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2019年07月13日 (土) 11:55:00

今週の読書はバルファキス教授の素晴らしい経済書をはじめとして計7冊!!!

このところ、経済書はやや失敗読書が続いていたんですが、今週は一昨日に取り上げた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』もよかったですし、バルファキス教授の話題の本もよかったです。ということで、今週も経済書をはじめとして、計7冊の読書でした。今日、読書感想文でまとめて取り上げるのは6冊ですが、ご寄贈いただいた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』を一昨日に取り上げており、これを勘定に入れて計7冊という意味です。なお、梅雨の中休みをついて、本日のうちに、すでに自転車で図書館をいくつか回っており、来週も数冊の読書になりそうです。

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まず、ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社) です。著者は、ギリシア出身の経済学の研究者にしてギリシアが債務危機に陥った際に政権を取った急進左派連合シリザのツィプラス政権で財務大臣に就任し、大胆な債務削減を主張しています。このブログの4月28日付けの読書感想文で取り上げたバルファキス『黒い匣』で詳細にレポされている通りです。本書も『黒い匣』以上に話題の書です。原書はギリシア語だそうですが、邦訳の底本となった英訳書の原題は Talking to My Daughter about the Economy であり、2013年の出版です。ということで、10代半ば、ハイスクールに通う娘にエコノミストの父親が経済について解説しています。ここで経済とは資本主義経済のことを指しています。ですから、まず、経済格差の解明のために経済史を振り返ります。すなわち、必要最低限の生産だったものが余剰が出ることにより、それを我が物にする階級が現れ、その根拠付けのために宗教などが動員されるわけです。明記はされていませんが、背景には生産力の増進があります。そして、この歴史の考えはマルクス主義的な唯物史観そのものです。その中で、産業革命がどうして英国で始まったのかについて、p.67で解説されています。3番目の観点は、いかにもノースらの制度学派的な見方で、私は目を引かれました。そして、産業経済から金融経済の勃興、さらに、産業経済の中でも製造業における機械化の進展、20世紀に入って世界恐慌からケインズ経済学による政府の経済への介入、最後は、ギリシア的にアリストテレスのエウダイモニアに行き着くんですが、その前に、すべてが商品化される資本主義経済に対して、著者は「すべてを民主化しろ」と叫びます。常々、このブログで私が主張しているところですが、資本主義経済と民主主義は矛盾します。民主主義は1人1票の制度ですが、資本主義経済では株主総会のような購買力による格差があります。この矛盾を背景に、著者は資本主義経済ではなく民主化の方向を志向します。この点はキチンと読み取るべきです。

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次に、飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所) です。著者は、明治大学の経済学の研究者であり、リフレ派に近いと私は認識しています。本書は、タイトル通りの内容を目指しているようなんですが、前半の「日本史に学ぶ」部分はともかく、タイトル後半の「マネーの論理」はどこまで迫れているのか、やや疑問です。本書の対象とする期間は、7世紀の律令制の時代、我が国では古典古代の時代から、19世紀の江戸期までで、近代は対象外となっています。そして、本書の冒頭は、白村江の戦いで倭が唐の水軍にボロ負けするところから始まり、唐に敗北した国家の再建、というか、国家とは広範囲における安定した統治の実現である、というところから貨幣の鋳造が志向された、と解説しています。まあ、本書のスコープからすればそうなんでしょうが、もちろん、貨幣鋳造以外にも、律令という名の法制度の整備、碁盤目状の街路を整備した首都、あるいは、宗教上のシンボルとしての大仏、などなど、少しは言及して欲しい気もします。そして、本書のスコープそのものであるマネーの論理、というか、貨幣論についても、かなりガサガサだというふうに私は受け止めました。貨幣とは、あくまで、他の人々も貨幣として受け取ってくれる、という同義反復的な定義が適用されるというのは、私もその通りだろうと思います。ただ、歴史を紐解いているわけですから、もう少し厳密に歴史に当たって欲しかったです。特に、史料の残っている江戸期については、私でも徳川幕府による三貨制の金貨・銀貨・銭だけでなく、いかにも封建的な領主による藩札の発行もあれば、堂島の米切手が貨幣と同じように、すなわち、みんなが貨幣として受け取ってくれるがゆえに貨幣の役割を果たしていた点も、中央政府の発行する貨幣でないから無視したのか、それともご存じないのか、私には判りかねますが、マネーの論理とともに、歴史についても、もう少し読み応えある展開が欲しかったです。決してブードゥー・エコノミクスではありませんし、右派的な経済論が展開されているわけでもないんですが、ピント外れというか、経済書にしてはとても物足りなかった読書でした。

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次に、リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(河出書房新社) です。著者はイングランドの歴史研究者です。本書の英語の原題は The Hungry Empire となっており、直訳すれば「腹ペコの帝国」とでもなるんでしょうか。2018年の出版です。ということで、大英帝国における食の探求と大英帝国の形成そのものの密接な関係について、グローバルな視点から歴史的に解き明かそうと試みています。4部20章の構成となっています。各章のタイトルが中身のトピックをかなり詳細に表現しています。大英帝国とは、明らかに、海の帝国であり、世界各地からいろんな食材と調理方法を本国に持ち帰ります。ただ、基本は食べる方ですので、カリブ海のラム酒なども垣間見えますが、お酒をはじめとする飲み物はメインではありません。大英帝国の本国は欧州の西端に位置する島国であり、産業革命を経て工業や商業、とりわけ金融業については世界をリードしていた時期が長かったわけですが、農業や食料生産については決して恵まれた条件にはなく、世界各地、特に北米植民地や大洋州のオーストラリア・ニュージーランドなどの農業生産に適した植民地からかなり大量に食料を輸入して食卓が出来上がっているわけです。また、帝国主義時代には戦争や軍事衝突も少なくなく、保存食の研究なども世界に先駆けて行われています。大英帝国の前のポルトガルやスペインなどによる大航海時代には、アジアの胡椒を入手するのが大きな目標だった時代もあるんですが、大英帝国では食そのものの通商が盛んになります。インドの紅茶にカリブ海やブラジルの砂糖を入れ、カナダやオーストラリアの小麦で作ったパンを食べる、といった大英帝国の食生活が徐々に確立していく段階を歴史的に跡付けています。ただ、必ずしも記述の順が一貫性なく、少なくとも編年体では構成されていません。ですから、場合によっては、章を進むと時代がさかのぼる、といったことも起こります。ただ、さすがに歴史から敷く、イングランドとイギリスの区別はちゃんとされています。ユーラシア大陸の反対側の東端に位置する島国の日本はほとんど登場しませんが、世界的な食生活の歴史がとても分かりやすく展開されています。グローバル化の進展の中で、EUを離脱しようとしている英国の栄光の時代の記録かもしれません。最後に、注を入れれば400ページを超えるボリュームで、とても面白い本ながら、読むにはそれなりの覚悟を要します。

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次に、北岡伸一『世界地図を読み直す』(新潮選書) です。著者は、長らく東大の政治学の研究者だった後、国連代表部大使を務め、現在では国際協力機構(JICA)の理事長職にあります。実は、私の高校の先輩で、その昔には東京の同窓会会長だったりもしたと記憶しています。本書は、新潮社の『フォーサイト』に連載されていたコラムを単行本に取りまとめています。副題は「協力と均衡の地政学」となっていて、確かに地政学的な考察も盛り込まれていますが、まあ、基本はJICA理事長として訪問した世界各国の紀行文に近いと私は受け止めています。ですから、悪くいえば、世界各国の実情について国際協力の供与サイドから「四角い部屋を丸く掃く」ような紀行文と考えるべきです。しかも、国際協力=ODA実施機関の理事長の訪問先ですので、ほぼほぼすべてが途上国となっていて、欧米をはじめとする先進国は取り上げられていませんし、中国も対象外となっているのかもしれませんから、やや世界地図や地政学を銘打つにしては対象が狭い印象があります。ということで、著者の視線としては3つのポイントを据え、すなわち、第1に、先進国や中国が抜けているにもかかわらず、地政学の観点からのアプローチを取ろうと試みています。この点は、私は専門外ながらハッキリいって、失敗しているよな気がします。これは取り上げている国に偏りがあるからで、先進国や中国に加えて、アジアでもASEAN創設時のオリジナル加盟国5か国がスッポリと抜け落ちています。第2に、日本とのかかわりの中で途上国をとらえようと試みています。この点はまあいいんではないでしょうか。ただ、JICAの前身が海外移住事業団でしたから、ブラジルなどはしょうがないんでしょうが、やや現地移住者からの情報に偏りがあるような気がしないでもありません。かなりさかのぼって、歴史的に我が国との関係を把握しているのは心強い限りです。最後に第3に、著者のJICA理事長職としての機能的あるいは権能的な部分だけでなく、研究者や国連大使経験者としての幅広い観点からの人脈が生かされているように見えます。この点はさすがであると受け止めています。JICA理事長には、かつての緒方貞子女史のような個性豊かな国際派が就任したりしていましたが、政治学の研究経験者もいいんではないか、と思わせるものがありました。でも、開発経済学の専門家もJICA研だけでなく、JICA本体のトップにもいかがでしょうか?

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次に、横山秀夫『ノースライト』(新潮社) です。著者は、ファンも多いベテランのミステリ作家です。最近では、映画化もされた『64』の原作を私は読んだ記憶があります。本書は、建築家、というか一級建築士の青瀬稔という人物を主人公に、その建築士が設計して、「平成すまい200選」にも選ばれた家の施主が一家ごと集団で失踪した事件を、その建築士が自ら謎を解明すべく事実の確認に当たる、というものです。そこに、主人公の家族、子供のころも父母と少し前までの妻と子供、離婚してから思春期に差しかかった娘、そして、勤務する小規模な建築事務所の直面する危機などを織り交ぜながら、かなり時間軸として長い物語が展開します。なぞ解きのミステリとしてはともかく、家族や人生を長期に展開する大作といえます。ということで、主人公の青瀬の子供時代は、父親がダム建設に関する熟練工でありことから、経済的には恵まれた状態にありながら、高度成長期の日本各地を転々とする生活を送ります。大学は中退したものの一級建築士の資格を取得し、バブル経済期には豪勢な生活を送って結婚もし子供もできる一方で、バブル崩壊後は転落の人生の危機を迎え、結局、大学の同級生が所長をする建築事務所に勤務するものの、結婚生活は破綻し子供とは月に1度しか会えません。そして、青瀬の代表作となり「平成すまい200選」にも掲載されたY邸の施主と連絡が取れなくなり、信濃追分のY邸まで青瀬が出向いたところ、Y邸には施主一家が引っ越した後がなく、タウトの椅子が置いてあるだけでした。他方で、青瀬の勤務する建築事務所は著名芸術家の記念ミュージアム建設のコンペに参加する権利を獲得したものの、市政との癒着を全国紙で指摘され、コンペは辞退し建築事務所の所長は入院した病院から転落死してしまいます。最後が、かなり一気に終わる、というか、途中までタマネギの皮をむくようにジワジワと真実に迫った青瀬なんですが、なぞ解き部分が建築事務所の所長の葬儀あたりから一気に進んで、割合とあっけなく謎が解明されます。そうでなくても、かなりのボリュームを要した大作ですから、これ以上長くするのにはムリがあったのかもしれませんが、ここまで余剰を残した終わり方なのであれば、もう少しなぞ解きの部分もゆっくりと進めるわけにはいかなかったのか、と、やや残念に思わないでもありませんが、途中まで見事に読者をミスリードしながら、実に見事、というか、やや不自然ながらも予期せぬ終わり方には、それなりの感慨もなくはありません。なお、タイトルは北からの採光を意識した住まいのつくりのことで、北半球では柔らかな採光になるような気がしますが、何度かこのブログでお示ししたように、私の在チリ大使館勤務のころの経験として、ごく当然ではあるんですが、南半球では太陽は北を回りますから、北向きのベランダの採光がすぐれています。どうでもいいことながら、ご参考まで。

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最後に、朝倉かすみ『平場の月』(光文社) です。何となく、舞台が東武東上線沿線っぽくって、朝霞、新座、志木といったあたりの地域性が出ているような小説です。基本は長編小説ですが、各章を短編に見立てて読めば立派な連作の短編集といえるかもしれません。読み方次第だという気もします。作者は北海道出身の小説家であり、私は不勉強にして、この作品を初めて読みました。この作品で山本周五郎賞を受賞するとともに、直木賞候補に上げられています。私はこの作品は大衆小説とかエンタメ小説ではなく、純文学であると受け止めています。まあ、私の解釈からすれば、落ちはない、ということです。そして、ラブストーリーです。50歳に手が届く中学校の同級生だった中年男女のラブストーリーです。ということで、舞台は埼玉の中でも東京に近い地域であり、登場人物は主人公の男性、青砥のほか、中学の同級生が多く登場します。特に、青砥が中学のころに告白したこともある須藤が青砥とペアをなします。青砥は検査を受けた腫瘍が良性であった一方で、須藤の腫瘍の方はがんと宣告されたりもします。そして、第6章、あるいは、第6話から須藤はストーマ、すなわち、人工肛門を付けることになります。抗ガン剤治療で髪も抜けます。そして、最後には須藤は死にます。50歳でがんなんですから、常識的に死ぬんだろうと思います。そういう意味では、ラブストーリーの中でも悲恋の物語なのかもしれません。第2章のタイトルにもなっていますが、「ちょうどよくしあわせ」というのがひとつのキーワード、というか、本書のテーマになっています。でも、ラブストーリとしては物足りません。50歳だから、というのでもないのでしょうが、燃え上がるものがない一方で、生活感が充満しています。ただ、それを評価する読者も少なくなさそうな気がします。私は、まあ、もういいかな、というカンジです。ワクワクする読書ではありませんでした。ただ、何度も逆接でつなぎますが、それがいいという読者もいそうな気がします。
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2019年07月11日 (木) 23:25:00

ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) を読む!

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ご寄贈いただいた松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。ご著者は、松尾先生と「ひとびとの経済政策研究会」となっていて、私は松尾先生にお礼のメールを差し上げておきました。すでに、役所を定年退職して、もともと大したことのなかった影響力がすっかりなくなったにもかかわらず、いまだにご著書をご寄贈いただけるのは有り難い限りです。
まず、どうでもいいことかもしれませんが、少しは気にかかるところで、本書タイトルの「左派・リベラル派が勝つ」というのは、何に勝つのか、という点なんですが、基本的に選挙に勝って政権を奪取する、という意味のようです。まあ、単なる選挙での躍進で議席数を増やして、与党が改憲に必要な議席数に到達するのを阻止する、というのも意味あるかもしれませんが、私はそれでは物足りません。政権を取って政策を実行する足がかりとすべきと考えます。また、どうでもいいことながら、自称マルキストの中には、政権奪取のためには選挙ではなく、もっと暴力的な手段に訴えかねない人たちがいる可能性は否定しませんが、私自身はそんなことはありませんし、おそらく、ご著者の方々も私と同じではなかろうかと想像できます。しかも、政権選択選挙ではありませんが、参議院議員選挙という国政選挙がすでに公示されているタイミングです。
本書は2部構成で、前半は松尾先生が左派・リベラル派の経済政策のバックグラウンドとなる理論を展開し、第1部の末尾にはQ&Aまで付し、第2部では選挙の際のマニフェストの案が示されています。ということで、世論調査や内閣支持率の分析から本書は始まります。そして、若い世代では経済政策を重視し現政権支持率が高い一方で、年配世代は内閣支持率低い、という事実を明らかにしています。私も定年退職するまで、総理大臣官邸近くのオフィスに通っていましたから、官邸や国会議事堂などに向けて何らかの意思表明する人々を見かけることも少なくなかったんですが、大雑把に、年配は左翼的な主張、若者は右派的な意見表明、というパターンが多かったような実感を持っています。そして、少なくとも、現在の安倍内閣で経済や雇用が改善したのは事実です。本書でも、pp.38-40のいくつかのグラフで定量的に実証しています。もちろん、背景には、その前の民主党政権の経済政策がパッとしない、というか、ハッキリいえば、ひどいものだったので、安倍内閣になってその前に民主党政権時の経済政策が否定されただけでOK、という面があるのも確かです。ただ、さらにその前を振り返れば、小泉内閣の時のいかにも右派的な構造改革という名の供給サイド重視の経済政策で実感なき景気回復の果てに、2008年の米国のサブプライム・バブル崩壊による世界不況が民主党への政権交代を促したのも事実です。ですから、1992年の米国大統領選挙時に、当時のクリントン候補が標榜していた "It's the economy, stupid!" というのは今でも真実なんだろうと思います。それに対して、本書で指摘しているように、左派・リベラル派は景気拡大に対してとても冷たい態度を示し、「脱成長」を主張する場合すらあります。ですから、年金をもらってぬくぬくと生活している高齢世代はともかく、リストラされないように必死に働いている若い世代の間で左派への支持が低いのは、ある意味で、当然です。本書でも、米国のトランプ大統領、フランス大統領選挙で一定の支持を集めたルペン党首、など、経済政策的には反緊縮で金融緩和支持の左派的な政策志向を示すポピュリストが少なくないと指摘しています。実は、ナチスのヒトラーがそうだったわけですが、同時に、現在では、欧米の主要な左派、すなわち、英国労働党のコービン党首、スペインのポデモス、米国のサンダース上院議員などと大きな違いはありません。ですから、本書で明確に指摘されているわけではありませんが、右派と左派で大きく経済政策が異なるのは先進国では日本くらいのものかもしれません。第2部の選挙マニフェスト案では、消費税を5%に戻すとともに、法人税を増税し、所得税の累進性を強化することにより、医療や教育の充実を図る、との方向が示されています。従来から、私はインフラ投資はまだ必要なものが残っている、と主張しているんですが、第2部のマニフェスト案でも必要な公共投資は実行するとされています。そして、ベーシックインカムの導入に加えて、目立たないんですが、TPPは白紙に戻すとされています。私は全面的に賛成です。ただ、私の単なる趣味かもしれませんが、ベーシックインカムが格差是正の政策というのは理解するものの、ベーシックインカムと累進税制の強化のほかにも何か格差是正策があれば、なおいいんではないかと思います。

最後に、本書でも簡単に触れられているんですが、米国のサンダース上院議員の経済ブレーンであるケルトン教授らの支持する現代貨幣理論(MMT: Modern Monetary Theory)に関して、現時点では直感的に成り立つ可能性を私は感じているんですが、不勉強にして、それほど大きな確信があるわけではありません。その昔の税収に関するラッファー曲線は、レーガン大統領の時のブッシュ副大統領が "voodoo economics" と評したらしいんですが、よく考えると、税率ゼロで税収ゼロは当然としても、税収は税率の上昇に従った単調な増加関数ではない可能性も十分あり、どこかで税収を最大にする税率がありえることは直感的に理解できなくもありません。ラッファー曲線と同列に議論するのは気が引けるものの、現時点では日米両国の財政当局や中央銀行からMMTはかなり批判されているように見受けられる一方で、確かに、財政赤字がGDP比で発散すれば何らかの不均衡を招く可能性が高いと私は考えるものの、自国通貨建ての国債発行で財政資金を調達し、その国債は中央銀行が市中から買い上げれば、いわゆる「雪だるま式」に発散しない可能性も理解できなくもありません。もう少し勉強したいと思うのですが、なかなか能力も時間も不足しています。
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2019年07月07日 (日) 17:40:00

先週の読書は前週に続いて経済書は失敗読書ながら計5冊!!!

今週は、年度初めの4~6月期のお仕事がピークで、昨日に米国雇用統計が入って読書日が1日多いにもかかわらず、先週に続いて少し失敗読書の経済書を含めて、以下の5冊です。昨日の土曜日午前中が梅雨の中休みで図書館回りを終え、今週も話題の経済書をはじめとして数冊の読書になりそうです。

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まず、松尾匡『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』(青灯社) です。作者の松尾先生からご寄贈いただきました。ただ、昨日のお届けだったもので、さすがに、まだ読んでいません。日を改めて単独で取り上げたいと思います。先週の読書計5冊の外数です。

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まず、ビョルン・ヴァフルロース『世界をダメにした10の経済学』(日本経済新聞出版社) です。著者はフィンランド出身のエコノミストであり、ハンケン経済大学教授を務めた後に米国の大学でも教えたが、1985年に銀行業に転じ、1990年代前半に投資銀行を起業し、現在は北欧最大級の金融コンツェルンであるサンポ・グループの経営者となっています。原題は DE 10 SÄMSTA EKONOMISKA TEORIERNA なんですが、このままでは理解できないので、英語では The Ten Worst Ideas in Economics となるようです。2015年の出版です。ということで、典型的な右派エコノミストの理解なんですが、「邪悪な理論」と指摘され各章のタイトルになっているアイデアに番号を振って整理しつつ羅列すると、(1)緊縮財政は経済成長の足かせになる、(2)資本主義は搾取を生みだす、(3)増税は財政赤字の穴埋めになる、(4)格差是正は経済成長につながる、(5)「インフレ」とは消費者物価の上昇である、(6)市場は非効率である、(7)金利はマイナスにできない、(8)自由市場は存在しない、(9)「陶酔的熱病、恐慌、崩壊」は資本主義の宿痾だ、(10)インフレ退治が中央銀行の唯一の仕事である、ということになります。いつもの論理のすり替えに近いんですが、誰も主張していないことに対して「邪悪な理論」としてあげつらっているものもありますし、まったく的外れなものも少なくありません。特に、あまりまじめに正面からコメントしたくもないんですが、第5章のインフレに対する見方はそれなりに同意できる部分があります。すなわち、貨幣なしの物々交換であればインフレは生じない、という指摘です。ですから、インフレとは物価上昇ではなく貨幣価値の下落であり、それ以外は相対価格の変化に過ぎない、というのは事実なんだろうと思います。

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次に、伊丹敬之『平成の経営』御厨貴・芹川洋一[編著]『平成の政治』(日本経済新聞出版社) です。6月15日の読書感想文で取り上げた『平成の経済』とともに、平成3部作をなす経営と政治の2冊を読みました。経済の平成は明らかにバブル経済とその崩壊で特徴づけられるんですが、経営については、当然ながら、経済と同じでバブル経済とその崩壊が大きく影響します。他方、政治では、何といっても、国際的には冷戦の終了と国内的には小選挙区制の採用が大きな平成の特徴と考えるべきです。ですから、政治的には米ソの冷戦が終了し、米国がソ連や社会主義陣営を圧倒したわけですが、平成の初期には経済や経営ではバブルに浮かれた日本では、政治はともかく、経済や経営では米国よりも日本の方が先進的である、という誤解がったのも確かです。もちろん、バブル経済が崩壊して長期の停滞に陥った日本では、やっぱりダメなのか、という空気が蔓延したのも事実です。ただ、マクロ経済と違って、個々の企業や、あるいは、産業では経営的に優劣がつくわけで、『平成の経営』では自動車産業を持ち上げる一方で、電機産業についてはシャープやサンヨーなどの消滅会社もあるわけですから、厳しい目で見ています。政治にせよ、経営にせよ、ガバナンスという意味では大きな変化が平成の時代に生じています。すなわち、経営では従業員が圧倒的な比重を占めていたところに、株主という要素がジワジワと大きくなっています。グローバル化が進み、ストックとしての株主構成では外国人の比率は決して大きくないものの、売買高ではかなりのウェイトを占め、ガバナンスの点からは外国人の圧力に負けた、というわけでもないんでしょうが、株主への配慮が欠かせなくなっています。他方、政治の政党のガバナンスについては、小選挙区での公認候補に対する影響力から、政党執行部のパワーがとてつもなく大きくなりました。2005年の郵政選挙における「刺客」などに見られる通りです。最後に、とても興味深い点で、私は現在の安倍政権の経済政策がとても左派的であると考えているんですが、『平成の政治』では経済政策だけでなく、安倍内閣そのものの左派制を強調しています。でも、護憲の左派に対して、改憲を大きな政治的目標に掲げているんですから、これは少し疑問が残ります。

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次に、鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟』(白水社) です。作者は団塊の世代の生まれで、翻訳書を中心とした編集に携わってきたエディターです。本書では、その編集者としての経験から、書物の出現に始まる読書という知的行為と、それに関して記憶という精神作用の間にはどのような歴史があるのかを東西の経験からひと解いています。読書や本という物体は、アレクサンドリアの図書館を例外とすれば、西洋ではキリスト教のカトリック修道院に期限があり、本書でも指摘しているように、文字の記録としての本という形では、ラテン語で記録されているばかりでした。これは信じがたいんですが、その昔のラテン語は文字がびっしりと続いており、アイルランドでようやく単語間にスペースを置く分かち書きが始まり、さらに、コンマやピリオドなどのパンクチュエーションが始まったようです。そうでないと読みにくくて仕方なかったんでしょう。ということで、私は自分をそれなりの読書家であると自任しており、このブログも毎週土曜日の、今週だけは米国雇用統計が間に割って入って日曜日ながら、読書感想文がひとつの売り物になっていますから、通勤やなんやで聞き流しているモダンジャズの音楽鑑賞よりも重視しているつもりなんですが、本書広範の記憶という面では考えさせられるものがありました。ついつい、HDに入っている250枚くらいのアルバムのモダンジャズの音楽をウォークマンで聞き流すのと同じで、私は年間に250冊から300冊位の読書なんだと思うんですが、ついつい読み飛ばして頭に残っていない、というか、記憶に残っていないような気がしないでもありません。私の考える限り、それでいい読書もあります。それは事実です。まあ、何といいましょうか、要するに時間つぶしというヤツです。それはそれで読書のひとつの効用ですが、もちろん、すべての読書がヒマ潰しでよかろうハズもなく、頭にいれるべく勉強んの読書もあるハズです。その比率の問題なのかもしれません。

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最後に、ピーター P. マラ & クリス・サンテラ『ネコ・かわいい殺し屋』(築地書館) です。著者は鳥類学者とサイエンスライターです。英語の原題は Cat Wars であり、直訳すればネコに対する戦争、とでもなるんでしょうか、いずれにせよ、ネコの捕食される、というか、狩られる方の鳥類学者の著作ですので、ネコに対する憎しみに満ち溢れているように私には見えます。ということで、これはおそらく事実なんだろうと思うんですが、ネコが人間によって連れて来られて、侵略的な外来種として在来種の絶滅に加担したのは事実なんだろうと私は思います。ただ、おそらく私を含めた多くの人々と著者では、自然というものに対する定義と評価関数が大きく違うと読んでいて気づきました。私の直感では、著者のいう自然とは、著者の考える自然であって、ミルの『自由論』の考え方を借りれば、いわば、トピアリーのような、著者の考える自然を持ってよしとし、ホントのあるがままの自然ではないような気がします。もちろん、あるがままの自然には天然痘ウィルスがいたり、マラリアが蔓延していたりするわけで、そういったものは自然界から駆逐することが許容されると私も同意します。しかし、ネコを天然痘ウィルスと同列に考えて、在来種の復活のために駆逐することに同意する人は少なそうな気も同時にします。ニュージーランドの鳥類の例が本書冒頭に取り上げられていますが、それなら、ニュージーランドに入植した欧州人を去勢して、マオリ族という在来種を復活させようという意見は、おそらく、許容されないような気がします。北米大陸での欧州人および黒人とネイティブ・アメリカンについても同じであろうと私は考えます。だから、ネコもOKというのは短絡的に過ぎるかもしれませんが、著者たちの一派の考えがすべて正しく、それが「自然」というものなのであり、それ以外の考えはすべて非科学的、と言わんばかりの主張には同意できない点がたくさんあった、ということは書き記して残しておきたいと思います。
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2019年06月29日 (土) 11:40:00

今週の読書は経済書の読書に失敗しつつ計6冊!!!

今週も、梅雨のうっとおしいお天気が続く中で、それなりに読書に励み、以下の通りの計6冊を読みました。経済書は1冊だけだったんですが、とんでもない失敗読書でした。先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みのトンデモ経済学が展開されていました。その分、とても私好みの左派的な英国労働党コービン党首にスポットを当てたノンフィクションを読みましたので、これは読書の甲斐がありました。

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まず、野口悠紀雄『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎) です。著者は、財務省から学界に転じたエコノミストです。ですから、相も変わらずに、ものすごく上から目線の仕上がりになっています。ということで、いきなりネタバレかもしれませんが、結論を先取りすると、要するに、昭和の時代から続いてきたバブル経済に浮かれて世界経済の変化を見抜けず、従来手法による対応しか取れずに変化への対応を誤った、ということになります。ここでの対応とは、必ずしも政策対応に限定せず、企業経営の方にむしろ比重が置かれています。政策対応として特徴的なのは、これまた従来からのこの著者の主張で、金融政策は景気局面によって非対称であり、景気引き締めには有効性が高い一方で、逆の景気浮揚策としては力不足、というか、ほとんど有効ではない、ということになります。ですから、物価目標はヤメにして、実質賃金上昇率を金融政策の目標とすべきであるとの議論を展開しています。というか、全然展開していないんですが、主張はしています。とても矛盾していることは著者ご本人は気づいていないようです。世界経済の大きな変化は、ひとつには、インターネットの普及に依る部分があり、著者はインターネット上にポータルサイトを作ろうと試みたことがあるようで、その時点ではアマゾンやヤフーとそう違わないポジションだった、と自慢していますが、それを企業化できないところが、すなわち、企業の新陳代謝の少なさが我が国経済のひとつの弱みになっていることは気づかないようです。政権交代による民主党内閣の成立が平成という時代を画するひとつの特徴だったと私は考えているんですが、わずかに、この民主党政権の評価はいい線いっています。ほとんど実現する裏付けない公約で政権交代したところで、なんの意味もなかったというのは明白です。ほかは、インターネットのポータルサイトと同じで、かなりのボリュームが著者の自慢話した個人的な平成回顧に当てられています。特に、第4勝広範のスタンフォード大学でのサバティカルについては、なんの意味もなしておらず、単なる自慢話と個人的な回想にとどまっています。せめて、第5章の米国の住宅バブルを取り上げたところに入れれば格好もついたような気がするんですが、編集者の責任もあるかもしれません。もともと、左派エコノミストである私とは主張が大きく食い違っていますし、経歴からしてガンガン上から目線で迫ってくるわけですが、著者もお年を召したような気がして、ややモノにならないように思えてなりません。ハッキリいって、先週取り上げた原真人『日本銀行「失敗の本質」』並みの失敗読書でした。

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次に、アレックス・ナンズ『候補者ジェレミー・コービン』(岩波書店) です。著者は、ライター・ジャーナリストのようですが、2018年から、まさに、労働党のコービン党首のスピーチライターを務めています。本書の英語の原題は The Candidate であり、初版が2016年に出版された後、最終第15章に2017年の英国総選挙を増補した改訂版が2018年に第2版として出版されており、本邦訳書はその第2版を底本として翻訳されています。ということで、初版本は英国労働党の投手戦でジェレミー・コービン現党首が選出されるまでのドキュメントであり、繰り返しになりますが、増補第2版において2016年のBREXIT国民投票や2017年英国総選挙に関するルポを含めるようになっています。上下二段組で400ページを超えるボリュームです。軽く英国労働党の最近の歴史をおさらいすると、ご案内のように、1997年にブレア党首がニュー・レイバーとして、まあ、何といいましょうか、右派を代表した現実路線から選出された上で総選挙にも勝利し政権を奪取したんですが、例の2001年のアル・カイーダによるテロ、9.11ニューヨークの貿易センタービルへのテロに対する報復で、英国は米国とともにイラクへの多国籍軍の中心となり、結局は、米国ブッシュ政権に加担しただけでの結果に終わり、さらに、2008年の米国サブプライム・バブル崩壊の余波をもっとも大きく受けた国のひとつとして、労働党は大きく国民の支持を失い、ニュー・レイバーのブレア-ブラウン政権から2010年の総選挙で労働党は敗退し、ミリバンド党首を経て、本書の舞台となる2015年の労働党の党首選において現在のコービン党首が選出されています。2017年の英国総選挙においては、労働党の政権返り咲きこそならなかったものの、選挙前の大方の予想を裏切って大躍進を果たし、英国保守党を過半数割れに追い込みました。本書では、コービン党首を始めとして、どうしても人物を中心に据えて語られていますので、私のように英国政治のシロートにはやや難しいところがありますし、いろいろと魑魅魍魎の跋扈する陰謀論的な政治の世界は判り難いんですが、私自身左派エコノミストを自称していますし、経済政策的には反緊縮や国民本位の財政支援、あるいは、を志向する左派的な経済政策でもって、労働党員の間でも、国民の中ででも支持を拡大したコービン党首の政策志向は大いに賛同できるものです。我が国の社会主義政党を振り返って、その昔の社会党にはいわゆる「左翼バネ」というものがあり、選挙や大衆運動で苦境に陥った際には左派的な政策志向が社会党に作用して、「苦しい時の左派頼み」のような方向性が打ち出される傾向があったように記憶していますし、英国でも同じような「左翼バネ」があるのかもしれませんが、私のような左派のエコノミストから見れば、本書でいうような反緊縮や反貧困・反格差の経済政策は正しい方向性を示していると考えています。特に、コービン支持に回った若年層の置かれた状況は、英国でも日本でも大きな違いはないように感じています。本書で示された、著者のいうコービン党首に目立つ「個人的な温かみや寛容さ」、そして「誠実さ、原則を守る姿勢、倫理的な力」などとともに、こういった個人的な資質にとどまらない左派的な政策志向も読み取るべきではないか、と私は考えています。

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次に、富増章成『読破できない難解な本がわかる本』(ダイヤモンド社) です。上の表紙画像にあるように、世界の名著60冊のダイジェスト的な解説本なんですが、巻末に参考文献がツラツラと記されており、著者もオリジナルの古典はほとんど読んでいないようです。世界の名著の解説書を読んだ上でのコンパクトな解説に仕上げた、といったところです。私は基本的にこういった古典の解説書は評価しないんですが、何を血迷ったか、ついつい手が伸びてしまいました。誠に残念ながら、60冊の大量のダイジェストですので、あまり頭に入らず、モノにならなかった気がします。やっぱり、古典はちゃんと読まないとダメな気がします。私は海外に出た折には国内では出来ないことをしようと試み、スポーツに勤しむとともに、ボリュームのある古典的な名著を読むことに挑戦しています。チリに行ったときに失敗したんですが、やっぱり、本場ラテンアメリカのスペイン語の本を読もうと考えて、ガルシア-マルケスの『100年の孤独』を丸善で高い値段で洋書を買って持って行ったのはよかったんですが、よくよく考えれば、チリではスペイン語の本はお安く売られていて、到着後に現地で買えばよかったと後悔した記憶があります。それはともかく、ジャカルタではフロムの『孤独な群衆』とブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読みました。上の倅が大学に入って心理学だか、社会学だかを勉強するといい出した折に、私の本棚にある『孤独な群衆』を見て、それなりに関心してくれたのを思い出します。本書でも取り上げられています。ただ、ブルクハルトは取り上げられていません。また、このブログにも書いた記憶がありますが、定年退職するまで奉職していた経済官庁の採用面接で、「大学時代に何をしましたか」というありきたりな質問に対して、経済学の古典を勉強したことについて言及し、スミス『諸国民の富』、リカード『経済学と課税の原理』、マルクス『資本論』、ケインズ『雇用・利子及び貨幣の一般原理』を読んだと自慢して感心されたことがあります。特に、ほかはともかく、『資本論』を学生のころに読んだキャリア公務員は少ないだろうといわれてしまいました。最後に、忘れていた著者についてですが、大学の哲学科や神学部を卒業し、予備校で日本史などの社会科系の学科の講師をしているそうです。ですから、哲学や社会科学系の本が多く取り上げられており、こういった名著の中に、当然に入るべき、ニュートンの『プリンピキア』やダーウィンの『種の起源』が落ちていて、ついつい笑ってしまいました。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界が動いた「決断」の物語』(朝日新聞出版) です。著者は、ジャーナリストではなさそうですが、いわゆるノンフィクション・ライターを職業としているようなカンジです。よく調べが行き届いているという点では、ジャンルはまったく異なりますが酒井順子のエッセイを思わせるものがあります。英語の原題は Farsighted であり、2018年の出版です。この著者は何冊かベストセラーを書いているんですが、この著者の本では、私は昨年2018年1月27日付けで同じ朝日新聞出版から出ている『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』の読書感想文をアップしています。ということで、本書はタイトル通りに決断、意思決定のノンフィクションです。ただ、意思決定に関しての研究者ではありませんから、それほど深い内容ではなく、一般向けの本と考えるべきです。題材になっているのはいくつかのエピソードであり、特に私の頭に残っているのはビン・ラディンを急襲する件に関する当時の米国オバマ大統領の決断、そして、決断へ至るまでの情報収集についてが秀逸です。ほかにも、ダーウィンの結婚や人生の岐路に立った際の決断も取り上げていますし、いろいろあります。こういった個別具体的なエピソードについて、第1章から第3章までを使って、情報収集とそれに基づく予測、そして、何といっても本書のタイトルである決断について考察しています。基本的な方法論はトベルスキー-カーネマン的な経済心理学や行動経済学です。プロスペクト理論こそ出てきませんが、損失回避や限定合理性などを基礎にした考察がなされています。4章と5章では、グローバルに考えるべき決断と個人の問題を持ち出しています。最後の個人の問題とは、ニューヨークから温暖なカリフォルニアに引っ越す際の著者個人の体験に基づく引っ越しの決断で、ちょっとどうかなという気もしました。まあ、ほかのエピソードはともかく、当時の米国オバマ大統領がビン・ラディンを襲撃するに際して行った決断の件だけでも、経済心理学や行動経済学の観点から考えるとこうなる、という考察が示されており、それなりに読む価値はあることと思います。

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次に、新井一二三『台湾物語』(筑摩選書) です。著者は、ジャーナリストを経て明治大学の研究者です。本書の副題は『「麗しの島」の過去・現在・未来 』となっており、台湾等の別名である美麗島にちなんでいます。まず、簡単な台湾の近代史のおさらいですが、日清戦争の賠償の一環として1895年に当時の清から日本に割譲されます。本書に従えば、台湾にいる人々の一部は列強の介入を求めて運動したようです。でも、遼東半島と違って台湾は返還されませんでした。そもそも、朝鮮半島のように戦場になるわけでもなく、どうして台湾が日本に割譲されたのかといえば、まあ、本書では何も触れていませんが、清から見てそれほどの価値がなかった、ということなんではないかと私は勝手に想像しています。そして、1945年の終戦まで50年間に渡って日本の統治下にありました。本書でも盛んに登場しますが、李登輝元総統の言葉で「私は22歳まで日本人だった」というのがあります。帝国主義的な植民地政策の一環でしょうから、良し悪しは別にして、台湾には日本語ネイティブの人が少なくないようです。その台湾も、1949年に大陸で共産党政権が成立して中華人民共和国となり、国民党の残党が蔣介石を筆頭に200キロの海峡を中国本土から台湾に渡って来て、事実上の亡命政権が成立します。日米をはじめとして少なからぬ国がこれを中国正当の国家として認め、国連にも常任理事国として参加したりします。その後、長らく続いた戒厳令も終わり民主化されて、国民党ではない民進党の総統が選挙で選出されたりします。ですから、いまだに本省人と外省人の差別があったりもしますし、国民党政権が渡って来た当初には中国語を理解しない台湾人も少なくなかったといいます。むしろ日本語だったらしいです。そういった日本でそれほど話題にならない台湾にスポットを当てています。観光資源としての有名な名所や温泉地、もちろん、グルメスポットなども紹介されています。昨年度下期のNHK朝ドラの「まんぷく」のチキンラーメン、というか、日清食品創業者の安藤百福も台湾人だと記憶しています。また、本書の中のトピックで、私が唯一知っていたと自慢できるのは2007年に封切られた映画の『練習曲』から流行り始めた「環島」です。主人公がギターを背負って自転車に乗り、高雄から反時計回りに台湾島をぐるっと一周するだけの、ロードムービーです。私は長崎でこの映画の上演会に出席した記憶があります。まあ、同僚教員が参加している市民オーケストラの演奏会にも行きましたし、単身赴任で時間があったんでしょう。それはさて置き、長崎はさすがに東京よりも中国や台湾やアジアに近い、と実感したことを覚えています。なお、知っている人は知っていると思いますし、今の映画の説明でも理解できようかと思いますが、「環島」とは、自転車やオートバイ、あるいは、鉄道でぐるっと台湾を一周することで、島ですから海沿いの道や鉄道が多いらしく、亜熱帯の海の風光明媚なところを堪能できるといいます。海沿いですから大きな起伏もないでしょうし、私も定年になったら自転車で1~2週間ほどかけて台湾を環島したいと、かねがね思っていました。でも、現実は、「貧乏暇なし」でいつになったら体が空くのか判ったものではありません。

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最後に、米澤穂信『本と鍵の季節』(集英社) です。著者は、私も好きな人気ミステリ作家の1人です。主人公は高校2年生の男子生徒2人、堀川次郎と松倉詩門で、ともに図書委員です。ですから、本書のタイトルの前半は「本」となっています。なお、どうでもいいことながら、日本語タイトルの「季節」は上の表紙画像に見られるように、英文タイトルには現れません。そして、後半の「鍵」は主人公のうちの1人が探す父親の自動車の鍵です。地理的な舞台が東京西部の北八王子にあるとされている公立高校の図書室を起点としますから、何となく古典部シリーズと似た雰囲気を感じ取る読者もいるような気がします。6編から成る短編集ですが、第1話の「913」は金庫を開ける暗号ミステリを中心に据えており、私は何かのアンソロジーで読んだ記憶があります。第2話以下の5編は初めてのようです。第2話以下のタイトルは順に、「ロックオンロッカー」、「金曜に彼は何をしたのか」、「ない本」、「昔話を聞かせておくれよ」、「友よ知るなかれ」となっており、最後の2話が鍵にまつわる物語です。高校2年生の男子2人を主人公に、図書室から始まるストーリーながら、それほど軽いトピックではありません。年寄りを死んだことにしたり、美容院の窃盗、校内暴力で割られたガラス、自殺した高校3年生の読んでいた本、そして最後の2話は、犯罪を犯して刑務所に収監されている男が隠した盗品探し、がそれぞれのテーマとなっています。ですから、同じ作者の古典部シリーズとか、小市民シリーズのような日常の話題に即した軽い謎解きミステリではなく、モロに犯罪が絡んで来ますので、その意味で、重いストーリーといえます。しかも、最終話は完結させていません。作者が意図的に完結させていないわけですので、続編はないもの、と私は受け止めています。あるいは、続編があっても、主人公が1人に減っているものと考えられます。最後に未読のファンに対するご注意で、繰り返しになりますが、高校2年生が主人公とはいっても、古典部シリーズや小市民シリーズのような日常的な謎解きを含んだ青春物語ではありません。モロの犯罪や人死にに2人の高校生が向き合っています。
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2019年06月20日 (木) 19:40:00

ご寄贈いただいた『「反緊縮!」宣言』を読む!

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松尾匡[編]『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) をご寄贈いただき早速に、読ませていただきました。去る4月28日付けの読書感想文でバルファキス『黒い匣』を取り上げた際に、本書についても軽く紹介しておきましたが、早速にご寄贈いただき、誠に有り難い限りで御礼申し上げます。まったく、催促したようで、やや下品な気がしないでもありませんでしたので、今後は控えたいと思います。
上の表紙画像の通りに、本書では、左派リベラルの経済政策や経済学について、財政学を中心に金融政策も含めて、幅広く、決して経済政策だけでなく生活者の視点も含めて展開しています。左派と右派の経済政策は、実は、見分けられやすそうで、なかなか違いが判りにくい、というか、経済政策そのものが判りにくくなっているうらみはありますが、私がいつも強調しているように、見分けるべきポイントはいくつかあり、以下に5点ほど指摘しておきたいと思います。第1に、財政政策や金融政策では引き締め的な政策を志向する右派に対して、左派は財政政策では政府支出の拡大や減税、また、金融政策では金利引き下げや量的緩和などの景気拡大的な政策を志向します。第2に、経済学のもっとも初歩的なツールとして2次元的なグラフの需要曲線と供給曲線がありますが、右派は供給面を重視して生産性の向上や規制緩和をはじめとする構造改革の推進などを目指しますが、左派は需要面を重視して賃上げによる所得増やワークライフ・バランスの改善を目指すといえます。同様の需要と供給の観点で、知的財産権を最大限尊重してその期間を長期化しようとする右派に対して、アフリカに対するHIV治療薬の需要に関して、特許を超越する形で供給しようとするスティグリッツ教授のような考え方が左派になります。ケンイズの有名な言葉として、「長期に我々はみんな死んでいる」というのがあるのは広く人口に膾炙しているんではないでしょうか。なお、今の安倍内閣は憲法改正を目指す右派政権であるにもかかわらず、春闘に介入するがごとき態度で企業に賃上げを求めたり、反ブラック企業やワークライフ・バランスの改善を目指しているではないか、との反論はあるんですが、それは後回しにします。ということで、この2点はかなり幅広い合意があるような気がしますが、以下の2点はやや議論あるかもしれません。すなわち、第3に、右派は自由貿易を遵守する一方で、左派は自由で制限ない貿易よりも公正な貿易の推進を求めます。フェアトレードと呼ばれ、途上国の児童労働やスウェット・ショップに左派は反対です。しかしながら、いわゆるカギカッコ付きながら「自由貿易」に正面切って反対するのは、良識あるエコノミストとして、とても勇気が必要です。ただ、価格だけをシグナルとする市場取引の典型が「自由貿易」ですので、私はその意味で「自由貿易」を全面的に肯定するのにはためらいがあります。ビミョーな言い回しなんですが、公正な自由貿易というものはあり得るわけで、公正な自由貿易であれば私は無条件で支持すると思います。ただ、不公正な自由貿易よりも公正な制限的貿易の方がマシな気もしています。もっとも、このあたりは理論的・理念的な表現よりも実証的に解決すべき課題なんだろうとも思います。またまた、反論ある可能性があり、では、関税率引き上げを連発しているトランプ米国大統領はどうなんだ、という見方も成り立ってしまう恐れがあるんですが、これも後回しにします。そして、第4に、第2の観点から派生すると考えるエコノミストもいそうな気がしますが、右派は長期の経済政策を志向し、年金の「100年安心」などを掲げたりしますが、左派は短期の経済政策をより重視するような気がします。そして、最後に第5のポイントとして、今までの4点に通底するところなんですが、右派エコノミストは市場における価格情報をシグナルの中で最大、というか、唯一のの判断材料とする一方で、左派エコノミストは価格だけでなく、さまざまな関連情報、例えば、宇沢弘文教授的なシャドウ・プライスや外部経済的な社会で幅広く関連する価値を認めます。右派エコノミストがカギカッコ付きながら「市場原理主義」と呼ばれるゆえんです。ただし、この最後の4番めと5番めのポイントは、私も実はそれほど自信がありません。左派全体で幅広く当てはまることではなく、ひょっとしたら、私だけかもしれません。その昔に、官庁エコノミストだったころは周囲に左派エコノミストがほとんどいなかったので視野が狭くなり、私の考え方の特徴が左派全体にいえるのではないか、とついつい考えがちになってしまいます。でも、私が所属し奉職していた役所は、その昔に都留重人教授のご指導を受けたことに見られるように、少なくとも私がお勤めを始めたころは、政府官庁の中では左派的でリベラルな雰囲気ある役所と考えられていることも事実です。
さて、留保して後回しにした2点なんですが、私は以下のように考えています。まず、改憲を目指す安倍内閣が左派的な経済政策を採用しているんではないか、という反論に対しては、基本的には、まったくその通りだと私は考えています。現在の安倍内閣は改憲を目指す姿勢はもとより、外交や安全保障では右派政権であることは明らかなんですが、経済政策は日銀とのアコードに基づく超緩和的な金融政策に見られる通り、かなりの部分について左派的な経済政策を採用しています。もちろん、財政政策については、本書でも指摘している通り、2013年度で終了してしまったように見えますし、企業や経団連に対する賃上げ要請やワークライフ・バランスの重視など、まだまだ不十分との見方もあり得ますが、かなりの程度に左派的な経済政策と見なすエコノミストが多そうな気がします。どうしてそうなのかの理由は不明なんですが、左派こそ硬直的な経済政策を放棄して、初期のアベノミクスを十分参考にする必要があるように私には見えてなりません。次の2点めで、トランプ米国大統領の制限的な通商政策をどう考えるか、については、繰り返しになりますが、理論的・理念的な観点ではなく実証的に考えるべきではないかと思います。すなわち、例えば、先週の読書感想文でリチャード・クー『「追われる国」の経済学』を取り上げたところで、それに即して私の独自解釈も含めて少し雑駁に展開すれば、貿易赤字を続ける米国で、まあ、表現はよろしくないかもしれませんが、国内の選挙民の中で貿易上の「負け組」が「勝ち組」を上回ることは十分あり得ることであり、選挙の票数で貿易上の「負け組」が過半数になれば制限的な通商政策を求めることもあり得ますし、当然、ポピュリスト政権ではそういった主張で得票を増加させる戦略を取ることを有利と考える可能性があります。その結果ではなかろうか、という気がしますが、私自身で実証するだけの能力はありませんので、必ずしも十分に自信あるわけではありません。直感的に、そのように感じているだけです。そして、やや強引に視点を我が日本に向けると、国際商品市況の石油価格にも依存しますが、我が国がコンスタントに貿易黒字を計上していたころ、もしも、貿易相手国の児童労働やスウェット・ショップなどの労働条件が著しく劣悪な低賃金労働で生産される製品やサービスを公正な価格を下回る低価格で輸入した結果の貿易黒字であれば、国民がどう考えるかはかなり明らかではなかろうか、と私は受け止めています。ですから、価格だけをシグナルとする無条件に自由な貿易よりも公正な貿易の方を私は志向します。左派エコノミストがすべて同じ見方か、と問われれば自信がありませんが、少なくとも米国のサンダース米国上院議員と私はそうではないか、という気がします。左派の公正な貿易とトランプ米国大統領の制限的な通商政策とは、当然ながら、考え方、捉え方が180度違うという事実、すなわち、トランプ米国大統領の制限的な通商政策は、相変わらず価格だけをシグナルにして、自国産業保護のために輸入価格に上乗せされる関税を課すのに対して、左派の公正な貿易とは自国と他国を問わず児童労働やスウェット・ショップなどの雇用者を搾取する労働をはじめとして、情報の不足する農民から、場合によっては暴力的な手段を用いたりして、農産物を安く買いたたくなどの不公正な取引に反対する、という違いは忘れるべきではありません。
直接、左派と右派の違いには関係ないかもしれませんが、「国民にもっとカネをよこせ!」とはいっても、その際のカネの渡し方にも注意が必要です。井上准教授のチャプターだったと思うんですが、ムダな公共投資というカネの使い方はダメ、といった趣旨の主張がありました。私はインフラ投資一般をムダとは考えませんが、確かに、インフラ投資にムダが多いのは事実です。そして、基本的に、左派は社会福祉や教育の充実による国民への還元をもっと主張すべきと私は考えています。要するに、ホントの意味での福祉国家の実現であり、社会福祉を通じて国民にカネを還元すれば、格差の是正につながることが大いに期待されます。本書のスコープの中で、少し物足りなく欠けていると私が考えるのはこの点です。繰り返しになりますが、国民へのカネの還元方法について、インフラ投資をすべて否定するものではありませんし、まだまだ必要なインフラ投資は積み残されているものがある、と私は考えている一方で、公共投資による国民への還元はいわゆる「土建国家」の旧来手法であり、加えて、カネの渡し方そのものが不公平感を増幅するとともに、実際に格差の是正にはつながらない可能性が高い、と考えるべきです。この「土建国家」的な公共投資によるバラマキに代わって、社会福祉による国民への財政資金の還元の重視は、左派はもっと主張していいように私は感じています。

こういった観点から、本書で展開する左派的な経済学や経済政策から始まって、生活者の実感まで、さまざまな考え方はとても共感できるものです。多くの方が手に取って読むことを願っています。そして、それほど自信ないものの、私の左派的な経済学が、もしも、左派一般に共通する経済学であるのであれば、本書のスコープである財政政策や金融政策にとどまることなく、価格だけをシグナルとして児童労働やスウェット・ショップや農民搾取などを許容しかねない「自由貿易」よりも公正な貿易の観点、また、構造改革や生産性向上などの供給サイドの重視よりも賃上げや所得の増加などを重視する需要サイドの経済学、さらに進めて、「土建国家」を脱却してホントの福祉国家の実現、などなど、もっともっと広範に左派経済学を展開していただきたいと、大きな期待を持って応援しつつ、最後に、安倍政権に何でも反対ではなく、経済政策で参考にすべき部分は受け入れる柔軟性が必要ではなかろうか、という気がします。強くします。
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2019年06月15日 (土) 11:39:00

今週の読書はリチャード・クー『「追われる国」の経済学』ほか経済書中心に計5冊!

このところ、少しずつペースダウンに成功しつつあり、今週は経済書中心に以下の5冊です。リチャード・クー『「追われる国」の経済学』は久々に読みごたえある本格的な経済書でした。なお、今日の土曜日が雨ですので自転車に乗れず、まだ徒歩圏内の図書館しか行けていないんですが、やっぱり、数冊の読書になりそうな予感です。明日の日曜日に近隣図書館を自転車で回りたいと予定しています。うまくいけば小説も読めるかもしれません。

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まず、リチャード・クー『「追われる国」の経済学』(東洋経済) です。英語の原題は The Other Half of Macroeconomics であり、2018年の出版です。この原題の趣旨は後ほどもう一度取り上げます。著者はご存じの通り野村総研のエコノミストであり、世界的にも影響力があると考えられています。これも広く知られたバランシシート不況の主張を本書ではさらに拡大し、「追われる国」あるいは、被追国になれば、サマーズ的な secular stagnation 長期停滞論やインフレ率が上昇せずデフレ的な経済状況が継続することや、金融政策が量的緩和までやっても効果ないことや、はては、1930年代にナチズムやファシズムが台頭した要因までが明らかにされる、というカンジです。なお、出版社の東洋経済のオンライン・サイトには「追われる国」で金融政策が効かない根本理由に関する解説記事がありますので、この読書感想文ととともに参考になるかもしれません。ということで、著者が前々から指摘しているバランスシート不況は、資金の出し手がありながら有望な投資プロジェクトがなく、資金の取り手がいないために貯蓄過剰となり、金融政策の効果が大きく殺がれる、もしくは、ほぼ無効になる、という状況を指しており、本書で何度も繰り返して振り返る p.35 の図1-3の3と4の状態を指します。ここで英語の原題に戻りますが、この図1-3の左側の1と2が主流派経済学の対象とするモデルであり、右側の3と4が The Other Half of Macroeconomics なわけです。そして、その最上級なのが追われる国、被追国であり、労働が生存部門から資本家部門に移動して、ルイス転換点(LTP)を超えて、本書でいうところの黄金期、我が国でいえば、1950~60年代の高度成長期を終了した段階に達すると、国内で投資に対する資金需要が低下するとともに、途上国や新興国といった海外投資が国内投資よりも高リターンになる、というのが被追国で、こうなると、国内投資はますます実行されなくなり、海外投資に資金が流れ、金融政策でいくら金利を下げても、量的緩和をしても、国内での投資が過小となり、逆から見ると、国内貯蓄が過剰となります。貯蓄投資バランスは事後的に必ず一致してゼロとなりますから、民間部門が過剰貯蓄であれば、残る海外部門か政府部門がこの貯蓄を吸収して投資をせねばなりません。海外部門は世界各国で相殺すればでネットでゼロになるわけですから、政府支出で民間部門の過剰貯蓄を吸収せねばいつまでも長期停滞が続くわけですから、先進各国が金融政策に頼っている現状は間違いであり、財政政策で停滞を脱しなければならない、というのが本書のエッセンスです。本書では、それを別の角度から見て、従来の伝統的経済学で暗黙の前提とされている企業部門の利潤最大化ではなく、企業部門が負債返済に最大のプライオリティを置く経済とか、あるいは、中央銀行が最後の貸し手になるをもじって、政府が最後の借り手になる、とかの印象的な表現をいろいろなところで用いています。それなりに、判りやすい表現とか理屈ではないかと思います。私の実感、というか、定型化された事実を矛盾なく表現できるモデルが提示されている印象です。少なくとも、私のような左派の財政支出拡大を主張するエコノミストには、とても受け入れられやすい本書の主張なんですが、おそらく、右派の財政均衡論者には不満が残る点があるんではなかろうかという気がします。というのは、財政支出拡大による収支均衡からの逸脱や政府財政破綻の可能性について、本書は何の論点も提示していません。最近のMMTはもちろん、ケインズ的な長期に我々はみんな死んでいる、といった言い訳もせず、ひたすら無視しています。ある意味で、見上げた態度かもしれません。私はこれで正解だと受け止めているんですが、右派エコノミストの中には難癖をつけたりする人がいるかもしれません。最後に、どうでもいいことながら、開発経済学を専門分野のひとつとする私にとって、ルイス転換点(LTP)がここまで何度も頻出する経済書は久し振り、というか、開発経済学の専門書を別にすれば、初めてかもしれません。第3章では1ページあたり平均3回くらいLTPというのが出てくるような印象です。それなりに感激しました。

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次に、小峰隆夫『平成の経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストのご出身の研究者です。私は研究畑で計量経済モデルをシミュレーションしたり、学術論文を書いたり、それを学会発表したりしていたんですが、ホントの官庁エコノミストというのは「経済白書」を執筆したりするものなんだということを思い起こさせられました。でも、私はこの著者の部下として働いたこともあったりします。ということで、本書でも、その昔の「経済白書」や省庁再編後の「経済財政白書」などからの引用がいっぱいあったりします。なお、本書はこの出版社から出ている「平成3部作」の1冊であり、ほかに『平成の政治』と『平成の経営』があります。私は前者は読んだんですが、対談や鼎談を収録しているだけでした。後者は読むかどうか迷っています。経営についてはともかく、政治と経済については、一般常識として、経済はバブル経済で平成が始まって、バブルが崩壊して長期停滞の後、アベノミクスで何とか復活を遂げつつある、というのが実感で、政治については、消費税の導入で始まって自民党一党与党体制が連立になり、いろいろな連立政権が試行された後、また、非自民の政権交代もあった後、結局、現時点では自公連立政権が支配的、ということなんだろうと思います。そして、いずれにせよ、その政治経済の底流には対米従属があり、米国からの本格的な独立を志向する政権は長続きしない、というのは間違いではないように私は受け止めています。長くなりましたが、本書では、バブル経済でユーフォリアが支配的だった平成初期の経済、さらに、そこに消費税が導入され、景気拡大という自然増収による財政再建ではなく、税制の変更に立脚した財政再建が試みられたところから始まった平成の経済をコンパクトによく取りまとめています。ただ、バブル経済についてはストックの視点だけから語られていますが、私が平成元年の「経済白書』を読んでややショックだったのは、フローの面で日本経済が新たな段階に入って、景気循環は消滅したとは書かれていませんでしたが、かなりの程度に景気循環が克服されたような印象で捉えられていた点です。この平成元年の「経済白書」のフロー面の記述については本書でも注目していません。私からはやや不思議な気がします。私は定年まで経済官庁に勤務していながら、不勉強にして、いまだに経済循環を克服した経済体制を知りません。我が国がアベノミクスでかなり長期の経済回復を果たしたのは事実ですが、現時点で、景気転換局面に差しかかっている可能性を否定できるエコノミストは少ないと思いますし、遠からず、景気は転換する可能性が充分あると考えるエコノミストが多数派ではないかと受け止めています。さて、本書に戻って、私が疑問と考える分析結果が2点あり、ひとつは「実感なき経済回復・拡大」の原因を成長率が低い点に求めていることです。私は賃金上昇率が低かった点が原因ではないかと考えています。すなわち、労働分配率の低下も「実感なき」の一員と考えますし、格差の拡大ももう少しスポットを当てていいんではないかという気がします。第2に、最後の結論で、短期的な需要面の政策ではなく中長期的な構造対策に重点をくべきという考え方です。というのは、従来からの私の主張である右派と左派の違いもさることながら、現在の景気局面を完全雇用から考えるべきではない、と私は考えています。すなわち、完全雇用が達成されているのは景気ではなく、デモグラフィックな人口要因に起因するということはあまりにも明らかであり、完全雇用が達成されたからもう短期政策は不必要、というわけでもなかろうと考えています。加えて、量的な雇用だけでなく、質的な正規・非正規とか、賃金上昇がまだ始まっていないとか、完全雇用が達成された、かどうかはまだ議論あるんではないでしょうか、という気がしなくもありません。

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次に、岡田羊祐『イノベーションと技術変化の経済学』(日本評論社) です。著者は、一橋大学の研究者であり、同時に、公正取引委員会競争政策研究センターの所長も務めています。本書はタイトル通りのイノベーションや技術論に関する大学学部レベルないし大学院博士前期課程くらいの学生・院生を対象に想定しているようです。学生か院生かはそれぞれの大学や大学院のレベルに依存するんだろうと思います。どうでもいいことながら、私が地方大学に出向していた際に、各年版の「経済財政白書」はどの段階で教えるべきか、と考えていたところ、学部3~4年生を想定する教員と大学院博士前期課程を想定する教員と両方いたりしました。本題に戻ると、本書は4部構成であり、第1部 技術変化と生産性、第2部 イノベーションと競争、第3部 イノベーションと組織、第4部 イノベーションと政策で成り立っています。特に、第3部の第8章 技術の複合的連関とシステム市場においては、最近時点でのデジタル経済の発展やGAFAなどのプラットフォーマーに情報が集中する経済における競争政策やイノベーションについて論じていて、この章だけでも大いに得るものがありそうな気がします。ということで、イノベーションや技術革新といえばシュンペーターの名が思い起こさせられますが、本書でもシュンペーターが掲げた2つの仮説、すなわち、独占的な市場ほど技術変化が起こりやすい、および、企業規模が大きいほど技術変化は効率的に遂行される、の2点を軸に議論が展開されます。独占とイノベーションの関係については、特許により事後的な独占が期待できるのであればイノベーションのインセンティブは高まる一方で、事前的に市場独占が形成されていればイノベーションの必要なく大きな利潤を上げることができることから、イノベーションのインセンティブは決して高くないとも考えられます。企業規模についても同様に、余裕資金あればイノベーションの活発化につながる一方で、十分なキャッシュフローは革新へのインセンティブを殺ぐ場合もあり得ないことではありません。本書では、こういった理論的なモデルを展開しつつ、我が国のイノベーション環境についても概観しているわけですが、私のようなシロートが見る限り、イノベーションの基となる技術開発については何らかの外部効果を伴うわけであり、その意味で、イノベーションへのリソースのインプットは過少になる可能性がありますから、何らかの公的資金の投入が必要とされる場面も想定すべきことはいうまでもありません。本書では、それなりにイノベーションについて鳥瞰的な広い視野から、かつ、包括的に学習できるように工夫されています。ただ、本書の冒頭にあるような意図のひとつである実証的な研究に対しては、少し手が伸びていないような気もします。

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次に、譚璐美『戦争前夜』(新潮社) です。著者は東京生まれの中国人文学者です。本書のサブタイトルは「魯迅、蔣介石の愛した日本」となっており、日本への留学経験あるこの2人の中国人文豪と軍人を通して日中関係、特に、1930年代の日中戦争前までの日中関係に光を当てようと試みています。私の目から逆に見て、徳川期の鎖国を終了して明治維新を迎え、日清戦争や日露戦争で対外的な領土拡大を成し遂げた一方で、さらに大正デモクラシーの背景をもって、日本人が中国大陸や台湾を含め、あるいは、本書ではややスコープ外ながら、東南アジアやさらに欧米まで、ひょっとしたら、21世紀の現時点よりも国際化、というか、対外進出が、いい意味か悪い意味かを別にすれば、進んでいたような印象を持ちます。日本人が外国に留学に行ったり、あるいは、魯迅と蔣介石の例のように留学生を受け入れたり、といったのはいい例のケースが多そうな気がする一方で、軍事力の背景をもって対外進出を強行した例も決して無視できない可能性があります。いずれにせよ、魯迅と蔣介石の例のように中国から留学生を受け入れていた本書の時期はほぼほぼ100年前であり、戦争や中国大陸での共産革命、さらに日中国交樹立から今世紀に入っての尖閣諸島の領有をめぐる確執などなど、さまざまな日中関係の原点が100年前にあったのかもしれません。東アジアでは一足先に開国と近代化というよりは西洋化を進めた日本に対して、中国では解放改革が遅々として進まず、日清戦争では日本に敗れ、20世紀の辛亥革命による近代国家の成立を待たねばなりませんでした。辛亥革命後も混乱が続いたのは、明治維新後の日本と対照的な気もします。もちろん、本書はそういった国内政治や、あるいは、外交・安全保障などをテーマにしているわけではありませんが、その一端はうかがい知ることができます。というのも、主たる舞台は日本では東京であり、中国大陸では上海となっていますが、中国政府のあった北京も時折登場します。また、決して既存文献の渉猟に終始することなく、何人かの関係者の末裔にインタビューするなどといった著者のアクティブな取材に基づく記述も見受けられます。もちろん、魯迅と蔣介石のたった2人だけによって広い中国を代表させるのは無理があるわけですが、ひとつの視点として大いに代表性はあるような気もします。

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最後に、尾脇秀和『壱人両名』(NHKブックス) です。著者は、神戸大学の研究院であり、専門は日本近世史です。私はこの著者の『刀の明治維新』(吉川弘文館) を読んだことがあり、昨年2018年10月7日の読書感想文で取り上げています。ということで、本書では、私のようなシロートには「士農工商」としか知らない徳川期の身分制度における方便のような事実上の抜け穴となっていた「壱人両名」の実態について、決して体系的ではないんですが、個別の史実を積み上げて、解明を試みるよいうよりは、例外的な身分制度上の取り扱いが存在した、という事実を世間に明らかにしようとしています。ノッケから、公家の正親町三条家に仕える公家侍の大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の例を持ち出して、この2人は名前も身分も違うが、実は同一人物である、といった徳川期の身分制度の例外的な扱いを明らかにし、常識的な徳川期の身分制度しか知らないシロートの私のような読者に、例外的で決して多数に上るとは思えないながら、それまでの常識を覆すような事実を突きつけて本書は始まります。日本近世の封建制度下にあっては、氏名、服装、職業、住居などなどの個人の属性が身分によって固定化されており、しかも、おそらく戸籍上の把握や納税の便だと思うんですが、人別と支配があり、それを二重に持っていながら、実は自然人としては1人である、といった例を豊富に持ち出し、その上で、こういった「壱人両名」が建前としての制度からはみ出ていながら、実態に即する形でまかり通っていた事実を明らかにしています。ただ、融通を利かせる目的で黙認された例もあれば、ご本人の我がままのために勝手・不埒な「壱人両名」と見なされて、あるいは、もとより徳川期には違法とされていたことから、何らかの処罰を受けた例まで、いろいろと取りそろえられています。ただ、今となってはどうしようもありませんが、実印から同一人物と特定するのであれば、個別のケーススタディに終始するのではなく、例えば、特定の一村においてどのくらいの割合の「壱人両名」が存在したのかについて、何らかの統計的な把握を試みることはできなかったのか、とやや残念な気もします。徳川期の天下泰平の下で、お役に着けない貧乏御家人が内職に励んだのは有名なお話で、私が長らく勤め上げた公務員に兼職や副職が原則として認められなかったのとは大違いで、そういった内職的な役割を別に持つというノリと同じような気もします。もちろん、そもそも、御家人の内職や本書で注目している「壱人両名」の存在が歴史の大きな流れに何らかの影響を及ぼしたとは、私は決して思いませんが、歴史的な教養というか、それなりの学識ある教養人の話題を豊富にするという意味はあるような気がします。従って、本書のような歴史上の細かなネタを展開した本は私は大好きです。
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2019年06月09日 (日) 14:22:00

先週の読書はライトな経済書と変わり種の『元号通覧』をはじめとして計8冊!!!

先週の読書も経済書はややライトながら、当然のように入っているものの、小説なしで計8冊でした。森鴎外の手になる変わり種の『元号通覧』も入っています。実は、今週に予定している読書についても、すでに図書館回りを終えていて、経済書をはじめとして数冊手元にあるんですが、新刊の小説は借りられていません。一昨年の2017年に新約が出たチェスタトンの「ブラウン神父」シリーズの創元推理文庫の5冊は先週末から今週末にかけて読んだものの、特に取り上げるつもりもなく、新たな出版として、今年に入ってから話題の小説、『本と鍵の季節』、『ノースライト』、『シーソーモンスター』、『平場の月』、『そして、バトンは渡された』、『続 横道世之介』、『魔眼の匣の殺人』、『検事の信義』などなど、いくつかの図書館に分割して予約してあるんですが、スタートが遅れてなかなか順番が回って来ません。3月末で定年退職してから2か月余りの期間で、文庫も含めて小説はまだ10冊に達していなかったりします。

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まず、松元崇『日本経済 低成長からの脱却』(NTT出版) です。著者は財務省出身の官僚で、第2次安倍内閣の発足時に内閣府の事務次官を務めていたそうです。私はその時には、総務省統計局でのんびりしていて、内閣からは遠くでお仕事していましたので、よく判りません。ひょっとしたら、私の先輩筋に当たる官庁エコノミストだったのかもしれませんが、現在は、財務省OBらしく国家公務員共済組合連合会理事長に天下りしているようです。ということで、本書の主張は極めて明快で、現在の我が国の低成長は少子高齢化の必然的な帰結でも何でもなく、いわゆる終身雇用と称される融通の効かない硬直的な雇用システムの下で、企業が労働生産性を上げるような投資を行っていないためである、と結論しています。ですから、雇用の流動化を図って生産性の低い部門から生産性の高いセクターに労働が移動できるようにするとともに、その生産性高いセクターで積極的な生産増に結びつく投資が実行されることが必要と結論しています。私の従来からの主張の通り、右派エコノミストは緊縮財政を主張し、供給サイドを重視し、自由な貿易に力点を置きます。この著者の立場そのものといえます。他方、私のような左派エコノミストは財政支出拡大を主張し、需要サイドを重視し、自由貿易よりも公正な貿易を目指します。まず、生産性と労働移動なんですが、我が国の高度成長期のしかも初期のように、農業などの生存部門から限界生産性がゼロの労働力が資本家部門のような限界生産性で賃金が決まるセクターに移動することによる生産性の上昇は、極めて一時的な現象であり、ルイス・モデルの二重構造が解消される一時的、というか、1回限りの経験でしかありません。二重経済が解消された後の我が国経済の現実は、生産性の高いセクター、典型的には電機産業などの労働力が相対的に減少する、という形で進みました。高生産性セクターの絶対的な雇用者数は増加を示したかもしれませんが、シェアという意味で、相対的には雇用者の縮小が続いています。ですから、ルイス的な二重経済の解消の時期における農業などの生存部門から製造業などの資本家部門への労働移動を、二重経済解消後にも適用するというのにはムリがあることはキチンと認識すべきです。その上で、財政政策や金融政策が長期的に供給サイドに影響しないというのは、百歩譲って認め、ケインズ的なアニマル・スピリットやスンペーター的な創造的破壊も重要だとはいえ、短期的には需要の高まりによる生産性向上もあるという点は忘れるべきではありません。決して、長期には我々はすべて死んでいるとは思いませんが、短期的には需要から生産性向上がもたらされるルートは再確認すべきです。それから、我が国とスウェーデンの大きな違いは、増税などで政府が国民から負担を求めても、スウェーデンのような福祉国家では医療や年金のような社会保障、あるいは、教育のような実物により国民への還元が図られるのに対して、我が国のような土建国家では土木建設業界だけが潤うことに対する拒否反応があるのは、財政支出の査定を行う主計部門を経験した財務官僚として認識されていないのはとても不思議な気がします。福祉国家ではない土建国家で負担増に対する拒否反応が強いのは当然です。雇用の流動化や企業の投資の前に、国民の税金を還流する仕組みとして、行政システムの福祉国家化が財政再建のためには必要不可欠と私は考えています。

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次に、経済同友会『危機感なき茹でガエル日本』(中央公論新社) です。基本的に、タイトルから想像される通り、危機感を煽るお説教本なんですが、読む前の私の印象としては、ゴールドマン・サックス証券にいたデービッド・アトキンソン氏の著書と同じではないか、といったところの感覚でした。ただ、本書ではアトキンソン本よりも悲観的な色彩が強く、逆に、さすがに経済同友会という大きな組織をバックにしていますので、アトキンソン本のような印象論よりも、さらに一歩進めた緻密さがあるような気がします。でもまあ、同列に論じる読書子がいても不思議ではないかもしれません。ということで、本書では、世界中で進む3つの大きな潮流、すなわち、グローバル化、デジタル化(IT化やAI化など)、ソーシャル化の流れの中で、日本がどんどん世界のライバルに遅れを取り、諸課題に対応できない事態が続いているとの基本認識の下、経済同友会が昨年2018年12月に打ち出した Japan 2.0 の実げに向けた提言を集めています。ただ、本書では目標設定として、国連への配慮でもないんでしょうが、あるべき未来を持続可能な社会とp.36で明記している一方で、まったく別の目標に向かうような記述も少なくありません。というのも、上の表紙画像にも見られるように、国家価値を3次元的に捉えて、X軸=経済の豊かさの実現、Y軸=イノベーションによる未来の開拓、Z軸=社会の持続可能性の確保、と表現しようとしているんですが、それでは、p.36の持続可能な社会は3軸のうちのひとつにしか過ぎないのか、という気もします。強くします。あるいは、私の読み方が悪いんでしょうか。逆に、というか、当然かもしれませんが、悲しいことに、企業がいかにもっと儲けられるかに終始していて、持続可能性は財政や社会保障に歪曲化されているような気もします。ですから、労働者のワーク・ライフ・バランスとか、所得たる賃金とか、そして、雇用者の所得が消費に向かう好循環などはまったく念頭になく、現状を私なりに観察するに、賃金をミニマイズして、ひたすら企業収益を上げたい、ということに尽きるようです。もう少し、CSR的な企業の社会的な責任や責務のような視点が盛り込まれているかと期待しましたが、まったくダメなようです。そして、本書のタイトルとなっている「茹でガエル」が企業経営者のことも、控えめにいっても、含まれている、ケース・バイ・ケースながら、大きな部分を占めるケースも決して少なくない、という視点は持ち合わせていないようです。私には広く知られた事実だと思っていたんですが、日本人が認知的な能力のレベルでも、雇用者としてのまじめさなどの非認知的な能力でも、世界の中でもっとも優秀なパフォーマンスを上げる能力ある点については、経済開発協力機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査(PISA)」などでも実証されているところであり、他方で、日本ほど賃金が上がっていない国も少ないわけで、これだけ優秀な人材を低賃金で雇用できていながら、本書にもあるようにフォーチュンの企業ランキングから見て、サッパリ日本企業の業績が上がらないのは、アトキンソン本で時折主張されているように、経営者に問題があるのではないか、という合理的な疑問が生じるのは当然です。その点にもう少し経営者もチャーチル的に正面から立ち向かう必要があるんではないでしょうか。でも、最後に、その昔の経団連の事務局職員は官僚ならぬ「民僚」と呼ばれていて、前例踏襲などの現状維持バイアスが極めて強いやにいわれていたんですが、経済同友会については、私も長崎大学経済学部に出向していた2010年に都市経営戦略策定検討会提言書『みんなでつくろう 元気な長崎』の策定に参画した経験などから、それなりの問題意識を持って改革に取り組もうという姿勢があり、この点は大いに評価すべきかもしれません。

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次に、マイケル・ヘラー『グリッドロック経済』(亜紀書房) です。著者は米国コロンビア大学ロースクールにおいて不動産法担当の研究者であり、著者略歴にはアッサリと「開発援助関連調査に従事」以外に何ら言及ないんですが、本書の中で何度かロシアや東欧での私権設定に関する世銀の移行国援助に携わった経験からの記述が見受けられます。実は、私自身も1990年代半ばにポーランドにおける移行国援助のプロジェクトに参加した経験があり、開発経済学はそれなりの専門分野なんですが、法律家の開発援助はやや畑が違いそうな気がします。英語の原題は The Gridlock Economy であり、邦訳タイトルはそのままです。邦訳者によるあとがきにもあるように、リーマン・ショック前の2008年の出版ですが、特に記述が古いとかの問題はないように感じました。どうでもいいことながら、邦訳者のサイトに安芸書房から出版される前の2017年1月時点でのpdfファイルがアップされていたりします。特にセキュリティがかかっている様子もなく、やや恐ろしい話だと思わないでもないんですが、「グリッドロック経済」へのアンチテーゼを自ら実践しているのかもしれません。そのうちに削除されるかもしれませんが、まあ、何らご参考まで。ということで、本書で著者は、知的財産権も含めて、所有権とか細分化すると、あとあと収拾つかなくなって身動きとれなくなり、過少利用 underuse に陥りかねない、と警鐘を鳴らすとともに、その解決法を提示しています。有名なハーディン教授の「コモンズの悲劇」では、多数者が利用できる共有資源が過剰利用されて乱獲の末に資源の枯渇を招いたりするとされている一方で、利用権などの権利関係が複雑に絡み合ったグリッドロック状態になると過少利用になる、というわけです。ですので、「第1章からアンチコモンズの悲劇と章題を設定して本書を始めています。第2章の用語集の後、第3章からグリッドロック状態について米国経済を基に、薬の開発における知的所有権のグリッドロック、電波割り当てのグリッドロック化による周波数帯の過少利用、著者の専門分野である不動産のグリッドロック、特に、本書の随所で均等相続やそれに近い分割相続による土地所有の分散から土地利用が過少になっている例がいっぱい取り上げられています。そして、資本主義への移行段階でのロシアの所有権問題、さらに、オープンアクセスにもかかわらず絶滅しないチェサピーク湾の牡蠣に着目し、最後に解決のためのツールキットを提示しています。ただ、その解決策は極めて地味というか、時間もかかれば段階も踏むタイプの従来から存在している予防策とか、行政による私権制限などの力業の解決策であって、みんながアッと驚く新しい画期的なものではありません。よく、パテント・トロールと称されるように、このグリッドロックを利用して金もうけに走っている不埒な企業もあり、あるいは、グリッドロックになっていなくても知的財産権が先進国企業の業績向上にはつながっても、途上国の経済開発には決して役立っていない現状については、世銀副総裁を務めたスティグリッツ教授などがよく主張しているところです。そういった開発経済学の観点からも大いに参考になる内容でした。

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次に、スティーヴン・プール『RE: THINK』(早川書房) です。著者は、英国のジャーナリストであり、言語とか文化・社会に関するコラムなどを執筆しているようですから、日本的な分類ながら、理系ではなく文系なんではなかろうかと私は受け止めています。ということで、本書でも当然に言及されていますが、ニュートンの有名な表現で「巨人の肩」というのがありますし、本書では引用されていないながら、経済学ではケインズの誰かしら過去の経済学者の奴隷という表現もあるところ、大昔であればまだしも、21世紀の現在に至れば、それなりに優れたアイデアはもちろん、まったくモノにならない誤っているにもかかわらずゾンビのように何度も復活を繰り返すアイデアも、すでにほぼほぼ出尽くしていて、もはや、根本的に新しいアイデアというのはないのかもしれないとの視点から本書は書かれています。基本的に3部構成であり、第1部で、アフガニスタンで展開する米軍で騎馬部隊が復活したとか、医療用ヒルの活用とか、現在の認知行動療法でギリシアのストア主義が復活したとか、こういった例がたくさん取り上げられています。特に、ゼンメルヴァイスの消毒の例が典型なのかもしれませんが、誰かがそのアイデイアを思いついた当時はブラックボックスで、何がどうなって有益な結果が導かれるのかが、サッパリ解明されていなかったので、無視されたり、普及しなかったりして忘れられていたアイデアが、その後の科学的な知見の蓄積を経て、その後、あるいは、現時点で見直されて取り入れられる、ということがいくつかあるようです。逆に、まったくモノにならず誤っていることが明らかであるにもかかわらず、何度も繰り返して復活するゾンビのようなアイデアもあり、本書では地球は球体ではなく平面である、という例が取り上げられています。このアイデアのカッコ付きの「信者」は、その信念を否定する情報をフェイクニュースと見なすようです。また、びっくりしたんですが、ユニバーサルなベーシックインカムも古くからあるアイデアだと紹介されていますし、先週の読書感想文で取り上げたばかりのアイデアで、選挙によらずしてくじ引きで代表を選出する民主主義とかのアイデアも取り上げられています。中国由来の四文字熟語ですから本書では登場しませんが、「温故知新」という言葉を思い出してしまいました。でも、本書では、ほぼほぼすべてのアイデアはすでに世の中に存在している、とは主張していますが、もちろん、過去の事例を参考にすべきとか、ましてや、前例踏襲を推奨しているわけではありません。ミョーにオリジナリティを重視する傾向ある人に対しては、それなりの反論材料になりそうな気もします。

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次に、ポール R. ドーアティ & H. ジェームズ・ウィルソン『HUMAN+MACHINE』(東洋経済) です。著者たちは、アクセンチュアのコンサルです。邦訳者も同じコンサルティング・ファームの日本法人にご勤務のようです。ということで、コンサルらしく、マシン、本書ではほぼほぼイコールで人工知能(AI)と考えていいんですが、AIは人間の仕事を奪わないという前提で、人間とAIとの協調・共存、特に、企業における人間とAIの共同作業による生産性の工場や売上アップなどについて解説を加えています。この人間とAIの協働については、冒頭から章別に、製造とサプライチェーン、会計などのバックオフィス業務、研究開発、営業とマーケティングなどなど、企業活動に即して議論を展開しています。先週の読書感想文で『データ・ドリブン・エコノミー』を取り上げた際にも同じことを書きましたが、AIやITの成果を語る際に、生活面での利便性の向上や娯楽での活用では、私はモノにならないと考えています。すなわち、AIとはいっても、シリに道順を聞いたり、アレクサにトイレットペーパーを発注させたり、ましてや、リアルなゲームで遊べるとかでは、経済社会上のインパクトはそれほど大きくないと考えるべきです。『データ・ドリブン・エコノミー』や本書で展開されているように、企業活動、というか、生産の場でのAIの活用がこれからのホントの量的な生産性向上や質的なイノベーションにつながるという意味で、経済社会の進歩への貢献が大きくなると考えるべきです。いくつかの視点をコンサルらしく、上手に整理して、さらに、ポイントを的確に指摘しているように見えますが、とても大げさ、というか、現実離れした指摘が半分くらいを占めているような印象があり、どこまで普遍的な適用可能性があるコンサルティングだろうかと疑問に思わないでもありません。ただ、私は定年退職するまで延々と公務員を続けてきましたので、民間企業の生産活動の実態に疎いことは自覚していますので、ホントに自信がある疑問ではありません。ただ、MELDSの5つの視点からのフレームワークが提示されていますが、ハッキリいって、具体性に欠けます。まあ、スポーツの場での技術論ではなく、精神論を展開しているような印象があります。日本人はこういった精神論的な提言が好きかもしれませんが、どこまで役に立つかは不明です。やや、上滑りした議論が展開されている印象であり、そもそもの出発点で、AIと人間が協働できるか、それとも、人間労働はAIに駆逐されるのか、について、真剣な検討・分析がまったくなされていないのが気がかりだったりします。ただ、こういったコンサルティングで成功する企業もありそうな気がしますが、それを普遍化する営業活動をアクセンチュアはするんでしょうね。営業活動をそのまま受け入れるばかりではなく、語られない失敗例があるかどうか、見抜く目が必要かもしれません。

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次に、松尾豊『超AI入門』(NHK出版) です。著者は、東大の工学系の特任准教授であり、人工知能(AI)などの最先端技術の専門家であり、NHKのEテレで毎週水曜日の夜に放送されている「人間ってナンだ? 超AI入門」の司会や解説をしています。この番組は現在シーズン4に入っていますが、本書は2017年から始まったシーズン1全12回のうちの著者の担当した放映6回分を講義の形で提供しています。巻末に専門家2氏のインタビューを収録しています。私はこの番組を定期的に見ていないので、よくは知らないながら、たぶん、シーズン1ですから最初の方の「入門の入門」といった部分なんだろうと想像しています。まあ、私のテクノロジーに関する見識はたかが知れたもんですし、すでに定年退職した身として、今後のキャリアアップのための自己研鑽などの意欲はかなり低いわけで、世間一般についていくための常識的な内容が判っていればいい、という学習・読書態度だったりします。ですから、先週か今週に読んだ本にあったんですが、アインシュタインの言葉ではないかとされている電信に関する解説があり、電信とはとても長い猫のようなもので、ニューヨークで尻尾を引っ張るとロサンゼルスでニャアと鳴く、無線電信の場合は猫がいないバージョンである、といった引用があり、私の技術=テクノロジーに関する知識はこんなもんだろう、としみじみと実感した覚えがあります。「超」がつくくらいのAIの入門書なんですが、私のAIに関する知識といえば、ビッグデータという言葉があり、まあ、今でもありそうな気がするところ、ビッグデータのような極めて大量のデータ、テキストデータでも、画像データでも、動画データでも何でも、をコンピュータにインプットしてディープラーニングなる機械学習をさせれば、過去の例から確率の高い回答を作るあるいは選ぶことができる、といった程度です。AIには、私の考えでは、人間的な意識や心といったものはなく、過去のデータに基づいて外からか自らか評価関数を設定し、得られたデータと組わせて、将来の予測を立てたり、何らかの選択肢の中からもっとも適当なものを選び出す、という機能を持つコンピュータの動作です。そして、これらを応用すれば、人間が労働やゲームなどで対外的に働きかける何らかのアクションを代替できる、ということなんだろうと受け止めています。ですから、生産現場でロボットアームにインストールされて溶接や塗装を実行することも可能となりましょうし、絵画の作成や音楽の作曲や文学作品の執筆なども3Dプリンタなどの適切なハードウェアと組み合わせれば、十分可能です。哲学的に考えれば、本書でも取り上げられているように、チューリング・テストや中国語の部屋やといった議論があるのは私も理解しますが、すでに定年退職したもののエコノミストとしての感覚から、実践的なAIの活用という面からは、関係は薄いと感じざるを得ません。ただ、異性からの愛の言葉のようなものをうまく合成してささやくことは可能であるような気がします。後は、こういったAIの実践的な機能を基にして、人間の方でいかにうまくAIを活用するか、あるいは、マッド・サイエンティストのような人物が現れて、あるいは、マイクロソフトのテイの実例があるように、AIが自ら暴走して、その結果として世界はムチャクチャにされるのか、それは防止できるのか、といったところは気がかりです。

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次に、新井和宏『持続可能な資本主義』(ディスカヴァー携書) です。著者は、金融機関勤務からリーマン・ショックを機に、鎌倉投信というファンド運営会社を立ち上げたらしく、私は少し前の同じ著者の『投資は「きれいごと」で成功する』というきれいごとの本を読んだ記憶があり、よく似た内容であったような気がしますが、記憶はやや不確かです。本書は、2017年出版の単行本を新書化したもののようで、部分的に古くなっているところも散見されますが、大筋では問題ないと受け止めています。ということで、我が国でいえばバブル経済期くらいまでの右肩上がりの拡大型の資本主義を批判している趣旨なんでしょうが、まあ、言い古された長期的な視野の重要性とか、その昔の近江商人の「三方よし」を超える「八方よし」と著者が名付けた、株主だけでない幅広いステークホルダーへの配慮とか、ありきたりな部分を別にすれば、私から見れば、現在の経済システムにおける3点の問題を指摘しているように受け止めています。第1に、企業活動の外部経済性、というか、スピルオーバーをきちんとカウントし、かつ、第2に、市場における情報の非対称性をいかに克服するか、ということに加えて、第3に、資源配分の効率性の追求だけでなく、所得分配の公平の実現に重点を置く、ということだと解釈すべきではないでしょうか。すなわち、第3の点から考えれば、本書の著者の底流にある考えでは、あくまで私の想像ですが、右肩上がりの拡大型の資本主義においては、増分をうまく分配することにより、社会を構成する全員の経済厚生を改善することができていたところ、成長がかなり低くなり、こういった増分を望めなくなった段階で、生産や消費に使用される事前的な資源の分配から事後の所得分配に重点を置くべきなのですが、そうならずに格差が拡大しているのが現実です。そして、第1と第2の点に関しては、もともと、主流派経済学でも市場の失敗であると認識されていて、何らかの政府の介入が必要とされるところなんですが、著者はこれを企業の力、というか、著者の勤務する鎌倉投信のような金融機関とその投資・融資先である企業の活動の方向を少し違えることにより実現できる、と主張しているように私は受け止めました。特に、治者の主張の実現性は企、業の社会的な役割を重視する日本的な経営風土の中では、英米的な市場原理主義に近い資本主義下よりも実現性が高い、と認識されているようで、この点については私も反論はありません。ただ、資本主義下では市場ですべての情報が利用可能なわけでもなく、情報の非対称性というのは完全には解消されません。しかるに、情報が非対称であるにもかかわらず、財・サービスに付随する情報はほぼほぼ価格、すなわち、貨幣単位で表現されてしまいます。このあたりは、著者のような目利きの専門家であれば貨幣単位で評価された価格以外の情報も得られる可能性あるものの、私のような一般消費者には見抜けない可能性が高く、何らかの支援が必要そうな気がします。この点について、著者は決して上から目線ではありませんが、「自分にはできるので、経営者は同じことをやればよい」ということを主張するばかりで、一般消費者が視野に入っていない懸念があります。企業経営者に語りかけるだけでなく、もう少し、決して専門知識が豊富なわけではなく、目利きではない多くの読者や一般消費者への温かいまなざしが必要ではないでしょうか。

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最後に、森鴎外『元号通覧』(講談社学術文庫) です。著者は、いわずと知れた明治の文豪ですが、最晩年に本名の森林太郎として宮内省図書頭に任ぜられ、本書の執筆、というか、編纂に当たっています。ただし、本書未完のまま鴎外は亡くなりましたので、図書寮の部下であった吉田増蔵氏によって補訂されています。何と、令和に改元された本年2019年5月1日の出版です。出版社はこのタイミングを狙っていたんだろうと思わないでもありません。森鴎外は1922年大正11年に亡くなっていますので、昭和と平成、もちろん、令和には言及されていないものの、大化から大正までの250近い元号が列挙され、その典拠から不採用になった候補に至るまで、日本の元号が一望できます。元号の百科事典のような本かも知れません。本書にして正しければ、令和は今まで一度も候補になったことはないようです。他方、明治は過去10回も候補になっているそうです。元東京都知事の猪瀬直樹の解説です。最初のページから最後まで通読するたぐいの本ではないでしょうし、元号に何ら関心ない私はパラパラとめくっただけですが、この時期ですので、元号に関する知的好奇心がくすぐられる読者がいそうな気がします。たぶん、あくまで私の想像に基づくたぶん、ですが、多くの図書館で購入・蔵書しているような気がしないでもありません。
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2019年06月01日 (土) 11:40:00

今週の読書は読み応えあった経済書をはじめとして小説なしでも計7冊!!!

公務員を定年退職して、今はパートタイムの勤務を続け、それなりに時間的な余裕あるものですから、読書が進んでいる気がします。今週も、新刊の小説にこそ手が伸びませんでしたが、一応、3年ほど前の『海の見える理髪店』なんぞを読んだりもしています。新刊書の読書ではありませんから読書感想文には取り上げていません。新刊書としてはなかなかに感銘を受けた経済書の『データ・ドリブン・エコノミー』をはじめとして、以下の通りの計7冊です。

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まず、森川博之『データ・ドリブン・エコノミー』(ダイヤモンド社) です。今週一番の読書でした。とても得るものがあったような気がします。著者は東大の工学系の研究者です。表紙の見開きにあるんですが、過去20年はデジタル革命の助走期であって、まもなく飛翔期を迎えデジタルが社会の隅々まで浸透する、という現状認識や将来予測には、これだけで敬服すべきものがあるように感じました。ただ、一連の動向がバブルの崩壊を経て再び台頭し、ホンモノになるためには30~40年を要するので、新の意味でデジタル社会が到達するのは2040年以降、というのは、やや筆が滑っているような気がしないでもありません。私はたぶん生き長らえていることはないと思います。ということで、いくつか秀逸な点が含まれた読書だったんですが、例えば、UberやAirbnbに見られるような物的資産のデジタル化とか、製造業のサービス化とか、今までにもさんざ聞いたような内容なんですが、私が特に感銘を受けたのは、今までGAFAなどはインターネット上でやり取りされるウェブデータを集めていた一方で、本書の著者は、これからはリアルデータの収集が重要となると指摘し、リアルデータは1社では集め切れないので、我が国にもまだチャンスが残っている、という点です。すなわち、ウェアラブル端末で収集した体調管理上のデータ、あるいは、POSデータなどのヴァーチャルな世界ではないリアルな世界から得られるデータの収集を重視すべきと主張しています。そして、製造工程やサービス提供のプロセスにおける地味ながら必要な作業のデジタル化、例えば、パトランプの監視などのデジタル化が今後進む、というか、進めるべき分野と指摘しています。まったく、私もその通りだと考えています。というのは、30年近くも前にインターネットの普及に関する書評をある雑誌に依頼されて書いたことがあり、その際に、インターネットやその関連技術について、生活や娯楽の場での活用ばかりを指摘していて、生産現場での活用がない限り、ホントの意味での経済社会での活用とはいえない、と難癖をつけた記憶があり、昨年2018年9月15日に取り上げたロバート・ゴードン教授の『アメリカ経済 成長の終焉』の読書感想文でも「現在進行形のIT産業革命についても、生産の現場におけるイノベーションというわけではなく、国民生活における娯楽や生活様式の変化に及ぼす影響の方が大きく、生産性向上や生産の拡大にはつながりにくい」との評価を下していたんですが、本書の著者によれば、それはまだ助走期だからであって、こさから飛翔期に入れば本格的に生産現場で活用される、ということなんだろうと理解しました。生産現場のデジタル化をここまで重視した論考は初めて接しました。今週の読書の中で一番のオススメとする根拠です。

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次に、クラウス・シュワブ『「第四次産業革命」を生き抜く』(日本経済新聞出版社) です。従来の産業革命を凌駕する経済社会へのインパクトを有する可能性ある第4次産業革命については、生産性の飛躍的な向上やテーラーメイド的な消費者ニーズへの細かな対応など、今までにない特徴あるとともに、とてもdisruptiveな技術と指摘されています。ですからこそ、将来を考える際の視点としては、公平な分配、外部生の包摂、人間の尊厳の回復の3点が忘れられるべきではない、と著者は主張しています。ただ、公平な分配を考える際に、格差を25%タイルで考えているようで、上位1%でもバフェットのいうように「連戦連勝」なわけですから、もう少していねいな視点も必要そうな気もします。特に、AIやロボットが本格的に生産現場に投入されることにより生産性が向上すると仮定すれば、その果実は誰に分配されるのか、資本家階級という言葉はもはや死語なんでしょうが、AIやロボットと協働しない人々の方が、AIやロボットと協働し、あるいは、生産現場から排除される人々よりも多く分配されるとすれば、大きな不公平感が残る可能性は指摘しておきたいと思います。もちろん、こういった問題意識は著者にもあり、多くのステークホルダーと協働して、先行きの変化を見極めてビジョンを共有できるようにし、想定した人々が恩恵を受けられるようなシステムを構築する、あるいは、そういったシステムに変えていく「システム・リーダーシップ」という新しいリーダーシップを提唱しています。本書p.350のあたりです。頭の回転が鈍い私には、どうもピンとこないですが、こういったリーダーシップは従来は国内的には政府や政権党がエリートを軸に保持し、世界経済の場では覇権国に付与されていたような気がします。欧米先進国のいくつかでポピュリズムが伸長し、例えば、トランプ米国政権の「アメリカ・ファースト」のように、世界的なビジョンが共有されなくなったという現実の反映なのでしょうか。それとも、第4次産業革命に付随する何らかの特徴に基づくものなんでしょうか。私にはイマイチ理解できませんでした。もっとも、本書は基本的にダボス会議に集まるようなグローバルな場で活躍するリーダー向けに書かれているんでしょうから、私のような一般ピープルには難しすぎるのかもしれません。なお、新たなテクノロジーについてはもっと理解できませんでした。すなわち、ブロックチェーン、IoT、AIとロボット、先進材料、3Dプリント、バイオテクノロジー、ニューロテクノロジーなどなどです。2年半前の前著である『第四次産業革命』も私には難解だったんですが、さらに磨きがかかった気がします。

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次に、大沢真知子ほか[編著]『なぜ女性管理職は少ないのか』(青弓社) です。著者は日本女子大の研究者であり、本書はまさにタイトル通りの質問に答えようと試みています。広く知られた通り、我が国では女性の社会的進出が遅れているとされており、比較対象としては、先進国はもとより、いくつかのアジア諸国と比べても、例えば、本書のテーマである女性管理職比率は低くなっています。最近の論調では国会議員などの公職の議員比率が議論されたりしていますが、そこまでいかなくても、企業の女性管理職比率が低いのは事実だろうと私も感じています。私自身は定年退職するまで国家公務員でしたから、就職・採用される際の試験区分でかなりの程度に、少なくとも管理職になれるかどうかは決まってしまいます。私はキャリアでしたから、ほぼほぼ確実に管理職まではなれます。私のように能力低い場合は課長級止まりでしたが、多くの同僚キャリア公務員はもう少し上まで昇進できる場合が多いような気がします。他方、キャリアの中の女性比率とノンキャリアの女性比率では、おそらく、後者の方が高くなっているような気がします。ですから、属性条件で管理職の女性比率が低くなっているのも一半の理由はあります。もちろん、さまざまな性差別が存在することは事実であり、本書でもジェンダーステレオタイプに基づく差別的な扱い、また、敵意的あるいは好意的な性差別に加えて、統計的な差別も確認しています。私も南米のラテンのマッチョな国で外交官をしていましたから、レディファーストと称した騎士道的な好意的性差別については広く見受けました。同様に、TBSドラマの「わた定」ではありませんが、就職氷河期のような就活が限界的な状況にあった時には、女性が被害者となる確率高く、非正規雇用に回ってしまったこともあったと記憶しています。出生率を高めるのは、私には少し方向が違うような気もしますが、ジェンダー革命といわれ、女性の社会的な進出とともに出生率は当初下がるものの、その後U字型を描いて上昇するような状況に、日本はいつになれば達するんでしょうか。最後に、どうでもいいことながら、p.118から進化心理学に言及されていますが、もっとも性差別の激しい学問分野だという印象があるんですが、いかがなもんでしょうか。

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次に、小林慶一郎『時間の経済学』(ミネルヴァ書房) です。著者は、経済産業省の官僚から慶応大学の研究者に転じています。シカゴ大学の学位ですから、ややネオリベラルかもしれません。ということで、私は少し誤解していたんですが、万人に平等に与えられている「時間」の選択、というか、時間を使った行動の選択のお話かと思っていたところ、どうも、世代間の平等・不平等を敷衍して、この著者のいつもの主張である財政再建の重要性を伝える内容になっています。官庁エコノミストのころから左派だった私のいつもの主張ですが、財政政策に関しては、右派は財政再建と小さな政府、歳出削減や増税に重点を置き、左派は財政拡大と大きな政府、再出増加や減税に力点を置きます。ですから、現在の安倍内閣は、外構や安全保障、もちろん、憲法改正に関してもゴリゴリの右派と見なされていますが、経済政策に関しては社民党や共産党もビックリの左派だったりするわけです。加えて、これは私独自の視点ながら、左派は需要サイドを重視し、自由貿易には懐疑的で自由な貿易よりも公正な貿易の方が見込みがあると考え、右派は供給サイド優先で構造改革を推進する傾向があり、もちろん、自由貿易が何より重要と受け止めています。ただ、右派ではないのかもしれませんが、米国トランプ政権のように貿易赤字を回避する傾向ある重商主義的な通商政策を志向する場合もあります。やや脇道に逸れましたが、本書では、さまざまな論拠を持ち出して、例えば、ロールズ的な正義と個人の善感覚とか、時間的な不整合の問題とか、あるいは、ノッケではライフ・ボートのジレンマを持ち出して、どこかの世代がババを引かなければ財政再建できないとか、いろんな論拠から財政再建を訴えています。ただ、ライフ・ボートのジレンマもそうなんですが、本書の著者の考えるカギカッコ付きの「合理性」はあくまでシカゴ学派的な右派の論理に立脚しており、必ずしもすべてのエコノミストで同じ合理性を認識しているのではない点は、読み進む上で注意すべきと私は受け止めています。いずれにせよ、財政再建とか、地球環境問題とか、解決に長期の時間を要する問題は市場ではどうにもならない場合があります。本来は、何らかの政府ないし独立の機関が解決に当たるべき、というのは、本書の著者の主張の中で唯一私が合意する点です。ハイエク的な観点でも、市場では充分でない場合があるわけです。

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次に、ロベルト・テッロージ『イタリアン・セオリーの現在』(平凡社) です。著者は哲学の一分野ながら美学の専門らしく、どこまで本書のタイトルに応じた議論ができるのか、私には評価できないレベルなんですが、やや気にかからないでもありません。ということで、本書では大陸欧州中心に、イタリアン・セオリーこと、イタリアで展開されている現代哲学について、大陸欧州の中心たるフランスやドイツの啓蒙主義時代から現代につながる哲学との連続性や類似性とともに、イタリアに特有の知的伝統、特に、スピノザやマキャベリなどの政治哲学とに求め、イタリアン・セオリーの全体的な把握を試みています。もちろん、2000年に出版されたハート&ネグリによる『<帝国>』でマキャベリやスピノザの用いたマルティテュードによりグローバル化を読み解いたのが、割合と最近のイタリアン・セオリーの新たな展開だったわけだと私は理解しています。すなわち、かなりの程度にブルータルな大国のヘゲモニーに基づくグローバル化に対して、それぞれの国家や民族などの多様性を容認しつつ、国家権力ではなく国民や企業の間のネットワーク上の権力としてのマルティテュードをグローバリズムのカギとして提案したわけです。結局のところ、私のようなシロートにとっては、ネグリのマルティテュードしかイタリアン・セオリーを知らず、そのマルティテュードの大昔の提唱者や使用者としてマキャベリやスピノザの名を上げるだけなんですが、そこはさすがに、本書では、ネグリだけでなく、アガンベンやエスポジトも含めたこの3人を中心に議論を展開し、3つの観点、すなわち、生政治、共同体、政治神学からイタリアン・セオリーの現時点での到達点をひも解こうと試みています。ただ、ネグリ自身が1960年代くらいからの左翼思想家であることは明らかですし、その時代のフランスの構造主義あるいはその後のポスト構造主義の影響力は、我が国では計り知れません。1960年安保のあたりから始まる新左翼の運動がその典型例と考えるべきです。日本では、少なくとも、イタリア思想界については、新左翼的な潮流よりも、むしろ、伝統左翼ともいうべきグラムシのヘゲモニー論から始まって、ロンゴやベルリンゲルなどのユーロ・コミュニズムが影響力あった気もしないでもないんですが、本書ではユーロ・コミュニズムではなくグラムシなどの個人的な思想しか注目していないような気もします。まあ、繰り返しになりますが、この分野に専門外でシロートの私のような日本人からの視点かも知れません。

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次に、ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック『選挙制を疑う』(法政大学出版局) です。著者は、ベルギーの作家なんですが、博士号を取得しており、欧州を代表する知識人のひとりと目されているようです。原書のオランダ語タイトルは Tegen Verkiezingen であり、邦訳者の解題に従えば、英語に直訳すると、Against Elections だそうです。初版は2013年の出版ですが、邦訳は2016年の版を底本としています。ということで、現代民主主義が「民主主義疲れ」に陥っていると指摘しつつ、その責任を、政治家、民主主義、代議制民主主義、選挙型代議制民主主義の4つの求める思考実験を行って、18世紀以来の選挙型の代議制民主主義について否定的な見方を示しています。とはいっても、あくまで思考実験から始まるわけですが、古典古代のギリシアまでさかのぼって民主主義を考え直し、捉え直し、その上で、選挙型ではなく、くじ引きなどの抽選型の民主主義を二院制議会のうちの一院で採用すべきではないか、その方がホントの熟議民主主義に適しているんではないか、と結論しています。我が国でも、選挙ではない裁判員制度が取り入れられていますので、判らないでもありませんが、同時に、やや無謀な気もします。いくつかの、本書でいう民主主義の治療法があると思うんですが、ハナから取り上げられていない手法もあります。というのは、これだけインターネットが普及し、SNSの利用者が多くなっているわけですから、まず、代議制民主主義ではなく直接民主主義のコストがかなり低下していることは無視すべきではありません。さらに、特に我が国のように世代間格差が大きくてシルバー民主主義が大きな権力を行使している国にあっては、1人1票ではなく、未成年の子供の投票権を親の代理によって認めるデーメニ式の投票などが提案されていたりしますが、これも本書では議論にすら取り上げられていません。ただ、「判らないでもありません」に戻ると、我が国で最近の10年くらいに、いわゆる「ねじれ国会」を経験していますから、同じような選挙システムに基づく二院制議会が、どこまで意味あるかについては疑問を持っている人がいそうな気がします。ポピュリズムが勝利した国では、いわゆる「多数派による専制」の可能性があり、我が国でも現政権の圧倒的な権力が報じられたりていますから、三権分立に加えて、執行権を行使する政府のパワーについて、何らかのチェックをした方が、熟議に基づく民主守護として、あるいは、結果として好ましい可能性がないわけではない、と私も同意します。ただ、繰り返しになりますが、それが抽選型の議会による民主主義かね、という気もします。抽選で選ばれた議会の権威が落ちそうな気もしますし、もしも、抽選が民主主義にいいということであれば、当然に、その適用範囲を拡大することになるわけで、我が国のような内閣制はヤメにして、政府、というか、総理大臣を直接選ぶのか、それは選挙でいいのか、それとも民主主義に好ましい抽選なのか、という疑問も残ります。頭の体操ながら、大統領や総理大臣を抽選で選ぶとすれば、「無謀」と見なす人が多いんではないかと私は考えるんですが、いかがでしょうか。

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最後に、戸部良一『昭和の指導者』(中央公論新社) です。上の表紙画像のうち、上の人物は浜口雄幸総理、下は吉田茂総理です。まあ、見れば判ると思います。著者は歴史学の研究者であり、国際日本文化研究センターや防衛大学校の名誉教授です。本書では、昭和期の指導者として6人、すなわち、浜口雄幸、近衛文麿、東条英機、吉田茂、中曽根康弘、そして、昭和天皇を取り上げ、現代に最も近い中曽根康弘から時代をさかのぼる形で比較・や分析を試みています。加えて、補論として宇垣一成についても議論を展開しています。もっとも、宇垣の場合は、将来の指導者と目されつつ、ついにトップの地位にたどり着けなかったため、補論になっているんだろうと私は想像しています。昭和初期の太平洋戦争開戦までの時期は、あれだけの我が国近代史上まれにみる激動期であったにもかかわらず、というか、激動期であったがゆえに、かもしれませんが、なぜ、指導力や統率力を欠くリーダーしか登場しなかったのか、を著者は問い、その原因が分かれば現代のヒントにもなると指摘しています。しかし、通り一遍でうわべだけの指導者像をもとに議論するのでは、ハッキリいって、モノになるとは思えませんが、指導者としての意図だけでなく、政治のトップとしての結果責任も含めて、著者からこれら6人の指導者に対して、時には厳しく、時には暖かい視線を送って分析を進めています。特に、優柔不断で軍部の専横を許したとの批判が根強い近衛文麿総理と、何といっても太平洋戦争開戦の最大の責任者である東条英機総理に対しては、世間一般の見方より大きく好意的な評価が下されている気がします。私には理解できないところです。
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2019年05月25日 (土) 11:58:00

今週の読書も話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』から小説まで計6冊!

今週も、質量ともに充実した読書でした。話題の経済書『貿易戦争の政治経済学』や『WTF経済』、あるいは、生命科学などの教養書、さらに、小説では『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の辻村深月の受賞後第1作『傲慢と善良』などです。

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まず、ダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学』(白水社) です。著者は、トルコはイスタンブール出身で米国ハーバード大学を本拠にしているエコノミストです。かつて、実証はされていませんが、グローバリゼーション、国家主権、民主主義の3つを同時に追求するのは難しく、どれか1つを犠牲にせざるをえない「政治的トリレンマ」の視点を提示し、トリフィンによる国際金融のトリレンマ、すなわち、固定為替相場、資本の自由な国際移動、自律的な金融政策の3つは同時には成り立たない、というのに対比させた論点でした。前著の『グローバリゼーション・パラドクス』や『エコノミクス・ルール』なんかも、ものすごく暗くて婉曲な表現で、正確を極めればこその判りにくさがあったんですが、本書では磨きがかかっている気がします。本書の英語の原題は Straight Talk on Trade であり、2018年の出版です。ということで、アダム・スミスが葬り去った重商主義が米国と中国のG2で復活しつつあるように見える現時点で、自由貿易と重商主義的な輸出振興と関税などによる輸入抑制の重商主義的な方向性を論じています。まず、著者は自由な貿易と攻勢な貿易の峻別を提示します。貿易に限らず、すべての経済活動や経済外活動も、インチキをする自由を認めるほど世間は甘くないわけで、特に、決して好ましいとは受け止められていないグループや得体の知れない外国人が、いかにもインチキのように見える方法により自分や親しい人々のグループに不利益を及ぼしているようであれば、それに一定の歯止めを要求する権利はあるように見えます。それを主張して選挙で票を集めることも可能な気がするわけです。しかし、経済意外の分野では、私はシロートながら、国内重視のナショナリストと国際重視のコスモポリタンないしインターナショナリストは相反するように見えるんですが、本書の著者は、経済分野については国内市場を整備して秩序あるものとし開放的にすることは同時に国際的な貢献にもなる、という意味で、国内重視と国際重視が経済学的には両立しうると主張します。これはマルクス主義でも同じことであり、100年ほど前には世界同時革命論のトロツキーと一国革命論のスターリンの対立があったんですが、国内で革命を成功させることにより世界革命に貢献するという意味で、国内重視と国際重視はマルクス主義では両立します。ですから、従来から、グローバリゼーションを擁護するエリートの間では、自由貿易で不利益となるグループへの補償とグローバル・ガバナンスの強化によって問題を克服しようという考え方が根強いわけですが、著者はこの考え方に対しては「手遅れ」として否定的な見方を示します。なぜかといえば、国民の間の民主的熟議を軽視し、国際機関や政府官僚などのテクノクラートに解決を委ねてしまう貿易テクノクラシーになりかねず、そうなれば、英米などに見られるように結果として、貿易に反対するポピュリズムとデマゴーグの台頭を許したと著者は考えているからです。そこで、著者はケインズを引用して、「資本主義は一国の中でのみうまく機能するものであり、国同士の経済交流は国内の社会的、経済的契約を過度に侵害しないよう規制しなければならない。」と主張し、資本主義には国家による経済運営が必要であることを強調します。私が読み終えた現段階で、著者のグローバリゼーションに対するスタンスはこれに尽きます。すなわち、各国の置かれた政治経済情勢の多様性と政策の自由裁量を求める需要を認識した緩やかなルールこそが現実的なアプローチであり、国内の民主的手続きにより市場をコントロールする大きな権限を国内権力である政府に与えれば、グローバリゼーションの効率性と正統性を高めることができる、というわけです。ただ、その場合、世界経済の動向ですから、どの国がリーダーシップを発揮するのか、が気にかかるところです。トランプ政権下の米国には私は無理そうな気がするんですが、同時に、人権の軽視や政敵の抑圧を続ける中国とロシアには、「グローバルなリーダーシップなど発揮できるはずがない」と著者は厳しい評価を下しています。かなりの範囲でこれらの貿易の政治経済学には私も同意します。以上でホントは終わりなんですが、私の興味の範囲で、本書のテーマである貿易とはやや観点が異なるものの、開発経済学的な視点で、著者は明記はせずに、ルイス的な二重経済モデルを持ち出して、ルイス的な用語を用いれば、限界生産性に対してではなく生存水準の報酬を得られる生存部門から、限界生産性に応じた報酬が得られる資本家部門に労働力が移動することにより高度成長が成し遂げられる、という意味での開発は、そろそろ終了ではないかと結論しています。アフリカでは小売やサービスで雇用が拡大しており、製造業が農業からの労働力を吸収するというルイス的な二重経済の発展的解消による高度成長は中国や東南アジアで終了し、南アジアやアフリカなどではリープフロッグ的な経済発展をする可能性を示唆しています。最後に、私の読書感想も飛びますが、経済モデルをダイナミック、というか、動学的にその時々で違うものにするのは、まあ、判らなくもないんですが、そこまでいうと、もはやモデルでも、科学でも、何でもなくなるような気がして怖いです。

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次に、ティム・オライリー『WTF経済』(オライリー・ジャパン) です。著者は、オライリー・メディアの創業者CEOであり、テクノロジー系の技術書の出版には慧眼を示しています。本書の英語の原題は WTF?: What's the Future and Why It's Up to Us であり、2017年の出版です。"WTF" とは最後の翻訳者の解説によれば、感嘆表現 "What the Fuck!?" の略で、「なんじゃこりゃ?」くらいの意味であり、口語ではかなり普及しているとはいえ、結構お下品な表現のようです。ということで、本書では著者は、著者自身が深くコミットしてきたコンピューターの歴史を振り返るところから始め、もちろん、自慢話しも多く盛り込みながら、新しい技術がもたらす "WTF?" という驚きを、悪い驚きではなくよい驚きにし、そして、インターネットやオープンソースソフトウェアの展開に置おいて、著者が果たした、とご自分で考えている役割やその際に適用した考え方や手法などを、新たに出始めている人工知能=AIや大規模ネットプラットフォームにも適用することで、いい方向に向かうのではないか、という主張をしています。ビジネスの世界で大成功した著者のことですから、すでに引退した官庁エコノミストの私なんぞには及びもつきませんが、オープンソースソフトとインターネットの普及により、ウェブが共通のプラットフォームとして普及し、今度はその上で提供されるサービスが重要となり、すなわち、ウェブ2.0に進化し、加えて、利用者の多くがパソコンからスマホをはじめとするモバイルに移行するにつれて、その性質は強まってきているわけで、さらにさらにで、グーグルやフェイスブックやアマゾンはAPIを公開し、他のプレーヤーがサービスを構築するための新たなプラットフォームを提供しつつ、というか、それを足場に、そこで利用者について収集したビッグデータも排他的にビジネスに活用して収益を上げているわけです。他方で、著者も注目しているようなギグエコノミーでの労働者の働き方が、著者の主張するように未来的で望ましいものかどうかは、私には疑問です。典型例はウーバーの運転手であり、市場における力関係は往々にしてそうなんですが、一応、対等なでウィン・ウィンな取引関係の形をとっていても、おカネを出す方の要求におカネをもらうほうが従うこととなります。フリーランス的な自由な労働形態としてもてはやされ、ブラック企業における非正規雇用よりも好ましそうな響きを持ちつつも、雇用の安定性や労働の実態はどこまで評価できるものかは私には疑問です。本書ではかなり偏った視点を提供しているとしか思えません。そういった弱点、疑問点を含みつつも、近い将来のビジネスの方向性については、それなりに参考になりそうな気もします。

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次に、ギデオン・ラックマン『イースタニゼーション』(日本経済新聞出版社) です。著者は、 Financial Times を中心に活動しているジャーナリストです。英語の原題もそのまま EASTERNIZATION であり、2016年の出版なんですが、あとがきには2018年ころのお話が出てきたりします。というのも、邦訳は2018年11月にアメリカで刊行されたペーパーバック版に基づいているからだそうです。本書は、必ずしも経済のトピックではなく、外交やその延長としての軍事・安全保障などにおける東洋、特に中国とインドの台頭について分析を加えています。タイトルはかなり面妖で、ウェスタニゼーションが東洋の国々の西洋化であったのは明らかで、例えば、イスとテーブルの生活や着物を捨てて洋服を着たり、といったことで、はなはだしくは、我が国の鹿鳴館のような活動もあったりしたわけですが、現時点で、西洋の国が東洋の生活様式を取り入れているようなことは私はあまり聞き及びません。まあ、体重コントロールのために日本食が流行ったり、座禅を組んでマインドフルネスな仏教を感じたり、といったくらいのことはあるかもしれませんが、経済社会の中での東洋化が欧米で進んでいるとはとても思えませんので、あまりいいタイトルではなさそうな気がします。まず、アジアや東洋というと、当然に、日本もそのカテゴリーに入るわけで、特に1980年代後半、プラザ合意以降我が国のバブル経済期には、日本経済に着目する動きもありましたが、本書では我が国は明確に台頭するアジアの代表にはなりえないと否定されています。その最大の眼目は人口や市場規模です。日本は人口では中国やインドと1桁違うわけですし、市場規模としても決して大きくないと見なされているわけです。そのうえで、特に、アジアへのピボットを目論んだ米国の第1期オバマ政権の動向、クリントン国務長官やその側近ブレーンなどの取材に基づく米国や欧州のアジア志向を分析しています。もちろん、その先鞭として天然門事件以降の中国の対外開放路線に基づく経済発展、さらに、今世紀の習近平政権からの大国化の路線を跡付けています。とても興味深かったのは、pp.70-71で展開されている習近平政権の中国の互いに関連する3つの思想性で、被害者意識に根ざしたナショナリズム、米国に肉薄する国力への自信の増大、内政の安定と欧州の潜在的な破壊的役割への憂慮、だそうです。私には4点に見えるんですが、最初の「被害者意識」は我が国にだけ向けられているように見えるのは私だけでしょうか。19世紀の英国とのアヘン戦争なんて、メチャクチャえげつないものだったように思え、更にその結果として香港の割譲まであったんですが、英国に対しては、我が国に対するほどの被害者意識は持っていないように私には見受けられるんですが、いかがなもんでしょうか。むしろ、私の単なる印象論ですが、インドの方が英国に対してよくない感情を持っていそうな気がします。それはそうとして、本書でも何度か出てくるトゥキディデスの罠は避けることができるんでしょうか?

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次に、リチャード・ハリス『生命科学クライシス』(白揚社) です。著者は科学ジャーナリストです。英語の原題は Rigor Mortis であり、直訳すれば「死後硬直」です。2017年の出版です。サブタイトルを見る限り新薬開発にフォーカスしているように見えますが、メインタイトル通りに生命科学全般を対象にしているように私には読めました。ということで、創薬をはじめとする新しい医療のイノベーションが進まない現状について警告を発しようと試みています。いろんな論点があるんですが、本書で取り上げられている順に私なりに解釈すると、まず、新訳や新たな医療技術について、その有効性をテストする際の方法の不適切さが強調されています。統計的な検定が不適切だったり、そもそも統計的な検定を行うためのサンプル数が確保されていなかったり、かなり初歩的な無理解がありそうな気がします。本書では、ショッキングな表現ながら、これまで発表された学術論文で間違っているものが多いと指摘しています。ただ、そこまでいわれると、ホントかね、という気がしないでもありません。薬学の場合、作用機序というものを考えて、薬がどのような順序で効果を発揮するかを考えるわけですが、経済学と同じで、実は、モデルにおける因果関係というものは必ずしも明確ではありません。薬ではなく、医療行為に関してはもっとそうです。どうして、この医療行為が効くのかは判らなかったりするわけです。ですから、統計的な有意性が求められるわけで、著者はその棄却水準のp値が5%でいいのか、という点まで含めて疑問を呈しています。サンプル数を60%増やしてp値を0.5%にすべきではないか、という意見のようです。同様に、有効性のテストの再現性も問題とされています。我が国の理化学研究所のSTAP細胞のスキャンダルについても触れられています(p.209)。続いて、実験動物、多くはマウスということになるんでしょうが、マウスで有効だった薬が人間でも有効であるとは限らない、とも主張しています。最後に、研究者の評価のあり方についても批判的です。これは経済学や他の科学分野でもそうなんでしょうが、生命科学の関係では、『サイエンス』、『ネイチャー』、『セル』といったインパクトファクターが高く権威ある学術誌への査読論文で研究者が評価され、数少ないテニュアの研究者ポストを目指さざるを得ない、という意味で、現在の研究者のインセンティブ構造にも問題があると指摘しています。ごもっともです。そして、ひとつの画期的な考えとして、生命科学の進歩のペースを意図的に落とすことさえ選択肢として提示しています。これも、生命科学だけでなく、他の科学や学問分野にも当てはまる可能性があります。先日、4月13日付けの読書感想文で取り上げた豊田長康『科学立国の危機』とは真逆の主張のように見えますが、本書は本書で間違ってはいないような気がします。なぜなら、科学研究を加速するためには、本書の主張のように逆に研究をペースダウンするか、『科学立国の危機』の主張のように研究リソースを画期的に拡大するか、どちらかなのかもしれません。

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次に、ピーター・ブラネン『第6の大絶滅は起こるのか』(築地書館) です。著者は惑星科学を専門とする科学ジャーナリストであり、本書は初めての著書だそうです。英語の原題は The End of the World であり、2017年の出版です。原題の意味は、要するに、現在までの5回の絶滅に続く第6回目の絶滅が生ずれば、それは世界の、とはいわないまでも、人類が今までに到達した文明の終わりを意味する、ということなんだろうと、読後に感じています。ということで、地球が惑星として成り立ち、生命が誕生してから、いままでに5度の大絶滅が生じてきたと解明されています。それが第2章から第6章までのタイトルとなっており、順に解説されています。出版社のサイトから目次をそのままコピペすれば、オルドビス紀末の大絶滅【4億4500万年前】、デボン紀後期の大絶滅【3億7400万年前、3億5900万年前】、ペルム紀末の大絶滅【2億5200万年前】、三畳紀末の大絶滅【2億100万年前】、白亜紀末の大絶滅【6600万年前】、というわけです。最初のオルドビス紀末の大絶滅は宇宙からの殺人光線であるガンマ線バーストの放射とか、氷河湖の決壊による大洪水などが仮設として提出されています。また、宇宙からの放射線の影響はペルム紀末の大絶滅の原因ともいわれています。これらの中でも、一番最近の白亜紀の大絶滅、恐竜の絶滅が当然ながらもっとも科学的な根拠がハッキリしていそうなんですが、1980年にアルバレス父子のグループから提唱された小惑星衝突仮説で決まり、というわけでもなさそうで、インド亜大陸の火山爆発というデカントラップ説も本書では紹介されています。しかし、本書でもお供興味深いのは、過去の5回に渡る絶滅における仮説の紹介や検証ではなく、現在進行系の第6回目の絶滅が始まっているかどうか、さらに、近い将来の絶滅はどのくらいの確度で生じるか、といった将来見通しの方ではないでしょうか。例えば、恐竜が絶滅した白亜期末の大絶滅のひとつ前の三畳紀末の大絶滅の原因は地球の温暖化に起因します。ほぼほぼサンゴは絶滅したんですが、もちろん、すべてが絶滅したわけではなく、細々と生き残った種が現在まで生きながらえていたりするわけです。そして、更新世末の大絶滅【5万年前―近い将来】は進んでいるのかどうか、第1に気候の温暖化は産業革命以降に急速な勢いで進んでいることは確かですし、第2にホモサピエンスの通った後にハッキリと種の絶滅が生じていることも事実です。ただ、本書の著者は人類が滅ぼしたのは190万種のうちのたったの800種だと主張しています。そして、次の第6回目の大絶滅が何の原因で生じるにせよ、人間の寿命という観点からはかなり遠い先の話であることは確かで、その時の人間社会や文明の状況は何ともいえないながら、実際に生命が失われる絶滅というよりは、電気に依存した現代生活を見ても理解できるように、地球環境の変化は文明の喪失をもたらす可能性が高い、と主張しています。私は専門外もいいところですが、そうかもしれません。というか、違っているという主張をするだけの根拠を持ち合わせません。最後にどうでもいいことながら、私はガンプラを通じてガンダムに詳しい倅どもと違って、それほどガンダムの物語は知らないんですが、シャア・アズナブルは何度か、というか、私の知る範囲では、第2次ネオ・ジオン抗争の際に、小惑星5thルナを連邦軍本部所在地であるチベットのラサに落下させたり、あるいは、地球へのアクシズ落としを企んだりして、巨大ではあるものの、こういった爆発物でない単なる物体を地球に落としたところでどうなるものでもあるまい、とシロートなりに考えていたんですが、第6章で恐竜を絶滅させた白亜紀末の大絶滅の原因とされる小惑星の衝突の衝撃をとても念入りに記述してあって、私はそのとてつもないパワーにびっくりしてしまいました。やっぱり、シャアはえらい?

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最後に、辻村深月『傲慢と善良』(朝日新聞出版) です。タイトルは、いかにも、ジェーン・オースティンの代表作『高慢と偏見』 Pride and Prejudice を思い起こさせるものですが、この作家の自負を表しているのかもしれません。男女間の恋愛ないし結婚をテーマにしている点は同じです。作品の中にの明示的に言及があります。『かがみの孤城』で昨年2018年の本屋大賞を受賞した後の第1作です。2部構成で、さらに、最後にエピローグがついてきます。婚約した男女が、結局、最後は結ばれるというハッピーエンドの恋愛小説です。しかし、結婚式の日取りまで決まっていながら、婚約者の女性が失踪します。ということで、第1部は、婚約者の女性に失踪されてしまった男性の視点から、女性の失踪の謎解きが始まります。結局、男性から見た女性は70点で、その前には100点満点の女性に逃げられて、40歳も近くなって結婚に逃げ込んだ印象です。ただ、女性がストーカーという非現実的ですぐにバレる嘘をついたのに気づかない男性も異常な気がします。第2部は失踪した女性の視点でストーリーが進みます。しかし、最後は大甘で、男性は失踪した女性を許す形になり、女性のそんな男性の包容力を受け入れます。私は決してせっかちな方ではないつもりで、私とカミさんが結婚したのも、この作品の男女と同じくらいの年齢でしたし、世代が違うので婚活という言葉もなく、婚活めいたことはしませんでしたし、見合いとかの出会いで断られた時には、全人格を否定するような断り方が不自然ではなかった時代です。加えて、今以上に結婚が男女の恋愛感情だけでなく、経済も含めた打算で決まっていた時代背景です。私は30歳を過ぎて、海外勤務のお話があり、結婚を考えないでもなかったんですが、時代はバブル経済のまっ盛りで、結局、二重の理由で結婚には至りませんでした。すなわち、バブル経済のころは十分に遊べて、結婚するまで不自由していない、という意味で、この作品の男性とよく似た恵まれた状況にありました。逆の面から見て、京大の経済学部を出て公務員なんてセンスのない職業選択に女性からは見えたわけで、「どうして証券会社に就職しなかったの?」というカンジの見方が圧倒的で、経済的な打算から公務員は結婚相手として決して上位には来なかったわけです。1994年に大使館勤務を終えて帰国すれば、バブル経済崩壊の後で学生の就職は超氷河期で、公務員の株が顕著に上昇していてびっくりした経験があります。そこで、私は結婚したわけです。ですから、上から目線の結婚だったかもしれませんし、この作品の男性のような考えは、女性の行動もいうに及ばず、とうとう私は理解できませんでした。世代が違うのでしょうから、この読書感想文は参考にはならないかもしれません。
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2019年05月18日 (土) 11:14:00

今週の読書は経済書中心に『図書館巡礼』も読んで計8冊!!!

10連休のゴールデンウィーク明けにしては、今週はよく読書にいそしんだ気がします。いつもの通り、経済書が中心なんですが、昨日から岩波ホールで「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」が公開されていまして、その関係でもないんですが、図書館に関する教養書も読んだりしています。1日1冊を超えるペースで読んだ結果、計8冊の大量の読書です。

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まず、佐々木実『資本主義と闘った男』(講談社) です。著者は、日本経済新聞記者だったジャーナリストです。上の表紙画像にも見える通り、タイトルの資本主義と闘った男とは、宇沢弘文教授です。本書の指摘を待つまでもなく、おそらく、1960年代にはもっともノーネル経済学賞に近かった日本人であることは明らかです。宇沢の2部門成長モデルは今でも経済成長理論で参照されるモデルです。もっとも、私なんかも理解が容易なソローの新古典派的な成長モデルやもっと単純なAKモデルが一般的な気もしなくもありません。ということで、本書はその宇沢教授の伝記となっています。ただ、宇沢教授の行動でもっとも不可解だったとされる2点についてはまったく解明されていませんので、私は大いに不満です。不可解な2点とは、スタンフォード大学からカリフォルニア大学バークレイ校に移ったのは本書でも指摘する通りの事情なんでしょうが、スタンフォード大学に復帰せずに、何を血迷ったのか、シカゴ大学に移ったのはなぜなんでしょうか。本書では、アロー教授の弟分でいることに飽き足らずに新天地を求めたかのような推測が並べられていますが、それなら、おそらく、宇沢教授と極めて周波数の合致するカリフォルニア大学バークレイ校に留まるのがベストの選択であった気もします。そして、シカゴ大学教授から東大助教授で帰国したんですから、何となく足元を見られた雰囲気もあります。これは、余りに右派なシカゴ大学経済学部に嫌気が差した、というのはかなりの程度に理解できますし、個人的な思想を基にする嫌がらせもあったんだろうと想像できます。いずれにせよ、きちんと進路を考えて1960~70年代に経済学の主流であった米国で研究を重ねれば、宇沢教授がノーベル経済学賞を授賞されていた可能性はかなりあるんではないか、という気がします。しかし、宇沢教授は帰国して東大に復帰し、それからは、経済学の研究よりもアクティビストとして活動することに重点を置いたような気がします。ノーベル経済学賞に関しては、1980年代からは英国で研究を続けた森嶋教授が、そして、1990年代半ばくらいからは林文夫教授が、さらに、21世紀に入ってからは清滝教授が、日本人研究者としてはもっとも近い、といわれるようになったんだろうと私は理解しています。もちろん、ノーベル賞を目指すのが研究者の人生最大の目標とはならないケースはいっぱいあることは私も理解しており、アクティビストとしてもエコノミストを離れて私個人としては、ポジティブなフィードバックを考慮せずに、市場経済が自己調整的に均衡に向かうメカニズムを有すると盲信する右派的な資本主義と闘った宇沢教授はとても尊敬できるところです。それにしても、宇沢教授を取り巻くキラ星のようなエコノミストの面々に私は圧倒されてしまいました。

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次に、ビクター・マイヤー=ショーンベルガー & トーマス・ランジ『データ資本主義』(NTT出版) です。著者は、オックスフォード大学オックスフォード・インターネット研究所の研究者とドイツのビジネス誌 brand eins のジャーナリストです。英語の原題は Reinventing Capitalism in the Age of Big Data であり、2018年の出版です。ということで、本書の著者は人間の本質について調整を行うこととして捉え、従来の市場では極めて単純化された価格という貨幣単位での評価により財・サービスの交換、というか、資源配分が行われていたんですが、ビッグデータの時代になり、データリッチ市場が出現するに及んで、価格という貨幣単位だけで単純に評価されていた商品が膨大なデータを参照することにより、過剰な簡略化を逃れて最適な配分に調整されるようになる未来、近未来、というよりもすでにいくぶんなりとも実現されている事実を明らかにしています。そして、著者は経済の中で、市場は分権分散型であるのに対して、企業は集中型であるとのモデルを提示し、富国生命の保険支払査定業務へのAI導入をやや揶揄しつつ、ダイムラーの意思決定組織のフラット化について高く評価しています。データリッチな企業経営を実践したいのであれば、富国生命のようにAIをパーツとして導入するのではなく、ダイムラーのように組織としてデータリッチネスをうまくいかせるような組織にする必要がある、という意味で、集中型の企業の意思決定を分権分散型にする必要を指摘しています。しかし、エコノミストが考える市場とは、まさに情報の塊であって、著者は少しバイアスのかかった見方を示しているとしか私には考えられません。ですから、市場が本来の資源配分の効率性を発揮するためには情報がいっぱいあった方が望ましいのはいうまでもありません。ただ、現実にはGoogleやAmazonやFacebookやといったインターネット企業は情報独占により巨大な収益を上げていることも事実であり、本書の著者はスーパースター独占企業と呼んでいますが、こういった企業に対してはアルゴリズムの公開よりも、情報の共有を促す仕組みが必要と指摘します。そのための基礎はすでに機械学習により出来上がっているという評価です。そして、ここから先は付加的な部分で、データ資本主義とは関係薄くて、やや飛躍するようにも見えますが、社会生活の基礎としてユニバーサル・ベーシックインカム=UBIを提唱しています。私はこれに大いなる理解を示すものです。ただ、ここ10-20年ほどの労働分配率の低下と資本の蓄積が加速しているという事実、ピケティ教授らの指摘する不平等の拡大については、やや違った見方を示しています。これは私には理解できませんでした。

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次に、アジェイ・アグラワル & ジョシュア・ガンズ & アヴィ・ゴールドファーブ『予測マシンの世紀』(早川書房) です。著者は3人ともカナダはトロント大学ロットマン経営大学院の経営戦略論やマーケティングの研究者です。エコノミスト的な考え方が随所に見られます。英語の原題は Prediction Machines であり、2018年の出版です。ということで、タイトルにある予測マシンとは、ズバリ人工知能=AIのことであり、本書の著者はAIとは予測マシン=Prediction Machinesであると位置づけています。これは、AIについて考える際のひとつの前進だという気がします。というのは、今まで、AIについては幽霊のように実態について、あるいは、その作用に関して、特に考えるでもなく、単純に恐れたり、軽視したりしている考えがまかり通っているからです。ビッグデータという定義のない表現をするかどうかはともかくとして、膨大な量のデータを処理して、データがいっぱいある前提の大量のパラメータを推定して、かなり正確な予測を行い、それをAIが、あるいは、人間が判断を下す、というプロセスを明確にしています。ただ、私からすればまだ足りない部分があり、それは評価関数を人間がAIの外から与えるか、それとも、AI自身が決めるか、ということです。おそらく、ホントのAIは後者なんでしょうね。というのも、本書でも登場しますが、MicrosoftのTayが学習の過程でナチス礼賛とか、差別的な学習結果が示された事実があります。そして、AIはほぼほぼ制限のないデータ処理と評価関数の設定により、かなり急速に人類の知能を上回る可能性があります。もっとも、この場合の「知能」も定義が必要なんでしょうが、通常の意味で、例えば、人類の知能はイヌ・ネコを上回る、位の意味で定義も十分ではないかと私は思いっています。そうすると、何が起こるかといえば、例えば、ここでも哺乳類を考えて、ウシについては、その昔の濃厚の動力の提供という重労働からは逃れたものの、ウシ、特に雌ウシ独特の昨日である搾乳、あるいは、雄ウシの場合は牛肉の提供に供されるわけです。ニワトリの場合も、メスが卵の提供、オスはウシと同じで鶏肉の提供が主たる眼目となって飼育されているのは広く知られている通りです。もう少し知能が高いと、例えば、イヌ・ネコのようにペットの地位に上ったりしています。おそらく、人間とAIの関係も知能の高さの差に従って、こういった現時点における人類と哺乳類の関係になぞらえることができると私は予想しています。もちろん、ひとつの可能性として、哺乳類ではなく鳥類ですが、北米のリョコウバトのような運命が待っている可能性も否定できません。ですから、本書でいう予測マシン=AIの未来は、単なる予測ではなく、新しい知能の誕生と考えるべきだと私は考えています。あるいは、ハードウェアのマシンではなくソフトな技術について考えれば、自動車の自動運転が主流になれば、現在のような人間が手動運転する自動車は、現時点の馬術のような扱いになるような気もします。いずれにせよ、本書で考えるようなトレードオフについては、人間から見たトレードオフであって、AIから見ると違う観点がありそうな気もします。不安な未来についても、"But Who Will Guard the Guardians?" ではないんですが、AIを制御するAIが必要になりそうな気がします。

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次に、持田信樹『日本の財政と社会保障』(東洋経済) です。著者は東大経済学部の研究者です。今年3月の退官ではないかと記憶しています。相も変わらず、財政学の権威が我が国の財政赤字を問題にし、持続可能な財政とその最大の支出項目のひとつである社会保障について分析しています。すなわち、問題意識としては、財政赤字の解消とまでいわないまでも、その縮減を目指して、「中福祉・中負担」を標榜しつつも、実体は「中福祉・低負担」となっている財政・社会保障の姿を、ホントの「中福祉・中負担」にすべく財政や社会保障を改革することは可能か、また、より規範的には、そうせねばならない、ということに尽きます。確かに、一般論として、財政赤字がフローで垂れ流され、ストックで積みあがっていくのは、何らかのショックに対して脆弱そうに見えて、財政のサステイナビリティの観点から均衡に近づけたい、というのは私も理解します。ただ、他方に、やや極端かつ圧倒的な少数派ながら、米国の大統領候補を目指す民主党の予備選に出ていたサンダース上院議員の経済スタッフのケルトン教授らが主張する現代貨幣理論(MMT)も注目され始めており、この根本的な均衡財政の必要性から解き明かして欲しい気もします。というのは、少なくとも、両極端を考えて、初期条件から財政赤字がなく、従って、国債残高がゼロであれば、中央銀行の金融オペレーションが成立せず、指標金利が得られませんから、金融政策が運営できません。もちろん、逆の極端は財政が破綻して、資本や資金の海外逃避やハイパー・インフレのケースです。その間のどこかに最適解があるハズなんですが、不確定な経済学ではそれを探し当てることが出来ません。悲しきエコノミストなわけです。繰り返しになりますが、私は決してMMTを支持しているわけではありません。むしろ、boodooエコノミクスだとすら思っています。さて、本筋に戻って、本書では、マクロの財政経済データやマイクロな国民生活基礎調査のデータを用いたフォーマルな計量分析がなされていますが、根本的な財政赤字の最適ラインは、もちろん、算出されていません。最後に、立命館大学の松尾教授の従来からの主張ではありませんが、財政や税制を考える際に、右派は税金を多く徴収して財政支出を削減しようという方向であるのに対して、左派は減税と財政支出の増加を志向します。「もっとカネをよこせ」ということです。財政や税制に関する本を読む場合に、これを念頭に置くと、とても理解が進んだりします。もうひとつ、私の観点ですが、需要について考えるのは左派エコノミストであり、供給サイドを重視するのは右派エコノミストです。これも時折役に立ちます。

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次に、スチュアート・ケルズ『図書館巡礼』(早川書房) です。著者は、作家・古書売買史家とされていますが、私はよく知りません。英語の原題はズバリ The Library であり、2017年の出版です。ということで、私はおそらくかなりの図書館ヘビーユーザではないかと自覚しているんですが、本書の著者ほど図書や図書館に対して愛情を持っている読書家は出会ったことがありません。もちろん、本書にはさらに強烈な愛書家がいっぱい登場します。世界の図書館の歴史といえば、アレクサンドリア図書館があまりにも有名なんですが、そのアレクサンドリア図書館ができる前の本のない時代にボルヘスによって想像されたバベルの図書館のような空想上の図書館から図書館の歴史を始めています。でも、もちろん、事実上の図書館の歴史は第2章のアレクサンドリア図書館から始まります。入港した船から書物や巻物が押収され、もちろん、コピーを取った上で、原本が図書館に留め置かれ、コピーが元の場所に返却される、という専制君主らしいやり方が印象的です。図書の材質がそもそも羊皮紙やパピルスですし、デジタル技術はもとよりアナログのコピーもありませんから、書写生が手で書き写す必要があります。当然です。さらに時代が下って、画期的であったのは、1573年モンペリエの勅令により、フランス王国における出版については法定納本制が敷かれた点です。少し遅れて英国でもオックスフォード大学に納本する制度が始まっています。我が国でも、国会図書館への納本義務についてはかなりの国民の間に知識として普及しているんではないでしょうか。こういった納本制の効果もあり、21世紀に入って図書館版のムーアの法則が成り立つそうで、15年ごとに蔵書が2倍に増加すると本書の著者は指摘しています。もちろん、第5章で取り上げられているように、さかのぼること15世紀に印刷技術が発明されて1500年ころにはロンドンに5社が印刷所を展開していたそうですから、この辺りから本格的な出版ラッシュ、というか、図書館にも納本されるようになり、現在見られる本棚に縦置きするというのは画期的なイノベーションだったようです。図書の出版と図書館の蔵書の増加は、当然ながら、常に順調に進んだわけではなく、第6章ではバチカン図書館がカール5世軍により破壊された点が指摘されています。もちろん、その後も火災による被害などもあることは忘れるべきではありません。いずれにせよ、図書館は単なる図書の倉庫ではなく、読書階級が読書するとともに図書を借り出し、加えて、有識者たり司書が働く知的な場所であり、私が利用するような公的な図書館だけでなく、本書に登場するような愛書家や読書家が収集したコレクションを収納していたりもしますから、公立私立の別を問わず図書館は知の集積場という性格を持つことは当然でしょうし、場合によっては、建物についてもそれなりに壮麗な建築だったりもします。収納された図書とともに建築そのものも、大きな知的価値を持っていたりもするわけです。経済学の用語でいえば、メチャメチャな外部経済を持っているといえます。小説でも、本書でよく取り上げているのはエーコの『薔薇の名前』とトールキンの『指輪物語』なんですが、ともに図書や図書館が重要な役割を演じています。ただ、最後に、現在の図書のデジタル化や電子図書の普及に対して、図書館がどのようなポジションにあるのか、包括的でなくとも著者の見識を示して欲しかった気もします。いずれにせよ、私は図書館の利用がもっと盛んになるように願っています。

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次に、ローラ J. スナイダー『フェルメールと天才科学者』(原書房) です。著者は米国セント・ジョーンズ大学の歴史と哲学の研究者です。英語の原題は Eyes of the Beholder であり、普通の高校英語では、"Beauty is in the eye of the beholder." の慣用句で習うんではないでしょうか。原書は2015年の出版です。ということで、本書では、17世紀の半ばから後半にかけてオランダがデルフトを舞台にした画家・画商のフェルメールと顕微鏡の製作者であり顕微鏡を用いたさまざまな新発見に貢献した科学者のレーウェンフックの同い年の2人を主人公とした歴史ノンフィクションです。主人公の2人が友人とか顔見知りであったかどうかは史料がありませんが、フェルメールが不遇のうちに負債を残して没しった後に、レーウェンフックがその遺産管財人に任じられているようですから、何らかのつながりはあったものと著者は推察しています。ということで、同じオランダのデルフトの同い年の2人に共通するものとは、まさに英語の原題の通りに、一般には目に見えない何かを見る力であったと著者は考えているようです。画家で画商でもあったフェルメールは、レンズと鏡とカメラ・オブスクラを駆使して、極めてていねいに作品を仕上げています。我が国では、本書冒頭の図版にも収録れている「牛乳を注ぐ女」や「真史の耳飾りの少女」が有名ですが、歴史に残された記録を調べても生涯に45程度の作品しか残さなかったようですし、現存していて確認されるのは35作品にしか過ぎないとされています。じつは、今年2019年2月まで東京展が、そして、ゴールデンウィーク明けの5月まで大阪展が、それぞれ開催されていたフェルメール展なんですが、「日本美術史上最多の9点」が売りの文句になっていて、「9/35」という表示もあり、たった9点という評価は当たらないのだろうと思います。また、科学者のレーウェンフックは我が国ではフェルメールよりも知名度が少し低いんではないかと私は想像していますが、顕微鏡でありとあらゆるものを観察して生物の自然発生説にとどめを刺したり、それらのおびただしい数の観察結果を論文に取りまとめてロンドンの王立協会に送りつけて、最後にはとうとうフェローに任命されて大喜びしたりと、デカルト的に理性だけで結論を出そうとするのではなく、ベーコン的に観察に基づいて事実から結論を引き出す姿勢が、他の人物による再検証可能性の担保とともに、とても近代的な科学の真髄を象徴している気がします。本書の主人公が生きた17世紀半ばから後半にかけての時代は、我が国では鎖国が完成した一方で、清とオランダだけには門戸を開き、その後は蘭学という形での西洋科学の摂取に向けた時代であったわけですが、当時の江戸幕府がオランダを西洋唯一の貿易相手国、あるいは、西洋文明の窓口に選んだのは、なかなかの慧眼だったのかもしれません。

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次に、井坂理穂・山根聡[編]『食から描くインド』(春風社) です。チャプターごとの著者は、大学の研究者が多く、歴史や文化人類学や文学の専門家であり、もちろん、地域研究の研究者も含まれています。タイトルに見られる「インド」は、大きなインド亜大陸を指して使われているようで、表現は悪いかも知れませんが、英国の植民地だったころのインドとの見方も成り立ちそうです。ですから、特に、宗教についてはイスラム教の食への影響も着目されています。本書は3編構成であり、英国による植民地支配とナショナリズムの観点、文化や文学に見るインドの食、食から見たインド社会、といった感じで私は読みました。まず、我が国でも明治維新とともに食生活や食文化は大きく変化し、一般には西洋化が進んだわけですが、インドでも独立時に同じように西洋化が進むという方向性がある一方で、逆に、インドの独自性を守ろうとする方向性もあったようです。そして、植民市時代には、英国人メムサーヒブの料理が紹介され、ゴア出身のキリスト教徒の料理人が重宝された、との見方も示されています。我が家も、ジャカルタ在住時にはキリスト教徒のメイドさんを雇っていて、豚肉に対するタブーなどが一切なかったのを私も記憶しています。本書には明記してありませんが、我が家の経験ではジャカルタでは複数のメイドさんを雇う場合、料理人がメイドさんの頭として扱われ、お掃除などをするメイドさんを、場合によっては、指揮命令下に置くこともあると聞いたことがあります。インドではどうなんでしょうか。そして、食に関する本書の議論に戻ると、チキンティッカー・マサーラーに関して、英国発祥の料理がインドに持ち込まれたのか、それとも、インド伝来の料理なのか、といった議論も紹介されています。4冊の伝統的な料理書、すなわち、『料理の王』、『料理の月光』、『料理規則の鏡』、『広範な料理の知識』といった本が紹介されています。ただ、日本人が考えるように、すべてがカレーというわけではありません。食に起因する社会会問題としては、第8章で飲酒が取り上げられています。アルコール度数の低い現地酒であるアラックが労働者階級のエネルギー源となっていたのは少し驚きました。もちろん、イスラム教における豚肉のタブーについても人るのチャプターが割かれています。私は豚肉に関するイスラム教徒のタブーはユダヤ教から受け継いだものだろうと理解していたんですが、本書ではそのあたりの由来は不明としています。最後に、本書でももう少し図版が欲しかった気がします。顔写真は何枚かあるんですが、料理そのものや、もちろん、調理器具、あるいは、食器なども実物や歴史的な書物の紹介図を見れば、もっと理解がはかどりそうな気がします。

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最後に、レグ・グラントほか『世界史大図鑑』(三省堂) です。各ページをじっくり読むというよりは、カラー図版を眺め渡すことを主眼とする図鑑です。ここ2-3週間の読書で、図版が欲しいと読書感想文に書いたケースが散見されていますが、その反動というわけでもなく、ついつい、近くの区立図書館で借りてしまいました、三省堂の大図鑑シリーズの1冊であり、このシリーズにはほかに、経済学、心理学、政治学、哲学、社会学などがあるんですが、なぜか、物理学や化学などは一括化されて科学で1冊にまとめられていたりしますし、変わり種としては『シャーロック・ホームズ大図鑑』なんてのがあったりもします。ということで、本書は、編年体で6部構成であり、第1に人類の起源として20万年前から紀元前3500年くらいまで、そして、第2に古代の文明として紀元前6000年から西暦500年くらいまで、第3に中世の世界として500年から1492年まで、第4に近世の時代として1420年から1795年まで、第5に近代という意味なんでしょうが変わりゆく社会と題して1776年から1914年まで、最後に第6にコンテンポラリーな現代の世界として1914年から現在まで、という形で、少し重複を含みつつ、構成されています。タイトル通り、世界史についての図鑑であり、アルタミラの洞窟壁画から、今世紀に入ってからの同時多発テロや世界金融危機まで。世界の歴史において重要な意味をもつ104の出来事を取りあげ、オールカラーの図解と写真でわかりやすく解説してあります。解説はそれほど専門的でもありません。また、我が国や西洋先進国をフォーカスするだけでなく、アジア・アフリカのトピックや第2次世界大戦後のイベントにも多くのページを割いており、21世紀の視点から人類の起源以来の過去を俯瞰する「世界史」の見方を展開しています。ただ、トピックごとの図版ですから、それらのリンケージを探ろうとするグローバル・ヒストリーの観点は希薄な気もします。ただし、現代の関心に合わせて、人口増加や気候や環境の変化など、人類史を通じて長期的に重要な意味をもつトピックも取り上げていますし、各章末に「もっと知りたい読者のために」というコラムを第6部の後の巻末に設け、さらに60のテーマに関して簡潔に解説を加えています。もちろん、索引なども充実しています。それぞれの関心や必要性に応じて、いずれかのテーマの大図鑑を買い求めるもよし、私のように図書館で借りてザッと眺めるもよしで、いろんな利用方法があるような気がします。
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2019年05月11日 (土) 20:58:00

今週の読書は左翼エコノミストの経済書をはじめとして計6冊!

月曜日が10連休の最終日だったとはいえ、ほぼほぼゴールデンウィークも終わって、今週の読書は、左翼的なエコノミスト・アクティビストの経済書をはじめとして以下の6冊です。今日の土曜日も、いいお天気で気温も上がった昼間のうちに自転車で周辺図書館を回り終えており、来週も数冊は読みそうな予定です。

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まず、ラジ・パテル『値段と価値』(作品社) です。著者は、英国生まれで現在は米国テキサス大学で経済学の研究者をしています。研究だけでなく、ジャーナリストとして情報を発信したり、アクティビストとして1999年シアトルにおけるWTO閣僚会議に対する抗議行動を組織したことでも有名です。英語の原題は The Value of Nothing であり、2010年の出版です。ということで、本書では、マルクス主義の影響も強く見られ、シカゴ学派に代表されるような現在の主流派経済学が圧倒的に支持している市場における効率的な価格付けを認めていません。例えば、マクドナルドのビッグマックは日本では390円、スイスは728円、エジプトは195円で販売されていますが、実は、森林保全などの環境、あるいは、ほかの社会的コストを加えて試算すると、助成金なども含めて、原価だけでも200ドルを超える、といった説を持ち出すとともに、市場の公正さに関する疑義も呈しつつ、市場経済に対する疑問を並べています。私もこれは気になっているところで、労働者の賃金を低く抑えて、労働分配率を引き下げつつ、現在に日本では企業が果てしなく内部留保を溜め込んでいます。これは、市場に分配機能が備わっておらず、政府の介入が必要な根拠とされてきましたが、実は、市場が公正な価格付けに失敗している、というのが本書の著者の主張です。そうかもしれません。そして、現在の民主主義社会におけるマネーの役割は、教育を受けたり、病気の際に医者にかかったり、食料を買ったりすることを通じて、社会で自由になるための権利である、とも主張しています。これはその通りです。しかも、私が従来から指摘している通り、民主主義は1人1票で決定する原則なんですが、市場経済は利用可能な購買力で加重平均された決定となります。最後に、著者はかなりの程度に直接民主主義的な市民参加を通じて、例えば、ポルトアレグレの市民参加型予算などの例を示し、直接行動の重要性を訴えます。ただ、私の目から見て、フリーソフトウェアは少し違う気もします。いずれにせよ、経済だけでなく、広く現代社会の暗部を直視し、その解決に向けた方策を提示しており、我が国でももっと広く読まれるべき書だという気がします。

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次に、リチャード・ブックステーバー『経済理論の終焉』(パンローリング) です。著者は、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズなどの投資銀行、また、ヘッジファンドでリスク管理の責任者を務めた後、米国財務省の勤務を経て、現在はカリフォルニア大学で研究者をしています。英語の原題は The End of Theory であり、2017年の出版です。本書についても、先の『値段と価値』と同じように、合理的なホモ・エコノミクスを前提とするシカゴ学派的な主流派経済学を批判し、タイトル通りに、少なくとも金融論においては経済理論は終焉し死んだと結論しています。その上で、表紙画像にあるように、エージェントベースのモデルを再構築し、理論に基づいた構造パラメータに依存するモデルではなく、新たな変化に対応して柔軟に構造パラメータを変更できるような、というか、ここまでくると構造パラメータではなくなるわけですが、柔軟なモデルを提唱しています。私はすでに定年退職して、もう官庁エコノミストではなくなりましたし、不勉強にしてエージェントベースのモデルというのは理解がはかどりませんが、要するに、代表的な個人を1人だけ想定する主流派経済学ではなく、異質な個人の集団を考える、ということなんだろうと思います。でも、金融に関しては、本書でも指摘している通り、流動性の出し手の問題がある一方で、本書では指摘していない取引の調整速度の問題もあります。メチャクチャに調整速度が速いわけです。それを、言葉は悪いんですが、エッチラオッチラとモデルを修正することで調整スピードに追い付けるかどうかは、実務的に疑問が残ります。ただ、そういった現実の金融動向に即した調整可能なモデルの構築が有効であろうとは直感的に感じます。もうひとつ疑問なのは、異質な個人がヒューリスティックに解を求めようとするかどうかです。異質であるがゆえに、ヒューリスティックでない方法で、カーネマン教授のいうシステム2で解を求める可能性があるような気もします。いずれにせよ、本書で著者が指摘する現在の主流派経済学のモデルに関する難点はかなり当たっていて、異質な個人から成る上にかなり複雑でアルゴリズムで解明できない人間の判断をモデル化するのに、現在のような著者のいう「演繹的で公理的な手法の妥当性は低くなっていく」のは事実だろうと思いますし、リカーシブで柔軟なモデルがより妥当性高い可能性は否定できません。しかし、実際の危機の際に有効かどうかは経験が不足している気もします。

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次に、齊藤孝浩『アパレル・サバイバル』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ファッション流通コンサルタントで、専門は店頭在庫最適化だそうです。その著者の主張によれば、アパレル業界では10年おきくらいにパラダイムシフトがあり、最近では、1998年ころにユニクロなどのSPA型のビジネスモデルの展開が始まり、2008年のH&Mの日本上陸に始まるファストファッションのブームも2018年にそのH&M1号店が閉店して終了し、時代はオムニチャンネルなどのデジタル展開が始まる、というわけです。私自身のワードローブを見ても、確かに、フルタイムのキャリアの公務員だったころから、まあ、行政職ではなくて研究職の官庁エコノミストだったせいもあって、オフィスに着て行く洋服までもユニクロとGUが多かったような気がします。オックスフォードのボタンダウンシャツをトップに着て、ボトムスはチノの細身のパンツ、季節によってはソフトジャケットを上に着て、クールビズではない季節でもネクタイを締めることもなく、足元はリーガルのビジネスシューズなんぞはとっくに脱ぎ捨てて、一応、皮革製ではあるもののあんまりビジネス向きではない靴を履いたりして、時には、デッキシューズにベリーショートのソックスを合わせることもありました。今や、定年退職したパートタイマーですので、かなり服装は乱れています。自分のことはさて置いて、本書では、アパレルの小売ないし流通と、アパレルに限定されない小売業ないし流通を、ややごっちゃに論じているところもありますが、アパレルの今後の方向を探る上でとても参考になりました。例えば、H&Mといったファストファッションから、さらに低価格を思考し都市型のPRIMARKのようなウルトラ・ファストファッションがロンドンで移民も顧客対象としつつ展開しているとか、オンラインでウルトラ・ファストファションを牽引するASOS、あるいは、著名ブランドの過剰在庫をキャッシュで買い取ってディスカウント販売するT.J.Maxxなどの巨大なオフプライスストア、などなど、著者は、日本では欧米先進国から10年遅れでトレンドを追いかける傾向があると指摘しますが、こういったアパレルの業態が今後は日本でも出てくるのかもしれません。最後は、もちろん、Eコマースの展開です。ただ、我が国のZOZOタウンについては、ZOZOスーツの失敗などがあり、著者が考えるほど順調には伸びていない印象もあります。さらに、オンライン販売については、AMAZONがそうだったように、洋服やファッション・アイテムというよりは、書籍やCDなどのように大きな差別化がなされていない商品から始まるような気もしますが、いずれは洋服やアクセサリなどの嗜好性の強い財にも広がるのは確実です。ブランドへのロイヤリティをいかに形成し維持するかはマーケターの腕の見せ所かもしれません。

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次に、アランナ・ミッチェル『地磁気の逆転』(光文社) です。著者はカナダのトロント在住で、ニューヨーク・タイムズやCBCラジオなどで活躍する科学ジャーナリストです。本書の英語の原題は The Spinning Magnet であり、2018年の出版です。本書では、地磁気の謎に挑んだ歴史上の科学者たちの業績を追いながら、そもそも磁力とは何なのか、なぜ地球は巨大な磁石となっているのか、そして、何よりも、なぜ磁気逆転が起こるのか、加えて、来るべき磁気逆転の危機を前にいかに備えるべきか、などなどについての考察を進めています。地磁気、というか、磁場研究については、私のような専門外の人間でも知っているのが第15章のファラデーと第16章のマクスウェルではないでしょうか。でも、右手の法則だとか、左手の法則だとかのファラデーの研究成果を数式で簡単明瞭に示したのがマクスウェルだとは知りませんでした。ただ、歴史を離れて磁気や地磁気の研究に関しては、私にはとても難しく、例えば、本書のテーマである地球磁場の逆転については、p.240に簡単な説明があって、3段階を経ることとされており、双極子成分が弱まり、すなわち、S極とN極の差が小さく不明瞭になり、次に、磁極が地球の反対側にすばやく移動し、最後に、双極子成分が再び大きく成長する、ということになります。各段階に数百年かかる可能性も示唆されていますし、正確なことは誰にも判らないそうです。直近の地磁気の逆転は67万年前に起こり、100年で逆転が終了したという研究もある一方で、1万年かかったという研究も少なくないようです。ですから、私のような専門外に者に地磁気の逆転が正確に理解できるはずもなく、雰囲気として感じ取れるだけ、という気もします。自然科学の分野でこのように経済学のように曖昧模糊とした分野があるとは知りませんでした。もっと、天文学の星の運行のように未来永劫まで正確に予測できるんだと思っていましたが、いずれにせよ、地磁気の逆転に関しては不明な点が多いようです。そして、何らかの要因で地磁気が乱れると、まあ、大規模な逆転までいかないとしても、多くの動物の行動に影響を及ぼすとともに、スマートに制御された電気の配電などにも強烈なインパクトがあります。コイルと磁石で発電しているんですから当然です。私のようなシロートから見て、それを防ぐ方法はないような気もします。まあ、よく判らないながらも恐ろしいことだという感覚は伝わって来ました。最後に、本書にはまったく図版が用意されていません。私の理解がはかどらなかった要因のひとつかもしれません。シロート向けとはいわずとも、地球磁場のマップくらいは欲しい気がします。

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次に、中川越『すごい言い訳!』(新潮社) です。著者は、編集者を経てエッセイストになっていますが、手紙に関する著作が多いようです。ということで、本書は文豪や名だたる評論家・エッセイストの手紙の中から、言い訳に関するものを集めています。7章建てとなっていて、恋愛、お金、無作法の詫び、頼まれごとの断り、失敗や失態、ありがちなケース、の横断的な6章に加えて、最終章は夏目漱石の言い訳を集めています。基本パターンは何らかの不都合、すなわち、浮気の発覚とか、借金返済の滞りとか、作品がかけなくなったりとか、などなどに対して詫びをいっておいて、それでも、責任回避をしたり、不都合のように見えるが実は不都合ではない、といい張ったりするわけです。もちろん、「記憶にない」という言い訳の横綱を持ち出したり、言い訳が逆効果になったりする例もあります。こういった言い訳を、最終章の夏目漱石はいうまでもなく、名だたる文豪や評論家などの筆で生計を立てている有名人の手紙から抽出していますので、表現力が豊かな上に、そもそもがいわゆる芸術家ですから、私のような一般ピープルとは違って、表現する前の発想がそもそも常識を超えている場合もあったりします。さらに、そういった言い訳をする場合でも、というか、言い訳をする場合だからこそなのかもしれませんが、人柄や性格といったものが手紙ににじみ出ているような気がします。そして、中にはこういった著述業を生業とする有名人の文才にしてすら苦しい言い訳も散見され、いろんな人生があるものだと実感させられます。私は、文豪などの言い訳を数多く拝読して、今後の人生で使うことがあるかもしれない、などといった下心がなくもなかったんですが、巻末の「おわりに」で著者がしみじみと「なるほど言葉は、言い訳は、極力控えるのが賢明です。」というのが結論なのかもしれません。

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最後に、杉本昌隆『弟子・藤井聡太の学び方』(PHP文庫) です。著者は8段のプロの棋士であり、何冊かの将棋本も出版していますが、それよりも、タイトルや上の表紙画像からも理解される通り、藤井聡太七段の師匠としても有名です。子弟ともに名古屋周辺の東海在住です。昨年2018年2月に単行本として出版された第30回将棋ペンクラブ大賞受賞作品の文庫本化です。ということで、今さらながら、史上最年少で中学生のプロ棋士になり、プロデビュー後の29連勝、1年間で3回の昇段、朝日杯将棋オープン戦で史上2人目の連覇などなど、将棋界を超えて広く一般に知名度を上げ、数々の記録を塗り替えて、一大ブームを巻き起こした藤井聡太七段の師匠がいかに弟子を導いたのか、がテーマとなっています。本書でも着目している「思考力」、「集中力」、「忍耐力」、「想像力」、「闘争心」といった将棋の棋士として必要な資質に加え、「自立心」や「平常心」も含め、決して棋士として将棋に強くなるために必要、というだけでなく、将棋を離れても人間として大成し、人生を豊かにするために欠かすことができません。一応、私も教員の経験があり、地方国立大学の経済学部2年間出向し、最大400名ほどの学生を相手にする講義を受け持った記憶もありますが、大学教授というのは決して勝負師ではありませんし、勝負師を育てるわけでもありません。ただし、お金を払って教えを請うアマチュアを、お金を取れるプロに仕立て上げるという点では同じです。そこは、小学校や中学の教師と大学の教員の違いです。その意味で、決して勝負師を育てるわけではありませんが、お金を取れるプロに育てるという点については、同様の経験をしたつもりです。でもやっぱり、違いは大きいです。第4章が読みどころです。私が育てたのは平凡極まりないサラリーマン予備軍ではないかと思いますが、そうではなくて、その世界のトップになるには努力だけでは足りないわけで、持って生まれた才能というものの大切さと、それに気づく感性の重要性を理解できた気がします。
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2019年05月04日 (土) 18:42:00

ゴールデンウィーク10連休の読書はさすがにたくさん読んで計8冊!

今週はゴールデンウィーク10連休で、さすがにかなり大量に読みました。経済専門書やテキストから進化心理学、ミステリっぽいエンタメ小説、新書に短編ミステリを収録した文庫本、などなど、以下の通りの計8冊です。やや短めの読書感想文を取りまとめています。

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まず、ローレンス・サマーズほか『景気の回復が感じられないのはなぜか』(世界思想社) です。上の表紙画像を見ると、何か、いかにも英語の原題が The Enigma of the Elusive Recovery であるかのような誤解を与えかねないんですが、私の想像するに、本書の原書に当たる本は出版されていないんではないかと思います。原書は存在せず、VOX や各論者のブログサイトにアップされた記事、また、テキストが入手可能な講演などをもとに邦訳を施したのであろうと私は受け止めています。その意味で、邦訳に当たった山形氏は翻訳者であるとともに、編集者なんだろうと思います。同時に、解説もしていたりします。ということで、いわゆる長期停滞論 Secular Stagnation、1930年代にハンセン教授が提唱した考えを現代に応用したサマーズ教授と、それに対する反論を提示したバーナンキ教授、さらに、コメントを寄せるクルーグマン教授の見方を紹介しています。すなわち、いわゆる Great Recession 以降の景気の低迷について、このまま放置すれば構造的な経済の停滞に陥ると警告し、財政政策の出動によるインフラ整備の必要性を論じるサマーズ教授に対して、通常の景気循環に異なる特徴は必ずしも多くなく金融政策で対応可能と反論するバーナンキ教授、さらに、ややサマーズ教授寄りの論陣を張るクルーグマン教授、という形になっています。私は、基本的に、バーナンキ教授の見方が正しいと感じており、ラインハート-ロゴフの This Time Is Defferent は、なくはないものの、それほどお目にかかれる機会は多くない、と感じています。ただ、ケインズ的に表現すれば、「嵐が過ぎれば波はまた静まるであろう」ではダメなわけであり、景気循環のひとつの局面だから何もしなくていい、ということにはならないと考えます。

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次に、 後藤和子・勝浦正樹[編]『文化経済学』(有斐閣) です。著者は、基本的に、文化経済学ないし経済学そのものの研究者です。タイトル通りに、文化経済学のテキストです。テキストとして、学部レベルなのか、大学院博士課程前期レベルなのかは、個々のレベルによるのかもしれません。文化経済学のテキストとしては、私の大学生のころにはすでに存在しており、ボウモル&ボウエンによる舞台芸術のパラドックスを取り上げたものでした。私の大学生の時には、芸術とは4分野であり、絵画や彫刻をはじめとする美術、小説などの文学、お芝居や舞踏などの舞台、そして、誰でも判りやすい音楽です。今では、これらはハイカルであり、これらに属さないアニメやマンガや映画などはサブカルに分類されます。文化経済学の厄介なところは、余りに外部経済が大きく、産業活動のようにGDPなどの統計で把握することが難しい点です。外部経済が大きいので、それなりに公的部門からの助成も必要ですし、スタジオなどのインフラ整備も欠かせません。官庁エコノミストをしていた私からすれば、メインストリームの経済学とはとても感じられませんが、インバウンド消費のもととなる観光産業への示唆も含めて、とても重要な分野に成長する可能性を秘めている気がします。

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次に、竹信三恵子『企業ファースト化する日本』(岩波書店) です。著者は、ジャーナリスト出身で、今は大学の研究者です。上の表紙画像に見えるサブタイトルのように、本書は安倍内閣が進める働き方改革に対する疑問や反論を提示しています。たじゃ、ジャーナリスト出身の著者ですから、統計を用いての計量的な分析ではなく、ケーススタディに終止しているんですが、どうも、ケースの選択が恣意的な気もします。特に、私が考える資本主義的な働き方改革とは、傾向的な利潤率の低下の果てに、絶対的剰余価値の生産に資する改革といえます。ですから、本書でも指摘されているように、長時間労働の容認が主たる内容になります。この点で本書の指摘はとても正しいんですが、ケーススタディの例がよくありません。教員やパートタイム公務員を取材していたんでは、働き方改革の本質に迫るには距離がある、といわざるを得ません。私は工場に働くブルーカラーが労働者の真髄だとは思いませんが、広く絶対的剰余価値の生産について取材することの必要性を痛感しました。着眼点も論旨も問題ないんですが、控えめにいっても、迫力のない単なる著者の心情の吐露に終わっています。

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次に、アラン S. ミラー & サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス』(パンローリング) です。著者は、いずれも米国の研究者です。進化心理学ですから、遺伝子の保存がすべてのクライテリアで、それを基にホモサピエンスを考えるんですから、セックスと結婚がすべてとなります。しかもしかもで、それでとてもよく我々の行動原理を説明できるんですから、なかなかに手強い相手かもしれません。私は進化心理学には圧倒的に反感を覚えていて、種の保存にここまで重点を置くのには反対です。その前に個の保存も必要なわけで、闘争に勝ち抜けるような暴力的な男性は遺伝子を残せる可能性が高くなるのは事実かもしれませんが、暴力的であれば個の存在を危うくする可能性も高まります。相打ちになって3番目の個が遺伝子を残す可能性もあるわけです。いずれにせよ、進化心理学的なセックスと結婚観は私には大いに疑問です。

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次に、葉真中顕『W県警の悲劇』(徳間書店) です。男尊女卑で旧態依然たる警察組織の中でも、特にセクハラなどが横行して後進県的な雰囲気の強いW県警における女性警官の活動をメインテーマにしています。特に、W県警初の女性警視となり、さらに警視正に昇進し県警部長に就任するとともに、念願の円卓会議に出席を果たす女性警察官の昇進と転落をさまざまな視点から描き出しています。なお、円卓会議とは、23年で異動するお飾りのキャリアの県警本部長に代わって、県警を実質的に動かす影の組織なんですが、これがそもそも組織防衛や隠蔽工作に熱心と来ています。ということで、基本は連作短編集となっていて、それほど本格的ではないにしてもミステリ短編です。もっとも、謎解きというよりも、極めて巧みに読者をミスダイレクションする小説の方が目立ちます。ややネタバレながら、特に第2話の「交換日記」は我孫子武丸『殺戮にいたる病』に肉薄する出来栄えだという気がします。一方で、千春の正体はそれほど難しくなく判るんではないかと思います。私が気がかりなのは、第1話の最後で失踪した警察官については、とうと最後まで謎解きがなされませんでした。ひょっとしたら、続きがあるのかもしれません。それから、読者によっては読後感の悪い「イヤミス」と受け止める向きもありそうな気がしました。

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次に、市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書) です。著者は、東大人文研の研究者であり、もちろん、専門はユダヤ宗教だったりします。歴史、宗教、学問、社会あるいは経済からと、いくつかの視点からユダヤ人とユダヤ教について解説を加えています。私の歴史感覚や宗教感覚からすれば、ユダヤがローマ帝国に敗れ去った際に、ユダヤ人の信仰していたメシアはとうとう現れず、ユダヤ教はもうダメだ破綻した、というところからキリスト教が始まったんだと思っていましたが、まあ、私ごときシロートの考えですから少し違うようです。それから、十戎でも何でもいいんですが、殺すなかれとか、利子の禁止とかは、あくまで同朋、というか、同じ宗教の信者の間でのお話であって、キリスト教徒は聖地奪回のための十字軍でイスラム教徒をいっぱい殺しているんでしょうし、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間で利子付きのの貸借が行われていても不思議ではありません。もう一度、私のシロートなりの解釈ですが、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、遺伝子によってユダヤ人の特徴が語られるんではない、と認識しています。ですから、ユダヤ人論は人文研で宗教を基礎として研究されていて医学部で遺伝や優生学的な研究が行われているわけではない、と私は理解しています。

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次に、折原一ほか『自薦 THE どんでん返し 3』(双葉文庫) です。シリーズ3作目の自薦による、どんでん返しの短編ミステリ集です。タイトル通り自薦です。執筆陣が、 折原一、北村薫、鯨統一郎、長岡弘樹、新津きよみ、麻耶雄嵩の6人ですから、とても豪華な短編アンソロジーです。それから、このシリーズからのスピンアウトとして「新鮮THEどんでん返し」というシリーズも誕生しています。2017年暮れの発売で、私も読みました。

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最後に、ロバート・ロプレスティ『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』(創元推理文庫) です。本邦初公開の作家の作品集です。レオポルド・ロングシャンクスこと、シャンクスなるミステリ作家を主人公とする連作短編ミステリ集です。本邦初公開ですから、もちろん、私も初めて読んだんですが、これは掘り出し物です。
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2019年04月28日 (日) 14:28:00

ご寄贈いただいたバルファキス『黒い匣』(明石書店)の読書感想文など!

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2日続けての読書感想文で、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。ご寄贈いただきました。栞には「訳者 謹呈」とあり、訳者のうちのどなたかからちょうだいしたものと思いますが、本書の訳者は私の独断では、People's Economic Policy で意見ホウメイしていらっしゃる先生方が多いのかな、と感じています。少なくとも、訳者代表で訳者解説を書いている立命館大学の松尾匡教授と本書の訳者筆頭の朴勝俊教授は両方に重なっています。
前置きが長くなりましたが、本書の著者のバルファキス教授はゲーム論を専門とするエコノミストであり、とても申し訳ないながら、本書よりもむしろダイヤモンド社から出版されている『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』で有名だという気がします。そして、本書との関係でいえば、財政破綻後のギリシアに成立したチプラス首相のシリザ政権で財務相を務め、国際通貨基金(IMF)、欧州共同体(EU)、欧州中央銀行(ECB)のトロイカとの交渉に当たっています。
さらに、読書感想文に入る前の私の研究業績の自慢話ですが、長崎大学経済学部に日本経済論担当教授として出向していた時に、私は財政関係やギリシアの財政破綻に関して、いかの紀要論文を取りまとめています。繰り返しになりますが、自慢話です。

まだまだ続く自慢話ですが、私はこういった財政学に関する紀要論文を取りまとめていますので、大学出向中に財政学担当の准教授の教授昇進を審査する資格審査委員会に名を連ねたりしました。資格審査委員会を選任した教授会で私は居眠りしていて、自分が選ばれたのを知らなかったりしましたが、それな別のお話で自慢にはなりません。
ようやく、読書感想文の本論に入ります。本書ではバルファキス教授の本領発揮で、リベラルで左派的な経済学では何を目指すかが明確に示されています。すなわち、財政破綻した政府が、メチャクチャに限定された財政リソースを使って支払いをすべき対象は、果たして、トロイカや先進各国にあるギリシア国債を有する銀行なのか、あるいは、ギリシア国内の年金生活者や社会保障給付を受けている恵まれない市民なのか、ということです。著者が交渉に当たったトロイカ担当官は前者に対する支払いを優先し、ギリシア国内の貧困層への支払いを劣後させます。果たして、それが正しい経済政策なのか、答えは明らかだろうと思います。そして、トロイカの担当官は4%の経済成長と4%のプライマリ・バランス黒字をギリシアに命じますが、この2つは激しいトレードオフがあり両立は極めて困難です。後者の財政黒字を達成するためには、財政支出の切り詰めか税収の大幅増が必要ですが、そんなことをすれば成長が犠牲になります。確かに、2009~10年ころは放漫財政のギリシア政府をバッシングする雰囲気が国際社会では強く、ギリシアの財政政策は借金返済にはまだまだ生ぬるい、という論調が強かったのも事実です。先ほど引用した私の2番めの紀要論文「ギリシアにおける財政危機に関するノート」ではこういった論調に反論しており、2010~11年の2年間で「GDP7%の財政調整は、極めて大きな額に上る」とし、「野心的」と評価しています(ともに、p.175)。つまり、当時の「生ぬるい」との論調に迎合することはせず、基本的な規模感は本書のバルファキス教授と同じと受け止めています。

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何らかの流動性不足に陥って、IMFなどの国際機関からの借り入れに頼り、厳しいコンディショナリティを課された国においては、IMFは常に怨嗟の的であり蛇蝎のごとくに嫌われています。ということで、私のもうひとつの体験はジャカルタにあります。すなわち、上の画像では、アジア通貨危機の際に外貨不足に陥ってIMFからのクレジットに頼ったインドネシアの当時のスハルト大統領がIMFのカムドゥッシュ専務理事が見下ろすもとでLOI (Letter of Intent) に署名しています。本書で、MOU (Memorandum of Understanding) と称されているモノと同じだと思います。そして、本書では登場しないものの、スティグリッツ教授などが指摘するごとく、こういったワシントン・コンセンサスが正しいとは、私はとても考えられません。私の従来の主張ですが、国際機関の代表者は、例えば、IMFの専務理事などのように加盟国による投票で選ばれるとはいえ、民主主義的な選出過程によって選ばれる主権国家の政府代表を上回る権力を行使するのは、民主主義と資本主義の不整合ないし矛盾によるものです。民主主義はあくまで基本的人権に基づく1人1票の選挙で決定しますが、資本主義は株主総会的な購買力による加重平均で決定します。この矛盾が解消されるのは、現在の資本主義を何らかの方法で改良するしかありません。

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本書では、緊縮財政に対する反論が主要な通奏低音をなしていますが、その意味で、本書の訳者である松尾教授や朴教授らの『「反緊縮!」宣言』(亜紀書房) にも私は大いに期待しています。およそ1ト月後の5月23日の発売と聞き及んでいます。官庁エコノミストであったころから、私は自分を左派であると位置づけてきており、金融政策も同じですが、財政政策に関しては左派が拡大のバラマキ大いに結構に対して、右派は緊縮であり、左派はハト派であり、右派はタカ派です。そして、これも私の従来からの指摘ですが、現在の我が国安倍政権は政治的外交的には極めて右派的なんですが、経済政策についてはとても左派的です。さらに、ついでに、我が国の政治的な左派は経済的には緊縮財政や財政均衡を目指しているかの如き志向があり、とても右派的です。私の目には不思議に映ります。もっとも、私のもうひとつの経済政策に関する左右両派に関する視点、すなわち、右派は供給サイド重視で左派は需要サイド重視、というのは、我が国の現状に当てはまる気もします。

最後の最後に、還暦を過ぎたエコノミストのたわ言かもしれませんが、本書の著者であるバルファキス教授のような左派エコノミストにして政治の実践家、ということでは、京都出身の私は昔の蜷川虎三知事を思い出します。我が母校である京都大学経済学部の教授にして、京都府知事を7期務めた大先輩です。
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2019年04月27日 (土) 11:44:00

今週の読書は経済書や『左派ポピュリズムのために』をはじめ計8冊!

今週は、以下に9冊リストアップしていますが、読んだのは実は8冊です。最初に置いたのは、ご寄贈いただきましたのでフォントも大きくして宣伝に努めております。今週の読書は経済書に加えて左派応援書もあります。経済成長懐疑的なタイトルの本もありますが、中身はジャーナリストらしくキチンと整理されたもので、闇雲に反経済学的な内容では決してありません。今日から10連休という人も多いような気がしますが、私は特に遠距離の外出はしませんし、読書感想文は定例の土曜日に限らず随時アップし、いつも通りに、読書とスイミングに励みたいと思います。ブログに取り上げる予定の経済指標の公表は米国雇用統計くらいのもので、日本国内の経済指標公表は少しの間お休みです。

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まず、ヤニス・バルファキス『黒い匣』(明石書店) です。しかしながら、ご寄贈いただいたのですが、先月末の定年退職前に私が在籍していた役所の研究所にお届けいただき、私の手元に来るまで少しタイムラグがありましたので、誠に恥ずかしながら、読み始めたものの読み終わっていません。2段組みで600ページ近いボリュームですので、かなりの読書量を誇る私でも時間がかかっています。今日から始まる長いゴールデン・ウィーク中には何としても読み終えて、貴重なご寄贈本ですので単独にて取り上げたいと予定しています。それほど時間はかからないつもりですので、今しばらくお待ち下さい。

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まず、クリス・ヒューズ『1%の富裕層のお金でみんなが幸せになる方法』(プレジデント社) です。本書の英語の原題は First Shot であり、2018年の出版です。著者のクリス・ヒューズは、何といっても、ハーバード大学に進学しマーク・ザッカーバーグのルームメイトとなり、ファイスブックの共同創業者から億万長者となったことで米国でも有名であり、次いで、その巨万の富を足がかりに、2008年の米大統領選でオバマ陣営のネット戦略を指揮したり、リベラル系の老舗雑誌を買収して経営に乗り出したりしています。本書は、基本的には、著者の半生を綴った自伝なんだろうと思いますが、アメリカの堅実な中流家庭に育った努力型の秀才と自称しつつ、自身の半生を振り返っていて、恒例の方の自伝のように自慢めいた部分がなくはないものの、自身の半生で、あるいは、米国の経済社会で、反省あるいは修正すべきポイントもいくつか提示されています。例えば、ですが、ザッカーバーグのルームメイトという運の良し悪しが、ファースト・ショットとして、何世代も継承されるような格差を生む「勝者総取り社会」に疑問を感じ始めます。フェイスブックの株式公開により巨万の富を得た点は、宝くじに当たったようなものだと自覚しています。ほとんどの米国人はこういった幸運に恵まれず、自動車事故や入院などのための緊急出費も捻出できないのに、他方で、幸運を持って億万長者になれる、それはそれで、米国的なサクセスストーリーなのかもしれませんが、そんなことが可能になる社会は何かが歪んでいると考えています。私はこれも健全な思考だと受け止めています。そして、著者自らの富と経験を注ぎ込んで、米国ではなく、サックス教授らと発展途上国における経済開発の実践に取り組んだりしています。それらの結果として、解決策が年収5万ドル未満層への保証所得にあるとの結論に至っていますが、同時に、所得制限なしのユニバーサルなベーシックインカムには否定的です。その原点は職業的な天命のようなものにあるんではないか、とうかがわせる記述がいくつかあったりします。私自身は、著者の主張するような「負の所得税」まがいの保証所得ではなく、ユニバーサルなベーシックインカムが正解だと考えています。というのは、著者は職を持って働いて、何らかの賃金、というか、所得を得ることの重要性を指摘しているわけですが、それは取りも直さず資本主義的な経済活動への参加を促しているわけです。私は、必ずしも経済活動でなくても、例えば、無償のボランティアなどの社会参加活動でもOKだと考えています。もちろん、私のような考えには、現在も存在する生活保護を悪用するような反社会的組織のようなものがつけ込むスキがあったりするわけですが、所得を得られる敬愛活動だけでなく、必ずしも金銭的な報酬を目的とせず、広く社会参加活動を重視すれば、やっぱり、ユニバーサルなベーシックインカムの方がより優れた制度ではないでしょうか?

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次に、デイヴィッド・ピリング『幻想の経済成長』(早川書房) です。著者は Financial Times をホームグラウンドとする英国のジャーナリストであり、東京支局長の経験もあります。英語の原題は The Growth Delusion であり、2018年の出版です。ジャーナリストらしく、GDP/GNPがクズネッツ教授により開発された歴史なんぞをひも解きつつ、GDPないし経済統計の正確性や計測すべきポイントなどを明らかにした上で、経済政策の目指すべきポイントについての議論を展開しています。類書では、経済統計のメインをなすGDPについて否定したり、あるいは、エネルギーや環境とのサステイナビリティの観点からゼロ成長を推奨したりといった、私のようなエコノミストの目から見てメチャメチャな経済成長否定論ではなく、GDPの統計としての把握のあり方と現在の経済活動とのズレ、あるいは、GDP出は買った経済規模と国民の幸福感のズレ、などを正面から議論の対象にしています。まず、本書では自身がなかったのか、明記していませんが、スミスの『国富論』では経済社会における富とは製造業だけが生み出せるものであり、サービスはまったく無視されていた点は重要です。20世紀に入ってクズネッツ的なGDP/GNPではサービスは当然に経済活動に含まれて、生産高に算入されるわけですが、本書でいえば、第5章に明記されているように、インターネットの普及に伴って、一部のサービスが専門業者の生産から家計で生産するようになって、GDP/GNP統計に反映されなくなったのは事実です。例えば、従来でしたら旅行代理店に行って宿の手配をしていたところ、家や職場からインターネット経由でホテルの予約ができるようになっています。また、Airbnb や Uber などのシェアリング・サービスの普及もGDP/GNPの観点からは成長率の押し下げ要因となる可能性があります。ただ、これらが国民生活の幸福度や利便性の観点からマイナスかというと、そんなことは決してありません。逆に、選択肢の増加などによって幸福度にはプラスの影響すらありえます。こういった観点からインターネットやモバイル機器を使いこなす若者の幸福観を論じたのが、日本でいえが古市憲寿だったりするわけです。こういった統計としての限界、というか、GDP/GNP統計が開始された時代から経済モデルが明らかに変化したわけですから、新しい統計が必要なわけで、統計家かエコノミストがサボっているのか、あるいは、能力が不足しているのか、新しい指標がまだ出来ていないわけです。そこで、ブータン的な幸福度指標が注目されたりするわけですが、本書でも疑問を呈しています。主観的な幸福度を政策目標にすることについては私はハッキリ反対です。極めて極端な主張かもしれませんが、健康状態が悪くて寿命が短くても、消費生活が貧しくても、識字率が低くても、薬物により主観的な幸福度が高ければOK、ということになりかねないからです。ですから、主観的な幸福度あるいはエウダイモニアではなく、客観的な生活の利便性や豊かさ指標のようなものを国民の合意により形成する必要があると私は考えています。健康指標、文化指標、もちろん、経済指標などの組み合わせからなる総合的な社会指標の統計が必要ではないでしょうか?

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次に、伊藤元重『百貨店の進化』(日本経済新聞出版社) です。著者は我が国を代表するマクロ経済分野や国際経済学の権威の1人です。なぜに、百貨店についての本を書いているのかは不思議な気もしますが、百貨店協会創設50週年で20年前に百貨店の本を書いているようですし、私の記憶でも『吉野家の経済学』の共著者だったように覚えていますから、こういった経営的な分野もお得意なのかもしれません。ということで、バブル崩壊直後の1991年に売上のピークを迎えて、その後はいわゆるジリ貧状態にあり、売上げだけを見れば、百貨店よりもコンビニの方が伸びているわけながら、百貨店の草分けともいえる三越をはじめとして、いわゆる老舗のお店が少なくない、というのも百貨店業界だったりするわけで、著者も、100年継続する企業であるからには、それなりに時代の変化への対応力があるんではないか、と示唆しています。確かに、アマゾンや楽天などのネット通販に加えて、メルカリなどのネットを通じた中古品販売も急成長しており、ジリ貧の百貨店業界とは好対照をなしている一方で、アマゾンがリアルの実店舗の展開を始めたりしているのも事実です。もちろん、これだけ外国人観光客の訪日が増加してる中で、インバウンド消費の恩恵に預かれるのは、ネット通販ではなく実店舗、特にドラッグストアと百貨店であると私も聞いたことがあります。逆に、成長著しいアジアをはじめとする海外展開も必要です。我が家が今世紀初頭にジャカルタで3年間暮らした折にも、ジャカルタにあるそごうですとか、シンガポールの高島屋に足を運んだ記憶があります。我が家のジャカルタ生活から20年近くが経過し、インターネットの普及や発達とともに消費者が利用可能な情報は飛躍的に増加しており、消費者の選択の幅も広がっている一方で、消費の実店舗の場合、いまだに集積に一定のメリットがありますから、レストランのように隔絶した世界にある一軒家のレストランでの消費は別にして、物販の消費の場合は集積した百貨店やショッピングモールに利便性が認められるのも忘れるべきではありません。アパレル製品、特に、婦人服と一蓮托生で成長を享受してきた百貨店の歴史はその通りなんでしょうが、高齢化と人口減少が進めば消費のパイは確実に減少を続けます。その小さくなる一方のパイの奪い合いの中で、本書にはない視点ながら、「働き方改革」の進行する中で、個人消費者相手に休日が少なく営業時間が長い百貨店が、どのような経営戦略を持って成長を図る、あるいは、地盤沈下を食い止めるのか、私自身は百貨店は大好きですし、それほど買い物はしないまでも、モノではなくコトを消費する場として重要だと考えていますから、これからの合従連衡の業界集約とともに、本書のタイトル通りの「百貨店の進化」に期待しています。

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次に、シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(明石書店) です。著者はベルギー出身で現在は英国ウェストミンスター大学の研究者です。英語の原題は For a Left Populism であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳といえます。2018年の出版です。私は少し前まで、県庁エコノミストにして左派、というビミョーな立ち位置にあったんですが、そのころから、立命館大学の松尾匡教授のご著書などを読むにつけ、かなり硬直的と言うか、教条的な左派の訴えに対して、もっと国民の幅広い層から指示されるような経済政策を提示すべき、と考えてきたところで、本書は、経済学ではなく政治学的なアプローチながら、基本は同じような発想に基づいているような気がします。ということで、極めて正しくも、戦後の政治経済史について、本書では1970年代までの経済が順調に成長してきた時代について、福祉国家の拡大、労働運動の前進、完全雇用の政治的保証といったケインズ的な経済政策に支えられたものと捉え、そのケインズ主義的な経済政策が1970年代の2度に渡る石油危機でインフレが進む中での景気後退というスタグフレーションにより終焉し、新自由主義的な経済政策が取って代わった、と理解しています。すなわち、本書の著者のホームグラウンドでいえば英国保守党のサッチャー政権であり、本書では登場しませんが、米国ではレーガン政権なわけです。我が国では中曽根内閣といえるかもしれません。そして、英国のサッチャー政権の炭鉱ストに対する態度は、これまた、本書には登場しませんが、米国レーガン政権の航空管制官ストに対する姿勢と基本的な同じなわけです。そして、こういった新自由主義的な経済政策を背景に、企業活動が野放しに利潤追求を行い、そして、経済格差が拡大したわけです。しかしながら、2007~08年の Great Recession の中で、大銀行は政府から資本注入を受けて救済される一方で、教育や社会福祉といった政府支出は大いに削減され、不景気による失業の増大も相まって、国民生活は急速に悪化を示したわけですから、新自由主義的な経済政策も破綻した、と考えるべきです。そして、2016年の英国のBREXIT国民投票や米国大統領選挙でのトランプ大統領の出現、あついは、フランス大統領選挙での国民戦線の躍進をはじめとする大陸欧州でのポピュリスト政党の支持拡大などにより、ケインズ的な福祉国家、新自由主義に続く第3の段階が始まったわけです。そして、本書では、ポスト構造主義とマルクス主義をブリッジする理論的な政治学のフレームワークを提供しようと試みています。それが、ラディカル・デモクラシー、あるいは、本書の著者の表現を借りれば、民主主義の根源化、ということになります。これだけを見ると、日本社会に即せば講座派的な二段階革命論に近い気がして、私は好感を持ちました。民主主義は1人1票という完全平等論に基づいていますが、資本主義は購買力、すなわち、手持ちの利用可能な貨幣量によってウェイト付された平等観です。ですから、資本主義をラディカルに民主主義化することが必要で、それは社会主義革命に先立つわけです。二段階革命論の正当性といえます。ただ、経済学に基づく経済政策も実践的かつ経験的な面が大きいんですが、政治学というよりも、本書のターゲットは政治的な運動論でしょうから、経済学よりもさらに実践的かつ経験的な結果を出すことが求められます。ですから、今後の左派政党による実践を待ちたいと思います。

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次に、ヘレン・トムスン『9つの脳の不思議な物語』(文藝春秋) です。著者は医学部出身ながら医者ではなく、英国のジャーナリスト・サイエンスライターです。英語の原題は Unthinkable であり、2018年の出版です。単純なものであれば、命令にも必ず従ってしまう「ジャンパー」と呼ばれる人々がいる、というウワサのような情報からお話が始まり、最後もそれで締めくくられます。その中で、邦訳タイトルにあるように、人間の脳に関する9つの奇妙な症例について、その症状を呈しているご本人や周囲の人に対するインタビューなどを通じて明らかにしようと試みています。本書でも何度か言及されているように、オリバー・サックスの著書のような趣きがあります。ということで、それが第1章から第9章まで並んでいて、具体的に章タイトルを上げると、第1章 完璧な記憶を操る、第2章 脳内地図の喪失、第3章 オーラが見える男、第4章 何が性格を決めるのか?、第5章 脳内iPodが止まらない、第6章 狼化妄想症という病、第7章 この記憶も身体も私じゃない、第8章 ある日、自分がゾンビになったら、第9章 人の痛みを肌で感じる、となります。古典古代から、人間らしい心や知能の働きは頭の脳ではなく、心臓に宿ると考えられていましたが、現在では脳の働きとされていることは広く知られている通りであり、同時に謎の多い分野でもあります。各省全部を取り上げるわけにもいきませんが、例えば、第1章では生後9か月から、日々の完全な記憶がとどめられている症例であり、逆にいえば、忘れるということの意味も同時に問うています。第2章では自分の家で迷子になっておトイレにも行けないような症例、一般的には方向音痴と称される例の極端なものが取り上げられます。もちろん、逆に、『博士が愛した数式』のように、極端な短期しか記憶がとどめられない例も取り上げられています。こういった脳の働きにおけるいくつかの症例を取り上げつつ、必ずしも、以上と成城の議論には深入りしていませんが、やや関心も向けつつ、議論を進めています。私の関心が向いたひとつの例は第4章で、特に、育った環境の異なる双子についても、かなりの性格の一致が見られる、というものです。それだけを取り上げると、性格は環境ではなく遺伝子で決まる、と結論しそうになりますし、私の実体験としても、我が家の倅2人の兄弟について見るにつけ、遺伝子の働きは偉大だと感じずにはいられませんが、その遺伝子がどのように受け継がれるかについては少し疑問も残ります。また、何らかの問題行動、反社会的な行動、あるいは、ハッキリと犯罪行為があった場合などについては、本人の意思や判断の免罪を主張するようで、違和感もあります。すなわち、およそ地球上で最高の治世を持つと考えられる霊長類の人類にして、単なる遺伝子の運び手であるとすれば、いったい、自分とは何なのか、最後の究極の疑問に突き当たる気もします。

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次に、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』(角川書店) です。作者の作家デビュー30周年を記念して、平成最後にいろいろと、というか、ハッキリいって、脈絡なく、作者ご自身の単行本未収録作品を集めています。「有栖川作品の見本市」というのが宣伝文句ですし、上の表紙画像にその雑多な雰囲気が見られると私は考えています。この雰囲気は、先週の4月20日付けの読書感想文で取り上げた山内マリコの『あたしたちよくやってる』と似ているんですが、『こうして誰もいなくなった』は小説のみを収録していて、エッセイなどは含んでいません。作者ご本人の前口上にもあるように、ファンタジー、ホラー、本格ミステリがグラデーションをなすように並べられているようで、発表順といった編年体とかではありません。ただ、未収録作品集だけに、作者のシリーズに登場する江神二郎とか、火村英生といったおなじみの名探偵は登場しません。まあ、仕方ないんでしょう。収録作品は以下の14編で、最後の本書タイトルと同じ表題作は短編というよりも、独立した単行本として発行されてもおかしくないような内容の本格ミステリで、後述の通り、クリスティ作品『そして誰もいなくなった』を下敷きにしていますが、結末は大きく違っています。ということで前口上が長くなりましたが、収録作品は、「館の一夜」、「線路の国のアリス」、「名探偵Q氏のオフ」、「まぶしい名前」、「妖術師」、「怪獣の夢」、「劇的な幕切れ」、「出口を探して」、「未来人F」、「盗まれた恋文」、「本と謎の日々」、「謎のアナウンス」、「矢」、「こうして誰もいなくなった」となっています。なお、あとがきに作者ご本人から、かなり詳しい解説が提供されていますので、立ち読みの範囲でもかなりの情報を得ることが出来そうな気がします。なお、作者ご自身の単行本に未収録とはいえ、何らかのアンソロジーに収録されている作品も多く、逆に、ラジオ番組の朗読用原稿なので今まで活字になっていない作品もありますが、私は4話が既読でした。収録順に、「線路の国のアリス」は推理作家協会編集のアンソロジー『殺意の隘路』にて、また、「劇的な幕切れ」はアミの会(仮)編集のアンソロジー『毒殺協奏曲』にて、「未来人F」は『みんなの少年探偵団 2』にて、「本と謎の日々」は『大崎梢リクエスト! 本屋さんのアンソロジー』にて、それぞれ読んだ記憶があります。特に、「劇的な幕切れ」が収録されている『毒殺協奏曲』は、つい今月の4月7日付けの読書感想文で取り上げています。でも、やっぱり、もっとも印象的なのは表題作の「こうして誰もいなくなった」です。130ページ余りの本書の中でも最大のボリュームですし、クリスティ作品と同じく通信の途絶した孤島での連続殺人事件です。不勉強な私にはお初の登場で、響・フェデリコ・航という奇抜な名探偵が登場します。同じ京都系の新本格ミステリ作家である麻耶雄嵩作品のメルカトル鮎に少しネーミングが似ていて、事件解決に邁進します。江神二郎とか、火村英生と同列に論ずるべき名探偵ではないかもしれませんが、密かにシリーズ化することを期待している読者もいそうな気がします。私は江神二郎と火村英生の2人で十分です。ひょっとしたら、火村英生だけでも十分かもしれません。

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次に、佐々木閑『大乗仏教』(NHK出版新書) です。著者は京都にある花園大学の仏教学科の研究者であり、仏教に対するかなり柔軟なお考えの持ち主と私は見ました。青年と講師の間の問答形式に基づく講義の形で議論が進み、最後の補講で『大乗起信論』パッチワーク説が明らかにされます。仏教は、本書では別の用語を用いていますが、いわゆる小乗仏教と大乗仏教に分かれて、後者が北伝仏教と呼ばれるように、中国や我が国に入って来ています。それなりのボリュームの信徒数を誇る世界の3大宗教たる仏教をわずかに2分類するのはムリがあり、キリスト教をカトリックとプロテスタントとギリシア正教の3分類するくらいの粗っぽさだという気がしますが、その大乗仏教が護持する経典であるお経についての解説書と考えても本書は成り立つような気がします。そして、本書の著者の論を待つまでもなく、仏教は釈迦の提唱した原始仏教から、本書の副題である「ブッダの教えはどこへ向かうのか」の通り、かなり大きく変容しており、それはそれで宗教として民衆の役に立っている、というのが本書の著者の議論だと私は受け止めています。大乗仏教も小乗仏教以上に釈迦の唱えた原始仏教から離れているのも事実だろうと思います。本来は、輪廻転生の中で釈迦やブッダに出会って菩薩となり、仏教的な修行を始め自らもブッダになることを目指すのが仏教的な道なんでしょうが、私の信奉する浄土真宗や浄土宗などは単に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで輪廻転生から解脱して極楽浄土に生まれかわれる、とする教義ですし、本書でも座禅を中心教義、というか、中心となる修行と考える禅宗は修行の宗教といえます。そして、禅宗は中国発祥であり、インド発祥ではなく、釈迦の始めた原始仏教から直接に派生したものではありません。まあお、それをいい出せば、大乗仏教がすべてそうなんでしょうが、その仏教の多様性こそが中国や日本で受け入れられたひとつの要因ながら、逆に、日本の仏教はヒンズー教に極めて近いと著者は主張し、それゆえに、仏教が創始されたインドにおいて仏教がヒンズー教に取って代わられたゆえんである、とも指摘します。このあたりは私にはよく理解できませんでした。でも、釈迦やブッダに出会って仏教に覚醒し、菩薩として修行を始める、というのが、釈迦やブッダに代わって真実の書であるお経に出会うことに変容し、それ故に、お経に対する「南無妙法蓮華経」というお題目が日蓮宗の信徒に広まったのも、この年齢に達して初めて知りました。私はすべての日本人が仏教徒ではないことは理解しているつもりですが、日本の文化や風俗の中にかなりの程度に仏教的な、釈迦の提唱した原始仏教ではないにしても、日本的に変容した仏教がベースになっている部分もあり、本書の値打ちはそれなりに高いと受け止めました。

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最後に、アガサ・クリスティ『ミス・マープルと13の謎』(創元推理文庫) です。火曜日クラブの延長戦なのか、始まりなのか、いわゆる安楽椅子探偵のミス・マープルの13の事件に渡る謎解きが楽しめます。100年近い、というか、90年前に原作がアガサ・クリスティによって書かれ、60年ほど前に邦訳書が出版されているそうですが、創元推理文庫創刊60周年記念による新訳刊行だそうです。大昔に読んだ記憶がないでもないんですが、クイーンの国別シリーズ、コチラは角川文庫からの新約とともに、やっぱり、文章が読みやすくてスンナリと頭に入ってくるような気がします。収録されている短編は、「<火曜の夜>クラブ」、「アシュタルテの祠」、「消えた金塊」、「舗道の血痕」、「動機対機会」、「聖ペテロの指の跡」、「青いゼラニウム」、「コンパニオンの女」、「四人の容疑者」、「クリスマスの悲劇」、「死のハーブ」、「バンガローの事件」、「水死した娘」の13話であり、最後の作品だけは夜に語られたものではなく、スコットランドヤードの元警視総監であるヘンリー・クリザリング卿にミス・マープルが犯人名を書いたメモを託して、ヘンリー卿が地元警察の捜査に同行したりします。まあ、短編ですから、とてもアッサリとミス・マープルが謎を解き明かしてしまうのは、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、謎の中身は割と殺人事件も少なくなく、さすがのクリスティ作になるミステリだと感じさせます。
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2019年04月20日 (土) 11:42:00

今週の読書は『ピケティ以後』をはじめ、計7冊ながらボリュームたっぷり!!

今週は、『21世紀の資本』という話題の高かった経済書を発行から3年後に振り返る、というビミョーな位置づけの経済書をはじめとして、パットナム教授による米国の宗教についての社会学分析など、以下の通りの計7冊です。ただ、『ピケティ以後』とパットナム教授の『アメリカの恩寵』はともに、大判の書物で600ページを超えるボリューームでしたので、それぞれが通常の2冊分くらいに相当しそうな気もします。今週もすでに自転車で図書館を回り、来週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、ヘザー・ブーシェイ & J. ブラッドフォード・デロング & マーシャル・スタインバウム[編]『ピケティ以後』(青土社) です。5部22章から構成され、600ページを超える大作です。編著者と章構成などは出版社のサイトに詳細が示されていますが、このサイトにも本書にもかなり誤植があります。これは後ほど。ピケティ教授の『21世紀の資本』については、フランス語の原書が2013年、英語の翻訳版とその英訳版からの邦訳版がともに2014年に出版され、その後3年を経ての余波、功罪、真価などについて問い直そうと試みています。本書の英語の原題は After Piketty であり、2017年の出版です。ということで、まず、『21世紀の資本』のおさらいから始まります。すなわち、r>gが成り立てば経済成長に基づく所得よりも資本からの利得のほうが上回るため、その要因による格差が拡大すること、米国などのスーパー経営者のスーパーサラリーなどを見ても理解できるように、1%の富裕層では資本所得よりも労働所得のシェアが高いものの、0.1%の富裕層になれば資本所得が圧倒的な部分を占め、そのため、相続に基づく世代間の格差拡大の連鎖がポジティブにフィードバックしかねない、などです。これらのおさらいを含めつつ、最終章のピケティ教授自身からの回答を別にしても4部21章にして600ページを超える大著であり、しかも、チャプターごとに著者が異なっていてテーマもさまざまなわけですので、ハッキリいって、出来のいいチャプターとそうでないのが混在しています。最後の山形浩生さんによる訳者解説でかなりあからさまに記述されているように、奴隷やフェミニスト経済学のようにできの悪いチャプターも少なくないですし、ピケティ教授の格差論や経済学とは何の関係もなしに、あるいは控えめにいっても、ほとんど関係なしに、ご自分の持論の展開に終始しているチャプターもいっぱいあります。それらのチャプターを見渡して、私の見方でも訳者解説と同じで、第16章と第17章は出来がいいと思います。特に、第16章はムイーディーズ・アナリスティクスの計量モデルに基づく議論は一番の読み応えがあります。それでも、やや結論が楽観的で格差の弊害を軽視している点は懸念が残ります。でも、貯蓄率の変動を介して格差が景気循環に対してプロサイクリカルに作用するという視点はその通りだと私は受け止めています。また、エコノミストの目から見てなのかもしれませんが、第Ⅳ部の政治経済学的な見方は参考になりました。資本主義の根本となる私有財産制がいかにして理論付けられてきたか、というのは根本的な問いかけに対する答えのような気がします。最後に、誤植が多いです。やや知名度に欠ける出版社なので仕方ないかもしれないのですが、要請と妖精は誤植にしてもヒドい気がしますし、反トラストとせずともアンチ・トラストでいいのに、半トラストはないと思います。

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次に、ロバート D. パットナム & デヴィッド E. キャンベル『アメリカの恩寵』(柏書房) です。著者のうち、パットナム教授はハーバード大学の研究者であり、『孤独なボウリング』や『われらの子ども』で有名です。キャンベル教授はブリガム・ヤング大学のご卒業ですからモルモン教徒なんではないかと私は想像しています。本書の英語の原題は American Grace であり、ハードカバー版は201年の出版ですが、この邦訳書の底本となっているペーパーバック版は2011年の新たな調査結果を盛り込んで2012年に出版されています。ですから、パットナム教授の著書の順でいえば、『孤独なボウリング』と『われらの子ども』の間に入ることとなります。今週2冊めの600ページ超の大作です。ということで、「人種のるつぼ」といわれる米国は同時に宗教も極めて多様性を有しており、基本はWASPと称される伝統的なキリスト教プロテスタントなんですが、もちろん、ヒスパニックをはじめとし、イタリア人などを含めて、本書でラティーノと呼んでいる人々やアイルランド人やポーランド人の間ではカトリックが主流でしょうし、さらに、キリスト教の中でも東方正教もいれば、もちろん、ユダヤ教も少なくありません。パットナム教授は改宗したユダヤ教徒ですし、キリスト教の中でもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなんて、カルトすれすれながら連邦議会議員にとどまらず、閣僚や大統領候補まで輩出している新興宗教もあります。おそらく、私の直感ながら、クリスチャン・サイエンスからさらに、エホバの証人まで行けばカルトと見なされそうな気もしますが、例えば、私が自伝を読んだ範囲では、ブッシュ政権下の最後の財務長官を務めたゴールドマン・サックス証券出身のポールソン元長官はクリスチャン・サイエンスですし、2期目のオバマ大統領に挑戦した共和党のロムニー候補はモルモン教徒でした。本書では、福音派や黒人プロテスタントなどの例外的な存在のキリスト教徒も含めて、ほぼほぼ99パーセントはキリスト教中心ながら、ユダヤ教や、あるいは、イスラム教徒や仏教徒まで視野を広げつつ、米国民が西欧に比べて極めて宗教的である点を、「毎週教会に行く」などの行動の面から確認しつつ、女性の権利拡大、所得の不平等の拡大、同性婚の容認などについての米国民の思考パターンや行動の源泉としての宗教について分析を展開しています。私にはやや疑問の残る結論なんですが、本書では、多様な人々から構成されている米国社会において、それぞれのグループは自らのアイデンティティを確認するために宗教へと向かう一方で、人々はそれらの宗教に基づいてばらばらになるのではなく、むしろ長期的には他のグループ出身者と知り合い、友人になり、さらには婚姻関係を結んだりして、かなりの程度に交流を深めます。そして、こういった社会的流動性こそが、やがては異なる宗教間の橋渡しをすることを、著者は「アメリカの恩寵」と名付け、実際の米国社会がそういった方向に進んでいることを実証的に示そうと試みています。私は、マルクス主義的なエコノミストですから、経済が下部構造となって文化を規定し、その文化が政治的な傾向を示す、と考えています。もちろん、宗教は第2段階の文化であり、それが、米国においてはティーパーティーなどの政治動向に、もちろん、共和党と民主党の分断に結びついている、と考えています。トランプ政権の成立などを見ても、ここ数年における動向は私の見方を指示していると自負しています。

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次に、川本裕司『変容するNHK』(花伝社) です。著者は朝日新聞の記者であり、なぜか、NHKウォッチャーだったりもします。本書は、そのジャーナリストとしてのNHK観察の結果を取りまとめていますが、特に、ここ数年の籾井前会長の就任とその活動・発言や、政府との距離感や政府の意向の忖度などについて、事実関係とともに考えさせられる材料を提供しています。加えて、放送局としての国民に対する情報提供の在り方も考えさせられます。すなわち、エリート層に対する情報解釈の方向まで含めたニュースの報道や解説やドキュメンタリ番組などを提供しつつ、単なるエリート層向けにとどまらず、一般大衆向けのエンタメ番組の提供まで、放送局は幅広い役割を担う必要がある点も忘れるべきではありません。また、同時に、本書ではほとんど用語として現れませんが、ガバナンスについても議論されています。一般的な民法ではコマーシャルを流して収入としている一方で、NHKでは受診料を徴収することが認められています。コマーシャルは市場における評価を代理する一方で、もちろん、広告主に対しての忖度が働きます。受信料収入で放送番組を作成しているNHKで政権に対する忖度が働くのと、果たして、どちらにどういった長短があるのか、決して単純ではありませんが、もう少し議論なりとも展開してほしかった気もします。加えて、衛星放送に伴って受信料収入が潤沢になったことをもって、NHKの不祥事のひとつの原因との指摘も取り上げられており、事実上の国営とはいっても、いち放送局がここまで肥大化するのが適当なのかどうか、私は疑問を持ちます。すなわち、JRやNTTのように単純に地域で分割するのが適当とは決して思いませんが、放送のチャンネルごとにいくつかにNHKを分割するという見方も成り立つように見えるところ、そういった視点は本書の著者にはないようです。ただ、海外の同種の放送局との対比はそれなりに説得力あります。例えば、英国BBCには解釈ある一方で、NHKは解釈なしの生の情報を流しているとか、これもBBC幹部の発言で、政党政治の目的と放送局の目的は異なる、といったあたりです。視聴者目線としては、裏方の編成などのエラいさんばかりではなく、現場の記者やキャスターについて女性ばかりが取り上げられていた気がします。まあ、私の気のせいかもしれません。岩田明子記者が安倍官邸に食い込んでいるというのは、それはその通りでしょうし、ジャーナリストとしては悪くないような気もしますが、本書ではなぜか奥歯にものの挟まったような取り扱いしかなされていません。他方で、章まで立っている国谷裕子キャスターは「クローズアップ現代」で官房長官に対して否定的な立場からのインタビューをして降板につながった点を指摘しています。また、有働アナウンサーも取り上げられていました。いずれにせよ、受信料収入で成り立っていて、予算が国会で議論されるNHKなのですから、従来からそれなりの政府への遠慮や忖度はあったことと私は想像していますが、前の籾井前会長の特異なキャラクターが生み出した1冊と受け止めています。

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次に、楊継縄『文化大革命五十年』(岩波書店) です。著者は中国新華社出身のジャーナリストです。本書は著者の大作『天地翻覆』を編集し直したものだそうです。タイトル通り、1966年から毛沢東の死や4人組の逮捕・失脚までの約10年間続いた中国におけるプロレタリア文化大革命について論じています。もちろん、中国共産党自身が1981年6月の11期6中全会で採択した歴史決議、すなわち、「毛沢東同志が発動した『文化大革命』のこれらの左傾の誤った論点は明らかにマルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国の具体的実践を結び付けた毛沢東思想の道からはずれており、それらと毛沢東思想とは完全に分けねばならない」との指摘だけで終わるハズもなく、近代史でもまれに見るような国家的な大混乱を引き起こしています。このプロレタリア文化大革命について、著者は3つのグループないしプレイヤーを設定し、毛沢東、造反派、官僚集団のの三角ゲームであったとし、毛沢東が紅衛兵などを扇動しつつ官僚集団を粛正するためには造反派を必要とし、逆に、この文化大革命が毛沢東の意図した範囲に収まらずに、暴走した結果、秩序を回復するためには官僚集団を必要とした、と結論しています。短くいえばそうなんですが、こういった考察を3部構成として、文化大革命の進行、その後のポスト文革の後処理、特に毛沢東死後の4人組の逮捕と失脚、そして、50年の総括に当てています。文革さなかの酸鼻を極めた死刑の処刑、特に、処刑される者が最後に発する声を防止するための驚くべきやり方など、一般大衆の中の犠牲者の像が明らかにされるとともに、もちろん、大きなターゲットとされた劉少奇や林彪の考えや行動を跡付けています。ポスト文革の後処理については曹操の故事を引きつつ責任追及をあいまいにするような論調が出た点を紹介しつつ、文革終了の大きな起点となった毛沢東の死去の後の中国の政治的な継承と混乱について分析を加えています。そして、「中体西用」として、中国的な体を西洋的な用で運用する、すなわち、権力の抑制均衡と資本の制御のための有効な制度は立憲民主制度であると結論しています。もちろん、今さら指摘するまでもなく、文化大革命を発動した毛沢東の動機はたんン位劉少奇の排除だけではありえませんし、また、発動した毛沢東にすら制御できなくなり、暴走した文化大革命のムーブメントを鎮めて秩序を取り戻すには官僚組織のシステマティックな活動が必要であり、その結果として、官僚組織の頭目である鄧小平の権力奪取の一因となったのは理解できるところです。いまだに、中国国内では正面から文化大革命に向かい合うことができないでいる現時点で、それなりの貴重な事実関係のコンパイルではなかったかと私は受け止めています。ただ、結論としての権力の抑制均衡のための立憲民主性、というのはやや物足りません。

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次に、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』(白揚社) です。著者はリスボン出身で、現在は米国南カリフォルニア大学の研究者であり、専門分野は神経科学や神経医学です。英語の原題は The Strange Order of Things であり、2018年の出版です。かなり難しい進化生物学の専門書です。私は半分も理解できたとは思えません。本書は3部構成であり、第1部では生物の進化に従って、生命の誕生から神経系が発生するまでが概観され、第2部では神経系が高度に発達することにより、心や感情や意識などの生物の精神的な働きが描写され、第3部では生物たる人類が構成する社会における文化や経済やその他の社会的な活動のマクロの社会学が語られます。そして、その根本となっているのがホメオスタシスです。本書では冒頭の方で「恒常性」と訳され、「平衡」や「バランス」といった概念に注目しつつ、本書では、単に生存を維持するのみならず、生存に資するようなより効率的な手段の確保と繁殖の可能性の両方を意味する繁栄を享受し、生命組織としての、また生物種としての未来へ向けて自己を発展させられるよう生命作用が調節される、といった働きが重要であるとする。そして、生命体の調節は非常に動的であるものの、進化の過程で人類だけに備わった高度に発達した脳の働き、という従来の進化生物学的な考えを否定し、ホメオスタシスに支えられた単細胞生物に始まる生命現象全体を通して、心や意識や感情などを位置づけます。例えば、細菌は環境の状態を感知し、生存に有利な方法で反応し、その過程では相互のコミュニケーションもあると主張し、はすでに知覚、記憶、コミュニケーション、社会的ガバナンスの原点が見られると指摘しています。ですから、よく、我々エコノミストに対して「経済学中華思想」という、なかなかに正しい指摘や、あるいは、非難が寄せられることがありますが、本書では正々堂々と生物学中華思想を展開しています。人間が高度に発達した脳をもって心や意識や思考を持つ例外的な存在である点は否定しないものの、こういったホメオスタシスに基づく生物としてのはtら期は単細胞生物の時代から備わっていたと主張するわけです。ですから、これらのホメオスタシスの働きをもって、パーソンズ的な社会学は解釈されるべきであるし、サブプライム・バブル崩壊後の金融危機や景気後退なども一連の生物学的な根拠がある、と指摘します。本書を通読した私の解釈によれば、感情や意識などはホメオスタシスの心的表現であり、身体と神経系の協調関係が意識の出現をもたらし、ここで生れた意識や感情などをはじめとする心の働きが人間性の現われである文化や文明をもたらした、ということになり、ひいては、芸術・哲学・宗教・医療などのあらゆる文化・文明をいかに動的であるとはいえホメオスタシスという生物的現象に帰すことができる、という主張です。そして、こういった視点から人工知能(AI)についても議論の射程に入れつつ、決して悲観的ではなく、生物的進化の流れの中で解決できる課題、と考えているような感触を私は受けました。ただ、繰り返しになりますが、専門外の私にはかなり難しい読書でしたので、間違って読んでいる部分もかなりありそうな気がして、ここまで堂々と読書感想文を書くと少し怖い気もします。

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次に、山内マリコ『あたしたちよくやってる』(幻冬舎) です。著者は、『ここは退屈迎えに来て』でデビューした話題の小説家であり、私も決して嫌いではなく、何冊か読んでは読書感想文をアップしています。本書では、Short Story と Essay と Sketch の3種類のカテゴリーの文章が集められており、それぞれに異なるフォントを使っています。なぜか、Short Story だけには扉のページがあったりもします。初出が明示されていないのですが、どこかで発表した短い文章に、いくつかは書下ろしを入れて単行本にしたのではないか、と私は想像しています。著者ご本人は1980年生まれですからアラフォーなんですが、本書の視点はアラサーのような気がします。私のような還暦を過ぎた男性にはなかなかむつかしくて付いて行けない女性のファッション・アイテムもありますが、こういった軽快な文章は私も嫌いではありません。職業や、年齢や、結婚や、ファッションまで含めて、いろんな観点から女性を語った短編+エッセイ集です。 ドラえもんの登場人物で構成しながらもドラえもん自身は登場せずしずかちゃんを中心とする短編の「しずかちゃんの秘密の女ともだち」、そして、京都の喫茶店文化を綴るエッセイ「わたしの京都、喫茶店物語」、などが私の印象に残っています。いつもながら、特にこの作品はタイトルからもうかがえる通り、とても強く現状肯定的でありながら、時には自分自身を否定して新しい自分探しを始めようとし、それでも、自分のオリジナルに返っていく主人公の人生について、所帯じみていながらも軽やかに進める山内マリコの筆致を私はは評価しています。おそらく、私には書けない種類の文章だと直感的に感じています。ただ、純文学に近い小説であるにもかかわらず、所帯じみているのも事実です。もっと浮世離れしている部分があってもいいような気がします。もちろん、ファッション・アイテムを買い求めるにはお金が必要ですし、異性や同姓とのおつきあいにも出費は避けられません。あるいは、女性の場合はお付き合いの出費は抑えられるのかもしれませんが、男性の負担は少なくありません。エコノミストだったころの所帯じみた発想かもしれませんが、著者の作品に登場する主人公も著者自身の実年齢に合わせて、すこしずつ年齢層が高くなっているような気がしないでもありませんし、今後の年齢とともに社会で果たすべき役割や責任や何やが重さを増す可能性が高い中で、軽やかな著者の作品に現れる女性主人公が、あるいは新境地を切り開く際に登場させる可能性ある男性主人公が、どのようなステップを踏んで進化して行くのかが楽しみです。

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最後に、小倉紀蔵『京都思想逍遥』(ちくま新書) です。今朝の朝日新聞朝刊の読書欄で取り上げられていました。著者は我が母校京都大学教授であり、哲学研究者です。そして、本書のタイトル通りに、京都をそぞろ歩きます。ただ、京都といっても広いわけですから、著者のいう「京の創造性臨界ライン」、すなわち、京都頭部の比叡山から始まって、大雑把に京大や吉田神社あたりから伏見稲荷や深草くらいまでのエリアとなります。本書 p.49 の地図で示されいる通りです。この地域的な特徴に、著者の留学先であったソウルの韓国や朝鮮半島を重ね合わせたり、あるいは、これも著者の趣味の藤原定家の歌を引用したりしつつ、その思想的あるいは芸術的な背景を探ります。いくつか、面白い視点は、やはり、平安京を開いた桓武天皇の血筋にある朝鮮半島の視点です。でも、他方で、和辻哲郎が「古今和歌集」よりも「万葉集」を高く評価した、などといった新年号「令和」の選定にも合致した現時点の時代背景を先取りした視点も紹介されたりしているのはなかなかの先見性だと私は受け止めました。著者の専門領域である京都大学の哲学者は、経済学者と違って、綺羅星のごとく存在するわけですが、何といっても西田幾多郎にとどめを刺します。その西田教授にも大いに関係する哲学の道とか、逍遥するのは京大生だけではありません。哲学者としても、西田先生をはじめとして、西谷啓治先生た田辺元先生などはドイツ学派、すなわち、ドイツ観念論、中でもヘーゲル哲学に根ざしていた一方で、『「いき」の構造』の九鬼周造先生はフランス学派、ベルクソンを必要とした、などといったペダンティックな議論は、とても京都思想にふさわしい展開ではないかと私は思います。本書にも登場する梶井基次郎の短編「檸檬」の八百卯は私が京大生のころにはまだありました。まあ、丸善はなかったですが、そういった舞台装置がまだ雰囲気を残していました。また、井上先生の『京都ぎらい』への言及もありますが、少し物足りません。井上先生は京都バブル、あるいは、かなり不当な京都プレミアムに対する疑問を呈しているわけですが、それを商家としての杉本家だけに矮小化するのはどうか、という気もします。さらに、疑問点をもう2点だけ上げておくと、京都や関西にある在日朝鮮人に対する差別はもちろん考えさせられる点ですが、著者の留学先というのはともかくとしても、日本人間の差別、すなわち、部落差別についての言及がないのは少し疑問です。最後に、京都を逍遥するとすれば先斗町あたりから祇園は欠かせません。まさに、著者のいう「京の創造性臨界ライン」のど真ん中に位置しているにもかかわらず、また、五条楽園には言及しているにもかかわらず、どうして祇園を抜かしたのか、積極的な理由があるなら明示すべきですし、ついうっかりと忘れたのであるなら、迂闊にもほどがあると思います。
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2019年04月13日 (土) 11:57:00

今週の読書は経済書や経営書をはじめとして古いミステリ短編集まで計7冊!

今週の読書は、経済書や経営書をはじめとして、幅広く完全版として復刻された古典的なミステリ短編集まで含めて、以下の通りの計7冊です。本日午前に図書館回りをすでに終えており、来週も数冊の読書計画となっています。

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まず、 守口剛/上田雅夫/奥瀬喜之/鶴見裕之[編著]『消費者行動の実証研究』(中央経済社) です。著者たちは経済学を専門とするエコノミストというより、むしろ、マーケティングの分野のビジネス分析の専門家です。消費者の選択というより、消費行動がマーケティングによってどのような影響を受けるか、という分析を集めた論文集です。消費者行動は外部環境の影響を受けながら常に変化しているわけなんですが、ICT情報技術の発展に伴って、ハードウェア的に高性能かつ携帯性に優れたデバイスなどが普及するとともに、ソフトウェア的にSNSなどで情報が画像や動画などとともに拡散するなど、消費者の情報取得行動やそれに基づく選択や購買行動は大きな変化を遂げてきています。同時に、このような情報技術の進展と消費者行動の変化は、企業のマーケティング活動といった実務にも大きな変革を促してきたところであり、消費者行動とそれに対応する企業のマーケティング活動が大きく変化し続けている現状において、消費者行動の実証研究に関連する理論や分析手法を整理すべく、計量的な分析も加えつつ、さまざまな消費行動への影響要因を分析しようと試みています。ただ、本書でも指摘されているように、コトラー的に表現すれば、行動経済学や実験経済学とはマーケティングの別名ですから、実務家が直感的に感じ取っていることを定量的に確認した、という部分も少なからずあります。もっとも、企業活動にとっての評価関数が、場合によっては、企業ごとに違っている可能性があり、株価への反映、売上げ極大化、利益極大化、あるいは、ゴーン時代の日産のように経営者の利便の極大化、などもあるのかもしれません。いずれにせよ、エコノミストたる私から見て違和感あったのは、あくまで、本書の視点は消費者行動をコントロールすることであり、しかも、企業サイドから何らかの企業の利益のためのコントロールであり、日本企業が昔からの「お客様は神様」的な視点での企業行動とはやや異質な気がしました。ある意味で、欧米正統派経営学的な視点かもしれませんが、消費者視点に基づく顧客満足度の達成ではない企業目的の達成というマーケティング本来の目的関数が明示的に取り上げられており、グローバル化が進む経営環境の中で、従来の日本的経営からのジャンプが垣間見られた気がします。実務家などでは参考になる部分も少なくないものと考えますが、情けないながら、私には少し難しかった気がします。

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次に、ロビン・ハンソン & ケヴィン・シムラー『人が自分をだます理由』(原書房) です。著者はソフトウェア・wンジニアと経済学の研究者です。英語の原題は The Elephant in the Brain であり、2018年の出版です。英語の原題は "The Elephant in the Room" をもじったもので、くだけた表現なら「何かヘン」といったところでしょうか。ですから、私はこの邦訳タイトルは、あまりよくないと受け止めています。ということで、繰り返しになりますが、著者2人はいずれも心理学の専門家ではありませんが、本書は進化心理学の視点からの動機の持ち方に関する分析を展開しています。すなわち、本書 p.11 の図1にあるように、何らかの行動の動機として美しい動機と醜い動機があり、美しい動機でもって言い訳しつつ、他人だけでなく自分自身も欺いている、というのが本書の主張です。かつて、経済学の分野でもウェブレンのいう衒示的消費という説が提唱されたことがあり、すなわち、人に見せびらかす要素が消費には含まれており、使用価値だけで消費者行動が説明できるものではない、ということです。典型的には、「インスタ映え」という言葉が流行ったところですし、例えば、単に美味しいというだけでなく、見た目がよくて写真写りもよく、スマホで写真を撮ってインスタにアップしてアクセスを稼ぐのがひとつの目標になったりするわけです。それはそれで、なかなか素直な動機なんですが、それを自分すら偽って合理的なあるいは美しい動機に仕立て上げるというわけです。消費は本書10章で取り上げているんですが、同様に、芸術、チャリティ、教育、医療などの分野を取り上げています。邦訳タイトルがよくないよいう私の感触を敷衍すると、教育などはエコノミストの間でもシグナリング効果と呼ばれ、基礎的な初等教育の読み書き算盤なともかく、高等教育たる大学を卒業下だけで、ここまでの所得の上乗せが生じるのは教育と学習の効果というよりは、むしろ、大学進学のための勉強をやり抜く粘り強さとか、あるいは、学習よりむしろ大学での人脈形成とかの価値を認める、という部分も少なくないと考えられています。特に、本書は米国の高等教育を念頭に置いているんでしょうが、日本のように大学がレジャーランド化しているならなおさらです。ゾウさんが頭の中にいて、「何かヘン」なわけです。

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次に、佐藤俊樹『社会科学と因果分析』(岩波書店) です。著者は東大社研の社会学研究者であり、社会科学の中でも経済学とは少し異なる気もしますが、副題にあるようなウェーバー的な視点からの因果論を展開しています。本書にもある通り、極めてシロート的にウェーバーの因果論、すなわち、適合的因果構成については、ウェーバーと同時代人であるものの、架空の人物であるシャーロック・ホームズの考え方が思い起こされます。つまり、何らかの結果に対して原因となる要素が網羅的に列挙された上で、それらの原因候補について考察を巡らせ、可能性のない原因候補を消去していった上で、最後に残ったのが原因である、とする考え方といえます。ただ、ミステリの犯人探しならこれでいいのかもしれませんが、実際の社会的な事象に対する原因の考察についてはここまで単純ではありません。そして、私にとってウェーバー的な視点といえば、本書ではp.378だけに登場する「理念型」、あるいは、現代社会科学でいえば、モデルにおける因果関係が重要な出発点となります。おそらくは、歴史上で1回限りのイベントである結果に対して、その結果を生ぜしめるに至ったモデルの中で、複数の原因候補があり、しかも、原因と結果が一義的に規定されるとは限らず、同時に原因でもあり結果でもある、というリカーシブな関係があり得る場合、それを現実の複雑な系ではなくモデルの中の系として、ある意味で、単純化して考え、相互作用も見極めつつ因果関係を考察しようと試みたのがウェーバー的な方法論ではなかったか、と私は考えています。経済学の父たるスミス以来、経済学では明示的ではないにせよ、背景としてモデルを考えて、その系の中で因果関係を考え、政策的な解決策を考察する、という分析手法が徐々に確立されて、一時的に、どうしようもなく解決策の存在しないマルサス的な破綻も経験しつつ、ケインズによる修復を経て、経済モデルを数学的に確立したクライン的なモデルの貢献もあって、経済学ではモデル分析が主流となっています。これは物理学と同じと私は考えています。ただ、現時点までの経済学を考えると、ビッグデータと称される極めて多量の観察可能なサンプルを前にして、どこまで因果関係を重視するかは、私は疑問だと考えています。おそらく、ビッグデータの時代には相関関係が因果関係よりも重要となる可能性があります。すなわち、一方的な因果の流れではなく、双方向の因果関係でスパイラル的に原因と結果が相互に影響しあって動学的に事象が進行する、というモデルです。ただ、こういったビッグデータの時代にあってもモデルの中の系で分析を進め、可能な範囲で数学的にモデルを記述する、という方向には何ら変更はないものと私は考えています。その意味で、ウェーバー的な因果関係の考察はやや時代錯誤的な気もしますが、別の意味で、アタマの体操としてのこういった考察も必要かもしれません。

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次に、豊田長康『科学立国の危機』(東洋経済) です。著者は三重大学学長を務めた医学分野の研究者です。本書では、研究成果を権威あるジャーナルに掲載された論文数で定義した上で、論文数とGDPや豊かさ指標は正の相関を持ち、科学立国によりGDPで計測した豊かさが伸びる、としてそのための研究成果たる論文数の増加の方策を探ろうと試みています。OECD.Statをはじめとするかなり膨大なデータに当たり、さまざまなデータを駆使して我が国の科学技術研究の現状、そして、その危機的な現状を打開するため、決定的な結論として、研究リソースの拡充、すなわち、研究費の増加とそれに基づく研究員の増加が必要との議論を展開しています。なお、本書の主たるターゲットは医学や理学工学など、いわゆる理系なんですが、経済学・方角、あるいは心理学などの文系も視野に入れています。ということで、私自身も地方大学の経済学部に日本経済論担当教授として出向の経験があり、科研費の研究費申請などの実務もこなせば、入試をはじめとする学内事務にも汗をかいた記憶があります。研究については、ほとんどが紀要論文であり、本書で研究成果としてカウントされている権威あるジャーナルに掲載された論文には含まれないような気もしますが、査読付き論文も含めて20本近くを書いています。その私の経験からしても、研究はリソース次第、あるいは、本書第3章のタイトルそのままに「論文数は"カネ"次第」というのは事実だろうと考えます。もちろん、一部に、いまだに太平洋戦争開戦当時のような精神論を振り回す研究者や評論家がいないわけではありませんが、研究リソースなくして研究成果が上がるハズもありません。本書でも指摘しているように、我が国の研究に関しては「選択と集中」は明らかに間違いであり、むしろ、バラマキの方が研究成果が上がるだろうと私も同意します。これも本書で指摘しているように、我が国における研究は大企業の研究費は一流である一方で、中小企業や大学の研究費は三流です。でも、その一流の大企業研究費をもってしても、多くののノーベル賞受賞者を輩出してきたIBM基礎研究所やAT&Tベル研究所に太刀打ちできるレベルにないのは明白です。最後に2点指摘しておきたいと思います。すなわち、まず、因果の方向なんですが、本書では暗黙のうちに研究成果が上がればGDPで計測した豊かさにつながる、としているように思いますし、私も基本的には同意しますが、ひょっとしたら、逆かもしれません。GDPが豊かでジャカスカ金銭的な余裕あるので研究リソースにつぎ込んでいるのかもしれません。でも、これは研究成果を通じてGDP的な豊かさに結実する可能性も充分あるように思われます。次に、歯切れのよい著者の論調の中で、p.47図表1-14に示された我が国における国立研究機関の研究費のシェアの大きさについては、原子力研究などにおける高額施設でフニフニいっていますが、私の知る限りで、国立の研究機関、研究開発法人はかなりムダが多くなっています。もちろん、はやぶさで名を馳せたJAXAのような例外もありますが、NEDOやJSTなどはお手盛り研究費でムダの塊のような気がします。

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次に、マリー=クレール・フレデリック『発酵食の歴史』(原書房) です。著者はフランスのジャーナリストであり、食品や料理に関するライターでもあります。フランス語の原題は NI CRU, NI CUIT であり、直訳すれば、生ではなく、火も通さず、といったところでしょうか。2014年の出版です。副題に Historie とあるので、日本語タイトルにもついつい「歴史」を入れてしまったんでしょうが、ラテン語系統では歴史よりも物語なんでしょうね。読書の結果として、それほど歴史は含まれていないと私は受け止めています。本書は3部構成であり、第1部で古代からの発酵食品と文明とのかかわり、第2部で具体的な食品を取り上げた発酵食品のそれぞれ個別の例を紹介し、第3部で発酵食品を通して現代社会の問題を投げかけています。特に最後の第3部では、食べ物が画一的均質な工業製品として供給され、効率的にカロリー補給ができる食品として、いわば、味も素っ気もない無機質な食品ではなく、スローフードとして食事を楽しみ、コミュニケーションを図る食事のあり方まで含めて議論を展開しようと試みています。発酵食品ということで、酵母が糖などを分解するわけで、典型的にはアルコールを含有するお酒ということになります。西洋的にはビールとワインとなりますが、私は正しくはエールとワインだと考えています。そして、エールとビールの違いはホップにあります。要するに、エールにホップを加えた飲み物がビールだと私は考えています。アルコール含有飲料は、本書にもあるように、俗っぽくは楽しく陽気に酔いが回るとともに、トランス状態に近くなって神に近づくかもしれない、と思わせる部分もあります。発酵食品は微生物が活躍しますので、火を加えると発酵が停止しますから、各国別では、強い火力でもって調理することから、ピータンなどの例外を除いて、中国料理がほとんど登場しません。火の使用をもって人類の進化と捉え、調理の革命と考える向きも少なくないんですが、本書では真っ向からこれを否定しているように見えます。また、各国別の食品に戻ると、日本料理では大豆から作る発酵食品である味噌・醤油・納豆とともに、何といっても、京都出身の私には漬物が取り上げられているのがうれしい限りです。京都では、しば漬けとともに、全国的にはそれほど有名ではないんですが、酸茎をよく食べます。今度の京都土産にいかがでしょうか。本書を読んでいると、他のノンアルコールの飲み物でもコーヒーや紅茶など発酵させた飲み物はいっぱいありますし、欧米の主食であるパンはイースト菌で発酵させますから、発酵食品ではない食品を見つけるほうが難しいのかもしれません。ただ、発酵と腐敗が近い概念として捉えられている可能性は本書の指摘するように、そうなのかもしれませんが、毒物を発酵により解毒することもあるのも事実で、そこまでいかなくても、渋柿を甘くする働きも発酵であり、ペニシリンまで言及せずとも、いろんな応用が効くのが発酵であるといえるかもしれません。

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次に、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS/第二次惑星開発委員会) です。著者は京都出身で立教大学をホームグラウンドとする文化・文芸評論の研究者です。本書は、タイトル通りに解釈すれば、ウルトラマンを切り口に戦後サブカルチャーを解釈しようと試みているようですが、間口はさらに広く、ウルトラマンだけでなく特撮一般に切り口を広げるとともに、戦後サブカルだけでなく戦争当時からのマンガなどのサブカルも含んだ構成となっています。というのは、オモテの解釈で、実は、そこまで広げて論じないと本1冊になならないんだろうと私は見ています。でも面白かったです。ウルトラマンのようなテレビ、あるいは、映画もそうなんでしょうが、こういった動画を論じようとすれば、本の速読のようなことはムリですから、時間の流れの通りにすべてを見なければならないんですが、研究者でそこまで時間的な余裕ある場合は少ないんではないかという気もします。でも、見てるんでしょうね。本書でも論じているように、デジタルなCGが現在のように十分な実用性を持って利用される時代に至るまで、すなわち、アナログの世界では、融通無碍なアニメーションの世界、現在のNHK朝ドラのアニメータの世界と対比して、いわゆる実写の世界があり、その間のどこかに特撮の世界があったんだろうという気がします。そして、実写の世界には「世界の黒沢」を始めとして、本書でも取り上げられている大島渚や小津安二郎のような巨匠がいますし、アニメの世界でも、戦後の手塚治虫からジブリの宮崎駿、もちろん、ポケモンやドラえもんも含めて、世界に通用する目立った作品が目白押しなんですが、特撮だけはウルトラマンの円谷英二が唯一無二の巨峰としてそびえ立っていて、独自の世界を形成しているというのも事実です。私のように60歳近辺で団塊の世代に10年と少し遅れて生まれでた世代の男には、プロ野球とウルトラマンといくつかのアニメが少年時代の強烈な思い出です。その意味で、本書のウルトラマンを軸としたサブカル分析には、かなりの思い入れがあったりします。

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最後に、C. デイリー・キング『タラント氏の事件簿』(創元推理文庫) です。著者は19世紀末に生まれて、すでに定年退職した私が生まれる前に亡くなっています。要するに古い本だということです。ただ、この邦訳の完全版は昨年2018年1月の出版です。私は古いバンを読んだことがありますが、この完全版には新たな作品も収録されています。ということで、収録されている短編は、「古写本の呪い」、「現われる幽霊」、「釘と鎮魂曲」、「<第四の拷問>」、「首無しの恐怖」、「消えた竪琴」、「三つ眼が通る」、「最後の取引」、「消えたスター」、「邪悪な発明家」、「危険なタリスマン」、「フィッシュストーリー」の12話です。いわゆる安楽椅子探偵に近いタラント氏が日本人執事兼従僕のカトーとともに登場します。でも、カトーがなぞ解きに果たす役割はほとんどありません。資産家で働く必要のない、いかにもビクトリア時代的なタラント氏ではありますが、ニューヨーク東30丁目のアパートメントに住む裕福な紳士であり、舞台は米国ニューヨークとその近郊です。どこかの短編に年齢は40台半ばと称していたように記憶しています。その意味では、事件の舞台だけはクイーンの作品に似ていなくもありません。なお、ワトソン役は出番の少ない執事兼従僕のカトーではなく、最初の事件の当事者で家族で親しくなるジェリー・フィランが務めます。設定はオカルト的あるいは心霊現象的なものも少なくなく、エドワード・ホックのサイモン・アークのシリーズのような感じですが、語り手のフィランが結婚するなど、時間が着実に流れるのがひとつの特徴かもしれません。もっとも、ホームズのシリーズでもワトスンも結婚しましたので、同じことかもしれません。
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2019年04月07日 (日) 14:28:00

先週の読書はいろいろ読んで計7冊!!

何だかんだといって、経済書は少ないながら、今週もそれ相応に読んだ気がします。先週だけはポッカリとあいた無職の時期で、今週に入って明日からは働きに出る予定です。週4日、逆から見て、週休3日制のパートタイムですが、オフィスワークでそれなりのお仕事です。ただ、公務員の定年間際の年功賃金が最高レベル近くに達した時期と比べれば、お給料は大きくダウンします。仕方ないと考えています。

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まず、平沼光『2040年のエネルギー覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は東京財団の研究員であり、外交・安全保障、資源エネルギー分野のプロジェクトを担当しているそうです。本書では、やや大袈裟なタイトルなんですが、2040年までをスコープとして、タイトルにある「覇権」は忘れて、今後のエネルギー転換の方向を探ろうと試みています。まず、そのエネルギー転換の原因なんですが、温暖化防止対策としての二酸化炭素排出規制となっています。私のような1970年台の2度の石油ショックの記憶ある世代では、エネルギー問題とは石油問題であり、供給サイドの産油国側の要因、そして、需要サイドの先進国ないし新興国側の要因、これに加えて、金融面での金利や通貨供給の要因などを思い浮かべますが、この先は気候変動要因が大きく立ちはだかり、従って、石炭削減と再生可能エネルギーの大幅な普及を目指すこととなります。本書では再生エネルギー価格の大幅な低下により、2040年には欧州では再生可能エネルギーのシェアが50%のレベルに達することが目標とされており、天然ガスはともかく、電力用途としての石油は終焉すると見込まれています。これに加えて、エネルギー消費の一定の部分を占める自動車についてもその将来像が示されており、電気自動車は家庭向けの巨大な蓄電装置になる可能性を示唆しています。私は再生可能エネルギーの技術的な面、例えば、本書でも取り上げられている海洋温度差発電についてはサッパリ判りませんし、再生可能エネルギーの価格低下もすっ飛ばしますが、少なくとも、少し前までの我が国における太陽光発電などの再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度における価格が高すぎて、日本では再生可能エネルギーへの転換が進んでおらず、従って、国際規格の策定などで遅れを取り、ビジネスになっていない、というのはその通りと感じています。他方で、かなり進んでいる欧州に対して、本書でも米国は不確定要素が大きいと指摘し、トランプ政権になってからシェールガスやシェールオイルを含めた化石燃料の支配を通じて世界エネルギーのコントロールを覇権を目指すという形で、やや時代錯誤的ながら方針が定まったと受け止めているようです。なお、本書では原子力発電についてはほとんど言及がありません。最後に、私が大学で勉強した古い古いマルクス主義的な技術論からすれば、西洋の覇権を決定づけた産業革命におけるもっとも大きな発明のひとつが蒸気機関であることはいうまでもなく、さらにそれを敷衍すれば、要するに、水を沸かして上記にしてタービンを回し、その動力をそのまま、あるいは、電力に変換する、というのがマルクス主義的な視点でいうところの資本主義的なエネルギー観です。ですから、水を沸騰させるのは石炭・石油といった化石燃料を用いたニュートン力学的な方法であっても、核分裂や核融合を応用した相対性理論的な方法であっても、水を沸騰させてタービンを回す、という点については変わりありません。それに対して、水を沸騰させてタービンを回す部分をすっ飛ばす太陽光発電こそが、未来の社会主義的なエネルギーである、といった議論をしていた記憶があります。まあ、違うんでしょうね。

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次に、ダグラス・マレー『西洋の自死』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストであり、「スペクテーター」の編集者だそうです。英語の原題は The Strange Death of Europe であり、2017年の出版です。ということで、ある意味、とても注目の論考です。すなわち、欧州を代表する形で、難民受け入れや移民に強烈に反対の論陣を張っているからです。本書の著者は、欧州への難民はサブサハラのアフリカからが多いとされている一方で、そのほとんどをイスラム教徒と同定しているようで、しかも、政治的な難民かどうかは疑わしく、「経済的な魅力が主たる誘引」(p.452)と指摘します。そして、キリスト教的な欧州におけるイスラム教徒のテロ行為をはじめとし、国家財政的にも負担となっている点を強調しています。本書の論理にはやや疑問に感じる部分があるものの、私も基本的には移民受け入れには懐疑的です。純粋経済学的には、昨年2018年3月11日にボージャス教授の『移民の経済学』を取り上げていますので、「我々が欲しかったのは労働者だが、来たのは生身の人間だった。」というフレーズに象徴される通り、要するに、移民と競合し代替的な低賃金労働者などは移民受け入れによって損をする一方で、その低賃金労働力を豊富に使える企業経営者などは得をするわけです。ただ、本書ではイスラム教徒受け入れという宗教的な軋轢をかなり重視しており、私の場合はお隣の人口大国中国からの移民により、宗教的な面は抜きにしても日本的な何かが壊される恐れを直感的に感じています。そして、本書の著者とかなり似通った視点は、あくまで、大量移民の受け入れが国内的な混乱をもたらす可能性があるわけで、国民のコンセンサスに基づいて政府が移民受け入れをキチンとコントロールすれば、「同化」という言葉を使うかどうかは別にしても、それなりに問題の発生を防ぐことができそうな気もします。ただ、繰り返しになりますが、移民受け入れで損をするグループと得をするグループがありますし、一般的には後者のほうが政治的なパワーを有していると考えるべきですから、移民受け入れは格差の拡大につながりかねないデリケートな問題であることも確かです。その意味で、本書でも指摘しているように、国内の政治家などのエリート層やオピニオンリーダーが移民受け入れに賛成し、本書でいうところの大衆は懐疑的な視線を送る、というのは経済的にもその通りなんだろうという気がします。また、私の歴史観からして、世界経済のグローバル化は不可逆的な進み方をしており、従って、貿易の自由化や開放度の向上、資本移動の自由化とともに、労働力の移動たる移民も増加するのであろうと受け止めていますが、本書の著者はp.103からのパートでこの見方に反論しているところ、この部分については私はイマイチ理解がはかどりませんでした。最後に、中野博士が本書冒頭に解説を寄せています。実は、大きな声ではいえませんが、この20ページ余りに目を通しておけば、本書の80%ほどは読んだ気になれるんではないか、と私は考えています。いずれにせよ、耳を傾けるべきひとつの見識だと私は受け止めています。

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次に、スティーヴン・ホーキング『ビッグ・クエスチョン』(NHK出版) です。著者は現時点で最も著名な宇宙物理学者といえ、昨年2018年3月に亡くなっています。21歳の時に発病したALSで余命5年といわれたことを考え合わせると、76歳の天寿を全うしたといえます。英語の原題は Brief Answers to the Big Questions であり、2018年の出版です。ということで、タイトル通りに大きな疑問に著者が答えようと試みています。すなわち、神は存在するのか? 宇宙はどのように始まったのか? 宇宙には人間のほかにも知的生命は存在するのか? 未来を予言することはできるのか? ブラックホールの内部には何があるのか? タイムトラベルは可能なのか? 人間は地球で生きていくべきなのか? 宇宙に植民地を建設するべきなのか? 人工知能は人間より賢くなるのか? より良い未来のために何ができるのか? の10の疑問です。私は不勉強にして、すでにホーキング博士が明らかにしている回答もあるようで、それも知りませんでしたが、私から見て興味深かったのは、7番目と8番目の問いに対して、ホーキング博士は従来から向こう1000年の間に人類は地球を出て宇宙に新たな生活の場を求めるべきと提言しているようです。その理由は何点かあり、かつて恐竜を絶滅させたような小惑星の衝突の可能性、人口の増加により地球のキャパを超過する可能性、さらに、核戦争の危機を上げています。ガンダムを見る限り、シャアの目論見の原点にある小惑星の落下衝突の可能性は否定しようもありませんし、恐竜が絶滅したというのも歴史的な事実なのかもしれませんが、1000年の間に起こるかどうかは別問題であり、そもそも、元エコノミストの私には1000年というタイムスパンは余りに長過ぎて、何とも想像のしようもありませんが、斯界の権威の従来からの変わらぬ発言ですから、そうなのかもしれないと思ってしまいます。それから、人工知能AIについては、私の懸念を共有しているような気がします。コンピュータが人類の知能や知性をエミュレートすることはそう難しいことではないと考えるべきです。その場合、AIが人類に接する態度は、我々人類はイヌ・ネコなどのペットを飼う際を大きくは異ならない可能性が軽く想像されます。ただ、神については、ホーキング博士はすべての事実は神抜きで科学的に説明可能、として神の存在や必要性を否定していますが、私は何か不可解な現象に遭遇した際に神の存在を仮定することにより個々人の心に安らぎをもたらすのであれば、神の存在を否定する必要性は小さいと考えています。いずれにせよ、ホーキング博士は人類の到達したもっとも上質の知性を体現する一人でしょうから、本書の主張が全て正しいと考えないとしても、こういった視点を共有しておくことは教養人として意義あることではないかと私は考えます。

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次に、ヴァイバー・クリガン=リード『サピエンス異変』(飛鳥新社) です。著者は、英国ケント大学の研究者であり、専門は環境人文学だそうです。英語の原題は Primate Change であり、2018年の出版です。本書は歴史を分割した5部構成であり、第1Ⅰ部がBC800万年からBC3万年、第Ⅱ部がBC3万年からAD1700年、第Ⅲ部が産業革命から20世紀初頭の1700年から1910年、第Ⅳ部がそれ以降の現時点まで、第Ⅴ部が将来、ということになっており、出版社の宣伝文句では、15,000年前の農耕革命、250年前に英国で始まった産業革命、そしてスマホ・AI・ロボットなどの現代文明、などの人類が生み出した文明の速度に、人類の進化が追いついていないんではないか、という問題意識から始まっているらしいということで借りて読んだんですが、どうも違います。冒頭で、現代人はミスマッチ病で死ぬ確率が高いというお話から始まり、ミスマッチ病とは、要するに、進化の過程も含めてとはいえ、肉体条件と損周囲の環境とのストレスに起因する病気のことのようです。まあ、周囲の環境条件に進化が間に合わない、ということであれば広く解釈できるのかもしれません。でも、私のような健康に無頓着な人間からすれば、健康オタクのお話が続いていたような気もします。ということで、具体的に判りやすいのはギリシア時代からであり、奴隷が生産活動に励む一方で、本書では貴族とされていますが、私の認識に従えば、市民はスポーツに励んで健康を維持するわけです。しかし、本書第Ⅲ部が対象とする産業革命期には劣悪な労働条件と石炭などに起因する環境汚染により、本格的に一般市民の健康が悪化し始めます。それでも、伝染性疾患への対応から寿命が伸びる一方で、産業化が進んで農作業から向上やオフィスにおける椅子に座った仕事が大きく増加して、これが健康を蝕む、というのが著者の認識です。やや、一般の理解とは異なります。すなわち、私なんぞは、戸外の農作業に比べて、オフィスの事務作業はいうまでもなく、工場の流れ作業であったとしても、屋根のある雨露のしのげる環境での椅子に座った仕事というのは、健康にいいんではないか、そのために寿命が伸びたんではないか、と考えているんですが、著者は認識を異にするようです。第Ⅳ部冒頭の章番号なしのパートが著者の考えをエッセンス的に示している気がするんですが、私にようなシロートとはかなり理解が異なっています。米国で肥満や糖尿病が多いのは、私はかなりの程度に食生活に起因すると考えているんですが、著者は座った生活が原因と考えているようです。理解できません。エピローグで、著者の考える対策がp.299に示されていて、それは政府が運動不足と肥満対策に取り組む、ということのようです。それが出来ないからムダにヘルスケアに財政リソースをつぎ込んでいる現実を著者は認識できていないようで、少し悲しくなりました。最近の読書の中でも特に無意味に近かった本のような気がします。

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次に、更科功『進化論はいかに進化したか』(新潮選書) です。著者は、分子古生物学を専門とする研究者であり、本書ではダーウィン進化論の歩みをひも解き、今でも通用する部分と誤りとを明らかにしようと試みています。まず第1部で、著者はダーウィン進化論のエッセンスは、進化+自然選択+分岐進化、の3本柱だと主張し、歴史的に見て、特に2番めの自然選択が人気なかったと指摘しています。まあ、今西進化論が共存を重視するのに対して、ダーウィン進化論は競争重視と解釈する向きもあるようですから、ひょっとしたらそうなのかもしれません。その上で、私のような元エコノミストにはかなり自明のことなんですが、ダーウィン的な進化とは進歩とか改良といった価値判断を含んでいるわけではないとの議論を展開します。当然です。私の理解では、環境の変化に対してショットガン的に何らかの突然変異的な形質の変化が生じ、その中で環境にもっとも適した自然選択が生き残る、ということになります。ただ、著者は生存バイアスについては少し配慮が足りないような気もします。すなわち、環境に適して生存が継続した生物については、生きていても化石になっても、かなり多くの観察記録が残るとしても、適していなかった変化を遂げた個体の観察例は多くない可能性が高いのは忘れるべきではありません。第2部では、生物の老化、ないしは死ぬことについて考察を進め、老化して衰えるというよりは、子孫の残すことができる年齢でピークを迎える、と考えるほうが正しい、という趣旨のようです。それはその通りということで、還暦を超えて定年退職した私も少し考えさせられるところがありました。鳥と恐竜についても、やや生存バイアスについて考えが不足しているような気がしました。鳥は生存している一方で、恐竜はジュラシックパークで復活させなければ死滅してしまったわけですから、恐竜から鳥への進化、と一般的に考えられるのは一定の理由があります。もちろん、著者の指摘するように、鳥と恐竜は同時に共存していたというのが正しいんでしょうが、そこは生存バイアスを考慮すべきです。最後の直立二足歩行で自由になった手の使い方については、私も大いに同意します。ただ、単婚と結びつけるのはやや不自然な気もしました。進化生物学は物理学などとともに、科学としての経済学との類似性が指摘される学問分野であり、なかなか興味深い読書でした。

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最後に、アミの会(仮)編『怪を編む』(光文社文庫) と『毒殺協奏曲』(PHP文芸文庫) です。実は、アミの会(仮)編集の本としては、文庫本はすべて読んでいると思います。なお、順番からすれば、上の表紙画像の後の方の『毒殺協奏曲』はアミの会の2冊めに当たるんですが、文庫本になって最近の出版ですので読んでみた次第です。ある意味で当然でしょうが、登場人物に薬剤師が多かった気がします。『怪を編む』の方はほぼほぼ1年前の出版なんですが、ショートショートのホラーっぽい短編集で、霊的ながら現実的でない怖さとものすごく現実に即した怖さのどちらも楽しめます。2冊めの『毒殺協奏曲』は、女性作家の集まりではなかったかと記憶しているアミの会の編集本に2冊めにしていきなり男性作者が入っています。『毒殺協奏曲』はタイトル通りに毒殺の作品を集めており、本格ミステリとはいい難い作品ばかりですが、それなりに楽しめます。『怪を編む』は5部構成で、AREA ♥、AREA ♣、AREA ♦、AREA ♠、AREA ★となっています。私には後ろの方のAREA ♠とAREA ★の作品が印象的でした。
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2019年03月30日 (土) 11:30:00

今週の読書は注目の統計に関する学術書から新版のミステリまで計9冊!

今週は、まさに定年退職直前で仕事があろうハズもなく、時間的な余裕がたっぷりありましたし、そろそろ官庁エコノミストではなくなることから、経済に限定せずに幅広い読書に努めたこともあり、いろいろと古典的なミステリなんぞも読んで、以下の通りの計9冊です。

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まず、国友直人・山本拓[編]『統計と日本社会』(東京大学出版会) です。編者や著者は経済統計の研究者や専門家であり、第Ⅲ部の公的統計改革では官庁統計担当感やその経験者などの実務家も執筆に加わっています。ということで、今国会での大きなトピックとして、厚生労働省作成で賃金動向などを調べている毎月勤労統計の不正問題がありますが、とても皮肉なことに、不正問題に相応して統計の重要性がクローズアップされています。私も総務省統計局に出向して消費統計の担当課長を務めた経験がありますし、その何台かあtの高2が本書第11章の執筆に当たったりしていますが、統計が着実にそのマニュアルに基づいて公表されている際には、注目はされても問題にはならないものですが、やや不思議な動きを示して、さらに、それが統計作成上の不正に基づく可能性があれば、今回のような大問題になるわけです。役所の仕事はある麺でそういった部分があり、着実かつ堅実の遂行されているのが当然であって、問題がある方がおかしい、ということなんでしょう。ただし、インフラとしての統計については、中等教育から高等教育にかけて統計が生徒や学生にリテラシーを高めるべく教えられ、政府統計を担う組織や職員が必要に応じて整備される、等々の前提がキチンと整えられないと機能するわけはありません。ITCHING技術の進歩により、ハードウェアはムーアの法則に従った指数関数的な伸びを示し、ソフトウェアについてもそれに従った進歩を遂げている現在、教育現場での若い世代のリテラシーの涵養や、公的部門たる政府や業界団体などでそれにふさわしい体制整備が行われていないと、データをプロセスした結果たる統計の作成や利用が進むハズもありません。私はその意味で、身近な地方公共団体における統計主事の必置義務が、行政改革の一環として廃止された1989年(だと思うんですが、やや自信がありません)の制度改革の影響は無視できないと思いますが、残念ながら、それに言及した分析は本書では示されていません。また、公的統計に限らず、マーケティングにおけるデータにしても、本書で指摘されているようなビッグデータの高解像度、高頻度、多様性豊かなデータの利用が限られたインターネット企業にしか出来ない事実も、独占との関係においてもどこまで許容すべきか、との議論も興味あるところです。Googleのチーフエコノミストに転じたハル・ヴァリアン教授がマッキンゼイ・クォータリーで「今後10年でセクシーな職業は統計家である」と発言したのは2009年で、私が統計局に出向していたのは2010~13年の3年弱ですが、そのころは、まだ統計の重要性については萌芽的な認識しかありませんでしたが、統計偽装問題を経て、統計の我が国における重要性が改めて認識された現在、本書の指摘はもっと国民各層に共有されて然るべきではないか、と私は考えています。

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次に、末廣昭・田島俊雄・丸川知雄[編]『中国・新興国ネクサス』(東京大学出版会) です。著者・編者は東大社研のグループではないかと私は想像しています。改革開放路線を取ってからの中国の経済発展はめざましく、GDPで測った経済規模ではすでに我が国を凌駕し、購買力平価ベースでは米国を上回っている可能性すらあります。その中国が共産主義というイデオロギーではなく、経済、特に貿易や投資という実利の世界で新興国や途上国とのリンケージを強めていて、米国の世界的な覇権を揺るがしかねない、という認識が広まっています。ただ、19世紀的なパクス・ブリタニカや20世紀のパクス・アメリカーナと違って、中国は世界の政治経済の秩序、特に自由と民主主義と多様性を許容する世界秩序の擁護者ではなく、自国、あるいは、中国共産党の利益のためであるという点は忘れるべきではありません。本書ではそこまで明確に指摘しているわけではなく、ほのかに示唆しているだけですが、本書冒頭でツキディディスの罠として、新興リーダーたる中国が旧来リーダーである米国に対抗して戦争になる可能性を指摘しているのは、ややミスリーディングです。一昔前の我が国と同じで、現在の中国は、経済的な利益の追求はしても、政治的あるいは軍事的な覇権を求めているとは私にはとても思えません。ですから、本書でも視点は経済面に集中し、貿易と投資による新興国や途上国と中国との関係を明らかにしようと試みています。ですから、本書でも指摘しているように、アイケンベリーのように米国の構築してきた世界的な制度的秩序が継続するという見方とイアン・ブレマーのようにGゼロという多極化世界が現出するか、という2つの見方は相反するのではなく、経済的にはブレマーの見方が成り立つ一方で、政治外交・軍事的にはアイケンベリーに軍配が上がると考えるべきです。そのうえで、本書の指摘するように、経済的には中国の台頭により米国一極集中ではなく多極化した経済構造になりつつありますが、中国の貿易は一昔前の我が国と同じで水平分業的な構造となっており、途上国や他の新興国からエネルギーや原材料を中国が輸入し、逆に、中国からは工業製品を輸出する、という貿易構造が形成されています。さらに、投資面でもアジアインフラ投資銀行(AIIB)などをテコとして、途上国や新興国のインフラを整備するために、中国の「2つの過剰」、すなわち、貿易黒字の裏側で積み上がっている外貨準備の過剰、そして、共産主義に基づく計画経済が解消を目指した生産過剰、特に鉄鋼やセメントなどのインフラ整備に用いられる素材の生産過剰を解消するための新興国・途上国とのリンケージを中国が築こうとしている可能性を忘れるべきではありません。

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次に、ゲアリー・スミス『データは騙る』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア州のポモナ・カレッジの研究者で専門は経済統計学のようです。英語の原題は上の表紙画像にも見られるように Standard Deviations であり、直訳すれば標準偏差ですから、データの散らばりの度合いということになります。2014年の出版です。ということで、最近の国会論戦では厚生労働省の毎月勤労統計の改ざんが頻繁に取り上げられており、アベノミクスの成果として統計を改ざんして賃金が上昇したように見えかけたのではないか、との質疑をよく見かけました。私も統計局の消費統計担当課長として3年近く出向していましたが、統計に問題がないとはいいませんが、悪質な改ざん、意図的なごまかしはなかったと断言できます。ただ、本書では、そういった意図的なごまかしの手法についていくつか取り上げ、さらに、データ情報の誤った解釈に基づく誤った結論の導出に警鐘を鳴らしています。繰り返しになりますが、著者のご専門である経済分野とともに、スポーツや医療のデータも豊富に実例として引用し、身近で判りやすい例がいっぱいです。特に、本書冒頭で強調されている通り、何らかのパターンを見出してしまう傾向には注意が必要です。コイントスでオモテが出続けているので、次もオモテだろうと考える順張りの発想も成り立てば、そろそろウラが出るとする逆張りの発想も飛び出します。しかし、ホントのところはランダムにオモテウラが出ているのであって、コイントスには決してパターンなどは存在しない、という正解を忘れている場合が多いのは確かです。そして、理論なきデータとデータなき理論の両方は危ういと指摘し、データから理論モデルを組み立てる重要性を論じています。つまるところ、科学と言うんは自然科学にせよ、社会科学にせよ、先週取り上げた『FACTFULNESS』ではないんですが、ファクトたる事実を観察して、それらに共通するパターンを見つけ出し、その理論モデルの適合性を追加データで検証する、というのがもっとも基本となるわけですから、何らかのパターンの想定は必要なんですが、そのパターンに無理やりに合致するデータを集めようというのは統計の改ざんにつながりかねない思考という気もします。パターン化の誤謬のほかにも、交絡因子や生存バイアスなどなど、陥りやすいデータの見方の失敗例を数多く取り上げています。ただ、データ分析の専門家に意図的にデータをミスリードするように見せられたら、それを見破るのはそう簡単ではないと実感しました。

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次に、三浦信孝・福井憲彦[編著]『フランス革命と明治維新』(白水社) です。編著者は東大西洋史学科系統の研究者であり、本書は昨年2018年が明治維新150年であったことを記念して開催されたシンポジウムの発表論文を取りまとめたものです。そのシンポジウムにおいては、明治維新とフランス革命を対比させる試みがなされ、フランスからも研究者を招聘しています。ということで、明治維新を考える際に常にトピックとなるのは、明治維新がブルジョワ革命であって、権力が新興の産業ブルジョワジーに移行したため、社会主義革命が次のステップとする労農派の立場を正しいと考えるのか、それとも、明治維新は封建制の払拭に失敗した不徹底なブルジョワ革命であって、社会主義革命に先立って民主主義革命が必要であり、それに引き続いて社会主義革命が起こる、とする二段階革命説に立つ講座派を正しいと見るか、です。本書では明確に前者の労農派の立場に立っています。一方、何度かこのブログでも書きましたが、寄生地主制の広範な残存やそれがための戦後GHQによる農地改革の実行などに見られるように、私は講座派の見解を支持しています。ですから、かなり根本的な部分で、本書と私は明治維新に対する見方が違っています。それを前提としつつも、まずまず、明治維新とフランス革命に関する対比はよくなされている気がします。例えば、対外的なプレッシャーに関してですが、明治維新は黒船来週に対応する国内政治の動向がヒートアップした結果として生じており、明らかに対外要因に基づく革命である一方で、フランス革命については国内要因に基づき、いわば、自然発生的に生じていますが、逆に、その革命の動きが対外的な軋轢を生じてナポレオンによる対外遠征の原因となっています。日本でも、明治維新後に征韓論が台頭し、西郷が政府から離れるきっかけになったことは歴史的に明らかですが、最終的には西南戦争により国内問題として処理されています。明治末期の日清戦争や日露戦争は、鎖国を廃止して対外開放を実行したという意味のほかは明治革命とは直接の関係なく、むしろ、植民地獲得のための帝国主義戦争ともいえます。加えて、日本でも徳川期の士農工商が四民平等に取って代わったわけで、いわゆる二重の意味で自由な市民が誕生しています。さらに、日本においては封建的な重層的な土地所有を地租改正により一気に一掃したわけで、その裏側で担税力ある寄生地主の存在を許したわけです。ただ、産業資本は育つ余地に乏しく、地租改正などによる税収を上げた上で、その財政的な余裕を生かして、八幡製鉄のような官営工場を設立して産業資本の育成に努めた、この土地所有における強固な寄生地主の存在と産業資本の不足が明治維新をして不徹底なブルジョワ革命ならしめた、ということなんだろうと私は考えています。本書の見方とは異なります。念の為。

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次に、木畑洋一『帝国航路(エンパイアルート)を往く』(岩波書店) です。19世紀後半の明治維新を経て文明開化と呼ばれる富国強兵策を展開する明治期の日本に対して、まさに、パクス・ブリタニカと呼ばれるこの世の春を謳歌していた英国の帝国航路、すなわち、英国からフランスのマルセイユ、エジプトのスエズ、アラビア半島のアデン、インドないしセイロン、シンガポールから香港や上海に通ずる東西の交易路を紹介しています。時代的なスコープは19世紀半ばから第2次世界大戦前までとなっています。この時期、我が国からは欧米に外遊や留学に向かうエリート層が少なくなく、米国向けに太平洋を渡る場合はバツにして、欧州向けに旅立つ場合はこの帝国航路は大陸経由のシベリア鉄道ルートとともに、主要な経路となっています。ただ、NHK大河ドラマ「いだてん」でも用いられたシベリア鉄道ルートと違うのは、帝国航路ではアジア各国の港町を通る点です。ですから、この時期の大きな特徴として、帝国主義的な植民地化の機運とも考え合わせ、本書で何度も指摘しているように、文明開化された英国や欧州の人々と違って、アジアの中国人やインド人などは野蛮・未開で、肌の色が黒くて悪臭を放っているとして、かなり大きな差別感情をむき出しに見ている日本人エリートが多かったようです。そして、アジアが欧州の植民地となるのはほぼ自業自得であり、怠惰で迷信深く野蛮・未開なアジア人は土人であって、勤勉で生産性高く科学的な知見を有している文明人たる欧州に支配されるのは当然、との見方が示されています。そして、その先には、アジア解放の名の下に、欧州の支配に代わって我が国がアジアを支配するようになる道筋が暗黙のうちに想定されていたように思います。実は、今世紀初頭2000~03年に私の仕事の都合により、一家でジャカルタに滞在して帰国した折、まだ生きていた私の父親が、その昔の戦後に南方から帰国した軍人などがいわゆる「南洋ボケ」とか、「南方ボケ」といわれるような、価値観や思考パターンに少しズレを生じていたことを指摘してくれました。我が家の帰国直後に父は亡くなりましたので、父が私やカミさんを見てどのような「南洋ボケ」の判定を下したのかは不明ですが、直感的に私にも理解できるものがありました。昭和一桁の私の父でも、アジア人に対するそれなりの偏見があったのですから、本書のスコープである19世紀的な時代背景では、それなりの偏見があったのも仕方なかったのかもしれません。

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次に、石平『中国人の善と悪はなぜ逆さまか』(産経新聞出版) です。現代中国における腐敗の問題から始まり、一般的社会的な贈収賄の腐敗行為は糾弾されるべきであるにもかかわらず、自分の家族が収賄していい生活を遅れるようになるのは歓迎したり自慢したりできる「全家腐」という善悪の逆転について、その真相を解き明かそうと試みています。すなわち、「宗族」という日本にはない考え方があり、家族のもう少し大きな親類縁者をさらに拡大したような同族関係で成り立つ少国家的な集団、立法や行政や司法の三権も講師しかねない集団である「宗族」について解説を加えています。私は十全に理解した自信はありませんが、血縁でつながったインナーサークルのようなものなんだろうと思います。他の「宗族」と武力抗争もすれば、その集団から科挙合格者を出して栄華を極めたりといったところです。そして、その「宗族」の外の集団に対しては徹底的に残忍になるということなんですが、それはキリスト教徒でも同じことで、殺すなかれとか盗むなかれは同じキリスト教徒の間でだけ通用する戎であり、異教徒は殺してもよいというのがキリスト教ですから、動物一般の殺生も禁じる仏教とは違います。ただ、本書を読んでいて、私の理解が及ばなかった点は、共産党政権の成立に伴って、この「宗族」が徹底的に破壊されたにもかかわらず、人民公社の活動とともに復活を果たした、という点です。人民公社を乗っ取る形で「宗族」が復活したとされているんですが、鄧小平による人民公社解体後も「宗族」がさらに拡大しているようで、なかなか私のような凡人には理解が及びません。でもまあ、何となく中国的な前近代性を垣間見たような気もします。体制が民主的な共和制であろうと、独裁的な共産制であろうと、やや偏見が入っているかもしれませんが、中国という国の本質、あるいは中国人の本性といったものは、4000年の歴史の中でそれほど大きく違わない、ということなのかもしれません。

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次に、レイフ G.W. ペーション『許されざる者』(創元推理文庫) です。著者はスウェーデンを代表するミステリ作家のひとりでありますが、何と、本書は邦訳第1作だそうです。上の表紙画像に見えるように、スウェーデン語の原題は Den Döende Detectiven であり、2010年の出版です。繰り返しになりますが、この作者の初の邦訳です。ということで、元警察庁の長官であり、凄腕の刑事だった主人公が脳こうそくで倒れた際に、その主治医からすでに時効となった事件の犯人についての示唆を受け、同じく引退した刑事仲間とともに再捜査に当たる、というストーリーです。そして、タイトルの「許されざる者」というのは、ズバリ、小児性愛者のことです。私は自他ともに認める知性派の異性にひかれる男ですので、いわゆるロリコンとはかなり遠い距離感を持っているんですが、確かに、大人の女性がいうことを聞いてくれないなどの理由で少女性愛に走る男性は少なくないような気もします。しかも、本書では被害にあった少女の父親がスウェーデンから米国に渡って大成功した大金持ちであり、小児性愛者に私的な制裁を加えている疑いありとされていて、かなり複雑なストーリー展開を示しています。さらに、私がもっとも不自然と感じるのは、すでに時効となった小児性愛犯罪の犯人の特定が、匿名のタレコミによるもので、その裏付けが超法規的なDNA鑑定ですから、やや例外的な事実判明としか思えません。ミステリとしては反則スレスレ、という気もします。でも、一枚一枚タマネギの皮をむくように真実が少しずつ明らかにされていく過程は、作者の小説家としての力量が示されていて、私ですらとても評価できるものだると理解しました。その意味で、プロットはともかく重厚なミステリ描写を楽しむことのできる読書でした。

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次に、エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの冒険』(創元推理文庫) です。1934年出版本の新約です。著者は紹介の必要もないでしょう。本格ミステリの王者ともいえます。本書には、「アフリカ旅商人の冒険」、「首吊りアクロバットの冒険」、「一ペニー黒切手の冒険」、「ひげのある女の冒険」、「三人の足の悪い男の冒険」、「見えない恋人の冒険」、「チークのたばこ入れの冒険」、「双頭の犬の冒険」、「ガラスの丸天井付き時計の冒険」、「七匹の黒猫の冒険」、「いかれたお茶会の冒険」の11話が収録されています。タイトルからも伺えるように、シャーロック・ホームズの短編からの影響も強く見られ、ナポレオンの彫像に黒真珠を隠すのに対して、売れない本にめずらしくて高価な切手を隠すとか、いろいろとあります。でも、時代背景とともに、英国と米国の違いもあり、やっぱり拳銃が多用されている気がしますし、その当然の帰結として殺人事件の比率が高い気もします。チャーミングな女性も数多く登場させますし、まあ、総じてやや現代的な色彩がホームズ譚よりも強いのは当然でしょう。

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最後に、G.K. チェスタトン『奇商クラブ』(創元推理文庫) です。これも1905年出版の古典的な短編集です。チェスタトンはブラウン神父シリーズでよく知られているわけですが、そのブラウン神父ものの前に出版されています。「ブラウン少佐の途轍もない冒険」、「赫々(かくかく)たる名声の傷ましき失墜」、「牧師さんがやって来た」、「恐るべき理由」、「家宅周旋人の突飛な投資」、「チャド教授の目を惹く行動」、「老婦人の風変わりな幽棲」の7話が収録されています。バジル・グラントが主人公で、その弟のルーパートとワトソン博士のような役回りで書き留めておくのはスウィンバーンです。奇商クラブのノースオーヴァーが登場する冒頭作から、以下ネタバレかもしれませんが、人に意図的に凹まされる会話応酬世話人、客が厄介払いしたい人物に対する職業的引き止め屋、樹上住宅専門のエージェント、体全体で表現する新たな言語体系の創設者、などなど風変わりなビジネスについて謎解きがなされます。
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2019年03月23日 (土) 11:43:00

今週の読書は経済書より小説が多く計8冊!

今週も文庫本を含めて小説の数が多く、経済書は少なくなっていますが、話題の本も何冊か含まれています。来週くらいまでは数冊の読書ペースを維持したいと考えていますが、来週限りで公務員を定年退職しますので、4月に入れば読書ペースを大きく落として再就職先を探すのをがんばりたいと思います。

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まず、牛山隆一『ASEANの多国籍企業』(文眞堂) です。著者は日本経済研究センターの研究者です。本書では、タイトル通りに、ASEAN諸国、本書ではASEANオリジナルのインドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、シンガポールの5か国に加えて、ベトナムを加えた6か国の多国籍企業をリストアップしています。従来から、東アジアの中国も含めて、先進国からの直接投資を受け入れる形で経済発展が図られてきた、日韓が国内資本による経済成長を実現したのとは大きく異なる形での経済発展として捉えられてきましたが、1990年台からASEANの東南アジア諸国では、受け入れる対内直接投資だけではなく、対外直接投資を積極的に実施する企業が増加している現状を、基本的に国別の企業レベルで取りまとめています。すなわち、シンガポールやマレーシアについては国策として国営・公営企業やソブリン・ウェルス・ファンドからの投資も含めて、対外投資を実行しており、タイやインドネシアやフィリピンなどは民間企業が、ベト並みは社会主義経済ですので国営企業が、それぞれ表立って対外投資の主役となっています。また、従来、1990年台から貿易に関しては欧州以上に東南アジアでは域内貿易の比率が高くなっているんですが、直接投資についても同様であり、ASEANなどの東南アジア域内の相互の直接投資の比率が高くなっているようです。ただ、本書では記述統計というか、現状どういった企業がどの国に多国籍企業として展開しているか、という点についてはそれなりに詳しいリサーチがなされているんですが、誠に残念ながら、その背後の経済的な諸用因については目が届いていません。例えば、日本に歴史を紐解くまでもなく、我が国では製造業が対外直接投資の主役であり、その要因としては、米国などの先進国に対しては関税や輸出自主規制などの貿易制限的な制度を回避するため、途上国に対しては現地の安価な労働力を活用するため、というのが極めてステレオタイプながら、典型的な理解だったような気がします。他方で、本書で取り上げられているASEAN[の多国籍企業は、通信や運輸が世界的な展開を志向するのは理解できるとしても、それなりに国別の差の大きい食生活で外食産業が海外展開しているのはなぜか、私はとても興味がありますが、本書では踏み込み不足という気もします。実は、例えば、我が国でもカフェをはじめとしてハンバーガーやフライドチキンなどのファストフードも含めて、海外の外食産業はかなり多く日本国内で事業展開しています。ASWEANでも基本的に同じことだとは思うんですが、日本でいえば牛丼やうどん・そばなどの伝統的な外食産業との共存関係も気にかかるところで、多国籍企業だけを単独で分析することは限界があります。ただ、海外事情については、かなり身近なASEANであっても、これだけの情報が利用価値高いんでしょうから、まだまだ入手の壁が高いのかもしれません。

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次に、ステファニー L. ウォーナー & ピーター・ウェイル『デジタル・ビジネスモデル』(日本経済新聞出版社) です。著者2人は米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のビジネススクールの研究者です。本書の英語の原題は What's Your Digital Business Model? であり、2018年の出版で、邦訳は模村総研だったりします。本書では、タイトル通りに、デジタル・ビジネスモデル(DBM)に関して、最近のビジネス書でも共通限度と説得力あるフレームワークが欠けていると主張し、副題にある6つの問いとは、1.脅威:あなたの会社のビジネスモデルに対して、デジタル化がもたらす脅威はどれほど大きいか、2.モデル:あなたの会社の未来には、どのビジネスモデルがふさわしいか、3.競争優位:あなたの会社の競争優位は何か、4.コネクティビティ:「デバイスやヒトとつながって(コネクトして)学びを得る」ために、モバイル技術やIoTをどのように使いこなすか、5.能力:将来のためのオプションに投資するとともに、必要な組織変革の準備をしているか、6.リーダーシップ:変革を起こすために、すべての階層にリーダーとなる人材がいるか?であり、その上で、4つのフレームワークを以下のように示しています。1.サプライヤー:他の企業を通じて販売する生産者(例:代理店経由の保険会社、小売店経由の家電メーカー、ブローカー経由の投資信託)、2.オムニチャネル:ライフイベントに対応するための、製品やチャネルを越えた顧客体験を創り出す統合されたバリューチェーン(例:銀行、小売、エネルギー企業)、3.モジュラープロデューサー:プラグ・アンド・プレイの製品やサービスのプロバイダー(例:ペイパル、カベッジ)、4.エコシステムドライバー:エコシステムの統括者。企業、デバイス、顧客の協調的ネットワークを形成して、参加者すべてに対して価値を創出する。特定領域(例えばショッピングなど)において多くの顧客が目指す場所であり、補完的サービスや、時にはライバル企業の製品も含め、よりすばらしい顧客サービスを保証する(例:アマゾン、フィデリティ、ウィーチャット)、となります。これは、本書p.13の4象限のカーテシアン座標の図を見る方が判りやすいかと思います。大企業などでは、複数のフレームワークに基づく事業展開をしているものもある、と指摘しています。いつもながら、ビジネス書ですので極めて多数のケーススタディを実行していて、サクセスストーリーを数多く紹介しているんですが、その背後にどれくらいの失敗例があるのかは不明です。さらに、成功例について、売上げの伸び率が高いとか、利益率が高いとか、いくつかの数値例を上げていますが、これにつては逆の因果が成り立つ可能性を指摘しておきたいと思います。すなわち、デジタル・ビジネスモデルを確立した事業だから利益率が高い、という因果の流れではなく、逆に、何らかの他の理由で利益率が高いので、デジタル・ビジネスモデルの確立のために豊富なリソースを割くことができる、という可能性です。利益や売上げとR&Dの関係には、一部に、こういった因果の逆転が見られる例もあったのではないかと私は記憶しています。まあ、経営に関する私の知識には限りがあります。

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次に、ハンス・ロスリング & オーラ・ロスリング & アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS』(日経BP社) です。著者はTEDでもおなじみのスウェーデン人医師とその息子とその妻の3人です。ただ、ファースト・オーサーであろうハンス・ロスリングは2017年に亡くなっています。原書は2018年の出版です。本書では、ついつい陥りがちな偏見や先入観を排して、世界の本当の姿を知るために、教育、貧困、環境、エネルギー、人口など幅広い分野を取り上げています。いずれも最新の統計データを紹介しながら、一昔前とは時を経て変化した世界の正しい見方を紹介しています。私のやや歪んだ目から見て、著者の見方はほぼほぼマルクス主義的な経済の下部構造が政治や文化などの上部構造を規定する、というのと、開発経済学的な経済発展による豊かさとともに世界は収斂する、という2つの視点を支持しているように見えます。そして、実際には章別第1章から10章までのタイトルに見られる通り、分断本能、ネガティブ本能、直線本能、恐怖本能、過大視本能、パターン化本能、宿命本能、単純化本能、犯人捜し本能、焦り本能の10のバイアスを克服する必要を説いています。そして、ハンス・ロスリングの医師としての国際協力の現場などでの体験を基に、とても判り易く解説を加えています。世界各国を1日1人当り所得で4つの階層に区分し、それぞれの生活様式がとても似通っている点などは経済の下部構造の重要性を指摘して余りあります。加えて、ハンス・ロスリングは自らを「可能主義者」と定義していますが、私も基本的には世界の先行きについては、とても楽観的な見方をしています。本書では何ら触れていませんが、私は楽観的な見方の根拠には技術革新に対する信頼感があります。人間はなにかの必要に応じて技術革新でもって対応できる、と考えているわけです。そして、技術革新を基礎としつつ、歴史の進歩に対する信頼感もあります。世界はいい方向に向かって進んでいると私は考えているわけですが、基本的に、時系列で考えて、一直線とはいわないまでも単調に増加もしくは減少するものと、何らかの上限もしくは下限があってロジスティックなカーブを描く場合と、カオス的とはいわないまでも循環的に振動するケースの3つがあると私は考えています。もちろん、この組み合わせもアリで、経済は循環しつつ拡大を続け、先進国だけでなく発展途上国も豊かさの点では成長が継続し、世界経済は収斂に向かう、と私は考えています。今週の読書の中では、ベストでした。実は、2月16日付けの読書感想文で『NEW POWER』をもって今年のマイベストかもしれない、と書きましたが、本書もそうかも知れません。今年はマイベストを連発しそうで少し怖かったりします。

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次に、上田岳弘『ニムロッド』(講談社) です。ご存じ、第160回芥川賞受賞作品です。主人公はネット・ベンチャーで仮想通貨を採掘する中本哲史、その恋人で中絶と離婚のトラウマを抱えた外資系証券会社勤務の田久保紀子、さらに、小説家への夢に挫折した職場の元同僚であるニムロッドこと荷室仁の3人を軸に物語は進みます。ニムロッドから中本にダメな飛行機コレクションが送られくるのもとても暗示的です。本書のテーマは「「すべては取り換え可能」というものですが、実は、著者はそれを必死になって否定しようとがんばっているような気がします。「取り替え可能」というのは、資本主義の宿命であり、資本主義を象徴するマネーの変種である仮想通貨の採掘を、ビットコインの考案者であるサトシ・ナカモトと同名の主人公にタスクとして割り振っているのも象徴的です。「取り替え可能」を本旨とする資本主義の生産の最前線でがんばっている3人を見る著者の眼差しはとても温かく、励まされるものを感じます。いわゆる純文学ですから、私のよく読むエンタメ小説、というか、ミステリのような解決編、いわゆるオチはありませんが、表現力や構成力は芥川賞にふさわしく感じました。それにしても、数年前までは、私は熱心に芥川賞受賞作品を読んでいて、ほとんど『文藝春秋』の特集号で選評と併せて読んでいたものですが、年齢とともに純文学を読まなくなり、この作品はホントに久し振りの芥川賞受賞作の読書となりました。そこで、斜向かいに感じたのは主人公の年齢が日本社会の高齢化とともにジワジワと上がっているんではないか、という点です。その昔の吉田修一の「パークライフ」では主人公は20代ではなかったかという気がします。そして、芥川賞受賞作で初めてパソコンに関するテーマを私が読んだのは、絲山英子の『沖で待つ』でハードディスクを壊す、というのではなかったかと思うんですが、主人公はアラサーだったような気がします。そして、本作ではアラフォーにまで年齢が上がっています。そのうちに、芥川賞や直木賞も70代の主人公が活躍する小説に授賞されたりするんでしょうか。やや、気が滅入る思いだったりします。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『スティール・キス』と『ブラック・スクリーム』(文藝春秋) です。著者は、ご存じ、米国の売れっ子ミステリ作家であり、終盤のどんでん返しで有名です。実は、『スティール・キス』の方は決して新刊ではなく、2017年の出版なんですが、『ブラック・スクリーム』の出版を知って検索していると、『ブラック・スクリーム』はリンカーン・ライムのシリーズ第13作であって、その前の第12作が『スティール・キス』として出ていたらしいので、少しさかのぼって読んでみたところです。『スティール・キス』の方はいわゆるサイバー・テロの可能性を示唆するもので、『ブラック・スクリーム』は移民や難民に偽装したテロリストの侵入を扱っていて、特に、『ブラック・スクリーム』ではリンカーン・ライムがアメリア・サックスとともに、ニューヨークを出てイタリアに出張してのご活躍ですので、ややめずらしげに目を引きます。また、ご当地イタリアの森林警備隊の隊員が鮮烈なデビューを果たしますから、アメリア・サックスとか、ロナルド・プラスキーのように、リンカーン・ライム率いるチームのレギュラーメンバーになる可能性は低いとは思いますが、今後の成長も楽しみです。『スティール・キス』では、サイバー・テロのホントの首謀者がだれなのか、『ブラック・スクリーム』では難民に偽装したテロリストを暴こうとする意図が、それぞれ、ミスリードされていて最後の鮮やかなどんでん返しが堪能できます。さらに、『スティール・キス』ではライムがアメリアにまったくロマンティックではないセリフでプロポーズしたことが明らかにされ、『ブラック・スクリーム』事件の解決後に2人は欧州でハネムーンを楽しむようです。最後に、すでに米国ではほぼ1年前の2018年春先にリンカーン・ライムのシリーズ第14作が出版されていて、なかなかのペースでの執筆ぶりがうかがえます。

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次に、猪谷千香『その情報はどこから?』(ちくまプリマー新書) です。著者はジャーナリスト出身で、先に取り上げたロスリング一家の『FACTFULNESS』と違って、明確にフェイク・ニュースをターゲットにしています。ただ、そのターゲットは曖昧で、情報リテラシー一般も同時にテーマとなっていて、とても焦点がピンぼけのわけの判らない解説書です。読んでも読まなくても、その前後で情報リテラシーが向上するようには思えません。情報の選別に関しては、従来からの伝統的なメディアであった新聞や雑誌にラジオが加わり、さらにテレビが入ってきて、本書でも指摘するように、この4つが伝統的なメディアなんでしょうが、そこにインターネットが登場し、さらに、個人がSNSなどで情報発信をできるようになり、さらにそれが拡散していく、というプロセスが技術的に可能になった現段階で、明らかに、本書でも取り上げられているようなフィスター・バブルが生じ、また、本書では忘れられているエコー・チェンバーが発生したりしているわけで、その情報リテラシーの向上に何ができるかを考えるべきです。最後の最後に、図書館の利用が唐突に割って入っていますが、図書館のヘビーユーザである私の目から見て、この著者はほとんど図書館を利用していないように見えて仕方ありません。最近、東京などの区立や公立の図書館では、いわゆる指定管理者制度が広範に導入され、図書館職員の質の低下が著しくなっています。私はいろんな図書館に週当たりで3~4回くらいは行くんですが、図書館員すべてではないにしても、図書に対する知識がなく、まるで、できの悪い公務員になったかのように利用者にエラそうな態度で接する図書館員が目につくようになっています。ただ、利用者の方のレベルも低下している可能性があり、何ともいえませんが、図書館の利用が情報リテラシーの向上につながると考えるのは極めてナイーブな視点ではなかろうかと思います。さらに、ジャーナリスト出身らしく、インターネットよりも伝統的なメディアに信頼感があるようですが、単にジャーナリストノヨウニダブル・トリプルで裏を取ることを指した「ファクト・チェック」の用語を使うだけでは何の解決にもならないことは明らかです。経済学の著名な論文に "Who will guard the guardians?" というのがありますが、ファクト・チェックをする人をチェックする必要はどうなんでしょうか。さらに、それチェックする人は? となればキリがありません。

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最後に、カレン M. マクマナス『誰かが嘘をついている』(創元推理文庫) です。この作者のデビュー作です。高校の最終学年の何人かの生徒が登場し、まあ、何となくですが、青春小説風になっています。携帯電話に厳しい先生の授業に携帯電話を持ち込んだというので、作文、反省文の居残りをさせられた5人の高校3年生のうち、日本でいえば学校裏サイトのようなゴシップ情報を集めたアプリを運営している生徒が死にます。ピーナツ・アレルギーらしいんですが、水分補給の際にピーナツオイルをいっしょに摂取し、しかも、保健室にアナフィラキシー補助のエピペンが処分されている、という状況です。殺人と警察で考えられて捜査が進みます。死んだ生徒以外の4人には、学校裏サイトにゴシップをアップさせられる予定があり、それなりの動機があるとみなされます。しかも、この4人は代々イェール大学に進学する一家出身の優等生、大リーグからドラフトにかかりそうな野球のピッチャー、はたまた、マリファナの販売容疑で逮捕東国の前科ある不良、などなど、そろいもそろってクセのある生徒ばかりです。日本でいえばワイドショー的なメディアの取材攻勢があったり、人権保護団体の弁護士が乗り出してきたりと、いろいろとあるんですが、ハッキリいって、謎解きのミステリとしてはレベルが低いです。がっかりです。ただ、高校最終学年の青春小説として読む分にはそれなりの水準だという気もします。
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2019年03月16日 (土) 11:11:00

今週の読書は文庫本の海外ミステリをいくつか読んで計8冊!!!

今週は、経済書・ビジネス書は冒頭の自動車に関するCASE革命の本くらいで、ほかは数学は自然科学、さらに昨年話題になった海外ミステリの文庫本など、以下の通りの計8冊です。なお、すでにこの週末の図書館回りを終えており、来週も芥川賞受賞作や海外ミステリを含めて、数冊の読書に上りそうです。なお、来週は経済書もそれなりに読む予定です。

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まず、中西孝樹『CASE革命』(日本経済新聞出版社) です。著者は、自動車に関するリサーチを行う独立の研究機関の経営者であり、ジャーナリストのような面も持っているんではないかと私は受け止めています。タイトルの「CASE」とは、C=接続 connected、A=自動運転Autnomous、S=シェアリング&サービス Sharing and Service、E=電動化 Electric、の4つのキーワードの頭文字を並べたものです。ということで、自動車産業とは20世紀初頭のフォードT型車から始まって、ハイブリッド車や電気自動車が登場するまでは、例えば、レシプロ・エンジンにはさしたる大きな進化もなく、製品としても産業としても成熟の極みであって、コンピュータが登場した電機などとの差は明瞭だった気もしていたのですが、最近になって、ハイブリッドや電気自動車やさらには燃料電池車まで視野に入れれば駆動方式に大きな変化が見られるとともに、ソフト的にも自動運転の実証実験が次々に実行され、死者が出るたびに大きく報じられたりしていますし、さらに、MaaSやカーシェア、ライドシェアなどの自動車を資産として家庭に保有する以外のサービスの提供元として活用する方法の広がりなどが見られます。本書ではそういった自動車の製品と産業としての最近時点での方向をざっくりと取りまとめるとともに、将来的な方向性を2030年くらいまでを視野に入れて論じています。まあ、いつまでの賞味期限の出版か、私には判りませんし、時々刻々と情報はアップデートされるんでしょうが、現時点での私のような専門外の人間にはとても参考になります。特に、タイトルにありませんし、本書でも重きを置かれているわけではありませんが、人工知能=AIの活用が進めば、さらに自動車が大きな変化を見せる可能性が高まります。私自身は今ではすっかりペーパードライバーですが、その昔は自分で運転を楽しむ方でした。でも、自動運転が大きく普及すると、自動車の運転は現時点の乗馬のように、閉鎖空間でマニアだけが楽しむスポーツのような存在になるのかもしれません。その場合、自動車レースなどはどうなるのか、今の競馬のような位置づけなんでしょうか。また、先ほどの電機産業などと対比して、次々と新製品を生み出したイノベーションあふれる業界ではなく、自動車産業が今まで量的にのみ拡大してきたわけですが、ここに来て、大きなイノベーションを体現して産業としても製品としても大きな進化の段階にあり、逆に、今までこういった進化が出来なかったのはなぜなのか、本書のスコープは大きく超えてしまうものの、自動車産業だけでなく、製造業や産業一般のイノベーションの問題としても、私は興味あるところです。まさか、単なる巨大IT産業経営者の気まぐれ、というわけでもないんだろうと思います。

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次に、ミカエル・ロネー『ぼくと数学の旅に出よう』(NHK出版) です。著者はフランス出身の数学者、専門分野は確率論で、本書のフランス語の原題は Le Grand Roman des Maths であり、2016年の出版です。自然科学の分野の学問領域では、いわゆる実験のような科学の実践があるんですが、社会科学、特に経済学では最近流行りの実験経済学などの一部を除けば実験がそれほど出来ないわけですし、また、自然科学でも数学については実験のような実践手段はなさそうに思えます。ということで、本書では邦訳タイトルに「旅」が入っていますが、旅をしつつ、何らかの数学の実践を盛り込もうと試みています。もっとも、実際には数学というよりも物理学とか天文学ではなかろうか、という例も散見されます。ただ、実践的な数学だけでなく、ほかの物理学とか化学などと違って、数学は高度に抽象化されているわけですから、定義、公理、定理の証明に一見すれば少し矛盾があるようなパラドックスなどまで、幅広く数学的な論理性を追求する姿勢も見せています。また、無限小という普通は取り上げないような数学概念を章として独立させて扱い、ピアソン-ジョルダン測度に代わって、極限関数の積分を可能とするルベーグ測度を実にうまく説明しています。また、ゲーデルの不完全性定理についても、無矛盾性と完全性が同時に成り立つことがない、という観点から、これまた実にうまく説明しています。物理学におけるハイゼンベルクの不確定性定理は位置と運動が同時に決定できない、ということですし、経済学におけるアローの不完全性定理は、私の学生時代には非独裁制が排除されないと飲み方が多かった記憶がありますが、現在では推移律が成り立たないと解釈されますし、専門外の私のようなシロートに、こういった判りやすい説明は歓迎です。ただ、最後に、20世紀初頭のヒルベルトの23問題を取り上げるのであれば、クレイのミレニアム懸賞問題についても言及が欲しかった気がします。実践の数学として暗号を取り上げないというのは、それなりの筆者の見識のような気もしますが、ミレニアム懸賞問題は数学実践として欠かせないと私は考えています。

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次に、リック・エドワーズ & マイケル・ブルックス『すごく科学的』(草思社) です。著者はいずれも英国出身で、テレビ司会者と科学ジャーナリストです。英語の原題は Science(ish) であり、2017年の出版です。副題にも見られる通り、SF映画から最新科学の解説を試みており、取り上げられているSF映画と科学テーマを書き出すと、「オデッセイ」から宇宙や他の惑星での生活について、「ジュラシックパーク」から恐竜や遺伝子について、「インターステラー」からブラックホールについて、「猿の惑星」から進化論や遺伝子について、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」からタイムマシンやタイムトラベルについて、「28日後...」からウィルスの脅威やゾンビについて、「マトリックス」からシミュレーション世界について、「ガタカ」から遺伝子やデザイナーベビーについて、「エクス・マキナ」から人工知能AIについて、「エイリアン」から地球外生命体について、ということになります。私も実は感じていたんですが、四次元ポケットから飛び出すドラえもんの道具となれば、かなりの程度に荒唐無稽ながら子供心に訴えるものがある一方で、これらのSF映画に応用されている科学はかなりの程度に大人に対して真実性をもって訴えかける部分が少なくありませんSF映画で科学を語るというのは、ありそうでなかったアイデアかも知れませんし、ジャーナリスト系の2人の著者ですので、科学者が書いた場合に比べて不正確かもしれませんが、それなりに判りやすく仕上がっているような気もします。また、取り上げられた映画について私なりに論評を加えてお口、。私は少なくとも冒頭の2作品、すなわち、「オデッセイ」と「ジュラシックパーク」については原作となる小説も読み、映画も見ていますし、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の映画も見ています。また、ウィルスとゾンビについては「バイオハザード」でお願いしたかった気がします。ただ、シミュレーション社会ということになれば、やっぱり「マトリックス」なんでしょうね。映画化されていないんですが、「リング」の貞子シリーズの「ループ」も悪くないような気がします。最後に、私はジャズファンで、よくCDSのジャケ買い、なんて言葉があったりするんですが、本書については表紙デザインで少し損をしている気がします。もっと壮大な宇宙をイメージするイラストなんぞはダメなんでしょうか?

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次に、ミシェル・フロケ『悲しきアメリカ』(蒼天社出版) です。著者はフランスのテレビのジャーナリストです。対米5年間の経験から本書を取りまとめています。フランス語の原題は Triste Amérique であり、2016年の出版です。タイトルは、レヴィ-ストロースの『悲しき熱帯』 Triste Tropiques を踏まえていることは明らかです。ということで、シリオンバレーの華やかなGAFAといった先進企業や強力な軍隊などの裏側にある米国の素顔、それも決して自慢できるものではない負の面を明らかにしようと試みています。出版社のサイトにかなり詳細な目次がありますので、それを一瞥するだけでもっ十分な気がしますが、まあ、取り上げられている項目はそれほど新規なものではなく、かなりありきたりです。しかも、編集者の能力の限界か、あるいは、著者のこだわりか、トピックが脈絡なく、せめてもう少し章の順番くらい考えればいいのに、と思わないでもありません。取り上げられているトピックは貧困や格差の経済的な問題、黒人やネイティブ・アメリカンの差別の問題、ファストフードなどの食品の工業化による肥満などの健康問題、ラストベルトなどにおける産業の衰退、銃社会における犯罪やひいては戦争の問題、そして、最後に、オバマ前大統領政権下における成果に対する疑問、現在のトランプ政権への批判、などなどとなっていますが、それなりにジャーナリストの取材に基づき、既存文献などからの引用で補強はされていますが、繰り返しになるものの、今までのいくつかの論調をなぞったものであり、新規性はありませんし、加えて、所得格差や貧困などの経済的な問題と薬物や犯罪の問題などが、かなり明瞭にまちまちで議論が展開されているため、これらの問題の本質が総合的に把握されることもなく、悪くいえば、問題の本質をつかみそこねているようにすら見えます。宗教の問題も取り上げられていますが、個々人の価値観の問題と社会的な構造問題は、いわゆる「鶏と卵」のように、どちらがどちらの原因や結果となっているといいわけではなく、一体となって分かちがたく因果を形成しているよう気もしますし、逆に、やはり経済や所得の問題がまず解決されるべきである、というエコノミスト的な見方も成り立ちます。ジャーナリストとして議論する題材を提供したことは大いに評価しますが、やや中途半端で踏み込み不足の感もあります。

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次に、井上章一『大阪的』(幻冬舎新書) です。著者は関西ネタのエッセイで有名な井上センセです。最近では『京都ぎらい』がベストセラーになった記憶があります。本書は、産経新聞大阪夕刊に連載されていたコラムを集めたものです。どうでもいいことながら、東京版では産経新聞は夕刊を出していないような気がするんですが、大阪版では夕刊があるんだと気づいてしまいました。ということで、、上の表紙画像にあるように、基本は、大阪的な「おもろいおばはん」に関するエッセイなんですが、それは1章だけで終わってしまっており、残りの2章から9章は大阪をはじめとする関西の文化一般に関するエッセイです。いつも通りに、さすがに研究者だけあって、調べがよく行き届いています。大阪的な「おもろいおばはん」は中年女性に限ったことではなく、男性も含めて、大阪弁の響きも含めて、ユーモアやウィットに飛んだ会話ができる大阪人あるいは関西人一般に対する印象であり、テレビがそれを増幅している、と著者は分析しています。それから、相変わらず、阪神タイガースに対する鋭い分析が見られ、私も目から鱗が落ちたんですが、関西であっても1960年代くらいまではテレビで放送されるジャイアンツのファンが多数を占めていた、というのは事実のような実感を私も持っています。そして、京都在住だった私の目にはそれほど明らかではなかったんですが、1968年に開局し、1969年から阪神のナイターしあいを試合開始から試合終了まで中継し始めたサンテレビの影響が大きく、一気に関西で阪神ファンが増えた、と分析しています。加えて、1971年からABS朝日放送のラジオで中村鋭一が「六甲おろし」を歌いまくったのも一因、と主張しています。実に、そうかも知れません。私の小学校高学年から中学生のころですので、うすらぼんやりながら、そのような記憶があります。また、神戸と亡命ロシア人の関係については、お節の通り、洋菓子のパルナスやモロゾフなどのロシア名のお店が頭に浮かびます。音楽もそうかも知れません。また、言葉については「がめつい」という形容詞が戦後の造語であって、決して関西伝来の言葉ではないというのは初めて知りました。ちょっとびっくりです。また、芦屋や岡本あたりの山の手の標準語に近い柔らかな関西弁については、今やノーベル文学賞候補に擬せられる村上春樹を上げて欲しかった気がします。

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』上下(創元推理文庫) です。昨年我が国で出版された海外ミステリの四冠制覇に輝くベストセラーです。著者はヤングアダルト作品を手がけたほか、人気テレビドラマの脚本もモノにしていたりしますが、私が読んだ記憶があるのは、いわゆるパスティーシュばかりで、ホームズものの『絹の家』と『モリアーティ』、ジェームズ・ボンドの『007 逆襲のトリガー』の3冊であり、少なくともホームズものはやや血なまぐさい殺人事件やビクトリア時代にふさわしくない社会風俗なんぞが飛び出して、ちょっと違和感を覚えなくもありませんでした。でも、007ものは、最新映画の主演であるダニエル・クレイグのようなやんちゃな主役であればOKだという気はしました。英語の原題は The Magpie Murders であり、2017年の出版です。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳です。ということで、この作品はメタな構造になっており、現代ロンドンを舞台にした出版界の殺人事件と、その出版会社で出しているミステリである約60年前の1955年の田舎の准男爵邸を舞台にする事件の両方の謎解きが楽しめます。本書の宣伝にある「名探偵アティカス・ピュント」というのは、実際には出版会社が出している小説の中で活躍する探偵であって、本書でダイレクトに扱っている現代ロンドンを舞台とする殺人事件は、その作者の担当編集者が謎解きに挑みます。どこまでホントかはやや疑わしいんですが、現代ロンドンの殺人事件と小説中の殺人事件が、ほどよく絡み合っていたりします。近年にない大傑作とは思いませんが、それなりに水準の高いミステリであることは受賞歴から見ても明らかです。

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最後に、ピーター・スワンソン『そしてミランダを殺す』(創元推理文庫) です。『カササギ殺人事件』が昨年の海外ミステリの各賞総なめであったのに対して、この作品は多くのランキングで2位につけていました。作者は長編ミステリ2作目だそうです。英語の原題は The Kind Worth Killing であり、2015年の出版です。邦訳タイトルは、あまりのセンスなさに私は呆れてしまいました。ということで、ロンドンのヒースロー空港のラウンジで出会った男女が男の妻を殺害するという点で意気投合し、米国への帰りの飛行機の中で計画を練る、という出だしで始まります。この女の方がサイコパスなんですが、男の方の浮気されたから妻を殺す、という発想にも少し飛躍があるような気がします。ところが、逆に男が妻の陰謀で殺されてしまい、その妻も同じ実行犯の手で殺され、その実行犯も姿を消す、という極めて複雑怪奇な人間関係の中で、そのカラクリに気づいた刑事が独断で捜査を進めてサイコパスの黒幕を尾行するうちに、刑事の方の異常性が浮かび上がって、などなど、基本的に倒叙ミステリであって、謎解きはほぼほぼないに等しいながら、極めて複雑で不可解な構造が解き明かされます。そして、真相にもっとも近づいた刑事は逆に異常と見なされ、サイコパスの黒幕は無事に逃げおおせる、という結末となるような示唆が示されています。かなりいい出来のミステリなんですが、私が最近ここ数年で読んだミステリの中では『ゴーン・ガール』に類似し、かつそれに次ぐくらいの不可解なミステリだった気がします。最後に、主犯的な主人公を務める女性が逃げ切るというのも似通った結末のように感じました。これまた、『ゴーン・ガール』と同じように、ミステリというよりは、サイコスリラーと呼ぶほうが似つかわしいのかもしれません。翻訳がいいのでスラスラ読めるんですが、映像向きだという気もします。
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2019年03月14日 (木) 19:26:00

ご寄贈いただいた『アベノミクスの真価』を読む!

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原田泰・増島稔[編著]『アベノミクスの真価』(中央経済社) をご寄贈いただきました。各チャプターのご著者の方々は、ほぼほぼリフレ派のエコノミストであり、束ねているのは日銀審議委員の原田さんと内閣府統括官の増島さんです。
日本経済の現状は、デフレとの関係で考えると、ほぼデフレからは脱却したものの、日銀の物価目標である+2%にはほど遠い、ということであろうかと思います。そして、本書はこれらにまつわる諸問題について回答を与えようと試みていて、一部に失敗しているものもありますが、ほぼ私も同じ結論に達しそうな気がします。例えば、+2%の物価目標未達については、2014年4月からの消費税率引き上げのショック、国際商品市況における石油価格の動向、そして、欧米では+1%から+2%近辺でアンカーされている物価上昇期待が、我が国では0%近傍でアンカーされていること、の3点を上げています。私なんぞは粗雑にも、国際商品市況の石油価格を上げてしまうことが多いんですが、そうなら日本以外の先進各国でも物価上昇率が低迷するわけで、そうなっていないのは、石油価格以外の我が国独自の要因があるというわけです。また、労働市場の現状についても、賃金が本格的に上昇していないわけですから、完全雇用には達していない、というのが私の結論なわけで、本書もまったく同じ分析結果を示しています。また、旧来の日銀理論から、低金利の副作用として債券価格形成の問題や金融機関の経営の問題などが指摘されていますが、少なくとも後者については、本書では預貸率の低さを原因として上げています。ただ、前者の債券価格形成の問題については、日銀が国債のかなりの部分を購入することにより、いわゆる市場の厚みが失われ、債券価格のボラティリティが高くなる問題はあるんだろうと思います。このボラティリティの高まりという点につき、本書では見逃している可能性があります。また、出口論についても一定の前提を置いたシミュレーションを示して、日銀が債務超過に陥る可能性に言及したのは興味深い点です。ただ、日銀が債務超過に陥るのを回避するために、すなわち、日銀自身の財務状況のために、日本経済を犠牲にするというのは本末転倒であり、我が国経済における日銀が果たすべき役割の放棄であるというのはその通りであろうと思います。

ご寄贈いただいた書籍などは、このように、律儀に取り上げることとしております。個人のブログなんぞという、誠に貧弱なメディアではありますが、図書や論文のご寄贈は幅広く受け付けております。
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2019年03月10日 (日) 14:39:00

先週の読書はビジネス書や教養書からラノベまでいろいろ読んで計9冊!!!

昨日の土曜日の読書感想文ブログの定例日に米国雇用統計が割り込んで1日ズレて、ラノベの文庫本が3冊入ったこともあり、先週は計9冊を読んでしまいました。本格的な経済書はないものの、フリマアプリのメルカリのIPOまでを追跡したジャーナリストのドキュメンタリのビジネス書もあれば、私の大好きな作家のひとりである宮部みゆきの最新作まで、以下の通りです。今週も昨日のうちに図書館回りをほぼほぼ終えており、それなりのボリュームを読みそうですが、定年退官までもう1と月もなく、官庁エコノミストではなくなりますから、明らかに読書傾向が変化してきたような気がします。

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まず、奥平和行『メルカリ』(日経BP社) です。著者は日経新聞の編集委員をしているジャーナリストであり、米国のシリコンバレー支局の経験もあるそうです。我が国のフリマアプリ最大手であるメルカリが創業からわずか5年にして昨年2018年6月にIPOに成功しわたけですが、そのメルカリを題材にして、成長の軌跡、特に、フリマアプリ後発であったにもかかわらずトップに立った戦略とそれを支えた経営陣、その中心は創業者の1人である山田会長への取材を通じて取りまとめられたドキュメンタリです。要するに、読後に一言でいえば、資金調達力にものをいわせてCMを流しまくった、という1点に尽きるような気もしますが、そこは、ある程度はインサイダー的な情報を与えられたジャーナリストによるドキュメンタリですから、やや提灯持ちのような視点も少なくなく、現金出品の事件も含めて、きれいに取りまとめられています。私自身はもうすぐ定年退官を迎える公務員ですから、メルカリのようなユニコーンまで成長したスタートアップ企業の経営者とは、ある意味で、対極に位置しているわけですので、ここまで猛烈に働くことは若いころしかしたことがありませんし、なかなか理解するに難しい面もあります。他方で、私は毎朝可能な限り、NHKの朝ドラを楽しみにして見ています。知っている人は知っていると思いますg、いかにも高度成長期後半の昭和の起業家であるチキンラーメンの安藤百福を中心に据えたドラマであり、ドラマの中の起業家が、やや誇張された面はあるとはいえ、天下国家に有益な開発を志していたのに対し、今どきのインターネット関連の起業家やスタートアップ企業が何を目指しているのかが、やや本書では捉え切れていなかった気がします。特に、それが目についたのが米国進出であり、創業者が米国進出をしたいと志したからそうするんだ、という以上の理念めいたもの、あるいは、経済学で考えるところの企業活動の本質である利潤極大化なのか、そのあたりの目的意識めいたものが少し興味あったんですが、本書では必ずしも明らかではありませんでした。でも、かなり狭い世界でスタートアップ企業経営者や幹部が活動いているのはやや意外でした。最後に、どうでもいいことながら、チキンラーメンの日清食品から、「チキンラーメン」ブランドが発売60周年目に史上最高売上を達成、とのプレスリリースが3月4日に出されています。ご参考まで。

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次に、シバタナオキ・吉川欣也『テクノロジーの地政学』(日経BP社) です。著者は、いずれもスタートアップ企業の経営者、すなわち、起業家です。そして、本書のタイトルの地政学というのはやや違ったふうに解釈する向きもありそうですが、本書では米国のシリコンバレーと中国を対比していることをもって地政学と呼んでいるようです。ということで、本書では人工知能、次世代モビリティ、フィンテック・仮想通貨、小売り、ロボティクス、農業・食テックの6分野に渡って、最新のビジネスモデルを解説していています。すなわち、各分野につき、マーケットトレンド、主要プレーヤーの動向、注目スタートアップ、未来展望を米国シリコンバレーと中国のそれぞれに分けて、私のようなシロートにも判りやすく取り上げています。もちろん、それぞれの分野におけるビジネスモデルなので、必ずしも反則ではないんですが、実際の財・サービスの詳細についてはやや省略気味です。それよりも、最初に取り上げている奥平『メルカリ』でも感じたところですが、人脈関係について詳しいような気もします。いくつか、私の記憶にある範囲で印象的な点を取り上げると、まず、人工知能についてタスクの星取表があって、今すでにできている、2-3年以内にできそう、5年かかっても難しそう、に3分類されていますが、自然分での会話が5年かかっても難しそうとされています。いわゆるチューリングテストに通らない、という意味なんだろうと私は解釈しています。次世代モビリティについては、私は従来から自家用車、というか、社用車なんかも含めて自動車は稼働率が低く、要するに、エネルギーを使う割には運べるキャパが少ないと感じています。その点で、電車やバスのような公共交通機関に軍配を上げるんですが、自動車の24時間稼働も含めて、新たなモビリティ技術でどこまで効率を高められるかは興味あるところです。最後のポイントとして、金融関係については、キャッシュレス取引をはじめとして、スピードを強調する意見が多く見られ、本書でも同じ傾向があるんですが、決済についてはスピードと正確性のトレードオフがあり、私は正確性の方を重視すべきと考えています。その観点からの議論が少ない点はやや残念に思います。

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次に、 イ・サンヒ & ユン・シンヨン『人類との遭遇』(早川書房) です。著者は米国カリフォルニア大学リバーサイド校の自然人類学ないし古人類学の研究者と韓国の一般向け科学誌『科学東亜』の編集者・ジャーナリストですが、本書の中身のほとんどはイ教授が書いているんではないかという気がし、ユン氏は編集の方に重きを置いているような気がします。『科学東亜』に2012年2月号から3013年12月号まで連載されていたコラムを単行本化したようですから、オリジナルは韓国語ではなかったのかと想像していますが、フォーブス誌に書評が掲載されているようですから、英語を含めて翻訳されているのだろうと思います。上の表紙画像に見える英語の原題 Cloe Encounters with Humankind はその英訳書のタイトルなのかどうか私は知りませんが、むしろ、日本語タイトルに合わせているような気もします。というのも、扉の裏に韓国語をアルファベット表記、あるいは、それを英語に直訳したしたのであろう IN-RYU-UI GHEE-WON (Human Origins) というタイトルが見えるからです。本書の中身を振り返ると、やや韓国語のタイトルに近い気がします。というのも、もっとも古いホミニンに関する探究を一般向けに短い連載コラムのような形で取りまとめているからです。ところで、ホミニンとは「ヒト亜科」という和約があり、最終的にヒトが類人猿あるいはチンパンジーから枝分かれした後の種のことを指すと本書では考えられているようです。これはもっとも狭義の定義のように私は受け止めています。ということで、人類への進化の過程を取り上げて、従来の俗説めいた定説をいくつか否定しつつ、新たな著者の見方を提示しています。著者が支持する学説のうちで、私の知らなかったもののひとつが、現生人類がアフリカに発祥しその他の旧人類などをすべて駆逐したという完全置換説ではなく、現生人類は複数の地点で発祥し移動しているうちに出会って各地で遺伝的に混合してひとつの種になった他地域新仮説です。加えて、長寿は世代を通じた情報の伝達に有利である点を進化論の立場から解き明かしたり、狩猟採集から農業の開始とそれに伴う農作物の摂取と定住が人類にとって、ホントによかったのかどうかを疑問視したり、私のような一般ピープルの間では進化=進歩という図式を信じているんですが、そうではない例もいくつか取り上げています。さらに、韓国人というアジア人の範疇に入る著者ですので、西洋の白人キリスト教徒中心の人類進化史観にも異議を唱えていたりします。最後に、DNAの分析から現生人類にもネアンデルタール人のDNAは数パーセント残っているという旨の分析を明らかにしていますが、私の知る限り、ヒトとチンパンジーのゲノムを比較すると98パーセント以上が相同で、ほとんど差がない、といった科学本もあります。DNAとゲノムの違いも私には明確ではないんですが、よく判らない点でした。

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次に、アレクサンダー・トドロフ『第一印象の科学』(みすず書房) です。著者はブルガリア出身で、現在は米国プリンストンだ学の心理学研究者です。英語の原題は Face Value であり、2017年の出版です。日本語タイトルは第一印象となっていますが、ほぼほぼ顔といって差し支えありません。髪の毛も抜きの顔です。服装や、ましてや体型は第一印象には入っていないということなのかもしれません。顔写真をモーフィングして、信頼性を高めたり、支配力を強化したりする実験が繰り返されています。特に、顔写真のモーフィングでキーワードとなるのは信頼性と支配性のようです。そして、私にはロンブローゾの名前とともに意識される観相学について、本書の著者は創始者のラヴァーターとともに取り上げていますが、その観相学と心理的な性格はまったく関係がないという論証を延々としているような気がします。みとrん、ロンブローゾの場合は観相学を犯罪者への応用として用いたわけで、それはそれとして大きな逸脱のような気もしますが、いずれにせよ、顔による第一印象と犯罪はもとより性格とは、必ずしも相関がなく、しかも、顔の第一印象が何らかのと因果関係をなしていて、性格を原因として顔の第一印象が結果として目に見える形で現れている、ということは決してありえない、というのが本書の著者の主張です。本書は4部14章構成なんですが、4部のうちの冒頭からの3部までが、観相学の否定に費やされている気がします。その観相学の否定のついでに、いろんな顔から読み取れる、というか、読み取れると多くの人が考えている心理的な性格などについて解説を加えています。そして、人間が持つ顔バイアスは、決して社会性のある経験に基づくものではなく、ほぼほぼ生後数日くらいで社会性のかけらもないような赤ちゃんでもバイアスがあり、さらに、人間ならぬ霊長類にも顔バイアスが見られることが確かめられています。しかし、同時に、人間は顔バイアスとともに、見た目に強い印象を持つことは明らかで、ただ、それが時代とともに変化する点も見逃せません。今ではセクハラまがいの発言かもしれませんが、私はかつて「美人だが、1000年前に生まれていれば、すなわち、平安時代であれば、もっと美人と評価されたかもしれない」といった旨をご本人の前でいったことがあります。絵画などで残る平安美人が今とはやや基準を異にしているのは明らかで、歴史の流れとともに、あるいは、地域性により、どのような顔バイアスの違いがあるのかも私は興味あります。

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次に、武田尚子『近代東京の地政学』(吉川弘文館) です。著者は早稲田大学の研究者であり、2017年9月に同じ吉川弘文館から出版されている『荷車と立ちん坊』を取り上げたこともあります。本書は青山から代々木ないし渋谷に広がる山の手地域の地政学的な位置づけについて、明治期の軍制などとの関係で解き明かそと試みています。しかし、タイトル通りの地政学というよりも、青山・渋谷・代々木あたり、もちろん、明治神宮やその内苑と外苑を中心とする地域の明治期以降の発展史というカンジです。我が家は現在の城北地区に引っ越すまで、南青山の公務員住宅に住まいしていたことがあり、私は表参道駅から地下鉄に乗って役所に通勤していましたので、とても馴染みがあります。今では公務員住宅は売り払われてしまいましたが、表参道の交差点から原宿・神宮前を背にして根津美術館に向かってみゆき通りを歩き、大松稲荷を経て菱形のガラスが印象的なプラダのブティックを右に曲がると住まいがありました。ということで、本書に戻ると、徳川期に大火で江戸城が類焼した際に武器庫を場内に設営していたために被害が大きくなったことから、青山あたりに弾薬庫を設営したことに始まり、明治期になっても地政学的に軍事的な施設が多く置かれ、青山練兵場や代々木練兵場への軍隊の行進や天皇の行幸のために道路などのインフラが整備され、さらに、明治天皇の崩御により遺骨は京都の御香宮に埋葬された一方で、明治神宮が整備されます。そして、戦後はワシントンハイツなどの米軍施設や住宅に衣替えし、それが東京オリンピック施設のために返還され、軍事施設からオリンピックという平和の祭典に活用される、という変遷を歴史的社会的に本書は跡付けています。繰り返しになりますが、我が家が子育てをした馴染みの地域ん歴史を振り返るいい機会でした。なお、どうでもいいことながら、本書冒頭のいくつかの地図のうち、p.2図1に見える表参道交差点は現在のものですが、p.6図4の最下部に見える表参道の電停は今の表参道の交差点ではなく、神宮前の交差点ないし地下鉄でいえば表参道駅ではなく、明治神宮前・原宿駅に相当します。逆に、p.6図4の明治神宮の電停こそが現在の地下鉄表参道駅に相当することになります。100年も違いませんが、ビミョーに地名も変化しているのかもしれません。

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次に、宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』(文芸春秋) です。著者は直木賞受賞の売れっ子ミステリ作家です。杉村三郎シリーズの第5弾であり、ちなみに、前4作は『誰か Somebody』、『名もなき毒』、『ペテロの葬列』、『希望荘』となっています。それから、文庫版の『ソロモンの偽証』の最終巻に、杉村三郎を主人公とする「負の方程式」が収録されています。100ページほどの書き下ろし中編です。私は全部読んでいます。知っている読者は知っていると思いますが、第3作の『ペテロの葬列』ラストで杉村は離婚して今多コンツェルンを離れ、第4作『希望荘』から私立探偵を始めます。本作では中編くらいの長さの3話を収録しています。「絶対零度」と「華燭」と表題作です。表紙画像の帯に「ちょっと困った女たち」とありますが、私のような公務員を定年まで勤め上げた人間から見ると、「ちょっと」ではなく、大いに問題ありなのではないか、という気もします。それに、第1話の「絶対零度」は困ったことをするのは女性ではなく、男性ではなかろうか、という気もします。この3話では、困ったことをする人がいて、いわゆる迷惑行為ともいえるんですが、電車の痴漢行為のように一線を越えて犯罪そのものもあれば、犯罪スレスレというものもありそうです。このシリーズの主人公の杉村は常識人であり、この作品の登場人物も常識人が多い一方で、犯罪スレスレの迷惑行為をなす単数ないし複数の人物が本作では登場します。そして、第1話の「絶対零度」と第3話の「昨日がなければ明日もない」では殺人事件で終わり、ネタバレなんですが、迷惑行為をなした人が殺されます。迷惑行為の延長で殺人事件が起きるのではなく、、迷惑行為の行為者が恨みをかって被害者に殺されるわけです。シリーズ内の『名もなき毒』や『ペテロの葬列』では、「困った人」は明確に警察に捕まるんですが、本作品では警察をはじめとする法執行機関ではなく、被害者が迷惑行為者に復讐めいた行為を実行するというのは、杉村が探偵になってからの変化なのかもしれません。すなわち、離婚前の作品では常識人の杉村が被害者だったので非合法手段で迷惑行為者に復讐めいた罰を与えることはしなかったんですが、実は、迷惑行為者だけではなく被害者の方も「困った人」であれば、法執行機関ではなく被害者ご本人が犯罪行為に及ぶケースがある、ということなのかもしれません。そこまで深く読むこともなさそうな気がしますが、迷惑行為の実行者たる純正の「困った人」、迷惑行為を受けて反撃してしまうレベルの「困った人」、迷惑行為を受けて法執行機関に正義を求める人、の3種類の書き分けが興味深かった気がします。どうでもいいことながら、文芸春秋のサイトにある人物相関図は以下の通りです。


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最後に、松岡圭祐『グアムの探偵』、『グアムの探偵 2』、『グアムの探偵 3』(角川文庫) です。著者は売れっ子の小説家であり、軽いなぞ解きのミステリの作品が多い気がします。私は、今まで、「万能鑑定士Q」のシリーズや「特等添乗員α」のシリーズを読んでいて、さらに、前者のシリーズの中で、綾瀬はるか主演で映画化された「モナ・リザの瞳」も見た記憶があります。ただ、これらの2シリーズは主人公がいずれも女性だったんですが、この「グアムの探偵」シリーズでは主人公は男性であり、原住民であるチャモロ人や米国人に交じって日系人3世代、すなわち、77歳の祖父ゲンゾー、49歳の父デニス、25歳の倅レイの3人が属する、というか、ゲンゾーが社長でデニスが副社長を務めるグアム島にある探偵社を舞台にして、軽めのミステリのようななぞ解きを収録しています。初刊から第3巻まで、短編が各5話ずつ収録されています。まあ、繰り返しになりますが、それほど本格ミステリ、というわけでもなく、かなり都合よく解決される謎が多くなっている印象です。ですから、読者によってはラノベに分類する人も多そうな気がしますし、ひょっとしたら、これから先、漫画化される可能性も十分あると私は予想しています。なお、探偵社の名称はイーストマウンテン・リサーチ社といい、親子3代の姓である東山から取られているようです。ゲンゾーの愛車は、デニスはジープ・チェロキー、レイはサリーン・マスタング・ロードスターと、キャラに合わせて米国的に車で表現したりの工夫がなされています。もちろん、グアム島は米国の準州ですから、探偵は探偵でも日本とは異なり、拳銃の携行が許可されていたり、政府公認の私立調査官として警察情報に接することが可能であったり、裁判などでの証言にも重きを置かれる、などの制度的な違いも解説されています。殺人事件がないわけではないものの、基本的には、リゾート地ののどかなトラブル解決が少なくなく、当然ながら旅行や移住でグアム島にいる日本人が巻き込まれる事件が中心です。ただし、グアム島は面積の⅓が米軍基地ですので、軍やスパイも絡んで、それなりの国際的なスケールの広がりのある謎もあります。軽めの読み物ですから、通勤時の時間潰しなどにとてもいいんではないでしょうか。最後にどうでもいいことながら、上に表紙画像を3つ並べていますが、現時点では第3巻の表紙デザインのラインで初刊と第2巻も統一的なデザインとなっています。でも、私が借りて読んだのは上の表紙画像の通りです。念のため。
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2019年03月02日 (土) 11:38:00

今週の読書は本格的な生産性に関する経済専門書からエンタメ小説まで計8冊!

今週の読書は生産性に関する経済書をはじめとして、教養書や専門書などを含めて、さらに、米国大統領経験者が共著者となっているエンタメ小説まで、以下の通りの計8冊です。今日も図書館回りはすでに済ませており、文庫本が入るので、来週もそれ相応の冊数を読みそうな予感です。

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まず、森川正之『生産性』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済産業総研の副所長であり、官庁エコノミストです。生産性、特にサービス業の生産性を専門分野のひとつとしています。本書では、「実務家」という表現で、ビジネスパーソンにも判りやすく、決して学界の専門家だけを対象とはしていません。広く生産性についての解説や実証研究などのサーベイを盛り込んでいます。もっとも、生産性と成長率の関係についてだけは、あまりに長期の関係ですので、これだけはアプリオリに生産性が向上すれば成長率も高まる、と仮定しているように見えます。ただ、現在の「長期不況」= secular stagnation の一因としての生産性との関係については、IT技術革新の成果が2000年代半ばまでに出尽くしたのと教育投資による人的資本の改善がピークアウトした2点をインプリシットに主張しています。そうかもしれません。また、最近話題になっているトピックについてもいくつか取り上げられており、例えば、AIやロボットによる雇用の代替効果については、そもそもカールワイツのような2045年シンギュラリティに素朴な疑問を呈するとともに、代替される労働は日本でもせいぜい10%足らずとの実証研究を引用していたりしますし、政府の進める働き方改革は、生産性向上に対する効果については疑問であり、労働者の福利改善と理解すべきと主張しています。外国人労働の受け入れについても、地方経済活性化の効果は限定的と分析しています。ただ、本書は供給サイドと生産性の関係だけを論じており、私から見て生産性について論じる場合、需要との関係が本書には決定的に欠けているような気がします。すなわち、あくまで短期的な関係かもしれませんが、資本生産性であれば、短期的には稼働率と生産性は正の相関関係があります。かなり正確に比例関係といっていいかもしれません。労働生産性は資本生産性ほどの比例的な関係ではありませんが、需要との相関は高いと考えるべきです。需要が高まれば労働生産性も高まります。ですから、本書のような長期的な視点ももちろん重要ですが、中期的に、例えば、バブル崩壊後の「失われた20年」で我が国の生産性が停滞したのは、イノベーションや人的資本や教育とかではなく、我が国の需要が盛り上がらなかったからではなかろうか、という短期的な視点をまったく無視するのは適当ではないような気がします。

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次に、デービッド・アトキンソン『日本人の勝算』(東洋経済) です。著者は、ゴールドマンサックスのエコノミストを務め、今では京都で美術工芸社の経営者をしています。何冊かのシリーズで似通った本を出版しているんですが、私もいくつか読んでいて、少しずつビミョーに論調を変化させていますが、経済実態が変化しているんですから、それは当然としても、底流にあるのは、日本人の労働者が優秀である一方で、経営者は水準が低く、高スキルの労働者を低賃金で雇えているのだから、日本企業に競争力があるのは当たり前である、という事実です。本書では、特に、高齢化や少子化などの影響により、社会保障財源のためにも優秀な日本人労働力をさらに生産性を高める必要がある、という論旨で一貫しています。ですから、今年始まる外国人剤の受け入れや消費税率の引き上げなどに小手先の政策対応ではなく、本書では最低賃金の引き上げによる賃金の全般的な底上げにより、逆に、効率や生産性を高める、という方策を推奨しています。その背景には、同様の最低賃金引き上げを実施した英国の例が引用されています。加えて、成人教育の充実も半ば強制的に実施することを提唱しています。本書では言及されていませんが、ノーベル賞も受賞したアカロフ教授が高賃金による贈与経済的な高生産性の実現をモデル化しています。やや、アカロフ的なモデルとは違っていますが、高賃金で経営者に労働の効率化を図り、同時に、労働者のインセンティブも高める、という結果に関しては、ここ何年か試みられた「官製春闘」に似た発想かもしれません。でも、今春闘はこれをギブアップして、安価な外国人労働力の導入という真逆の政策に切り替えたわけですし、「1人勝ち」とメディアに称される安倍内閣ですらできなかった賃金引き上げですから、どこまで本書の政策提言が有効なのかは、私は測りかねています。

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次に、ジョン・ルイス・ギャディス『大戦略論』(早川書房) です。著者は米国イェール大学の研究者であり、米ソ冷戦史が専門です。英語の原題は On Grand Strategy であり、邦訳タイトルはそのままだったりします。2018年の出版です。本書は、著者が米海軍大学校で講じた「戦略と政策」の内容も踏まえ、古典古代のペルシャ戦争やペロポネソス戦争から始まって第2次世界大戦までを対象に、孫子、マキアヴェリ、クラウゼヴィッツの3大家をはじめ、トゥキュディデスからリンカーンまで古今の戦略家・思想家を数多く取り上げ、大戦略の精髄を凝縮して戦略思考の本質を浮き彫りにすることに挑戦しています。ということで、大戦略とは、著者によれば、無限に大きくなる可能性ある願望に対応して、それを実現する能力が有限であるため、その間でバランスをとる必要がある、ということだとされています。本書ではまったく取り上げる素振りもありませんが、東洋の片隅に位置する我が国近代化の過程の中では、日清戦争と日露戦争、特に後者の終わり方に典型的に現れていると私は考えています。そして、このバランスを失したのが第2次世界大戦の終わり方であり、バランスを取るために必要と著者が力説する常識=コモンセンスが当時の我が国には欠けていた、ということになろうかと思います。ただ、私自身はその前段で緻密な情報収集と分析の能力も不可欠だと考えます。そして、本書では一般的な自然科学や社会科学で応用されるようなモデルを前提とする分析ではなく、歴史を分析しケーススタディを繰り返すことを重視しています。個別のケーススタディから汎用的なモデルを抽出して理論構築するのではなく、歴史学の観点から個別の事実を数多く集めて、それを応用することにより将来のあり得る事態におけるよき選択の導きを見出す、という方法論を取っているわけです。そして、繰り返しになりますが、そのスダンが理性であり、常識ともいいかえることができる、と結論しているわけです。個別の観察された事実から共通する要因としての理論やモデルを構築するのではないのは、近代科学の方法論ではないんですが、それだけに戦争というのは各ケースでモデルとして抽象化できる要素は少ない、もしくは、より平たくいえば共通性がない、と著者が考えているのだと私は受け止めています。そうかもしれません。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を導いたわけですが、古典古代の戦争から第2次世界大戦までの戦争の歴史をかえりみても、共通のものさしで図れる部分は少ない、ということです。なお、どうでもいいことながら、歴史家の意見が一致する点で、米国の歴代大統領のうちでもっとも歴史的な貢献が高いのはリンカーンだと本書の著者は示唆しています。これも、そうだろうという気がします。

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次に、ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの世界文明講義』(河出書房新社) です。著者は、ご存じの通り、現代のイタリアのみならず世界を代表する知識人でしたが、2016年に亡くなっています。イタリア語の原題は Sulle spalle dei giganti Umberto Eco であり、著者死後の2017年の出版です。本書は、基本的に、最終章を除いて、2001年から15年までのミラネジアーナという文学・文化・芸術イベントにおける著者の講義・講演の記録を取りまとめたものです。ただ、何年か抜けていますので、15年間で15章ではなく11章です。それに最終章を加えた12章構成となっています。おそらく、エディタの編集にして正しいのではないかと私は思いますが、議論はあるかもしれません。すなわち、エーコ教授が生きていれば違う編集をした可能性は排除できません。それは別にして、本書の各章に通底するのは、美と真実に関する著者の見方、あるいは、美学と真実について延々と10年超に渡って語っている、というのが私の印象です。そして、読者としての私にすれば、美よりも真実の方に力点を置く読み方になってしまいます。でも、専門外ですから当然としても、かなり難解です。真実の相対性を否定し、絶対性を力説することから始まり、真実に対比する概念として、嘘、間違い、偽造などから、秘密を経て、最後は陰謀まで引っ張ります。嘘と間違いは意図の有無で区別されるので判りやすく単純な一方で、最終的な陰謀については、秘密結社が企むものもあって、とても胡散臭いわけですが、そこは、さすがのエーコ教授といえ、薔薇十字団やテンプル騎士団の伝説、フリーメーソンやユダヤの議定書といった陰謀説の歴史と同じ文法で、ケネディ暗殺や9.11テロに関する陰謀説に対する著者の考え方がかなりクリアに示されます。こういった数々の実例を上げつつ、「陰謀症候群の歴史は、世界の歴史と同じくらい古い」と述べる著者の博識には舌を巻きます。その上で、特に『ダ・ビンチ・コード』については明記して取り上げています。ダン・ブラウンのラングドン教授シリーズについては、私は最新刊の『オリジン』まですべて読んでいるつもりですが、さすがに、フィクションの小説では底が浅い、というか、逆に、エーコ教授の知識の該博さには圧倒されます。美と真実のうちの校舎の真実について長々と感想文を書きましたが、前者の美に関しては、数多くの図版をフルカラーで収録し、それを眺めるだけでも本書の価値あり、と考える読者もいそうな気がするくらいです。

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次に、相澤冬樹『安倍官邸vs.NHK』(文藝春秋) です。著者はNHK大阪放送局(BK)の記者として森友事件の取材にあたった経験を持つジャーナリストです。今はNHKを辞職して大阪日日新聞の記者のようです。ということで、本書は森友事件の取材メモのような体裁で、NHK内部での取材メモやメールのやりとりなども赤裸々に引用されていますが、私のような読者が期待する森友事件の真実を明らかにする目的で公刊されたわけではないようです。ですから、事件発覚後の著者の取材過程や関係者の動向などは本書でかなり明らかにされていますが、事件発覚前、というか、実際に誰によって何がどのような意図のもとになされたのか、という事件をさかのぼった事実解明は本書の眼目ではありません。この点は忘れずに読み進むべきです。本書のタイトルは、いかにも安倍官邸からの圧力に抗してNHKのジャーナリストが報道しようと試みたプロセスを収録しているように見えますが、私が読み逃したのかもしれないものの、安倍官邸からの圧力はまったく出現しません。少なくとも、本書の著者が安倍官邸からの圧力を感じたとは思われません。もちろん、NHK報道局長などの幹部からの圧力が著者の記者にかかったことは記述されていますし、おそらく、直接ではないにしても忖度レベルかも知れないですが、何らかの安倍官邸からの圧力はNHKに対してあった可能性は否定できないものの、本書では実証されていません。広く知られた通り、大阪地検特捜部の結論は全員不起訴、すなわち、公判維持は困難、ということだったのですが、森友事件の実態とともに、この地検特捜部の意思決定の過程にも光を当ててほしかった気がするんですが、ここも消化不良で終わっています。私の期待が筋違いだったのかもしれませんが、ジャーナリストとしての取材の心がけや取材対象との接し方などの記者としてのあるべき姿はよく見えるんですが、NHK内部の幹部と現場記者との関係はともかく、安倍官邸との関係についてはタイトル倒れのような気がします。森友事件に関しては、かなりの程度に事実関係は明らかになりながら、その事実の背景、特に安倍官邸との関係については、何も国民には明らかにされていないわけですから、ジャーナリストとしてその点を掘り下げてほしかった気がします。

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次に、太田省一『テレビ社会ニッポン』(せりか書房) です。著者は社会学者・文筆家であり、テレビと戦後日本社会の関係をメインテーマとしています。本書は、タイトル通りに、テレビ論なんですが、「人はなぜテレビを見るのか?」という問いを発して、回答としては、視聴者が自由を得るためであり、テレビは自作自演的習性、つまり「自分でやったことなのに素知らぬふりをする」習性を持つ一方で、視聴者は番組に出演したり、ツッコミを入れたりしながらも、テレビを実質放置しており、戦後、暗黙の共犯関係によるテレビ社会ニッポンが誕生した、と主張しています。テレビの65年余りに及ぶ歴史を検証し、転換期にあるテレビと視聴者の未来、ポストテレビ社会を展望しようと試みています。 ということで、通例通りに、1950年代のテレビ放送の始まりに際して、プロレス、あるいは、力道山から話が始まります。そして、テレビから放送されるコンテンツとしてはプロレスをはじめとするスポーツはすぐに忘れられて、基本的に、いわゆるバラエティとワイドショーに的が絞られます。ドラマについては目配りされますが、バブル期のトレンディドラマくらいが取り上げられるだけで、ニュース報道にてついてはワイドショーで代表されている印象です。そして、私がもっとも不満に感じているのはアニメがまったく無視されている点です。そして、アニメが無視されていますので、21世紀の現代におけるテレビとゲームの関係がスッポリと抜け落ちています。典型的にはポケモンです。もちろん、ドラえもんやジブリについても、本書では何の言及もありません。ついでながら、ウルトラマンなどの特撮もアニメほどではないにしても、サブカルながら我が国を代表する文化です。忘れるべきではありません。加えて、米国テレビからの影響についても、ワイドショーがスポンサーのヴィックスの関係もあって、NBCの Today をベースにしている点しか触れられておらず、『クイズ100人に聞きました』がABCの Family Fued をベースにしているとかも、まさかと思いますが、ご存じないんでしょうか。テレビ初期の『ライフルマン』や『逃亡者』などについても、我が国テレビ界への影響力という点では忘れるべきではありません。何か所か「テレビが社会になった」という点を力説していますし、有名な「1億総白痴化」も言及されていますが、テレビ業界の内幕を中心とした内容のような気がします。少し物足りない読後感でした。

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最後に、ビル・クリントン & ジェイムズ・パターソン『大統領失踪』上下(早川書房) です。著者は1990年代に2期8年の米国大統領を務め、弾劾裁判にも生き残ったクリントン元大統領と米国の売れっ子エンタメ小説作家パターソンです。英語の原題は The President Is Missing と邦訳タイトルはそのままであり、2018年の出版です。要するに手短かにいえば、タイトルそのままに米国大統領がホワイトハウスから失踪する事件です。そして、どうしてかといえば、米国を標的とする強力なサイバーテロに対処するためです。ということで、現在もしくは近未来をの米国を舞台にしたエンタメ小説であり、サイバーテロリストと電話で連絡を取り合い、そのテロリストが命を狙われていた際にCIAエージェントの1人を犠牲にしてまでもテロリストの命を救った、という嫌疑で議会の公聴会への出席を求められ、場合にっよっては弾劾裁判にも進もうかという男系の米国大統領がホワイトハウスから失踪し、サイバーテロの防止が可能な人物との接触を試みます。そして、結局、ドイツやイスラエルの首脳と協議のうえでカギとなるウィルス無力化のパスワードを探しつつ、国内の対立党との政争や駆け引きに神経を消耗し、さらに、ロシアとの対外関係にも気を配る、というストーリーです。加えて、大統領自身の暗殺を狙うテロリストとシークレットサービスとの攻防戦も見ものです。さらにさらに、で、政権あるいはホワイトハウスの内部にも内通者がいることが明白で、そのあぶり出しや最後のどんでん返しなどなど、エンタメ小説としての面白さが満載です。主人公の米国大統領がどの政党なのかは明記されていませんが、政党のシンボルがロバですから民主党と推察されます。共著者の1人がクリントン元大統領なんですから当然です。そして、私が見た範囲では初めてかもしれないと思うのが、米国大統領が1人称でストーリーを進めている点です。大統領が話者となっている章とテロリストの側の章とが入り混じっているんですが、米国大統領がストーリー・テリングをしている小説なんて、私は初めて読みました。でも、ホワイトハウス内部の事情やシークレットサービスとの関係など、大統領経験者でなければ知りえない情報が盛り込まれているのかもしれません。ミステリとしてのホワイトハウスないし政権の内通者については、かなり底が浅くてすぐに判りますが、エンタメ度はかなり高くて楽しめる読書でした。いつもながら、翻訳者のひとりである越前敏弥の訳はとてもスムーズでリーダブルでした。
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2019年02月23日 (土) 11:24:00

今週の読書は経済の学術書から小説まで計8冊!!!

今週は、いろいろあって、時間的な余裕があり、テキストや学術書をはじめとする経済書など、小説まで含めて、以下の8冊を読んでしまいました。来週はもう少しペースダウンし、その先、3月になればもっと読書は絞り込んでいきたいと考えています。

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まず、大垣昌夫・田中沙織『行動経済学』(有斐閣) です。2014年の初版に続いて、増補改訂版ということで新版としての出版です。著者のうち大垣教授は慶應義塾大学経済学部の、まさに、行動経済学の研究者であり、田中女史はニューロエコノミクスの専門家のようです。ということで、大学の学部後期の学生を大将にした行動経済学のテキストです。もちろん、大学や大学院のレベルによっては、大学院修士課程でも使えそうな気がします。どうでもいいことながら、私が地方大学の経済学部に出向していた折には、「経済財政白書」を学部3~4年生向けの副読本に指定していたんですが、教員によっては大学院修士課程や博士前期課程のテキストとして用いている場合もあると指摘された記憶があります。行動経済学に戻って、本書では、行動経済学について合理的な経済人を前提としない経済学、のように定義していますが、本書の著者も認めているように、合理的と経済人は同義反復であり、循環的な定義である気もします。まあ、それな目をつぶるとしても、合理的でない経済活動、あるいは、それを現実の実験で確かめる経済学ですから、かなりの程度に確率的な経済行動を前提とする点は、本書で何ら明記されていませんが忘れるべきではありません。本書では、支払い意志を表すWTPと放棄する代償価格を表すWTAの概念から始めて、もちろん、アレのパラドックス、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論、セイラーの心理会計、時間割引の指数性と双極性などに議論を進めつつ、プロスペクト理論の参照点の決まり方やシフトの可能性などについての疑問点も明らかにしています。そして、行動経済学の応用分野として幸福の経済学に言及しているんですが、私の常々の主張として、主観的な幸福度は経済政策の目標とすべきではないと、改めて強調しておきたいと思います。本書でもニューロエコノミクスの観点から、幸福度と脳内分泌物質、よく覚えていないんですが、ドーパミンとか、セロトニンとか、オキシトシンとか、の関係が分析されていますが、主観的な幸福度が経済政策の目標になってしまうと、こういった脳内分泌物を促進する薬物を配布するのが経済政策の目標になりかねません。ですから、この観点から主観的な幸福度を政策目標とするにはまだ議論が成熟していないと私は考えます。もう1点、本書の著者の1人はニューロエコノミクスの専門家なんですが、選択理論や幸福度の脳内反応を考える必要がどこまであるかについて、私はまだ疑問が大きいと感じています。別の表現をすれば、脳内活動がブラックボックスのままでも選択理論や幸福度を分析できるんではないか、と私は考えています。まあ、科学者の常として、可能な範囲ですべてを明らかにしたい、という欲求は理解しますが、神の視点は場合によりけりであって、人間の視点からはブラックボックスのままでも十分な分析に耐える場合が少なくないと私は達観しています。

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次に、佐々田博教『農業保護政策の起源』(勁草書房) です。著者は北海道大学の政治学の研究者です。タイトル通りに、明治以来の農業政策を振り返り、現在のような農業保護政策の起源を探っています。その「起源」という場合、著者は明示していませんが、私には2種類の「起源」を探求している気がしています。すなわち、歴史上の起源と農業保護政策の依って立つ理論上の起源、すなわち、本書の用語でいえば、合理的選択論か構造主義制度論か、ということになります。本書では理論上の「起源」というか、根拠については前者の合理的選択論は、役所の直接的なグリップによる政策を実行していないことを論拠に否定的な見方を示しています。そして、本書のスコープは第2時世界大戦までで、そこで少し前までの食料乖離制度が確立した、ということになっていますが、基本的に、第6章でも明らかにしているように、戦前と戦後は連続説に近い見方が示されています。私のようなエコノミストの目から見て奇異に感じたのは、本書の議論はもっぱら政策決定過程だけに着目していて、そのバックグラウンド、すなわち、農業政策に関していえば、食料需給やその価格、あるいは、輸出入と貿易収支などです。私の直感では、戦前は「糸を売って米を買う」貿易でしたし、戦後の現在まで「車を売って油を買う」貿易です。ですから、貿易による輸出入は見逃してはならない視点ですし、需給に従い価格の動きも忘れるべきではありません。わずかにそれに目が届いているのが第4章冒頭の米価に関する部分です。そして、結論としては、小農主義と協同主義が結合して、徳川期までほぼ自給自足だった農業ないし農村に資本主義の波が押し寄せ、農業ないし農村が搾取され疲弊していることから、優秀な軍人の調達にも絡めて、農業ないし農村における資本主義を改造しようという試みではなかったか、との議論を展開しています。しかし、本書でもさすがに何度も繰り返されている通り、農村の疲弊の大きな要因のひとつであった不在地主による寄生的な地主制度については、一向に農政としては手がつけられず、結局、敗戦とGHQによる農地改革を待たねばならなかったわけですから、大きな視点が見逃されている気がします。そして、農政に限らず、例えば、間接金融とメインバンク制とか、長期雇用と年功賃金とかの労働慣行、などは戦後の高度成長期に取り入れられ確立された制度ないし慣行であって、戦前まではバリバリの直接金融でしたし、雇用システムは解雇が容易な現在の米国に近かったようですから、農政についても戦後の鉄の三角形、すなわち、与党=自民党vs農林省vs農協という三すくみの構図が出来上がったのも、本書のスコープ外の戦技高度成長期なんではないか、という気がしないでもありません。

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次に、久保田進彦・澁谷覚『そのクチコミは効くのか』(有斐閣) です。著者は青山学院大学と学習院大学のマーケティング論の研究者です。コンパクトながら、本書はほぼほぼ完全な学術書と考えるべきで、科研費ではないものの、研究と出版の助成を受けています。特に、クチコミの中でも、伝統的なフェイス・ツー・フェイスの伝達ではなく、インターネットの掲示板やSNSなどを介した情報の拡散に焦点を当てており、架空のオンライン英会話レッスンのクチコミを設定して、実験を行った結果得られたデータを解析しています。何分、実際の市場に投入されるサービスを基にしたマーケティングに関する実験ですので、モデルの設定がとても判りやすく、Rhatで1.1かつトレースプロットにドリフトの非定常性が見られないことをもって収束とするなど、常識的な分析を行っています。まあ、当然といえば当然です。分析結果も常識的であり、従来から確認されている正負のバランス効果、すなわち、多数意見に同調しやすく、自らの意見が多数派であることを確認できればその態度が強化されるという点は確認され、次いで、プラットフォーム効果、すなわち、クチコミは広告よりも信頼度が高く、また、プロモーション型のプラットフォームよりもソーシャルなプラットフォームの方に信頼感を覚える、というのも当然です。この研究のオリジナルな点は、疑念効果を確認できたことだと著者は主張しています。すなわち、100%肯定的なクチコミに比較して、50%肯定的なクチコミは、むしろ、否定的なクチコミを抑えて、あるいは、隠しているのではないか、という疑念を起こさせる、という仮説であり、それが実証されています。とても興味深い点です。コマーシャルなどでは、対象となる商品ないしサービスが何らかの、あるいは、絶大なる効果があった、という体験消費者のクチコミを伴う場合、例えば、オンラインECサイトのレビューなどで、否定的なクチコミが交じると、実はもっと否定的な口コミがあって、隠されているんではないか、という疑念を生じる可能性です。しかも、この疑念効果は教育程度の高い人ほど生じやすい、とも分析されています。そうかもしれません。最後に、定量分析ならぬ私の実感ながら、我が国のマーケティング、というか、宣伝広告はまだ未熟な面があり、典型的にはその昔の「霊感商法」的に消費者の恐怖、とまでいわないにしても、何らかの不都合な意識を呼び覚まして売りつけようと試みる場合が、いまだに散見されます。特に健康関係では、血圧が高いとか、コレステロールがどうとか、何らかの消費者の持つ不都合な点を改善するような効果を持つ商品やサービスを宣伝広告することが少なくないように実感します。クチコミを含めて、何らかのネガティブな状態を回避するためではなく、ポジな広告宣伝を私は求めたいと思います。

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次に、笹原和俊『フェイクニュースを科学する』(同人選書) です。著者は名古屋大学の研究者で、専門分野は計算社会学だそうです。タイトル通りに、コンパクトなファイクニュースの拡散に関する入門書となっています。おそらく、伝統的な新聞やテレビ・ラジオなどのメディアには、従来はとても少なかったと考えられるフェイクニュースについて、特に、インターネット上に出回る虚偽情報を騙そうとする意図の強弱によって分類したりしつつ、虚偽情報と一般的な科学情報の拡散の確率密度関数を時間とともに積分したりと、分析手法を展開し、さらに、最終的にはそのフェイクニュースへの対応方法について、メディアリテラシーやファクトチェックによる対抗手段なども議論しています。基本は、私の知る限り、ダンカン・ワッツ教授などの「スモール・ワールド」的なマーケティング手法を政治的なものも含む形で応用させたんだろうという気がしますが、もちろん、伝統的な人は見たいものしか見ないバイアスとか、確証バイアスとか、ネット上の虚偽情報とは関係なく、昔からの人間の心理学上のバイアスはもちろんある一方で、特にネット上で加速・増幅されるチェンバーエコーやフィルターバブルなどのお馴染みの現象も取り上げられています。すなわち、こういったフェイクニュースが広がる現象を、情報の生産者と消費者がさまざまな利害関係の中で、デジタルテクノロジーによって複雑につながりあったネットワーク、つまり、情報生態系(Information Ecosystem)の問題として捉え、その仕組みについて紐解いています。これら中で、私がやや怖いと感じたのは、事実よりも虚偽情報の拡散の方が早く、広く、深い、という実証的な結果です。SNSから得られるビッグデータを用いて、いわゆるビッグファイブの神経症的傾向、外向性、開放性、調和性、誠実性が会う程度予測される、というのは私の理解の範囲だったような気がしますが、本書の著者が指摘するように、ボットや人工知能を逆に国家が悪用して民主主義が破壊される可能性までは想像していませんでした。情報が過多となり、情報折もむしろ人間のアテンションの方が希少になるアテンション・エコノミーがこれから先進むと考えられる中で、消費における購買活動は企業に操作され、投票などの政治的な参加行為も国家に左右されるとなれば、我々一般ピープルは何を根拠に行動すればいいのでしょうか。とても、ブラックな将来が待っているとは思いませんが、本書では何ら言及されていませんでしたが、単に情報に操られるだけではなく、主体的な判断を下すために、いわゆる「健全な常識」というものの重要性を改めて感じました。

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次に、マーク・フォーサイズ『酔っぱらいの歴史』(青土社) です。著者は、ジャーナリストないしライターという感じの経歴です。上の表紙画像に見られる通り、英語の原題も A Short History of Drunke であり、日本語タイトルはほぼほぼ直訳で、2017年の出版です。有史以前の酔っぱらいから始まって、インドを除く世界の古代文明、すなわち、メソポタミア、エジプト、中国における飲酒と酔っ払い、もちろん、古典古代のギリシアやローマにおける饗宴、さらに、中性的な暗黒時代を経て近代にいたり、米国の禁酒法までの酔っぱらいや飲酒の歴史を概観しています。歴史的にはワインやエールのような醸造酒から始まって、ブランデーやウィスキーのような蒸留酒、もちろん、忘れてならないのはジンとウォッカですが、お酒の種類も豊富に取り上げられています。ただ、西洋中心史観であるのは否めず、登用についてはインドはスッポリと抜け落ちていますし、中国も古代文明のころの飲酒だけで、日本や日本酒は見向きもされていません。イスラムの飲酒については、そもそも飲酒が禁止されるまでの経緯を簡単にあとづけた後、飲酒が禁止されてからのさまざまな抜け道を示したりしています。基本的には、そういった井戸端会議でのトピック的な内容がギッシリと詰まっています。例えば、ギリシアの饗宴は名目的なホスト役は置くものの、参加者がそれぞれに平等だったが、ローマの饗宴はハッキリと順序序列が定められており、酒や食べ物にも差があった、とか、英国の名誉革命において君主がオランダから輸入されるとともにジンもオランダから英国に入ったとか、などなどです。また、著者は明記していませんが、私の理解によれば、エールにホップを入れてビールにするのは、ちょうど時代背景などから、肉に香辛料をふりかけるようなものだと実感していまいました。米国における禁酒法の制定・施行は、飲酒に対する嫌悪感からではなく、サルーンにおける男性中心主義的な飲酒慣行や家庭内暴力などに対して反旗を翻していたのである、といわれれば、そうかもしれないと感じてしまいました。私自身はそれほど酒飲みではありませんが、それなりに飲酒の楽しさも知っているつもりですので、とても話題性豊かな読書だった気がします。

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次に、A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち』(岩波書店) です。著者は、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレー校の名誉教授であり、フェミニズム社会学を専門としてます。ファーストネームがイニシャルだけなので判りにくいんですが、女性です。そして、ついてながら、UCバークレイは少し前の我が母校の京都大学のように、米国の中でもリベラル左派の研究者が多く集結する大学である、と目されています。本書でも、右寄りの人から「ヒッピーの大学ね」といった発言を受けたりしています。ということで、英語の原題は Strangers in Their Own Land であり、2016年の出版です。フィールドワークに5年ほどかけているようですので、2016年の大統領選でトランプ大統領が当選したこととは直接の関係はないのではなかろうかと私は推測していますが、随所にトランプ大統領の当選と関連付けた記述が見られます。やや、便乗商法の匂いがするかもしれません。ですから、トランプ大統領の当選の基盤となったのは、中西部のいわゆるラストベルトなんですが、本書のフィールドワークの舞台はディープサウスのルイジアナ州です。まあ、それでも、いくつか米国にける右派の台頭に関しては妥当な分析結果も多く示されており、例えば、左右の分極化は左派がもっと左に行ったのではなく、右派がもっと右に行った結果であるとされています。私もそのとおりと考えます。現在では「オルタナ右翼」ないしオルト・ライトという用語が確立していますが、そのオルト・ライトの源流を探ろうとしています。そして、オルト・ライトの人々は、リベラルよりもむしろ、学歴が低く、従って、所得も低く、あるいは、シングル・マザーも多く、ゆえに、社会保障をより必要としていて政府の援助を求めて当然なのにもかかわらず、それでも大きなsウィフに反対するというパラドックスが存在すると指摘し、その背景のディープストーリーを探ろうと試みます。ひとつには、左派の上から目線で軽蔑されていると感じた右派の人々が、右翼的なラジオのパーソナリティや教会の聖職者に親近感を覚えたりするルートを上げています。自分たちはお行儀よく列に並んで順番を待っているにもかかわらず、オバマ大統領や左派リベラルの人たちは移民や黒人や女性が列に割り込むように仕向けている、と感じているのかもしれない、と著者は主張します。繰り返しになりますが、トランプ大統領当選の直接の要因を探ろうとした調査分析ではありませんが、南部を中心とするオルト・ライトのバックグラウンドを知るための詳細なルポルタージュとして評価されるべき書だと私は思います。何といっても、直接選挙なんですから。

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次に、バンディ・リー[編]『ドナルド・トランプの危険な兆候』(岩波書店) です。編者と各チャプターの著者の多くは精神科の医師であり、タイトル通りに、米国のトランプ大統領に関して精神科医師としてコメントを明らかにしている書物です。核ミサイルの発射ボタンに対する独占的・排他的かつ圧倒的な権能を有し、そのた、各種の巨大な権力を手中に収めた米国大統領として、広い意味での適格性では決してなく、精神科医としての見解を明らかにしています。軽く想像される通り、その結果は、ソシオパス=社会病質という診断結果から始まって、病的ナルシシズムや刹那的快楽主義者など各種の精神病質のオンパレードになっています。ということで、本書は、リフトン博士やハーマン博士などの海外でも著名な専門家を筆頭に、全米から精神科医・心理学者たちが、アイビーリーグの名門イェール大学で行われたコンファレンスで交換された意見を基に編集されています。しかし、医師が患者の病状を明らかにするのは、当然に、守秘義務違反であることは先進国で共通とは思いますが、米国の精神医学会では、加えて、ゴールドウォータールールとして、直接診断していない有名人に対して精神科医がコメントを出してはいけないという倫理規定があるそうで、それに明確に反している可能性も本書では繰り返し指摘しつつも、それでもその職業倫理規定に反してでも警告を発することが必要であり、より「大きな利益」につながる、と確信して本書は公刊されています。もちろん、臨床的にトランプ大統領を専門家として診断した精神科医はいないでしょうから、テレビなどの動画や新聞などのテキストで収録された発言などから、精神状態やひいてはかなり人格に近い部分まで推測を交えつつも断定的な結論を得ようとしています。ゴールドウォータールールとは、本書にもあるように、ジョンソン大統領との選挙戦において共和党のゴールドウォーター候補が、ソレントの冷戦下で核兵器の使用を是認する発言を繰り返したのをもって、パラノイアもしくは妄想型統合失調症の診断を下した何人かの精神科医の意見を収録した雑誌が裁判で敗訴した事件に起因します。ですから、核兵器を持っていながら使わないのは意味がないとの旨の発言をしたトランプ大統領もご同様の診断を下される可能性はあるわけです。私自身の見方としては、ゴールドウォータールールと職業倫理との関係については見識ないものの、トランプ大統領ご本人というよりも、当選者は選挙民の民度を反映するわけですから、トランプ大統領を当選させた米国国民こそ何らかの精神医の診断が必要ではないか、という気がします。

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最後に、上田早夕里『破滅の王』(双葉社) です。作者は、私の好きなSF作家なんですが、イタリア料理店を舞台にした短編もありますし、この作品はで戦時下の上海を舞台に細菌兵器のドキュメンタリに近い小説に取り組んでいて、この作品は直木賞候補になったような記憶があります。ということで、1948年、上海自然科学研究所で細菌学科の研究員として働く宮本を主人公とし、陸軍の特殊工作部隊に属し大使館附武官補佐官を務める灰塚少佐をサブに、灰塚から宮本が日本総領事館に呼び出され、総領事代理の菱科とともに、重要機密文書の精査を依頼されるんですが、その内容は驚くべき内容で、R2v=キングと暗号名で呼ばれる治療法皆無の細菌兵器の詳細であり、しかも論文は、途中で始まり途中で終わる不完全なものだったうえに、ほかのパーツが他国の公館にも送付されていたりしました。宮本は治療薬の開発を任されるものの、それは自国の兵士が安全に散布できるという意味で、取りも直さず、細菌兵器を完成させるということを意味していたわけです。もちろん、背景には人道にもとる人体実験を繰り返していた満州の石井部隊があり、ご本人もこの小説に登場します。そして、実在の石井にも負けないくらいのマッド・サイエンティストが登場し、灰塚は情報を追ってベルリンまで行ったりもします。そして、ベルリンにもマッド・サイエンティストがいたりするわけです。この作者の作品では、SF小説とイタリア料理店ものしか読んだことのない私なんですが、作者の新境地かもしれません。なかなか、力の入った大作なんですが、それだけに、逆にスピード感が足りない気もしました。歴史的事実とフィクション、というか、小説の境目を意図的にぼかしている気もしますが、それはそれで、功罪相半ば、という気もします。直木賞候補作ながら、受賞に至らなかったのも理由があるのかもしれません。
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2019年02月16日 (土) 17:11:00

今週の読書は特に印象的な『NEW POWER』をはじめとして計7冊!

今週の読書は、通常通りの数冊、経済書からウィルス論まで、以下の7冊です。ただ、その中で、ジェレミー・ハイマンズ & ヘンリー・ティムズ『NEW POWER』(ダイヤモンド社) がとても印象的でした。まだ2月半ばながら、今年のマイベストかもしれません。なお、今週は小説はありませんが、来週は小説も読みたいと予定しています。

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まず、橘木俊詔『定年後の経済学』(PHP研究所) です。著者はご存じ京都大学を定年退職したエコノミストであり、専門は労働経済学などのマイクロな経済分析です。私は少しだけながら面識があることから、きっと、もっと仕事がしたいというワーカホリックな著者の意向を強く反映して、定年制に対する著者ご本人の否定的な見解が満載されているのではないかと想像していたのですが、決してそうではありませんでした。書き出しこそ、海外では日本のような定年制は年齢による差別と受け取られる、とかで始まっているものの、定年制攻撃はなされていません。もっとも、上の表紙画像の帯に見られるような従来からの主張である格差論を展開しているわけでもなく、最終第6章を別にすれば、むしろ、淡々とタイトル通りの定年後の生活や諸制度を経済学を援用しつつ分析ないし解説しています。ただし、マクロもミクロも経済制度や経済現象を単独で取り出しても仕方ないところがあり、定年制についても雇用制度全体の中で考える必要があります。その点で、本書はやや私とは視点が異なり、通常の理解のように、終身雇用ないし長期雇用の中で若年期間は生産性を下回る賃金が支給され、逆に、中高年齢層には生産性を上回る生活給的な賃金が支払われる、という高度成長期に確立した我が国特有の雇用慣行と併せて考える必要があります。すなわち、長期雇用慣行の下では、どこかで賃金上昇をストップさせるか、そうでなければ、雇用そのものをストップするしかないわけです。本書では、退職金が長期雇用や生産性に比較した賃金支払と関連付けて論じられていますが、タイトルである定年制とは関係する議論はありません。本書でも引用されているラジアー教授による、我が国長期雇用との関連の仮説は、退職金ではなく定年制とリンクしていると考えるべきです。加えて、我が国の労働市場や社会保障制度において、かなり常軌を逸して恒例世代に有利で若年世代に不利な制度や慣行が成立してしまっています。先ほどの生産性と賃金の関係もそうですし、政治的な力関係で決まりかねない社会保障についてはもっとそうで、高齢世代をやたらと優遇する制度設計になっています。それを断ち切って若年世代の雇用を促進するため、私は年齢による差別であっても定年制の存在意義はあるものと考えています。ただ、平均的な日本国民と比較しても勤労意欲が決して高くない私ですら働き続け8日と考えざるを得ない背景には所得を得ねばならないという悲しい現実があります。その視点も本書では希薄ではなかろうかという気がします。

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次に、要藤正任『ソーシャル・キャピタルの経済分析』(慶応義塾大学出版会) です。著者は、国土交通総研の研究者であり、出版社からしても、かなりの程度に学術書に近いと考えるべきです。ということで、定義が今ひとつはっきりしないながら、『孤独なボウリング』で有名なパットナム教授による集合行為問題、すなわち、相互の信頼性とか、互酬性とかの人と人とのつながりを肯定的に捉えようとする姿勢、その集合体としてのソーシャル・キャピタルについて、定義と定量化を考え、また、いかに形成されるか、あるいは、世代間で継承・共有されるか、地域社会に有意義なフィードバックが及ぶか、などなどにつき、国際機関などでの研究をサーベイしつつ、また、可能な範囲でフォーマルな定量分析を試みています。伝統的な経済学では、企業は利潤を極大化しようとすますし、個人または家計は効用を最大化しようとします。そして、古典派経済学ではスミスのいうような神の見えざる手により、個々人が慈悲心ではなく利己的な効用最大化を図ることにより、社会的な分業体制のもとで市場が最適な資源配分の基礎となる、ということになっています。でも、ケインズがそのマクロ経済学で明らかにしたように、景気循環は市場経済では緩和されませんし、ナッシュやゲーム理論化が明らかにしたように、何らかの協力の下でゲーム参加者互いの効用をもっと公平に、あるいは、大きくすることも可能です。本書では、伝統的な経済学から外れはするものの、ソーシャル・キャピタルについて地域経済との関係を主に分析を進めています。ただ、まだ未成熟な研究分野ですので、やや勇み足のように先走った分析も見られます。例えば、幸福阻止表のようにGDPを否定する、とまでいわないものの、一定の代替性を認めておきながら、ソーシャル・キャピタルと1人当りGDPで代理した豊かさを回帰分析しようと試みたりしています。でも、一昨年ノーベル経済学賞が授賞された行動経済学や実験経済学などのように、合理性豊かな経済活動を前提にするのではなく、より根源的な人間性に根ざした経済分析として、まや、幸福度指標などとともに、国際機関での研究も盛んですし、今後の注目株かもしれません。

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次に、ジェレミー・ハイマンズ & ヘンリー・ティムズ『NEW POWER』(ダイヤモンド社) です。著者は、本書の著者は、amazonのサイトでは「ハーバード大、マッキンゼー、オックスフォード大などを経て、現在は、ニューヨークから世界中に21世紀型ムーブメントを展開しているハイマンズと、約100か国を巻き込み、1億ドル以上の資金収集に成功したムーブメントの仕掛け人であり、スタンフォード大でも活躍するティムズ。」と紹介されています。判る人には判るんでしょうが、ニューパワーとは縁遠い公務員の世界に長らく働く私にはよく判りませんでした。ということで、パワーをバートランド・ラッセルに基づいて「意図した効果を生み出し能力」と定義し、統制型からシェア型へ、競争からコラボへ、また、プロからアマへ、などなど、BREXITのレファレンダムやトランプ米国大統領の当選などのあった2016年あたりを境にして、ここ2~3年で大きく変化した新しい世界のルール、法則を解明しようと試みています。オールド・パワーとニュー・パワーを対比させていますが、前者が非効率とか、あるいは広い意味でよくないとか、また、前者から後者にこれからシフトする、とかの単純な構図ではなく、両者のベストミックスの追求も含めて、いろんなパワーや影響力の行使のあり方を考えています。いろんな読み方の出来る本だという気がしますが、私のようなエコノミストからすれば、あるいは、そうでなくても広く一般的にビジネス・パーソンなどは、企業における組織や企業行動のあり方とか、イノベーションを生み出す源泉とか、経済活動について古典派経済学的な家計の効用最大化や企業の利潤極大化に代わる経済社会の新たなあり方、などの方向付けとして読まれそうな気がします。強くします。繰り返しになりますが、今年に入ってまだわずかに1か月半ながら、ひょっとしたら、今年もマイベストかもしれません。長々と私ごときが論評するよりも、ハーバード・ビジネス・レビューのサイトに原書の解説で "Understanding 'New Power'" と題して掲載されている記事から2つの図表、邦訳書ではp.51とp.65の本書のキモとなる図表2つを引用しておきます。これで十分ではないかと思います。
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邦訳書にはないんですが、下の図表には、執務室のオバマ大統領はオールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいていたのに対して、選挙活動中のオバマ大統領はニューパワーのモデルとニューパワーの価値観に立脚していた、とされる点です。また、邦訳書でもフォーカスされていますが、アップルはiPhoneなどを出しているにもかかわらず、オールドパワーのモデルとオールドパワーの価値観に基づいて企業活動を行っていると著者は理解しているようです。どちらも、そうかもしれません。

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次に、小路田泰直・田中希生[編]『明治維新とは何か?』(東京堂出版) です。著者は、私の専門外でよく判らないんですが、どちらも奈良女子大学の研究者です。基本は、歴史学の視点から、明治維新150周年を記念して奈良女子大学で開催された公開セミナーの講演録となっています。ただ、歴史学だけでなく、政治学の視点も大いに入っているような気がします。ということで、編者の1人による冒頭の「刊行にあたって」では、明確に明治維新に対する講座派的な見方が否定されています。その上で、本書が皇国史観に基づいているとは決して思えませんが、本居宣長や平田篤胤などのいわゆる国学に則った見方が引用されたり、神話にさかのぼった天皇観が示されたりと、私にはとても違和感ある明治維新観の書となっている気がします。私は大学のころには西洋経済史のゼミに属していましたが、いわゆる労農派的なブルジョワ民主主義革命でなく、明確に講座派的な見方が明治維新については成り立つと考えています。すなわち、特に、私の見方では、土地所有制度と農業経営において、英国的な借地と地代支払いに基づく資本主義的な農業経営ではなく、さすがに土地緊縛や領地裁判権はないとしても、封建制の残滓を大いに残した前近代的な特徴を持った不完全な資本主義制度の成立であったことは明らかです。ですからこそ、戦後のGHQによる大きな改革の中に農地開放と労働民主化が含まれていた、と考えるべきです。まあ、そのひとつの結論として二段階革命論というのがあるわけですが、それはともかく、我が国経済史学界で最大の影響力を持つ大塚史学でも日本の民主主義の担い手として自由で独立した市民社会が形成されていたとは見なされておらず、少なくとも、経済史の分野では、明治維新が不徹底なブルジョワ民主化であったという評価は、かなりの程度に確立された見方だという気がします。神話や国学にさかのぼった解釈が主を占める本書が、その明治維新の本質をどこまで解明できたのか、私には大きな疑問が残ります。

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次に、浅古泰史『ゲーム理論で考える政治学』(有斐閣) です。著者は早稲田大学の研究者であり、タイトルは政治学となっていますが、実は、著者のアカデミック・コースは一貫して経済学分野だったりします。それはともかく、読んでいるわけではないものの私が知る限り、政治学に関するゲーム理論のテキストはジェイムズ・モローによる『政治学のためのゲーム理論』(勁草書房)であり、邦訳書は割合と最近ここ2~3年の出版ですが、原書が1990年代なかばとかなり古く、ゲーム理論の最近の伸展を見るにつけ、本書のような数式でキチンと表現されたフォーマルなモデルを扱うテキストも必要という気がします。ただし、ゲーム論のモデルとしてそれほど数学表現されておらず、どこまで有効なのかは専門外ながら、はなはだ心もとない気もします。すなわち、単なる仮の数字を当てはめての確率計算に終止している気もしないでもありません。それから、著者の元のホームグラウンドが経済学ですので、かなり集合的なモデル表現になっている気がします。すなわち、経済学のモデルでは、一方で、企業部門ではたったひとつの企業がすべての財を生産し、かつ、すべての労働を需要しつつ、他方で、家計部門は代表的なたったひとつの家計がすべての財を購入・消費しつつ、かつ、すべての労働を供給する、と考えればそれでこと足りる気もしますが、政治学ではそれなムチャに単純化しすぎたモデルだろうと私は考えます。すなわち、本書冒頭の選挙についても、単純化されたモデルとはいえ、投票先として与党と野党、投票する国民というか、有権者としてコアな与党支持者とコアな野党支持者と浮動票、くらいの分類は必要ではないか、と考えるのは私のようなシロートだけなんでしょうか。加えて、政治学では何らかの利益・不利益の分配に関する調整が行われる過程を分析する場合も多そうな気がするところ、そういったモデルは扱われていない気がします。まあ何と申しましょうかで、物理学を数少ない例外として、こういった専門の経済学以外の学問分野のモデル分析を勉強するにつけ、私のようなエコノミストから見てもモデルの欠陥が目につくんですから、他の分野の専門家が経済学のモデルを見ると、いい加減で現実適用性が低い、と受け止めているんだろうなあ、という気がしてしまい、我と我が学問分野を振り返って反省しきりとなってしまいます。

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次に、稲田雅洋『総選挙はこのようにして始まった』(有志舎) です。著者は社会学の研究者であり、かなりのご年配です。第6章まである構成をお考えだったようで、議会と立憲政治をテーマにしたかったようですが、年齢や体調との関係で4章構成の第1回総選挙に的を絞ったようです。そして、本書もまた、コミンテルンの32年テーゼを基とする講座派的な第1回総選挙やその結果として成立した議会=衆議院を「地主の議会」とする従来からの支配的な見方に対するチャレンジと志しています。ということで、まず、おさらいですが、1890年の第1回総選挙、すなわち、衆議院議員選挙は25歳以上成年男子が選挙権と非選挙権をもつんですが、制限選挙であり、直接国税15円以上の多額納税者に選挙権も被選挙権も限定されていました。それも地租なら1年、所得税なら3年の継続期間が必要でした。衆議院議員がほとんど地主とされる根拠のひとつですが、著者はこれを否定します。すなわち、第1章では候補者に焦点を当てて、特に民権派議員の中にとても地主とは思えない中江兆民とかが入っており、その背景に、こういった民権派活動家などを議会に送り出したい人々が土地の名義や税金支払人の名義を書き換えて、これらの民権派活動家などを財産家に仕立て上げた、という点を第1章で強調しています。候補者ご本人が議員になりたかった場合をwin-win型と命名し、そうでない場合を勝手連型と本書では名付けています。そうかもしれません。その上で、第2章では、選挙の有権者にスポットを当てて、今でいうところの「1票の格差」を取り上げ、確かに、地方では地主が有権者が多くを占めていたものの、1票の格差からそれほど多くの議員を選べず、地主が少なかった都市部の1票の重みの方が10倍近い格差でもって議員を選ぶウェイトがあった、と結論づけています。さらに、第3章では当選人の分類を試み、第4章では民権派の圧勝に終わった栃木県と、逆に、民権派がほとんど当選しなかった愛知県をケーススタディとして取り上げています。まあ、いろんな考えから、コミンテルン32年テーゼに従った講座派的な歴史観に異を唱えるのは判らないでもないですが、本書で明記しているように、ソ連の崩壊をもってコミンテルンのテーゼがすべて無効になったとする考え方には私は同意できません。明治維新に対する歴史観も含めて、明治期の土地所有制が半封建的な寄生地主であったことは明白ですし、第1回総選挙の結果の衆議院議員が地主でなくても、講座派の歴史観を否定することにはつながらないような気がします。

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最後に、山内一也『ウイルスの意味論』(みすず書房) です。著者は獣医学が基本ながら、北里研究所や東大で研究者を務めたウイルスの専門家です。ただ、90歳近い年齢ですから、現役ではないのかもしれません。本書は月刊「みすず」の連載を単行本化したものです。ということで、単なるウイスルに関する書物ではなく、なかなかに難解な「意味論」がついています。ただ、私は専門外ですので、どこまで理解したかは自信がありませんが、「意味論」の部分は関係なくウイルスに関して現時点で、どこまで科学的な解明がなされているかを明快に取りまとめています。まず、本書でもひとつのテーマとなっているんですが、ウイルスは生命あるいは生物であるのかどうか、NASAの地球外生命探査計画で定義された「ダーウィン進化が可能な自立した化学システム」も援用しつつ、私の理解した範囲では、細胞内にあるときはウイルスは生命・生物であり、細胞外にあるときは無生物、ということになりそうです。もちろん、この生物・無生物の定義の他にも、根絶された天然痘ウイルス、まだ根絶されていないものの、かなり抑え込まれた麻疹ウイルス、などの人間界から閉め出されつつあるウイルス、もちろん、逆に、人間だけでなく昆虫などと共生し何らかの利益をもたらすウイルス、さらに、海中などの水の中に多数存在するウイルスなどなど、私のようなシロートにもそれなりに判りやすいウイルスのうんちく話を詰め込んでいます。通常の理解では、ウイルス=病気、怖くて予防すべき、と考えがちで、おおむね、その通りなんでしょうが、そうでない例外も少なくない点を含めて、いろんなトピックがいろいろと盛り込まれています。まあ、専門外の読書でしたので簡単に切り上げておきます。
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2019年02月09日 (土) 10:12:00

今週の読書は本格的な経済の学術書からテレビドラマの原作まで計8冊!

今週の読書は、数式がいっぱい詰まった本格的な経済学の学術書や話題のAIと雇用の関係を論じた経済書から、TBSで放送中のテレビドラマの原作ミステリまで幅広く、以下の8冊です。来週の読書に向けた図書館回りは、降雪のために自転車に乗れずにすでに諦めて、明日になる可能性が高くなっています。今週と同じ8冊には及びませんが、来週もそれなりに数冊は読みそうな勢いです。

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まず、柳川範之[編]『インフラを科学する』(中央経済社) です。著者は東大経済学部の研究者であり、本書は国土交通省のスポンサーで出版されているようです。第1部は主として交通インフラの経済分析を実証的に行っているんですが、私のような不勉強なエコノミストには理解が難しいくらいのレベル感です。第2部の都市の経済学とともに、ほぼほぼ学術書のレベルであると考えて差し支えありません。ということは、一般的なビジネスパーソンには難しすぎる可能性が高いと私は考えています。ただし、この点については編者や各チャプターの著者も十分に意識しているようで、各章の扉で「本章のねらい」、「本章を通じてわかったこと」、「政策的な示唆・メッセージ」を簡潔に提示し、各章の冒頭と最終節もねらいやまとめになっているため,、何と申しましょうかで、たとえ専門的な予備知識がなくても、この部分だけ立ち読みでもすれば、それなりに本書を理解できた雰囲気になれるように配慮されています。その上、結論がかなり常識的で、定量的な分析にはそれなりに意味あるものの、インフラの効果がプラスかマイナスかくらいは誰にでも理解できるでしょうから、まあ、定量的な分析が肝なんですが、それが判らなくても方向性は直感的に理解できるものと思います。もちろん、定量的な分析でなくても、英国の交通省による広義の経済効果として第1章にあるように、集積の経済、競争促進効果、不完全競争市場における生産拡大効果、雇用改善に伴う経済便益、とかも先進国の事例の勉強にはなります。経済学的ではないかもしれませんが、第2部の都市の経済学もそれなりに興味深かった気がします。EBPM(Evidence Based Policy Making)に関心が集まり、このような定量分析の学術書も出版されているんですが、ただ、その基となる統計データに信頼性なければ定量分析も「絵に描いた餅」です。それから、インフラの経済のもととなる集積の経済はそうなんですが、行き過ぎると混雑の不経済に転化する可能性も否定できません。そのあたりの分析はスポンサーとの関係で割愛されているのかもしれません。

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次に、スティーヴン K. ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』(日本経済新聞出版社) です。著者はカリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の政治学の研究者であり、本書冒頭の謝辞に登場し『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著作で有名なエズラ・ヴォーゲル氏の何らかの縁戚ではないかと私は想像しています。よく知りません。上の表紙画像に見えるのとは異なり、英語の原題は Marketcraft であり、2018年の出版です。原題からも明らかなように、日本に限定した分析ではなく、日米を並べて論じています。まず、市場について、市場と政府規制を二律背反的あるいは対立的にとらえるのではなく、古典派経済学の考えるような完全市場というものは存在せず、市場には法と慣行と規範が必要であり、政府はそれらを市場に与えることができる、ということから始まります。その上で、ややステレオタイプな見方という気もしますが、英米の自由市場型経済と日独のような調整型市場経済をモデル化して議論を展開し、実は、調整型市場経済よりも自由市場型経済の方こそ政府の関与が必要と説いています。そして、「失われた20年」とかの日本経済の失敗は、自由市場型経済に移行するための規制緩和や政府関与の縮小が出来なかったからではなく、むしろ、政府関与の増加を含めたマーケットデザインに失敗したためである、と結論しています。もちろん、市場に関与する政府のあり方にはいろいろあって、日本だけではなく米国でもカリフォルニアの電力供給の例を引いて、さまざまな政府によるマーケットデザインの失敗も論じていますし、何といっても最大のマーケットデザインの失敗の結果が過剰なリスク・テイクに起因する2008年のリーマン・ショックであると結論しています。ただ、私のようなエコノミストからすれば、市場というメカニズムは資源配分とともに所得分配の場でもあると考えるべきであり、従来は資源配分は効率を重視して市場に任せた上で、その結果たる所得については政府が再分配を行う、という役割分担だったんですが、ややこの点が混同されているような部分もあります。加えて、私には非常に判りやすくて受け入れやすい分析だったんですが、2点だけ経済学的な論点を提示すると、ルーカス批判や合成の誤謬が生じる可能性を指摘する必要があります。すなわち、政府のマーケットデザインに対して、国民が事前の予想とは異なる反応を示す可能性があるとともに、本書では一貫してインセンティブに対するマイクロな反応を論じていますから、マクロ経済的にマイクロな反応の積み上げが合成の誤謬を生じる可能性も否定できません。ただ、繰り返しになりますが、なかなか日米経済の本質を的確についた政治学者による経済の分析だという気がします。

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次に、岩本晃一『AIと日本の雇用』(日本経済新聞出版社) です。著者は経済産業省出身の研究者です。タイトルにあるAIと雇用については、英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる大きな雇用減少の可能性に関する研究成果と、それを真っ向から否定する米国マサチューセッツ工科大学(MIT)オーター教授の論陣なんですが、本書の著者は圧倒的に後者の論拠によっています。人間の脳をそのままエミュレートするかのようなカートワイツ流の2045年のシンギュラリティは否定される一方で、確かに、ルーティンに基づくお気楽な事務職や定形作業はAIやロボットに取って代わられる一方で、高度なスキルが要求される専門職・技術職で雇用は増加し、さらに、やや不都合な真実ながら、未熟練労働による低スキル職も増加する、という見立てです。そのあたり、本書は6章立てで構成されていて、前半3章の分析は、オーター教授の分析に基づいて、それなりに私も同意する部分が多いものの、後半3章は、どうも日本企業の競争力維持に大きな関心が払われているようで、ややピント外れな気もしました。最後に、本書の著者は鋭くも、私と同じで、ロボットやAIの活用が進めば、雇用とともに分配の問題が重要となり、ベーシック・インカムやロボット税の問題も浮上するといいつつも、本書ではスコープ外とされているようで、そこはやや残念です。まあ、そのほかにも、タイトルにひかれて読んだんですが、MITオーター教授の見方を紹介している以外には、それほど参考になるところはありませんでした。野村総研(NRI)がかなりオックスフォード大学フレイ-オズボーンの見方に肩入れしていますが、経済産業省や経産研はこれに対抗してMITオーター教授の方に肩入れするんでしょうか。私のような部外者からすれば、なかなか見ものかもしれません。

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次に、アニンディヤ・ゴーシュ『Tap』(日経BP社) です。著者はニューヨーク大学のビジネス学の研究者です。英語の原題も Tap であり、2017年の出版です。私も著者も合意しているのは、最近のICT技術の発展や特にスマホの登場による経済社会のもっとも大きな変化は生産性向上などの生産現場におけるものではなく、娯楽を含めた消費行動に及ぼした影響に起因します。そして、その消費行動への影響については、エコノミストたちの行動経済学をあざ笑うかのように、マーケターが定量的な分析も含めてキッチリと把握し切っているように私は考えています。上の表紙画像にあるように、ついついスマホで買ってしまう大きな原因は宣伝です。市場とは情報の塊と考えられますから、購入行動を促す情報が実に適切に提供されている、ということもできます。そのモバイル・マーケティングの9つのコンポーネントがp.73に示されています。すなわち、場所、時間、顕著性、混雑度、天気、行動履歴、社会的関係、テックスミックス、そして状況です。購入場所に近い位置に消費者がいれば宣伝効果は上がります。ただ、距離の壁はクーポンの割引率で代替することは可能なようです。そして、必要とする時より早過ぎても、逆に、時間的な余裕がなくても宣伝効果は薄く、タイムリーな宣伝こそ必要です。顕著性というのは検索でヒットした順番であり、パソコンでの検索ではトップともっと低い出現順位でも大きな差はありませんが、モバイルの場合は検索の出現順位が大きくモノをいいます。混雑度については、通勤電車などで適度に混雑していればスマホに逃避する場合もあります。天気はいうまでもありません。温度が高ければビールやアイスクリームの売上に大きな影響を及ぼします。社会的関係というのは判りにくいかもしれませんが、人は1人で買い物をする時よりも2人の時の方が、さらに、3人の時の方が宣伝広告に敏感に反応するらしいです。もっとも、2人の場合が男女のカップルであるときは例外的に宣伝広告に反応しません。まあ、そうかもしれません。ただ、本書の著者もハッキリと書いているように、宣伝広告がすべてではありません。マネーボール分析をしたからといって、ワールド・シリーズで優勝できるわけではありません。言外に、消費者に評価の高い製品作りが必要、とモノ作りの重要性が示されているような気がしました。

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次に、照井伸彦『ビッグデータ統計解析入門』(日本評論社) です。著者は東北大学経済学部に在籍する研究者であり、本書は「経済セミナー」に連載されていたシリーズを単行本化したものです。上の表紙画像に見られるように副題は「経済学部/経営学部で学ばない統計学」となっていますので、ついつい借りてしまいました。まず、150ページ足らずのコンパクトな入門編テキストながら、完全な学術書であり、読みこなすにはそれなりの専門性が要求されると考えるべきです。難解な数式もいっぱい登場します。巻末の補論が基礎事項の確認と題されており、確率統計、行列と分散共分散行列そして回帰分析のそれぞれの基礎を展開していますので、この部分にザっと目を通して本書のレベルを確かめた上で取り組むかどうかを考えた方がいいような気がします。ただ、ソフトウェアについてはRを基本にしたパッケージで解説されていますので、Rのユーザであれば取り組みやすい気もします。私も著者のサイトですべてのRのプログラム・コードやCSVに格納されているデータをダウンロードして目を通したり、走らせたりしたわけではありませんが、座学的に本を読んで理解しようとするより、実際にパソコンでプログラム・コードを走らせると理解度が違ってくるのは何度も経験しました。したがって、計量経済学については、理論的なテキストで勉強するよりも、実務的にSTATAやEViewsなどのソフトウェアの解説書で勉強した方が身についた気もします。本書では第2章のベイズ統計に関する部分のハードルが高そうな気がしますが、私なんぞの実務家にしてみれば、第6章あたりのリッジ推定の方が判りやすかったりしました。もっとの、リッジ回帰の拡張版であるLASSO回帰は初めて知りましたので、人生60歳を迎えても、まだまだ勉強する必要があるようで、進歩の速い分野とはいえ、なかなかタイヘンです。

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次に、フランチェスコ・グァラ『制度とは何か』(慶應義塾大学出版会) です。本書も出版社から明らかなように学術書です。著者はイタリアのミラノ大学の政治経済学の研究者です。原初はイタリア語ではなく英語であり、原初のタイトルは Understanding Institutions であり、2016年の出版です。ということで、著者は制度について議論を展開しており、本書でもエコノミストとしてノーベル経済学賞を授賞されたノース教授らの制度学派が取り上げられています。制度のタイプとしては、結婚、私有財産、貨幣にフォーカスされており、均衡アプローチとルール・ベースのアプローチの両方について解説されていますが、私の印象では後者に重点が置かれているように感じました。ただ、ルール・ベースのアプローチだけでは、どうしてゲームに加わる参加者がルールに従うかについて説明できないとしており、インセンティブが果たす役割が強調されています。逆に、すべてのゲーム参加者がルールに従った行動をとるという空想を全員が共有して、それを信頼する限り、システムは問題なく機能する一方で、信頼性に欠けるようになればシステムに綻びが生じる、その典型例がサブプライム住宅証券で起こった、と指摘してます。本書で取り上げられているうちでは、エコノミストとしては貨幣、もちろん、fiat money である不換紙幣について着目したんですが、金本位制下の兌換紙幣と違って、現在の不換紙幣は、誰もがアクセプトするという確信の下に流通しています。もちろん、政府が強制通用力を持たせている点も重要ですが、人々の革新の方が重要ではないかと多くのエコノミストは考えています。ただ、本書ではインフレに対する考察が少し弱い気がします。貨幣の流通とインフレについては、本書でも決して無視されているわけではありませんが、例えば、マートン的な自己実現的予言では取り上げられておらず、また、やや要求レベルが高い気もするものの、動学的な考察や分析もあっていいんではないか、と思ってしまいました。繰り返しになりますが、本書もほぼほぼ完全に学術書ですので、私もそれほど十分に理解したとは思えません。読みこなすにはそれなりの素養が求められるかもしれません。

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最後に、加藤実秋『メゾン・ド・ポリス』『メゾン・ド・ポリス 2』(角川文庫) です。ご存じ、TBSで放送中の高畑充希主演のテレビドラマの原作です。小説の原作ベースでは、初刊に5話、第2巻に4話の短編ミステリが収録されています。本書を読んで判る人は判るんでしょうが、人物相関図についてはTBSドラマのサイトで確認しておいた方が手早く理解できるかもしれません。ただ、ドラマでは瀬川草介は買い物コーディネータ、というか、出入りのご用聞きで、よくシェアハウスで油を売っていたりするんですが、原作では主人公の女性刑事ひよりが通うバー ICE MOON のバーテンダーです。また、大きな違いはないのかもしれませんが、ひよりの父はドラマの相関図チャートでは死んだことになっていますが、原作では失踪とされています。ただ、私はテレビドラマの方はほとんど見ていませんので、ストーリーの違いはよく判りません。ということで、難易度の高い事件が発生すると、主人公の女性刑事ひよりが退職警察官が居住するシェアハウス「メゾン・ド・ポリス」を訪問しては、立派に事件を解決する、というのが基本となるストーリーです。シェアハウスのオーナーと管理人と居住者は基本的に退職警察官で、すべて定年退官なんですが、管理人の手伝いの西島秀俊演ずる夏目だけは、準主役級ながら、わけあって50歳と中途で辞職しています。その理由は初刊第3話に初めて登場し、小説では初刊第5話で完結します。しかし、夏目は第2巻でも引き続きシェアハウスに登場し、事件解決に当たります。そして、第2巻では、原作小説で10年前から失踪となっている主人公ひよりの父親の件についても、最終第4話でほぼほぼ解決されます。主人公のひよりの父親の失踪も、準主役の夏目の辞職も、どちらも個人的な恨みつらみや金銭トラブルなどではなく、いわゆる「大きな物語」に起因していることに設定されており、決してなぞ解き主体でフェアな本格ミステリではありませんが、なかなか壮大なストーリー展開が楽しめます。
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2019年02月02日 (土) 11:15:00

今週の読書は経済史から小説まで計7冊!

今週も、経済書や経営書をはじめとして、化学や歴史に関する教養書に、朝日新聞に連載されていた小説など、計7冊、以下の通りです。今週もすでに図書館回りを終えており、来週の読書も充実した内容になるような気がします。

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まず、ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』(人文書院) です。著者はベルリン自由大学をホームグラウンドとしていた歴史学の研究者であり、経済史にも通じているようです。ドイツ語原題は Geschichte des Kapitalismus であり、2017年の出版です。前近代のころから記述を始めた資本主義の通史なんですが、ボリューム的には極めてコンパクトです。したがって、というわけでもないんでしょうが、産業革命についてはほとんどスコープの対象外となっており、ポメランツの『大分岐』などをチラリといんよすしているだけで、私は少し不満に思っていたりします。マルクス主義的な経済史にも十分通じている印象です。私の考える資本主義とは基本的に近代と同義であり、政治的には個人の基本的人権や自由などを構成要素とする民主主義の定着を見つつ、経済的には奴隷制や農奴制から自由な市民が産業資本家が組織する商工業の企業で賃労働を行う、というものです。その前提としては、スミス的な協業に基づく分業が発達し、現代的な用語を使えば、サプライ・チェーンが高度に発達した中で、賃労働者が資本家の指揮権の下で労働を行い、生産物は商品として流通し貨幣が流通を媒介する中で、貨幣が蓄積された資本に転嫁する、というのが資本主義の語源となるわけです。資本主義の最大の問題点のひとつは景気循環の中での景気後退局面の過酷さであり、それを回避するためにケインズ的な政府の経済への介入が提案されたり、あるいは、もっと徹底して市場による資源配分を停止して生産手段を公有化した上で中央指令に基づく計画経済が志向されたりしてきたわけです。繰り返しになりますが、とてもコンパクトな経済史の通史を目指した本書の弱点のひとつは産業革命ないし工場制製造業の成立について、やや軽視しているように見える点と、さらに、資本主義の歴史を振り返って、その先に何が見えるのか、もはや旧ソビエト的な社会主義や共産主義を見出す経済史家はほとんどいないとは思いますが、いくつかのオプションでも示されていれば、とても大きな課題ながら、私のような読者にはさらによかったような気がしないでもありません。

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次に、鈴木裕人・三ツ谷翔太『フラグメント化する世界』(日経BP社) です。著者は2人とも米国のコンサルティング・ファームであるアーサー D. リトルの日本法人のパートナーとなっています。本書では、経済というよりは経営的に国際標準に基づくグローバル資本主義から、それぞれの価値観を大事にするポスト・グローバル資本主義を本書のタイトルであるフラグメント化と捉え、その世界観の中では日本企業が大いに強みを発揮することができると考えられる、といった議論を展開しています。ですから、まず、本書のタイトルである「フラグメント化する世界」とは、コミュニティを基盤とした自律分散型の社会の実現として定義されており、グローバル資本主義の下で世界共通のスケーラブルな世界で大いに称賛されたGAFAではなく、地域や顧客ごとに固有の価値を重視するフラグメント化された世界では、繰り返しになりますが、日本的な経営が脚光を浴びる可能性があると指摘しています。ただ、2030年ころまで時間をかけた以降になる可能性も同時に示唆されています。ということで、その経営的な要素は第5章で展開されており、以下の6つの「脱」で表現されています。すなわち、①脱コミットメント経営、②脱選択と集中、③脱横並び経営、④脱標準化、⑤脱大艦巨砲主義、⑥脱中央集権主義、となります。③と④のように、かなり重複感のある項目もありますが、いかにもコンサル的というか、何というか、こういった概念的な整理とともに、我が国のリーディング産業である自動車と電機、家電と重電の両方を例に、ケーススタディも試みられています。パナソニックやソニーがサクセス・ストーリーを提供している一方で、東芝は半導体と原子力に「集中と選択」してしまい、挙句に粉飾決算に走った、といわんばかりで、私は少し疑問を感じました。電機メーカーの経営状態を見るにつけ、特に韓国勢との国際競争においては、為替の果たした役割がとても大きいように私は感じていますが、それでは経営コンサルの出番はないのかもしれません。私は経営学は専門外もはなはだしく、マクロ経済からいろんな解釈を試みようとする傾向があるのは自分でも理解していますが、少なくとも、経営方針がすべてではない一方で、マクロ経済の景気動向もすべてではない、ということなんでしょう。もちろん、長らくGEの経営者だったウェルチ氏の著書に見える "GE will be the locomotive pulling the GNP, not the caboose following it" くらいの気概は、日本の経営者にも大いに持っていただきたい、とは私も考えています。

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次に、ジョン・アーリ『オフショア化する世界』(明石書店) です。著者は英国の社会学の研究者なんですが、すでに2016年3月に亡くなっています。私はこの著者の社会学の本は、『場所を消費する』と『モビリティーズ』を読んだ記憶があり、後者の読書感想文は2015年5月16日付けのブログでアップしてあります。本書の英語の原題は Ofshoring であり、2014年の出版です。ですから、監訳者のあとがきにもある通り、話題になった2016年公刊のパナマ文書などは取り上げられていません。ということで、私は数年前にこの著者の移動に関する本を読んだところでしたので、ついつい、モノやサービスに移動や輸送に引き付けて本書も理解しようとしてしまいました。また、同時に本書も経済学的な金融や生産などの狭義のオフショアリングと違って、レジャー、エネルギー、セキュリティ、から果ては廃棄物まで、とても幅広くオフショア化を展開しています。そして、最後は第10章ですべてをホームに戻す、という章タイトルでオフショア化の巻き戻しを論じています。オフショア化については、本書でも規定している通り、見えにくいところに移動させて税金などをごまかすための手段と狭い意味で考えられていますが、本書のように、地産地消という観点からすれば、私は交易の利得を否定しかねず、やや方向として疑問が残ります。よく知られている通り、体を鍛えて地産地消の質素な生活を送るというのは、実は、ヒトラー・ユーゲントに由来します。また、海外まで含めて遠い距離を移動することによるオフショアリングは、いわゆる海の帝国である英米の得意とするところであり、大陸欧州の独仏のような陸の帝国は、オフショアリングはやや苦手とする傾向があるのが一般的な理解です。こういった背景を考えつつ読み進むと、本書の観点はやや疑問とする部分もありますが、マルクス主義的な見方でなくても、オフショアリングが貧困層や一般家計に対する概念としての富裕層や国民や消費者に対応する概念としての企業に、いいように使われて一般国民から見て何の利益ももたらさない、というのも事実です。そのあたりのバランスを持った議論は必要だと思うんですが、本書は後者の一般国民からの議論を代表しているとの前提で読み進む必要あるかもしれません。

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次に、佐藤健太郎『世界史を変えた新素材』(新潮選書) です。著者は医薬品メーカーの研究職も経験したサイエンス・ライターです。医薬や化学が専門分野ということなんだろうと思います。そして、その著者の専門知識が生かされたのが本書といえるかもしれません。しかしながら、化学ではなく経済ともっとも関連深い金から本書は始まります、現在まで世界で採掘された金はわずかにオリンピック・プール3杯分にしかならない、というのに驚きつつ、以下、12章に渡って、陶磁器、コラーゲン、鉄、紙(セルロース)、炭酸カルシウム、絹(フィブロイン)、ゴム(ポリイソプレン)、磁石、アルミニウム、プラスチック、シリコンの順で取り上げられています。金を別にすれば、金属でフォーカスされているのは鉄は当然としても、銀でも銅でも鉛でもなくアルミニウムとなっています。軽い金属ということで独特の位置を占めています。紙は記録のための活用が評価され、化合物としてはゴムは天然人工屋やビミョーなものの、プラスチックとシリコンが注目されています。章別タイトルだけを見ると、セメントは選から漏れているのか、と想像しがちなんですが、炭酸カルシウムのいちコンポーネントとしてちゃんと入っています。それにつけても、やっぱり、私のようなシロートから見て、鉄が素材・材料のチャンピオンなんだろうという気がします。本書ではそのカギは地球上に大量に存在することがポイントと解き明かしています。この週末の新聞報道で、世界鉄鋼協会の記者発表によれば、2018年の粗鋼生産量は世界で4.6%増となり、我が国はインドに抜かれて中国・インドに次ぐ世界第3位の粗鋼生産国となった、といった記事も見ました。それから、私はゴムとプラスチックとシリコンの区別が判然としませんでした。「シリコンゴム」というのもあって、実は、私は週末にはプールで3~4キロほど泳ぐのを習慣にしているんですが、我が家のある区立体育館プールのひとつのルールとして金属を身に着けず泳がねばならない、というのがあって、私は左手の薬指にシリコンゴムの指輪をして泳いでいます。本書では、「シリコンゴム」については、ケイ素=シリコンと炭素を人工的に結合させたものであると解説されています。私のような文系の表現でいえば、ケイ素も炭素もどちらも4つの手で結合できますから、人工的にその結合物を作るのはできそうです。耐熱温度も高そうな気がします。まあ、私のような用途からすれば50度もあれば十分だったりします。タイトルの前半、すなわち、世界史を変えた部分も、決して重点を置かれているわけではないながら、ちゃんと解説されており、それなりに楽しめる読書でした。

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次に、河内将芳『信長と京都』(淡交社) です。著者は奈良大学などで研究をしていた歴史家です。上の表紙画像にも見られる通り、「宿所の変遷」をキーワードに織田信長と京都について歴史をひも解いています。冒頭は有名な歴史的事実で始まります。すなわち、織田信長は本能寺の変により京都で死んだ、ということです。本書でも、相国寺や妙覚寺などの宿所が紹介されており、また、もともとの織田家の本拠である岐阜から、ジワリと京都に近づいて安土に城を築いたのは有名な歴史的事実ですが、亡くなるまで織田信長は京都に屋敷、というか、本拠地を持たなかったというのは、改めて、いわれれば、そうかもしれないと気づかされます。京都南部の洛外ながら伏見城を築いたり、醍醐に聚楽第を設営した豊臣秀吉とはかなり違います。江戸期の徳川氏に至っては二条城を京都の本拠としています。加えて、本書でも強調されている通り、織田信長は洛外と上京を焼き討ちしており、京都市民、という表現がこの時代に適当かどうかは別にして、公家や京都市民から織田信長の上洛は恐怖を持って迎えられていたのは、そう難しくなく想像できます。そういった、極めてビミョーな織田信長と集合名詞としての京都との関係が、本書ではかの有名な『言継卿記』などの古文書から明らかにしようと試みられています。ただし、先ほどは、公家と京都市民と書きましたが、朝廷は公家のコンポーネントと見なして、神社仏閣や僧侶などを別にしても、京都にはもうひとつ重要なコンポーネントがあり、それは室町幕府です。織田信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛し、その後、天正元年(1573年)にその足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡したというのが、私のようなシロートの理解ですから、室町幕府については考慮する必要はない、ということなのかもしれません。ただ、織田信長の宿所について、相国寺や妙覚寺などをどのような基準で選び、あるいは、変更したのか、ほとんど史料のない世界かもしれませんが、何らかの仮説なりとも立てて欲しかった気もします。いずれにせよ、織田信長と京都とのビミョーな関係につき、なかなか興味深い読書でした。

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最後に、吉田修一『国宝』上下(朝日新聞出版社) です。作者は、ご存じ、我が国でも売れっ子の小説家であり、純文学も大衆エンタメ小説も全方位でこなす作家です。私も大好きな小説家であり、青春物語の『横道世之介』が私のマイベストです。ということで、この作品は、我が家でも購読している朝日新聞に連載されていた小説です。作者の出身地である長崎の興行師のヤクザの倅が大阪に出て歌舞伎の女形になり、もちろん、その後に東京にも進出して、波乱万丈の人生で芸を極めつつ、最後は人間国宝になる、という長崎人の一代記です。繰り返しになりますが、歌舞伎のいわゆる梨園に生きた女形の一代記であり、中学生のころから60代までの50年を有に超える極めて長い期間を小説に取りまとめており、しかも、小説の視点がドラマのナレーションのような「神の視点」で、ストーリーとして触れられすに飛ばされた部分はナレーションで補う、という、この作者には今までなかったのではないかという手法が取られています。このナレーション方式というのは、部分的には、私のような一般ピープルで歌舞伎などの伝統芸能の世界に馴染みのない読者に歌舞伎や梨園の仕来りなどを解説するには、とてもいい手法かもしれませんが、他方で、ややくどい印象もあります。それから、この作品に私は深みを感じなかったんですが、その大きな要因は登場人物が梨園に極めて近い人物に限られているからではないかと考えます。例えば、文中でとても影響力ある早大教授の劇評論家の評価が語られますが、その人物は決して登場しません。主人公とその早大教授が言葉を交わしたり、あるいは、主人公が1人の文化人として歌舞伎と関係ない世界の他の文化人と交流を持ったりすれば、この作品ももっと深みが感じられたんではないかという気がします。その意味で、とてもボリューム豊かな作品ながら、深みや広がりが感じられませんでした。一部に、この作者の最高傑作とする意見も聞きますが、好きな作家さんの作品であり残念ながら、私はそうは思いません。
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2019年01月26日 (土) 11:28:00

今週の読書は経済書や教養書など計6冊の通常ペース!

今週の読書は貧困論や不平等論などの専門家であるアトキンソン教授の経済書をはじめとして、ほかにも経済書・ビジネス書や教養書など計6冊の通常ペースです。ただし、小説は読んでいません。今週はすでに図書館回りを終えており、私の好きな小説家の吉田修一の最新作など、これまた、通常ペースで数冊を借りてきています。

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まず、アンソニー B. アトキンソン『福祉国家論』(晃洋書房) です。著者は英国の経済学者であり、不平等論や貧困論などの碩学です。2017年に物故しています。本書の英語の原題は Incomes and the Welfare State であり、1995年の出版です。まず、1995年の出版であり、かつ、講演などのスピーチから起こした原稿が少なからず含まれているのには驚きますが、必ずしも現時点で無効な議論があるわけでもなく、十分な一般性を持って受け入れられる結論が提示されていると考えられます。もちろん、1942年ノベヴァレジ報告から50年とか、現下の大問題はロシアや東欧の資本主義への移行問題、などと書かれていると、ついつい読書意欲が削がれる思いをするわけでうが、それでも、所得の不平等や貧困問題、さらに、福祉国家論などは今でも十分に通用する議論が展開されています。特に、日本語タイトルに凝縮されている福祉国家論については、福地国家のさまざまな政策が市場経済に決していい影響を及ぼさない、例えば、失業給付が自然失業率を高めるとか、最低賃金の上昇が失業を生み出すとか、賦課方式の年金が資本蓄積を低下させるとか、といった右派エコノミストからの理論的かつ実証的な論考に対して、それでも著者は福祉国家を擁護する論陣を張っています。ただ、論文や講演録の寄せ集めというイメージはぬぐえず、精粗まちまちの議論が展開されています。英国と欧州を大賞にした論考であり、米国ですら参考程度の扱いであり、我が日本はまったく分析の対象外である点も残念です。3部構成となっていて、第Ⅱ部の失業分析ではモデルを数式で表現して解析的に分析している一方で、延々と言葉で説明を繰り返している部分も少なくありません。ただ、ユニバーサルな給付を重視し、ターゲティング政策については批判的である点については、私の見方と一致します。最後に、この著者の本であれば、本書よりも、やっぱり、『21世紀の不平等』の方がオススメです。私のこのブログの読書感想文では、ちょうど3年前の2016年1月30日に取り上げています。ご参考まで。最後の最後に、どうでもいいことながら、上の表紙画像に見える4人はどういった方々なんでしょうか。

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次に、清水勝彦『機会損失』(東洋経済) です。著者は慶應義塾大学ビジネススクールの教授であり、今までにも経営書を何冊か出版しています。私も読んだような記憶がありますが、ちゃんと覚えているのは『あなたの会社が理不尽な理由』くらいです。本書は機会損失とのタイトルですが、あくまでキーワードとしての機会損失であり、機会損失そのものを深く掘り下げているわけではなく、経営戦略一般を広く浅く取り上げています。ついつい見過ごされがちな機会費用なんですが、経営学では、何かの決定を行うに際して、トレードオフのように犠牲になるもう一方の損失、ないしコストを指します。希少性高い、すなわち、平たくいえば、限りある経営資源を何に投入するか、を決めれば、その経営資源を投入しなかった先が他方に残るわけですから、それが機会損失となります。ですから、ホントのネットのリターンは、実行するプロジェクトのリターンから断念したプロジェクトのリターンを差し引いた額になるわけで、経済学では「限界的」という用語を用いると思いますが、本書では登場しません。そして、本書でも強調しているように、マイナスを回避するバイアスが強いプロスペクト理論からして、チャンスをみすみす逃す経営も大いにありそうです。本書では、捨てられない、止められないでズルズルと経営資源をつぎ込むプロジェクトを続けるコストを「エスカレーション・オブ・コミットメント」と呼んでいますが、経済学ではあからさまに「ゾンビ」といったりもします。ただ、本書では、このエスカレーション・オブ・コミットメントなり、ゾンビなりに対応する概念として、早く止めすぎる機会損失も指摘していますが、これはどちらも機会損失になるとはいうものの、結果論といわれてもしようがないような気もします。もっとも、私が地方大学に出向した際に感じたところですが、経済学よりも経営学の方が格段に実務に近いですから、経営学の方が結果論、というか、結果に執着する傾向は強そうな印象を持った記憶があります。でも、何につけ、上下・左右どちらでも言い逃れられるのが経済学や経営学の弱点でもあり、いいところかもしれません。最後に、オポチュニティ・コストとは、経済学では「機会費用」の用語が一般的なんですが、経営学では「機会損失」になるのか、とミョーなところに感心したりもしました。

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次に、ジャコモ・コルネオ『よりよき世界へ』(岩波書店) です。著者はイタリア出身で、現在はベルリン自由大学教授で公共経済学科長を務めています。ドイツ語の原題は Bessere Welt であり、日本語タイトルはほぼほぼ直訳のようです。2014年の出版です。本書で著者は、資本主義の浪費、不公正、疎外の3点として上げており、第1章のプロローグと第12章のエピローグでは父と娘の会話として問題意識の発見と取りまとめに当たっています。本書では、資本主義の特徴として生産手段の私有制と市場による資源配分と所得分配を前提とし、古典古代の哲学者であるプラトンの「国家」や中世トマス・モアの「ユートピア」から始まって、クロポトキンの無政府共産主義、もちろん、マルクス-エンゲルスの社会主義と共産主義、ステークホルダーによる株式市場社会主義などさまざまな代替的システムとともに、資本主義下での改良策としてのベーシックインカムなどを考慮の対象として、いろんな思考実験をしています。あるいは、ネタバレっぽいんですが、特徴的な結論だけを簡単に取りまとめると、資本主義の定義とされた生産手段の私有制と市場による配分と分配に対立するものとして、生産手段の国有ないし公有と計画経済を特徴とするマルクス的な社会主義については、生産手段の公有は否定され、計画経済もスコアが低くなっています。他の代替システムはもっとスコアが低いんですが、少なくとも、繰り返しになりますが、生産手段の国有ないし公有は明確に否定的で、しかも、株式会社社会主義においても企業活動の目的は利潤の最大化とすべき、と結論していますので、現行の資本主義と大きく異ならないシステムが、やっぱり、推奨されるような雰囲気があります。その代わり、資源配分は市場メカニズムが効率的であるとしても、所得分配の改善のため、ベーシックインカムと中央ないし地方政府が運営するソブリン・ウェルス・ファンド(SWF)が推奨されています。ただ、本書の最初の方では経済システムと民主主義について、それなりの考慮がなされていたにもかかわらず、真ん中あたりから忘れられた印象があり、そのために冒頭の3点目の疎外の問題がほとんど取り上げられていないと見たのは、私だけでしょうか。最近時点で欧米におけるポピュリズムの問題がクローズアップされてきており、本書の執筆時点を考慮すると重点ではなかった可能性もあるとはいえ、ある意味で残念です。

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次に、アニー・デューク『確率思考』(日経BP社) です。著者は米国人で、プロのポーカー・プレーヤーとして400万ドルを稼いだと豪語し、現在は引退してコンサル活動をしているということです。英語の原題は Thinking in Bets であり、昨年2018年の出版です。日本語タイトルは、むしろ、原題を活かせば「賭け型思考」というカンジなんではないかという気がします。賭けの大きな特徴は2つあって、ひとつは本書でも強調されていますが、ザロサムであるという点です。阪神-巨人戦で阪神が勝てば巨人は負けなわけです。もうひとつは、本書では明示的には示されていませんが、大数の法則が必ずしも成り立たない小数の試行結果だということです。サイコロの目が出る事前確率はそれぞれに⅙なんですが、事後的には、出た目そのものの確率が1である一方で、出なかった目はゼロなわけです。ですから、本書でも明らかにされているように、確率20%の結果が実現することもあるわけですが、それで賭けの勝負するのは決して賢明ではない、ということになります。ただ、人間は自分に都合よく考えるバイアスがあり、成功は自分の能力やスキルに起因し、失敗は運が悪かった、と考える傾向がありますから、オープンに他者の目を取り入れて、客観的な判断を下し、説明責任を全うする必要があります。経済学では、その昔のシカゴ大学ナイト教授のように、確率が判っているリスクと判らない不確実性を区別しますが、大数の法則を無視する、というか、大数の法則に達しない段階での意思決定をせねばならないギャンブル的な思考では、その区別はありません。ということで、カーネンマン教授らのプロスペクト理論も登場すれば、セイラー教授の名は出なかったような気もしますが、実験経済学的な思考もふんだんに盛り込まれており、「意思決定はギャンブルである」というフォーマルにはみんながなかなか認めたがらない事実に関して、あけっぴろげに論じています。本書では明示的に示してはいませんが、「結婚の意思決定はギャンブルである」というのは、多くの既婚者が身にしみて感じていることではないでしょうか。

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次に、大野哲弥『通信の世紀』(新潮選書) です。著者はKDD(国際電信電話株式会社)のご出身のようです。通信について、暗号通信とともに、19世紀半ばの明治維新期から20世紀いっぱいくらいまでのインターネット時代を概観しています。通信の戦略的な面とともに、技術的なテクノロジーも判りやすく解説を加えています。明治維新から、いわゆる列強の帝国主義時代に通信が技術的にも大いに進歩し、例えば、岩倉使節団が米国サンフランシスコに到着したとの第一報は、米国を西海岸から東海岸に横断して、大西洋を渡って欧州経由で長崎にもたらされるまで1日かかったが、長崎から東京まで10日を要した、などは通信の技術的進歩をよく表しているような気がします。暗号については、日米開戦間際の最後通牒の受け渡しが取り上げられていて、14分割の電報をタイピストを使わずに書記官がタイプして野村大使がハル米国国務長官に渡したのが真珠湾攻撃開始後だった、という失態ですが、現在では私のような下っ端管理職でもパソコンが机にあって、キーボードを使ったタイピングに慣れている時代と違い、おエラい外交官がタイプするのは時間がかかったのは理解できるところです。分割電報が全部そろうまで何もしないというのはとてもお役所的で、私も、図書館で借りた本を返却する際、すべてそろうまで平然と突っ立ったままで、何もしない図書館アルバイトが多いのは実感で知っています。まあ、図書館が指定管理者制度になって、図書館員の質が大きく下がったのは周知の事実ではあります。戦後は、同軸ケーブルと衛星通信が高度成長を支え、サービスとしては、電報からテレックス、さらに電話に通信の主流が移り変わり、今ではインターネットによる通信が大きな割合を締めているのは周知の事実であろうと思います。本書では必ずしも定量的に明らかではないんですが、通信トラフィックも劇的に増加しているのは確実です。通信の内容も、電報にせよ、テレックスにせよ、電話にせよ、長らくテキストだったのが、電話から音声になり、インターネット時代は画像ないし今では動画になっています。ついつい、KDDの社史の方に流れて、そういったあたりをカバーしきれなかったのが本書の弱点かもしれません。

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最後に、井手英策『幸福の増税論』(岩波新書) です。著者は慶應義塾大学の経済学の研究者であり、専門は財政学や公共経済学です。従来から、増税に対する我が国国民の意識として、政府の歳出に対する信頼感が薄く、社会保障でユニバーサルに国民に給付されるのではなく、公共投資を通じて国民に還元される「土建国家」であるために、その財源として徴収される税金に対する忌避感覚が強い、と主張していて、私も大いに合意していたんですが、本書ではかなりトーンが違ってきている気がします。というのは、日本のリベラルの価値観を自由、公正、連帯の3点に凝縮し、国民全員に利益となるベーシック・サービスによるニーズの見たしあいを重視し、それを公共財として提供する財源としての税金を増税することに力点を置いています。その上で、累進課税による従来型の所得再分配ではなく、繰り返しになりますが、ベーシック・サービスの供給という、何とも、実態のハッキリしない財政需要を想定します。すなわり、p.83の表現を借りれば、「社会のメンバーに共通するニーズを探しだし、そのために必要となる財源をいなで負担しあう道を模索しなければならない」ということになります。私はそこまでして財政支出を拡大し、そして、その財源を増徴する必要は感じません。ムリに財政をユニバーサルにし、財政支出をして国民の連帯や絆の手段とするのは政策割当を間違っているとしか感じられません。国民間の連帯強化には財政政策ではなく、別の政策が割り当てられるべきです。担税感をして国民の連帯感情の基礎にするのは私は同意できません。本書では、消費税の負担軽減措置については否定的な見方を示しており、私が同意する部分も決して小さくはないんですが、少し従来からは違う方向に舵を切った気がしてなりません。
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2019年01月19日 (土) 08:28:00

今週の読書は経済書からミステリまで通常ペースで計6冊!

今週もそれなりにボリュームある読書が多かったような気がしますが、冊数的には通常通りの数冊ということで以下の6冊です。これから自転車で近隣図書館を回りますが、来週も数冊くらいの読書になりそうな予感です。

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まず、玄田有史[編]『30代の働く地図』(岩波書店) です。編者は東京大学の研究者であり、幸福学などでも有名ですが、本来のホームグラウンドは労働経済学です。本書は全労済協会が主催した研究会に集まった研究者や実務家の論文を編者が取りまとめています。回答のあるナビゲーションではなく、自ら選ぶ地図をイメージしてタイトルとした、ということのようです。編者が冒頭と締めくくりを担当しているほか、各チャプターごとの著者は研究会の委員さんではなかろうかと想像しています。労働や雇用に関しては、私のようなマクロ経済の観点よりもむしろ、マイクロな選択の問題と考えるエコノミストも少なくありませんし、まあ、毎月勤労統計のような信頼感薄いマクロ労働統計ではなく、マイクロな雇用や労働の分野の方がデータが豊富で、フォーマルな定量分析も盛んです。加えて、経済学だけではなく労使関係ですから法学の分析も必要ですし、実務面からの分析も可能で、本書でも労働組合幹部の執筆するチャプターがあったりもします。高度成長期に成立した新卒一括採用の下での長期雇用、年功賃金、企業内組合という日本的な雇用慣行は、現時点でも、あるいは、高度成長期でも、雇用者の多数を占めていた時期はないんですが、それなりにモデルとしての有用性があったと私は考えている一方で、21世紀に入って大きくモデルとしての第1次アプローチの有用性が崩れていることも事実です。ただ、雇用の柔軟性が必要といわれているとしても、柔軟性が増せば定義的に反対側で安定性が損なわれるわけですし、同時に賃金水準も切り下げられることは経験上明らかです。高度成長期に成立した我が国の労働慣行は、性別役割分担とも関係して、男性正規社員が長期雇用下で無限定に長時間労働する一方で、女性が専業主婦として家計を仕切って男性を支える、というものでした。それが、大きく崩れてきているわけで、本書でも指摘しているように、単に長時間労働の是正にとどまらない抜本的な働き方改革が必要となっています。最後に、本書の対象とする30代は子育て世代であり、かつ、中堅として職場の中核的な働き手なんですが、同時に、本書で取り上げている通り、転職や独立、あるいは、兼職や副業を考えて、自分のキャリアを見直す時期でもあります。私のような60歳超と違って、別の意味で、岐路に立っているともいえます。多くの若い現役世代に参考になる議論を展開してほしい気もしますし、他方で、私のような引退世代の介護との両立についても議論が必要だとも思います。

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次に、川野祐司『キャッシュレス経済』(文眞堂) です。著者は東洋大学の研究者です。タイトル通り、北欧を先進国として欧米だけでなく中国やケニアなど世界で進行中の経済のキャッシュレス化について、現状と展望と可能な範囲で歴史的な背景などを解説しています。ただ、時折、著者の独自の見方が紹介されている部分があり、明確に歩者の意見として提示されているので好感は持てるんですが、やや私の感覚とはズレがあったりもしました。特に、我が国経済のキャッシュレス化については、ソニーのFELICAなどを見ても明らかなとおり、技術的には世界に後れを取ってはいないものの、実際の波及面であまりに数多過ぎる提供主体があって普及面の問題がある、というのは、私の実感と少し違う気もしました。それは別として、オンライン化の推進力として、製造業と同じ理屈を銀行に当てはめ、要するに人件費削減と業務のスピードアップの要請に基づいたキャッシュレス化、という理由を上げています。私はその通りだと思うんですが、少し、デジタル化とキャッシュレス化の混同が見られるような気もしました。特に、ビットコインの記録上の中核技術であるブロック・チェーンについて、アナログでも実現可能というのは、私もそういえばそうなんだと初めて気づいた次第ですが、帳簿上のシンボリックなお金の動きとそれをサポートするデジタル技術については、もう少し詳しく解説してもらえば金融政策上のインプリケーションも出てきそうな気がします。典型的には、キャッシュレス化やデジタル化で、いわゆるナローバンキングに特化する金融機関も出そうな気がする一方で、預金と信用に基礎を置く信用乗数の大きさにどのようなインパクトを及ぼすのか、といった点です。また、私はこういった金融の関係は専門外なんですが、技術革新の進歩の速度が極めて速くなった先の展望を見越すと、本書の賞味期限がどれくらいあるのかは不案内です。読むとすれば、早めに読むのが吉かもしれません。

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次に、ジョン・キーガン『情報と戦争』(中央公論新社) です。著者は、長らく英国サンドハースト王立陸軍士官学校で戦史の教官を務め、2012年に他界しています。英語の原題は Intelligence in War であり、2003年の出版です。最後の邦訳者あとがきにもありますが、本書では厳密には区別されていないながら、英語の intelligence と information について、後者に「生情報」を当てて、前者は「情報」ないしカタカナで「インテリジェンス」と訳し分けているようです。そして、タイトルとは裏腹に、本書に一貫して流れているのは、戦争で勝つために情報収集やその分析は役立つが、戦争遂行のための戦略の立案や物理的な戦闘力がより重要である、という点に尽きます。情報線と関連して、太平洋戦争時のミッドウェイ海戦が上げられて、典型的に情報が勝敗を決した鍵となる戦闘と見なされているようですが、本書では情報とともに、偶然とか、運とか、ツキといった要素にも着目しています。そして、物理的な戦闘力の重要性に関しては、ナチスのクレタ島侵攻をケーススタディのひとつに取り上げ、どのように事前の情報収集が万全で十分であっても、迎え撃つ方の戦闘力が不足していればどうにもならない例、として扱っています。もちろん、情報収集は戦争や戦闘行為に限らないわけで、経営戦略策定の際に無重要な要素となりますが、クレタ島のケースは、例えていえば、売れる商品をリサーチで十分に把握していたとしても、工場の生産能力やロジスティックな配送能力が追いつかなければ十分な売上には結びつかない、といったカンジかもしれません。私も公務員として在外公館の海外勤務を経験しているわけですから、経済的な要素が極めて強いとはいえ、情報収集活動はしたことがあり、しかも、私が大昔に奉職を始めた役所は総合国力の測定を組織のミッションのひとつにしていましたので、情報収集の重要性は理解しているつもりですが、物理的な対応能力も同様に重要である点は本書の指摘する通りだと考えます。

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次に、マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会) です。著者は英国のミステリ作家・評論家であり、約20冊の長編や50編以上の短編を発表し、自らの作品で英国推理作家協会(CWA)の最優秀短編賞を受賞したほか、多数のアンソロジーを編纂したことがあると紹介されています。上の表紙画像に見られる通り、本書の英語の原題は The Golden Age of Murder であり、2015年の出版です。ということで、主として英国における探偵作家の親睦団体=ディテクション・クラブが発足した1930年前後くらいのの、いわゆる戦間期におけるミステリの黄金時代を歴史的に跡付けたノンフィクションです。ディテクション・クラブ発足当時の会長はチェスタトンであり、女性作家のセイヤーズやクリスティーも会員として集まっており、繰り返しになりますが、このクラブの歴史と作家たちの交流、なぞ解きのフェアプレイの遵守を誓う入会儀式の詳細、会員のリレー長篇出版などの活動、もちろん、知られざる私生活における興味津々のゴシップまで、豊富なエピソードを収録しています。ただ、注意すべき点が2点あり、英国中心のミステリ作家の歴史であり、日本人には気づきにくい英米の違いなどは無視されていると考えるべき、というか、米国の事情は、わけあって英国に移住したカーを唯一の例外として、クイーンやヴァン・ダインなどの名がチラリと登場するくらいで、ほとんど本書のスコープの範囲外となっています。もう1点は、本書の英語の原題を見れば理解できる通り、直訳すれば「殺人の黄金時代」であり、小説の中の事件だけでなく、広く社会を騒がせた殺人事件にも、まあ、一部には小説のモチーフとなったという意味においてであっても、注目されています。ロンドンの「切り裂きジャック」なんぞは日本でも人口に膾炙していますが、私のような不勉強な読者には心当たりのない事件も少なくありません。本書が対象としている時期は、1929年からの大不況の時期を含んでおり、それなりに犯罪も発生したのだろうと想像されます。現在のミステリの隆盛に話題がつながる最終章まで、圧倒的なボリュームで堪能させられます。A5版の大きさに加えて2段組みで製本されており、写真も含めた図版も豪華に、とても読み応えあふれる力作です。私は図書館で借りましたが、たとえA5版2段組みの400ページ余りを読み切れる自信ない場合であっても、蔵書として本棚に飾るのも一案ではないでしょうか。

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次に、渡辺順子『世界のビジネスエリートが身につける教養としてのワイン』(ダイヤモンド社) です。著者は、フランスへのワイン留学を経て、大手オークション会社であるクリスティーズのワイン部門に入社し、NYクリスティーズでアジア人初のワインスペシャリストとして活躍した経験をお持ちだそうです。ということで、タイトルから明らかな通り、ワインに関してビジネス・エリートに解説をしているわけで、私の良いなビジネス・エリートでも何でもない人間は関係なさそうな気もしますが、実は、私も安物のワインは飲んだりもします。1990年代前半の3年間を南米はチリの日本大使館で外交官として過ごし、ちょうどそのころからチリのワインを日本に輸出する事業が始まったこともあり、今でもチリ・ワインは週に何度か飲んだりしています。その名も「サンティアゴ」のメルローなどです。もちろん、ワインに限らず、「飲みニケーション」という雑な言葉がある通り、お酒は飲んで楽しんでコミュニケーションを取るツールとして認識されているのは日本だけではありません。ですから、ほかのお酒、すなわち、ビールや日本酒や焼酎やウィスキーやブランデーなどなど、なんでも飲んでコミュニケーションが取れるとは私は思うんですが、やはり、ビンテージ物のワインにはかないません。また、お酒以外で、私も少し前に『西洋美術史』を読みましたが、絵画・彫刻などの美術を見ながらのコミュニケーションは大きな限界がありそうな気がしますし、クラシックなどの音楽をコンサートで聞きながらではおしゃべりできませんし、文学作品ではあまりに広がりがあって一致点が見出しにくそうな気がします。本書では、欧州と地中海沿岸を中心に、ワインの歴史を振り返るとともに、第1部ではフランスはボルドー5大シャトーやロマネ・コンティ、アンリジャイエなど、第2部ではイタリアを中心に食事とのマリアージュを見て、第3部では米奥などのニューワールドのワインを概観し、さらに、ワインへの投資や関連するビジネスを取り上げています。高校の社会科のように、産地やシャトーやブランド名を暗記するのも目的とするなら、とても味気ない読書になりかねませんが、テーマがテーマだけに楽しく読めればラッキーかな、という気がします。

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最後に、宇佐美まこと『聖者が街にやって来た』(幻冬舎) です。売出し中の女性ミステリ作家で、最近、もっとも話題になった『骨を弔う』を読んだばかりですが、その『骨を弔う』がもっともできがいいといわれていたにもかかわらず、私はあまりにも作り過ぎていて不自然な気がしたんですが、本作品の方がその意味ではより現実味を増したエンタメ作品という気もします。相変わらずプロットがややお粗末で、突っ込みどころが多いんですが、それなりのレベルの作品には仕上がっているような気がします。被害者が5人に上る殺人事件ですから、もっと登場人物がいていいような気がするんですが、この作者はどうもキャラの設定に難があるようで、多人数の登場人物が描き切れないのかもしれません。例えば、本作品でいえば、お花屋さんの3人の女性のキャラが極めて似通っています。店主親子は、まあ、親子ですので性格的にも似通っていていいようにも受け取られるんでしょうが、店主の娘とアルバイト女性のキャラに差異が感じられません。半グレのグループの構成員もほとんど違いが感じられず、仕方ないので体のサイズや外見で区別するしかないような有り様です。もう少していねいに人物の造形やキャラ設定をすれば作品に深みが出そうな気がします。なかなかの力作だけに少し惜しい気がします。もう少しこの作者の作品を23作読んで、もっと読み続けるかどうかを考えたいと思います。今の段階ではギリギリ合格点か、という気もしますが、ファンになるほどではない、というカンジでしょうか。
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2019年01月12日 (土) 11:39:00

今週の読書は経済書にエンタメ小説まで加えて計6冊!

先週の読書感想文からほぼ通常通りの週数冊のペースに早くも戻り、今週も以下の6冊です。経済書はもちろんありますし、新本格派の京大ミス研出身の我孫子武丸による小説もあります。今日はすでに自転車で図書館を回り終えていますが、来週も数冊の読書が楽しめそうです。

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まず、 コンスタンツェ・クルツ & フランク・リーガー『無人化と労働の未来』(岩波書店) です。著者2人はいわゆるホワイトハットハッカーらしく、情報に強い印象です。本書は原書の全訳ではなく、いくつかの章を省略した抄訳となっています。副題は「インダストリー4.0の現場を行く」と題されていて、世界に先駆けて「第4次産業革命」を打ち出して、AIをはじめとするソフトウェアに加えて、ロボットとネットワーク化による製造現場の変革を進めてきたドイツを舞台に、主食のひとつであるパンが出来上がるまでを跡づけます。すなわち、農場で小麦が栽培されて収穫されるまでの機械化の進展を見つつ、農業機械の製造現場も振り返り、ロジスティックスで穀物の運輸、もちろん、パンの製造やその後の製品の流通など、第1部でパンが出来るのを跡づけた後、第2部で労働の未来の考察に進み、まず、話題の自動運転から始まります。結論としては、馬車がトラックに取って代わられた歴史的な例などを参照します。しかし、本書のドイツ語原初の出版は2013年であり、5年前という技術的な進歩の激しい分野では致命的な遅れがあります。もちろん、技術に関する哲学的な考察で有用なものは本書からも決して少なくなく汲み取れるんですが、それにしても、土台となる技術的な発展段階が5年前では見方にバイアスも避けられません。そのあたりは、5年前の技術水準に依拠して書かれている点を忘れず読み進むことが必要です。最後に、この書評ブログでは著者とともに、翻訳書の場合は原語の原題もお示しするんですが、わざわざ、最後に回したのは、ドイツ語原題が Arbeitsfrei となっていて、Arbeits と Frei の間にパワー=力を意味する macht を入れると、とても意味深長、というか、やや使うのはためらわれる場合もありそうです。すなわち、「都市の空気は自由にする」= Stadtluft Macht Frei をもじって、ドイツ人作家ロレンツ・ディーフェンバッハがこれを小説のタイトルとして Arbeits Macht Frei として用いた後、20世紀になってワイマール共和国期に失業対策として実施された公共事業に対しての表現として用いられ、何と、ナチス政権下ではこの表現をアウシュビッツをはじめとする多くの強制収容所の門に記しています。著者をはじめとして多くの教養あるドイツ人や、おそらく、日本人ながら翻訳者には判っていると私は想像しているんですが、私には謎ながら、何らかの意図があるのかもしれません。

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次に、藤井聡『「10%消費税」が日本経済を破壊する』(晶文社) です。著者は、京都大学の工学部教授であり、最近まで内閣官房参与として安倍内閣のブレーンを務めてきた研究者です。タイトルからも理解できる通り、本書では今年10月の消費税率の10%への引き上げに強く反対する論陣を張っています。かなり経済学的には怪しい論拠がいっぱいで、レーガノミクスで税率を引き下げれば税収が増加するというラッファー・カーブというのがあり、当時のブッシュ副大統領が voodoo economics と呼んだシロモノで、大いにそれを思い起こさせる内容もあったりしますが、直感的には理解しやすいと思いますし、例えば、アベノミクスも同じで、最近の税制の変更により法人税を減税して、その分を消費税で徴収している、という主張はその通りです。ただ、1989年の消費税導入時はインフレだったのでOKだが、1997年の税率を5%に引き上げたのはデフレ圧力を強めた、というのは必ずしも私は同意できませんし、本書で大きく批判されている2014年の消費増税についても、タイミングは私自身は正しかった、と考えています。もっとも、今年の税率引き上げについては、私もタイミングについて疑問に感じる一方で、短期的にはともかく、中長期的には消費税率は引き上げざるを得ない、そうしないと政府財政のリスクが大きくなる可能性が高い、と私は考えています。著者は政府財政の破綻は将来に渡ってもないと考えているようですが、私は現実問題として何らかの市場の反応次第では、政府財政が破綻することはあり得ると考えています。実際に何が起こるかといえば、いわゆるキャピタル・フライト、すなわち、資本逃避で海外に資産を移し替える富裕層が増加し、そのために為替が急激に円安になる一方で、外貨が不足して市場介入も限界があるため、輸入ができなくなる、というルートです。そのリスクを抑制するためには政府財政の健全化は避けて通れません。他方で、本書ではスコープ外なんですが、シムズ教授らの物価水準の財政理論(Fiscal Theory of the Price Level:FTPL)もあり、経済学の曖昧さが露呈している気もします。悩ましいところです。

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次に、西部忠[編著]『地域通貨によるコミュニティ・ドック』(専修大学出版局) です。編著者は北海道大学から専修大学に転じた経済学の研究者で、本書は主として北海道の地域コミュニティで実践された地域通貨事業から、ブラジルの実践例も含めて、地域のコミュニティの維持強化を分析しています。特に、ダンカン・ワッツ教授のスモール・ワールド理論などにおけるネットワーク分析はとても特徴的であると私は考えています。専門外ですので、詳しく解説はできませんが、地域通貨が何らかのノードのハブとなる団体、例えば、商店街連合会とか環境NPOとかから、地域住民や商店主にどのような広がりを持っているかは、コミュニティ維持強化の観点からの分析に、あるいは、適しているのかもしれないと実感しました。ただ、地域通貨の経済効果は、本書のスコープ外かもしれませんが、おそらくありきたりのものとなろうかという気がします。というのも、要するに、プレミア付きの地域通貨は財政政策による所得移転であろうと考えますし、あるいは、部分的にはマネーサプライの増加に代替する可能性もあります。さらに、プレミア付きの地域通貨を回収する際に手数料を徴収して、元の通貨価値で回収するのであれば、例えば本書に例に即していえば、500円の現金で525ポイントの地域通貨を発行して、回収する際には5%の手数料を徴収して525ポイントの地域通貨を500円で買い取ることにすれば、典型的にグレシャムの法則、すなわち、「悪貨は良貨を駆逐する」が働いて、通貨の流通速度が大きく増します。その点は本書でも確認されています。ただ、繰り返しになりますが、通常の財政金融政策の観点からの地域通貨の分析ではなく、地域コミュニティの維持強化の方策としての分析は、今後の地域分析のツールとして目新しい気がします。まあ、一応、地域経済研究の論文をものにしているものの、単に私の勉強不足なだけで、ほかにも同様の研究成果はいっぱいあるのかもしれません。

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次に、デイビッド・サックス『アナログの逆襲』(インターシフト) です。著者はカナダ在住のジャーナリストであり、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The Revenge of Analog ですから、邦訳タイトルはそのままです。2016年の出版となっています。本書はモノの第1部と発想の第2部の2部構成で、第1部ではレコード、メモ帳、フィルム、ボードゲーム、プリントが、第2部ではリアル店舗、仕事、教育が、それぞれ取り上げられています。今までのアナログ礼賛は、単に、デジタルの現時点から昔を懐かしがるノスタルジーだけだったような気がしますが、本書はかつてのアナログから一度デジタルに進化した後、再びアナログに戻る動きを活写しています。これは今までになかった視点かもしれません。ただ、アナログ≃オフライン、かつ、デジタル≃オンライン、とも読めます。というのも、本書ではしばしば「テクノロジー」という言葉が出てきますが、テクノロジーとして考えれば、どこまでさかのぼるのか、という問題があるからで、自動車は問題なくアナログなんですが、馬車までさかのぼる必要があるのかどうか、は本書では否定的な雰囲気があります。レコードとCDではそれほど違いはないのかもしれませんが、デジタルのオンラインではかなりの程度に独立した個人として対応する必要がある一方で、アナログのオフラインではより社会性のある対応が求められる、特にゲームなんぞはそういう気がします。ただし、本書に限らないのですが、最近のオンライン技術やデジタル技術については、1990年台のインターネットの普及のころからそうですが、私のような経済を専門とするエコノミストには製造やサービス提供の場での生産性向上に用いられるよりも、典型的にはゲームのような娯楽で用いられるケースが増えているような気がします。ですから、乗馬が実用的な輸送手段としては街中から消え去って、どこかの乗馬クラブで趣味として生き残っているように、アナログもどこかで趣味として生き残る可能性は大いにありますが、生産の場でのメインストリームとして復活するのは難しそうな気もします。

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次に、我孫子武丸『凛の弦音』(光文社) です。作者は、ご存じの通り、綾辻行人や法月綸太郎と同じく、わが母校の京大ミス研出身のミステリ作家であり、本書は『ジャイロ』に連載されていたものを単行本化した小説です。高校生の女子弓道部員を主人公にその1年生から2年生にかけての連作短編、なのか、長編なのか、ややあいまいなところです。ただ、新本格派のミステリの要素はそれほど強くなく、最初の短編では殺人事件も起き、主人公の女子高校生がなぞ解きをしますが、むしろ、周囲の人々との関係を描きつつ、主人公の成長を跡づける青春小説といえます。実は、ミステリとともに私の好きな小説のジャンルだったりします。7章構成ですが、繰り返しになるものの、最初の第1章に殺人事件が起こり、ほかにも、1年生の新入部員の突然の退部の真相解明とか、高価な竹弓の紛失の謎解きなどもある一方で、放送新聞部の男子部員が主人公にピッタリとくっついて動画に収録したり、新任の女性教諭の弓道指導に対する疑問と理解の進展、同じ高校弓道部の同級生や先輩の部長との人間関係、さらには、ライバル校の花形選手との関係などなど、色んな要素がてんこ盛りなんですが、ただ、弓道に対する考え方については私には理解できないものがありました。本書でも主人公が独白しているように、戦国時代には戦闘の中で実用的に殺人を行う技だった弓の技術が、剣と同じように、徳川期の天下泰平の世の中になって、殺人技術というよりは精神的な要素を強めて、あるいは、形の美しさを極めたりもして、スポーツの要素も取り入れた弓道に変化発展する中で、それが生活の糧をもたらさないにもかかわらず、どのように人生の形成や人間的な成長に必要とされるのか、難しい問題ではないかと思います。ちょうど、お正月休みに「ホビット」3部作のDVDを見て、エルフの戦士が弓を活用しまくっていましたし、人間が龍を倒すのにも矢を使ったわけですから、何となく弓の活用も頭に残っていましたが、道を極めるという意味での弓道の青春物語は面白くもあり、同時に難解でもありました。

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最後に、高嶋哲夫『官邸襲撃』(PHP研究所) です。著者はエンタメ小説の売れっ子作家であり、私は著者の専門分野である核や原子力関係の本や自然災害のパニック本などを何冊か読んだ記憶があります。本書は、タイトル通りに、総理大臣官邸が謎のテロ組織に襲撃され、女性首相の警護に当たっていた女性SPの活躍により制圧する、というものです。もちろん、テロは制圧されます。ただ、日本国内の動機だけでなく、というよりも、テロの目的なむしろ米国にあり、米国国務長官が官邸に滞在している折を狙っての襲撃と設定されています。そして、ご本人も知らないような米国大統領の縁続きの女性が人質になったり、グリシャムの「ペリカン文書」にインスパイアされたとしか思えない文書の公開要求があったりと、いろいろな読ませどころがありますが、こういった書物にありがちな設定ながら、女性総理が官邸で人質になった後、お飾りで優柔不断で、いかにも旧来タイプの政治家であった副総理が一皮むけて立派な決断をしたり、米国と日本で判断のビミョーなズレがあったり、映画の「ダイハード」よろしく不死身の主人公が縦横無尽に活躍したりと、こういったあたりはややありきたりな気もします。私のオフィスからほど近い官邸がテロ組織に襲撃されるというのは、確かに実感としてムチャな気もしますし、著者の専門分野の原子力や自然災害のパニック本よりも、リアリティに欠けるように感じられますが、私自身がもうすぐ定年退官ながら公務員として総理大臣官邸を身近に感じられるだけに、それなりに面白く読めた気もします。私のようにこの作者のファンであれば読んでおいて損はないと思います。また、もしも映画化されれば、主人公の女優さん次第で私は見に行くかもしれません。
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2019年01月05日 (土) 19:51:00

今週の読書は通常通りに計5冊!

今週は年末年始休みだったんですが、ついつい通常通りの読書をこなしてしまいました。他方、サンソムの「チューダー王朝弁護士シャードレイク」のシリーズもそこそこ年末年始に読んだりもしました。それは別にして、経済書などは以下の計5冊です。

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まず、横山和輝『日本史で学ぶ経済学』(東洋経済) です。著者は名古屋市立大学の研究者であり、専門は経済史です。本書は7章から成っており、前半の基礎編は3章、貨幣、インセンティブ、株式会社で、後半の応用編の4章は銀行危機、取引コスト、プラットフォーム、教育という構成です。ノッケからビットコインなどの仮想通貨と中世日本の宋銭の輸入の同一性について、あるいは、織田信長などの楽市楽座にプラットフォームをなぞらえたりと、かなり強引な立論を組み立てていたりしますし、第2章で「インセンティブ」を刺激と訳してしまっていて、通常の誘引と違うと感じたりしていますが、そのあたりの学術的な正確性を少し無視すれば、それなりに教養あふれる経済書、という気がしないでもありません。歴史を振り返ると、いくつかの経済制度などについては合理的な制度設計をすれば、自然と近代ないし現代的な経済学の応用に落ち着くといえますから、前近代的な不合理性を取り除き、近代合理主義の要素を取り入れれば、そのままに経済合理性が実現できる可能性が大きいと私は考えています。ですから、本書のように、無理やりにこじつけなくても、織田信長のように時代を画する政治家や大岡忠相のような能吏であれば、そこは自然と経済合理性と軌を一にする判断ができるのではないかというわけです。どこかの企業のように粉飾決算を急いだり、あるいは、それがもとで倒産したりするのは、何らかの不合理的な企業行動、経済活動の累積がありそうな気がします。その素材として歴史を持ち出すのは、秀逸というと大げさかもしれませんが、それなりに人口に膾炙していて一般大衆に馴染みある判りやすい比喩や暗喩を用いた本書のような解説本は、繰り返しになりますが、学術的な正確性を大目に見た上で、それなりに有益な読書だという気がします。ただ、歴史を題材に経済学を解説しているのか、逆に、経済学を基に歴史を概観しているのか、やや不分明な気もしたりします。

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次に、ジャック・アタリ『海の歴史』(プレジデント社) です。著者はご存じ、フランスを代表する文化人であり、世界的な知性でもあり、最近では現在のマクロン大統領を見出したことでも注目されています。私の記憶する限り、もともとがミッテラン大統領のころに影響力を持ち始めたんではないかと考えられますから、それなりに左翼的な思考が中心となっています。本書でも触れられている通り、マハンの『海上権力史論』の焼き直しではあるんですが、典型的な会場帝国の英米に比較して、独仏は陸上帝国であり、ロシアや中国はもっとそうですから、本書でも、数回に渡ってフランスは海上制覇を逃していると反省をしています。その観点は基本的に地政学的であり、戦争や安全保障に源流がありそうですが、同時に、海の経済的な側面も見逃してはいません。まず、海洋資源採掘の産業である漁業についてはチョッピリ取り上げられているだけです。そして、大きな比重が置かれているのは貨物と情報の伝達ないし輸送です。確かに、石油をはじめとするエネルギーや小麦などの穀物は船で海上輸送するのに圧倒的な優位があります。従って、本書でもコンテナ輸送と海底ケーブルの敷設にスポットが当てられています。前半⅓くらいは、本書のタイトルと同じで海の世界史をひも解き、それから後の後半、特に最後は海のさらなる活用と保護に関して、著者なりのいくつかの提言めいたリストで終わっていますが、ハッキリいって、とってもありきたりで何度も聞いたような事項が並べられているだけであり、この著者でなければ、多くの人は読み飛ばすような気がします。私はアタリの最新刊、ということで借りて読みましたが、それほどの内容ではありません。期待外れともいえますが、こんなもん、という気もします。読むとしても、大きな期待は禁物でしょう。

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次に、辛島デイヴィッド『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』(みすず書房) です。著者は早大の文学研究者であり、村上春樹文学が専門なんでしょうか。かなりの程度に学術書的な内容なんですが、タイトルからして私は少し誤解していました。つまり、その昔に『1Q84』でヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が注目されたように、文学では何らかの典故が見られるわけですから、b村上文学でコッソリと引用されたり、やや変形させて引用されていたり、もちろん、文学だけでなく音楽や美術などで村上作品で直接でなくとも触れられているような文学以外の他のジャンルの芸術などについて分析している学術書、というよりも、教養書のようなものを想像していましたが、違います。本書では、1080年代半ばのバブル経済初期に村上作品を英訳して米国に売り込もうと試み、結果的には、それに成功してノーベル文学賞候補にまで村上春樹をビッグにした出版社や翻訳家や編集者について取り上げています。すなわち、我が国文学のビッグスリーである谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、あるいは、安部公房を加えてビッグフォーに次ぐ村上を米国出版界に押し出そうとしたわけです。私のように母語で村上作品を読める読者には関係なさそうな気もしますし、それなりに舞台裏や黒子を表に出す作業ですから、どこまで期待していいのかは議論の分かれるところかもしれません。ただ、まだ現役の作家であり、作品を出し続けているわけで、それなりに、同時代人としてインタビューながら村上作品を米国市場に出すための翻訳や編集や出版の実態を現時点で明らかにしておくことは学術的には意味ありそうな気もします。他方で、ほとんどの典拠がインタビューですから、話者と聴取者の双方により脚色・潤色されたり、歪められたりした可能性もやや懸念されます。

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次に、M.R. オコナー『絶滅できない動物たち』(ダイヤモンド社) です。著者はジャーナリストであり、『ニューヨーカー』、『アトランティック』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』、『フォーリン・ポリシー』などに寄稿した経験を持っているようです。英語の原題は Ressurection Science であり、直訳すれば「復活の科学」とでもなるんでしょうか。2015年の出版です。ということで、人類に起因した絶滅に瀕した生物をどのようにすればいいのか、遺伝子レベルで復活させるのか、それとも、動物園などにおける「飼育」のレベルではなく、いわゆる生物界におけるニッチを探して自然界に再生させるまでする必要があるのか、などなど、絶滅種やその危惧種に対する議論を取りまとめています。タンザニアのカエルやアフリカのサイ、いろんな本で見受けられるアメリカのリョコウバト、あるいは、思い切ってネアンデルタール人まで、さまざまな種が取り上げられています。かつて、ダイヤモンド教授の一連の書籍を読んだ際に、どの本だったかは忘れましたが、生物の多様性について飛行機のリベットになぞらえられてあり、どれかひとつが失われることによるバランスの議論がなされていたように記憶しています。私は遺伝子レベルで生物多様性を論じることに大きな意味は見いだせず、生物界のバランスの中で失われて仕方ない生物種もあるような気がしますが、他方で、リョコウバトのように人類の勝手な行動により失われる種については惜しいような気もします。経済学はモデルの美しさから物理学に親近感を覚え、歴史的な進歩を生物学的進化になぞらえて、やっぱり、生物学に親近感を覚えるんですが、生物学と経済学は物理学と違って、ともにやたらと多数の変数を含むモデルですから、モデルの数学的な分析だけからでは予測の正確性に欠ける場合があります。本書でも指摘されているように、気候変動と生物進化の関係も解き明かされつつあり、なかなか興味不快問題ながら解決の難しさも感じてしまいました。

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最後に、古市憲寿『平成くん、さようなら』(文藝春秋) です。著者は話題の社会学者であり、若者文化の分析で若くして名を成しています。第160回芥川賞候補に上げられています。なお、タイトルの「平成」は今年2019年4月限りで終わる年号ではなく、その年号の登場とともに生を受けた人物名であり、「ひとなり」とよむようです(p.7)。そして、やや年齢違いながら、著者ご本人や落合陽一などになぞらえられているような気もします。でも、この作品がフィクションの小説ですので、そのあたりは確実ではありません。そして、その主人公は著者の造形らしく、合理的でクールな人柄で、例えば、意図して合理性を失う行為である飲酒を忌避したりします。しかも、平静を代表する人物であるだけでなく、学術的な成果もあってテレビのコメンテータなどでも活躍して金銭的な不自由なく、漫画家の霊場としてビッグコンテンツ管理で、これまた金銭的な不自由ない女性と同棲しつつも、性的な接触を嫌ったりもします。そして、ここからが問題なのですが、この作品がとても小説的で現実と異なっているのは、日本で安楽死が合法化されているだけでなく、かなりの安楽死先進国となっている点であり、平成くんが安楽死を希望している、ということです。同棲しているパートナーは平成くんに安楽死を思いとどまらせようといろいろなことをします。それがストーリーを形成しているわけですが、時間の進みとともに、平成くんが安楽死を希望している理由、あるいは理由の一端が明らかにされたりしますが、ラストの数ページを読む限り、平成くんは安楽死したのではないか、と思わせる締めくくりなんだろうと私は受け止めています。今上天皇の退位と年号としての平成の終了に関しては、大きなリンクはないと考えるべきです。
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2018年12月29日 (土) 13:02:00

今年最後の読書感想文はアジア開発銀行50年史など計6冊!

今年2018年最後の読書感想文のブログです。何といっても目玉はアジア開発銀行(ADB)50年史です。私はドライな人間ですから、どうということはありませんが、熱血漢であれば涙なしには読めない感動モノです。それから、年末年始休みに合わせたわけでもないんですが、何となくフィクションの小説が増えた気がします。いろいろと取りそろえて以下の6冊です。

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まず、ピーター・マッコーリー『アジアはいかに発展したか』(勁草書房) です。著者はオーストラリアのエコノミストであり、やや判りにくいタイトルなんですが、上の表紙画像の英語の原題である "50 Years of the Asian Development Bank" にうかがえる通り、本書はマニラに本部を置く国際機関であるアジア開発銀行(ADB)の50年史です。ですから、まあいってみれば、社史と同じで基本的に提灯本ではあるんですが、私の専門分野とも近く、アジア各国の経済発展の歴史をコンパクトに取りまとめていますので、オススメです。歴代の総裁に対する提灯持ちの姿勢は別としても、世銀や国際通貨基金(IMF)などのワシントン・コンセンサスに従った制作決定や業務運営と異なって、アジア開発銀行(ADB)ではもっとアジア的な色彩が強いのは事実ですし、その意味で、本書では世銀・IMFは国際収支への支援であるのに対して、ADBは医療などの社会政策や教育も含めた財政支援を重視した、というのは事実なんだろうと思います。巻末資料も豊富です。

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次に、オーナ・ハサウェイ & スコット・シャピーロ『逆転の大戦争史』(文藝春秋) です。著者は2人共米国イェール大学法学部の研究者であり、専門分野は国際法と法哲学ということのようです。英語の原題は The Internationalists であり、2017年の出版です。ということで、中世の絶対王政期から以降の現在までの期間における戦争に関する国際法の歴史について概観しています。オランダのグロティウスによる戦時国際法の確立から、基本的に、勝者の理屈が通る世界だった戦争に関する国際法なんですが、1928年のパリ不戦協定によって、それまでの帝国主義的な領土分割の結果が固定され、それ以降の侵略戦争に対する風当たりが厳しくなった点を跡づけています。その点で、日本も着目されており、満州国の成立とそれを否定するリットン調査団は、そういった世界的な風潮の最初の兆候であったと振り返っています。特に、1928年のパリ不戦協定から第2時世界大戦を経て、戦争や領土獲得を目的とした征服が大きく減じた点をパリ不戦協定の功績として着目しています。私は、進歩主義者として、こういった画期を考えるのではなく、世界の進歩の方向がそうであった、としか思えませんが、まあ、興味深い歴史的論考だと思います。

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次に、澤野由明『澤野工房物語』(DU BOOKS) です。私は音楽の方ではもっぱらにモダン・ジャズばかり聞いていますので、この澤野工房という欧州ジャズの、しかも、ピアノを中心に制作しているマイナー・レーベルは当然に知っています。私が聞いたのは、本書でも紹介されているウラディミール・シャフラノフにトヌー・ナイソー、そして、もちろん、山中千尋の初期作品です。シャフラノフや山中千尋はメジャーに移籍してしまいましたが、少なくとも、山中千尋については、私は移籍前後の、澤野工房でいえば「マドリガル」、あるいは、メジャー移籍後のヴァーヴでのデビュー第1弾「アウトサイド・バイ・ザ・スウィング」をもっとも高く評価しています。ジャズのマイナー・レーベルといえば、本場米国のアルフレッド・ライオン による「ブルーノート」、オリン・キープニュースによる「リバーサイド」、ボブ・ウェインストックによる「プレスティッジ」がとても有名なんですが、かのマイルス・デイビスがプレステッジからメジャーのCBSコロンビアに移籍する直前のマラソンセッションなども有名です。それはともかく、欧州のピアノ・ジャズが多いとは感じていましたが、澤野工房が兄弟2人で大阪の新世界と欧州に展開していたとか、元は履き物屋さんだったとか、知らない話題も満載で、とても楽しむことができました。

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次に、伊坂幸太郎『フーガはユーガ』(実業之日本社) です。作者はご存じの通りの売れっ子のミステリ作家で、数多くのエンタメ小説をモノにしていて、本書は最新作です。兄優我と弟風我の2人が、誕生日に2時間おきに入れ替わるというオカルト的な現象をアレンジして、優我がそれをテレビで取り上げてもらうべくジャーナリストにモノローグするという形でストーリーが進みます。父親のDVから始まって、暗くてノワールなトピックも盛り込みながら、独特の伊坂ワールドが展開されます。時折挟まれる優我の嘘が混じる旨のモノローグもあって、どこまでがホントで、どこからがウソなのか、瞬間移動もウソなんではないか、と思わせつつ、最後に大きなどんでん返しが待っています。なかなか、痛快でスピード感あふれるストーリーなんですが、ひとつだけ、同じような不可解なオカルト的な現象が生じる西澤康彦の『7回死んだ男』では、「反復落し穴」という独特のネーミングを用いています。本書でも双子の瞬間移動に何か特徴的な名前を付けて欲しかった気もします。

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次に、宇佐美まこと『骨を弔う』(小学館) です。今年2018年最大の話題を提供したミステリの1冊ではないでしょうか。ようやく図書館の予約が回ってきました。ということで、小学校高学年10歳過ぎくらいの仲良し同級生の男子3人女子2人の5人による秘密の行動の謎を、その中の1人である男子が解き明かそうと試みます。小学生の男女数名の仲良しグループの再会、ということになれば、スティーヴン・キングの『It』を思い出してしまいましたが、非科学的なホラーの要素はありません。それよりも、私の限られた読書経験の範囲からすれば、柴田よしきの『激流』っぽい気もしなくもありません。それにしても、評判に違わずなかなかの出来の小説です。個々人の名をタイトルにした章に合わせた文体の書き分けはまだしっくり来ておらず、一部に違和感が残るものの、プロット、とうか、構成はとても目を見張るモノがありました。ただ、最終章は蛇足というよりも、ムダそのものです。一気にストーリー全体がウソっぽくなってしまっています。文庫本に収録する際には削除すべきかもしれません。

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最後に、湊かなえ『ブロードキャスト』(角川書店) です。作者はご存じ売れっ子のミステリ作家です。とても明るい青春小説です。ただ、主人公が中学3年生から高校1年生の1年足らずの期間ですので、やや幼い気もします。従って、恋愛感情などは表には現れません。ということで、中学まで陸上の駅伝などの長距離走者だった主人公が、高校の合格発表の帰り道で交通事故にあって陸上を諦めて放送部の部活を始め、陸上部の駅伝で果たせなかった全国大会出場を目指す、というストーリーです。主人公は陸上でも、本書のタイトルとなった放送部でも目標となり、よき刺激を受けるライバルや友人に恵まれ、のびのびと高校生活を送ります。ただ、陸上を諦める大きな原因となった交通事故については、もう少し詳細を明らかにして欲しかった気がします。でも、私は今もってこの作品を読んだ後でも、この作者の最高傑作はデビュー作の『告白』だと思っているんですが、一連のモノローグの暗い物語から、次々に新境地を拓く作者に注目しているのも事実です。
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2018年12月22日 (土) 11:28:00

今週の読書は『宮部みゆき全一冊』や経済書をはじめ計7冊!!!

今週も、経済学や経営書を含めて計7冊、以下の通りです。来週金曜日を本年最後の開館日として、図書館は年末年始休みに入るところが多いような気がします。年末年始は少しDVDを見たり、文庫本を読んでのんびり過ごそうと予定しています。

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まず、ダン・アリエリー & ジェフ・クライスラー『アリエリー教授の「行動経済学」入門 お金篇』(早川書房) です。著者のうちアリエリー教授は実験経済学を専門とする研究者であり、もうひとりのクライスラーは弁護士の資格持つコメディアンだそうです。英語の原題は Dollars and Sense であり、2017年の出版です。タイトルからもお金にまつわる話が多いとされているようですが、中身はそれほどお金の話ばかりではなく、行動経済学一般の入門書となっています。ただ、こういったアリエリー教授の行動経済学の入門書は、類書も含めて、私も数冊読みましたが、どれも同工異曲であって、ツベルスキー・カーネマンのプロスペクト理論を基に、いくつか最近の実験経済学らしい実験結果を盛り込みつつも、よく似た内容が多くて、そろそろおなかがいっぱいになりそうな気がします。すなわち、相対性に幻惑されたセール価格の魅力、心の会計としてお金を分類して無駄遣いを抑制する心理、出費の痛みを軽減して支出させるマーケティング手法、アンカリングによるバイアスの発生、モノだけでなく経験も含めた所有に基づく授かり効果や損失回避、公正の実現と労力、マシュマロ・テストのような自制心の涵養、価格を過度に重視する製品ラインナップの幻惑、などなど、私のような行動経済学は専門外とはいえ、それでも何冊かのこういった本を読んでいれば、今までに見たことのありそうなトピックが満載です。私の方から、本書で取り上げられていない公正と効率のトピックをひとつ上げると、マクドナルドのマニュアルにはフォーク型の1列の行列ではなく、パラレルな平行型のレジごとに並ぶ行列を取ります。1列に順番で並ぶと、行列の先頭からレジに行くまでの時間が無駄を生じることとなり、効率を重視するとレジごとに平行で並ぶ行列が推奨される一方で、フォーク型に並ぶのはお店に着いた準晩が注文する順番と一致するわけですから公正の観点からは受け入れやすい気もします。本書では労力を費やして公正を達成する心理が取り上げられていますが、こういった効率と公正がトレード・オフの関係にある場合も少なくないわけで、本書では取り上げられていないながら、行動経済学はマンネリではなく、さらに発展の可能性があると私は評価しています。

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次に、田中靖浩『会計の世界史』(日本経済新聞出版社) です。著者は公認会計士事務所の所長であり、研究者ではなく実務の一線でご活躍のようです。本書は3部構成となっており、第1部では中世イタリアで発生した複式簿記にスポットを当て、イタリアからオランダに簿記が普及し、自分のビジネスがどうなっているかを自分で解明する、というか、お金の観点から把握する試みとして、その歴史が跡づけられます。第2部では英国から米国の大西洋を挟んだアングロサクソンの国で、ルールに則って投資家に対して情報を開示する手段としての財務会計として発展する会計が描き出されます。そして、最後の第3部では米国を舞台にビジネス展開の基礎となる情報を提供する管理会計の発達に着目します。単に、会計や経済の同行だけでなく、絵画や音楽といったハイカルチャーやポップカルチャーの動向も合わせて歴史的に跡づけながら、会計と経済社会、さらに文化も包括的に解明しようと試みています。そして、私の見る限り、かなりの程度にこの試みは成功しているんではないかという気がします。あるいは、マルクス主義的な下部構造と上部構造というのはいいセン行っているのかもしれません。オランダのチューリップ・バブルや英仏両国を巻き込んだ南海会社事件などのバブルも興味深く取り上げられています。全体として、初学者にも配慮された入門編の趣きを持って、会計の観点から西洋先進国の経済社会の歴史を解明しようと試みた本書なんですが、「会計史」を標榜するからには、中世イタリアでかなりの程度に自然発生的に始まった複式簿記のごく初期の歴史にまったく触れていないのはとても大きな欠落ではないかと私は考えています。タイプライタのキーの並びと同じで、複式簿記の開始に当たっても、何らかのエピソードがあるんではないかと私は想像しているんですが、会計史の観点から複式簿記誕生秘話のようなものが冒頭に置かれていれば、もっと印象がよくなったんではないか、という気がします。

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次に、マーク・リラ『リベラル再生宣言』(早川書房) です。著者は、もちろん、リベラルな政治史の研究者であり、米国コロンビア大学教授です。英語の原題は The Once and Future Liberal であり、2017年の出版です。軽く想像される通り、2016年の米国大統領選挙でトランプ大統領の当選を受けてのリベラルの側からの反省の書といえます。一言で言うと、2016年米国大統領選でのリベラルの敗因は、アイデンティティ・リベラリズムによる特定のグループへの特別の配慮を上から目線で恣意的に決定する市民視点の欠落である、と本書では指摘しています。それを、1930年代からのルーズベルト大統領によるニューディールに始まる時期、1980年代からのレーガン大統領による右派反動の政治期、そして、2016年のトランプ当選で新たなポピュリズム期、の3期に分けて論じています。先行きについては、第3部でリベラルが選挙で勝って巻き返すために、著者は市民の立場を強調しています。ただ、私には「市民」あるいは「市民の立場」という概念は大きな疑問です。というのは、市民の構成要員によるからです。米国では150年前の南北戦争後も、おそらく、1960-70年代くらいまで黒人は市民の構成要素ではなかったのではないでしょうか。さらに、その前の時代では女性は市民ではなかった可能性が高いと私は考えていますし、21世紀の現代でも、例えば、イスラム教徒の移民は市民に入れてもらえない場合がありそうな気がします。2008年の米国大統領選の際の当時の現職だったオバマ大統領に対する執拗な批判もその観点ではなかったでしょうか。ですから、私は従来から指摘しているように、リベラルないし左派というのは進歩主義で測るべきと考えています。私は圧倒的に進歩史観であり、多少のジグザグはあっても、生産性は伸び続け、そのため、財やサービスの希少性は低下し、従って、価格は低下し、その昔は金持ちしか利用可能性がなかった財やサービスが広く一般に開放される、という未来を思い描いています。その前の段階では市場において希少性に従った配分がなされるわけですから、それが平等の観点から不都合であれば、再分配を政府が行う必要があるわけです。それすら必要なく、市場に従った配分の下で決定され、平等性には配慮されていないままですから、自由を重視する右派と平等、あるいは、平等を実現するために進歩を旗印にする左派あるいはリベラル、という視点が重要ではないか、と専門がいながら私は考えています。

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次に、リチャード・ブリビエスカス『男たちよ、ウエストが気になり始めたら、進化論に訊け!』(インターシフト) です。著者は、米国イェール大学の人類学や進化生物学の研究者であり、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は Hoe Men Age であり、2016年の出版です。ということで、人類学と生物学の学際的な研究成果、ということであれば、とても聞こえはいいんですが、私の目から見て、進化論的な適応と経済社会的な適応がゴッチャになっている印象で、どこまで区別出来るのか出来ないのか、あるいは、本書のように渾然一体として論じるのが正しいのか、私には判りかねますが、少し疑問に思わないでもありません。加えて、確かに、WEIRD=West; Educated; Rich; and Democraric な男性の老化を論じているわけですが、女性との違いが小さすぎるような気がします。本書で強調されている免疫力の男女差がひいては寿命の差につながる可能性はまだしも、特に、日本語タイトルにしてしまったウェストのサイズは男女ともに年齢とともに太るわけであり、程度差はあるかもしれませんが、年齢とともにウェスト周りが太るのは男女間で方向は同じであるような気がします。そして、結局のところ最後は、オキシトシンとか、テストステロンとかのホルモン、というか、脳内分泌物質に行き着くわけで、それはそれでOKだと私は考えるんですが、同じか別か、進化論的・生物学的な適応や自然選択と経済社会的な適応について、さらに両者のインタラクティブな関係やフィードバックについて、また、男女の性差についても、もう少し掘り下げた議論が欲しかった気がします。最後に、p.127 図4-1 の出展論文の著者なんですが、Kunert とありますが、ウムラウトが付く Künert だと思います。少子化の関係で、私のような専門外のエコノミストでも見た記憶があり、編集の方にはもっと正確を期して欲しいと思います。

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次に、赤上裕幸『「もしもあの時」の社会学』(筑摩選書) です。2016年にオックスフォード辞書でポスト・トゥルースが選ばれて以来、フェイク・ニュースをはじめとして、真実ではない「なにか」をターゲットにした論考が少なくありませんが、本書では1997年出版のニーアル・ファーガソン教授の「仮想歴史」を題材にして、反実歴史、すなわち、事実として確定した過去に歴史に対して、そうでない反事実の歴史を仮定してその後の歴史の同行や流れを考察した社会学、というか、私のは歴史学にしか見えませんが、そういった人文科学分野の学問について紹介しています。典型的に反事実を考えるには戦争の勝者と敗者を逆にすればいいわけで、我が国のSF文学でも半村良の一連のシリーズや第2時世界大戦で日独が英米に勝利する仮定で歴史の流れを考えるSFに近い文学もあります。ただ、本書を読む限り、歴史の流れについての基礎的な認識が私と違っている気がします。すなわち、マルクス主義的な唯物史観に近い私は歴史の流れは、生産性の向上という流れが貫徹しており、基本的に進歩史観ですから、典型的には、コロンブスが米大陸を発見しなかったとしても、結局、誰かが発見していたであろうし、歴史の分岐以降、永遠に離れることはない、と考えているのに対して、本書の歴史観はどうもハッキリしません。私のようなホイッグ的なマルクス主義的な歴史観では、反事実な歴史の分岐があったとしても、例えば、第2時世界大戦で日独枢軸国側が勝利していたとしても、歴史はカギカッコ付きながら「修復」され、結局、自由と民主主義が勝利する方向に変わりなく、やや寄り道するとしても、世界は進歩を止めることはない、ということになります。その基礎となるのは経済の生産性であり、物的な生産性が高まれば、経済学的な希少性が低下し、そのため、価格が低下して、かつてはごく少数の人、すなわち金持ちしか利用可能性がなかった財・サービスでも多くの人に利用可能性が開け、必要に応じて配分されるシステム=共産主義が実現される、それも、血なまぐさい革命なしに経済の生産性向上がそれを実現する、ということになっており、その意味で、私の進歩史観はとても単純で判りやすいんですが、本書の歴史観は私にはやや不可解であった気がします。

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次に、ロバート H. ラティフ『フューチャー・ウォー』(新潮社) です。著者は米国空軍を少将まで務めて退役したエンジニアであり、英語の原題はそのまま Future War となっていて、2017年の出版です。日本語タイトルの副題が『米軍は戦争に勝てるのか?』となっていますし、宣伝文句ながらAIが戦争や戦闘行為をどのように変えるのか、といった視点が強調されていたりしますが、まあ、そういった私のような一般大衆が興味を持ちそうな論点も含めて、極めて幅広くかつバランスよく論じています。ただ、主要な論点は2点に絞られ、すなわち、兵器の技術的進歩と人間あるいは先頭の先頭に立つ可能性あるロボットなどの倫理性です。前者については、「サイバー攻撃」なんて言葉が広まっていますし、伝統的な戦闘行為だけでなく、電力や水道などのライフラインに対するサイバー・アタックも私のような専門外の一般大衆ですら想像できるような世の中になっています。20世紀半ばから現在まで飛行機が空軍の創設に導いたように、兵器の技術的進歩が軍事組織の再編成を伴いつつ進んでいます。核兵器の開発はその最たるものといえます。今週になって、米国のトランプ大統領が宇宙軍 (Space Force) の創設を明らかにしましたが、これも技術的な裏打ちあってこそのことではないでしょうか。もうひとつの倫理性については、時代の進歩とともに国際法も倫理面を重視するように進歩していることは確かなんですが、本書の用語を用いれば、国際法の縛りを受けない「国家未満」のグループがテロ行為に及ぶケースが増えており、なかなか終息の兆しもありません。ただし、本書のように戦闘行為ではなく、戦争を全面に押し出せば、戦争で倫理を問うのは私には無益なことに見えます。つまり、戦争そのものが倫理性に欠けるからです。例えば、銃に実弾を装填して人間に狙いを定めて引き金を引けば、戦争状態ではないという意味で、通常であれば明らかに殺人を試みた行為として、何らかの法律で裁かれる可能性がありますが、戦争においては敵兵に対して銃をぶっ放すのは、もちろん、その結果として死亡させるのも明らかに免責されます。そのような非倫理的な戦争において、捕虜の扱いとか、毒ガス使用などを倫理や道徳の観点からいくら論じても、かなり無益な行為のように私には思えるんですが、いかがでしょうか。

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最後に、宮部みゆき『宮部みゆき全一冊』(新潮社) です。昨年だか、今年だかに、作家活動30年を迎えた人気作家の未収録短編やインタビュー、書評を含むエッセイを幅広く収録するとともに、何と、ご本人による『ソロモンの偽証』の朗読CDも付属しています。私が借りた図書館は、もちろん、CDごと貸してくれました。確か、昨年の『この世の春』が30年記念の出版だったように記憶していますが、時代小説だったので、私のはあまりピンと来ませんでした。というのも、私はこの作者の作品は、もちろん、広範に読んでいるんですが、どうしても時代小説は後回しになって、現代ものが中心です。そして、宮部みゆきの最高傑作ということになると、直木賞受賞の『理由』や山本周五郎賞受賞の『火車』などが上げられる場合が多いんですが、倒叙ミステリながら私は『模倣犯』を推すことが多いような気もします。ただ、やっぱり、『模倣犯』を超えるとすれば、『ソロモンの偽証』も最高傑作の候補になろうか、という気もします。ということで、最高傑作が何かということはさて置いて、本書では、今までバラバラだったインタビューや鼎談などのナラティブを一挙に読めるという意味で貴重な存在ではないかと受け止めています。まだ、CD-ROMは聞いていませんので、何ともいえませんが、年末年始休みに聞いてみるのも楽しみです。
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2018年12月15日 (土) 11:49:00

今週の読書は経済書中心にボリュームたっぷりの計6冊!!

今週はいろいろあって、経済書を中心、というのは通例通りなんですが、小説や新書なしで以下の通りの計6冊でした。いつもと変わらぬ冊数なんですが、今週の読書では、1冊1冊のボリュームがかなりあり、400ページを超える本も少なくなかったので、経済書中心の質感とページ数の量感ともに、かなり充実した読書だったような気がします。

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まず、安達誠司・飯田泰之[編著]『デフレと戦う-金融政策の有効性』(日本経済新聞出版社) です。著者・編者は、巷間、よくリフレ派と呼ばれているエコノミストであり、私の知り合いはもちろん、その昔にミク友だったところ、mixiが廃れるとともにやや疎遠になった方、あるいは、その昔に書いた論文の共著者も含まれていたりします。ですから、私にはとてもスンナリと頭に入ってくる論文集でした。冒頭の編者によるエディトリアルを読めば、各チャプターの概要や結論は明らかですが、基本的に、現在の黒田総裁の下での日銀の異次元緩和をサポートする内容となっています。その中でも、特に私の印象に残ったのは、第1章では、p.35の図1-5に見られるように、多くのエコノミストの直観的な理解と整合的にも、日銀の金融緩和が生産に及ぼした影響についてVARプロセスで分解すると、株価を通じた影響がもっとも大きい、というものです。ほかに、ブロック・リカーシブ型のVARプロセスの応用、フィリップス曲線のレジーム転換、連邦準備制度理事会(FED)の議長も務めたバーナンキ教授の研究にも応用されたファイナンシャル・アクセラレータに着目した分析、ソロス・チャートとして人口に膾炙したマネタリーベースの為替への影響、さらに、企業パネルデータを用いた為替の影響の分析、各種の予想インフレ率のパフォーマンス測定などなどですが、第8章では定量分析というよりも理論モデル分析で財政政策の物価理論(FTPL)についてサーベイがなされています。ただ、やや厳しい見方に過ぎるかもしれませんが、物価目標達成の時期については何らかの分析は欲しかった気がします。副総裁就任時の国会での所信表明で、当時の副総裁候補であった岩田教授は「2年で達成できなかったら辞任する」と見得を切ったわけですから、現在の金融緩和政策が有効であるとの分析結果を示すだけでなく、動学的というと少し違うのかもしれませんが、どういった期間で物価目標が達成できるのか、についての分析が今後進むよう期待しています。

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次に、岩田規久男『日銀日記』(筑摩書房) です。著者は、ご存じの通り、リフレ派の経済学者から日銀副総裁として金融政策の現場に乗り込み、今年2018年春に退任しています。就任前の国会での所信表明で、2年間で物価目標2%を達成できなければ辞任すると大見得を切って話題になったりもしました。そして、本書では、その2%の物価目標を達成できなかった最大の要因として、2014年4月の消費増税によるリフレ・レジームの転換と国際商品市況における石油価格の下落によるコスト面からの物価下押し圧力を上げています。リフレ派エコノミストの末席を汚している私にはとても判りやすい内容でした。ただ、後に取り上げる権丈先生のご本にあるように、手にした学問が異なれば答えは違ってきますので、私と同じ意見かどうかは手にした学問次第かもしれません。ただ、アベノミクス登場前のリフレ的な経済政策は、どうしても日陰の花だっただけに、本書でもかなり過激な言説が現れています。こういったあまりに率直な、率直すぎる議論の展開で、逆に、リフレ派経済学が国民一般から遠ざかった点は反省が進んでいると私は考えていたんですが、公職を退かれた勢いもあるとはいえ、やや下品に感じる読者もいるかも知れません。そういった率直すぎる感想は、特に、アベノミクスの登場とともに野党に転じた副総裁就任当時の民主党議員との国会論戦に典型的に見受けられます。それを総称して「経済音痴」と表現されていますが、米国のクリントン大統領のころの選挙キャンペーンで人口に膾炙した "It's the economy, stupid!" ということなのだろうと思います。要するに、「経済音痴」であれば選挙に勝てず、政権から脱落する、あるいは、政権を取れない、ということです。

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次に、ダーシーニ・デイヴィッド『1ドル札の動きでわかる経済のしくみ』(かんき出版) です。著者は英国HSBC銀行の立会場でエコノミストとして働いていたときにBBCにヘッドハンティングされキャスターに転身したキャリアの持ち主です。ファーストネームから私はインド系を想像します。英語の原題は The Almighty Dollar であり、2018年の出版です。ということで、世界の基軸通貨たるドルがどのように世界を駆け巡るか、同時にその逆方向にどのような財サービスがドルと交換されるか、について、それぞれのドル札の行き先の国とともに経済現象について、極めて上手に取りまとめています。最初はドル札が米国の消費者によって中国製のラジオを買い求めるのに使われ、もてん派的な比較生産費説による交易の利益が解説され、ドル札の行き先の中国の為替制度に関連して変動相場と固定相場の説明があり、石油と交換されてナイジェリアに注目されて石油開発のための直接投資について、さらに、インドではロストウ的な経済の離陸と発展段階説などの開発経済学とともに、モディ政権下での高額紙幣の廃止による混乱、などが取り上げられ、最後の方では金融資産の購入の意味やバブルとその終息によるリーマン証券の破たんに伴う経済の収縮に触れています。お約束のように、英仏の南海バブルやオランダのチューリップ・バブルにも言及しています。全体として、繰り返しになりますが、とてもよく取りまとめられています。そもそも通貨や貨幣がどうして物々交換に取って代わったかは、とてもシンプルに説明しているのはいいとしても、いきなり基軸通貨の米ドルから始まっていて、英ポンドが米ドルに取って代わられた、という歴史的事実も付け加えて、基軸通貨が交代する可能性についても、もう少し非経済的な要因とともに取り上げて欲しかった気がします。でも、経済に詳しいビジネスパーソンなどは物足りないと感じるかもしれないものの、初学者の大学生とかにはとてもよく出来た経済の解説書だと私は考えます。

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次に、ティム・ハーフォード『50 いまの経済をつくったモノ』(日本経済新聞出版社) です。著者はファイナンシャル・タイムズ紙のジャーナリスト・コラムニストです。英語の原題は Fifty Things That Made the Modern Economy であり、2017年の出版です。ということで、50の財・サービス・システムなどを上げて、ただし、決して重要性の観点から順序付けをしたのではないと著者は断りつつ、近代社会成立への貢献を明らかにしています。50の項目は出版社のサイトにありますので、ご興味ある向きは参照できます。パフォーマンスを保存できる蓄音機、もちろん、現在の電子本やデジタル録画されたDVDなども含めて、その蓄音機などからスーパースター経済の1人勝ち経済社会の基礎ができ、有刺鉄線による囲い込みから私有財産が守られるようになり、などなどなんですが、制度学派が財産権の確立をもってイングランドにおける産業革命の発生の要因としているくらいですから、本書にそのような明記なくとも、そういったバックグラウンドを知っておくとさらに本書の読書が楽しめるかもしれません。加えて、本書では冷凍食品に関連してTVディナーの功罪を取り上げるなど、本書で着目された50のコトが近代社会を作り上げた重要な要素とはいえ、必ずしも、経済社会が倫理的・道徳的に正しい方向に導かれたかどうかは一部に懐疑的な姿勢を示しています。とくに、最後の電球の第50章で、100年前の年収7万ドルと現時点での年収7万ドルのどちらの生活が望ましいか、と大学生に問えば、かなりの学生が100年前に圧倒的に実質価値の高かった年収7万ドルよりも、現時点での年収7万ドルを選ぶ、というポイントは外せません。物価をはじめとする統計に表れない近代・現代生活の利点がいっぱいあるわけです。そして、こういった利点をもたらした発明・発見に本書では焦点を当てています。Google検索やiPhoneといった現在のデジタル・デバイス、銀行・紙幣・保険に有限責任株式会社などの現在経済の基礎的なシステム、紙や時計やプラスチックなどの近代社会の不可欠だったモノ、などとともに、とても意外なモノや制度なども取り上げられています。例えば、日本ではピル解禁が遅れたので女性の社会進出が進まなかった、などの観点も私には目新しかったりしました。その意味で、なかなか興味深く、近代ないし現代の経済社会を論じる好著でした。

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次に、権丈善一『ちょっと気になる政策思想』(勁草書房) です。著者は慶應義塾大学の研究者であり、社会保障の分野の専門家です。従って、短期的な合理性や整合性とともに、長期的なサステイナビリティにも目が行き届いたエッセイに仕上がっていますが、講演やスピーチなどのオーラルなプレゼンをいくつか収録していますので少し重複感を感じる読者はいるかもしれません。冒頭に著者から著書がシリーズ化される弱点があるとの指摘がありますが、私は不勉強ながらこの著者のご本は初めて読みましたので、それなりに新鮮でした。ということで、まず、著者は、需要サイドの経済学を左側、供給サイドの経済学を右側と定義し、現在のような一部の消費の飽和が見られるような経済社会ではなく、その昔の必ずしも生産力が十分に発達しておらず、作れば売れる時代の供給サイド分析を中心とする右側の経済学から、スミスやリカードをはじめとして、究極のところ、セイの法則などが出現した、と分析し、他方で、左側の経済学はケインズの直前のマルサスを起源に据えています。そして、その観点から社会保諸、特に年金の政策思想を分析しようと試みています。特に強調しているのが、社会保障に限らず企業活動もご同様と私は考えるんですが、将来に対する不確実性です。すなわち、シカゴ学派のナイト的なリスクと不確実性の区別に基づき、確率分布が既知であるリスクに対して、事前には情報のない不確実性があるからこそ、貨幣と実物を二分する貨幣ベール説からケインズ的な流動性選好の学説が生まれ、将来の不確実性への対処のひとつの形として貨幣が保蔵される、と主張します。その上で、経済成長とともに平等と安定の実現による経済厚生の向上を政策目標と示唆しています。なお、私が深く感銘したのは、手にする学問が異なれば答えが変わる、という著者の主張です。名探偵コナンではありませんが、よく理想的に真実はひとつとの主張も見かけますが、私は実務的に経済政策に携わって30年超ですから、何となく理解できます。ニュートン的に表現すれば、どの巨人の肩に乗るかで見える風景が違うんだろうという気がします。

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最後に、片岡義男『珈琲が呼ぶ』(光文社) です。小説家の手になるコーヒーに関するエッセイです。ただ、もうすぐ幕を閉じようとしている平成のエッセイではなく、昭和のエッセイです。ですから、本書では「グルメ・コーヒー」と称されているスターバックスとかのプレミアム・コーヒーではなく、伝統的な喫茶店で飲むコーヒーを主眼にしています。その喫茶店の立地は東京が中心なんですが、本書冒頭ではなぜか、京都が中心に据えられていたりします。私は京都大学に通っていましたから、それなりに、京都における昭和の喫茶店は詳しいと自負していたんですが、ほとんど知らないところでしたので、やや不安を覚えたりもしましたが、まあ、こんなもんなんでしょう。こういったエッセイを読んでいると、私自身も片足突っ込んでいるんですが、年配の読者層を意識した本の出版がこれからも増えそうな気がして、少し怖いです。
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2018年12月09日 (日) 14:29:00

先週の読書は経済・金融の専門書や話題の海外ミステリをはじめ計7冊!

昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書日が1日多くなったこともあり、先週の読書は計7冊です。経済や金融の専門書に歴史分野などの教養書、さらに、話題の海外ミステリなどなど、盛りだくさんに以下の通りとなっています。今週もすでに図書館回りを終え、経済書や金融専門書など数冊を借りてきています。

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まず、馬奈木俊介[編著]『人工知能の経済学』(ミネルヴァ書房) です。経済産業総研(RIETI)に集まった研究者による研究成果であり、タイトルといい、馬奈木先生の編著であることからも、かなり期待したんですが、さすがに、せまいAIだけの研究はまだ成り立たないようで、かなり広くICT技術の進歩に関する経済学の論文集と考えるべきです。特に、最後の第Ⅳ部のAI技術開発の課題に含まれているICT技術と生産性については、まだ、生産工程にAIがそれほど実装されているわけではなく、チェスや囲碁といったボードゲームやクイズ番組でチャンピオンを破ったからといっても、特定の産業の生産性が向上するわけではありません。もちろん、AIならざるICTばかりが取り上げられているわけではなく、ドローンや自動運転技術の開発なども含む内容となっています。英国オックスフォード大学のフレイ&オズボーンによる有名な研究も着目されており、AI導入に伴う雇用の喪失についての結果は、極端であると結論しています。また、第Ⅱ部のAIに関する法的課題といったタイトルながら、選択理論においてはゲーム理論のナシュ均衡をはじめとして経済学の思考パターンが応用されており、タイトル通りの狭義AIだけでなく、AIをはじめとする幅広いICT技術の経済学と考えた方がよさそうです。

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次に、ジョナサン・マクミラン『銀行の終わりと金融の未来』(かんき出版) です。著者にクレジットされているジョナサン・マクミランとは架空の存在であり、実は2人の人物、すなわち、マクロ経済学者と投資銀行家という意外な組み合わせと種明かしされていますが、誰かは明記されていません。英語の原題は The End of Banking であり、2014年の出版です。ということで、本書の定義する「バンキング」とは、信用からマネーを作り出すこと、と定義し、産業経済時代には小口の短期的な流動性高い預金から大口の貸付を行って資本蓄積を進める必要あったものの、デジタル経済時代には、本書でいうソーシャルレンディング、我が国では一般にクラウド・ファンディングと呼ばれる手法により、金融機関に小口の預金を集中させることなく資金調達が可能となっており、本書で定義するバンキングなしの金融活動は可能であるし、望ましい、と結論しています。そして、そのひとつの方法としてナローバンキング、すなわち、投資行為なしに決済だけを業務とする銀行・金融機関などを提唱しています。私はなかなか理解がはかどらなかったんですが、現時点の金融システムは、ある程度は、政府や中央銀行がデザインしたものも含まれるとはいえ、それなりに資本制下で歴史的な発展を遂げてきたものであり、政府や中銀の強力な規制により著者の目論むようなバンキングのない金融システムを構築する合理性が、単に、金融危機の回避だけで説明でき、国民の納得を得られるのか、という疑問は残りました。さらに、その上で、金融機関による決済業務の重要性について、キチンとした分析ないし説明がなされるべきではないか、と思いますし、自己資本比率の引き上げによりマネーの創造の上限を抑制できるわけですから、自己資本比率の引き上げとの違いについてももう少し詳しい議論の展開が求められるような気がします。とても良い目の付け所なんですが、少し、そういった点で、手抜きではないにしても、説明不足あるいは不十分な考察結果のような気がします。

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次に、スティーブン・レビツキー & ダニエル・ジブラット『民主主義の死に方』(新潮社) です。著者は2人とも米国ハーバード大学の研究者であり、英語の原題は How Democracies Die となっていて、2018年の出版です。タイトルからも明らかな通り、最近におけるポピュリズムの台頭を民主主義の危機と受け止め、特に米国トランプ政権が多様性を認め寛容な米国民主主義に対する大きな挑戦をしている点を、いかに米国の伝統的な民主主義を守るか、という観点から考察を進めています。そして、ひとつのゲートキーパーとして、以前は政党やその指導者が過激勢力を分離・無効化、ディスタンシングし、インサイダーが査読していたのが、シチズンズ・ユナイテッド判決以降に少額寄付も含めて外部からの政治資金が膨大に利用可能となり、その昔の大手新聞やメジャーなテレビなどの伝統的なメディア以外のCATVやSNSなどの代替的なメディアで知名度を上げる道が開かれた点をあげています。トランプ政権の戦略について考察を進め、司法権などの審判を抱き込み、主要なプレーヤーを欠場に追い込み、対立勢力に不利になるようなルール変更を行う、の3点の戦略で典型的な独裁政権と同じと結論しています。さすがに、あまりに刺激的と著者が考えたのか、授権法によるナチスの独裁体制の確立やイタリアにおけるファシスト政権などを引き合いに出すことはためらっているように見えますが、戦後のマッカーシーズムはいくつかの点で参照されており、米国的な寛容な民主主義を取り戻すための一考にすべきような気がします。

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次に、氏家幹人『大名家の秘密』(草思社) です。著者は我が国近世史を専門とする歴史学者だそうですが、国立公文書館勤務とも聞いたことがあります。私は詳細を知りません。本書は上の表紙画像に見られる通り、江戸期の大名家、特に、水戸藩と高松藩の藩主について記した小神野与兵衛『盛衰記』を中心に、その後年に『盛衰記』について徹底的に検討を加えて削除と加筆をほどこした、というか、主君に対するやや冒涜的な内容を徹底的に批判した中村十竹『消暑漫筆』、加えて、『高松藩 盛衰記』などの類書を読み解いた結果を取りまとめています。私は、フィクションの時代小説ながら、かつて冲方丁の『光圀伝』を読んだことがありますので、光圀とその兄の間で子供を交換した、などの水戸藩と高松藩の歴史については、それなりに把握しているつもりでしたが、なかなか、高松藩の名君藩主の動向など、興味深いものがありました。基本的に、戦国期を終えて3代徳川家光くらいからの文治政治下では、武士は戦闘要員たる役割を終えて役人化している中で、さすがに、大名=藩主だけは役人が成り上がるのではなく、代々家柄で決まるものであり、圧倒的に家臣団から超越した存在ですから、現在の公務員の事務次官とは大きく異なるわけで、もっと大胆、というか、当時の時代背景もあって独善的に決断を下していたものだと私は想像していたんですが、名君とはこういう思考パターン、行動様式を持つのかと感心してしまいました。そして、部下たる侍も武士道や忠義一筋、といったステレオ・パターンと異なり、かなり実務的、実益本位の面があったというのも、薄々知識としては持っていたものの、歴史書に触れて感慨を新たにした気がします。第3章の子流しと子殺しについては、必ずしも大名家をフォーカスしたものではなく、ややおどろおどろしい世界ですので、読み飛ばすのも一案か、という気がします。

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次に、鹿島茂・井上章一『京都、パリ』(プレジデント社) です。著者は明治大学の仏文学者と京都の建築史の専門家で『京都ぎらい』がベストセラーになった井上先生です。共著というよりは、対談を収録しています。タイトル通りに、パリと京都だけでなく、フランスと日本を対照させた文化論なども展開しています。私が印象的だったのは第5章の食文化で、食べ物、というか、食文化については京都ではなく大阪、パリではなくローマ、というのがおふたりの共通認識で、なかなか参考になりました。また、鹿島先生が最近のフランス語の変化について判りやすく、ガス入りの水がかつての eau gazeuse から eau pétillante が主流になった、とのことで、私が大昔に読んだスタンダールの『赤と黒』にムッシュ95という人が登場し、どうしてこんなあだ名かというと、95をquatre-vingt-quinze(4x20+15)というその時点、というか、今現在そうである表現ではなく、nonante-cinq(90+5)という昔ふうの表現をするそうで、フランス語とは数の数え方という基礎的な表現ですらかなり短期間に変化する言語である、という印象を受けた記憶があり、それを思い起こしてしまいました。もっとも、ベルギーではまだ90をnonante-cinqで表現する、ということはEU勤務の経験ある友人から聞いたことがあります。といったことを早くも始まった忘年会でおしゃべりしていると、日本でも100年ほど前に「ひい、ふう、みい」から「いち、に、さん」に変更されたんではないのか、と反論されてしまいました。それはともかく、第2章から第3章にかけては、フェミニストにはそれほど愉快ではない論点かもしれませんし、かなり「下ネタ」的な内容もあったりするという意味で、品位に欠けると見なす読者もいるかも知れませんが、私が読んだ範囲でも、井上先生の『京都ぎらい』はかなり斜に構えた本でしたので、そういった観点で文化論とかいうのではなく半分冗談のつもりで軽く読み飛ばすべき本なのかもしれません。

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最後に、A.J.フィン『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』上下(早川書房) です。著者はエディタから本作品で作家デビューを果たしています。英語の原題は日本語訳そのままに、2018年の出版です。ということで、主人公のアナ・フォックスはアラフォーの精神分析医であるものの、夫と娘の生活と離れて暮らし、広場恐怖症のためにニューヨークはハーレムの高級住宅街の屋敷に1年近くも閉じこもって暮し、古いモノクロ映画のDVDを見て、ワインを浴びるほど飲み、そして、隣近所を覗き見して場合により一眼レフのデジカメに収める、という生活を送っています。そして、そのご近所で1人の女性が刺殺されるのを偶然にも見てしまいます。いろんな物的証拠が主人公の精神異常性を指し示していながら、実は、最後にとても意外な殺人犯が明らかになる、というストーリーです。決して、本格推理小説のような謎解きではありませんが、ミステリの範疇には入りそうな気がします。私は精神状態の不安定な主人公の動きの中で、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』と同じプロットではなかろうか、と考えながら読み進んだんですが、最後の解説ではギリアン・フリンによる『ゴーン・ガール』との比較をしていたりしました。『ゴーン・ガール』では妻が夫を殺人犯に仕立てようとする中で、最後のどんでん返しは、何と、この夫婦が仲睦まじく夫婦生活を再開する、というところにオチがあったんですが、本書はそういったオチはありません。ただひたすら意外などんでん返しが待っていて、サイコパスの犯人が明らかになるだけです。その分、やや『ゴーン・ガール』から見劣りすると受け止める読者もいそうな気がします。実は、私もそうです。出版社の謳い文句ながら、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに初登場で1位に入る快挙を成し遂げ、その後も29週にわたりランクインした、とか、英米で100万部以上の売り上げを記録した、とか、早くも映画化されて来年2009年の封切り、とか、宣伝文句に大いに引かれて借りて読んでみたんですが、少し、私の期待するミステリ小説とは違っているかもしれません。なお、どうでもいいことながら、上巻巻末に主人公などが見ているモノクロの古いフィルム・ノワールのリストが収録されていますが、加えて、本書で言及されている処方薬の効能書きなんぞも必要ではないか、と私は感じてしまいました。
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2018年12月01日 (土) 11:28:00

今週の読書は何と経済書と経営書ばかり計8冊!!

先週末にアップした先週と先々週の読書感想文は、めずらしくも、ほとんど経済書らしい経済書がなかったんですが、今週の読書はその反動で10冊近く経済書・経営書ばかりでした。日銀関連の話題の本を含めて、以下の通り計8冊です。

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まず、白川方明『中央銀行』(東洋経済) です。著者はご存じの通り白い日銀のころの総裁であり、私の実体験から知る限り、今世紀初頭の速水元総裁に次いで、日銀総裁として2番めに無能だった人物です。もちろん、上から目線バッチリで、ほとんどのトピックについて自分が正しかった旨を主張しています。しかし、私が見ていた限りでは、リーマン証券が破綻した後の Great Recession の際、金融政策が後手に回り、市場はもちろん政府・国会などからの要求が激しくなると金融緩和策を繰り出し、「追い込まれ緩和」といわれたのは記憶に残っています。デフレを人口動態に起因する事態と「発見」しながら、藻谷浩介『デフレの正体』の著作を引用するでもなく、2012年の民主党から自民党への政権交代の直前から円安が急速に進んだのは、アベノミクスの金融緩和策への期待ではなく、ギリシアなどにおける欧州債務危機の後退から、円の安全資産としての安全性が低下したからである、といった主張には唖然としてしまいました。民主党政権下で当時の菅総理の辞任を受けての代表選で、野田候補以外はリフレ的な主張をしていて、暗澹樽気持ちになったというのは正直でいいとしても、市場や政府や国会から日銀無能説の大攻勢を受けていた中で、共産党の参議院議員だけが日銀の理解者だった、なんてことは、思っても著書に書くべきかどうか迷わなかったんでしょうか。唯一、中央銀行の独立性とは目標の独立ではなく、手段の独立、すなわち、オペレーショナルな独立性である、と記している点はやや意外でした。ただ、最後の方の p.672 で著者ご自身も認めているようで、日銀白川総裁の5年間の任期中に何と2度の政権交代があり、総理大臣が6名交代した、と記していますが、そのもっとも大きな原因を作った人物を1人だけ上げようとしたら、それは当時の日銀白川総裁その人であった、という事実にはご本人はまったく気づいていないようです。さらに、付け加えるとすれば、2012年12月の第2時安倍内閣成立から国政選挙で与党が連戦連勝なのは、これもその最大の功労者は現在の日銀黒田総裁である、という点は忘れるべきではありません。米国クリントン大統領の選挙キャンペーンのスローガンであった "It's the economy, stupid!" はかなりの程度に普遍的に成り立つわけです。

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次に、大村敬一ほか『黒田日銀』(日本経済新聞出版社) です。上の表紙画像に見えるように、7人のマクロ経済学や金融の専門家が、6年余りに及ぶ黒田日銀を評価しています。7人の中には翁教授のように日銀出身で旧日銀理論に立脚する著者も含まれていますが、1人を除いて、6人は黒田日銀に好意的な評価を下しているように私は読みました。典型的なのは第1章と第2章であり、典型的に評価するポイントは為替の円安誘導であり、逆に、量的緩和が物価目標を2年程度では達成できずに、金融緩和が長期化している点には懸念あるものの、実は、その昔の西村清彦『日本経済見えざる構造転換』でいつの間にか構造改革が進んでいたと主張されていたように、量的緩和は出口に向かい、ステルスでテイパリングが進められている可能性も指摘されています。その点を評価しているのは翁教授などの旧日銀理論の信奉者だという気もします。そして、いまだに物価目標2%が達成されていない原因は根強いデフレマインドである、ということになります。そして、本書で何人かの論者が指摘している黒田日銀への批判のうち、私も同意するのは、黒田日銀の市場との対話がコンセンサス形成ではなく、サプライズによる政策効果を狙っている可能性であり、その方向性が間違っている可能性が強い、という点です。もう1点、ETFを通じた日銀の株式買い入れやJ-REIT購入による株価や不動産価格に対する歪みを懸念する意見もありますが、私はこの方は大きな心配はしていません。パッシブに購入している限りは株価形成などに歪みをもたらすことはありませんし、サイレントな株主になって、ガバナンスに悪影響を及ぼす可能性は否定しませんが、リスク資産購入による政策効果のベネフィットの方が大きいものと考えるべきです。6年経過しても物価目標を達成できないながら、少なくともデフレ状態からは脱却していますし、それなりの景気拡大効果のある金融政策運営ですから、本書のような黒田日銀の評価は極めて正当なものと私は考えています。

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次に、奥村綱雄『部分識別入門』(日本評論社) です。著者は横浜国立大学の研究者であり、専門は数理経済学です。本書で詳しく解説されていますが、部分識別とは、私の知る限りでは、モデルの組み方ではなく、あくまで、モデルのパラメータの推計に関する新しい方法論であり、従来のパラメータ推計が標本を基に何らかの分布を前提とするのに対して、部分識別とは標本ではなく全母集団情報を対象にして何らの分布を前提とせずにパラメータ推計を行います。というと、ノンパラメトリック推計なのか、という疑問が出るんですが、従来のパラメータ推計が確率変数に対して何らかの信頼区間は置くとしても、ほぼほぼ決定論的な数値を得るのに対して、部分識別ではパラメータの値そのものでなか卯、その存在するバウンドを求めるという作業になります。別の角度から、従来のパラメータ推計では前提となる仮定を緩めることにより一般化を図るのに対して、部分識別では弱い前提から強い前提を加えることでバウンドの範囲を狭めようとします。ただ、本書の著者が少し説明不足であるのは、操作変数法を用いたりする場合は別として、一般にパラメータを推計するなり、パラメータのバウンドを推計するなりは、因果関係ではなく相関関係の有無や強さの測定になります。この点はやや説明不足を感じました。基本的に、本書では教育の効果の例を出しての解説を進めているんですが、私が強い興味を感じたのは第5章の政策効果の測定です。単純に、フードスタンプを用いる家庭の子供の栄養状態は、フードスタンプに頼る必要のない家庭の子供より悪くなるのは当然ですが、単純なOLSに頼ると、フードスタンプを用いるとかえって子供の栄養状態が悪化するように見えかねません。この問題が部分識別では見事にクリアされています。また、家庭内暴力(DV)被疑者逮捕の効果の比較に関して、ランダム化比較実験(RTC)、操作変数法、部分識別の3つの手法による政策効果の把握が試みられており、単純なオツムの私なんぞから見れば、かなり説得的です。ただし、最後に、完全な学術書ですから、グラフによる直観的な説明は優れている印象はあるものの、数式はバンバン登場しますし、とても難易度は高いと考えるべきです。その意味で、一般的なビジネスパーソン向きとはいえません。その意味で、著者の講演スライドが大阪大学のサイトにあるのを発見しましたので、それを見てから読むかどうかを決めるのも一案かという気がします。

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次に、木内登英『トランプ貿易戦争』(日本経済新聞出版社) です。著者は、ご存じ、最近まで日銀政策委員をしていた野村総研のエコノミストです。私は、チーフエコノミストやシニアエコノミストという肩書は知っていましたが、エグゼクティブエコノミストという肩書はこの著者で初めて知りました。ということで、本書のタイトル通りに、米中間の貿易戦争について取り上げています。基本的に、自由貿易を外れる貿易戦争、関税率引上げや輸入制限などに対しては、通常、エコノミストは批判的であり、本書も同様です。ただ、本書の米中貿易戦争に対する分析は、かなり多くのエコノミストの緩やかなコンセンサスの通り、というか、ハッキリいえば、特段の新しい発見のないありきたりな内容ともいえます。すなわち、米中間の貿易戦争に突入したのは、おおむね米国サイドの要因であり、2017年中は特段のアクションなかった米国トランプ政権が、2018年になって急に中国の貿易不均衡にセンシティブになり、関税率引上げなどの行動に出た背景は、核ミサイルをはじめとする北朝鮮問題で米朝間の直接対話に道が開かれ、中国の北朝鮮に対する影響力への期待が薄れ、それだけ強気に出ることが可能になった、という点が強調されています。そして、製造業の復権に強い期待をかけるトランプ大統領が、最先端技術分野で中国が米国を凌駕する恐れも中国への強硬姿勢の背景とされています。同時に、かなりバブリーな中国経済の現状に対しても、米国の関税引き上げに伴って経済にショックを生じて、景気が下り坂となれば、実体経済に加えて金融面からも大きなマイナスの影響を生じる可能性が指摘されています。そして、その対中強硬姿勢の理論的な支柱として、『米中もし戦わば』の著者であるナバーロ教授の存在を重視しています。本書でも指摘されている通り、かつて、日本に対しては口先介入を含めて「円高カード」を切って、かなり高圧的に経済交渉を持たざるを得なかった時期があり、私個人も1990年代半ばの日米包括経済協議の外交交渉に巻き込まれた経験があります。その日本の果たすべき役割について、自由貿易の利益を粘り強く米国に訴える、というのはやや寂しい気もしますが、そういった対応策は別にして、背景を含めた現在の米中貿易戦争、そして、それに伴って生じ得る中国経済の何らかの困難、などについて、コンパクトに理解するには役立つ読書だった気がします。

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次に、バーリ・ゴードン『古代・中世経済学史』(晃洋書房) です。著者はオーストラリアのニューカッスル大学教授であり、専門はキリスト教経済思想や古典経済学だそうです。英語の原題は Wconomic Analysis before Adam Smith であり、もっとも最初の出版は1975年だそうです。原題からも理解できる通り、アダム・スミスが経済学の創始者であるという、我々エコノミストの常識を真っ向から否定していて、古典古代から経済学の歴史を説き起こしています。よく間違われるんですが、私は大学のころは経済史のゼミにいて、経済史は経済の歴史ですので、かなり大昔にさかのぼっても何らかの経済活動がある以上は経済史は成り立ちます。一般には、マルクス主義的な経済史では古典古代の奴隷制から始まって、中世の封建制ないし農奴制、近代の資本制、さらに、革命を経て社会主義や共産主義が来る、ということになっていたわけです。他方、経済学史は経済学の歴史ですから、アダム・スミス以前は経済学が近代的な科学として成り立っていなかったので、本書のようなアダム・スミス以前の経済学史については、意味がないと考えられているわけです。しかし、私の暴行の京都大学経済学部の経済学史の口座を持っていた出口先生の言葉を訳者あとがきで引いていて、「経済生活の知的反省」と考えれば、スミス以前の経済学も考えることは出来るのかもしれません。私は、たぶん、古典古代からの経済学のテーマとしては、勤労はほぼほぼ一致した重要性が与えられるとして、貨幣と利子に関する考察、さらに、狭い範囲ながら交易の考察が含まれるべきと考えますが、本書ではそれぞれの時代の知識人の経済学的な活動を編年体で構成しています。もちろん、価値と価格の問題など、とても興味深いテーマも含まれています。全般的には、私のような不勉強な人間には、かなり判りにくい内容です。

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次に、小島寛之『宇沢弘文の数学』(青土社) です。著者は大学の学部で数学を修めた後、大学院では経済学に転向して宇沢教授に師事した経済学者です。専門は数理経済学のようです。ということで、タイトルは数学となっているんですが、私は宇沢先生の経済学の方がいいように感じました。唯一、数学的な理解が深まったのは、数学の言語性と数学能力が人類の innate と宇沢先生が表現したような先天的な形質かもしれない、という点かと思います。演繹的な数学と帰納的な統計の対比もなかなか興味深いと感じました。その一方で、数学ではなく宇沢先生の経済学は、典型的に、倫理感を重視し、本書にもある通り、その昔のシカゴ学派のベッカー教授のような合理性は、必ずしも肯定されません。合理的に薬物の乱用に走るのはあくまで非合理、という考えです。ですから、いつも称しているように、官庁エコノミストにして左派、という私の考え方にはとても親和性があります。著者は、冒頭に、経済学は数学の応用分野ながら、現実の説明力に乏しい、と記していて、まあ、多くの人が感じているところではないかという気がします。そして、宇沢先生の力点は市場が完結しているわけでも、市場化が効率化を意味するわけでもない、という点にあるんですが、その市場の解決策として宇沢先生は社会的共通資本を持ち出すわけですが、そこにおける政府の役割が私にはハッキリしません。単に、人間関係や流行りの絆とか、単なる文化的な共通認識で市場の不完全性を正すことができるとは私にはとても思えません。最近の日産・ルノーのカルロス・ゴーンの事件も、人間としての欲望丸出しで、ベッカー的な合理性ある犯罪なのかもしれませんが、こういった資本主義、というか、現代経済の歪みを正すのが社会的共通資本であるというのは、マルクス主義に対する空想的社会主義のように私には見えます。理想論は大いに共鳴するところがあるものの、もう少し地に足つけた議論も必要ではないでしょうか。

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次に、山本勲『労働経済学で考える人工知能と雇用』(三菱経済研究所) です。著者は、日銀から慶應義塾大学の研究者に転じた経済学者です。私も面識ありますが、労働経済学が専門だったりします。タイトルにあるような人工知能という狭い範囲ではなく、技術革新というもう少し広い視野から雇用を考えています。すなわち、技術と雇用が代替的であって、新技術の採用とともに雇用が減少するケースもあれば、保管的であって雇用が謳歌する場合もある、ということになります。そして、1980年台の英国サッチャー政権や米国レーガン政権の発足などとともに、格差が拡大した事実については、スキル偏向型技術革新仮説について、スキルに対するプレミアムの見方を、中間層の没落と貧困層と高所得層の増加という二極化を説明できない、などの理由から否定し、routinization 仮説=定型化仮説に基づく非定形化した業務への高報酬とする説を支持しています。そして、英国オックスフォード大学の研究者の成果も取り上げられており、AIに代替される雇用についても、Autor ほかによる AML タスクモデルの観点から疑問を提示しています。100ページ足らずのボリュームで、本というよりもパンフレットのような出版物ですが、それなりの内容を含んでいる気がします。

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最後に、服部泰宏・矢寺顕行『日本企業の採用革新』(中央経済社) です。著者2人は神戸大学大学院の同級生らしく、阪神方面で経営学の研究者をしています。タイトル通りの内容なんですが、もう少し詳しく展開すると、2016年卒業生の採用から、人手不足が顕著になり、いわゆる売り手市場が現出したことから、いくつかの企業で採用に関する革新が生まれ、その革新の謎解きをしています。ただ、「革新」は経済学では通常シュンペーター的な新機軸を指していて、英語では inovetion であるのに対して、上の表紙画像に見られる通り、本書では regeneration を使っています。経済学を大学時代に専攻していて、官庁エコノミストを自称する私には見慣れない「革新」だという気がします。本書の著者もそれには気付いているようで、第3章では、経営課題としては新規顧客の獲得や顧客との関係強化が上げられる場合が多く、採用が経営課題として認識されているのでなければ、何らかの確信をもって採用活動を変革しようとするインセンティブは小さい、と指摘してます。それはともかく、本書では採用の革新を募集活動の革新、選抜の革新、募集と選抜の革新、革新の対外発信、他企業との協力の5カテゴリーに分類しています。その上で、採用活動の従来系について、入学偏差値の高い大学の卒業生であって、頭脳明晰かつ明朗闊達な人材を採用する、そのために、早い時期から時間をかけて多くの志願学生から選抜する、という点が重視されてきたところ、このパターンから外れるユニークな採用を2016年スつ行政に対して実施した3社のケーススタディを実施しています。ただ、私が疑問に感じているのは、いつもながらの経営学のケーススタディですから、取り上げられたサクセス・ストーリーの裏側に死屍累々たる失敗例がいっぱいあるんではないか、という点です。そして、いつもの通り、その疑問には答えてくれていません。加えて、採用の革新例として、広く報じられた2社の採用革新、すなわち、ドワンゴの受験料徴収と岩波書店のコネ限定を冒頭に取り上げていますが、人手不足下の売り手市場に対応したものではないんではないか、という気もします。
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2018年11月24日 (土) 11:54:00

先週と今週の読書は合わせて11冊!!!

先週は土曜日11月17日まで北京出張のイレギュラーな週でしたので、本日、先週と今週の読書11冊を合わせてレビューしておきたいと思います。経済所がとても少なく、中にはごく短めの読書感想文もあります。

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まず、根井雅弘『英語原典で読む経済学史』(白水社) です。著者は我が母校である京都大学経済学部の経済学史を担当している研究者です。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスから始まって、20世紀の巨人ケインズまで、一部にマルクス主義経済学の文献も織り込みつつ、加えて、タイトルからは少し離れて英語以外のフランス語やドイツ語の原典も引きつつ、さまざまな経済書を取り上げています。タイトルの順番通りに、経済学史の勉強は後回しで、「英語原典で読む」の方に重点が置かれています。別の言い方をすれば、、スミスをはじめとして経済学史的に重要というよりも、有名で人口に膾炙した表現を多く拾っている印象があります。何かの折に、経済学の名著の英語原典を引用するには便利そうな気がします。

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次に、ローレンス・フリードマン『戦略の世界史』上下(日本経済新聞出版社) です。著者は、英国ロンドン大学キングス・カレッジ戦争研究学部に在籍した研究者です。意地悪な解釈をすれば、シンギュラリティが訪れてAIに取って代わられる前に、人類が築き上げた戦略の要諦について取りまとめた労作といえます。戦争や戦闘行為の戦略から始まって、個人の選択の問題、さらに、現代ビジネスマンの興味分野である企業経営の戦略などに至るまで、幅広い「戦略」に関しての歴史を集大成しています。第1部では、戦略の起源を、聖書、古代ギリシャ、孫子、マキャベリ、ミルトンに探り、ナポレオン、ジョミニ、クラウゼヴィッツ、モルトケ、マハン、リデルハート、マクナマラ、カーン、シェリング、ロレンス、毛沢東などの軍事戦略をひも解こうとしています。このあたりはまだ、私のような専門外のエコノミストにも馴染みがあるといえます。でも、下巻に入ると企業経営戦略も含まれているとはいえ、私なんぞには難しく感じられ始めます。すなわち、「下からの戦略」として、ガンジーらの非暴力運動、キング牧師らの公民権運動、クーンの科学革命論、フーコーの哲学、アメリカ大統領選挙戦など、多様な話題を通じて戦略思想の変容をとらえる一方で、「上からの戦略」として、テイラー、スローン、フォードら経営者、ドラッカーなどの経営理論家の思想、さらには、ゲーム理論などの経済学の隆盛、社会学的な取り組みを明らかにし、合理的選択理論の限界、ナラティブ、ストーリーとスクリプトの有効性を取り上げています。まあ、何かの記念に読んでおくのも一案かという気がします。

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次に、イワン・クラステフ『アフター・ヨーロッパ』(岩波書店) です。著者はブルガリア出身の政治学研究者です。欧州における極右・ポピュリズムの台頭、米国優先政治を掲げる米国トランプ政権、これらは、リベラリズム、民主主義、寛容といったキリスト教と啓蒙主義の遺産ともいえる西欧的な価値観を根底から覆しつつあるとの危機感を出発点として、従来の欧米価値観について論じています。すなわち、一般大衆がコスモポリタン的なエリートとトライバルな志向の移民の両方にNOを突きつけた結果としてのポピュリズムの台頭と捉え、その原因として、難民・移民危機はどのように欧州社会を変化させたか、支配階層にあるエリートへの有権者の反乱はなぜ起こっているのか.EU諸国のリベラル・デモクラシー体制がポピュリズムの台頭で内部的危機に直面する現在、その原因を解き明かし,どのように対応すべきかを論じています。ただ、その結論は私には説得的ではありません。といって、私自身が解決策を持っているわけでもなく、解がない問題なのかもしれません。私の偏見かもしれませんが、著者の出身から、どうしても視点が中欧ないし東欧に置かれている気がしてしまい、自由と民主主義の本流である西欧的な価値観に著者がやや理解が浅い気もしなくはありません。もちろん、専門外の私の理解が浅いだけかもしれません。

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次に、吉田忠則『農業崩壊』(日経BP社) です。著者はジャーナリストであり、現在の肩書は日本経済新聞社編集委員となっています。本書では我が国の農業について、小泉進次郎、植物工場、企業の農業参入の3つをキーワードに、問題点のあぶり出しとその解決策を模索しています。私は農業問題にはそれほど詳しくないんですが、中学や高校のころから、日本農業の問題点として上げられて来た経営規模の問題だけでなく、最新技術の応用や作物育成から流通問題まで、幅広い視野で農業を見ています。ただ、私の直観ながら、農業政策の本流の視点ではないような気もします。というのも、農政問題については、先の経営規模の問題と関係して、農地所有のあり方や補助金の問題などを議論して来たと思うんですが、本書ではこの2点はまったくといっていいほど触れられています。本書でスポットを当てられている植物工場に至っては、失敗例ばかりが並んでいる印象すらあります。植物工場は、企業の農業参入とともに、うまく立ち行かない我が国農業に経営効率の視点から、上から目線で農業に取り組んだ企業の失敗談とも読めます。将来の総理候補とまでいわれる小泉代議士についてもまだまだ未知数の部分が大きいのも事実です。やや眉に唾つけて読むべき本なのかもしれませんが、それなりに示唆に富む内容と受け取る向きもありそうです。

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次に、鈴木董『文字と組織の世界史』(山川出版社) です。著者は長らく東京大学東洋文化研究所をホームグラウンドとしていた研究者であり、オスマン・トルコ帝国の歴史が専門とあとがきにあります。本書は、いわゆるグローバル・ヒストリーを基礎としており、一国史やせいぜい地域史の範囲を超えて、ネットワークとして世界史を俯瞰する試みのひとつといえます。そのネットワークやリンケージのキーワードとして、タイトルにある言語と組織を基礎的な視点にして議論を展開しています。なお、小耳にはさんだウワサなんですが、東大東洋文化研究所では新しい世界史とタイトルされたサイトを解説しています。また、東大生協駒場書籍部における2018年9月度の人文書部門で『ホモ・デウス』につぐ第2位だったそうです。ということで、元に戻ると、タイトルにある文字と組織については、私の読み方が悪かったのかもしれませんが、圧倒的に文字に重点が置かれている気がします。むしろ、組織よりも文字にあわせた宗教の方がキーワードになっている気がします。我が国は、もちろん、文字や言語の点からは中国を拠点とする漢字圏なんですが、宗教的にはインドを拠点として東南アジアに広がっている梵語圏の中心をなす仏教の影響も大きいですし、経済的には少なくともアジアの中では西欧から米州大陸に広がるラテン語圏の影響も小さくありません。もちろん、グローバル化の進展の中で、東欧からロシアに広がるキリル語圏や中東からアフリカ北部のアラビア語圏とも決して関係が浅いわけでもないといえます。歴史書でいつも私が注目しているポイントのひとつに、欧米が現時点までで世界的な覇権を握っているのは英国を期限とする産業革命をいち早く成功裏に開始したからであり、どうして産業革命が西欧で始まったかは歴史家の間でもコンセンサスがないことから、この産業革命の視点がありますが、本書では極めてアッサリと、ウェーバー的な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で済ませていて、やや物足りないと感じましたが、400ページ近い本書にしても、1冊ですべての世界史を十分な深さで取り上げられるわけではないと考えるべきなのかもしれません。いずれにせよ、グローバル・ヒストリーの見方に触れ、それなりの世界の歴史観を感じ取れる読書だった気がします。

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次に、野村進『どこにでも神様』(新潮社) です。著者は大学の研究者であるとともに、ノンフィクション・ライターとしても活躍していて、何冊かノンフィクションの書籍を出版しているようです。本書では、副題にもある通り、出雲と神様をキーワードとして、出雲から少し広い範囲のや山陰地方の伝統文化や精神構造などを解き明かそうと試みています。すなわち、出雲ならざる鳥取の水木しげるの視点から、神様ならざる妖怪を取り上げたり、今では同じ島根県とはいいつつも、石見地方の神楽に注目しています。本書の後半で詳しく論じられますが、専門家ならざる私の見方でいえば、国譲りの伝説にもある通り、古典古代の我が国に置いては出雲政権は大和政権に敗れた、と考えているんですが、本書の著者は少し違った視点も盛り込んでいます。もちろん、古典古代においては極東に位置する我が国からして、中国という隣国はあらゆる意味において地域どころか世界の超大国であり、漢字を文字として受け入れたことに典型的に現れているように、中国やその文化の経由地である朝鮮半島に近い出雲の方が大和よりも先進地域であったことは想像に難くありません。もちろん、大和政権も九州かどこかはともかく、西から大和に攻め上ったんでしょうが、中国や朝鮮の直接の窓口をなる位置にある出雲の方が先進地域であった可能性の方が高いと私は考えています。しかし、21世紀の今、というよりももう少し前の20世紀半ばの戦後においては、本書でも「裏日本」とか、今でも山陰という表現があるように、決して、文化や政治経済の中心とはいえないのが現状であるという気がします。でも、神様や妖怪をキーワードに出雲周辺の歴史を振り返り、文化に着目するのはいい試みかもしれません。

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次に、東野圭吾『沈黙のパレード』(文藝春秋) です。著者は、ご存じの通り、売れっ子のミステリ作家であり、本書は人気のガリレオ・シリーズ最新刊です。湯川は米国留学を経て教授に昇進し、草薙も警視庁捜査一課で係長に昇進しています。本書では、グレーから極めてクロに近い犯罪容疑がありながら、かつては「証拠の王様」であった自白を避けて黙秘を通すことにより、「疑わしきは罰せず」の刑法の原則に従って無罪となった男が、いかにも、ということで、事件の犯罪被害者とその友人から殺害されたようなシチュエーションから始まります。そして、私もこのブログで何度か、例えば、同じ著者の『夢幻花』を5年前の2013年6月15日に取り上げた際に明記したように、この著者の遵法精神以外に何も感じられない正義感に疑問を感じていたんですが、ガリレオこと湯川教授に独白させ、『容疑者Xの献身』における一般的な善悪の感覚や広く受け入れられた道徳よりも、単なる遵法精神をあまりに優先させ倫理観にやや欠ける解決に対する反省の弁が見られます。私なんぞには理解できないガリレオ・シリーズ特有の殺害方法も首尾よく解決され、私も湯川教授の犯罪被害者とその友人に対する態度や考え方に深く納得しましたので、いい読書だった気がします。直木賞を授賞された『容疑者Xの献身』よりも、私は個人的に高く評価します。

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次に、池井戸潤『下町ロケット ゴースト』及び『下町ロケット ヤタガラス』(小学館) です。このシリーズの第3作と第4作だと思います。当然ながら、大田区の町工場地域にある佃製作所が舞台であり、第1作では、まさに、ロケットのエンジンに使うバルブそのもの、そして第2作の『ガウディ計画』では人工心臓向けのバルブを諦めての心臓の人工弁、そして、この最近2作のでは前2作のハイテク路線からグッとローテクに回帰して、農業機械、トラクタなどのエンジンとトランスミッションに挑戦します。『ゴースト』ではトラクタのトランスミッションに挑戦し、『ヤタガラス』ではトラクタのエンジンとトランスミッションを帝国重工に供給しつつ、その自動運転化技術にも挑みます。相変わらず、この作者の作品らしく、善悪が明瞭に分岐していて、悪いヤツはトコトン悪く、いい人はどこまでも勝ち続けます。経済学や物理学などのモデル分析を主流にする科学に親しもあればともかく、善悪をあいまいなままでコトが進む日本的な風土で、ここまでこの作者の作品が支持され、テレビでもドラマとして成功を収めているのはやや不思議な気がしますが、私が読んでも面白いんですから、かなり完成度は高いといえます。この2作と前の『沈黙のパレード』の3冊の小説は買って読みました。3冊も買うのは久し振りかもしれません。

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最後に、森本公誠『東大寺のなりたち』(岩波新書) です。著者は我が母校の京都大学のイスラム史の専門家であり、東大寺の長老としても名高い僧侶です。「東大寺」の懐かしい響きを感じ、ついつい借りてしまいました。聖武天皇の勅から始まったと考えられがちな東大寺の造営につき、その前の段階からていねいに歴史をひも解きつつ、東大寺や国分寺のなりたちや役割について解き明かしています。私は中学高校と6年間ずっと奈良に通っていたんですが、まさに南大門を入って大仏殿の前に校舎がありました。今はかなり離れたところに移転し、私が通ったころの2クラス100人足らずの生徒数から、倍くらいに大規模化したように聞き及んでいますが、男ばかりのムサイ6年間ながら、京都大学の学生時だよりも青春そのものの想い出深い時代でした。いまだに Facebook でつながっている仲間もいますし、逆に、顔も見たくないイヤなヤツもいます。それも合わせて、貴重な青春の6年間だった気がします。その中学高校は東大寺からのいくばくかの補助があったと聞いたことがあり、京都の名門である洛星高校などよりは、それなりに学費負担も大きくなく、決して恵まれた所得があったとはいえない我が家でも私を通わすことが出来たのかもしれない、と思い起こしています。約10年前に100歳超で亡くなった祖母が、私の学校との関係で東大寺のお水取りに加わって喜んでいたのは、もう40年以上も前のこととなりました。改めて、東大寺への感謝の気持ちを込めて拝読しました。
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2018年11月10日 (土) 11:38:00

いろいろ事情があって今週の読書は計9冊読み飛ばす!!!

今週は経済書や話題の小説をはじめとして、計9冊とかなり大量に読みました。というのも、来週の予定を考えに入れると、今週中に読んでおきたい気がしたからです。今週も自転車で図書館回りを終えていますが、諸般の事情により来週の読書はちょっぴり抑える予定です。ついでながら、今週の読書感想文は読んだ本の数が多くて、感想文のボリュームは抑えてあります。

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まず、大矢野栄次『ケインズの経済学と現代マクロ経済学』(同文舘出版) です。作者は久留米大学の研究者です。冒頭のプロローグにあるんですが、「現代経済学の流れのなかで、唯一、現代の世界経済の考え方と経済政策の方向性を変革しうる経済学が『ケインズ経済学』であり、『ケインズ革命』の再認識であると考える」との意識から書き始めていますが、本書の中身は、大学の初学年ではないにしても2年生ないし学部レベルのケインズ経済学の解説に終止しています。それなりの数式の展開とグラフは判りやすく取りまとめられていますが、1970年台に石油危機に起因するインフレと景気後退のスタグフレーションにおいてケインズ経済学批判が生じ、そして、2008年のリーマン証券破綻から再び見直され始めた流れについてはもう少していねいに解説してほしかった気もします。

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次に、ルチアーノ・カノーヴァ『ポップな経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者はイタリアの行動経済学を専門とするエコノミストです。原書はミラノで2015年の出版ですから、ややトピックとしては古いものも含まれていて、逆に、新しい話題は抜けています。当然です。冒頭ではAIによる職の喪失から話を始め、行動経済学のナッジやゲーミフィケーションの活用、クラウドファンディングの台頭についてはやや唐突感もあるんですが、テクノロジーの進歩による情報カスケードによすフェイクニュースの蔓延、ビッグデータの活用、大学教育の変革などなど、どこまでポップかは議論あるかもしれませんが、それなりに興味深いトピックを論じています。繰り返しになりますが、2015年の出版ですので新しいトピックは抜けていますが、概括的な解説としてはいいセン行っている気がします。

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次に、本田由紀[編]『文系大学教育は仕事の役に立つのか』(ナカニシヤ出版) です。8人の研究者によるチャプターごとの論文集です。科研費を利用してマクロミルのネット調査からデータを収集し、かなり難しげな計量分析手法により、タイトルの文系大学教育と実務のレリバンスを探っています。ただ、自ら指摘しているように、あくまでアンケート対象者が役立ったと思っているかどうかのソフトデータであり、ホントに客観的なお役立ち度は計測しようがありません。その上、東大教育学部の研究者と大学院生が半分を占める執筆陣ですから、本書のタイトルの問いかけに対して否定的な回答が出るハズもありません。各章についても、ラーニング・ブリッジングといわれても、教育者により定義や受け止めは違うでしょうし、理系と文系の対比がありませんから、やや物足りない気もします。しかし、奨学金受給者が専門分野には熱心な学習姿勢を示しつつも、正規職員就職率には差が見られない、という計量分析結果については、やや悲しい気がしました。

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次に、持永大・村野正泰・土屋大洋『サイバー空間を支配する者』(日本経済新聞出版社) です。著者3人の打ち最初の2人は三菱総研の研究員で、最後の土屋先生は慶応義塾大学の研究者です。芸剤の先進国に限らず、新興国や途上国でも、国民生活も企業活動も、もちろん、政府に政策も、何らかの形でサイバー空間と関係を持たないわけには行かないような世界が形成されつつあります。そこでは、おどろおどろしくもサイバー攻撃、スパイ活動、情報操作、国家による機密・個人情報奪取、フェイクニュース、などなど、ポストトゥルース情報も含めて乱れ飛び、そしてグーグルを筆頭とするGAFA、あるいは、中国のバイドゥ、アリババ、テンセントのBATなどに象徴される巨大IT企業の台頭が見られます。そして、従来は、国家の中に企業や組織があり、その中に家計や個人が属していたという重層的な構造だったんですが、多国籍企業はいうまでもなく、個人までも国家や集団をまたいで組内する可能性が広がっています。私の専門がいながら、安全保障面でも、米国を始めとして軍にサイバー部隊を創設したり、何らかのサイバー攻撃を他国や他企業に仕かける例も報じられたりしています。こういった中で、サイバー空間の行方を決める支配的な要素として技術と情報を考えつつ、我が国がどのように関与すべきかを本書の著者は考えようとしています。ただ、私としては左翼の見方として対米従属に疑問を持つ見ながら、ここはサイバー空間においては米国に頼るしかないんではないか、という気もしないでもありません。

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次に、ジェイムズ Q. ウィットマン『ヒトラーのモデルはアメリカだった』(みすず書房) です。著者はイェール大学ロースクールの研究者です。英語の原題は Hitler's American Model であり、年の出版です。米国での出版ですから、ドイツで発禁処分となっている『わが闘争』からの引用もいくつかなされていたりします。タイトルから容易に想像される通り、ユダヤ人への差別、というには余りにも過酷な内容を含め、ナチスの悪名高いニュルンベルク諸法のモデルが、実に不都合な事実ながら、自由と民主主義を掲げた連合国の盟主たる米国の有色人種を差別する諸法にあった、という内容です。ジム・クロウ法とか、ワン・ドロップ・ルールなど、1950~60年代の公民権運動のころまで、堂々と黒人やネイティブ・アメリカンは差別されていたわけで、それなりの研究の蓄積もありますので、特別な視点ではないような気もしますが、2016年大統領選挙でのトランプ大統領の当選などを踏まえて、こういった差別をキチンと考え直そうという動向は米国だけでなく、日本も含む世界全体をいい方向に導くような気がします。

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次に、平野啓一郎『ある男』(文藝春秋) です。弁護士を主人公に、林業に従事する中年男性が事故で亡くなったところ、兄が来て写真を見て「これは弟ではない」と言い出し、そこから未亡人の依頼を受けて弁護士の調査が始まります。もちろん、戸籍の違法な取得や交換が背景にあるわけですが、例えば、宮部みゆきの『火車』のように、決して、ミステリとして謎解きが主体のストーリー展開ではなく、登場する人々の人生について深く考えさせられる純文学といえます。調査する弁護士は、まったく人種的な違和感ないものの、在日三世で高校生の時に日本人に帰化しているという経歴を持ちますし、中年以降くらいの人間が過去に背負ってきたものと人間そのものの関係、さらに、『火車』では借金が問題となるわけですが、本作では殺人犯の子供から逃れるための戸籍の違法な取引が取り上げられています。こういった、ひとりの人間を形作るさまざまな要素を秘等ひとつていねいに解き明かし、人間の本質とは何か、について深く考えさせられます。ただし、私はこの作者の作品としては『マチネの終わりに』の方が好きです。でも、来秋の映画封切りだそうですが、たぶん、見ないような気がします。

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次に、三浦しをん『愛なき世界』(中央公論新社) です。作者は私も大好きな直木賞作家であり、私は特に彼女の青春物語を高く評価しています。この作品も青春物語であり、舞台は東京は本郷の国立T大学とその近くの洋食屋さんであり、主人公はT大の生物科学科で研究する女性の大学院生とその院生に恋する洋食屋の男性のコックさんです。まあ、場所まで明らかにしているんですから、東大でいいような気もしますが、早大出身の作者の矜持なのかもしれません。タイトルは、ズバリ、植物の世界を表しています。コックさんは2度に渡って大学院生に恋を告白するんですが、大学院生は研究対象である植物への一途な情熱から断ります。そして、最後は、研究対象である植物への情熱こそ愛であるとお互いに認識し、新たな関係構築が始まるところでストーリーは終わっています。一体、どのような終わり方をするんだろうかとハラハラと読み進みましたが、この作者らしく、とてもポ前向きで明るくジティブな結末です。この作者の作品の中では、直木賞を授賞された『まほろ駅前多田便利軒』などよりも、私は『風が強く吹いている』や『舟を編む』が好きなんですが、この作品もとても好きになりそうです。

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次に、堂場瞬一『焦土の刑事』(講談社) です。終戦の年の1945年から翌年くらいの東京は銀座などの都心を舞台に、刑事を主人公に据えて殺人事件の舞台裏を暴こうとします。終戦前の段階で、東京が空襲された後の防空壕に他殺の女性の死体が相次いで発見されたにもかかわらず、所轄の警察署による捜査が注されて、事件のもみ消しが図られます。そして、その殺人事件は終戦後も続きます。特高警察や戦時下の異常な体験などの時代背景も外連味いっぱいなんですが、最後の解決は何とも尻すぼみに終わります。特高警察や検閲への抗議、あるいは、殺人事件のもみ消しなどは吹き飛んで、実につまらない解決にたどり着きます。大いに期待外れのミステリでした。

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最後に、久原穏『「働き方改革」の嘘』(集英社新書) です。著者は東京新聞・中日新聞のジャーナリストであり、本書は取材に基づき、現在の安倍政権が進める「働き方改革」とは労働者・雇用者サイドに立ったものではなく、残業を含めて使用者サイドに長時間労働を可能にするものだという結論を導いています。そして、最後の解決策がやや寂しいんですが、人を大切にする企業活動を推奨し、「官制春闘」といった言葉を引きつつ、労使自治による雇用問題の解決を促しています。私が考えるに、現在の我が国における長時間労働、いわゆるサービス残業を含めた長時間労働は、マルクス主義経済学の視点からは絶対的剰余価値の生産にほかならず、諸外国の例は必ずしも私は詳しくありませんが、もしも先進国の中で我が国が突出しているのであれば、我が国労使の力関係を示すものであるともいえますし、逆に、政治的に使用者サイドを支援せねばならないくらいの力関係ともいえます。いずれにせよ、長時間労働の問題と現在国会で議論が始まろうとしている外国人労働者の受入れは、基本的に、まったく同じ問題であり、抜本的な解決策の提示が難しいながら、エコノミストの間でも考えるべき課題といえます。
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2018年11月03日 (土) 11:52:00

今週の読書は話題の経済書をはじめ大量に読んで計9冊!

今週の読書は、かなり大量に読みました。日経センターの金融政策に関する話題の経済書をはじめ、経済的な不平等に関するリポートなど、以下の通りの計9冊です。今週の図書館巡りはすでに終えており、来週もそれなりに読書がはかどりそうな予感です。

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まず、岩田一政・左三川郁子・日本経済研究センター[編著]『金融正常化へのジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。今春に黒田総裁が再任され、2期目10年の人気まっとうを目指して、引き続き、異次元緩和の金融政策が続いています。しかし、他方で、10月末に明らかにされた「展望リポート」でも政策委員の大勢見通しは、またもや、成長率も物価もともに下方修正され、日銀のインフレ目標達成の時期は先送りされっぱなしです。そして、本書は副総裁経験者である岩田理事長を筆頭に日本経済研究センターの金融分析部門を上げて、金融正常化への道を探ろうと試みています。本書では章ごとにジレンマを付して金融政策を概観していますが、何といっても最大の問題点は第2章の強力な緩和を続けつつも物価が上昇しない点です。おそらく、現状では人で不足に現れている通り、実体経済は景気循環的にはピークを過ぎたという議論はあり得るものの、景気はかなり好況を呈していると考えるべきであり、需給ギャップは需要超過であることはいうまでもありません。他方で、政府による女性や高齢者の労働市場への参加拡大策の成功等により、労働のスラック墓だ完全には尽きているとはいい難く、賃金が上昇する気配すらありません。賃金と物価のスパイラルによる内生インフレの段階には達していないわけです。それだけに、日銀による財政ファイナンスや日銀財務の健全性の問題などの観点からの批判も絶えません。ただし、本書の底流にある、こういった日銀金融政策のカッコつきの「正常化」を目指すべしとの見方は、日銀を浮き世離れして国民生活から切り離されたかの視点からの議論であり、私はどうも受け入れがたい気がしています。まず、デフレではない状態になった経済の現状から、さらに一歩進めてデフレ脱却にどのような政策が必要か、金融政策だけでは物価目標達成がムリなのであれば、いかなるポリシー・ミックスが考えられるのか、もう少し突っ込んだ議論が求められています。

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次に、木下智博『金融危機と対峙する「最後の貸し手」中央銀行』(勁草書房) です。著者は日銀から学界に転じたらしいんですが、法学部出身であり、専門分野は物価をターゲットとする金融政策ではなく、金融システムの安定性をターゲットにしたプルーデンス政策のようです。特に、本書ではプルーデンス政策の中でも最後の貸し手としての中央銀行、Lender of Last Resort (LLR) を分析対象としています。もちろん、バックグラウンドには2008年9月のリーマン証券破綻をどう考えるか、の疑問があります。従って、冒頭からいわゆる日銀特融23件を分析対象にしつつ、巷間指摘される銀行の救済は、誤ったイメージであると主張します。すなわち、日銀から流動性が供給されても、両建てで借方と貸方の両方に日銀から供給された流動性が計上されるわけですから、債務超過の額は日銀からの流動性供給の前後で変わりないというわけです。しかし、私は大きな疑問を持ちます。すなわち、流動性供給による支払能力の維持が救済であって、債務超過の解消をもって「銀行救済」と考える人はいないハズです。資本注入は政府のプルーデンス政策であり、中央銀行の場合は流動性供給による支払能力、すなわち、ソルベンシーの確保であると考えるべきです。こういった根本的な疑問がありつつも、金融政策の経済分析ではなく、金融の安定性確保のケーススタディもなかなかに興味深いもんだということが本書を読んでいてわかった気もします。すなわち、私の専門のひとつである景気循環の平準化などのマクロ経済の安定性確保とともに、金融システムの安定性確保もシステミック・リスク回避の観点から大きな意味があります。ただし、どちらも恣意的に解釈されて不必要な政策対応となり、いわゆるモラル・ハザードにつながる危険もあります。本書では、中央銀行の最後の貸し手としての原則を確立した19世紀半ばのバジョット原則を基本として、日米英欧州などの中央銀行による最後の貸し手昨日の実際の発揮のケーススタディが豊富に取り入れられています。また、BOX 17で中央銀行の債務超過は問題かどうかを論じていて、中央銀行の会計上の健全性と金融システムの安定性確保との関係の複雑性が解説されています。

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次に、ファクンド・アルヴァレドほか[編]『世界不平等レポート 2018』(みすず書房) です。「ほか」に入れてしまいましたが、『21世紀の資本』で有名なピケティ教授も編集人に名を連ねています。そのベストセラー『21世紀の資本』を作り出したデータべースを基に、世界各国及び世界経済の不平等の最新動向を世界横断的にの100人以上の研究者ネットワークを駆使して、隔年で報告する新たなリポートとして発汗される運びとなったと出版社のサイトにはあります。第Ⅰ部ではWID.worldプロジェクトと経済的不平等の測定と題して、本リポートの目的意識などを明らかにし、第Ⅱ部では世界的な所得不平等の傾向を取り上げ、米国、フランス、ドイツなどの先進国はもとより、中国・インド・ロシアなどの新興国や途上国の不平等、この場合はフローの所得の不平等を、場合によっては100年以上の歴史的なタイムスパンで跡付けます。もっとも、我が国はデータがないのか、取り上げられていません。第Ⅲ部では公的資本と民間資本の動向を分析し、我が国はバブル経済期において不動産価格が高騰したことなどから、先進国の中でも民間資本が公的資本に比べて大きな割合を占めていると指摘しています。第Ⅳ部では富の不平等に着目し、ストックである富はフローの所得よりも不平等の度合いがさらに大きいと結論しています。そして、最後の第Ⅴ部では不平等と闘うとして、累進課税の役割の重視やタッkスヘブンでの課税逃れに対応するため世界金融資産台帳の必要性を明らかにし、教育の重要性に焦点を当てています。繰り返しになりますが、国によっては100年を超える超長期に渡るデータに基づく議論を展開し、不平等の改善のための政策についてはやや弱いところがありますが、事実をまず明らかにして今後の研究のツールとするという姿勢が読み取れます。なお、邦訳書は7,500円プラス消費税と高額ですが、以下のWID.worldのサイトでは英語版のpdfファイルが無料でダウンロードできますし、その他、各章のもととなっているワーキングペーパー、さらに、本リポートで用いられているデータはもとより、データプロセッシング向けのプログラムコードも圧縮ファイルでアップされています。大学院生向けのような気もしますが、ご参考まで。


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次に、佐藤航陽『お金2.0』(幻冬舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、いわゆる青年起業家なんだろうと思います。タイトルからして、お金や経済についての話題が多いものの、副題が上の表紙画像に見られるように「新しい経済のルールと生き方」となっていますので、仮想通貨やブロックチェーンなどのFINTECHの簡単な解説も含まれていますが、同時に、人生論を始めとして、哲学的とまではいわないまでも、かなり抽象度の高い、決して具体的な応用可能でない議論も展開されています。その意味で、年配の経営者の人生を振り返ったエッセイに近い印象もあります。本書の底流に一貫して流れているのは、今までの常識を疑うという視点であり、逆から見て、事故を確立し自分なりの味方ができるように自分を鍛える、教養や見聞を広める、ということになります。電車の広告などで、メチャメチャ目についたので借りてみましたが、確かに、私のように大きな組織の中でのうのうとサラリーマンをしてきて定年に達してしまった人間には出来ない発想もいっぱいありましたが、特に、マネーキャピタルとソーシャルキャピタルを対比させて、前者の資本主義的色彩と後者のより共同体的、というか、人によっては社会主義的な色彩まで読み取る読者もいるかも知れません。ただ、起業家として資本主義のルールのもとで成功して、十分な所得を得たからいえるのかもしれない、と思わないでもない部分も少なくなかった気がします。年齢的に、上から目線になっていないのも好ましい点かもしれません。私のような年配の読者ではなく、もっと若い学生からなりたてビジネスマンくらいの読者を想定しているように受け取れる部分もありました。ただ、我が家の倅どもに読ませたいとは私は思いませんでした。むしろ、私くらいの引退世代に近い読者の方が理解が進むような気がします。ただし、複数の経済システムが共存する世界、というのは、不勉強にして私は理解できませんでした。

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次に、大原扁理『なるべく働きたくない人のためのお金の話』(百万年書房) です。著者は、数年前から25歳にして東京都内国立市にて「隠居生活」を実践し、定収入のもとで支出の少ない生活を送っていて、今では台湾に移り住んで同様のケチケチ生活を海外で続けているそうです。私も、来年3月には定年退官し、無職無収入に陥る可能性もかなりあり、あるいは、参考になるかもしれないと考えて読んでみました。もっとも、私の場合はカミさんがパートにでも出てくれれば、私は楽ができますし、今の人で不足が叫ばれる東京で私もまだ何らかの収入ある職につける可能性は少なくないと楽観しています。私も大学を卒業してから現在まで、キャリアの国家公務員として、ほぼほぼ日本国民としての平均的な生活を保証するだけの収入を得てきましたが、60歳で定年退官すれば自力で収入を得る必要があるわけで、それが出来なければ、本書で低回しているようなケチケチ生活を送らねばなりません。もっとも、本書ではケチケチ生活のすすめを展開しているわけではなく、桶ねとの付き合い方の基本論を展開しています。ただ、私が疑問に受け止めたのは、お金との付き合いであって、お金を稼ぐための労働観とか働くということについての著者の考えがまるで伝わってきませんでした。勤労という行為は、一面では社会的な貢献、あるいは、社会的貢献をしている自分に対する責任感であり、他面から見れば個人や家族の生活の基となる収入を得る手段です。マルクスが喝破した通り、資本制下では商品生産がその特徴を表し、商品を市場において貨幣と交換するために労働力しか持たないプロレタリアートはその労働力を売ることを余儀なくされます。そして、本書の著者は支出を低水準に抑える結果として、労働も低水準の供給しかしない、という選択をしています。あるいは、低生産性の労働にしか従事しない、ともいえます。労働供給と生活水準は、どちらが卵か鶏かは議論が分かれる可能性もありますが、私は本書の著者のように生活が先にあってそれに必要な労働供給があるんだろうという気がしています。単なるケチケチ生活の実践だけでなく、なかなかに、基本哲学がしっかりしていて驚きました。

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次に、キャス・サンスティーン『#リパブリック』(勁草書房) です。著者は、憲法専門とする米国ハーバード大学の法科大学院(ロースクール)の教授であるとともに、ノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らとともに行動経済学や実験経済学の著作を公表したり、あるいは、その見識をもってオバマ政権において行政管理予算局の規制担当官を務めたりしています。本書は、タイトルからは判りにくいかもしれませんが、もう15年以上も前に刊行された『インターネットは民主主義の敵か』の問題意識をいくぶんなりとも共有し、熟議民主主義に重点を置いた現在の民主制に対して、インターネットや進歩の激しいテクノロジーが何をもたらすかについて考察を巡らせています。特に、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを対象に、フルター・バブル≅情報の繭≅エコーチェンバー(共鳴室)により意見を異にする他者からの断絶を生じかねない、また、それを快いとも感じかねない情報やコミュニ受け―ションのあり方に疑義を呈しています。少なくとも、その昔の新聞は、完璧とはほど遠いながらも、それなりに異なる意見を収録し、例えば、私が見ている範囲でも、専門家の意見として両論併記を試みたりしているわけですが、ネット上のSNSなどでは意見を同じくする集団が形成されてしまい、その中に取り込まれて自分と同じ意見だけに接するようになると、それなりに快く感じたりする一方で、熟議に基づく民主主義の健全な運営にはマイナス要因ともなりかねない、というのは一般にも理解できるのではないでしょうか。我が国におけるネトウヨなんかがひょっとしたら当てはまるのかもしれません。そこに、無制限の表現の自由を許容するのではなく、何らかの政府による規制が必要になる可能性の端緒があります。米国的な極端なリバタリアンの世界ではなく、日本的な世論形成を考えれば、本書の主張はもっと判りやすいような気がします。かなり難しい内容ですが、テクノロジーと民主主義の未来について、次に取り上げる『操られる民主主義』とともに、考えさせられる1冊でした。

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次に、ジェイミー・バートレット『操られる民主主義』(草思社) です。英国の左派シンクタンクに属するジャーナリストで、上の表紙画像に見られる通り、英語の原題は The People vs Tech であり、今年2018年の出版です。前の『#リパブリック』と同じように、民主主義が技術の進歩により歪められる危険を指摘しています。例えば、典型的には、先の2016年の米国大統領選挙においてトランプ陣営で暗躍したケンブリッジ・アナリティカの果たした役割などです。もちろん、行動経済学や実験経済学の見識からして、アルゴリズム的に処理された情報に基づく一連のナッジの支配下に人々が置かれる危険はあり、私もこういった技術の過度の利用、というか、悪用に近い利用により世論が歪められる危険があるのは理解できますが、選挙などでは逆の陣営もこういった技術を利用し始めるわけですから、長期的には民主主義には悪影響はないものと理解していましたが、例えば、独占が形成されるなどにより長期に渡って技術の悪用により世論が歪められる可能性がある点は理解が進んだ気がします。また、本書では民主主義を支える人々へのベーシックインカムの必要性も主張していますが、同時に、ベーシックインカムはあくまで基礎的な生活の必要をまかなうだけであり、決して格差を解消するほどのパワーはないと結論しています。こういったリスクは当然にあるわけですが、私は民主主義も技術に合わせて、というか、やや遅れつつも、システムとして進歩するんではないか、という気がしています。本書ではカーネマン教授の言うところのシステム2に基づく熟慮の民主主義に重点を置いていますが、そのためには一定の時間的な余裕も必要ですから、生産性の向上も不可欠です。経済と民主主義が車の両輪としてともに進化する中で、技術の過度の進歩に起因する民意の歪曲などの問題は、個々人の自覚ではなく、社会経済のシステムの問題として、システムそれ自身の進化や進歩により、あるいは言葉を変えれば、同じ意味ながら、技術革新により解消される部分が小さくないというのが私の直観的な理解です。その意味で、民主主義に関しては、私は本書の著者ほど悲観的ではありません。

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次に、ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ』(白水社) です。著者はドイツの作家・ジャーナリストであり、本書のドイツ語原題は Der totale Rausche となっていて、直訳すれば、「全面的な陶酔」ということにでもなりそうです。ドイツ語原書は2015年の出版ですが、邦訳のテキストは2017年出版のペーパーバックだそうです。ということで、ナチス・ドイツの総統だったヒトラーとその主治医モレルを中心に据えて、ヒトラーが重度のジャンキーであったことを本書は主張しています。私自身のイメージとしては、ナチスは道徳的に退廃しきったワイマール帝国への嫌悪感や反省からドラッグに対しては厳しい態度で臨み、同時に、自分の肉体は自分の裁量下にあるというユダヤ的、あるいは、マルクス主義的な見解ではなく、いかにも全体主義的な遺伝子のベクターという見方に立脚して、肉体的にも精神的にも健全なアーリア人の育成に努めていた、と思っていたんですが、まったく事実は異なるようです。ヒトラー自身は菜食主義者であったのは有名ですし、ヒトラー・ユーゲントでは今どきの田舎のボーイスカウトよろしく、地産地消などの大地に根ざした活動を進めていたと私は認識していて、それはそれで、田舎っぽくて私の趣味に合わない、と感じていたんですが、カギカッコ付きで「超都会的」な薬物中毒だったとは知りませんでした。前線兵士については、特に日本の神風特攻隊の兵士などは薬物で精神的に高揚しきった状態でなければ、とても任務に臨むのは不可能だったとは容易に想像できますが、いやしくも国家の最高指導者であったヒトラーが薬物中毒のジャンキーだったわけですから、第三帝国が英米連合国に負けたのも当然といえます。それな