでした。私も実は英語の原著の方を先に購入して、邦訳版は今年になってから買い求めました。日本経済の財政・金融、あるいは、産業と雇用などの幅広い分野に渡って解説を加えています。ということで、本書は、おそらく、日本人ではない大学生ないし大学院生であって、しかも、基礎的なマイクロとマクロの、特に後者のマクロな経済学の基礎ができている学生・院生に日本経済を講義する際の教科書といえます。私も、同じような科目を大学で教えていて、しかも、英語の授業と日本語の授業の療法を担当していますので、学部3-4年生から大学院修士課程院生くらいを対象にした英語の日本経済を教える教科書がそれほどないことは承知しています。たぶん、本書が出る前は、Flath教授による同じタイトルの The Japanese Economy (Oxford University Press) が唯一の選択肢に近く、フラス教授の本は第3版が2014年でした。どうでもいいことながら、フラス教授の本の第4版は2022年に、着実にアップデートされています。ちなみに、もっとどうでもいいことながら、昨年までフラス教授は私の大学における同僚で、フラス教授が論文指導していた大学院生の博士論文審査の副査を私は依頼されたこともあります。フラス教授の本の第4版はまだ手元にないのですが、いずれにせよ、伊藤教授と星教授のこの本も、フラス教授の本も、海外の学生や院生に対して日本経済を系統的に教えるいい教科書であることは間違いありません。ただ、どちらも、どのレベルかと質問されると少し迷います。おそらく、日本でのトップレベル校、東大や京大をはじめとして一橋大学なんかを含むトップ校では十分学部3-4年生のレベルでしょうが、もっと下位校であれば大学院修士課程のレベルかも知れません。政府の「経済財政白書」と同じか、少し高レベルくらいですから、ビジネスパーソンにも大いに参考にできる部分があると思います。ただし、何と申しましょうかで、なかなかのボリュームです。600ページ近くに渡って小難しい文章が続いています。大学で同じような科目を教えている私が読了するのに足かけ3日かかっています。その点は書き忘れないでおこうと思っています。
次に、講談社[編]『黒猫を飼い始めた』(講談社)です。編者は講談社なのですが、著者はいっぱいいて、26人のミステリ作家がショートショートを提供しています。しかも、すべてのショートショートの書き出しは、本書のタイトル「黒猫を飼い始めた」となっている、という趣向です。作品はすべて、会員制読書倶楽部である Mephisto Readers Club(MRC)で配信=公開されたショートショートです。一応、著者とタイトルを収録順に書き連ねておきます。すなわち、潮谷験「妻の黒猫」、紙城境介「灰中さんは黙っていてくれる」、結城真一郎「イメチェン」、斜線堂有紀「Buried with my CAAAAAT.」、辻真先「天使と悪魔のチマ」、一穂ミチ「レモンの目」、宮西真冬「メールが届いたとき私は」、柾木政宗「メイにまっしぐら」、真下みこと「ミミのお食事」、似鳥鶏「神の両側で猫を飼う」、周木律「黒猫の暗号」、犬飼ねこそぎ「スフィンクスの謎かけ」、青崎有吾「飽くまで」、小野寺史宜「猫飼人」、高田崇史「晦日の月猫」、紺野天龍「ヒトに関するいくつかの考察」、杉山幌「そして黒猫を見つけた」、原田ひ香「ササミ」、森川智喜「キーワードは黒猫」、河村拓哉「冷たい牢獄より」、秋竹サラダ「アリサ先輩」、矢部嵩「登美子の足音」、朱野帰子「会社に行きたくない田中さん」、方丈貴恵「ゲラが来た」、三津田信三「独り暮らしの母」、そして、円居挽「黒猫はなにを見たか」となります。収録作品数があまりにも多いので全部は紹介しきれませんが、なかなかの秀作ぞろいです。ただし、宮西作品とか三津田作品のように、ホントに黒猫なのか、と疑わしい作品もあるにはあったりします。加えて、黒猫に関するストーリー上の濃淡もあります。例えば、黒猫を飼い始めたがすぐに手放して、飽きっぽさのひとつの例示にとどめている青崎作品もあれば、黒猫が殺人事件の解決に密接に関係している円居作品もあったりします。また、夏目漱石の『吾輩は猫である』よろしく、黒猫の視点を取り入れた紺野作品、あるいは、完全なSFの似鳥作品、はたまた、時代小説の高田作品なども含まれています。スミマセン。全部は紹介しきれません。
次に、荻原博子『5キロ痩せたら100万円』(PHP新書)です。著者は、老後資金などについて詳しいジャーナリストです。タイトル通りに、主としてややメタボ気味な高齢者に対して、体重をコントロールして健康を維持すれば経済的にも大いに節約できる、という内容となっています。かなりの程度に著者自身の経験も取り入れられています。はい。私もその通りだと考えています。すなわち、私はそれなりになの通った大学の経済学部の教授として、投資に関するお話をせがまれることがあり、かなりリターンの確度高くて、しかも、多くのエコノミストの同意する投資を2種類紹介しています。第1に、教育投資です。そして、第2に、子供の教育を終えるころから始めるべき健康投資です。本書はその後者の健康投資にスポットを当てていて、中身も適当であると私は考えています。ただ、これらの教育投資と健康投資については、そのリターンが投資者ご本人に戻ってこないという恨みはあります。教育投資の方は多くの場合は自分の子供にリターンが戻りますので、まあ、いいとしても、健康投資は健康保険組合とか政府に利する部分が大きいというのは事実です。本書のタイトルのうち、「100万円」のリターンがあるとしても、健康保険自己負担が30%だとすれば、投資したご本人には30万円戻るだけで、残りの70万円は健康保険組合とか政府に持っていかれてしまう、というのも事実です。ただ、そうだからといって不健康な生活習慣を止められないのは、結局、大きなマイナスのリターンとなって自分に帰って来ますので、やっぱり、それなりの健康投資は必要です。最後に、健康投資より教育投資について、教育は親の愛情であると反論を受ける場合もありますが、いつも私が主張しているように、ココロや気持ちの問題ではコトは解決しません。交通安全と同じです。必要な投資をケチらないことが重要です。
次に、堤未果『ルポ 食が壊れる』(文春新書)です。著者は、国際ジャーナリストとして、極めて鋭い視点を提供してくれています。実は、本書の前にも『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)という、これも現在進行形で進められている「売国ビジネス」、すなわち、GAFAをはじめとするをはじめ米国と中国などの巨大テック資本が、行政、金融、教育といった極めて重要であり、市場化されていない日本の心臓部を狙った攻勢を仕かけているという新書を読みました。デジタル庁の設置に始まって、地方再生と結びついたスーパーシティ、金融分野のキャッシュレス化、さらにオンライン教育、ときて、現在の健康保険証の紐づけに至るマイナンバーカードのゴリ押しまで幅広くカバーしています。少し前の本だったので、この新刊書の読書感想文には取り上げていませんが、さらに、本書の続編で『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)もすでに出版されており、私はもう購入していて、いかにもナオミ・クラインによる『ショック・ドクトリン』になぞらえた新書もあります。近く私も読んで読書感想文をポストしたいと思っています。その2冊の間で、本書はやや地味な印象なのですが、半導体供給などでJSRに資本テコ入れが図られたりして、経済安全保障が注目される中で置き去りにされがちな食料安全保障の分野のルポを取りまとめています。私も勤務する大学の授業で取り上げますが、広く知られているように、日本は食料自給率が極めて低く、食料安全保障に不安を覚えているエコノミストは私だけではないと思います。単に、安全性に特化した消費者団体的な視点で、遺伝子組換え食品(GM)やゲノム編集食品だけではなく、経営的な支配力の観点も本書では重視しています。また、本書から離れても、ラトガーズ大学のグループによる論文で、朝日新聞のサイトでも報じたように、「核の冬」というやや極端な状況ながら、食料危機が生じれば我が国で非常に多くの餓死者が出るという研究成果もあります。食料の未来を考える上で、本書も大いに参考にすべきと私は考えています。
最後に、源川真希『東京史』(ちくま新書)です。著者は、首都大学東京の歴史研究者です。日本の近現代史がご専門ということです。本書は7章構成になっていて、破壊と再生、帝都/首都とインフラ、近代都市における民衆、自治と政治、工業化とその後の脱工業化、繁華街などでの娯楽、山の手と下町といった高低の感覚、から明治維新以降の東京の近現代史を展開しています。私も大学卒業後、60歳の定年まで海外勤務などの例外を除けば、ほぼほぼ東京で公務員をしていたわけですが、やっぱり、東京の特殊性というものを実感しています。その辺の感覚は関西地場の人々とはかなり違っていると認識せざるを得ません。実は、少し前に勤務校の新任教員との交流ということでセミナーに参加し、東京における建築の高さ規制がどのような経済ロスを生じているか、というテーマのセミナーだったのですが、そこでも「東京は特殊か?」という議論が出てきて、私の実感として目いっぱい特殊である、と発言しておきました。そして、勤務校でのセミナーは最近時点での分析だったのですが、おそらく、東京特殊論は明治維新よりももっとさかのぼって徳川期の元禄あたりから当てはまるのではないか、私は考えています。もで、徳川期には京と大坂という江戸よりもっと特殊な都市空間がありましたので、その意味で、東京が帝都/首都として特殊になったのは明治維新以降かもしれません。例えば、現在放送中のNHK朝ドラ「らんまん」に関して、私の好きな関西在住の女性ミステリ作家がツイートしていて、主人公の姉の綾と結婚して実家高知の造り酒屋を継ぐ竹雄について、「竹雄、東京にいたことが、着こなしや振る舞いのスマートさにつながっていて、この先彼が違う道を歩いても、それが彼の武器になっていくのがわかる。」というのがありました。まさにその通りだと思います。ですから、私は学生や院生の諸君に対して就職するにせよ、研究を続けるにせよ、1度でいいから東京の空気に触れておくのも一案である、と示唆しています。その昔の中世ドイツに「都市の空気は自由にする」"Stadtluft macht frei." というのがありましたが、そこまで極端、あるいは、制度的ではないとしても、東京にはそれに近いものがあるような気がします。
2023年06月24日 (土) 16:00:00
今週の読書は財政政策に関する経済の学術書をはじめとして計5冊
まず、オリヴィエ・ブランシャール『21世紀の財政政策』(日本経済新聞出版)では、従来財政収支黒字にこだわった議論がなされてきた財政のサステイナビリティに関して、利子率と成長率に着目した理論を展開しています。一穂ミチ『光のとこにいてね』(文藝春秋)は2人の女性の出会いと別れを切なく描き出しています。長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)では古代日本の歴史について鉄中心史観のような考え方が展開されています。兼本浩祐『普通という異常』(講談社現代新書)では、ADHDやASDではない健常発達者について、正常とか普通とかはホントにそうなのかを考えています。最後に、戸川安宣 [編]『世界推理短編傑作集6』(創元推理文庫)では、20世紀なかばまでの傑作短編推理小説を集めた第5巻までの傑作集の補遺となっています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、退院後の今月が本日分を合わせて19冊、合計63冊となります。
まず、オリヴィエ・ブランシャール『21世紀の財政政策』(日本経済新聞出版)です。著者は、マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授であり、国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミストの経験もありますし、そのうちにノーベル経済学賞を受賞する可能性も十分あり、世界のトップレベルのエコノミストの1人です。英語の原題は Fiscal Policy under Low Interest Rates であり、2022年の出版です。本書は、米国経済学会の会長講演の論文 "Public Debt and Low Interest Rates" を基に、財政赤字の持続可能性について論じています。実は、私も長崎大学の紀要論文「財政の持続可能性に関する考察」で同じような視点を取り上げているのですが、まあ、何と申しましょうかでエコノミストとしての格が違いすぎますので、比較もできません。ということで、前置きが長くなりましたが、財政の持続可能性については、大昔の1940年代にドーマー教授が提唱したドーマー方程式、とか、ドーマー条件といわれるものがあり、基礎的財政収支=プライマリバランスが黒字であるか、利子率が成長率よりも低ければ、財政のサステイナビリティが確保され、公的債務のGDP比は低下する、というものです。しかし、日本の議論が典型的ですが、学界でも長らく前者のプライマリバランスの黒字化だけが注目されていて、利子率と成長率の関係についてはほぼほぼ無視されていました。しかし、本書では無視されていた利子率と成長率との関係に着目し、財政政策のあり方を論じています。現在の岸田内閣でも、私はそもそも軍事費の拡大には反対ですが、少子化対策などの財源先送りの再出拡大策が議論されており、本書も今後注目が集まることは明らかです。だから、ではないのですが、実は、私自身の今年の夏休みの論文は財政のサステイナビリティについて書き始めており、英語の原書をひも解いていたのですが、早速にこの訳書を入手して作業が格段はかどるようになって大助かりです。でも、逆に考えると、完全な学術書ですので、一般ビジネスパーソンにどこまでオススメできるかは自信がありません。財務省のエコノミストなんかは読むけど無視するのかもしれませんし、逆に、大いに取り込もうとするのかもしれません。いずれにせよ、現代貨幣理論(MMT)のような極端な議論でなくても、反緊縮の理論的基礎は主流派経済学のスコープで十分得られる、と私は考えていますし、本書はその信念を裏付ける学術的な研究成果だと受け止めています。最後に、今年2023年まだ半ばで、しかも、さらのその半分を病院で過ごして経済書のフォローが十分ではないながら、それでも、私は本書を今年のベスト経済書に推すと思います。
次に、一穂ミチ『光のとこにいてね』(文藝春秋)です。著者は、ミステリもモノにする作家さんです。私は不勉強にして、『スモールワールズ』しか読んだことがありません。この作品は昨年2022年下期の直木賞にノミネートされています。ということで、女性2人の物語、と読む人が多そうな気がしますが、私は母親と娘の関係を描き出しているというふうに読みました。それはともかく、同い年の小瀧結珠(後に結婚して藤野結珠)と校倉果遠(後に結婚して果遠)の2人を軸にストーリーが展開されます。3部構成であり、第1部は2人が古びた団地で出会う少額2年生のころ、第2部が高校1年生のころ、そして、最後の第3部が30歳手前の29歳のころ、ということになります。医者の父や医学生の兄がいる何不自由ない家庭で育ちながら、自分を評価してくれない母に対するやや歪んだ感情から抜けきれない結珠とシングルマザーの家庭で生活し、結珠と同じお嬢様女子校に入学しながらも、すぐに結珠と別れてしまう果遠でした。たぶ、この2人の出会いと別れの繰り返しに涙する読者も多いことと思います。でも、繰り返しになりますが、この作品は母と娘の関係性に着目して私は読みました。誠に残念ながら、私は男ですので母にも娘にもなれませんし、そういった視線から読むと、ある意味で、不自然極まりない設定の小説ではないか、という気すらします。でも、魔法使いの男の子の成長物語が世界的にヒットして映画化もされる世の中ですので、こういった現実離れした世界を楽しむのもいいかもしれません。
次に、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)です。著者は、国土交通省の技官で港湾技術研究所のご出身です。古代史について何冊かの著書をモノにしていて、たぶん、私はまったく読んでいませんが、鉄中心史観のようなものを展開している印象です。本書でも、古代のテクノロジーに関しては冒頭の第1章で縄文時代の三内丸山遺跡の縄文タワー、古墳時代の河内・大和大運河、奈良時代の平城京の基礎となった水プロジェクトについて取り上げているだけで、第2章以降は古代史について持論を展開しているだけのような気もします。まあ、我が国を出て朝鮮半島や中国大陸との交渉に当たったのは国家としての正式な外交使節ではなく、通商に携わった証人である、というのは、何となく理解できるわけですし、繰り返しになりますが、鉄中心史観もまあいいと思います。そして、最終章の古代のテクノロジーでは川の氾濫は防ぎきれず、古代人は治水を考慮していなかった、というのも、まずまず、いいセン行っていると思います。鉄中心史観に加えて、水に関する着目もいいのではないかと思います。ただ、タイトルに引かれて余りにも期待を膨らませない方がいいと思うだけです。
次に、兼本浩祐『普通という異常』(講談社現代新書)です。著者は、愛知医科大学の精神科の研究者です。タイトルのごとく、本書ではいわゆる正常とか普通とかについて、ニューロティピカル症候群や健常発達症候群として捉え、その特徴をADHDやASDと対比させ、また、現在のSNSでの「いいね」を求める承認欲求を交えつつ明らかにしようと試みています。ひとつだけ、経済学というよりは経営学的に承認欲求を研究したケースとして、マズローの5段解説がありますが、これについては本書では認識が及んでいないようですので、あくまで、精神医学的な解説となっています。すなわち、生活臨床を引いての「色、金、名誉」を目指す通常の思考や行動のパターンに収まりきらない、という意味での異常を考えるだけではなく、いろんなトピック、例えば、テレビのリアリティ番組「あざとくて何が悪いの?」から派生したあざとかわいいを考えたり、著者自身のディズニー不感症とか、はては、ADHDはノマド的で、そうでない健常者は定住民的、といった判りやすい部分も少なくなく、それ相応に工夫はされています。しかs,トピックの飛び方が極めてマチマチで、関連性なく話題が並べられている上に、本としての構成も下手くそです。ホントに編集者がチェックしているのでしょうか、という疑問すらあります。ですから、パートパートを拾い読みする分にはいいのかもしれませんが、系統的な理解を得用とすると、少し骨かもしれません。
次に、戸川安宣 [編]『世界推理短編傑作集6』(創元推理文庫)です。著者は、ミステリの編集者であり、東京創元社社長も務めたことがあります。このシリーズは5巻まで読んで、その5巻までは、基本的に、江戸川乱歩の編集、ということになっていたのですが、その補遺として本書も編まれています。収録短編は、エミール・ガボリオ「バティニョールの老人」、ニコラス・カーター「ディキンスン夫人の謎」、M. P. シール「エドマンズベリー僧院の宝石」、E. W. ホーナング「仮装芝居」、オルダス・ハックスリー「ジョコンダの微笑」、レイモンド・チャンドラー「雨の殺人者」、パール S. バック「身代金」、ジョルジュ・シムノン「メグレのパイプ」、イーヴリン・ウォー「戦術の演習」、ハリイ・ケメルマン「9マイルは遠すぎる」、E. S. ガードナー「緋の接吻」、ロバート・アーサー「51番目の密室またはMWAの殺人」、マイケル・イネス「死者の靴」、となっています。短編としてはチョー有名なケメルマンの「9マイルは遠すぎる」とか、あるいは、ミステリの世界では有名なチャンドラー、シムノン、ガードナーなどの作品も収録されています。もちろん、シムノン作品はメグレ警部が主人公ですし、ガードナー作品は弁護士メイスンの法廷シーンが見せ場です。意外と思われるのは、ハックスリーやバックの作品が収録されているところですが、少なくとも、バックの「身代金」はその昔から有名なミステリと見なされていたようです。私は不勉強にして知りませんでしたので、ご参考まで。
2023年06月10日 (土) 16:30:00
今週の読書はまたまた軽めに計5冊
まず、あをにまる『今昔奈良物語集』(角川書店)は古典を基に奈良に即したパロディにした短編を収録した短編集です、単行本はこれだけで、あと4冊は新書になります。斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)は晩期マルクスをひも解いて物質代謝の理解から脱成長によるサステイナビリティの改善の道筋を示しています。貞包英之『消費社会を問いなおす』(ちくま新書)では、労働と消費のデカップリングのためのベーシックインカムについて論じています。恒川惠一『新興国は世界を変えるか』(中公新書)では、経済力を背景に存在感を増している新興国のプレゼンス向上が自由主義的国際主義の世界を変えるかどうかを考えています。最後に、石破茂ほか『自民党という絶望』(宝島社新書)では様々な観点から政権党であり続ける自民党に関する批判的見方を提供しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、先週8冊の後、今週ポストする5冊を合わせて57冊となります。順次、Facebookでシェアするなど進めたいと思います。
まず、あをにまる『今昔奈良物語集』(角川書店)です。著者は、主としてネット小説を手がけている作家ということです。本書巻尾には「奈良県出身、在住」としかありませんが。当然ながら、何らかのより強いつながりがあるのだろうと私は想像しています。本書は古典を基に奈良に即したパロディにした短編を収録した短編集です。収録されている作品とその元となる古典は、順に、「走れ黒須」(太宰治『走れメロス』)、「奈良島太郎」(『浦島太郎』)、「二十歳」(菊池寛『形』)、「ファンキー竹取物語」(『竹取物語』)、「大和の桜の満開の下」(坂口安吾『桜の森の満開の下』)、「古都路」(夏目漱石『こころ』)、「三文の徳」(芥川龍之介『薮の中』)、「若草山月記」(中島敦『山月記』)、「どん銀行員」(新美南吉『ごんぎつね』)、「うみなし」(宮澤賢治『やまなし』)、「耳成浩一の話」(小泉八雲『耳無芳一の話』)、となっています。冒頭作は、大阪のぼったくりバーの料金を払えずに、友人を残して奈良まで支払手段を取りに帰り、友人を救助すべく夜明け前の道を急ぐ、というものです。私自身は、「どん銀行員」を面白く読みました。鈍で大した仕事もしていないように見える銀行員が、実は、とても重要な役割を果たしている、という作品です。私自身は京都から近鉄に乗って奈良にある中学・高校に6年間通っていましたから、土地勘がありますし奈良にはそれなりの思い入れもあります。でも、京都よりも古いことですし、多くの読者が楽しめる作品に仕上がっていると思います。
次に、斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)です。著者は、集英社新書の『人新世の「資本論」』などで注目されているマルキストです。私の目から見て、エコノミストというよりは哲学者に近い印象を持ちますが、私のような主流派に属するエコノミストから見ると、マルキストはそういう人が多いのかもしれません。本書は、2021年1月にNHKで放送され好評だった「100分de名著 カール・マルクス『資本論』」を基にしています。大昔ながら、一応、私は『資本論』全3巻を読んでいて、公務員試験の2次試験の面接でも隠すことなく明らかにした記憶があり、その上で採用されて官庁エコノミストをしたりしました。ですから、「ゼロから」をつけられると少し抵抗がなくもないのですが、まあ、ほぼほぼゼロだというとこは認めます。そして、本書では、『資本論』だけに依拠するのではなく、この著者が盛んに主張しているように、後期ないし晩期マルクスの物質代謝を軸にして、従来の史的唯物論から脱却したマルクス主義を展開しています。その主眼は、史的唯物のような一直線の成長ではなく、むしろ脱成長を軸に置き、それと環境との調和、あるいは、経済と環境のサステイナビリティを両立させる方向性です。私はマルクス主義そのものにそもそも詳しくないですし、加えて、一般的理解の先にある晩期マルクスの主張はまったく不案内ですが、現在のネオリベな資本主義の前を展望する経済社会体制として、マルクス主義的な社会主義や共産主義は十分可能性がある、と考えていて、でも、私はまったく詳しくない、とも自覚しています。その意味で、大いに勉強になりました。
次に、貞包英之『消費社会を問いなおす』(ちくま新書)です。著者は、立教大学の研究者であり、専門は経済学ではなく社会学です。ですから、本書では「消費社会」について、かなりの程度に経済学的な観点を踏まえつつ、でも、社会学的に消費者の選択という観点から考えています。もっとも、経済学でも選択の問題はよりロジカルに考えますから、むしろ、社会学的に消費の限界を考えていて、その限界の解決を思考している、と私は受け止めています。そして、本書で指摘している消費の限界は2点あり、経済と環境です。経済という点でいえば、格差・不平等とか不公平の拡大があり、環境については、もはやいうまでもありません。新書ながら限界の解決策を思考しているのが本書の立派なところで、解決のためにベーシックインカムを主張しています。すなわち、ベーシックインカムによって勤労/労働と消費のデカップリングが可能になる、というわけです。私には、この論点、というか、労働と消費のデカップリングがどこまで重要なのかが十分に理解できませんでした。加えて、消費の分析が甘い気がします。というのは、ネットの普及・発達によるSNSや通販が消費に及ぼす影響、あるいは、消費者への影響がほとんど分析されていません。ここはもう少し掘り下げた分析が欲しかったところです。
次に、恒川惠一『新興国は世界を変えるか』(中公新書)です。著者は、政策研究大学院大学(GRIPS)の研究者でしたが、私よりもさらに10歳ほど年長ですから、一線は退いているのではないかと想像しています。専門は比較政治学、国際関係論です。実は、もう15年ほど前に私が長崎大学の教員だったころ、国際開発機構(JICA)研究所の非常勤の特別研究員をしていたのですが、その時のJICA研の所長ではなかったか、と記憶しています。本書では、高い成長率に示されているような経済力を背景に存在感を増している新興国、BRICSをはじめとする新興国について、政治経済的に福祉国家の志向、民主化の行方、あるいは、国際関係への関与、などを概観しつつ、本書のタイトルである「新興国は世界を変えるか」について考察を進めています。そして、中でも「世界を変える」というのは、本書p.199に示されているように、2つの次元、すなわち、民主主義と権威主義、そして、国際協調と自国中心を考え、先進国中心の世界は自由主義的国際主義、すなわち、民主主義に基づく国際協調であった一方で、国家主義的自国主義に変貌していく可能性を指しています。そして、少なくとも現時点では、そのリスクは大きくないと楽観的な結論を示しています。私も基本的にこの結論には賛成なのですが、他方で、本書のスコープ外ながら、視点を新興国から先進国の方に移動させると、米国のトランプ前大統領、あるいは、イタリアのメローニ首相、あるいは、欧州のいくつかのポピュリスト党の伸長などは新興国側からではなく、先進国側からの自由主義的国際主義へのリスクになりそうな気もします。
次に、石破茂ほか『自民党という絶望』(宝島社新書)です。著者は、上の表紙画像に小さく見える9名であり、終章を別にすれば9章から構成されています。ただ、著者、というのは完全に正確なわけではなく、むしろ、対談でインタビューを受けている方々、ということになります。長くなりますが、少タイトルと著者を羅列すると、第1章 "空気"という妖怪に支配される防衛政策-石破茂(自民党・衆議院議員)、第2章 反日カルトと自民党、銃弾が撃ち抜いた半世紀の蜜月-鈴木エイト(ジャーナリスト)、第3章 理念なき「対米従属」で権力にしがみついてきた自民党-白井聡(政治学者・京都精華大学准教授)、第4章 永田町を跋扈する「質の悪い右翼もどき」たち-古谷経衡(作家)、第5章 "野望"実現のために暴走し続けたアベノミクスの大罪-浜矩子(経済学者)、第6章 「デジタル後進国」脱却を阻む、政治家のアナログ思考-野口悠紀雄(経済学者)、第7章 食の安全保障を完全無視の日本は「真っ先に飢える」-鈴木宣弘(経済学者・東京大学大学院農学生命科学研究科教授)、第8章 自民党における派閥は今や“選挙互助会”に-井上寿一(歴史学者・学習院大学教授)、第9章 小泉・竹中「新自由主義」の"罪と罰"-亀井静香(元自民党政調会長)、ということになります。基本的に、今世紀に入ってからの自民党政権、特に長期政権を維持した安倍内閣のころの自民党が主として取り上げられている印象です。終章では、サルトーリ教授の「1党優位性」の概念を示しつつ、自民党政権が続いた点について考察を加えています。特に、現在の岸田内閣については、安倍内閣や菅内閣と基本的に差はない、とする多くの識者の意見は、私もその通りだと感じています。ただ、私は特に今世紀に入ってからの連立与党である公明党の果たした役割が抜けている気がしてなりません。「統一協会」問題での存在感のなさは少し不思議でした。加えて、自民党のコインのウラに当たる野党、特に2009年に政権交代を果たした当時の民主党政権のひどいパフォーマンスについて、もう少し取り上げて欲しかった気がします。でも、そういった点を割り引いても、本書は自民党政権の理解に大いに役立つと私は受け止めていますし、多くの読者が読んでおいて損はない、と考えています。
2023年06月03日 (土) 17:00:00
交通事故から退院した今週の読書感想文は経済書はなく計9冊
まず、安倍晋三ほか『安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)です。今さら言うまでもなく、昨夏に暗殺された元総理大臣の回顧録です。そして、小説を3冊、村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社)は我が国を代表する小説家が6年ぶりに出版した新作長編小説です。ここまで入院中に読み、以下は退院後に読みました。すなわち、今野敏『審議官 隠蔽捜査9.5』(新潮社)はミステリ作家による警察小説のシリーズのスピンオフ短編集です。麻耶雄嵩『化石少女と7つの冒険』(徳間書店)もミステリ作家による高校を舞台にした学園ミステリです。新書は2冊で、源河亨『「美味しい」とは何か』(中公新書)は食から美学を考えており、「浦上克哉『もしかして認知症?』(PHP新書)はコロナ禍で懸念される認知症について豊富な情報が詰め込まれています。最後に、文庫本は3冊でアンソニー・ホロヴィッツ『殺しへのライン』(創元推理文庫)は探偵ダニエル・ホーソーンの謎解きを作家であるアンソニー・ホロヴィッツが取りまとめるシリーズ第3巻最新刊であり、ピーター・トレメイン『昏き聖母』上下(創元推理文庫)は7世紀のアイルランドを舞台にした修道女フィデルマのシリーズ最新邦訳です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、入院によるブランクが3か月近くあり、今週ポストする9冊を合わせて53冊となります。年半分が過ぎて、例年の年間新刊書読書200冊はムリそうです。せめて、100冊の大台には乗せておきたいと希望しています。ただ、今週の読書感想文は、経済書がなく退院したばかりでもあり、軽いレビューで失礼しておきます。
まず、安倍晋三ほか『安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)です。著者は、元総理大臣とインタビュアーのジャーナリストです。安倍晋三元総理は、繰り返しになりますが、昨年2023年7月8日の選挙演説中に暗殺されています。当たり前ですが、それ以前にジャーナリスト2人、すなわち、橋本五郎・尾山宏が聞き取った36時間に渡るインタビューを編集して収録しています。第1章が辞任直前の2020年を取り上げているほかは、第2章で第1次内閣当時までの2003-12年、さらに、第3章では第2次内閣の発足した2013年、などなど、基本的に時系列での章別構成となっています。第1章とともに、第6章だけは例外で、第6章では海外首脳の評価に当てられています。私はエコノミストですので、本書で多くの紙幅が割かれている外交関係は、まあ、外交官経験があるとはいえ、専門外ながら、ひとつの読ませどころとなっているように感じました。ジャーナリストが聞き取ったインタビューを編集した結果ですので、安倍元総理の自画自賛的な部分や一方的な解釈も見受けられ、特に、「財務省陰謀論」的な主張など、それなりに読み進むには注意を要すると感じる読者もいそうな気がします。なお、本書は交通事故にあった時点でリュックに持っていて、半分くらいを読み終えていましたが、入院中にもう一度最初から読み返しました。
次に、村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社)です。著者は、日本を代表する作家の1人であり、最近ではノーベル文学賞候補に上げられることもあります。といった大作家ですので、出版社も特設サイトを開設したりしています。17歳と16歳の高校生男女のカップルから始まって、男子高校生のその後のあり方を主人公に壁の中と外とでストーリーが進みます。主人公のほか、実態上の私設図書館のオーナー運営者であった子易さん、あるいは、イエローサブマリンのヨットパーカを着て図書館に通い詰めていた少年、特徴的な登場人物によって物語が彩られます。読者によっては、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のパラレル・ワールドを思い出す人がいそうな気がします。私はこの作家の大ファンですし、まさに、「村上ワールド」全開といったこの作品はとても好きになりました。『海辺のカフカ』や最近の作品である『1Q84』、あるいは、『騎士団長殺し』などに見られた暴力的な描写もほとんどありません。これも私には好ましい点でした。最後に、私はタイトルも発表されていない2月の時点で大学生協に発注し、入院中にお見舞いに来てくれた同僚教員に持ってきてもらいました。感謝申し上げます。
次に、今野敏『審議官 隠蔽捜査9.5』(新潮社)です。著者は、日本でもっとも売れているミステリ作家の1人であり小説小説がひとつの特徴と考える読者も多いと思います。タイトル通り、「隠蔽捜査」シリーズのスピンオフ短編集です。2字ないし3字の漢字のタイトルを持つ9篇の短編から編まれています。このシリーズでは竜崎と伊丹の2人の警察キャリア官僚が登場しますが、伊丹の方は一貫して警視庁刑事部長である一方で、竜崎の方は警視庁大森署長だったり、神奈川県警刑事部長だったりします。しかし、竜崎は主人公ですが、伊丹の方は本書にはほとんど登場しません。相変わらず、竜崎のウルトラ合理的な姿勢が強調されています。しかし、その中にあって、本書の表題作となっている短編の「審議官」では、仕事をスムーズに運ぶために、というか、面倒を回避するために、竜崎が格上である先輩の警察庁審議官を持ち上げるような面を見せたりします。ただ、これも合理的な理由からなされている点が強調されています。私のようにこのシリーズのファンであれば、読んでおくべきだという気がします。
次に、麻耶雄嵩『化石少女と7つの冒険』(徳間書店)です。著者は、我が母校の京都大学ミス研出身のミステリ作家です。私と同年代に近い京大ミス研出身作家である綾辻行人や法月綸太郎などから10年ほど後輩ではないかと思います。舞台は京都市北部にあるお嬢様お坊っちゃまの通う私立ペルム学園で、主人公はタイトルにある化石少女、すなわち、古生物部の部長である神舞まりあ、高校3年生です。ミステリの謎解きを試みる探偵役です。そして、主人公をサポートするのは同じ古生物部の1年下の高校2年生の桑島彰、まりあの「従僕クン」となります。なお、本書には2014年出版の前作『化石少女』があり、前作では主人公の神舞まりあは高校2年生、桑島彰は高校1年生でしたので、10年近くを経て学年をひとつ進めたことになります。ペルム学園の古生物部には、1年生から高萩双葉が新入部員として加わります。前作では、部員の少ない「過疎部」として生徒会から古生物部が目をつけられていて、とてもあり得なくも毎月のように殺人事件が頻発するペルム学園で、廃部を回避すべく生徒会役員を犯人に見立てた主人公神舞まりあの推理を桑島彰が否定しまくる、というものでしたが、この作品でも前作と同じように、毎月のようにペルム学園で殺人事件が起こります。ただ、まりあが京都府内で恐竜の化石を発見したり、その話題性で大学への推薦入学が早々に決まったりという動きもあります。加えて、前作では真相が明らかにされない事件がいっぱいだったのですが。この作品では真相が明らかになる事件も少なくありません。私のようにこの作家のファンであれば、読んでおいて損はないと思います。
次に、源河亨『「美味しい」とは何か』(中公新書)です。著者は、九州大学の研究者であり、専門は哲学や美学です。本書では、いわゆる味覚について、甘いとか、しょっぱいとかの客観性ある表現ではなく、多分に主観的な要素を含む「美味しい」について、哲学や美学の観点から考察を進めています。甘いとか、辛いとかの記述的判断ではなく、「美味しい」あるいはその逆の「不味い」というのは評価的判断であることから、主観的な要素もあると私は考えますが、文化に根ざす客観性という概念を用いて、著者は食における美学的な表現を展開します。もちろん、他方で、食の芸術性についても考えていて、絵画や音楽といった「高級芸術」に比べて食については「定休芸術」、ないし、芸術ではないとする見解を否定し、同時に、食の芸術性は単なる味覚と嗅覚だけではなく、見た目の視覚や歯触り口当たりなどの触覚なども含めたマルチ・モーダルな観点から評価できる、と主張しています。確かに、私は花粉症の季節にはほぼほぼ嗅覚を失いますが、匂いを感じない時期に色を見ずに果実ジュースを飲むと、何なのか、まったく判らず、美味しさも大きく低減するのを経験することがあります。やや理屈っぽい内容ですが、普段から食べている食品について、より深く考える一助となります。
次に、浦上克哉『もしかして認知症?』(PHP新書)です。著者は、鳥取大学医学部の研究者であり、認知症学会の代表理事だそうです。認知症は発症してしまったら根治は不可能に近く、せいぜいが進行を遅らせるくらいしか出来ないと巷間よくいわれており、さらに、ここ3年ほどのコロナ禍の中で外部との交流なども不十分となり、本書で指摘されるまでもなく、認知症のリスクが高まっていることは明らかです。本書では、認知症発症の前の軽度認知障害を克服して、認知症に進まないために必要な情報を提供するとともに、鳥取ローカルでのいくつかの社会実験的な試みを基に、認知症について包括的に論じています。ただ、惜しむらくは、こういった医学専門家の著書にありがちな点で、認知症さえ防止できればそれ以外の疾病は問題とするに及ばず、に近い感覚が読み取れます。総合的な健康という観点が少し希薄な点が残念です。でも、認知症一点張りの本書とともに、読者の方で自分自身の総合的な健康をバランスよく考える一助には十分なります。
最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『殺しへのライン』(創元推理文庫)(創元推理文庫)です。英語の原題は A line to Kill となっていて、2021年の出版です。作者は、『カササギ殺人事件』などで著名な英国のミステリ作家です。この作品は、探偵ダニエル・ホーソーンの事件解決を作家のアンソニー・ホロヴィッツが記述するというシリーズであり、『メインテーマは殺人』と『その裁きは死』に続く第3作です。第4作はすでに英国で出版されていて、タイトルは The Twist of a Knife と巻末の解説で紹介されています。本書では、まだ出版されていない第2巻のプロモーションのためにチャンネル諸島のオルダニー島で開催される文芸フェスにホーソーンとホロヴィッツが行ったところ、島内で連続殺人事件が発生し、島在住の大富豪でオンライン・カジノの経営者で、島に送電線を通す事業も手がけ、さらに、文芸フェスのスポンサーでもある人物とその妻が殺されます。犯人当てとともに動機の解明もテーマとなります。ただ、ミステリとしての謎解きは前作の『その裁きは死』の方が出来がよかったと私は感じました。ご参考まで。
最後に、ピーター・トレメイン『昏き聖母』上下(創元推理文庫)です。英語の原題は Our Lady of Darkness であり、2000年の出版です。作者は、英国の推理小説作家で「修道女フィデルマ」のシリーズ最新邦訳です。本書では、フィデルマのもっとも親しい友人の1人、というか、このシリーズではフィデルマの相棒を務めているサクソン人修道士のエイダルフが、フィデルマの兄王が統治するモアン王国と緊張関係にあるラーハン王国で殺人の罪に問われて有罪判決を受け、処刑の前日に救助に向かう、というところからストーリーが始まります。フィデルマはモアン王国から同行してきた武官らとともに調査を進め、エイダルフの無実を明らかにすべく事件の真相に迫ります。いつもながら、非常に合理的かつクリアな謎解きで、私の好きなミステリのシリーズのひとつです。
2023年03月04日 (土) 09:00:00
今週の読書は観光経済学に関する学術書や話題のミステリなど計4冊
まず、山内弘隆ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)は、初学者向けの入門書ながら観光経済学に関する学術書です。呉勝浩『爆弾』(講談社)は、我が国で昨年もっとも話題になったミステリのひとつです。吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)では、長らく朝日新聞のジャーナリストだった著者が勢力均衡の考えに基づく核抑止策を「解体」し、新たな各シルク抑制の方策を議論しています。最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)では、11人の作家がいわゆる事故物件などの怖い物件についてホラーを展開しています。ただ、新刊書読書は今週4冊だったのですが、新刊書ならざるミステリを何冊か読んでいます。すなわち、近藤史恵『ダークルーム』(角川文庫)と伏尾美紀『北緯43度のコールドケース』(講談社)、そして、麻耶雄嵩『化石少女』(徳間書店)です。最初の2冊はすでにFacebookでシェアしてあります。最後の『化石少女』のブックレビューもそのうちに、と考えています。
ということで、今年の新刊書読書は、1月2月ともに各20冊ですから1~2月で計40冊、3月に入って今週の4冊で、合計24冊となっています。
まず、山内弘ほか[編]『観光経済学』(有斐閣)です。著者は、交通経済学や文化経済学などの研究者が多くなっています。でも、エコノミストであることは明らかそうです。いずれにせよ、本書は学術書ですが、初学者の入門書でもありますので、研究者だけを読者に想定しているわけでもなさそうです。まず、最初にお断りしておきますが、私は観光経済学の専門家ではありません。しかも、本書については、4月に研究費が復活したら購入しようと考えていますので、やや雑な読み方になっている可能性はあります。構成は4部からなっており、最初にマイクロな経済学の基礎、次に、観光産業、そして、地域政策、最後に当kリヤ実証に、それぞれスポットを当てています。最初のマイクロな経済学は、通常のいわゆるミクロ経済学と大差ないのですが、私の印象で重要なポイントは2点あります。第1に、供給に関しては通常の財やサービスなどよりも供給制約が激しい点です。もちろん、普通のモノやサービスなどでも、売り切れになったり、サービス提供を受けられないケースはあり得ます。でも、バブル期のレストラン予約とか、いまでも繁忙期のホテルや飛行機の予約は通常以上に売切れ、というか、予約いっぱいとなるケースが多いのではないでしょうか。従って、観光に関する供給曲線はかなりスティープと考えるべきです。加えて、第2に、通常のミクロ経済学では市場における完全情報を前提にしますが、観光に関しては情報の非対称性はかなり大きと考えるべきです。観光に関する情報が完全であれば、わざわざ観光のために旅行して出向く必要はないからです。そして、第Ⅱ部の観光産業については、そもそも、通常の統計や経済学における産業分類は供給する財やサービスに従っていますので、観光サービスというカテゴリーはあり得なくはないものの、一般的ではありません。ですから、この第Ⅱ部ではいわゆる旅行代理店のような仲介業、宿泊と交通という3つの産業をそれぞれの章で取り上げています。すなわち、観光業というのは宿泊業とか、飲食サービス業とか、交通業にまたがって観察される一方で、例えば、交通では観光ばかりでなく通常の通勤通学も含まれてしまいます。ですから、統計的に観光のアウトプットを把握するのは少し難しい課題となります。そして、第Ⅲ部と第Ⅳ部は少し簡略に飛ばすこととし、私が今までに大学院生の修士論文指導などで勉強してきた観光経済学のいくつかのポイントを書き記しておきたいと思います。まず、広く観光とは旅行とほぼほぼ同じで日常生活を離れたアクティビティであり、英語では travel になります。ですから、狭い意味での sightseeing ではありません。英語の論文で勉強したもので英語が続いて申し訳ありませんが、やや記憶は不確かながら、観光目的は主として4つあります。(1) natural wonder、(2) urban convenience、(3) resort hospitality、(4) business、となります。最初の(1)はアフリカの大自然、野生の動物、ナイアガラの滝などに行くことです。(2)は主として都会で可能となる活動、美術館・博物館、あるいは、観劇などで、かつての訪日観光客の「爆買い」などのショッピングも含めていいかもしれません。(3)はいうまでもなく、ハワイやサイパンなどのビーチリゾートのほか、ニセコのスキー場などが上げられます。(4)はsightseeingの観光には含まれないと考える日本人が多そうですが、ビジネス客だって出張先には飛行機や列車などで移動しますし、レストランで食事してホテルに泊まったりします。おそらく、これらの観光目的別だけでなく、観光施設とその基礎となる施設、すなわち、ホテルやレストランは民間企業が受け持つとしても、飛行場や高速道路、あるいは鉄道網などのインフラをどのように整備するか、といった観点から地方進行の政策に結びつける観点も必要です。観光経済学とは決してマイクロだけな経済学ではありません。
次に、呉勝浩『爆弾』(講談社)です。著者は、ミステリ作家です。おそらく、この作品は昨年2022年中の我が国ミステリ作品の中でも、夕木春央の『方舟』とともに、もっとも話題になった作品のひとつではないかと思います。酒の自動販売機を蹴って、酒屋に暴行を働くという微罪で野方署に連行されたスズキタゴサクと名乗る男が、取調べの際に霊感があると称して「10時に秋葉原で爆発がある」と予言し、その予言が的中して秋葉原の廃ビルが爆破されるところからストーリーが始まります。ここから東京都内で連続爆弾事件が展開するわけです。広い東京でどこの爆弾が仕掛けられたかをシラミ潰しに捜索するわけにもいかず、警察の方では警視庁捜査一課特殊犯捜査係を所轄の野方署に派遣して尋問を続け、次の爆発を防ぐにはこのスズキタゴサクの繰り出す「ヒント」をクイズのように解くしかなくなります。果たして、次の爆破地点はどこか、いつなのか、単独犯か共犯がいるのか、などなど、スズキタゴサクの発言を軸に、極めてテンポよくストーリーが進みます。そして、これも私の好きなタイプのミステリで、最後の最後にどんでん返しのように名探偵が真相を解き明かすのではなく、少しずつ 少しずつタマネギの皮を剥くように真相が明らかになっていきます。私のような単純な読者からすれば、一気読みしたくなるようなテンポのよさをもっているミステリです。尋問する方の警察官、もちろん、スズキタゴサクも極めて明快なキャラを持っていて、スズキタゴサクについては、とぼけたキャラながら、残虐な性格を隠し持っているほかに、何とも実に鋭い知性と演技力のようなものを兼ね備えていることが徐々に明らかになっていきます。しかし、日本警察の悪弊のひとつかもしれませんが、事件解決。真相解明のために、無差別爆破テロとはいえ、極めて極端に自供・自白に偏重した真相解明の方向が示されます。ほぼほぼ、物証はまったくないに等しく、論理性についても、クイズ・パズルを解くための屁理屈はいくつかでてきますが、選択肢をしっかりと絞れるほどではありません。せいぜいが「蓋然性が大きい」という程度のものです。犯人と警察の心理戦、といういい方が出来るのかもしれませんし、それはそれで、結構息詰まるバトルではあるのですが、もう少しミステリとしての論理性が欲しかった気がします。
次に、吉田文彦『迫りくる核リスク』(岩波新書)です。著者は、現在は長崎大学に設置されている核兵器廃絶研究センターの研究者なのですが、長らく朝日新聞のジャーナリストをと務めています。長崎大学は私も出向していましたから、少しくらいは土地勘あるのですが、この研究センターは知りませんでした。本書では、したがって、世界の常識とは少しズレているかもしれませんが、広島ではなく長崎を中心に据えています。すなわち、「長崎を最後の被爆地に」というスローガンが随所に引用されています。本書は4部構成であり、最初に最新のウクライナ情勢を引きつつ、ロシア、というか、ロシアのプーチン大統領による「核による恫喝」が現実のものとなった点を強調します。そして、勢力均衡の核兵器版である現在の核抑止システムのリスクを検証し、核抑止を「解体」しつつ、日本が核抑止で果たしている役割などを分析しています。そして、最後に、核抑止に代わるポスト核抑止のあり方を議論しています。おそらく、第3部までの議論は多くの日本人が十分に受入れ可能な内容だと私は考えます。特に、核抑止における日本の役割は、佐藤総理のころのその昔は、本書では日本が何ら自律的な行動を取らない「お任せ核抑止」だったのが、徐々に積極的な役割を果たすようになった危険性を指摘しています。およそ、この点については、核抑止だけでなく安全保障上の我が国の政策がここ数年で極端に積極化したことは多くの日本人の目に明らかです。昨年は貿易費=軍事費の倍増が議論されて、事実上決定されました。子育て予算の倍増が「子供が増えれば、子育て予算も増える」というのんきな議論とは違うレベルで決められたことは広く報じられている通りです。その上で、最終パートでは、現在の勢力均衡に基づく核抑止を支持し強硬な姿勢を取るタカ派、そして、逆に、耐候性力に対する融和策を思考するハト派、の2つの考え方ではなく、各リスクの逓減を目的とするフクロウ派の考えを提唱しています。ただ、本書でも指摘しているように、私の知る限りナイ博士の提唱するフクロウ派は、いわゆる「正しい戦争」や「正しい核兵器の使用」を含んでおり、どこまでの有効性や実現性があるのか、やや疑問です。そのあたりは、本書を読んだ読者がそれぞれに考えて議論すべき点かもしれません。でも、いずれにせよ、核兵器のリスク低減のためのひとつの方向性を含んだ良書だと私は受け止めています。
最後に、宇佐美まことほか『超怖い物件』(講談社文庫)です。著者は、小説家ですが、11人の作者による短編集のアンソロジーです。収録作品は、宇佐美まこと「氷室」、大島てる「倒福」、福澤徹三「旧居の記憶」、糸柳寿昭「やなぎっ記」、花房観音「たかむらの家」、神永学「妹の部屋」、澤村伊智「笛を吹く家」、黒木あるじ「牢家」、郷内心瞳「トガハラミ」、芦花公園「終の棲家」、平山夢明「ろろるいの家」となっています。出版社は文庫オリジナル、と宣伝していますが、いくつかの短編は別のアンソロジーや短編集に収録されています。タイトルから容易に推察されるように、アパートなどの賃貸不動産で自殺などがあったような事故物件をはじめとする不動産や家にまつわるホラー短編を集めています。すべてのあらすじを取り上げるのは難しいので、いくつかに絞って言及すると、収録順に、まず、宇佐美まこと「氷室」は、古民家を購入した主人公が、そこにある氷室が気にかかるということで、ストーリーが進みます。そして、コーディネータの女性がどのようにして古民家の人気物件が空いて貸せるようにするかの謎が怖いです。糸柳寿昭「やなぎっ記」と花房観音「たかむらの家」は、小説という体裁ではなく、何となくノンフィクションのルポルタージュを思わせる文体となっています。神永学「妹の部屋」は、自殺した妹の部屋がいきていたときのままに「修復」というか、元通りになってしまいます。澤村伊智「笛を吹く家」は同じ作者の『葉桜の季節に君を想うということ』を読んだことがあれば、その類似性に気づくものと思います。黒木あるじ「牢家」は、家の真ん中に360度から見張れるような座敷牢があり、その謎に迫ります。そして、最後の平山夢明「ろろるいの家」は、家庭教師に来た家の超怖いお話で、おそらく、この収録作品の中の最高傑作だと私は思います。たぶん、タイトルに付けた「超」はやや誇張が含まれていて、まあ、フツーのホラーと考えるべきです。でも、最後の平山夢明「ろろるいの家」はホントに怖いです。「超」を付けてもいいと私が思うのはこの作品だけです。
2023年02月25日 (土) 09:00:00
今週の読書は不平等に関する教科書をはじめとしてミステリ小説まで計6冊
まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)では、社会学ないし経済学の教科書として執筆されていて、格差や不平等について、特に、現在の日本で機会の平等はホントに確保されているのか、について議論しています。続いて、鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)では、東日本大震災の際の福島第1原発の運営にかんする「吉田調書」の「誤報」事件の際にデスクだったジャーナリストが、ご自分の半生を振り返るとともに、メディアと権力の関係などについて論じています。続いて、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)では、中世イングランドにタイムトラベルするとすれば、どのように生き残るか、について解説しています。続いて、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)は、芥川賞を受賞した小説家が、持ち前のやや不気味な雰囲気ある短編小説4話を収録しています。続いて、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)では、社会学者と経済学者が不倫という婚外性交症について定量的な分析を加えています。最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)は、英国を舞台に女子高校生が行方不明になった友人の兄を探すというミステリです。シリーズの第2作です。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで14冊、今週の6冊を含めて計40冊となっています。これらの新刊書読書のほかにも何冊か読んでいますので、順次、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。
まず、平沢和司『格差の社会学入門[第2版]』(北海道大学出版会)です。著者は、北海道大学の研究者であり、専門分野は社会学です。第2版であり、しかも、2021年年末の出版で1年余りを経過していますが、私の興味分野のひとつである格差や不平等に関する学術書ですので、まあ、いいとしておきます。繰り返しになりますが、出版社から軽く想像されるように、学術書です。しかし、本書冒頭にあるように、教科書としての役割を期待されているように、学生諸君にも理解しやすいような工夫がなされており、定量分析のいくつかのテクニカル・タームを別にすれば、一般ビジネスパーソンにも判りやすい内容となっている気がします。やや先進的な部分は「発展」として別枠で記述されていますし、「コラム」も適切に配置されています。ということで、本書の結論として、おそらくは社会学の観点から、平等と不平等を論じる際にもっとも重要な観点である「機会の平等」が現代日本では必ずしも確保されていない、という点が重要であると私は考えます。経済学的には、ついつい、平等と不平等を結果としての所得を代理変数として考えますが、社会学ですので排除や包摂とも考え合わせて、まあ、複雑ながら経済学よりも深みのある議論が展開されています。そして、平等と不平等を考える際に、原因から結果に向かう中間経路として、本書では教育ないし学歴を大きなポイントに据えています。要するに、制度上はあくまで義務教育ではないにも関わらず、ほぼほぼ事実上の全入制となった高校進学を前提として、ホントに機会の平等が保証されているのであれば、誰でもが大学に進学する機会を平等に有しているかどうか、について定量分析も含めて考察を加えています。そして、その結論は否定的といわざるを得ません。すなわち、日本では大学進学における機会の平等は確保されていない、ということになります。その詳細な議論は本書を読むしかないのですが、私は少なくとも機会の平等を考える上で、あるいは、貧困からの脱出を考える上で、大学進学は重要なポイントになると考えています。その点は本書の著者と基本的によく似た見方をしています。米国の「大統領経済報告」ではじめて示されたグレート・ギャッツビー曲線を援用したりして、定量的なパネル分析からも大学進学が「親ガチャ」からは独立ではありえない、という分析結果です。本書は社会学的な分析ですが、経済学的に私が授業で教えているポイントは、その昔の高度成長期に広く観察された雇用慣行である年功賃金制にあります。チョット見では、いかにも子供達が大きくなって大学進学などで教育費がかかる時期にお給料が上がるのは好ましく思えますが、実はそうではありません。というのは、親が大学授業料を負担できる給与体系である年功賃金をもらっているがために、いわば、行政がサボって大学の学費を低く抑える必要がなかったわけです。すべてではありませんが、米国などの一部を除いて欧州諸国、特に北欧諸国では大学の学費を極めて低く、しばしば無料にしている点は広く知られているとおりです。
次に、鮫島浩『朝日新聞政治部』』(講談社)です。作者は、長らく朝日新聞で記者をし、政治部を主にキャリアを積んだジャーナリストです。東日本大震災の折の福島第1原発の吉田調書に関する報道で処分を受けて、現在ではネットメディアを主催しているようです。本書では、基本的に著者自身の経験とある程度の憶測を交えながら、著者の半生の自伝を語りつつ、同時に、メディア論についても展開しています。すなわち、権力とメディアの距離感、そして、メディアの企業としてのあり方、などです。まず、よく知られたように、著者は朝日新聞特別報道部のデスクとして「吉田調書」を入手した部下とともに読み解き、吉田所長の待機命令に反して福島第1から第2に退避した職員がいたことを明らかにするスクープをモノにします。「新聞協会賞」に相当する快挙として社内ではもちろん、広く称賛されますが、実は、吉田所長の待機命令に反してではなく、その命令を知らずに避難した職員がいたのではないか、また、実際に退避した職員への取材がなされておらず、裏付けが取れていない、などといった疑問が持ち上がって、逆に「捏造」としてバッシングを受けます。社長が辞任し、現場の記者やデスクだった著者も処分を受けます。そして、同時に慰安婦問題に関する「吉田証言」も虚偽であったことなどをはじめとして、著者はここで朝日新聞は死んだと表現します。すなわち、権力の対するチェック機能とか、「社会の木鐸」と呼ばれる存在でなくなった、という意味なのだろうと私は考えています。そして、大手全国紙が横並びで東京オリンピックのスポンサーとなり、オリンピック開催反対の意見はしぼんでゆきます。現在では、大手メディアは権力と癒着し提灯持ちの記事が多くなっていることも事実です。本書に関して、私から2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、問題の「吉田調書」の読み方ですが、「待機命令に反して退避」というのは、「命令違反」というコンポーネントと「退避」というコンポーネントの2つの要素があり、私は報じられた当時から前者の「命令違反」がどこまで重要かを疑問視していました。むしろ、重点は「退避」の方にあるのではないか、という気がしていたからです。すなわち、現場を放棄して退避することが問題なのであって、命令違反というのはその退避という行動の悪質さをより重くするものであることは確かです。しかし、現場を放棄しての退避が重要と私が考えるにもかかわらず、本書でも「命令違反」の方に重点が置かれています。不思議です。この重心おき方を誤らなければ、この問題はここまでこじれることはなかったような気がします。本書で指摘する朝日新聞社内の危機管理体制以前の報道の問題です。第2に、本書の著者もそうですが、メディアと権力との距離感に関しては、記者クラブ制というシステムを考慮する必要があります。記者クラブという極めて特殊で排他的なシステムを、おそらく、全国紙やテレビのキー局の記者は当然のように考えているのでしょうが、地方紙や海外メディアからすれば、とてつもない特権としか見えません。こういった特権を与えたれているわけですから、全国紙やテレビなどのキー局が権力に近いという印象を持たれるのは当然です。私は、役所が主催する閣僚の出席する会議の写真を撮ろうとして、写真を撮れるのは記者クラブ所属のカメラマンだけ、といわれて諦めざるを得なかったことがあります。会議の事務方の公務員ですら写真が撮れなかったわけです。こういったべらぼうな特権を与えられている記者クラブ制がある限り、メディアの権力依存は続く、あるいは、少なくとも眉に唾つけて見る国民がいるような気がします。
次に、トニ・マウント『中世イングランドの日常生活』(原書房)です。著者は、歴史家、作家となっています。英語の原題は How to Survive in Medieval England であり、2021年の出版です。原題からほのかに理解できるように、21世紀の現代人が中世、本書では1154-1485年のプランタジネット王朝のころのイングランドにタイムトラベルしたとすれば、どのように生き残るか、という観点で記述されています。単純な修正の歴史書ではありません。まず、中世ですから、私が時折主張するように、英国=イギリスあるいは連合王国とイングランドが区別すべきです。本書でも、イングランドはスコットランドと戦争したりしています。おそらむ、本書の対象とする中世初期にはイングランドとウェールズでは言語がビミョーに違っていたのではないかと私は想像しています。そういった意味からも現代的にイングランドを英国やイギリスと同一視するべきではありません。ただ、細かい点ながら、タイトルに "survive" を用いているにも関わらず、以下に生計を維持するか、稼ぎを得るか、という観点は本書では極めて希薄であり、もっと原始的、というか、まるで無人島で生き残るかのような観点が支配的である点は申し述べておきたいと思います。まず、今もってそうなのですが、欧州諸国、というか、日本以外の多くの国は階級社会であって、所属する階級によっていかに生活するかは大きく異なります。最初の第2章の社会構造や住宅事情などは本書でもその観点がありますが、食べ物や医療事情になると、かなりの程度に忘れられている気がします。おそらく、電話や鉄道などはいかんともしがたいと思いますが、居宅近くでの日常生活では上流階級の人々は現在とそう遜色ない生活を送っていたのではないか、と私は想像します。だた、第2章の社会構造に次に第3章に信仰や宗教に関する歴史を持ってきているのは秀逸です。私はイングランドに限らず、おそらく、日本でも前近代においては宗教の果たしていた役割がかなり大きいと考えています。本書の対象とする期間のイングランドの宗教は、いうまでもなく、キリスト教の中でもカトリックなのですが、普段の日常生活を律するのは死後の天国と地獄ではなかったか、と私は想像しています。日本の中世のひとつの時代区分である鎌倉時代に仏教の新宗教が浄土宗や日蓮宗のように日本地場で起こるとともに、禅宗の臨済宗や曹洞宗が中国から持ち込まれたように、中世の12世紀から15世紀くらいまでは宗教の役割は大きかったですし、変化もありました。私の勝手な想像では、ゲーテが「もっと光を」といって死んだように、光が不足する、というか、夜が暗かったのが地獄をはじめとする異世界を想像たくましくさせたような気がします。今でも都会に比べて夜が暗い、というか、早くに暗くなる地方部では必ずしも宗教に限らず信心深い気がします。
次に、今村夏子『とんこつQ&A』(講談社)です。著者は、芥川賞を受賞した純文学の作家です。この作品は短編集であり、4話を収録しています。まず、表題作の「とんこつQ&A」では、大将と坊っちゃんで切り盛りする中華料理店「とんこつ」で30代半ばの独身女性である主人公が働き始めます。しかし、「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」すらいえなかったため、しゃべるのではなくメモを読み上げることで克服します。それから、挨拶をはじめとする店内で発するあらゆる会話、例えば、店の名前の由来、おすすめメニューなどをメモに記入し、「とんこつQ&A」を作り上げます。おしゃべりではなく、メモを読むことで対応するわけです。そこにもうひとり、主人公よりももっと鈍なアルバイトの丘崎さんが働き始めることになり、いろいろとお話が展開します。最後の結末は、思いもしなかったものでびっくりです。続いて、「嘘の道」では、小学校でのイジメられっ子の与田正のクラスメートの少女を主人公に、いじめられていた与田正が「イジメはよくない」という教師の指導などもあって、逆に、チヤホヤされるようになります。でも、おばあさんが教えられた近道でケガを負うという事件があり、濡れ衣を着せられた与田正が再びイジメにあいます。でも、おばあさんにその近道を教えたのが誰であるか、という真相は別のところにあるわけです。「良夫婦」では、小学生のタムに親切にする若妻を主人公に、タムがその主人公の家の庭にあるサクランボを取りに来て期から落ちて大怪我する時間があった際、すべてを処理する夫の事件処理のやり方を描き出しています。それは、夫婦が結婚前にそろって勤務していた介護サービス事業所での妻が起こした不都合な出来事の処理方法と同じでした。最後に、「冷たい大根の煮物」では、高校を卒業してひとり暮らしの工場勤務を始めた女性を主人公に、同じ工場の同僚で中年女性の柴山さんとの人間関係を描き出しています。柴山さんには寸借詐欺のウワサあるにも関わらず、主人公にはそれなりに親切で料理してくれたり、レシピを教えてくれたりします。でも、結局、柴山さんは工場を辞めることになります。あらすじは以上の通りですが、読者としては、主人公とそれ以外の登場人物の間のズレをどう考えるか、という点がポイントになります。ある意味で、ものすごく深い読み方をしなければ、この作者の作品をホントに味わうことが出来ないと私は考えており、その意味で、この短編集はこの作者の典型的な作品ともいえます。特に、4話の短編の中でも短めな「嘘の道」と「良夫婦」はホラーとすらいえる内容ですが、スラッと読めばホラーでも何でもなく読めてしまう可能性もあります。最後に、私もこの作者の作品をすべて読んだわけではありませんが、この作品の理解を進めるためには、『あひる』を読んでおくと参考になりそうな気がします。
次に、五十嵐彰・迫田さやか『不倫』(中公新書)です。著者は、社会学の研究者と経済学の研究者であり、おそらく、ともに計量分野のご経験が豊富と思います。本書ではタイトル通りに、不倫、本書では婚外性交渉と定義されている行為について定量的な分析を試みています。ただし、婚外性交渉とはいっても風俗店での行為や風俗店できっかけの出来たものは除外されています。定量的な分析ですから、その基礎となる情報を得るために、NTTコムオンラインでアンケート調査を実施しています。ただし、選挙におけるブラッドリー効果のように、アンケート調査で真の結果を得られていない可能性もありますから、そのあたりはリスト実験などの工夫がなされています。ということで、構成として、第1章で不倫とは何かを考え、第2章でどれくらいの人が不倫しているのかの把握に努め、p.31表2-1のような結果を得ています。すなわち、既婚男性の半分近く、既婚女性の15%ほどが、結婚後に現在進行形も含めて何処かの段階で不倫の経験あり、という結論です。第3章で、不倫しやすい属性を検討し、第4章で誰と不倫するのかを解明しています。軽く想像される通り、男性の場合は職場で不倫相手が見つかりやすい、ということがいえます。第5章で不倫の終わり方、あるいは、なぜ終わらないのか、を検討し、不倫行為に関する定量的な分析はここまでなのですが、最後の第6章で社会的に不倫を非難する人たちについても考察を進めています。本書でも言及されているように、シカゴ大学のノーベル経済賞を受賞したベッカー教授などの「経済学帝国主義者」が結婚の経済学を分析したことは有名ですが、本書は経済学的なアプローチもなくはないですが、基本的に、社会学的なアプローチを取っていると私はみなしています。日本においては、ほぼほぼ先行研究のない分野ですし、本書も新書とはいえ、定量分析の手法の選択や参考文献の渉猟など、学術書とみなしていいと私は考えます。いくつかの章の終わりに置かれている補論は学術書っぽくなないですが、まあ、いいとします。ですから、基本的に、本書の不倫に関する分析結果は、諸外国、特に、米国の先行研究との整合性も考えると、十分に受入れ可能なものだといえます。分析結果は本書を読んでいただくしかありませんが、十分に評価するという私の基本を踏まえた上で、たった1点だけ指摘したのは、不倫においてマッチング・サービスの果たす役割です。基本的に、マッチング・サービスは結婚を希望する人々に開かれていて、私のような高齢の既婚者には関係ないと考えていますので、私はまったく情報がありませんが、おそらく、あくまでおそらくですが、既婚者の不倫行動に対して何らかのポジティブな役割を果たしている可能性が否定できません。でも、本書では、それについてはまったく無視しているように見えます。
最後に、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。この作品は、英国のリトル・キルトンのグラマー・スクール最上級生のピップ(ピッパ)が探偵役を務めるシリーズの第2作であり、前作は『自由研究には向かない殺人』であり、3部作といわれています。英語の原題は Good Girl, Bad Blood であり、2020年の出版です。3部作最後の As Good As Dead もそのうちに邦訳されることと私は想像しています。ということで、この作品では、主人公のピップに友人のコナー・レノルズから兄のジェイミーが失踪したので行方を探して欲しいと依頼が入ります。ほぼほぼ1週間7日が経過してもジェイミーは見つかりません。その間に、ピップは着々とリサーチを進めるわけです。前作と違って、この作品ではPodCastが多用されます。ミステリですので、あらすじも早々に、5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、前作では主人公のピップはきわめて強気に捜索を進めたのですが、この作品では少なくとも前作に比べれば控えめです。最後の方に、ピップの仲間、すなわち、前作で相棒になったラヴィ・シンとこの作品の依頼者のコナー・レノルズが家宅侵入をしたりしますが、まあ、強気な捜索というよりは控えめといっていいと思います。第2に、前作でも女子高生(当時)の行方不明事件であって、殺人事件とは確定していませんでしたが、本作品でもやっぱり行方不明事件です。ただ、この作品では最後の最後に殺人事件が起こります。主人公のピップの目前での銃撃殺人ですので犯人探しは不要ですが、生々しい殺人が描かれていることは確かです。第3に、この作品では有色人種に対する差別はそれほど大きく扱われていません。記者のスタンリーは前作では差別意識が激しい人物とされていたように私は記憶していますが、別の事情もあって、この作品ではとても好意的に、しかも、主人公のピップも同情を寄せるように描かれています。やや矛盾を感じる読者は私だけではないと思います。第4に、先週レビューした『罪の壁』で少し言及しましたが、このシリーズは登場人物が多岐に渡り、隠れた顔がいっぱいあります。それを「深みがある」と称するかどうかはともかく、極めて複雑なミステリ作品に仕上がっていることは確かです。第5に、最初の作品である『自由研究には向かない殺人』に比較して、この作品はミステリとしてクオリティは大きく落ちます。3部作の最後の作品がやや心配です。最後に、おそらく、作者はまったくあずかり知らぬことなのでしょうが、日本人であれば神戸の連続児童殺傷事件、俗にいう「酒鬼薔薇事件」を強く思い起こさせる可能性があります。
2023年02月18日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書や人類学書のほかミステリも合わせて計5冊
まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)は、1971年8月の米国ニクソン政権による金ドルの交換停止を決定したキャンプ・デービッドでの会議をルポしています。続いて、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)は、ソロモン諸島におけるフィールド・ワークに基づき、人類学の新しい方向などにつき論じています。続いて、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)は、正面からのプロット勝負の本格ミステリの短編5話を収録しています。続いて、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)は、昭和期の主として第2次世界対戦前後の陸海軍の軍人を中心とする人物評伝を編集しています。最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)は、後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association)最優秀長篇賞の第1回受賞作品であり、兄の死の真相を弟が解明するものです。
ということで、今年の新刊書読書は、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週まで9冊、今週の5冊を含めて計34冊となっています。
まず、ジェフリー・ガーテン『ブレトンウッズ体制の終焉』(勁草書房)です。著者は、米国イェール大学経営大学院の名誉学長ということですが、この著書からはジャーナリストなのかと思わせるものがあります。副題が「キャンプ・デービッドの3日間」となっているように、米国ニクソン政権において米ドルの金との交換停止を決断した会議のルポとなっています。エコノミストの間ではよく知られているように、1944年に米国東海岸の保養地であるブレトンウッズにおいて議論・決定された国際金融体制が崩壊し、終焉したわけです。ブレトンウッズ体制とは、本書では米ドルを金にリンクさせ、35ドルと1オンスの金との交換を保証しつつ、米ドルと各国通貨の間に固定為替相場制を敷いたものです。他方、こういった国際金融制度をサポートするために、世界銀行や国際通貨基金(IMF)といった組織を設立しているのですが、コチラの方は本書ではほぼほぼ無視されています。もちろん、同時に戦後経済体制を形作ったGATTについても、ここまで米国の貿易収支に注目しながらもほぼほぼ無視しています。ですので、本書は4部構成で、幕開け、配役、その週末、終幕、となっています。中心となる読ませどころは第3部でクロノロジカルに詳述されるルポだと思いますが、第2部ではエコノミストはほとんど注目しない会議参加者のパーソナリティなどが紹介されています。逆に、貿易収支以外の客観的な経済情勢はかなりの程度に省略されています。私と同じように、物足りないと感じるエコノミストは少なくないと思います。もちろん、エコノミストが注目していない点で、いくつか興味をそそられる事実も明らかにされています。そのひとつは、このニクソン政権の決定、訪中とその結果としての米中の国交樹立と並んでニクソン・ショックと称されるブレトンウッズ体制の崩壊、あるいは、一連の経済政策、すなわち、金ドル交換停止以外にも物価と賃金の凍結などが、米国民から熱狂的に支持された、という点は私も知りませんでした。その支持の強さは「パールハーバー以来」と表現されています。もっとも、私は1971年当時は中学生でしたので、言い訳しておきます。株式市場は株高で支持を表明し、米国以外の、特に日本の株価市場が大きく下げたのとは対象的です。加えて、1971年8月15日の当時のニクソン大統領のスピーチが、かなり詳細な脚注を付して紹介されているのは、それなりの資料的な価値もあると私は考えます。私が本書を読んで不可解なのは、著者が金ドル交換に大きな重点を置いている点です。ブレトンウッズ体制が終焉したのは、金ドル交換が停止されたからではなく、固定為替制が崩壊したからです。スミソニアン合意という一時しのぎではどうしようもなく、変動相場制に移行したのは歴史的事実です。その点まで、どうも、著者の理解が進んでいない気がします。経済学的な理解を基にするのではなく、むしろ、ジャーナリスティック、というか、インナー・サークルのセレブしか知りえない事実に対するのぞき見趣味的な満足感を得ようとするのは、私はどうも違和感あります。むしろ、巻末の「解題」が経済学的な興味を満たしてくれるような気がします。しかし、解題が判りやすいのは本文が判りにくいともいえ、いく分なりとも邦訳がそれほど上質ではない点は指摘しておきたいと思います。
次に、里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)です。著者は、早稲田大学の研究者であり、専門は文化人類学です。本書は3部構成であり、他者、歴史、自然、から構成されています。2011年7~9月における著者のフィールドワーク、ソロモン諸島マライタ島におけるフィールドワークを中心に、幅広く人類学の方法論や学説史にまで言及されています。タイトルは、当然ながら、レヴィ-ストロースによる Tristes Tropiques を念頭に置いているんだろうと思います。「不穏な熱帯」だったら、"Inquiétantes Tropiques" とでもなるんでしょうか。私はスペイン語はともかく、フランス語はサッパリですので、自信はありません。なお、私の専門は、もちろん、経済学なのですが、経営学なんぞよりも人類学などの方が、より、経済学に近い隣接領域だと考えています。終章「おわりに」のエピグラフにあるように、精神分析と文化人類学は人間という概念なしで済ませられる、といいますが、経済学はもっとです。人間が出てきません。合理的な経済活動を営むのであれば、人間でなくても動植物やロボットでもOKです。そういう意味で、本書もとても刺激的でした。例えば、民族誌的な記述と自然概念についての哲学的な思索という両極端を本書の中で統合させようとした著者の試みは、高く評価されるべきだと考えます。しかし、いかに隣接領域とはいえ、私は人類学にはトンと専門性がありませんので、人類学の方法論について、少し論じたいと思います。すなわち、本書で「存在論的転回」と称されている人類学の転換とか、自然/文化の二分法については、私はマイクロな学問/観察とマクロな学問/観察の違いではないか、と考えています。自然科学は別にして、社会科学ないし人文科学で学問領域をマイクロとマクロに分割する二分法が明快に確立しているのは経済学と心理学であると私は受け止めています。経済学ではモロにミクロ経済学とマクロ経済学が併置されています。心理学でも、フロイト的な個人を対象とする臨床心理学とツベルスキー=カーネマンに代表される社会心理学が並立しています。おそらく、人類学でも従来の民族誌的なエキゾチシズムに立脚する多文化の研究、という側面と、もっとマクロに自然と人類の間のインタラクティブな関係を考察する学問領域が出来るのではないか、という気がしています。本書でいうところの「岩が育つ」、「岩が死ぬ」といった自然を外部と考えるのではなく、人類の活動の内なる対象と考える人類学がありそうな気がします。というのは、ごく当たり前に考えている労働について、経済学では自然に対する働きかけ、と定義する場合が少なくありません。もちろん、英語表現で2種類ある "made of" と "made from" の違いはあるとしても、少なくとも製造業においては、自然に存在する原料や燃料を基にして、労働という人間作業を加えて製品を作り出す過程であると考えられます。サービス業で少し製造業とは違う側面があることは否定しませんが、ごく一部の例外を除けば、自然にはあり得ないサービスの提供であることは間違いありません。例えば、理美容というサービスについて考えると、こういったサービスなしに自然のままでは髪の毛は伸び放題だったりします。そして、いうまでもなく、労働という人間作業がサービスを生み出しているわけです。本書の幅広い論点をカバーし切るだけの能力が私にはありませんが、少なくとも自然/文化の二分法については、人類学よりは経済学の方が新たな論点を提供できる可能性が高い、と考えています。最後の最後に、数多くのソロモン諸島とおぼしき写真が収録されていますが、何の説明もなく、ランドスケープの横長写真がポートレートの縦長に回転させて配置されています。何とかならなかったものでしょうか?
次に、鵜林伸也『秘境駅のクローズド・サークル』(東京創元社)です。著者は、ミステリ作家です。そして、昨年の芥川賞受賞の高瀬隼子、今年の直木賞受賞の千早茜と同じように、というか、何というか、私の勤務校の卒業生です。3人とも文学部のご主審であり、経済学部ではありませんが、私は実は文学部や法学部などでも授業を持っていたりします。琵琶湖キャンパスから京都の衣笠キャンパスに週イチとはいえ、通勤するのはなかなかタイヘンだったりします。ということで、本書は、5編の短編が収録されていて、堂々の王道ミステリです。ホラーの要素はほぼほぼなく、倒叙ミステリや叙述ミステリでもって、表現で読者をミスリードするわけではなく、正面からプロットでもってパズルを解こうとします。不勉強にして、この作者の作品は初めて読んだので、ほかの作品もそうなのかは不明です。あらすじを収録順に追うと以下の通りです。「ボールがない」は、そこそこ名門、というか、古豪の高校野球部の新入生を主人公とし、上級生が対外試合に出かけた際の居残り練習で、練習開始時に100個あったボールが練習終了時には1個不足し、消えたボールを探し出そうと論理的に考えます。記念ボールの扱いが上手です。「夢も死体も湧き出る温泉」は、ひなびた温泉の食堂の倅が主人公で、川原の手掘り温泉で突如として死体が発見され、その犯人はもちろん、死体出現のトリックについても解き明かそうと試みます。この作品と最後の表題作は行きずりの旅人っぽい登場人物が謎解きをします。「宇宙倶楽部へようこそ」は、10年前を振り返るという形で、その当時の高校の宇宙倶楽部=天文部を舞台に、相談に来た高校新入生を主人公に、主人公宛てに届いたナゾのメールについての解明が天文部員によって試みられます。なかなか、カッコいい終わり方です。「ベッドの下でタップダンスを」は、会社社長の奥さんに間男をする従業員を主人公に、社長が思わぬ時刻に帰宅したためベッドの下に逃げ込んだものの、見張りをしている社長がいるために抜けでられないうちに居眠りしてしまいますが、何と、その居眠りの間にベッドを見張っていたハズの社長が撲殺され、その犯人と方法が主人公によって解明されます。「秘境駅のクローズド・サークル」は大阪にある大学の鉄道研究会の新歓イベントで土讃線の秘境駅を旅行している新入生を主人公に、周囲に何もない秘境駅のクローズドサークルで先輩の女性部員が殺される事件を、これまた、通りすがりの別の鉄道オタクが解明します。繰り返しになりますが、正面から堂々のトリック勝負の本格ミステリです。すべてではありませんが、最初の作品の記念ボール、あるいは、最後の表題作の鉄研OB/OGの登場などのように、短い作品ながら、キチンと伏線が張られている作品もあり、それなりに読み応えはあります。5篇の短編のうち、いかにもミステリらしい殺人は3話、高校生の日常の謎解きが2話、まあ、バランスも考えられています。ただ、高校生や大学生、あるいは、社会人でも若い主人公が多いことは確かです。いずれにせよ、私の勤務校の卒業でもあり、これからも応援したいと思います。
次に、半藤一利『昭和史の人間学』(文春新書)です。著者は、昨年なくなった『文藝春秋』の編集者であり、昭和市に関する書籍も多数出版しています。まあ、昭和史の研究者といっていいかもしれません。本書は、タイトルが人間学ですから、多くの人物が議論されています。ただ、年代としてはタイトルにある昭和全体というよりは、第2次対戦前後に限定されています。ですから、本書の構成は7章構成なのですが、最後の章の政治家と官僚を別にして軍人で占められています。すなわち、卓抜、残念、その他の3カテゴリーかつ陸軍と海軍で2×3の6章となります。もちろん、著者はすでに亡くなっているわけですので、既発表の雑誌記事などを編集しています。私自身は本書に取り上げられている人物については、もりとん、あったこともなければ、それほど評伝のようなものを読んでいるわけでもないので、本書の人物評については何とも評価し難いのですが、巷間いわれている評価にかなり近い、というか、本書の著者などの評価が広く人口に膾炙している、という気がします。ただ、軍人については軍事作戦や軍事行動に関しては、何とも評価は難しいのだろうと想像しています。卓抜の軍人について褒めちぎるわけではありませんが、残念な軍人については容赦なく批判を加えています。中には、戦争が終わってからインタビューをした対象者もいますが、それほどインタビューの有無が人物評の中心となっている印象は読み取れませんでした。ただ、私の直感としては、ある意味で、異常な状態だった戦時ではなく、歴史として戦争を振り返る時点でのインタビューに、それほど大きな意味があるようには思えません。もちろん、粉飾のおそれもありますから、むしろ、古文書のような考えで資料をひも解くのが一番かという気もします。本書は、それほど取りまとめられた文献とは思えませんが、だんだんと遠ざかる昭和、特に、戦争に関するひとつの見方を提供してくれる貴重な資料だと思います。
最後に、ウィンストン・グレアム『罪の壁』(新潮文庫)です。著者は、英国人作家であり、本作品は後にゴールドダガー賞として親しまれる英国推理作家協会 (The Crime Writers' Association=CWA)最優秀長篇賞の第1回受賞作品です。しかも、出版社の宣伝文句では本邦初訳のオリジナル作品、ということです。1950年代なかば、戦争の影がまだ残り、同時に東西冷戦の対立が厳しい英国から欧州大陸、オランダとイタリアを舞台にしています。主人公は、ターナー兄弟末弟3番めのフィリップです。米国カリフォルニアで航空機の開発の仕事をしていましたが、考古学者としてジャカルタで発掘作業をしていた次兄グレヴィルが帰国途上のオランダで死んだと知らされて、家業を継いだ長兄のもとに帰国します。兄グレヴィルは優秀な物理学者であったにもかかわらず、マンハッタン計画の原爆開発に関与することから逃れるために考古学に転じています。しかし、フィリップはグレヴィルがオランダの運河に身を投げて自殺したと知らされて、到底信じることが出来ず、自ら真相を解明すべくオランダに乗り込みます。その際、レオニーという謎の女性とバッキンガムという英国人が関係している疑いがあると聞き及び、バッキンガムを知ると紹介されたコクソンに動向を依頼します。コクソンはスコットランド貴族の血筋の英国人です。そして、当地警察で、レオニーという名の女性との恋愛に敗れて自殺したらしい、と聞き込みます。さらに、レオニーがイタリアに滞在しているとの情報があり、事情で同行できないコクソンと別行動し、単身でイタリアに向かいます。もちろん、最後に兄グレヴィルの死の真相を解明します。いかにも、大時代的ではありますが、驚愕の真相です。思っても見なかった人物がバッキンガムだったりします。また、繰り返しになりますが、1950年代半ばの時代背景ながら、古さをまったく感じさせません。どうしても、電報での連絡が出て来たりしますが、飛行機での移動などは現在と同じです。ただ、オランダとイタリアの違いがどこまで書き分けられているのか、やや疑問がありました。ジャカルタでの考古学の発掘作業、ということで、旧宗主国のオランダということになったのでしょうが、せっかくですから、国情や警察の対応の違いなんかも言及した方がいいような気もしないでもありませんでした。私の知る範囲では、同じラテンの国でスペインとイタリアならよく似ているのに、とついつい思ってしまいました。
2023年02月11日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書をはじめとして計4冊
まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)は、イノベーションの期待大きいスタートアップ企業に関する教科書的な分析を取りまとめています。続いて、降田天『事件は終わった』(集英社)は、地下鉄内無差別殺人事件に関わった人々の後日譚を短編で収録するミステリです。続いて、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)は、安倍内閣から菅内閣まで続いたアベノミクスについて金融政策から財政政策へのシフトをドキュメンタリとして追跡しています。最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)は、LGBTQへの差別に関して、キチンとした制度的な担保が必要であって、思いやりや優しさでは解決しないと主張しています。そして、この4冊に加えて、今週は、アンソニー・ホロヴィッツ『その裁きは死』(創元推理文庫)と松尾由美『バルーン・タウンの殺人』、『バルーン・タウンの手品師』、『バルーン・タウンの手毬唄』(創元推理文庫)のバルーン・タウン3部作を読みました。新刊書ではないのでこのブログでは取り上げませんが、Facebookでシェアしたいと思います。というか、『その裁きは死』はすでにシェアしてあります。Facebokkでは続編が『殺しへのライン』というのは明記したつもりですが、「もう新作出てますよ」という残念なコメントをもちょうだいしたりしています。バルーン・タウン3部作は、たぶん、一気にFacebookでシェアするのではないか、と思います。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って先週の5冊と今週の4冊の計29冊となっています。
まず、加藤雅俊『スタートアップの経済学』(有斐閣)です。著者は、関西学院大学の研究者です。通常の企業に関するマイクロな経済学と違って、スタートアップに関する経済学は、外部性や情報の非対称性が強く作用し、ある種の特別経済学を必要とします。もちろん、マクロ経済学におけるイノベーションについても、スタートアップ企業が担う部分が少なくないわけですから、ここでも通常の企業や産業に関する経済学とは別の経済学研究が進められるべきです。本書はそういったニーズに即してスタートアップの経済学に特化した研究成果を集めています。まず、スタートアップ企業では市場の失敗が通常の企業や産業と比べて大きいと私も認識しています。本書では「新規性の不利益」としています。というのは、おそらく、従来ある業態でのスタートアップというよりは、新しいニッチを探してのスタートアップに重点が置かれているためであろうと私は推測します。例えば、フランチャイジーとしてコンビニを新規に出店するとか、クリーニングの取次店を開くというスタートアップよりは、何らかのイノベーションを利用した新い製品とか、新しい製造方法に即した生産とか、いわゆるシュンペーター的なイノベーションを実用化するスタートアップに重点が置かれています。ですから、かなり外部性が大きいにもかかわらず市場では評価されず、また、新規性故に情報の非対称が大きい、といったことがあります。その上で、スタートアップ企業を起業するアントレプレナーの個人的な資質を論じ、スタートアップ企業を取り巻く企業環境について明らかにしています。ただ、本書でも指摘されているところですが、スタートアップ企業については成功例ばかりが注目される一方で、じつは、その背後には失敗して市場から退出するスタートアップが大量にある、という点は忘れるべきではありません。最も、本書では特に第8章で、スタートアップ企業の退出は決して常にバッド・ニュースであるわけではない、と指摘しています。そして、スタートアップに対する公的支援については、市場の失敗に起因する創業支援や資金不足に対する支援は、もちろん、あり得るとしても、企業のハードルを一律に低下させる公的支援については大いに否定的です。その意味で、アントレプレナーシップ教育の重要性が浮き彫りになります。日本では、リスクを取った挑戦ということが、積極的・肯定的な受け止めをなされず、むしろ、ギャンブルのようなムチャで好ましくない「暴挙」のようにみなされる意識が、デフレ経済下で高まっています。逆に、そいうか、それだけに、中央・地方の政府を上げてスタートアップ支援については大盤振る舞いされる傾向もあります。また、大企業のほうがイノベーションには有利であるとするシュンペーター仮説を無視して、スタートアップ企業に対して過大にイノベーションを期待する向きもあります。私自身はマクロ経済学を専門としていて、本書のようなマイクロな経済学はややや苦手なのですが、こういったキチンと学術的な分析を基にした議論がなされるよう期待したいと思います。ただ、ひとつだけ本書の難点を上げると、データ・研究成果ともにやや古いキライがあります。私は専門外だけに印象論となってしまいますが、「ホントにこれが最新データで、最新の研究論文なのか。もっと新しいのはないのか?」といった疑問を感じないでもない部分がいくつかありました。
次に、降田天『事件は終わった』(集英社)です。著者は、ミステリ作家なのですが、その昔のエラリー・クイーンや岡嶋二人よろしく、執筆担当の鮎川颯とプロット担当の萩野瑛の2人による作家ユニットです。ということで、本書は12月20日という年の瀬も迫った折に起こった地下鉄内無差別殺人事件、すなわち、犯人がナイフで妊婦に切りつけようとして、止めに入った老人を刺殺するという事件について、冒頭の「00 事件」で短く紹介した後、その後日譚として始まります。「00 事件」を除いて6編の連作短編を収録してます。各短編でクローズアップされる事件関係者はまず、「01 音」では、一目散に事件現場から逃げ出したことをSNSにさらされて、その行為から非難されたことにより、職を失って引きこもりとなった20代の元サラリーマンは、毎日のように正体不明の音に悩まされます。続いて、「02 水の香」では、切りつけられた妊婦は幸いにも軽症ですみましたが、事件後に「霊が見える」といい出し、水の腐った匂いに悩まされます。続いて、「03 顔」では、事件発生の車両に乗っていたという高校テニス部員がケガを克服してインターハイに出場する過程を、同じ高校の報道部員が取材します。続いて、「04 英雄の鏡」は、私のような浅い読み方の読者は、少し理解に苦しんだのですが、ホストを主人公にしています。詳しく書くと叙述トリックのネタバレになりますのでヤメにしておきます。続いて、「05 扉」では、「03 顔」の高校テニス部員と報道部員が、未来を知ることが出来る「未来ドア」のインチキを暴きます。最後の、「06 壁の男」では妊婦を守って刺殺された老人が、どういった人となりで、なぜ妊婦を守ろうとしたのかの理由が明らかにされます。ということで、世間的には一般的にいって事件が終わった、と考えられるつつも、じつは、事件に何らかの形で関わった関係者には、決して事件は終わっていない、ということです。そして、私は、基本的に、ミステリとして読みましたが、隣接ジャンルで、かなり、オカルトやホラーの要素も含んでいます。でも、そういった超自然現象は、本書では科学で解明されます。そういった観点では、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズに似ているかもしれません。
次に、軽部謙介『アフター・アベノミクス』(岩波新書)です。著者は、時事通信をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。岩波新書から、本書の前に『官僚たちのアベノミクス』、『ドキュメント 強権の経済政策』を出版していて、本書で3部作の完成、ということのようです。私自身は『官僚たちのアベノミクス』は既読ですが、『ドキュメント 強権の経済政策』は読んでいません。ということで、ジャーナリストによるアベノミクスの記録、といえそうです。そして、もちろん、アベノミクスが変化していったさまをあとづけています。ジャーナリストらしく、政治家の影響力を中心に変化の要因を考えていますので、客観的、というか、政策変更の背景となる経済動向については、それほど詳細な観察がなされているわけではないような印象を持ちました。あるいは、逆から見て、私は政策変更の背景の政治家の影響力についてはほぼ無視していますので、私の目から見て経済動向が軽視されているようにみえるだけかもしれません。ということで、私は政治家や官僚あるいは中央銀行幹部のインタラクティブな関係や影響力の行使などにはそれほど興味はありませんので、経済動向との関係で政策変更を考えると、何といっても本書でも指摘しているように、金融政策と財政政策のバランスだろうと考えます。2012年年末の政権交代から、本格的にアベノミクスが始まった2013年には、金融政策も財政政策も、どちらも脱デフレに向けて景気拡大的に運営されていた一方で、2014年4月に消費税率引上げが実施され、軽減品目無しで5%から8%になりました。そして、この緊縮的に運営された財政政策がアベノミクス最大の失敗であった、と私は考えています。ただ、本書でも指摘されているように、震災からの復興税の増税には国民が好意的であることが世論調査の結果などから明らかにされた点も政治的には考慮されたんだろうと思います。加えて、浜田教授をはじめとしてシムズ論文から「物価水準の財政理論」に関心が移ったのは事実かもしれません。でも、安倍内閣の後の菅内閣まで含めたアベノミクスを考えるとしても、私は2014年4月と2019年10月の2度に渡る消費税率引上げを見る限り、財政政策はアベノミクスのしたので緊縮的に運営された、と考えています。ですから、財政政策が緊縮的であっただけに、金融政策が過剰に緩和的に運営される必要があったと考えるべきです。ちょうど、来週に日銀総裁・副総裁の候補が国会に示されると報じられていますが、黒田総裁の異次元緩和という記入政策だけを取り出して議論するのではなく、アベノミクスの下で緊縮的に運営された財政政策とセットとして経済政策、アベノミクス、あるいは、現在の岸田内閣の下でのポストアベノミクスについて、評価する必要があります。
最後に、神谷悠一『差別は思いやりでは解決しない』(集英社新書)です。著者は、LGBT法連合会事務局長ということですが、市民活動家のカテゴリーに当てはまるのではないか、と私は考えています。本書の副題が「ジェンダーやLGBTQから考える」となっており、いろんな差別がある中で、LGBTQから見た差別を中心に議論していますが、それ以外にも当てはまる論点が提示されていると私は考えています。LGBTQの問題に関しては、私自身はしす現だ~のヘテロセクシュアルであって、しかも、中年・初老の男性として、ある意味で、もっとも保守的と考えられるクラスに属しています。ですから、頑迷固陋な意見を持つ同僚や友人はいっぱいいます。ただ、私自身は基本的にリベラルなナチュラリストであって、ご本人や周囲がよければ構わない、と考えています。よく引用する文句は「いいじゃないの、幸せならば」だったりします。ただ、本書に関して2点付け加えたいと思います。第1に、私はエコノミストとして、大学生向けに経済学の授業をする際に、基本的に、「思いやりでは解決しない」と同じことをいっています。すなわち、「経済学とは政策科学であって、ひとのココロの問題ではない」ということです。小学生レベルであれば、「人のココロから憎しみがなくなれば戦争しない」なんてのもいいのですが、経済学を学ぶ大学生に対しては、キチンと制度的な対策や組織的な政策が必要と教えるべきだと私は考えています。反論する学生は今までいませんが、反論されたら、「交通安全を願うココロだけでは交通事故はなくならない。信号や横断歩道や速度制限などの交通ルールが必要」と回答します。第2に、総理秘書官の放言や辞任問題と関連して、岸田総理自身の「社会が変わってしまう」発言が問題視されていますが、私は別の意味で「社会を変えたい」という観点も必要と考えています。直接にLGBTQではないのですが、私は女性の管理職を大幅に降らすことが出来れば、日本の経済成長を大いに加速することが出来ると期待しています。それはまさに、「社会が変わるほどのインパクト」を持った大変革であるべきです。繰り返しになりますが、LGBTQには詳しくありませんが、まさに、保守的な人々が「社会が変わる」と思うくらいの大変革をもたらすインパクトある制度を構築する必要があるのではないか、と考えています。そうすれば、保守的な人々の「ココロ」の持ちようも変わると期待できます。
2023年02月04日 (土) 09:00:00
今週の読書はまたまた経済書なしで計5冊
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)は、社会主義時代の旧東ドイツのジョークを収録しています。あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)は、小暮進次郎と遠野屋清之介が主人公となる弥勒シリーズの時代小説で、シリーズ第11巻目となります。絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)は、十数年前の『逃亡くそたわけ』の続編であり、富山県を舞台にしています。保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)は、太平洋戦争を中心に昭和史をひも解いています。最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)は、新宿歌舞伎町を舞台に中年男性から風俗産業で資金を得た女性がホストに貢ぐというエコシステムを貧困女性に対するインタビューをてこに明らかにしています。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って今週の5冊の計25冊となっています。後期の授業を終えて、何となくだらけて経済書を読んでいないのは別としても、『乱鴉の空』は私はミステリと考えていますが、最近の読書では極めてミステリが少なくなっています。来週こそはしっかりとミステリも読みたいと思います。
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)です。著者は、ドイツ製品文化・サブカルライターと東ベルリン生まれでドイツ語ネイティブのフリーライターです。実は、1月21日付けの朝日新聞の読書欄で紹介されていて大学の生協で買い求めました。日本人的な観点からすると、欧州のジョークは英国が一番であって、ドイツ人はそれほどジョークを得意としているわkではない、特に、社会主義体制下の旧東ドイツは尚さら、という見方がありそうな気がしますが、私はそれなりに外国生活を経験して、旧ソ連や社会主義だったころの東欧圏でもジョークはいっぱいあるのは知っていました。例えば、先日のブログでも取り上げましたが、東ドイツ製の自動車トラバント(あるいは、ソ連製のラダでも何でもOK)とロバが道で出会った際の会話で、ロバがトラバントに対して「自動車くん」っと挨拶を呼びかけるのに対して、トラナbトが挨拶を返して「ロバくん」と呼びかけると、ロバが不機嫌になり、ロバの方はトラバントに対して「自動車」とサバを読んで格上げしているのだから、トラバントもロバのことを「ウマ」くらいにお世辞をいえないのか、と文句を垂れる、といったものです。トラバントは「自動車」ではない、それは、ロバがウマではないのと同じ、という趣旨です。もっとも、私の知っているこのトラバントに関するジョークは本書には収録されていませんでした。ただし、本書でも、そういった種類の旧東ドイツに関するジョークが、ドイツ、ないし、東ドイツの概要の解説から始まって、政治ジョーク、お役人ジョーク、生活ジョーク、インターナショナルなジョーク、ブラックなジョーク、などと分類されて収録されています。ドイツ語の表現とともに収録されていて、当然に、邦訳するよりもドイツ語そのままの方がヒネリが利いている、というジョークが少なくありません。実は、私は大学生の頃は第2外国語はドイツ語を取った記憶が鮮明にあるのですが、まったくドイツ語は理解しません。むしろ、在チリ大使館に3年間勤務しましたので、スペイン語の方が理解がはかどります。でも、東欧のスラブ語ではなく、西欧のラテン語から派生した言語はそれなりに共通性があります。英語で clear は日本でも理解されやすい外来語ですが、ドイツ語では klar、スペイン語では claro になります。英語では限られた意味しか持ちませんが、ドイツ語やスペイン語では単独で使うと「もちろん」という肯定の回答になったりします。おそらく、イタリア語とスペイン語は大元のラテン語にもっとも近いんではないか、と私は想像しています。でも、他の言語をそれほど理解しませんし、パリに行った際にはフランス語ではなくスペイン語ですべて済ませていた程度の語学力ですので、詳細は不明です。脱線しましたので本書に戻ると、私も知っている範囲で、モノ不足をモチーフにしたジョークと情報制限や情報操作をモチーフにしたジョークが印象的でした。前者では、資本主義地獄に対して社会主義地獄では生産が不足して針山ができない、とかですし、後者ではナポレオンが東ドイツの製品でもっとも欲しがるのはご当地の新聞で、ワーテルローで破れたことを知られずに済む、というものです。ナポレオンについては、本書では言及していませんが、ロスチャイルドがワーテルローで英国勝利の情報をいち早く得て巨利を得た、という史実を踏まえています。本書で欠けている最後のポイントなど、もう少しドイツから視野を広げた方がジョークをより楽しめる、という些細な難点はありますが、まあ、面白い本でした。
次に、あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)です。著者は、『バッテリー』などの青春小説でも有名な小説家です。本書は「弥勒」シリーズの最新刊であり、シリーズ第11作めに当たります。私は、たぶん、全部読んでいると思います。主人公は、極めてニヒルですべてを見通したかのような八丁堀同心の小暮進次郎、そして、国元では刺客・暗殺者として育てられながら江戸に出て商人として成功した遠野屋清之介ですが、小暮進次郎の手下の岡っ引きである伊佐治も重要や役回りを演じます。ということで、本書では、小暮進次郎の屋敷が奉行所の探索にあって小暮進次郎が姿をくらますとともに、手下の伊佐治が大番屋にしょっぴかれて取調べを受けるところからストーリーが始まります。まずは、遠野屋清之介が伊佐治の店である梅屋に現れて、商いのツテから伊佐治の釈放に努めます。そして、小暮進次郎の行方は遠野屋清之介がつきとめ、別の案件に見えた鍛冶職人やその関係者が襲われるという事件から、謎が解かれていきます。実に大きな天下国家にかかわる事案であることが明らかにされます。本書では、最後の方に遠野屋清之介に発見されるまで、ほぼほぼ小暮進次郎が不在なので、いつもとは違う雰囲気のストーリー展開です。その分、というわけでもないのでしょうが、伊佐治の家族、というか、梅屋の一家の様々な面を垣間見ることができます。また、このシリーズは時代小説ながら、基本的にはミステリだと私は理解しており、これまた、小暮進次郎の頭の中だけで謎解きがなされる、というのもこのシリーズの特徴です。ある意味で、このシリーズの終りが近いことを感じさせた作品でした。というのは、このシリーズは町方の小さな事件から始まって、少し前には抜け荷=密輸のお話が出てきましたし、この作品では、繰り返しになりますが、公儀を揺るがせかねないほどの天下国家の大事件が背景に控えている可能性が示唆されます。同心と岡っ引きの事件探索に実は凄腕の剣術家の商人が関わってストーリーが展開される、という基本ラインはほぼほぼ終了した気がします。でも、少なくとも遠野屋に手妻遣いの新たな人物が送り込まれてきましたし、少なくとも次回作には続くんだろうと思います。まあ、何と申しましょうかで、シリーズ終了まで私は読み続けそうな予感があります。最後の最後に、有栖川有栖の本格ミステリに『乱鴉の島』というのがあります。大丈夫と思いますが、お間違えにならないようご注意です。
次に、絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)です。著者は、小説家であり、「沖で待つ」により芥川賞を受賞しています。たぶん、私はこの「沖で待つ」と、本書の前作に当たる『逃亡くそたわけ』とか、やや限られた作品しか読んでいません。ということで、前作に当たる『逃亡くそたわけ』は福岡の精神病院から20歳過ぎの女子大生の花ちゃんが、名古屋出身で慶応ボーイの20代後半サラリーマンのなごやんが脱走して、阿蘇や鹿児島までクルマで逃走する、というストーリーでした。本書は、何と、その花ちゃんとなごやんが十数年を経て富山県で再会し、ともに家族持ち、というか、結婚して配偶者を得、さらに、子供もともに1人ずつもうけるという舞台設定での続編です。ですから、前作で何度も登場したマルクス『資本論』からの一節はまったく出てきません。そして、前作では、まだ精神病が治り切っていない段階でも逃亡劇でしたが、本作では薬の服用はあるものの、ライオンめいた精神科医に飛び込んで診察して薬の処方箋を出してもらう、といったシーンはありません。ストーリーは、2人が富山県で再会して家族ぐるみのお付き合いが始まる、というところから始まり、共通の趣味であるキャンプに行ってなごやんの家の犬が行方不明になって探したり、さまざまな人生、もちろん、タイトル通りのまっとうな人生に起こり得るイベントへの対応で進みます。最後の方で、なごやんが音楽フェスに行くかどうかで、絶対に行くというなごやんと反対する花ちゃんやなごやんの奥さんが仲違いしそうになったり、といったクライマックスに向かって進みます。このあたりは、コロナ文学の一部が現れています。実に、作者の筆力がよく出ている優れた作品です。ストーリー、というか、大衆文学に求められがちなプロットの面白さ、あるいは、結末の意外性などをまったく持たなくても、これだけ書ければ読者は満足する、という意味での純文学のパワーが感じ取れます。まあ、シロートが書いているわけでもないですし、芥川賞作家なのですから当然といえます。ただ、プロットではないかもしれませんが、「沖で待つ」にせよ、前作『逃亡くそたわけ』にせよ、この作品でも、恋愛関係にない男女の仲、というか、関係や心の動きなどを実にうまく表現しています。他の作品をそれほど読んでいるわけではありませんが、この作者の真骨頂を増す部分かもしれない、と思ったりしています。男女の機微も含めて、本書では風景や情景というよりも、登場人物の心の動きが実に繊細かつ美的に描写されています。それらを表現する言葉を選ぶセンスが抜群です。まあ、これも当然です。最後に、2011年3月の東日本大震災やそれに起因した原発事故の後には、震災文学と呼ばれる作品がいくつか発表されました。本書は、その意味でいえば、コロナ文学といえるかもしれません。私は不勉強にして、ほぼほぼ初めてコロナ文学を読んだ気がします。なごやんの音楽フェス待望論ではないですが、コロナとの付き合い方を登場人物が正面から考え、小説としてコロナのある日常を描こうという試みの小説は、他にもあるとは思うものの、その中心をなす作品かもしれない、と思ったりも足ます。
次に、保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)です。著者は、作家、評論家とされていますが、私は基本的にジャーナリストに近いラインと考えています。ですから、文藝春秋の半藤一利と同じような属性、と考えていたりします。なお、本書の最終第5章のそれも最後の方で半藤一利が言及されていて、本書の著者はそれに対して「作家の」という形容詞を付けていて、やや笑ってしまいました。他方で、著者は太平洋戦争当時の軍部に対してき分けて批判的な見解を本書でも明らかにしており、ある意味で、リベラルなのかもしれない、と思ったりします。まあ、違うかもしれません。ということですので、本書のタイトルに即していえば、昭和史の最大重視されるべき史実は太平洋戦争、ということになります。ただ、それは本書の著者でなくても大部分の日本国民は同意することと思います。ですから、ハッキリいって、本書はそれほど歴史の勉強になるものではありません。著者独自の見解がいくつか見られますが、たぶん、平均的な日本人と大きくは違わないものと私は受け止めています。加えて、本書巻末で示されているように、本書に初出の論考はありません。すべて、毎日新聞、信濃毎日新聞、共同通信から配信されたコラムなどを編集し直したものですので、新たに発見された歴史的事実が示されているわけでもありません。ただ、いくつか考えるべき論点は示されています。すなわち、著者の最も関心深い戦争についてで、本書では軍部が日清戦争の教訓から戦争を「儲かるもの」として捉え、太平洋戦争でも勝つまで遂行する、という姿勢を崩さなかった、と指摘していますが、私は違うと思います。というのは、基本的に儲かるかどうかを経済学的に考えると、設備投資と同じで投資とリターンの収益性を考えることになりますので、「勝つまで止めない」ではなく、そもそも「始めるかどうか」についてキチンと原価計算する、ということが要諦です。ですから、原価計算が出来ていなかった、というのが真相ではなかろうか、あるいは、原価計算を判断する主体がいなかった、ということだろうと思います。後者から考えるに、本書でも指摘しているシビリアン・コントロールが欠如していた、ということになります。日清戦争や日露戦争では、明らかに、政府首脳が戦争をやるかやらないか、あるいは、どこで止めるか、についてしっかりと判断を下しています。まあ、第1次世界対戦が欧州の勝手で始まって、勝手で終わってしまったために、やや感覚がおかしくなった面はあると思います。でも、経済計算や原価計算で戦争を考えるのは限界、というか、軍部の態度がそうだったとするのにはムリがあります。加えて、ほぼほぼ日本国内で議論が尽きていて、海外の反応という要素がまったく欠落しています。このあたりを批判的に考えながら読み進み必要があります。
最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)です。著者は、ノンフィクション・ライターで、少し前までは風俗ライターだったと本書では自ら記しています。本書は、タイトル通りに、新宿歌舞伎町、特に、ゴジラヘッドが特徴的な新宿東宝ビルができた2018年以降に、そのあたりに集まり出したトー横キッズなどを中心に、風俗産業や街娼などで中年男性から得た資金をホストに貢ぐといった使い方をする貧困女性などを取材して取りまとめた結果です。なお、おそらく、本書では言及されていませんが、プレジデントオンラインにて本書と同じタイトル、同じ著者による『歌舞伎町と貧困女子』という連載がありますので、おそらく、かなりの程度には連動しているのだろうと想像されます。取材対象はあくまで歌舞伎町貧困女子であり、繰り返しになりますが、表裏を問わず風俗産業で男性から得た資金を持って、多くの場合はホストに貢いだり、何らかの暴力的な要因も含みつつ男性に奪取されたり、といったために貧困に陥っている女性です。そして、中には月収100万円超の女性もいますが、それをホストに貢ぐために稼いでいるのであって、自分の消費に回す部分は極めて小さい、ということが想像されます。加えて、こういったインタビュー対象の女性の中には、何らかの精神的な疾患や障害を抱えている人もいます。個別のインタビィーは本書を読むか、プレジデントオンラインを見るのがベストですので、個々では詳細には言及しませんが、とても悲惨な現状が明らかにされています。まあ、合いの手に、警察の規制が厳しくなって活動範囲が大きく制限されるようになったヤクザの現状なども、まあ、歌舞伎町のエコシステムの一部でしょうから、簡単にルポされていたりします。私は性産業で搾取される女性に極めてシンパシーを感じていて、一般社団法人Colaboの活動などは強く支持していますが、ただ、本書でも例外があって、パパ活の定期19人で月に150万円以上稼いで、ホストに入れあげることもなくガッチリ貯金している女子大生がいましたので、こういうのをクローズアップしてColaboの活動などに反論したりするする連中もいるのだろうと思います。何と申しましょうかで、60歳の定年まで公務員だった私のような凡庸な人間には、なかなか目につかない世界なのだという気はしますが、こういった現実がまだまだある点は忘れるべきではないと思います。最後に、歌舞伎町における資金の流れ、というか、中年男性から風俗産業の女性が資金を得て、それがホストに貢がれる、という歌舞伎町のエコシステムに何度か言及されていますが、その食物連鎖の底辺の男性にはインタビューがなされている一方で、頂点のホストへのインタビューはありません。少し物足りないと感じる読者もいそうな気がします。
2023年01月28日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書なしで計3冊にとどまる
まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)は、早大探検部出身のノンフィクションライターの語学学習に関するエピソードです。続いて新書が2冊で、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)は、総合商社のマルチな活動に焦点を当てており、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)は、毎日新聞のジャーナリストがマルチ商法をルポしています。
ということで、今年の新刊書読書は1月中に計20冊になりました。なお、新刊書ならざる読書については、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)、絲山秋子『逃亡くそたわけ』(講談社文庫)、さらに、萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)も読みました。最後の萩尾望都の漫画はすでに昨日にこのブログで取り上げていますが、それ以外も順次 Facebook などでシェアしたいと予定しています。
まず、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)です。著者は、早大探検部語出身の辺境ノンフィクション作家です。表紙画像の帯にあるように、学んだ言語は25以上だそうです。フランス語やスペイン語、ポルトガル語などの西欧言語、あるいは、中国語やタイ語、ビルマ語などのアジア言語のほか、本書の冒頭第2章ではアフリカ言語もリンガラ語の他、いくつか学習しています。もちろん、外国語学習の絶対的なモチベーションは現地に赴いて何らかの活動を行うことですから、本書の眼目としては、タイトル通りの語学学習、そして、辺境を含めた現地事情、の2点となります。後者の現地事情については、著者の他の著作でも広範に紹介されているようですのでサラリと流して、主として語学学習を取り上げたいと思います。というのも、私も在チリ大使館で3年間の勤務経験があり、スペイン語の理解は一応あります。今は今で、大学では英語の授業をいくつか受け持っています。本書の著者は語学学習の要諦として、ネイティブについて学ぶ、とか、ボキャブラリーを重視し、文法は会話するうちに自分で見つける、とかあるのですが、私もかなりの部分は同意します。私の知る限りでも、インドネシアのマレー語もそうで、アフリカの言語などでも動詞の活用がほとんどない言語があります。あるいは、主語と動詞と目的語の語順をそれほど神経質に考えなくてもいい言語もあります。ドイツ語のように助動詞が入れば動詞が語尾に来るとか、フランス語やスペイン語のように目的語が代名詞であれば動詞の前に来るとか、などなどです。ですから、私としてはボキャブラリーが重要と考えています。また、語学に限定せずに、いろんな勉強に当てはまるという示唆もいくつか本書には含まれています。例えば、第4章にあるのですが、近い場所、安い授業料、融通の利く時間帯、というのはよくない場合があり、高いお金を払って、遠い場所までわざわざ行って、固定された時間に最優先で授業を受ける勉強こそが身につく、というのは真実の一部を含んでいると思います。25年ほども前の大昔ながら、私は公務員試験委員として人事院に併任されて試験問題の作成を経験したことがあるので、今でも学生諸君から公務員試験のアドバイスを求められたりするのですが、公務員試験対策の講座は取った方がいいと思っています。たぶん、30万円以上かかると思います。でも、それくらいの金銭的時間的な負担をしてモチベーション低下を防止した方がいい場合も少なくありません。最後に、私も本書にあるような挨拶や感謝や謝罪のない言語というものは想像できませんでした。英語とスペイン語はもちろん、マレー語にも時間帯ごとの挨拶の言葉がありますし、感謝や謝罪の表現は何通りかあります。意思疎通というよりは、社会生活を送る上で困らないのか、と考えてしまいました。
次に、猿島弘士『総合商社とはなにか』(平凡社新書)です。著者は、サービス・マーケティング研究家ということになっています。総合商社勤務の後、コンサルタントとして活動し、その後、大学教授もしているとされています。基本的には、総合商社の提灯持ちの本なのですが、実体の判りにくい業態だけにこういった解説書は有益です。副題にあるように、総合商社を「最強のビジネス創造企業」と位置づけています。まず、本書にもある通り、総合商社ではない専門商社という卸売業の企業も日本にはいっぱいあります。典型的に、私が知る範囲では鉄鋼商社や食品商社などです。しかし、本書でも指摘しているように、総合商社では単なる売買の商行為だけではなく、金融や投資も含めた幅広い活動をしています。私はこういった幅広い活動については、まさに、「マルチ」という用語を当てるのが適当だと考えます。マルチな活動をするだけに、本書では言及していませんが、英語で総合商社に相当する定訳がありません。というか、正しくは sogoshosha であって、サムライ、フジヤマ、ゲイシャなどと同じで日本語がそのまま英語になっています。それほど独特なマルチの活動を展開しているといえます。本書では、そのマルチな活動として、主として8つの活動をp.178以降で取り上げています。本書では、冒頭で社史をひも解いていて、まあ、それはそれでいいのですが、このあたりのマルチな活動はもっと早い段階で紹介しておくのも一案かと思います。そして、総合商社の活動の基本になっているのは、やはり、マルチな活動であるがゆえに業としての規制がほぼほぼないという点も忘れるべきではありません。私の学生時代には、大規模な製造業、日立とか、トヨタとか、当時の新日鉄とかに加えて、今でいうところのメガバンク、当時の表現でいえば都市銀行、総合商社などが人気の就職先でした。私のゼミの先輩で本書でも紹介している堅実経営の総合商社に就職したものの、ヘッジのための為替取引を担当し2-3年おきに胃潰瘍を患って入院をしていた人もいたりします。それなりに体力的には過酷な業務ながら、やりがいもあると聞き及んだことがあります。私のゼミの学生で総合商社に就職する学生が出るよう願っていたりします。
最後に、小鍜冶孝志『ルポ脱法マルチ』(ちくま新書)です。著者は、毎日新聞のジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、街中で「いい居酒屋知らない?」と声をかけて、マルチ商法のマインドコントロールに追い込んで、人間関係からカネを搾り取る脱法マルチについてルポしています。こういったマルチ商法は、基本的に、カルト宗教と同じで、人間関係からマインドコントロールに入って、基本的には、経済的に金銭を搾り取る、という形になります。マインドコントロールという点では宗教カルトと同じです。そして、カネを目的としている点も同じです。マルチ商法とは、経済学的にはすでに解明されていて、いわゆるポンジスキームという名称まで与えられています。ポンジースキームとは、マルチ商法の逆回りでいえば、借金で借金を返すという雪だるま式に借金が増えるだけで、サステイナブルであるハズもなく破綻に向かうだけです。合理性はまったくありません。このスキームは、それらしく、本書p.189に図解されていますが、ネズミ講=無限連鎖講と同じで、いつかは破綻します。なお、宗教については、合理性ないのは明らかなで「信ずる者は救われる」ので世界すが、マルチ商法のように一見経済行為と見える活動に対して合理性が働かないのは私はかねてからとても不思議に関していたのですが、マインドコントロールで宗教的に、というか、心理学的にコントロールされているのだとは知りませんでした。結局のところ、近づかないのが一番、という気がします。というのは、私が父親からいわれたのとほぼ同じ注意を倅どもが高校を卒業して大学に入る時にした記憶があり、第1に宗教は絶対にダメ、第2にマルチ商法は逃げられるのなら見極めて逃げるべし、第3に学生運動はホントに正しいと心から信じるのであればOK、というものです。しかし、マルチも宗教と同じでマインドコントロールされるのであれば逃げられない確率が高く、最初から手を出すべきではない、ということになりそうです。最後に、私は実は国民生活センターに勤務した経験があり、マルチ商法にはそれなりに知見があります。その目で見れば、やや取材が甘くて踏込み不足な点も見受けられます。でも、まったくマルチ商法について情報ない向きには、それなりに参考になると思います。
2023年01月27日 (金) 12:00:00
萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読む
萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(小学館プチコミックス)を読みました。1967年に出版された光瀬龍の同名のSF小説を原作として萩尾望都が漫画化しています。原作の小説にせよ、漫画にせよ、いくつかのバージョンがあるのですが、今回、私が読んだ漫画は小学館のプチコミックスから1985年に出版されたものでした。でも、この漫画が『少年チャンピオン』に連載されていたのは1970年代後半だと思います。どうでもいいことながら、1985年なんて大昔という印象がありますが、私はすでに公務員として働き始めていましたし、この年に阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制しましたので、役所で祝勝会をやった記憶もあります。
ということで、なぜ読んだのかというと、先週の読書感想文ブログで、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)を取り上げた際に、人類は肉体を棄てる、という結論を紹介しました。同時に、この『百億の昼と千億の夜』の漫画では、「A級市民はコンパートメントが提供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていた」と不確かな記憶を引いておきました。その私の記憶を確認するために読みました。はい。私の記憶が正しかったです。ゼン・ゼン・シティではでっぷりと太ったA級市民はコンパートメントで眠っており、B級市民がコンパートメントを欲しがる、という部分があります。
またまた、どうでもいいことながら、いくつか不確かな知識を並べておくと、第1に、この1970年代から1980年代前半くらいまで、このころの日本の上流階級、というか、今でいうところの富裕層というのはゼンゼン・シティのA級市民のように、でっぷりと太っていた記憶があります。北朝鮮や中国の政権トップの体型は今でもそうなっているという気がします。40-50年くらい前までは日本の政権トップも似たようなものでした。ひょっとしたら、ある種のステータスであったのかもしれません。別のトピックながら、三島由紀夫が「人間というのは豚になる傾向をもっている」と予言したと、適菜収『日本人は豚になる』(KKベストセラーズ)では指摘しています。何かの関連があるかもしれません。ないのかもしれません。第2に、呼び方はともかく、A級市民とB級市民への階級分化については、ほかにもいろんな小説や映画などで扱われています。中でも、強烈に私の印象に残っているのが、貴志祐介『新世界より』(講談社文庫)です。人間とバケネズミの関係などで言及されています。さらに、どうでもいいことながら、この小説も及川徹が漫画化しています。
まったく新刊書読書でもなんでもないのですが、大学の授業や定期試験監督が一段落して、ややココロにゆとりがある週末の前に、冗長ながら、取り上げておきたいと思います。
2023年01月21日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書のほかに新書4冊も含めて計6冊
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)では、古典派ないし新古典派への回帰を図るネオリベな経済理論を強く批判しています。井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)は、メタバースの基本を解説しつつ、メタバースで供給・消費されるデジタル財からなる経済について解説を試みています。中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)では、いわゆる空想的社会主義のサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人の思想や実践に焦点を当てています。牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)は、ナチスをはじめとする全体主義の恐怖を取り上げています。鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)は、徳川期から昭和期1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展史を地形にも注目しつつ跡付けています。辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)は、終戦直後の過酷なシベリアでの捕虜収容所で未来への希望を失わなかった山本一等兵の物語です。
ということで、今年の新刊書読書は今週の6冊を含めて計17冊になります。
どうでもいいことながら、最近、ミステリを読んでいない気がします。ようやく、図書館の予約の順番が回ってきましたので、新刊ではないながらディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)を借りることができました。映画化もされ、話題になったミステリですので、早速、読んでみたいと思っています。
まず、ロベール・ボワイエ『経済学の認識論』(藤原書店)です。著者は、フランスのエコノミストであり、レギュラシオン理論の第1人者でもあります。フランス語の現代は Une discipline sans réflexivité peut-elle être une science? であり、2021年の出版です。フランス語の現代を直訳すれば「再帰的反省なき学問は科学たり得るのか?」という意味だと思います。キーワードは「再帰的反省」であり、フランス語では "réflexivité" あるいは、英語にすれば "reflexivity" ということですから、英語の "recursivity" や "recursion" ではありません。訳注(p.15)では「研究対象に対する研究主体を客観的に反省すること」とされています。ただ、こういった議論は別にして、本書では20世紀終わりころから、そして、典型的には2008年のリーマン証券破綻からの金融危機、さらに、2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより混乱まで、レギュラシオン学派ならざる主流派経済学、特に、新自由主義=ネオリベな実物的景気循環理論(リアル・ビジネス・サイクル=RBC理論)の破綻について論じています。もちろん、その解決策がレギュラシオン理論、ということになります。ボワイエ教授の考えでは、本書に限らず他の著作などでも、理論は歴史の娘であって合理性の娘ではない、という点が強調されます。ケインジアンないしニュー・ケインジアンの経済理論を「ミクロ的基礎づけ」の観点から批判し、古典派ないし新古典派への回帰を図る経済理論を強く批判しています。特に、私が強く同意するのは経済学の数学化に関する第5章から第6章の議論であり、何度か私も主張しているように、エコノミストが用いている経済学のモデルは現実に合わせて修正されるのではなく、逆に、モデルに適合するように政策的に現実の経済社会が古典派の世界に近づけられている危惧が本書でも指摘されています。もちろん、どうしてエコノミストがそのようなインセンティブを持つかといえば、エコノミストのヒエラルキーがあるわけで、私のように上昇志向を持たない例外は別にして、トップ・ジャーナルへの掲載を志向すれば、いろいろと制約条件が重なるわけです。経済学が専門職業化し、さらに学問分野が細分化され、個々のエコノミストの視野狭窄が始まると、経済学が現実の経済社会の問題を解決する能力が低下しかねない、というのはその通りで、現実に生じていいるといえます。そして、経済学をもとから考え直すべき基礎は歴史である、と著者は強く主張します。私はこの点にも合意します。経済学があらぬ方向に向かってしまった今となっては、さまざまな観点からの経済学の再生めいたアクションが必要なのかもしれません。
次に、井上智洋『メタバースと経済の未来』(文春新書)です。著者は、駒澤大学のエコノミストです。冒頭にタイトルとなっているメタバースの簡単な解説をした後、本書の主張はノッケから、将来の経済がスマート社会とメタバースに分岐する、というところから始まります。すなわち、どちらもAIやデジタル技術が大いに活用されるわけですが、現実社会がAIの活用などによって純粋機械経済に近づくのがスマート社会であり、後者のメタバースとは、大雑把に、仮想現実(VR)や拡張現実(AR)が進化したものであり、通貨も仮想、あるいは、暗号通貨だったり、アバターで活動して生身の人間の所在が問われないわけです。もちろん、本書は現実社会の空間がスマート化していくことはスコープ外であって、後者の仮想・拡張空間の進化型の経済活動を対象にしています。ですから、メタバースにおける経済活動は純粋デジタル経済になります。そのココロは、純粋なデジタルな財とサービスだけが供給される経済、ということになります。実体経済のスマート化が進み、デジタルでない実体あるモノやサービスはスマート社会から供給され、メタバースで供給・消費されるデジタル財は実体のあるモノやサービスではありませんから、資本財は不要で、限界費用はコピーですからゼロになり、差別化された財の供給という意味で独占的競争が支配的になります。ですから、希少性に従って市場で価格付がなされ、その価格に応じて資源配分されれば効率的、という経済学ではなくなります。限界費用がゼロで供給が無限、というか、経済学的に正しくいえば、希少性がゼロになります。私のような単純エコノミストがパッと思い付きで考えれば、資本主義社会の次に来る社会主義を飛び越して共産主義になるようなものです。ですから、本書でも真剣に資本主義がどう変わるかを第5章で議論しています。現在の企業に代わって、分散型自立組織=DAO (Decentralized Autonomous Organization)が経済活動の中心になれば、資本家/経営者/労働者といった階級分化はなくなり、デジタル通貨により銀行支配が大きく縮小する可能性が示唆されます。同時に、格差についても、明らかに、地域格差は縮小、というか、消滅の方向に向かいます。気候変動=地球温暖化も緩和される可能性が示唆されます。そして、本書の最後の結論は人類は肉体を棄てる、というものです。ここまでくると、まるっきりSFチックなものですから、眉唾で懐疑的な見方が増えそうな気もします。この結論は別としても、メタバースないしメタバース経済に関する入門書としては適切ではないか、と私は考えます。最後の最後に、人類が肉体を棄てるかどうかについて、光瀬龍の原作を基にした萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』では、A級市民はコンパートメントが供されて、実体の肉体は惰眠するだけの存在になっていたように私は記憶しています。まあ、やや記憶が不確かなのは認めます。
次に、中嶋洋平『社会主義前夜』(ちくま新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、専門は政治学です。本書でいうところの「社会主義」は、理論とか運動場の社会主義であって、しかも、その前夜ですのでマルクス主義的な科学的社会主義ではなく、サン=シモン、オーウェン、フーリエの3人を軸とする空想的社会主義について、経済社会の時代背景などとともに振り返っています。すなわち、資本主義社会黎明期としての19世紀初頭から半ばにかけて、フランス革命後の政治的、あるいは、産業革命期に不安定だった経済社会、資本家と労働者のはなはだしい貧富の格差、貧困層の劣悪な労働・生活環境といった問題に取り組んだ理論・思想・運動としての社会主義の誕生の時期にスポットを当てています。後には、暴力革命による体制変革を目指すマルクスとエンゲルスによって空想的社会主義と名付けられ、まあ、マルクス=エンゲルスの科学的社会主義よりもやや質落ちの印象が与えられましたが、オーウェンが米国で始めた労働協同村ニューハモニーとかの実践も本書では取り上げています。ただ、空想的社会主義のその後の歴史的な発展は本書ではややスコープ外とされているようで、英国ではフェビアン協会から労働党が組織されたり、あるいは、欧州各国で革命的な共産主義ではなく改良主義的な社会民主主義の正統が政権に参加したりといった活動は本書では取り上げられていません。もちろん、マルクス=エンゲルスによる科学的社会主義が現在の共産主義につながっていることは明確なのですが、空想的社会主義が社会民主主義につながっているのかどうかは私はよく判りません。ただ、病気の治療なんかもそうですが、経済社会の問題解決に当っては対症療法というのも決して無視してはいけない、と私は考えています。例えば、人類はほぼほぼ天然痘を地球上から駆逐したといわれていますし、こういった病気の克服というのは、もちろん、ある意味での最終目標なのかもしれませんが、熱を下げたり咳を止めたり痛みを緩和したりといった対症療法も必要な場合は少なくないと考えます。また、マルクス=エンゲルス的な社会主義/共産主義がソ連東欧で失敗したわけですし、対症療法として、あるいは、空想的とはいえ、こういったサン=シモン、オーウェン、フーリエの3人が果たした役割というのは決して小さくない、と私は考えています。
次に、牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書)です。著者は、広島大学名誉教授で専門は政治学や政治思想史です。タイトル通りに、ハンナ・アレント女史を反全体主義という観点から取り上げています。ハンナ・アレントといえば、アイヒマン裁判の傍聴から「悪の凡庸さ」を指摘した、くらいしか情報を持たない私のような専門外のエコノミストはちゃんと認識していなかったのですが、権威主義体制と暴政(専制)と全体主義を区別して、判りやすい概念図としてpp.40-41に示してあります。暴政(専制)は1人の暴君がその他すべてを等し並に支配するのでやや判りやすくなっています。他方で、権威主義では超越的な指導者から取り巻きがヒエラルキー=階層構造を成している一方で、全体主義では指導者から同心円的な構造をなしていて階層構造を成していない、という違いがあるそうです。そして、というか、なぜなら、ハンナ・アレントが喝破したように全体主義とは運動である、と考えるべきだからです。もちろん、ハンナ・アレントの全体主義はほぼほぼナチス/ヒトラーと同じと考えるべきですが、当然ながら、イタリアのファシズムや日本の戦前体制も同様の特徴を兼ね備えています。他方で、本書では反ユダヤ主義や全体主義について、かなり歴史的に古くまで概観しているのはいいとしても、同時に、特に、反ユダヤ主義的行為、というか、ユダヤ人虐殺が権威主義的なパーソナリティに基づいて実行されている点は軽く扱われているような気がします。トイウノハ、アイヒマン的にユダヤ人虐殺に対して何らの人道的な痛みも感じることなく、いわば「上司からの命令に基づく業務遂行」のような形で実行している点は私はそれなりに重要な点だと考えています。のちの、ジンバルドー教授によるスタンフォード監獄実験の結果と同じで、役割を割り振られれば良心に反する行為でも実行されかねない危うさは指摘してもしすぎることはないと思います。他方で、私のようなエコノミストの目からすれば、反ユダヤ主義がナチスの残虐行為の源泉とみなされるのも、やや危うさを感じます。ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で指摘したような過酷な賠償という要因も忘れるべきではないからです。最後に、私の読み方が浅かったからかもしれませんが、やや読後感がよくなかったのは、どこまでがハンナ・アレントの考えで、どこからが著者自身の考えかが、必ずしも判然とはしなかった気がします。一般向けのコンパクトな新書ですから、学術論文的に引用や参考文献をどこまで示すかは議論あるところですが、少なくとも、ハンナ・アレントの主張と、それを基にした著者自身の考えは、もう少し判りやすく記述してほしかった気がします。
次に、鈴木浩三『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)(ちくま新書)です。著者は、東京都水道局ご勤務の公務員のようです。ただ、おそらくは技術者ではなく、ビジネス関係の大学のご卒業です。ということで、タイトルから明らかなのですが、近世徳川期から現代、大雑把に昭和の1970-80年代くらいまでの江戸・東京の発展を跡づけています。ただし、タイトルのように地形で跡づけているのは江戸期だけで、明治期以降の近現代はあまり地形には関係なく、というか、科学技術の進歩によって地形の制約が薄れた、ということなのだろうと思いますが、結果的に地形とは関係薄い東京の発展、ということになっています。お仕事柄なのかどうか、江戸期の上水道に関してはとても詳細な解説でした。でも、地形に即しているとはいえ、やや土木技術的な観点が多くて、専門外の私には判りにくかった気がします。他方で、社会科学的な観点から江戸・東京の発展史について、背景も含めて、判りやすく、かつ、多くの読者が興味を持てるように語られているわけでもないわけで、私の目から見て、やや辛い評価なのかもしれませんが、歴史書や事業史といった既存の参考文献をひもといて事実関係を羅列したに近い印象でした。まあ、私のように、浅草に使い下町から城北地区、世田谷区や杉並区といった山の手の住宅街、さらには多摩地区までいろいろと東京の中でも移り住んで、それなりの土地勘ある読者にはいいような気もしますが、それ以外の東京についての情報が少ない読者には大きな興味を持てる内容とは思えませんでした。私は年に何冊か「京都本」を読みますし、おそらく、それほど京都に土地勘ない読者にも興味を持てるように工夫されている感覚が判るのですが、本書については東京在住者の、しかも、読解力が一定の水準に達した、もしくは、マニア的な読者がターゲットなのかもしれません。でもまあ、それだけ東京や首都圏に人口が集中しているわけなので、読者も多数に上るのかもしれません。
最後に、辺見じゅん・林民夫『ラーゲリより愛を込めて』(文春文庫)です。本書は映画のノベライズ小説です。著者は、映画の原作となった『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の作者の小説家と映画の監督です。表紙画像にあるように林民夫監督作品として、二宮和也と北川景子の主演で昨年2022年12月に封切られています。私は不勉強にして映画は見ていません。まあ、何と申しましょうかで、映画は見なくてノベライズ小説を読んでおく、というのは、『すずめの戸締まり』と同じパターンだったりします。それはさておき、まず、「ラーゲリ」とはロシア語で強制収容所を意味します。そうです。この小説は、終戦直前に中国の旧満州から一家が帰国しようとする際に、家族と離れてシベリアの強制収容所に捕虜として抑留された山本幡男一等兵の物語、というか、映画のノベライズです。以下、ストーリーを追いますので、結末までネタバレと考えられる部分を含み、この先は自己責任で読み進むことをオススメします。ということで、十分な食事や休養も与えられずに、まったく国際法や基本的人権を無視されたまま強制労働に従事させられ、栄養失調や過酷な労働で病気や怪我をした上に、十分な治療もなされずに亡くなったり、あるいは、自ら命を断ったりする収容者が続出する中で、主人公の山本幡男一等兵は未来への希望、すなわち、家族の待つ日本への帰国の希望を持ち続け、人間らしい尊厳を保ちつつ、日々を過ごします。こういった人柄が収容所の周囲の人々にも伝播し、少しずつ収容者の気持ちにも変化が見られます。しかし、山本幡男一等兵を病魔が遅い十分な治療を受けられずに亡くなります。その直前に、長い長い遺書を書くわけですが、こういった遺書は収容所では許されず没収されるリスクがあることから、宛先別、すなわち、母宛、妻宛、子供達宛に分割して周囲の友人が記憶し、待ちに待った帰国の際の船中で文書に書き残し、帰国後に遺族を探し出して遺書を届ける、というストーリーです。私は感激しながらも涙なしで読み終わりましたが、読者、あるいは、映画の鑑賞者によっては滂沱の涙を流す人がかなりいそうな気がします。たぶん、泣きたい人にはオススメでしょう。
2023年01月19日 (木) 23:30:00
千早茜『しろがねの葉』直木賞受賞おめでとうございます
2023年01月14日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書なしで小説を中心に計5冊
まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)は織豊政権末期から徳川初期にかけての石見銀山での女性の生き様を描き出しています。直木賞候補作であり、私は『光のとこにいてね』とともに、受賞を期待しています。なお、作者は私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。続いて、石井幸孝『国鉄』(中公新書)は、国鉄に技術者として務め、国鉄の分割民営化後はJR九州の初代社長を務めた著者の国鉄に関する歴史や企業体としての記録です。そして、佐伯泰英『異変ありや』、『風に訊け』、『名乗らじ』(文春文庫)は、「居眠り磐音 江戸草紙」のシリーズを引き継ぐ「空也十番勝負」のシリーズです。九州での武者修行を終えた坂崎空也が東に向かいます。
ということで、今年の新刊書読書は、先週の6冊と合わせて11冊となります。
まず、千早茜『しろがねの葉』(新潮社)です。著者は、もちろん、小説家なのですが、私の勤務校である立命館大学文学部のOGです。この作品『しろがねの葉』のほか、『あとかた』と『男ともだち』が直木賞候補作としてノミネートされています。ということで、時代背景は織豊政権末期から徳川期初期にかけて、地理的には石見銀山、ということになります。主人公はウメという女性であり、農村に生まれますが、逃散の途中で父母と生き別れになって山師の喜兵衛により、石見銀山で育てられます。時代が徳川の世になり、徳川御料地となっても石見銀山の活動に大きな変化はありません。ウメの育ての親である喜兵衛は石見銀山から佐渡に去りますが、ウメは石見銀山に残り、夫婦となって子をなします。しかし、銀山の鉱毒で夫は亡くなり、さまざまな試練に直面しながらも強い生き方が印象に残ります。ウメの生きざまが凛として美しい、と感じました。
次に、石井幸孝『国鉄』(中公新書)です。著者は、技術者として国鉄に勤務し、分割民営化後はJR九州の初代社長も務めています。戦後の国鉄の公営企業としての社史を跡付けるとともに、技術上の革新や進歩、あるいは、経営上の問題点などを極めてコンパクトに取りまとめています。ただ、「コンパクト」とはいっても、そもそも国鉄は超巨大企業体でしたので、新書としては異例の400ページ近いボリュームとなっています。経済学的にいえば、電力などの多くのインフラ企業と同じで、大規模な鉄道はいわゆる限界費用低減産業であり、規模の経済が働きます。ですから、ある程度の規模を持たないと経営は成り立ちません。でも、国鉄の場合は巨大であっただけに経営も困難となった面があります。一般的には、鉄道から輸送手段がモータリゼーションによって自動車に転換したのが輸送量減少の一因とされますが、必ずしも輸送量が減少したからといって、あそこまでの赤字を計上するとは限らないわけで、どこかに非効率があったといわざるをえません。でも、「親方日の丸」の非効率だけですべての国鉄赤字を説明できるわけでもなく、さまざまな複合的な要因があるわけです。それを経営だけでなく技術や歴史も含めた新書くらいのボリュームで取りまとめた本書は、ある面では、ムリがある一方で、それなりにコンパクトで有り難い、という気もします。
最後に、佐伯泰英『異変ありや』と『風に訊け』と『名乗らじ』(文春文庫)です。著者は、時代小説家です。というか、最初はスペインを舞台にした小説を書いていたようなのですが、サッパリ売れずに渋々時代小説に転じた、といったところのような気がします。この「空也十番勝負」のシリーズの主人公は坂崎空也なのですが、その父親の坂崎磐音を主人公にした「居眠り磐音 江戸草紙」シリーズが51巻に渡って続いていました。私はすべて読んでいます。親子で剣術家であり、時代は江戸期の田沼時代から少し下がったあたりです。「居眠り磐音」のシリーズは、双葉文庫で出版されていた後、文春文庫に移行しています。「空也十番勝負」のシリーズは最初から文春文庫だったのかもしれません。ということで、坂崎磐音の郷里である関前から武者修行に出た坂崎空也が、長崎での修行を終える際に、薩摩藩の刺客に襲われて、ほぼほぼ相討ちとなって大怪我を負い、長崎らしく蘭方医の手当を受けたところからこの第6巻が始まります。そして、、空也は東に向かい、萩藩城下、さらに、東に向かいます。武者修行の終わりは姥捨の里と決めているようです。「居眠り磐音」のシリーズと違って、この「空也十番勝負」のシリーズは剣劇ばっかりで、やや私は退屈しました。「居眠り磐音」のシリーズでは江戸を中心に侍だけでなく、町民の暮らしや政治向きのトピックなども豊富に取り上げられていましたので、退屈しませんでしたが、この「空也十番勝負」シリーズは剣術ばっかりです。なお、すでに第9巻の『荒ぶるや』が1月に出版されていて、3月に出版される第10巻で終結、というスケジュールのようですが、私はまだ第9巻は読んでいません。集結する第10巻と合わせて読みたいと予定しています。
2023年01月07日 (土) 09:00:00
今週の読書はいろいろ読んで計6冊
まず、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』(文藝春秋)は、伝記作家としても著名なジャーナリストが生命科学の最前線をルポしています。梨『かわいそ笑』(イースト・プレス)は、インターネットに関連するホラー短編を収録しています。佐藤洋一郎『京都の食文化』(中公新書)は、かなりの高級趣味ながら幅広く京都の食文化について紹介しています。山本文緒『自転しながら公転する』(新潮文庫)は、とても美しくも貫一おみやのラブストーリーです。最後に、瀬名秀明『ポロック生命体』(新潮文庫)は、AIと将棋、小説、絵画などの文化や芸術の関係についてのSF短編集です。
ということで、今年の新刊書読書は、まず、6冊から始まります。
まず、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』上下(文藝春秋)です。著者はジャーナリストであり、米国の『TIME』誌の編集長やCNNのCEOなどを務めています。また、ノンフィクション・ライター、特に、伝記作者として有名であり、『スティーブ・ジョブズ』は世界的なベストセラーとなりました。私は、この作者の伝記モノでは『イノベーターズ』を読んだ記憶があります。ということで、本書の副題は「生命科学革命と人類の未来」となっていて、伝記ではありませんが、2020年にノーベル化学賞を受賞した米国カリフォルニア大学バークレイ校のジェニファー・ダウドナ教授を主人公に据えています。生命科学、特にゲノム編集に関する科学史にもなっています。ダウドナ教授のノーベル賞受賞の基となった貢献はゲノム編集技術キルスパー・キャス9です。そして、本書では必ずしも方向性すら示されていませんが、ゲノム編集により医療行為を超えて、例えば、デザイナー・ベビーについてどう考えるのか、という生命倫理的な課題を含んでいることは明らかです。邦訳本の表紙もそう暗示しているのではないでしょうか。私は、基本的に、ナチュラリストなのですが、医療行為一般は「ナチュラル」の範囲を超える部分も含むと考えています。ですから、それほど単純かつ原理主義的なナチュラリストではありません。私のことはどうでもいいので、医療行為に戻ると、信仰の力による回復を信じて医療行為を、投薬も含めて拒否する宗教は存在します。クリスチャン・サイエンスがそうですし、多くの信者がいると聞き及びます。決して、カルトとは見なされていません。ただ、行き過ぎるとエホバの証人のようにカルトに近いと見なされる場合もあります。ですから、盲腸を手術で切除する医療行為は許容できて、ゲノム編集によるデザイナー・ベビーはダメな理由は何か、と問われれば、社会的通念と回答するしかありません。例えば、マリファナについて、現時点でも、許容する社会と許容しない社会があります。おそらく、時代の流れとして、カッコ付きの「ナチュラル」な部分が減少して行き、そうでない人為的な部分、あるいは、人為的な範囲を超える神の領域まで踏み込んだ人間の行為が許容される部分が拡大するのが現在までの方向性であるように私には見えます。ただし、経済における事象でいえば、日本の人口減少や世界経済のグローバル化などといっしょで、私自身としてはどこかで反転する可能性は否定できない、と考えています。他方で、キチンと考えておかねばならないのは、生命科学の実践的な応用は反転縮小する可能性があるとしても、科学としての真実の解明の方向は決して反転することはないだろう、というか、科学的な真実の追求はその応用技術が社会的にストップさせられたとしても、継続されるべき場合が十分に考えられる、と私は考えています。そのあたりの基礎研究によす真実の追求と応用や適用による実践活動とは、キチンと分けて考えるべきです。その応用については、例えば、医療行為について、まあ、反転するとしても、盲腸の手術や解熱剤の投薬などが否定されるところまで戻りはしないと思いますが、決して、一直線にナチュラルな部分が減少して、人為的・超人為的な部分が拡大していくとは私は考えていません。おそらく、私の寿命が先に尽きるだけだと思います。真実の追求ではなく応用技術としての生命科学の拡大が反転するのを見届けるだけの寿命は、私には残されていないように思います。
次に、梨『かわいそ笑』(イースト・プレス)です。著者は、インターネットを中心に活動する怪談作家となっています。本書は連作短編5編から成っています。年代的には2000年代、トイウカ、ゼロゼロ年代の末から2010年前後にかけての時期です。ですから、その時期には国産SNSのmixiが主流だったりします。もっとも、mixiは私はまだ使っています。そして、インターネット、というか、デジタル技術的に分類すれば、最初の短編はワープロファイル、2番めは画像ファイル、3番めが電子メールのテキスト、そして、4番目の短編で前3話が一挙に、というか、やや乱暴に結合された形になります。小説としては、怪談、というか、ホラー小説なのですが、死体描写や虫描写はちょっとリアルでグロいですし、ゴア表現なども含まれているものの、直球のホラー小説ではありません。まあ、テレビ番組で年末年始よりは夏休みに放送するタイプの「ホントにあった怖い話」みたいなホラー小説という気がします。個々の短編は、それ自体としても怪談であって、ひょっとしたら、私なんぞが知らないだけで、ホントにネットで流されている部分もあるのかもしれませんが、全体として、すべてのお話が第1話のタイトルに入っている横次鈴という人物、女性を憎んで呪う、という目的のために書かれているのが読み取れると思います。ネット上にある噂話的なネタを集めた体裁を取っているので、実際に作者ないし作品中の語り手が体験したわけではない、という表現がいくつかあり、それはそれで何ともいえない不気味さを漂わせていました。また、最後の謎解き、というか、種明かしは秀逸でした。私自身はほぼほぼ信じていない心霊現象ばっかりなのですが、それなりに説得力ある表現も少なくなく、ホラー小説としての仕上がりは悪くないと思います。最後に、これもネットに取材したホラー小説というひとつの試みとして、何か所かにQRコードが貼り付けられています。たぶん、どこかのサイトにつながるんではないかと思いますが、私は本書のQRコードを読み取ってはいません。
次に、佐藤洋一郎『京都の食文化』(中公新書)です。著者は、よく判らないのですが、農学博士であり農学を専門分野とする研究者ではないかと思います。タイトル通りの本であり、私が年に何冊か読む「京都本」です。本書冒頭には4ページにわたって和菓子などの何枚かのカラー写真があり、見た目にも気を配っているようなのですが、本書の中身にはそれほど京料理の見た目にはこだわっていないようです。ということで、料理だけではなく、和菓子や野菜なども含めて、タイトル通りに、食文化一般を対象に含めています。ただし、私の読後感では基本的にグルメ本であって、料理人やお店などを固有名詞で紹介していますので、そういったグルメ本としての価値も追求しているように見えます。私自身は京都の洛外もいいところのうじの出身で、現在の大学キャンパス近くに引っ越すまでは六地蔵という宇治と伏見の境い目に近いところに住んでいました。ということで、食文化をタイトルにしているだけあって、お店や食文化関係者の固有名詞の他にも、食材や調理・処理方法、さらには、消費や生活まで幅広くカバーしています。ただ、グルメ本ですので高級なところが中心で、長らく京都の洛外に住んだ私なんぞは知っていても口には入りそうもない高級品がズラリと並びます。私としては、この高級趣味を別にすれば、なかなかいい京都食の指南書だろうと受け止めています。その高評価を前提に、ただ、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、京都の酒蔵は洛中が中心であって、伏見に移ったのは明治期以降との記述はホントなのでしょうか。何で見たのかは忘れましたが、まったく逆の酒蔵の伏見中心説も読んだ記憶があるからです。少なくとも、江戸期には地の利がよくなかったというのは疑問です。淀川の水運を無視しているような気がします。薩摩藩をはじめとして伏見に半屋敷を置いていた大藩は少なくありません。第2に、農学の研究者なのですから、文化的な方面もさることながら、京野菜についてもう少し丁寧な解説が欲しかったです。鹿ヶ谷カボチャは結構なのですが、聖護院ダイコン、九条ネギのほかにもいっぱいあると思います。最後に第3に、京都の範囲として府下を考えるのであれば、宇治の普茶料理もスコープに入るような気がします。
次に、山本文緒『自転しながら公転する』(新潮文庫)です。著者は、2001年『プラナリア』で直木賞を受賞した小説家です。2021年に膵臓がんで亡くなっています。私はバブル経済期に集英社コバルト文庫で少年少女向けの作品をいくつか読んだ記憶がありますが、もう30年以上も前のことですので、不純な動機で読んだこともあって、タイトルも中身もすっかり忘れました。本書は、2020年に単行本として出版されていますが、昨年2022年に文庫化されましたので読んでみました。単行本と文庫の表紙はほぼほぼ同じではないか、と思います。ということで、この作品は、一言でいえば、『金色夜叉』ではありませんが、貫一おみやの恋愛小説です。主人公の都は30歳を少し過ぎて、東京のアパレルで働いていたのですが、母親の看病のため茨城の実家に戻り、地元のアウトレットのショップで店員として働き始めます。しかし、職場ではセクハラなど問題続出、実家では母親の更年期障害に続いて父親も体調を崩してしまうなど、難題続きのところに、通勤用の軽自動車のバッテリが上がって、寿司職人である貫一と知り合って付き合い始めます。しかし、実際のところ、貫一はとってもナイスガイなのですが、経済力や生活力に欠けていて、なかなか結婚には踏み切れません。といった、まあ、ありがちな恋愛小説なのですが、繰り返しになるものの、貫一がとってもナイスガイです。性差別をするつもりは毛頭ありませんが、魅力ある男性だと私ですら思います。ただ、文庫本ですから解説のあとがきがあり、そこでも指摘されているところで、少し読者をミスリードするようなプロローグとエピローグが入っています。私はこれはないほうがずっと作品としての出来がよくなるような気がしました。私は一時松戸に住んでいたことがあり、一応、少しくらいであれば、常磐線沿線の土地勘もあります。でも、そういった要素がなくても、なかなかに質の高い恋愛小説でした。
最後に、瀬名秀明『ポロック生命体』(新潮文庫)です。著者は、ホラー小説作家であり、『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞を受賞しています。薬学の分野で博士号を持っていたりします。どうでもいいことながら、私の好きなホラー・ミステリ作家の綾辻行人も教育学の博士号を取得していたと記憶しています。2020年に単行本が出版されていますが、昨年2022年に文庫化されましたので読んでみました。表紙デザインは単行本と文庫本でかなり異なっていたりします。ということで、この作品はAIに関するSF短編4編から編まれています。収録作品は、「負ける」、「144C」、「きみに読む物語」、そして、タイトル編の「ポロック生命体」となっています。AIが応用される分野は、将棋、小説、そして絵画です。有名なIBMのディープブルーがカスパロフをチェスで破ったり、AlphaGoが囲碁のイ・セドルに勝ったりして、チェス・将棋・囲碁といった対戦型のボードゲームの世界でのAIの活用・活躍は広く報じられていますが、この短編集では、死んだ芸術家の小説や絵画の新作が世に現れる、という世界を描き出しています。そして、興味深いことに、小説の作品のSQ=共感指数のレベルが高すぎず低すぎない作品がベストセラーになってよく売れる、という、極めてもっともらしい発見が紹介されたりしています。それはともかく、おそらく、指紋や声紋のほかにも、文体や絵画の特徴、はては、キーボードの打ち方、しゃべり方や歩き方に至るまで、かなり確度高く個人を識別する方法はいっぱいあって、極めて大量の情報を短時間で処理できるAIであれば、小説や絵画に限定せずに、いろんな個人あるいは故人の特徴を真似ることが出来るのだろうと思います。ただ、生命科学と同じで、こういったAIの模倣による芸術作品をどう考えるのか、という点に関しては、少なくとも私が見る限り、現時点では社会的なコンセンサスは出来ていないような気がします。こういったSF小説などを通じて、肯定的・否定的ないろんな認識が醸成されるのもいいことか、と私自身考えています。
2022年12月31日 (土) 10:30:00
今年読んだ本の総集編やいかに?
(1) 経済書部門
オリヴィエ・ブランシャール&ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶應義塾大学出版会)
ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)
マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)
平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)
大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)
(2) 教養書部門
スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)
ジェイク・ローゼンフェルド『給料はあなたの価値なのか』(みすず書房)
ジェフリー S. ローゼンタール『それはあくまで偶然です』(早川書房)
(3) 純文学部門
吉田修一『ミス・サンシャイン』(文藝春秋)
高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)
(4) エンタメ小説部門
万城目学『あの子とQ』(新潮社)
三浦しをん『エレジーは流れない』(双葉社)
(5) ミステリ部門
莫理斯(トレヴァー・モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』(文藝春秋)
シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)
織守きょうや『花束は毒』(文藝春秋)
有栖川有栖『捜査線上の夕映え』(文藝春秋)
方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社)
(6) SF小説部門
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下(早川書房)
(7) 時代小説部門
周防柳『身もこがれつつ』(中央公論新社)
宮部みゆき『子宝船』(PHP研究所)
(8) ノンフィクション部門
平野啓一郎『死刑について』(岩波書店)
佐藤明彦『非正規教員の研究』(時事通信社)
鳥谷敬『明日、野球やめます』(集英社)
上原彩子『指先から、世界とつながる』(ヤマハ)
(9) 新書部門
倉山満『ウルトラマンの伝言』(PHP新書)
笹山敬輔『ドリフターズとその時代』(文春新書)
小野善康『資本主義の方程式』(中公新書)
小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)
橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)
(10) 番外部門
松尾匡『コロナショック・ドクトリン』(論創社)
まず、(1)経済書ですが、左派リベラルの経済書が並びます。日本共産党の経済論客の経済書もあったりします。どうしても、マイクロな経済学よりもマクロ経済学の本が多くなります。(2)教養書はこんなもんでしょう。専門のマクロ経済に近い分野の本が多いのは当然ですが、今年は歴史書に恵まれなかった気がします。(3)純文学はそれほど読まないのですが、勤務校OGの芥川賞受賞作は敬意を表して入っています。(4)エンタメ小説もミステリ以外はそれほど読んでいません。(5)ミステリ部門は『辮髪のシャーロック・ホームズ』がピカイチです。今年といわず、ここ数年の中でも最高の一作です。(6)SFもあまり読んでいないのですが、ウィアーは『火星の人』から一貫して評価しています。(7)時代小説はあさのあつこの「小舞藩シリーズ」も考えないでもなかったのですが、この2作にします。(8)ノンフィクションは死刑反対の私の意見に似通った本のほか、野球とピアノを入れました。(9)新書部門は大量に読んでいますので、このセレクションには自信があります。(10)9部門では中途半端なので第10部門を入れて、勤務校の同僚からご恵投いただいた本を取り上げておきます。
この中でたった1冊だけを選ぶとすれば、ミステリ部門の『辮髪のシャーロック・ホームズ』といいたいところですが、同じ趣味の分野ながら、新書部門の『ウルトラマンの伝言』を上げたいと思います。今年もっとも印象に残った本といえます。
みなさま、よいお年をお迎えください。

2022年12月30日 (金) 13:00:00
今週の読書は大物読書もあって年間245冊の新刊書読書の集大成
まず、ゲオルク・フリードリヒ・クナップ『貨幣の国家理論』(日本経済新聞出版)は1905年の出版であり、話題の現代貨幣理論(MMT)に理論的な影響を及ぼしているとされています。オデッド・ガロー『格差の起源』(NHK出版)は、ホモ・サピエンスの出アフリカ以降の歴史をひも解いて、人類の成長・繁栄と格差についての統一理論の構築を試みています。岩波講座世界歴史『構造化される世界』第11巻(岩波書店)では、ポストモンゴルの14-19世紀の近世を対象にグローバル・ヒストリーによる歴史分析を試みています。万城目学『あの子とQ』(新潮社)は、人気作家が吸血鬼の青春物語を展開しています。太田肇『何もしないほうが得な日本』(PHP新書)は、挑戦をリスクとして考える消極的利己主義に代わって、積極的な挑戦を可能にする組織を考えています。及川順『非科学主義信仰』(集英社新書)は、NHKのジャーナリストが米国における非科学主義信仰の実態をルポしています。そして、秦正樹『陰謀論』(中公新書)では、計量政治学の専門家が陰謀論を親和性のある属性について定量的な分析を試みています。
本年も残すところ後2日となりました。この2日で、可能であれば、ウォルター・アイザックソン『コード・ブレーカー』上下(文藝春秋)を読み切って、お正月からはマンガなどの軽い読み物に切り替えたいと思っています。
ということで、今年2022年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先週までに17冊、今週は7冊ですので新刊書読書合計は245冊となりました。今さらながら、もう少しがんばれば250冊だったのか、と思わないでもありません。
まず、ゲオルク・フリードリヒ・クナップ『貨幣の国家理論』(日本経済新聞出版)です。著者は、ドイツのエコノミストであり、マックス・ウェーバーに高い評価を与えて学界での登用を促した慧眼の経済学者としても有名です。そして、本書は1905年、すなわち、100年以上も前の出版であり、ドイツ語の原題は Staatlische Theorie des Gelds となっています。英語なら State Theory of Money といったところでしょうか。本書が今ごろになって注目されるのは、異端の経済学とされつつも注目を集める現代貨幣理論(MMT)の核心となる貨幣理論の基礎を提供しているからです。その基礎とは、タイトル通りに、「貨幣は法制の創造物である」、すなわち、貨幣は国家の強制力によって通用している、というものです。MMTでは少し言い換えて、国民が租税を納める際に使う手段として、国家あるいは政府が貨幣を定めている、といった定義にしていると私は記憶しています。参考までに、MMTの財政理論の基礎となっているのは Lerner A.P. (1943) "Functional Finance and the Federal Debt" といえます。というか、私が大学院の授業でリポートさせているフランス銀行のワーキングペーパー "The Meaning of MMT" ではそのように解説しています。MMTから戻ると、本書では「表券理論」として現れます。そもそも、ミクロ経済学では貨幣は交換においては本来的に必要とされるものではなく、物々交換では不便だから便宜的に流通しているにすぎず、したがって、古典派的な貨幣ベール論とか、貨幣数量説とかが幅を利かせるわけです。他方で、ケインズ理論によるマクロ経済学では交換や支払いの尺度だけではなく、価値保蔵手段などとしての貨幣の役割が付加されます。そして、またまたMMTのトピックとなりますが、クナップの本書はケインズ理論につながり、ラーナー的な機能的財政理論は実はケインズ経済学をやや極端なまでに強調した内容であることは明らかで、少なくともラーナー教授は一貫してケインズ経済学を支持し続けています。私はフォーマルな大学院教育を受けていないので、経済学史についてはそれほど詳しくありませんが、MMTはいわゆるポストケインジアンであって、ニューケインジアンではないと理解されています。ですから、MMTはケインズ的なマクロ経済学の正当な末裔ではないと考えられているわけですが、少なくとも本書を通読した私の感想としては、MMTも異端ながらマクロ経済学のひとつの支流につながるものと考えるべきです。その根拠のひとつとしては、本書では「貨幣のセット」、すなわち、本位貨幣と補助貨幣、制限貨幣と無制限貨幣、正貨と非正貨、また、国庫証券、銀行券などなど、「セット」としての貨幣を考えています。古典派的な交換や支払いだけを考えるのであれば、こういったセットの理論は出てきません。加えて、第3章では外国為替を取り上げて、国定貨幣の間での交換を考えています。なかなかに、短い書評では書き尽くせませんが、おそらく、金本位制という時代の制約の中で貨幣理論の教科書を書こうと試みた結果であると考えれば、極めて明快かつ正確、すなわち、金本位制に限定されない科学的な貨幣理論の提供を試みた、という意味で、画期的な存在であったろうと思います。ただ、惜しむらくはドイツ語で書かれています。邦訳書である本書でも、何箇所かドイツ語の原語で補っている部分が散見されますが、私は英語とスペイン語は理解するものの、ドイツ語は英語と比べて、あるいは、スペイン語と比べてさえもマイナーな言語です。私は去年も今年も年1本しか書かない論文は英語で書いています。大昔の ECONOMETRICA なんぞにはフランス語の論文が収録されていたりしますが、言語としてのドイツ語の不利な点、日本語ならもっと不利、であろう点は、止むを得ないながらも、心しておきたいと思います。
次に、オデッド・ガロー『格差の起源』(NHK出版)です。著者は、米国の名門校アイビーリーグの一角を成すブラウン大学の研究者です。英語の原題は The Journey of Humanity であり、2022年今年の出版です。邦訳タイトルは原書の副題を取っているようです。本書は2部構成であり、第1部では、何が成長をもたらし、人類は繁栄したのか、を解き明かし、第2部では、その背景で何が格差をもたらしたのかを考えています。ですから、成長=反映と格差の発生・拡大をコインの両面のように考えて、この2つを統一的に、しかも、ホモ・サピエンスの誕生=出アフリカから長期にわたって理論的に跡づけようと試みています。まあ、ハラリ『サピエンス全史』あたりからの影響ではなかろうか、と思わないでもありません。まず、成長=繁栄の基礎としては、いわゆるマルサスの罠からの脱却が重点となります。すなわち、何らかの技術革新、このころは農業の収穫の増大にむすびつく技術革新が生じると、その農業収穫の増大に応じて人口も増えてしまい、結局、1人あたりの豊かさはもとに戻ってしまうというのがマルサスの罠なわけですが、この罠からの脱出がひとつのキーポイントとなります。そして、このマルサスの罠からの脱出による成長と繁栄、及び、格差の発生と拡大も同じ原因からであり、ともに、制度的・文化的・地理的要因を基礎にしつつも、結局のところ、人的資本への投資がキーポイントとなると結論しています。ただし、この人的資本への投資の重要性については、そう目新しい論点ではなく、例えば、本書第2部の格差拡大の観点からはサンデル教授の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』はまさにそういった議論を展開しています。大学卒業という学歴は自分の実力だけではない、という結論だったと記憶しています。本書に戻ると、本書の大きな特徴のひとつは地理的な環境を重視している点です。ホモ・サピエンスという集団が長期にわたって分裂しつつ全地球規模で拡散・移動してきた中で、マルサスの罠から脱する「特異点」のひとつの要因として地理的な要素を考えているわけです。これは、私なんかからすれば、ややズルい論点であって、その「特異点」がどうして、そこで、その地理的条件で生じたかについて、すなわち、具体的に事例を上げると、18-19世紀のイングランドで産業革命が始まったのか、を解明しないと回答にならないような気がするからです。ただ、逆に、経済学の見方からすれば、収斂という変化が生じていることも事実です。すなわち、新興国・途上国の成長率は先進国よりも高く、1人綾理GDPは多くの国で収斂する可能性も理論的・実証的に示唆されています。はたして、こういった「収斂理論」に対して、本書が打ち出した成長=繁栄と格差を説明するグランドセオリーが適用されるのか、あるいは、「収斂理論」が幻想なのか、私の残された寿命では見届けることが難しそうな気がしますが、とても興味あるポイントです。
次に、岩波講座世界歴史『構造化される世界』第11巻(岩波書店)です。「岩波講座世界歴史」のシリーズの最新配本のひとつです。なお、全24館の構成については、本書の巻末にも提示されていますが、岩波書店のサイトでも見ることが出来ます。その全24巻構成の中にあって、本書第11巻『構造化される世界』は、まさに、グローバル・ヒストリーの典型的な分析として14~19世紀という長い期間、そして、地理的にも全世界を包括的に対象としています。すなわち、ポストモンゴルが始まる14世紀、そして、近代の幕開けとなる19せいきまで、いわゆる「近世」を対象としています。かなり長い期間ですが、いわゆる封建制の残滓を残しつつ、絶対王政のもとで近代につながる期間です。英語では early modern と称される場合が多いのです、本書では近代の直前という西洋中心史観を配して「近世」という用語を用いています。我が国でいえば、室町期から戦国時代を経て織豊政権や江戸期に渡る期間です。これをまず、問題群-Inquiryとして、グローバル・ヒストリーの観点から、政治的な動向、まさにキリスト教の宗教改革に当たる時期ですので宗教の観点、そして、奴隷制から農奴制、さらに近代的な身分制を廃した時代への展望を含めて、奴隷についての世界史を概観しています。加えて、焦点-Focusとして、アジア海域における近世的国際秩序、近世スペインのユダヤ人とコンベルソのグローバルなネットワーク、インド綿布と奴隷貿易といった商品連鎖のなかの西アフリカ、感染症・検疫・国際社会にまさに焦点を当てつつ歴史的な考察を進め、最後に、高校世界史を取り上げてグローバル・ヒストリーのの授業実践などを取り上げています。さらに、5点ほどのテーマで短いコラムも収録しています。本巻の対象が極めて多岐多様にわたり、何とも書評としては取りまとめにくいのですが、専門外の私の目から見ても高水準の歴史分析が並んでいます。まあ、全24回をすべて読破することは到底叶いませんが、いくつかは読んでおきたい気がします。ただ、惜しむらくは、このシリーズを蔵書している公立図書館はそう多くないような気がします。私は大学の図書館で借りましたが、府立県立あるいは政令指定市クラスの図書館でなければ、利用可能ではないかもしれません。
次に、万城目学『あの子とQ』(新潮社)です。著者は、人気の小説家です。我が後輩で京都大学のご出身だと記憶しています。本書では、吸血鬼、でも、昔ながらの吸血鬼ではなく、もはや吸血行為はせずに人間世界に同化しようと努力している吸血鬼を主人公にしています。ということで、主人公は嵐野弓子という17歳の誕生日を直前に控えたJKの吸血鬼です。弓子は「ハリー・ポッター」のハーマイオニと違って純血の吸血鬼であって、両親ともに吸血鬼の一家に生まれ育っています。この弓子にQが現れて監視が始まります。17歳の誕生日までに、「血の渇き」を覚えて人間を襲うことがないかどうかを監視しています。Qとは、たぶん、固有名詞ではなく、集団名詞というか、そういった何匹・何人かのQがいるようで、姿形としては直径60センチほどでウニみたいなトゲトゲの異形で浮かんでいるのですが、その後に明らかになるところからすれば、何らかの罰を受けた吸血鬼の成れの果てであり、吸血鬼の大親分であるブラドに命じられて、こういった役目をこなしているようです。弓子はJKですので、部活もすれば、友人もいますし、その友人の恋の橋渡しをしたりもします。そして、その友人との恋の橋渡しの一環で4人のダブルデートをするのですが、その4人が乗ったバスが大事故を起こします。4人とも結果的には命に別状なく助かるのですが、何かが起こっていて弓子のQが吸血鬼界で査問を受けることになり、弓子が吸血鬼の世界に乗り込む、というストーリーです。もちろん、人間と同化して脱・吸血鬼化しようという吸血鬼もいれば、昔ながらのエターナル=不死の吸血鬼であって、今でも人間の血液を吸血している吸血鬼も登場します。そして、明らかに、続編があるような終わり方をします。いままで、私は万城目作品はエッセイも含めてほぼほぼすべて読んだつもりなのですが、続編があるシリーズものは初めてです。この作品自体が極めてテンポよく。小説というよりはラノベに近く、しかもキャラがハッキリとしていて、ストーリーも万城目作品らしくファンタジーの要素がふんだんにあり、とてもクオリティ高く仕上がっています。私もそうですが、万城目作品の中でも最高傑作のひとつに上げる読者も少なくないと思います。いろんな意味で、とってもオススメです。続編が出たら私は読みたいと思います。
次に、太田肇『何もしないほうが得な日本』(PHP新書)です。著者は、同志社大学の研究者であり、組織研究で有名です。そして、本書では、企業のエラいさんなんかがチャレンジを推奨する一方で、実は、チャレンジして起業したりするのはリスキーだと考えて、何もしないことを選択する社員が多いことを取り上げています。今月12月10日付けの読書感想文で取り上げた野村総研の『日本の消費者はどう変わったか』でも同じ論点が入っていて、「挑戦=チャレンジというのは積極果敢なアニマル・スピリットの現れであって、起業家精神を肯定的に表現する言葉ではなく、むしろ、リスキーでギャンブル的なネガな言葉」と考える消費者が多くなっている、という指摘がありました。本書でも独自に実施した「2022年ウェブ調査」を基に、同様の分析結果が示されています。特に、本書冒頭では公務員の行動原理としてコロナ禍で多くの施設が閉鎖され、イベントなども中止になった点に着目し、公務員だけではなく、一般の民間企業の従業員も同じという視点から分析を進めています。特に、日本ではワーク・エンゲージメントが低く、ヤル気がない社員が多い点も明らかにされています。そして、おそらく、エコノミストとして私も同意しますが、それが個人の行動原理としては合理的なのだろうと考えられます。挑戦よりも保身が重視される制度的な根拠があるわけです。それを「消極的利己主義」と呼んでいます。結論としては、「するほうが得」な仕組みにするためにはどうするか、ということで、p.200で組織再設計の「民主化の3原則」として、自由参加、最小負担、選択の3点を上げています。経済学はアダム・スミスの古典派の時代から、有名な例で、パン屋の慈悲心ではなく利己心に基づく行為が社会全体の利益につながる、と考えてきました。しかし、本書では個人と社会全体の利益が一致しない世界を前提しています。それだけで、私には少し違和感あるのですが、もちろん、理解できないでもありません。シンプルにベーシック・インカムを導入するのが大きな解決策ではないか、と実は私は考えないでもないのですが、そういった解決策はもう少し先の時代にならないと議論にすらならないのかもしれません。
次に、及川順『非科学主義信仰』(集英社新書)です。著者は、NHKのジャーナリストです。米国の実情をていねいに取材して、トランプ大統領登場の前後から、いったい米国社会に何が起きているのかを明らかにしようと試みています。基本的に、個別の取材結果のルポを収録していますが、最終章で、非科学主義との向かい合い方にも言及しています。実際の取材結果として、第1章で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関連して、ワクチン接種の拒否、マスク着用の拒否、から始まって、気候変動=地球温暖化の否定、さらに横断的な現象として、Qアノンの陰謀説、ヘイトクライムの増加を上げています。そして、第2章で、こういった非科学主義が政治家を巻き込んで影響力を増している現状を取り上げ、第3章では、非科学主義の背景として、所得格差の拡大、メディアや宗教の暴走などに着目しています。そして、最後の第4章では非科学主義とどう向かい合うか、について議論しています。すなわち、非科学主義を排除するのではなく、むしろ、いかにお付き合いするか、という観点なのかと私は受け止めました。私自身は基本的に経済学という科学を専門分野にしていて、非科学主義は右派の戦略である面が強い、と感じています。すなわち、事実から社会の目をそらせて、自分たちの主張に盲目的に従わせようとしている可能性がある、と感じています。逆に、こういった非科学的な主張をどうして信じる、あるいは、信仰するかという疑問があります。SNSがフェイクを撒き散らしている可能性は否定しませんが、そのフェイクを信じるのはなぜか、という疑問です。単に、非科学的な考えや行動を盲目的に信じているのか、あるいは、何らかの付随する利益を感じているのか、私には謎です。
最後に、秦正樹『陰謀論』(中公新書)です。著者は、京都府立大学の研究者であり、専門は計量政治学なんだろうと思います。ということで、非科学的な信仰、陰謀論に対する信頼感などが発生するバックグラウンドについて定量的な分析を試みています。ですから、陰謀論が右派の何らかの戦略であるということではなく、例えば、左派の信じている日米合同会議の謎についても対象にしています。要するに、陰謀論は何かの客観的な裏付けのある事実に基づいているわけではなく、信じるかどうかはその人次第であって、陰謀論を信じる人はどのような属性を有しているか、に付いての科学的なデータ分析を試みています。その中で、いくつか、興味深い結論が導かれています。その最大の結論は、どんな人でも心理的な不安感があるわけであって、自分の信念に合致していれば、非科学的な陰謀論でも信じてしまう、ということになります。もちろん、他方で、SNSから情報を得ている人とマスメディアの情報に接している人との間に違いはあるのは当然ですし、特に、SNS利用者は第3者効果と密接なリンクが見られます。「第3者効果」とは、自分以外の人はフェイク情報や陰謀論に左右されやすい、とする見方です。まあ、逆から考えれば、自分は大丈夫、ということなのかもしれませんが、まったくこれは反対の結果となっていることも本書では明らかにされています。すなわち、自分は大丈夫という人ほどでいく情報に踊らされたり、陰謀論を信じたりする傾向がある、ということです。ただ、私自身の実感としては、SNSやネット情報はもともとある情報受領者の傾向を増幅するだけであって、方向転換することはレアである、という気がしています。この点は本書でも支持されていると思います。では、もともとある傾向とはなにか、という点が問題になるのですが、本書ではこの点についてそれほどクリアにされていません。おそらく、バックグラウンドとして、所得、学歴、年齢、地域などが関係している、というか、私の目から見て逆に、これら以外の関係すべき要因は見当たらない、と思っています。例えば、私が知る限りでは、BREXIT投票において、初発の Politico の Guàrdia リポート、あるいは、もっとフォーマルな学術論文なら Parliamentary Affairs に投稿された Clarke et al (2017) "Why Britain Voted for Brexit: An Individual-Level Analysis of the 2016 Referendum Vote" などでも、経済状態が悪化しているほど、年齢が高いほど、学歴が低いほど BREXIT に賛成していることが明らかにされていますし、2020年の米国大統領選挙でも同様に年齢が高くてほど、学歴が高い低いほどトランプ候補に投票している、との記事を見かけたことがあります。まあ、BREXITに賛成し、トランプ候補に投票する人が陰謀論を信じやすいかどうかは議論あるところですが、一定の傾向は見て取れるような気がします。出来れば、我が国でもこういったレベルの研究や分析が欲しい気がします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、もうしっかりと分析されているのかもしれません。
2022年12月24日 (土) 15:00:00
今週の読書は文庫が多くて計6冊
まず、玉木俊明『手数料と物流の経済全史』(東洋経済)では、出アフリカからの人類の歴史を壮大に追って、プラットフォームを構築して手数料を取るというコミッション・キャピタリズムを跡づけようと試みています。残念ながら、この試みは失敗しているように私には見えます。岸見一郎『エーリッヒ・フロム』(講談社現代新書)では、『自由からの逃走』などで有名な社会学者の思想について哲学的に解明を試みています。新海誠『小説 すずめの戸締まり』(角川文庫)は、アニメ映画の監督自らが映画のノベライズを行っています。松井今朝子『江戸の夢びらき』(文春文庫)では、初代市川團十郎の一代記を妻の恵以の視点から描き出しています。望月麻衣『満月珈琲店の星詠み ライオンズゲートの奇跡』と『満月珈琲店の星詠み メタモルフォーゼの調べ』(文春文庫)は、三毛猫のマスターが注文を取ることなく差し出す飲み物やスイーツで登場人物が癒やされるラノベのファンタジーです。順次、Facebookとmixiでシェアしてゆきたいと予定しています。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先々週が6冊、先週が5冊、今週は6冊ですので、今年に入ってから238冊となりました。
まず、玉木俊明『手数料と物流の経済全史』(東洋経済)です。著者は、京都産業大学の研究者です。専門は経済史なのですが、私の記憶が正しければ、経済学部の経済史ではなく、文学部の歴史学科のご出身ではないかと思います。大きな違いはありません。私の勤務校の西洋経済史担当の准教授もこの著者を高く評価していると聞き及んだことがあります。ということで、本書は「覇権」をキーワードとしつつ、プラットフォームの形成者が手数料を徴収するという観点からの経済史、なんと、出アフリカ out-of-Africa からの歴史をひも解こうとしています。たぶん、私の勝手な想像では、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』のネットワークの歴史に対抗して、プラットフォームの歴史に挑戦したのではないか、という気がします。でも、残念ながら、長い歴史を概観しているだけで、覇権はともかく、プラットフォームの形成者が手数料を徴収する経済史、という試みは失敗している、としかいいようがありません。最後の方の第13章と第14章でコミッション・キャピタリズムについて少しだけ言及されているに過ぎません。悪いですが、ファーガソン教授と玉木教授の差なのかもしれません。ただ、長い経済史を概観することについては成功していますし、ややピンボケとはいえ一読の価値はあります。流通の輸送経路を掌握するという観点も、まあ、なくはないのですが、かなり希薄です。覇権の基礎となったプラットフォームとは、本書ではいくつか提示されていて、私も理解し同意する部分が少なくありません。例えば、文字で記録する、あるいは、現在では英語がプラットフォームになっていますし、会計的な記録では複式簿記がプラットフォームになっています。特に会計についてはIFRS何ぞという国際的な基準が作成されていますが、これらの言語や会計記録方式が手数料を徴収できるわけはありません。内容についても、明代の海禁政策によって中国が欧州のような産業革命を経験しなかった一因、とか、イングランドないしええ異国の戦争遂行の原動力は金融にあり、戦時に国債を発行して資金調達し平時に償還する、なんてのはもう言い古されているわけですから、それほど目新しさがあるわけでもありません。イングランドから始まった産業革命にしても、英国が海路を押さえているのも、確かに、工業化を大いにサポートしたとは思うのですが、それが工業化の推進要因のひとつであったとしても、主要な要因とは考えるべきではありません。例えば、21世紀の中国は「世界の工場」として製造業の振興が著しいわけですが、中国が輸送路を押さえているのかどうか、やや疑問だったりします。ただ、いわゆる「一帯一路」政策により、そういった志向が見られるのはその通りです。どうも、最近のギグ・エコノミーのAirbnbとかUberとか、あるいは、日本のメルカリなんかを注目しつつ、繰り返しになりますが、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』のネットワークに対抗しようと試みたのはいいのですが、どづも違うと感じます。総合的包括的な歴史を考えたいのであれば、ボリュームは大いに違いますが、岩波講座「世界歴史」のシリーズがいいように感じてしまいました。玉木先生のご著書に関しては、次の小ネタの新書などを期待したいと思います。
次に、岸見一郎『エーリッヒ・フロム』(講談社現代新書)です。著者は、よく判らないのですが、京都大学系の哲学者ではないかと想像しています。ですから、本書の対象としているエーリッヒ・フロムとは少しズレがあるわけで、かなり難しい内容になっています。本書の対象であるフロムは社会学者、特に、『自由からの逃走』によるナチス分析で有名かと思います。私も読んだ記憶があります。本書は、100ページ少々のボリュームなのですが、繰り返すと、かなり難しい内容です。たとえb、個人の性格というマイクロな心理学については、フロイトの影響を受けつつも、マルクス主義的な経済の下部構造というものをフロムの思想の中に見出していたりします。ただし、フロムの主眼は「技術」=artであり、まあ、さすがに、テクニックではないのでっすが、決して哲学を主眼としているわけではないと強調されています。ですから、本書の副題のように、自由に生きるためには孤独を恐れてはいけない、ということになります。孤高に生きる自由という技術なわけです。その上で、いろんなものを分類しようと試みています。このあたりが、フロム由来の思想なのか、それとも、著者による分類なのか、という点は私にはイマイチ不明でした。例えば、実人的二分性と歴史的二分性、合理的権威と非合理的権威、権威主義的権威とヒューマニズム的権威、などなどです。基本的に第4章自由からの逃走が読ませどころなのでしょうが、第5章のフロムの性格論もマルクスとフロイトの融合的な内容で、それなりに読ませるものがあります。しかも、現在目の前にある日本では、まさに、軍事費の議論などを聞いている限り、何かの権威に自分自身の自由を委ねて、あるいは、故意は無作為家は別にして、日本という国の先行きを決めかねない重要な議論から耳をふさいで、関知しないところまで逃走して、その意味で、自由から逃走している日本人がかなり多いと私は感じています。そして、そういった権威主義的な民主主義の否定について論じるとすれば、個々人で「孤独を恐れない自由」を求めるのではなく、経済社会のシステムとして国民生活を支えて、そして重要な決定に国民の目が向かう余裕ができるようにスルノガ、ホントの政治的なリーダーシップではないか、と考えています。戦争が個々人の善意で回避できるとは私は考えていませんし、国民が広く自由を、あるいは、基本的人権を享受できるようにするためには、マルクス主義的な経済の下部構造をしっかりと構築することが必要です。
次に、新海誠『小説 すずめの戸締まり』(角川文庫)です。著者は、アニメの映画監督であり、本書も映画バージョンを小説にしたもの、と考えてよさそうです。というのは、不勉強ん敷いて、私はアニメ映画の方を見ていないからです。ということで、これだけ話題になって流行しているアニメ映画ですので、荒っぽくは知っている人が多いかと思います。宮崎のJKすずめが閉じ師の草太とともに、というか、草太が呪文をかけられた子供用の椅子とともに、宮崎を出て、白猫のダイジンを追って四国は宇和島、神戸、東京、福島と旅をして、地震を引き起こすみみずを閉じ込めるべく努力する、というストーリーです。繰り返しになりますが、鳥の雀ではなく、このJKの名前がすずめ、なわけです。ファンタジーですので、何と申しましょうかで、大きなみみずが地震を起こすわけですから、決して科学的ではありませんし、ある意味で、荒唐無稽なわけで、どうして宮崎のJKがこれに巻き込まれるかというのは、私も理解がはかどりませんでした。ただ、主人公のすずめは母子家庭で暮らしていた福島で東日本大震災に遭遇し、母親を亡くしています。そして、この戸締まりの旅の最後には福島にたどり着きます。みみずが地震を引き起こすという点からも、東日本大震災がこの映画や小説の大きなモチーフになっている点は明らかです。アニメ映画ですが、ポケモンのロケット団のような敵役は登場しません。まあ、強いていえば、宮崎から逃げ出した要石のダイジンがそうなのかもしれませんが、少なくとも、すずめと草太の旅路を邪魔するような悪役めいた登場人物はいません。というか、すべての登場人物、宇和島で民宿に泊めてくれるJK、神戸までヒチハイカーのすずめを運んでくれるスナックのオーナーママ、そして、東京から福島までBMWを走らせる草太の同級生などなど、草太やすずめを力強く応援してくれる人であふれています。そうした人々に支えられ、常世と現世を行き来したりして、大災害を不正で、しかも、椅子に変えられた草太を救出するというミッションをすずめはやり遂げるわけです。そういったいろんな人々の強力や援助の大切さを感じられ、人のつながりでピンチを乗り越えるすばらしさを感じることのできる名作でした。ただ、チャンスがあれば、ビジュアルの感じることのできるアニメ映画も見ておいたほうがいいような気がします。なお、映画のポスターはドラえもんの「どこでもドア」を思い出させる図柄となっています。
次に、松井今朝子『江戸の夢びらき』(文春文庫)です。著者は、時代小説家にして、直木賞受賞作家です。私はとても時代小説が好きなのですが、この作者の作品は直木賞を受賞した『吉原手引草』は読んだものの、ほかは歌舞伎をテーマに取り入れたものが多いせいか、それほど読んでいません。本書は2020年に単行本として出版されたものを今年文庫化されましたので読んでみました。ということで、一言でいえば、本書は初代市川團十郎の一代記です。團十郎の妻である恵以の視点で書かれています。すなわち、10才そこそこの恵以、当時は浪人の娘だったころに、目黒で團十郎と出会ってから、団十郎が舞台で刺殺され、2人の長男が2代目團十郎を継ぐあたりまでがとても簡潔に取りまとめられています。まさに、お江戸の花の盛りの元禄時代ころから、大地震や大火や、果ては富士山の噴火まで、いろいろな事件が江戸周辺に起こる中で、初代市川團十郎が年700両の契約を取り付けたり、あるいは、私生活では次男坊を舞台稽古の事故で亡くすとか、京都に團十郎とともに出向くとか、いろんなイベントが盛り込まれています。その中でも、特徴的なのが、まだ團十郎が若手のころにある殿様のお城で芝居を披露し、豪華なふすまをずたずたにしたとか、江戸の地震や大火の後に團十郎が辻々で舞台小屋復興の資金集めに精を出したとか、やっぱり、個人的な生活とともに、歌舞伎の芸術としての発展を跡づけているのが印象に残ります。舞台での荒業の大立ち回りの「荒事」を完成させ、京に上っては坂田藤十郎と座談したり、成田山への信心熱くて「成田屋」の屋号をつけられたりと、初代市川團十郎の魅力が余すところなく描き出されています。ただ、逆から見て、かなり團十郎が美化されているおそれがないか、と危惧します。例えば、信心が強いにもかかわらず僧にはならず、その理由として欲が強く、特に女性に対する欲望が強いと言わしめておきながら、妻の恵以の視点を借りているという理由もあるとはいえ、女性遍歴がまったく言及されていません。「芸の肥やし」くらいの女性遍歴があってもいいような気まそますが、そこは省略されてしまっています。ただ、芸術としての歌舞伎の発展や進化の過程については、よく追っている気がします。
最後に、望月麻衣『満月珈琲店の星詠み ライオンズゲートの奇跡』と『満月珈琲店の星詠み メタモルフォーゼの調べ』(文春文庫)です。著者は、京都在住のラノベ作家です。この2冊は、「満月珈琲店の星詠み」シリーズの第3巻と第4巻ということになります。なかなかに、私や我が家の構成員のように平々凡々とした人生を送ってきた人ではなく、かなり得意な人生で、いかにも小説になりそうな人生が描き出されています。その意味で、私は決して高く評価するわけではありませんが、時間つぶしにはこういったラノベがぴったりです。それから、私は料理という嗜みは持っていませんが、本書では三毛猫のマスターが言うに、注文は取らずに店側で飲み物やスイーツを用意する、ということになっていて、私は不勉強で知りませんでしたが、このシリーズで出てくる喫茶店のメニューがレシピとともに紹介されているサイトや本があるらしいです。つい最近、聞き及びました。主婦の友社から『満月珈琲店のレシピ帖』として、本書のイラストを書いている方が出版されているそうです。私はもう食べたり飲んだりする方の欲はすっかり抜けてしまいましたが、確かの本書冒頭のイラストなどを見ていると、そういったレシピ本の需要もありそうな気がします。本格的に隠居生活に入ったら、料理も趣味のひとつとして始めてみようかと思わないでもありません。
2022年12月17日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書とミステリと新書を合わせて計5冊
まず、島倉原『MMT講義ノート』(白水社)は、異端ながら話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の解説書です。荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)は、第68回江戸川乱歩賞受賞作です。そして、安倍元総理の銃撃・暗殺事件に関連して、島田裕巳『新宗教と政治と金』(宝島社新書)、文藝春秋[編]『統一教会 何が問題なのか』(文春新書)、福田充『政治と暴力』(PHP新書)の新書3冊です。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~11月に合わせて49冊、12月に入って先週6冊に今週5冊を合わせて、今年に入ってから232冊となりました。やっぱり、年250冊はムリそうです。
まず、島倉原『MMT講義ノート』(白水社)です。著者は、クレディセゾンの研究者です。研究費で購入した記憶がないにもかかわらず、なぜか研究室にあったので読んでみました。基本的に現代貨幣理論(MMT)の概説で、かなり忠実にMMTの理論概要を伝えるとともに、著者独自の観点も提供されています。たぶん、コンパクトに論文を読みたいのであれば、我が勤務校の起用論文が一番と考えるのですが、まあ、短い起用論文では抜けがあるかもしれませんので、これくらいのボリュームの本を読むのも一案です。たぶん、元祖のレイ『MMT現代貨幣理論入門』よりも日本人的には判りやすいような気がします。ということで、MMTの理論的な柱はいくつかあって、(1) Knapp の State Theory of Money に基づく貨幣理論、(2) Lerner の Functional Financial Theory に基づく財政理論、(3) Job Guarantee Program を中心とする構造政策、をメインとして、ほかにも、Monetary Circuit Theory と Debt Hierarchy (Pyramid)、などです。ただ、Stock-Flow Consistent Model については、部門別の貯蓄投資バランスが相殺されてゼロになる、と言うのは主流派でも同じだと思います。私はこういった柱となる理論のうち、かなりのものに賛同するわけですが、必ずしもすべてのMMT理論に合意するわけではありません。まず、MMTではほぼほぼ金融政策を無視していて、まるで、Real Business Cycle (RBC) 理論みたいだと初期に感じましたが、せっかくある政策ツールを使わないのはもったいないと考えています。いわゆるティンバーゲンの定理から政策目標の数だけ政策ツールが必要なわけですし、金融政策は決して有効性が低いわけではありませんから、「使えるものは親でも使え」の精神でOKだと考えています。第2に、Job Guarantee Program (JGB) がもっとも怪しいと感じていて、政府が現在の最低賃金と変わらない賃金水準で、しかも、かなりフレキシブルな雇用量を確保できるような decent job があるのかどうか、それを運営できる主体があるのかどうか、やや疑問です。日本でやれば、またぞろ、多額の委託金で持って電通あたりが運営することになりかねないと危惧しています。最後に、本書を好ましいと私が感じた点は、MMT理論を決して鵜呑みにすることなく、同時に、決して強く否定するわけでもなく、ビミョーなバランスでこれから先のMMTの理論的な彫琢の方向を示している点です。例えば、私が読んだ中で、昨年出されたフランス銀行のワーキングペーパーでは、MMTについて "a more that of a political manifesto than of a genuine economic theory" と評価しています。まあ、その昔の「共産党宣言」と同じ意味合いなのかもしれません。私もMMTの今後の理論的展開に期待しています。
次に、荒木あかね『此の世の果ての殺人』(講談社)です。著者は、デビューしたてのミステリ作家であり、本作は第68回江戸川乱歩賞受賞作です。ということで、ややトリッキーな設定ながら、地球滅亡前夜の殺人事件の謎解きが展開されます。すなわち、小惑星「テロス」が日本の九州に衝突することが2022年9月に発表され、半年後の2023年3月には地球上の生物の大部分が絶滅する、人類も生き延びられない、ということで世界は大混乱に陥ってしまいます。当然です。ムダだといわれていても、日本から離れた南米に向かって逃げる人も少なくなく、特に九州ではほぼほぼすべての人が脱出し、警察や消防といった公共サービスも機能せず、事実上の無法地帯となっています。そんなパニックをよそに、主人公の20代女性である小春は、淡々とひとり太宰府で自動車の教習を受け続けていたりします。もちろん、小春を教えている教官のイサガワも九州を脱出せずにいるわけで、刑事を退職した女性だったりします。タイミング的に、あるいは、状況的に、なぜ自動車教習所に通うのかという疑問はありますが、かの名作『渚にて』でも、タイピストを目指してモイラは学校に通い続けるわけですし、少なくとも私はこういった心情は理解できます。そして、年末になって教習を受けるためにトランクを開けると女性の刺殺死体を発見してしまいます。もはや、警察もほとんど機能していない中、女性2人で殺人事件の解決を目指して独自捜査が始まります。交通手段としては、まだガソリンが残っている自動車教習所のクルマしかなく、ほぼほぼすべての人が九州から脱出してしまっていますが、まだ、ごく一部のコミュニティには集団で身を寄せ合って生活している数人単位のグループが北部九州には残っています。そういった出会いがあったり、イサガワが刑事だった時の後輩警察官がまだ活動していたり、それほど不自然ではない状況が作り出され、その中で、おそらく同一犯によるであろう第2,第3の死体も発見されます。人類が絶滅して、そもそも、地球が滅び、社会秩序はほぼほぼ完全に崩壊している中で、いったい誰が殺人に走り、しかも、それを捜査して真相を突き止めようとする人がいる、というのか、とても特殊な設定といえます。もちろん、殺人犯も操作する小春やイサガワなども、滅亡する地球の中で、真っ先に消えてなくなる日本の九州に、それを知りつつ残っている人たちですから、メンタルが強いというよりは、むしろ、冷めているというか割り切って覚悟を決めている人たちです。ただ、謎解きはかなり本格的であり、誰が殺されて、同時に、誰がなぜ殺したのか、がキチンと論理的な回答として示されます。
次に、島田裕巳『新宗教と政治と金』(宝島社新書)です。著者は、日本女子大学教授などを歴任した宗教研究者です。ヤマギシ会に入ったご経験もあるようです。ということで、本書のモチーフは、当然ながら、旧統一協会信者の2世が安倍元総理を銃撃暗殺した事件となっています。そして、本編は、1948年のクリスマスイブに岸信介、笹川良一、児玉誉士夫の3人が釈放されたところから始まり、岸~安倍家の統一協会とのつながりなどを示唆しつつも、この方面はそれほど深く分析検討がんされているわけではありません。他方で、私が考えるに、20世紀半ばからのお話でなくても、また、日本に限らなくても、その昔は祭政一致だったわけで、政治と宗教は一体であった期間が長いのはいうまでもありません。もちろん、時代が下って、祭政一致でなくても、江戸期には寺請制度で戸籍を仏教寺院が把握していたわけですし、明治期には国家神道が昭和に入って暴走した面があったりもします。そして、本書では昭和期の創価学会から始まって、生長の家や今もいくつかの選挙に挑戦していると聞き及ぶ幸福の科学などの新宗教の実態を明らかにしようと試みています。そして、タイトル通りに、政治に食い込んできた宗教団体の代表として創価学会が取り上げられています。そして、創価学会とは関係なく津地鎮祭訴訟から政教分離が進んだ経緯を解説し、でも、政治と宗教の分離に議論が進み、最後には、政教分離はともかくも、ホントに日本人的な無宗教はいいことなのかどうか、という議論がなされています。じつは、本書冒頭で著者ご本人のヤマギシ会の経験が明らかにされていて、やや引っかかるものがあったのですが、読んでみると、とてもニュートラルで一方的な偏りのないバランスの取れた内容の良書です。新宗教を考える基礎的な知識を得る上でとてもオススメできる内容です。フランスにおけるカルト規制についても取り上げています。最後に、本書の最終章は「『無宗教』であることの問題」と題されていて、無宗教について議論しています。実は、私が家族とともに海外暮らしをしたインドネシアでは無宗教は許容されません。役所への届出では、家族4人ともに仏教徒であると明記しておきました。なぜ、無宗教が許されないか、というと、無宗教は共産主義者に近い存在と見なされるからです。その基本的な論点は本書でも共有されています。そして、旧統一協会の別働隊、というか、同一なのかもしれませんが、勝共連合というのがあります。韓国本拠ですから、北朝鮮都の関係で共産主義への意識が高いのかもしれませんが、日本では宗教に縁薄い人たちが共産主義に近いかといえば、決してそうではありません。そのあたりの日本の実情についても、本書ではしっかりとスポットを当てています。
次に、文藝春秋[編]『統一教会 何が問題なのか』(文春新書)です。本書のモチーフもご同樣で、旧統一協会の2世信者による安倍元総理の銃撃・暗殺事件に基づいて、月刊誌の「文藝春秋」2022年9月号と10月号の特集記事を基に、8編のルポと論考、最後は座談会という構成で新書として編まれています。本書のタイトルに基づいて、冒頭の記事で、旧統一協会の中核となる宗教行為、すなわち、伝道と強化の方法、献金と物品購入の強制、合同結婚式への勧誘の3点がすべて違法であるとする判例が確定していることが明らかにされています。この冒頭章に続いて、「山上容疑者はなぜ安倍元首相を狙ったのか」がもっともボリュームがあり、実に詳細に渡る山上容疑者の意識や行動が明らかにされています。さらに、献金問題にもスポットが当てられていて、信者の高額献金により苦しむ家族の姿も浮き彫りにされています。また、献金だけでなく、合同結婚式で海を渡った日本人花嫁の実態も取材に基づいて明らかにされています。最後の座談会の前には、教義を解明しつつ、その中で、創始者の文鮮明の位置づけも言及されています。最後の座談会では元信者も含めて、いろんな意見が交換されています。本書は、タイトル通りに、新宗教一般ではなく、安倍元総理との関係で旧統一協会だけにスポットを当てています。ただ、その見方はかなり冷めていて、旧統一協会の主張が自民党に取り入れられたのではなく、むしろ、イベントの盛上げ役、あるいは、そういう表現はありませんが、「人寄せパンダ」としての有名政治家の価値を明確に認めた上で、むしろ、旧統一協会の方で家族観などについては自民党の方にすり寄ったのではないか、との見方が示されています。もっとも、考えるべきポイントとしては、旧統一協会については、宗教という側面からアクセスする政治家よりも、むしろ、勝共連合との関係で反共の立場からつながりを持つ政治家も少なくないのではないか、という点です。加えて、選挙における固定票というのは政治家にとって魅力的であったろうというのは私にも理解できます。逆に、昨今のように投票率が大きな低下を示して、固定票としての宗教票が投票の中で占めるウェイトが結果として高まってきている、というのが実態でしょう。もしも、政治に宗教団体の意見を持ち込ませるのを阻止したいのであれば、直接に宗教団体に批判・非難をするのではなく、宗教団体の意向ではなく自分の判断で投票する有権者を増やすことが必要だと思います。最後に、ネトウヨの世界で、ハングルを駅などの街中で見かけるだけで気分を害するような嫌韓・嫌中の人たちが、どうしてここまで旧統一協会に寛容なのか、私には謎です。
最後に、福田充『政治と暴力』(PHP新書)です。著者は、日本大学の研究者であり、専門は危機管理学とリスク・コミュニケーション、テロ対策です。本書では前の2書と違って、宗教は無関係にタイトル通りに政治と宗教の関係について、特に、テロ防止の観点から議論を展開しています。まあ、安倍元首相の銃撃・暗殺事件をモチーフにしながらも、「テロリズムとはなにか?」と題された第3章から、ほぼほぼ、一般的なテロのお話に終止している印象があります。ということで、第3章ではテロリズムの定義や分類などに言及され、プロパガンダ機能を持った心理的な武器であり、その意味で政治的なコミュニケーションの一種であることが明らかにされます。第4章では日本でのテロリズムの歴史が解き明かされ、そもそも、大化の改新につながる乙巳の変、すなわち、中大兄皇子と藤原鎌足による蘇我入鹿の暗殺がテロリズムであるとされ、日本では歴史的に要人が暗殺されてきた歴史がある、ということになります。まあ、私も5.15や2.26は正規陸軍部隊による武装蜂起とはいえ、決して内戦ではなくテロリズムだとは思いますが、いわゆる「拡大自殺」的な大量殺人、京アニ事件とか、大阪のクリニック放火事件とか、これらまでテロリズムというのであれば、あまりにも幅広くテロリズムを拡大しているような気がしないでもありませんでした。自分の専門分野ですから大きく考えるのは通常のバイアスだろうとは思います。経済学についても、極めて幅広い適用を志向する経済学帝国主義のような傾向は否定できません。ただし、仇討ちが一種の文化的伝統となっている点は、私も否定できません。そのために復讐心が強くて、先進国の中では数少なく死刑を廃止できない国民性であることは確かです。こういった議論の上で、第7章と第8章のテロリズム対策が議論されて、本書を締めくくっています。すなわち、オール・ハザード対応としてのテロリズム対策としては4点あり、(1) 情報の収集・分析・共有からなるインテリジェンス、(2) 事前対策のリスク・マネジメントと事後対応のクライシス・マネジメントを合わせたセキュリティ、(3) 対応に必要な物資、人員、組織の整備といったロジスティックス、最後に、(4) 社会一般に情報を伝達し、共有することで合意形成を図るリスク・コミュニケーション、となります。ただ、本書でも十分に意識されていますが、テロリズムへの根本的な対応、というかテロリズムの根絶のためには、民主主義がキチンと機能する基礎が必要です。正しく確実な民主主義の運営こそがテロリズムの芽を摘み取るもっとも重要な事前予防策であろうと私は考えます。
2022年12月10日 (土) 09:00:00
今週の読書はカーネマンほか『NOIZE』を中心に計6冊
まず、ダニエル・カーネマン & オリヴィエ・シボニー & キャス R. サンスティーン『NOIZE』上(早川書房)では、人間の判断におけるエラーのうちのノイズを取り上げて、アルゴリズムに沿った、あるいは、ルールに基づく決定の方がノイズが少ないと主張しています。野村総合研究所『日本の消費者はどう変わったか』(東洋経済)では3年ごとの1万人アンケート調査に基づき、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミック後の消費者のマインドや行動パターンなどの変化をリポートしています。小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)では平均的な収入があってもなお生活が苦しい国民生活の実態をリポートしています。高山正也『図書館の日本文化史』(ちくま新書)では図書館が文化的な豊かさに果たした役割を歴史的にひも解いています。貴志祐介『罪人の選択』(文春文庫)はSFとミステリの4編の短編を収録し、特にSFとではこの作者独特の世界観が味わえます。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10~月には49冊、12月に入って今週は6冊ですので、今年に入ってから227冊となりました。ひょっとしたら、今年は250冊に届くかもしれません。
まず、ダニエル・カーネマン & オリヴィエ・シボニー & キャス R. サンスティーン『NOIZE』上下(早川書房)です。著者は基本的に3人ともエコノミストといえますが、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞した経済心理学や行動科学の専門家、シボニー教授はマッキンゼー出身の経営学者で意思決定などの専門家、サンスティーン教授は法哲学や行動経済学の専門家です。英語の原題も NOIZE であり、2021年の出版です。ということで、基本的にカーネマン教授の前著『ファスト&スロー』の続編といえます。最初に、エラーをもたらす2つの要因としてバイアスとノイズを上げ、射的の結果から直感的に判りやすく解説しています。すなわち、精度高く的の近くに着弾したシグナル中心のいい例がある一方で、外している2例をもとに、一貫性なくアチコチにばらつきがあるのがノイズ、ばらつきはないがどこか・どちらかに偏っているのがバイアス、と分類しています。当然ながら、本書は前者のノイズを分析対象とし、標準偏差でもって計測される、と定義します。そのノイズの実例として、裁判での量刑、保険の査定結果、医師の診断、採用を含めた人事の評価などを上げて、実に多くのノイズで満ちた判断が下されていることを強調しています。そして、直感的にも理解できますが、バイアスは一方向に偏っていますから、例えば、裁判の量刑で厳しい/甘い、などの偏りを排除することはそれほど難しくない一方で、ノイズのばらつきは、いわば、一貫性なくアチコチの方向にばらついていますので修正が困難といえます。そのノイズを除去するために、本書では「判断ハイジーン」、すなわち、判断の事前にハイジーン=衛生管理をするイメージで、いくつかの手法を提案しています。そのひとつが、まさにAI時代にふさわしくアルゴリズムを用いた人間による解釈の裁量の余地の少ない方法です。逆にいえば、人間がその裁量で判断している限り、カスケード効果によりノイズが連鎖する可能性も十分あるわけです。要するに、ルールを設定して裁量の余地を狭めることが重要なわけです。その例としては、産婦人科のアプガー・ガイドラインを上げています。そして、私が考える中では金融政策のインフレ目標がこれに当たります。インフレ目標を採用する前の日銀が裁量政策にこだわって、日本経済にデフレをもたらし、ひどいトラック・レコードを記録して世界から笑いものにされていたのは記憶に新しいところです。最後に、私が読み進むうちに強い既視感に襲われました。すなわち、本書でノイズを除去すべく提案されているいくつかの方法は、ウェーバー的な官僚制に通ずる手段であるという点です。そして、最終第28章で、著者たちもそれを認めています。官僚制とは前例踏襲で融通が利かず、個別案件の特殊性を考慮せずに、一律にルールを適用する、と考えられていますが、まさにその通りです。おそらく、全部ではないとしても、エラーだらけの専制君主の判断に対して、ルールを議会で設定し、そのルースに従った執行体制を求めた結果が官僚制なのだろうと私は認識しています。本書ではノイズを削減・除去するためには、そういった官僚制のような融通の利かないルールの厳格な適用が必要、と主張しています。この点は忘れるべきではありません。
次に、野村総合研究所『日本の消費者はどう変わったか』(東洋経済)です。著者は、いうまでもなく我が国でも最大のコンサルタント会社のひとつです。本書では1997年から開始され、3年おきに実施されている「生活者1万人アンケート」のい2021年調査結果を中心にタイトル通りの調査結果が示されています。主として、マーケターを主たる読者に想定していて、当然、マーケティング活動への活用に主眼が置かれています。でも、私のようなエコノミストにも十分活用できる結果ではないかと思います。特に、今回調査では2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにより、どのような消費者の志向や行動の変化が現れたかを追跡調査しています。とても興味深い結果なのですが、一言でいえば、まあ、常識的な結果と私は受け止めています。まず、私が就職してキャリアの国家公務員となってから、大きな経済社会的な変化がいくつかありました。バブル崩壊(1990年)、阪神・淡路大震災(1995年)、リーマン証券破綻(2008年)、東日本大震災(2011年)、そして、COVID-19パンデミック(2020年)です。おそらく、こういったイベントにかかわりなくトレンドとして進んでいく変化もあれば、循環的な変化もあります。そういった中で、私は消費者の意識や行動に強く影響をおよぼすのは雇用だと考えています。まず、1990年代から進んだのは非正規雇用の拡大です。これを基礎として結婚せずに子供も少ない流れが一気に加速したと考えるべきです。そして、COVID-19パンデミックはこの流れを加速したといえます。ですから、本書でも指摘されているように、挑戦=チャレンジというのは積極果敢なアニマル・スピリットの現れであって、起業家精神を肯定的に表現する言葉ではなく、むしろ、リスキーでギャンブル的なネガな言葉に受け止められたりしています。加えて、COVID-19パンデミックの最大の影響はテレワークの普及にあります。おそらく、特に日本では非公式な同僚との横の連絡が失われた結果として、かなりの生産性の低下を見たのだろうと思いますが、パンデミックを過ぎたとしても、100パーセント元の対面就業に戻るわけではありません。もともとテレワークに親和性があって生産性が確保できている産業・職業や、あるいは、テレワークに習熟して生産性の低下が食い止められている企業などでは、引き続きテレワークが継続されるのはいうまでもありません。その意味で、働き方のダイバーシティが進みましたので、幸福度は決して大きく低下したわけではありません。他方で、渡辺教授の『世界インフレの謎』で主張されていた宿泊や飲食などのサービス消費の低迷とモノ消費への回帰については、少なくとも本書では外食への需要については決してCOVID-19によってダメージを受けているわけではない、と指摘しています。そして、デジタル化については一気に進んだのは従来から指摘されている通りです。本書では「半ば強制的に」という表現を使っています。いずれにせよ、政府統計などに現れる消費のバックグラウンドを知る上では貴重な資料です。ただ、最後に、SNS誘発消費についてはそれほど重視されていません。インフルエンサーの影響については、私は雇用環境よりずいぶん弱いと考えているので、ある意味でOKなのですが、本書ではまったく無視しています。
次に、小林美希『年収443万円』(講談社現代新書)です。著者は、ジャーナリストです。タイトルの年収443万円というのは、国税庁の「民間給与実態統計調査」における2021年給与所得者の平均年収となっています。ハッキリいって、とても低い額なのですが、これはあくまで平均であって、平均はトップモストの層に引っ張られますので、中央値はもっと低いことになります。バブルが崩壊した後、ここ30年でお給料はほとんど上がっていないわけです。3部構成となっていて、第1部と第2部はインタビュー内容を1人称で取りまとめています。第1部が平均年収がっても生活が苦しい人たち、第2部は平均年収以下のインタビュー結果です。第3部で著者の視点が示されます。ということで、平均的に、というか平均以上の年収1000万円でも生活が苦しいという訴えに満ちています。子供の教育費であったり、老親の介護であったり、あるいは、非正規雇用の不安定さと所得の低さであったり、生活が苦しい原因は必ずしも同じではありませんが、収入と支出のバランスの間で、30年以上前のバブル崩壊から苦しみ続けている国民の姿が浮き彫りにされています。私は何をどこから見ても、明らかに、収入の不足であると考えています。読者によっては家計の節約不足やムダな出費を指摘する向きがあるかもしれませんが、そうではありません。現代の技術水準に基づく豊かな生活を送ろうとすれば、それ相応の出費が必要です。テレビや自動車は文化的な生活には必要性高いといわざるを得ませんし、生活が苦しいからといって、インターネットへの接続の出費を切り詰めるのは、ひょっとしたら、選挙などで基本的人権の正当な行使が出来なくなるおそれすらあります。あるいは、権力者にはそれが狙いなのかもしれないと勘ぐったりもします。ですから、支出を切り詰めるのではなく、収入を増加させる必要が力いっぱいあるわけです。しかし、他方で、本書もやや踏み込み不足といえます。収入の増加や所得の確保には何といっても雇用がもっとも重要な要因なのですが、本書ではやや雇用についてアサッテの見方しか示されていません。すなわち、まず第1にマクロの視点で、経済の拡大を目指す必要がスッポリと抜け落ちています。気候変動=地球温暖化の抑制やほかのSDGsについて考えれば、脱成長とか、ゼロ成長とかが目標になりかねませんが、まず、経済の拡大による雇用の確保が大前提と考えるべきです。しかし、本書ではそこには目がつけられていません。第2にマイクロな視点では、安定した高収入の雇用のためにはスキルの向上が何よりも必要です。大学に戻ってのリカレント教育などにも目を向ける必要がありますが、本書では残念ながら、採用面接の際のテクニックだけが重視されている印象です。この2点をしっかりと政策的に支えて、国民を貧困状態から引き上げる措置が必要です。そして、何度も繰り返しましたが、国民生活の基礎は雇用にあります。まず、短期的には手始めに非正規雇用に対する規制緩和の行き過ぎの是正が必要です。本書にも「非正規雇用の拡大によるコストカット」といった旨企業サイドの見方が批判的に紹介されていますが、正規雇用の拡大という雇用者サイドの政策のためには、非正規雇用の行き過ぎた規制緩和の是正が現時点では必要です。非正規雇用を悪者視するわけではありませんが、正規雇用を求める雇用者に非正規の職しかないという現状は、行き過ぎた規制緩和の是正により改める必要があります。
次に、高山正也『図書館の日本文化史』(ちくま新書)です。著者は、慶応大学の図書館学の研究者です。国立公文書館の館長も経験しているようです。ということで、本書では、図書館文化を中心に据えつつ、その前提としての文字文化、書籍の歴史なども押さえています。ですから、大陸からの漢字文字の導入なども重要かもしれませんが、やや著者の歴史認識に歪みがあるように私は感じましたので、それほど重視する必要もないかと思います。というのも、本書では何度かハティントンの『文明の衝突』を引いて、日本は中国漢字文化とは少し異なる独自の文明圏を形成していて、その日本の文明の発展を図書館が担っている、という説を何度か主張しています。ということで、私が図書館の役割として重要と考えているのは、文書の保存と利用者への提供です。しかし、この2点はある意味でトレードオフである点を、著者は暗黙裡にしか理解していないような気がします。私は国立国会図書館の図書カードも持っていましたし、東京では日比谷図書館をはじめとして、公立図書館も大学などの研究機関の図書館も、かなり数多くの図書館を利用してきました。ハッキリいって、図書館のヘビーユーザだろうと思います。おそらく、私が接してきた国公立の図書館では、主として文書・図書の保存を主眼に置かれているタイプと、逆に、利用者への提供を主眼に置いているタイプがあります。私自身は各図書館ごとにバランスが重要と考えているわけではなく、図書館によってその役割を特化させてもいいくらいに考えています。すなわち、利用者への提供はほとんどせずに図書や文書の保存を主眼にした図書館もそれなりに重要です。現時点では、図書ではなく文書に関する国立公文書館がこれに当たります。国会図書館もこれに近いような気がします。逆に、おそらく、多くの市区町村レベルの公立図書館が貸出に精を出すシステムになっており、適宜古い図書を処分しつつ地域住民へのサービスに努めているわけで、本書では「無料の貸本屋」とやや揶揄した表現を用いている部分もありますが、行政サービスとして重要な役割を果たし、良識ある市民層の形成にて大いに役立っていることはいうまでもありません。ただ、本書でも指摘しているように、図書館に関する政策が文教政策には入っておらず、国会図書館という頂点を持った立法府に属しているため、政策的な重点がぼやけているのは事実だろうと思います。最後に、本書では電子図書の役割、あるいはさらに進んで電子図書を図書館でどのように扱うか、については、p.267で「時間がかかる」としか述べられておらず、少し不満が残ります。この先、デジタル本が比率を高めていくことは明らかなのわけですし、実は、私自身は図書館のヘビーユーザでありながら確たる見識は現時点では持ち合わせていませんから、本書の著者には何らかの見識を持った見方を示してほしかった気がします。
最後に、貴志祐介『罪人の選択』(文春文庫)です。著者は、私と同世代で、京都大学経済学部出身の小説家です。本書では短編4話から構成されており、ハッキリいって、やや寄せ集めの感があります。単行本は2020年に発行されていますが、今年になって文庫本が出版されましたので読んでみました。収録されている短編は、「夜の記憶」、「呪文」、「罪人の選択」、「赤い雨」であり、タイトル編となっている「罪人の選択」はミステリですが、ほかの3話はSFです。特に、冒頭に置かれている「夜の記憶」は『十三番目の人格 -ISOLA-』や『黒い家』で著者が本格デビューする前に書かれた貴重な一編といえます。節が交互になっていて、人間ならざる生物と人間がそれぞれ登場し、人間編の方では、男女の結婚前カップルが南の島のバカンスで太陽系脱出前の最後の時を楽しんでいます。浅い読み方しかできない私のような読者には、かなり難しいSFだと感じさせられました。第2話の「呪文」では、主人公は文化調査で植民惑星『まほろば』に派遣され、諸悪根源神信仰を調べ、集団自殺や大事故などを引き起こす危険な信仰を防止することを目的にしています。唯一のミステリである「罪人の選択」では、1946年と1964年の2時点を舞台に、罪人が選択を迫られます。すなわち、焼酎の入った一升瓶とフグの卵巣の缶詰を前に、どちらかに猛毒が入っていて、他方は無害、という選択です。最後の「赤い雨」は遺伝子組換え生物として誕生したらしいチミドロによって汚染された世界と選ばれた人間だけが入れるドームの世界を対比し、以下に破局的な終末を阻止するかという研究をしている男性とチミドロが引き起こすRAINという病気の治療を研究する女性を主人公にしています。何といっても、私は最後のSF「赤い雨」を高く評価します。私が貴志祐介のSF作品としては最高傑作と考える『新世界より』にやや近い世界観、すなわち、分断され上下関係に支配されつつも、協力し合う2つのグループが、地球という狭い世界でいかに生きるか、という観点が示されています。ミステリの「罪人の選択」は、まあ、標準的なレベルという気がしますが、繰り返しになるものの、冒頭の「夜の記憶」は私の理解がはかどりませんでした。「呪文」も短いストーリーにいろんな要素を詰め込んだSFをの好編です。長編小説のようなスケールはありませんが、なかなかに中身の濃い短編が収録されています。ただし、まあ、一貫したテーマはなく寄せ集めです。
最後に、最新号の ECONOMIST 誌にて年末特集のひとつだろうと思いますが、以下の今年の読書的な2つの記事を見かけました。雑誌としてのオススメと寄稿者のオススメのようです。中身はまだそれほど詳しく見ていませんが、面白そうであれば取り上げてみたいと思います。
- These are The Economist’s best books of 2022
- Our correspondents wrote about polling, sanctions and economics
2022年12月03日 (土) 09:00:00
今週の読書はいろいろ読んで計6冊
まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)では、やや私には確信の持てない未来社会について著者たちの強い信念が展開されています。米澤穂信『黒牢城』(角川書店)は、今さら感強いとはいえ、直木賞も受賞した時代ミステリ小説です。浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)は、女性ジャーナリストが企業における女性登用の重要性を解明しています。佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)は、これもジャーナリストが宇沢教授の人となりを解明しようと試みています。橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)では、広く市民生活に影響を及ぼしていたギリシアの民主政について歴史家が議論を展開しています。最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)は、我が国最高峰の小説家が父親について語るエッセイです。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで18冊で今週は6冊ですので、今年に入ってから221冊となりました。
まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)です。著者は、世界的な起業家・未来学者・テクノロジスト、そして、政府政策アドバイザー・起業家と紹介されています。私にはよく判りません。英語の原題は The Rise of Technosocialism であり、2021年の出版です。著者から本書の前に『拡張の世紀』と『BANK 4.0』が出版されているそうですが、不勉強にして私は前者の『拡張の世紀』だけしか読んでいないと思います。『拡張の世紀』については、本書とともに壮大な未来予想を展開していますが、どこまで現実化されるのかはまったく判らない、と感じたことを記憶しています。というのも、著者たちの強い信念に基づく情報だけが取捨選択されて、その上で未来予想がなされていますので、それほど客観性があるとは思えません。すなわち、本書ではp.53とp.235に同じ4つの未来シナリオを示しており、本書のタイトル「テクノソーシャリズム」では、テクノロジーが普及して自動化が進み、公平性や幅広い繁栄を謳歌できるそうです。別に3つのシナリオがあります。新封建主義」では、格差拡大が極限にまで達し、富裕層はゲーテッド・コミュニティで生活することが予想されています。「ラッダイト世界」では、科学やテクノロジーは拒絶され、法により制限されるらしいです。最後に、「失敗世界」では、気候変動が極限まで達して気候が崩壊し、経済的には不況となり、全面的な独裁政治が世界を支配するとされています。私には、賛同できる論点は少なかったとしかいいようがありません。著者2人の見方はこうですと、かなり強引に示されていて、その方向性に賛同できる読者には、まあ、「内輪褒め」のような形で、それなりに受け入れられやすいのかもしれませんが、議論の進め方はかなり強引かつ独断的で、しかも、翻訳も決してよくないし、さらに、原著の段階で構成なんかも私の理解を超えていて、第7章で革命リスクの緩和について論じられているのは、何の話なのだろう、と思ってしまいました。何よりも私が節s技に感じたのは、AIによる自動化が進み、公平性が担保されるテクノソーシャリズムが未来のひとつの姿である点は、決して拒否しないとしても、その実現可能性、というか、未来への分岐点が何なのかについては、まったく理解できませんでした。何がどうなれば、どのシナリオの実現性が高まるのか、現時点でまったく公平性が担保されていないのはなぜなのか、必要な問いに対する回答はまったくなく、「ボクたちはこう考える」に関して、「将来こうなればいいね」というのが示されているだけな気がする。しかも、その未来社会の中身はアチコチで広く論じられていて、ほとんど著者たちの新たな視点というものは含まれていません。まあ、分厚い本でしたが、それほどタメにならない読書だった気がします。
次に、米澤穂信『黒牢城』(角川書店)です。著者は、日本でもっとも注目されているミステリ作家の1人であり、本書により直木賞を受賞しています。したがって、というか、何というか、出版社もご褒美的に特設サイトを開設していたりします。舞台は有岡城で、主人公は荒木村重です。これだけでは不親切ですので、もう少し詳しく書くと、時代は戦国時代末期、あるいは、織豊政権の成立前夜というくらいで、荒木村重とは毛利と通じて織田信長に反旗を翻した北摂の戦国武将です。その荒木村重が立てこもるのが有岡城というわけです。そして、その有岡城に織田方の使者として黒田官兵衛が来て、殺されもせず、帰されもせずに、有岡城の土牢に閉じ込められてしまいます。なお、細かいことながら、この当時、黒田官兵衛は黒田姓ではなく小寺姓を名乗っています。そして、本書は4偏の連作短編から構成されています。いずれも、有岡城内、あるいは、城下で不可思議な出来事が起こり、それを官兵衛の知恵を引き出しながら解決する、というものです。第1章では牢の人質が殺され、第2章では戦陣で討ち取った敵将の首の特定が困難を極め、第3章では使者と頼んだ旅の僧が殺された犯人を考え、そして、第4章では第3章の僧殺しの犯人に鉄砲を発射した者を特定します。それぞれの謎解きは興味深くて、それなりに感心しますが、私には少し物足りません。というのは、やはり、馴染みのない時代背景では謎解きに対して感情移入するのが、渡しの場合ということですが、難しいのだろうと思います。不器用なミステリ読者なのかもしれません。その意味で、早く『栞と嘘の季節』図書館の予約が回ってくるのを待っています。古典部シリーズも再開しないものでしょうかね。
次に、浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)です。著者は、朝日新聞や『AERA』の記者を務めたジャーナリストで、特に、『AERA』に関しては編集長の経験もあるようです。そして、タイトル通りの内容です。ジャーナリストらしく、大きの企業関係者に取材して、あるいは、ご自身の体験も踏まえながら、男性中心企業の終焉を見越しています。まったく、私もその通りと感じています。エコノミストとしてキチンと論理的に説明できないながら、私も、日本企業が女性をクリティカル・マスを超えて、例えば、30%の管理職を女性にすれば、かなり大きく生産性が上がるのではないか、と考えています。そして、何よりも強調すべきであるのは、この女性管理職大幅増の起点となるのは企業サイドである、という点です。何かと、企業での女性活躍が進まない口実として、家庭における男女の役割分担が上げられます。しかし、おそらく因果関係は反対なのだろうと私は考えています。まあ、因果関係などと小難しい議論をせずとも、女性が企業の管理職の半分くらいを占めて、それにともなってお給料が大いに稼げるようになれば、時間がかかる可能性はあるにしても、家庭内の役割分担も必ず地滑り的な変化が生じることは明らかです。マルキストでなくても、経済が社会の下部構造をなしていることは実感しており、その経済の中でも雇用関係が最重要な規定的要因であることは明らかです。家庭内で伝統的な男女の役割分担がなされているから、男性が企業で無限定に働いているわけではなく、男性が企業で無限定に働かされているために、家庭内の家事育児や介護まで女性が担わざるを得なかったのではないでしょうか。ですから、雇用関係で女性の管理職登用が進めば、家庭内でも性別に基づく役割分担が変化すると考えるべきです。日本経済にはそういった女性管理職の大幅増を、逆差別を押してでも進める必要があります。経済政策の切り札だろうと私は考えています。
次に、佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)です。著者は、ジャーナリストであり、前著『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』は私も読みました。前著の感想文でも書きましたが、私の極めて大雑把な宇沢教授に対する印象としては、米国時代はアカデミアの1人として経済学研究に励み、東大、というか、日本に帰国してからは、アカデミックな分野ではなく、むしろ、アクティビストとしてご自身の信念に基づいた活動家としての方にも、もちろん、東大教授としての学術面での活動に加えて、という意味ですが、アクティビストの面も強かったのではないか、と考えています。私とは時代が違いますし、親しいわけでもありませんから、単なる印象ながら、帰国して学術面での貢献がストップしたわけではありませんが、宇沢教授による本当の経済社会への貢献としては、アクティビストとしての活動ではなかったか、と思う次第です。ですから、本書では、生い立ちから始まって、米国における研究での宇沢の2部門モデルの理論的貢献、もちろん、帰国してからの社会的共通資本の研究も重要な論点ですが、米国のベトナム戦争、日本の水俣病などの外部不経済など、宇沢教授の経済学に基づく実践行動にもスポットが当てられています。ただし、止むを得ない面は理解するとしても、やや宇沢教授を美化している面は否定できません。すなっわち、バイアスあるものの、それはそういうもの、と割り切って読むことも必要かもしれません。
次に、橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)です。著者は、東大の研究者であり、専門は古代ギリシア史です。本書のあとがきにある著者の思いを引用すると、「古代ギリシアの民主政を、政治のしくみとしてだけではなく、そこに生きた人びとの生業・社会・文化・宗教が織りなす一つの全体として描きたい。そのような願いに衝き動かされて書いたのが本書である。」ということであり、新書というややボリューム不足な出版物という点を考慮すれば、十分に目的が達せられていると私は評価しています。というのも、民主政は単なる多数決による決定方式ではなく、平等の原則に基づく幅広い思考様式や行動様式の中心となるシステムだからです。その意味で、本書では議会活動や行政活動だけではなく、裁判までも民主政の中に含めて考え、市民裁判という解説を加えているのは、ある意味で、自然なことだと私は受け止めました。その他にも、ギリシアでも中心となるアテナイでは、国家としての最盛期を過ぎてから、民主政が成熟して最盛期を迎えた、とか、区単位で民主政が実践され、もちろん、奴隷という身分制であって、近代的な国民すべてが市民というわけではないとしても、市民が生涯の間に何らかの民主制における役割を担うとか、いろいろと私自身も不勉強で知らなかった事実がいっぱいありました。決して大上段に振りかぶって、現代の民主主義に対する何らかの示唆を得るというわけではなく、民主主義発祥のギリシアにおけるシステムや暮らしのあり方を教養として身につけておくのも必要なことではないでしょうか?
最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)です。著者は、日本を代表する作家であり、日本人としてもっともノーベル文学賞に近い存在であることは、多くの読者が認めるところだろうと思います。本書は、猫を棄てるという行為を起点として、著者が父親について、そのパーソナル・ヒストリーを簡単に取りまとめるとともに、親子関係を語っています。明示してはいませんが、フィクションではなく、ノンフィクションなんだろうと思います。著者は、何だったかは忘れましたが、エディプス・コンプレックスについて語っていますが、本書ではご自分から父に対するエディプス・コンプレックスは、少なくともその言葉と関連付けては出てきません。父親のパーソナル・ヒストリーを語る際、どうしても時代背景から軍役の関係が多くなります。そして、著者は大学入学とともに親元を離れていますので、大きな段差を感じたりもしますが、父親と倅との間には何らかの確執があるのは当然ですし、確執がありながら淡々と父親について調べて、それを出版物にするというのは、かなり大きな作業なのだろうと感じます。
2022年11月26日 (土) 09:00:00
今週の読書は国際交渉でのケインズの活躍を収録した経済書ほか計5冊
まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)は、欧州諸国を相手に回して、戦間期においてケインズ卿がワンマンIMFの働きを見せる姿が活写されています。道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)では、第1作の蝦蟇暮倉市から箕氷市に舞台を替えて、不気味な出来事が連作短編の形で4話収録されています。重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)では、経済学で前提される合理的な個人について政治社会思想史の観点から跡づけています。渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)では、物価に関する我が国第1人者のエコノミストが、日本の慢性デフレと急性インフレについて分析を試みています。最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)では米国東海岸を舞台に殺人事件の謎解きがなされます。最後に、読み通したわけではなく、辞書的に座右においてあるだけで、読書感想文の5冊の外数ですが、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)を買い求めて活用に励んでいます。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで13冊で今週は5冊ですので、今年に入ってから215冊となりました。
まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)です。著者は、上智大学名誉教授であり、ケインズ学会会長ですから、我が国のケインズ研究の大御所といえます。そして、特筆すべきはタイトルであり、まさに、ヴェルサイユ体制にたった1人で孤軍奮闘して立ち向かったケインズ卿の姿が分析対象となっています。もちろん、若き日のケインズから始まって、ケンブリッジでの生まれ育ちやブルームズベリー・グループにも言及されていますが、「平和の経済的帰結」からのあまりにも有名なケインズ卿の慧眼に焦点が当てられています。本書の図コープとしては、対ヴェルサイユ体制であって、第2次世界対戦の後処理である世銀・IMFの創設までは含まれていませんが、ヴェルサイユ体制を相手に回してのケインズ卿の1人国際機関としての活躍が余すところなく活写されています。そうです。まさに、ケインズ卿1人で国際機関の役割を果たしていたといえます。私は劇画の「ゴルゴ13」が好きで、まさに、ゴルゴ13がワンマンアーミーとして20-30人の軍を相手に立ち回るシーンを何回か見てきましたが、本書でのケインズ卿は、現時点での国際機関になぞらえれば「ワンマンIMF」であり、国際金融制度を1人で背負って立っています。対独報復的なフランスの過剰な賠償要求に対して、キチンとした経済計算に基づいて反論し、債務返済の現代流にいえばヘアカットの必要性につき分析しているのがケインズ卿です。歴史がその正しさを立証していて、ヴェルサイユ体制がナチスにつながったのは明らかといえます。しかも、私も経済学者=エコノミストの端くれとして驚愕するのは、戦間期にこういった国際金融制度の中で大きな役割を果たすと同時に、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』によりマクロ経済学を確立し、米国のニューディール政策の理論的基礎を打ち立てている点です。私なんぞは、キャリアの国家公務員として経済政策策定の最前線に60歳の定年までいながら、政策策定の実務上も、もちろん、理論展開上も、何らの目立った貢献も出来ませでしたが、まるでモノが違います。国際金融交渉の場におけるワンマンIMFとしての活躍、さらに、マクロ経済学樹立のアカデミックな活躍に加えて、おそらく、ケインズ卿は母国である英国に何らかの有利な方向性も模索していたのだろうと私は想像しています。ただ、そういった英国の国益追求という面は、本書では強調されていません。最後に、出来うべくんば、平井先生に本書の続編を書いていただき、第2次世界対戦の戦後処理のうち、世銀・IMFの創設、特に有名な英国のケインズ案と米国のホワイト案の議論なども取り上げていただきたい、と切に願っております。
次に、道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)です。著者は、中堅どころのミステリ作家であり、やや暗い作風ながら、私の好きな作家の1人です。本書の前編の位置づけであろう『いけない』は海岸沿いの蝦蟇倉市から、本作品では箕氷市に舞台を移します。海は出てこずに山が舞台となる作品がいくつか収録されています。牡丹農家も多いようです。4編の短編を収録しています。第1話「明神の滝に祈ってはいけない」では、1年前に忽然と姿を消した姉のSNS裏アカを発見した妹が、姉が最後に訪れたとみられる明神の滝に向かい、同じように失踪してしまいます。その明神の滝には願い事をかなえてくれる代わりに、大事なものを失うという言い伝えがあったりします。第2話「首なし男を助けてはいけない」では、小学5年生の少年が主人公となり、引きこもりで首吊り人形を作り続けている伯父さんに、ちょっとエバッた同級生に肝試しでいたずらを仕かける人形の工作の相談に行くところから始まります。収録された4編の小説の中では、ストーリーとしては一番怖い気がします。第3話「その映像を調べてはいけない」では、家庭内暴力を振るう子供を殺したと老夫婦が警察に自首するところから始まります。しかし、この第3話の中心は、いかにも怪しい老夫婦の自主内容ながら、その怪しさは次の第4話で謎解きされます。第4話「祈りの声を繋いではいけない」では、第3話の謎解きを中心に、それまでのすべての謎が明らかにされます。ストーリー、というか、小説で語られる事実としては、第2話が一番怖い気がしますが、第1話とこの最終第4話は、ともに、子供を失った、あるいは、亡くした両親の心理描写がとても狂気にあふれるとまではいいませんが、かなり不気味で、このあたりに道尾秀介のミステリ作家としての本来的な能力を感じます。そして、各短編が終了した最後のページに写真が示されています。第3話の写真なんか、ネットでの謎解きを見るまで、感性も頭の回転も鈍い私には理解が進まなかったのですが、第2話の最後の写真は、すぐに理解できました。とても不気味な事実を示唆しています。合わせて、感じるものがある、あるいは、怖がることができたりすれば、さらに本書の、あるいは、道尾作品の読書の楽しみが増えそうな気がします。
次に、重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)です。著者は、明治大学の研究者であり、専門は現代思想・政治思想史のようで、フーコー研究者です。ですから、本書の副題は『「利己的人間」の思想史』とされており、経済学的な合理性や限定合理性とか経済哲学的な観点は希薄になっていて、歴史的に経済学がホモ・エコノミクスを前提にする前から、政治社会的な部分も含めての思想史をひも解いています。ですから、逆に、一般ビジネスパーソンには読みやすくなっている気もします。3部構成であり、第1部は富と徳に焦点を当てて、この両者が必ずしも両立せず、古代・中世などの前近代においては、決して「金儲け」が徳ある行為とみなされずに、やや蔑まれていた事実を指摘しています。第2部ではホモ・エコノミクスの経済学を取り上げて、スミスらの古典派経済学から現在までの主流派経済学の中核をなしている新古典派的な限界革命を経て、経済活動だけではなくホモ・エコノミクスが広範な領域に進出し、自己利益の追求が「背徳」的な行為ではなくなって、普遍的な価値観として受け入れられる時代を概観します。そして、最終の第3部ではホモ・エコノミクスの席捲として、シカゴ学派のベッカー教授の経済学帝国主義的な視点などを取り上げています。私の方から、2点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、第1に、本書冒頭で取り上げている公正世界仮説が心理学の学問領域でどこまで認識されているかについて、私は不勉強にしてよく知りませんが、ほかの学問領域は別としても、少なくとも、経済学においてはホモ・エコノミクスを経済モデルの前提にするのは第1次アプローチ=接近としては、十分に合理的であろう、と私は考えています。このホモ・エコノミクスのモデルから、現実に合わせる形でモデルの修正がなされればいいわけです。ただ、従来から指摘している通り、経済学の未熟な点として、モデルを現実に合わせるのではなく、現実の方をモデルに合わせてしまうという欠点は忘れるべきではありません。ですから、ホモ・エコノミクスの合理性のうち、何らかの前提を緩めるという作業が必要なわけです。合理性で前提される完備性、推移性、独立性のうち、ツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論では独立性の前提を緩めているわけですし、そもそも、個人レベルではなく社会レベルではアローの不可能性定理により推移律が成り立たない点は証明されています。限定合理性を含めたモデル化も進んでいます。第2に、ホモ・エコノミクスとは、本書でも指摘しているように、私利私欲を基にした強欲な個人的利益追求主体であるというわけではなく、何らかの効用関数に則って合理的に行動する経済主体と考えるべきです。ですから、「強欲」とかのネガなイメージは効用関数に含まれる説明変数とその偏微係数の大きさによります。かなり説明を端折りますが、結論として、現在、「行動経済学」としてもてはやされているインセンティブによる個人の選択行動へのパターナリスティックな「介入」には、私は大きな疑問を持っています。場合によっては、そういったインセンティブによるナッジなんてものに影響をまったく受けないホモ・エコノミクスの方が、まあ、強くいえば、私には好ましい存在にすら見える場合があります。ひょっとしたら、暗黙裡にそういうホモ・エコノミクスを私自身は目指しているのかもしれません。
次に、渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)です。著者は、日銀ご出身の東京大学の研究者であり、物価の研究に関しては我が国の第1人者と見なされています。本書では、現在の世界的なインフレは、従来型の需要の超過によるディマンドプルのインフレではなく、供給サイドに起因するインフレであると結論つけています。そんなことは判りきっていえるというエコノミストも多いかと思いますが、単純にコストプッシュだと分析しているのではなく、供給が不足もしくはミスマッチしており、その背景には新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックに起因する消費者や労働者や企業の行動変容があると指摘しています。すなわち、サービス経済化の逆回転が生じて、旅行や外食やといったサービス需要から、巣ごもり需要のモノに消費者の支出がシフトし、労働者は密な職場に帰りたがらず、在宅勤務できる職種に転職したり、あるいは、縁辺労働者は非労働力化したりし、最後に、企業活動ではグローバル化の逆回転が生じ始めている、といったところです。その上で、世界インフレから日本国内の経済とインフレに目を転じて、日本では慢性デフレと急性インフレが共存していると指摘しています。そして、かつての物価上昇期における賃金-物価のスパイラル、すなわち、企業が製品価格引上げ⇒生計費上昇分の賃上げ要求⇒賃金引上げ⇒コストアップ分の価格転嫁⇒製品価格引上げ、のサイクルが、現在の日本ではまったく同じメカニズムにより製品価格と賃金がともに上昇率ゼロで「凍結」されている、と指摘しています。そして、この「凍結」を賃金を起点に「賃金解凍」する条件として3点上げています。第1にインフレ期待の醸成、第2に賃上げ部分が価格転嫁できるという期待の醸成、そして、第3に労働需給の逼迫、となります。細かい論旨は本書を読むしかありませんが、とても注目すべき分析です。もっとも、私が感銘したのは、世界のインフレと日本国内の「慢性デフレに「急性インフレ」を切り分けて分析を進めている点です。世界が利上げしているのだから円安が進み、円安抑制のために日本も利上げすべき、といった乱暴は議論とは大きく異なります。ただ、金融政策の役割に関して疑問点があり、2点だけ上げておきたいと思います。第1に、現在の世界的なインフレをほぼほぼ実物の需給だけで理解しようと試みていますので、金融政策のインフレに果たした役割がスッポリと抜け落ちています。現在のインフレは大きく緩和されていた2022年初頭までの金融政策が、フリードマン教授のようにすべての原因、とまで私は考えませんが、ひとつの無視できない要因だと考えています。すなわち、あくまで一般論ながら、金融緩和の下で大きく増加した通貨供給は中央銀行の準備預金として「ブタ積み」される部分もありますが、一定の購買力となってフローの財・サービスとストックの資産に向かいます。前者の財・サービスに向かえばインフレとなりますし、後者の資産に向かえば、すぐではないとしても、行き過ぎればバブルになります。そして、今回の世界インフレの元凶であるエネルギー価格の高騰は、おそらく、ドル通貨の過剰供給が資産としての石油に向かったのが一因です。金とか、その昔のゴルフ会員権とか、有名画家の絵画、などであれば実物経済への影響はそれほど大きくありませんが、石油価格は実物経済への影響はかなり大きいと考えるべきです。ですから、商品市況で金などの貴金属、あるいは、非鉄金属や穀物といった商品=コモディティという資産として石油が価格高騰し、その資産価格の高騰がフローの財・サービスに影響を及ぼしている可能性を忘れるべきではありません。ですから、米国の金融引締めによってドル供給が縮小すれば石油価格は落ち着きを取り戻すと考えられます。おそらく数四半期、すなわち、1年から、早ければ来年半ばにも事実として観察されるものと私は考えています。第2に、金融政策は需要のみの管理にとどまる政策ではありません。このあたりは、中央銀行と政府の政策のタイムスパンの考え方の違いで、すなわち、私の理解によれば、中央銀行では景気循環の1循環、すなわち、数年をタイムスパンとして金融政策を考えているのに対して、政府では、極端な例としては「教育は国家100年の計」なんてのがありますが、もっと長いスパンで政策を考えます。景気循環1循環では、確かに、金融政策は供給サイドに大きな影響を及ぼすことは難しそうですが、もっと長いタイムスパンで考えれば、利子率が設備投資に影響し生産や供給に何らかのインパクトを持つことは明らかです。まあ、第2の点は大したことではないかもしれませんが、第1の点の緩和的な金融政策が現在の世界インフレをもたらしたひとつの要因であるという事実を本書ではほぼほぼ無視しており、私の目にはこの点がとても奇異に感じます。ですから、現在の米国における金融引締めは、単に米国の国内需要を下押しするだけでなく、資産価格としての石油の価格を引き下げる効果も十分持っていますし、この米国の金融引締めに日本はフリーライドして、棚ぼたの利益を受ける可能性がある、と私は期待していたりします。
最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)です。著者は、米国のミステリ作家であり、私はこの作者の『そしてミランダを殺す』も読んでいます。実は、この作者の作品としては、本書と『そしてミランダを殺す』の間に『ケイトが恐れるすべて』という作品があるのですが、これは未読です。英語の原題は All the Beautiful Lies であり、ハードカバーもペーパーバックもともに2018年の出版です。まあ、この英語の原題と邦訳のタイトルを考え合わせると、いかにも、アリス=主人公の継母が嘘をつきまくっている、あるいは、重要な事実を隠しているのだろうという想像ができてしまいますが、ここまでは読まなくてもタイトルだけから感じ取れる範囲ですので、何らネタバレではなくOKと考えます。2部構成となっていて、第2部に入るとガラッと景色が変わり、謎の解明が大きく進展します。ということで、主人公は稀覯本書店を経営する父親を持ち、大学を卒業する直前の大学生です。舞台はメイン州、典型的なニューイングランド、米国の東海岸です。そして、卒業式を数日後に控えた主人公に父親が海岸から転落死したという知らせが入り、卒業式を欠席して大学から実家に戻ります。稀覯本書店を経営していた父の後妻がアリスなわけです。後に警察の調べが進んで、転落による事故死ではなく殺人の線が浮かび上がります。邦訳本で10ページ前後からなる各章が交互に、厳密ではありませんが交互に、現在の主人公の実家周辺と過去、主として、アリスの過去にスポットを当ててストーリーが進行します。まあ、有り体にいえば、現在の捜査の進展とともに、アリスの暗い過去が明らかにされるわけです。その暗い過去の中には、首を絞めたり銃で射殺したりといった明確な殺人ではありませんが、ミステリでいうところの「プロバビリティーの犯罪」あるいは「可能性の殺人」にアリスが関わっていた事実が含まれます。これ以上はネタバレになりかねませんので、最後に2点指摘しておきたいと思います。第1に、途中で名前を変える登場人物がいます。ノックスの十戒の10番目に "Twin brothers, and doubles generally, must not appear unless we have been duly prepared for them." というのがあり、双子はこの作品に登場しますし、途中で名前を変えるというのは「1人2役」のような気もします。でも、作者が "duly prepared" だと認識している可能性がゼロではありません。第2に、この作品はイヤミスです。欧米ミステリ界でカテゴリとして確立しているのかどうかは、不勉強にして私は知りませんが、明らかに日本でいうところのイヤミスです。したがって、読者によっては読後感が悪いかもしれません。
ホントの最後の最後に、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)です。著者は、英国マンチェスター大学の研究者です。本書は、最初の1ページから始めて最後まで読み通す、といった通常の読書には馴染まないタイプの本で、それこそ、座右において「辞書的に」必要に応じて参照するという使い方だろうと思います。でも、アマゾンのレビューがやたらと高かったので研究費で買ってみました。私は、今の大学に再就職して毎年1本の論文を書くことを自分に課しているのですが、最初の2020年は日本語で仕上げて、その後、昨年2021年と今年2022年はともに英語で執筆しています。しかも、大学院生の修士論文指導を別にしても、通常の授業で年間2コマは英語の授業を受け持っていたりします。従って、本書のようにアカデミックなフレーズを多数収録した参考文献はとても助かります。論文を書く際には、リサーチなんて英語そのままの用語もある一方で、私は explore とか examine なんて、外来語にすら認定されていない用語もいっぱい使うわけですから、用例や用法について豊富に収録されているようで参考になりそうです。ただ、パンクチュエーションはさすがに通り一遍です。私自身の感触としては、mダッシュとnダッシュの使い分けなんて、ネイティブでも相当に教養なければ難しいと感じていますが、本書では、「一般論としては、フォーマルな学術文書の場合には使用を避け、代わりに、コロン、セミコロン、括弧などを適宜使用すること。」とされています。私でも、コロンとセミコロンの使い分けはなんとか初歩的なレベルながら理解しています。
2022年11月20日 (日) 15:00:00
今年のベスト経済書のアンケートに回答する
ある経済週刊誌から寄せられていた今年のベスト経済書アンケートですが、結局、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)をトップに上げて回答しておきました。政府が後景に退いて企業の自由な活動を前面に押し出すネオリベラルな資本主義ではなく、政府と企業がミッションを軸にコラボ=共同作業を行う経済の重要性を指摘している経済書です。ネオリベな資本主義に対するアンチテーゼとして推しておきました。もちろん、政府と企業とのコラボ=共同作業の有力な候補はSDGsの推進です。17のゴールすべてというわけにいかないとすれば、何といっても重視されるべきは人類の生存をかけた気候変動=地球温暖化の防止のために温室効果ガス排出削減、いっぱい言い換えがありますが、カーボンニュートラルだけ上げておきます。イノベーションの重視はもちろん必要なのですが、ネオリベな経済観に基づく「スタートアップ信仰」、すなわち、スタートアップがイノベーションを担うという考えは、ハッキリいって、もう過去のものであり、現在では打破されるべきと私は考えています。そして、SDGsのもうひとつとしてはジェンダー平等が経済学的に重要だと私は考えています。実証的に示すことは出来ませんし、定量的な把握は不可能ですが、女性管理職比率を無理やりでも30%に引き上げれば、我が国企業の生産性は大きく向上すると思います。
また、昨年のアンケートにこういう項目があったかどうか失念してしまったのですが、日本の進路に重要な指針を与える経済書・経営書というのがあり、大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)を強く推しておきました。冷たい=格差拡大、弱い=成長できない、から、結局、岸田内閣が腰砕けになってしまった分配の重視、ないし、成長から分配への経済の流れを戻す試みがいくつか提案されています。賃上げと社会保障の充実による所得の底上げ、また、環境重視の気候変動抑止や、ジェンダー平等の達成による成長力の強化といった方向が明確に示されています。『ミッション・エコノミー』の繰り返しになりますが、気候変動=地球温暖化の防止を政府と企業とのコラボに基づき、特殊日本の財政状況だけかもしれませんが、財源がないなら国債を発行しまくってでも、カーボンニュートラルのための技術開発を進めることによりイノベーションが大いに促進されます。そして、民間企業に強力なインセンティブを与えてでも、あるいは法的に強制してでも、ジェンダー平等に基づいて女性管理職比率を飛躍的に引き上げることができれば、我が国企業の生産性は大きく向上します。生産性が向上すれば、雇用者の賃金引上げも進むことになります。現在の岸田内閣は、企業の内部留保に着目して、外生的に賃上げを促進しようとしており、それはそれで一案と私は考えていますが、もしも、ホントに賃上げが内閣の重要課題であるなら、企業の内部留保に課税すべきです。そうではなく、まあ、何と申しましょうかで、女性の管理職比率を障害者の雇用比率と同列に論じるのは適当ではないかもしれませんが、何らかの法制度により女性の管理職比率を引き上げる制度的な改革がなされることから始め、それによる生産性引上げを賃上げに結びつける、というのも十分に実現可能性があると思います。
経済書アンケートにかこつけて、私自身の経済観、政策観を展開していしまいましたが、現在のネオリベな経済政策を打破するために、引き続き、いろんな主張を繰り返したいと思います。
2022年11月19日 (土) 09:00:00
今週の読書はウェルビーイングに関する経済書のほか計5冊
まず、山田鋭夫『ウェルビーイングの経済』(藤原書店)は、あまりウェルビーイングとは関係なく、レギュラシオン学派の観点から資本主義の先行きや調整について論じています。草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)は、やや「ユートピア的」なウェルビーイングの考え方ではないかと思えるほどですが、成長モデルからウェルビイングのモデルへの転換について論じています。瀧井一博[編]『明治史講義【グローバル研究篇】』(ちくま新書)は、明治期の日本の歴史についてグローバル・ヒストリーの視点から、黒船来航という外圧による開国、そして、アジア各国が明治期日本を参照するという歴史をひも解いています。ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(HAYAKAWA POCKET MYSTERY)は、1880年代の大英帝国の植民地であったインドを舞台にしたミステリです。最後に、ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は、ポール・オースターの別名義によるハードボイルドなミステリです。ニューヨークを舞台にしています。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先々週と先週で8冊で今週は5冊ですので、今年に入ってから210冊となりました。
まず、山田鋭夫『ウェルビーイングの経済』(藤原書店)です。著者は、名古屋大学を退縮された研究者です。本書では、レギュラシオン学派の調整理論に基づきつつ、大量生産・大量消費といったフォーディズムがどのように将来にわたってウェルビーイングな価値を重視しつつ、資本主義の調整がなされるか、に焦点を当てています。本書の構成は前編と後編にそれぞれ4章ずつを収録し、前編では内田義彦らの市民社会概念を紹介しつつ、ウェルビーイングの観点からの資本主義像を論じています。中国などの権威主義的な経済社会と市民社会が対象的に議論されます。特に、現在の岸田総理が持ち出した「新しい資本主義」については、分配が後景に退いて成長重視に回帰するとともに、賃上げや「所得倍増」ではなく試算所得の倍増に化けたのではないか、と批判しています。ただ、私の理解不足により、物質代謝については十分には判りませんでした。後編では、レギュラシオン理論に基づく資本主義の調整をテーマとしています。すなわち、資本-労働の関係では、テイラー・システムに基づく科学的管理を労働者が受け入れる一方で、労働需給による賃金決定ではなく生産性に基づく賃金が労働者に支給され、結果として、大量生産-大量消費というフォーディズムが資本主義に好循環をもたらした、というのがおそらく、1970年代の石油危機やニクソン・ショックまでのブレトン-ウッズを支えていました。それが、アマーブルのいうような多様性に富む資本主義がウェルビーイングの概念を軸に、いかに資本主義の新たな方向性として目指されるのか、について議論を展開しています。おそらく、私の目から見て、次の草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』と同じで、自由かつ格差が小さいという意味での平等が実現され、さらに、ウェルビーイングな経済社会を、少なくとも短期間で構築することは、ユートピア的・空想的であって、それほど現実性は大きくないと考えるべきです。他方で、こういった大きな方向性について、多様な資本主義の累計を念頭に置きつつ議論することは、単なる「頭の体操」を超えて、現在の日本経済を始めとするいわゆる「閉塞感」、あるいは、欧米経済学のコンテクストでいえば、「長期不況」secular stagnationからの方向転換を考える上でとても重要です。ただ、難点をいえば、内容が難しいです。やや専門外であるとはいえ、私には「物質代謝」を含めて、理解が及ばない点がいくつかありました。一般ビジネスパーソンには難解に過ぎる可能性は指摘しておく必要がありそうです。
次に、草郷孝好『ウェルビーイングな社会をつくる』(明石書店)です。著者は、関西大学の社会学部の教授です。本書では、国連のSDGsなどを引用しつつ、p.40で示した利益拡大の競争社会である経済成長モデル、現在のモデルから、p.115で示している循環型共生社会であるウェルビーイングモデルへの転換について考えています。基本的な方向性としては私は大賛成であって、まったく異論ありません。ただ、2点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、一時期にせよ成功していたように見える経済成長モデルがどうしてダメになったのかについては説明を要します。経済成長モデルが経済的格差を構造的に生じさせ、社会的な分断をもたらし、現時点でこのままではよろしくない、というのは、百歩譲っていいとしても、高度成長期の1950-60年代くらいまではこの経済成長モデルで日本だけでなく多くの先進国が成功してきたわけであり、21世紀に入った現時点で、どうしてダメになったのかについては、こういったステレオタイプの紋切り型ではなく、もう少していねいな説明がほしい気がします。第2に、ではウェルビーイングモデルをどう実現するか、については水俣市と長久手市の例が示されているだけで、どこまで一般性あるのか、はなはだ疑問です。当事者主体の地域協働を醸成するための6つのポイントがp.172に上げられていますが、後に、リーダーの存在の必要性などが述べられているとしても、はなはだ不親切であると私の目に映ります。ウェルビーイングについては所得と幸福度の関係についてイースタリンのパラドックスを展開したり、あるいは、センやヌスバウムらの潜在能力アプローチ、あるいは、ヘリウェル-サックスなどの幸福度に関する計測の研究、などなど、しっかりとした理論的な基礎があるだけに、方法論があまりにも貧弱と感じてしまいます。まあ、マルクス主義的な暴力革命からプロレタリアート独裁というのも乱暴な方法論だと大学生のころに感じた記憶はあるものの、本書はどうも科学的な観点が少し不足する「ユートピア的あるいは空想的ウェルビーイング理論」のような気がします。もっとも、現状の幸福度やウェルビーイングの研究はほぼほぼすべてこういった水準にとどまっているのも事実です。ひょっとしたら、経済学以上に未熟な科学なのかもしれません。逆に、私自身はウェルビーイングなモデルを大いに支持していますので、今後の学術的、科学的な発展を期待します。大いに期待します。
次に、瀧井一博[編]『明治史講義【グローバル研究篇】』(ちくま新書)です。編者は、国際日本文化研究センター(日文研)の研究者です。本書は、2018年に明治維新150年を記に開催されたシンポジウムの報告から構成されています。なお、同様の出版物として、同じちくま新書から【テーマ篇】と【人物篇】はシンポジウム直後の2018年に刊行されていますが、なぜか、本書【グローバル研究篇】だけは4年遅れでの出版となっています。私も役所の研究所に勤務していたころにこういったコンファレンスの出版を担当した記憶がありますが、私の担当で大きく出版が遅れたのは最終稿の確認が、おそらくたった1人のために、遅れに遅れたことが原因であったと覚えています。それはともかく、本書では内外の16人の報告を収録しています。出版社のサイトに各報告のタイトルが示されています。大雑把にいって、私の理解として、国家近代化として捉えるべき明治期の日本については、その出発点である明治維新がいわゆる外圧、すなわち、象徴的にはペリー提督による黒船来航によってもたらされ、そして、明治期の日本での国家建設がアジアをはじめとする当時の途上国によって参照された、というのが明治期の歴史をグローバル・ヒストリーの中で位置づけるひとつの視点ではなかろうか、と考えています。明治期の歴史の最終的な仕上げのひとつのエポックは日露戦争であり、日本が大国ロシアに勝利したという事実により、当時の途上国から国家の発展モデルとして大いに注目を集めたことは容易に想像できるかと思います。特に、当時の清-中国あるいは台湾や朝鮮といった近隣諸国への影響は無視し得ないものであったと想像しています。本書では、さらに範囲を広げて、タイ、ベトナム、トルコといった国への影響も報告されています。本書のまったくのスコープ外ながら、私が同様に日本の歴史的な発展がアジアをはじめとする途上国のモデルとなったのは1950-60年代の高度成長期であったと考えています。逆に、20世紀なかば以降の戦後の世界経済において、いわゆる経済開発に成功して先進国の仲間入りをしたのは日本モデル以外には、現時点では、ないものと考えています。韓国についてはかなりの程度に日本モデルを採用して経済開発が進められました。ただ、中国が日本モデル以外の新たな経済発展モデルとなるかどうかは、大いに注目です。激しく脱線しましたが、明治期の日本をグローバル・ヒストリーの視野で捉えるとすれば、国家の近代化≈西洋化の際の発展モデルであろうと私は考えます。そして、本書はそういった明治史について、さまざまな観点を提供してくれます。
次に、ネヴ・マーチ『ボンベイのシャーロック』(HAYAKAWA POCKET MYSTERY)です。著者は、インド生まれで現在は米国在住のミステリ作家です。英語の原題は Murder in Old Bombay であり、2020年の出版でこの作品は作者のデビュー作で、そして、米国探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の最優秀新人賞にノミネートされています。ということで、舞台は1892年のインドのボンベイ、今でいうところのムンバイです。インドは大英帝国の植民地として発展を遂げており、時代はまさにシャーロック・ホームズの活躍したビクトリア時代です。主人公はインド人女性と英国人男性の混血として生を受けていますが、父親は不明で、姓はインド系、しかも、カースト最上位のバラモンである一方で、名はジェームズ(ジム)と名付けられています。軍人として大尉まで務めましたが、30歳にして傷痍退役し新聞社に勤務します。そして、数か月前にボンベイで話題となった2人の裕福な若い女性の時計塔からの転落死事件について、その被害者の1人である女性の夫から調査依頼を受けます。被害者やその夫はパールシーです。すなわち、ペルシャ系のゾロアスター教徒であり、同じ宗教の信者としか結婚しません。ということで、主人公が謎解きに挑み、もちろん、成功するのですが、とてもびっくりするような謎でした。ハッキリいって、どうもあり得ないような解決だと私は考えます。一応、何と申しましょうかで、莫理斯(トレヴァー モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』がとてもよかったので、同じような本ということで借りてみましたが、決してオススメしません。かなりのボリュームある長編ですし、解決は現代の日本人には想像できないような内容です。しかもしかもで、パールシーの結婚観に触れておきましたが、女性に対する興味を示さなかった本家のホームズと違って、この作品の主人公の探偵役は、たぶん、ヒンデュー教徒であるにもかかわらず、パールシーの女性に対して求婚したりします。捜査方法もどこまでホームズを参考にしているのかは不明です。少なくとも、『辮髪のシャーロック・ホームズ』で組織されていたベイカー街イレギュラーズを模した少年たちは登場しません。ただ、米国での評価はそれなりですし、ミステリとしては謎解きの妙は味わえます。評価はビミョーなところです。
最後に、ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』(新潮文庫)です。著者は、米国の作家なのですが、通常は、ポール・オースターとして理解されている作家であり、本書は別名義で執筆しています。英語の原題は Sueeze Play であり、本書巻末の主要著作リストに従えば、何と40年前の1982年の出版ながら、本邦初訳だそうです。ペーパーバック出版の1984年の翌1985年には米国私立探偵作家クラブによるシェイマス賞最優秀ペーパーバック賞を受賞しています。ということで、主人公はニューヨークの私立探偵なのですが、米国東部アイビーリーグの名門校を卒業し、州の検事局を最近辞職しています。そして、この探偵への依頼者は、これまた、アイビーリーグの名門校出身で5年前まで大リーグのスタープレイヤーであって、キャリアの絶頂期に交通事故で片足を失いながらも、今は政治家として注目され、州上院議員に民主党から立候補するとウワサされている人物です。その依頼者が殺意すら匂わせている脅迫状を受け取り、探偵に事実調査を依頼します。いろいろと調査を進めているうちに、実に、その依頼人は実際に毒殺されてしまいます。ほかにも、死者がいっぱい出ます。作風としては、いわゆるハードボイルドであって、私は大好きです。謎解きについては、今となってはそれほど目新しさもなく、ありきたりな気もします。ミステリですので、これ以上は詳細について触れず、どうでもいい脱線をいくつか書いておくと、第1に、タイトルの「スクイズ・プレー」はまさに、野球、特に、高校野球でよく見かけるスクイズそのものを指しています。主人公の探偵が離婚した妻といっしょに暮らしている9歳の息子と大リーグの試合観戦に行って、日本でいうところのツーラン・スクイズ、すなわち、3塁走者だけではなく2塁走者もホームに生還するスクイズからヒントを得て事件を解決に導きます。なお、私がスクイズ・プレーのある競技として知っているのは、野球のほかはコントラクト・ブリッジだけです。第2に、サム・スペード、リュウ・アーチャー、フィリップ・マーロウというハードボイルド御三家ともいえる探偵は3人とも西海岸カリフォルニアで活動しているのですが、私はハードボイルドにはニューヨークが似合うと常々考えています。本書ではハードボイルド探偵はニューヨークを舞台に事件解決を成し遂げます。その意味でも、いい読書でした。
2022年11月12日 (土) 09:00:00
今週の読書は中国に関する経済書のほか計3冊にとどまる
まず、李立栄『中国のシャドーバンキング』(早稲田大学出版部エウプラクシス叢書)はタイトル通り、中国のシャドーバンキングを3分類してその活動の規模や規制当局の方向性などについて取りまとめています。宮本弘曉『51のデータが明かす日本経済の構造』(PHP新書)では、日本の賃金が上がらない理由について、極めて陳腐にも、生産性と結びつけた上で労働の流動性を促すといった的外れな議論がなされているように見えます。小谷賢『日本インテリジェンス史』(中公新書)は戦後日本のインテリジェンス史を概観し、いくつかの興味深い事件についてその裏側を解説しようと試みています。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週5冊で今週は3冊ですので、今年に入ってから205冊となりました。また、本日の読書感想文で取り上げる以下の3冊のほかに、今週は太田愛『天上の葦』上下(角川文庫)を読んでいます。新刊書読書ではありませんから、別途、Facebookでシェアしたいと思います。さすがに、『ハヤブサ消防団』と『嫌いなら呼ぶなよ』はなかなか図書館の順番が回ってきません。
まず、李立栄『中国のシャドーバンキング』(早稲田大学出版部エウプラクシス叢書)です。著者は、亜細亜大学の研究者であり、本書は著者が早稲田大学に提出した博士学位請求論文が基になっています。タイトル通りに中国における銀行ならざる金融仲介業を営むシャドーバンキングを分析しています。ただ、博士学位請求論文にしては、仮説の提示とその検証という学術論文ではなく、基本的に、中国のシャドーバンキングに関する情報を網羅的に収集した上で整理しています。ですから、というか、逆に、難解な計量分析などは少なく、一般ビジネスパーソンにも判りやすい内容になっている気がします。ということで、中国におけるシャドーバンキング業者をSB①、SB②、SB③の3種類に分類し、分析を進めています。p.20に簡単に分類が示されていますが、少し詳しく見ると、第1に、SB①については米国のシャドーバンキングや日本のいわゆるノンバンクと同じように、規制当局の監督対象となり、米国ではMMF、あるいは、日本の信託会社や証券会社、保険会社やファンド会社などが該当します。主たる業務は銀行の貸出債権をオフバランス化して理財商品に転換することですから、満期転換機能や流動性転換機能などを発揮します。ただし、預金を受け入れる銀行よりも当局からの規制は緩やかとなっています。第2に、SB②は中国の金融システムが近代化される前から存在する投資組合や質屋などの伝統的な個人間貸借から派生した業態です。そして、第3に、SB③はSB②の逆で超近代的、というか、フィンテックを活用した業態であり、P2Pレンディング、クラウドファンディングなどが該当します。そして、これらの業態ごとに、規模、特徴、性質、金融における役割、などが分析されていますが、SB②とSB③については、本書ではしばしばいっしょくたに議論されている恨みはあります。読ませどころは後半の第5章の潜在的なリスクの分析、さらに、第6章の規制当局の対応に関する現状分析と今後の方向性、などが私には大いに参考になりました。特に、SB②への規制については、その昔の日本における消費者金融の金利上限規制を思わせるものがありましたし、SB③については、逆に、過剰な規制がフィンテック企業の成長を阻害しかねない危惧が示されています。まあ、日本でも同じなのでしょう。米国との比較などは理解を進める点で役立っています。最後に、著者の中国語に関する語学力が大いに生かされています。私はやや専門外なのですが、それでも、これだけの情報に接することが出来るのは有り難く感じます。研究だけでなく、通常のビジネスにも役立てられそうな気がします。ただ、難点を上げれば、シャドーバンキングをシャドーバンキングとして分析しています。すなわち、シャドーバンキングをほかの経済活動との関係性から理解しようとはしていません。ですから、日本でも米国でもシャドーバンキングでは土地や不動産との関係が深く、中国でも同じなわけですので、シャドーバンキングを単なる金融業として分析するだけではなく、不動産との関係でもう少し深く掘り下げて欲しかった気もします。銀行やシャドーバンキングが単独で金融危機を引き起こすことは稀ではないでしょうか。
次に、宮本弘曉『51のデータが明かす日本経済の構造』(PHP新書)です。著者は、東京都立大学の研究者なのですが、労働経済がご専門と記憶しています。私が役所にいたころにコンファレンスに来ていただいた記憶があります。ということで、賃金や雇用を切り口にして、賃金が下落し続ける日本経済の現状について、その原因を国民が平等に貧しくなる「未熟な資本主義」に求めて、いくつかの、というか、51のデータから解き明かそうと試みています。ただ、結論を先取りすれば、典型的な主流派エコノミストと同じで、個別の労働者の生産性が上がらないから賃金が上がらない、という極めてありきたりな結論で終わっています。この点は残念です。章立ては、物価、賃金、企業経営と労働、そして、「未熟な資本主義」を脱却する方法、と4章構成です。日本経済が低迷し低賃金が継続しているのは、一言でいえば、p.12にあるように、企業が安価な非正規社員や技能実習生などの人件費の安い外国人労働力に頼り、「また、デジタル化などの必要な投資を怠った結果であり、そのために、生産性が低下した、と結論しています。そして、賃金上昇のためには量的な人で不足や失業率の低下などではなく、労働市場の構造的な問題の解決が必要とし、長期雇用や年功賃金といった硬直的な雇用慣行を改革し、労働市場の流動化の必要性を唱えています。しかし、同時に、賃上げが進まない背景として労働組合の役割の低下も視野に入れています。まあ、私から見ればガッカリというしかありません。長期雇用や年功賃金といった「硬直的」な雇用システムを流動化させて、派遣雇用の適用範囲を広くし、安価な外国人労働者を技能実習生という名目で入国させたりして、雇用の流動化をここまで進めたために賃金が上がらない、という現実がまったく見えていないようです。こういった本書のような論調を持ち上げて、非正規雇用の拡大に歯止めをかけなければ、賃金はさらに下落を続ける可能性すらあります。
最後に、小谷賢『日本インテリジェンス史』(中公新書)です。著者は、日本大学の研究者です。本書の内容はタイトル通りなのですが、ここで、インテリジェンスとは、インフォメーションの情報という中立的な用語ではなく、諜報とか、機密の印象に近く、国家の政策決定のための、特に、安全保障上の情報という意味で使われています。そして、その歴史は本書では終戦後から始めています。ただし、戦前・戦中のインテリジェンス活動にも軽く触れており、交換評価されているほど日本政府や軍はインテリジェンスを軽視していたわけではなかった、と評価しています。実は、私も同じような考えを持っていて、戦前・戦中もインテリジェンス活動はそこそこ行われていて、それが軽視されていた、とする方がホントのインテリジェンス活動には有利だからなのだろう、と解釈しています。ということで、占領期のインテリジェンス活動、組織の創設から始まって、やっぱり、読ませどころはソ連崩壊までの冷戦期のインテリジェンス活動史であることは明らかです。結局、モノにならかった秘密保護法制、ソ連のスパイ事件、ソ連からのベレンコ亡命事件、KAL機の撃墜事件、などなど、私でも聞いたことがあるくらいのエポックをなす出来事について詳しく解説されています。そして、さいごは、第2時安倍内閣での特定機密保護法、国家安全保障会議(NSC)と国家安全保障局(NSS)の創設と活動、米英などとの連携、などなど、これまた、エポックとなるイベントを網羅しています。分析や記述対象がインテリジェンス活動ですから、どこまで明らかにできるか、明らかにするべきか、といった議論はあるとしても、国民の支持がなければこういった活動は成り立ちませんから、少しタイミングが遅れてもかまわないので、インテリジェンス活動についても情報開示が進むことを願っています。
2022年11月07日 (月) 16:00:00
ふたたび、今年のベスト経済書やいかに?
今日のところは、3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、文化の日11月3日に私が10冊リストアップした中で、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)が漏れていました。米国1960年代の「アポロ計画」を引き合いに出して、政府と企業がミッションを軸にコラボ=共同作業を行う経済の重要性を指摘しています。送られてきたアンケートの候補書リストを見て、私がこれを忘れていた点に気付かされました。この本は、私の見方からすれば、文句なく今年の経済書トップテンに入るべきです。第2に、候補書リストを見て、ダニエル・カーネマンほか『NOISE』(早川書房)を、私はまだ読んでいない点に気づきました。早速に、大学の図書館で借りました。第3に、前回のポストの直後に、日経・経済図書文化賞が明らかにされ、長岡貞男『発明の経済学』(日本評論社)ほか全5冊に授与されています。少なくとも、この5冊のうち、『発明の経済学』と渡辺努『物価とは何か』(講談社)は私は読んでいます。でも、10冊には入れませんでした。それはそれで、私の考え方です。
最後に、さて、どれをベスト経済書に回答しようかと迷っていると、何と、私が昨年のアンケートに回答した野口旭先生の『反緊縮の経済学』(東洋経済)が候補書リストに入っていました。しかも、「半緊縮の経済学」と間違ったタイトルになっています。改めてこの本の奥付を見ると、2021年8月19日発行となっていて、私は出版直後の9月11日付けの読書感想文ブログで取り上げています。ホントに今年2022年の候補書リストに入れていいのかしらん、でも、許されるなら今年ももう一度、この本で出してみようかしらん、と考えないでもありません。
2022年11月05日 (土) 08:30:00
今週の読書はゲーム論の入門的な解説書をはじめ計5冊
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~10月に66冊と少し跳ねて、10月には25冊、11月に入って第1週の今週は5冊ですので、今年に入ってから202冊となりました。200冊に達したから、というわけでもないのですが、少し経済書をお休みしようかなと考えないでもありません。ミステリを中心とした小説が図書館の予約で届き始めています。今週も2冊が海外ミステリなのですが、こういった読書も進めたいと思っています。
まず、岡田章『ゲーム理論の見方・考え方』(勁草書房)です。著者は、一橋大学の名誉教授です。本書は、『経済セミナー』2022年10・11月号の新刊書紹介で書評が掲載されていましたので、大学の図書館で借りて読んでみました。冒頭に著者が「ゲーム理論の入門的な解説書」と書いているように、ゲーム理論について私のようなシロートでも判りやすく解説してくれています。一般の経済社会で見られるような実例も豊富に取り入れられています。9章構成なのですが、前半のいくつかの章では、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済行動』から始まるゲーム理論の歴史について、実際のエピソードなどとともに簡単に取り上げています。さらに、そもそも、ゲーム理論とはどういった学問分野であるか、とか、意思決定や効用あるいは利得の考え方なども解説されています。私の解釈では、マイクロな経済学ではすでに基数的な効用という考え方は捨てられているのですが、マクロ経済学では国民所得やGDPといった基数的な計算が用いられていますし、マイクロな経済学の中でもゲーム理論だけは利得=ゲインという考え方で基数的な効用を考えているのではないかと、専門外ながら、受け止めています。もちろん、「社会とは、ルールを守りながら自分の価値や利益を求める人びとがプレイするゲームである。」わけですから、経済に限定せずにさまざまな分野での応用が可能ですし、特に、経済学では成長よりも分配との親和性が高いと私は考えています。また、最近、私は開発経済学のセミナーに参加したのですが、第6章p.151から3人非対称ゲームを取り上げて、コアが存在するゲームは限界生産性が逓増する経済に対応し、存在しないゲームでは逓減する経済に対応する、とされていて、開発初期の段階、日本では高度成長期の時期、また、開発を終えた成熟経済の現在に分析可能だとされていて、それなりに勉強になりました。最後に、基本的に入門的な解説書ですので、それほど複雑な理論は取り上げておらず、例えば、限定合理性などについてももう少し詳細な解説が欲しかった気がしますが、これくらいのボリュームの本で、入門的な解説といえども、ゲーム理論を網羅的に取り上げるのはムリなのか、と考えざるを得ません。出版社こそ、学術書が多い印象ですが、決してそう難しくはありません。その一方で、ここ10年くらいのある程度最新の専門論文にも言及があり、たぶん、それなりの専門知識あるエコノミストでも十分満足できる読書が楽しめるのではないか、という気がします。
次に、夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書)です。著者は、いろんな肩書があるのですが、基本的に経営・金融コンサルタントではないか、と思います。本書では、基本的なメッセージとして、機関投資家がESG投資をはじめとしてサステイナブル経済に目覚め始めている現状では、マルクス主義的な社会変革や、あるいは、脱成長による環境負荷軽減に頼らずとも、機関投資家から経営者層に投資の結果としての気候変動=地球温暖化の抑制、あるいは、サステイナビリティへの配慮というシグナルを送れば、その方向でのイノベーションが促進され、成長を維持したままで環境負荷軽減というデカップリングが成立する可能性が大いにある、ということです。長くなりましたが、そういうことです。もう少し詳しく敷衍すれば、環境破壊や環境負荷の増大は、基本的に、資本主義的な経済成長や人口増加からもたらされ、さらに、その大本は強欲で利潤最大化を目的とする19世紀的な資本家の経済活動が根本原因である、という認識が基本にあります。ですから、マルクス主義的な社会変革、あるいは、そこまでいかなくても、何らかの資本主義的な経済活動を規制する脱成長が必要、という認識が広がっていたわけです。しかし、本書では、Glasgow Financial Alliance for Net Zero=GFANZ という機関投資家の活動を紹介しつつ、機関投資家が投資対象企業の経営者にサステイナビリティへの配慮を促すシグナルを送り、経営者がそのためのイノベーションに励むことにより、成長や人口増加と環境負荷増大は絶対的にデカップリングされる、という仮説を提唱しています。繰り返しになりますが、確認された事実を提示しているわけではなく、私はあくまで、本書では仮説を提唱していると受け止めています。ですから、実証の一例として、高収益なESG投資を上げています。専門外の私でも、ESG投資などのサステイナビリティを重視する投資がハイリターンを上げている実証研究が出始めていることは知っています。もちろん、疑問が残らないでもありません。この仮説が成立するには5点の実証的な確認とリンケージが必要です。第1に、ホントにサステイナビリティ重視の投資がハイリターンであるかどうか、第2に機関投資家がそれに気づくかどうか、第3に企業が機関投資家の意向に沿った経営をするかどうか、第4に経営者がサステイナビリティを重視する経営の方向性を決めたとしても実際に環境負荷軽減のイノベーションが可能かどうか、第5にこれらのイノベーションによって経済成長や人口増加と環境負荷軽減が絶対的にでカップリングされるかどうか、の5点となります。もちろん、可能性としては、大いにあると思いますが、第1の点については先進国では実証的に確認されている一方で、途上国や新興国ではどうなのでしょうか。特に、中国の動向が気がかりなのは、私だけではないと思います。この5点がすべて満たされないと、本書のデカップリング仮説は成り立ちません。発明のO-ring理論みたいで、関数はかけ算で示されて、ひとつでも失敗でゼロなら結果もゼロなわけです。ですから、単なるグリーンウォッシュにならないように願っています。
次に、レジー『ファスト教養』(集英社新書)です。著者は、一般企業に勤務しつつのライター・ブロガーというようです。本書について論じる前に、軽く前口上を述べておくと、今年6月25日の読書感想文ブログで稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を取り上げましたが、本書でも同じ視点を提供しています。すなわち、本書では、教養がビジネスに直結し、金銭的な利益をもたらす現状の教養欲求について、やや否定的な見方を提供しています。例えば、第5章のタイトルは「文化を侵食するファスト教養」となっていたりします。他方で、本書でも、何も教養的な活動をしないよりはマシ、という視点も示されています。私は、以前の麻生副総理的な表現ですが「民度」について同時に考えるべきではないか、と受け止めています。というのは、岸田総理が今国会冒頭の所信表明演説で用いた「リスキリング」≅学び直し、の反対の言葉として熟練崩壊を使う場合があります。現在の日本では非正規雇用という雇用形態の拡大や賃金上昇の抑制などから、マクロでスキルの低下や、さらに、熟練の崩壊が生じている可能性があります。進んで、こういった経済の下部構造をなす雇用の劣化から、教養や文化活動の劣化につながる「民度の低下」が生じている可能性を憂慮しています。日本人は、その昔から、手先が器用だとか、まじめな性格の人が多いとか、時間に正確であるとか、いろいろと労働者として高い生産性を持つ可能性を示唆する特徴を指摘されてきています。今でも、「日本人スゴイ」論とか、「日本スゴイ」論を取り上げる書籍やテレビ番組が少なくないのは広く知られているところです。他方で、賃金が上がらない理由として、私の目から見て完全な需要不足であるにもかかわらず、生産性が低い点を根拠にする議論も見かけます。スキルと生産性が需要不足によって乖離しているわけです。しかし、この賃金が抑制されていたり、あるいは、かなりの部分が重なりますが、非正規雇用が広がっていたりするために、日本人の「民度」が大きく低下し、この雇用という下部構造が文化や教養といった上部構造の歪みをもたらしている可能性がある、と私は考えているわけです。私の憂慮が杞憂に終わることを願っていますが、私の年齢では見届けられない可能性があるのが心残りです。
次に、ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。英語の原題は A Good Girl's Guide to Murder であり、2019年の出版です。主人公は、高校最終学年のJKであるピッパ(ピップ)で、英国のグラマー・スクールに通っていますから、日本では進学校の高校といったところです。事実、本書の最後の方で、主人公はケンブリッジ大学への入学を許可されたりしています。ということで、主人公が大学入学のひとつの参考資料となる自由研究で、自分の住む街で5年前に起きたJK失踪事件をリサーチするところから始まります。5年前に失踪したJKはあ同じグラマー・スクールに通っていましたので、まあ、数年先輩に当たるわけです。この失踪事件は、被害者の死体が発見されないながらも殺人事件ということで処理され、被害者の同級生、アルイハ、ボーイフレンドが犯人と目されますが、その同級生は事件直後に自殺します。主人公のJK箱の戸津急性は犯人ではない可能性がある、と考えて調査を始めるわけですが、途中からこの犯人と目された同級生の弟が調査に加わります。関係者へのインタビューから始まって、調査を続けるうちに、動機があったり、アリバイがなかったり、次々と新たな容疑者が浮かび上がります。通常のインタビューだけでなく、なりすましの電話で情報を引き出したり、いくつか倫理的に許容されなさそうな手法で調査を続け、最後に、結論にたどり着きます。もちろん、英国のことですから、高校生であっても、ドラッグや、ポルノまがいの写真や、もちろん、人種差別なんかも出て来ます。日本の読者には名前から人種を想像するのが難しい嫌いはありますが、何となく差別される側であることは理解できるような気もします。そして、あくまで主人公のJKは強気に調査を進めるわけです。最後は、衝撃の結末では決してなく、それなりに論理的なエンディングなので安心できます。ただ、耳慣れな名前が続々と登場しますので、その点だけは混乱する読者もいるかも知れません。他方で、文庫本で600ページ近いボリュームですが、途中で放棄する読者は少ないと思います。なお、続編で同じ主人公の『優等生は探偵に向かない』も図書館に予約を入れてあります。
最後に、ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの采配』(創元推理文庫)です。著者は、英国生まれのけると学者であり、ミステリ小説も数多く執筆しています。英語の原題は Whispers of the Dead であり、2004年の出版です。ただし、原書の15話から5話だけを収録した短編集です。7世紀のアイルランドを舞台にして、タイトル通りに、修道女フィデルマが主人公となるミステリです。英語の原書はいっぱい出ていますし、邦訳も原書の半分までは行きませんが、相当数出ています。私も何冊か読んでいます。というか、大部分読んでいる気がします。私の場合、このシリーズは、エリス・ピーターズ作品の「修道士カドフェル」のシリーズとともに愛読しています。ノルマン・コンクェストの直後の12世紀前半のイングランドを舞台にした「修道士カドフェル」のシリーズは20巻ほどあって、私は全部読んでいると思います。ということで、フィデルマの活躍する7世紀アイルランドは、当時としてはかなりの先進国の仲間であり、法秩序のしっかりと安定した時代と考えてよさそうです。その次代と地理的な背景で、フィデルマはアイルランドにいくつか並立している王国の王の妹という高い身分で、しかも、法廷弁護士にして裁判官の資格を持つ修道女です。本書でも、アイルランドの各地を巡って難事件を解決するとともに、別の本では、キリスト教の総本山であるローマに出向いたこともあると記憶しています。まあ、ラテン語を理解すれば、現在の英語以上に、当時のキリスト教国では広く理解された国際語だったのでしょうから、特段の不便はなかった、ということなのだろうと私は理解しています。繰り返しになりますが、収録されている短編は5話であり、占星術で自ら占った通りに殺された修道士をめぐる事件で訴追された修道院長の無実を明らかにする「みずからの殺害を予言した占星術師」のほか、「魚泥棒は誰だ」、「養い親」、「「狼だ!」」、「法定推定相続人」の計5話となります。ブレホンとか、ドーリィーとか、耳慣れない用語がありますが、ミステリとしては一級品だと思います。このシリーズがさらに出版されれば、私は読みたいと考えています。
2022年11月03日 (木) 11:00:00
今年のベスト経済書やいかに?
![オリヴィエ・ブランシャール & ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶応義塾大学出版会) photo](https://blog-imgs-15-origin.fc2.com/p/o/k/pokemon/dummy.gif)
昨日から11月に入って、そろそろ、経済週刊誌から今年のベスト経済書に関するアンケートが送られてくる季節になっています。昨年は、私は野口旭先生の『反緊縮の経済学』(東洋経済)を推して、確か、この本自体がまったく上位に入らなかった記憶があります。昨年は『監視資本主義』なんかが流行ったんではなかったでしょうか?
今年の読書感想文ブログを振り返って、以下の10冊が私のチョイスとなります。なお、10冊といいながら、実は11冊リストアップしてあるのですが、最後のスティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』については、心理学の要素が強くて経済書ではないのではないか、という観点からオマケで付け加えてあります。
- オリヴィエ・ブランシャール & ダニ・ロドリック[編]『格差と闘え』(慶応義塾大学出版会)
- 福田慎一[編]『コロナ時代の日本経済』(東京大学出版会)
- ヤニス・バルファキス『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(講談社)
- ロバート・スキデルスキー『経済学のどこが問題なのか』(名古屋大学出版会)
- チャールズ・グッドハート & マノジ・プラダン『人口大逆転』(日本経済新聞出版)
- カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社)
- ペリー・メーリング『21世紀のロンバード街』(東洋経済)
- 岩田規久男『資本主義経済の未来』(夕日書房)
- 小林光・岩田一政『カーボンニュートラルの経済学』(日本経済新聞出版)
- 大門実紀史『やさしく強い経済』(新日本出版社)
- スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』上下(草思社)
まあ、『格差と闘え』で決まりなのかという気はします。
逆に、以下の2冊は、何人かのエコノミストは選定すると思いますが、私が読んだ中では、やや的外れな印象を持った2冊といえます。これは、単なるご参考です。
- 中曽宏『最後の防衛線』(日本経済新聞出版)
- 河野龍太郎『成長の臨界』(慶應義塾大学出版会)
世間一般は文化の日のお休みながら、私は祝日授業日ですので出勤しています。軽く読書感想文のブログに分類しておきます。
2022年10月29日 (土) 09:00:00
今週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで19冊、今週が6冊ですので、今年に入ってから197冊となりました。200冊に達するのにカウントダウンに入った気がします。カウントダウンに入ったから、というわけでもないのですが、少し経済書をお休みして、ミステリを中心とした小説が図書館の予約で届き始めています。少しコチラの方の読書も進めたいと思います。
まず、ダニエル・ミラー『消費はなにを変えるのか』(法政大学出版局)です。著者は、英国のユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の人類学の研究者です。英語の原題は Consumption and Its Consequences であり、2012年の出版です。出版社から受ける印象ほどには学術書ではありません。ビジネスパーソンにも十分理解できると私は考えています。ということで、繰り返しになりますが、著者は人類学者であって、エコノミスト=経済学者ではありません。ですから、消費について考えるにしても、経済学的な観点よりも、人類学的な観点から分析しているのはいうまでもありません。経済学的には、おそらく、マイクロな経済学では個人ないし家計が予算制約下で効用を最大化するように市場において消費財を選択する、というだけで終わりかもしれません。しかし、実際に、一般的に「消費」という用語を用いる際には、市場での選択ではなく、辞書的な意味で、「費やしてなくすること。つかいつくすこと。」といった使い方をするのではないでしょうか。本書では、まさにそういった消費を考えています。実は、経済学でも基本は同じです。家計は効用を最大化し、企業は利潤を最大化するという目的で行動しています。他方で、政府の経済運営の目的はマクロ経済の安定化だったりするわけですが、マイクロな経済においては、将来に渡る消費の現在割引価値を最大化することがひとつの目的とされています。迂回生産のための投資は、あくまで、その後の消費の最大化のためです。ただ、この消費の中身を経済学がややおろそかに扱ってきたという批判は、まあ、あり得るような気がします。私が読んだ限りでは、最初と最後のクリス、グレース、マイクの3人による会話、特に、最後の気候変動=地球環境問題と消費に関する議論については、ほとんど理解できなかったのですが、フィールドワークから得られたトリニダード島の消費社会、著者のホームグラウンドであるロンドンでのショッピング、ブルージーンズが消費者に好んで買われる理由の考察など、とても示唆に富んでいます。購入した後の使用についての文化的、あるいは、人類学的な分析、もちろん、購入する前の検討段階での経済学的ならざる分析などなど、加えて、購入されたものがマイクロに使われるだけではなく、マクロ社会の中でいかに文化を作り出してゆくものなのか、私のような底の浅いエコノミストにはとても勉強になりました。経済学では、あくまで市場における交換、あるいは、取引を考えるのですが、その背景にある何らかの財に対する欲求とか、そして、その購入された財がどのように使われるのか、そして、その使われ方の理由は何なのか、興味は尽きません。ただ、2点だけ指摘しておくと、経済学的な観点からは消費財は耐久性に応じて3分類されます。すなわち、食料などのすぐに使い尽くす非耐久財、衣類など一定期間はもつ半耐久財、かなり長期にわたる効用をもたらす耐久財の3累計です。この分類は人類学的に有効な分類なのかどうか、知りたかった気がします。加えて、同じことのように見えますが、財だけではなくサービスについての消費をどうみるべきなのか、本書ではスコープ外に置いているような気がします。実は、この著者の前作は『モノ』 Stuff であり、サービスがどこまで考慮されているかが不安な気がします。すなわち、現代社会の消費であれば、モノを買うよりもサービスに費やす比率の方が高いケースも少なくなく、また、古典的なサービスである理美容とかはファッションとの関係で文化的行動であると私は考えます。でも、こういった点を別にしても、消費に対するとても有益な読書でした。
次に、水越康介『応援消費』(岩波新書)です。著者は、東京都立大学の研究者であり、専門はマーケティング論です。ですから、本書では消費についてマーケティングの観点から分析していますが、その消費の中で、応援消費に付いて焦点を当てています。ということで、応援消費は本書によれば2011年の東日本大震災の後に東北地方に対する応援目的で始まった、と指摘しています。逆に、1995年の阪神・淡路大震災においては応援消費は生まれなかった、ということです。この応援消費の対象は、震災の被災地から始まって、好きなブランドはもちろん、推しのアイドルなどに及びます。『推し、燃ゆ』の世界かもしれません。また、本書のスコープ外ながら、私が時折チェックしているニッセイ基礎研究所のリポートでも、「おひさしぶり消費」とか、「はじめまして消費」といった耳慣れない消費が現れているようです。このリポートでは「推し活とステイホームは相性が良かった」と分析していたりします。こういった新しい、かどうかは別にして、消費の中でも、本書では応援消費が個人の購買力の向かう先のひとつとして注目しているわけです。そして、本書では、まあ、データがないので仕方ないとは思いますが、実際の市場における消費の中の応援消費ではなく、地方自治体に対する「ふるさと納税」を主として分析しています。ちょっと違う気がするのは、私だけではないと思います。でも、著者の専門分野らしく、マーケティングをいかに応援消費に結びつけるか、特に、欧米的な寄付文化が十分に育っていない日本社会における応援消費を、倫理的な意味でも、マーケティング手法を用いつつ広げることは決して理由のないことではない、と私も思います。特に、推しのアイドルなどではなく社会的責任を果たそうという消費は何らかの推進力が必要な場合がありそうな気がします。いわゆるボイコットの反対概念である「バイコット」も同じです。日本におけるバイコットについてネット調査をしている分析も本書に収録されています。最後の方で、マーケティングの統治性を持ち出して、英米的な新自由主義=ネオリベとドイツ的なオルド民主主義を対比させているのは、私の理解が及びませんが、決してマーケティングの対象にはならないものの、新自由主義=ネオリベとオルド民主主義を対比させるのではなく、消費に対比するに投資を考えるのも理解がはかどるような気がします。すなわち、投資の分野では、すでに明らなように、ESG投資という概念がかなりの程度に確立していて、すかも、ESG投資はパフォーマンスがいいという実証分析結果もいくつか出始めています。応援消費の場合は、まあ、印象だけかもしれませんが、やや価格競争力の面からは劣位にある可能性ある商品を「応援」の目的で効用が追加されて消費につながる、という結果が生まれるわけで、したがって、何らかのマーケティングによるプッシュが必要となる一方で、投資については、純粋に経済合理的にリターンがいいのでESG投資を選択する、という経済行動が現れているわけです。応援消費がESG投資のように、むしろコスパがいい、という時代が近づいているのかもしれません。
次に、岡崎守恭『大名左遷』(文春新書)です。著者は、日経新聞のジャーナリストなのですが、歴史エッセイストとしても江戸期を中心にいくつかの出版物を上梓しています。本書では、まさに、タイトル通りに、織豊政権期から江戸期における大名の改易=取潰しを含めた転封について焦点を当てています。ただ、転封ですから、必ずしも「左遷」ばかりではなく、当然に、「栄転」も含まれています。もちろん、大名ですから上は老中や大老までのそれなりのお役目もあって、ソチラの左遷や栄転を取り上げているのではなく、あくまで所領地の交代や変遷といった改易・転封を取り上げています。8章省構成であり、最初の章の棚倉に着目した章だけが所領地の地理的な位置を軸にしていり、2章以降は大名の家を軸にしています。第2章以下では、高取藩植村家、津山藩森家、福知山藩稲葉家、松本藩水野家、松平大和守家、堀江藩大沢家、そして、最後は明治維新とともに将軍家から一大名に大きく格下げされた静岡藩徳川家、となります。水野家と田沼家の失脚からの失地回復のストーリーなどは、まあ、サラリーマン社会に近いものがあるかもしれませんが、やっぱり、私が定年までお勤めしたサラリーマン社会とは大きく異なります。当然です。一代の間に5回も転封されて映画の「引っ越し大名!」の元ネタにもなった実例も面白かったです。タイトルからして、大名や大名家を中心にお話が進みますが、お引越しですから、お殿様が直接に引越し準備や作業をしたわけでもないと思います。家老以下の家臣の苦労もしのばれます。
次に、リサ・ガードナー『噤みの家』(小学館文庫)です。著者は、米国のミステリ作家です。英語の原題は Never Tell であり、2019年の出版です。本書は、ボストン市警のD.D.ウォレン部長刑事が主役となる『棺の女』と『完璧な家族』のシリーズの続編であり、私の知る限り、邦訳は3冊なのですが、米国内では1ダース近く出版されていると聞き及んでいます。なお、本書は、ミステリというよりはサスペンス小説と米国内で評価されているようです。小説の舞台はボストンで、銃声に気づいた地域住民からの通報により警察が駆けつけると、部屋には頭を撃ち抜かれた男性の遺体と大量の弾丸を受けたラップトップ、そして銃を手にした被害者男性の妻イーヴィ、という状況でした。拳銃から発射された15発の弾丸のうち、3発が男性に、12発がラップトップに打ち込まれています。当然、D.D.ウォレン部長刑事が捜査に当たります。銃を手にしていた女性イーヴィは32歳なのですが、16年前にも銃の暴発により自分の父親を撃って死なせています。その際は事故ということで罪には問われていません。その16年前と同じ刑事弁護士が今回の事件でも弁護に当たります。父親は数学の天才といわれてハーバード大学教授を務めていて、弁護にあたった刑事弁護士は古くからのイーヴィの両親の友人でした。捜査が進むと、射殺された男性の偽造された身分証明書が数種類見つかります。さらに、D.D.ウォレン部長刑事に対する秘密情報提供者のフローラからの情報が寄せられたりします。フローラは6年前に472日間にわたる誘拐・監禁から生還者した女性なのですが、その犯人に連れられて行ったバーで、一度だけイーヴィの夫、すなわち、被害者の男性に会っていました。この射殺された男性は、一体、何者なのか。また、今回の事件は16年前の銃の暴発事故とどんな関係があるのか。いろんな謎が解き明かされます。謎自体はかなりシンプルで、決して、凝ったミステリに見られるような難解な謎解きではないのですが、人間関係がやや入り組んでいる印象でした。
最後に、浅田次郎『大名倒産』上下(文春文庫)です。著者は、著名な小説家です。私もいくつか作品を読んだ記憶があります。本書では、幕末期第13大将軍徳川家定のころの江戸と越後を舞台にした時代小説です。主人公は丹生山松平家13代当主であり、次男三男を飛び越えて庶子の四男から21歳独身のまま大名となります。しかし、その裏では、先代第12代の当主がタイトル通りに大名倒産を企んでいるわけです。というのは、天下泰平260年の間に借金が累積して合計25万両に膨れ上がり、その利払いだけでも年3万両となることから、3万石の領地で年間1万両の収入しかない藩財政は借金の返済のしようもなく、いわゆる「雪だるま式」に借金が増える構造となっています。しかるに、事情をよく理解していない第13代当主を藩主に立てて、先代第12代藩主は計画的に蓄財を進めて、最後は藩財政が悪化して幕府から取潰しになることを覚悟の上、第13代藩主の切腹をもって藩を倒産させるというムチャな策に出ます。しかし、9歳になるまで足軽の下士の倅として育てられていた第13代藩主は融通がきかない真面目一辺倒で、襲封後に初のお国入りをし、倹約に継ぐ倹約、名物の鮭を使った殖産興業、国家老や大商人を巻き込んでの金策、などなど藩財政の立て直しにこれ努めます。そこに、何と、この作者らしくファンタジーで神様が絡んできます。貧乏神が、また、七福神が、はたまた、間接的ながら薬師如来が、この藩財政の立て直しに助力し始めるわけです。最後の結末までなかなか面白く読めたエンタメ時代小説でした。それにしても、神頼みは別にして、巨額の債務を残して後世代に負担を押し付けようとするのは、まさに、現在の日本の財政の姿をそのまま引き写しているような気すらしました。
2022年10月22日 (土) 09:00:00
今週の読書はいろいろ読んで計5冊!!!
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで14冊、今週が5冊ですので、今年に入ってから191冊となりました。200冊に達するのにカウントダウンに入った気がします。それから、新刊書読書ではありませんから、このブログの読書感想文には取り上げませんが、第164回芥川賞を授賞された『推し、燃ゆ』を読みました。そのうちに、Facebookあたりでシェアしたいと思っています。
まず、ダニー・ドーリング『Slowdown 減速する素晴らしき世界』(東洋経済)です。著者は、英国オックスフォード大学の研究者です。専門分野は地理学です。英語の原題も Slowdown であり、2020年の出版です。振幅と位相をもった独特の時系列図で、およそあらゆる減速をオンパレードで示しています。すなわち、人口、経済成長、情報、債務、などなど、これでもかこれでもか、というくらいに、いっぱいデータを示して実証しています。注を入れれば軽く500ページを超えるボリュームです。もちろん、世界の中で減速の先頭に立っている国は日本です。もちろん、科学的な減速の証明は十分ではありません。しかも、将来時点で仮置きされているのは2222年だったりします。ですから、気候変動=地球温暖化が十分進んで、海水面が数メートルも上昇した後だったりします。私から見ても、スローダウン=減速の原因が何かについては本書でも明確にされていません。その意味で、科学的な主張とは見なさない向きもあるかもしれません。ただ、いわうる経験則というのはマラゆる科学にあるのではないかと思いますし、とりわけ、経済や経営分野には「ジンクス」も含めた理由の不明な経験則がいっぱいあります。日本に住んでいて日本人をしているからというわけでもなく、私もスローダウン=減速は進んでいるのではないか、と思わないでもありません。特に、経済学に関しては、サマーズ教授が長期停滞論を主張し始めたり、ロバート・ゴードン教授の『アメリカ経済 成長の終焉』にあったように、イノベーションの先行きに不安があったりと、停滞色が強くて成長鈍化あるいは成長停止の議論がある一方で、生産力は加速しないまでも、もっと長期にわたって伸び続ける、とする見方も少なくありません。本書でも指摘されているように、気候変動=地球温暖化をはじめとするサステイナビリティの議論との関係も重要ですが、本書で仮置きされているように、2222年までに地球はすでにサステイナビリティを失ってしまっているという可能性もゼロではないと、私は危惧しています。いずれにせよ、一見して悲観論に見える減速を持って楽観的な将来を語っている点は評価すべきか、と考えています。最後に1点だけ、本書で世代の呼び方に、X世代とか、Y世代とかありますが、通常の世代の時代区分と異なっています。米国と英国の違いかもしれませんが、十分気をつけて読み進む必要があります。
次に、高槻泰郎[編著]『豪商の金融史』(慶應義塾大学出版会)です。編者は、神戸大学の研究者であり、専門分野は日本経済史です。本書は、数年前のNHKの朝ドラで放送された「あさが来た」で注目された廣岡家の古文書発見により、その研究成果として公開されています。ですから、タイトルのように広く豪商一般というわけではなく、あくまで、現在の大同生命の創業家である廣岡家の歴史をひも解いています。そして、出版社から受ける印象ほど、カッチリした学術書ではありません。江戸期の大坂における先物市場、デリバティブ市場などについては、それ相応の金融に関する知識が必要ですが、経営者としての廣岡家の歴史ですから、広く一般ビジネスパーソンが楽しめる読書ではなかろうかと思います。ということで、廣岡家の創業の地である大阪からお話が始まります。「天下の台所」大坂で米市場が開かれ、堂島の米市場で先物やデリバティブが取引されるようになった歴史をひも解くとともに、同時に、廣岡家が加島屋久兵衛=加久として、こういった世界でも稀に見る先進的な金融業に乗り出したことが明らかにされます。堂島米市場におけるデリバティブ取引から、三井家家訓では「博打」として否定された大名貸しに乗り出し、巧みにリスクをコントロールしながら業績を伸ばしてゆく様子が伺えます。そして、明治維新とともに大名貸しという事業形態ではなくなって、近代的な金融業を始め、加島銀行は昭和金融恐慌で破綻した一方で、大同生命は長らく生き残る、という歴史が実証的に分析されています。しかも、学術書ではないという意味で、適度にコラムを設けて、廣岡家の邸宅とか、節句飾りとか、西本願寺への信仰とか、いろいろなテーマで断片的な情報ながら、廣岡家の事業活動以外の側面を浮き彫りにしようと試みています。今となっては、岩崎家の三菱は明治維新直前の成立とはいえ、三井、住友などの財閥の家系からすれば廣岡家の加島屋はすっかり歴史に霞んだ気がするのですが、こういった古い文書の発見とともに、まあ、NHKの朝ドラに起因する発見であり、かなり気を使って加島屋の廣岡家を持ち上げている提灯本とはいえ、我が国の経済史の新たな発見があるのは決して悪くないと私は考えています。
次に、莫理斯(トレヴァー・モリス)『辮髪のシャーロック・ホームズ』(文藝春秋)です。著者は、香港出身で、英国のケンブリッジ大学を卒業後、香港に戻り、映像業界で活躍中ということです。いわゆるホームズもののパスティーシュであり、ホームズ役が福邇、満洲旗人であり、ワトソン役が華笙、武科挙の進士であり、負傷して現役を退くと香港で医師をやっています。この2人は下宿しているわけではなく、ホームズ役の福邇が立派な住まいを所有し、そこにワトソン役の華笙が下宿しています。ハドソン夫人の役割をこなすのは鶴心という名の小間使です。なお、依頼のうちいくつかは差館(警察)から寄せられ、英国人の養子となった中国生まれのクインシー警部やインド人のグージャー・シン警部がスコットランド・ヤードのレストレイド警部やグレグスン刑事、ということになるのかもしれません。舞台はもちろん香港で、主人公たちは荷李活道(ハリウッド・ロード)221乙に暮らしています。時代は1880年代のホームズと同時期のビクトリア女王のころです。ということで、前置きが長くなりましたが、収録されている短編は6編で、「血文字の謎」、「紅毛嬌街」、「黄色い顔のねじれた男」、「親王府の醜聞」、「ベトナム語通訳」、「買弁の書記」となります。冒頭短編の「血文字の謎」でホームズ役の福邇とワトソン役の華笙が出会います。ついでながら、正典ではベイカー街イレギュラーズとして登場するストリート・チルドレンのグループが本書でも登場し、この「血文字の謎」で荷李活道義勇隊として活躍します。また、「ベトナム語通訳」はタイトルからして「ギリシア語通訳」を思い起こさせるのですが、ストーリーは大きく違います。でも、何と、シャーロックの兄のマイクロフトが登場した短編ですから、この短編でも福邇の兄の福邁が登場します。やっぱり、政府機関にお勤めだったりします。中でも私が最も高く評価するのは「親王府の醜聞」であり、コナン・ドイルの正典の「ボヘミアの醜聞」に当たります。正典と違うのは、ホームズ役の福邇とワトソン役の華笙が最高級ホテルの一室に呼び出されて、京劇の面をつけた依頼者+ボディガードの計5人と会って依頼される点などです。ひょっとしたら、ミステリ・ファンの中には正典の「ボヘミアの醜聞」よりも、出来がいいと感じる人もいそうな気がします。実は、私もそうです。私は詳しくないのですが、ミステリとして上質であるだけでなく、当時の香港に関する歴史小説としても読めるかと思います。なお、訳者あとがきによれば、このシリーズは全4巻が予定されており、最後の4巻ラストは1911年の辛亥革命だそうです。本書出版時点では「第2巻を完成させつつある」ということだったのですが、すでに出版されているという情報にも接しました。邦訳されたなら、私はまた読みたいと思います。
次に、中野剛志『奇跡の社会科学』(PHP新書)です。著者は、経済産業省にお勤めで、MMTに近い財政政策観を持っている方であると、私は認識しています。ということで、本書では古典的な社会科学者8人が取り上げられています。順に、官僚制に関してマックス・ウェーバー、保守主義に関してエドマンド・バーク、民主主義が生み出す専制制についてアレクシス・ド・トクヴィル、市場経済を「悪魔の挽き臼」と称したカール・ポランニー、自殺についての考察を進めたエミール・デュルケーム、戦争の起こる機器を歴史的に見ようとしたE.H.カー、リアリズムの極致ともされるニコロ・マキアヴェッリ、そして、マクロ経済学の創始者であるJ.M.ケインズです。現在からの視点としては、すべて、それなりにリベラルな社会科学者に注目した、といえそうです。私のようなエコノミストからすれば、最後のケインズ卿がもっとも親しみあるのですが、不況の世の中にあふれる失業者に思いを致し、生活に困窮する失業者に職をもたらすべく、古典派的な自由放任から政府による雇用創出を理論的に解明した功績はとても大きいと思います。ほかの7人にしても、活躍した当時だけでなく、21世紀の現在に至るまで理論的な正当性はいささかも失われていません。私は大学のゼミで「古典を学ぶ」と称してケインズを学生に読ませていますが、こういった古典的名著を振り返る余裕も欲しいものだと改めて感じました。
最後に、野田隆『にっぽんの鉄道150年』(平凡社新書)です。著者は、都立高校の教員ご出身で、鉄道に関するノンフィクションのライターです。ということで、今年は広く知られているように、新橋~横浜間で1872年10月14日に鉄道が開業してから150年という記念の年であり、さまざまなイベントなどもありましたが、本書もそれを記念する意味で出版されています。まずは、走る車両の歴史ということで、蒸気機関車から始まって、何と、高速鉄道に飛んで新幹線となり、私鉄で走っている電車、ブルートレインの寝台車や豪華列車・観光列車、その間に、青函トンネルや瀬戸大橋などの本州と北海道・四国を結ぶ線路の拡充が語られ、最後の方は、廃止された路線、もうすっかり廃れた切符、鉄道ミュージアムが取り上げられています。私は決して鉄道ファンではありません。でも、鉄道唱歌で「線路は続くよ、どこまでも」というのがありますが、私は長崎大学に出向した折に、長崎駅では線路が終わっていて「続かない」のを目にして、ある種の衝撃を受けた記憶があります。中学校の通学から電車に乗り始め、ほぼほぼ私鉄の通学が多く、東京に出てからも私鉄や地下鉄を使う通勤が多かったのですが、関西に戻って、今では主としてJRに乗っています。20歳前後の今の学生諸君と話をしていても、「国鉄』というのは、まったく死語になったと感じています。中曽根内閣の1980年代後半に、国鉄だけでなく、専売公社や電電公社の3公社が民営化される法案審議の際には、私はすでに国家公務員として働いていたのですから、年を取るはずです。最後に、本書は300ページを超えるボリュームで、新書としては分厚い本なのですが、モノクロながら写真が多数収録されていて、写真を眺めるだけでも楽しい気分にさせてくれます。
2022年10月15日 (土) 09:00:00
今週の読書は金融危機に関する経済書のほか計4冊!!!
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週までで10冊、今週が4冊ですので、今年に入ってから186冊となりました。まもなく200冊に達することと思います。
まず、中曽宏『最後の防衛線』(日本経済新聞出版)です。著者は、日銀前副総裁であり、現在は大和総研理事長です。エコノミストというよりは、金融危機対応の中央銀行実務家という印象で、本書もそういった視点から書かれています。ということで、本書でも指摘されている通り、金融政策の大きな特徴として、私も大学で教えているように、金融政策とは市中の民間金融機関、主として銀行に働きかけるわけですから、市場が正常に機能していて、金融機関が経済合理的に反応してくれることが前提条件となります。財政政策はそうではありません。すなわち、政府支出や徴税やで直接に家計や企業といった経済主体の購買力を操作することが出来ます。でも、金融政策は市場における通常の経済合理的な反応が必要ですので、金融危機に陥っては正常な効果を期待できなくなるおそれがあるわけです。その意味で、本書で具体的に取り上げられているのは1997-98年の日本国内の金融危機、すなわち、三洋証券、山一證券、拓銀、長銀、日債銀などの破綻、さらに、2008年のリーマン証券の破綻です。特に前者については、著者が最前線で活躍してたようですので、とてもリアルに描写されています。リーマン・ショックに際しても、その直前に担当者にドルオペのフィージビリティ調査を命じたりしていたのはやや驚きましたが、まあ、自慢話の類かもしれません。加えて、1997-98年の金融危機の際には、「日本発の世界金融危機」とならないように腐心した一方で、リーマン・ショックに関しては、そういった観点があったのかどうか疑問を呈しています。そして、直後のAIGの救済に関してはリーマン証券破綻の影響に驚いて方針変更した可能性すら示唆しています。まあ、ややアサッテの批判かもしれません。さらに、本書でも自ら指摘しているように、日銀は金融危機に際しても、もちろん、通常の「平時」でも、金融緩和に消極的な中央銀行とみなされていて、特に、1990年代初頭のバブル崩壊、さらに、1997-98年の金融危機の際の日銀の危機対応は世界から中央銀行の失敗例とされているのも事実です。ですから、著者が、失敗の典型と世界から指摘されつつも、「現場でがんばっていたのだ」といくら主張したところで、少なくとも私は共感は覚えませんでした。不首尾に終わって、なお「よくがんばった」と誉められるのは高校生までであり、いい年齢に達した公務員や中央銀行員が結果を無視して、「ボクたち、がんばったもんね」と、自らに評価を下すのは、やや見苦しい気がします。
次に、東川篤哉『スクイッド荘の殺人』(光文社)です。著者は、『謎解きはディナーのあとで』などのヒット作のあるユーモア・ミステリ作家です。そして、この作品も烏賊川市シリーズ最新作であり、出版社の宣伝文句によれば、シリーズの中では13年ぶりの長編作品だそうです。烏賊川市シリーズですから、探偵事務所署長の鵜飼杜夫と調査員の戸村流平が主人公となります。ただ、探偵事務所の入居しているビルオーナーの二宮朱美はほとんど、あるいは、まったく登場しません。スミマセン。私は読み飛ばしていますので、詳細不明です。なお、烏賊川警察署の砂川警部と志木刑事も登場しますが、ほぼほぼ謎解きの終わった最終盤での登場となります。ということで、本作品では、閑古鳥が鳴きまくってヒマヒマしている鵜飼探偵事務所に久しぶりに依頼人が訪れます。しかも、烏賊川市のパチ・スロやボウリング場などの遊戯施設を運営する有力企業の社長が依頼人だったりします。依頼内容は、脅迫状が来たのでクリスマスの旅行にボディガードとして同行するよう、ということです。そのクリスマスを過ごす宿泊施設がタイトルのスクイッド荘なわけです。ロケーションとしては、烏賊川市のゲソ岬の断崖絶壁にあり、しかも、クリスマスのシーズンですので大雪が降って孤立します。ミステリによくあるクローズド・サークルなわけです。謎解きはかなり複雑で本格的なのですが、動機がかなり薄弱だったりします。この作者らしく、ユーモアたっぷりのミステリなのですが、謎解きは本格的でかなり複雑です。この作者の、あるいは、特に烏賊川市シリーズのファンであれば、是非とも押さえておくべき1冊です。
次に、シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)です。著者は、ロンドン生まれの英国の作家です。2007年に乳癌のため47歳で亡くなっています。英語の原題は The London Eye Mistery であり、2007年の出版ですが、その出版年に作者は亡くなっているわけです。本書はジュブナイル向けのミステリなのですが、かなり本格的です。ということで、ロンドンに住む12歳のテッドが主人公です。ご本人は「症候群」と称しているのですが、現在でいえば自閉スペクトラム症、当時の表現ではアスペルガー症候群ではなかろうかと推測されます。サヴァンに近いのかもしれません。両親と姉のカット(カトリーナ)と4人家族でロンドンで暮らしています。タイトルの「ロンドン・アイ」とは、大きな観覧車であり、30分で1周します。テッドの母親の妹、テッドからすれば叔母に当たるグロリアがその息子のサリムとともに、テッドの家を訪れます。マンチェスターに住んでいたグロリアとサリムはニューヨークに引越す途中にロンドンに立ち寄るわけです。そして、子供3人、すなわち、テッドとカットとサリムがその観覧車のロンドン・アイに乗りに行きます。チケット売り場に並んでいると、無精髭の男からチケットが余っているからと11時30分のチケットを1枚だけ無料でわけてもらいます。そして、サリムが1人でロンドン・アイに乗ることになるわけですが、観覧車が30分かけて回っている間にサリムが消えます。下りて来ないわけです。その謎をテッドが解き明かします。とっても本格的な謎解きです。決して、ジュブナイル小説と軽く考えて読むのはオススメできません。
最後に、都留康『お酒はこれからどうなるか』(平凡社新書)です。著者は、一橋大学の名誉教授であり、したがって、というか、何というか、経済学者です。ですから、本書は酒作りの醸造技術なども、もちろん、取り上げていますが、主として経済学的な観点から「酒」に取り組んでいます。なお、同じ著者の前著に『お酒の経済学』(中公新書)というのがあるのですが、不勉強にして未読です。ということで、前半の第1章から4章までがお酒の種類別に、日本酒、ワイン、梅酒、ジンという順で国内における製造の歴史や消費・普及を跡づけ、後半の第5章から9章ではもっとお酒に関する飲み方や場所などのソフトな情報について取り上げています。すなわち、家飲み、居酒屋、醸造所・蒸溜所が併設された飲食店、ノンアルコール市場の拡大、となっています。一見して、ビールが無視されているように感じてしまい、ジンよりもビールじゃないの、という気がしますが、後半の第6章とか第7章で触れられています。私はビールか、ワインか、といった感じで、特に50代も後半に入ってからお酒をよく飲むようになった気がします。年齢とともに、ヒゲが濃くなり、サケを飲む量が増えた、といったところです。日本酒については吟醸酒などの最近の高級酒の解説が多く、別の機会に明らかにされているのかもしれませんが、私は清酒の開発についても取り上げてほしかった気がします。どぶろくなどのにごり酒から透明の清酒になったのは、その昔の造り酒屋でお給料の引上げがかなわなかった杜氏さんが、お酒の醸造樽に火鉢の灰を投げ込んだところ、翌朝には透明の酒になっていた、という伝説を聞いたことがあります。ホントか、どうか、は知りません。いずれにせよ、日本のワインや梅酒、あるいは酒にまつわる文化などについてよく取りまとめられている教養書だと思います。オススメです。
2022年10月08日 (土) 09:00:00
今週の読書は地経学書をはじめとして計4冊!!!
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月の夏休みに66冊、10月に入って先週が6冊で、今週が4冊ですので、今年に入ってから182冊となりました。11月早々には200冊に達することと思います。
まず、片田さおり『日本の地経学戦略』(日本経済新聞出版)です。著者は、一橋大学後出身の南カリフォルニア大学の研究者であり、英語の原題は Japan's New Regional Reality となっています。地経学=Geoeconomics はサブタイトルに Geoeconomic Strategy in the Asia-Pacific という形で入っています。原書は2020年の出版です。ということで、やや用語法などが私の感覚とは違うのですが、地経学のテキスト、というか、日本への応用ということで読んでみました。というのは、地経学ではなく、地政学として今世紀に入ってからの中国の台頭に関する分析はよく目にするのですが、地経学的な分析は十分ではないような気がするからです。用語法で少し違和感あるとしても、日本の場合は、地経学的には国家主導のリベラルな戦略への国際社会、というよりは、米国からの圧力を受けている、と本書では指摘しています。ここでの「リベラル」な戦略というのは、ネオリベとかに対置される用語ではなく、市場を活用した、とか、市場経済に基づく、といった形容詞に近くて、中国やロシアなどの権威主義的な政治体制の下での経済に対応しているようです。また、埋め込まれた=エンベッドされた重商主義というのも、実に的確に日本の地経学的なポジションを表していると受け止めています。いかにも、世界に出て稼いでこい、という感じです。そして、本書の指摘と私の感覚が一致するのは、地経学的な重要戦略は「世界に出て稼ぐ」ために国家間の経済交流、貿易という財・サービスの交易と資本移動に関するルールのセッティングである、という点です。TPPが当時のトランプ米国大統領により米国抜きでスタートした一方で、RCEPがかなり質の高い貿易投資協定として作用し始めています。こういった世界あるいは地域における経済活動の交流に関するルールの設定に対する関与、あるいは、場合によっては、単にナイーブに内外無差別のルールだけではなく、自国利益に沿ったルールのカッコ付きでの「押し付け」のできるパワーを保有するための戦略、ということです。古典派経済学的な自由貿易や自由な資本移動、というのも重要なのですが、それを、いわば口実として自国の都合を優先させたりするわけです。ただ、私は本書でやや物足りない点が3点あります。第1に、ODAをはじめとする国際開発援助を地経学的に以下に利用できるか、あるいは、利用するべきではないか、という点です。この国際開発援助については、中国がアフリカ諸国などに対してかなり強引に実行していて、スリランカなどでは借款が返済できずに検疫を中国に差し出している例があるとも報じられていたりします。私は日本が経済大国であることを授業で説明する際に、このODAの統計を示したりしています。地経学的な戦略でもひとつの指標として取り上げるべきではないかと考えています。第2に、サプライチェーンの形成です。レピュテーションも含めて、サステイナブルではないサプライチェーンの再構築は重要な問題だと思うのですが、サプライチェーンは企業任せ、でいいのか悪いのか、やや気にかかる点です。第3に、地政学的には覇権国に対して新興国が台頭するとツキディディスの罠によれば、武力衝突が生じる可能性が高まります。他方、地経学的に中国の台頭に対して米国はどのように反応するのか、あるいは、対応すべきなのか、本書では日本の地経学の分析ですから、ややスコープ外なのかもしれませんが、私は懸念しています。最後に、その昔の『レクサスとオリーブの木』では、マクドナルドが展開している国の間では武力衝突は起こらない、といった旨のグローバリズム礼賛が表明されていましたが、実際には、武力行使に及んだ国からはマクドナルドが撤退する、という事実がロシアのウクライナ侵攻により明らかにされました。地政学や地経学の戦略に関しては時々刻々とリアリティ=現実に基づいてアップデートされます。専門外とはいえ、武力行使がインフレや成長鈍化をもたらしているのも事実ですし、少し勉強しておきたい気がします。
次に、森本敏・小原凡司[編著]『台湾有事のシナリオ』(ミネルヴァ書房)です。編著者は、民間から貿易大臣も経験した研究者と笹川平和財団の研究者です。本書も笹川平和財団の研究会の成果を取りまとめています。地経学に関する専門書を読んだのに合わせる形で本書も読んでみました。ただ、コチラは安全保障の専門書であり、基本的な中国の台湾観から勉強する必要がありそうな気すらします。すなわち、私のような安全保障戦略のシロートですら、「ひとつの中国」という原則に基づいて、台湾が独立国としての国家主権を認められていない一方で、香港などでは一国二制度といいながら、実は、香港を権威主義的な中国化する動きが急ピッチで進んでいる、という事実は見知っています。ただ、1980年代までの米ソを筆頭とする東西冷戦が終了したのは、経済力に基づくソ連の崩壊であり、決して武力により社会主義体制が崩壊したわけではない、という事実も明らかです。ですから、本書のタイトルのように、台湾有事として武力により中国が名目的な「ひとつの中国」を達成する方向にある、という点は理解が進みにくくなっています。しかも、台湾のバックには米国の武力が控えている、というのも、なかなか直感的には理由が明らかではありません。ただ、その背景はあくまで安全保障戦略に基づく地政学的な理由であり、台湾が中国に「併合」されると、経済的には何が生じるのかは、本書のスコープ外となっています。すなわち、香港については権威主義的な中国政府の圧力が高まると金融市場としての魅力が一気に低下するわけで、台湾の製造業とは少し経済的な影響が異なる気がします。もちろん、製造業としても金融業ほどではないとしても、市場に基づく自由で分権的な生産体制のほうが効率的であることは間違いありませんが、香港金融市場の魅力が低下するとシンガポール市場が相対的に浮上する可能性があるのと同じように、台湾が生産力を低下させると別の製造業エリアが代替するだけ、という点から情報処理産業という面が強い金融業よりも製造業のほうが大体はスムーズ、と考えるのは私のようなシロートだけなんでしょうか。まあ、それは別としても、本書では台湾有事の経済的な影響はスコープ外となっていて、武力衝突に関する分析が本書では取り上げられています。戦力比較た軍事的な体制などについては、私は理解が及びませんでしたが、中国の軍事的かつ経済的な台頭を受けて、台湾海峡に緊張感が高まっているという事実は感じ取ることができました。でも、実際に武力衝突が生じれば、日本の戦略なんて独自視点はまったく考慮されず、自衛隊は米軍指揮下に入って、米軍の軍事戦略に100パーセント従う形で台湾有事に対応することになるんではないか、とシロートながら私は想像しています。でも、それなりのシナリオ分析は必要かもしれません。
次に、越谷オサム『たんぽぽ球場の決戦』(幻冬舎)です。著者は、ファンタジー・ノベルでデビューし、『陽だまりの彼女』文庫版がミリオンセラーとなった小説家なのですが、私は初読でした。表紙画像を見て理解できる通り、野球に関する小説です。埼玉県北あだち市を舞台にし、主人公は20代半ばのアルバイターなのですが、高校2年生まではいわゆる「超高校級」のピッチャーとして埼玉県内では大いに注目されていました。しかし、肩を壊して野球を止めた挫折してしまいました。ところが、20代半ばになって、市会議員をしている母親から勧められて野球チームを結成することになります。そして、主人公がとても社交性に欠けることから、主人公と同じ高校の同級生で野球部の主将も務めていた社交性バツグンのチームメイトにコーチ役の助っ人を頼み、2人で新チームを立ち上げます。何と募集のひとつの条件は野球で挫折した経験を上げていたりします。もちろん、大したチームが出来るわけではなく、老人とその孫とか、野球はマネージャーをやった経験があるだけという女子大生とか、まるっきり運動不足の大学生とか、いろいろとクセのある選手が、なんとか9人のチームが結成できるだけ集まります。他方で、主人公は高校時代にかなりの「ビッグマウス」であったらしく、他校の選手などから決して好意を持たれていたわけではなく、市営の河川敷球場のとなりのグラウンドで練習している草野球チームの主力投手から敵意むき出しで対応されたりします。そして、何と無謀にも、その草野球チームと対外試合を行うことになるわけです。まあ、タイトルの「決戦」というのはかなり大げさなのですが、許容範囲かもしれません。ただ、試合結果がやや疑問残るという読者もいるかも知れません。いかにも主人公チームの寄せた結果とみなす読者からは試合結果についての異議が出る可能性はあります。ギリギリ、ネタバレにならない範囲でこれくらいにしておきます。
最後に、東川篤哉『うまたん』(PHP研究所)です。著者は、『謎解きはディナーのあとで』がミリオンセラーとなったミステリ作家です。単なるミステリ作家ではなく、「ユーモア・ミステリ作家」というべきかもしれません。ということで、この作品もユーモア・ミステリなのですが、同時に、特殊設定ミステリでもあります。私が最近読んだ中では方丈貴恵の作品がとびっきりの特殊設定だったのですが、それはそれとして、この作品では人間の言葉を理解するウマが推理して謎解きをします。主人公は房総半島にある牧場、牧牧場(まきぽくじょう)の牧場主の娘のJK牧陽子で15歳、他方、推理の謎解きをするウマ15歳で、函館大賞典優勝のサラブレッド、名はルイスです。ユーモア・ミステリですので、ウマ探偵のスイスは主人公のことを「マキバ子」ちゃん、すなわち、牧陽子ではなく、牧場子と呼んだりします。まあ、重賞優勝馬ではないので種牡馬としてではなく、馬主のご厚意によりウシ中心の房総半島にある牧場で悠々の老後の生活を送っているという設定です。しかも、このウマ、ルイスが人間の言葉を理解し、人間の言葉をしゃべります。というか、正しく表現すれば、主人公の牧場主の娘だけが聞き取れる言葉をしゃべり、他方、人間の言葉はすべからく理解できたりします。我が家からもほど近い栗東のトレセンで長らく過ごしたせいか、コテコテの関西弁をしゃべります。この作品は短編5話から編まれており、うち2話では殺人が起こります。ウマ探偵ルイスが真相を解き明かして、主人公の牧陽子に話して聞かせ、然るべく事件が解決する、というストーリーです。収録短編作品のタイトルだけ列挙すれば、「馬の耳に殺人」、「馬も歩けば馬券に当たる」、「タテガミはおウマの命」、「大山鳴動して跳ね馬一頭」、「馬も歩けば泥棒に当たる」となります。殺人事件は1作めと3作めであり、私がもっとも評価する短編は4作目です。ルイスの事件の取りまとめが秀逸だったりします。
2022年10月01日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済書や海外ミステリをはじめとして計6冊!!!
来週から本格的に大学の後期授業が始まりますので、これからは読書ペースがやや落ちるかもしれません。なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~9月で66冊、10月に入って今週が6冊ですので、今年に入ってから178冊となりました。10月中か、11月早々には200冊に達することと思います。
まず、前田裕之『経済学の壁』(白水社)です。著者は、日経新聞のジャーナリストを長く務めています。本書では、第Ⅰ章で大学などのアカデミズムにいる経済学者と官庁や民間シンクタンクなどのエコノミストを比較するという、ハッキリいって、無意味な議論を展開した後、第Ⅱ章で経済学について、これまた、それほど意味があるとも思えない自説を持ち出しています。まあ、こういった思い込みの部分を書きたいのも本書を執筆する動機としてあったのかもしれません。そして、第Ⅲ章から経済学の各流派についての概観が始まります。経済学には経済史と経済学史という学問分野があり、本書は経済学史のような体系的な解説ではありませんし、もちろん、大学での講義の教科書として使えるハズもないのですが、いろんな経済学の流派について、ミクロ経済学とマクロ経済学に分けて並べています。私でも明確に認識していない学派についても詳細に特徴つけていて、その意味では、なかなかに参考にはなります。主流派に属するニュー・ケインジアンと異端とみなされるポストケインジアンなんて、一般には理解されにくい部分もそれなりにキチンと解説がなされています。その意味では、決して学術書ではありませんが、経済学の主流派とそれ以外の学派を概観するのには役立ちそうです。ただ、惜しむらくは、世間一般で注目を集め始めている現代貨幣理論(MMT)が抜け落ちています。理由はよく判りません。最後に、数年前に話題になったところで、ノーベル賞経済学者のカーネマン教授が『ファスト & スロー』を出版した際の目的として、オフィスでの井戸端会議での会話の話題提供を上げていた気がするのですが、本書も同様に、オフィスでの井戸端会議や飲み会の際に経済学の知識をペダンティックに示すためにはとても有益な役割を果たすと思います。
次に、日本経済研究センター[編]『使える!経済学』(日本経済新聞出版)です。編者、というか、おそらく、日本経済研究センター(JCER)のスタッフがインタビューするか、講演会に招くいた際のお話を取りまとめていて、主として、マイクロな経済学をビジネスに活用している例が収録されています。一部に慶應義塾大学の例がありますが、ほとんどが東京大学です。そうなのかもしれません。因果推論や構造推計、あるいは、マーケット・デザインを基にしつつ、ダイナミック・プライシング、オークション理論、マッチング理論、などなどの経済学がビジネスにどのように応用されているかの実例がよく判ります。繰り返しになりますが、かなりマイクロな経済学の応用がほとんどで、マクロエコノミストの私に理解が難しい最新分野なのですが、それなりに、経済学の応用について理解が深まった気がします。ただし、こういった経済学を活かしたエコノミストのコンサルティング活動について、2点だけアサッテの方向から指摘しておくと、第1に、行動経済学も含めて、こういった分野の経済学は、厳密な再現性を求める科学としての経済学ではなく、ビジネスに応用されることは、ある意味で、本来の目的であり、とても相性がいいと私は考えています。第2に、こういったコンサルティング活動は、基本的に、コンサルタントを雇える大企業に有利な結果をもたらす、という点です。典型的にはダイナミック・プライシングとかで、消費者余剰をすべて企業のものにすることを目指す場合があったりします。もちろん、マッチング理論などはいろんな意味で有益ですし、経済学が保育園の待機児童の解消に応用されている例もあったりするのですが、基本、コンサルタントを雇える大企業にコンサルティング活動は向かいます。ですから、コンサルタントを雇えない消費者にも利益になるような経済学のビジネスへの活かし方も考慮されるともっといいんではないか、と私は考えています。
次に、ジェフリー・ディーヴァー『ファイナル・ツイスト』(講談社)です。著者は、セカイでももっともうrているミステリ作家の1人ではないかと思います。私もこの作者の作品のファンで、リンカーン・ライムのシリーズ、キャサリン・ダンスのシリーズなどの作品はほぼほぼすべて読んでいます。本書は、新しく始まったコルター・ショウのシリーズであり、『ネヴァー・ゲーム』、『魔の山』に続く第3巻です。邦訳の出版前は、このシリーズはこの第3回で終了、とウワサされていたのですが、どうも、シリーズ第1期の終了、ということらしいです。ということで、本書では、ショウの父親の死の謎に迫ります。1906年のカリフォルニア州法に関する文書、コードネーム「エンドゲーム・サンクション」をショウとともに、ショウの父をしに至らしめた民間諜報会社「ブラックブリッジ」が追います。この文書の桁外れの内容が明らかにされるとともに、この文書に絡んだトリックも、作者のディーヴァーらしいツイスト=どんでん返しで明らかにされます。このショウのシリーズは、ディーヴァーらしいどんでん返しの要素が少なく、特に、前作の『魔の山』にはほとんどなかったのですが、本書では、「アッ」とびっくりのどんでん返しが用意されています。私も読み終えて、「何だ、そうだったのか」と独り言をいってしまいました。このシリーズの先行きは、私はよく知りませんが、この作者のファンであれば本書は必読といえます。
次に、佐藤千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書)と小島慶子『おっさん社会が生きづらい』(PHP新書)です。著者は、毎日新聞のジャーナリストとTBSアナウンサーからエッセイストやタレントになった女性です。ということで、本日10月1日付けの「朝日新聞」朝刊から天声人語に女性執筆者が初めて加わった、とありました。メディアのコラムでも男性の執筆陣で運営されていたことが明らかなわけです。私なんかはまごうことなくオッサンなわけです。ですから、これらの女性が感じるオッサン社会の生きづらさなんかは、ほとんど感じたことはないどころか、逆に、生きづらさを増幅させているところがあるんではないか、と反省しています。日本のビジネス社会では、おそらく、1990年のバブル崩壊くらいまで男性社会であり、しかも、年功序列が色濃く残っていましたから、年配男性=オッサンの天下だったわけです。女性は明示的に差別され、中年男性=オッサンを中核労働者としてメンバーシップ的に正規職員として雇用され、企業に無限定に奉仕させて働かせつつ、家庭は専業主婦がやりくりする、という世界だったわけです。ここで「家庭」には家事は当然、育児、場合によっては老親の介護まで含まれます。そして、子育てが一定ラクになった段階で、主婦層がパートなどの形で、あるいは、学生がアルバイトとして非正規の縁辺労働者として労働市場に参入するわけです。年功序列は当然のように年功賃金に基づいており、子育て期に年功賃金が支給されることから学校教育の費用については、中央・地方の政府ではなく家庭が学費を負担する、というシステムが出来上がっているわけです。ですから、現在の非正規雇用のように年功賃金でなくなってフラットな賃金プロファイルがドミナントなシステムに移行すれば、教育費は中央・地方の政府が負担すべきです。やや脱線しましたが、オッサン社会の弊害は、単に、女性進出やダイバーシティの推進を阻害しているだけでなく、あらゆるところで見られる気がします。
最後に、万城目学『べらぼうくん』(文春文庫)です。著者は、私の母校である京都大学出身の小説家です。私自身も著者のデビュー作である『鴨川ホルモー』から始まって、最新作の『ヒトコブラクダ層ぜっと』まで、おおむね読破しているつもりです。独特の「万城目ワールド」といわれる世界観が私は好きだったりします。その小説家がご自分の半生を振り返るエッセイです。なぜか高校時代を終えた浪人時代から書き始めて、京都大学の学生だったころの海外旅行の経験、年齢的にバブル期ではなかったハズですが、海外旅行が通常生活に入り込んでいる世代だという気がします。そして、大学を卒業して就職して工場勤務となった後、離職して『バベル九朔』の作品そのままに、ビル管理人をしたりしています。というか、実体験が『バベル九朔』の作品として結実した、ということなのでしょう。なかなかに、興味ある作家の半生を知ることが出来るエッセイなのですが、最初に書いたように、私はこの作家の作品の世界観が好きなのですが、私の読解力がないせいなのか、このエッセイからは世界観の出どころのようなものは読み取ることができませんでした。私は三浦しをんなどは小説もエッセイもどちらも大好きなのですが、この万城目学の作品、というか、出版物としては、こういったノンフィクションのエッセイよりも、フィクションそのもの、というか、かなりファンタジーも入った小説の方が私は好きです。
2022年09月24日 (土) 09:00:00
今週の読書は経済所や歴史書をはじめとして計5冊!!!
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7~8月で45冊、先週までの9月で16冊、今週が5冊ですので、今年に入ってから172冊となりました。
まず、河野龍太郎『成長の臨界』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、BNPパリバ証券のチーフエコノミストです。とても包括的に金融と経済について論じています。出版社から受ける印象ほど学術書ではありません。一般のビジネスパーソンでも十分読みこなせると思います。著者は、日銀の異次元緩和をはじめとする金融緩和の継続に疑問を呈したり、あるいは、財政では赤字財政を批判して財政再建を目指すべき議論を提起したりと、アベノミクスにはかなり批判的な意見を持っていたエコノミストであり、本書でも同様の議論が展開されています。特に、星・カシャップのラインに沿って、緩和的な金融制作や財政政策が日本のように長期にわたって継続されると、というか、正確には完全雇用を超えて緩和策が継続されると、本来は市場から淘汰されるべき企業がゾンビのように生き残ってしまったり、あるいは、企業単位でなくても本来は採算性の高くない設備投資が実行されたりして、逆に、生産性に悪影響を及ぼして不況が長引く可能性を指摘しています。ですから、日本経済の現状を人で手不足で完全雇用を達成している状態と考えていて、この状態ではむしろ構造政策により生産性を引き上げるべき、との見方が示されています。完全雇用なのに賃金が上がらない理由についてはやや根拠薄弱です。また、利子所得のために金利引上げなども志向しています。私も判らなくもないのですが、明らかにバックグラウンドとなるモデルに混乱を生じている気がします。例えば、自然利子率と潜在成長率の議論が少し判りにくかったりします。加えて、というか、何というか、政策提言がややアサッテの方向になってしまっています。すなわち、3年ごとに社会保障負担を減らすのと同時に消費税を+0.5%ポイントずつ引き上げる、というのが目を引く政策となっています。ゾンビ仮説に立つのであれば金利引上げも選択肢になりそうな気がするのですが、さすがに、日本経済の現状を考慮すれば現実的ではない、ということなのでしょう。そして、経済が停滞しているのは企業の成長期待が低いからであり、企業の成長期待が低いのは消費が伸び悩んでいるからであり、と、ここまでは私も著者に賛成します。そして、何人かの論者は、消費が伸び悩んでいるのは年金が少ないために老後に備えて貯蓄に励んでいるためである、という議論がある一方で、さすがに、著者はこの年金増額論は却下、というか、触れてもいません。私は消費が伸び悩んでいるひとつの要因は非正規雇用という不安定かつ低賃金な雇用にあると考えています。そして、この論点も著者は無視しているように見えます。いずれにせよ、経済に関する流行の議論が網羅されている一方で、日本経済のバックグラウンドにある構造、あるいは、モデルについての理解が少し私と違うと感じました。
次に、アダム・トゥーズ『世界はコロナとどう闘ったのか?』(東洋経済)です。著者は、ロンドン生まれで、現在は米国のコロンビア大学の歴史学の研究者です。英語の原題は Shutdown であり、2021年の出版です。出版年からも理解できるように、それほど新しい情報が盛り込まれているわけではなく、むしろ、2020年のパンデミック当初の時期に、ワクチンはなく、特効薬もない段階で、隔離を含むソーシャル・ディスタンスを取るしか感染拡大防止の決め手がない段階で、外出禁止といったロックダウンだったり、対人接触の多いセクターごとシャットダウンしたりといった措置と経済活動との間のトレードオフについて、歴史研究者らしくたんねんにコロナ危機に見舞われた世界を経済の面に焦点を当てつつ俯瞰しています。その差異、どうしても国別とか、地域別の記述になっていて、トランプ政権下の米国、さまざまなアプローチを取った欧州、そして、何よりもパンデミックの発祥の地となった中国、加えて、インドやロシアなども加えられています。米国では、何といっても、科学的な見方に対して根拠なく独自路線を取るトランプ政権に対応が危機を拡大させていたと考えるべきです。欧州についてはスウェーデンのように社会的な集団免疫の獲得を目指しつつも、結局、通常対応にせざるを得なかった例もあれば、イタリアのように感染拡大に歯止めが効かなかった国もあります。そして、何よりも、経済活動との関係が焦点とされています。本書では、コロナ危機における経済問題を供給面からのショックと捉えており、対人接触の多いセクターが本書のタイトル通りに「シャットダウン」されることによる経済停滞、と考えています。ですから、日本の例を上げると飲食店とかとなりますが、感染拡大を防止するためにシャットダウンされたセクターの産業としての活動が停止し、経済的な活動が停滞する、というのをどのように解決するか、の観点からの記述が多くなっています。逆に、米国やブラジルのように、感染拡大防止を軽視して経済活動を継続し、危機を深めた例もあったりするわけですから、トレードオフの関係にある感染拡大防止と経済活動の両立が、米国、欧州、中国をはじめとするアジアで、どのように進んだか、に着目されています。そして、アジアについては、中国にもっとも大きな紙幅が割かれており、次いでインド、韓国についても初期段階ではコロナ封じ込めに成功した例として取り上げられていますが、我が日本は経済規模ほど言及がありません。日本国内では