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2020年03月20日 (金) 10:00:00

東京最後の読書感想文!!!

3月第1週で読書は終わりと考えていましたが、いろいろな分野の予約してあった本が次々と利用可能となり、先週も今週も割合とまとまった数の本を読んでしまいました。おそらく、来週に京都に引越しすれば、公共図書館サービスは東京都区部と比較してものすごく貧弱になることが容易に想像されますので、私の読書もかなり影響を受けることと思います。ということで、今週こそ最後の読書感想文になるかもしれません。かなり話題を集めた経済書を中心に以下の4冊です。

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まず、ジョナサン・ハスケル + スティアン・ウェストレイク『無形資産が経済を支配する』(東洋経済) です。著者は、英国インペリアル・カレッジの研究者と英国イノベーション財団ネスタのやっぱり研究者なんだろうと思います。英語の原題は Capitalism without Capital であり、2018年の出版です。タイトル通りに、有形の資本、典型的には工場の建屋や機械設備、あるいは、政府が整備する道路や港湾などのインフラから、無形の資本の重要性が高まって来ていて、まあ、邦訳タイトルをそのまま引用すると「経済を支配する」ということを論証しようと試みています。そして、そういった無形資産が支配する無形経済になれば、格差の拡大などを招いたり、長期停滞につながったり、経営や政策運営の変更が必要となる可能性を議論しています。確かに、本書で展開しているのは極めてごもっともなところですが、逆に、かなりありきたりな印象です。特に新しい視点が提示されているようには見えません。おそらく、1970年代における2度の石油危機を経て、1980年代から指摘されていたような点をなぞっているだけで、4つのSとして、スケーラビリティ、サンク性、スピルオーバー、相互のシナジーを上げていますが、本書でまったく用いられていない用語でいえば、無形資産はたとえ私的財であっても公共財の性格を併せ持つ、ということで一気に説明がつきます。この点について、とても最新の研究成果とも思えない「スーパースター経済」などを援用しつつ議論しているだけで、もちろん、それなりに新しい研究成果も取り入れているんですが、特に新しい視点が入っているようには見受けられません。今までの無形資産に関する議論を整理するという点では、とても有益な読書でしたが、それだけ、という気もします。

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次に、ダロン・アセモグル & ジェイムズ A. ロビンソン『自由の命運』上下(早川書房) です。著者は、マサチューセッツ工科大学とシカゴ大学の研究者で、というよりも、前著の『国家はなぜ衰退するのか』のコンビです。英語の原題は The Narrow Corridor: State, Societies, and the Fate of Liberty であり、邦訳タイトルは原著のサブタイトルの3つめを取っているようです。2019年の出版です。冒頭で、ソ連東欧の共産諸国が崩壊した後、すべての国の政治経済体制が米国のような自由と民主主義に収れんするという意味のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と、その5年後のロバート・カプランの「迫りくるアナーキー」を対比させ、実は現在の世界はアナーキーに満ちているのではないか、という視点から本書は始まります。そして、著者の結論を先取りすれば、自由を実現し国民が自由を享受するためには法律とそれを強制する権力を持った国家が必要である、というものです。

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そして、上の画像のように、縦軸に国家の力、横軸に社会の力のカーテシアン座標に、その両者のバランスの取れた回廊がある、ということになっています。そこは国家が専横に陥ることなく、逆に、国家の力がなさ過ぎてアナーキーに陥ることもない、という意味で、ホントの自由が実現される回廊である、ということを議論しています。国家というリヴァイアサンに足かせを付ける、という表現も多用されていますし、国家が強力になったら同時に社会もパワーアップする必要がある、という意味での赤の女王の法則もしばしば言及されます。ただし、私は本書には2点ほど誤解があるように思います。第1に、自由と民主主義の混同、というか、取り違えです。本書では「自由」に力点を置いていますが私は「民主主義」ではなかろうかという気がしています。第2に、社会ではなく市民の力だと思います。まず、アナーキーと対比すべきで、本書で論じているのは、自由ではなく民主主義です。すなわち、アナーキーというのはある意味ではカギカッコ付きの「自由」であり、個々人が異なるウェイトを持った弱肉強食の世界といえます。資本主義下の株主総会の世界であり、単純に貨幣といってもいいのかもしれませんが、購買力によってウェイト付けされた社会です。格差を認めた上での不平等であり、民主的な1人1票の世界とは異なります。私はむしろウェイト付けのない民主主義の実現こそが本書で目指している世界ではないか、という気がします。そして、そういった社会における市民あるいは国民の資質を問うべきです。俗な表現に「民度」という言葉があり、少し保留が必要かもしれませんが、かなり近い概念です。例えば、識字率がある程度高まらないと民主的な投票行動も自由にできない、という側面は見逃すべきではありません。ですから、社会のパワーを考える基礎として市民の問題も考えないと、社会が市民なくしてポッカリと空中に浮かんでいるわけではありません。その意味で、もう少し教育の重視を指摘して欲しかった気がします。いずれにせよ、読めば判るんだろうと思いますが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』に比べると、かなり見劣りします。その点は覚悟の上で読み始めた方がいいと私は考えます。

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次に、というか、最後に、デヴィッド・ウォルシュ『ポール・ローマーと経済成長の謎』(日経BP社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、ボストン・グローブ紙の経済学コラムを担当しています。念のためですが、経済学コラムであって、経済コラムではないようです。英語の原題は Knowledge and the Wealth of Nations であり、邦訳タイトルに含まれているローマー教授だけではなく、むしろ、スミスの『国富論』になぞらえており、2019年の出版です。ということで、650ページを超える大著で、邦訳タイトルのローマー教授だけでなく、ノーベル経済学賞受賞者クラスのキラ星のような経済学者がいっぱい登場します。そして、誠に申し訳ないながら、この読書感想文をアップする現時点で、実は、まだ読み終えていません。これは15年近くのこのブログの歴史で初めてかもしれません。60歳を過ぎて、極めて異例な状況に置かれており、ご寛恕を乞う次第です。また、読み終えましたら、然るべき読書感想文をアップしたいと思いますが、これまた誠に申し訳ないながら、しばらくの間、このブログの更新は途絶えるかもしれません。

ということで、この3連休は引越し準備の荷造りに明け暮れる予定です。連休明けの3月25日に東京から荷物を搬出して、その翌26日に京都の新しい住まいで荷物を受け取る予定となっています。ただ、かなり早くから手配したつもりなんですが、インターネット回線の開通は3月31日です。それまで、新しい勤務先である私大の研究室に行って勤務を始めるつもりですが、3月31日ないし4月1日までブログの更新がストップしますので、悪しからずご了承下さい。
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2020年03月14日 (土) 11:00:00

今週の読書も経済書などをついつい読んで計4冊!!!

本格的な読書は先週までと考えていたんですが、今週もついつい読み過ぎたような気がします。おかげで引越し作業がなかなかはかどりません。来週も、実は、話題のアセモグル & ロビンソン『自由の命運』がすでに図書館に届いており、また、ユヴァル・ノア・ハラリの『21 Lessons』やウォルシュの『ポール・ローマーと経済成長の謎』なども予約順位が迫っており、ひょっとしたら、それなりの読書になるかもしれません。なお、本日の朝日新聞の書評欄を見ると、2月1日の読書感想文で取り上げた『ワンダーウーマンの秘密の歴史』とその次の週の2月9日に取り上げた『男らしさの終焉』の書評が掲載されていました。1か月以上も新聞に先んじるのはそれなりに気分がいいものかもしれません。

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まず、ハロルド・ウィンター『やりすぎの経済学』(大阪大学出版会) です。著者は、米国オハイオ大学の経済学研究者です。英語の原題は The Economics of Excess であり、2011年の出版です。副題が、上の表紙画像に見られるように「中毒・不摂生と社会政策」とされており、古くは、ベッカー教授とマーフィー教授による "A Theory of Rational Addiction" なんて、画期的な論文もありましたが、もちろん、今どきのことですから、行動経済学の知見も取り入れて、非合理的な選択の問題にも手を伸ばしています。ただ、大阪大学出版会から出ているとはいえ、各章の最後に置かれている文献案内を別にすれば、決して学術書ではありません。一般ビジネスマンなどにも判りやすく平易に書かれていて、その肝は時間整合性に的を絞っている点だろうと私は理解しています。本書冒頭では、時間整合的でその点を自覚している人物、時間非整合でありながらそれを自覚していない人物、時間非整合でそれを自覚している人物、の3人の登場人物を軸にして、時間割引率に基づく時間整合性のほかの非合理性には目をつぶって、もちろん、誤解や認識上の誤りは排除して、さらに、喫煙、肥満、飲酒の3つのポイントだけを取り上げて議論を進めています。その上で、温情的=パターナリスティックな政策の効果などについても視点を展開し、価値判断ギリギリの見方を提供しています。薬物に関する議論を書いているのはやや物足りないと感じる向きがあるかもしれませんが、私は基本は喫煙の先に薬物中毒があると受け止めていますので、特に本書の大きな欠陥とは思えません。ただ、何せ10年近く前の出版ですので、セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞する前であり、最近の行動経済学の展開がどこまで反映されているかに不安を覚える向きがありそうな気もしますが、かなりの程度に一般向けですので、そこまで気にする必要はないように思います。

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次に、ウルリケ・ヘルマン『スミス・マルクス・ケインズ』(みすず書房) です。著者は、ドイツの経済ジャーナリストです。本書のドイツ語の原題は Kein Kapitalismus Ist Auch Keine Lösung であり、巻末の訳者解説に従えば、日本語に直訳すると「資本主義を取り除いても解決にならない」という意味だそうです。2016年の出版です。ということで、かなりリベラルな立場から主流派経済学、というか、ネオリベ的な経済学を批判しており、その際の論点として、邦訳タイトルにある経済学の3人の巨匠に根拠を求めています。実は、すでに定年退職してしまった私なんですが、大学を卒業して経済官庁に、今でいうところの就活をしていた際に、「大学時代に何をやったか」との問いに対して、「経済学の古典をよく読んだ」と回答し、スミスの『国富論』、マルクスの『資本論』、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を、リカードの『経済学および課税の原理』とともに上げた記憶があります。当然のリアクションとして、「マルクス『資本論』を読んだというのはめずらしい」といわれてしまいましたが、無事に採用されて定年まで勤め上げています。まあ、私の勤務した役所の当時の雰囲気がマルクス『資本論』くらいは十分に許容できる、というスタンスだったと記憶しています。でも、さすがに、私は役所の官庁エコノミストの中では最左派だったのは確実です。周囲もそう見なしていたと思います。本書の書評に立ち返ると、自由放任とか見えざる手で有名なスミスについても、著者の間隔からすれば十分に社会民主主義者であったであろうし、マルクスが実生活はともかく共産主義者であった点は疑いのないところですし、ケインズは逆に自分自身では保守派と位置付けていたにもかかわらず、ネオリベ的なコンテキストで考えると十分左派であるのもそうなんだろうと思います。本書では、格差の問題などの現代的な経済課題を取り上げ、副題にあるような危機の問題も含めて、資本主義経済の問題点をいくつかピックアップした上で、決して、資本主義が社会主義に移行することが歴史の流れではないし、資本主義経済の諸問題の解決にもならない、としつつ、ネオリベ的な市場に任せた処方箋を明確に否定し、3人の古典的なエコノミストにも依りつつ、解決策を探ろうと試みています。ただ、シュンペーター的な技術革新や独占化の進展、さらに、デリバティブ取引の拡大などを指して経済の金融化の進展、などなど、かなりいいセン行っているんですが、最後の結論は少し私には違っているように見受けました。

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次に、デイヴィッド・スローン・ウィルソン『社会はどう進化するのか』(亜紀書房) です。著者は、米国ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の進化生物学の研究者であり、いわゆるマルチレベル選択説の提唱者です。英語の原題は This View of Life であり、2019年の出版です。がん細胞、免疫系、ミツバチのコロニーから、「多細胞社会」としての人間まで議論を進め、進化生物学の最前線から人間の経済社会活動のメカニズムを解剖しようと試みています。がん細胞はマルチレベル選択の実証的ですぐれた例を提供するとしています。経済学との関係では、特に、ノーベル経済学賞を受賞したエレノア・オストロム教授が提唱した失敗と成功を分かつ8つの中核設計原理(CDP)をベースにした解説はそれなりに説得力あります。8つのCDPとは、CDP1: 強いグループアイデンティティと目的の理解、CDP2: 利益とコストの比例的公正、CDP3: 全員による公正な意思決定、CDP4: 合意された行動の監視、CDP5: 段階的な制裁、CDP6: もめごとの迅速で公正な解決、CDP7: 局所的な自立性、CDP8: 多中心性ガバナンス、です。その上で、自由放任=レッセ・フェールとテクノクラートによる中央計画はどちらも機能しないといい切り、変異と選択の管理プロセスを機能する方法のひとつと位置付けています。典型的なマルチレベル選択説であり、社会的な協調が文化的な進化を進める原動力、ということなのだろうと私は受け止めています。ですから、望ましい経済社会を形成して維持し続けるための政策を立案するに当たっては、進化生物学の視点が不可欠、ということなんでしょうが、本書でも指摘しているように、進化と進歩は同一ではありませんし、進化とは望ましい方向という面はあるにせよ、実は、何らかの変化に対する適応のひとつの形式なんではないか、と私は思っています。がん細胞が正常な細胞を阻害するわけですから、進化生物学がよき社会のために、あるいは、安定した経済のために決定的に重要、とまでは断定する自信はありません。

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最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『メインテーマは殺人』(創元推理文庫) です。著者は、2018年の『カササギ殺人事件』で邦訳ミステリでミステリのランキングを全制覇し、一躍著名作家に躍り出ましたが、何と、本書で2年連続の邦訳ミステリのランキング全制覇だそうです。英語の原題は The Word Is Murder であり、2017年の出版です。『カササギ殺人事件』では、瀕死の名探偵アティカス・ピュントが謎解きを見せましたが、本書では刑事を退職したダニエル・ホーソーンが事件解決に挑み、何と、著者ホロヴィッツ自身が小説に実名かつ現実の作家や脚本家として、探偵のホームズ役のホーソーンに対して、記録者としてワトソン役を務めます。ということで、財産家の女性が、自分自身の葬儀の手配のために葬儀社を訪れた当日に絞殺されるという殺人事件から始まり、被害者の女性が約10年前に起こした自動車事故との関連が調査されるうち、被害者の女性の息子で有名な俳優も殺される、という連続殺人事件の謎解きが始まります。巻末の解説にあるように、すでにホーソーン探偵を主人公に据えた第2作の原作がすでに出版されていて、ピュントのシリーズも今後出版される予定だそうです。ミステリとしては実に本格的かつフェアな作品に仕上がっており、ノックスの十戒にも則って、犯人は実にストーリーの冒頭から登場します。いろんな伏線がばらまかれた上に、キチンと回収されます。我が国の新本格派も同じで、殺人まで進むにはやや動機に弱い点があったり、探偵役のホーソーンのキャラがイマイチですし、著者自身がワトソン役を務めるという意外性などは私自身は評価しませんが、ミステリとしてはとても上質です。ミステリファンであれば読んでおいて損はないと思います。
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2020年03月08日 (日) 10:30:00

先週の読書は東京でのまとまった最終の読書か?

昨日の記事に米国雇用統計が割り込んで、先週の読書感想文が今日になってしまいました。かなり無理のある戦争や戦闘をマネジメントの視点から取り上げた経営書、啓蒙書などに加えて、大御所作家によるミステリ短編集まで、以下の通りの計5冊です。この先も、パラパラと読書は進めますが、週数冊のペースの読書は、当面、今日の読書感想文で最後になります。3月中に京都に引越してから、大学の研究費を使っての書籍購入の読書、また、京都をはじめとする公立図書館から借りての読書のいずれも、現時点ではどうなるものやら、まだ何ともいえません。

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まず、野中郁次郎ほか『知略の本質』(日本経済新聞出版社) です。著者の1人である野中教授は一橋大学の研究者であり、経営学の泰斗なんですが、この本では戦略論などの観点から、モロに戦争や戦闘を取り上げています。その昔に『失敗の本質』を出版した際のメンバーによく似通っています。兵制や武器に関する知識は、私にはからっきしありませんが、それを差し引いても戦略に関して判りにくさは残りました。日本経済新聞出版社から上梓されている意味が私には理解できませんでした。でも、ビジネス書としてトップテンにランキングされていた時期もあります。私は戦争や戦闘に詳しくないのに加えて、経営にもセンスないのかもしれません。ということで、取り上げているのは、第2次世界大戦以降の戦争や戦闘であり、第2次大戦における独ソ戦、同じく英国の空戦と、海戦、ベトナムがフランスと米国を相手にしたインドシナ戦争、そして最後に、イラク戦争と4章に渡って議論が展開されています。第2章の英国の戦略というか、時の首相だったチャーチルのゆるぎない信念と国民の一致団結した方向性などは経営にも通ずるものがある一方で、第1章のロジスティックス、というか、兵站や補給の重要性については、経営的にどこまで意味あるかは私には不明です。ただ、クラウゼビッツ的に政治や外交の手段としての先頭や戦争については、その通りだと思います。唯物論者の私にとって、圧倒的な後方支援体制、というか、物的生産力を有する米国がベトナムに敗れたのは、大きな謎のひとつなんですが、英国のチャーチルと同じで、ホーチミンもまた民族の独立という大義を全面に押し出し国民感情に訴えることで、広く共感を呼び起こし、国民の団結をもたらし、武力に勝る何らかのパワーを引き出した、といことなのだろうと思いますが、それをどのように経営に応用するんでしょうか?

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次に、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』上下(草思社) です。著者は、米国ハーバード大学の認知科学の研究者です。学識経験者や有識者の世界的な代表者のひとりといえます。英語の原題は Enlightenment Now であり、ハードカバー版は2018年の出版です。ということで、啓蒙についての定義とまではいえないかもしれませんが、世界に関する正しく科学的な認識が生活の豊かさをもたらす、という観点を強調しています。ポストトゥルースやフェイクニュースなんぞはもってのほか、ということです。その意味で、強烈な米国トランプ政権批判の要素を秘めている点は忘れるべきではありません。啓蒙主義の理念は、理性、科学、ヒューマニズム、進歩などであり、私がよく言及するように、保守とは歴史の進歩を否定したり、進歩を押しとどめようとする一方で、左派リベラルは歴史の進歩に信頼を寄せ、パングロシアン的といわれようとも、人類の歴史は正しい方向に進んでいる、と考えています。歴史の流れを押しとどめるのが保守であり、ついでながら、この歴史の流れを逆回しにしようとしているのが反動といえます。本書第2部では、延々と人類の歴史の進歩が正しく実り大きい方向にあった点を跡付けています。その意味で、特に、2016年の米国大統領選挙や英国のEU離脱を決めたレファレンダムあたりから、世界の進む方向が変調をきたした、との論調を強く否定しています。その意味で、「世界は決して、暗黒に向かってなどいない。」との分析結果を示していますし、私はそれに成功していると受け止めています。とてもボリューム豊かな上下2冊であり、中身もそれなりに難解な内容を含んでいますので、読み始めるにはそれなりの覚悟が必要ですが、読み切れば大きな充実感が得られると思います。私は不動産契約のために京都を新幹線で往復した日ともう半日くらいで読み切りましたが、じっくりと時間をかけて読むのもいいような気がします。その意味で、図書館で借りるよりも書店で買い求めるべきなのかもしれません。

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次に、スー・マケミッシュほか[編]『アーカイブズ論』(明石書店) です。著者たちは、もナッシュ大学を中心とするオーストラリアの研究者が多くを占めています。英語の原題は Archives: Recordkeeping in Society であり、2005年の出版です。さらに、原書は12章から構成されていますが、なぜか邦訳書はそのうち半分の6章だけの抄訳書となっています。ということで、私の受け止めながら、集合名詞である「アーカイブズ」とは、何らかの決定に至る過程や論理を後に参照できる形でとどめる広い意味での公文書、ということになります。もちろん、その背景には説明責任=アカウンタビリティの保証があることは当然です。さらに、プリントアウトされたドキュメントだけでなく、マイクロフィルムや電磁媒体はいうまでもなく、アナログ・デジタルを問わず録画や録音も含まれると解されますし、役所のいわゆる公文書だけでなく、企業における経営判断をはじめとして何らかの決定過程を跡付ける資料も含まれます。ですから、オーストラリアには企業公文書施設が存在するそうです。まだ記憶に新しい森友事件における財務省の公文書改ざんなどにかんがみて、こういったアーカイブズに関する学術書が公刊されたんだろうと私は受け止めていますが、出版物を受け入れる図書館だけでなく、アーカイブズを整理して保存する組織や施設の必要性がよく理解できると思います。ただ、繰り返しになりますが、原書の抄訳であり、すっ飛ばされた部分がとても気にかかります。本書のテーマからして、どうしてそのような意思決定がなされたのか、説明責任を果たすべく、何らかのアーカイブズは残すことになるんでしょうか。それとも本書の邦訳者にして、アーカイブズの保存という実行は別問題なんでしょうか。

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最後に、有栖川有栖『カナダ金貨の謎』(講談社ノベルス) です。作者は、ご存じの通り、本格ミステリの大御所作家です。本家クイーンの向こうを張った国名シリーズ第10弾の記念作品です。綾辻行人の館シリーズ第10作がなかなか出て来ませんが、スタートは館シリーズに遅れたものの、コチラの方が第10作目の出版が早かったのは少し驚きました。ということで、作家アリスのシリーズですので、英都大学の火村准教授が謎解きに挑みます。短編ないし中編を5編収録したミステリ短編集で、収録順に、「船長が死んだ夜」、「エア・キャット」、表題作の「カナダ金貨の謎」、「あるトリックの蹉跌」、「トロッコの行方」となっていて、私は冒頭の2編は読んだ記憶があります。表題作は、この作者にしてはややめずらしい倒叙ミステリとなっています。男性の絞殺死体からメイプルリーフのカナダ金貨が持ち去られていたミステリです。最後の「トロッコの行方」は米国ハーバード大学のサンデル教授が取り上げて注目されたトロッコ問題をモチーフにしています。ただし、表題作も含めて、中編の「船長が死んだ夜」、「カナダ金貨の謎」、「トロッコの行方」はいずれもノックスの十戒に従って、すべて殺人事件なんですが、新本格派のミステリらしく少し動機が弱い気がします。これくらいのことで人を殺すかね、というのは私だけの感想ではなかろうと思います。それを別にすれば、極めて論理的な謎解きが展開されます。国名シリーズの10作目として、期待通りの出来といえます。
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2020年02月29日 (土) 23:00:00

今週の読書はペースダウンしつつも、スティグリッツ教授の経済書をはじめ計4冊!!!

今日までの2月いっぱいで、ほぼほぼ住宅の契約関係、すなわち、現住居の売却と新居の購入の契約などは終えました。もちろん、実際の引越しなどは3月の下旬になるわけですが、契約関係は私が全面に出るとしても、引越しなどの実務は女房が指揮を執ることになります。そして、東京都民最後の1ト月となり、読書の方も少しずつペースダウンしています。今週はスティグリッツ教授の印象的な資本主義論をはじめとして以下の計5冊です。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ『スティグリッツ・プログレッシブ・キャピタリズム』(東洋経済) です。著者は、リベラルなエコノミストであり、ノーベル経済学賞受賞者です。英語の原題は People, Power, and Profits であり、2019年の出版です。ということで、先々週2月9日付けの読書感想文で取り上げたエリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』と同じ出版社から、同じ趣旨の資本主義の修正を迫る内容となっています。市場における資源配分を基礎とする資本主義が、もはや、効率的な経済や、ましてや、公平で公正な分配をもたらすことはあり得ない、と多くのエコノミストが認識し、今や、ごく限られた一部の富裕層や大企業にのみ奉仕するシステムになり果てていることは、エコノミストならずとも、多くの一般国民が実感しているところではないでしょうか。特に、米国の場合、トランプ政権成立後は国内的な分断が激しく、格差問題をはじめとする経済だけでなく、フェイク・ニュースをはじめとして、政治的に民主主義が危機に瀕しているとの見立てすらあります。日本と違って、米国の場合は宗教的なものも含めて迫害から逃れて移民して来た人々が建国した国ですので、少数者を多数者の専横から保護するシステムも発達していますが、そういった米国本来の民主主義が歪められていると見る有識者も少なくありません。本書でも、主眼は経済なのかもしれませんが、第2部冒頭の第8章をはじめとして、民主主義の重要性を主張している論調も少なくありません。累進課税の復活や教育をはじめとする機会均等の実現などなど、米国独自の課題は少なくありませんが、日本と共通する部分もかなり私には見受けられました。一般読者を対象にした啓蒙的な内容を主とする経済書ですが、専門的な原虫が100ページを超えており、私はそれなりにていねいに読んだつもりですが、この原虫を含めてしっかり読めば、かなり理解が深まるような気がします。冒頭に言及した『ラディカル・マーケット』やバルファキス教授の『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』などとともに、経済を民主化して国民生活をより豊かで実り多いものにすることを目指しているのであれば必読です。

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次に、ジェームズ C. スコット『反穀物の人類史』(みすず書房) とルイス・ダートネル『世界の起源』(河出書房新社) です。国家や世界の起源に関する2冊を強引かつ無理やりにいっしょに論じようとしています。ズボラで申し訳ありません。まず、『反穀物の人類史』の著者は米国イェール大学の政治学の研究者で、英語の原題は Against the Grain であり、2019年の出版です。『世界の起源』の著者は、英国レスター大学の英国宇宙局に在籍する宇宙生物学を専門とする研究者で、英語の原題は Origins であり、2018年の出版です。この著者の本としては、同じ出版社から邦訳が出ている『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』を数年前に私は読んだ記憶があります。ということで、まあ、理解できるところですが、『反穀物の人類史』は経済社会的な視点から国家の成立を論じ、ティグリス=ユーフラテス川の流域に国家が生まれたころから、せいぜいがギリシア・ローマの古典古代の奴隷制経済までをスコープとしているのに対して、『世界の起源』は宇宙物理学や宇宙生物学の視点から世界の成り立ちを追っていますから、ホモ・サピエンス登場以前から産業革命後までも含めて、さらに壮大な長期を対象にしています。私が注目している現代貨幣理論(MMT)では、貨幣の起源を国家による徴税への強制的な支払いに求めていますが、『反穀物の人類史』では穀物が国家の税金として採用されたのは、熟する時期が限定されており、同じように保存のきく豆類との違いを上げています。ただ、生産力の成長とそれに合わせた奴隷制の成立については、少し私には違和感あります。やっぱり、著者も言及しているエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』ほどには私の直感に響きませんでした。『世界の起源』では、人類の物語を本当に理解するには、地球そのものの経歴を調べなければならないと説き、地表だけでなく地下の構造、大気の循環、気候地域、プレートテクトニクス、大昔の気候変動などを対象として分析し、環境が人類に残した痕跡を探ろうと試みています。

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次に、松山秀明『テレビ越しの東京史』(青土社) です。著者は、建築学の学生から都市の映像学に転じた研究者であり、本書は著者の博士論文をベースにしています。ということで、タイトル通りに、戦後の東京を大雑把に20年ごとに区切って、テレビと東京との関係、すなわち、著者のいうところの首都としての東京論と東京の空間論について、p.29の三角形、テレビによる東京という放送制度論、テレビに描かれた東京、東京の中のテレビという東京空間におけるテレビの3つの視覚から歴史的に考察を加えています。もちろん、その背景にはテレビというハードウェアとそのハードウェアの普及を促すソフトウェアの提供があるはずなんですが、1959年の皇太子ご成婚と1964年の東京オリンピックをそれに当てています。ただ、ハードウェアとソフトウェアという用語は本書では用いられていません。ちなみに、私の記憶する限り、力道山をはじめとするプロレスもテレビの普及に貢献したと考えているんですが、これも著者はほぼほぼ無視しています。ハイカルでもなければ、サブカルでもないし、やや偏った印象を私は受けました。そして、もうひとつ、奇っ怪だったのはテレビドラマの見方です。TBSの「岸辺のアルバム」はいいとしても、お台場に移転したフジテレビのいわゆる月9枠のテレビドラマ、典型は「東京ラブストーリー」を、お台場というイントラ東京の地域性だけ論じようと試みています。これはいくら何でもムリがあります。バブル経済という経済的な時代背景を視野に入れずして語ることは大きな片手落ちというべきです。本書でも指摘している通り、大宅壮一の「一億総白痴化という批判を前に、お堅いドキュメンタリーやノンフィクションの報道から始まったテレビのひとつの到達点なんですがら、ここはチキンと抑えて欲しかった気がします。あと、せっかくオリンピックから始まったテレビですので、スポーツをもっとていねいに取り上げて欲しかった気がします。堺屋太一のいう「巨人、大鵬、卵焼き」にも登場するプロ野球と大相撲を無視したのは私には理解できません。ということで、これから大学教員になる私の目から見て、かなりレベルの低い博士論文だという気がします。私が主任教員であれば決して通さなかったでしょう。

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最後に、今週の読書唯一の小説で、道尾秀介『カエルの小指』(講談社) です。著者は、直木賞作家の小説家です。この作品は『カラスの親指』の続編、十数年後という位置づけです。ですから、武沢竹夫が主人公で、まひろ、やひろ、貫太郎らも登場します。繰り返しになりますが、十数年後という設定ですから、まひろがアラサー、やひろも40歳近い年齢に達しており、やひろと貫太郎の夫婦にはテツという小学生の子供も生まれています。前作の『カラスの親指』と同じように、大規模なペテンを仕掛けたように見えつつも、実は、…、という設定です。ということで、主人公の武沢竹夫は詐欺師から足を洗い、口の上手さを武器に実演販売士として真っ当に生きる道を選んだんですが、謎めいた中学生のキョウがその実演販売に水を差し、未公開株式詐欺にあって呉服屋を倒産させられた祖父母や母のかたき討ちを持ち込まれて、再び派手なペテンを仕掛けようと試みます。前作と違って、そこの詐欺を糾弾するフリをしたテレビ番組も巻き込んで、大規模なペテンが始まりますが、最後の最後に、やっぱり、大きなどんでん返しが待っています。私は前作の『カラスの親指』は原作も読みましたし、石原さとみと能年玲奈が出演した映画も見て、それなりに満足しましたが、この作品は前作ほど面白くもなければ、ミステリとして出来もよくありません。何となく、国民がそのまま高齢化した日本社会の「つまらなさ」を体現しているような小説です。でも、私のような道尾秀介ファンは読んでおくべき作品といえます。
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2020年02月22日 (土) 11:00:00

今週の読書はややペースダウンしつつも計5冊!!!

今週の読書は話題の現代貨幣理論(MMT)に関する経済書をはじめ、以下の計5冊です。既に、今日のうちに図書館回りを終えていて、そろそろ読書のペースはダウンさせつつあります。引っ越しまでそろそろ1か月くらいになりました。図書館環境が文句なしに日本一の東京から関西へ引っ越しますので、それなりにペースダウンする上に、10年近く前に経験あるとはいえ、大学教員に復帰するんですから、少なくとも1年目は大忙しだろうと思います。読書の時間は取らねばなりませんが、お仕事に必要な読書の割合が飛躍的に高まるのは当然だろうと予想しています。

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まず、藤井聡『MMTによる令和「新」経済論』(晶文社) です。著者は、京都大学の工学分野の研究者で、防災などの内閣官房参与を務めたこともあります。本書タイトルのMMTとは、もちろん、Modern Monetary Theory であり、現代貨幣理論についてレイ教授の入門書に即して平易に解説しています。要するに、MMTの肝は、インフレ率を目標関数にするのは財政政策の役割であって、世界のエコノミストの多くが思い描いているように、金融政策が物価水準を決める主要な政策ではない、という点に尽きます。MMTの理論に沿って、貨幣は国家=統合政府たる狭義の政府と中央銀行の統合体の債務であって、逆から見て民間部門の資産であり、貨幣が流通するのは国家が税金の支払いを貨幣でもって行う強制力を持っているためである、ということになります。そこから敷衍して、通貨発行権を独占する国家が債務超過に陥ったり、破綻することはあり得ない、ということになります。私はこの点までは、MMTの考えるモデルの説明であって、ここまではとても整合性あるモデルである点は認めるべきだと思います。理論的なモデルとしては十分なんですが、問題は操作性、というか、政策への応用だと私は受け止めています。すなわち、金融政策がインフレ率の決定要因となる場合、古典派的な貨幣数量説を応用すれば、極めて直感的かつ直接的な把握が可能である一方で、財政政策から物価への波及経路は極めて複雑です。基本は、需給ギャップを通じたルートなんでしょうが、波及ラグを考慮すれば、財政政策オペレーションは金融政策の公開市場操作に比べて決して単純ではありません。もっとも、私は需給ギャップだと思っていますが、本書では財政政策を通じた貨幣流通量を重視しているようです。財政赤字が大きいほどマネーストックも増加するというMMTモデルの基礎となる部分です。ただ、本書でも指摘されているように、金融政策が経済主体の経済合理的な行動を前提として、かなりの程度に間接的な政策であるのに対して、財政政策は国家としての強制力のある直接的な政策であることも確かです。ですから、ここから先は本書にはありませんが、金融政策では期待の役割を重視し、デフレマインドが払拭しきれないために、我が国でインフレ目標の達成ができない一方で、財政政策は強制力を持って税金として民間からマネーを徴収したり、逆に、国民のポケットにマネーを供給したり、といった直接的な政策手段を持ちます。特に、MMTでは歳出政策と歳入政策がほぼほぼ完全に切り離されますので、政策の自由度は大きくなりそうな気がします。いずれにせよ、MMTは本書で指摘するように、何ら理論的な裏付けない「トンデモ理論」では決してないことは、かなり多くのエコノミストに理解されて来たと思いますが、金融政策による貨幣数量説的な単純なモデルに比べて、財政政策による需給ギャップを通じた複雑な経路を経るように見えるモデルのどちらが物価への影響が大きいかは、理論的な帰結ではなく、大いに実証的な問題と私は考えます。本書で示されたMMT理論について、多くのエコノミストが理解を進めて、理論的なモデルの解説からさらに実証的な検証に進む段階に達したように私は感じています。かつてのような「非ケインズ効果」のように実証的なエビデンスが得られれば、それが、実際のデータであれ、モデルのシミュレーションであれ、その段階に達したらMMTはさらに説得力を増すと考えるべきです。

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次に、馬文彦『14億人のデジタル・エコノミー』(早川書房) です。著者は、世界最大級の中国政府系ファンド「中国投資有限責任公司(CIC)」で長らく投資を行ってきた実務家のようですが、私はよく知りません。副題は「中国AIビッグバン」となっているんですが、ほとんどAIのトピックは出て来なかったように記憶しています。まあ、私が読み飛ばしただけかもしれません。私の読書結果としては、要するに、米国のGAFAに対して中国でBATと称されるバイドゥ、アリババ、テンセント、あるいは、そのさらに先を走る次世代企業のTMD,すなわち、トウティアオ、メイトゥアン、ディディチューシンをはじめとして、企業活動を中心に据えつつ、中国のデジタル企業の現状を紹介したものです。逆に、利用者サイドの情報はそれほど充実しているとはいえません。まあ、投資活動が長かった著者のようですから、ある意味で、当然です。なお、最近私が目にしたところでは、先のBATにフアウェイを加えてBATHと語呂のいい4文字にしている例も見かけましたが、米国に制裁対象にされてやや陰りが見えるのかもしれません。ということで、、私は1年と少し前の2018年11月に国連統計委員会の会議で北京を訪問したのが中国メインランドに旅行した唯一の経験なんですが、その時点で、知り合いの大使館書記官から「タクシーは現金では乗れない」といわれたくらいに、キャッシュレス決済が普及していて、まあ、これは日本でもそうですが、あらゆる人がスマホをいじっている気がしました。私の見方からすれば、アテンション経済と称される奏、自分のデータを気軽にお安く売って、アテンションの値打ちが低い気がしないでもありません。ただ、それだけに、その裏側では、アテンションやデータを収集する企業の方は極めて高収益を上げているのは間違いありません。本書でも紹介されている通りです。GAFAと同じように、デジタル企業ではデータを収集して分析し、いろんな経済活動に活かしているわけですが、本書の明らかなスコープ外ながら、私がついつい思い浮かべてしまったのは、現在の新型コロナウィルスのデジタル経済への影響です。例えば、インターネット通販に関していえば、店舗での接触を避けられるという意味でOKそうな気もします。ただ、そもそも、「世界の工場」である中国で製造業の稼働率がかなり低下し、流通する財が品薄になれば小売りはどうしようもありません。もちろん、小売りに限らず、現在の中国はそれなりに世界の分業体制の中で、というか、流行りの用語でいえば、サプライチェーンの中で重要な位置を占め、小売りはもちろん川下産業への影響も大きくなっています。また、かえる跳びのリープフロッグ経済のデジタル分野における利点を並べていますが、逆に、別のリープフロッグに追い抜かれるリスクもあるわけで、そのあたりはイノベーション次第という気もします。最後に、第8章ではプライバシーを取り上げていて、フェイスブックのザッカーバーグCEOはプライバシー重視に路線転換を図っているようですが、中国でこそプライバシー意識が希薄、というか、プライバシーよりも天下国家の安寧秩序の方に大きな重点を置くんではないか、という気がしてなりませんでした。

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次に、青木理『暗黒のスキャンダル国家』(河出書房新社) です。著者は、共同通信ご出身のジャーナリストであり、特に、ジャーナリストとして権力の監視に熱心であり、その意味で、反権力的なバイアスを持っているように見られがちな気もします。私は、本書の著者が取りまとめたノンフィクションでは新書版の『日本会議の正体』を読んだ記憶があります。ということで、毎日新聞に著者が掲載している「理の目」と題するコラムなどから、著者のコメンタリーを収録しています。タイトルこそかなり激しい調子の印象を受けますが、中身の主張についてはかなり抑制のきいた文体で時論を展開しています。冒頭から、「ジャーナリストは反骨で当然」という趣旨の議論が展開され、権力に対するチェック・アンド・バランスという意味で、ジャーナリズムが権力を監視する意気込みを強く感じさせます。2012年年末の総選挙で政権交代があり、その後、現在の安倍政権が継続しているわけですが、その総選挙後だけでも、特定秘密保護法・安全保障法制・テロ等準備罪法の強行姿勢から始まって、本書のタイトルとなっているスキャンダルについては、森友・加計学園の問題を筆頭に沖縄県辺野古への米軍基地移設、東北地方などへのイージス・アショア配置問題、改元に伴う元号のあり方への疑問、現在の国会論戦で展開されている桜を見る会の招待客問題、あるいは、高検検事長の定年延長問題などなど、あれやこれやとにわかには信じられない政権の暴挙が一強政権下で連続しています。もちろん、現政権の目指すところは憲法改正であることは明確です。こういった流れの中で、私のようなエコノミストの目から見て、本書でも安倍政権が経済政策を全面に押し出して選挙で勝利したような表現が見受けられましたが、やっぱり、現政権の横暴を許さないためには選挙でのプレッシャーが必要ではないかという気がします。決して、本書が「上から目線」とは思いませんが、国民生活に密着してお給料が上がって豊かな消費が楽しめるような政策を打ち出せないと、左派リベラルは選挙で負け続けて、経済を全面に打ち出して選挙に強い現政権が、経済政策だけでなく安全保障などをひっくるめてすべての政策を支配しかねません。正面から言論で政権批判を展開するのも結構ですが、国民目線で豊かな生活につながって、それが現政権への監視に役立つような政策の提示も、同時に必要ではないでしょうか。本書では、現政権の究極の目標であろうと推察される憲法改正について何も取り上げていないに等しいのも気がかりですし、何を差し置いても、選挙で負け続けては改憲を防げないという点は強調しておきたいと思います。

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次に、ジョナサン・シルバータウン『美味しい進化』(インターシフト) です。著者は、英国エディンバラ大学の進化生態学の研究者です。本書の英語の原題は Dinner with Darwin であり、2017年の出版です。ヒトや動物の進化とともに、また、調理の発展とともに、ヒトと食べ物の関係がどのように変化して来たのかを歴史的にひも解こうと試みています。すなわち、150万年前に初めて料理したとされるヒトの進化の方向付けには食習慣が大きく作用していたことは明らかとしても、同時に、ヒトの食べ物になった品種も進化してきたわけで、身近な食べ物を材料に食べる方と食べられる方の両方の生物学的な進化を読み解こうと試みています。私にははなはだ専門外なんですが、進化や生物学の見方からすれば、わずかの数の遺伝子の並びがホンの少し違うだけで味覚が異なるのはあり得ることなのでしょうし、また、ヒトやほかの動物の味覚に合わせて、食べられる方の主として植物がその繁栄を目的として進化を遂げたりする様子が、とてもリアルかつ判りやすく活写されています。動物はともかく、ヒトは狩猟生活から、あるいは、生肉を食べる狩猟生活から熱を加えて調理する狩猟生活に移り、さらに、農耕生活に発展するわけですが、そのあたりの料理や調理とヒトの共進化が、私のような専門外のシロートでも「なるほど」と思わせるように描き出されています。私は関西の出身で、よく「何か食べられないものはあるか?」と問われて、辛いものが苦手である旨を伝えることがしばしばあるんですが、鳥は辛さを感じないなんて、まったく知りませんでした。ただ、やっぱり、というか、私なんぞから見てもっとも興味深かったのは、第10章 デザート から始まって、第11章 チーズ と第12章 ワインとビール だった気がします。やや順番を入れ替えて、チーズはマイクロバイオーム、すなわち、膨大な数の最近の塊であるといい切り、よく乳糖不耐症は人類の過半を占めるといわれますが、乳糖を分解できる酵素を持たなくても、牛乳の有益な成分を体内に取り込むことのできる食物と指摘しています。そして、何といっても醸造酒の代表であるビールとワインについては、アルコール中毒になる人、ならない人についての解説も詳しかったですし、人類がアルコール飲料からいかに多くの示唆を得てきたかが実感されます。でも、やっぱり、ある意味で最高のエネルギー源である糖類について、デザートを取り上げた10章も深みを感じさせました。エネルギー源としての魅力を増すため、別の表現をすれば、ヒトを引き付けるために甘くなったのか、それとも、エネルギー源として望ましい故に甘く感じつようにヒトの方が進化したのか、たぶん、後者だろうと思うんですが、甘いものを求めるヒトの欲求というのは、私にもよく理解できます。本書では現れませんが、ヒトの両性の中でも男性よりも女性の方が甘いものを好むのは、ひょっとしたら、子供を産むという役割にそれだけ重要性を置いているのかもしれない、と感じたりしました。

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最後に、田村秀『データ・リテラシーの鍛え方』(イースト新書) です。著者は、旧自治省の公務員から学界に転じた研究者のようです。ただし、データ分析、というか、統計や計量の専門家なのかどうかはやや疑問です。ネット・アンケートやランキングについて疑問を呈しつつ、さらに、データを用いた表現振りから真実を見抜く方法、最後に、データ・リテラシーの鍛錬まで、データや情報に関する幅広い話題を取り上げています。ただ、データの信憑性については、「無作為抽出ではない」という点に最大の力点が置かれており、無作為抽出ではないデータや情報を否定するばかりで、そういったバイアスのかかったデータをどう理解すべきか、という踏み込んだ論考はなされていません。もちろん、新書ですから、そのあたりは限界かという気もします。後半の投資案件の表現振りへの批判もご同様で、章タイトル通りに、「うまい話」には裏があるというのは、それなりの教養ある常識人には判っていることですから、さらに踏み込んで、そういったカラクリを見抜くだけでなく、どういったデータや情報が役立つのかを解き起こして欲しい気がします。データや情報の選択や解釈に関する書物は巷に溢れていますが、本書についてはややレベルが低い、という気がしました。逆に、入門編として手に取る向きにはいいのかもしれません。その意味で、高校生レベルにはオススメかもしれません。
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2020年02月15日 (土) 21:00:00

今週の読書は忙しい中でやや毛色の変わった経済経営書から小説まで計7冊!!!

1年近く前に一線のキャリア公務員を定年退職したにもかかわらず、ここ数年来でトップクラスの多忙さを極めています。というのも、4月から雇ってもらう私学から人事関係の手続き書類の提出を求められるとともに、授業のシラバスについては経済学部から1月の入力を求められていたにもかかわらず、私のミスにより今週から来週にかけて、もう一度アップせねばなりません。そろそろ、不動産の売買も佳境に入りつつあり、他方で、その昔の私の研究成果を大学院で研究したいという知り合いからの要請にも応え、結局のところ、現在のパートお勤めのお仕事が手につかずに人任せになっているのが現状です。といいつつ、実は以下のように今週も7冊ほど読書が進んでいたりします。でも、レビューはごくごく短めに済ませておきたいと思います。

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まず、中山淳雄『オタク経済圏創世記』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社の役員のようです。経済よりは経営という観点かもしれません。ということで、オタク文化・経済ということながら、冒頭で、2019年4月に我が国プロレスが米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンの会場を満員にした、という事実から始まっています。でも、プロレスは米州大陸、米国やメキシコから日本に輸入された文化ではないのか、という疑問が芽生えました。でも、その後は基本的にアニメ、というか、マンガ・アニメ・ゲームの三位一体で売り込むオタク経済のお話です。ドラゴンボールやポケモンが典型でしょう。ただ、アニメだけながら、ジブリのように日本独自の文化や経済を形成している場合もあります。なかなかにまじめに読ませます。

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次に、パラグ・カンナ『アジアの世紀』上下(原書房) です。著者は、インド出身の国際政治や外交などの研究者です。ということで、アジアの世紀なんて、もう言い古されたフレーズだと思っていたんですが、今までは多くは中国の経済的な体等に触発されて、世界の経済的な重心が欧米からアジアや太平洋に移行してきている事実を指摘するにとどまっていましたが、本書では、少なくとも中国だけでない多様なアジアについて、しかも、経済中心ながら経済にとどまらずに幅広いトピックを取り上げています。ですから、経済的な生産力、特に、中国を中心とする製造業の生産力や資源、あるいは、人的なマンパワーだけでなく、宗教や文化、さらに、様々な終刊に至るまで膨大なファクトを積み重ねています。

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次に、大村大次郎『信長の経済戦略』(秀和システム) です。著者は表紙画像にある通り、元国税調査官ということのようです。決してマルクス主義的な経済学が背景にあるとも思えませんが、織田信長の経済的な基礎を考察し、信長が天下統一に向かったのは、交易による財政的な基盤が強く、兵農分離を果たして常備軍を整備したためである、と結論しています。史料の分析にははなはだ不安あるものの、その後の楽市楽座政策とか、経済的な基盤が兄弟であった比叡山をはじめとする宗門との対立を考えに入れれば、納得できる仮説のような気もします。ただ、そこから飛躍して、信長以外の戦国武将に天下統一の意志がなかったので、一国経営に専念したため信長が抜きん出て天下統一を果たした、という観念論に陥っているのは理解できません。

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次に、林香里[編]『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房) です。先週の読書感想文でも男女のジェンダー問題を取り上げた読書を紹介しましたが、とても小規模なものながら、ダイバーシティやフェミニズムはややマイブームになっている感があります。ただ、私自身はいわゆる「ハマる」ということのない人間だと自覚はしています。本書はジェンダーの問題を、かなり狭い範囲で、メディアに関係する女性からの発信の問題として取りまとめられています。メディア業界以外にも、もちろん、大いに発展させることのできるトピックなんですが、ここまでメディア業界に特化しては、TBSの女性記者が誹謗中傷されたように「売名行為」という非難も巻き起こしかねない危惧はあります。何といっても、女子アナは極めて限られた人々であって、私のような世間の一般ピープルはサラリーマンやOLが多いのではないでしょうか?

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最後に、ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム6 死すべき女』上下(早川書房) です。スティーグ・ラーソンからダヴィド・ラーゲルクランツが書き継いで、とうとう全6部のシリーズが完結です。リスベットとミカエルの2人が、もちろん、最終的に勝利しますが、本書では、とうとうスウェーデンの大臣が主要登場人物の1人となり、エベレスト登頂や二重スパイなど、かなり複雑なストーリー展開になっています。どうしても、欧米系の人名に馴染みがなく、人的な相関図が頭に入り切らずに、やや散漫な読書になってしまいましたが、そのうちに、時間を作って一気に全6巻を読むような読書が必要なんだろうと気づかされました。でも、さすがに最後は圧巻でした。
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2020年02月09日 (日) 16:00:00

先週の読書は話題の歴史書『スクエア・アンド・タワー』をはじめ計8冊!!!

先週は、図書館の予約本の巡りもあって、ついつい読み過ぎたようです。興味深い経済書や歴史書から、やや疑問符が大きい小説まで、以下の通りの計8冊です。

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まず、エリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』(東洋経済) です。著者は、法学の研究者ながら経済学の学術書も少なくないポズナー教授とワイル氏はマイクロソフトの主席研究員です。英語の原題は Radical Market であり、2018年の出版です。副題に「脱・私有財産の世紀」とあるように、財貨の私有と契約自由を基礎とする現在の資本主義的な生産様式に変更を加えようとする試論を展開しています。もちろん、議論はかなり雑であり、右派的な市場原理主義やネオリベ論者からすれば突っ込みどころがいっぱいあるんでしょうが、かなり先進的な議論を提供していることも事実です。副題は第1章のみを対象としているように私には見えますが、第1章では私有財産、第2章では民主主義、第3章では移民、第4章では株式会社制度、第5章ではデータ、のそれぞれについて論じています。ある意味で、もっともアディカルな私有財産への制限については、共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)の導入を提案しています。すなわち、私有財産は本質的に独占的なものであることから、私有財産については一定の制限を加える、というか、共同所有に移行する都市、具体的には、財産を自己申告で評価し、その自己申告評価に基づいて課税しつつ、もしも、その評価額を支払う意志ある者に対しては譲渡する義務を課す、というものです。課税額を低く抑えようとして財産を低く評価すると、その評価額を支払う意志ある人に強制的に売却しなければなりませんから、それなりに高く評価する必要がありますが、たほうで、高く評価すれば納税額も高くなる、という仕組みです。また、現行の投票制度では、多数者が大きな影響力を持ち、少数者の利益は守られないおそれがある一方で、イシューによって関心の強さは人それぞれでまちまちだが、その関心の強さを票に反映することは不可能になっているため、その投票権を関心の高い分野に集中して使えるようにする投票西土、ただし、平方根で減衰する投票権として2次の投票(Quadratic Vote=QV)を導入して、関心薄い分野の投票行動を回避して投票権を貯めておき、関心高い分野でその貯めておいた投票権を一気に使う、ただし、貯めておいた投票権はリニアで使えるのではなく平方根で減衰させる、という投票制度の導入を現行民主主義の修正として提案しています。これは、副題ではなく主タイトルの「ラディカル」を民主主義に当てはめたといえます。そして、第3章以下では、移民や移住者へのVISAの割当、機関投資家による株式会社のガバナンスの独占、巨大なプラットフォーム企業による個人情報の収集といったテーマを各章で取り上げています。そして、それらの解決策、というか、著者たちの提案の基礎となっているのがオークション理論です。おそらく、巻末の日本語版解説を寄せている安田准教授は、このオークション理論の観点から選ばれたんではないか、と私は想像するんですが、解説者ご本人の意向か、あるいは、依頼した編集者がすっかり忘れたのか、オークション理論についてはまったく取り上げられていません。最後に、繰り返しになりますが、反対の立場を取るエコノミストから見れば、穴だらけの議論だろうとは思うものの、私のような左派で格差是正も重視すべきと考えるエコノミストからすれば、議論の取っかかりとしては、まずまず評価できる内容を含んでいると考えています。

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次に、伊藤真利子『郵政民営化の政治経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は、平成国際大学の研究者であり、ご専門は歴史ないし経済史のように私は受け止めました。出版社からしても、かなりの程度に学術書の色彩が強いとの覚悟の上に読み進むべきです。本書は著者の博士論文をリライトしたようですが、タイトルはやや誇大な表現となっており、本書がフォーカスするのは郵政民営化の中でも、郵便貯金に的を絞っています。ということで、戦後の郵便貯金の歴史を解き起こすところから始まって、田中角栄元総理という極めて特異な政治家の庇護により拡大した後、記憶に新しい小泉政権で民営化の大きな節目を迎えた、という歴史を跡付けています。何よりも特徴的な郵便貯金の歴史として、本書の著者は「銀行の支店展開が行政指導により制限を受ける中で、郵便事業の展開とともに貯金も扱う郵便局が銀行支店を上回るペースで拡大し、しかも、金利が自由化される前の段階で金利先高観とともに郵便貯金に資金が流れ込む仕組みを「郵貯増強メカニズム」と名付け、郵貯に集めた資金をもって当時の大蔵省の資金運用部資金を通じて公庫公団の財政投融資制度などから先進国に遅れを取っていた社会インフラの整備へ充当され、国土開発や国民生活の環境整備などをサポートした歴史が明らかにされる前段を受けて、後段では、当然ながら小泉政権における郵政民営化がメインになりますが、その前の橋本政権下での行財政改革のパーツとしての郵政公社化や資金運用部への預託義務の廃止から始まって、2005年の郵政解散がピークとなります。その意味で、タイトルからすれば、やや前段が長すぎる気もしますが、第6章が本書の読ませどころと考えるべきです。もちろん、そのバックグラウンドとして、政府財政が均衡主義を放棄し国債市場がそれなりの厚みをもって形成されたことも忘れるべきではありません。最後に、私が国家公務員として政府に奉職していたこととは必ずしも関係なく、本書の著者は優勢に対する田中角栄元総理の並々ならぬ貢献については、とてもよく目が行き届いている気がするんですが、国政選挙などにおける郵便局ネットワークの果たした役割については、少し目配りが足りておらず、さらに、小泉政権の「古い自民党をぶっ壊す」というスローガンについては、「古い自民党」=旧田中派という事実に関しては、まったく見落としているように見受けられます。学術的な分析の対象にはなりにくい気もしますが、郵政民営化が自民党内の旧田中派への強力な弱体化攻勢であった点は、どこかで何らかの視点からか取り上げて欲しかったと思わないでもありません。ただ、学術書としては難しい面があるのも、判らないでもありません。

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次に、松岡真宏『時間資本主義の時代』(日本経済新聞出版社) です。著者は、野村総研ご出身で、今は共同代表を務めるコンサルタント会社を立ち上げた経営者です。本書では、時間の使い方を切り口に、時間の希少性をいかに使うかを問うています。といえば、聞こえはいいのかもしれませんが、私には何を訴えたいのかがイマイチ理解できませんでした。本書冒頭で、すきま時間を効率的に活用しよう=スマホを電車でいじろう、という内容と早合点したんですが、そうではなく、すきま時間の効率化を手段として、効率化により節約された時間をかたまり時間としてうまく活用しよう、という主張だと理解して読み進みましたが、これはこれでその通りのいい主張ではあるものの、途中から大きくよれてしまいます。時間を基礎にして本書第2章のタイトルである時間の経済学を展開すれば、著者も気づいているように、経済学的には労働価値説になります。ただ、これは供給サイド、というか、時間をひとつの生産要素と考える場合です。他方で、本書ではすっかりスコープの外に置かれていますが、時間をうまく消費するビジネスも展開されていますし、本書でも、著者が明示的には気づいていないうちに取り上げたりもしてます。例えば、本書では、時間の効率化と時間の快適化を2つの軸に据えていますが、前者の時間の効率化は機会費用の高い人が、その生産を高めるために生産以外の時間を節約しようとするものである一方で、後者の時間の快適化は多少コストをかけても快適な時間を過ごすわけですから、時間消費型のビジネスということも出来ます。そして、p.179 の時間とお金と人材のマトリクスが典型なんですが、やっぱり、機会費用が高い高収入層が何らかの時間節約も可能となるという意味で、時間とお金はおそらく賦存条件において正の相関にあるんではないか、と私は想像します。でも、そうなら、このようなマトリクスを分析する意味はありません。時間価値という言葉も、生産性に近い印象なんですが、著者は否定しています。で、結局のところ、時間価値とは稼ぐ力の機会費用、としか私には見えません。そうであれば、特に目新しさもなく、1日24時間、1年365日がすべての人に平等に行き渡っている以上、何らかの経済的な格差が生じるのは、主として、時間単価の違いに依存します。もちろん、私のように短時間で切り上げたいタイプと、長時間働く人との違いがあって、時間単価ではなく労働時間の差が格差を生み出すともいえますが、労働時間の差はせいぜい2~3倍までであり、それ以上の格差が観察される現状は時間単価の差でしかあり得ません。ですから、時間を節約するよりも、時間価値、というか、伝統的な経済学でいうところの時間単価を高める必要があるんですが、本書ではこういった価格で測った質的な時間単価ではなく、量的な時間の方に目が行っているようです。ただ、1点だけ、スマホの普及により公私混同が激しくなった、という分析には目から鱗が落ちた気がします。私自身については、職務専念義務ある国家公務員を定年退職するまでスマホは持ったことがなかったので、こういった公私混同は経験ありませんが、今はひょっとしたらそうなのかもしれません。

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次に、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』上下(東洋経済) です。著者は、英国出身で現在は米国のスタンフォード大学やハーヴァード大学の研究者であり、テレビなどでも人気の歴史家です。英語の原題は The Square and the Tower であり、2017年の出版です。どうでもいいことながら、いつものクセで、表紙画像を縦に並べてしまいましたが、デザイン的には横に並べた方がいいのかもしれません。ということで、最後の著者によるあとがきや訳者あとがきでは、英語の原題は「広場と塔」と訳されています。前者の広場は横に広がるネットワークの象徴であり、後者の塔は縦に構成される階層制組織の象徴とされているようです。階層制組織は、比喩的に日本語では「ピラミッド型」と呼ばれることがあるヒエラルキーであり、今でも、政府、特に、軍隊などで幅広く見られる組織原理である一方で、特に情報通信技術、ITCの発達によりフラットなネットワークの重要性も認識されていることはその通りです。特に、本書ではネットワークを人的なつながりで、また、階層制については組織原理として、それぞれ歴史を通じてどのように作用してきたかを概観しようと試みています。歴史的なスコープとしては、あくまでヒストリアンの著作ですので、中世末期、というか、いわゆるルネサンス期からネットワーク形成に際する活版印刷の果たした役割あたりから始まって、宗教改革、科学革命、産業革命、ロシア革命、ダヴォス会議、アメリカ同時多発テロからリーマン・ショックまで、幅広いトピックが取り上げられますし、人的ネットワークという観点では、本書の書き出しはイルミナティだったりします。もちろん、フリーメイソンについても詳述されています。私も大学時代は経済史を選考していたりしたんですが、通常、歴史家というのは階層制の組織の変遷を跡づける場合が多く、人的なネットワークについては軽視してきたような気がします。まあ、どうしても、歴史研究は階層制組織の最たるものである国家が残したドキュメントに多くを依存しますし、こういったドキュメントを作成するのは、ウェーバー的な広い意味での官僚制の得意とするところです。例えば、中国でいえば、漢や唐や、あるいは、モンゴルによる元、漢民族の明から満州族の清、といった王朝の変遷を追う歴史研究が多いわけです。他方で、劉備・関羽・張飛の3人が桃園の誓いにて義兄弟となる人的ネットワークについては、どちらかといえば、天下国家の歴史の大きな要素ながら、大衆的な小説や演劇の世界になってしまうわけです。ただ、これは私の勝手な例示であり、本書の著者によれば、近代的なネットワークは先述の通り活版印刷によりもたらされた、ということのようです。もちろん、階層とネットワークは明確に分類できるとも思えませんし、時に混ざり合ったりもするような気がしますが、歴史家の常として、著者は膨大な事実関係を提示し、それらを基に、著者自身で理論的な組み立てをするとともに、それなりの教養ある読者を想定したのか、かなり読者の読み方次第、という部分も少なくないような気がします。例えば、現代に近づくに従って、情報の重要性が高まってきていることが行間に織り込まれていて、しかも、その情報伝達の速度の重要性が高まっている点は、おそらく、現代人が強く感じているところでしょうが、それを肌で感じることが出来る人がより本書について深い理解が得られるような気がします。ただし、従来の階層制組織から解き明かす歴史に対して、ネットワークから解明を試みる歴史観というのは、いわゆるグローバル・ヒストリーですでに着手されており、本書が何も初めて、というわけでもなければ、本書が大きな画期的な歴史書、というわけでもない、ということは忘れるべきではありません。著者が著者だけに、本書を過大評価する向きもあるかもしれませんが、私は本書を高く評価しつつも過大評価は慎みたいと思います。

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次に、実重重実『生物に世界はどう見えるか』(新曜社) です。著者は、農林水産省の官僚出身で、局長を務めていますので、私なんぞよりもよっぽど出世しています。回文になっていて、何ともいえないお名前なんですが、実名なんでしょうか。よく判りません。ということで、「どう見えるか」となっていますが、実は、視覚に限定せずに、世界をどう認知しているか、に幅広く対応しています。例えば、第1章で取り上げるのはゾウリムシですし、第2章に至っては大腸菌、第3章でも植物ですから、これらの生物に世界がどう認識されるか、に着目しています。単細胞生物であるゾウリムシには視覚をつかさどる目はないですし、視覚情報を伝達する神経も処理する脳もないわけですから、モノが見えるわけではないと常識的には考えられますが、それでも、栄養になるものがあれば近づき、逆に、点滴のシオカメウズムシからは逃げようとするそうです。ミミズは簡単な2次元の内的地図が理解できるようですし、鳥類は人間的な意味での視力がいいのは高速で飛翔するので当然としても、哺乳類の中でも犬は視覚よりも嗅覚に依存した世界認識を持つというのも理解できる気がします。そして、私は本書の読書に事前には期待していなかった成果として、意識というものについて、あるいは、本書では用語としては用いられていないものの、心の働きについて、単細胞製粒や植物から始まって、ある意味で、情報処理能力としては人間を超える人工知能(AI)にどこまで本書の議論が適用できるか、も興味深いところです。何らかの事故の外にある世界を認識し、それを伝達して情報処理し、何をどうすれば「意識がある」といえるのか、本書の用語に即していえば、本能とか先天的に獲得済みの能力は「意識的」な行動を促すのか、あるいは、「無意識」の行動というべきなのか、興味あるところです。当然ながら、本能に従っていても、一般に「無意識的」な反応と表現されても、少なくとも外界からの情報に対して、三時からの個体の中で、あるいは、群れの集団で、何らかの処理を加えて、それを個体や群れの行動に活かすというのは、本書では「意識」と表現されそうな気がします。そうであれば、AIにも本書的な「意識」がある、といえそうな気がします。でも、別の「意識」の定義により、AIには「意識」がない、とする論説も多く見かけます。例えば、AIに意識を持たせようとする人工意識(AC)の研究も盛んですし、実際に、ACをビジネスとして展開するベンチャーもあります。少なくとも、私は本書に近い立場であり、事故から見た外界から何らかの情報を得て、それに対応した行動を取る能力をもって「意識」を定義すれば、本書でも言及されている記憶の長さにもよりますが、AIには「意識」がある、と見なさざるを得ません。

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次に、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(フィルムアート社) です。著者は英国人であり、本書の本意に即していえば男性であり、やや古い男性の特徴あるものの、女装趣味=トランスヴェスタイトがあったりします。現代社会を風刺した、陶芸やタペストリー、彫刻、版画といったメディアの現代アート作品で知られるアーティストであり、テレビ司会者、作家でもあります。英語の原題は The Descente of Man であり、2016/17年の出版です。上の表紙画像は、p.026 に解説があり、英国におけるデフォルトマン、すなわち、白人・ミドルクラス・中年・ヘテロセクシュアル(異性愛であり、同性愛ではない)男性、ということです。ということで、私はすでに60歳に達して定年退職して、ほぼ、本書でいうところの男性ではなくなった気がしますが、いわゆる社会的な男性、別の表現をすれば、ジェンダーとしての男性の役割はまだ持っているかもしれません。ただ、例えば、朝の通勤時にものすごく速く歩いたりはしませんし、本書の著者の紹介にあるように、坂で他のサイクリストを全員追い越したい、なんぞとは決して思いません。性的な面とともに社会的に規範とされている男性性、本書でいうマスキュリニティというのは、背が高くて力も強く、やや乱暴なところがある、といったものかという気はしますが、私はラテンアメリカのマッチョの国で外交官をしていましたので、欧米諸国などにおける「レディ・ファースト」というのは、か弱き女性を保護せんとするマッチョな男性の男女差別の裏返しだと受け止めました。かといって、男尊女卑の我が国の亭主関白がいいとも思いません。男女の別をハッキリさせようとする試みは、私から見れば、男女交際に対して厳格たろうとする願望ではないか、という気がします。男女をいっしょにしておくと、いちゃついたりして、生産性が上がらない可能性が高い、ということなんではないかと勝手に想像しています。ただ、男性を男性たらしめていて、その呪縛から解き放つ最大の難敵はやっぱり男性なんだろうという本書の著者の分析には大いに同意します。逆から見て、男性が男性である最大の犠牲者も男性なんだろうと思います。少なくとも、本書で解き明かそうと試みている男性のひとつの特徴である「無謬性」については、これはお役所でもそうなんですから、何としても解放されたい気がします。他に、本書の著者は、男性の権利として認めてほしいものとして、傷ついていい権利、弱くなる権利、間違える権利、直感で動く権利、わからないと言える権利、気まぐれでいい権利、柔軟でいる権利、などを上げ、締めくくりとして、これらを恥ずかしがらない権利にも言及しています。権力や単なる力と訳されるパワー=powerを女性より多く有していて、それを基にした思考や行動の原理に従った存在として男性があるように私は受け止めていますが、そういった特性や特徴を descent するのに、本書が役立って欲しい気がします。特に、男女平等やフェミニズムを主張するのに、男女間で性差があるような気がするんですが、こういったやや風刺がきついながら男性性に関して考えようとする本が著名人から出版されるのは意義あるように受け止めています。もっとも、男子の草食化進む我が国はこの面で世界トップを走っているのかもしれません。ただ、ひとつだけ気がかりなのは、p.055 にもあるように、ジェンダーの平等はいわゆるウィン・ウィンではなく、ルーズ・ルーズになる可能性が高い、という点です。回避する方策はないものでしょうか?

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最後に、額賀澪『競歩王』(光文社) です。誠に不勉強ながら、私はこの作者は知りませんでしたし、この作者の作品も読んだことはありません。ということで、この小説はメタな構造になっています。すなわち、主人公は小説家です。もっとも、天才高校生作家としてデビューしながら、その後はパッとせずに大学生をしていて、本書の最後の方では、モラトリアムの延長を目指して大学院に進んだりしています。そして、競歩の陸上選手を主人公に据えた、というか、大きくフィーチャーした小説を書こうとしています。そして、大きなポイントは、本書最後の献辞にもあるように、2017年ロンドン世界陸上50km競歩 銅メダリストの小林快選手をモデルとしていて、大学陸上部で長距離走者としては諦め、競歩に転向することを余儀なくされた経験からの成長を綴る青春小説となっています。小林選手ご自身は早稲田大学の出身ですが、もちろん、小説では架空の陸上競技部が名門である大学とされています。今年の東京オリンピック・パラリンピックを大いに意識した作品で、何かのテレビか新聞でチラリと見た記憶があり、ついつい、その気になって図書館で借りましたが、出来の方は期待はずれでした。私は『横道世之介』を始めとする青春小説は大好きで、それなりによく読んでいるつもりなんですが、本書はあまりにも平板で盛り上がりに欠け、主人公の達成感もやや規模が小さい気がします。少なくとも、キャラが立っているのが、大学新聞部の女子記者だけで、主人公の元天才高校生作家、主人公が小説の題材にしようと取材している競歩選手、国内トップクラスのほかの競歩選手、主人公と時折行動をともにする出版社の編集者、主人公とライバルあるいは仲間である若手小説家、少なくともキャラとしては、ほぼほぼすべてに決め手を欠きます。ややライバルに遅れを取っている作家と競歩選手が、何といっても青春小説ですから、それぞれ、成長していく、というのがストーリーなんですが、余りにも平板です。特に、長距離から競歩に転向するのは、目の前の起こったことではないのでいいとしても、20kmから50kmに変更する際の心の動きや人間関係などが描けていません。ただ、歴史書のようにひたすら事実関係が記述されているだけです。リオデジャネイロ・オリンピックから東京オリンピック直前のほぼほぼ4年間を対象としていますので、ここの事実関係が希薄化されるのは仕方ないとしても、ラストでなくてもいいので、盛り上がる場面は欲しい気がします。もちろん、スポーツにおいては結果の重視されるケースが少なくないことは理解しますが、それだけが盛り上げどころではないでしょうし、結果を取り上げるだけであれば、ジャーナリストの報道と何ら変わりありません。フィクションの小説として、時間を置いて出版するのであれば、単に事実関係をいっぱい加える量的な付加価値だけでなく、もっと質的な付加価値も欲しかった気がします。
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2020年02月01日 (土) 21:00:00

今週の読書は経済書や大学改革の本まで読んで計7冊!!!

いろいろあって、読書だけは進みました。以下の通り、7冊読みました。

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まず、岩田一政・日本経済研究センター[編]『2060デジタル資本主義』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀副総裁を務め、現在は日本経済研究センターの理事長です。本書では、その著者はもちろん、定年退職して60歳を過ぎた私ですらも生き長らえていないような40年後の2060年のデジタル経済について、いくつか、あり得るシナリオ、冒頭に停滞、改革、悪夢の3つのシナリオを置いて始まります。ということで、従来の経済学的な生産関数の変数となる労働や資本は、特に、資本は物的な生産設備を意味する場合が多かったんですが、本書でいうところのデジタル資本主義では無形資産が中心となるような、実例でいえば、GAFAのような企業が生み出す価値を中止とする資本主義経済を念頭に置いています。さらに、その無形資産とは、情報通信(ICT)技術とそれにより収集したデータをいかに活用できるかの能力にかかっているわけです。その点で、いくつかのシナリオでは、特に、日本企業のマネジメント上の能力的な限界により生産性を高めることに失敗する可能性にも言及しています。他方で、人口の少子高齢化は目先ではとてつもなく進み、社会保障の改革なども待ったなしの状況、ということになります。その情報通信などのデジタル技術と、とても牽強付会ながら少子高齢化による社会保障給付の抑制、さらにCO2排出までを両天秤、というか、考えられる大きな現代日本の諸課題を分析の対象にしていて、やや強引な議論の運びと感じないでもないですが、はたまた、その解決策のひとつが雇用の流動化、といった、なかなかに多面的、というか、わずか200ページ少々のコンパクトなボリュームで思い切り詰め込んだ内容、それなりに強引あるいは無謀な議論を展開しているような気もします。ただ、コンパクトですので、あまり多くを期待せずに、手軽に短時間で方向性を把握するには適当な気もしますし、本書を足がかりにして、さらに詳細な情報を求めるきっかけにもなりそうにも思います。なお、雇用流動化については、あくまで雇用を守ろうとする労働組合的な左派と雇用者全員を非正規にしたいが如きネオリベな右派の議論の中間を行こうとするかのように、10年くらいの中期的に保障された雇用、という、何とも中途半端なプランを提示しています。どこまで本気なのか、アドバルーンを上げただけなのか、もう少し詰めた議論を待ちたいと思います。

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次に、若奈さとみ『巨大銀行のカルテ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、興銀を降り出しに、いくつかの金融機関や格付け機関での勤務経験があり、研究者というよりも金融業界の実務者なんだろうと思います。リーマンショックが2008年9月にあって、その後の約10年を振り返っているわけですが、特に目新しさがあるわけではありません。交換言い尽くされた金融機関、というか投資銀行を含めた外資の銀行に関する会社情報、というあ、まあ、『四季報』を詳しくしたもののように考えておけばいいような気がします。繰り返しになりますが、特段の目新しい情報もなければ、鋭い分析があるわけでもありません。各種の情報をコンパクトにコンパイルしたという入門書という受け止めです。大陸欧州から始まって、第1章でドイツのドイツ銀行、第2章でフランスのBNPパリバ、第3章では極めて浅く広くリーマンショックが米銀に与えた影響を概観した後、第4章で米国の4大金融機関であるJPモルガン・チェース、バンク・オブ・アメリカ、シティグループ、ウェルズ・ファーゴに着目し、第5章でゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーを取り上げています。最終章はコンクルージョンです。各金融機関の財務に関する簡単な紹介や創業者から最近の経営トップまでの経営陣の流れ、さらに、金融業界における評価や社風などなど、なかなかのリサーチ結果だという気はします。特に、ライバル関係にある競合同業者との対比はそこそこ面白く描き出されており、時々のマーケットの状況や各社のポジショニングなども調べ上げています。事実関係を事実として情報収集した結果であり、力技でマンパワーを投じれば出来る仕事のような気もしますが、そういった情報収集をしっかりマネージすることもお上手なんだろうとは思います。ただ、そのリサーチ結果を積み上げた上で示されても、「だから何なの?」という気はします。特に、私ががっかりしたのは第3章で、リーマンショックの影響、欧米銀行に及ぼした影響を事実関係を積み上げて分析しようと試みているんですが、ハッキリいって、失敗しています。モノになっていない気がします。広い四角い部屋の真ん中あたりを丸く掃くようなお掃除の結果で、取りこぼした内容が多すぎます。著者の力量からしてやや手に余る課題を取り上げてしまった気がします。でも、それがなければ、まったくモノにならないという事実を認識していることは立派だと思います。著者がそうなのか、編集者がそうなのかは私には判りません。

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次に、岡本哲史・小池洋一[編著]『経済学のパラレルワールド』(新評論) です。編著者をはじめ、各チャプターの執筆者は経済学の研究者です。タイトルからは判りにくいところですが、副題の方の「異端派総合アプローチ」が判りやすいと思います。というのは、本書では、主流派経済学に対抗して、「異端派」の経済学を各チャプターで取り上げているからです。ただ、その昔に、サムエルソン教授なんかが新古典派総合を提唱したのには、それなりに理由があるような気がするものの、非主流派ないし異端派を「総合」することはムリがあるような気がします。ということで、もちろん、いの一番の第1章はマルクス経済学です。どうでもいいことながら、私自身は「主義」を付けて、マルクス主義経済学と書くことが多いんですが、もちろん、同じです。マルクスの『資本論』を基にして発展してきた経済学です。ただ、本書では主流派経済学がスミス以来の古典派ないし新古典派のマイクロな経済学とされていて、その意味から、ケインズ経済学やシュンペタリアンもやや異端に近い位置づけがなされていたりします。本書冒頭 p.3 で経済学史とともに図で展開されているところですが、ちょっと注意が必要かもしれません。というのも、私の長い官庁エコノミストの経験からして、マクロなケインズ経済学やマネタリスト経済学は、多くの場合、十分、主流派経済学の範囲に入る、と考えられるからです。加えて、出版社のサイトなんかでは、「社会人・学生・初学者に向けて平易に説く最良の手引き」なんてうたい文句があったりするのですが、それ相応に内容は難しいと考えるべきです。冒頭のマルクス経済学では、置塩の定理、すなわち、企業が正の利潤を上げているならば、搾取が存在する、という基本定理をかなり正確に解説しているんですが、私も経済学部の学生時代に一応、理解したつもりになっていましたが、現在でははなはだ怪しい理解しか持っていないと告白せざるを得ません。しかし、マルクス経済学をはじめとして、本書でスポットが当てられている非主流派、というか、異端の経済学も、主流派経済学の暴走を食い止める、あるいは、特にマルクス経済学は資本制経済の暴走やその先の崩壊を阻止する、という重要な役割があり、例えば、ネオリベ的な格差拡大に対する抑止能力が問われている、という本書の立場はその通りだと思いつつ、それでも、主流派経済学に対する抑止力だけでなく、現実の経済政策への働きかけももっと欲しい気がするのは、私だけなのでしょうか。

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次に、ケント E. カルダー『スーパー大陸』(潮出版社) です。著者は、長らく米国プリンストン大学で研究者をした後、現在では、米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者であり、国際政治学分野でのビッグネームをといえます。英語の原題も Super Continent であり、2019年の出版です。上の表紙画像にも見えるように、スーパー大陸とはユーラシア大陸のことであり、日本の読者からすれば「当然」という受け止めがあるかもしれませんが、著者は本書の中で少し前までのスーパー大陸は米州大陸だったと考えているような示唆をしていたりします。そして、その議論を地政学ではなく、地経学的な観点から進めています。そのバックグラウンドは、もちろん、中国の経済的な巨大化にあります。ですから、圧倒的な人口と石油を始めとする巨大な天然資源の潜在的な賦存からして、ユーラシア大陸をスーパー大陸と考える意味は大いにあるわけです。その上で、著者の地経学的な観点から連結や統合といったキーワードを駆使して議論が進みます。いくつかの要素を本書でも取り上げており、途上国感のいわゆる南南貿易、中国の主導する一帯一路構想による経済的な結びつきの強化、エネルギー開発を通じた中国・ロシアの蜜月関係、などなどです。他方で、かつてのスーパー大陸だった米州謡力では、特に、米国のトランプ大統領による米国第一主義、というか、伝統的なかつてのモンロー主義的な孤立主義により、世界的なプレゼンスが低下しているのも事実であり、それが、逆にユーラシア大陸の「スーパー性」を高めているわけです。中国に加えて、インドの発展もユーラシアのど真ん中である国としてプレゼンスを高めており、決して無視できる存在ではありません。むしろ、ロシアの方の比重が石油価格の低迷ととともに下がっているような気がします。通常、派遣外交する場合には、いわゆるツキディディスの罠といわれて、大規模な戦争が生じる可能性もあったりするんですが、米国から中国への派遣の移行、あるいは、スーパー大陸が米州大陸ではなくユーラシア大陸となる際に置いては、ひょっとしたら、大規模な武力行使なしに終わる可能性もあると、私なんぞは楽観的に予想しており、従来とは様変わりのスーパー大陸の移行が生じる可能性もあるんではないかという気がします。ですから、本書では共同覇権はありえない、としていますが、ひょっとしたら、米中のG2の共同覇権も従来にない形でありえるような気もします。いずれにせよ、日本国内にいては把握できないような国際情勢の変化をより大きなスケールで感じ取ることが出来る読書でした。

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次に、吉田右子・小泉公乃・坂田ヘントネン亜希『フィンランド公共図書館』(新評論) です。著者は、図書館学の研究者ないし本書のタイトル通りにフィンランドの図書館勤務者となっています。全編、ほぼほぼフィンランドの公共図書館の事実関係などの紹介にとどまっており、私は図書館学というのはどういう学問分野なのか、よく知りませんが、図書館運営に関する学術的な分析とは見えません。学術的というよりも、謝名リスト的に事実関係を幅広く情報提供している、というカンジです。私も地球の裏側のチリという小国に経済アタッシェとして3年間駐在し、日本国内にチリの経済情報がほとんど注目されたりしていない中で、経済統計をそのままローデータとして外務省本省におくるだけで、それだけで十分な役割を果たすことが出来た時代があり、フィンランドの公共図書館についても、ある意味で、日本国内ではそういった位置づけなのか、と思わずにはいられませんでした。従って、おそらく、実際の国内図書館運営には何の示唆にもならないような気がしてなりません。単に、「うらやましい」で終わりそうな気すらします。どこかの低所得国に国民に対して、我が国の国民生活や経済社会を伝えるようなものです。電気や水道が行き渡り、舗装された道路を自動車が走り、ビジネスマンはパソコンを相手にデスクワークにつき、高校生はスマホでゲームする、という事実を、片道数キロを水汲みに行く子供がめずらしくないどこかの低所得国の国民に伝える、それが経済学の役割だとは私は思いません。開発経済学ばかりがすべてではありませんが、低開発国経済の経済発展に寄与するような経済学が求められるわけです。その意味で、本書については、完全に踏み込み不足であり、我が国の図書館、特に私が利用している東京都内の公共図書館は、かなりの程度に民間企業に運営委託し、その結果として、おそらくご予算削減には役立ったのでしょうが、専門性低く意識はもっと低い図書館員の割合が増え、従って、図書の管理も利用者の利便性も落ちている可能性が高い、という現状をどのように打破するかを、フィンランド公共図書館をお手本にしつつ、幅広く議論して欲しい気がします。例えば、本書でも、フィンランドのいくつかの図書館では、フローティング・コレクションがなされているとの記述がありますが、日本でフローティング・コレクションが採用されていないのはなぜなのか、あるいは、日本でフローティング・コレクションを行えば、どのようなメリットやデメリットが図書館サイドと利用者サイドにあるのか、などなど、ご予算増額を別にしても、議論すべきトピックは尽きないように思う私なんぞにとってはやや残念な読書でした。

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次に、ジル・ルポール『ワンダーウーマンの秘密の歴史』(青土社) です。著者は、ハーヴァード大学の歴史学研究者であり、専門はアメリカ合衆国史で、雑誌『ニューヨーカー』のスタッフライターも務めています。本書の英語の原題は The Secret History of Wonder Woman であり、ハードカバーが2014年、ペーパーバックが2015年の出版で、邦訳書は2015年のペーパーバックを底本としています。ということで、著者は、ワンダーウーマンをフェミニズム運動の観点から説き起こそうと試みて、主として原作者である心理学研究者のパーソナル・ヒストリーから解明を試みています。すなわち、現在の21世紀では単なるフェミニズムではなく、移民を主たる論点としつつ、性別だけでなくエスニックな多様性が議論されていますが、20世紀には男女の性差別の観点から20世紀初頭のファーストウェーブのフェミニズムと1970年代のセカンドウェーブのフェミニズムがあり、前者は女性参政権運動やそのやや過激な形のサフラジェットなどがあった一方で、校舎は米国におけるベトナム反戦運動の盛り上がりとも呼応しつつ進められたわけですが、その間のミッシング・リンクを埋めるアイコンとしてワンダーウーマンがどこまで重要化、といった観点です。出版社の宣伝文句には、第2時大戦期にワンダーウーマンが枢軸国のアチスドイツや日本をやっつける、なんて謳い文句もあったようですが、アッサリと、そのあたりは無視してよさそうです。さらに、戦後の黄金期ないし我が国で言えば高度成長期になりますが、この時期は同時に米ソの冷戦期でもあり、戦後期のアカデミズムないしハイカルチャーとポップカルチャーないし、我が国でいうところのサブカルチャーとの間の架け橋として、ワンダーウーマンがどこまで位置づけられるのか、も考察の対象となっています。それを、原作者であり、嘘発見器の開発者でもある心理学研究者のマーストン教授とその家族の歴史もあわせてひも解こうと試みています。ファーストウェーブのフェミニズム期における産児制限の展開もあわせて、それなりに貴重な歴史的考察なんですが、本書でも取り上げられているように、DCコミックの中で、少なくとも我が国においてはスーパーマンやスパイダーマンほどの人気がワンダーウーマンにあるとも思えず、どこまでフェミニズムとあわせて興味を引きこすことが出来るかは、私はやや疑問に感じています。ただ、極めて大量の史料と資料に当たって、さらに、関係者へのインタビューも含め、貴重な歴史的事実を引き出している点は、極めてニッチな米国現代史のトピックながら、さすがに学識を感じないでいられません。

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最後に、佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書) です。著者は、一橋大学などを経て、現在は同志社大学の研究者です。タイトルはとても正確で、今年に入って、1月4日付けで広田照幸『大学論を組み替える』を取り上げ、4月から教員として大学に復帰するに際しての準備の読書を進めているところだったりするんですが、本書もその一環だったりします。ただ、前の『大学論を組み替える』より数段落ちる内容です。単に、現在の大学改革の進行を批判するだけで終わっています。そもそもの大学改革の必要性が論じられた背景などに目が行くわけでもなく、現在の日本の大学に何らかの改革が必要かどうかに対しても、著者には十分な見識ないように見受けられますし、さらに踏み込んで、大学改革がどうあるべきかについても定見あるようには見えません。確かに、本書で議論されているように、文科省という役所の無謬主義がネックになって大学改革が迷走しているのは事実ですし、文科省の思惑とはズレを生じつつも一部の大学が予算獲得に走っているのも事実です。かつての国会論戦における万年野党のように、ひたすら反対を繰り返すだけで、積極的な対案も持たず、大学の現状に対しても、あるべき大学論や必要な大学改革も、何も論ずることなく、現在の大学改革の動きを批判するだけなら誰にでも出来ますし、本書の場合は、単に著者の「気に入らない」で済ませるような論調も気がかりです。日本の将来がどうあるべきか、あるいは、どうしたいか、の大きな議論から初めて、それに貢献する大学の教育と研究とはどういうものかを考えた上で、現状の大学を分析し、あるべき大学像を明らかにし、それに向けた改革の方向を探る、というのが大学論の目指すべき方向だと私は考えます。まるで民主党政権時のように、ひたすら、文科省と財務省などの役所を敵役にし、逆に、著者サイドの大学を免責にしている印象です。やや期待はずれ、というよりも、まったく的外れの議論を展開している新書でした。
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2020年01月25日 (土) 19:30:00

今週の読書はかなりたくさん読んで文庫本まで含めて計8冊!!!

今週は、データ経済におけるプライバシー保護や英国における階級分析の社会学をはじめとして、文庫本のシリーズ3巻まで含めると、以下の計8冊の読書でした。そろそろ、ペースを落とそうと思いつつ、なかなか巡り合わせがそうなりません。

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まず、日本経済新聞データエコノミー取材班[編]『データの世紀』(日本経済新聞出版社) です。データをいかにビジネスに生かして収益を上げるか、その際のプライバシーの扱いはどうなるのか、こういった疑問に関して、かなり否定的な見方を提供しています。日経新聞のジャーナリストのリポートらしくない気もします。本書の謳い文句なんですが、20世紀は石油の世紀であって、でも、産油国が我が世を謳歌したわけではなく、むしろ、石油をうまく利用した製品を生み出した先進各国の世紀だった一方で、21世紀のデータの世紀もデータを生み出した国が中心になるわけではなく、そのデータを上手く利用する国が国民に豊かな生活を提供するわけです。ということで、急遽設えられた雰囲気のある第0章のリクナビによる内定辞退率の提供問題から始まって、米国のGAFAが個人情報を収集・利用したビジネスで大きな収益を上げている事実を基に、経済学的な用語としてはまったく用いられていませんが、データ利用の外部性について、個人データを提供させられているサイドと、それを利用して実に効率的なビジネスを構築したサイドを対比させて、このままでいいのか、あるいは、個人情報や付随するデータをどのような利用に供するのが個人と情報企業の最適化につながるのか、考えさせられる部分が大きいです。それにしても、先週の読書感想文で取り上げた『デジタル・ミニマリスト』でも書いたんですが、FacebookやInstagramなどのSNSで嬉々としてアテンションと個人情報を提供している人達を見るにつけ、それはそれで幸福度が上がるのであればいいんではないか、ある意味で、データに関する前近代性をさらけ出しているような気がして、もはや意味のある個人データ保護がどこまで可能なのかに疑問すら生じます。例えば、リクナビ問題でも、就活学生サイドからすれば、個人情報を提供することなく採用に関する企業情報だけを得たいわけでしょうし、逆に、採用する企業サイドからすれば、企業サイドの採用に関する情報を開示することなく、就活学生の情報だけを得たいわけです。ただ、注意すべきは、情報企業だけでなく、自動車だって、電機だって、製品に関する情報は企業の方が消費者よりも圧倒的に持っているのは変わりありません。ですから、製造物責任のような制度を情報産業に対しても適用できるか、あるいは、外部経済の大きな産業に特有な独占の形成をいかに規制するか、その際、スティグラー的な「規制の虜」をいかに政府は克服するか、こういった問題を新たな産業でいかに国民本位に運営するかの問題と考えるべきです。すなわち、決して、本書のように、利便性と個人方法提供の間のトレードオフというわけではない、と私は考えています。

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次に、マイク・サヴィジ『7つの階級』(東洋経済) です。今日の日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者は、英国ロンドンスクール・オブ・エコノミクスの社会学の研究者です。明示的にクレジットとして上げられているこの著者の他にも、社会学や教育学の研究者が何人かで共著しています。ただ、エコノミストはいなかったように見受けられました。英語の原題は、上の表紙画像に見られるように、Social Class in the 21st Century であり、2015年の出版です。栄子くんBBCが2011年に調査した結果を2013年に取りまとめて公表し、それらを学術的な出版物として取りまとめた成果であると私は認識しています。結論からすれば、邦訳タイトルのように、英国には7つの階級が存在し、上流から順に、(1) エリート7%、(2) 確立した中級25%、(3) 技術系中流6%、(4) 新富裕労働者15%、(5) 伝統的労働者14%、(6) 新興サービス労働者19%、(7) プレカリアート15%、となっています。そして、超えらの階級における3つの資本の賦存、すなわち、第1に、フローの所得やストックの金融資産や不動産といった経済資本、第2に、オペラ鑑賞や美術館での美術鑑賞、ほかに読書などのハイカルなどの文化資本、第3に、学歴や人脈やクラブの所属などの社会関係資本、の3つの資本で階級を可視化しようと試みています。(1) エリートは3つすべての資本を多く持ち、(2) 確立した中流はエリートについで3つの資本を持ち、(3) 技術系中流は比較的裕福で社会関係資本がやや少なく、(4) 新富裕労働者は比較的裕福で文化資本が少なく、伝統的労働者は3つの資本すべてがやや少ないものの、バランスがよく、(6) 新興サービス労働者は年齢的に若いこともあって、経済資本が少ないながら、文化資本と社会関係資本は持っていて、(7) プレカリアートはすべての資本に恵まれない、ということになります。また、それぞれの個人の人生は登山に例えられて、山を登るように3つの資本を蓄積して、従って、階級を上昇させる、と考えられていますが、もちろん、同じ地点から登山を始めるわけではなく、前の世代から受け継ぐものに大きな違いがあり、登山を始めるベースキャンプの標高には大きな差があるのは当然です。マルクス主義的な階級観では、生産要素の所有もしくは雌雄が基礎にあり、その経済的な下部構造が上部構造の文化や意識を決定する、と大雑把に考えられています。土地を所有する貴族、資本を所有するブルジョワジー、自分の労働力以外の生産手段を保有しない労働者階級、ということになり、それぞれの下部構造が上部の文化や社会関係を規定します。本書の社会学的な分析では、経済資本は他の2つと並列のひとつの要素に過ぎません。この3つの資本を本書のように分けて理解するか、マルクス主義的な階級観のように、経済資本が他の2つの資本を規定すると考えるか、議論は決定していない気がします。少なくとも、マルクス主義のように経済資本から文化資本や社会関係資本への一方的な決定論も、本書のように3つの資本相互間のインタラクティブな関係を考慮の外に置いて各資本を独立に扱うのも、どちらも片手落ち、というか、やや深みに欠けるな気がします。

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次に、保阪正康『昭和史7つの裏側』(PHP研究所) です。著者は、編集者や在野の歴史研究家となっています。本書の「昭和史」というのはやや広すぎる表現なんですが、昭和20年くらいまでの戦争に関する歴史に焦点を絞っていると考えるべきです。その中で、タイトルにあるように、章立ての順に従って、(1)「機密戦争日誌」はいかに保存されたか、(2)「昭和天皇独白録」の正体、(3) 学徒出陣壮行会で宣誓した学生代表の戦場(江橋慎四郎へのインタビュー)、(4) 逆さまに押した判子と上司・東条英機(赤松貞雄へのインタビュー)、(5)「日本はすごい」と思っていなかった石原莞爾(高木清寿へのインタビュー)、(6) 本当のところが知られていない東条英機暗殺計画(牛嶋辰熊へのインタビュー)、(7) 陸軍省軍務局で見た開戦経緯(石井秋穂へのインタビュー)という構成になっています。なんだか、ほとんど第2章から第7章までのが取材対象者、というか、歴史の実体験者からの証言、的に構成されているんですが、私には疑問に思える部分も少なくありませんでした。当然ながら、いろんな歴史上のイベントが生じてから、まず、終戦という大きな不連続点を通過し、さらに、それなりの年月を経過した後のインタビューです。しかも、インタビューの対象が、東条英機の秘書だった赤松貞雄、あるいは、石原莞爾の秘書だった高木清寿など、傍で見ていた観察者ではなく、実際の当事者に近い存在ですから、どこまで脚色されているのかが判りかねます。その上、同じ帝国陸軍軍人ながら、開戦から本土決戦まで主戦派だった東条英機と、いわゆる「最終戦争」まで隠忍自重を主張した石原莞爾では、まったく方向性が異なるわけですし、陸軍関係者ばかりのインタビューで、海軍サイドの見方は欠けており、例えば、ホントに海軍が開戦に反対だったら太平洋戦争は始まらなかった、とか、中国で陸軍が華々しい戦績を上げているのを海軍は羨んでいた、などと主張されると、ますます信頼性が低下するような気がします。たしかに、組織的な隠滅工作が実施されて、戦争に関する史料が極端に少ないのは理解しますが、それをインタビューで埋めようとするのは、やや疑問です。主として、誘拐事件などで論じられるストックホルム症候群のような現象が取材者と取材先で生じるようなリスクも感じられます。細かな人間関係などのマイクロな開戦や終戦の理由ではなく、もっと歴史的な必然性を炙り出すような大きな流れを解明する歴史観が必要ではないでしょうか。もちろん、開戦や終戦のバックグラウンドとなる経済社会的な実情についても考えを巡らせるべきであろうと思います。

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次に、エドワード・スノーデン『スノーデン独白』(河出書房新社) です。6年前の2013年の衝撃的な情報漏洩事件の首謀者の自伝です。CIAとNSAという世界最強の米国諜報業界(IC=たぶん Intelligence Circle)を敵に回して、結局、ロシアから出られなくなった人物です。情報漏洩、あるいは、リークという意味では、いわゆる「パナマ文書」によるモサック・フォンセカからの流出と、本書のスノーデンからのリークが今世紀前半では「大事件」といえるんでしょうが、モサック・フォンセカが単なる民間の一会計事務所であるのに対して、スノーデン文書の方は米国諜報機関の赤裸々な活動実態を明らかにしているだけに、より興味をそそられる、というのも事実でしょう。スノーデン本人の生まれ育ちから、リークに至るまでとさらにリーク直後の事実関係を、おそらく、かなり正確に描写している気もします。ただ、スノーデン本人、すなわち、リークした側からすれば、「やった、やった」というカンジで過大に評価するバイアスがかかる一方で、CIAやNSAのようにリークされた側では「たいしたことではない、情報の価値は低い」などと過小評価するバイアスがかかるでしょうから、本書については、それなりに、眉に唾してハッタリをかまされないように気を付けながら読み進む必要があるかもしれません。私自身は昨年3月に定年退職するまで長らく国家公務員として政府に勤務しており、国家公務員でなければできない職業として、スパイと外交官と軍人がある、なんぞとうそぶいていた人間ですので、本書の情報リークに関しては、それなりにリークされた側にシンパシーを感じかねないバイアスがあるような気もします。例えば、007ジェームス・ボンドは、小説上の設定ながら、MI7に勤務する海軍将校であり、当然、国家公務員なんだろうと思います。ですから、私はスノーデン個人がどれだけの知性を持った人物か、加えて、どれだけの覚悟をもってリークしたのか、を読み取ろうとしましたが、なかなかに難しい課題だった気がします。リーク事件直後の直感的な受け止めで、スノーデンの知性は高くない、という印象は本書を読んでも否定されませんでした。ただ、覚悟については、それなりに理解が進んだ気がします。ルービック・キューブのシールにマイクロSDを隠して情報を持ち出すシーンや、リーク後の香港出発やロシアの空港でのやり取りなど、それなりにサスペンスフルな場面もありましたが、私にはそれほど印象的ではありませんでした。ただ、映画化されれば見に行くような気もします。

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次に、米澤穂信『Iの悲劇 』(文藝春秋) です。著者は、古典部シリーズなどで人気のミステリ作家です。この作品は、小市民シリーズのように、ある意味で、ユーモア・ミステリ、というか、ややブラックなユーモア・ミステリで、殺人などの深刻な犯罪行為は出て来ませんし、でも、かなり論理的で本格的な解決が示されるミステリ長編、ないし、連作短編集といえます。舞台と主たる登場人物は、市町村合併で巨大な市が形成された中で、とうとう、数年前に無人になった集落にIターンとして人を呼び戻すため、まだ使える家屋などを低廉な家賃で貸し出して、移住者を集めて定住化を促進しようとする市役所の支所で働く3人の公務員です。定時で帰宅してそれほど仕事熱心とも見えない課長と、やや社会人というには幼い新人女性にはさまれた男性が主人公に据えられています。別サイドには無人化した集落に移住を希望する人々が据えられ、でも結局、すべての移住希望者が去ってしまい、有名なミステリのタイトルよろしく「そして誰もいなくなった」で終わります。最初の方は、公務員3人のキャラがよく出ていて、それでも、仕事熱心と思えない課長の謎解き能力に驚かされたりもしますが、だんだんと読み進む上でタマネギの皮をむくように真実が明らかになっていきます。最終章に至るまでに、この作品の作者のファンであれば、ほぼほぼ全員が真相にたどり着くことと思います。また、各章で問題を起こしたり、あるいは、去っていく維持遺希望者も立派なキャラが立っていて、読み進んでも混乱をきたすことはありません。というか、私自身は、こういった限界集落のような田舎に移住したいとは思いませんから、この作品に登場するような移住希望者は、やっぱり、少し変わったところがあるんだろうと楽しく読めます。ただし、第5章だけは、ヤル気なし課長の守護神、火消し役としての面が明らかにされるほかは、後半は主人公と弟の間で延々と電話の会話がIターンの意味について考えさせられる、という意味で、この連作短編集の中で、それなりの重要性はあるものの、章として独立させる意味があるのかはやや疑問です。作者の力量からすれば、こういった課長の守護神=火消し役としての能力やIターンの意義に貸しては、個別にところどころに溶け込ませることも十分可能ではないかという気がします。まあ、こういった個別の章建てで論じてもらえば、私のような頭の回転の鈍い読者にも結論が見えてくる、という意味では意味あるかもしれませんが、やや冗長な章立てだっという気もしました。でも、この1点を別にすれば、とても秀逸なミステリだと思います。ここまで素晴らしいミステリは久々です。出来のいいミステリが多い作家であることはいうまでもありませんが、ひょっとしたら、本作が代表作といえるかもしれません。でも、やっぱり、クローズド・サークルの『インシテミル』かなという気もします。

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最後に、ハーラン・エリスン[編]『危険なヴィジョン 完全版』123(ハヤカワ文庫SF) です。編者は、米国のSF作家であり、よく「奇才」と称されたりしているんではないかと思います。本書では、SFをScience Fictionではなく、Speculative Fictionnと称していたりします。全3冊に渡る30編余りの短編で編まれており、アシモフやスタージョンをはじめ、キラ星のようなSF作家が作品を寄せています。第1巻巻末の解説にあるように、作家協会の会員が選ぶネビュラ賞やファン投票で決まるヒューゴー賞を受賞あるいは最終候補に残った作品もいくつか含まれています。全編書下ろしといううたい文句です。米国で原書が出版されたのは50年以上も前の1967年なんですが、さすがに、やや古いと感じさせる短編もある一方で、まだまだ輝きを失っていない作品も少なくありません。もちろん、米ソの冷戦の環境下で、また、そもそも海外SF小説ということで、ソ連の技術的な脅威を過大評価していたり、あるいは、やや残虐な場面が少なくないような気もします。短編作品ごとに付された編者の序文や著者のあとがきがウザい気もしますし、もちろん、短編ごとの統一感ないのは承知の上で読み始める必要があります。ただ、古さを感じさせる作品も含めて、ある意味で、いくつかある米国SF小説の黄金時代のうちのひとつの雰囲気を感じることが出来ると思います。読みようによっては、各巻1時間ほどで読み切ることも可能ですし、逆に、じっくりと時間をかけるだけの読み応えもあります。
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2020年01月18日 (土) 17:30:00

今週の読書は経済書をはじめとして文庫本まで含めて計7冊!!!

先週の読書は巡り合わせにより経済書がなかったりしたんですが、今週の読書は、明々白々たる経済書が2冊あり、経済活動にも十分配慮した進化心理学の専門書、モバイル機器を通じたアテンション経済に対する批判など、以下の計7冊の読書だったんですが、うち3冊は文庫本だったりします。この先、しばらく、読書のペースは落ちそうな気がします。

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まず、鶴光太郎・前田佐恵子・村田啓子『日本経済のマクロ分析』(日本経済新聞出版社) です。著者3人は、経済企画庁ないし内閣府において「経済白書」または「経済財政白書」の担当部局の課長補佐や参事官補佐を経験したエコノミストです。ただし、なぜか、というか、何というか、課長や参事官を経験したわけではないようです。いずれにせよ、私自身が従来から考えているように、本流の官庁エコノミストはこういった白書などのリポートを、政府全体や個別の役所の公式見解として取りまとめることを担当する人たちなんだろうと思います。私も、とある白書を1回だけ執筆担当したことがありますが、「経済白書」や「経済財政白書」といった役所を代表する白書ではありませんでしたし、それもたった1回のことです。他方、私の場合は長らく研究所に在籍して、「役所の公式見解ではなく、研究者個人の見解」という決まり文句をつけた学術論文を取りまとめることが多かったような気がします。まあ、私は傍流の官庁エコノミストなのだと改めて実感しました。ただ、どうでもいいことながら、最近知ったんですが、私が白書を担当したころとは違って、「経済財政白書」なんぞは執筆担当者の個人名が明記されるようになったりしています。少しびっくりしました。というおとで、本書は我が国のバブル経済が崩壊した1990年ころ以降から現在まで約30年間の日本経済を概観し、いくつかのパズルを設定して解き明かそうと試みています。第1章で成長の鈍化をほぼほぼすべて生産性と要素投入という供給サイドで説明しようと試みていて、私なんぞの傍流と違って、本流の官庁エコノミスト諸氏はやっぱり供給サイド重視で、見方によればかなり右派的な思考をするんだと感心してしまいます。ただ、3章の景気循環あたりから需要サイドにも目が向くようです。全体として、大きなテーマに対して索引まで含めても250ページ足らずのボリュームの本に仕上げようとしていますので、よく表現すれば、とてもコンパクトに日本経済を概観して諸問題を提起している、といえますし、他方で、やや辛口に表現すれば、もう少していねいに掘り下げた分析も欲しいところ、という気もします。これは私自身でもまったく実践できていないんですが、エコノミスト的に問題に対する診断を下すことは出来ても、コンサルタント的に問題に対処する実践的な処方箋を提示することは難しい、と常々感じます。その昔に、よくゴルフをプレーしていたころの判りやすい例として、エコノミスト的には「ボールをティーアップしてドライバーを振って、250ヤード先のフェアウェー中央に飛ばす」というのがアドバイスとしてどこまで適当なのかどうか、もっと実践的に、ヘッドアップしないとか、脇を締めるとか、そういったアドバイスが必要なのではないかと思わないでもありません。繰り返しになるものの、私自身も実践できていませんが、本書におけるパズルへの回答は、その意味で、エコノミスト的なようにも見えます。

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次に、井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』(講談社選書メチエ) です。著者は、駒澤大学の研究者です。従来から、AI導入経済におけるベーシックインカム、左派的な財政拡張論などで、私は注目しています。ということで、本書はコンパクトに現代貨幣理論(MMT)について取りまとめた入門書となっています。ただ、著者もまだ完全にMMT論者として、MMTのすべての理論に納得しているわけではないことは明記しています。貨幣の成り立ちについても、その昔の宋銭の導入などの商品貨幣の例を見ても、「万人が受け取る」という主流派経済学の考え方は捨てがたく、MMTの根源的な貨幣論への部分的な反論も持ち合わせています。私は貨幣論の方はともかく、いまだに、MMTの財政によるインフレのコントロールについては疑問を持っています。すなわち、本書では取り上げていませんが、財政政策は基本的に法定主義であって、認知ラグと波及ラグはともかく、決定ラグが金融政策よりもかなり長い可能性が高くなっている上に、本書でもやや批判的に紹介している雇用保障プログラム(Job Guarantee Program=JGP)の運用については、財政支出の柔軟性がどこまで確保されるかはもっとも疑問大きいところです。すなわち、デフレであれば財政赤字を増やして、インフレであれば財政赤字を削減するわけですが、そもそも、それほどの機動性を確保できるかが疑問な上に、どのような歳入や歳出が柔軟に増減できるかは未知数といわざるを得ません。現在の日本のようにデフレだから何らかの財政支出を増加させるとしても、インフレに転じた時に簡単にその財政支出をカットできるかどうか、その点が疑問であるとともに、そんなに簡単にカットできるような歳出をして雇用を維持すべきかどうかも疑問です。私の基本的な経済に対する見方として、財政よりも雇用の方がとても重要性が高いのは十分に認識していて、おそらく、日本のエコノミストの中でも財政と雇用の重要性の開きがもっとも大きなグループに属しているのではないか、とすら思っているんですが、インフレ時に簡単にカットできるような歳出によって維持すべき雇用の質については、国民のモチベーションをどこまで引き出せるかは否定的な思いを持ってしまいます。加えて、本書の著者が指摘しているように、10年やそこらの期間であれば現在の日本クラスの財政赤字のサステイナビリティは問題ないとしても、30年とか50年の期間を考えれば、JGBを取り扱う金融市場がどのように動くかは、何とも、経済学のレベルでは予測がつきません。ただ、逆にいえば、5年とか10年くらいで集中的にデフレ脱却を目指す政策としてはMMTはかなり可能性あるんではないか、という気もします。いずれにせよ、昨年2019年11月9日の読書感想文で取り上げたレイ教授の『MMT 現代貨幣理論』では、立命館大学の松尾教授が「MMTの命題は『異端』ではなく、常識である」と題した巻末解説を寄せていましたが、数年間でのデフレ脱却を目指す政策の観点からは、その通りだと私も考えます。ただし、本書の著者はユニバーサルなベーシックインカムの推進論者なんだと私は理解していますが、MMT理論に基づくとベーシックインカムの財源は財政赤字ではなく、キチンとした財源が必要、という点は忘れるべきではありません。インフレに転じたからといって、ベーシックインカムを削減したり、取り止めたりすることはできないからです。

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次に、ウィリアム・フォン・ヒッペル『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者は米国出身で、現在はオーストラリアのクイーンズ大学の研究者をしています。英語の原題は The Social Leap であり、2018年の出版です。ということで、上の表紙画像に見られるように、「進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略」ということですので、やや読み始める前には懸念があり、進化心理学ですから、すべてを種の保存、あるいは、狭義にはセックスに結び付けているんではないか、とおもっていたところ、さすがにそうではありませんでした。3部故末井となっており、第1部はわれわれはどのようにヒトになったのか、第2部は過去に隠された進化の手がかり、第3部は過去から未来への跳躍、と題されていて、最後の第3部の「跳躍」が英語の原題のLEAPに当たりますし、第1部でも、熱帯雨林の樹上生活からサバンナへの移動も「社会的跳躍」と位置付けられています。その第1部は、その昔に読んですっかり内容は忘れたものの、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を進化心理学から解き明かしたような中身になっていて、人類史をかなり唯物史観で見ている気すらしました。本書第1部は、チンパンジーとアウストラロピテクスなど人類の祖先との比較から始まります。チンパンジーは集団で狩りをしたり敵の群れを攻撃したりする時のみ、少しだけ協力するものの、彼らは怠け者と協力者をほとんど、あるいはまったく区別しようとせず、怠け者のフリーラーダーも同じ獲物にありつける一方で、類人猿のアウストラロピテクスは集団的な石投げで狩りを行い、協力しない者を集団から追放、あるいは、処罰したと推測しています。そして、当時の生活状況からすれば、類人猿の集団から追放されれば生き残れる確率が格段に低下しただろうとも推測しています。第2部では、経済学の分野のイノベーションも考察の俎上に上ります。偉大なイノベーションを起こした人はそれほど実生活が充実しているわけではない、と指摘していたりしますし、その他、極めて多くの進化心理学の研究成果が紹介されており、出版社のサイトに目白押しで取り上げられています。たとえば、最近の経済活動の上で「モノ消費」から「コト消費」、すなわち、耐久消費財などを買うよりも旅行などの体験を重視する消費へのシフトも進化心理学の研究成果から、その正しさが裏付けられていたりします。加えて、60歳を超えた私なんぞが少し注目したのは、高齢者の孤独は喫煙などよりもよっぽど危険であり、年を取れば、むしろタバコを吸いながら仲間と談笑する方がリスクが小さいと指摘されていました。ひょっとしたら、そうなのかもしれません。今週の読書の中では、350ページ超ともっともボリュームがありましたが、トピックも楽しく邦訳も上質で一気に読めます。

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次に、カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト』(早川書房) です。著者は、米国ジョージ・タウン大学の研究者であり、専門分野はコンピュータ科学だそうです。英語の原題は Degital Minimalist であり、2019年の出版です。タイトルのデジタル・ミニマリストとは、トートロジーですが、デジタル・ミニマリズムを実践している、あるいは、実践しようとしている人のことであり、著者は、実際に、何人か集めてデジタル・ミニマリズムを実践することまでやっているようです。ただ、私としては、本書で使っている他の用語「アテンション・レジスタンス」の方が、より適当な気がしています。ということで、本書が指摘するように、いろんなところで、口を開けてスマホの操作に熱中している人を見かけると、私もモバイル機器の操作、おそらくは、スマートフォンを使ってのゲームとSNSには中毒性があるんではないか、と疑ってしまいます。本書では、30日間のスマートフォン断食などを提唱する一方で、スマートフォン操作に代わって、人生をもっと豊かにする趣味の充実などを提唱しています。ただ、読んでいて、私もようやく今月になってスマートフォンに切り替えましたが、私自身はミニマリズムではないとしても、少なくとも合理的な範囲でのオプティマイズは出来ている気がします。TwitterやInstagramは使っていませんが、さすがの私もFacebookは使っていて、おそらく、毎日30分くらいは使っていそうな気がします。でも、ほぼほぼ機械的に「いいね」のボタンを押しているだけで、その対象は半分以上が趣味の世界、特に阪神タイガースに関する記事だったりします。メールはスマートフォンでチェックこそすれ、実際に読む価値あるメールはスマートフォンではなく、パソコンで読んでいます。スマートフォンでそのまま削除するメールも決して少なくありません。ですから、繰り返しになりますが、パソコンも含むデジタルではなく、スマートフォンなどのモバイルに特化したタイトルにした方が判りやすかった気がします。著者は、スマートフォンをヤメにしてフィーチャーフォンに切り替え、SNSなどはパソコンからのアクセスを推奨しています。私も、ご同様に、スマートフォンなどのモバイル・デバイスからSNSにアクセスするのと、パソコンからのアクセスはかなり違うと感じていて、パソコンを多用しているのが実態です。その上で、私は私自身の「アテンション」にそれなりの価値があると自負していて、スマートフォンからのSNSへのアクセスに限らず、私のアテンションを向ける先は合理的に厳選しているつもりです。中毒性ある行為に対してはもちろん、期待値がマイナスになるに決まっているギャンブル、喫煙や過度の飲酒などなど、非合理的なアテンションの向け方、あるいは、時間の使い方は決して賢明ではないと考えていて、それなりに、主流派経済学が前提とするような合理的なホモ・エコノミカスとして考えて行動したい、と願っています。もっとも、どこまで実践できているかは不明です。

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次に、モーム、フォークナー他、小森収[編]『短編ミステリの二百年 1』(創元推理文庫) です。上の表紙画像にも見られるように、明確に第1回である旨が示されており、上中下を越えて4巻以上のシリーズになるものと私は予想していますが、詳細は明らかではありません。本書冒頭でも示されている通り、私も昨年の今ごろは江戸川乱歩[編]『世界推理短編傑作集』の第1巻から第5巻までを読んでいたりしましたが、本書が嚆矢となるシリーズについてはよく知りませんでした。江戸川乱歩編のシリーズは1844年から1951年が対象となっているらしい一方で、本書のシリーズは前後ともにさらに長いタイムスパンを持つ200年です。編者である小森収ご本人が、そういった詳細について、本書の後半部分で「短編ミステリの200年」として取りまとめていますが、序章と第1章の途中で終わっている印象で、続巻でさらに明らかにされるんではないかと私は受け止めています。出版社のサイト「Webミステリーズ」の情報でもよく判りかねます。ということで、、シリーズの全貌は不明な部分が多いんですが、取りあえず、この第1巻の収録作品は、リチャード・ハーディング・デイヴィス「霧の中」、ロバート・ルイス・スティーヴンスン「クリームタルトを持った若者の話」、サキ「セルノグラツの狼」及び「四角い卵」、アンブローズ・ビアス「スウィドラー氏のとんぼ返り」、サマセット・モーム「創作衝動」、イーヴリン・ウォー「アザニア島事件」、ウィリアム・フォークナー「エミリーへの薔薇」、コーネル・ウールリッチ「さらばニューヨーク」、リング・ラードナー「笑顔がいっぱい」、デイモン・ラニアン「ブッチの子守歌」、ジョン・コリア「ナツメグの味」、となっています。「さらばニューヨーク」の作者のウールリッチは別のペンネームはウィリアム・アイリッシュであり、アイリッシュ名義で書かれた『幻の女』はオールタイムベストのトップ10に必ず入るくらいのミステリの名作だったりしますが、サキの2作品など、あまりミステリとは考えられない短編の週録も少なくなく、どういった編集方針なのかは私にはよく理解できません。ただ、ミステリかどうかはともかく、短編の名作が収録されていることは確かですし、十分に読書を楽しめると考えてよさそうです。

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最後に、キャロル・ネルソン・ダグラス『ごきげんいかが、ワトスン博士』上下(創元推理文庫) です。シャーロック・ホームズを出し抜いたほぼほぼ唯一の女性であるアイリーン・アドラーを主人公にした「アイリーン・アドラーの冒険」シリーズの第3作です。アイリーン・アドラーが探偵役で、ホームズを出し抜いて事件を解決します。当然、シャーロック・ホームズのパスティーシュです。このシリーズで邦訳されたのはすべて同じ出版社からの文庫本で、第1作の『おやすみなさい、ホームズさん』では正典の「ボヘミアの醜聞」をアイリーン・アドラーの側から捉えた小説であり、第2作の『おめざめですか、アイリーン』ではパリの事件を解決します。これは、ホームズものの中の、いわゆる「書かれざる物語」で、ワトソン博士が言及しただけの事件なのかもしれませんが、私はそれほど熱心なシャーロッキアンではありませんから、よく知りません。第3作の本作品では、正典作者のドイル卿が混乱を示しているワトソン博士の銃創について作者なりの解釈を示しています。すなわち、ワトソン博士はアフガニスタンでの従軍により銃創を負ってロンドンに帰還するわけですが、その銃創が肩なのか、足なのかで正典に混乱が見られ、この作品では、ワトソン博士は肩に銃撃を受けた後、現地の熱病にかかって生死の境をさまよい、その際に足にも銃創を負った、という解決を示しています。ストーリーとしては、アフガニスタンの戦役でワトソン博士に命を助けられたという退役士官とアイリーン・アドラーがパリで遭遇し、ワトソン博士が命を狙われている事実を突き止め、もちろん、ホームズを出し抜いて鮮やかに解決に導く、ということになります。
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2020年01月12日 (日) 15:00:00

先週の読書は経済書なしで計6冊!!!

先週は、経済書なしで以下の通りの計6冊です。先週、定年退職する直前まで勤務していた役所の研究所の後輩とお話をしていたんですが、今の家を引き払って関西に引っ越しすることとなれば、私の読書ペースがかなり落ちるんではないか、と指摘されてしまいました。まさにその通りと思っています。私のことを読書家であると、善意の誤解をしている知り合いも何人かいたりするんですが、実は、私の読書量は東京都特別区の極めて潤沢な予算に裏付けられているわけで、おそらく、関西に引っ越せば読書量は半減以下に低下し、加えて、読書のタイミングも出版からかなり遅れる可能性があるような気もします。

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次に、高橋直樹・松尾秀哉・吉田徹[編]『現代政治のリーダーシップ』(岩波書店) です。著者・編者は、政治学などの研究者です。2部構成であり、副題が上の表紙画像に見られるように「危機を生き抜いた8人の政治家」となっていて、第1部と第2部に4人ずつ配置しています。第1部はリーダーの個性や資質を強調していて、英国のメージャー首相、ドイツのコール首相、ベルギーのフェルホフスタット首相、アイルランドのヴァラッカー首相であり、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は執筆時に現役首相だったといいますから、それくらいの時点でどこまで評価できるのかはやや疑問です。第2部はリーダー個人の個性や資質に言及しつつも、リーダーを取り巻く制度や環境にも重点を置いていて、英国のブレア首相、フランスのミッテラン大統領、ロシアのエリツィン大統領、そして、メキシコのゴメス中央銀行総裁というラインナップです。本書のタイトルにもあるリーダーシップについては、私の認識では、バーンズのその名も『リーダーシップ』が本書でも古典的なテキストとされていて、もうすっかり大昔に読んだので私は忘れましたが、何種類かのリーダーシップが解説されています。ただ、編者のあとがきにもあるように、平時で status quo で昨日と同じ今日と明日を送っていればいい時期ならば、いわゆる前例踏襲の官僚で十分なのですが、何らかの危機においては微分不可能な下方への屈曲が起きていますので、従来通りの計画をそのまま実行しているのではなく、計画を大きく変更する必要に迫られるわけで、そこにリーダーシップが必要となります。ただし、本書では「英雄待望論」の立場は排されています。ただ、いくつか気になるところがあり、第1部のコール首相は東西ドイツ統一時の政治的トップでしたし、それなりの決断力と指導力は認めるものの、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は、単に個性的というだけで選ばれているような気がします。第2部のブレア首相が後継のブラウン首相とのツートップ的な環境で議論されているとすれば、同じくミッテラン大統領についても、典型的なねじれ現象であったシラク首相との関係にも言及が欲しかった気がします。英国や日本のようなウェストミンスター議会でなく、大統領と首相の両方がいる場合、一般に、ドイツなどのように先進国では首相が優先し、途上国では韓国などのように大統領がトップを務める、というパターンが多いような気がしますが、フランスだけは並立し、しかも、社会党という左派のミッテラン大統領とコアピタシオンながらド・ゴール派の流れをくむ共和国連合のシラク首相が並立していた時期があります。わずかに2年ほどで、隣国ドイツ統一の少し前の時期であり、ドイツ統一時は大統領・首相ともに社会党だったんですが、政治的リーダーを取り巻く環境や制度を論じるのであれば、ミッテラン大統領とシラク首相はぜひとも分析対象に乗せるべきだと私は考えます。メキシコのゴメス中銀総裁について、金融政策の専門性や事務処理能力についてはともかく、人脈などのソーシャル・キャピタルに重点を当てるのであれば、もはや、リーダーシップではないような気もするんですが、いかがでしょうか。最後に、リーダーシップについて、私の考える我が日本の2点を確認しておくと、第1に、田中角栄総理が総理を辞任してからのリーダーシップはすごかったんではないかという気がします。もっとも、リーダーシップではなく、単なるパワー=政治力という気がすることも確かです。第2に、リーマン・ショック後に「政治主導」を掲げて政権交代に成功した民主党政権は、危機時のリーダーシップのあり方として、とても方向性は正しかった気がするんですが、結果的に大きくコケたのはどうしてなんでしょうか。さまざまな分析あるものの、私はまだコレといった決定打を発見していません。

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次に、池田太臣・木村至聖・小島伸之[編著]『巨大ロボットの社会学』(法律文化社) です。著者や編者は、大学の社会学の研究者です。ロボットについては、1963年にアニメ放送が開始された「鉄腕アトム」と「鉄人28号」が我が国での嚆矢となるわけですが、本書では、「巨大ロボット」ということで、鉄腕アトム的なサイズではなく、大きなロボットであって、でも、鉄人28号のように外部のリモコンで操作されるわけでもなく、かといって鉄腕アトムのようにAIよろしく自立的に行動するわけでもなく、ガンダム的にコクピットに人間が入って操作する巨大ロボット、のアニメの社会学を展開しています。「鉄腕アトム」と「鉄人28号」の放送開始の1963年は私は小学校に上がる直前であり、私個人は「鉄人28号」に熱狂した記憶があります。お絵描きでは常に題材は鉄人28号でした。今でも主題歌は歌えるのではないかと思います。また、本書で定義する「巨大ロボット」、すなわち、ドラえもんや鉄腕アトムのサイズではなく、見上げるような大きさのロボットであり、コックピットに人間が入って操縦するロボット、トランスフォーマーのような棒筒などではなくヒト型であり、しかも、それがアニメで放送されたものとなると、その典型である「ガンダム」が放送開始された1979年には20歳過ぎの大学生のころであり、それなりにアニメにも関心の高い年代であり、私としても親しみを覚えます。ただ、本書では「ガンダム」が放送開始された1970年代末はむしろ、巨大ロボットがマンネリ化していた時期であり、むしろ、「ガンダム」は例外的なヒットを飛ばした、ということなのかもしれません。また、1990年代半ばから放送された「エヴァンゲリヲン」も、基本的には「ガンダム」の路線を引き継いで社会的現象も引き起こしました。例えば、私の記憶が正しければ、日本酒の「獺祭」は、「エヴァンゲリヲン」の特務機関ネルフの将校であった葛城ミサトが愛飲していたことから流行に波に乗った、と私は考えているんですが、私と同世代ないし若い世代の酒飲みといっしょに「獺祭」を飲んでも、この葛城ミサトの事実は認識されていないようです。「エヴァンゲリヲン」を見ていないのだろうと思います。同じヒット商品ということで経済的な観点では、ガンダムについては1/144HGスケールをはじめとするガンプラが大きな影響力を持っていたと私は考えています。我が家の倅2人も小学生のころからガンプラ作成にいそしみ、上の倅なんぞは中学・高校・大学と模型クラブに所属して、中学・高校の文化祭はいうに及ばず、大学祭でもガンプラの作品を展示していた記憶があります。こういった経済的・社会的現象も引き起こした「巨大ロボット」について社会学的に解明した結果を、本書は興味深く取りまとめています。

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次に、伊岡瞬『不審者』(集英社) です。作者は、注目の小説家であり、私は初めて作品に接しました。この作品は、会社員の夫と5歳の息子、それに、夫の母親と都内は調布市に暮らす30代前半の主婦を主人公に設定しています。ストーリーのあらすじは、主人公は主婦業のかたわら、フリーの校閲者として仕事をこなす一方で、子供の幼稚園バスのママ友との通り一遍ながら交流もあり、平凡な日々を送っていましたが、ある日、夫がサプライズで客を招き、その人物は、何と、21年間音信不通だった夫の兄だといい出します。その義兄は現在では起業家で独身だと夫はいうものの、最初は自分の息子本人だと信用しない義母の態度もあり、主人公は不信感を募らせるのですが、夫の一存で1週間ほど義兄を同居・居候させることになってしまいます。それから、というか、その直前くらいから、主人公の周囲では不可解な出来事が多発するようになり、主人公は特に子供の安全について不安を募らせる、というカンジです。要するに、ネタバレの結論をいえば、私が読んだ中では、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』のように正常と異常が反対な作品と同じだったりします。なお、さすがに、ネタバレ部分は透明フォントを使っており、カーソルなどで範囲指定して色を反転させても見ることはできませんが、それなりにhtmlの知識があり、あくまで見たいのであれば、見ることはできるでしょう。約300ページの出版物の中の最後の方の250ページ目くらいから謎解きが始まるんですが、ここに達するまでに、かなり多くの読者は謎が解けているくらいの割合と平凡なプロットで、ミステリとしては凡庸な仕上がりです。もっと、早くからタマネギの皮をむくように、徐々に真相に迫るような運びの方が望ましいのですが、まさか、そこまでの表現力ないとは思いませんから、作者があくまで意図的に最後に一気に真相を明らかにする手法を選んだのではないか、と私は受け止めています。ただ、もしそうだとすれば、やや疑問が残るところです。なお、私の知り合いでオススメしてくれた読書人からの受け売りながら、最後の最後に犯人の弁護をするために登場する白石法律事務所は、同じ作者の別の作品である『代償』や『悪寒』にも出ているそうです。私の読後感としては、謎解きこそ少し疑問あってミステリとしては物足りない気がしますし、かなり、「小説的」な異常なシチュエーションで展開されるストーリーではありますが、主人公の視点から見た平凡な日常が崩れていく、という意味では、それなりのスピード感あふれるサスペンスとしていい出来ですし、別に代表作があったりするんではないか、とも気にかかりますし、ということで、もう少しこの作家の作品を読んでみたい気もします。引っ越しで忙しくて、読まないかもしれませんが、それなりに読書意欲はあります。

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次に、いとうせいこう『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書) です。著者は小説家、ノンフィクション・ライターです。2017年だったと思うんですが、同じ著者が『「国境なき医師団」を見に行く』という本を同じ出版社から出していますので、その続編ということになり、本書でも、前著が「俺」を主語にして、やや興奮気味の内容だったのに対して、本書はもっとすそ野を広くと考えたと記しています。ということで、やや落ち着いて、1999年にノーベル平和賞を受賞した「国境なき医師団」MSF=Médecins Sans Frontières について、日本国内のスタッフとともに、海外の現に活動しているサイトのスタッフをインタビューした内容です。本書にもあるように、「国境なき医師団」とはいえ、もちろん、医師以外にも医療スタッフは必要なわけですし、本書でもロジスティックスに携わるスタッフが登場したりして、医療が半分、非医療も半分という構成が明らかにされています。ですから、医師でなくても「国境なき医師団」になれるわけです。私はエコノミストであって、もちろん、医師ではありませんし、医療関係のスキルも、ロジスティックスのスキルもなく、紛争地帯などにおける医療活動を支えることは出来そうもありませんが、本書でも、地震被害が大きかったハイチやアフリカの紛争地帯を想像させるウガンダ・南スーダンといったサイトでのインタビューもありますが、フィリピンについては「錨を下ろして活動する必要」という言葉があります。必ずしも本来業務ではないものの、私も開発経済に携わるエコノミストとして、ささやかながらインドネシアで3年間活動した経験があります。もちろん、公務員の活動の一部として辞令1枚で赴任した私なんぞと違って、"too motivated" という表現が本書にもありますが、過大とさえいえる意欲をもって「国境なき医師団」の活動を進めるスタッフには、その使命感のレベルの差は歴然としています。ただ、基本は、各個人の持っている能力や専門性を生かして、途上国の発展や途上国の人々の幸福のためにどれだけ役立てられるか、ということであると私は考えています。現在の資本主義の実態を見れば、その昔のスミス『国富論』的に個人の経済的利益の追求が見えざる手により経済全体の厚生を高める、という神話はほぼ崩壊したわけですし、自主的な利他的活動が求めらるのはいうまでもありません。本書では、個々のインタビュー結果の事実関係を通じて、個人的な小さな物語から大きな物語、すなわち、いかに、世界、特に、途上国で大きな困難を抱える人々の役に立つかの精神や使命感の高さを読み取って欲しいと私は期待します。もちろん、世界に目を向けつつも、国内で困難を抱える人も少なくないわけで、資本主義的な自己の利益追求から、国内外を通じて、より広い視野での活動の大切さを感じ取って欲しいと思います。


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最後に、マルティン・エスターダール『スターリンの息子』上下(ハヤカワ文庫) です。作者は、スウェーデンのミステリ作家であり、本書は初めての邦訳書だそうです。スウェーデン語のタイトルは BE INTE OM NÅD であり、解説によれば「慈悲を乞うなかれ」という意味だそうです。スウェーデン語の原書の出版は2016年ながら、邦訳書は2018年出版のドイツ語版から訳出されているそうです。3部作の第1作のようです。ということで、舞台は基本的に1996年2月から3月にかけてのストックホルムなんですが、時折、1944年1月のストックホルムも振り返られたりします。軍隊から恋人の勤務する通信コンサル会社に転職した主人公は、その恋人がロシアで消息を絶ったことで捜索を始めるところからストーリーが動き出します。もちろん、主人公はロシアに行くことになるんですが、ストックホルムとともに虚々実々のスパイもどき、というか、スパイそのものの駆け引きや、外国小説らしく拳銃がドンパチやったり、爆弾が炸裂したりと、かなり残虐な場面もあったりします。最後は、まあ、それなりに意外感あるのではないでしょうか。スウェーデンにはエリクソンなどの通信機器メーカーが有名ですし、小説の舞台となっている1996年の時点でも、かなり先行き有望観があったでしょうから、こういった北欧通信機器企業に旧ソ連のスターリン主義者、というか、スターリン信奉者が暗躍する一方で、第2次世界大戦終盤の1944年のソ連のよるストックホルム誤爆、というか、空爆の謎を絡めたサスペンスとしてストーリーが進みます。旧ソ連崩壊から数年を経たエリツィン政権下のロシア経済の混乱、特に、経済マフィア的なギャングの暗躍をスウェーデンの秘められた歴史とともにストーリーを進めるのは、私はそれなりに面白く感じないでもないんですが、体感的に理解できる読者とそうでない読者がいそうな気がします。出版の20年前の1996年を舞台に選んだのも、戦争終盤の1944年から50年、ということで、戦争の生き残りがまだいる可能性を残したかったんでしょうが、ややムリありますし、欧州にはまだまだネオナチ的なヒトラー信奉者がいそうな気がする一方で、ロシアにまだスターリン信奉者なんているのか、というシロート目線の疑問もあります。加えて、海外作品ですから仕方ありませんが、馴染みのない人物名がとても複雑な人間関係を構築してくれて、私のような人名記憶キャパの小さい読者はなかなか理解がはかどりません。私自身は、ラーソンからラーゲルクランツに書き継がれている「ミレニアム」のシリーズは大好きですし、スウェーデンをはじめとする北欧ミステリの作品のレベルの高さを知っているだけに、今後の作品に期待なのかもしれません。
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2020年01月04日 (土) 19:45:00

年末年始休みの読書やいかに?

年末年始の読書は、すでに火曜日に取り上げたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を別にして、いろいろと取り混ぜて、以下の通りです。なお、今日の日経新聞に、昨年2019年12月28日の読書感想文で取り上げたアイザックソン『イノベータース』上下と11月30日付けの青山七恵『私の家』の書評が掲載されていました。大手新聞に先んじたのはとても久しぶりな気がします。なお、まだ正月休みが私の場合続いていて、夕方から缶ビールを開けている上に、全部で9冊もありますので、手短かにして手を抜きます。悪しからず。

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まず、ミレヤ・ソリース『貿易国家のジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。著者は、メキシコ出身のエコノミストであり、現在は米国ブルッキングス研究所の東アジアセンター所長を務めており、中学生の頃に日本語を勉強していて当時の大平総理と会ったことがあるそうです。英語の原題は Dilemmas of a Trading Nation であり、2017年の出版です。ということで、タイトルにあるジレンマとは、本書では2つ指摘されていて、ひとつは既得権益に切り込む決断が求められる局面になるほど反対論が広がり、幅広い合意を得にくくなる点であり、もうひとつは自由化で不利になる部門に対する補助金の支出と、一部の産業に縮小や退出を求める改革の断行が出来にくくなる点、とされています。自由貿易の場合、一国全体ではお得なわけですが、あくまで得をするセクターと損をするセクターを比べて、前者から後者に補償がなされるとういう前提ですので、ジレンマと称するのは少し違う気もしますが、現実には、そういった補償は十分ではなく、確かに焦点を当てる値打ちはあるのかもしれません。本書でも指摘されている通り、損をするセクターはツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論からして主張する声が大きくなりますので、それなりの補償が自由貿易を公正な貿易にするために必要です。本書では、当然ながら、日本についても大きな注目を払っています。

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次に、石井光太『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、貧困や格差に注目しているようですが、エコノミストではありませんから、本書ではかなりアバウトな議論が展開されていると覚悟して読み始めるべきです。例えば、冒頭から、世界の貧困と日本の貧困が並べられていますが、前者の世界レベルは絶対的貧困である一方で、後者の日本レベルは相対的貧困率ですので、著者が意図的にそれを狙っているとは思いたくありませんが、詳しくない読者は日本人の7人に1人が1日1.9ドル未満で暮らしていると勘違いすることと思います。ただ、若年者にスポットを当てた貧困論、あるいは、格差論を展開していますので、私は好感を持ちました。貧困を論ずる場合、どうしても、母子家庭、高齢者、疾病が3大要因となっている現実がありますので、高齢層に注目してしまう例もあるんですが、母子家庭を含めて若年者の貧困や家庭問題に着目しているのは評価できます。また、日本国内だけでなく、広く世界の貧困の実態にも目配りが行き届いています。

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次に、広田照幸『大学論を組み替える』(名古屋大学出版会) です。著者は、東京大学大学院教育学研究科教授などを経て、現在は日本大学文理学部教授、日本教育学会会長を務めています。出版社からしても、かなり学術書に近い印象です。何度か書きましたが、私は今年は生まれ故郷の関西に引っ越して、4月から私大経済学部の教員になる予定です。ただ、学生諸君への教育や自分自身の研究とともに、公務員出身ですので何らかの大学運営に携わることも期待されているのではないか、と勝手に想像して、大学改革論を1冊読んでみました。教育については、医療などとともに、いわゆる非対称性の大きい分野であり、市場経済では効率性が確保されません。その上、学問の自由や大学自治が絡むと、かなりヘビーなイシューとなります。今年の1年目からいきなり大学や学部の運営に関わることはないとは楽観していますが、これから、先々勉強することとしたいと考えています。

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次に、ニール・ドグラース・タイソン & エイヴィス・ラング『宇宙の地政学』上下(原書房) です。著者は、米国自然史博物館の天体物理学者と同じ博物館ん研究者・編集者です。英語の原題は Accessory to War であり、2018年の出版です。ノッケから、天体物理学がいかにも戦争のために利用可能な現状を宣言し、中世から天文学者が戦争において果たした役割の解説から始まったりします。でも、本書は純粋な天文物理学書でもないことは当然ながら、軍事的な武器の解説書といった内容でもなく、もっと散文的なコンテンツを想像していた私には、かなり詩的な表現ぶりに驚かされたことも事実です。中世から始まって、宇宙の軍事利用の歴史をかなり長期にさかのぼって振り返り、米ソの宇宙開発の戦争利用の可能性を広く主張し、私も含めてついつい人々が目を逸らしがちな現実を明らかにしてくれています。

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次に、加藤陽子『天皇と軍隊の近代史』(けいそうブックス) です。著者は東大の歴史研究者であり、近代史がご専門と認識しています。ということで、タイトル通りの内容なんですが、明治以降の近代で初めて譲位という形で天皇の交代があり、開眼した経験を経て、近代における天皇と軍隊の歴史を振り返ります。天皇から「股肱の臣」と呼ばれた軍隊に対して、軍人勅語が示され、統帥権の独立、というか、内閣からの不感症を確立して戦争に突き進む実態が歴史研究者によって明らかにされています。ただ、内容的には、掘り尽くされた分野ですので、特に新たな史的発見があるわけではありません。ただ、振り返っておく値打ちはありそうな気がする分野です。

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次に、諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) と外川淳『明智光秀の生涯』(三笠書房知的生きかた文庫) です。著者は、陸上自衛隊高等工科学校教官と歴史アナリスト・作家です。今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀だったりしますので、私も少し勉強してみたく、2冊ほど借りて読みました。明智光秀といえば、当然ながら、織田信長を暗殺した本能寺の変なんですが、その要因としても、現代でいえばパワハラに反発した怨恨説から、天下奪取説、調停や室町幕府や果ては秀吉までが絡む黒幕説、などなど、いろいろと持ち出されているんですが、斉藤利三首謀説まで飛び出しています。ただ、斉藤利三が仕掛けたのだとすれば、春日局が取り立てられることはなかった気もします。それは別として、跡付けの歴史的な観点からすれば、天下統一後の政治的展開を考えれば、重厚な家臣団を擁する織田か徳川くらいしか治世展開を続けることが出来ず、成り上がりの豊臣秀吉とか、明智光秀も天下統一を維持して天下泰平まで実現することは難しかっただろうと私は考えています。明智光秀は確かに文化人だったのかもしれませんが、それだけで天下はどうにもなりません。

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最後に、グレン・サリバン『海を渡ったスキヤキ』(中央公論新社) です。著者は米国ハワイ生まれで、1984年に来日し、英会話学校教師として勤務後、雑誌『日本語ジャーナル』の英文監修者・翻訳家として活動した後、1992年に帰米してコーネル大学大学院でアジア文学を履修、とあり、邦訳者のクレジットがありませんから、著者が日本語で書いたものであろうと私は想像ています。基本的に、和食が米国でどのように受容されていったのかの歴史を展開しているんですが、その和食を持ち込んだ日本人が米国で受容されたのかの歴史にもなっています。もちろん、第2次世界対戦時の収容所についても言及があり、悲しい歴史にも目を背けていません。天ぷらは本書では注目されていませんが、スシや鉄板焼など、とても家庭の主婦が調理するとは思えない料理が、ついつい、米国をはじめとする諸外国では「日本食」として認識される中で、そういった誤解を助長しかねない本書なんですが、それはそれで、和食・日本食の海外展開での歴史を知ることが出来るような気がします。
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2019年12月30日 (月) 18:30:00

本年最後の読書感想文でジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を読む!

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先週借りておいたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(日本経済新聞出版社) を読みました。隣国ソ連に侵攻された1930~40年代のフィンランド、江戸末期にペリー来航などで欧米列強から開国を迫られた日本、世界で初めて選挙によって社会主義アジェンデ政権が誕生した後に軍事クーデターとピノチェトの独裁政権に苦しんだチリ、クーデター失敗と大量虐殺を経験したインドネシア、東西分断とナチスの負の遺産に向き合ったドイツ、白豪主義の放棄とナショナル・アイデンティティの危機に直面したオーストラリア、の6カ国を題材にしたケーススタディです。先月は本書の出版宣伝なのかどうか知りませんが、来日公演会の開催などがあったようです。私の目から見て、かなり著者の専門分野から外れた問題意識を展開しているような気がして、どこまで信頼感を持って読み進めばいいのか不安だったんですが、さすがに、それなりの仕上がりにはなっています。米国まで含めても、せいぜいが200年間の7か国が対象ですし、著者の12項目のクライテリアをもってしても、結論を一般化するのはとても難しい気がしますが、さすがに、エピローグで著者ご自身がナラティブで定性的な議論の展開から、定量的な手法の導入をいわざるを得なくなっていたりします。評価項目の7番目に公正な自己評価というのがありますが、要するに、自分自身あるいは自国を客観的に評価するということだろうと私は理解していて、これがもっとも難しいのだろうと想像します。もうひとつ難しいのは、本書には現れませんが、評価関数の設定です。経済学では、トレードオフという概念があって、要するに、コチラを立てればアチラが立たず、という相反する2つの目標があったりします。そこまでいかなくても、リソースの不足から2つ以上の複数の目標達成は困難で、プライオリティに従ったリソース配分を必要とする場合も少なくありません。いずれにせよ、第3部第10章の日米が直面する高齢化や政治的分裂といった危機に加えて、最後のエピローグ前の第3部第11章に示された危機意識、すなわち、人類全体の危機として核、気候変動、エネルギー、格差が指摘されていて、本書の問題意識はそれなりに重要だと直感的には私なりに理解するんですが、失礼ながら、単なる無責任な問題意識の表明であればともかく、著者ご自身にどこまで解決策を示す能力があるのかどうか、言葉を変えれば、どこまで行っても著者には結論を出せない問題に入り込むような不安が残ります。
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2019年12月28日 (土) 10:30:00

今週の読書は資本主義について考えさせられる経済書をはじめとして計8冊!

今週の読書は、資本主義について深く考えを巡らせる経済書をはじめとして、以下の通りの計8冊でした。大雑把に、都内の区立図書館は今日までの営業のようですが、結局、ダイアモンド『危機と人類』は来週の年末年始休みに回すことにしました。

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まず、根井雅弘『資本主義はいかに衰退するのか』(NHKブックス) です。著者は、我が母校である京都大学経済学部の経済学史を専門とする研究者です。当然ながら、40年ほど昔の私の在学中にも経済学史の先生はいたわけですが、そのころの経済学史担当の先生は時代を先取りしていたというか、「研究室内禁煙」を明記していました。私の所属するゼミの先生なんて、自らパイプを燻らせているような時代でしたので、何となく違和感を覚えた記憶が残っていますが、今なら何ということもなく、私も来年私大の教員になる際には研究室は禁煙にする予定だったりします。それはそれとして、本書の具育大は「ミーゼス、ハイエク、そしてシュンペーター」となっており、20世紀前半から1970年代くらいのオーストリアン学派の中核をなしつつも、必ずしもナチスによるユダヤ人迫害ばかりでもなく、米国の大学に研究の場を求めたエコノミスト3人です。本書のタイトルからして、資本主義から社会主義への移行をテーマにしているわけですが、1990年代初頭に旧ソ連が崩壊して多くの東欧諸国とともに資本主義に移行し、中国・ベトナム・キューバなどの一部に社会主義と自称する国が残ってはいるものの、資本主義と社会主義の歴史的な役割についてはすでに決着がついた、と考えるエコノミストが多そうなところ、それを経済学史的にホントに振り返っています。ご本家のマルクスをはじめとして、マルクス主義のエコノミストの多くは、あくまで私の想像ですが、資本主義から社会主義への移行は歴史的必然であり、好ましいと考えていたわけですが、副題に上げられたオーストリア学派の3人については、少なくともシュンペーターは決して好ましいとは考えず渋々ながら資本主義から社会主義への移行はある程度の歴史的必然であると考えていた一方で、ミーゼスは今でいうところの市場原理主義的なエコノミストですし、ハイエクも社会主義を左派の全体主義、ファシストを右派の全体主義とひとくくりにして論じていたと私は認識していますので、シュンペーターとはかなり見方が異なると考えるべきです。ただ、1930年代にウォール街に端を発する世界大恐慌の中で、古典派的な完全競争を賛美する資本主義はむしろ好ましくなく、何らかの政府の市場介入が必要と考えるエコノミストが多かったことも事実です。ひとつの大きな流れがケインズであるのはいうまでもありません。古典派的なレッセ・フェールの資本主義をいかに安定的な気候に作り替えるかが当時のテーマであり、ミーゼスのように資本主義の不安定性を否定する議論は、当時は受け入れがたかった気がする一方で、気が進まないながら渋々社会主義への移行を見込んだシュンペーターの見方も理解できるところです。経済体制的には大きな意味ある議論とは考えられませんが、資本主義をいかに社会全体に、あるいは、国民に安心できるシステムに磨き上げていくか、という点でのエコノミストの努力を読み取るべきかもしれません。巻末の読書案内が迷惑なくらいに充実しています。私はかなり前に同じ著者の『経済学者はこう考えてきた』を読んで、その際、巻末の読書案内は適当だったような記憶があるんですが、本書のはやや重厚に過ぎる気がしました。もっとも、あくまで個人の感想です。

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次に、望月智之『2025年、人は「買い物」をしなくなる』(クロスメディア・パブリッシング) です。著者は、デジタルマーケティング支援を提供するコンサルタント会社の経営者です。今週号の「東洋経済」のアマゾンで「売れているビジネス書」ランキングで、先週の130位から29位にランクアップしたと注目されていたりしました。ということで、買い物についての将来像を提供してくれています。本書の終章で出て来るのを少し私なりにアレンジすると、その昔は、1日かけて百貨店で買い物をしていたところ、私の子供時代なんかはモータリゼーションの時代で一家そろって朝から自動車でショッピングモールに出かけてランチの後に帰宅するという半日がかりの買い物の時代を経て、自転車で1時間のスーパーの買い物、そして、最近では、リアルの店舗なら10~15分でコンビニ、あるいは、5分以内でインターネット通販で買い物を終える、といったカンジでしょうか。通販を別にすれば、お店に足を運んで、品定めをし、レジに並んでお支払いを済ませ帰宅する、ということで、「家に帰り着くまでが遠足」ではないですが、帰宅までを考えれば、確かに買い物はメンドウです。しかし、他方で、資本主義的な世界観からすれば、典型的にお金を払って買う方とお金をもらって売る方の、決して対等ではあり得ない関係が実現するのが買い物という現実です。例えば、我が家は子供が小さかったということもあって、買い物の荷物を運び込むのに便利な低層階、2~3階に住んでいたんですが、最近ではインターネット通販などで買ったものを運んでもらえば高層階の生活も快適、なんて時代であったりするわけで、お金持ちの国民がお金を払って運ばせる側とお金をもらって運ぶ側に分断されている感すらあります。他方で、本書のいうように、もはや消費の選択すらせずに、AIにお任せでいつものトイレットペーパーや日用品や化粧品などを定期的に購入するようなライフスタイルも可能にあっています。トイレットペーパーの在庫をAIが確認して自動的に発注するとかです。こうなれば、人類がAIの家畜ないしペットになる一歩手前、と感じるのは私だけでしょうか。ネコが飼い主にエサをねだって、トイレの砂を交換してもらうようなもんです。ペットのネコがペットフードに依存して狩りをしなくなるように、人間もAIのチョイスにお任せで買い物をしなくなるのかもしれません。「上級国民」はAIが必需品を発注して、「下級国民」がそれを運ぶ、ということになるのかもしれません。そうならないように、自覚的な民主勢力の行動が求められているのかもしれません。本書もある意味で資本主義について深く考えさせられる読書でした。

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次に、 レイ・フィスマン & ミリアム A. ゴールデン 『コラプション』(慶應義塾大学出版会) です。著者2人は、米国の大学において行動経済学と政治学のそれぞれの研究者です。英語の原題は Corruption であり、2017年の出版です。一般名詞としての「コラプション」には、汚職と腐敗の2通りの邦訳がありますが、本書では前者の意味で用いており、さらに、公務員に対するものだけを対象としています。ですから、少し前に我が国でも話題になった建設業界の談合などは少し違う扱いかもしれません。ということで、本書で一貫して強調されているのは、汚職を含む資源配分ないし所得分配についてもひとつの均衡であるという点です。ですから、限定的とはいえ、経済合理性からいくぶんなりとも説明できるハズ、ということになります。例えば、どこかの駐車場に料金を支払って車を置くか、路上駐車で罰金を支払うか、はたまた、路上駐車で取り締まりの警官に賄賂を支払って罰金を逃れるか、の大雑把に3つの選択肢から、主観的な期待値と確率から最適解を選択するわけです。ただ、一般論ながら、公務員に賄賂を渡して不正な手段で利益を上げるのは、経済的な最適資源配分から歪みを生じて非効率を生み出す可能性が高くなり、これも一般論ながら、汚職は避けるべきであると見なされており、そのための方策についても本書では考えを巡らせています。個別具体的なケーススタディよりも豊富ですが、定量的な分析に重点が置かれているようです。例えば、民主主義と専制主義でどちらが汚職の割合が高いか、については、王政を例外として専制主義の方に汚職がはびこる可能性を指摘していますし、他方で、公務員のお給料を上げれば汚職が減少するケースとそうならないケースの分析など、いろんなケーススタディも示されています。日本に住んでいる我々にはそれほど目につきませんが、途上国では賄賂を贈る汚職は日常的にあり得るものです。実は、私はチリではともかく、インドネシアでも現地の免許証を取って自動車を運転していたんですが、ほとんど現地語を理解しない私がどうやって免許証を取得したかといえば、控えめにいっても、違法スレスレのわいろ性あるつけとどけが効き目あったとしか思えません。ただ、その昔には、本書で紹介されているようなレフの議論にもあるように、極論すれば、途上国の不可解で不合理な規制を回避するために賄賂を贈っての汚職がむしろ経済合理的だった可能性も比叡出来ないわけですが、今ではそんなこともないと考えるべきです。途上国援助や開発に絡んだ汚職は今もって決して例外的なものではなく、基本的にはカギカッコ付きの「文化」とすらいえる段階まで一般化した汚職が、みんながやっているから自分の汚職に対する認識とは別にして、自分もやる、ということにつながっています。前半のみんながやっている、という部分は期待ですから、我が国のデフレ対策と同じで、期待に働きかけて、誤った期待を払拭するのはとても時間がかかります。特効薬はありません。地道な活動が必要、という結論しか出て来ず、私のようなのんびりした田舎者が取り組むべき課題のような気がして、逆に、せっかちな都会人には不向きかもしれません。

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次に、岡奈津子『<賄賂>のある暮らし』(白水社) です。著者はアジア経済研究所の研究者であり、地域的な専門分野は中央アジアです。この読書感想文の直前に取り上げた『コラプション』がケーススタディよりも定量的な評価に重きを置いた学術書だったのに対して、本書も専門的な学術書の要素あるとはいえ、ほぼほぼケーススタディ、しかも、著者が自分で情報を収集した限りのカザフスタンのケーススタディとなっています。本書でも、基本的に公務員や何らかの有資格者に対する賄賂を取り上げており、交通警官をはじめとする警察官や役所への対応における賄賂、さらに、教育と医療の現場における賄賂に着目しています。カザフスタンは1990年代初頭に旧ソ連の社会主義経済から切り離されて独立し、いわゆる移行国として市場経済化が進められる中で、資源依存ながら今世紀初頭から経済成長が本格化し、現在では1人当たりGDPが1万ドルを超える高位中所得国となっています。その中で、本書で取り上げられているようなメチャクチャな賄賂がまかり通るようになっているようです。私はインドネシアの汚職の現状に関する情報もいくぶんかは接する機会がありましたし、そもそも、ビジネス上で賄賂とまでいわないまでも、営業が売り込む際の接待などは我が国でも日常的に見られるわけですし、医療についてもお金持ちほど高額で先進的な医療を受けられるのは、決して賄賂が常態化しているわけではない先進国でも、これまいくぶんなりとも、ご同様です。しかし、本書で取り上げられている教育における賄賂というのはややびっくりしました。いい学校に合格するのも賄賂が効いて、成績も博士号の学位も賄賂次第、というのはどうなんでしょうか。1人当たりGDPが平均的に1万ドルを超えるくらいの高位中所得国における教育の賄賂の相場を本書から見ても、かなり高額であることはいうまでもありません。少なくとも、我が日本においては、それなりに教育の場における公平性というのが確保されてきたことは特筆すべきです。ですからこそ、森友・加計問題が大きな注目を浴びたわけですし、医大入試の性差別もご同様です。もちろん、こういった例外を別にすれば、少なくとも入試の公平性については我が国では信頼感あるわけですし、だからこそ、この暮れの大学入試への民間英語試験導入や記述式問題の見送りなどが大きく報じられているわけです。我が国でのそれなりのブランド大学への信頼感はまだ残っていて、それが悪い方向に作用するケースも決して少なくありませんが、学界はいうまでもなく、政界や官界や実業界などでも大学のランクはそれなりの重みを持ち、単なるシグナリング効果だけにしても、有効なケースも少なくありません。こういった教育の場における賄賂については、カザフスタンの先行きを懸念させるに十分な気がするのは私だけではないと感じました。

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次に、ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』1&2 (講談社) です。英語の原題は Innovators であり、2014年の出版です。著者は、CNNのCEOを務めt顔ともあるジャーナリスト、また、歴史学者であり、本書の冒頭で自身を「伝記作家」と位置付けています。伝記作家としては、今までは個人を取り上げてきており、世界的なベストセラーとなった『スティーブ・ジョブズ』1&2のほか、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下、『ベンジャミン・フランクリン伝』、『アインシュタイン伝』、『キッシンジャー伝』などがあります。ただ、本書では特定の個人を取り上げるのではなく、コンピュータやICTとも称される通信技術、もちろん、インターネットも含めてのテクノロジー全般を、発明者というものは存在しないものの、幅広く関連する人物像にスポットを当てています。私は英語版の原書の表紙を見た記憶があるんですが、ラブレス伯爵夫人エイダ、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、アラン・チューリングの4人が並んでいたりしました。まず、第1巻では、コンピュータの母といわれ英国の女性数学者でもある伯爵夫人エイダ・ラブレスの存在から、世界初のコンピュータENIACの誕生、プログラミングの歴史、トランジスタとマイクロチップの発明、そしてインターネットが生まれるまでを網羅し、第2巻では、比較的直近までのデジタルイノベーションのすべて、すなわち、パーソナルコンピュータ、ソフトウェア、ブログ、Google、ウィキなどが取り上げられた上で、終章でラブレス伯爵夫人エイダに立ち戻っています。邦訳のイノベーターはそのままイノベーションを行う人という意味ですし、コンピューターやインターネットなどのイノベーション、さらに、人工知能=AIに関する著書の考え方が色濃く示されています。例えば、イノベーションは突出した天才が1人で実行するのか、それとも、テクノクラート的なチームでの達成の成果なのか、という点については、やや残念なことに折衷的な見方が示されており、傑出した大天才がチームを組んでイノベーションを実行する、ということになっています。ただ、後者のAIに関する見方は明確であり、機械が思考することはありえないとのレディ・エイダの考えを示し、機械はあくまで人間のプログラミングに従って動くものと規定しています。ですから、AIが人類の支配者になることは想定していないようです。ということで、ジャーナリスト的な才能ある歴史研究者、というか、その逆の歴史研究者の資質あるジャーナリストでもいいんですが、テクノロジーの詳細な解説はほぼほぼなしに近い点に不満を持つ向きがあるような気がしないでもないものの、人物像を生い立ちから家庭的なバックグラウンドまで迫ってキャラを立て、技術が社会的ンどのような貢献をなしたかを明確に示した歴史書です。時系列的に順を追っているだけでなく、タイトル通りのイノベーターたちという人物を就寝に据えながら、技術を章別のテーマに立てて、かなり判りやすく史実を並べています。決してコンパクトではありませんし、英語版の原書は5年前の出版ながら、キチンと押さえるべきポイントは押さえられており、邦訳がいいのも相まって、私のように工学的な知識がなくても、スラスラと読み進むことが出来ます。

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次に、湊かなえ『落日』(角川春樹事務所) です。著者は、ご存じイヤミスと呼ばれる読後感の悪いミステリ作家です。本作品は直木賞候補作となっています。ということで、同年代30歳過ぎの2人の女性をメインとサブの主人公に配し、20年前の少年・少女時代の地方の一家殺人事件の真相に迫るミステリです。メインの主人公はアシスタント的な役割ながらシナリオライター、サブの主人公は世界を舞台に活躍する映画監督です。この2人は出身地が同じで、その地で起こった一家殺人事件、すでに裁判が終わって判決も確定している事件をテーマとするドキュメンタリー映画の製作に先立って、事件の真相解明に迫ります。その中で、児童虐待が大きなテーマとなり、事件で殺された虚言壁のある高校生、犯人でその兄の男性、その殺人事件のあった家族の隣家に小さいころ住んでいたサブの主人公の映画監督、同じ町でピアニストを目指す姉を交通事故で無くしつつも、まだ生存して世界で演奏活動を続けているフリをするメインの主人公のシナリオライター、それぞれが何らかの異常性とまでいわないとしても、心に闇を持っていて、真実を直視するところまでいかないようなケースが散見されるんですが、それをサブの主人公である映画監督が強力なパワーで切り開いていきます。出版社の宣伝文句では「救い」という言葉も強調されていますが、私が考えるキーワードは裁判と映画です。特に、前者の裁判については精神鑑定も含めての裁判です。映画はサブの主人公の映画監督だけでなく、映画好きの登場人物にも着目すべき、という趣旨です。何となく、イヤミスを連想させるキャラ、例えば、殺人事件の被害者となった虚言壁ある高校生をはじめとして、イヤなキャラクターの登場人物はいっぱいいるんですが、なぜか女性は美人が多くなっています。映画化を意識しているのかもしれません。映画化されたら、おそらく、私は見に行くような気がします。それはともかく、私は長らくこの作者のベストの代表作は、10年余り前のデビュー作『告白』だと感じて来ましたが、少し前の作品あたりからさすがに考えを変更しつつあり、本作品は新は代表作と見なしていいような気がします。

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最後に、秦野るり子『悩めるローマ法王 フランシスコの改革』(中公新書ラクレ) です。ちょっは私とほぼほぼ同年代で読売新聞のジャーナリストのご経験が長いようです。現在のフランシスコ教皇については、就任直後にはとても好意的な報道が多く、私もアルゼンティン出身、初めてのラテン余りか出身の教皇として大いに注目して来たんですが、最近では金銭スキャンダルや性的虐待の問題を背景に、教皇支持の主流派と反主流派の亀裂や混乱が生じているのも事実のようです。少し前に訪日を果たしたばかりでもあり、就任直後の「熱狂的」ともいえる高評価から少し時間を経て、現在のバチカンの真実を読んでみました。まず、私自身は仏教徒であり、浄土真宗の信者である門徒です。ただ、カトリックの南米チリで大使館勤務の経験があり、ムスリムが多数を占めるインドネシアの首都ジャカルタで一家4人で3年間生活した記憶もあります。それなりに多様な宗教に接してきたつもりです。ということで、私自身は今持って、フランシスコ教皇に関するノンフィクションの代表作はオースティン・アイヴァリー『教皇フランシスコ』(明石書店) であると考えており、2016年5月に私も読んでおり、このブログに読書感想文を残しています。本書では、その後の性的虐待問題、これも、ボストングローブ紙『スポットライト 世紀のスクープ』(竹書房) にとどめを刺しますが、何と、同じ2016年5月の『教皇フランシスコ』を取り上げた次の週に読書感想文を残した記憶があります。そういった読書から3年半を経過して、ちょっと新書判で取りまとめられているお手軽なノンフィクションを読んでみましたが、やっぱり、思わしくありませんでした。ほとんど何の収穫もなかった気がします。フランシスコ教皇ご出身のアルゼンティンのペロン政権について、かのポピュリストのペロンを「エビータの夫」的な紹介をするなんて、読者のレベルをどのように想定しているのか、なんとなく透けて見える気がしますし、会計ファーム・コンサルタント会社のPwCが Princewaterhouse というのも、タイプミスと見なすにはレベルが低すぎます。第8章のタイトル「中国市場を求めて」というのも、宗教活動を表現するにはいかがか、という気がしますし、全体的にかなりレベルが低いといわざるを得ません。
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2019年12月21日 (土) 11:00:00

今週の読書ややや失敗感ある経済書など計7冊!!!

今週の読書は、興味深いテーマながら、ややお手軽に書き上げてしまった感のある開発経済学の学術書やかなり特定の党派色強く市場原理主義かつ経済学帝国主義的な経済書、あるいは、経営書、さらに、歴史書などなど、いろいろと読んで以下の計7冊です。やや失敗感ある本が普段に比べて多かった気がします。いくつかすでに図書館を回り終えており、来週の読書も数冊に上りそうな勢いで、さらに、年末年始休みを視野に入れて、かなり大量に借りようとしています。ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』は借りたんですが、来週読むか、その先にするか未定ながら、たぶん、年末年始休みにじっくりと腰を据えて読む体制になりそうな気がします。他方、来週の読書はなぜかコラプション=汚職関係がテーマになった本や、来年のNHK大河ドラマに迎合して明智光秀関係の本も入ったりする予定です。

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まず、トラン・ヴァン・トウ & 苅込俊二『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房) です。著者はベトナム出身の早大の経済学研究者とそのお弟子さん、となっています。本書タイトルにある「中所得国の罠」とは、とても最近の用語であり、 Gill and Kharas (2007) "An East Asian Renaissance: Ideas for Economic Growth" という世銀リポートで提唱された概念であり、その後の10年を考察した世銀のワーキングペーパーで同じ2人の著者による "The Middle-Income Trap Turns Ten" という学術論文も2015年に明らかにされています。本書では、何点かに渡って、「厳密な定義や合意ない」と繰り返されていますが、多くのエコノミストの間で緩やかなコンセンサスがあり、低開発状態から1人当たりGDPで見て3000ドルから数千ドルの中所得国の段階に達したものの、1万ドルを十分に超える先進国の段階に達するのに極めて長期の年数を要した、あるいは、まだそのレベルに到達していない、といった国々が陥っている状態を指しています。本書でのフォーカスはアジアですが、もちろん、東欧や中南米などでも見受けられるトラップです。例えば、ポーランドは1人当たりGDPが1万ドルを少し越えたあたりで伸び悩み始めたといわれています。その原因としては、資源国ではいわゆる「資源の呪い」に基づくオランダ病による通貨の増価、あるいは、その後の段階では、ルイス転換点を越えたあたりで低賃金のアドバンテージを失って、さらなる低賃金の低開発国から追い上げられるとともに、先進国の技術レベルには達しないという意味で、サンドイッチ論などが本書でも紹介されています。このサンドイッチ論は Gill and Kharas (2007) でも展開されています。そして、アジア地域において、歴史的に中所得国の罠を脱して先進国の段階に到達した日本と韓国のケーススタディを実施するとともに、どうも中所得国の罠に陥っている東南アジアASEAN各国、ただし、先進国の所得レベルに達したシンガポールは除き、高位中所得国のタイとマレーシア、低位中所得国のインドネシアとフィリピン、さらに、中国のケーススタディを進め、どうすれば中所得国の罠から脱することが出来るかの議論を展開しています。もちろん、本書くらいの学術書で昼食苦国の罠を脱する決定打が飛び出すはずもなく、それどころか、そのためのヒントすらなく、日本や韓国では資本は海外資本ではなく民族資本に依拠しつつ、技術は海外からの先進技術を導入してキャッチアップしたのに対して、ASEANや中国は資本ごと海外からの直接投資(FDI)に依存した、などという、やや的外れな議論もあったりします。ほとんど、実証らしい実証もなく、大学学部生レベルのデータとグラフで議論を展開していますので、判りやすいといえば判りやすいんですが、それほど学術的な深みも感じられません。議論をスタートさせる一つのきっかけになる本かも知れません。

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次に、井伊雅子・五十嵐中・中村良太『新医療経済学』(日本評論社) です。著者たちは、経済学ないし薬学の博士号を取得した医療経済学の研究者です。本書では、我が国財政が大赤字を出して財政リソースが先進国の中でも限られている中で、その最大の原因をなしている社会保障給付のうちの医療費に関して費用と効果を考える基礎的な経済学的視点を提供しようと試みています。まず、冒頭でベイズ的な確率計算をひも解き、検査結果で擬陽性が出ることによるムダの可能性を指摘することから始まって、基本的に、「最適化」のお題目の下に、財政支出の切りつめを図ろうという意図が明らかな気もします。確かに、その昔は日本の医療は「検査漬け」とか「薬漬け」といわれた時期もあり、ムダはそれなりにあって決して小さくはないと思いますが、命と健康を守るために必要なものは必要といえ勇気も持つべきです。本書でも引用されている通り、ワインシュタインの "A QUALY is a QUALY is a QUALY." といわれており、人々の健康や命にウェイトを付けることは極めて困難であり、本書でも、健康な1年と寝たきりの10年を等価と仮定したりしているんですが、極めて怪しいと私は考えざるを得ません。本書後半の第5章あたりでは、決して経済学的な知見だけで医療へのリソースを左右するものではないとか、いろいろといい訳が並べられているのも理解できる気がします。医療については、教育と同じく、情報の非対称性の問題が市場的、というか、経済学的な解決を困難にしているわけで、この点は本書でも認識しているようですが、決定的に欠けているのは、本書にはルーカス批判の視点がないことです。おそらく、医療政策ないし財政政策が変更されれば、少なくとも、医療提供者である医者や薬剤師ほかの対応は大きく変化を生じると私は考えますし、需要サイドの患者の方でも受診行動に影響が及ぶ可能性は小さくありません。それをナッジで何とかしようという意図が私には理解できません。加えて、医療の場合は少なくとも伝染性の病気の場合、外部性が極めて大きく、罹患した患者ご本人の意向に沿うよりも社会的な感染拡大防止の観点が優先する場合もあり得ます。教育における義務教育と同じで、医療についても憲法25条で定める生存権、すなわち、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するわけですから、義務教育を健康や医療政策に適応するような形で、必要最低限のレベルの検診を受ける権利があると考えるべきです。現在の医療が過剰かどうかは、私もやや過剰感をもって見ている1人ですが、基礎的な国民の権利とともに分析が進められるべきトピックと感じています。アマゾンにも本書の評価は3つ星と芳しくないレビューが掲載されていますが、その中で、レビュアーは経済学は医療費抑制の切り札になるか、という問いに対して否定的な見方を示していて、私はそのレビュアーの見方には反対で、経済学は医療費抑制の切り札になるものの、経済学にそういう役割をさせるのは誤りであり、エコノミストとして経済学にそういう役割を担ってほしくない、と考えています。ボリュームが違いますので私も強く主張することはしませんが、まあ、左派エコノミストの私なんかとは違って、こういう人たちは、国民生活に直結した医療費などの社会保障や教育費は槍玉に上げても、防衛費の効率性を分析して削減のターゲットにすることは思い浮かびもしないんでしょうね、という気がします。

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次に、平川均・町田一兵・真家陽一・石川幸一[編著]『一帯一路の政治経済学』(文眞堂) です。編著者は、私の直感では亜細亜大学系の地域研究者ではないかという気がします。習近平主席をはじめとする中国首脳部が推進する「一帯一路」=Belt and Road Initiative (BRI)政策に関して、そのファイナンス面を担当するアジアインフラ開発銀行(AIIB)も合わせて、いろんなファクトを集めるとともに、中国の意図や経済的な意味合い、さらに、アジア・アフリカをはじめとして、欧州や日米などの先進国の対応などに関する情報をコンパイルしたリポートです。特に、アナリティカルに定量分析をしているわけではなく、基本的に、ファクトを寄せ集めているだけながら、我が国は対米従属下で米国に追従して一帯一路にもAIIBにも距離を置いていますので、それなりに貴重な情報が本書では集積されています。基本的なラインについては、漠然と私も理解しているように、元安という価格面での対外競争力の維持のために、外為市場に為替介入しまくって元をドルを買っていますので、ドル資金を豊富に保有しており、それを原資にした中国から西に向かう海路=一帯と陸路=一路の整備なわけで、文字通りの物流のための交通インフラ整備とともに、政治外交的な意図もあると本書では指摘しています。すなわち、ひとつは、特にアフリカ圏で天然資源取得とともに、外交面で台湾支持派の切り崩し、というか、台湾から中国へへの転換を目指した動きです。もうひとつは、その昔は日米の加わったTPPに対抗して中国主導の経済研の構想です。ただ、後者についてはトランプ米国大統領というとんでもないジョーカーが出現し、事態は別の様相を呈し始めているのは周知の事実だろうと思います。ただ、これだけでは済まず、中国が鉄鋼などで大きな過剰生産能力を持っていることも周知の通りであり、外為市場介入した結果のドル資金をインフラ整備として一帯一路諸国にAIIBなどを通じて融資するとともに、中国製品の販売先として確保する、という戦略にもつながっています。ですから、本書でも指摘されている通り、返済を考慮しない過剰な貸し付けが実行されたり、あるいは、返済がデフォルトした上で港湾利権を分捕ったりしている例もあるようです。繰り返しになりますが、解析的に定量分析などをしているわけではなく、一帯一路のプロジェクトなどの情報をコンパクトに取りまとめている一方で、惜しむらくは、昨年2018年年央少し前くらいからの米中貿易摩擦から以降の情報は収録されていません。中国にとって他国は輸出先として、その限りで重要なだけで、世界的な自由貿易体制などはどうでもいいと考えているに違いない、その意味では、米国トランプ政権も同じ、と私は見なしているんですが、やっぱり、米国が中国製品の輸出先として重要であった、という事実を改めて突き付けられた現時点で、一帯一路やAIIBからの融資について、中国がどう考えているのか、やや謎です。

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次に、オマール・アボッシュ & ポール・ヌーンズ & ラリー・ダウンズに『ピボット・ストラテジー』(東洋経済) です。著者3人は、大手コンサルタント会社であるアクセンチュアの高級幹部です。英語の原題は Pivot to the Future であり、2019年の出版です。ということで、「ピボット」といえば、私なんぞの経営の門外漢には、むしろ、オバマ政権における外交の軸足設定、すなわち、大西洋から太平洋へ、同じことながら、欧州からアジアへの軸足設定の変更を思い出させるんですが、本書ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代において経営の中心を変更するという意味で使われています。何と、自社アクセンチュアをはじめ、ウォルマートやマイクロソフト、コムキャスト、ペプシコなど世界的な大企業におけるピボットの事例を豊富に紹介しています。当たり前ですが、ひとつの商品やサービスには、いわゆる、プロダクト・サイクルがあり、売れる時期もあれば盛りを過ぎることもあるわけで、多くの製品・サービスは時代とともに消え去ることも不思議ではありません。馬車が自動車に代替されるたり、メインフレームのコンピュータがサーバとPCに置き換わったりするわけで、長期に渡って同じ製品やサービスを供給し続けるのではなく、その軸足を変更する必要があります。それを第1部で「潜在的収益価値を解放する」と表現し、私のいつもの主張とは異なり、マネジメントの経営書にしてはめずらしく、失敗例をいっぱい並べたてています。第2部では「賢明なピボット」として、イノベーションのピボットを集中・制御・志向の3つのコンセプトから解き明かそうと試みています。そして、経済学的にいえば、全要素生産性であらわされるイノベーションのほかの2つの生産関数の生産要素、すなわち、資本=財務と労働=人材の観点からピボット、というか、ピボットのためのイノベーションをサポートする方策を探っています。第2部では第1部と違って、失敗例はほとんどなく、成功例のオンパレードですので、私のいつもの経営書に対する批判、すなわち、成功例の裏側に累々たる失敗例があるのではないか、という疑問がもう一度頭をもたげないでもないんですが、まあコンサルタントによる経営指南書とはこういうものだと考えるほかありません。最初に観点に戻りますが、製品・サービスの有限のプロダクト・サイクルに対して、それを生み出す企業というのは going-concern なわけですので、イノベーションあるいはイミテーションなどを基にした新たな製品・サービスの供給を始めないと継続性に欠けると判断されかねません。一部の公営企業などはそれでいいと私は考えないでもないんですが、民間部門では、当然ながら、大企業ほど経済社会的な影響が大きいわけですので、それなりの生き残り策を必要とするんだろうというくらいは理解します。ただ、理解できなかったのは、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代における経営の軸足に関するピボット戦略なのかどうか、ありていにいえば、DXの時代でなくても有限のプロダクト・サイクルと going-concern の企業の関係はこうなんではないか、という気がしないでもありませんでした。

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次に、ペトリ・レッパネン & ラリ・サロマー『世界からコーヒーがなくなるまえに』(青土社) です。著者は、ノンフィクション・ライターとコーヒー業界に長いコンサルタントです。フィンランド語の原題は Kahvivallankumous であり、「コーヒー革命」という意味だそうで、2018年の出版です。ということで、私はコーヒーが好きです。オフィスにはコーヒーメーカーがあり、平日すべてではありませんが、お勤めのある日には2~3杯は飲んでいる気がします。しかし、本書の著者はコーヒーが世界からなくなる可能性も含めてコーヒーに関する「革命」あるいは大変革を議論しています。というのも、本書ではフィンランドが世界1のコーヒー消費国であるとされており、実は私の認識では1人当たりコーヒー消費量のトップはルクセンブルクだと思うんですが、確かに、フィンランドに限らず、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、などはトップ10に名を連ねているようにお記憶しています。そのコーヒー消費大国からコーヒーの将来を考える本であり、著者によれば、大量消費と気候変動のせいで、私たちが今までのようにコーヒーを飲める日は終わりを迎えつつある、ということになります。ですから、コーヒーを次世代にも残すために私たちは何をすべきなのか、あるいは、環境に配慮した良心的なコーヒーの生産と消費は可能なのか、といったテーマで議論を展開しています。まず、現在のおーひーの普及状況はサードウェーブとして、消費量拡大のファーストウェーブ、カフェラテなどのアレンジ・コーヒーが普及して多様なの見方が普及したセカンドウェーブから、原料としてのコーヒーに注目し、栽培された地域、コーヒー豆の収穫方法、そして焙煎のもたらす味への影響といった様々な点に注意を払う、という趣旨で、ワインなどと同じ飲み方に進化してきている点を指摘しています。しかし、30年後の2050年やあるいは2080年にはコーヒーは栽培・収穫されなくなっている可能性も指摘されています。サステイナビリティの観点から本書では、まず、栽培サイドのサステイナビリティ、我が国で今はやっている表現からすれば、コーヒー農園における働き方改革のようなものを考え、さらに、需要サイド、すなわち、我々のコーヒーの飲み方まで議論を展開しています。私が知る範囲でも、南米ではコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みます。実は私もそうです。しかし、本書の著者は、質の低いコーヒーに砂糖とミルクを加えてごまかすような飲み方は推奨しませんし、熱すぎるコーヒーも味をごまかそうとする意図がある可能性を指摘します。人間は体温と同じくらいのものがもっとも味を識別できると主張し、キンキンに冷えたビールも低品質のものをごまかしている可能性があるといいます。そういった、栽培サイドと飲用サイドの両方からコーヒーを大切に考え、サステイナビリティに配慮したコーヒーの栽培と飲用を本書では論じています。私は熱いコーヒーに砂糖とミルクを大量にぶち込んで飲む方であり、こういった分野に決して詳しくありませんが、コーヒーに限らず、多くの農産物やあるいは漁業などにも同じ議論が適用できる可能性があるんではないか、という気がします。

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次に、衣川仁『神仏と中世人』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、徳島大学の歴史の研究者です。古典古代を過ぎて、平安後期から鎌倉期にかけての中世の宗教についての論考なんですが、この時期は古典古代の密教に加えて、いわゆる新興仏教、我が家が帰依している浄土真宗や日蓮宗などが起こり、さらに、禅宗が我が国にもたらされている時期となるものの、そういった新興仏教の観点は本書にはほとんどありません、浄土真宗信者の門徒としてやや不満の残るところです。といはいうものの、本書の冒頭では宗教に関して「富と寿」を求める中世日本人から説き起こし、かなり現世的な利益を求める人々の姿を描き出しています。まあ、現代から考えても、貴族や豪族などの当時の経済社会の頂点に近いところにいて、大きな格差社会の中で衣食住に困らない階層の人々は、現世的な利益よりも、むしろ、来世への望み、すなわち、輪廻転生を解脱して極楽浄土への生まれ変わりを願ったのかもしれませんが、明日をも知れぬ命のはかなさと背中合わせの一般大衆としては、来世のことよりも現世的な利益を求める心情は大いに理解できるところです。ただ、私なんぞは現世の利益は自分の努力である程度は何とかなる可能性がある一方で、来世の生まれ変わりだけは宗教に縋る必要あると考えるんですが、まあ、現代のように灯りもなくて暗い夜には魑魅魍魎が跋扈して、いろいろと怖い思いがあったんだろうというのは理解できます。ということで、繰り返しになりますが、現世的な利益のうち、本書で冒頭取り上げられるのは「富と寿」であり、前者の「富」は宗教とともにある程度努力や自己責任で何とかすることも視野に入ります。ただ、後者の「寿」は健康や生死観なんですが、コチラの方は宗教も大いに力ありそうな気がします。というのは、「病は気から」という言葉があるように、肉体的な条件とともに、精神的なパワーで病気を治癒させる可能性は決して小さくないからです。O. ヘンリーの「最後の一葉」なわけです。その点で、近代医学の観点から、その昔の加持祈祷なんて効果ないと見なされがちですが、私は決してそうでもなかろうと受け止めています。また、本書でも指摘されている通り、ホンネとタテマエがあって、農業社会の中で、農業生産が大きなアウトプットを占め、大部分の一般大衆が農民であったころ、天候に左右されがちな農業のため、雨乞いの儀式なんぞはそれなりに重要ながら、為政者も一般大衆も宗教が転校を左右できるとは常識的に考えないとはいえ、為政者としては農業振興のために何らかの宗教的な儀式を執り行うポーズを見せる必要あった、というのも理解できるところです。それにしても、私が子供のころには「バチが当たる」という宗教的表現はそれなりの重みあった一方で、今では耳にすることもないような気がします。

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最後に、山形浩生・安田洋祐[監修]『テクノロジー見るだけノート』(宝島社) です。監修者は、ご存じ、野村総研のコンサルタントで翻訳者と大阪大学の経済学の研究者です。最新テクノロジー、特にAIやIoTなどのICT分野の技術を中心にして、ゲノム解析などのバイオも含め、9つのカテゴリーに分けて、最近の流れを解説しています。その9分野とは、宇宙ビジネス、AIとビッグデータ、モビリティ、テクノロジーと暮らし、戦争とテクノロジー、フードテック、医療技術、人体拡張技術、小売りと製造業のテクノロジー、となっています。文章は平易で読みやすく、イラストもあっさりしているのでスラスラと読めて、各分野のテクノロジーの概要を知ることができます。まあ、テレビや新聞などのメディアでも広く報じられ、それなりの専門書も決して少なくない分野ばかりですから、それなりの教養あるビジネスパーソンであれば、すでに知っている部分も決して少なくないような気がしますが、私のようなテクノロジーが専門外のエコノミストにとっては、平易なイラストで技術をわかりやすく解説してくれるのは助かります。ただ、気を付けなければならないのは、テクノロジーに対して倫理中立的で、あくまで技術面の解説に徹している点です。すなわち、先ほどの9分野でも5番目には何気に「戦争とテクノロジー」が入っていますし、6番目の「フードテック」ではさすがに、遺伝子組み換え作物(GMO)に関する注意書きのような短文が見かけられますが、続く「医療技術」や「人体拡張技術」でのデザイナーベビーやほかの倫理的な議論については触れられてもいません。AIやビッグデータ、その他のICT技術に関してはテクノロジーの倫理中立性を仮定しても構わなさそうな気がしますが、人間はいうに及ばず、植物を含む生物の遺伝子レベルの操作に関するテクノロジーについては倫理的な側面についても、それなりの注意を払うべきではないか、と私は考えています。食品について、植物の天然モノはほぼなくなり、動物食材の天然モノも極めて少なくなって、栽培された植物、あるいは、飼育された動物の食材が多くを占めていますが、それだけに、天然モノの価値も忘れられるべきではありませんし、ヒトはいうまでもなく、植物を含めて生物を遺伝子レベルから操作することの危険性や倫理的な面の議論もバランスよく紹介すべき、と私は考えます。地球環境への配慮や生物多様性の議論も必要ですし、技術的に出来ることは、経済社会的に生産増につながり、人間の効用を増加させるのであれば、やるべき、もしくは、やって構わない、ということにはならないような気がするのは私だけでしょうか?
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2019年12月14日 (土) 11:30:00

今週の読書は経済書と歴史書を計7冊!!!

今週の読書は、経済書と歴史書、その中間の経済史の本など、以下の通りの計7冊です。今週の読書のうちでは、特に、中身はともかく、『ナチス破壊の経済』がとてもボリューム豊かでした。私は経済史が大学時代の専門でしたので、それなりにていねいに読んだつもりですが、読書に時間をかける人の場合、上下巻2冊で1週間では読み切れない可能性もあります。

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まず、小林大州介『スマートフォンは誰を豊かにしたのか』(現代書館) です。著者は、北海道大学の研究者であり、シュンペーターの学説史がご専門で、本書の副題も「シュンペーター『経済発展の理論』を読み直す」となっていて、実は、スマートフォンを題材にしたシュンペーター的なイノベーションの解説となっています。そして、タイトルの問いに対する回答は本書の最後にあって、あまりにもありきたりですが、関係者すべてを豊かにした、と結論されています。私は少し前にシュンペーターの『経済発展の理論』を読んだ記憶がありますが、本書でも指摘しているように、極めて難解です。もちろん、私も読解力の問題もあるんでしょうが、何がいいたいのか、半分も理解できなかった気がしますので、こういった入門書は必要かもしれません。ということで、シュンペーター的なイノベーションは、基本的に経済動学的に理解されるべきと私は考えているんですが、企業経営においても極めて重視されていることは広く知られている通りです。ですから、私がイノベーションを経済動学的に理解するというのは、逆に、企業経営を知らない公務員を長らく経験してきたなのかもしれない、と考えないでもありません。シュンペーターは、本書でも指摘するように、イノベーションに基づく開発者の独占的な利益を容認し、企業家がその利潤を目指してイノベーションを競い合う経済社会を想定していたんだろうと私は考えていますが、もちろん、テクノロジー的なイノベーションだけでなく経営管理や経営プロパーのイノベーションもある一方で、テクノロジー的なイノベーションが枯渇しつつあるんではないか、特に、1970年代を境にして低いところにあって入手しやすい果実は取り尽くしたんではないか、という考えがいわゆる長期停滞論のひとつの根拠になっていることも事実です。そして、本書の第4章でも注目されているように、スマートフォンが格差拡大につながるかどうか、あるいは、イノベーション一般が格差にどのような影響を及ぼすかも現在の経済社会を考えれば、ひとつの焦点となる可能性もあります。本書でも、シュンペーターはケインズとともに、マルクスとも対比されており、イノベーションが格差拡大や経済社会の不安定性につながりかねない恐れも指摘しています。末期のシュンペーターは、かなり確度高く資本主義から社会主義に移行する可能性を認識していたのは事実ではないでしょうか。ただ、現実にはソ連が崩壊したわけですし、マルクス主義的な理論に基づいて、発達した資本主義国である欧米や日本などが社会主義に移行する兆しすら見られないもの、さらに確たる事実です。やや異なる観点ながら、クズネッツに批判されたよいう「イノベーションの群生」についても本書では議論を回避しているように見受けられます。総合的に考えて、場合によっては高校生から大学新入生くらいに対するシュンペーター的なイノベーションの解説書としてはいいような気もしますが、ビジネスパーソン向けかどうかはやや疑問で、読者のレベルによっては少し物足りない点があるような気もします。

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次に、アダム・トゥーズ『ナチス破壊の経済』上下(みすず書房) です。著者は、英国出身で現在は米国プリンストン大学の歴史学の研究者です。本書は、副題で「1923-1945」となっているように、シュトレーゼマン政権下の1923年、すなわち、ナチスが政権に就く10年前から終戦までの四半世紀近い期間を対象としたドイツの戦時経済史となっています。すなあち、経済をナチスのヒトラー政権の中心に据えてドイツ紙を見直す、というものです。実は、私は出版社の宣伝文句にひかれて、ナチスの経済政策はケインズ政策を先取りしたものであり、アウトバーンなどのインフラ建設をはじめとした財政支出による完全雇用を達成した、とするのは誤り、といった趣旨の宣伝文句だったような気がするんですが、そこまであからさまではありません。ただ、ケインズ政策による完全雇用の達成とはかけ離れて、ドイツ国民のみならず、ユダヤ人はいうに及ばず、占領下のポーランド人やろ愛亜人などの捕虜も含めて、劣悪な労働環境の下で軍需生産に強制的に就労させ、また、英国と比較しても女性労働の徴用が大きかったり、石油の資源確保が不足していたりといったナチスの戦時経済の実態を明らかにしています。そして、結論としては、我が国戦時経済の分析でもよく見かけるので、かなりありきたりな気もしますが、短期に戦争を終結していればドイツに勝機あったかもしれないものの、長期戦となって圧倒的な工業生産力を有する米国の参戦により、経済的生産力の基礎から考えた戦争の帰趨は明らかであった、ということになります。日本の場合も同じで、本書のスコープ外でしょうが、大和魂や何のといっても、戦争遂行能力の基礎は工業力である、ということになります。逆にいえば、最近の中国製造業の興隆に至るまでの時期、例えば、1980年くらいまでは基礎的な工業生産力から考えれば、米国サイドが常に戦勝国となる、ということになります。とすれば、1960~70年代のベトナム戦争の結果はなぜなのか、という疑問も生じますが、これまた、本書のスコープを大きく外れた問いだ、ということになります。冒頭にも記しましたが、本書は読書にかなりの時間を要します。定評ある山形浩生さんの翻訳ですから訳は悪くないんでしょうが、小さい字でページ数のボリュームもあります。それなりの覚悟をもって読み始める必要あると考えた方がよさそうです。

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次に、出川光『クラウドファンディングストーリーズ』(青幻舎) です。著者は、クラウドファンディングに関するディレクターを務めているそうで、リクルートコミュニケーションズを経て、クラウドファンディングのCAMPFIREの創設期にかかわっています。クラウドファンディングとは、いわゆるシェアリング・エコノミーの5つのカテゴリーの中のひとつで、ほかのカテゴリーではAirbnbなどが代表的で民泊と称されるスペースのシェア、また、日本では事業展開できていないものの世界的にはUberが有名なライド・シェア、逆に、日本でしか見られないフリマアプリのメルカリなどのモノのシェア、そして、家事やベビーシッターなどのスキルのシェア、となります。一応、官庁エコノミストとしての私の最後の研究成果はちょうど1年前の昨年2018年12月のシェアリング・エコノミーの研究だったりしますので、それなりに詳しいところです。そして、本書でも明らかにされているように、クラウドファンディングには3種類あり、寄付型と投資型と購入型で、本書では最後の購入型のみを取り上げています。おカネを集めて、何かを作ったりイベントを開催したりして、ファンディングに応じた出資者に対して、その制作物を贈ったり、イベントに招待したり、というリターンがあるわけです。もちろん、資本主義社会ですので、出資額に応じた差がつきます。これを格差というか合理的な違いと捉えるかは、まあ、それぞれかもしれませんが、出資した金額により得られるものが違うというのは自然な気もします。本書では成功した10のケースを取り上げていますが、私の知る限り、ちゃんとしたディレクターがついて目利きの力量があれば、購入型のクラウドファンディングはかなりの程度の成功確率があるんではないか、という気がします。そして、本書では株式会社の創設のような純粋な経済活動ではなく、クラウドファンディングはストーリーを必要とし、強化を基にしたつながりを生むものである、かのように描き出されています。私は半分くらいは希望的観測をもって賛同しますが、半分は懐疑的です。繰り返しになりますが、資本主義経済の下で出資額に応じたリターンがあり、そして、そのリターン品はそのうちにメルカリに出品されたりするんではないでしょうか。それなりに実体を知る者からすれば半信半疑で、やや眉に唾を付けて読むべき本かも知れません。また、どこかの新聞の書評でも見かけましたが、成功例ばかりで取りまとめてあり、それはそれで成功確率高いと知る私なりに理解するものの、失敗例もあれば深みが出たのは確かでしょう。

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次に、リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』(岩波書店) です。著者は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の歴史研究者の大先生です。私は2年ほど前に同じ岩波書店のエリオット『歴史ができるまで』を読みましたが、同じように、グローバル・ヒストリーを視野に入れつつ、歴史的な思考についてのリベラルな歴史学に関するエッセイがつづられています。基本的には、排外的あるいは歴史修正的な傾向を強く戒めています。本書冒頭で取り上げられているのは、ポストトゥルースの時代におけるフェイクニュースの類いであり、例えば、トランプ米国大統領がオバマ前米国大統領の出生に関する疑問、にとどまらず、明確な虚偽の情報を流している、といったものです。もちろん、近代史でその最たるものはナチスによるユダヤ人大量虐殺です。600万人という数字を過大だと指摘したり、あるいは、ホロコーストそのものを否定したりする論調は後を絶ちません。我が国の例でいえば、従軍慰安婦であったり、南京大虐殺であったりするのかもしれません。本書で著者は、近代歴史学の祖ともいえるランケに立ち返って、こういった歴史に対する修正というか、ハッキリいえば、ウソがまかり通るよになったのは、一面、歴史が民主化したことも寄与していると指摘します。エリートだけに許されていた歴史学が広く開放されたからだ、といわれればそうかもしれませんが、かつては一部の権力者や知識人から一般大衆に提示されていた歴史が、ある意味で「民主化」され、誰でもが語れるようになると、特にネット上などで改変や修正の憂き目にあうというのも国民の民度を象徴しているような気がします。逆に、そういった歴史の改編や修正を許さず正しい歴史を学ぶ機会を提供することこそが必要です。なぜ歴史を学ぶかといえば、現在ないし将来の問題を解決するためであると私は考えています。もちろん、ランケのいうように、「未来の世代に教訓を垂れるために過去を断罪する目的で歴史を書いているわけではない」というのは判り切っているんですが、それでも、現在の目の前にある問題を解決するヒントを求めて歴史を振り返るんではないでしょうか。視点を変えると、本書の後半は歴史とマイノリティというテーマが設定されています。著者自身が女性であることからジェンダー史なども視野に入れつつ、東洋と西洋、男性と女性、黒人と白人などのうちの歴史におけるマイノリティの分析にも心を砕いています。また、最後の訳者のあとがきにもあるように、かつては歴史学会で大きな勢力を誇ったフランス的なアナール派の歴史観、というか、歴史分析がかなり後景に退き、国としての歴史の浅い米国の歴史学が注目を集め出しているのも事実です。自然科学や社会科学で、例えば、ノーベル賞受賞者で大きな比重を占める米国の学術界ながら、歴史については欧州の後塵を配してきた感あるものの、異常なくらいのナショナリズムやポピュリズムにまったく意味不明の根拠を置いて恣意的な歴史の解釈や意図的な過去の忘却を目指そうという勢力に対し、リベラルな米国歴史学のあり方を垣間見たような気もします。

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次に、佐伯智広『皇位継承の中世史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、帝京大学の歴史研究者です。本書は、まさに、タイトル通りであり、特に、私なんかの専門外の歴史好きでも知っている中世における天皇継承のトピックとして、持明院統と大覚寺統のいわゆる両統迭立の問題を解き明かそうと試みています。私なんぞは、単純に鎌倉幕府の介入により、持明院統の後深草天皇と大覚寺統の亀山天皇に分かれて、それが室町初期の南北朝の源流となった、くらいの事実関係に関する知識しかないんわけで、セクションのタイトルに「元寇と両統迭立」なんてあったりすると、少しびっくりしたんですが、元寇はさすがに関係ない、との結論が示されています。ただ、本書を読んでもまだ私は得心行かず、両統迭立の結果を招いた原因も、また、北朝、というか、足利氏の幕府側が吉野の南朝を攻め切れなかった原因も、最後に、南朝が約束は反故にされると、後知恵ながら判り切っていたにもかかわらず、北朝に三種の神器という形で正当性を譲った理由も、イマイチよく判りませんでした。私の読解力の問題もありますが、事実関係を淡々と積み重ねていくだけでは歴史の因果関係は明確にならないことを実感しました。加えて、両統迭立から南北朝の分裂、さらに斎藤いるに至る過程が、それほど、というか、私が考える穂と単純ではないのだろうと想像しています。実に、マルクス主義的な唯物史観からすれば、生産力が伸びて生産関係のくびきを破壊するという、かなり一直線な西洋的な史観ですので、そこまで単純に適用できる歴史的な事象というのは、まさに、大雑把な歴史の流れ、というか、もっと超長期に渡る歴史の方向性であって、唯物史観は、個別の歴史的な事象の解明に役立つ手術用のメスではなく、大きな木を切り倒す斧や鉈なのだ、と実感した次第です。また、皇位をめぐる室町期の動向については、3代将軍足利義満による皇位簒奪について今谷明などが議論していますが、本書ではやんわりと否定されています。中世的ないわゆる「治天の君」である上皇による院政などに関しても、本書では豊富に実例を上げて論じており、私のような歴史の好きな人間には知的好奇心を満たしてくれるいい入門書であるという気がします。

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最後に、今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、岡山大学の国史の研究者です。本書では、正倉院御物に残された現在の岐阜県の襲来の戸籍から、古典古代の律令制の奈良時代の家族像を解明しようと試みています。戸籍は、ある意味では、権力者の側から税を取り立てる単位として取りまとめられたものですから、本書でも明らかにされているように、現在の戸籍のように氏名や性別・生年だけでなく、古典古代においては租庸調の税を勘案して、身体的な特徴、例えば、障害の有無や程度などの課役負担の参考となる個人情報も記されています。まあ、現代的な個人情報保護なんて、何ら念頭にない権力者サイドの記録ですから当然かもしれません。こういった古典古代における戸籍に関する基礎的な知識を明らかにした後、定量的な歴史学が展開され、まず、著者は人口の推計を試みています。そもそも、本書でも指摘しているように、奈良時代とはいえ、日本という国の領域がビミョーに違っているわけで、時の大和政権の支配下にある地域が100年単位で見れば決して同じでないわけですし、加えて、口分田の配分で差別され、それゆえに税負担も異なる身分があり、良民と賤民の違いもあるわけですから、現代的な感覚で人口を見るわけにもいかず、加えて、それ相応の幅をもって見る必要あるものの、8世紀前半の我が国の人口はおよそ450万人とか、9世紀初頭の延暦年間の総人口は540~590万人、あるいは、奈良時代の初めから平安初期のおよそ100年間で100万人の人口増加があった、などの結果が示されています。さらに、出生時の平均余命、いわゆる平均寿命は28歳余りで30歳を下回っていたとか、合計特殊出生率は6.5人くらいとか、人口にまつわるトピックがいくつか推計方法とともに示されています。さらに、タイトル通りに、古典古代における婚姻、通常、日本では妻問い婚の形式が注目されますが、それらと家父長制との関係、また、再婚が決して稀ではなかった子人制度についても戸籍記録から明らかにしています。自然災害との関係では、飢饉と疫病の流行、さらに、飢饉の際に山に入って職を得る、などなど、興味深い古典古代の戸籍に関する話題がいろいろと取り上げられています。
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2019年12月08日 (日) 15:00:00

先週の読書はいろいろ読んで計6冊!!!

先週の読書は、いろいろ読みました。昨日の土曜日に米国雇用統計が割り込んで、少し多めの印象かもしれません。今週の読書の本もおおむね借りてきており、いつも通りの数冊に上る予定です。また、今週ではありませんが、そろそろ、来週かさ来週あたりにジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』上下の予約が回って来そうです。

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まず、曾暁霞『日本における近代経済倫理の形成』(作品社) です。著者は、中国の研究者です。特に、邦訳者のクレジットなどがないので、著者が日本語で書いたのではなかろうかと私は想像しています。とても外国人の日本語とは見受けられませんでした。ということで、西欧におけるウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のプロテスタンティズムに当たる近代資本主義的な倫理を我が国に求めた研究成果です。そして、結論としては渋沢栄一が上げられ、まあ、当然というか、平凡極まりない結果なんですが、その方面での渋沢の代表作である『論語と算盤』を持ち出して、江戸期の儒者2人にその源流を見出しています。これも、平凡極まりない結論なんですが、荻生徂徠と海保青陵です。どこまで肯んずるかは個人的な見方も関係するとは思いますが、大量の書物を残した2人ですので、著者が見出したような個人的な利得を許容するようなテキストも残っているんだろうと思います。まあ、有り体にいえば、ほかの、場合によっては儒学者でない文筆家の著書からも、同じような表現は見つかる可能性は高そうな気もします。近松門左衛門や井原西鶴なんて、とても確率が高そうな気がします。ですから、ここは、荻生徂徠と海保青陵が渋沢栄一に先立つ江戸期の近代的経済倫理の源流と同定するのは疑問が残ります。ただ、本書がすぐれている点もあります。それは、荻生徂徠と海保青陵が江戸期において、明治以降の近代的経済倫理の源流となった経済的な背景をキチンと押さえている点です。単に、個人的な資質やあるいは育った家の特性などから導き出しているわけではなく、江戸期の経済動向を把握した上で荻生徂徠や海保青陵の倫理的思想の意味を考えようとしています。中国の研究者ですから当然かも知れませんが、マルクス主義的な上部構造と下部構造を意識しているのかもしれません。ただ、経済の専門家ではなさそうに感じた点が2点あり、第1に江戸期の支配階層であった武士が米価に経済的に依存しているのと、江戸期の「士農工商」は実は現在でもいくぶん姿を変えて残っていることです。米価の動向に武士が依存していたのは当然です。俸給を武士は米でもらうわけですから、極端にいえば、米が割高で高く売れて、相対価格として米以外が安ければ、武士の生活水準は上がります。もうひとつの「士農工商」については、本書で指摘するように、渋沢は「官尊民卑」を強烈に否定ないし批判したわけですが、それだけ、明治期には広く残存していたわけで、今でも見受けられるのは異論ないものと考えます。ですから、今でもお役人の官が上に来て、農はかなりシェアが小さくなったので脇に置くとしても、工商の順は今でも維持されている場合が少なくありません。例えば、我が国を代表する経済団体のひとつである経団連の会長は製造業からしか選出されず、銀行や保険、もちろん、小売を始めとするサービス業などの非製造業から会長は出ません。ただ、これは西洋でも同じことであり、キリスト教文化の下で利子が否定されたことから派生して、商業がいくぶんなりとも地位を貶められているのは事実ではなかろうかという気がします。ですから、本書では、米によって年貢が収められる税制から明治期に地租という金納制が開始された点を持って、近代資本主義の幕開けとしていますが、実は、講座派の議論を待つまでもなく明治期の日本には広く半封建的な残滓が見られ、さらに現在に至るまで、すべてが払拭された独立した資本主義経済かどうかは疑わしい、と考えるのもひとつの見識であろうと私は受け止めています。

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次に、アニー・ローリー『みんなにお金を配ったら』(みすず書房) です。著者は、アトランティック誌の寄稿編集者を主としてこなしているジャーナリストであり、本書の英語の原題は Give People Money で、2018年の出版です。タイトルから容易に想像されるように、ユニバーサル・ベーシックインカム (UBI=Universal Basic Income) についてのリポートです。全10章のうち終章をコンクルージョンとして、第1章から第9章までが3章ずつのグループをなしており、最初の3章がUBIの原理原則や理論的な背景などを取り上げ雇用との関係を解明を試みており、次の3章では貧困削減という切り口からUBIを論じ、最後の第3部では社会的包摂という観点からUBIの導入につき議論しています。基本的に、UBI導入に向けた賛成論を展開しているわけですが、統計的なエコノミストの分析も豊富に当たっていて、もちろん、ジャーナリストらしい現地取材も十分で、説得力ある議論を展開しています。UBIについては、まず、日米欧の先進国経済で観察されるように、雇用者の賃金がかつてほど上がらなくなった、という事実があります。スキル偏向的な技術進歩が進み、いわゆるスーパースター経済が成立した技術的背景がある一方で、スキルが2山分布のように高スキルと低スキルに分裂し、低スキル雇用がますます増加しています。同時に、低賃金だけからというわけでもなく、低開発国におけるものも含めて貧困問題をUBIが解決の一案となることも確かです。加えて、UBIで最低限の生活が保証されれば、芸術などのハイカルだけでなくボランティア活動に時間的な余裕ができるのも事実です。すなわち、エコノミストの目から見て、現在の市場に基づく雇用の配分は大きく失敗しているわけで、社会的に必要な分野への人間労働の配分が賃金という価格シグナルに従ってなされると、まったく最適化されない、ということです。ですから、私はUBIを強力に支持します。ただ、その支持するという前提で、疑問をいくつか上げると以下のとおりです。すなわち、本書の著者などは、UBIによる勤労意欲の低下を取り上げる場合が多いんですが、私は逆で、雇用主の賃金支払へのインセンティブへの影響を考えるべきです。要するに、UBIの金額だけ賃金カットされれば、何もなりません。現在までのUBIの社会的実験では、地域的に切り離されたりして、あるいは、ランダム化比較試験(RCT=Randomized Controlled Trial)が実行されたりする場合には、賃金差は生じないでしょうが、全国一律でUBIが導入されれば、雇用主の方で賃下げのインセンティブが出るのではないかと考えないでもありません。UBIで人々が働かなくなるのではなく、賃金を支払わなくなるんではないか、という恐れはいかがなもんでしょうか。次に、話題の現代貨幣理論(MMT)との関係で、UBI導入には財源が必要です。インフレになった折にUBI財源はカットできないからです。特に、最初の賃金への影響については、まだ、正面から取り上げた議論に、私は不勉強にして接していませんので、ぜひ考えを深めたいと思います。

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次に、ダレン・マクガーヴェイ『ポバティー・サファリ』(集英社) です。著者は、小説家・ノンフィクションライターです。英語の原題は Poverty Safari であり、2007年の出版です。ということで、「サファリ」とは動物を自然に近い形で見学するためのアミューズメントパークであることはいうまでもありません。要するに、「貧困層を見学する」ということなのでしょう。本書では、著者の実体験から、アルコールや薬物の乱用、犯罪歴、多額の負債、破壊的・暴力的な行為、子供のころ保護者からうけた虐待やネグレクト、教育の不足、若年からの喫煙習慣、総選挙での投票経験の欠如、などなど貧困層、特にイングランドでCHAV、本書の著者のホームグラウンドであるスコットランドでNEDと呼ばれる暴力的な傾向のある貧困層の特徴がよく出ている気がします。なお、約2年前の2017年12月16日付けの読書感想文でオーウェン・ジョーンズ『チャヴ 弱者を敵視する社会』を取り上げています。父親が犯罪で服役する中、母親はアルコールやドラッグに溺れて子供をかまわず、子供は学校にも行かずに小さいころから喫煙して暴力行為を繰り返す、といった印象です。なかなか、日本の、あるいは、古典的な貧困とは様相が違っていて、単純な解決方法などないように思えてなりません。左派的に行政的に財政リソースを配分しても酒代に消えるだけかもしれませんし、右派的な自己責任論を展開しても何にもなりません。私はある程度長期戦を覚悟して教育から始めるしかないような気がします。これは、開発経済学の観点から途上国を見たときと同じ感想なので、なかなかに自信がないんですが、少なくとも「特効薬」的で短期に解決する政策手段は思いつきません。古典的な貧困であれば、それこそ、ベーシックインカムが有効かもしれませんし、そこまで進歩的な政策手段でなくても財政リソースをつぎ込めば何とかなるような気がします。でも、アルコールや薬物の乱用、さらには、英国ですからこの程度ですが、米国になれば銃の問題も生じるような暴力の問題もあります。何とも、根深い貧困問題ですが、何らかの解決方法はあると私は楽観視しています。でも、右派的に自己責任論で押し通すのは何の解決にもなりません。金銭的な裏付けを持って、さらに、ケースワーカーなどの優秀な人材を適切に配置し、子供達はしっかりと教育を受けられる環境に置き、様々なきめ細かい方策を地道に続けていくことにしか解決の道はないのかもしれません。著者のいうように、左派的に社会的問題であり、ネオリベラル的な政策の犠牲者というのも、一面ではそうなのかもしれませんが、社会的な責任とともに、ある程度は自己責任も併せて問題として取り上げる必要があるのかもしれません。エコノミストとして、いささか自信のない分野かもしれませんが、エコノミストこそもっとも力を発揮すべき分野である、と思わないでもありません。

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次に、ポール・モーランド『人口で語る世界史』(文藝春秋) です。著者は、英国出身であり、ロンドン大学気鋭の人口学者だそうです。英語の原題は The Humman Tide であり、2019年の出版です。ということで、マルクス主義的な上部構造と下部構造で経済原理主義的な論調はいくつか見て来ましたが、本書では人口動態原理主義が展開されています。でも、歴史の根本に置けるのは、確かに、経済か人口動態くらいかもしれません。人口が歴史を形作る場合、常に参照されるのはマルサスであり、本書では常識的に、マルサス主義は2度転回した、と結論しています。すなわち、科学技術の発展、本書では産業革命における生産力の大きな伸長をもって、マルサス的な食料生産の限界を超えたことが指摘され、さらに、それにもかかわらず、女性教育の普及や女性の労働市場への参加などから、生産面から支えられるだけの人口増加が見られないようになる、というか、むしろ逆に生産が増える一方で人口が減少に転ずる、という2度の転回を明らかにします。第1の転回は決して農業生産の増加ではなく、むしろ、工業生産の増加やそれに伴う交易の広がりにより、海外からの食料調達が可能になった、と描かれています。その後、英国人研究者ですので英国中心史観でもないのでしょうが、産業革命を真っ先に達成した英国、というか、イングランドから始まって、イングランド以外の英国諸国、大陸欧州、そして米国に視点を変えつつ人口を論じています。さらに視野を広げて、東欧からロシアを論じ、アジア、中南米、アフリカと議論を展開します。人口の増減については、本書冒頭でも指摘されていますが、出生率と死亡率、そして、移民などの人口移動で説明できますが、本書では明記していないものの、出生率の上昇により人口増加がもたらされると、人口構成は若くなり、逆に、死亡率が低下すると人口の中で高齢者の比率が上昇します。この人口構成について、本書では決して無視されているわけではありませんが、やや量的な人口の規模に重点を置くあまり少し軽視されているような気がしなくもありません。エコノミストにはそのあたりが銃と考えられます。すなわち、人口と生産のマルサスの罠を脱すれば、ある意味で、相乗効果があり、人口と生産が手を携えて車の両輪として増加を続ける、という局面があります。出生率が上昇するとともに、死亡率が低下します。日本の戦後の高度成長期などが典型といえます。そして、次の転回に従って、出生率が低下し始め、死亡率の低下も頭打ちとなります。極めて例外的な国を除いて、前者の出生率の低下が始まれば、もう一度出生率が上昇するケールはほぼありません。我が国人口の現状を見れば明らかです、おそらく、これは出生率を引き上げるおいうよりも、その現状を受け入れて対応する、というしかないのかもしれません。最後に、2019年出版の原書1年もたたずに翻訳したのは、たいへんな生産性の高さだという気もしますが、国名の邦訳がややひどい気がします。ひょっとしたら、原書で書き分けられていない気もしますが、USとアメリカ合衆国は大きな違いないと思うものの、イングランドはまだしも、ブリテンとグレート・ブリテンとUKはどう違うんでしょうか。訳者あとがきで、誇らしげに「イギリス」という国名は使わなかった、と邦訳者が自慢していますが、原作者に質問するなりして、もっとキチンと書き分けて欲しかった気がします。

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次に、将基面貴巳『愛国の構造』(岩波書店) です。著者は、オタゴ大学の研究者だそうですが、私は不勉強にしてオタゴ大学というのを知りませんでしたから、ネットで調べるとニュージーランドにあるそうです。本書でいう「愛国」とは、上の表紙画像に見えるように、英語のpatriotismです。最近、ネトウヨの本などを読んでいるんですが、その中では愛国というよりは、反日に対する嫌悪感が充満しているという印象があります。在日はもちろん、外国人は無条件で反日と認定されるようですし、日本人でもリベラルな方向性はあまり親日とは見なされないようです。その中で、反日と親日を分けるものとは少し異なる次元ながら、愛国を考えたのが本書です。ただ、言葉遊びではなく、国という場合、民族を主たる構成員と考えるnation、出身地の地理的な位置関係を重視するcontry、政府とほぼほぼ同じ意味で使われる国家などのstate、の少なくとも3つの概念があり、本書では丹念にひとつひとつ論を進めています。ただ、我が国でいう「国」については私は異論があり、我が国での「国」は統一国家としての日本ではなく、むしろ、その昔の人の表現かもしれませんが、「お国はどこですか」とか、もっと昔の「国持大名」などのように、関西でいえば、河内、摂津、丹波、丹後、大和、紀伊、といったその昔の大名の領域に近い概念ではなかろうかという気がします。もちろん、「国持大名」という表現があるように、大名のすべてが国を持っていたわけではありませんし、島津のように薩摩と大隅の2国を持っていた例もありますが、現在の都道府県よりももう少し細かい単位ではないか、という気がしないでもありません。米国も連邦制の国家であって、よく似た印象を私は持っています。少なくとも、ヤンキーの北部と貴族的な南部は大きく異なります。私は京都南部の小領主や旧貴族の荘園などが点在していた地域の出身ですから、余りそういった気分は理解できなかったのですが、10年ほど前に長崎大学に出向した際に、九州ではそういった「お国自慢」が幅広く言い伝えられており、逆に、自分の出身地についてなーバスである、という気もしました。それはともかく、本書では国家という政治共同体にアイデンティティの基礎を置くことの問題点、特に、国家による聖性の独占の問題をひも解こうと試みています。1890年に明治期の日本では「教育勅語」を明らかにし、このことが大きなターニングポイントであったと指摘しています。その後、天皇の神格化が進み、愛国心の名のもとに青年の命をムダに消耗する戦争へと投入していく、というのが歴史的な事実です。ですから、愛国を持ち出されると私なんぞは懐疑的なメガネを取り出して着用する場合が少なくなく、愛国を唱えるグループはそれだけで損をしている気もしますが、それでも教育現場に「愛国心教育」を持ち込もうという動きは跡を絶ちません。単なる無条件の自国礼賛に陥った愛国に代替するアイデンティティが必要だと私は考えていて、官庁エコノミスト経験者としてだけでなく、大学教員経験者としても、教育の重要性は十分認識しているつもりであり、エコノミストとしての専門性を生かして教育の現場に戻る道を模索しているところです。最後は、少しヘンな話になりました。ご容赦ください。

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最後に、橘玲『上級国民/下級国民』(小学館新書) です。著者は、作家・ノンフィクションライターといったところです。私は、たぶん、この著者の本を読むのは初めてです。本書は、結論からいえば、上級国民とは団塊の世代で高度成長期を満喫して正社員でがっぽり稼いだ既得権益者であり、下級国民はその犠牲になって正規雇用を得られなかったりした若者、ということなんだろうと思います。私自身が団塊の世代の10年後の生まれで、団塊の世代の恵まれた状態をつぶさに見てきた経験があります。とても卑近な例ですが、国家公務員でも団塊の世代までは問題なく「天下り」で再就職したのに対して、私なんぞはものすごく苦労させられているわけです。それを、能力の問題とか、自己責任とか、そういったものにすり替える議論がまかり通っているわけで、正社員になれない若者の能力不足とか、ましてや、自己責任なんてとんでもない、という主張を私もこのブログで繰り返していたりするわけです。経済学的な実証研究の成果として、たとえ正社員であっても、景気後退期に就職した世代は生涯賃金で損をしていることは明らかな事実として確立しており、しかも、米国の場合では就職してから数年でこの賃金格差が縮小する一方で、日本の場合はかなり長期に影響が残る、というのもスタイライズされた事実です。ですから、私は決して国民相互間の分断を煽るつもりはありませんが、引退世代と現役世代の格差は明確に存在し、しかも、それが投票行動に基づいていることから、政治レベルでは解消することが困難である、という事実は十分に認識される必要があると思っています。本書の内容はやや誇張されている部分もあるように見受けますし、一部にあるいは不正確な内容も含まれているかもしれませんが、大筋では恵まれた団塊の世代とその犠牲になった就職氷河期世代、という構図は大きくは間違っていないんではないか、と考えています。それだkらこそ、政府でも就職氷河期世代対策を今さらのように打ち出したりしているわけです。繰り返しになりますが、本書の内容をすべて肯定するつもりもありませんが、世代間格差というものは現に存在し、それは解消されるべきであり、自己責任や能力の問題ではない点は理解されて然るべき、と私は考えています。
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2019年11月30日 (土) 11:00:00

今週の読書はまたまたマルクス主義の経済書など計7冊!!!

今週の読書は、マルクス主義経済学に立脚するものを含めて経済書から教養書、さらに、私の好きな純文学小説の作家である青山奈々枝の小説、また、ブルーバックスで復刻された古典的な数学書まで、以下の通りの計7冊です。冬晴れのいいお天気の下、すでに図書館周回も済んでおり、来週も数冊の読書になる見込みです。

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まず、デヴィッド・ハーヴェイ『経済的理性の狂気』(作品社) です。著者は、ジョンズ・ホプキンス大学やオックスフォード大学を経て、現在はニューヨーク市立大学の研究者をしており、専門分野は経済地理学です。マルクス主義経済学に立脚する研究者です。本書の英語の原題は Marx, Capital, and the Madness of Economic Reason であり、2017年の出版です。上の表紙画像に見えるように、副題は「グローバル経済の行方を<資本論>で読み解く」となっています。ということで、資本主義には強い過剰生産恐慌の傾向があるわけですが、本書では19世紀半ばの経済恐慌を取り上げ、説得的な議論を展開しています。本書では、特に、恐慌に関して価値と反価値から特徴付けようと試みています。特に、反価値として負債に基づく経済発展を措定し、当然ながら、資本主義的な過剰生産により利潤最大化が達成されず、恐慌に陥る歴史的必然が導かれます。経済地理を専門とする研究者らしく、時系列的な流れと空間的な広がりを同時に議論の基礎として展開し、例えば、グローバル資本主義の展開については、利潤確保のための安価な労働力の確保を動機としていることは明らかです。ですから、本書では登場しませんが、いわゆる雁行形態発展理論などが成立するわけです。アジアでは日本が先頭に立って、いわゆるNIESが日本に続き、さらにASEAN、さらに中国、またまたインドシナ半島の国々などが続くわけで、その先にはアフリカ諸国が控えているのかもしれません。そして、空間的に地球上で帝国主義的な進出も含めて、グローバル資本主義が行き渡ってしまえば、利潤追求のための拡大再生産が大きな壁に突き当たり、恐慌を引き起こし、ひいては資本主義の死滅に至るわけです。典型的な唯物史観に基づく生産関係と生産力の間の矛盾による階級闘争なわけですが、現実んの歴史はマルクス主義的な歴史観のように進んでいないことも確かです。他方で、価値と反価値の弁証法については、私が不勉強にして知らないだけか、マルクスの文献に典拠があったりするんでしょうか。また、本書のテーマとどこまで関係するかは自信ありませんが、気候変動に関する分析も秀逸です。全体的に、ポストケインジアンなハイマン・ミンスキー教授らの分析に類似性あるようにも思えますが、剰余価値の生産の限界と資本主義的生産の地理的な広がりに関しては、このハーヴェイ教授のマルクス主義的な分析に軍配が上がるような気がします。

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次に、橘木俊詔『日本の経済学史』(法律文化社) です。江戸期からの我が国における経済学史をかなり独特の、というか、いわゆる経済学史的な視点ではないまとめをしています。ノーベル経済学賞の受賞者を出すための英文論文の必要性については、まったくその通りなんですが、skレは経済学に限らず物理学などの自然科学についても同じではないかという気がします。世界的には英語での普及が絶対条件であり、学問的な完成度よりも語学的な普及の容易さ、というものが重要なのでしょう。ノーベル賞に限定すれば、文学賞でスペイン語がやや有利、という気もします。例えば、私が南米はチリにある日本大使館に勤務していたのは1990粘弾前半の3年間であり、1995年度のノーベル文学賞に大江健三郎が選出される前でしたので、我が国のノーベル文学賞受賞者はたったの1人でした。しかし、人工的には我が国の10%くらいの小国であるにもかかわらず、チリにはその時点で2人のノーベル文学賞受賞者がいました。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと左派詩人のパブロ・ネルーダです。国連公用語にもなっているスペイン語の有利なところを見た気がしました。本書では、その昔の我が国の東大・京大などの帝大におけるマルクス主義経済学の隆盛と一橋大などの高商における現代経済学を対比させていますが、私も旧制帝国大学卒業生ですから、少なくとも、東大や京大であれば何の経済学を勉強したのかは就職には関係ないといえます。ですから、私の視点は逆であり、我が国の経済学の研究レベルが低い、というよりは、欧米、特に米国の経済学のレベルが高すぎるのではないか、と考えています。加えて、良し悪しは別にして、我が国では経済学だけでなく超絶的なトップエリートの育成システムが存在しないような気がします。さらに加えて、60歳近傍の私くらいの年代までは、工学や理学系については大学院に進学しても修士課程・博士前期課程で終わって、普通に就職するという道がありました。企業でも工学的な研究職は採用します。でも、経済学部の場合、大学院に上がるということは、そのまま博士後期課程まで進み、アカデミックな研究者を目指す、ということだったような気もします。役所や日銀などのごく特殊な組織でなければ経済学の研究はなされておらず、国際機関への就職などはスコープ外でした。逆にいえば、東大や京大の経済学部卒業生の就職が極めてスムーズであったともいえます。いずれにせよ、いわゆるマル経と近経の派閥抗争的な見方には、私はやや違和感を覚えます。

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次に、稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』(講談社選書メチエ) です。著者は明治学院大学の経済研究者であり、本書ではスミス的な古典派経済学やマルクス主義経済学も含めて、経済学の考えから労働について哲学しています。すなわち、経済学的には労働は美徳として単純な勤労観で支えられているだけでなく、出来れば避けたいコスト感も併せ持っています。ですから、時間の配分については、労働によって得られる賃金と機会費用のレジャーの効用を比較して労働供給が決定されるという定式化となっています。そういった労働観に対して、実際の経済の歴史は一貫して機械による人間労働の置換を進めてきたわけで、基本的には、AIを生産現場に活用することはこの延長上にあるともいえます。ですから、AIによる労働の置換に対して、歴史上のラッダイト運動が参照されるのもアリなわけです。そして、もうひとつの古典派経済学やマルクス主義経済学、あるいは、現代経済学においても、生産要素は土地と資本と労働であり、私が『資本論』を読んだところでは、第3巻は土地から地代を得る地主、資本から利潤を得る資本家、労働から賃金を得る労働者の3大階級で締めくくられています。もちろん、エンゲルスの編集にして正しければ、という前提ですが、今までの経済学者でこのエンゲルスの編集に目立った異議を唱えた人はいなかったと私は認識しています。何がいいたいかというと、本書の指摘にある通り、AIは資本なのか、労働なのか、ということを問題にすべきとは私は思いません。すなわち、AIとは資本であって労働ではないことはほぼほぼ確実です。なぜ「ほぼほぼ」というかといえば、まだAIが完成形として人間労働に置き換わったシンギュラリティに達していないからです。ただ、この場合、「シンギュラリティ」はAIが人間からのインプットを必要とせず、高度に自律的な判断を下し、同時に、同じ意味で自律的に行動することになる、という段階と考えておきたいと思います。加えて、AIが意思決定するプロセズが「ブラックボックス」で恐怖ないし違和感を持つ人もあったりするんでしょうが、本書の著者は、そもそも資本主義的な生産・分配、また、市場における価格決定などは、すべてブラックボックスで処理されているに等しい、と指摘しています。これもその通りです。いままで、オックスフォード大学のグループのように単純労働だけでなく、医師や弁護士などの労働もAIによって置き換えられる可能性がある、といった論調が多かった分野ですが、とても新鮮で理解しやすい議論が展開されています。200ページほどのコンパクトなボリュームながら、今週の読書の中で一番だと思います。

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次に、有江大介『反・経済学入門』(創風社) です。著者は一線を退いたとはいえ経済学史を専門とする経済学の研究者です。本書は、著者自身による本書の前書きによれば、社会科学概論という授業のテキストとして企画されたもののようです。ですから、経済学をターゲットのひとつとしつつも、幅広く社会科学、あるいは、科学といったものを対象にしています。それも、古典古代から現代までの長いタイムスパンで論じています。そして、結論を先取りすれば、経済学が科学として生き残るのは、現実からの演繹を徹底して、「経済工学」Economic Engineering としての道ではないか、と本書の最後で記しています。本書は、基本的に、経済学に基礎を置きつつ、社会科学全般について論じた教養書という位置づけなのではないか、という気がします。ただ、私の社会科学や歴史観などと共通する部分も少なくなく、例えば、第Ⅰ部第7章では、歴史の進み方特にグローバル化については「止められない」という表現で、かなり一直線に進む歴史観を支持しているように見えます。ただ、これは西洋由来の学問としての経済学の影響も私は見てしまいます。すなわち、東洋的な、というか、中国的なといってもいい円環的ないし循環的歴史観に対して、西欧的ないし西洋的な歴史観は一直線だと私は受け止めています。そのひとつがマルクス主義的な唯物史観であって、原始共産制に始まって、古典古代の奴隷制、中世の封建制、近代の資本制から社会主義ないし共産主義が展望されていますが、まだ、本格的な社会主義的生産は実現されていません。やや脇道に逸れましたが、本書について私の感想は、基本的に賛成なのですが、マクロな次元における科学としての経済学は、本書の結論通り、経済工学的な側面を強め、その基礎としては実験経済学の知見が生かされる可能性が高いと私も思います。ただ、マイクロな選択の理論としての経済心理学的な方向もあるんではないか、という気がします。典型的にはツベルスキー=カーネマンの研究です。もっと進めば、神経経済学のような分野かも知れません。ここでもやや古い経済学的な合理性が前提とされず、限定合理性の下でのマイクロな選択が解明され、ひいては経済工学的なマクロな経済社会の方向性を議論することになるような気もしますが、それはそれで独立した分野と考えられる可能性もあります。でも、本書についても、経済書というよりも水準の高い教養書であり、私は図書館で借りましたが、残念ながら、東京都の公立図書館では区立図書館で新宿区や杉並区など数館、多摩地区の図書館では国立市しか蔵書してません。でも、1500円プラス税というお値段ならお買い得、という気もします。

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次に、メレディス・ブルサード『AIには何ができないか』(作品社) です。著者は、米国のデータジャーナリストであり、同時に、ニューヨーク大学アーサー・L・カーター・ジャーナリズム研究所の研究者でもあります。英語の原題は Artificial Unintelligence であり、2007年の出版です。ということで、本書では、AIに限らず、テクノロジーに対する懐疑論が展開されています。私はどちらかといえば、AI悲観論、というか、カーツワイルの指摘するような2045年というのでは二としても、人類の英知を超えるAIはいずれ出現し、人類はAIのペットになる、というものです。それに反して、本書では、AIは人類を越えられない、あるいは、AI以外の技術もそれほどのパワーはない、との議論を展開しています。私には正確なところは判りません。AIをはじめとする現在花盛りのテクノロジーは、かなりのパワーあるような気がしますが、何分、専門外で理解がはかどりません。単純な情報処理であれば、マシンは人類をとっくに超えていると思いますが、単純でない、まあ、どこまで単純でないかも問題ながら、例えば、ヒューリスティックな直感判断をマシンに求めるのは、確かに無理がありそうな気もします。ただし、ヒューリスティックな判断は間違いも多いわけで、時間が節約できるのと正確性は、当然、トレードオフの関係にあります。加えて、MicrosoftのTayがマシン学習の課程でナチスやヒトラーを礼賛し始め、ユダヤ人虐殺や差別を肯定したとして、開発を中止したというのも事実ではなかろうかといわれています。当然ながら、AIにも限界、というか、欠陥は考えられるわけです。少なくとも、AIや最新テクノロジーに関して、繰り返しになりますが、私はやや悲観バイアスに傾くんですが、悲観も楽観もせずに社会常識に従った良識的な対応が求められているんだろうと思います。本書のようなAIの限界を指摘する主張も、その意味で、バランスよく目を向けておく必要があると思います。私もAI悲観論から、少しずつですが本書のようなAI限界論に傾いて来た気もします。AIをもって神に措定する必要はまったくありません。

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継に、青山七恵『私の家』(集英社) です。著者は、ご存じの通り芥川賞作家であり、純文学の担い手です。本書では、主人公の女性の祖母の法事に集まった親戚一同を見渡すところから物語が始まります。作者の青山七恵は、私の大好きな作家の1人なのですが、最近、フォローするのをサボっており、最後に読んだのは数年前の『ハッチとマーロウ』でしたので、パタパタとこの間に出版された『踊る星座』と『ブルーハワイ』の2冊の短編集も併せて読んだりした次第です。ということで、本書は連作短編集の体裁のように見えますが、私の解釈によれば長編であり、それほど複雑ではなく、通常の親戚付き合いの範囲で、3代に渡る女性に着目した構成になっています。ただ、3代に渡る家族史ですので、長編と考えれば、かなり長い期間を対象としている上に、章が時系列で並んでいるわけでもなく、逆に、時代がさかのぼったり、大きく飛んだりしますので、その意味では、読み進むのにやや読解力を必要とします。なお、日本語の「家」には英語のhomeとhouseがありますが、明らかに前者のhomeです。建物としての家についてはほとんで触れていません。家族を主として、親戚やご近所も含めた人間関係を抜群の表現力と構成力で描き出しています。3代の女性陣の最年長は法事の対象である祖母であり、まあ、男尊女卑の時代ですから、死ぬまで自分は損な役回りになっていると不満を持った人生のように描かれています。その祖母の子は3人いて、行方不明になっていた長男、主人公から見れば叔父に当たる男性はニュージーランド在住で、四十九日の法要には間に合いませんでしたが、一周忌には現地で結婚した妻や子とともに帰国します。まあ、男性は本書ではオマケかもしれません。主人公の母は、元体育教師という質実剛健な女性でありながら、祖父母の家に里子のような形で出された不遇な子供時代にこだわっています。姉妹は同棲していた男性に逃げられて、東京から北関東の実家に戻って来ています。大叔母は孤独を愛しながらも、異性の崇拝者に囲まれ波乱に富んだ老後を送っています。それぞれのキャラクターがとても明らかに設定されていて、繰り返しになりますが、作者の表現力と構成力が素晴らしいと感じました。また、この作者の作品を追いかけたいと思います。

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最後に、高木貞治『数の概念』(講談社ブルーバックス) です。著者は、我が国数学界の大御所という表現では不足し、巻末の秋山教授による解説によれば「日本の近代数学の祖」ともいえ、もちろん、すでに亡くなっています。没年である1960年がそもそも定年退職した私の生年に近いわけで、創設間もないフィールズ賞の第1回の選考委員も務めています。ドイツ留学でヒルベルトに師事しています。とんでもない大先生なわけです。なぜか私はこの大先生の『解析概論』(岩波書店) を持っていて、箱入りのハードカバーの大判本ですので、読みとおした記憶ないながら、本棚に飾ってあります。本書は、1949年に初版が、1970年に改訂版が、それぞれ岩波書店から出版されたものを新装改版しています。高木教授の最後の著作と見なされています。わずかに、新書判でも200ページ余り、秋山教授による解説を除けば140ページ足らずのボリュームにもかかわらず、誠に残念ながら、私は本書で展開されている議論をすべて理解するだけの数学的な能力はありません。でも、美しい数学の世界に触れただけでも幸福な気分になれる人は少なくないだろうと思います。混み合った通勤電車で本書を開くと、それなりの優越感を持てるかもしれません。もちろん、図書館から借りていますので、待ち行列に割り込んで、ほかの数学に専門性ある人の機会費用を上昇させているという意見もあるかもしれませんが、逆のケースもあり得るんでしょうから、お互いさまです。
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2019年11月23日 (土) 12:30:00

今週の読書感想文は経済書なしながら小説2冊で計6冊!!!

今週の読書は、とうとう経済書を読みませんでした。先々週に、現代貨幣理論の入門書に加えて、バルファキス教授の『わたしたちを救う経済学』、さらに、総務省統計局で消費統計担当の課長をしていた経験から大好きな消費者選択に関する野村総研の『日本の消費者は何を考えているのか?』を読んだ後、先週の読書感想文では、マルクス主義に立脚する『戦争と資本』などを無理やりに経済書に分類しましたが、自分自身でも純粋の経済書は読んでいないような気がしていました。今週はどんな角度から考えても、6冊読んだにもかかわらず、その中に経済書はありませんでした。私はこの読書感想文では書名のカラーで一応の分類をしているつもりで、赤は経済書、青は経済以外の専門書や教養書やドキュメンタリー、緑が小説やエッセイなど、そして、中身というよりも出版形態ということで、ライムが小説を中心とする文庫本、ピンクはドキュメンタリーっぽい新書、としています。赤の経済書がないのは、どれくらいさかのぼってしまうんでしょうか、それとも、初めてかもしれない、と思っています。

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まず、雨宮処凛[編著]『この国の不寛容の果てに』(大月書店) です。編著者は、ご存じの通り、貧困・格差の問題に取り組むエッセイストです。本書の副題が『相模原事件と私たちの時代』とされているように、相模原の障害者施設である津久井やまゆり園に元職員の男が侵入し入所者19人を刺殺した事件を切り口として、編著者とジャーナリスト、研究者、精神科医、ソーシャルワーカーなどとの対談集として取りまとめられています。障害者に対する選別ないし疎外意識をタイトルの「不寛容」と表現しているわけです。私が不勉強なだけかもしれませんが、財政赤字が膨大なるがゆえに命の選別が行われていることに、エコノミストとして愕然としました。同じコンテクストで、LGBTQを「生産性」で選別したり、ある意味でナチス的な優生学に基づく選別したりする傾向は、ひょっとしたら、多くの国民が多かれ少なかれ持っている可能性は私も否定できませんが、それが、財政赤字との関連で選別につながるとは、まったく想像の外でしかありませんでした。私は財政赤字にはノホホンと寛容で、反緊縮の立場から財政拡大を主張する左派エコノミストですが、法人税を減税する一方で消費税率を引き上げ、緊縮財政の下で国民の基本的人権まで否定しかねないような現状は極めて異常といわざるを得ません。私が常に主張している点ですが、失業や不本意な非正規就業はマクロ経済政策も含めた経済状況によるものであり、個人の自己責任を問えるものではありません。主流派経済学でも、不況期に卒業・就職を迎えたクタスターは、我が国においては明らかに生涯賃金が低く、経済的に不利な状況にあることは明確に実証されていますし、実に、これは我が国にかなり特徴的な現象であり、米国などでは就職時が不況期であっても数年のうちにその低賃金状態は解消するのですが、我が国ではかなり長期に低賃金の状態を引きずるという実証結果が示されています。ただ、この不寛容はわが国だけに特徴的なものであるかといえば、必ずしもそうではなく、米国におけるトランプ大統領の当選や英国の反移民の観点からのBREXIT、あるいは、大陸欧州でのポピュリスト政党の得票拡大なども、基本的には同じ政治経済の現象ではないかと考えられます。もちろん、本書で指摘されているように、長く続いた戦後民主主義の政治的正しさ = political correctness に対する反発とか苛立ちもあるでしょうし、順番待ちしていて列に並んでいる自分の前を移民などが割り込んでくるという被害者意識もあるでしょう。でも、本書では障害者をフォーカスしていますが、ひょっとしたら、根本にあるのは経済的な格差の拡大や貧困の蔓延かもしれない、と私は考えざるを得ません。何らかの経済的貧しさから心理的な剥奪観を持ち、その原因となっているように見える「敵」を見つけようとしているような気もします。戦後の高度成長がルイス転換点に向かう1回限りの特異な成長であったことを考えると、経済が均衡に向かう中での高成長をもう一度はムリなわけであり、国民生活を豊かにしていくためには何らかの政策的なサポートが必要であると痛感します。

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次に、伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』(青弓社) です。著者は、ネット企業で2ちゃんねるの書き込みなどをフォローしたりしていた後、現在は社会学の研究者となっています。本書の副題から、時間的なスコープは、1990年から2010年くらいまでであり、本書では、少なくとも2012年末に現在の安倍政権が発足してから、ネット右派の活動は大きく減退したような観察結果を記しています。ということで、従来の伝統的な右派が街宣車や街頭演説などの行動する右翼であったのに対して、まさに、「ネトウヨ」と呼ばれるネット右派は街に出て行動するのではなく、ネット上の言論活動を主たる舞台としてると特徴づけています。もっとも、1990年以前にさかのぼって、左派リベラルについて、都会、高学歴、高収入などの特徴を列記し、右派はその反対、というように分析していたりします。中曽根元総理からの引用である「魚屋さん、大工さん」といったところです。ただ、右派のひとつの特徴である排外主義的な主張については、ほぼほぼ排外されるのは韓国であり、尖閣諸島問題などの中国は、特段の言及ないように受け止めました。このあたりは、私には少し疑問を持ったりもしています。少し戻ると、左派リベラルの象徴として、朝日新聞がやり玉にあがることが多いわけですが、ともかく、膨大なネット情報を駆使して、いろんな特徴づけを展開しています。しかし、今年に入ってからの韓国の徴用工判決を起点とする日韓関係の悪化にまでは目が届いていません。まあ、書籍メディアの不利な点かもしれません。それはそれとして、私も関西出身ですから、首都圏とは在日コリアンの数や比率がかなり濃い地方性であり、その昔のコリアン観を知らないでもないんですが、現在の嫌韓感情とはかなり違っていたような記憶があります。すなわち、私の父もそうだった気がしますが、いわゆる統計的な差別はあった気がします。例えば、単位人口当たりの犯罪率とかです。ただ、これは、大学のランキングで東大・京大・阪大の順番と同じで、在日コリアンの人格的な問題ではなかったような気もします。ですから、とても考えにくいかもしれないものの、在日コリアンの方の犯罪率が下がればそれでいいわけで、その根底にある人格的あるいは民族的な蔑視は、まったくなかったわけではないとしても、現在よりもかなり小さかった気がします。エコノミスト的な見方であれば、分業の中の一部を担っているわけで、それはそれなりに有り難い、とまではいわないまでも、カギカッコ付きの「必要悪」に近い認識ではなかったか、と勝手に想像しています。でも、今の嫌韓右派はまさに排外主義であって、分業の余地すらなく、ひたすら排除したがっているような気がしてなりません。私の見方が正しいかどうか、専門外ですのではなはだ自信はありませんが、先に取り上げた『この国の不寛容の果てに』と同じで、格差の拡大や貧困が根本的な原因のひとつとなっている気がしてなりません。

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次に、田中里尚『リクルートスーツの社会史』(青土社) です。著者は、大学卒業後に暮しの手帖社などで編集の仕事に携わりながら、比較文明学の博士号を取得した後、今は文化学園大学服装学部の研究者をしています。本書はタイトルがそのままズバリであり、学生服ないし制服での就活から敷くルートスーツの着用に移行した後、さらに、そのリクルートスーツが初期から現在の真っ黒に至るまで、どのように社会的な変遷をたどったか、しかも、私が高く評価するところでは、スーツの歴史だけを取り出したのではなく、バックグラウンドの経済社会的な変化と合わせて論じています。しかも、男女のジェンダー別に詳細に論じていますので、500ページを軽く超えるボリュームに仕上がっています。ということで、私は今年61歳になりましたので、1980年代初頭に就活をしているハズなんですが、さすがにほとんど記憶にありません。1990年代のバブル崩壊後の氷河期や超氷河期と呼ばれる時代背景でもなく、まあ、京都大学経済学部ですから就職には恵まれていたといえます。少なくとも、制服のない高校を卒業していますので、詰襟の学生服で就活をしたハズはありません。たぶん、何らかのスーツだった気もするんですが、他方で、私は革靴というものを持っていた記憶がなく、大学卒業の際にアルバイト先から靴券なるものをもらって、生涯で初めて革靴を買ったと感激した記憶があります。ひょっとしたら、スニーカーのままでスーツを着ていたのかもしれません。それから、私が就活をしていたころの標準的なリクルートスーツは、今の真っ黒と違って、紺=ネイビーの三つ揃えだったと本書では指摘しています。これまた、私の記憶では、私は61歳になる現在まで三つ揃えのスーツは買ったことがありません。オッドベストの共布ではなく、ジャケットやズボンとは違う色調のニットならざるベストは着用したことは何度もありますが、ジャケット・ズボン・ベストがすべて同じ友布の標準的な三つ揃えは買ったことも着たこともありません。それから、いつからかはこれまた記憶にありませんが、私のオフィス着のワイシャツは長らくボタンダウンです。普段着でレギュラーカラーのシャツを着ることはいくらでもありますし、勤め始めたごく初期はレギュラーカラーだったような気がしないでもありませんが、長らくボタンダウンしか着用していません。本書ではレギュラーカラーのワイシャツがリクルートスーツに合わせる基本と指摘しています。また、本書で指摘するように、陸ルーツスーツの変化のバックグラウンドに、経済要因があることはいうまでもありませんが、不況のごとに敷くルートスーツのスタイルが大きく変化するというのは、エコノミストから見てもびっくりしました。そうなのかもしれません。ただ、黒一色の陸ルーツスーツに真っ白でレギュラーカラーのワイシャツといった個性がないというか、画一的な服装の大きな原因は、やっぱり、新卒一括採用であるという本書の指摘については私もまったく同意します。ただ、我が国社会の減点主義的な面もいくぶんなりとも一因ではないかと考えており、新卒一括採用がなくなれば、一定のラグはあるものの、リクルートスーツがバラエティに富むようになる、というのはやや疑問な気もします。ボリュームの割には読みやすく、歴史の好きな私にはいい読書でした。

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次に、川上未映子『夏物語』(文藝春秋) です。著者は芥川賞作家であり、受賞作は11年前の「乳と卵」です。そして、本書はその続編といえますが、第1部は受賞作のおさらいをしてくれています。すなわち、アラサーで東京在住の主人公の10歳近い姉が主人公の姪っ子といっしょに大阪から上京してきて、豊胸手術のカウンセリングを受ける第1部が置かれています。そして、第2部では、その8年後に舞台を改め、アラフォーになり小説が出版された主人公が、私のような凡庸な男には理解が及ばない「自分の子どもに会いたい」との思いに突き動かされ、パートナーなしで第3者からの精子提供による人工授精(AID)での出産を目指す、という内容です。前作の「乳と卵」では極論すれば登場人物は縁戚関係にある3人、すなわち、主人公とその姉と姪っ子の3人だけといってよく、母親や祖母については回想の中で登場するのが主だったんですが、この作品では、同じ女性作家の仲間のシングルマザー、編集者、AIDに関してやや否定的な傾向ある活動をする団体の男女、などなど、長編小説らしく多彩な人物が登場します。子供を持った、あるいは、持とうとするならば生活する能力、というか、ハッキリいえば、消費生活の基礎となる金銭を稼得する能力というのは不可欠であり、主人公の貯金額まで明らかにするというのは、ある意味で大阪出身の作家らしいという気もしますが、作品にリアリティを持たせる上で、私はとてもよかった気がします。主人公は、子供のころから決して恵まれた家庭環境にあったわけではありませんが、子供を持とうと決意する過程が少し雑な気がします。前作の「乳と卵」では、テーマが主人公の姉の豊胸手術ですから、命の重みに話が及ぶわけではありませんが、本書では命や人生というものの重みが決定的に違いますし、話が重くなります。大阪弁の流暢なおしゃべりで進むだけではないわけです。その意味で、もう少していねいに主人公が子供を持とうと思うようになった心情の変化を追って欲しかった気もします。もちろん、私の読解力の問題があり、子供を産まない男の読み方が浅いのかもしれませんが、もしもそうであれば、もっと私のような鈍感な男性読者にも思いをいたして欲しかった気がします。別の見方をすれば、こういった重いテーマを書き切る筆力には、著者はまだ欠けているのかもしれません。ただ、私が従来から主張しているように、親子や家族のつながりというのは、決して、血やDNAや遺伝子に基づくものだけではなく、いっしょに暮した記憶の方がより重要な要素になるわけで、その点では私と同じ見方に立っている気がしました。三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』のシリーズと同じだと思います。その意味で、妊娠確率高いと称する精子提供者を断ったのも、決して遺伝子やDNAの観点ではないような気がして、私なりに判る気がします。

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次に、朝井リョウ『どうしても生きてる』(幻冬舎) です。この著者も直木賞作家です。短編集であり、収録されているのは6話です。すなわち、主人公が事故死などを報じられた死亡者のSNSアカウントを特定する「健やかな論理」、妻の妊娠を口実にマンガ原作創作の夢を諦めサギまがいの保険勧誘に邁進する男性の心情を描く「流転」、不安定な派遣、契約、アルバイトをはじめ、正社員などの人の雇用形態を想像してしまう主人公を描いた「七分二十四秒目へ」、エリートポストといいつつも人事異動の後、痩せていく夫への主人公の心配と苛立ちを描き出す「風が吹いたとて」、妻の収入が自分を上回ったとき、妻に対しては勃起できなくなった夫を主人公とする「そんなの痛いに決まってる」、胎児の出生前診断をめぐる夫婦の意見の相違と対立をテーマとする「籤」の6編です。このうち、2番めの「七分二十四秒目へ」は先々週の最後に取り上げた日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』にも収録されています。生と死という、これまた重いテーマにまつわる6編です。いままで、私が読んだこの作者の作品は青春物語のように、高校生や大学生とか、就職したばかりの若い年代の主人公が多かった気がしますが、本書に収録された短編では中年といえる年代の主人公もあり、作品の広がりを感じられました。ただ、繰り返しになりますがテーマが重く、今週の読書感想文はかなりの部分が「現代社会の生きにくさ」といったものを何らかの形で取り込んだ本に仕上がっている気がします。今までの若い世代を主人公にした作品では、主人公や主人公を取り巻く登場人物の意識、自意識が痛さや生きにくさの原因だった気がしますし、本書でもそれを踏襲している作品も少なくありませんが、いくつかの作品では登場人物の意識ではなく、社会のシステムが生きにくさの原因となっているものもあり、これも作品の幅が広がった気がします。この作者については、決して多くの作品を読んでフォローしておりわけではありませんが、私のような低レベルの読者に対しても、それなりに好ましい作品が多い気もします。

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最後に、フランソワ・デュボワ『作曲の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者は、フランス出身のマリンバ奏者であり、作曲家でもあります。本書冒頭で、音楽一家に生まれ育ったと自己紹介しています。また、慶應義塾大学で作曲を教えるべく教壇に立った経験もあるそうです。ということで、西洋由来の音楽、特に、作曲についての科学を第1章の足し算と第2章の掛け算で始めて、作曲のボキャブラリーを増やすという意味でいろんな楽器を使う第3章に進み、第4章で結論、というか、作曲の極意、プロのテクニックを披露しています。私のすきなジャズ音楽家としては2人、いずれもピアニストのセロニアス・モンクとビル・エバンスが言及されています。ジャズの場合、モンクなどはかなり多くの名曲を残していますが、アドリブでの演奏そのものが作曲に類似しているといえなくもないと私は考えています。その意味で、ビル・エバンスについてはドビュッシー的な和音の転回を駆使したピアノ演奏をしているという指摘は、とても判りやすかったです。フランス人なのですが、作曲、というか、音楽の日本語用語は完璧です。もちろん、翻訳なんですが、カタカナ語としては、邦訳者がなぜか英語を基にしたカタカナ表記を選択しているような気がします。例えば、主音・主和音は「トニック」としていますが、在チリ大使館勤務時にスペイン語でピアノを習った経験ある私としては、女性名詞の「トニカ」でもいいんではないかと思わないでもありません。まあ、私もピアノを習ったのは日本語とスペイン語だけで、英語やフランス語で習ったことはありませんので、何ともいえません。それなりに音楽の知識や素養内と読みこなすのに不安あり、例えば、少なくとも五線譜に落とした楽譜に対する理解くらいは必要ですが、基礎的な知識あれば、決して音楽演奏や作曲の経験なくとも十分に楽しむことが出来る本だと思います。
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2019年11月16日 (土) 11:00:00

今週の読書感想文はマルクス主義の本をはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、フランス系のマルクス主義の本をはじめとして、小説や時代小説のアンソロジーの文庫本まで含めて計7冊です。純粋の経済書はないかもしれません。本日もすでに自転車に乗って図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上りそうです。

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まず、エリック・アリエズ & マウリツィオ・ラッツァラート『戦争と資本』(作品社) です。著者は、フランスおよびイタリア出身で、ともに現在はパリを拠点とする哲学ないし社会学の研究者です。フランス語の原題は Guerres et Capital であり、2016年のながら、201415年にかけて行われたパリ第8大学の共同セミナーでの議論が基となっています。著者はおそらく2人ともマルクス主義に基づく哲学者ではないかと私は想像しています。本書のタイトルからはゾンバルトの『戦争と資本主義』が思い起こされますが、広く知られたように、ゾンバルトは戦争がユダヤ的な資本主義経済の育成や成長に寄与した歴史を解き起こしています。まあ、ナチス的な歴史書です。それに対して、というか、何というか、本書はマルクス主義の観点から戦争がいかに資本に奉仕して来たのかを解き起こしています。ですから、本書ではレーニンや毛沢東らはクラウゼビッツの『戦争論』の影響下にあるとしつつ、フーコーやドゥルーズら、特にフーコーを批判的に引きつつ、クラウゼビッツ的に「戦争は政治の延長」という議論ではなく、むしろ逆転させて、金融資本主義がグローバルな内戦を引き起こしているとか、戦争福祉(ウォーフェア)が生活福祉(ウェルフェア)を準備したとか、主張しています。難しいです。その昔の学生のころにマルクス『資本論』全3巻を読み切った私でも理解が追いつきません。特に、本源的蓄積が永遠に続くというのは、レトリカルにおかしい気もします。永遠に続くのは資本蓄積であって、本源的蓄積とは定義が異なる気もします。何よりも、本書では戦争はケインズ的な政策における完全雇用の観点からだけ見ている気がします。というのは、私の考えでは、資本主義的な生産が景気循環、というか、恐慌ないし景気後退につながる最大のポイントは需要不足あるいは過剰生産です。その過剰生産を一気に解消するのが戦争であり、本書で「過剰生産」という用語がまったく出て来ないのには違和感を覚えます。生産手段を私有しつつ剰余価値の生産のために生産を一貫して拡大する資本主義的な生産は、労働力の再生産に必要な部分を超える過剰生産につながり、恐慌でモノが売れなくなり需要が不足します。ケインズ的な解決策の前には、いわゆる帝国主義により植民地を獲得し、典型的には英国とインドの関係であり、植民地を原料の入手元であるとともに生産物の市場として「活用」いたんですが、それでは資本主義的な生産の矛盾を本質的に解消することはできず、ケンズ政策が登場して政府が需要を創出することを始め、緊縮財政を放棄して赤字財政の下で売れ残ったモノを政府が買い支えるという構図になります。しかしながら、その過剰生産がケインズ政策でも手に余る、あるいは、均衡財政に誤って固執するような政府の下で余りに大規模になれば、資本の利益となるような戦争というはなはだ労働者階級には迷惑、というか、まさに文字通り破壊的なイベントにより売れ残りの生産物を一気に解消しようという圧力が生じます。その典型がナチス政権下のドイツで観察されるわけで、そして、そうならないように、緊縮財政を放棄して政府の財政出動による需要の創出が望まれるわけです。そのあたりの資本と戦争の関係が、本書では目が行き届いていない気がして、やや片手落ちのように読んだのは私だけなんでしょうか。

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次に、森田長太郎『経済学はどのように世界を歪めたのか』(ダイヤモンド社) です。著者は証券会社の再建アナリストであり、日本の証券会社だけでなく、欧州系勤務のご経験もあるようです。ということで、かなりムリをしてお話を拡張していますが、基本は、経済学が世界を歪めたのではなく、黒田総裁以降の日銀の金融政策が著者のお仕事を歪めた、という主張を延々としているわけで、私の目から見て、控えめにいっても、時間のムダをした読書だった気がします。私の直感ながら、同じ証券会社にお勤めの株式アナリストであれば、まったく逆の見方が示された可能性も小さくないと思わないでもありません。ただ、ご本人は、本書を上梓するほどですから、こういった批判は先刻ご承知の上で、冒頭に、批判は甘んじて受ける旨を記しておきながら、第4章冒頭では、こういった批判はいわれのないものであると、批判によっては受け入れるものと受け入れないものを選別する姿勢を示しています。ですから、リフレ派の官庁エコノミストなどを戦前の「革新官僚」になぞらえたり、リフレ派エコノミストが主催していたいちごBBSをネトウヨと並べて論じたり、果ては、デフレを錦の御旗に見立てて金融政策運営のひとつの目標にした点を批判しながら、本書ではこういった政策をポピュリズム経済政策と称することもはばからず、私はともかく多くの人から見れば同じように見えかねない戦略を取っていたりします。大昔ながら、リフレ派の官庁エコノミストであり日銀政策委員まで出世された先輩との共著による学術論文ある私にはやや不愉快に見えます。基本的に、著作ですから著者ご自身の思いを表明するわけで、それがエコーチェンバーやフィルターバブルなどに影響された確証バイアスに基づくものである可能性も否定できませんし、こういった著者のポジショントークに類する著書は、それなりの批判的な読み方をする必要もあるような気がします。ただ、金融政策の論点はいくつか肯定できるものもあり、例えば、期待に作用する政策が実績への適合的期待が主である場合には、それほどの効果なく、インフレ・ターゲティングがそれに当たる、とか、リフレ派のマネタリスト的な施策が現時点でそれほど効果を上げていない、というのはそうなんだろうと思います。ただ、インフレ・ターゲティングを採用するとハイパーインフレを招きかねない、というその昔の日銀理論は、さすがに、恥ずかしくなったのか、どこかに、ハイパーインフレになる可能性はほぼないといった旨の記述を忍び込ませていたように思います。まあ、私から見ても、黒田総裁以降の日銀金融政策、かなりの程度にリフレ派の金融政策がデフレ脱却に決して効果が大きかったわけではない、というのは事実のような気がします。ただし、これは陰鬱な科学である経済学のひとつの限界である可能性もあり、それだけにさらなる経済学の進歩を私なんぞは望むわけで、MMT=現代貨幣理論などに注目したりするわけです。リフレ的な金融政策が思ったほどの効果なかったという意味で、ある程度のコンセンサスあるとすれば、あくまで、その仮定の下で、経済学はダメだと主張したりして、まあ、極論すれば、昔の日銀理論に戻って金融機関、特に債券部門を儲かるようにしてくれ、とボヤくのか、それとも、経済学の新たな進化を期待しつつ前に進むのか、その分かれ目が来ているのかもしれません。私は圧倒的に後者の立場です、というか、自分で新たな経済理論を打ち立てる能力には欠けますので、がんばって勉強を進めるわけです。その意味で、エコノミスト的な職業への復帰を来年の大プロジェクトとして、たとえ、どんなに障害が大きくとも取り進めようとしています。風向きが変わって、その昔はタップリ公共事業で甘い汁を吸えたのに、今はサッパリだめだ、と嘆くだけでは何もできそうもない気がします。

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次に、ベルトラン・ピカール(まえがき) & セドリック・カルル/エリック・デュセール/トマ・オルティーズ(監修)『エネルギーの愉快な発明史』(河出書房新社) です。著者のリストは本書の巻末に収録されていて、上の表紙画像に見える人名は基本的に監修者なんですが、多くの監修者と著者はフランスでご活躍の方々ではないかと想像されます。というのは、参考資料がほぼほぼすべてフランス語文献だからです。フランス語の原題は Rétrofurtur であり、2018年の出版です。本書で取り上げられている発明は、エネルギーに関するものが主ではあるんですが、必ずしもエネルギーに限定されることなく、幅広く収録されています。ですから、共通するのは、「エネルギー」というくくりではなく、むしろ、一部の例外を除いて、「実用化ないし量産化されずに終わった」という点ではないかと思います。そういう観点から邦訳タイトルも選ばれているような気がします。なお、オリジナルの原書にあるエピソードに加えて、邦訳書では日本独自の発明のエピソードを数例加えているようです。屋井先蔵の世界初の乾電池とか、こたつの最盛期、とかです。1780年のラヴォワジエの足温器から始まって、時代を下りつつ、いろんな発明品が紹介されています。その合いの手に、電気飛行機や特許などの特定のエピソードに関するエッセイがはさまれています。いくつかのエネルギーに関する発明品で強調されているのは、部屋やその空気を温めるのではなく、人を温めることによる効率化です。日本の例として付け加えられたこたつなどは典型で、ほかにもいくつか見かけました。これは私も合意できる点ではないかと思います。本書冒頭のラヴォワジエの足温器がそうですし、実用化されたゆえに本書に収録されていない発明品の中にも、使い捨てカイロなどもそうではないかという気がします。1970年代にはいわゆる石油危機が2度に渡って発生し、エネルギーをはじめとする相対価格が大きく変化し、特に、最近では地球温暖化防止との関係で、化石燃料に対する再生エネルギーの優位性が考慮されたりする中で、本書に収録された発明品は経済学的にコスト・ベネフィットがよろしくなかったか、あるいは、工学的に技術が及ばなかったか、のどちらかの要因で実用化・量産化されなかったものが多いのではないかと考えられますが、将来的な相対価格の変化や技術進歩により、あるいは、あくまであるいは、なんですが、本書に収録された技術にブレイクスルーが生じる可能性がないとはいえません。まあ、たぶん、そんなものはないとは思うんですが、エネルギーやエネルギーに限定されずとも、幅広く技術に関する温故知新を求めるのは決して悪いことではないんではないか、という気がします。

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次に、リチャード C. フランシス『家畜化という進化』(白揚社) です。著者は、米国にて生物学の博士号を取得し、研究者の経験もあるサイエンス・ライターです。英語の原題は Domesticated であり、2015年の出版です。家畜やペットとして、ヒトはオオカミをイヌに進化させ、イノシシをブタに進化させたわけですが、ダーウィン的な進化論でも自然選択=natural selectionとともに、人為選択=artificial selectionという用語があるのかどうか知りませんが、本書では頻出します。そして、イヌなどのように動物の方からヒトに近づいて食べ残しをエサとして得て、ペットも含む概念として家畜化するケースもあれば、トナカイやラクダのように狩人が生け捕りした動物をヒトが飼い始めるケースもあるようです。ということで、本書では章別に家畜化された動物を取り上げています。最初の章は、やや日本人には奇異に映るキツネから始まって、最後はヒトそのもので終わっています。家畜化は体形や形状などの見た目や機能よりも、先に従順化という性格的な変化から生じるとされ、その意味で、幼児期に特徴的な性質などが成体になっても維持されるペドモルフォーシスは、私の理解ではネオテニーの一種なんですが、広く見られると本書では指摘します。他方で、本書のスコープの外ではあるものの、ヒトが家畜化に成功せず、結局、絶滅してしまった、もしくは、ヒトが絶滅させた動物も少なくないわけで、家畜化というのは動物がヒトに屈服したわけでも何でもなく、進化のあり得る形として生き残り戦略のひとつとも考えられます。家畜化の要因として、性格的な従順さももちろん重要なんでしょうが、齧歯類のモルモットに見られるように、見た目も重要そうな気がします。私は「長い物には巻かれろ」の方で、絶滅させられるよりは、食肉にされたり使役を提供したりしつつも、種として生き延びるのは重要な観点であると考えます。ただ、本書については、研究者ではなくライターだからなのかもしれませんが、科学的な見地よりも著者の見聞きした範囲のお話が多いような気もします。ネコについては、著者個人の「ネコ大好き」の愛情があふれています。そうでない読者が読んだら、ひょっとしたら嫌悪感を持つかもしれません。また、サンタクロースの乗るそりをトナカイが引くのはなぜか、といった動物、というか、家畜に関する逸話もいくつか収録しています。最後の方の章が人間の進化と社会性について割かれており、私は家畜を飼う立場の人間としての進化と社会性を期待したんですが、逆でした。むしろ、小さい子供が家畜的に育てられ、ネオテニーを呈するという意味で、人間の家畜的な面をあぶりだそうと試みています。エコノミストとして、家畜を用いれば生産性が向上するわけで、例えば、ウシを耕作に使えば農業生産物が多く収穫出来たり、ウマを使って遠くの人間との交易で生活が豊かになったり、あるいは、食肉としてヒトそのものの進化に貢献したり、はたまた、ウマやラクダが化石燃料を用いる移動手段に取って代わられたり、などなどといった家畜を使う便益のような事例の分析を期待していたんですが、少し違和感を覚えてしまいました。

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次に、中島京子『夢見る帝国図書館』(文藝春秋) です。作者は、『小さいおうち』で直木賞を受賞した小説家で、私は誠に不勉強にして、この作者の作品はこの直木賞受賞作しか読んだことがありませんでした。この作品は、作家の主人公と喜和子さんという高齢女性を軸に、今世紀に入ってからの上野を舞台にしながら、明治までさかのぼって帝国図書館の歴史をひも解きつつ、歴史的事実と書物や図書館を軸にした人間模様を描き出しています。戦争の戦費に予算を食われて、一向に図書館整備が進まない歴史的事実をドキュメンタリーとして幕間にはさみつつ、特に、樋口一葉などから始まって女性作家にも目を配りつつ、明治以降の作家を主人公と喜和子さんが、あるいは、喜和子さんの愛人だった博覧強記の元大学教授などが語り合い、ストーリーは進みます。その中で、謎に包まれた喜和子さんの人生が、図書館や本、特に絵本とともに、タマネギの皮をむくように少しずつ明らかにされて行き、登場人物すべての本や図書館に対する愛情あふれる性格がきれいに浮かび上がります。私は10年ほど前に地方に単身赴任して、長崎大学経済学部の教員をしていた経験があり、その際には、レジュメを配布している教員が少なくない中で、私だけは教科書を指定して、教科書であれば定期試験の折りに持込み可能という特典を設けて、積極的に教科書を買うように学生諸君おススメしていました。誠に残念ながら、自分で書いたテキストではなかったんですが、少なくとも現時点くらいの技術動向であれば、大学のテキストは本で買った方がいい、と今でも考えています。あまり機会があるわけではありませんが、大学教員公募に応募して1次の書類審査を突破して2次の面接に進んだ際にも、同じように教科書の効用を申し述べたことがあったりもします。もちろん、この先、だいぶんとまえに百科事典が家庭から消えたように、家の中から本棚が駆逐されて本はタブレットなどで電子書籍を読む、というスタイルになれば、まあ、話は別なんでしょうが、現時点では、私のように定年退職したエコノミストが家庭の本棚に大学のころの教科書や古典書を置いておくというのは、少なくともアリだと考えています。私の大学生のころの教科書なんて、ハードカバーはいうまでもなく、箱があったりしましたし、今ではインテリアとしての役割しか果たしていない気もしますが、それでも、本を読むとはこういうことである本棚でと主張しているようなところがあります。私のような本好き、読書好き、図書館好きには、とても訴えかけて来るものが大きい小説だった気がします。

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次に、山岡淳一郎『生きのびるマンション』(岩波新書) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、必ずしも建築や住宅を専門にしているわけではない、と私は理解しています。本書では、マンションという建物ハードとそこに住む住民の2つの「老い」を理解すべく、また、建築業界の悪しき旧弊を駆逐すべく、いろんなトピックに渡って取材結果が盛り込まれています。特に、マンションは都市部に多く立地していて、ここ10年余りの間に高層の、いわゆるタワーマンションもアチコチに竣工していますから、マンション住民は決して少なくなく、そのまま朽ち果てるマンションや人間もかなりの割合に上りそうな気がします。というのも、昔から「住宅双六」というのがあり、学校を卒業して就職して、まずは独身寮や単身者向けのアパートなどに入ります。もちろん、大学生になる際に親元を離れて、下宿やアパートに入る場合もあり、我が家の2人の倅はこの段階ではなかろうかと考えないでもありません。そして、結婚して世帯向けの社宅や賃貸マンションに入ります。私の場合、公務員で官舎が潤沢に準備されていて、さらに、私自身に海外勤務が少なくなかったこともあり、この段階が長かった気がします。そして、やや狭めの賃貸マンションから、少し広めの分譲マンションに移り、最後に、庭付きの一戸建てで人生を終える、というカンジではないでしょうか。でも、繰り返しになりますが、マンションで人生を終える人も、特に都市部では少なくありません。ただ、本書でも指摘されているように、我が国の不動産といえば上物の家建物は評価されず、土地神話がまだまだ残っているのも確かです。ですから、マンションを修理しながら長く住み続けるという発想が乏しく、デベロッパーは新築マンションを売り抜ける、というビジネス・パターンを取りがちでメンテナンスに力は入りません。そこに、悪質コンサルや施工業者がつけ込んで、リベートを上乗せした高価な工事を発注させたり、談合のような競争なしでの工事受注が広まったりすると、本書では警告しています。そういった悪例に対して、みごとにメンテナンスされ、それゆえに、中古マンションとしても価格を維持しているような優良物件も紹介されています。マンションは住まいであるとともに、個人の資産でもあり、さらに、特に大規模なマンションであれば地域に及ぼす影響力も決して無視できません。さらに、リゾート・マンションのようなマルチハビテーションの一環で、住民の本拠地になっていないマンションもあります。どのようにすれば、住まいとして、資産として、地域に一定の影響力あるプレイヤーとして、マンションをよりよくすることが出来るのか、なかなか示唆に富む新書だった気がします。

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最後に、日本文藝家協会[編]『時代小説 ザ・ベスト 2019』(集英社文庫) です。昨年出版された時代小説のうちの短編11作を収録しています。収録作は、吉川永青「一生の食」、朝井まかて「春天」、安部龍太郎「津軽の信長」、米澤穂信「安寿と厨子王ファーストツアー」、佐藤巖太郎「扇の要」、中島要「夫婦千両」、矢野隆「黄泉路の村」、荒山徹「沃沮の谷」、伊東潤「大忠の男」、川越宗一「海神の子」、諸田玲子「太鼓橋雪景色」となっています。一部の例外はあるものの、かなり極端に、大御所の大ベテランと若手に二分された気がします。私の歴史小説観は、天下泰平の江戸期の武士階級を主人公に、封建制下での主君が資本制下での会社のように倒産することないことから、思う存分にお家騒動に没頭する、というものですが、もちろん、そうでない作品もいっぱい収録されています。特に米澤穂信作品は時代小説としてはとても異色です。私の好みとしては、ここ23年で新しく出現した若手作家の周防柳の作品を収録して欲しかった気がします。私は、『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、『高天原 厩戸皇子の神話』の長編3作しか読んでいませんが、江戸期よりももっと古く、我が国の古典古代といえる飛鳥・奈良期から平安期を舞台にした時代小説に大いに注目しています。
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2019年11月09日 (土) 09:10:00

今週の読書は話題の現代貨幣理論=MMTのテキストをはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、財政のサステイナビリティに関する話題の経済理論である現代貨幣理論(MMT)の第一人者による入門テキストをはじめとして、以下の通りの計7冊です。NHKの朝ドラと「チコチャンに叱られる!」の再放送を見終えて、これから、来週の読書に向けた図書館回りに出かける予定ですが、来週も充実の数冊に上りそうな予感です。

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まず、L. ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論』(東洋経済) です。著者は、米国バード大学のマクロ経済学研究者です。米国ワシントン大学ミンスキー教授の指導の下で博士号を取得しているそうです。英語の原題は Modern Money Theory であり、2015年の出版、第2版です。話題のMMT=現代貨幣理論の第1人者による入門教科書です。私は今回は図書館で借りましたが、来年になれば研究費で買えるのではないかと期待していますので、ザッと目を通しただけ、というところです。MMTに関しては大きな誤解があり、主流派のエコノミストは、おそらく、ちゃんと理解しないままに、MMTとは無制限に国債を発行して財政、もしくは、財政赤字を膨らませる理論である、と受け止めているんではないかと思います。でも、本書を読めば、MMTもそれなりに美しく主流派経済学と同じようなモデルに立脚したマクロ経済学理論であると理解できることと私は考えます。まず、冒頭で、貨幣=moneyとは一般的、代表的な計算単位であり、通貨=currencyとは中央銀行を含む統合政府が発行するコインや紙幣、とそれぞれ定義し、通貨が貨幣になる裏付け、通貨が生み出されるプロセス、財政政策の方向、の3点を理解することが重要と私は考えます。まず、第1に、通貨が貨幣という一般的な交換手段となる裏付けについては、市場で交換価値がある、すなわち、みんなが受け取るから、という主流派経済学の貨幣論を説明にならないと強く批判し、そうではなく、すなわち、交換で何か貨幣と同じ価値あるモノを受け取れるからではなく、政府が納税の際に受け取るからである、と指摘します。これはとても建設的な意見でクリアなのではないでしょうか。第2に、通貨創造についても、銀行が帳簿に書き込むからであって、それに対する預金の裏付けはない、と指摘します。キーストロークによる貨幣創造です。ですから、私なんぞも以前は誤解していたんですが、「国債発行が国内の民間貯蓄額を越えればアブナイ」という議論を否定します。政府が国債を発行して民間経済主体の銀行口座に預金が発生するわけです。当たり前なんですが、誰かの負債はほかの誰かの資産となります。そして、第3に、自国通貨を発行する権限のある中央銀行を含む政府は支出する能力はほぼ無限にある一方で、支出する能力が無限だからといって支出を無条件に増やすべきということにはならず、インフレや、同じことながら、通貨への市場の信認などに配慮しつつ、経済政策の目標を達成するための手段と考えるべきと指摘しています。逆から見て、プライマリーバランスや公債残高のGDP比などの財政健全性に関する指標を機械的に達成しようとするのは不適切である、ということになります。ということで、さすがに、定評あるテキストらしく、背後にあるモデルが明快であり、とても説得的な内容となっています。しかしながら、最後に、間接的な関連も含めて、3点疑問を呈しておくと、第1に、国債消化についてであり、負債は逆から見て資産とはいえ、国債が札割れを起こすこともあり、その昔の幸田真音の小説のような共謀は生じないとしても、負債が必ずしも資産に転ずるわけではない可能性をどう考えるか、そうなれば、主流派的な「みんなが受け取るから国債が資産になる」という考えが復活するのか、すなわち、我が国の財政法では国債の日銀引き受けは否定されているわけで、何らかの民間金融機関、プライマリーディーラーが国債を引き受けてくれる必要があるんですが、それが実現されないほどの大量の国債発行がなされる場合をどう考えるかに不安が残ります。第2に、私はリフレ派のように中央銀行が本書で政府の役割を果たすのも経済理論的には同じだと考えていて、例えば、「日銀はトマトケチャップを買ってでも通貨供給を増やすべき」と発言したとされるバーナンキ教授も同じではないかと思っていて、そうすればリフレ派とMMT派の違いはかなり小さく、MMT派が市場を無視する形で主権国家が財政を用いて強権的に購買力を行使するのと、中央銀行が市場の合理性を前提に通貨の購買力を行使して貨幣を供給するのと、は大きな違いではなく、実質的には差はなくなるような気がしないでもありません。最後の第3点目で、本書とは直接の関係ないながら、特に現在の日本で財政赤字がここまでサステイナブルなのは、動学的効率性が失われているからではないか、と私は考えています。動学的効率性の議論はかなり難しくて、長崎大学に出向した際に紀要論文で取りまとめた「財政の持続可能性に関する考察」においてすら回避したくらいで、このブログで論ずるにはあまりにもムリがありますが、MMT的な財政のサステイナビリティと動学的効率性が失われている時の財政のサステイナビリティが、どこまで違って、どこまで同じ概念なのか、理論的にはかなり気にかかります。ということで、ついつい長くなり、私には私なりの疑問はあるものの、実践的には、このテキストがどこまで中央銀行を含む政府の中で信任を得られるか、ということなのかもしれません。ケインズ政策が米国のニューディール政策に取り入れられるのに大きなタイムラグはありませんでしたが、政府を定年退職した我が身としてはとても気がかりです。なお、最後になりましたが、ひとびとの経済政策研究会のサイトに、とても参考になる解説メモが関西学院大学の朴教授によりアップされています。以下の通りです。ご参考まで。ただ、このメモを取りまとめた時点では、朴教授はMMT論者ではないと明記しています。お忘れなく。


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次に、ヤニス・ヴァルファキス『わたしたちを救う経済学』(ele-king books) です。著者は、ギリシアの債務問題が発覚した後の急伸左派連合(シリザ)のツィプラス政権下で財務大臣を務めたギリシア出身のエコノミストであり、反緊縮など、かなりの程度に私と考えを同じくしています。立命館大学の松尾教授が巻末に解説を記しています。なお、バルファキスなのか、ヴァルファキスなのか、は、私はギリシア語を理解しませんが、このブログでも今年2019年月日に『黒い匣』の、また、同じく月日に『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の、それぞれの読書感想文を取り上げています。ということで、本書は基本的には、『黒い匣』と同じテーマ、すなわち、ギリシアの財政破綻とその後処理に焦点を当てています。『黒い匣』では、もちろん、対外的な交渉はあるものの、基本的に、当時のギリシア国内や政権内部にスポットを当てていたのに対し、本書では歴史的にかなり前にさかのぼるとともに地理的にも欧州延滞を視野に入れ、ユーロ圏の通貨同盟が成立する歴史をひも解いています。その上で、『黒い匣』と同じように、ギリシア国民の医療費や年金よりも、公務員給与よりも、欧州各国の銀行への債務返済に対してもっとも高い優先順位を付与するブラッセルのEU官僚やドイツ政府高官などを批判しています。特に、歴史的に通貨連合の設計段階までさかのぼっています、というか、第2次大戦末期のブレトン・ウッズ体制までさかのぼっていますので、何が問題であって、結局のところ、「強い者はやりたい放題、弱い者は耐えるのみ」という結果を招いたのかを解明しようと試みています。一言でいえば、ユーロによる通貨統合は民主的な制御を持たない金本位制の復活であったと私は考えています。トリフィンのトリレンマから、国際金融上では固定為替相場と自由な資本移動と独立した金融政策の3つは同時には成立できません。金本位制下では独立の金融政策を放棄して、また、戦後のブレトン・ウッズ体制下の固定為替相場制では独立の金融政策もしくは自由な資本移動を犠牲にして、それぞれ国際金融市場を機能させてきたわけですが、欧州を除く日米では現在は固定為替相場を放棄しています。しかし、欧州のユーロ圏では独立した金融政策を放棄して固定為替相場、というか、通貨連合を運営しているわけで、そのリンクのもっとも弱い環であるギリシアが切れた、と著者も私も考えています。ギリシアに続くのはPIGSと総称されたアイルランドやスペイン・イタリアなどですが、なぜか、ギリシアに過重な負担を生ぜしめたのはEU官僚とドイツ政府高官が、いわば、後続の破綻可能性ある国への見せしめとする意図を持っていたというのは、私は否定しようもないと受け止めています。本書で著者は、欧州統合や通貨連合に反対しているのではなく、そういった経済政策が国民それぞれの民主主義に従って運営されることを主張しているわけです。その点は間違えないようにしないといけません。ケインズの「平和の経済的帰結」が何度か言及されていますが、ギリシアのツィプラス政権がトロイカの軍門に下った後、ギリシアのナチ政党である「黄金の夜明け」が議席を伸ばしたとまで書いています。正しく国民生活に資する経済政策が実行されない限り、民主主義が何らかの危険にさらされる可能性があることは、国民ひとりひとりが十分に自覚すべきです。

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次に、野村総合研究所・松下東子・林裕之・日戸浩之『日本の消費者は何を考えているのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のコンサルであり、3年おきに野村総研が実施している「生活者1万人アンケート」からわかる日本人の価値観、人間関係、就労スタイルなどを基に、世代別の消費行動などをひも解こうと試みています。今回の基礎となる調査は2018年に全国15歳以上80歳未満を対象に実施されており、2018年11月8日付けでニュースリリースが明らかにされています。本書では、世代的には、かの有名な独特のパターンを形成している団塊世代(1946~50年生まれ)から始まって、私なんぞが含まれるポスト団塊世代(1951~59年生まれ)、大学を卒業したころにバブルを経験するバブル世代(1960~70年生まれ)、団塊世代の子供達から成る団塊ジュニア世代(1971~75年生まれ)、さらにその後に生まれたポスト団塊ジュニア世代(1976~82年生まれ)、バブルを知らないさとり世代(1983~94年生まれ)、我が家の子供達が属するデジタルネイティブ世代(1995~2003年生まれ)に分割しています。第1章では、スマートフォンの普及などにより家族が「個」化していき、家族団欒が消失して消費が文字通りの「個人消費」となって行きつつある我が国の消費や文化を見据えて、第2章では世代別に価値観などを分析し、団塊世代や私のようなポスト団塊世代では日本に伝統的・支配的だった価値観が変容しつつあり、また、我が家の子供たちのデジタルネイティブ世代では競争よりも協調を重視し、全国展開しているブランドへの信頼感高い、などとの結論が示されており、さすがに、私の実感とも一致していたりします。また、最後の第3章では「二極化」と総称していますが、要するに、一見して相反する消費の現状を4つの局面から把握しようと試みています。すなわち、利便性消費 vs. プレミアム消費、デジタル情報志向 vs. 従来型マス情報志向、ネット通販 vs. リアル店舗、つながり志向 vs. ひとり志向、となっています。それぞれに興味深いところなんですが、3番目と4番めについては、時系列的に、ネット通販⇒リアル店舗、また、つながり志向⇒ひとり志向、という流れで私は理解しており、特に、ネット通販で大手筆頭を占めるアマゾンがリアルの店舗を、しかも、レジなどのない先進的なリアル店舗を始めたというニュースは多くの人が接しているんではないでしょうか。また、つながり志向にくたびれ果てて、結局ひとりに回帰するというのも判る気がします。ボリューム的にも200ページ余りで図表もあって、2~3時間で読み切れるもので、内容的にも「ある、ある」的なものであるのは確かなんですが、世間一般で言い古されたことばかりが目立ち、特に、何か新しい発見があるのかとなれば、とても疑問です。学問的には世間一般の実感をデータで裏付けるのは、それなりに意味あるんですが、本書については、消費の最前線でマーケティングなどに携わっているビジネスパーソンには、誠に残念ながら、目新しさはほとんどなさそうな気もします。

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次に、三浦しをん『のっけから失礼します』(集英社) です。著者は押しも押されもせぬ中堅の直木賞作家の三浦しをんであり、雑誌「BAILA」での連載に、それぞれの章末と最後の巻末の書き下ろし5本を加えた「構想5年!」(著者談)の超大作(?)エッセイ集に仕上がっています。ということで、相変わらず、著者ご本人も「アホエッセイ」と呼ぶおバカな内容で抱腹絶倒の1冊なんですが、自分自身の興味に引き付けて野球のトピックを、また、著者の追っかけの趣向に呼応して芸能ネタを取り上げたいと思います。まず、多数に上るエッセイの中で野球をテーマにしているのはそう多くありませんが、笑ったのは、著者の体脂肪率が首位打者並み、というので、軽く3割をクリアしているんだろうと想像できます。私自身は2割もないので、守備のいい内野手、ショートやセカンドあたりか、キャッチャーでもなければレギュラーが取れそうもありません。それにしても、阪神の鳥谷選手がどうなるのか、とても気になります。アラフォーの女性編集者が、楽天ファンでありながら、横浜に入団するプロ野球選手になる自分を完璧にシミュレーションしているというのは、驚きを越えていました。私は長らく阪神ファンですが、こういった自分のパーソナル・ヒストリーを改ざんすることはしたことがありません。もうひとつは、追っかけ関係で、BUCK-TICKのコンサートに強い情熱をもっていたのは、以前のエッセイなどから明らかだったんですが、私が読み逃していたのが原因ながら、宝塚への傾倒も並大抵のものではないと知りました。知り合いから『本屋さんで待ちあわせ』でも宝塚や明日海りおの話題があったハズ、と聞き及びました。すっかり忘れていました。それはともかく、明日海りお主演の「ポーの一族」観劇を取り上げたエッセイはもっとも印象的だったうちの1本といえます。ほかにも、EXILEファミリーへの熱い思いなどもありましたが、ソチラは私にも理解できる気がするんですが、三浦しをんだけでなく、一部の女性の宝塚への情熱は私には到底計り知れない域に達している気がします。まあ、逆に、それほどではないとしても、一部男性がひいきにするプロ野球チームへの思い入れが女性に理解できない場合があるのと同じかもしれません。同じ年ごろの女性ライター、というか、早稲田大学出身の三浦しをんに対して、立教大学出身の酒井順子のエッセイは、よく下調べが行き届いたリポートみたいなんですが、まったく違うテイストながら、私はどちらのエッセイも大好きです。

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次に、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(文藝春秋) です。今年2019年本屋大賞受賞作です。先週取り上げた『ベルリンは晴れているか』が3位で、2位以下が200点台の得点に終わった中で、この作品だけは400点を越えてダントツでした。それだけに、図書館の予約の順番もなかなか回って来ませんでした。主人公は女子高校生で、この作品の中で幼稚園前からの人生を振り返りつつ、短大を卒業して20代半ばで結婚するまでのパーソナル・ヒストリーが語られます。その人生は、穏やかなものながら起伏に富んでおり、水戸優子として生まれ、その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮優子を名乗っています。でも、「父親が3人、母親が2人いる。 家族の形態は、17年間で7回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。」とうそぶき、家族関係をそれとなく心配する高校の担任教師に対して、ご本人はひょうひょうと軽やかに、愛ある継親とともに、そして、友人に囲まれながら人生を過ごします。まあ、現実にはありそうもないストーリですので、小説になるんだろうと私は考えています。ということで、本書の隠し味になっているピアノについて、この感想文で語りたいと思います。主人公の母親が死んだあと、実の父親が再婚しながら海外勤務のために離婚し継母との日本での生活を選択した主人公なんですが、この2人目の母親がキーポイントとなり、何と、主人公にピアノを習わせるためにお金持ちの不動産会社社長と再婚し、さらに離婚の後、東大での一流会社勤務のエリートが親として最適と判断して再婚して主人公の人生を託します。主人公も期待に応えてピアノを習い、そのピアノが縁となって結婚相手と結ばれ、その結婚式でこの作品を締めくくります。まあ、ここまで出来た継母に恵まれることは極めて稀なわけで、その継母がピアノに愛着を持って調律すら自分でするようなお金持ちと再婚し、最後に、継子を託すに足るエリートと再婚するなんて、あり得ないんですが、この最後の継父が主人公の結婚相手をなかなか認めてくれないというのも、とてもひねったラストだという気がします。もちろん、とてもひねりにひねったストーリー、というか、プロットをを構成し、それをサラリと記述する表現力は認めるものの、ここまで不自然なプロットが進行していく必然性が大きく欠けている気がします。時系列的にそうなった、という流れのバックグラウンドにあるきっかけでもいいですし、何かの必然性、特に、継母の考えや心理状態なんかはもっと深く掘り下げられていいんではないかと思います。私の独特の考えなのかもしれないものの、我々通常の一般ピープルの普通の生活に比べたノーマルよりも、良からぬ方向やアブノーマルなものについては、殺人事件が起こるミステリが典型ですが、それほど詳細な叙述を必要としない一方で、ノーマルよりもさらにきれいで美しく、とても良い方向が示される場合は、なぜ7日を詳細に裏付ける必要があります。残念ながら、作者にはそのプロット構成力ないのか、それとも、私に読解力ないのか、その流れを読み取れませんでした。ですから、私は感情移入することが難しく、「アっ、そう。そうなんだね。」としか感じられず、別のストーリーもあり得るという意味で、実に、小説の舞台を離れた客席から観客としてしか小説を読めませんでした。ハラハラ、ドキドキ感がまったくないわけです。でも、そういった読み方がいいという向きも少なくないんだろうという気もします。小説の好きずきかもしれません。

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次に、日本文藝家協会[編]『ベスト・エッセイ 2019』(光村図書出版) です。収録作品は、50音順に、彬子女王「俵のネズミ」、朝井まかて「何を喜び,何を悲しんでいるのか」、浅田次郎「わが勲の無きがごと」、東浩紀「ソクラテスとポピュリズム」、足立倫行「大海原のオアシス」、荒井裕樹「『わかりやすさ』への苛立ち」、五木寛之「『先生』から『センセー』まで」、伊藤亜紗「トカゲとキツツキ」、井上章一「国境をこえなかった招福の狸」、宇多喜代子「金子兜太さんを悼む」、内田樹「歳月について」、内田洋子「本に連れられて」、王谷晶「ここがどん底」、岡本啓「モーニング」、長田暁二「ホームソング優しく新しく」、小山内恵美子「湯たんぽ,ふたつ」、落合恵子「伸びたTシャツ」、小野正嗣「書店という文芸共和国」、角田光代「律儀な桜」、華雪「民―字と眼差し」、桂歌蔵「師匠,最期の一言『ハゲだっつうの,あいつ』」、角野栄子「アンデルセンさん」、金澤誠「高畑勲監督を悼む」、岸政彦「猫は人生」、岸本佐知子「お婆さんのパン」、北大路公子「裏の街」、くぼたのぞみ「電車のなかの七面相」、黒井千次「七時までに」、「共働きだった両親の料理」鴻上尚史、小暮夕紀子「K子さんには言えない夏の庭」、齋藤孝「孤独を楽しみ孤立を避ける50歳からの社交術」、酒井順子「郵便」、さだまさし「飛梅・詩島・伊能忠敬」、佐藤究「ニューヨークのボートの下」、佐藤賢一「上野の守り神」、沢木耕太郎「ゴールはどこ?」、ジェーン・スー「呪文の使いどき」、砂連尾理「ノムラの鍵ハモ」、朱川湊人「サバイバル正月」、周防柳「山椒魚の味」、杉江松恋「『好き』が世界との勝負だった頃」、瀬戸内寂聴「創造と老年」、高木正勝「音楽が生まれる」、高橋源一郎「寝る前に読む本,目覚めるために読む本」、高山羽根子「ウインター・ハズ・カム」、滝沢秀一「憧れのSという街」、千早茜「夏の夜の講談」、ドリアン助川「私たちの心包んだ人の世の華」、鳥居「過去は変えられる」、鳥飼玖美子「職業と肩書き」、永田紅「『ごちゃごちゃ』にこそ」、橋本幸士「無限の可能性」、林真理子「西郷どんの親戚」、原摩利彦「フィールドレコーディング」、広瀬浩二郎「手は口ほどに物を言う」、深緑野分「猫の鳴き声」、藤井光「翻訳の楽しみ 満ちる教室」、藤沢周「五月雨」、藤代泉「継ぐということ」、星野概念「静かな分岐点」、細見和之「ジョン・レノンとプルードン」、穂村弘「禁断のラーメン」、マーサ・ナカムラ「校舎内の異界について」、万城目学「さよなら立て看」、町田康「捨てられた魂に花を」、三浦しをん「『夢中』ということ」、村田沙耶香「日本語の外の世界」、群ようこ「方向音痴ばば」、森下典子「無駄なく,シンプルに。『日日是好日』の心」、山極寿一「AI社会 新たな世界観を」、行定勲「人間の奥深さ 演じた凄み」、吉田篤弘「身の程」、吉田憲司「仮面の来訪者」、若竹千佐子「玄冬小説の書き手を目指す」、若松英輔「本当の幸せ」、綿矢りさ「まっさーじ放浪記」となっています。収録順はこれと異なりますので、念のため。ということで、もちろん、作家やエッセイスト、あるいは、研究者などの書くことを主たるビジネス、あるいは、ビジネスのひとつにしている人が多いんですが、皇族方から、俳優さんなどの芸能人を含めて幅広い執筆陣となっています。昨年を中心に、いろんな世相や世の中の動きを把握することが出来そうです。掲載媒体を見ていて感じたんですが、京都出身だからかもしれないものの、全国紙の朝日新聞や日経新聞と張り合って、京都新聞掲載のエッセイの収録がとても多い気がします。毎日新聞や読売新聞よりも京都新聞の方がよっぽど収録数が多い気がします。何か、理由があるのでしょうか?

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最後に、日本文藝家協会[編]『短篇ベストコレクション 2019』(徳間文庫) です。文庫本で大きな活字ながら、700ページに達するボリュームです。私にして読了するには丸1日近くかかります。ということで、収録作品は作者の50音順に配されており、青崎有吾「時計にまつわるいくつかの嘘」、朝井リョウ「どうしても生きてる 七分二十四秒めへ」、朝倉かすみ「たんす、おべんと、クリスマス」、朝倉宏景「代打、あたし。」、小川哲「魔術師」、呉勝浩「素敵な圧迫」、小池真理子「喪中の客」、小島環「ヨイコのリズム」、佐藤究「スマイルヘッズ」、嶋津輝「一等賞」、清水杜氏彦「エリアD」、高橋文樹「pとqには気をつけて」、長岡弘樹「傷跡の行方」、帚木蓬生「胎を堕ろす」、平山夢明「円周率と狂帽子」、藤田宜永「銀輪の秋」、皆川博子「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」、米澤穂信「守株」となっています。作者に関しては、大ベテランといえば聞こえはいいものの、要するにお年寄りから若手まで、バラエティに富んでいれば、作品もミステリや大衆的な落ちのある作品から、純文学、ファンタジー、ホラーにSF、さらにドキュメンタリータッチと幅広く収録しています。平成最後の昨年の傑作そろいを収録したアンソロジーに仕上がっています。
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2019年11月03日 (日) 14:30:00

先週の読書は経済書から文庫本の小説まで大量に読んで計8冊!!!

先週は、昨日に米国雇用統計が割り込んで、読書日が1日多かったことに加えて、割とボリューム的に軽めの本が多く、結局、8冊の読書になりました。先々週や先週からの反動増という側面もあります。逆に、今週の読書は3連休でありながら、かなり水準の高い経済学の教科書『MMT現代貨幣理論』を借りたこともあって、冊数的には少しペースダウンするかもしれません。

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まず、嶋中雄二ほか[編著]『2050年の経済覇権』(日本経済新聞出版社) です。著者は、三和総研からUFJ総研、さらに、現在は三菱UFJモルガンスタンレー証券の景気循環研究所の所長であり、私の所属学会のひとつである景気循環学会の副会長でもあります。本書においても、景気循環研究所のメンバーが分担執筆しているようです。ということで、副題の「コンドラチェフ・サイクルで読み解く大国の興亡」に見られるように、バンドパス・フィルターを駆使してunivariate に設備投資のGDP比などから長期波動であるコンドラチェフ・サイクルを抽出し、2050年くらいまでの経済的な循環をひも解いています。最初の第1章と第2章でコンドラチェフ・サイクルの解説などがあり、その後、実際に、第3章では軍事と科学技術から、第4章では人口動態から、第5章では国際収支から、第6章では相対価格から、第7書の大トリでは各種指標のGDPから、それぞれ、おおむね、産業革命以後2050年くらいまでの長期波動の抽出が試みられています。もちろん、過去の同様の研究成果であるロストウの結論を再検討しているように、本書の結論も新たなデータが付加されるに従って、それなりの修正が施される可能性は大いにありますが、超長期の経済サイクル、というか、経済だけでなく、その昔の総合国力的なサイクルの抽出が示されているのは、極めて興味深いと私は受け止めています。私が知る限りで、2050年までを見通した経済予測は、本書でも取り上げられている通り、アジア開発銀行(ADB)の Asia 2050: Realizing the Asian Century と経済協力開発機構(OECD)の Looking to 2060: Long-term global growth prospects があり、特に後者はこのブログの2012年11月13日付けで取り上げていたりします。もちろん、ほかにも投資銀行などの金融機関やシンクタンク、あるいは、個人の研究者などが長期見通しを明らかにしています。そういった中で、本書の特徴は、生産関数などに特段の前提を置かずに、バンドパス・フィルターを用いて univariate にそれぞれの指標を引き延ばしている点であり、逆に、それが弱点と見なす向きもあるかもしれませんが、超長期見通しに取り組むんですから、これくらいのモデルの特定化は私は受け入れるべきだと考えています。ですから、抽出されたサイクルに、表現は悪いかもしれませんが、後付けで理由が添えられていたりします。2050年の世界経済、あるいは、経済覇権なんて、蓋然性に対する評価は私のは出来ようはずもなく、今年3月に60歳の定年退職を迎え、すでに61歳の誕生日も過ぎている身としては、2050年には90歳を超えるわけですから、我と我が身で2050年の世界経済を見届けることはムリそうな気もします。それでも、こういった大胆な超長期見通しの有用性や有益性は、決して、小さいわけではないと考えています。

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次に、大海渡桂子『日本の東南アジア援助政策』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、世銀やその昔の海外経済協力基金(OECF、今は経済協力機構=JICAに統合)などで開発金融の実務の経験ある方のようで、すでにリタイアしているのではないかと思います。私はジャカルタにてJICA長期専門家として経済モデル分析の技術協力に携わって来ましたし、それなりの実務経験もありますので、専門分野にも近く興味を持って読みました。ただ、出版社から想像されるような専門書や、ましてや学術書ではありません。残念ながら、その域には達していないといわざるを得ません。ただ、日本の経済協力の歴史を概観するものとして、大学生くらいを対象にする読み物としてはいいんではないか、という気もします。ということで、日本の海外経済協力=ODAの4つの特徴、すなわち、アジア、インフラ、タイド、円借款が、歴史的にいかにして形成されて来たかについてひも解いています。米軍占領下で外交主権を持たず、また、その後のサンフランスシコ平和条約締結後も東西対立の冷戦という世界情勢の下、対米従属下で援助をはじめとする外交政策の策定や遂行を行ってきた我が国としては、ほかに選択の余地もなかった、ということなのかもしれません。特に、「国際収支の天井」と称されたブレトン・ウッズ体制下の外貨制約の下で、希少なドルを外国に支払うことを回避して資本財や役務での賠償支払いに持って行った外交努力は特筆すべきものがあります。その流れでタイドの円借款になったのは経路依存的なODAでは、ある意味で、必然だったかもしれません。地域的な特色として、米国やカナダの北米が中南米に、欧州がアフリカに、そして、我が国がアジアに援助の対象を広げるというのも、とても自然であることはいうまでもありません。大陸にける中華人民共和国という共産主義国家の建国と朝鮮戦争における参戦を経て、中国という資源供給元かつ製品輸出先を失い、東南アジアにその代替的な役割を求めたのも自然な流れといえます。ただ、日本の援助政策はあまりにも経済に偏っており、米国的な人権外交のような民主主義的改革の徹底という面を欠き、東南アジア各国が開発独裁に陥った責任は本書では分析することを回避しており、少しその面で物足りない気がします。また、著者の上げる日本の援助政策の4つの特徴は、我が国経済政策の基となる家族観である長期雇用下での年功賃金を受け取る男親方働き+専業主婦+子供2人、という、いわゆる「モデル家計」のように、今では、決して、アジア、インフラ、タイド、円借款の4点セットを反映する代表的な援助は多くはない一方で、日本の援助政策を考える上では基本となると私は考えており、少数派になったからといって軽視すべきではないと考えます。

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次に、室脇慶彦『IT負債』(日経BP社) です。著者は、野村総研のコンサルタントであり、本書でも明らかにしているように、従来は基幹系システムについてモノリスなウォーターフォール型のシステム開発を推奨していたようなんですが、本書では、2025年のレガシー・システム問題に米国流のマイクロサービスによる基幹系システム再構築で対応すべき、との議論を展開しています。これですべてを理解した人は、おそらく、本書を読む必要すらないような気がしますが、一応、本書の概要と私の感想を記しておきたいと思います。ということで、IT分野では何によらず我が国産業界の遅れが目立つんですが、本書は、DX=デジタルトランスフォーメーション、すなわち、企業がIT技術を駆使して、企業活動のスコープや業績を画期的に改善ないし変化させる、というDXについての概要解説書であり、特に日本企業の遅れを鋭く指摘しています。私には技術的な解説や方向性については、おそらく半分も理解できなかった気がしますが、その昔のように、給与計算とか一定のデータベース管理にとどまるのではなく、企業経営に通信とデータ解析を大いに盛り込むことは必要であることはいうまでもありません。直感的な感覚で勝負していたスポーツ分野、例えば、野球でもサイバー・メトリクスが活用されたマネー・ボールになりつつありますし、米国で盛んなバスケットボールやアメリカン・フットボールなどはデータも豊富に提供されています。ただ、我が国企業経営の場合、とかくハードウェアに目が行きがちで、その昔は立派なメインフレーム・コンピュータを購入して据え付ければOK,というカンジで、いまでも、従業員の席上にPCを1人1台並べればOK、という気もします。従業員は、例えば、ネット・ショッピングに興じていたりしても外観上は判りはしません。ですから、むしろ、データやソフトウェアの活用が重要となるんですが、外観上の明確な変化がない上に、日本的に年齢のいった経営者に理解されにくいのも事実です。本書では、ウォーターフォール型でモノリス的な一枚岩の技術利用から、クラウド型のマイクロサービスへの切り替えを提唱していますが、国家の発展段階と同じで、企業の発展段階においてもリープ・フロッグ型の成長が成り立つような気がします。すなわち、本書のタイトルである「IT負債」はそれなりの歴史ある企業に蓄積されていて、スタートアップ企業には夫妻がない分、いきなりマイクロサービスを導入することが出来そうな気もします。ですから、システム利用技術の面だけでなく、企業文化の若返りの面からも技術利用が進む必要あるんではないか、と詳しくない私なんぞは思ってしまいます。ハッキリいって、本書を読んで目覚めた技術者は、本書を読まなくても理解が進んでいるんでしょうから、アタマの堅い上司の説得に本書は利用されるんではないか、という気もします。

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次に、パブロ・セルヴィーニュ & ラファエル・スティーヴンス『崩壊学』(草思社) です。著者2人はフランス人ということで、崩壊学や移行過程に関する専門家、また、環境分野に詳しい印象ですが、私にはよく判りません。フランス語の原題は Comment tout peut s'effondrer であり、2015年の出版です。ということで、基本はエネルギー問題におけるローマ・クラブ的なメドウズらによる『成長の限界』のラインに乗りつつ、それをさらに進めて、現在の経済はもはやサステイナブルな軌道を外れており、後は崩壊が待ち受けるのみ、という極めて悲観的な結論を提示しています。本書は3部構成となっており、第1部では崩壊のきざしを論じており、ロック・イン現象が働いて軌道修正が困難となった現状を詳細に展開しています。異常気象はいうまでもなく、ピークオイルからエネルギーの枯渇というローマ・クラブの伝統に根ざす議論、まだまだ現役のマルサス的な人口問題、生物多様性の喪失、さらに、経済分野では金融危機の多発まで、これでもかというくらいの崩壊への兆しが列挙され、私のような楽観バイアスの塊の人間ですら不安を覚えます。ただ、第2部に入って、その崩壊がいつぬかるのか、というトピックに移ると、未来学の難しさなるテーマが冒頭に来て、議論が極めてあいまいになり、一気に崩壊に向かう歴史的確実性に対する信頼性が落ちてしまいます。第3部では本書の基礎をなしている「崩壊学」が取り上げられています。私が読んだ限りですし、私が読み切れなかった部分もあるかもしれないんですが、本書の結論は、繰り返しになりますが、もはやサステイナブルな軌道に戻るすべはなく、ハッキリとは書かれていないものの、「何をしてもムダ」であり、人類文明の崩壊を避けることはできない、ということのような気がします。ただ、それはいつのことなのかは判らない、ということです。ですから、この核戦争バージョンが『渚にて』なわけで、いろいろな人生模様が盛り込まれていましたが、まあ、人生最後の日が近づく中で、もう助からないとすれば自分の好きなことをしたり、最悪、自暴自棄になる人もいれば、逆に、今までと同じ人生の日々を送ろうとする人もいるわけで、やっかいなのは、これも繰り返しになりますが、その人生最後の日がいつになるかが判らない点です。地球最後の日が数年以内であればともかく、数百年後で人類の寿命というタイムスパンで考えれば、まだまだ先、ということであれば、大きな差があります。私はそれなりにまじめに読んだつもりですが、地球は崩壊する、必ず崩壊するが、それがいつになるかは判らない、といわれれば、それは地球は崩壊しない、といわれているのと同じと受け止める人は少なくないような気がします。

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次に、ヤシャ・モンク『民主主義を救え!』(岩波書店) です。著者は、ポーランド人の両親を持ちドイツで生まれ育ち,英国で学位を取得し、現在は米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者です。現在の先進国の政治経済状況について、リベラルと非リベラル、そして、民主主義と非民主主義のそれぞれの二分法の観点から分析し、米国と欧州各国におけるポピュリズムの台頭などのポスト・トゥルースの現状について議論を展開しています。著者は、基本的に、私と同じでリベラルかつ民主主義的な方向を支持しているわけですが、欧州各国やトランプ大統領当選後の米国ではそうなっていないわけで、政治状況とともに経済についても分析を加えようと試みています。ただし、後者の経済分析についてはかなりお粗末といわざるを得ません。3部構成を取っており、第1部ではリベラル・デモクラシーの危機を論じ、第2部でその危機の起源を探り、最後の第3部で対処方針を考察します。第1部の危機に関する現状認識は私もかなりの程度に共有します。ただ、第2部のその起源に関しては、確かに、インターネット上にて無料で提供されるソーシャルメディアなども重要で、いわゆるエコーチェンバーやフィルターバブルを否定するものではありませんが、もっと大きなコンテクストで世界的な冷戦終了に伴い、資本のサイドで何はばかることなく露骨な利益追求がまかり通るようになった点は忘れるべきではありません。ソ連や東欧については、マルクス主義本来の社会主義ではなく、私も少し馬鹿げた社会実験だと思わないでもなかったんですが、今にして考えれば、それなりに資本のサイドへのプレッシャーになっていた可能性は否定すべくもありません。従って、なりふり構わない資本から労働サイドへの露骨な利潤追求のために賃金は上がらず、失業はヤル気や能力の欠如による「自己責任」とされ、生活水準は上がらず経済が停滞する結果をもたらしました。その経済の停滞を移民などの対外要因に責任転嫁し、ナショナリスティックな排外主義に転じたプロパガンダに絡め取られたわけです。本書ではまったむ取り上げられていませんが、自由貿易協定に反対して雇用を守ろうとする労働組合が米国大統領選でトランプ支持に回ったのが典型だと私は考えています。従って、解決策を探る第3部で冒頭に課税が上げられているのは、私も極めて同感なんですが、現実性を問われることになりかねません。そして、著者の説では、生産性を高めて、カギカッコ付きの「現代的」な福祉国家の方向を模索するのは、ほぼほぼ資本のサイドの攻勢に流され切った対処方針といわざるを得ません。せめて、右派と左派で合意可能なユニバーサルなベーシックインカムくらいの知恵がひねり出せないものかと、少し情けなく思えるくらいです。緊縮財政に戻ることなく国民サイドの見方に立った財政政策の実現など、現状でも取りえる政策の選択肢にはまだまだ広がりあるにもかかわらず、やや視野狭窄に陥っているのではないか、とすら思えてしまいます。

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次に、深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房) です。私はこの作者については前作の『戦場のコックたち』しか読んでいませんが、両作品とも直木賞候補に上げられており、それなりの水準の小説だということは十分理解しているつもりです。『戦場のコックたち』はドイツ占領下のフランスに侵攻した連合国部隊の特技兵、すなわち、タイトル通りのコックを主人公とし、本書でも第2次大戦直後のベルリンの米軍レストランで働くドイツ人少女を主人公に据えています。この少女の一家はナチではなかったため戦争中は恵まれない生活を送っていたんですが、戦後に価値観が一気に反転した上に英語ができる少女は勤め先があり、米軍からの物資も入手可能となっています。そして、恵まれなかった戦争中に恩になった音楽家が米国製の歯磨きチューブに入った青酸カリで毒殺されるという不可解な殺人事件が発生し、ソ連情報部の将校から命じられ、被害者の甥を探して思わぬ仲間とともにベルリン均衡を旅します。時はまさにポツダムで連合国のビッグスリーが会談を持ち、日本に対する降伏勧告のポツダム宣言を議論しようとしており、地理的にはまさにそのあたりです。米英仏ソの4か国が共同統治しながらも、すでに冷戦が始まっているベルリンにおいて、ゲットーから帰還したユダヤ人も入り混じって、もちろん、圧倒的な連合国の権力と物資不足と闘いながら、少女は最後に殺人事件の被害者である音楽家の甥にたどり着きます。もっとも、距離的にもベルリン均衡出隅、かつ、時間的にもわずかに2~3日のストーリーですが、本編とは別建ての「幕間」によって、主人公の幼いころにさかのぼった事実関係が解き明かされ、最後に、驚愕の殺人事件の真相が明らかにされます。繰り返しになりますが、私はこの作者の作品は『戦場のコックたち』と本書しか読んでいませんが、人物造形、というか、キャラの設定が非常に素晴らしく、また、終戦直後という異常な社会的背景、例えば、善と悪、真実と虚偽、の単純な二分法では計り知れないグレーな部分の描き方も、こういった実体験ない世代の私なんぞにも実に理解しやすくなっています。フィクションの小説であることはもちろんですが、戦時下で、とても非合理的な体験が、日本だけでなく、ドイツという敗戦国にもあったのだと実感できます。ミステリとしての謎解きは、前作の『戦場のコックたち』に及ばない気がしますが、作品としての広がりは本作の方が上かもしれません。まあ、連作短編と長編の違いも感じられます。本書は今年の本屋大賞で3位に入りましたが、1位の大賞に輝いた『そして、バトンは渡された』はすでに借りてありますので、これはこれで楽しみです。

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次に、門井慶喜『定価のない本』(東京創元社) です。著者は50歳を前に脂の乗り切ったエンタメ作家の境地に入った、と私は考えています。もっとも、私自身は不勉強にして。この作者の作品は、直木賞受賞作の『銀河鉄道の父』すら未読で、『家康、江戸を建てる』しか読んでいませんので、この作品が2作目だったりします。ということで、舞台は東京の古書街である神田神保町、時代は終戦からちょうど1年目の1946年8月15日の殺人事件から始まります。というか、主人公の弟分のような古書店主が古書の山に押し潰されて圧死し、さらに、その妻が首吊り自殺をしたように見せかけて殺されてしまいます。基本は、これらの殺人事件をGHQの指令下で主人公が解決に当たる、ということになります。死んだ2人の夫婦の謎解きについては、まあ、何といいましょうかで、本格ミステリとはほど遠いんですが、逆に、GHQとの関係、特に、「ダスト・クリーナー作戦」という「大きな物語」には、思わず、天を仰ぎました。できの悪いネトウヨの世迷い言のようなお粗末な大作戦です。確かに、ホームズのシリーズでも「ブルースパーティントン設計書」のような天下国家の大きな物語もありますし、ミステリに、というか、できの悪いミステリに天下国家を持ち込むこと自体については、決して悪いとはいいませんが、それにしても出来が悪いです。結末についても、極めてお粗末にGHQが完敗するというナショナリスティックな傾向を示しています。タイトルの「定価のない本」とは、定価が帯や表紙などに示された新刊本ならざる古本のことなんですが、その中でも、古典の典籍に歴史を見るというのもやや視野狭窄な気がします。古本ですから、徳富蘇峰や太宰治をチョイ役で登場させるのも悪くはないんですが、古書店主のキャラ設定が少しあいまいで、見分けがつきにくいというのがありますし、まあ、何につけ出来の悪い小説を選んでしまったと悔やんでいます。この作者の作品は数も多いだけに、もっとしっかりした下調べ、というか、世間の評価をちゃんと確認した上でチョイスしないといけない、すなわち、やや出来の良し悪しがハッキリするおそれがあると考えざるを得ません。本書の前に取り上げた『ベルリンは晴れているか』は、若いころに住んでいた経験があるのでそれなりに馴染みあるながら、今の住まいからはかなり遠い図書館まで自転車を飛ばして借りに行ったんですが、その甲斐はありました。でも、本書は駅前にあるすぐ近くの図書館で借りたものの、やや読み応えに欠けるものでした。とっても残念です。

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最後に、ロバート・ポビ『マンハッタンの狙撃手』(ハヤカワ文庫NV) です。著者は、それなりの年齢に見えますが、本書は初の邦訳小説であり、テイストとしてはジェフリー・ディーヴァーのようなミステリ、すなわち、本格的な謎解きというよりも、サスペンスフルでアクションたっぷりのいかにも米国的な暴力満点の事件を特殊技能持つ主人公が解決する、という小説です。英語の原題は City of Windows であり、今年2019年の出版です。ということで、米国ニューヨークはマンハッタンで、まあ、日本人しか判らないかもしれませんが、ゴルゴ13並みの凄腕の狙撃犯が大口径ライフルで連続殺人事件を起こし、主人公である元FBI捜査官のコロンビア大学教授ルーカスが事件解決に当たる、というストーリーで、この主人公のルーカスが信じられないような空間把握能力を持っており、例えば、走るトラムに乗車中の人物が狙撃された最初の事件で、狙撃地点を正確に特定したりします。ちょっと、東野圭吾の『ラプラスの魔女』を思わせる特殊能力だったりします。繰り返しになりますが、舞台はニューヨークのマンハッタンであり、クリスマス直前の12月中下旬に時間が発生します。私は同じ時期のワシントンDCを訪れた経験がありますが、12月の米国東海岸の寒さは東京の比ではありません。もちろん、雪が積もることもありますし、そうなると路面は凍結します。私は米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチアシスタントをしていたころ、ワシントン市内からジョージタウン北方のダンバートン・オークス公園や米国副大統領公邸のある米国海軍観測所の近くから通っていたんですが、北に向かって緩やかな上り坂になっているウィスコンシン・アベニューを、凍結した路面をまったく制御できなくなった大型のアメ車がスピンしながら滑り落ちていくのを何度か目撃しました。その極寒の気象条件でサイ撃ちのような大型ライフルを使い、1キロを超える距離でフットボールくらいの大きさの人間の頭部に正確にヒットさせるんですから、これはフィクションでしかあり得ません。しかも、そこにFBIの捜査活動で隻眼隻腕隻足となったコロンビア大学の宇宙物理学教授が、これまた、信じられないような空間把握能力をもって狙撃地点を特定し、事件解決に乗り出すんですから、荒唐無稽であり得ないフィクションそのものとはいえ、エンタメ小説らしく手に汗握るハラハラドキドキで楽しめる運びになっています。映画化されたりするのかもしれませんが、私は実はジェフリー・ディーヴァー原作の映画は見たことがなく、まあ、映画化されたリンカーン・ライムのシリーズは「ボーン・コレクター」くらいしか知らないので、おそらく、この作品を原作とする映画も見ないような気がします。
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2019年10月26日 (土) 11:20:00

今週の読書は共感できる移民に関する開発経済学の経済書から話題の芥川賞受賞作品まで計6冊!!!

今週の読書は専門分野に近い開発経済学の経済書をはじめとして、以下の通りの計6冊です。ちょうど1週間前の先週土曜日の段階では、4冊かせいぜい5冊くらいと予定していたんですが、今村夏子の芥川賞受賞直前作の『父と私の桜尾通り商店街』をムリに入れたりして、6冊に増えてしまいました。なお、来週の読書については、すでに図書館回りを終えており、借りてきたのはかなり多数に上るんですが、今月から来月にかけては、勉強会などでお近くの大学などに行く機会が多くて、読書家ではなくエコノミストとして週末を過ごすパターンが増えそうで、今までのように、借りられた本から手当たり次第に乱読するのではなく、少し計画的な読書を心がけようかと考えています。

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まず、ポール・コリアー『エクソダス』(みすず書房) です。著者は、英国オックスフォード大学の開発経済学の研究者であり、本書は著者が展開するもっとも貧しい社会、すなわち、「最底辺の10億人」に関する研究の一環であり、英語の原題は EXODUS です。2013年の出版です。本書では移民をテーマに取り上げており、結論を先取りすると、リベラルなエコノミストの主流をなす見解を批判するものとなっており、「移住がよいか悪か」という問いは間違っており、緩やかな移民=移住は利益をもたらし、逆に、大量移民=移住は損失をもたらす可能性が高く、重要なのは「どのくらいが最適か」を問うことである、ということになります。過大な移民=移住が不利益となる大きな理由は、国民的アイデンティティの喪失、あるいは、社会が脱国家的になる、というものです。ただ、このこりあー教授の見方には強力な反論もあります。私が知る限りでは、世銀ブログ Worldbank Blog "Reckless Recommendations" がもっとも目につきます。この世銀ブログの批判では、コリアー教授の移民=移住の出し手国が国民すべてを先進国である移住=移民の受入れ国に移住させて、国が空になる可能性を指摘しているのは非現実的であり、コリアー教授が大きな価値を置いている国民的アイデンティティはナショナリスト的な暴力や戦争をもたらす可能性もある、と指摘しています。従来からこのブログでも指摘している通り、私は圧倒的にコリアー教授の見方を支持します。すなわち、移民=移住は無制限に認めるべきものではなく、経済学によくある見方ですが、逆U字型の効用関数をしており、何らかの最適点があると考えています。特に、我が国の場合は海を挟んで隣国に人口大国が控えており、我が国の人口であり1億人強に匹敵する人数を送り込むことすら可能な人口規模を持っているからです。ですから、1億人を我が国に向けて送り出したところで、コリアー教授が懸念する送り手国の国民的アイデンティティはほとんど何の影響も受けない一方で、我が国の人口が2億人になって日本人は半分しかいない、というのでは、控えめにいっても、我が国の国民的アイデンティティが大きく変容する可能性が大きいといわざるを得ません。繰り返しになりますが、コリアー教授の国民的アイデンティティの議論は、大雑把な感触として、例えば、カリブの小国から北米への移住=移民により、送り出し国が空になる可能性であるのに対して、私の懸念はまったく逆であり、日本が人口大国の隣国から余りに大量の移住=移民を受け入れると、受け入れ国である日本の国民的アイデンティティが、場合によっては、よろしくない方向に変化する可能性がある、というものです。もちろん、世銀ブログの反論を紹介したように、そもそも、国民的アイデンティティに価値を置く議論を疑問視する向きもあるかもしれませんが、そこは価値判断だろうという気がします。

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次に、田辺俊介[編著]『日本人は右傾化したのか』(勁草書房) です。編著者は、早稲田大学の社会学の研究者であり、チャプターごとに社会学関係の著者が執筆を分担して担当しています。なお、ビジネスパーソンにも判りやすく表現されてはいますが、基本的には学術書と考えて、それなりの覚悟を持って本書の読書に取り組むべきです。ということで、印象論としては、自公連立の安倍政権がこれだけ継続していて、その背景にはもちろん選挙で連戦連勝という事実があるわけですから、政治的に、というか、投票行動として日本人が右傾化しているのは、動かしようのない事実だと私自身は考えていますが、他方で、このブログでも何度か主張しているように、現在の政権の経済政策は極めてリベラルで左派的な景気拡張的政策を実行しているのも事実です。ですから、財政的にこの10月1日から消費税率の引き上げを実施し、かなり緊縮的な運営になったわけですが、それでも、米中貿易摩擦に起因する世界経済の減速がなければ、かなり日本経済は順調であった可能性が高いと私は判断しています。ですから、改憲を目指す側面を支持する投票行動なのか、あるいは、景気拡大的な経済政策を支持する投票行動なのか、私には判断が難しいと感じていたところです。ただ、メディアなどで報道される限り、露骨なヘイトスピーチに至らないまでも嫌韓や嫌中の雰囲気は盛り上がっていますし、その昔にはなかったような「日本スゴイ」系のテレビ番組をよく見かけるのも事実です。そういった問題意識もあって、本書では、ナショナリズムとその下位概念である純化主義、愛国主義、排外主義などの観点から、2009年、2013年、2017年に実施された社会調査のデータを用いて定量的な分析を試みています。私が特に興味を持ったのは、いわゆる世代論であり、本書では第10章の若者論に当たります。半年余り前までキャリアの国家公務員として霞が関や永田町近辺に勤務し、総理大臣官邸や国会議事堂の周辺における意見表明活動を目の前で見ている限り、あくまで私の実感からではありますが、団塊の世代とかの引退高齢世代が左派的で、より若い世代が右派的、という印象を持っていました。本書の結論ではそれは否定されている、というか、半分否定されており、ナショナリズムに関しては今でも年長者ほど右派的・保守的であり、平成生まれなどの若者世代は決して右派的とか保守的というのではなく、権威に従属的な権威主義である、と本書では分析されており、「右傾化なき保守化」とか、「イデオロギーなき保守化」などと表言しています。加えて、私自身は手厚すぎる高齢者への社会保障給付にも一因あると考えている世代間の格差について、ナショナリズムや権威によって隠蔽されている可能性を示唆しており、さすがに、学術書のレベルの高さを見た気がします。

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次に、石川九楊『石川九楊自伝図録』(左右社) です。著者は書家であり、私の母校京都大学の卒業生でもあります。私自身も、20世紀まではピアノや書道のたしなみあったんですが、前世紀末に男の子2人が相次いで誕生した後、痕跡に入ってからまったく手が伸びなくなりました。特に、著者はかなり前衛的な書家であり、私の書道の先生とはかなり違った考えであったような気がします。もっとも、私の書道の先生はすでに亡くなっているので確認しようはありませんが、基本的に読売展への出展でしたから伝統派であり、前衛派の毎日展とは距離があったような気がします。本書で著者は、文として書道に取り組んでいて、細かな点や撥ねなどに重きを置かない理由を展開していますが、私の書道の先生は逆で文字に重きを置いていて、私が今でも記憶いているところでは、「大」と「太」と「犬」は点があるかないか、あるいは、どこにあるか、に従って異なる文字であり、その文字として識別されないと意味がない、とのご意見でした。このご意見は数回聞いた記憶があり、別件ながら、ドイツに日本文化紹介で訪問した際の現地市長からの感謝状はドイツ語がほとんど理解できないながらも10回近く拝見した記憶があります。そういった私の書道の先生の目から見れば、「デザイン的」と自称されている本書の著者の作品はカギカッコ付きながら「水墨画」に近い印象ではなかったか、という気がしないでもありません。例えば、上の表紙画像には著者の氏名が見えますが、かろうじて漢字として読めはするものの、本書に収録された120点余りの作品は、誠に残念ながら、私には読みこなせません。ただ、私が感銘したのは、著者の文を書くという姿勢とともに、何を書くかによって自らの初の作品を分類しているのは目を開かせるものがありました。本書の目次を拝見して、古典への回帰、とか、時代を書く、とかあるのは、読む前はもっぱら書法のことだと勘違いし、現代的な前衛的書法と古典的な書法だと思っていましたが、よくよく考えれば、私のつたない記憶でも、著者が古典的な草書や楷書や隷書や行書などで書いた書の作品は見たことがなく、題材が古典だったり、時代を反映したものだったり、ということだと理解し直しました。書道とは筆蝕の芸術という著者の見方は理解できないわけではないものの、単なる言葉遊びに堕していないのは著者の書家としての実力のなせるところであり、文字や文字の集合体としての文として認識されない場合、その筆蝕とは何なんだろうか、という気もします。王義之を持ち出すまでもなく、1000年を経てまだ評価され続けるのが書という芸術ではないかと私は考えています。1000年先まで生を永らえさせることが出来ないのはとても残念です。

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次に、今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版) とその前作の『父と私の桜尾通り商店街』(角川書店) です。作者は新々の純文学作家であり、『むらさきスカートの女』は第161回芥川賞受賞作です。私は『文藝春秋』9月号にて選評などとともに読みました。鮮烈なデビューを飾ってから、長らく芥川賞受賞が望まれていた、というか、私が望んでいただけに、さすがの水準の作品に仕上がっています。私はこの作者のデビュー作で三島由紀夫賞受賞の『こちらあみ子』、芥川賞候補となった「あひる」を収録した短篇集『あひる』は第5回河合隼雄物語賞受賞し、第3作の『星の子』でも芥川賞候補となり、第4作『父と私の桜尾通り商店街』も、今週バタバタと読みましたが、この第5作にして芥川賞受賞です。この作者の大きな魅力は、私はある意味での異常性だと考えています。「あひる」は子供達を引きつけるためにアヒルを取っかけ引っかけ飼い続ける物語ですし、芥川賞受賞の『むらさきのスカートの女』にいたっては、ストーカーとして破綻していく「黄色いカーディガンの女」とタイトルになっている「むらさきのスカートの女」との何ともいえない同一性と違和感が極めて超越的なバランスを保っています。最近では、まるっきりラノベのような非現実的な癒やしのストーリーが広く受け入れられているように、私には感じられるんですが、現実逃避的な癒やし系で明るく希望に満ちたラノベは。私にはものすごく物足りないように感じられていました。もっとキチンと事実を取材して表現も整理すると、まさに池井戸潤作品のような仕上がりになるわけですが、そうでなく表面的な上滑りの作品に終わっている例がいっぱいあります。そういった中身のないラノベ小説を読むくらいであれば、今村作品のような何ともいえない不気味さを内包した作品の方が私はインパクトを感じてしまいます。最後に、どうでもいいことながら、芥川賞の選評を読んでいて、古市憲寿作品「百の夜は跳ねて」と村友祐作「天空の絵描きたち」の関係に大いなる興味を感じました。剽窃や盗作ではなく、オマージュですらないといい切っているのは山田詠美だけで、川上弘美や吉田修一は明確に嫌悪感を表明しています。私はどちらも読んでいないので何ともいえませんが、とても野次馬的な興味をそそられます。

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最後に、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』(中央公論新社) です。小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『桐島、部活やめるってよ』いら、人気小説家の道を歩んでいる著者ですが、私も直木賞受賞作の『何者』こそ読んでいませんが、デビュー作を含めて世間に遅れつつ何冊か読んでいます。それから、この作品は、このブログの読書感想文でもいくつか取り上げた中央公論新社創業130年記念の「螺旋」プロジェクトのうちの1冊となります。ですから、青い目の海族とそうでない山族の対立構造を基本としています。本書はシリーズ唯一の平成編となります。ほかに、このブログの読書感想文で取り上げた、ということは、私が読んだのは、以下順不同で、伊坂幸太郎による近未来編の『スピンモンスター』と昭和後期編の『シーソーモンスター』、薬丸岳による明治編の『蒼色の大地』、乾ルカによる昭和前期編の『コイコワレ』、澤田瞳子による古代編の『月人壮士』となっています。ということで、本書は平成時代の青春物語であり、海族の南水智也が頭を強く打って意識不明の植物状態となり、山族の友人である堀北雄介が入院先の病院を毎日見舞う、というスタートから一気にさかのぼって、小学生時代、中学校ないし高校時代、大学時代の、それぞれのころの南水智也と堀北雄介と関係する周囲の人物を主人公にした章立てでストーリーが進みます。タイトルほどアバンギャルドではありませんが、自分以外の人のためになる生きがいを持った人生、自分を対象にした生きがいある人生、そして、生きがいのない人生の3分類をモチーフとし、生きがいややりがいについて、せいぜい20歳前後の目から考える、ということになります。物静かな海族の南水智也に対して、競争や勝負を好む活動的な山族の堀北雄介を配し、札幌を中心的な舞台に物語は展開しますが、私の直感では、おそらく、若い世代は山族の堀北雄介の要素がかなりあり、私のような引退世代に近づくに従って海族の南水智也の要素が増えるような気がします。でも、人生最末期には、何ごとによらず自分の意図通りに出来ないことが増えるそうで、その意味で、イライラが募る、と聞いたこともあります。お題を与えられた制約のせいかもしれませんが、この作者の実力にしては、やや物足りない読後感でした。もう1冊最新刊の『どうしても生きてる』(幻冬舎) の予約をしています。これも楽しみです。
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2019年10月19日 (土) 11:20:00

今週の読書はいろんな分野の経済書など計4冊!!!

今週と来週の読書はかなりペースダウンします。今週は短編ミステリのアンソロジーも含めて計4冊。来週は同じくらいか、もっと少なくなるかもしれません。でも、週3~4冊というのは、私の従来ペースからすればやや少ない気がするものの、日本人の平均的な読書ペースからすると、まずまず読んでいる方なのかもしれません。

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まず、アレックス・ローゼンブラット『ウーバーランド』(青土社) です。著者は、テクノロシジー・エスノグラファーであり、データ・アントド・ソサエティ研究所の研究者、とあるんですが、これだけでは何のことやら、私にはサッパリ判りません。英語の原題も Uberland であり、2018年の出版です。少し前のCEOのスキャンダルで揺れたウーバーなんですが、Airbnbなどと並んで、シェアリング・エコノミーとか、ギグ・エコノミーをけん引する大企業であることは間違いありません。そのウーバーについて、本書では主としてサービスを提供するドライバーの立場から企業運営などについて批判的な議論を展開しています。スマ^トフォンのアプリで簡単に予約出来たりするサービスなんですが、逆のサービス提供サイドについては、ある意味で、アルゴリズムによって最適化されたプラットフォームからの情報に基づいてサービス提供をするとはいえ、ウーバー側の情報に踊らされたり、あるいは、締め付けが厳しかったりして、「最適化」されたアルゴリズムの意味が、誰に対する「最適化」なのか、慎重に問われるべき段階に達しているように私も考えています。日本では、白タク規制があって人を運ぶウーバーのビジネスは出来ていませんが、それなら、というわけで、ウーバー・イーツの大きなボックスを背負った自転車をよく見かけます。私の知り合いのジャーナリストは都心3区で共同運用している赤いシェア自転車は、ほとんどウーバー・イーツに思える、といっていたりもしましたが、先日、ウーバー・イーツの自転車が事故で大ケガをした保障の問題の報道なども見かけました。基本は、同じ問題ではないかと私は考えていますが、確かに、一般的な工場勤務やオフィスワークなどと違って、締め付けが個別バラバラの各個撃破になっていますので、さらに激しさの程度が高い気もします。ただ、アルゴリズムによる最適化のギグ・エコノミーの問題ではなく、あくまで、利潤最大化を目指す企業活動の問題と考えるべきです。すなわち、ギグ・エコノミーのウーバーだけではなく、多かれ少なかれ、アナログなタクシー業界でも同じ問題があるんではないか、と私は推測しています。もっとも、こういった新しげなギグ・エコノミーでの問題点を指摘すると話題になりやすいのも事実であり、こういった突破口から雇用や労働について、本来的な問題を考える起点になればいいのではないか、と私は考えています。本来的な視点を忘れるべきではないものの、社会的な注目度の向上にも配慮したいのは理解できます。

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次に、アダム・オルター『僕らはそれに抵抗できない』(ダイヤモンド社) です。著者は、米国ニューヨーク大学の准教授ですから若手研究者なんだろうと思います。専門は、行動経済学やマーケティング論だそうです。上の表紙画像に見える通り、英語の原題は Irresistible であり、2017年の出版です。邦訳タイトルの副題が「依存症ビジネス」のつくらかた、と和っていて、まざに、そのものズバリです。経済学的には、マイクロな経済学の観点から、シカゴ大学のベッカー教授なんかが「合理的な依存症の経済学」A Theory of Rational Addiction なんぞを検討していますが、本書の著者や私なんぞのように依存症ビジネスなんて合理的でもなんでもなく、健全な経済発展のためにはむしろ排除すべき対象のように考えているエコノミストとしては、受け入れられるもんではありません。本書でも、冒頭に、iPadのタブレットを考案してアップルから売り出したジョブズは、むしろ、自分の子供達にはタブレットを使わせなかった、という印象的なエピソードから始めています。インターネットに誰でもが気軽かつ安価にアクセスできるようになり、タブレットやスマートフォンなどの携帯できる端末によって、主として、ゲームとして楽しめるようになり、依存性の症状が広まり始めたと考えられます。第1章では、アルコールやドラッグなどのモノへの依存症から、今では行動嗜癖と呼ばれるアクションへの依存症が広まっていることが明らかにされ、第2章では、新しい依存症が人を操る6つのテクニックとして、数値設定などの目標依存症、SNSの「いいね!」やフォロワーを集めようとするフィードバック、射幸心を煽るガシャポンなどをはじめとする進歩の実感、ゲームだけでなく仕事も含めた難易度のエスカレート、ネットフリックスが生んだビンジ・ウォッチングをはじめとする行動経済学のナッジを悪用したクリフハンガー、インスタが刺激する他人と比較したい欲求を煽る社会的相互作用、の6点を上げています。ただ、これらのビジネス側のテクニックに対して、第3部で展開される3つの解決法はいかにも脆弱というそしりは免れず、さらに、エピローグでは、今後もこういった依存症ビジネスが予期せぬ形で現れる可能性を示唆しているだけに、むしろ、アナログの世界に閉じこもったほうがマシ、とすら考えてしまいます。私は自分自身を、特に意志が強かったり、精神が健全なるがゆえに、こういった依存症からは無縁、と考えているわけではなく、いついかなる場合でも陥る危険があると警戒心を怠らない必要があると考えていますが、個人的な病気という処理ではなく、社会全体としてあるいはシステムとして、こういった依存症から毒室した人格形成を目指すべきであり、そのためには市場万能ではなく、適切に市場の失敗を回避する方法を模索する必要があると考えています。そのためには、社会的な生産様式をさらに進化させる必要があるかもしれません。

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次に、レイ・ダリオ『PRINCIPLES』(日本経済新聞出版社) です。著者はヘッジファンドのウォーターブリッジ・アソシエイツの創業者であり、投資業界の著名人です。英語の原題も PRINCIPLES であり、2017年の出版です。第1部の著者の生い立ちは別にして、第2部の人生の原則と第3部の仕事の原則が中心をなしています。もちろん、年配の成功した実業家の本ですから、上から目線の自慢話ばかりなんですが、まあ、そういった本だと覚悟して読み進めばいいんではないかと思います。私の知り合いで、もともとエンジニアなんだと記憶していますが、業界の常なのかどうか、パナソニック創業者の松下幸之助を大いに尊敬して、その著書も読んでいる人がいます。まあ、そんな感じで軽く考えてヒマ潰しの読書と割り切るのが吉かもしれません。ただ、かなりの大判の本で600ページ近いボリュームです。邦訳がいいのでスラスラと読めますが、大きさで気後れする人がいるかもしれません。内容は人それぞれの受け止めなんだろうと思いますが、私には3点ほど目につきました。まず、人生と仕事の原則に共通して、いろんな局面でオープンであることの重要性は私も大いに同意するところです。政府機関に長らく勤務した経験から、いわゆる「よらしむべし、知らしむべからず」という裏ワザが身についてしまっている気もしますが、私もオープンでありたいと思います。次に、もうひとつ気にかかったのは、これも人生と仕事の両方に共通して苦楽に対する考え方で、とても循環的というか、「苦」がなければ「楽」が来ないような体験が多いのかもしれません。我が国の政権でも、「痛みを伴う改革」を強調する場合がありますが、私は「苦」や「痛み」は否定的です。避けられれば避けた方がいいに決まっています。キリスト教的には自らに苦痛を与える宗派があって、『ダビンチ・コード』でも出てきたように記憶していますが、仏教の浄土真宗の門徒である私としては、楽な方がいいに決まっています。最後に、仕事だけの原則ではなかったかと思いますが、「誰」の方が「何」よりも重要という原則がありました。生産の場ばかりではありませんが、企業活動においては人的資本の方が物的しほにょりも重要であるというのは、多くの経営者が同意しているようですが、なかなか実践している場合は少ないような気がします。モノである資本よりも労働・雇用の方が重要です。いうまでもありません。

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最後に、日本推理作家協会[編]『ザ・ベストミステリーズ 2019』(講談社) です。タイトルから明らかに理解される通り、ミステリの短編を集めたアンソロジーです。収録作品は、澤村伊智「学校は死の匂い」、芦沢央「埋め合わせ」、有栖川有栖「ホームに佇む」、逸木裕「イミテーション・ガールズ」、宇佐美まこと「クレイジーキルト」、大倉崇裕「東京駅発6時00分 のぞみ1号博多行き」、佐藤究「くぎ」、曽根圭介「母の務め」、長岡弘樹「緋色の残響」の9作であり、もともとの短編の出版元も本書の講談社に限定されていません。上の要旨画像に見られる宣伝文句は「耽読必至! ようこそ、日本最高水準のミステリーの世界へ」ということなんですが、決して大げさではありません。とても水準の高いミステリ短編ばかりです。世の中には長編ミステリを有り難がる人も少なくないですし、私も理解するんですが、こういった水準の高い短編集も見逃せません。
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2019年10月12日 (土) 11:50:00

今週の読書は軽めの経済書と重厚な専門書の組み合わせで計6冊!!!

今日は、台風の影響で外出もままならず、ずっと在宅しています。後で、もう少し書こうかと思うんですが、実は、昨日は関西に行ったものの、今日の新幹線が運休になるとのことで、下の倅の大阪のアパートに宿泊する予定を繰り上げて夜遅くに帰京したりしました。今日は図書館も軒並み閉館で、来週の読書向けの本はまだ集まっていません。ということで、前置きが長くなりましたが、今週の読書は新書も含めて軽めの経済書が3冊、ほかに重厚でボリューム十分な専門的教養書が3冊、以下の計6冊です。

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まず、根井雅弘『ものがたりで学ぶ経済学入門』(中央経済社) です。著者は、我が母校の京都大学で経済学史を専門とする研究者です。マンガで科学や経済などを解説する本がありますが、本書もフィクションを取り入れて、アダム・スミス以来の古典派や限界革命、マルクス主義経済学からケインズ経済学まで幅広く鳥瞰しています。フィクションは、経済学の研究者の倅である中学3年生を家庭教師的に勉強を見ている高校3年生が主人公で、中学3年生の父親の経済学の研究者から指導を受けて、英語の原書を含めて経済学の古典を読破するという、まさに、フィクションならではのドラえもんの道具的な荒唐無稽なストーリーです。でも、そのフィクションの高校3年生が経済学の英語の原書の古典を読破するという部分をガマンして読めば、それなりの中身になっている可能性はあります。私はこのフィクションの構成はともかく、スミスのところでsympathy の邦訳語を「同情」を排するのはいいとして、「同感」を取っているのがムリ筋と考えてしまいました。「共感」ではないでしょうか。その後、まあ、それなりの初歩的な内容でしたが、一応の経済学史が鳥瞰されていて、参考にはなると思います。ただ、クロニカルにはケインズ経済学で終わっていて、我々が現に体験している戦後のブレトン・ウッズ体制下の経済の基となる理論的背景についてはお話が及んでいません。戦後の経済学史で、ケインズ経済学から、ブレトン・ウッズ体制末期のインフレの下でマネタリスト経済学や新自由主義的な経済学が米国のレーガン政権や英国のサッチャー政権下で主流となり、21世紀に入ってから、米国のサブプライム・バブル崩壊後に再びケインズ経済学が見直されている現状などにもう少し目が行き届けば、もっといいような気もします。もっとも、著者の意図としては、決して、現在までに至る経済学シすべてのトピックを取り上げるというよりは、本書のボリュームのほぼ半分をスミスないしミルやリカードなども含めた古典に当てていますし、スミスの経済学が「夜警国家」を推奨し、見えざる手なる市場の調整機能への過信に基づく自由放任経済ではない、という点に重点があると考えるべきなのかもしれません。

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次に、清水洋『野生化するイノベーション』(新潮選書) です。著者は、一橋大学出身で現在は早大の経済史の研究者、特に、イノベーションの歴史を専門にしているようです。本書では、かなり通り一遍なのですが、イノベーション、特に、破壊的で従来の技術を無効化するようなイノベーションについて、歴史と理論を概観した後、現在の経済の停滞の一員たるイノベーションの不活発さについて著者の見方を示しています。従来の技術を無効化するような破壊的なイノベーションとは、例えば、自動車がウマを駆逐したようなものだと指摘し、現在のイノベーションが流動性が高い中で、ついつい手近な、あるいは、低いところにある果実をもぐことに専念し、より高いところにありリターンの大きなイノベーションに手が伸びていない可能性を指摘しています。私の目から見て、歴史的な資本リターンの低下傾向が続く中で、いくら金融政策で低金利を続けても、その低金利すら超えないリターンしかもたらさないイノベーションは採用されないわけであって、さらに、流動性が高まれば、安定した研究体制は構築しにくくなる、というか、ハイリスク・ハイリターンの「冒険主義的」な研究開発を必要とするイノベーションが遠ざかるのは事実です。安定した研究体制を構築して、多少のムダは覚悟の上でハイリスク・ハイリターンのイノベーションを支えるためには流動性が低くて安定した研究体制を必要とします。ただ、大筋で、私は手近な果実は取り尽くされたというのは事実であり、「冒険主義的な」研究開発で大胆なイノベーションが実現されるようなサポート体制が必要になる、という意味で、イノベーションが野生化したというのは事実なんだろうと考えています。

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次に、ヴィルヘルム・フォン-フンボルト『フンボルト 国家活動の限界』(京都大学学術出版会) です。著者は、どういえばいいのか、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍したドイツの行政官、外交官、政治家、政治学者といったところなんですが、ベルリン大学の創設者ですし、「国家は教育に介入するな」という超有名な金言も人口に会社しているものですから、私なんぞの専門外のエコノミストは教育の分野の歴史的人物、と考えていたんですが、本書の解説では、テンポラリーな行政官として大学開設に関わったのであって、教育者でもなければ、教育行政が専門であるわけでもない、と指摘しています。また、本書は検閲やなんやの事情により、著者死後の19世紀なかばに出版されています。ドイツ語の原題は Ideen zu Versuch die Grenzen der Wirksamkeit des zu besitimmen であり、原書は1851年の出版です。英語圏の出版物であるミル『自由論』で高く評価されたことにより世界的な評価を受けるようになったと私は受け止めています。なお、出版社のサイトによれば、本書は「近代社会思想コレクション」のシリーズの一環で第26巻として出版されており、本書に続いて、ヒューム『道徳について』、J.S.ミル『論理学大系4』が出版される運びとなっているようです。前置きが長くなりましたが、タイトル、出版社、そして、何よりも600ページを超えて700ページ近いボリュームなどから、読み始めるにはかなりの覚悟が必要です。でも、おそらく邦訳がいいんだと思いますが、読み始めるとスラスラと読むことが出来ました。ただし、政府機関で活動した人物ですから、ある意味で、私と活動分野が似ていたのかもしれませんから、このあたりは少し割り引いて考えた方がいいかもしれません。ただ、前置きばかりを長くしたのは、古典書ということもありますが、読んだ私がよく理解できなかったわけで、邦訳は判りやすくてスラスラ読めるとしても、内容ば難解であることはいうまでもありません。ただ、私の直感的な受け止めとしては、ドイツの経済学者として有名なリストなどは、ドイツという経済的には後発国において英国やフランスなどに対抗するために保護主義的関税の導入などの国民経済保護の経済学を展開したんですが、本書ではフンボルトは現在でいえばかなりリバタリアンに近い国家の限界に関する考え方、すなわち、国家活動に対するかなり強い懐疑論や、嫌悪感に近い議論が展開されている、と考えています。最初に引用した「国家は教育に介入するな」ではありませんが、教育だけでなく、色んな分野で国家の介入への否定的な議論が見られます。

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次に、テイラー・フレイヴェル『中国の領土紛争』(勁草書房) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学の国際政治学の研究者であり、国際関係論と主として中国に関する比較政治学が専門だそうです。英語の原題は Strong Borders, Secure Nation であり、2008年の出版ですが、その後の尖閣諸島に関する問題などを含めたエピローグが日本語版のために書き下ろされて収録されています。本書も、かなり大判な上に、500ページ近いボリュームがあり、出版社からしてもほぼほぼ専門学術書と考えるべきで、それなりの覚悟を持って読み始める必要を指摘しておきたいと思います。ということで、邦訳タイトルに明らかな通りの内容で、中華人民共和国成立後の1950年以降の歴史的な外観と分類が中心になっていますが、必要に応じて、さらに歴史的にさかのぼって事例がいくつか参照されています。米国の研究者による出版ですが、かなり広範に中国語文献や資料を渉猟しているようで、英語情報だけによる表面的、対外公表な文献の分析だけでなく、かなり内部文書的的な資料の分析も加わっています。ただし、もちろん、米国のような体系的公文書公開の制度が中国にあるわけでもなく、それほど、というか、まったく情報公開には前向きの姿勢がない国家ですので、限界はあるのかもしれません。もちろん、中国は常に武力行使により領土問題を解決してきたわけではない点は、我が国の尖閣諸島問題でも実証されている通りで、領土紛争がエスカレーションして武力行使に至る以外に、どのような場合に引き伸ばしを図り、どのような場合に妥協するか、を極めて多くの歴史的事例に基づいて分析し解説しています。その歴史的事例は、中華人民共和国建国以来のすべてである23例とされています。専門外の私が考えても、本書が出版されて以来の10年間で中国が国力を増したのは紛れもない事実であり、加えてその経済的な発展からして、領土紛争の大きな要因の一つであるエネルギーや資源に対する需要は高まっている点は忘れるべきではありません。加えて、経済学にはウィン-ウィンの関係は広く見られますが、国際政治の場における領土紛争は確実にゼロサムです。ですから、本書が指摘するトーンよりも隣国としては警戒色を高める必要があると考えるのは、私だけではないと思います。

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次に、石橋毅史『本屋がアジアをつなぐ』(ころから) です。著者は、出版業界をホームグラウンドとするジャーナリスト・ライターであり、我が国を含めて、インターナショナルな本屋さんをコンパクトに紹介している、一種の紀行本です。著者が実際に訪問しているんでしょう。なお、本書冒頭では、「書店」はお店というハードウェアであって、「本屋」はその書店を運営管理する経営者、あるいは書店員を指す、と断り書きをしていますが、まったく守られていません。ほとんどの「本屋」は書店というハードウェアとして使われている気がします。私はスペイン語を理解しますので、スペイン語では店を librería、書店員を librero あるいは、女性型なら librera とし表現します。このラインを狙ったんでしょうが、残念ながら失敗しています。本書で取り上げられている書店の中で、私が圧倒的に興味を持ったのが、上海を拠点としていた内山書店です。現地でお尋ね者となってしまった魯迅を匿ったり、書店らしく、いろいろと言論の自由や人権を守るリベラルな活動が歴史に残っています。直接的な政治活動だけでなく、出版や研究といった広く開かれたドメインでより有効性や効率性を増す活動は他にもいっぱいありますし、そういった自由が保証されないとそもそも活動すら出来ない場合も少なくありません。私は割引になるので早大生協で本を買う事が多いんですが、そもそも、買うよりも図書館で借りることのほうが圧倒的に多く、改めて、こういった出版物や印刷物の重要性、そして、それらの流通を担い人々に広める書店の役割をアジアで発見した様な気がします。

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最後に、山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学』(光文社新書) です。著者は、最近カナダから帰国し東大の研究者に就任しています。専門は労働経済学であり、その派生領域として結婚・出産・子育てなどを経済学的な手法で数量分析する家族の経済学に分析を広げています。ということで、本書では、数量分析に基づいて、結婚、出産と乳児の子育て、育児休暇、父親の子育て、保育園の経済分析、そして、最後に、離婚、といった章立てで家族の経済分析をサーベイしています。ご自分の分析結果も含まれていますが、本書で新しい数量分析結果が示されているわけではなく、既存研究のサーベイです。いくつかの例外を除いて、ほぼほぼ常識的な分析結果が取り上げられているんですが、本書でも著者が指摘している通り、こういった常識的な結果を数量分析で跡づけるのは学問的にも、広く常識的にも有益なことである私も考えます。特に、保育園における集団的な子育ての要素は母親の学歴が低いほど、子供にはプラスの影響がある、というのは、直感的に理解していても、なかなかその直感的な理解が主張しにくい場合が多いと思うんですが、それなりのジャーナルに査読付きの論文が掲載されていれば、参照することも抵抗感は低下すると思います。ただ、本書で議論されている常識的ながら、一部に抵抗感が残らないでもない主張ですので、ほぼほぼ海外の数量分析で大きな部分が占められているのは、すでに定年退職した私も含めて、我が国経済学界の一層の奮起を促すものと受け止めるべきなのでしょう。
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2019年10月05日 (土) 11:30:00

今週の読書はついつい読み過ぎて小説2冊を含めて計8冊!!!

今週の読書は、ペースダウンの予定だったのですが、もっとも近い区立図書館が10月いっぱい休館らしく、何の関係もないものの、ついつい読み過ぎてしまいました。来週は後半が忙しくなる予定で、一応、暑い中を図書館回りを終えて数冊借りて来たんですが、さすがに、2~3冊に減るんではないかという気もします。今週の読書は小説2冊も含めて、以下の計8冊です。

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まず、中野剛志『奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ) です。同じ著者によるシリーズ前編【基礎知識編】は8月24日付けの読書感想文で取り上げています。【基礎知識編】では、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開していて、【戦略編】となる本書の冒頭では簡単にそのおさらいをしてから、MMT理論を普及させるための戦略、また、どうしてMMTが現時点でそれほど受け入れられていないのか、といった議論が展開されています。本書の議論は私はどちらもとてもよく理解できるような気がします。ここで、「どちらも」というのは、MMT理論そのものとMMT理論が学界や政策当局に受け入れられないその両方を指しています。というのは、私はかなりの程度にMMTは正しいと本能的に感じている一方で、どこか頭の中で「怪しげ」と感じる部分もあるからです。今夏にレイ教授によるテキストである『MMT現代貨幣理論入門』の邦訳書が東洋経済から出版されていながら、諸般の事情によりまだ読めていません。本書で引用されているラガルド女史によれば、主流派経済学のように数式をきれいに展開していて、それなりの説得力ある理論である、とのことで、私も直感的かつ本能的ながら、MMTは理論的には十分成り立っているんだろうと理解しています。自国通貨建ての国債であれば、いくら積み上がってもデフォルトに陥るおそれはなく、財政政策をインフレ率で判断するというのは、従来からもある考えです。少なくとも、日銀が物価目標を掲げる前に、旧来理論でハイパーインフレに言及していたようなエコノミストの主張はもうなくなりましたし、岩石理論もご同様です。ただ、現在の日銀の量的緩和と同じで、出口に一抹の不安が残るのも事実です。本書では、インフレ率が一定の水準に達した段階で前年度と同じ財政赤字にすればいい、という主張なんですが、ホントにそれで済むのか、これも私の直感ではそれでOKのように受け止めているんですが、不勉強が原因となって不安を覚えているだけのような気がします。ただ、私が主張したいのは、MMTはインフレというマクロのアグリゲートされたターゲットには有効なんですが、逆から見て、量的なターゲットだけでなく、質的、あるいは、分配面からの格差是正などについて目が行き渡っていないような気がします。すなわち、インフレ、というか、デフレからの脱却については、ある意味、本書で展開するMMT理論で十分なんですが、MMTが政策的に採用されないうちにでも分配政策によって格差や格差に一部ながら起因する成長促進などの課題の改善は可能ではないか、という気がする次第です。本書の議論を否定しようとはまったく思いませんが、MMTの実践だけが解決策ではないという点も忘れるべきではありません。

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次に、山口周『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社) です。著者は、コンサル出身の著述家で、講演などでも見かける方ではないかと思います。本書は、習慣ダイヤモンドで連載されていたコラムを取りまとめて単行本化したもので、ダイヤモンド・オンラインのサイトでも読むことが出来ます。もちろん、本書のタイトルはガンダムのアムロ・レイなどのニュータイプと似てはいますが、少し違います。すなわち、商品生産やサービス供給が十分人々の欲望を満たす水準にまで達し、消費に飽和感がある中で、いくつかの古い思考や行動の様式を新しくする方向について議論しています。例えば、問題がいっぱいあった従来の社会では、その問題の解決方法を探るのが主要な課題であり、オールドタイプのエリートは解決策の提示ができる人だったわけで、実は、本書の著者もその一種ではないかという気がしないでもないんですが、ニュータイプはビジョンを持って望ましい状態と現状との差を「問題」として捉え、その問題発見ができる人、ということになります。また、その実現の一つの形式であるイノベーションについても、こういった解決すべき課題=問題なしにイノベーションそのものにこだわっていると本末転倒である、と指摘し、解決すべき問題がないのに技術的に凝った乗り物を作ってしまったセグウェイの失敗例を引いていたりします。実に、私も感心してしまいました。他方で、私のように、現在の資本制的な生産や分配のシステムをもっと柔軟に改革して、あるいは、もっと過激に資本主義から社会主義に革命を起こす、という方向性は否定されています。私自身はこの方向性をアプリオリに否定するものではありません。ケース・バイ・ケースで考えるべきだと思います。本書のp.28にあるオールドタイプとニュータイプの新旧対照表を、ダイヤモンド・オンラインのサイトから引用すると以下の通りです。私は下の5項目、すなわち、ルールに従う⇨自らの道徳観に従う、一つの組織に留まる⇨組織間を越境する、綿密に計画し実行する⇨とりあえず試す、奪い、独占する⇨与え、共有する、経験に頼る⇨学習能力に頼る、はこの通りだと思います。
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次に、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社) です。著者についてはよく判りません。本書では、差別について、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)との関係で、いろんな考察や分析を進めています。ポリコレ的には差別はいけないわけですが、実際にレイシストはいますし、ヘイトスピーチも後を絶ちません。そのあたりの周辺事情、というか、現実的な実態解明と対応につき考えています。特に、本書では、足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない、というフレーズが繰り返し引用され、差別されたサイドの痛みの理解についても思いをいたしている気がします。ポリコレに関してはあまり実践も応用もないように見受けるんですが、私が2016年の米国大統領選挙について、たぶん、このブログの場だと思うんですが、ポリティカル・コレクトネスが行きつくところまで行って、米国に黒人大統領が誕生したのが当時のオバマ米国大統領であり、その振り子が反対側に振れた、との感想を持ちました。ポリティカル・コレクトネスなんて、行きつくところまで行けば反転する可能性もあると私は考えていますし、何よりも、1990年代にいわゆる米ソの冷戦が明確に終了して、ソ連的な共産主義が大きく後退し、中国やベトナムなどに極めて市場経済的な社会主義は残るものの、冷戦が終了した段階で国内的な意思統一が不要になって、いろんな意見が飛び出し始めている、というのも事実です。冷戦時代にソ連に負けないためには、米国内でもそれなりの意思統一が図られて、いわば、一致団結してソ連に対峙する必要があったものの、その必要がなくなったわけです。いまだに、この冷戦型の国内世論統一を図ろうとしているのが韓国の文政権といえます。民主主義が未成熟としか私の目には見えません。まあ、韓国は別としても、実は、米国でもそれほど民主主義が成熟していなかったわけで、対外的な仮想敵国がいなくなった途端に国内で清掃が始まってしまった、と私は解釈しています。加えて米国では、2001年のテロから国内的な統一が一時的に強化されましたが、それも20年近くを経過してテロの実行例も少なくなり、外国に対する緊張感が弛緩して、国内での政争に目が移った、ということなんだろうと思います。欧州もご同様です。本書では、カール・シュミットにならって、アイデンティティを基礎とする民主主義とシチズンシップを基礎とする自由主義を対比して、差別やハラスメントの原因をアイデンティティがシティズンシップをオーバーテイクしたことに求めようと試みていますが、私の目には成功しているとは思えません。

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次に、リチャード・ローズ『エネルギー400年史』(草思社) です。著者は米国のジャーナリスト・作家であり、ピュリツァー賞の受賞経験もあるようです。英語の原題は Energy: A Human History であり、2018年の出版です。動力、照明、新しき火の3部から構成され、軽く600ページを超えるボリュームですが、これも邦訳がいいのか、私の興味分野だからなのか、割合とスラスラと読み進むことが出来ました。でも、私にして読了するのに2日かかりましたので、それ相応に時間はかかると覚悟すべきです。ということで、邦訳タイトルにあるように、薪から始まった400年に及ぶエネルギーの歴史をひも解こうと試みています。ただし、エネルギーだけではなく、外国人ジャーナリストに多い傾向なんですが、周辺事情までていねいに情報を集めた上に、集めた情報はすべて本に詰め込まないと気が済まないようで、ややムダの多い本だという気もします。極めて大雑把にエネルギーの歴史を概観すると、まあ、誰にでも判るところで、薪から石炭に、石炭は石油に、石炭・石油は天然ガスに、さらに原子力に、そしてそして、今からは再生可能エネルギーに、その主役を次々と交代しています。そして、そのエネルギーの利用の目的も、かつては調理と暖房、せいぜいが灯りだったんですが、石炭以降からは大規模に産業や運送で利用されるようになっているのは周知の事実です。エネルギーを動力源として用いる場合、蒸気機関、内燃機関、発電機と歴史的な発展があり、輸送に使う場合は、蒸気車、蒸気機関車、自動車、電車、もちろん、その後の飛行機やロケット、場合によってはドローンまで上げることが出来ます。そのバックグラウンドにはそれぞれをアイデアとして思いつき、製品として世に送り出すために試行錯誤し、製品化した後には応用し普及させた有名無名の人物の存在があった点についても、とても幅広く様々な情報を取りまとめています。またエネルギー利用の普及は人びとの生活の質を上げ経済を活性化する一方で、公害をはじめとする新たな災厄や難題をももたらし、また、生産現場の過酷な労働も必要としました。こういった400年に及ぶエネルギーの歴史を振り返り、現在の地球規模の気候変動や地球温暖化、さらには、中国・インドやをはじめとする新興国・途上国の経済成長に伴って増加し続ける巨大な人口を支えるエネルギー需要への対応、などなど、今までにない難題への答えは、本書のように過去の歴史を詳細に検証することで見出せるのか、どうか。もちろん、ひょっとしたら、何ら解決できない可能性もなくはないながら、少なくとも、解決策を見出せるとすれば、科学に基づく技術革新だけである可能性が高いと考えるべきです。本書は、基本ラインがしっかりしているとともに、ムダとすら見える極めて多数の人々のドラマが盛り込まれており、それはそれでとてもいい読書だった気がします。

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次に、マーク・モラノ『「地球温暖化」の不都合な真実』(日本評論社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、英語の原題は The Politically Incorrect Guide to Climate Change であり、The Politically Incorrect Guide シリーズの1冊として2018年に出版されています。ということで、本書では人類による地球温暖化や気候変動について、押しとどめようとする「脅威派」と否定する「懐疑派」に分けた上で、本書は後者の懐疑派として人類に起因する気候変動や温暖化をデータを含めて、あるいは、脅威派の発言の矛盾を突いたりして、徹底的に人為的な気候変動を否定しようと試みています。ここで多くの読者が見逃しそうなポイントなんですが、著者は人的でない、すなわち、太陽活動の変動に伴う気候変動や温暖化を否定しているわけではない、という点を強調しておきたいと思います。著者の主張では温暖化はかなりの程度に観測誤差の範囲であると考えているようなんですが、太陽活動に伴う気候変動、典型的には氷河期と間氷期が交互に来たりするという意味での大きな気候変動は否定していません。ただ、現在の温暖化が人類の人的な行為、すなわち、CO2排出によるものであるかどうかは疑わしい、と主張しているわけです。これについて、私はシロクマが増えているかどうかは知りませんが、例えば、著者の指摘通り、1970年代には地球寒冷化による食料危機が真剣に論じられていたのは事実ですし、その気候変動が大きく逆転して、温暖化に取って代わられたわけです、医学的に健康にいいと悪いが大きく逆転するケースがいくつ私も見て来ましたが、まさに、同じことが気象科学でも生じたわけで、気候科学の信頼性が問われても不思議はないといえます。また、例のゴア元米国副大統領の邸宅が通常の20倍のをエネルギーを使っているとか、温暖化対策を叫ぶハリウッドのスターが自家用ジェット機で温暖化ガスを排出しながら移動しているとかの実態に疑問を感じるのもあり得ることです。もちろん、シロートの私の目から見ても、極めて限られた有識者しか温暖化や気候変動を否定しておらず、著者の主張が科学的に立証されたとはいいがたいと感じますし、十分に人々を納得させる根拠が示されているとはとても考えられませんが、他方で、研究費のために熱心に地球温暖化や気候変動の研究に取り組む科学者が多いだろうという点だけは判りやすいものの、その他の点で、こうした本が米国で一定の支持を得る可能性があり、日本でも出版されるという現実は、地球温暖化や気候変動に対して常識的な考えを持つ社会人として、それなりに反省を持って受け止めねばならないのではないかと考えます。

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次に、ジーヤ・メラリ『ユニバース2.0』(文藝春秋) です。著者は米国のジャーナリストなんですが、米国のアイビーリーグ校であるブラウン大学で、何と、ロバート・ブランデンバーガー教授に支持して宇宙論の博士号を取得している本格派です。英語の原題は A Big Bang in a Little Room であり、2017年の出版です。副題の「実験室で宇宙を創造する」に示されている通り、宇宙論の中でも宇宙の発生に関するベビー・ユニバースについてのリポートです。ざっと相対性理論をおさらいし、ビッグバンによる宇宙の生成からインフレーション理論による拡大宇宙論、そして、ブラックホールからワームホールを通って別の宇宙に行きつく、ということで、その別の宇宙を実験室で作れないか、という試みです。というか、実は、実験室で宇宙を創るために逆算的な思考で、さまざまな理論が紹介されています。私のようなシロートにはサッパリ判らない理論ばっかりなんですが、そこは科学者ではないジャーナリストによる本ですので、それなりに雰囲気が感じられるように工夫されています。でも、それなりの専門的な知識なければ十分な理解はできないと覚悟すべきです。特に、S極かN極しかない「磁気単極子」があれば、それを使って実験室でインフレーション宇宙が作れる、というのはまったく私の理解を越えていました。そしてその「磁気単極子問題」とともに宇宙論の3大問題とされる「平坦性問題」と「地平線問題」についても、私の理解は及びませんでした。宇宙が実験室で作れるとしても、本書に従えば、その人工宇宙と普通のブラックホールとを区別することは、ホーキング放射が観測できなければ、ムリなようですし、出来上がった人口宇宙を取り囲むブラックホールであるベニーユニバースと我々のいる時空を結ぶワームホールは極めて短い時間で消滅する、ということですし、いずれも、エコノミストの目から見て、とても夢のある宇宙なんですが、どれくらいのコストがかかるのかも気にならないわけでもありません。加えて、本書ではかなり片隅に追いやられている印象がありますが、ビッグバン宇宙論に髪を配置しようとするカトリック信者を私も知っていますし、宇宙の生成と神の関係をどう考えるか、そういった神学論争についても何らかの話題になる可能性もあります。エコノミスト的には神学論争はまったく興味なく、「できることはやったらいい」というのが私の感想なんですが、コストはともかく、いろんな視点から宇宙の発生・生成について考えさせられました。専門外の読者には特にオススメしません。

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次に、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』(NHK出版) です。作者は、私が中途半端な解説を加えるまでもなく、売れっ子のミステリ作家です。この作品のタイトルは、まあ、何と申しましょうかで、この作品のラスボス的な存在である「ハシビロコウ」なる鳥ののラテン語の学術名の日本語訳です。ということで、それなりの規模のお菓子メーカーに勤めるサラリーマンである主人公の岸、作者の応援する楽天イーグルズのエース投手と同じ姓となっていますが、この岸を主人公に、都議会議員の池野内征爾と大人気のダンスグループのメンバーである小沢ヒジリの3人が奇妙な夢でつながって、戦士として社会的な大問題を解決したり、逆に、窮地に陥ったりする、というストーリーです。過去のトピックである金沢旅行の際の火事を3人は共有し、さらに、仙台近海の人工島でのコンサート後のパニック事件に岸と小沢が巻き込まれた際には池野内が救援に駆け付けたりします。そして、さらに、15年後の第2幕でも大事件が発生します。池野内は都議会議員から国会議員に当選して、さらに、有力ポストの大臣を務め、小沢はダンスグループから俳優になり、岸は会社で課長まで出世しています。そこで、猛毒性の鳥インフルエンザがパンデミックに近い広がりを見せ、3人がワクチンをいかに必要とする病人に届けるか、という点で一協力して解決に当たります。もちろん、ハッピーエンドで終わるんですが、さすがに伊坂作品らしく私のような一般ピープルが考え付かないような一筋縄ではいかなイラストが待っています。夢と現実を3人で、あるいは、それぞれ単独で行き来しながら、問題を解決したり、あるいは、大問題で窮地に陥ったりと、ある意味では、ファンタジー的な現実にはあり得ないシチュエーションが展開されるんですが、夢で戦うという点は現実でもあり得ることであり、その点で、少し前の作品である『フーガはユーガ』で双子が瞬間移動で入れ替わるような超常現象といい切るにも勇気が必要で、まあ、荒唐無稽な非現実的展開はない、ともいえます。加えて、3人はいろんな問題、というか、トラブルに遭遇するわけですが、かなり近いとはいえ、犯罪や組織的な陰謀とは違い、まあ、ギリギリあり得るかも、と思わせるものもあります。しかも、いかにもこの作者の作品らしく、いろんな伏線が密接に関連して後々にきれいに回収されます。私のように速いペースで読んだ挙句に、読み返さざるを得なくなる、といった読者も少なくなさそうな気がします。でも、それだけ面白い、ともいえそうです。最近の作品の中では傑作に近く、ひょっとしたら、読者によればこの作者の最高傑作に推す人がいるかもしれません。早大生協で消費生率引き上げ前に買った5冊のうちの最後の読書でした。

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最後に、宮内悠介『遠い他国でひょんと死ぬるや』(祥伝社) です。著者は、私の好きなSF作家です。実は、本書の出版を知って図書館で予約したところ、前作の『偶然の聖地』を読んでいないことに気づいて、近くの図書館で借りて一気に1時間ほどで読んでしまいました。ひょっとしたら、この作者の作品はすべて読んでいるかもしれません。ということで、本書ではフィリピンを舞台に、元テレビ番組制作会社のディレクターが太平洋戦争で戦死したと考えられている詩人の竹内浩三のノートを求めて冒険を始める、というストーリーです。本書のタイトルも、竹内浩三が入営前に書いた詩「骨のうたう」が出典となっています。テレビのディレクターの職を辞してフィリピンに渡ってタガログ語をマスターし、竹内のノートの捜索に入りますが、そこに、山下財宝を狙っているトレジャーハンターを自称する女性とそのお付き、主人公と行動をともにするうちに距離が縮まっていく女性、さらに、その女性の元彼カレで、結婚を申し込んでいる超大金持ちのぼんぼん、さらにさらにで、休戦が成立したにもかかわらず、まだ、ミンダナオ島の分離独立のために戦うムスリムの青年などが急展開の冒険物語を構成します。最後は、かなり荒唐無稽に結婚式を破壊したりして、これが解決なのかどうかは疑わしいと私は考えたりもしましたが、著者の力量が垣間見える気もしました。単純に読めば、冒険譚とはいいつつも、単なる騒がしくて暴力的なドタバタ劇になりかねないところに、詩人である竹内浩三の存在を入り込ませ、その実像に迫ろうと試みるも、竹内の最期は実際のところ不明としかいいようがなく、竹内が実際に何を目にし何を感じ何を想ったのかは、主人公も含めてもはや誰にも判らなくなっているわけで、ただ、戦争の歴史を風化させるわけにはいかないと作品を作り続けてきた主人公だったんですが、ドタバタ劇が進む中で、そういった信念の根元には大したものは何もないことに気付かされていきます。他方で、じいさんの占いとか、旅の中である種のアジア的な神秘と接することによって、何らかの意味で、竹内と似た境地に達することができたのかもしれない、という気もします。基本的に、インドネシアの首都であるジャカルタしか私は住んだことがなく、タイやマレーシア、あるいは、シンガポールには旅行したものの、フィリピンには旅行ですら行ったこともありません。従って、どこまでフィリピン現地の雰囲気が再現されているか、フィリピン人の考えが反映されているか、は判りませんし、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールについても、私はよく知りませんが、少し前まで中央アジアのムスリム国家に着目していた作者が、本作品で東南アジアを舞台にした小説にチャレンジし、アジアの奥深さに気づいたのかもしれません。
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2019年09月28日 (土) 11:30:00

今週の読書は話題のラグビーの200年史を振り返る歴史書など計6冊!!!

今週はいろいろと忙しかったんですが、それでも硬軟あわせて6冊の以下の通りの読書です。ワールドカップが始まったラグビー200年史を振り返るボリュームたっぷりの歴史書もあります。今週もすでに図書館回りを終えており、来週も数冊の読書になりそうなんですが、何分、かなり忙しいので時間が取れないかもしれません。

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まず、杉本和行『デジタル時代の競争政策』(日本経済新聞出版社) です。著者は、財務省の事務次官経験者であり、現在は2期目の公正取引委員会委員長を務めています。もう70歳近いんでしょうが、私と同じ公務員でも出世するとここまで職が保証されるんだと、我と我が身を振り返って忸怩たる思いがあります。ということで、本書はタイトルこそ華々しいんですが、何ということのないフツーの競争政策、すなわち、公正取引委員会の通常業務がほとんど80パーセントくらいを占めます。160ページほどのボリュームのうち、第3章のタイトルが書籍と同じ「デジタル時代の競争政策」となっていいて、この第3章がメインなんでしょうが、中身は100ページ目から始まり、その第1節はグローバル化に割かれていますので、経済のデジタル化に即した内容になるのは118ページまで待たねばなりません。ただ、ここに至るまでの、いわば、前置き部分も私のような専門外のエコノミストには、競争政策をとてもコンパクトに取りまとめつつも、実際の違反事例や大企業の合併の事例などが実名入りで豊富に取り上げられており、それなりに勉強にはなりそうな気もします。そういった専門分野の方には公正取引委員会の競争政策の重点などが透けて読み取れるようになっているのかもしれません。今年2019年の6月22日付けの読書感想文で取り上げた森信茂樹『デジタル経済と税』は、同じように財務省で出世された公務員OBのご著書ながら、ほとんどデジタル経済とは何の関係もなく、国境をまたいだ移転価格操作という多国籍企業の税制に終始していたのに比べれば、それなりに、本書ではデジタル経済のプラットフォーム企業に対する競争政策や、デジタル経済に限定されないながらも、企業の自由な活動とそこから生み出されるイノベーションに対して阻害することなく、それでも、消費者の利益となる競争政策の在り方につき、示唆するところは大いにあります。SNSや検索エンジンなどを無料で提供する企業に集積されたデータのロックイン効果の防止やフリーランサーの競争促進など、基本編ながら、しっかりした内容の良書だと思います。

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次に、ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』(白揚社) です。著者は、英国の認知神経科学の研究者ですが、英米間を行き来しているようです。英語の原題は The Influential Mind であり、2017年の出版です。また、2018年にイギリス心理学会賞を授賞されています。認知神経学というのは聞き慣れない学問分野ですが、人間は脳であり、ニューロンの発火によって生み出される、と本書で著者は断言しています。ただ、エコノミストの目から見て、経済学における選択の問題、特に、行動経済学との関係もとても深いんではないかと、本書を読んでいて私は感じられました。言及はされていませんが、ポストトゥルースのように、客観的な事実や真実に基づいて論理や知性に訴えるのではなく、その場の雰囲気とか感情を含めたすべての感受性に訴えるのがポストトゥルースですから、本書冒頭のワクチンに関する議論なども含めて、現在の言論界や政治を理解するのには非常に適した書物です。ただ、邦訳タイトルよりも現代の英語タイトルの方が内容を理解しやすく、要するに、何が人の意見や行動に影響を及ぼすか、ということを考察しています。当然、ポストトゥルースのネット社会におけるエコー・チェンバーやフィルター・バブルの現象がワンサと満載です。そして、エコノミスト的な行動経済学や実験経済学と違って、ヒト以外の生物や、あるいは、ヒトであっても現代的な社会性がかなりの程度に欠けている文明前期的な社会や子供にすらなっていない生後間もない赤ん坊の行動なども対象にして分析を進めています。加えて、実践的、というか、何というか、邦訳タイトルのように事実で説得できないとすれば、果たしてどうすればいいのか、についても実験と実践を進めています。すなわち、何かの行動に結びつけたいのであれば、ポジティブなご褒美を用意し、逆に、何かを思いとどまらせたいのであれば、ネガティブなペナルティを示す、といった例です。もちろん、逆に、他人を説得しようとするときに陥りがちな罠と、それを避ける方法も紹介されています。それらが、それほど判りやすくないイラストとともに示されています。本書もいい読書だった気がします。

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次に、ニケシュ・シュクラ[編]『よい移民』(創元社) です。編者は、ロンドン生まれの英国の小説家・脚本家であり、インドにルーツを持っています。本書では編者も含めて計21人の「よい移民」、すなわち、演劇や文学などの芸術面で一定の成功を成し遂げたり、あるいは、名声を得たりしたアーティスト・クリエイターがエッセイを連ねています。英語の原題は The Good Immigrant であり、2016年の出版です。邦訳タイトルはそのままの直訳のようですが、単数形である点は着目しておきたいと思います。ということで、タイトルとは裏腹に、有色人種の移民として差別に遭遇した経験などの恨みつらみが集められている気もします。移民、特にアジアにルーツを持つ有色人種の移民としてのアイデンティティ、もちろん、英国社会の大きな偏見や差別や無知などを、ある時は否定的に、ある時はユーモアを交えて、繊細かつ巧妙にさまざまな表現力でもって語りかけるエッセイです。かつては、大英帝国として世界の覇権を握り、世界中に植民地を有する「日の没することのない帝国」を築き上げた英国では、もちろん、我が国と同じ島国ながら植民地などから大量の移民が流れ込んでいますが、その中で、移民の人々は「よい移民」、すなわち、お行儀のよく社会に溶け込み同化するモデル・マイノリティであることが、ほぼ強制的に要請されているような気がしますが、それに反発を覚えて、ルーツを強調する移民も少なくありません。そういった移民の視点から英国の白人社会を冷静に分析し、その根本にある何か生理的に嫌なもの、あるいは、緊張感とか、悲哀のようなものが読み取れた気がします。ただ、そういったネガな感情が底流に流れているとしても、移民はヤメにして民族国家の中で生きていくのがベスト、とは私も思わないわけで、こういったいろんな移民のいろんな視点を提供してくれる情報源は歓迎すべきと受け止めています。

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次に、周燕飛『貧困専業主婦』(新潮選書) です。著者は、労働関係の国立研究機関の研究員で、私はこの著者と同じ国立研究機関に在籍していたことがあり、著者と面識があるんではないかと記憶しているんですが、著者近影のお写真では確認できませんでした。学習院大学の鈴木旦教授の奥さまです。ということで、日本の雇用や家族のシステムの中で、本書でも指摘しているように、専業主婦とはダグラス・有澤の法則に従って、比較的所得の豊かな階層に多く見られる形態だと私も考えていましたが、実はそうではないという事実を突きつけています。すなわち、貧困であるにもかかわらず専業主婦として働きに行かないわけです。日本の貧困層の場合、典型的には3類型あり、それは高齢・疾病・母子家庭です。専業主婦ですから、亭主が働きに行っているという理解の下、母子家庭ではないとしても、疾病が多くを占めそうな気もするところ、実は、うつなどの疾病とともに、子育てに注力したい母親が決して少なくないことは初めて知りました。そして、本書の著者は、そういった家族のあり方に関する思考ですから、決してリバタリアン的な新自由主義に基づく個人の裁量に任せるのでもなく、国家が家族のあり方にパターナリスティックに介入するわけでもなく、行動経済学的なナッジを持って方向づけすることを示唆しています。まあ、そうなんでしょうね。でも、本格的に貧困問題に取り組むとすれば、すなわち、家族のあり方をリバタリアン的に個人裁量に任せつつ貧困を解消しようとすれば、ベーシックインカムの導入を真剣に考慮することが必要という気もします。我が家のカミさんはほとんど専業主婦でしたが、さすがに、私はキャリアの国家公務員ですから、一家4人を養うに足るお給料はもらっていました。日本の雇用システムは、何度か書きましたが、亭主が組織のために忠誠を誓って企業スペシフィックな能力をOJTで身につけ、無限定に長時間労働に勤しむ一方で、これまた、主婦は無限定に家庭を支える、という構造になっていました。しかし、高度成長期を終えて雇用の拡大から剰余価値生産を増加させることが困難になり、従って、企業が亭主に十分な支払いをできなくなったため、主婦を雇用に引っ張り出そうとしているわけです。それに対して、共働きをしないと貧困に陥ることを警告する本書は、私から見て少し視点がおかしいような気がします。子供を保育園に出して集団生活をさせれば粗暴でなくなるなんて研究成果を引用したりするんではなく、専業主婦でも貧困でない生活を送れるようなお給料の必要性を主張すべきです。このような企業サイドにベッタリ寄り添った主張は聞き飽きてしまいました。

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次に、トニー・コリンズ『ラグビーの世界史』(白水社) です。著者は、英国の歴史研究者であり、英国スポーツ史学会会長も経験しています。私よりも年下なんですが、デ・モントフォート大学名誉教授だったりします。英語の原題は The Oval World であり、2015年の出版ですが、前回のラグビーのワルードカップ開催前でしたので、我が日本が南アフリカのボクススプリングを破った快挙が盛り込まれておらず、従って、日本ラグビーの比重がやや小さいんではないか、という恨みはあります。ということで、邦訳タイトル通りに、ラグビー200年史を膨大なボリュームでつづっています。かなり大判の書物である上に、注や索引も含めれば軽く500ページを超えるボリュームです。書店で目にした瞬間に諦める向きもあるかもしれませんが、邦訳がとても出来がよくてスラスラと読めます。先週のジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』の邦訳とはかなり違いがあります。ということで、ラグビー200年史というのは、ほとんど伝説として、スポーツ競技のラグビーが英国パブリックスクールのラグビー校で1823年にエリス少年がサッカーのボールを手でもって走り出したことに由来する、とされていますので、ほぼ200年ということになります。ただ、本書では、この故事を明確に否定しており、村の祝祭の時に両チーム合わせて100人超の人数で、きわめて無秩序に始まった協議であり、徐々にルールが整備され、パブリックスクールでのスポーツ教育として取り入れられ、ほかに所得の道を有する上流ないし中産階級におるアマチュアのスポーツとして始まり、少しずつ大衆化して労働者階級の選手が休業補償的な支払いを要求して、アマチュア15人制のユニオンからプロフェッショナル13人制のリーグが分裂し、それ以降、英国、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドから大英帝国の版図に従って世界に広まり、1987年にユニオン方式のラグビーで第1回のワールドカップが開催される歴史が跡付けられています。私はラグビーに詳しくないので、人名やチーム名などに馴染みありませんが、我が国で開催中のワールドカップの参考書として、もっとも読んでおくべき書物の1冊ではなかろうか、という気がします。

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最後に、広尾晃『球数制限』(ビジネス社) です。著者は、野球を中心とするスポーツ・ライターです。タイトルそのままに、高校生を中心とする野球における選手の健康維持のため、特に投手の投球数制限を論じています。ただ、ありがちな両論併記ではなく、圧倒的に投球数制限を支持し、早期に取り入れるべき、との意見を鮮明に打ち出しています。出版時期から、今夏の高校野球の岩手県決勝における大船渡高校の佐々木投手の登板回避は取り上げられていませんが、本書の精神からすれば、国保監督の英断を高く評価していたんだろうと、私は想像します。私は野球の経験はありませんが、中学高校と運動部に所属していましたので、HNK大河ドラマの「いだてん」を見ていても、昔の精神主義的なスポーツの捉え方は世代的にも実体験として知っていますし、非合理的だとも考えています。ですから、私自身も本書で展開されている投球数制限には大賛成です。ビジネス界では、目先の利益という短期的な視点ではなく、長期的な取引を重視する傾向の強い日本で、高校野球だけが勝利至上主義で短期的な選手起用に陥っているのは、理解に苦しむところもあります。例えば、本書にもある通り、正しいフォームで投げていればケガしないというのは正しくなく、本書の例を引けば、スクワットを100回出来る人はいても、無制限にスクワットを続けられるアスリートはいないわけで、野球の投手の投球も同じことだと思います。特に、10代で肉体的に完成していない高校生が、しかも、来年のオリンピックでも「暑さ対策」が声高に叫ばれている中で、真夏のグラウンドで野球するというのは、正気の沙汰ではありません。高校野球の場合、サッカーの国立競技場とは比べ物にならないくらいの存在感を示す甲子園という野球の聖地を目指して、真夏の競技をするわけで、学業との兼ね合いから夏休みに設定するという季節性の問題もあります。本書でも、米国をはじめとする野球先進国における投球数制限についてリポートされており、勝利を最優先にして甲子園を目指す高校野球のアナクロな指導者の目を覚まし、高野連における議論の活性化、というより、即時の結論を願って止みません。
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2019年09月21日 (土) 20:10:00

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!!!

何となく、3連休が続いたりして読書が進んでいるようで、今週の読書は経済書、というか、未来書や教養書・専門書に加えて小説まで含めて以下の計7冊です。東野作品と宮部作品は、いずれも早大生協で買って読みました。買ったうちで未読なのは伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』を残すのみとなりました。消費税率が10月から引き上げられると、しばらく本は買わなさそうな気がしないでもありません。

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まず、ジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』(SBクリエイティブ) です。著者は、私の知る限りエコノミストで未来学者なのかもしれませんが、もうそろそろ80歳ですし、技術関係がこんなに詳しいとは知りませんでした。大昔の米国レーガン政権期にサプライサイド経済学としてもてはやされたころ、『富と資本』を読んだ記憶があります。たぶん、まだ我が家の本棚にあると思います。ということで、本書では、実に大胆にも、今を時めくグーグルが近い将来にブロックチェーンの技術を基に開発された「ブロックスタック」に打倒され、世界の主役が交代すると予言しています。どうしてそうなるかといえば、一言で、無料サービスにこだわるグーグルは希少資源としての時間消費との矛盾を生じるから凋落するということで、要するに、無料サービスは我々の希少資源であり、万人に共通して1日24時間しかない時間の浪費を促進するから、ということのようです。すなわち、お金を出してなにか買うんではなく、時間を提供しているから、そんな資源の浪費は出来ない、といわけです。逆に、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、私にはよく理解できませんでしたが、要するに、リバタリアン的な理由のように感じました。すなわち、情報が分散処理されており何らかの中央処理機関のようなものが存在せず、他方、すべての参加者が共通の台帳を閲覧し、管理し、記録できる、わけで、何らかの情報処理センターを持っているグーグルとは異なります。ただ、このあたりの立論は強引な気がします。もっとも、私の読解力が不足しているのかもしれません。最後に、私の知る限り、本書は米国などではなかなかのベストセラーになっていますが、我が国での評判とはやや落差があります。テクノロジー関係の馴染みないカタカナ用語がいっぱい並んでいる点を別としても、問題の大きな部分は邦訳の文章が悪い、ということになるのかもしれませんが、私が感じたもうひとつは、400ページあまりのボリュームの中で、半分くらいがビットコインとかイーサリアムなど暗号通貨とそれを可能とするブロックチェーンの説明に費やされているのが読みにくい理由ではないかと思います。私の解釈では、グーグルが凋落するのは、無料サービスと希少な時間の浪費という矛盾を基にする理論武装で、多くのエコノミストの合意を得そうな気もしますが、ブロックチェーン技術を活用した新しい勢力の勃興の理由は、ほとんど理由になっておらず、かなりムリな立論に頼っているために、やたらと事実関係をいっぱい引用して補強する必要性を著者が感じてしまったからではないか、という気がします。タイトル的に、グーグルが落日を迎えるという1点に絞って議論を展開して、グーグルに代わって勃興するグループについては別論とした方がよかったような気もします。読みにくいのを承知の上で、また、凋落するグーグルに対して勃興する勢力の理論付けにかなりムリあるのを承知の上で、それなりの覚悟を持って読み進む必要がありそうです。

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次に、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義』上下(岩波書店) です。著者はドイツ生まれで、英国のオックスフォード大学で博士号を取得し、現在は米国のプリンストン大学の研究者です。専門分野は青磁思想史・政治理論となっています。私はこの著者の本としては、2年余り前に同じ出版社から出た『ポピュリズムとは何か』を読んで、2017年6月17日付けで読書感想文をアップしています。英語の原題は Contesting Democracy であり、2011年の出版です。上下巻ですが、歴史的な期間で区切られており、上巻では第2次世界大戦まで、下巻は戦後を対象にしています。ただ、上の表紙画像に見られる通り、副題は『20世紀ヨーロッパの政治思想』とされており、21世紀は対象外と考えるべきです。加えて、地理的なスコープは欧州に限られています。すなわち、我が国はもちろんのこと、米国すらも対象とされていません。ということで、上巻では、政治的には第1次世界大戦の結果としてソ連が成立し、経済的には米国を発端とする世界恐慌の結果、従来の地方名望家層に基礎を置く政治体制としての民主主義において、所得が十分あるブルジョワジーが政治に参加するとともに、製造業や商業を基盤とする資本主義的な経済が支配的な欧州において、資本主義と共産主義に対する第3の道としてのファシズム、中でもドイツのナチズムの成立がクローズアップされています。そして、下巻では同じく資本主義ながら、政府が積極的に市場に介入するというケインズ的な混合経済とベバリッジ的な福祉国家が1970年代の石油危機を発端とする大幅なインフレで疑問視され始め、この資本主義的な経済に対して、やっぱり、ソ連的な共産主義が対置されて、その第3の道としてのキリスト教民主主義ないし社会民主主義が模索される、というのが、大雑把なストーリーとなっています。どうしても、著者の出身からドイツが欧州の中心に据えられている気がします。ただ、戦前期から社会民主党が政権を担ってきたスウェーデンなどの北欧もありますし、もちろん、例外はいっぱいです。さらに、歴史的なスコープが20世紀で区切られているので、21世紀的なポピュリズムまでは、まあ、2011年の出版でもあり、BREXITや米国のトランプ大東慮y当選、さらに、大陸欧州でのポピュリズム政党の勢力台頭など、最近の出来事には目が届いていない恨みはあります。ただ、冷戦期からウェーバー的な官僚制が国家統治の主要なツールとなり、西側民主主義国政府だけでなく、むしろ、東側の共産主義国家の方でも官僚制がはびこっているとも指摘しており、今でもBREXITでの議論ではEU官僚が批判の矢面に立たされるなど、ポピュリズムの標的とされる場合すらあります。ただ、本書では著者は戦後欧州の民主主義や憲法秩序は、様々なチャレンジを乗り越えてその強靭さを示してきているということになりますが、無条件に自由と民主主義が侵犯されることはないとまではいえず、あくまで、自由と民主主義は「制度化された不確実性」である、ということになろうかと思います。すなわち、欧州においてすら初期設定が自由と民主主義であるわけではなく、主権者である国民自らがこれらを守ることに意図的に取り組む必要がある、ということなのだろうと私は解釈しています。

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次に、アンドレアス・ヴィルシング & ベルトルト・コーラー & ウルリヒ・ヴィルヘルム[編]『ナチズムは再来するのか?』(慶應義塾大学出版会) です。編者は、ドイツの研究者であり、チャプターごとの著者も同じくドイツの政治関係の研究者が主に執筆に当たっています。というか、ラジオ放送をオリジナルにして、新聞も含めてメディアミックス的に展開されたエッセイを取りまとめています。ドイツ語の原題は Weimarer Verhältnisse? であり、直訳すれば「ヴァイマル状況」という意味だそうです。2018年のヴァイマル共和国建国100年を記念して出版されています。ということで、本編は7章から成っており、原書からの章の組み換えはあるようですが、邦訳書では、政治文化、政党システム、メディア、有権者、経済、国際環境、に加わエて、最後に、外国からのまなざし、となっています。邦訳書には、ヴァイマル共和国略史と訳者あとがきなどの解説が付加されています。邦訳書では第5章に当たる経済のパートの副題が「ヴァイマル共和国の真の墓掘人」と題されており、エコノミストの目から見ても、まったく同感です。というか、ハイパーインフレを招いた通貨発行と緊縮財政の恐るべき組み合わせもさることながら、ケインズ的なマクロ経済政策を先取りするかのような財政拡張的なナチ党の経済政策が大きく上回って、その結果として国民各層、企業経営者も労働者も含めて、有権者の大きな支持を得て政権交代が生じた、ということになろうかと思います。そして、邦訳書のタイトルに設定された問いに私なりに回答しようと試みると、可能性は小さい、ということになろうかという気がします。本書では、あるいは、類書でも、最近の大陸欧州の政治状況、特にポピュリズムの台頭に関して、フランス国民戦のルペン党首とともに、ドイツでは極右とされるドイツのための選択肢AfDが注目されていて、特に地方政府の州議会選挙での躍進が報じられたりして、本書でもAfDとナチ党をなぞらえたり、比較を試みたりする見方が示されています。私は、ドイツ政治の実態を知らないので、何ともいえませんが、少なくとも私の理解する限り、ナチ党が政権に就いたひとつの要因に暴力による威嚇や脅威があったと考えています。すなわち、突撃隊SAや親衛隊SSというナチ党の私兵的な存在が警察や国防軍に入り込み、政府が集中管理する暴力に紛れてナチ党の暴力が国民の恐怖を引き起こして、決してドイツ国民の理性的な判断ではない投票結果をもたらした可能性があると私は考えています。これは、実は、スターリン政権下でのソ連も極めて類似しており、秘密警察が国家権力そのものであった違いだけであろうと思います。その意味で、現在のAfDがかつてのナチ党のSAやSSのような暴力装置をどこまで持っていて使用しているのか、私は知りませんが、21世紀の民主主義国家でSAやSSのような暴力装置が政権奪取にパワーを発揮するという政治状況は、控えめにいっても、あってはならないことだという気がします。

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次に、デイビッド・ウォルトナー=テーブズ『昆虫食と文明』(築地書館) です。著者は、カナダの疫学者、獣医学の研究者です。英語の原題は Eat the Beetles! であり、音楽グループのビートルズ Beatles と甲虫をもじっています。2018年の出版です。ということで、本書のモチーフとなったのは、冒頭にも言及されている通り、2013年に報告された FAO Edible insects: Future prospects for food and feed security のようです。近代から現代にかけて、人類がマルサス主義的な悲観論を克服したのは、アジアなどにおける「緑の革命」による食糧生産、中でも穀物生産の画期的な増加だったわけですが、我が国の明治期にも軍医としても森鴎外がカロリー摂取の点から白米の食事に全面的な信頼を置いていたのに対して、さすがに、21世紀に入れば主食の穀物だけでなく動物性タンパクが必要になりますから、こういった昆虫食のような発想が出るんだろうと思います。特に、本書でも何度も指摘している通り、欧州に起源をもつ人は昆虫食の文化がない一方で、日本の鮨が周辺~世界の中心的な食事になったことから、昆虫食についてもその可能性を秘めていると指摘しています。FAOの研究リポートや本書によれば、昆虫はウシ、ブタなどの家畜の肉に比べて高タンパクで、体によいとされる不飽和脂肪酸や鉄などの造血ミネラルも豊富に含んでおり、養殖するにしても他の家畜に比べて飼料効率が格段によく、発生する温暖化ガスや廃棄物は少なくて済み、その上に、養殖のためのインフラ整備にコストがかからない。とされており、いわゆるSDGsの観点からも人類は昆虫食から得るものが多い、と結論されています。昆虫を食用に用いないというのは、少なくとも宗教的な観点ではありません。広く知られている通り、ブタについてはユダヤ教やイスラム教ではタブーですし、ヒンズー教徒はウシを神聖視していたりもします。世界的にも、養殖の牛や豚などではなく自然の野生生物の食肉を用いたジビエがファッション的な観点からも注目されていますし、日本はもともとイナゴやハチノコなどの昆虫食があったりもします。しかしながら、そうはいっても、私自身は昆虫食をしたことがありませんし、抵抗感があるのも事実です。地球環境やSDGsの観点といわれても、ピンと来ないのも事実です。果たして、どこまで昆虫食が日本や欧米先進国で進むかは、大きな疑問ともいえます。本書でも、事前に私が想像したよりも、写真や図版がとても少ない気がしますが、そのあたりの配慮かもしれないと考えるのはよろしくないんでしょうか。

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次に、東野圭吾『希望の糸』(講談社) です。作者は売れっ子のミステリ作家であり、ガリレオのシリーズなどで有名ですが、本書は加賀恭一郎シリーズの作品で、でも、主役は加賀恭一郎の従弟の松宮脩平だったりします。内容は、2つの独立した家族関係、というか、イベントというか、静的には家族関係で、動的には殺人事件というイベント、ということになろうかという気がしますが、これらが同時並行的に謎として解決される、というミステリに仕上がっています。すなわち、一方は加賀や松宮が仕事として取り組む殺人事件であり、他方は松宮の個人的な出生の事実であり、いずれも謎解きの醍醐味が味わえます。この作者らしい切れ味鋭く、しかも、私の好きな徐々に真実が明らかにされる、という手法です。逆から見て、最後のどんでん返しはありません。ミステリですから、ここまでなんですが、タイトルについて少し考えておきたいと思います。すなわち、タイトルの「希望の糸」とは要するに家族のつながりなんですが、私の目から見て、やや遺伝的、というか、DNAに偏重した家族観ではないかという気がしています。同じような家族のつながりについて、表立ってはいないかもしれませんが、ひとつのテーマとして含んだ小説はいっぱいあり、私の好きな作家の作品として一例をあげると、三浦しをんの「まほろ駅前」シリーズがあります。このシリーズで作者の三浦しをんは遺伝子やDNAよりも、圧倒的に家族として過ごした関係とか時間の長さなどに重きを置いた家族観を披露しています。典型的には、行天と三峯凪子の間の子であるはると行天の関係です。行天のパーソナリティという設定なのですが、遺伝的には正真正銘の親子であっても行天は小さい子供であるはるを受け付けません。逆に、第1作の『まほろ駅前多田便利軒』のラストでは、体格から新生児の取り違えを強く示唆する一家の幸せそうな姿も描かれています。私は、これは男だからという生物学的な要素もあるのかもしれませんが、圧倒的に三浦しをんの家族観を支持します。もちろん、遺伝的なつながりが家族の基礎にあることは決して否定しませんが、家族とは文明以前の生物学的な観点から子孫を残すために結成されたグループなのではなく、社会的な生活を営むためのグループではないか、と私は考えています。その意味で、この作品に少し不満が残らないでもないんですが、少なくとも、松宮の出生の秘密に対する松宮本人と松宮母の受け止めの違いを読者は感じ取ってほしい気がします。私のようにこの作者のファンであれば、読んでおくべきだという気がします。

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最後に、宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社) です。これまた、上の東野圭吾とともに売れっ子のミステリ作家であり、私からクドクドと説明する必要はないと思います。本書は、この作家の恐らく初めての本格的なSF短編集だと私は考えています。なぜに「本格的な」という形容詞を付けたのかというと、今作者の作品の中で、ゲームの原作的な作品や超能力をモチーフにした作品がいくつかあり、基本的には近未来や現代から時代小説でも超能力や『荒神』のような化け物のような非現実的な作品もあるんですが、あくまで「本格的」と形容されるSFは初めて、という気がするからです。この作者の作品はかなり数多く読んでいるつもりですが、読み逃しがあるかもしれませんが、私の知る範囲でそういうことになろうかという気がします。短編集ということで、8編の短編が収録されています。収録順に、「母の法律」、「戦闘員」、「わたしとワタシ」、表題作の「さよならの儀式」、「星に願いを」、「聖痕」、「海神の裔」、「保安官の明日」となります。「母の法律」では、児童虐待防止のためにマザー法が制定され、記憶消去だか、記憶沈殿だかの記憶の操作まで行われる社会での親子関係を描きます。「戦闘員」では、侵略者が監視カメラに化けて出没する中で、リタイアした老人がこの侵略者を破壊する戦闘員となって戦います。「わたしとワタシ」では、45歳のわたしの前に、中学生のワタシがタイムスリップして現れるというコミカルな短編です。表題作の「さよならの儀式」では、古くなり修理部品もままならない家事ロボットを廃棄する際の切ない感情を取り上げています。「星に願いを」では、宇宙人が乗り移って妹が体調を崩したり、駅前で無差別殺人が起こったりします。「聖痕」では、ある意味で神戸の「酒鬼薔薇事件」の犯人を示唆している「少年A」が黒き救世主となって児童虐待の復讐に現れ、鉄槌のユダまで登場します。なお、本編は『チヨ子』に収録されている同タイトルの短編との異同が不明でした。「海神の裔」では、ゾンビというか、フランケンシュタインのように死者をよみがえらせることが国家施策となっていた世界について老女がモノローグで語ります。最後に、「保安官の明日」では、人造擬体をキーワードに大富豪が人生の悲劇の原因を探るためにシミュレーションを行う世界を描き出しています。ということで、各短編作品のSF度はそれほど高くなくて、現在の社会とはホンの少しビミョーに違っているだけなんですが、作者の世界観がすごいと感じさせられました。同時に、マイノリティーや弱者に対する作者のやさしい眼差しが印象的です。宮部ワールドの新しい方向性かもしれません。現代日本を代表する女性小説家の1人の最新作ですから、私のようなファンでなくても読んでおくべきだという気がします。
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2019年09月14日 (土) 11:30:00

今週の読書は経済学史のテキストからラノベまで含めて計9冊!!!

今週は大量に10冊近くを読みました。ただ、ややゴマカシがあって、うち3冊はラノベの文庫本だったりします。大学の経済学史の授業のテキストから始まって、以下の計9冊です。なお、小説の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』だけは買った本で、ほかは図書案で借りています。早大生協で5冊ほど小説ばかり買い求めたんですが、先週取り上げた道尾秀介『いけない』と、今日の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』のほか、残る3冊は宮部みゆき『さよならの儀式』、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』、東野圭吾『希望の糸』です。順次取り上げるつもりですが、あるいは、一気に読み切るかもしれません。

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まず、野原慎司・沖公祐・高見典和『経済学史』(日本評論社) です。著者たちは、いうまでもなく、経済学史の研究者であり、本書は大学の学部生くらいを対象にしたテキストを意図されているようです。ですから、基本的には学術書なんでしょうが、世間で身近な経済分野を分析する経済学の歴史ですので、一般のビジネスパーソンでも十分に読みこなせて、職場でも話題にできるような気がします。おそらく、どのような学問分野にも、xx学史の研究テーマがあり、例えば、数学史や天文学史などが有名ではないかと思います。後者の天文学史では、天動説から地動説に大転換があったりするわけです。その意味で、経済学の歴史である経済学史は、本書で指摘されている通り、そもそも成立がメチャクチャ遅いわけです。通常、古典的なレベルでは、典型的には古典古代のギリシア・ローマやエジプトなどに発祥する学問分野が少なくないんですが、経済学は、どこまで古くさかのぼっても、せいぜい、スミス直前の重農主義や重商主義でしかなく、むしろ、スミスの『国富論』なんぞは、ほかの学問分野では近代と呼ばれそうな気もします。その後の歴史的な経済学の現代までの流れが、極めてコンパクトに取りまとめられています。ただ、惜しむらくは、ものすごく大量の経済学の歴史を詰め込もうとしているだけに、とても大量の人名と理論が登場します。役所の官庁エコノミストをしていたころは、ほとんど何の関係もなかったマルクス主義経済学まで本書ではカバーしていたりします。とても例えが悪いので申し訳ないんですが、まるで、その昔の高校の世界史や日本史みたいな気すらします。中国の諸王朝の名称とそれぞれの皇帝の名を暗記するような勉強に、私のようなこの分野の初学者は陥るような気もします。経済学史の先生方は、このように多くの経済学者の名前を記憶し、それぞれの理論や業績をしっかりと把握しているのでしょうか。とても驚きです。私の記憶が正しければ、日銀の若田部副総裁のご専門が経済学史だったような気がするんですが、確かに、経済学の分野における博覧強記を地で行くような先生であるとのウワサを聞いたことがあります。私自身は、名前だけはよく似ている経済史を学生のころは勉強していました。経済学史がその名の通りに経済学の歴史であるのに対して、経済史もその名の通りに経済の歴史です。途上国や新興国が経済の発展段階を進める際の開発経済学の分野への応用の方が主だという気もします。

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次に、ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(白揚社) です。著者は、米国ハーバード大学の人類進化生物学の研究者です。英語の原題は The Secret of Our Success であり、2017年の出版です。本書で著者は、生物学的な、というか、ダーウィン的な進化だけでなく、ヒトについては文化が進化に大きな役割を果たして点を強調し、文化が人間を進化させ、そうして進化した人が文化を高度化し、高度な文化がさらに人を進化させる、という文化と進化の相乗効果で、ほかの動物に見られない極めて高度な文化・文明を身につけた、ということを実証しようと試みています。確かに、ヒトは個体としては決して強力ではなく、スポーツのようなルールなく素手で対決すれば軽く負けてしまいそうな自然界の動物はいっぱいいます。本書の冒頭で、コスタリカのオマキザル50匹とヒト50人がサバイバルゲームをすれば、おそらく、ヒトが負けるといった事実を突きつけています。その上で、「習慣、技術、経験則、道具、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして後天的に獲得されるあらゆるものが含まれる」と指摘している文化が、火や道具や衣類や言語や、といった文化的進化の産物をもたらし、さらに、これらがヒトの脳や身体に遺伝的な変化をもたらすという意味で、「文化-遺伝子共進化」culture-gene interactions を考えて、これこそがヒトをヒトたらしめている、と強調しています。加えて、文化が社会的な思考や行動を要請し、ある社会集団の構成員が共有している知識の総体としての文化が、食物をどのように獲得するか、個人間の争いをどのようにして仲裁するか、死後の世界はどんなものだと想定するか、何をしてはいけないか、どんな服装をするべきか、などなどを決定しているというわけです。ですから、文化を異にするヨソモノが別の社会的な集団に加わることは、それほど容易ではない、ということになります。また、別の観点から、当然のように、なぜヒトだけがこんな文化を持つことができるのだろう、という疑問が生じます。そして、文化を持つために必要な能力とは何かを考え、文化を形成し、改訂を加え、さらに次世代に伝達していくために必要なヒト固有の生物学的本能にも視点が及びます。人類という意味での集団についても、個別の子供の育て方についても、決定的な影響を及ぼすのは、親から受け継ぐ遺伝子かそれとも環境下、という不毛な論争が続いて来ましたが、集団としての人類の優秀さのもとを解明するためには、どのように他者と知識を共有し、他者から学ぶのかの詳細を解明することを通じて、この論争を終結させる可能性があるような気がします。

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次に、トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房) です。著者は、米国海軍大学教校授であり、ロシア情勢や国家安全保障の研究者です。英語の原題は The Death of Expertise であり、2018年の出版です。基本的に、米国言論界の現状について、かなり上から目線ながら、専門知が尊重されず、議論が不毛のものとなって疲労感ばかりをもたらす現状について警告を発しています。もちろん、米国だけでなく、我が国を含むほかの先進各国にも、いくぶんなりとも共通するところが見出せるような気がします。すなわち、100年ほど前までは、政治経済や言論などの知的活動への参加は一部のエリート階級に限られていたが、現在に続く大きな社会変化でラジオやテレビ、さらにインターネットが普及して門戸は一般大衆に大きく開かれ、こういった方向は多くの人のリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代の到来が期待された一方で、実際には、極めて多くの人が極めて大量な情報にアクセスが可能となり、かつ、知的活動に携わりながら、実は情報や知識を吸収しようとはせず、自らのやや方向違いの信念に固執して、各分野で専門家が蓄積してきた専門知を尊重しない時代を迎えている、ということを憂慮してます。確かに、我が国のテレビのワイドショーなんぞを見ていると、単なるタレント活動をしている芸能人が政治経済に関するコメンテータの役割を果たしているケースも決して少なくなく、私も従来から疑問に思っていたところです。例えば、政府の進める働き方改革でその昔に議論されたホワイトカラー・エグゼンプションについて、プロスポーツを引退したばかりで母児雌マンをしたこともないような元スター選手にコメントを求めても私はムダではないか、と思った記憶があります。これは、いわゆるポストトゥルースやポピュリズムの時代に、自分の意見と合致する情報だけを選び取る確証バイアス、その極端なものとしてのエコーチェンバーやフィルターバブルなどの結果といえます。ですから、健全で熟慮・熟考に基づく議論が成立しません。ただし、逆の面から見て、本書の第6章でも指摘していますが、専門家が常に正しいわけでもなく、本書では取り上げていませんが、鉛を加えたハイオクガソリンやフロンガスを社会生活に導入したトマス・ミジリーの実例などもあります。何が正しくて、何が間違っているのか、私は決して民主主義的な多数意見が常に正しいと考えるわけではありませんが、おうおうにして「みんなの意見は案外正しい」こともあるわけで、健全な常識に基づいて相手に対する敬意を持った議論を重ねて、決して真実ではないかもしれませんが、何らかの一致点に達したいと希望しています。

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次に、ヤクブ・グリギエル/A. ウェス・ミッチェル『不穏なフロンティアの大戦略』(中央公論新社) です。著者は2人とも安全保障に関する研究者ですが、ともに国務省の勤務経験もあり、単なる研究者にとどまらず実務家としての経験もあるようです。英語の原題は The Unquiet Frontier であり、邦訳タイトルはそのまま直訳したようです。2016年2月の出版です。どうして月まで言及するかといえば、本書が出版された時点では、現在のトランプ米国大統領はまだ共和党の中でも決して有力とみなされていなかったからです。ということで、監訳者あとがきにもありますが、本書の結論を一言でいえば「同盟は大切」ということになります。現在、東アジアで日韓関係がギクシャクして、そこに米国が仲介すらできずに、半ば静観していて、逆に、軍事的な負担金の増額を我が国に求めるがごとき政府高官の発言が報道されたりしていて、米国の安全保障面での求心力の低下を私は実感しています。もちろん、マルクス主義的な上部構造と下部構造に言及する必要もないくら位に明白な事実として、米国経済が全般的にその地位を低下させるとともに、軍事的なプレゼンスはもとより安全保障上の発言力も大きく低下し、その上で、現在の米国トランプ政権のような同盟軽視で自国中心主義的な安全保障観が登場したのはいうまでもありません。そういった当然のような最近数十年の安全保障上の動向につき、本書では「探り」probimg という言葉をキーワードに、現在の覇権国であり現状を変更するインセンティブを持たない米国とその同盟国に対し、ロシア・中国・シリアなどの現状変更を目指す勢力が「探り」を入れて来ていると著者たちは感じているわけです。私の感覚からすれば、「探り」とは低レベルの圧力であり、言論を持ってするものもあれば、破壊力の弱い武力行使も含まれるというくらいの意味に取りました。要するに、現状変更を目指す3石は米国と直接の武力対決を目指すのではなく、日韓両国がまさにこれに含まれるフロンティア=周辺に位置する米国の同盟国を切り崩しにかかっていて、韓国はまんまとこれに翻弄されているように見えます。いずれにせよ、私の専門外でありながら、興味の範囲内である安全保障に関する本書は、同盟という観点から米国サイドの安全保障を分析しており、それなりの新味があった気がします。実は、私自身は対米従属から脱却するために日米同盟は廃棄することが望ましいと考えていますが、米国の方から同盟に対する否定的な意見が飛び出す政権が登場したのに、やや戸惑っているのも事実です。

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次に、池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社) です。作者はご存じ売れっ子の大衆小説作家であり、本書はTBSドラマの原作となっており、明日の日曜日が最終回の放映ではなかったかと記憶しています。名門ラグビーチームを抱える大手自動車会社の経営戦略室のエリート社員が、横浜工場の総務部長に左遷されて、自動的にラグビーチームのゼネラルマネージャー(GM)を兼務する、というか、本来の総務部長としてのお仕事よりもラグビーチームのGMとしてのご活躍がほぼほぼすべてとなります。辞任した監督の後任探しから始まって、地域密着型のチーム作り、さらに、ラグビー協会の改革、もちろん、チームの1部リーグの優勝まで、余すところなく目いっぱいの展開です。しかも、この作者らしく、社内政治も目まぐるしく変化し、今までになかったどんでん返しも見られたりします。というのは、この作者の作品の特徴として、半沢直樹シリーズが典型なんですが、白黒はっきりと別れて、主人公のサイドにいて味方するいい人たちと、それに対抗する悪い人たちが明確に分類される傾向があり所、この作品では白だと思っていたひとが黒だった、という展開もあったりします。そして、長らく定年まで役所に勤めた私なんかには想像もできないんですが、大きな会社ではここまでコンプライアンスに問題ある行為を実行する役員がいたりするものか、と感じさせられました。ラグビーですから、大学レベルでは関東の早大、明大、慶大、社会人レベルでもいくつかラグビーチームを持つ会社が実名で言及されたりして、また、監督についても実名で登場したりするんですが、実際に登場するチーム名や選手名は、もちろん、すべてが実在しないんだろうと思います。その点で、やや混乱する読者もいるかも知れません。それから、同じ作者で社会人のノンプロ野球をテーマにした『ルーズベルト・ゲーム』というのも私は読んでいるんですが、競技としてのルールや戦術などについてはラグビーの方が馴染みないんですが、それでも、作品としてはこの『ノーサイド・ゲーム』の方がよく出来ている気がします。私はドラマの方はまったく見ていませんが、明日の最終回を楽しみにしているファンの方も決して期待は裏切られないと思います。

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次に、ブレイディみかこ『女たちのテロル』(岩波書店) です。著者は英国ブライトン在住の保育士・著述家というカンジではないでしょうか。本書は出版社のサイトでは、評論・エッセイに分類されており、確かに、実在の人物や事件を基にしているわけですが、私の目から見て、あくまで私の目から見て、なんですが、真実は計り知れないながらも、かなり脚色もあって、むしろ、事実や実在の人物に取材した小説ではないか、という気がしています。まあ、赤穂浪士の討ち入りを題材にした時代小説のようなもんではないでしょうか、という気がします。したがって、私の読書感想文では小説に分類しておきます。ということで、女たちですから3人の約100年前の女性にスポットが当てられています。すなわち、皇太子爆殺未遂の金子文子、武闘派サフラジェットのエミリー・デイヴィソン、そして、アイルランドにおけるイースター蜂起のスナイパーであるマーガレット・スキニダーです。さすがに、私が知っていたのは金子文子だけで、本書でも言及されている朴烈の膝に寝そべった金子文子の写真も見た記憶があります。残念ながら、特に印象には残っていません。サフラジェットというのはたぶん、suffrage から派生していて、過激な女性参政権論者、アクティビストのようです。最後に、アイルランドのイースター蜂起は事件として知っているだけで、マーガレット・スキニダーについては皆目知りませんでした。いずれ3人とも恵まれない境遇から国家に反旗を翻した100年前の女性たちです。金子文子については、皇太子爆殺未遂の容疑なんですが、爆弾も用意せずに頭の中で計画を巡らせただけで、おそらくは、朝鮮人とともにという偏見もあって、それだけで有罪になったんですから、現在からは考えられもしません。でも、これら3人の女性が国家や権力と対決しつつも、前を向いて時代を生き抜く力の尊さについての温かい眼差しを感じることができました。ただ、金子文子の部分はともかく、先ほどのサフラジェットもそうなんですが、外国語をそのままカタカナにした文章表現は、やや読みにくく流暢な文章というカテゴリーからかなり遠いような気がしました。私はそれほどでもありませんが、それだけで嫌になる読者もいそうな気がします。着目した内容とアンリ・ルソーの雰囲気をたたえた表紙がよかっただけにやや残念です。

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最後に、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 10』、『京都寺町三条のホームズ 11』、『京都寺町三条のホームズ 12』(双葉文庫) です。個の私のブログでは、昨年2018年5月半ばに8巻と9巻の読書感想文をアップしています。その続きの10巻、11巻、12巻を読みました。10巻ではとうとう主人公の葵が5月3日ゴールデンウィーク真っ最中に20歳の誕生日を迎え、清貴と九州を走るJR九州のななつ星、だか、その架空バージョンに乗って婚前旅行、だか、婚約旅行をするストーリーです。そして、11巻は少し小休止で過去を振り返ったりします。このシリーズには第6.5巻というのがあったりしましたから、11巻というよりも10.5巻なのかもしれません。そして、12巻は清貴の修行シリーズに戻って、探偵事務所編です。どこまで続くんでしょうか。あるいは、私はどこまで付き合うんでしょうか?
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2019年09月08日 (日) 13:50:00

先週の読書は経済書『グローバル・バリューチェーン』や教養書から小説までよく読んで計7冊!!!

昨日に米国雇用統計が入ってしまって、いつも土曜日の読書感想文が今日の日曜日にズレ込んでしまいました。『グローバル・バリューチェーン』や東京大学出版会の学術書といった経済書、さらに、教養書に加えて、道尾秀介の話題の小説まで、幅広く以下の通りの計7冊です。また、いつもの自転車に乗っての図書館回りもすでに終えており、今週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、荒巻健二『日本経済長期低迷の構造』(東京大学出版会) です。著者は、その昔の大蔵省ご出身で東大教授に転出した研究者です。本来のご専門は国際金融らしいのですが、本書ではバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷について分析を加えています。出版社から考えても、ほぼほぼ学術書と受け止めていますが、それほど難しい内容ではないかもしれません。というのは、著者はが冒頭に宣言しているように、特定のモデルを念頭にした分析ではなく、したがって、モデルを数式で記述する意図がサラサラなく、マクロ統計データを基にしたグラフでもって分析を進めようとしているからです。ですから、各ページの平均的な面積で計測したボリュームの⅓から半分近くが文字ではなくグラフのような気が、直感的にします。あくまで直感ですから、もちろん、それほどの正確性はありません。ということで、まったくエコノミスト的ではない方法論ながら、バブル崩壊後の日本経済の低迷について、国内要因と海外要因、あるいは、供給サイドと需要サイド、財政政策と金融政策、家計部門と企業部門、などなど、いくつかの切り口から原因と対応策を考えた上で、企業部門の過剰ストック、という、エコノミスト的な用語を用いればストック調整が極めて遅かった、ないし、うまく行かなかった、という結論に達しています。いくつかに期間を区切って分析を進めていますが、特に、停滞が激しくなったのは1997年の山一證券、三洋証券、拓銀などが破綻した金融危機からの時期であるとするのは、衆目の一致するところでしょう。しかし、結局、「マインドセット」という耳慣れない原因にたどり着きます。それまでの統計を並べた分析とは何の関係もなく、企業部門の行動パターンの停留にある毎度セットに原因を求める結論が導かれた印象です。あえて弁護するとすれば、あらゆる可能性を統計的には叙すれば「マインドセット」が残る、といいたいのかもしれません。でも、わけの判らない結論だけに制作的なインプリケーションがまったく出てきません。あえてムリにこじつけて、本書ではデフレ対策の意味も兼ねて、ストック調整を無理やりに進めて供給サイドのキャパを削減することを指摘しています。かつての nortorious MITI のように各社に設備廃棄を行政指導したりすることが念頭にあるとも思えず、苦笑してしまいました。確かに、私もかつてのリフレ派のように「金融政策一本槍でデフレ脱却」というのは、ここまで黒田日銀が異次元緩和を続けてもダメだったんですから、そろそろ考え直す時期に来ているというのは理解します。しかし、本書がその意味で役立つとはとても思えず、「やっぱり、現代貨幣理論(MMT)ですかね」という気分になってしまいました。ちゃんと勉強したいと思います。

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次に、猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』(日本経済新聞出版社) です。著者はJETROアジア経済研究所のエコノミストです。途上国経済の分析や開発経済学の専門家が集まっているシンクタンクですが、実は、本書の副題も「新・南北問題へのまなざし」とされていて、単純にサプライチェーンを新たな呼び方で分析し直しているわけではありません。ただ、本書はほぼ学術書と考えるべきで、一般的なビジネスパーソンにも十分読みこなせるように配慮されていますが、それなりにリファレンスにも当たって読みこなす努力があれば、各段に理解が深まるように思います。もちろん、モデルを説明するのにはビジュアルな図表を用いて数式はほぼ現れない、という配慮はなされています。ということで、本書のタイトルではなく、一般名詞としてのグローバル・バリュー・チェーン(GVC)については、本書でも参照されているように、PwCのリポートでデジタル経済におけるサプライチェーンの特徴づけがなされていて、従来のような直線的な調達・生産・流通といったルートから顧客に届けるんではなく、それぞれの段階に応じてサプライチェーンを管理する必要性が指摘されています。ただ、本書はそういったマネジメントや経営学的なサプライチェーンではなく、もっと純粋経済学的な理論と実証の面からGVCを分析しています。その観点はいくつかありますが、第1に、産業連関表というマクロ経済の鳥観図の観点からの分析です。付加価値ベースで、どの国でどの産業の製品をアウトプットとして製造しているか、そのためにどの産業の製品をインプットとして用いているか、関連して雇用なども把握できる分析ツールが産業連関表であり、本書では世界経済レベルの連結した国際産業連関表をベースにした議論がなされています。第2に、最新の貿易理論の視点です。古典的ないし新古典派的な経済学では、リカードの比較生産費説に始まって、サムエルソン教授らが精緻化を図りましたが、本書でも指摘されているように、モデルのいくつかの前提を緩めて現実に近づけていく中で、クルーグマン教授らの新貿易理論、さらに、メリッツ教授らの新・新貿易理論に到達し、さらに、GVCの分析から新・新・新貿易理論まで展望しています。第3に、途上国や新興国の経済開発に関する視点です。従来は、直接投資などで外資を受け入れ、垂直的な向上生産を丸ごと途上国や新興国に資本や技術を移転するという観点でしたが、GVCでは生産の部分的な貢献により先進国から技術やマネジメントの導入が可能となり、比較優位がさらに細かくなった印象を私は持ちました。その昔、リカードは英国とポルトガルで綿織物とブドウ酒の例で比較優位に基づく生産の特化をモデル化しましたが、すでに、1990年代には半導体の前工程と後工程の分割など、生産の細分化により世界中で幅広く生産を分散化するという例が見られています。本書冒頭では、アップルのiPhpneが米国カリフォルニアでデザインされ、中国で生産された、という、それはそれで、少しややこしい生産ラインについて言及していますが、いろんなパーツを持ち寄ってアッセンブルするという生産が決して例外ではなくなっています。そして、最後に、そういった生産工程の一部なりとも自国に取り込むことにより、工学的なテクノロジーや経営的なマネジメントなどの導入を通じて途上国や新興国の経済開発に寄与する道が開かれたわけです。こういった幅広い観点からGVCの理論的・定量的な分析が本書では進められています。ただ、その前提として自由で公正な貿易システムが不可欠です。現状の米中間の貿易摩擦はいうに及ばず、世界的に自国ファーストで政治的・経済的な分断が進む方向はエコノミストとして、特に、私のように自国の経済はもとより、途上国や新興国の経済発展にも目を配る必要を感じているエコノミストには、とても疑問が大きいと考えています。

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次に、本川裕『なぜ、男子は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、統計の専門家で「統計探偵」を自称し、財団だか社団だかのご勤務の傍ら、ネット上の統計グラフ・サイト「社会実情データ図録」を主宰しているんですが、私の記憶が正しければ、役所からはアクセスできなかったです。理由はよく判りません。その昔は、マンキュー教授の Greg Mankiw's Blog にもアクセスできませんでしたから、私が文句をいって見られるようになったこともありました。どうでもいいことながら、私が役所に入った際に上司の局長さんは「景気探偵」を自称し、シャーロッキアンだったりしました。今年亡くなられたところだったりします。ということで、前置きが長くなったのは、本書の中身にやや疑問がないわけではないためで、特に、タイトルにひかれて社会生態学的な若者論を期待した向きには残念な結果となりそうで、本書はひたすら統計をグラフにして楽しんでいる本です。ただ、統計のグラフからその原因を探ろうとしているところが「探偵」を自称するゆえんなんだろうと思いますが、因果関係にはほとんど無頓着なようで、タイトルになった「草食化」についてはいくつか統計的なグラフを示した後、その原因は統計やグラフとは何の関係もなく世間のうわさ話や著者ご自身の思い込みから類推していたりします。しかも、著者の主張する「草食化」の原因たるや、原因か結果かが極めて怪しいものだったりします。2つのグラフを書いて見て時期が一致いているから、というのが理由のようです。もちろん、経済学の分野ではグレンジャー因果という概念があって、先行する事象をもって原因と見なす計量分析手法が一定の地保を占めていて、実は私の査読論文もこれを使ったりしているんですが、それならそれで明記すべきですし、時系列の単位根検定などもあった方がいいような気もします。また、エンゲル係数の動きの解釈なんか、私から見ればムリがあるような気がしないでもありません。加えて、統計以外のトピックから持って来るとすれば、高齢者就業率なんかはいわゆる団塊の世代の特異な動向にも言及する必要があるような気がするんですが、そのあたりはスコープにないのかもしれません。ですから、何かの経済社会的な現象についての原因を探るよりは、その経済社会的な現象そのものが世間の見方とは少し違う、という点を強調するしかないようで、世間一般の見方、すなわち、常識と少し違うという主張が本書の主たる内容であると考えるべきです。半年ほど前の今年2019年3月30日付けの読書感想文で、ゲアリー・スミス『データは騙る』を取り上げましたが、本書で解説されているうちのいくつかが該当しそうな気すらします。マーク・トウェインの有名な言葉に、「ウソには3種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして、統計である」という趣旨の格言がありますが、ひょっとしたら、ホントかもしれない、と思わせるものがありました。少なくとも、今はポストトゥルースの時代ですし、平気で情報操作がなされるわけですから、世間一般に解釈されている内容と別の事実が統計から浮かび上がってくるのであれば、まず、それを健全なる常識に照らし合わせて疑ってみるべきです。もう少し、通説とか、一般教養とか、健全なる常識というものをしっかりと持った上で、統計的あるいは計量的にそれを裏付ける努力をすべきであり、悪質な改ざんや意図的なごまかしとは違う次元で、本書はそれなりに問題を含んでいる可能性があることを指摘しておきたいと思います。私の学生時代にブルーバックスから出た古い古い本で『統計でウソをつく法』というのをしっかり勉強する必要があるのかもしれません。少なくとも、統計から得られる事実を、自分の思い込みや世間のうわさ話で解釈するのはムリがあるような気がします。その典型が「草食化」なのかもしれません。

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次に、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』(弘文堂) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の研究者であり、米英における白人労働者階級の研究が専門のようです。英語の原題は The New Minority であり、2016年の出版です。邦訳書のタイトルはかなり直訳に近い印象です。ということで、訳者あとがきにもあるように、原書が出版された2016年とは英米で2つの国民投票におけるポピュリズム的な結果が世界を驚かせた年でした。英国のEU離脱、いわゆるBREXITと米国の大統領選挙でのトランプ候補の勝利です。これらの投票結果を支えたのが、本書でいうところの白人労働者階級であり、民族的にも人種的にも、かつては英米で多数を占めていたにもかかわらず、現在では新しい少数派になっている一方で、少なくとも2016年の英米における国民投票では大きな影響力を発揮した、ということになります。その英米両国における白人労働者階級について、英国の首都ロンドン東部と米国のオハイオ州においてフィールドワークを行い、計120人、うち約3割の35人はエリート層から選ばれた対象にインタビューを実施するとともに、定量的な分析も実施しつつ、いろんな面からの英米両国における白人労働者階級の実態を明らかにしようと試みています。ですから、というわけでもありませんが、本書はほぼほぼ完全な学術書です。第2章ではかなり広範囲な既存研究のサーベイがなされていて私もびっくりしましたし、フィールドワークのインタビューでも、定量分析でもバックグラウンドにあるモデルがよく理解できます。というか、少なくとも私には理解できました。そして、これらの白人労働者階級をアンタッチャブルで剥奪感大きなクラスとして見事に描き出しています。ポピュリズムの分析で、特に、英米の白人労働者階級にスポットを当てたものとして、この私のブログの読書感想文でも数多くの文献を取り上げていますし、訳者あとがきにも取り上げられていますが、本書は遅れて邦訳されたとはいえ、第一級の内容を含んでいて、通俗的ともいえるナラティブで一般読者を納得させる上に、きちんとモデルを背景に持った学術的な分析も十分に含んでいます。最後に、本書からやや離れるかもしれないものの、私が従来から強く思うに、こういった白人労働者階級は、かつてミドルクラスであり、特に英米両国に限らず欧米各国では広くマジョリティであったわけですが、その階層分解の過程で、20世紀初頭のロシアにおける農民層分解と同じように、何らかの左派のリベラル勢力がスポットを当てて、白人労働者階級の利益を代表して政策を打ち出すことが出来ていれば、ひょっとしたら、右派的なポピュリズムとは逆の目が出ていた可能性があるんではないか、という気がします。繰り返しになりますが、強くします。現在の英国労働党におけるコービン党首の打ち出している方向とか、米国民主党のサンダース上院議員の政策が、それを示唆しているように私は受け止めています。金融政策では為替動向を見据えつつ緩和を推進するとともに、財政政策では反緊縮でしょうし、企業の法人税を引き下げるのではなく、国民の雇用を確保して所得増を目指す方向です。

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次に、マーティン・プフナー『物語創世』(早川書房) です。著者は、米国ハーバード大学の演劇学や文学の研究者です。英語の原題は The Written World であり、2017年の出版です。地政学という言葉は人口に膾炙していますが、最近では経済地理学というのもありますし、本書はそういう意味では地理文学ないし地文学、ともいえる新しいジャンルを切り開こうとするものかもしれません。というのは、著者が著名な文学、ないし、英語の現タイトルのように書かれた記録に関する場所を訪れた経験を基に、その書かれた記録がひも解かれているからです。取り上げる対象は、聖書から始まって、「ハリー・ポッター」まで、本とか書物と呼ばれるモノなんですが、中身によって宗教書のようなものから、もちろん、小説がボリューム的には多くの部分を占めるんでしょうが、新聞やパンフレット、あるいは、宣言=マニフェストまで幅広く対象としています。それらの対象となる書物の中から、著者は「基盤テキスト」というものを主張し、これこそが世界に幅広くかつ強い影響力を及ぼす、と考えているようです。その典型例はいうまでもなく「聖書」であり、キリスト教政界にとどまらず、幅広い影響力を有しています。影響力が強すぎて、さすがに、地動説こそ広く受け入れられましたが、例えば、宇宙や世界の始まりに関するビッグバン、あるいは、ダーウィン的な進化論を否定するような非科学的な考え方すら一部に見受けられる場合もあったりします。これらの基盤テキストとして、本書では聖書に加えて、古典古代の『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』、さらに、やや宗教色を帯びたものも含めて、ブッダ、孔子、ソクラテス、『千夜一夜物語』、中世的な騎士道を体現しようとする『ドン・キホーテ』、などが解明され、我が国からは世界初の小説のひとつとして『源氏物語』が取り上げられています。異色な基盤テキストとしては「共産党宣言」が上げられます。これらの基盤テキストの著者に本書の著者のプフナー教授がインタビューした本書唯一の例が、第15章のポストコロニアル文学に登場するデレク・ウォルコットです。セントルシア出身の詩人であり、1992年にノーベル文学賞を授賞されています。ちょうど、私が在チリ日本大使館の経済アタッシェをしていて、ラテン・アメリカに在住していた時期であり、しかも、1992年とはコロンブスの新大陸発見からまさに500年を経た記念すべき年でしたので、私もよく記憶しています。当時、チリ人とついついノーベル文学賞の話題になった折り、「日本人でノーベル文学賞受賞者は何人いるか」という話題になり、1995年の大江健三郎の受賞前でしたから川端康成たった1人で悔しい思いをした記憶があります。というのは、その時点でチリ人のノーベル文学賞受賞者は2人いたからです。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと革命詩人のパブロ・ネルーダです。ウォルコットもそうですが、日本で的な短歌や俳句を別にすれば、我が国の詩人の詩が世界的に評価されることは少ないように私は感じています。詩に限らず小説も含めて、スペイン語や英語といった世界的に広く普及している国際言語を操るラテン・アメリカ人と違って、日本人や日本語のやや不利なところかもしれないと感じたりします。やや脱線しましたが、本題に戻って、小説や詩といった文学に限定せず、世界的に影響力大きい基盤テキストについて、地理的な要素を加味しつつ、それらが「書いたもの」として記録された意味を考える本書はなかなかに興味深い読書でした。今週一番です。

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次に、須田慎太郎『金ピカ時代の日本人』(バジリコ) です。著者は報道写真家であり、本書の期間的なスコープである1981年から1991年の約10年間は、主として、我が国における写真週刊誌第1号として新潮社から1981年に発効された「フォーカス」の専属に近い写真家であったような印象を私は持ちました。我が国では、写真家の先達として、賞にもなっている木村伊兵衛と土門拳があまりにも有名ですが、本書の著者は報道写真ということですから、後者の流れをくんでいるのかもしれません。というのは、木村伊兵衛はどちらかといえば、ということなんですが、人物や風景などのポートレイトが多いような印象を私は持っているからです。現在では、写真の木村賞といえば、小説の芥川賞になぞらえられるように、写真家の登竜門として新人写真家に対して授与され、他方、土門賞といえば、小説の直木賞のように、報道も含めてベテランで大衆的な写真家に授与されるような傾向あるものと私は理解しています。なお、「フォーカス」のような写真雑誌としては、海外では Life などが有名ですし、我が国では考えられないんですが、社交誌のような雑誌も発行されていたりします。実は、私が1990年代前半に在チリ日本大使館に勤務していた折、当地の Cosas という社交誌にチリの上院議員とともに収まった写真が掲載されました。今でも記念に持っていたりします。さらに、著者は定年退職したばかりの私の1年年長であり、本書の時期的なスコープがほぼほぼ私の社会人スタートと重なっています。しかも、タイトルに「金ピカ時代」、たぶん、英語では Gilded Age と呼ばれ、特に米国では南北戦争終了後の1870~80年代の急速な発展期と目されていますし、本書でも1981~91年はバブル経済の直前とバブル経済の最盛期と見なしているようです。まあ、いろんな視点はあるわけで、日銀的に、その後のバブル崩壊のショックまで視野に入れて、バブル期を評価しようとする場合もあるんでしょうが、私のようにその時代を実体験として記憶している向きには、華やかでそれなりに思い出深い時期、と見る人も少なくないような気もします。その後、我が国のバブルは崩壊して、私も海外の大使館勤務で日本を離れたりします。しかも、本書では写真家が著者ですので、著述家や作家と違って、被写体がいるその場に臨場する必要があるわけですから、とても迫力があります。もちろん、バブル経済直前とその最盛期の日本ですから、本書でも言及されているロバート・キャパ、あるいは、マン・レイのように戦場の写真はまったくありません。日本人でも沢田教一のように戦場の写真を撮り、戦場で死んだ写真家もいましたが、まあ例外なのかという気はします。架空の写真家としては吉田修一の小説の主人公である横道世之介がいますが、写真家としての活躍はまだ小説にはなっていません。本書では、上の表紙画像に採用されているようなAV女優に囲まれる村西とおる監督とか、あるいは、当時のトップレス・ノーパン喫茶の取材などの際の写真、といったくだけたものから、政治家や財界人などの写真、あるいは、山口組3代目組長の妻や4代目組長の写真などなど、歴史的な背景の記述とともに写真も幅広く収録されています。ただ、私の目から見て、なんですが、経済は人が出て来ませんので写真になりにくい恨みはありますが、スポーツの写真がかなり少ない印象でした。報道写真としてはスポーツも必要で、特に本書のスコープの中には1985年の阪神タイガース日本一が含まれますので、やや残念な気はします。

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最後に、道尾秀介『いけない』(文藝春秋) です。著者は、なかなか流行しているミステリ作家であり、私も大好きな作家の1人です。作品の8割方は読んでいると自負しています。この作品は、私の目から見て、「xxしてはいけない」という各賞タイトルが付いた3章の中編ないし短編集と考えています。連作短編集です。ただ、最後のエピローグも含めて4章構成の連作短編集とか、あるいは、全部ひっくるめて長編と考える向きがあるかもしれません。全体を通じて、この作家特有の、何ともいえない不気味さが漂い、ややホラー仕立てのミステリに仕上がっています。特に、第1章は倒叙ミステリではないかもしれませんが、実に巧みに読者をミスリードしています。そして、この第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、アンソロジーに収録されていて、私も読んだような記憶がかすかになくもなかったんですが、なにぶん、記憶容量のキャパが小さいもので、実に新鮮に読めたりしました。ただ、第2章以降も含めて、十王還命会なる宗教団体を中心に据えたミステリに仕上げた点については、疑問に思わないでもありません。もちろん、ホックの短編「サイモン・アーク」のシリーズと同じように、いかにも、近代科学では説明できない超常現象のように見えても、近代科学の枠を決して超えることはなく、その近代科学と論理の範囲内で謎が解ける、という点については高く評価するものの、宗教団体、特に、新興宗教というだけで、何やら胡散臭いものを感じる私のような読者もいることは忘れて欲しくない気もします。特に、本書の殺人事件は警察レベルではすべてが未解決に終わるんですが、その背後に宗教団体がいては興醒めではないでしょうか。ただ、読後感は決して悪くなく、上手く騙された、というか、何というか、各章最後の10ページほどで真実が明らかにされ、大きなどんでん返しが体験できます。私自身は、どちらかというと、ディヴァー的なものも含めて、ラストのどんでん返しよりも、タマネギの皮をむくように、徐々に真実が読者の前に明らかにされるようなミステリ、例えば、最近の作風では有栖川有栖の作品などが好きなんですが、こういったどんでん返しも、本書のように読後感よくて上手く騙された感がありますので、いいんではないかという気がします。実は、オフィスから帰宅の電車で読み始め、家に帰りついてから夕食も忘れて一気読みしました。250ページほどの分量というのも適当なボリュームだった気がします。なお、先週の読書のうち、本書だけは買い求めました。借りようとしても待ち行列があまりに長かったからで、加えて、来月から消費税率が引き上げられますので、小説ばかり何冊か買い求めたうちの1冊でした。本書を含めて5冊ほど早大生協で買い求めましたので、少しずつ読んでいこうと考えています。
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2019年08月31日 (土) 11:55:00

今週の読書は経済書や教養書・専門書から話題の小説まで計6冊!!!

今週も、経済書2冊をはじめとして、中国史などに関する教養書・専門書から流行作家の小説まで、以下のとおり6冊ほどの読書なんですが、決して読書感想文で明らかにできない本も読んだりしています。なお、すでに自転車で図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上る予定ですが、「読書の秋」を終えたくらいの段階で、そろそろペースダウンも考えないでもありません。

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まず、ジョセフ F. カフリン『人生100年時代の経済』(NTT出版) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者であり、エイジラボ(高齢化研究所)の所長を務めています。英語の原題は The Longevity Economy であり、2017年の出版です。邦訳タイトルは長寿ないし高齢を意味する longevity を人生100年時代としていますが、かなりの程度に直訳に近い雰囲気です。ということで、タイトルから理解できるように、あくまで「経済」であって「経済学」ではありませんから、製品開発なども含めた広い意味での高齢化社会への対応を解説しようと試みています。どちらかといえば、マーケティング的な視点を感じ取る読者が多そうな気もします。もちろん、その前提として、高齢化社会、ないし、人生100年時代の経済社会の特徴を明らかにしています。ただし、米国の研究者らしく、政府による政策や制度的な対応はほぼほぼ抜け落ちています。日本でしたら、医療・年金・介護などの政府に頼り切った議論が展開されそうなところですが、そういった視点はほぼほぼありません。まず、高齢者とは従来のイメージでは、働けなくなった、ないし、引退した世代の人々であり、従って、収入が乏しいという意味で経済的には貧しく、もちろん、肉体的にも不健康であり、これらが相まって、不機嫌な傾向も大いにある、ということになります。本書ではもちろん登場しませんが、その昔の我が国のテレビ番組で「意地悪ばあさん」というのがあり、私はそれを思い出してしまいました。しかし、本書で著者が主張するのは、従来の意味での高齢者像は人生100年時代に大きく変化している、という点です。ただ、統計的な評価ではなく、アクネドータルにトピックを紹介している部分が多いんですが、うまくいった商品、ダメだった商品の例などは単なるケーススタディにとどまらず、大きな経済社会的な方向感をつかむことができるかと思います。なお、注釈にもありますが、著者は「商品」という言葉ではなく、「プロダクト」を独特の用法で多用します。本論に戻ると、単に高齢者のニーズが従来から変化した、というだけでなく、年齢を重ねても元気で生活や消費だけでなく、あるいは、労働の継続まで含めて、高齢者の生活の中身そのものが従来とは異なる、という点が重要なのではないかと私は考えています。

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次に、タイラー・コーエン『大分断』(NTT出版) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の経済学の研究者であり、マルカタス・センターの所長を務めています。「マルカタスト」とはマーケット=市場という意味らしく、市場原理主義者ではありませんが、リバタリアンと解説されています。英語の原題は The Complacent Class であり、2017年の出版です。同じ著者の出版で『大停滞』と『大格差』も話題を呼んだと記憶しています。ということで、著者のいう「現状満足階級」とは、著者自身は NIMBY = Not in My Backyard と解説していますが、同じことかもしれないものの、私が理解した限りで、いわゆる総論賛成各論反対の典型であり、経済社会の改革や変革を望みながら、自分自身の生活や仕事の変化は望まない、という人たちであり、これも私が本書を読んだ限りでは、著者は、大きな変革が生じにくくなっていることは強調している一方で、これが「現状満足階級」に起因している、ことはそれほどキチンとした証明とまでいわないまでも、あまり言及すらしていないような気がしました。まあ、私が読み逃しているだけかもしれません。他方で、デジタル経済の下で格差が広がっている点については、いわゆる「スーパースター経済」が進んでいるわけですから、これについては、いろんな論点がほぼ出尽くしている気がします。経済については、開発経済学の見方を援用すれば、要するに、先進各国ともルイス転換点を越えたわけですから、大きな変革は生じようがありません。他方で、新興国途上国やはルイス転換点に向かっていますから、かつての日本のような高成長が可能になっています。ただし、そのためには、いわゆる「中所得国の罠」に陥ることなく成長を続ける必要があり、中国やかつてのマレーシアなどが、私の目から見てかなりの程度に「中所得国の罠」に陥ったのは、あるいは、本書で指摘するような「現状満足階級」が何らかの影響を及ぼしている可能性はあります。でも、先進国ではそういったことはないような気がします。ですから、私は本書の主張が先進国の中の先進国である米国に当てはまるとは考えないんですが、逆の方向から見て、第8章の政治や民主主義の点が典型的なんですが、政治や社会的な動向への影響については考えさせられるものがありました。「現状満足階級」が、カギカッコ付きの「社会的安定」に寄与している一方で、最終章で著者が主張するように、「現状満足階級」が崩壊するとすれば、新しいタイプのアヘンであるSNSが廃れて、再び米国で暴動が発生するようになったりするんでしょうか。著者は何ら気にかけていなさそうですが、背景には直線的な歴史観と循環的な歴史観の相克があるような気がします。

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次に、岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル) です。著者は、専修大学法学部の政治学の研究者であると同時に、学生運動から入った政治活動家であり、バリバリの左翼リベラルのようです。ただし、社会党系であって、共産党系ではないような印象を受けました。ということで、どうしてリベラルが敗け続けるかというと、p.28でいきなり回答が一言で与えられており、「ちゃんと政治をやってこなかった」ということのようです。この一言を本書の残り200ページあまりで延々と展開・議論しているわけです。私の歴史観は確信的なマルクス主義に則った唯物史観で、その他の経済学や政治的なものの見方まですべてがマルクス主義的というつもりはありませんが、基本的には、経済的な下部構造が政治や文化などの上部構造を規定して歴史が進む部分が大きいと考えています。そして、下部構造の経済とは生産構造と生産力です。生産構造は原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして近代資本主義、願わくは、社会主義・共産主義と進み、生産力は生産構造の桎梏を超えるかのように向上し続けます。脱線しましたが、著者は、どうもこの経済の下部構造に関して考えを及ばせることなく、反与党での野党統一しか頭にないように私には読めました。1930年代の反ファシズムの1点だけによる統一戦線戦略、まさに、スペインで成功するかと思われたコミンテルンのディミトロフ理論に基づく統一戦線の結成は、私も現在の日本でもあり得ることとは思いますが、その前に経済的な観点が左派やリベラルには必要です。ですから、第7章のように、「ゼニカネ」の話で政治を進めることが重要なのですが、実は、そこに目は行っていないようにカンジます。私も定年を超えて、かつてのような公務員としての強固な雇用保障もなく、パートタイム的な働き方をしているとよく判りますが、特に年齢の若い層では安定した仕事も収入もなく、ややブラックな職場で結婚もできず将来も見通せないような生活を余儀なくされて、憲法や自衛隊や、ましてや、北朝鮮のことなどには目が届かず、毎日の生活に追われている国民は決して少なくありません。特に若年層のこういった不安定な生活の克服こそ政治が目指すべきものではないんでしょうか。もちろん、自由と民主主義が確保されてこその生活の安定ですから、自由と民主主義が保証されなくなるともっとひどい収奪に遭遇する可能性があるわけですから、集団自衛権や特定秘密保護などはどうでもいいとは決して思いませんが、リベラルや左派が往々にして無視ないし軽視している経済や生活といったテーマを本書の第7章で取り上げておきながら、第8章以降ではまたまた国民目線を離れて、安定した職と収入あるエリートの見方に戻っています。3月末で定年退職する前は、私も公務員というお仕事柄、総理大臣官邸近くを通ることもありましたし、デモや何らかの意思表示を国会や議員会館や総理官邸周辺で見かける機会は平均的な日本国民より多かったと考えていますが、左派リベラルの主張は、引退した年金世代が担っているという印象を持っています。安定した収入ある年齢層の人たちかもしれません。逆に、現在の安倍政権は世界標準からすれば、とても左派的でリベラルな経済政策を採用し、若年層の支持を集めている気がします。もちろん、本書で指摘しているような政治的な、あるいは、制度的なカラクリがバックグラウンドにあって政権を維持しているのは否定のしようもありませんが、リベラルが敗け続けるのは経済を軽視しているからであると私は声を大にして主張したいと思います。途中で田中角栄元総理のお話が出てきますが、かなり示唆に富んでいると私は受け止めました。最後に、AERAか週刊朝日か忘れましたが、「憲法や安保などに固執し、ゼニカネの問題を忘れたオールド左翼を叱る本」といった趣旨の書評がありました。ホントにそうであればいいと私は思います。強く思います。

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次に、岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済) です。著者は京都府立大学の研究者であり、もちろん、専門は中国史です。本書では、いわゆるグローバル・ヒストリーのフレームワークで中国史を捉え、黄河文明の発生から中華思想の成立も含めて中国をしひも解き、現代中国理解の上でも大いに参考になるかもしれません。特に私の目を引いたのは、気候の変動が中国に及ぼした影響です。その昔のフランスのアナール派なんぞは病気や病原菌が歴史に及ぼした影響を探っていたような気がしますが、インカ帝国滅亡と天然痘のほかには、それほど適当な例を私は見いだせない一方で、本書では、地球規模での寒冷化が進んでゲルマン人がローマ帝国に侵入したり、遊牧民が中国のいっわゆる中元に南下したり、といった事象を説明しています。加えて、モンゴルの世界帝国は温暖化による産物、すなわち、気温の上昇によりいろいろな活動が盛んになり、移動などが容易になった結果であるとも指摘しています。そして、現在の共産党にすら受け継がれている中華思想については、明の時代に成立したと指摘しています。私もそうだろうと思います。というのは、実は、中国における漢民族の王朝はそれほど多くないからです。中国の古典古代に当たる秦ないし漢の後、隋と唐は漢民族国家であったかどうかやや疑わしく、むしろ、やや北方系ではなかったかと私は想像しています。ただ、北魏から隋・唐にかけて、本書では何の指摘もありませんが漢字の楷書が成立しています。本書の立場と少し異なるかもしれませんが、私自身のマルクス主義史観からすれば、原始共産制の下で生存ギリギリの生産力から脱して、特に農耕を開始した人類が余剰生産が可能となった段階で、その余剰物資の記録のために文字が誕生します。典型的には肥沃な三日月地帯であるメソポタミアにおける楔文字が上げられます。中国の亀甲文字も同じです。亀甲文字が草書・行書や隷書を経て楷書に至り王朝の正式文字として記録文書に用いられるようになったのが北魏ないし隋や唐の時代です。その後の短期の王朝は別として、宋は本書でも指摘している通り本格的な官僚制を採用した漢民族の王朝であり、その後、モンゴル人の征服王朝の元、そして再び漢民族の明が来て、またまた女真族の征服王朝の清が続き、孫文の中華民国から現在の共産党支配の中国へとつながるわけですので、漢民族の王朝は半分といえます。その中で、明王朝が鎖国的な朝貢貿易を用いつつ中華思想を確立したというのは、とても納得できます。高校生くらいなら読みこなせると思わないでもありませんし、あらゆる意味で、オススメできる中国史だった気がします。

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次に、西平直『稽古の思想』(春秋社) です。著者は京都大学教育学部の研究者です。私はこの著者は、ライフサイクルの心理学で何か読んだ記憶があるんですが、本書の読後の感想では、宗教学か哲学の専門家ではないかという気もします。どうでもいいことながら、京都大学は私の母校なわけですが、私の在学のころ、いわゆる文系学部の1学年当たりの学生の定員は、法学部が300人余り、経済学部と文学部が200人で、教育学部が50~60人ではなかったかと記憶していて、文系学部の中では突出して希少価値があった気がします。ですから、在学していた当時の友人は別にして、京都大学教育学部の卒業生で私が知っている有名人も多くなく、ニッセイ基礎研の日本経済担当エコノミストと推理作家の綾辻行人くらいだったりします。ということで、本書は、やや言葉遊び的な面もあるものの、練習とは少し違った捉え方をされがちな稽古についてその思想的な背景とともに考察を加えています。同じような言葉で、修行や修練・鍛錬にもチラリと触れています。また、当然ながら、東洋的なのか、日本的なのか、道というものについても考えを巡らせています。すべてではありませんが、世阿弥の能の稽古と舞台の本番をひとつの典型として頭に置いているようです。私の目から見て、とても弁証法的なんですが、そうは明記されておらず、わざを習い、そして、わざから離れる、という形で、何かを得て、また離れて、といったプロセスを基本に考えています。わざというか、何かを得ながら、それに囚われることを嫌って、それを手放す、しかし、そのわざが身について自然と出来るようになるところまで稽古を進める、というのが根本思想と私は読み解きました。違っているかもしれませんが、本書では芸道と武道を基本としているようで、出来上がったモノがある茶道や華道と違って、そのプロセスにおける型の考察もなされていますし、英語の unlearn の邦訳としての「脱学習」という言葉でもって、わざを習い、それから離れ、最後に、自然と出来るようになるという意味で、わざが身につくプロセスを稽古の本道と見なしているようです。どうでもいいことながら、先に取り上げた『なぜリベラルは敗け続けるのか』でも unlearn が出て来ました。流行りなのか、偶然なのか、よく判りません。本題に戻って、確かに、本番の舞台ある能は典型でしょうし、武道では試合があります。その意味で、茶道や華道では稽古と本番の差が大きくないような気もします。茶道で考えると、日々のお教室は稽古で初釜が本番、というわけではないでしょう。稼働でも、何らかの展覧会だけが本番ではないような気がします。最後に、本書は大学での授業が上手く行ったかどうかを書き出しに置いています。私も短期間ながら大学教員の経験を持っていて少なからず事前準備はしましたが、大学での授業が道に達するとは思ったことはありません。修行が足りないのかもしれません。

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最後に、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』(中央公論新社) です。作者は私なんぞから解説の必要ないくらいの流行ミステリ作家です。実は、本書は、今月初めの8月3日に読書感想文で取り上げた小説3冊、すなわち、澤田瞳子『月人壮士』、薬丸岳『蒼色の大地』、乾ルカ『コイコワレ』と同じで、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの一環として出版されています。本書はほぼ長編といってもいいくらいの長さの小説2編から成っており、出版タイトルと同じ1部めの「シーソーモンスター」はバブル経済華やかなりし昭和末期を、また、本書の後半をなす2部めの「スピンモンスター」は近未来を、それぞれ舞台にしています。ただ、後者の近未来とはいっても、自動車の自動運転とかAIのさらなる進歩、さらに、情報操作などの現時点からの継続的な社会の特徴だけでなく、そこはさすがの伊坂幸太郎ですから、「新東北新幹線」や「新仙台駅」などの固有名詞がさりげなく登場し、「ジュロク」という新音楽ジャンルが成立していたり、さらに、デジタル社会を超えてデジタルとアナログを融合した経済社会が誕生していたりと、私のような平凡な年寄りからは想像もできない社会を舞台にしています。もちろん、「螺旋」プロジェクトの一環ですから、青い瞳の海族と尖った大きい耳の山族の緊張関係やぶつかり合いがメインテーマとなっています。バブル期の「シーソーモンスター」では、嫁姑という非常に判りやすい対立が現れますし、それでも、主人公の亭主というか、倅を協力して救ったりもします。第2部の「スピンモンスター」はもっと複雑で重いストーリーになっています。すなわち、交通事故で家族を失った水戸と&6a9c;山が主人公であり、海族と山族になります。同じ著者の『ゴールデンスランバー』よろしく、前者が容疑者になって逃げて、後者が警官として追いかけます。もちろん、「シーソーモンスター」とつながっており、前編の嫁が絵本作家として登場し、水戸の逃亡を手助けしたりします。おそらく、伊坂幸太郎ファンからすれば前編の「シーソーモンスター」の方がいかにも伊坂幸太郎的な軽やかさもあって、その意味で楽しめるという気がしますが、後編の「スピンモンスター」については、とても重いストーリーな一方で、近未来、おそらく2050年くらいのイメージで、カーツワイル的なシンギュラリティの2045年を少し越えているあたりと私は想像していて、そのSF的な世界観に圧倒されます。決して、シンギュラリティを越えた時点のテクノロジーではなく、そういったテクノロジーが普通にある社会の世界観です。こういった世界観を小説で書ける作者は、そういないような気がします。その意味で両編ともにとてもオススメです。最後に、「螺旋」プロジェクトの作品はこれで終わりかな、という気がしますが、ひょっとしたら、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』は読むかもしれません。
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2019年08月24日 (土) 20:50:00

今週の読書は話題の現代貨幣理論(MMT)の経済書など計8冊!!!

今週は、やや異端的ながら注目されつつある現代貨幣理論(MMT)を平易に解説した経済書をはじめ、ポストトゥルースに関する教養書も含め、以下の通りの計8冊です。本日はいいお天気の土曜日でしたので自転車にうってつけですでに図書館回りを終え、来週も数冊の読書を予定しています。

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まず、中野剛志『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』(KKベストセラーズ) です。著者は評論家となっていますが、まだ、経済産業省にお勤めではなかったかと私は記憶しています。本書の続編で、『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』もすでに同じ出版社から上梓されており、今日の段階では間に合いませんでしたが、近く借りられることと期待しています。本書は基礎編として、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開しています。そして、その基礎となっているのは信用貨幣論です。すなわち、その昔の金本位制などの商品貨幣論ではなく、現代的な銀行が信用創造をして貨幣を作り出す、というMMTの基礎となる理論です。まだ読んでいないのであくまで私の想像ですが、続編の『【戦略編】』はこのMMT理論を普及させるために戦略が展開されているんではないかと思っています。現代貨幣理論(MMT)ですから、自国通貨建てで発行される国債で財政破綻に陥ることはなく、デフレ解消のためには金融政策ではなく財政政策により需要を拡大する必要がある、というのが肝になっています。私は直感的にはMMTは正しいんだろうと理解していますが、そう考えるエコノミストはとても少ないのも体験的に理解しているつもりです。そして、MMTにしたところで、財政破綻がまったくあり得ないわけではなく、インフレが高進すれば財政破綻のサインですから、財政を引き締めるべきであるとされています。繰り返しになりますが、本書では、信用貨幣論とそれに基づくMMTに関する議論を展開していますが、売り物として、「世界でもっともやさしい」といううたい文句がついています。ですから、逆から見て、私にはバックグラウンドとなっているモデルが判然としません。むしろ、数式を並べ立ててゴリゴリとモデルのプロパティを示してもらった方が、私には有り難かったような気すらします。ただ、おそらく、従来の伝統的経済学のモデルと比較して、かなりの程度に非線形かつ非対称な作りになっているような気がします。まあ、それはいいとしても、少なくとも、すでに破綻したリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論に基づき、いわゆるミクロ的な基礎付けあるDSBEモデルなどよりは、より現実に即しているような気がします。ただ、財政政策があまりに大きな役割を背負うだけに不安もあります。というのは、デフレを脱却してインフレになると財政赤字の削減に走らないといけないわけですが、出口論はまだまだ早いとはいいつつ、それだけに、ヘタな財政リソースの使い方ができません。例えば、津波対策の堤防などを作っていて、経済がデフレを脱却してインフレに入ったため、津波対策を急にヤメにする、というわけにはいかないような気がするからです。医療や年金や介護といった社会保障にも使いにくそうです。景気の動向に応じて増やしたり減らしたりがごく簡単にできる使い道ということになれば、どこまで財政政策で対応できるのかはやや疑問が残ります。ただ、直感的に理論的正しさを感じているだけに、とても魅力が大きくて、基礎的な勉強を進めつつ、何とか実践的に使える政策にならないものかと考えているところだったりします。

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次に、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(集英社) です。著者は、名前から理解できるように日系人であり、ながらくニューヨーク・タイムズの書評を担当するジャーナリストを務めて来ています。というか、今でも現役でそうなのかもしれません。英語の原題は The Death of Truth であり、日本語タイトルはほぼ直訳と私は受け止めています。2018年の出版です。ということで、言葉としては本書には登場しませんが、ポストトゥルースの時代にあって、米国にトランプ大統領が誕生して、フェイクニュースもまき散らされている現在、真実は終わった、死んだのかもしれません、という観点からのエッセイです。2010年代に入って、本日の読書感想文でも後に取り上げる安倍総理の本でも同じように取り上げられていますが、政治的な指導者が真実や事実をとても軽視し、まさに、ポストトゥルースの本義に近く、真実や事実に基づく考察を行うことなく、感情的に訴えるような、あるいは、その場の雰囲気に流されるような意見が政治的に重視されかねない状態が続いています。その結果として、ポピュリスト的な選挙結果が、特に、2016年に示され、BREXIT、すなわち、英国のUE離脱は現在のジョンソン首相の下で、何ら合意なく実行されそうな予感すらしますし、すでに次の大統領選挙モードに入った米国のトランプ大統領はツイッターでいろいろな情報を流したりしています。大陸欧州でも、過半数はまだ取れていないものの、ポピュリスト政党が支持を伸ばしていることは広く報じられている通りです。私が公務員だったころには、EBPMなる言葉が役所でも重視され始め、何らかの統計的あるいは定量的なエビデンスに基づく政策立案や執行が求められるようになって来つつありました。ポストトゥルースとはその真逆を行くものです。そして、事実や真実を重視することによってではなく、ホントのことに対しては斜に構えつつ、反対派との議論で熟議する民主主義のスタイルを放棄して、あくまで自派の意見を通すべく数を頼んで押し切る、あるいは、やや妙ちくりんな理論でも、適当に反対派を論破してしまう、という政治スタイルが増えたのは事実かもしれません。もちろん、民主主義では数は力であって、そのために選挙で各政党は自分たちの政策を訴えて支持を得ようとするわけですが、大くん国民がごく簡単に意見が一致するわけではありませんから、何らかの議論が必要とされるケースが多いわけですが、そこでの熟議を省略ないし無視して非論理的な論法や事実ではない感情的な見方などに基づいて数で押し切るわけです。そして、私が読みこなした範囲では、著者はその原因を、ハイデッガー的な表現を使えば、ポストモダニズムの「頽落」に求めているように私は読みました。まあ、ポストモダニストたちはマルクス主義的な一直線に進む歴史とか、普遍的でメタなナラティブとか、近代的と称する西欧中心的なものの見方、などなどをかなりシニカルに否定したわけですが、私はそこまでの見方が成り立つのかどうかは自信ありません。というか、特に、米国を例に取れば、黒人の大統領を選出するというかたちで、ある意味、究極的なポリティカル・コレクトネスを実現しきってしまった米国市民、あるいは、米国政治の振り子が揺り戻されているだけなのではないか、という気がするからです。もちろん、振り子がもう一度揺り戻されて、真実や普遍性や共感や常識といったものに価値を認める社会が半ば自動的に時間とともに取り戻される、と主張するつもりは私にはありません。こういった社会は闘い取らねばならないのかもしれません。

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次に、デービッド・サンガー『サイバー完全兵器』(朝日新聞出版) です。著者は、カクタニ女史と同じくニューヨーク・タイムズのジャーナリストであり、専門分野はAIなどのテクノロジーではなく、国家安全保障のようです。何度かピュリツァー賞も授賞されています。英語の原題は The Perfect Weapon であり、2018年の出版です。今週になって、AIの戦争利用に関する国際会議のニュースをいくつか見かけて、法的拘束力ないながら、AIに攻撃の判断をさせることを回避するような結論が出されそう、という方向に進んでいるような印象を私は受けています。ただ、これらの報道はリアルな武器を用いた伝統的な攻撃に関する判断項目であり、本書では物理的な、という表現は正しくないんですが、核爆発を含む通常兵器あるいは核兵器による攻撃ではなく、サイバー空間において電力の供給とか、カッコ付きながら「敵国」のシステムに侵入してダメージを与えることを指します。分野が安全保障でありかつサイバー攻撃という技術的な内容も私は専門外で、本書を読んだうえで、どこまで理解が進んでいるかははなはだ自信ないんですが、核兵器の相互確証破壊(MAD)による抑止力と違って、サイバー攻撃はすべて水面下で実施され、そういった攻撃があったかどうか、もちろん、誰からの攻撃か、などがまったく不明の場合も少なくないようで、その上に、核兵器のバランスと比べて、大きな非対称性が存在するわけですから、それはそれで恐怖のような気がします。もちろん、攻撃されているかどうかに確信ないわけですので、戦時か平時かの仕分けも判然としません。ですから、ジュネーブ条約による何らかの制限を課すことは、おそらくムリで、たとえ出来たとしても、技術的に日進月歩の世界ですので、アッという間に有効性が大きく低下することは想像できます。章別に取り上げられている国は、米国はもちろんとして、ロシア、中国、北朝鮮などなどで、サイバー攻撃の対象となったのはイランの核濃縮設備、ソニーピクチャーの例の風刺映画などです。IoTという言葉をまつまでもなく、あらゆるモノがインターネットに接続されており、防御サイドのセキュリティは攻撃サイドのレベルにはなかなか達しませんから、どこででも何が起こっても不思議ではありません。また、物理的に何かを破壊したり、システムをダウンさせたりするだけでなく、何らかの風説を流して世論を誘導する攻撃も含めれば、とても防ぎようがないような気が私はします。というか、防御のコストがやたらと高そうです。本書を半分も理解できた自信ないですが、一気に恐ろしい気分にさせられました。そべからく、ほとんどの技術は民生向けと軍事とデュアルユースが可能だと思いますが、なんでも軍事利用を進める志向が私には理解できませんでした。また、個別企業についてはiPhoneのロックを解除しなかったアップルの考え方は理解できるものの、ファーウェイの通信機器にバックドアがあって中国に通信内容が筒抜けではないかという米国などの疑問については、理解がはかどりませんでした。最後に、どうでもいいことながら、今週の読書で取り上げたうちで、本書はボリュームがあって中身が難しいことから、もっとも読了に時間がかかった本でした。

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次に、アンドリュー・フェイガン『人権の世界地図』(丸善出版) です。著者は、英国エセックス大学人権センターの副所長であり、人権に関する refereed encyclopaedia の編集者です。英語の原題は The Atlas of Human Rights であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳のようで、2010年の出版です。150ページ足らずのボリュームなんですが、8部構成となっており、第1部 国家、アイデンティティ、市民権 では、政治的権利や市民権とともに、経済的な富と不平等さらに生活の質や健康も取り上げています。第2部 司法侵害と法規制 では、拷問や死刑制度などに焦点を当て、第3部 表現の自由と検閲 では、表現や言論の自由だけでなく集会や結社の自由も忘れてはいません。第4部 紛争と移住 では、戦争や戦争に関連するジェノサイド(集団殺害)とともに、難民にもフォーカスしています。第5部 差別 では、少数民族と人種差別さらに障害と精神保健にハイライトしています。第6部 女性の権利 では、家庭内暴力も取り上げており、第7部 子どもの権利 では、児童労働や教育にもスポットを当てています。最後に、第8部 国のプロフィールと世界のデータで締めくくっています。私もすべてのページを通してじっくりと読んだわけではないので、出版社のサイトにある画像を例示としてお示ししておきたいと思います。本書が、人権を尊重して自由を守るリファレンスであることがよく理解できると思います。
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次に、望月衣塑子 & 特別取材班『「安倍晋三」大研究』(KKベストセラーズ) です。著者は、東京新聞のジャーナリストであり、本書では現在の安倍内閣に対する強い批判を展開しています。その批判については、私は少し疑問があるんですが、政策の内容に及ぶ部分がかなり少ないような印象を受けました。現在の選挙制度に基づく我が国の民主主義では、多くの場合、政策を展開したマニフェストなどを参考に投票し、その選挙結果に基づいて総理大臣が選出され内閣を構成し政府として政策を実行するというシステムになっています。ですから、決して内閣の首班たる総理大臣の人格を軽視するつもりはないんですが、本書のように、家系までさかのぼって総理の人格を執拗に批判するのは、やや現時点での我が国民主主義にとってどこまで有益かは考える必要があるかもしれません。しかしながら、何かの折に触れてこのブログでも申し上げている通り、内閣の最高責任者としての総理大臣はいうまでもなく公人そのものであり、本書のような批判はアリだと私は思っています。前言をいきなりひっくり返すようなんですが、総理大臣たる人物は人格的にももちろん問題なく、表現は自信ないものの、その「人格力」も動員して選挙で示された政策を実行すべき存在ですし、ジャーナリストとは選挙の結果だけを尊重するという観点からは少し違った角度から、民意の反映や政策の検証ができる存在ではないかと私は考えています。ついでながら、森友事件の報道に接して考えると、総理夫人も役所から秘書役をつけるほどの公人であり、総理本人と同じレベルとは思いませんが、公人としてこういった批判はあり得るものと私は考えています。まあ、冒頭100ページ余りがマンガで始まり、しかも、まんがの最後の部分に「フィクション」である旨を明記するのは、確かに、本書の著者が安倍総理を批判するようなタイプの嘘ではないんですが、ややミスリーディングであると受け止める向きがなきにしもあらず、という気がしないでもありません。本書でも感じたのは、先にカクタニ女史の『真実の終わり』で取り上げたポストトゥルースの問題は同じことであり、必ずしも真実・事実である点が重要なのではなく、感情に訴えたり、その場の議論の雰囲気に流されるような意見が支持されかねない、あるいは、決して熟議されるのではなく、数を頼んで押し切る、といったような風潮が世界的に広がっているのも事実であり、我が国だけが例外ではあり得ないということです。ただ、ポストトゥルースの時代であるからこそ、「フィクション」と断りを入れないといけないようなマンガでポストトゥルース的な政治を批判するのではなく、「フィクション」でない事実と真実に基づいた批判を展開してほしいと願う人は決して少なくないと思います。ポストトゥルース的に、というか、何というか、事実に基づく議論より感情的な意見を大きな声で押し通そうとする複数のグループが正面切ってぶつかり合うことは、ある意味で、避けるべきというような気がしないでもありません。その意味で、第3章の内田樹氏へのインタビューが普遍的な真理や社会的な常識に裏打ちされた見解のような印象満点で、とても読み応えありました。最後に、何度でも繰り返しますが、内閣総理大臣やそれなりの最高権力に近い公人に対しては、どのようなものであれ、とは決していいませんが、相当に激しい批判も十分アリだと私は思います。

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次に、トム・フィリップス『とてつもない失敗の世界史』(河出書房新社) です。著者は、英国のジャーナリスト・ユーモア作家です。英語の原題は Humans であり、2018年の出版です。全国学校図書館協議会選定図書に指定されているようで、私の目を引きましたので借りて読んでみました。読んでいて、私は元来明るくて笑い上戸だったりするんですが、電車の中の読書で笑い出したりして、ややバツの悪い思いをしたりしました。ということで、第1章 人類の脳はあんぽんたんにできている から始まって、環境や生態系に対する無用の干渉がとても不都合な結果を招いた例、専制君主でも民主主義でも、あるいは、そういった政治の延長上にある戦争でも大きくしくじって来た例、自国を離れた慣れない植民地経営や外交での失敗の例、また、科学の発見がとんでもない勘違いだった例などなど、面白おかしくリポートしています。ただ、語り口はユーモアたっぷりであっても、その失敗の中身や内容が決して笑って島せられることではない例がいっぱいあります。典型例は、第5章で民主主義からアッという間に独裁体制を構築してしまったナチス、というか、ヒトラーのやり口ではないでしょうか。やり方とともに、その後のナチスの蛮行まで含めて、人類史におけるもっとも大きな悲劇のひとつであったと考えるべきです。また、テクノロジーを取り上げた第9章でも、X線に対抗して見えないものが見えるといい張ったN線の「発見」については、単に「バカだね」で済むのかもしれませんが、アンチノッキングのために自動車のガソリンに人体に有害な鉛を混入させて広めたのと、冷媒のフロンを工業的に広めたのが同一人物とは、専門外とはいえ私はまったく知りませんでした。その昔に『沈黙の春』を読んだ際にも感じたことですが、科学の分野では、特に化学や生物学では長い長いラグをもって何らかの影響がジワジワと現れることがあります。まあ、経済学でもそうです。そういった長いラグを経て現れる好ましくない影響について、どのように評価して回避するか、それほどお手軽に解決策があるわけではありませんが、科学がここまで進歩した現代であるからこそ考慮すべき課題ではないかと思います。本書に盛り込まれた多くの失敗談は、それだけでユーモアたっぷりな語り口でリポートされると、読んで楽しくもありますが、そういった失敗談の背景には、決して笑って済ませられない重大な影響が隠されている場合も少なくなさそうな気がします。最後に、本書冒頭で考察されていた確証バイアスとか、何らかのバイアスによる失敗の原因追及がもう少し欲しかった気もします。

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次に、玉木俊明『逆転のイギリス史』(日本経済新聞出版社) です。著者は、京都産業大学の研究者であり、専門は経済史です。実は、私も大学の学生だったころは経済史を専攻していたんですが、著者は、経済学部ではなく文学部の歴史学から経済史に入ったような経歴となっています。ということで、本書は100年と少し前まで世界の覇権国であった英国につき、その歴史を振り返って覇権国となった歴史を分析し、従来の通説である産業革命による工業生産力ではなく、海運をはじめとするロジスティックやその海運を支える保険業などが覇権の基礎であった、とする逆転史観を展開しようと試みています。でも、経済史というよりは、著者も明記しているように、政治史を中心に\展開しているから、という理由だけでなく、私の目から見て逆転史観が成功しているとはとても思えません。本書では、当然ながら、英国が覇権国となる前の段階、すなわち、オランダが覇権を握っていたころから歴史を解き明かします。オランダはスペイン王政の下にあって独立国ではありませんでしたから、細かい点ですが、ここで「覇権国」という表現は使えません。でも、スペインの支配下にあったからこそ、大航海時代に、スペイン+ポルトガルの植民地であった米州大陸からの貴金属をはじめとする物資、あるいは、アジアからの香辛料などをアントウェルペンやアントワープが欧州の海運のハブとなって、商業的な成功をもたらして覇権を確立した、という本書の分析はある意味で私は正しいと受け止めています。ただ、本書の著者はご専門が輸送史のように私は記憶しており、輸送中心史観でもって判断するのは疑問が残ります。前資本主義時代に商業的、というか、問屋制家内工業が欧州で広く普及して、プロト工業化と呼ばれたのは広く知られているところであり、そこに、新大陸から大量の貴金属が欧州に流入して、いわゆる「価格革命」とともに、流動性の過剰供給でそれなりに需要もジワジワと拡大し、製造業=工業の生産性向上の素地が出来上がっていたのも事実です。そして、新大陸やアジアを欧州勢力が支配したのは、本書でも指摘しているように、基礎的な生産力に基づく武力ですが、前近代的かつ前資本主義的な経済段階では、市場取引ではなく単に武力で略奪することも交易のひとつの形態であったかもしれませんが、少なくとも中国を視野に入れた国際化が進んだ段階では、何らかの売り物が交易には必要となり、その矛盾を解決する方法のひとつがアヘン戦争であったことは明らかです。もうひとつ、著者が製造業ではなく海運や保険をもって英国覇権の基礎とする根拠は、財の貿易赤字とサービス収支の黒字でもって、英国製造業には国際競争力なく、むしろ、海運や保険といったサービス業に競争力があって、これが覇権国となる基礎だった、という点なんですが、製造業から生み出される製品が国内で需要されただけのことであり、根拠に乏しいという気がします。私が考える英国覇権の基礎は、内外収支の差額ではなく付加価値の総額であり、その意味で、「世界の工場」と称された英国製造業である点は揺るぎありません。あわせて、現在21世紀において米国の覇権に挑戦する中国国力の基礎も製造業であることは誰の目にも明らかではないでしょうか。

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最後に、有栖川有栖・磯田和一『有栖川有栖の密室大図鑑』(東京創元社) です。著者の有栖川有栖はご存じ関西系の本格ミステリ作家で、磯田和一は本書で挿絵、というか、イラストを担当しています。本書は、上の表紙画像の帯に見えるように、1999年に単行本として発行されたものを、一度新潮文庫で文庫本化され、さらに、上の表紙画像の帯に見られるように、今年の著者デビュー30周年を記念して創元推理文庫から復刊されたのを借りて読みました。ひょっとしたら、以前に読んでいたのかもしれませんが、私の短期記憶はすっかり忘却していて、まったく新刊読書のような印象でした。ということで、本格ミステリのうちから密室モノを内外合わせて40本ほど選出し、海外蒸す手織りから国内ミステリの順でイラストを付して解説を加えています。ただ、よくも悪くも、ミステリの伝統的な形式にのっとっており、すなわち、結末には言及していません。まあ、未読のミステリであれば、結末を知らされるのを回避したい読者もいるでしょうし、逆に、すでに読んでいれば結末を書かない論評にも理解が進む可能性はありますので、それはそれで理解できる方針ではあるんですが、やっぱり、私は違和感を覚えました。文庫本の解説で「結末に触れています」という警告付きの解説をたまに見かけますが、本書でも、結末を明らかにした方が論評としての値打ちが上がったような気もします。私の読書の傾向からして、海外ミステリよりも国内ミステリの方に既読が多かったんですが、やっぱり、海外ミステリで未読のものには親近感がわかなかったような気がします。イラストも結末を悟られないようにするという制約は、少しキツかったんではないか、と勝手に想像しています。まあ、密室とアリバイはミステリのお楽しみの重要な要素ですから、本書を読むことにより原典に当たろうという読者も少なくないでしょうから、判らなくもない方針なんですが、私という個人においては少し物足りない、ということなんだろうと思います。
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2019年08月17日 (土) 11:40:00

全国的にお盆休みの今週の読書は経済書をよく読んでラノベも合わせて計9冊!

今週は全国的にお盆休みながら、週後半は西日本を大型台風が縦断したりして天候は不順でした。私はまとまったお休みは来月9月に取る予定で、特に今秋に休みを取ったわけではないんですが、それなりのよく読書が進んで経済書など以下の通りの計9冊です。もっとも、9冊のうちの3冊は文庫本のラノベであり、1冊当たり1時間もかからずに読み切ったりしましたので、それほど読書に時間を割いたという実感はありません。午後からの35度超えを前に、自転車での図書館回りをすでに終え、来週の読書もいつも通り数冊に上りそうな予感です。

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まず、平山賢一『戦前・戦時期の金融市場』(日本経済新聞出版社) です。著者は、バイサイドの機関投資家であり、本書は著者の博士論文です。本書の時期的なスコープは戦前期から戦中期であり、特に、1936年の5.15事件から経済社会への統制色が強まる中で、金融市場のデータ、株式や国債価格や利回りとともに収益率を細かく算出している点が特徴です。ただし、本論ではデータの算出に終止しており、データを用いた定量的な分析までは手が届いていません。そこは限界として認識すべきで、私のように物足りないと受け止める向きもあれば、それはそれで判りやすい点を評価する向きもあろうかという気がします。ということで、本書のファクトファインディングのひとつは、戦前期においては国債がローリスク・ローリターンである一方で、株式はハイリスクながらローリターンであった、という従来の「常識」をデータをもって覆し、株式はハイリスクだったかもしれないが、国債に比較してもそれなりにハイリターンであった点を実証しています。戦前期のリスクとリターンの関係について、経済学的な通常の常識から離れた自体を示しているのは、ひとえに「統制経済」でもって経済が歪めらたためである、と理解されてきたわけですが、決してそうではなく、統制はあっても経済的な合理性が貫徹していたことを実証した価値は小さくないと思います。基本的に、バブル経済崩壊から「制度疲労」という言葉などで批判されてきた昭和的な経済的慣行、労働では新卒一括採用に基づく終身雇用・年功賃金・企業内組合の3点セット、あるいは、金融的には株式や社債による直接的な資金調達ではなく、メインバンク制に基づく銀行貸出に依存した間接金融、あるいは、もっと大きな視点での系列取引にも依存した長期的な支店に基づく取引、などなどは1950年代からのいわゆる高度成長期に確立された慣行であり、大正から昭和初期の日本経済は現在のアングロ・サクソン的な市場原理主義的経済慣行が支配的であった、という点は忘れるべきではありません。本書でも指摘されている通り、資金調達はかなり直接金融であり、株式や社債発行に基づいています。しかし、金融市場としてはそれほどの深みや厚みはありませんでした。逆に、それは統制経済への移行を容易にした面もあります。財政の悪化により、特に、地方公務員はかんたんに解雇されたりしました。かなりの程度にマルサス的な貧困が残存していて、まだルイス転換点に達していなかった日本経済では、「タコ部屋」という言葉に残っているように、民主的な人権や個人の尊重の視点を無視した労働慣行があり、「奉公」の名の下に、現在から見れば強制労働といえるような職場もあり、しかも、それが決して近代民主的な資本主義ではなく、封建的な残滓の広範に見られる資本主義であったことは講座派的な日本資本主義分析が示している通りです。最後は本書のスコープからはやや脱線してしまいました。悪しからず。

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次に、ノミ・プリンス『中央銀行の罪』(早川書房) です。著者は、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行勤務の経験あるジャーナリストという触れ込みです。私はこの作者の『大統領を操るバンカーたち』を読んでいて、上下巻のボリュームだけは大作だったと記憶しています。本書のテーマとなっているのは、2008年のサブプライム・バブルの崩壊とその後の大銀行の救済や金融政策、さらに、中央銀行と民間銀行の「共謀」となっています。ですから、というか、何というか、英語の原題は Collusion であり、2018年の出版です。ということで、今さら10年前の2008年のサブプライム・バブル崩壊かね、という気もしますが、それはともかく、その後の金融政策当局=中央銀行や、中央銀行による大銀行の救済と両者の共謀を極めて詳細に渡って、事実関係を積み上げています。こういった事実のコンピレーションから何が浮かび上がるか、というと、おそらく著者は、中央銀行は大銀行を救済する一方で、国民生活を犠牲にしている、とか、バブル崩壊の後始末をもうひとつのバブルにより埋め合わせをしようとしている、とかではないかと思いますし、それはそれで、従来のナオミ・クラインのリポートなどが大銀行経営者の糾弾にやや偏重しているのに比べて、政府から独立している中央銀行も批判の対象にするのは、それなりに意味あることと思いますが、いつもの私の疑問なんですが、バブル崩壊後の金融危機に対処して、いきなりのマイナス金利はともかく、金利を引き下げるとか、量的緩和を実行するとか、いわゆる金融緩和を進める以外に、タカ派的に逆に金融引き締めを行うという選択肢はありえないのではないでしょうか。同時に、too big to fail も常に批判にさらされますが、リーマン・ブラザーズの破綻という、かなり大胆かつ実験的なイベントを実際に観察して、どこまで否定できるかは疑問が残ります。リーマン・ブラザーズの破綻については、私もいくつかノンフィクションの作品を読んで、潰そうと思って潰したわけではなく、万策尽き果てて破綻させるしかなかった可能性があると理解していますが、それでも、破綻させないという選択肢が可能であれば破綻させなかった方がよかったのではないかと考えています。サブプライム・バブル崩壊後の金融危機の中で、大銀行が救済されながらも責任の所在があいまいにされ、あまつさえ、AIGのように高額のボーナス支給がなされた例もあり、私も決してベストの解決でなかったことは理解しますが、大銀行経営者や中央銀行の金融政策当局者などの責任をあげつらうのはともかくとして、金融緩和の必要性を否定するがごとき論調でタカ派的な政策志向をあらわにするのは、私は同意できません。

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次に、大前研一『稼ぐ力をつける「リカレント教育」』(プレジデント社) です。著者は、ご存じ、マッキンゼーのコンサルタントを経て経済や経営分野の評論家というんだろうと思います。本書ではリカレント教育について、著者ご自身の設立したビジネス・ブレークスルー(BBT)大学の例なども引きつつ、デジタル経済社会における必要性や重要性などについて議論しています。リカレント教育については、私も昨年の「経済財政白書」で取り上げられたことなどもあり、それなりに注目しているんですが、基本はデジタル経済とはそれほど大きな関係なく、日本企業の体力が低下して来たために、OJTによる企業特殊的なスキルの向上に振り向けるリソースがなくなって、雇用者個人のリソースでにスキルアップを強制している結果だと受け止めています。すなわち、このブログで何度か強調していたように、戦後のルイス転換点を越えた高度成長期の我が国経済では、古典的なマルサス的な貧困を克服し、逆に、先進各国と同様に需要が極めて旺盛な経済社会を実現し、資本蓄積に比較して一時的ながら労働力不足に陥ったことから、雇用慣行が戦前・戦中のアングロサクソン的スキームから大きく転換し、新卒一括採用の下でいわゆる終身雇用・年功賃金・企業内組合で特徴つけられる日本的雇用慣行を確立し、ヘッド・ハンティングとまで大げさに表現しないまでも、引き抜きを防止するために企業特殊的なスキルを主としてOJTによって向上させる方法を取りました。それはそれとして、高度成長期には合理的だったわけです。しかし、その後、ルイス転換点を越えるような要素移動を望むことができなくなり、さらに、私は主として為替調整が主因と考えていますが、日本企業が競争力を低下させる中で、OJTへのリソースが細り、現在では賃金上昇すらリソースを枯渇させ、賃金抑制のために低賃金国への海外展開を図るとともに、ルイス転換点を越えるかのような要素移動を促すべく、雇用の流動化を模索して、「岩盤規制」などと名付けた高度成長期にルーツある雇用スキームの大転換を図ろうと試みているわけです。ついでながら、やや脱線すると、この要素移動の点で日本企業は合成の誤謬に陥っていると私は考えています。すなわち、雇用の流動化が図れれば、他企業の高生産性雇用者を自企業に取り込むことが可能になるとともに、自企業の低生産性雇用者を他企業に押し付けることができる、という期待があるわけですが、企業が求めるスキルと雇用者が有するスキルのミスマッチがそれほど広範に生じているとは私にはとても思えず、こういった自企業のみに都合いい要素移動が起こるとは考えられません。本題に戻って、現在では、スキルアップは第1に企業特殊的なものから、より幅広く市場で受け入れられ、一般的に通用するスキルの重視に変化しました。典型は英会話とか、経済経営分野の簿記会計をはじめとする資格の取得などです。第2に一般的なスキルの重視と企業の体力の低下が相まって、スキルアップは企業のリソースだけではなく、雇用者個人の責任とコスト負担の割合が高まりました。このような企業活動と雇用者のスキルアップの歴史的な展開の中で、現在のリカレント教育を考える必要も指摘しておきたいと思います。その意味で、欧州諸国が我が国よりも先進的なリカレント教育のシステムを整備していることは、もちろん、政府の責任もあるでしょうが、歴史的な段階としてはあり得ることではないでしょうか。私のように、公務員として定年まで勤務し、長期雇用の中で突然天下りが廃止されて、定年後の収入の道が極めて狭くなってしまった例もあるわけですし、リカレント教育という手法が適当かどうかは別ながらひとつの選択肢として、スキルアップはもう少し若いころにやっておけばよかったと悔やむことのないように、それなりの定年準備は模索すべきかもしれません。

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次に、池田浩士『ボランティアとファシズム』(人文書院) です。著者は、我が母校である京都大学の名誉教授です。私は教養部の1年生のころにドイツ語を習った記憶があります。新左翼のトロツキストの支持者だったように記憶しています。ということはどうでもいいとして、本書は我が国では関東大震災で東京帝大のセツルメント活動で本格的に始まったといわれているボランティアについて、それがいかにして、我が国のファシズムやドイツのナチズムに、いかにも自発的な装いをもって、その実、ほぼほぼ実質的に強制的かつ強要されるようになったのか、について歴史的にひもといています。1933年にナチスが政権を奪取してから、ほぼほぼ完全にワイマール憲法に則った形で、カギカッコ付きの「民主的」に独裁性を確立したかも触れていますが、これはほかの専門書に当たった方がいいような気がしないでもありません。本書では、ボランティアという語でもってボランティア活動を行う人とボランティア活動そのものの両義を指していますが、自発的な善意に基づく行為がいかにして強制的な勤労奉仕や事実上の強制的な奴隷的労働に早変わりするかは、そこに民主的なチェックが働くか、それとも全体主義的な統制の基に行われるかの違いがあると私は考えます。でも、社会全体としては民主的なチェックが効くとしても、グループとしては統制的な色彩が強くなる場合も少なくないことは理解すべきです。典型的には職場のサービス残業であり、現在のワーク・ライフ・バランスに逆行するような長時間労働が、ホンの少し前までは勤労の美徳のように見られていたことも忘れるべきではりません。ですから、本書のような大上段に振りかぶった政治的かつ社会的なボランティアと強制労働を考えることも必要ですが、マイクロな職場や地域やそして学校において、いかにも「自発的」な装いをもって強制される行為については、個人か全体かという民主主義と全体主義の大きな分岐点を意識しつつ見分ける見識が必要です。最後に、自発的な活動として本書ではほかに、チラリとワンダーフォーゲルとボーイスカウトを上げています。前者はなぞらえるべきほかの団体を思いつかないので、ともかくとして、後者のボーイスカウトはソ連的なピオネールやナチスのヒトラー・ユーゲントとの相似性を指摘する向きもありますが、個人の尊厳という観点からまったく異なることは理解すべきです。我が家の下の倅はビーバー隊から、カブ・スカウト、ボーイ隊とスカウト活動を続けてきましたので、私もそれなりに親しみありますが、スカウト活動がヒトラー・ユーゲントに似通った団体活動であるなどとはまったく思いません。また、別の観点ながら、私が地方大学に日本経済論担当教授として出向していた時に、いかにも九州的な「地産地消」の議論に接したりしたんですが、本書でも指摘されている通り、ナチズムが強調するポイントのひとつは「血と土」です。ヒトラー・ユーゲントでも「大地に根ざした」という表現が好んで使われたりします。ふるさとや祖国というものはもちろん尊重され重視すべきですが、地域的あるいは血縁的な閉鎖性を主張するよりも、交易の利益を尊重するのが左派的なエコノミストの果たすべき役割であると私は考えています。

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次に、谷川建司・須藤遙子[訳]『対米従属の起源』(大月書店) です。何と申しましょうかで、著者名がなく、いきなり翻訳者なのは、本書のメインは米国公文書館で公開された「1959年米機密文書」となっているからです。別名は「メイ報告書」であり、上の表紙画像の左上に写真が見えるイェール大学のメイ教授によって取りまとめられています。報告書には、USIS=US Information Service の活動やフリー博士によるアンケート調査などが幅広く取り上げられています。報告書のほかにも邦訳者による解説なども加えられています。ということで、1959年、すなわち、日米安保条約改定前夜における米国情報機関の我が国における活動がかなり詳細にリポートされています。当時は米ソの東西冷戦だけでなく、我が国内でも学生運動をはじめとして安保条約に対する反対運動の盛り上がりが見られた時期でもあることはいうまでもありません。ただ、本書を読むと、かなり詳細に特定の個人名への言及があることは確かですが、それほどの意外感もなく、おおむね、常識的な内容ではないかという気もしますが、まあウワサ話や都市伝説的な内容について、米国機密文書で裏付けられた、という点が重要であろうと私は受け止めています。米国から見て、日本は東欧諸国のようにソ連の支配下に入り、共産主義化する恐れはほぼほぼなかったことが確認されており、むしろ、日本の共産主義化というよりも台湾政府の否認、というか、大陸の共産党政権化にある中国への接近や国家としての承認などがアジェンダとして考えられていたようです。結果として歴史的に明らかになった事実は、1970年代に、まさに、本書のタイトル通りに、対米従属する形で当時の米国のニクソン大統領による中国との国交樹立を待って、我が国の田中内閣が中国と国交樹立し、中国の国連加盟の道が開かれた、ということになります。もちろん、本書のスコープは外れています。本書のスコープに戻れば、現在のアメリカンセンターに当たり、日本国内に展開する文化的な広報活動の拠点の活動は思わしく進んでいない一方で、現在であれば「インフルエンサー」と呼ばれるであろう大学教授など、当時の表現でいえばオピニオンリーダーを米国に派遣して米国のシステムや生活水準などに対する理解を深めてもらう、という方法が有効であったようです。なお、私の専門分野であった経済学については、サムエルソン教授のテキスト『経済学』を取り寄せたい、という要望があったようです。私の記憶の限りでいえば、『サムエルソン 経済学』のテキストの邦訳は1966年に都留重人教授が原書第6版を基にして出版されたんではないかと思います。そのかなり前の1959年の段階の記録では、原書を手に入れたいというのももっともです。経済学を専門とするエコノミストにとっては、このサムエルソン教授のテキストのどの版を読んだかで大雑把な年齢が判明するんですが、私は原書第10版の邦訳を読んでいます。上下巻でハードカバーの、しかも、箱入りです。アダム・スミス『諸国民の富』Ⅰ及びⅡやケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』などとともに、まだ、我が家の本棚に鎮座していたりします。

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次に、木内昇『化物蠟燭』(朝日新聞出版) です。著者は直木賞作家であり、時代小説を得意分野としているように私は認識しています。本書は短編集であり、『小説現代』と『小説トリッパー』に2010年から2018年にかけて掲載された短編、表題作を含めて、「隣の小平次」、「蛼橋」、「お柄杓」、「幼馴染み」、「化物蠟燭」、「むらさき」、「夜番」の7編を収録しています。時代背景はおおむね徳川後期と察せられます。明記されているものもあります。私はそれなりに時代小説を読むんですが、かなり時代考証はしっかりしているという印象を受けました。この季節にふさわしく、怪談集です。半分くらいは、この世のものではない存在、主として幽霊や妖怪や物の怪などの活動を扱っていますが、そういった非現実的な存在を必要とせず、キングばりのモダンホラーのような作品もあります。「幼馴染み」なんかはそうだという気がします。また、この世とあの世を行ったり来たりする短編もありますが、主たる舞台はこの世であり、次に取り上げる「京洛の森」のような不自然さは時代考証も含めて何らありません。加えて、表題作の「化物蠟燭」をはじめとして、それなりのハッピーエンドで終わる物語も含まれています。ただ、最大の特徴は、この作品には限られませんが、あの世の存在がこの世に何らかの形で残って、平たい表現をすれば成仏できずに苦しむ、という物語ではなく、あくまでこの世の普通の人間を中心にストーリーが回っている印象を受けました。しかも、私がよく読む時代小説は徳川期という点では本作品と同じながら、武士階級を主人公として、しかもそれなりの高位の侍も含まれ、封建時代の大名や領主が世襲で盤石の基盤を持つ中で、家老以下が精力争う意を繰り返す、そして、侍だけに何らかの剣術の達人が登場する、という『たそがれ清兵衛』や『三屋清左衛門残実録』のような私が慣れ親しんだ時代小説ではなく、場所的には江戸下町中心ながら、ほとんど侍は登場せず、同時に大都市の江戸が舞台ですので農民も主たる役割は果たさず、職人と商人のいわゆる町民・町人が主人公となっています。私の個人的かつ偏ったな印象ながら、この作者の作品は幕末を舞台にした重厚な物語がお得意であったような気がしますが、市井に住む町人の生活を基礎として、いかに安定や幸福などを求めるか、そこに、この世に未練を残したあの世の存在がどのように入り込むか、とても人情味あふれる短編集に仕上がっています。繰り返しになりますが、時代背景は徳川後期ながら、21世紀の現代にも通じる部分もあります。ただ、それほど応用範囲は広くありませんので、その点は、すべてを現代的に読み替えるべきではありません。

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最後に、望月麻衣『京洛の森のアリス』、『京洛の森のアリス Ⅱ』、『京洛の森のアリス Ⅲ』(文春文庫) です。作者は、京都在住のラノベ作家です。この作者の作品としては、京都を舞台にしたラノベしか私は読んだことがありません。また、本書を原作としてコミックも出版されています。3冊とも300ページないしそれ以下で、中身がライトですので、私は1冊当たり1時間弱で読み切ってしまいました。先週末の3連休にエアロバイクを1時間ほど漕ぐに当たっての暇潰しで図書館から借りた次第です。でも、実は、半分くらいはテレビで高校野球を見ていたりしました。ということで、両親を交通事故で亡くし、叔母の家に引き取られていた主人公が、15歳になっても高校に通わせてもらえず、老紳士に連れられて、小さいころに育った京都に移り住むところからストーリーが始まります。五条大橋を越えたあたりから様子が変わり、実は「京洛の森」なる異次元に入り込むわけです。このあたりは「千と千尋の神隠し」へのオマージュかと思います。そして、京洛の森では自分のやりたいことをやり、人に必要とされるという条件を満たさないとダメなんですが、何と無謀にも主人公は最初は舞妓修行を決意するものの、アッサリと本屋に宗旨替えします。人に必要とされるという条件も、ひょっとしたら、仕事をしなければならないという条件がある「千と千尋の神隠し」へのオマージュかもしれません。いずれにせよ、あとがきでジブリ作品への思い入れがあるようなことが書かれています。主人公の名前は白川ありすで、これは「不思議の国のアリス」へのオマージュでしょうから、いろんな既存作品のつぎはぎながら、ジブリ作品だけでなく、かなり思い込みが激しいように私は受け止めました。主人公の前に現れる兎のナツメと蛙のハチスが、実は人間で、当然のように言葉をしゃべります。ハチスが王族の蓮で、主人公の幼馴染にして、いつのまにか婚約者になっており、ナツメの方は主人公を京洛の森に連れて来た老人で、王族に仕える執事の棗だったりします。何といっても、エコノミストの目から見て、いろんなビジネスがありながら貨幣がない、というのは決定的な欠陥で、生活感がなく、いかにも架空の物語、という受け止めしかできません。「不思議の国のアリス」はともかく、ファンタジーでも「千と千尋の神隠し」では黄金がザクザクと出て来ますし、「ハリー・ポッター」のシリーズではゴブリンの銀行にハリーの預金口座があり、また、お金持ちで貴族のドラコ・マルフォイと貧乏人の子沢山のロン・ウィーズリーの格差と対立がひとつの見どころとなっていますので、その点で、我が国のラノベ界の、例えば、高校生ばかりが登場する人気ラノベ作家の作品などとともに、やや底が浅いと私が感じてしまう一因かもしれません。でも、世界観はダメとしても、地理的な舞台は京都らしき京洛の森ですから、私も馴染みありますし、手軽に読めて後に残らず、暇潰しにはピッタリです。実は、同じ作者の『京都寺町三条のホームズ』シリーズは8巻で読書が止まっていたところ、少し新たに借りようかと画策しています。でも、かなりの人気のようで、最新刊の12巻まではまだ借りられそうもありません。誠に残念。
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2019年08月10日 (土) 13:25:00

今週の読書はいろいろ読んで計5冊!

今週の読書は話題のAIに関する専門書など数冊を読んだんですが、岩波新書を別にすれば、ズバリの経済書はありませんでした。この週末は3連休で来週はお盆の週ですので、来週もそれなりに読書が進みそうな気がしますが、私自身の夏休みは9月に取得予定で、来週はカレンダー通りに近い出勤の予定ですので、通常通りの数冊の読書になりそうな予感です。

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まず、バイロン・リース『人類の歴史とAIの未来』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、私は知りませんでしたが、技術調査会社ギガオムのCEOだそうです。これで判る人は、そもそも、この著者を知っている人なんではないかという気がします。まあ、いろんなハイテク企業の経営をしている起業家ということなんだろうと思いますが、それほど有名ではないんだろうと私は勝手に想像しています。ということで、英語の原題は The Fourth Age であり、2018年の出版です。本書は5部構成となっており、第1分は今までの人類の歴史を概観し、特に、火の使用と言語の獲得を文明化が始まった画期と見なし、さらに時代を下って、農業の開始を次の画期としています。ただ、英語の原題にあるように、4つの時代を著者は考えているようなんですが、第1部で2つの時代を概観するわけです。そして、その後の時代を画するのは、弱いAIと強いAI、すなわち、チェスや囲碁などの専門分野に特化したAIと汎用的なAGIであるとします。そして、AIがAGIという強い段階に達した際に何が起こるかを、著者は本書で思考実験しています。当然、軽く想像されるように、AGIが登場した第4の時代に何が起こるかについてのダイレクトな回答を与えようとしているわけではなく、読者がどのように考えるかの素材を提供しようと本書は試みています。ただ、その試みが成功しているかどうかは、私にははなはだ疑問です。というのは、知性と意識というものを混同しているように私にはみえるからです。著者は盛んに意識の問題として考えようとしていますが、私はむしろ知性ないし認知能力の問題だろうと思います。伊藤計劃の『ハーモニー』に意識を持たないヒトが登場しますが、法律家とエコノミストが決定的に違うのは、私の理解によれば、意図した行為とその結果であるかを法律家が重視するのに対し、エコノミストは結果だけを見ます。例えば、それほどよくない例かもしれませんが、法律家は殺人と過失致死を異なると考える傾向にありますが、エコノミストはその人が死んでいなくなるという点では同じと考える傾向にあります。死ぬ原因は交通事故でも、病気でも、経済的な帰結としては変わりないわけです。少し違う気もするものの、AIが意識を持つかどうかは私には大きな意味あるとは思えず、むしろ、人間と同じもしくは上回るレベルの汎用的な知性もしくは認知能力をAIが獲得すうるかどうか、が重要ではないかという気がします。もしも、AIがAGIとして汎用的な知性を獲得するならば、そのまま一直線にAIの知性、ないし、認知能力は人類を大きく上回るレベルに達し、さらに、向上を続ける可能性が高まります。そうなれば、現時点におけるヒトとイヌ・ネコの関係がそのまま、将来的にはAIとヒトの関係になぞらえることが出来ます。すなわち、ヒトはAIのペットになるんだろうと私は思います。それはちょうど、100~200年くらい前までは実用的な能力だった乗馬という行為が、現在では限られた区画で行うスポーツないし娯楽になっているようなものです。ですから、自動車の自動運転が一般化すれば、マニュアルで運転する自動車は、現在の乗馬と同じように限られた区画でスポーツないし娯楽として楽しむ行為になる可能性が高いと思いますし、AGIの実用化よりも先に、ひょっとしたら、私が生きている間にそうなる可能性すらあります。AIに論点を戻せば、ヒトがAGIのペットになりかねないという意味で、本書でも指摘しているように、スティーブン・ホーキング、ビル・ゲイツ、イーロン・マスクなどがAIに対する何らかの意味での懸念や恐怖を表明し、近い将来、人類の生存を脅かす存在になると警告しているのは、実に確固たる根拠があると私は考えています。

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次に、池内了『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』(みすず書房) です。著者は、名古屋大学や湘南にある総合研究大学院大学をホームグラウンドとする宇宙物理学の研究者です。本書の主張は、タイトル通りであって、特に何かを付け加える必要はないものと私は考えますし、左派エコノミストたる私からすれば、自然科学や工学分野の科学者および技術者が軍事研究に手を染め、戦争で人間を効率的に殺戮するための手段の開発研究には関与すべきではないことはいうまでもありません。逆に、これを声高に主張しなければならない点が不思議な気すらします。ただ、本書の著者は、これを科学者や技術者の倫理問題として処理しようとしており、この点は私は大きな疑問を感じます。というのは、最近でも、米国では銃の乱射事件が跡を絶ちませんが、我が日本では京アニのような実に残念極まりない大量の死者が出る事件こそありましたが、少なくとも銃の乱射による殺人事件は起こっていません。しかし、この差を、日本人と米国人の倫理問題であると考える識者は決して多くないだろうと私は受け止めています。当然に、銃規制の問題の側面が強いと考える人が多いでしょうし、私もそうです。これは、科学者・技術者の軍事研究とまったく同根であると考えるべきです。21世紀に入って、軍事研究に科学者や技術者が手を染めるようになったのは、国立大学が法人化されて研究費が不足するようになったからであり、その経済的な「下部構造」を無視して倫理的な問題を強調しても、一向に問題の解決にはならない、と私は考えます。もちろん、政府や行政のサイドから、自由に使える研究費を削減しておいて、軍事研究の方のご予算を潤沢に供給するという、実に、巧妙な研究のコントロールがなされている結果でもあるわけですが、「恒産恒心」という言葉もあるように、食べ物を得られずに餓死する倫理観と食べ物を盗む倫理観を比較することは、どこまで意味があるのか、私には疑問だらけです。私は、本書の著者の結論、すなわち、科学者や技術者は軍事研究をするべきではない、については100%の同意を示すつもりですが、その実行上の手立てとして、科学者や技術者の倫理観に訴えるというのは、エコノミストの目から見て、控えめにいっても非効率です。役所で官庁エコノミストをしていた当時の私のような社会科学の研究者も含めて、現在の研究者、もちろん、科学者や技術者も含めて、多くの研究者はアウトプットを求められるのに対して、あまりにもリソースが不足しているといわざるを得ません。かつて官庁エコノミストだった私は、国家公務員というお気楽でかつ身分保障も万全な立場でしたから、アウトプットを犠牲にするという方向も選択できましたが、多くの真面目な研究者はアウトプットを出し続けるために、何らかのリソースを必要としています。その点に目配りしていない本書は、かなりの程度に宗教的な倫理観を振り回すしかなかったのかもしれません。でも、倫理観の強調だけでは科学者の軍事研究従事という問題は解決されないことを理解すべきです。

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次に、武田康裕『日米同盟のコスト』(亜紀書房) です。著者は防衛大学校教授であり、専門は国際関係論だそうです。数年前の前著に共著の『コストを試算!』がありますが、これは日米同盟を解体すれば、どのくらいの防衛コストを日本が負担しなければならないか、と試算したもので、私が読んだ本書では日米同盟を維持したままで、どれくらいのコスト負担が生じているか、を試算しています。日米同盟などの同盟のコストではありませんが、10年余り前にスティグリッツ教授が共著にて『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』を出版し、イラク戦争のコストを3兆ドルと試算した結果を明らかにしています。私は読んだ記憶があります。ということで、エコノミストや会計専門家が会計的なコストを試算したわけではなく、防衛や安全保障の専門家が現状の日米同盟のコストを試算しているわけですので、繰り返しになりますが、現状の防衛レベルを前提としています。要するに、「核の傘」を含んでいるわけです。また、コスタリカを例に出すのも気が引けますが、「核の傘」を外すことを含めて防衛レベルを下げることは想定されていません。それでも、現状の日米同盟のコスト負担を考慮すると、経済学的にいうところのリターンは10倍くらいに上る、という結果を示しています。あくまで、これは桁数、というか、オーダーの数字で、GDP比0.1%のコスト負担でGDP比1%くらいの防衛ベネフィットがある、という概算です。少し前の報道で、米国サイドから防衛費負担を5倍増という米国サイドの要求がある、という記事を見かけましたが、本書では10倍まではリーズナブル、 というメッセージなのかもしれません。まあ、そんなことはないと思いますが、私にはよく判りません。。加えて、序論では、本書の目的をコスト試算だけではなく、コスト分析を手がかりにして、我が国の安全、自主、自立からなる連立方程式を解くことにある、とも明記しています。ですから、日米同盟のコストとして、金銭的な負担はもとより、自立的な防衛を放棄して米軍の指揮命令下に入るコストも含んでいるような書きぶりを私は目にしました。もちろん、「自衛隊が米軍の指揮命令下に入る自立性の放棄」なんて露骨な表現はしていません。本書でも言及されている通り、米国とフィリピンの同盟を例に持ち出すまでもなく、例えば、米国とフィリピンは相互の防衛義務を課している一方で、日米同盟では日本は米国の防衛義務はありません。他方で、フィリピン国内の米軍基地は極めて限定的な場所でしか設営できませんが、日本国内であれば米軍基地はどこにでも展開できたりします。その意味で、防衛上のコストは小さい一方で、自立性を犠牲にしている、という著者の分析も一定の範囲で首肯できるものがあります。最後は蛇足ながら、その昔、大昔、私が京都から東京に就職で引っ越した少しびっくりしたのは、横田基地や横須賀軍港など、首都圏ではやや広域の生活圏に米軍基地がありますが、それでも、沖縄の稠密な米軍基地展開ほどではないという事実です。本書ではまったく言及ありませんが、我が国の日米同盟のコスト負担は地域的に圧倒的に沖縄を犠牲にしています。この点で、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』の議論でも取り上げられていましたが、ル=グウィンの『風の十二方位』に収録されたヒューゴー賞受賞作の短編「オメラスから歩み去る人々」を一読されることをオススメします。

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次に、ポール・レイバーン『父親の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、AP通信科学担当デスクなどを経て、現在はサイエンス・ライターをしているようです。英語の原題は Do Fathers Matter? であり、2014年の出版です。英語の現タイトルに照らせば、従来の回答は子育てについては「重要ではない」、ということだったと思うんですが、少しずつながら科学的に解明されてきて、最近では子育てに父親の果たす役割というものが見直されつつあります。ただ、何かの書評で見かけたんですが、子供を産めるのは何といっても女性だけですし、「哺乳類」という生物学的な分類名からして、母乳を授乳できるのは母親だけであって父親はできませんから、子育てにおける重要性が格段に低い、ないしは、まったくゼロである、と見なされて来たのにも理由があるかもしれません。ということで、従来はほぼほぼ見過ごされて来た育児における男親の役割を、人間だけでなく霊長類だけでなく、マウスやラットのようなげっ歯類、あるいは、オシドリでも有名な鳥類まで、さまざまな動物を含めて、脳神経科学、心理学、人類学、動物学、遺伝学などなど、科学的な視点から徹底検証を加えています。ただ、本書を読んでいて感じたのは、第1に、やっぱり、父親の育児に対する影響力は、決して子供へのダイレクトな影響ではなく、母親を通じた影響の場合が少なくない点と、第2に、ほぼほぼ父親の子供への影響は相関関係に終始しており、決して因果関係や、薬学でいうところの作用機序はまったく解明されていない、という点は読み進むにあたって心しておくべきと考えます。特に、年老いた父親から子供に対する影響がかなりネガティブに言及されますが、根拠がそれほど確かではないんではないか、と思わせるものが多くあります。ということで、私、というか、我が家が子供をもうけたのは前世紀1990年代の後半ですし、2歳違いの男の子2人はすでに成人しています。そのころは今のような男性の育児休暇もなく、育児は20世紀的に女性の役割というジェンダー観がまだまだ支配的だったような気がします。その中で、本書には全く言及がないんですが、私の信念に近いもので、子供との関係は愛情をもって接するのはいうに及ばず、日本的な遠巻きにした遠慮がちな接し方ではなく、スキンシップが重要と考えていました。結婚前の1990年代前半に南米の大使館勤務でラテン的な考え方が身についてしまった結果かもしれません。例えば、人と会った際に、日本的に腰を折ってお辞儀をするのもいいんですが、欧米流に握手をする方がよりスキンシップを持てますし、さらに、ハグすればもっと親近感が高まる、といったことです。だから、というわけでもありませんが、育児の中でかなりの体力や腕力を要するという観点もあって、私は父親として子供の入浴を受け持っていました。まあ、小学校就学前の幼児期に南の島のジャカルタ暮らしで時間的な余裕があった点も忘れるべきではありません。男の子だったので、男親が裸の入浴を受け持った、というのもあります。動物と違って、人間の場合はおもちゃを買い求めるという親子の接し方がありますので、このスキンシップについてももう少し考えて欲しかった気がします。

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最後に、熊倉正修『日本のマクロ経済政策』(岩波新書) です。著者は、明治学院大学国際学部教授のエコノミストです。実は、私にはかなり勝手な思い込みがあって、朝日新聞や岩波書店は、私と同じとはいわないまでも、左派的な見方が示されていると考えがちだったんですが、先々月の6月22日付けの読書感想文で取り上げた朝日新聞ジャーナリストによる原真人『日本銀行「失敗の本質」』や本書は、びっくりするくらいの右派的な経済政策論を展開しています。すなわち、マクロ経済政策のうち、金融政策では量的緩和をヤメにして金利を引き上げるという意味での「金融正常化」を進め、財政政策では社会保障などを含めて歳出をカットし歳入を増やすにより財政再建を図る、という論調です。ジャーナリストをはじめとして、現在の政権の経済政策批判という観点からは、私は権力に対する批判という意味で許容すべきと考えますが、経済政策の本質を考えることなく、単なる党派的な視点から現政権の政策に対する反対論を展開するというだけでは、とても不満が残ります。緊縮財政で支出をカットし、社会保障を削減することにより、どういう利点が国民に感じられるのか、その点を明確にした上で、それなりの経済分析に基づいた議論を展開してほしい気がします。本書の著者は、日本経済はデフレであったことはないと主張して、英語の原著論文を示しているんですが、まあ、そこまでは研究成果としていいとはいえ、緊縮財政による財政再建を目指し、財政赤字を削減する点については、何の議論もありません。それよりも、格差の是正を目指した所得再配分政策などに目が向いていないのも悲しい気がします。財政赤字を削減するとしても、何の前提条件もなしで歳出削減と歳入増で突き進むのではなく、所得税の累進性の強化とか、大きく切り下げられて来た法人税の増徴とか、歳出カットにしても大企業向け補助金の整理とか、あるいは、防衛費の削減とか、ムダな公共事業の削減とか、すでに官庁を定年退職した私でも考えつくような論点はいっぱいあるんですが、本書ではパスしてしまっている気がします。加えて、景気拡張的なマクロ経済政策を求める国民の意見を、こともあろうに「民主主義の未成熟」で片づけて、直接の言及こそありませんが、ケインズ的な「ハーベイロード仮説」を無理にでも成り立たせようとする強引ささえうかがわせます。ひょっとしたら、左派的な経済論調を期待して図書館で岩波新書から出ている本書を借りた私が間違っていたのかもしれません。いずれにせよ、誠に残念です。
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2019年08月03日 (土) 11:41:00

今週の読書は経済書をはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、いつもの通りに、経済書をはじめとした計7冊です。ただ、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの8作品のうちの3作を読みました。なお、本日すでに自転車で近隣図書館を回り終えており、来週も数冊の読書になる予定です。

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まず、丸山俊一・NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義 3』(東洋経済) です。NHK特集で放送された内容の書籍化で、タイトルから明白なように、第3巻となります。私は今までの2冊も読んだ記憶がありますが、2冊目がやや物足りなかったので、この3冊目を読むかどうか迷っていたんですが、のーねる経済学賞を授賞したティロル教授とか、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で話題になったハラリ教授らの名前がありましたので、図書館で借りて読んでみました。5人の有識者へのインタビュー結果を中心に構成されているんですが、さすがに、3人目のティロル教授、4人目のハラリ教授、そして、5人目のガブリエル教授のパートは読みごたえがありました。最初の起業家ギャロウェイ氏のパートでは、インタビュアーが悪いんでしょうが、「GAFAの究極の目的は何か」という趣旨の質問があり、冒頭でガックリ来てしまいました。企業活動をする限りは、持てる経営資源を活用して利潤を最大化するのが企業の活動目的に決まっています。それとも、GAFAの目的は「世界征服」といった趣旨の回答を引き出せるとでもインタビュアーは思っていたんでしょうか。加えて、GAFAなどによるイノベーションが雇用の減少をもたらすというのは、必ずしも真実ではありません。コストダウンを目的にしたイノベーションしか念頭にないので、こういった珍問答になったんでしょうが、新商品の開発や新しい流通経路の開発など、生産を増加させ雇用も増えるようなイノベーションは歴史上いっぱいありました。また、第2章ではビットコインに続く仮想通貨の開発者ホスキンソン氏へのインタビューなんですが、資本主義は短期的な視野に陥りがち、といった発言が示されている一方で、第3章のティロル教授は市場が常に待機主義であるわけではないと主張して、まったく株主配当を行わないアマゾンのような例を出したりしています。ティロル教授は同時に仮想通貨について大いに否定的な論調を展開していたりもします。第4章のハラリ教授は、仕事を守るのではなく、人々に所得というか、収入を保証する、例えば、ベーシックインカムのような制度の重要性を指摘しています。最後の第5章のガブリエル教授は、人々を支配しているのはAIやロボットといったハードあるいはソフトな機械ではなく、そのバックに控えている人間だと喝破しています。などなど、決して、系統的な見方を得るのではないのかもしれませんが、ひとつひとつの見方や考え方に、私はとても強い刺激を得ることができました。NHKの放送はまったく見ていませんが、本書でもかなりの程度にその雰囲気は得られるのではないか、という気がします。

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次に、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済) です。著者はオーストリア生まれで、ウィーン大学で古代史のテーマで博士号を取得して、現在は米国スタンフォード大学の歴史学研究者です。本書は先週土曜日の日経新聞の書評欄で取り上げられていましたが、その時点で私はすでに新宿区立図書館から借りていたりしました。なお、英語の原題は The Great Leveler であり、2017年の出版です。ということで、本書では、一般に私のようなマルクス主義歴史学を知る者が原始共産制と呼ぶ石器時代から時代を下って、生産力の向上とともに剰余生産物ができるに従って不平等が生じた歴史をひも解く、というか、不平等が生じつつも解消された要因について分析を加えています。すなわち、7部構成の本書なんですが、第1部で不平等の概略史を跡付けた後、不平等を解消する社会現象を「騎士」と名付け、4つの騎士を、第2部で戦争、第3部で革命、第4部で崩壊、第5部で疫病、として取り上げ、最後の方の第6部と第7部では四騎士に代わる平等化の手立てを、最後の第7部で平等と不平等の未来について分析しています。本書で「騎士」と名付けている戦争、革命、崩壊、疫病については、直感的に、社会秩序を大きく揺るがせますので、いわゆる弱肉強食のパワー・ポリティクスの世界に入りそうな気がしないでもないんですが、確かに、考えてみると戦争で例に挙げられている我が日本の第2次世界対戦の記憶にしても、平等化が進んでいるのは歴史的事実のようです。本書でいうところの「総動員体制」に従って、人間としての生存に必要な部分を上回る余剰を戦争遂行のために国家が強権でもって召し上げるんですから、原始共産制に近づくのかもしれないと私は考えたりしました。ただ、他方で、本書でもソ連の共産革命に付随して、特に北欧各国で累進課税が導入された点を強調していますし、昔のソ連にしても現在の中国にしても、本来のマルクス主義的な社会主義や共産主義からはほど遠いんですが、理念としての平等の旗を下ろすことはありませんし、その影響を受けた改良主義的な社会民主主義でも平等化がひとつの政策目標として追求されていることは紛れもない事実です。また、本書では何箇所かで平等化のひとつの要因として労働組合を上げています。もちろん、マルクス主義的な労働者階級の前衛ではないんでしょうが、現代経済学でも、例えば、Galí, Jordi (2011) "The Return of the Wage Phillips Curve," Journal of the European Economic Association 9(3), June 2011, pp.436-61 などにおいても、賃金上昇圧力としての労働組織率を評価していますから、労働組合と平等化は何らかの正の相関があるともいえます。ただし、本書では農地改革については否定的な評価を下しているように見えます。我が国ではその昔に、「士農工商」なる身分性がありましたが、現代においても、工業・商業と農業で平等化の方法論に少し違いがあるようです。いずれにせよ、ピケティ教授から格差や不平等のトピックが経済学のひとつの重要なテーマとなっています。注釈や索引を含めると軽く700ページを超えるボリュームですが、私のようなエコノミスト兼ヒストリアンの目から見れば、一読しておく値打ちはありそうな気がします。

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次に、ローレンス・レビー『PIXAR』(文響社) です。著者は、かのスティーブ・ジョブズから招聘されてピクサーの最高財務責任者CFO兼社長室メンバーに就任してジョブズとともにピクサーで働き、後に取締役まで務めています。英語の原題は To PIXAR and Beyond であり、2016年の出版です。繰り返しになりますが、著者はアップルから追放されてピクサーのオーナーになっていた1990年代なかばのスティーブ・ジョブズから電話を受け面接に進み、スタジオを訪問して後に「トイ・ストーリー」として公開されるアニメを見て感激し、ピクサーに入社するところからお話が始まり、そのピクサーがディズニーに買収される2006年まで10年余りの期間に関するファイナンスの面からのピクサーの社史になっています。著者の転職当初は、全株式を所有し唯一の取締役であるスティーブ・ジョブズが招聘したということから、スティーブ派と目されて、クリエイターたちの一派から冷ややかな目で見られていたものの、IPOを控えてストック・オプションをクリエイターたちに配分する中で、徐々に企業としての一体感を形成し、同時に、カリスマ的な経営者であり、シリコンバレーでも抜きん出たビジョナリーのひとりであるスティーブ・ジョブズのかなり強引かつ得手勝手な要求には一切ノーといわずに、黙々とオーナーの指示に従い、財務責任者として業務を遂行していく姿を浮き彫りにしています。もちろん、著者の自伝的な要素もありますので、大きなバイアスがかかっていることとは思いますが、非公開企業の内部事情はうかがい知れません。もちろん、著者は財務からピクサーという企業を見ていますので、「トイ・ストーリー」から始まって、我が家も一家でよく見た一連の封切り映画、すなわち、「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」などの世界的な大ヒット映画のメイキングの部分は期待すべきではありません。そして、最後はヒットを飛ばし過ぎて株価がとてつもなく高い水準まで上昇し、その高株価を維持するためにはディズニーのようにテーマパークやグッズなどの多角化を図るか、それとも、そういった多角化に成功した企業にM&Aで売却するか、の選択肢から後者の道を選んだわけです。スティーブ・ジョブズは広く知られた通り、今世紀に入ってアップルに復帰し、iPOD、iPHONE、iPADなどのヒットを飛ばし、そのままがんで亡くなっていますが、ジョブズがアップルを追放され、ネクストというコンピュータ会社を立ち上げながらもパッとせず、結局ピクサーのオーナーとしてIPOで復活してビリオネアになるという、著者以外のもうひとつのパーソナル・ヒストリーの一端にも触れることができます。本書を読んだ教訓として、やっぱり、カリスマ的な社内権力者には、すべからくイエスマンでいて、「ご無理、ごもっとも」で決して「ノー」ということなく接しなければならないということがよく判りました。そして、我と我が身を顧みて、役所には決してカリスマ的な権力者はいなくて集団で組織を運営していたのですが、私が出世できなかった原因も身に染みてよく判った気がします。

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次に、澤田瞳子『月人壮士』と、薬丸岳『蒼色の大地』と、そして、乾ルカ『コイコワレ』(中央公論新社) です。この3作品は、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトを構成しています。この3作品については、『月人壮士』が奈良時代、特に聖武天皇にスポットを当てており、時代が下って、『蒼色の大地』は明治期、『コイコワレ』は太平洋戦争末期、をそれぞれ舞台にしています。もちろん、この3作品だけでなく、私はまだ読んでいませんが、原始時代の大森兄弟「ウナノハテノガタ』、中世や戦国時代からの武士の時代の天野純希『もののふの国』、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』に収録された昭和後期の「シーソーモンスター」と近未来の「スピンモンスター」、平成の朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』、未来の吉田篤弘『天使も怪物も眠る夜』と、1号から10号までに連載された8人の作家による作品がラインナップされています。まだ決めてはいませんが、私は伊坂幸太郎『シーソーモンスター』は読んでおきたいと考えています。この「螺旋」プロジェクトの特徴は、出版社のサイトにあるように、ルール1として「海族」と「山族」の2つの種族の対立構造を描き、ルール2としてすべての作品に同じ「隠れキャラクター」を登場させ、ルール3として任意で登場させられる共通アイテムが複数ある、ということのようで、ルール1は単純で読めば判ります。例えば、古典古代を舞台にした『月人壮士』では天皇家が「山族」であり、天皇を外戚として支える藤原氏が「海族」となります。明示的に何度も出て来ます。そして、3番目は複雑過ぎて8作のうちの3作品しか読んでいない現段階では私には不明ながら、カタツムリとラムネを念頭に置いています。ただ、奈良時代にラムネもないだろうとは思っています。そして、その中間のルール2の「隠れキャラ」については、オッドアイの人物なのではないか、と思い始めています。オッドアイ、すなわち、左右で目の色が違う、という意味です。少なくとも、『蒼色の大地』と『コイコワレ』には碧眼の青い目の日本人が登場するんですが、『月人壮士』については私が読み飛ばしたとも思えず、出て来ませんでした。というような読書の楽しみもアリではないかと思います。簡単にあらすじだけ紹介しておくと、『月人壮士』では聖武天皇、というか、上皇が亡くなった際の後継天皇に関する遺勅がったんではないか、とに命じられて継麻呂と道鏡がいろんな関係者にインタビューします。それがモノローグで展開され、聖武天皇の実像や「山」の天皇家と「海」の藤原氏の確執、もちろん、天皇後継に関する陰謀などが明らかにされます。『蒼色の大地』は明治期の海軍と海賊で、海軍には耳の大きい山族、そして、海賊には目の青い海族と別れます。『コイコワレ』は戦争末期に宮城県に集団疎開した小学6年生の碧眼の「海」の少女と、それを忌み嫌う現地の「山」の少女の確執、さらに、「海」の少女のお守りに関するストーリーです。読んだ3作の中では、『蒼色の大地』について、作者の薬丸岳については何作か読んでいたりしますので、もっとも期待していたんですが、逆に、期待外れに終わった気がします。

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最後に、今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書) です。著者は、NHKから民放テレビ局に移籍したジャーナリストです。タイトル通りに、我が国のインテリジェンス組織である内閣情報調査室に関するルポです。さらに、内閣情報調査室とともに、というか、あるいは、三つ巴を形成している公安警察と公安調査庁も含めて、スパイたちのインテリジェンス活動を明らかにしようと試みています。よくいわれるように、我が国は「スパイ天国」であって、冷戦期などは各国スパイが暗躍していたらしいんですが、本書でも指摘されているように、特定秘密保護法によりスパイのインテリジェンスからは普通の国になったのかもしれません。でも、私も在外公館で経済情報の収集に当たっていましたが、わざわざスパイが暗躍して秘密裏に情報を収集することもなく、新聞や雑誌、可能な範囲でテレビも含めて、いわゆるマスメディアから一般に広く公表されている情報だけでも、少なくとも経済情報の場合は、チリという遠隔の地でそれほどの情報がなかったこともあり、公開情報でほとんど間に合っていたような気もします。経済情報であれば、マクロ経済の統計情報も豊富に公表されています。ただ、テロを含む安全保障や治安維持上の情報となれば、経済情報とは違うんだろうということも理解は出来ます。それから、情報公開上の考え方なんですが、報道の元ネタとなる政府からの情報に関しては、ジャーナリストのサイドでは公開の方に針が振れるのに対して、私も経験がありますが、政府に勤務する公務員のサイドからすれば秘匿の方向に意識が傾くのも、まあ、ポジショントークのようなもので、立場によって考え方にビミョーな差が出ることは、ある意味で、当然と考えるべきです。どうでもいいことながら、本書のタイトルである内閣情報調査室は略して「内調」というのが、本書でもしばしば出てくるんですが、私が若かりし官庁エコノミストだったころ、私からすれば「内調」とは当時の経済企画庁の内国調査課を意味していました。官庁再編前のことながら、その昔の「経済白書」の担当セクションです。私自身は研究所の所属が長く、「個人的見解」の但し書きをつけて自分の名前で研究成果を出していたりしたんですが、政府や個別の役所の名前でリポートを取りまとめる白書担当部局などが、官庁エコノミストのポジションだった時代かもしれません。繰り返しになりますが、本書とは何の関係もない思い出話でした。
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2019年07月27日 (土) 11:50:00

今週の読書は青春小説の金字塔『横道世之介』の続編をはじめ計6冊!

相変わらず、今週の読書も経済書をはじめとして、小説まで含めて計6冊を読んでいます。私の好きな青春小説の中でも、おそらく、一番に評価している吉田修一の『横道世之介』の続編も読みました。来週の読書はほぼ手元に集め終わっており、何と、経済書よりも小説の方が多くなりますが、やっぱり数冊読む予定です。

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まず、井上智洋『純粋機械化経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は駒澤大学のマクロ経済学の研究者で、本書は読み方にもよりますが、経済書と考えるよりも文明についての教養書や哲学書として読む読者も多そうな気がします。私のように経済書と考える読者は、第3章と第4章で論じられている人工知能(AI)により仕事が奪われるか、とか、労働のインプットを必要としない純粋機械化経済における格差、などに比重を置いた読み方になりそうな気がしますし、文明論とか哲学書と考える読者は最後の第7章と第8章あたりに興味を持ちそうです。まあ、出来はともかく、この最終章あたりは『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』のような雰囲気が感じられます。AIがどういった仕事や職業を奪う、というか、代替するのかについては英国オックスフォード大学のフレイ-オズボーンの研究成果に言及されており、実は、AIによる純粋機械化経済は労働のインプットを必要としないことから、資本ストックの限界生産性の逓減が生じなくなり、経済成長が一気に加速する、と結論しています。ただ、私は疑問で、AIによる純粋機械化経済で成長が一気に加速するのは生産性、というか、供給サイドであって、需要サイドがこれに追いつかなければ、単なる過剰生産のデフレに陥りかねません。その中で、本書では言及されていませんが、「スーパースター経済」のような格差が一挙に拡大する可能性を示唆します。Average is over. というわけです。なお、AIによる経済成長の爆発的な加速を本書では「テイクオフ」と名付けていますが、もちろん、ロストウ的な比喩といえます。その上で、狩猟採集経済から農業経済への第1の分岐、さらに、いわゆる狭義の産業革命に伴う農業経済から工業経済への第2の分岐に続き、近い将来に、AI利用による爆発的な経済成長の加速が実現できるかどうかによる第3の分岐が生じると指摘します。そして、ユニバーサルなベーシックインカム(BI)の必要性などが解明されます。特に、私の印象が鮮明だったのは、主流派経済学で半ば自明な前提とされている長期均衡について著者が否定している点です。マンキュー教授のその昔のテキストなどでは短期の不均衡と長期の均衡から経済のお話が始まり、長期には伸縮的な価格調整により雇用も含めて市場均衡が実現されるとされていますが、実は、私自身も懐疑的なんですが、著者はこの長期の均衡を否定し、長期にも雇用をはじめとする不均衡が残る可能性を示唆します。おそらく、私の直感なのですが、この著者の長期の不均衡理論をキチンとモデル化して突き詰めれば、いわゆる現在貨幣理論(MMT)が成立する可能性が出てくるような気がします。ただし、これは人類がAIを使いこなせれば、という前提であり、場合によっては、人類ではなくAIが主人公になる経済も視野に入れる必要があると私のような悲観派は考えています。そのAIが主人公になる経済社会では、人類は現在のイヌ・ネコのようなAIのペットになるのかもしれません。

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次に、巣内尚子『奴隷労働』(花伝社) です。著者はフリーのジャーナリストであり、Yahoo! ニュースの連載を大幅に加筆し書籍化されています。副題が「ベトナム人技能実習生の実態」となっているように、ベトナム人を中心に技能実習制度の下での移住労働者の人権侵害の実態について取り上げています。低賃金の単純作業でありながら、技術協力や国際貢献の名の下に、外国人技能実習生がパワハラやセクハラにとどまらず、モロの暴力があったり、雇用の場だけでなく強制的に住まわせられる住居の家賃でも不当な高額を請求され、転職もままならず、徹底的に虐げられる現場を取材して明らかにしています。ただ、その背景に、ボージャス教授の『移民の政治経済学』にあったように、外国人労働者の受け入れによって膨大な利潤を企業が得ているという経済的な事実を本書では見落としています。ですから、あとがきの中で、、謝辞の前の事実上最後の技能実習制度の構造的問題の小見出しで「日本社会におけるモラルハザード」を原因に上げているのには、実にがっかりさせられました。企業の活動目的が利潤の極大化であり、人権擁護や、ましてや、国際協力ではないことは理解できないのでしょうか。本書の中でも、特に、ベトナム人技能実習生を中心に取り上げているわけですから、送り出す側のベトナムで、国策として「労働輸出」が奨励されている背景にマルサス的な貧困があるのかどうか、仲介するベトナム側の企業の業務のクオリティに関する情報が一党独裁政権下で何らかの不都合ないか、といった取材、さらに、受け入れ側の日本では、「モラルハザード」はまったく取材されていないようですし、ましてや、技能実習生を受け入れている企業の収益状況などは視野にないようです。少なくとも、送り出すベトナムでも、もちろん、受け入れる日本でも、企業が利潤極大化の行動の一環として技能実習生を送り出し、あるいは、受け入れている、という事実は忘れるべきではありません。そして、その基礎の上に、我が国の現状の労働市場でどれほど人手不足が実感されているのか、そして、その人手不足にもかかわらず賃金上昇が鈍い背景として女性や高齢者の労働市場参入とともに、本書でも指摘されているように、すでに30万人に上る外国人労働者がどのように作用しているのか、などなどの解明が望まれます。もちろん、今上げたポイントはジャーナリストの手に余る可能性もありますから、その場合は研究者を巻き込むことも必要でしょう。ただ、「モラルハザード」で済ませる程度の問題として著者が認識しているとすれば、本書の値打ちが大いに下がるような気もします。加えて、左派・リベラル派を標榜する私の基本的な姿勢を明らかにすると、ホントに人手不足であるなら、市場でその情報が非対称性を克服して十分に活用され、労働力の希少性に見合った賃金の価格付けができないと市場経済の意味はありませんし、その希少性に見合った賃金を支払えない企業は市場から退出すべきです。さらに、外国人の移住労働者については情報の非対称性が日本人よりも大きいでしょうから、政府の役割もそれだけ大きくなるべきと考えます。

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次に、岡山裕・西山隆行[編]『アメリカの政治』(弘文堂) です。著者・編者は米国政治の研究者と考えてよさそうです。基本的には、大学初学年などのテキストと私は受け止めていますが、米国政治に関心あるビジネスパーソンでも十分に読みこなせる内容です。2部構成となっており、第1部で総論として歴史、機構、選挙と政策過程などが概観された上で、第2部において人種とエスニシティや移民、ジェンダー、教育と格差などの政治学上の争点を解明しようと試みています。本書でも鋭く指摘しているように、我が国では考えられないような政治上の争点が米国にはいっぱいあります。典型的には銃規制であり、先日の我が国の参議院議員選挙などの国政選挙レベルで銃規制が争点となることはありえない、と私をはじめとして多くの国民は感じていますが、米国で銃規制がまったく進まないのは、これまた、多くの日本国民が感じているところではないでしょうか。移民による国家としての成立と先住民やアフリカ系米国人への人種差別なども我が国では実感ありません。ダーウィン的な進化論を否定し聖書の『創世記』の天地創造を初等・中等教育で教えることは、欧州のキリスト教国でも選択肢にならないのではないでしょうか。さらに、北欧とは真逆と考えられている自己責任を強調する社会福祉政策についても、なかなか理解しがたいと受け止める読者もいそうな気がします。私はいまだに理解できなかったのは、世界における米国の軍事力のあり方であり、すなわち、20世紀初頭の第1次世界大戦への参戦を躊躇し、モンロー主義という孤立主義を貫いていた米国が、第2次世界大戦後は当時のソ連との冷戦を考慮しても、突如として世界の警察官になり、そして、21世紀の現在はその地位から下りようと模索しているのは、専門外の私には理解できませんでした。こういったように、それぞれの分野の米国政治の専門家が、それぞれの分野において何がどのような文脈で争点化し、それらをめぐってどのような主体がいかなる立場で政治過程に関与し、どのような政策が作られ、執行されてきたのかを解説することに力点が置かれており、コンパクトで判りやすいテキストに仕上がっています。米国の政治についてはいまだにフランス人思想家であるトクヴィル『アメリカのデモクラシー』が金字塔として引用されますが、本書についても、外国人労働者の受け入れなどが進み国際化が進展する我が国の現状を考え合わせれば、大いに参考になると私は評価しています。

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次に、ホルヘ・カリオン『世界の書店を旅する』(白水社) です。著者は、スペインの文芸評論家であり、本書は著者が世界を旅行した際に訪れた書店についてのエッセイです。スペイン語の原題は Librerías であり、まさに、複数形ながら、書店、というか、本屋、そのものです。英訳書のタイトルは Bookshops となっており、基本は英訳書が邦訳の底本隣、必要に応じてスペイン語原書を参照したと邦訳者があとがきで書いています。スペイン語原書は2013年の出版、英訳書は2016年の出版です。まず、どうでもいいことながら、私は英国にいったのは国際会議で短期間だったので少し判りにくいんですが、米国では首都ワシントンDCで連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころ、bookshopは米国ではおかしい、bookstoreが正しい、と訂正された記憶があります。というのは、米国人にとって shop とは、何か作業をするところであり、典型的には workshop や散髪屋さんの barber's shop があります。それに対して、store は製品を置いておくだけ、というニュアンスです。もう30年前になりますが、私がFEDにいた1989年にワシントンDCにタワーレコードが出店したので、リサーチ・アシスタント仲間で繰り出そうと相談していたところ、私が record shop というと、record store と訂正された次第です。ちなみに、タワーレコードの後に、そのころ米国進出を果たしていたキリンイチバンをみんなで飲みに行った記憶があります。それはともかく、残念ながら、本書ではワシントンDCの本屋は出てきません。米国で一番注目されているのはストランド書店です。ニューヨークは4番街にあり、私も行ったことがあります。これもどうでもいいことながら、私はエコバッグはストランド書店のデニム地のものを使っています。それから、大使館の経済アタッシェとして3年間勤務したチリの首都サンティアゴではロリータ書店が何度か言及されています。誠に残念ながら、私は記憶がありません。でも、隣国アルゼンティンの首都ブエノスアイレスのノルテ書店については、ほのかに記憶があり、アレではないか、と思わないでもない建物が脳裏にあったりします。我が国の書店では、東京の丸善が黒澤明との関係で言及されています。しかし、京都出身の私は、丸善といえば、私の学生時代に河原町通蛸薬師にあった京都丸善です。そうです。梶井基次郎の「檸檬」に登場し、爆弾に見立てられた檸檬で木っ端みじんにされるのを主人公が想像する京都丸善です。

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次に、奈倉哲三『天皇が東京にやって来た!』(東京堂出版) です。著者は歴史の研究者です。副題、というか、実は「錦絵解析」というのがくっついていて、私はこれに大いにひかれて借りました。私は自分でも自覚していますが、天皇個人についてはともかく、天皇制に関しては日本人の中でもかなり少数派に属すると考えていて、天皇が東京に行くかどうかについてはまったく興味ありませんが、明治期初年の東京について、さらに、その当時の東京の人が天皇をどう受け止めていたのかについては興味あります。加えて、上の本書の表紙画像を見ても理解できるように、税抜き2,800円にもかかわらず、フルカラーのとても見ごたえある図版がふんだんに盛り込まれており、誠に失礼ながら、歴史研究者の文章を一切読まずに、フルカラーの図版をながめるだけでも値打ちがあるような気がします。ということで、明治天皇は2度江戸、というか、東京に行幸して、2度めの行幸でそのまま東京に居ついたわけですが、本書では第1回目の東京行幸、言葉を替えれば、はじめての東京行幸の際の錦絵を解析して、歴史的な知見を得ようと試みています。錦絵の一覧はpp.18-20に取りまとめられています。2度めの東京行幸については、京都の公家衆に明治天皇を取り込まれることを回避すべく、東京に行きっ切りになることが想定されていたんでしょうが、第1回目の東京行幸については、東京府民はすべてが新政府に完全に服したわけではなく、江戸城が無血開城したこともあって、反政府的な勢力も一掃されたわけではない中で、新政府、というか、天皇の朝威を示し恩恵を施すことを目的としていました。東京滞在中に、天皇は武蔵の国の一宮である氷川神社を訪れ、東京府民へ御酒下賜を敢行し、東京府民は2日間に渡って天盃頂戴を祝います。それらを錦絵に収めているわけですが、一瞬ですべてを記録する写真とは違いますから、隅々まで正確に描写できているわけもなく、それなりに版元や絵師の思い入れがある部分が散見されるわけです。ですから、記録や報道に徹して出来るだけ客観的な描写を試みた例の他に、新政府寄りの姿勢を示す例、逆に、反政府的な要素を入れようと試みた例があります。行列を描写した錦絵が多いんですが、御酒下賜と天盃頂戴の錦絵にも見るべきポイントはあります。酒樽に、やたらと、「天下泰平」が多く見受けられます。江戸城は無血開城したとはいえ、上野彰義隊などの市街戦はあったわけで、平和を願う一般市民の気持ちは今も昔も変わりないことを実感しました。

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最後に、吉田修一『続 横道世之介』(中央公論新社) です。タイトルから明らかなように、吉田修一御本人による青春小説の金字塔『横道世之介』の続編です。私はもともと青春小説が好きで、特に、『横道世之介』は愛読し、高良健吾と吉高由里子が主演した映画も見ました。ということで、この作品は、世之介が与謝野祥子と別れて、さらに、大学を卒業したものの、バブル最末期の売り手市場に乗り遅れて、パチプロ、というか、フリーターをしている1993年4月からの12か月が対象期間となっています。世之介と大学からの親友の小諸=コモロンのほか、パチンコ屋や理容室で顔見知りになった浜本=浜ちゃんという女性の鮨職人、小岩出身のシングルマザーの桜子と子供の亮太、また、その兄や父親などの日吉一家、などなどが登場します。そして、世之介は桜子に2度に渡ってプロポーズしながらも受け入れられず、さりとて、明確に別れるでもなし、といった、相変わらずのちゅつと半端な恋愛状態が続きます。このあたりは、前作の与謝野祥子との恋愛関係の方が濃厚だったと評価する読者もいるかもしれません。そして、最後は、東京オリンピック・パラリンピックで桜子の子供の日吉亮太の活躍と、亮太に向けた桜子の兄、というか、亮太の叔父からの手紙で終わります。前作は世之介の母の手紙で終わっていたような記憶がありますので、それを踏襲しているわけです。そして、何といっても、桜子の兄の日吉隼人が勝手に投稿した地方都市主催の写真コンテストで世之介の写真が佳作に入賞し、賞の審査委員長だった大御所的な存在のプロの写真家の事務所に出入りし、手伝いなどをしつつカメラマンに成長していく萌芽をにおわせます。そして、何よりも、この写真の師匠が世之介の作品を「善良」であると評価し、この「善良」というキーワードが世之介について回ることになります。もちろん、世之介が電車の事故で亡くなるという事実に変更はありません。ただ、世之介の運転が桁外れに安全運転であることとか、コモロンとの米国旅行とかの軽い話題に交じって、何ともさりげなく、桜子の兄の隼人の中学生のころの喧嘩の贖罪といった思い出来事をサラリと紛れ込ませ、それでも、全体として世之介の善良さを全面に押し出して、いろんな登場人物の前向きで現状を肯定して先に突き進む姿勢を明るく描き出し、とてもいい仕上がりになっています。ここまで書けば、続々編がありそうな気がしますが、世之介が電車事故で亡くなるという事実に変更はないわけですから、前作のお金持ちの令嬢だった与謝野祥子に対して、本作では元ヤンのシングルマザーである日吉桜子と、世之介の恋愛対象が大きくスイングしたわけですので、真ん中の中道を行く恋愛が次にあり得る続々編で見たい気もします。それから、おそらく、前作と同じ読後の感想なんですが、私自身は世之介のような善良な人間にはなれそうもありませんので、世之介のような善良な友人・隣人が欲しい気がします。
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2019年07月20日 (土) 11:40:00

今週の読書はパフォーマンス測定に否定的な『測りすぎ』をはじめ計6冊!!!

今週の読書は、経済書らしきものをはじめとして、小説まで含めて、以下の通りの計6冊です。ただ、最初の『世界統計年鑑』は通して読むようなものではなく、パラオラとページをめくっただけです。今日はすでに図書館回りを終えていて、来週の読書の分の本も借りてきたんですが、来週も数冊の充実した読書になりそうな予感です。

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まず、英エコノミスト誌『The Economist 世界統計年鑑 2019』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。英国のエコノミスト誌の編集部による「世界統計年鑑」です。英語の原題は Pocket World in Figures 2019 であり、1991年度の初版発行以来27年間、毎年データのアップデートと収録項目の見直しを経て発行され続けているそうです。どうでもいいことですが、私は数年前に英語の原書を利用したことがあり、ハードカバーだったと記憶していますが、この2019年度版の邦訳書はペーパーバックでした。今は英語の原書もペーパーバックになっているのかもしれません。前半第1部が世界ランキングであり、国土面積や人口などの世界各国のランキングが示されており、後半第2部が国別の統計となっています。有人宇宙飛行の歴史とかのごく一部の例外を除いて、いわゆるクロスセクションの統計であり、タイムシリーズで示されているものはほとんどありません。まあ、私のように図書館で借りてパラパラとページをめくるよりは、購入して座右に置いて必要に応じて参照する、という使い方が正当なのかもしれない、と思わないでもありません。なお、邦訳の2019年度版は東京23区の区立図書館の中でも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館と文京区立図書館と墨田区立図書館と世田谷区立図書館の5館しか蔵書しておらず、しかも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館では禁帯出となっていますから、借り出せるのは極めてわずかとなっています。ある意味で、希少価値が高い、といえるかもしれません。

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次に、エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社) です。400ページを超える大作であり、著者は、ワシントンポスト紙で30年のキャリアを持つジャーナリストです。英語の原題はズバリ Janeseville であり、2017年の出版です。タイトルの街は米国ウィスコンシン州の南部に位置しています。本書のpp.426-27に地図があります。本書にも紹介されている通り、GMの大きなプラントがあった企業城下町であり、パーカー万年筆の発祥の地でもあります。そして、サブプライム・バブル崩壊後の2008年12月にGMが工場を閉鎖した前後から物語が始まります。かつては、工場のブルーカラーとして三交代の勤務で時給28ドルを稼いでいた熟練工の正規雇用された労働者が、非正規で半分の時給の仕事しかなくなって、一方でGMの工場再開や別の企業の工場誘致に希望をかけて、町おこしや企業へのインセンティブ付与を進めようとするグループがあり、他方で、新しい雇用・労働市場に対応するべく職業訓練や能力開発のために地域のブラックホーク技術大学に通い始める人々、あるいは、家計を支えるためにアルバイトを始める高校生などなど、著者は現地インタビューはもちろん、かなり膨大な情報を収集した跡がうかがわれます。そのうち、統計情報が補遺1で「ロック郡における調査の説明および結果」と補遺2で「職業再訓練に対する分析の説明および結果」とそれぞれ題して巻末に収録されています。そして、著者も私も不思議なのが、ブrックホーク技術大学、2年制だそうですから、おそらく、米国的なコミュニティ・カレッジに近い教育機関だと思いますが、こういった大学での学び直しや職業訓練・能力開発を受けた場合、かえって、再就職率が低かったり、再就職できても時間当たり賃金が少なかったりする、という統計的に分析された事実です。通常の理解とは逆に見えます。サンプルがそう大きくもないでしょうから、きわめて大きなバイアスが母集団にかかっている可能性は否定できません、例えば、もともと再就職率が困難だったり、高賃金が望めなかったりするグループが、こういった大学での学び直しや能力開発を受けた可能性はあるものの、本書のこの結論、というか、分析結果については議論を呼びそうな気もします。左派は能力開発が中途半端で不足している可能性を指摘して、一層の施策の充実を提案しそうな一方で、右派は能力開発が効果的でない可能性を議論して、こういった施策の廃止ないし縮小を求めそうな気がします。でも、全体として、暗い雰囲気のリポートながらも、将来に向けた明るさも感じられる内容でした。

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次に、ジェリー Z. ミュラー『測りすぎ』(みすず書房) です。本書冒頭で著者自ら記しているように、著者は本来米国の歴史研究者です。ただ、資本主義に歴史や思想史についても研究しているようで、経済学とまったく関係ないともいえないようです。英語の原題は The Tyranny of Metrics であり、2018年の出版です。ここで経済学に関する小ネタですが、本書の英語の原書タイトルの元ネタがあるように私は感じています。というのも、ヤング教授による "The Tyranny of Numbers" という学術論文があり、1990年代前半までのアジア新興国・途上国の経済成長は資本や労働といった要素投入に支えられたものであり、全要素生産性(TFP)はそれほど伸びていない、という点を実証し、さらに、このヤング教授の論文を受けてクルーグマン教授が "The Myth of Asia's Miracle" を書いて、1997~98年のアジア通貨危機を「予言」した、とされています。何ら、ご参考まで。ということで、本書では定量的に把握、すなわち、計測できる点を重視した経営や政策運営などを鋭く批判しています。エコノミスト、特に右派のエコノミストにとっては、マイクロな市場における価格が絶対唯一の情報であって、価格に従った資源配分こそが効率性を保証する、と考えられており、この市場における価格に類似した指標をついつい求めてしまいがちな傾向を本書では戒めています。私が考えるに、何かを定量的に把握し、それを改善の指標とする場合、3つの間違いが生じる可能性があります。第1に本来のパフォーマンスの代理変数にならない指標を採用する間違いで、第2に計測のミス、第3に目的外の利用です。本書でも、第1のポイント、すなわち、学校や病院などのパフォーマンス指標として不適当な指標が取られている例が大量に指摘されています。例えば、患者の死亡率でもって病院のパフォーマンスを代理すれば、重篤な患者を受け入れない可能性が高まり、ホントにそれで病院の社会的使命が果たされるのか、という気がします。第2のポイントで、計測ミスはいっぱいあって、私の直感ながら、我が国のサービスの生産性は正しく計測されていない可能性があります。ここまで、「おもてなし」の精神でいっぱいの飲食店や宿泊の生産性が、他の先進国と比較して低いとはとても思えません。ほとんど事故なく正確極まりない運行を誇る新幹線の生産性が低いとはとても思えません。第3のポイントでは、学校の生徒のテスト結果を教師の評価と考えるのか、校長の評価と考えるのかでは、かなり受け止め方が異なるような気もします。最後に、第4の観点があり得るとすれば、評価すべきでないものを評価しようと試みている場合もありそうな気がします。総合的に、興味ある評価の計測に関する批判が本書には詰め込まれています。また、巻末のチェックリストも参考になりそうです。

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次に、松本佐保『バチカンと国際政治』(千倉書房) です。上の表紙画像からはピンと来ないかもしれませんが、A5のかなり大きな版でページ数も300ページを上回り、ボリューム感は十分あります。著者は、国際関係史の研究者であり、タイトル通りに、19世紀くらいから直近のフランシスコ教皇まで、バチカンが国際政治にかかわった歴史をひも解こうと試みています。ただ、私なんぞは、おそらくバチカンに親近感を持っているであろう著者が、どこまでバイアスをかけていえるのかが判断しにくく、直感的ながら、国際政治におけるバチカンの影響力を過大に評価しているリスクはありそうに感じてしまいました。ただ、本書ではスコープ外のようですが、15すぃきまつのコロンブスによる新大陸発見の後、スペインとポルトガルの間で西半球の米州大陸を西経に沿って分割したトルデシリャス条約は、当時の強硬アレクサンデル6世が仲介していますし、本書でも言及されている通り、チリとアルゼンティンの長い長い国境紛争はしばしばバチカンによって仲裁されています。私が在チリ大使館に勤務していた時にも経験しました。ということで、影響力の大きさにはやや眉に唾つけて読むとしても、本書で著者が指摘する通り、国際政治の中でバチカンが旗幟鮮明だったことは確かです。特に、第1次世界大戦の戦中から戦後にかけては一貫してドイツ寄りの立場を示して戦勝国からは煙たがられましたし、第2次大戦後の東西冷戦の中では、一貫して西側や米国寄りの反共の立場を堅持しました。そして、やはり、フランシスコ教皇の下でバチカンもかなり大きく変化しようという兆しや雰囲気は私のような部外者も感じ取っています。教皇専用の豪華専用車を廃してバスや列車のような公共交通機関を利用して移動したり、飛行機ではエコノミークラスの登場したり、と本書で指摘されている事実に加えて、私はフランシスコ教皇がカバンをもって飛行機のタラップを上る写真を見てびっくりした記憶があります。国際的なさまざまなテーマは、時代が進むにつれて広がりを見せ、通商問題などの経済関係はさすがにまだ手が伸びていないようですが、戦争と平和の問題はもちろん、地球規模での環境問題など、通常の国民国家やその集合体である国連などの国際機関に加えて、バチカンのようなトランスナショナルなパワーが活躍する場が増え、必要とされるようになったように私も感じています。そのためにも、ひいき目やバイアスなしでバチカンの力量を評価できる研究が必要です。

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次に、古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』(ミネルヴァ書房) です。著者は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究者であり、本書は、自然科学的な内容は豊富ながら、基本的には、私は歴史書だと受け止めています。まず、上の表紙画像に見られるように、副題は「連続体の人類生態史」となっています。「連続体」とは、英語でスペクトラム、フランス語でスペクトル、であり、文字通り、人類史を連続で捉えようと試みています。しかも、伝統的な歴史学の観点ばかりではなく、生物学や医学に加えて、地理学や社会学、もちろん、人口動態学まで、さまざまな学問領域を横断的に駆使しつつ、人類の異文化体験や多様化について解明を志向しています。特に、男女の性別まで含めて、もちろん、人種や文化の違いなどについて対立的、というか、何らかのグループの特徴を区別する要素として用いるのではなく、人類15万年の歴史を連続で捉えようとする試みは、私はそれなりに歴史分野に詳しいつもりでしたが、かなり新鮮な視点・分析方法だったような気がします。もちろん、白人の優位と有色人種の劣等性はすでに否定されて久しいものの、どこぞの超大国の現職大統領のように、人種差別的な発言を繰り返す輩も少なくないですし、まだまだ、分断的に世界を捉える感覚は広く残っています。エコノミスト的な視点から、本書で注目したのは、経済学的な視点も入れつつ、格差を論じている点です。例えば、生物的な身長に個人間で3倍の差があることはまれでしょうし、体重は身長よりもう少し差が出来そうに感じないでもありませんが、本書では、代謝量なども含めて個人間の格差はせいぜい3~4倍と結論しています。そして、狩猟採集社会における生まれながらの格差は3倍程度であるのに対し、農耕社会では11倍、牧畜社会では20倍と算出した上で、現代社会における2桁も3桁もの大きさに及ぶ経済的な格差、例えば、所得や消費の金額や居宅の広さなどが、生物的に必要かどうか、社会経済的に許容できるかどうかを鋭く問うています。確かに、我と我が身を振り返れば、実用的な範囲では、例えば、自動車は標準的な家族に3台もあれば十分ですし、いかな大食漢も人の5倍を毎日のように食べ続けるのは、かえって苦痛の方が大きいように感じます。ルソー的な自然状態では格差3~4倍という本書の議論は、受け入れられる素地が十分にありそうな気がします。

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最後に、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社) です。著者は、2017年の前作『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビューした若手のミステリ作家です。前作はタイトルそのままに映画化され、主人公の剣崎比留子役は浜辺美波が務めるそうです。本作品が第2作になり、主人公というか、ワトソン役のストーリーテラーとホームズ役の謎解きに当たる探偵役は前作から共通しており、シリーズというか、前作の続編と考えるべきです。さらに、犯罪発生のシチュエーションも前作と同じで、ほぼほぼクローズド・サークルだったりします。超能力開発を目的とする斑目機関の謎に迫ろうと試みますが、一定の前進はあるものの、もちろん、解明には至りません。次回作に続きます。本作品では、デビュー作のようなゾンビ菌によるテロという非現実的な出来事ではなく、予言や予見といったオカルト的な要素はあるものの、あくまで現実の人間心理に基づく超常現象なしでの謎解きがなされます。そして、実に、論理的な犯人像の解明がなされますが、単独犯でなく協力者の存在がカギとなります。そして、最後に謎解きの本質には関係しませんが、大きなどんでん返しがあります。これはよく考えられたプロットだと感心してしまいました。ただ、このどんでん返しがあってもなくても殺人犯の解明には関係しないのは、少し残念な気がします。ミステリの謎解き、特に、長編ミステリの場合、好みにもよりますが、私はタマネギの皮を剥くように、少しずつ着実に謎が解明されていくようなプロセスが好きなんですが、この作品では、「名探偵、みなを集めて『さて』といい」のようなカンジで、最後の最後に一気に謎が解明されます。それはそれで、好きなミステリファンもいそうな気がします。相変わらず、地名や人名の固有名詞にセンスないんですが、それはそれとして、私は続編も読みたい気がします。
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2019年07月13日 (土) 11:55:00

今週の読書はバルファキス教授の素晴らしい経済書をはじめとして計7冊!!!

このところ、経済書はやや失敗読書が続いていたんですが、今週は一昨日に取り上げた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』もよかったですし、バルファキス教授の話題の本もよかったです。ということで、今週も経済書をはじめとして、計7冊の読書でした。今日、読書感想文でまとめて取り上げるのは6冊ですが、ご寄贈いただいた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』を一昨日に取り上げており、これを勘定に入れて計7冊という意味です。なお、梅雨の中休みをついて、本日のうちに、すでに自転車で図書館をいくつか回っており、来週も数冊の読書になりそうです。

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まず、ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社) です。著者は、ギリシア出身の経済学の研究者にしてギリシアが債務危機に陥った際に政権を取った急進左派連合シリザのツィプラス政権で財務大臣に就任し、大胆な債務削減を主張しています。このブログの4月28日付けの読書感想文で取り上げたバルファキス『黒い匣』で詳細にレポされている通りです。本書も『黒い匣』以上に話題の書です。原書はギリシア語だそうですが、邦訳の底本となった英訳書の原題は Talking to My Daughter about the Economy であり、2013年の出版です。ということで、10代半ば、ハイスクールに通う娘にエコノミストの父親が経済について解説しています。ここで経済とは資本主義経済のことを指しています。ですから、まず、経済格差の解明のために経済史を振り返ります。すなわち、必要最低限の生産だったものが余剰が出ることにより、それを我が物にする階級が現れ、その根拠付けのために宗教などが動員されるわけです。明記はされていませんが、背景には生産力の増進があります。そして、この歴史の考えはマルクス主義的な唯物史観そのものです。その中で、産業革命がどうして英国で始まったのかについて、p.67で解説されています。3番目の観点は、いかにもノースらの制度学派的な見方で、私は目を引かれました。そして、産業経済から金融経済の勃興、さらに、産業経済の中でも製造業における機械化の進展、20世紀に入って世界恐慌からケインズ経済学による政府の経済への介入、最後は、ギリシア的にアリストテレスのエウダイモニアに行き着くんですが、その前に、すべてが商品化される資本主義経済に対して、著者は「すべてを民主化しろ」と叫びます。常々、このブログで私が主張しているところですが、資本主義経済と民主主義は矛盾します。民主主義は1人1票の制度ですが、資本主義経済では株主総会のような購買力による格差があります。この矛盾を背景に、著者は資本主義経済ではなく民主化の方向を志向します。この点はキチンと読み取るべきです。

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次に、飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所) です。著者は、明治大学の経済学の研究者であり、リフレ派に近いと私は認識しています。本書は、タイトル通りの内容を目指しているようなんですが、前半の「日本史に学ぶ」部分はともかく、タイトル後半の「マネーの論理」はどこまで迫れているのか、やや疑問です。本書の対象とする期間は、7世紀の律令制の時代、我が国では古典古代の時代から、19世紀の江戸期までで、近代は対象外となっています。そして、本書の冒頭は、白村江の戦いで倭が唐の水軍にボロ負けするところから始まり、唐に敗北した国家の再建、というか、国家とは広範囲における安定した統治の実現である、というところから貨幣の鋳造が志向された、と解説しています。まあ、本書のスコープからすればそうなんでしょうが、もちろん、貨幣鋳造以外にも、律令という名の法制度の整備、碁盤目状の街路を整備した首都、あるいは、宗教上のシンボルとしての大仏、などなど、少しは言及して欲しい気もします。そして、本書のスコープそのものであるマネーの論理、というか、貨幣論についても、かなりガサガサだというふうに私は受け止めました。貨幣とは、あくまで、他の人々も貨幣として受け取ってくれる、という同義反復的な定義が適用されるというのは、私もその通りだろうと思います。ただ、歴史を紐解いているわけですから、もう少し厳密に歴史に当たって欲しかったです。特に、史料の残っている江戸期については、私でも徳川幕府による三貨制の金貨・銀貨・銭だけでなく、いかにも封建的な領主による藩札の発行もあれば、堂島の米切手が貨幣と同じように、すなわち、みんなが貨幣として受け取ってくれるがゆえに貨幣の役割を果たしていた点も、中央政府の発行する貨幣でないから無視したのか、それともご存じないのか、私には判りかねますが、マネーの論理とともに、歴史についても、もう少し読み応えある展開が欲しかったです。決してブードゥー・エコノミクスではありませんし、右派的な経済論が展開されているわけでもないんですが、ピント外れというか、経済書にしてはとても物足りなかった読書でした。

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次に、リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(河出書房新社) です。著者はイングランドの歴史研究者です。本書の英語の原題は The Hungry Empire となっており、直訳すれば「腹ペコの帝国」とでもなるんでしょうか。2018年の出版です。ということで、大英帝国における食の探求と大英帝国の形成そのものの密接な関係について、グローバルな視点から歴史的に解き明かそうと試みています。4部20章の構成となっています。各章のタイトルが中身のトピックをかなり詳細に表現しています。大英帝国とは、明らかに、海の帝国であり、世界各地からいろんな食材と調理方法を本国に持ち帰ります。ただ、基本は食べる方ですので、カリブ海のラム酒なども垣間見えますが、お酒をはじめとする飲み物はメインではありません。大英帝国の本国は欧州の西端に位置する島国であり、産業革命を経て工業や商業、とりわけ金融業については世界をリードしていた時期が長かったわけですが、農業や食料生産については決して恵まれた条件にはなく、世界各地、特に北米植民地や大洋州のオーストラリア・ニュージーランドなどの農業生産に適した植民地からかなり大量に食料を輸入して食卓が出来上がっているわけです。また、帝国主義時代には戦争や軍事衝突も少なくなく、保存食の研究なども世界に先駆けて行われています。大英帝国の前のポルトガルやスペインなどによる大航海時代には、アジアの胡椒を入手するのが大きな目標だった時代もあるんですが、大英帝国では食そのものの通商が盛んになります。インドの紅茶にカリブ海やブラジルの砂糖を入れ、カナダやオーストラリアの小麦で作ったパンを食べる、といった大英帝国の食生活が徐々に確立していく段階を歴史的に跡付けています。ただ、必ずしも記述の順が一貫性なく、少なくとも編年体では構成されていません。ですから、場合によっては、章を進むと時代がさかのぼる、といったことも起こります。ただ、さすがに歴史から敷く、イングランドとイギリスの区別はちゃんとされています。ユーラシア大陸の反対側の東端に位置する島国の日本はほとんど登場しませんが、世界的な食生活の歴史がとても分かりやすく展開されています。グローバル化の進展の中で、EUを離脱しようとしている英国の栄光の時代の記録かもしれません。最後に、注を入れれば400ページを超えるボリュームで、とても面白い本ながら、読むにはそれなりの覚悟を要します。

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次に、北岡伸一『世界地図を読み直す』(新潮選書) です。著者は、長らく東大の政治学の研究者だった後、国連代表部大使を務め、現在では国際協力機構(JICA)の理事長職にあります。実は、私の高校の先輩で、その昔には東京の同窓会会長だったりもしたと記憶しています。本書は、新潮社の『フォーサイト』に連載されていたコラムを単行本に取りまとめています。副題は「協力と均衡の地政学」となっていて、確かに地政学的な考察も盛り込まれていますが、まあ、基本はJICA理事長として訪問した世界各国の紀行文に近いと私は受け止めています。ですから、悪くいえば、世界各国の実情について国際協力の供与サイドから「四角い部屋を丸く掃く」ような紀行文と考えるべきです。しかも、国際協力=ODA実施機関の理事長の訪問先ですので、ほぼほぼすべてが途上国となっていて、欧米をはじめとする先進国は取り上げられていませんし、中国も対象外となっているのかもしれませんから、やや世界地図や地政学を銘打つにしては対象が狭い印象があります。ということで、著者の視線としては3つのポイントを据え、すなわち、第1に、先進国や中国が抜けているにもかかわらず、地政学の観点からのアプローチを取ろうと試みています。この点は、私は専門外ながらハッキリいって、失敗しているよな気がします。これは取り上げている国に偏りがあるからで、先進国や中国に加えて、アジアでもASEAN創設時のオリジナル加盟国5か国がスッポリと抜け落ちています。第2に、日本とのかかわりの中で途上国をとらえようと試みています。この点はまあいいんではないでしょうか。ただ、JICAの前身が海外移住事業団でしたから、ブラジルなどはしょうがないんでしょうが、やや現地移住者からの情報に偏りがあるような気がしないでもありません。かなりさかのぼって、歴史的に我が国との関係を把握しているのは心強い限りです。最後に第3に、著者のJICA理事長職としての機能的あるいは権能的な部分だけでなく、研究者や国連大使経験者としての幅広い観点からの人脈が生かされているように見えます。この点はさすがであると受け止めています。JICA理事長には、かつての緒方貞子