2023年01月25日 (水) 15:00:00
伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)を生協の書店に注文する
今日は雪が融けずにキャンパうには近づけなかったのですが、今週に入って、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)を生協の書店に注文しました。先週末の朝日新聞の書評欄で紹介されていました。出版社の宣伝文句によれば、ドイツ語原文があるので語学学習も出来る、という方はそれほど評価しなかったのですが、図版資料約200点の方は大いに気に入りました。研究費というわけにもいかないので、私費での購入です。
旧ソ連や東欧の共産主義諸国が雪崩を打って崩壊した1989年から1990年代前半といえば、我が国ではバブル経済が爛熟し、さらにバブルが崩壊し、その後の景気後退期で、私の勤務していた役所でも経済対策の策定などで大忙し、加えて、1993年の冷夏長雨でコメが不作になって輸入米をみんなで食べる、といった時期だったのを記憶している40~50歳以上の人も少なくないと思います。実は、同じころ、私は南米はチリの日本大使館で優雅な外交官生活を送っており、旧ソ連や東欧の共産主義体制に関するジョークはいくつか聞き及んでいます。例えば、チリのタクシーの多くは旧ソ連製のラダだったので、ラダに置き換えられていたのですが、もともとは、上の本書の表紙画像にある旧東ドイツ製の自動車であるトラバントに関するジョークで、以下のような趣旨の小ネタがありました。
- ロバ:
- こんにちは、自動車くん。
- トラバント:
- こんにちは、ロバくん。
- ロバ:
- おいおい、私は君のことを「自動車」って格上げして呼んでるんだよ。君も私のことを「ウマ」くらいにお世辞をいえないものかね?
まあ、旧ソ連製のラダにせよ、旧東ドイツ製のトラバントにせよ、ロバがウマでないのと同じように、自動車かどうか怪しい、というジョークです。このジョークが収録されているのかどうか、未読の段階ですので不明ですが、表紙画像にトラバントが入っていますので、少なくとも、トラバントに関するジョークは豊富に含まれていそうな気がします。
本書は、来週には入手できるのではないかと期待しています。そのうちに、読書感想文をポストしたいと思います。未読ですので「読書感想文のブログ」に分類するのは心苦しく、「海外生活の思い出のブログ」に分類しておきます。
2022年06月28日 (火) 11:00:00
日本の道路はスピードが出せないのか?
上の Maszoro and Soto (2022) で開発された手法に基づいて、この pp7-9 で Table 2. Mean Speed Scores by Country が推計されており、それに基づく世界地図となっています。それほど熱心にペーパーを読んだわけではありませんが、道路渋滞がひどいとスピードを出せずにスコアが悪くなることになっています。ちなみに、日本のスコアは81です。韓国の93や中国の90を下回り、トップの米国の107にはるかに及びません。私が海外生活を送って自動車の運転をした経験があるのは、チリ92とインドネシア55という、上の地図でもほぼほぼ両極端な2国なのですが、もう30年とか20年も前のことながら、実に、私の実感によく合致しています。当然ながら、チリではスイスイと渋滞なく運転できましたし、インドネシアのジャカルタでは、平日は勤務先の役所の運転手さんに送迎してもらっていたのですが、朝夕の通勤時は渋滞がひどかったです。でも、日曜日なんかに私が運転して家族で出かける際にはさすがにそれほどの渋滞ではありませんでした。
国内では私はもう何十年も自動車は持っておらず、自転車しか乗っていません。それも、夏休みや春休みの休暇期間中の大学への通勤を別にすれば、ほとんどが週末乗っているだけです。引越す前の東京都内では自動車の数が多かったのか、それほど道路にスピード感はなくて、ほぼほぼ路線バスに匹敵するくらいのスピードで自転車に乗っていた記憶があります。でも、東京から関西に引越した今となっては、私の自転車はスピードの点で路線バスにまったくかないません。琵琶湖周辺では道路が空いているのか、はたまた、私が年齢とともに運動能力を落としたのか、そのあたりは不明です。
国際機関であるIMFの情報を取り上げましたが、久しぶりに「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2021年11月23日 (火) 13:00:00
チリ大統領選挙の決選投票の行方やいかに?
ワクチン接種が進んでいて、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大はかなり下火のようですが、成長率はそこそこ高い一方で、南米特有のインフレ体質の経済もあって、国際商品市況における石油価格高騰の影響を受けて物価上昇率が高まっています。上のグラフは第一生命経済研のリポート「チリ大統領選、右派と左派の両名による決選投票へ」から引用しています。
もうあまりコンタクトはありませんが、3年余りを過ごして、いい思い出がいっぱいある国です。10年前の2010年にチリが経済開発協力機構(OECD)に加盟した際には、当時のアレジャーノ蔵相が会議に出席していたようですが、30年前に私がチリ大使館に勤務していたころは大蔵省の予算局長をしていました。私も何度かあった記憶があります。それだけに、決選投票が少し気にかかるところです。
2020年06月22日 (月) 16:01:36
第一生命経済研のリポート「インドネシア: 中銀は『財政ファイナンス』を厭わず政策運営はギャンブルの様相」やいかに?
リポートから図1 新型肺炎の新規感染者数と死亡者数(累計)の推移 を引用すると上の通りです。先週木曜日に取り上げたチリと同じように、赤い折れ線グラフの死亡者数は累計ですので右肩上がりなのは当然としても、感染者数も一向に終息しそうな気配すら見られません。従って、我が家が3年間滞在した首都ジャカルタでは非常事態宣言を発令して移動制限や娯楽施設の閉鎖、公共交通機関の利用制限及び罰則付きの行動制限措置などロックダウンに加えて、ラマダン明けの帰省や国内外への旅行が禁止されるなど、国内外を対象に移動制限を課す措置が実施されました。今年のラマダンは4月下旬から5月23日の日没で明けたんではないかと記憶しています。
しかし、上のグラフに見られるように、5月下旬から6月上旬に感染者数の増加ペースが落ちたのを捉えて、6月初めから行動制限措置が一部緩和されたほか、中旬にはショッピングモールの営業が再開されるなど、経済活動の正常化を始めてしまい、移動の活発化を受けて足下の感染者数の拡大ペースはむしろ加速してしまったとのことです。その上で、リポートのタイトルにあるように、中銀が大幅な金融緩和策を取っているんですが、このあたりの評価は私とリポートではかなり異なるので、論評は控えておきます。
2020年06月18日 (木) 17:00:00
新型コロナウィルス感染症(COVID-19)になすすべなしのチリはどうなるのか?
長らく、チリ経済についても注目されてこなかったのですが、一昨日の6月16日第一生命経済研から「チリ: 感染『第2波』直撃もなす術なし、事態収束の見通しはみえず」と題するリポートが出ていることを知りました。すなわち、昨年10月の地下鉄料金引上げをきっかけとした反政府デモが激化し、11月のAPEC首脳会議の開催が放棄された、ところまでは知っていましたが、加えて、12月のCOP25も開催できず、国際的な信認を失墜していた上に、さらにさらにで、世界を覆った新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の抑え込みにも失敗し、リポートでは、「中南米で政治の流動化が懸念される上、チリがその発火点となる可能性にも注意が必要である。」とすら指摘されています。
チリでは3月にCOVID-19感染者が確認され、政府は感染封じ込めに向けて国境封鎖のほか市民の移動制限を実施した結果、4月下旬にはピニェラ大統領が「感染拡大のピークは過ぎた」と発言して外出制限の解除に踏み切ったんですが、外出制限が解除されたことで5月から感染者数が急拡大したため、再び5月中旬に首都サンティアゴなどを対象に強制的な外出制限を課す事実上のロックダウン措置を取ったものの、その後も感染拡大が収まっていません。上のグラフの引用元である第一生命経済研のリポートでは、タイトルでもそうなっていて、「第2波」と考えているようですが、私のようなシロートが上のグラフを見る限り、そもそも第1波も終わっていないのではないのか、とすら思えます。例えば、チリの累積の感染者数は約18万人と中南米地域ではブラジルの約89万人、ペルーの約23万人に次いで3番目となっていますが、ブラジルなんぞとは人口規模がケタ違いですから、人口対比では突出しています。
しかも、本格的な夏に向かう我が国などの北半球と違って、チリなどの南半球はこれから気温が下がって冬に向かい、まあ、日本でいえばインフルエンザが流行したりするシーズンに入るわけです。私が滞在したのは30年近く前のことですが、50年前の1970年9月の大統領選挙ではアジェンデ大統領が当選し政権に就いた歴史を考えれば、今年は50周年に当たります。果たして、チリはどこに向かうのでしょうか?
2019年08月18日 (日) 14:10:00
アジア開発銀行による気候変動と災害のインフォグラフィックス!
ということで、アジア開発銀行(ADB)から、アジア太平洋地域における気候変動と災害 Climate Change and Disasters in Asia and the Pacific と題するインフォグラフィックスが明らかにされていて、以下の引用のような解説が加えられています。
Climate change and disasters threaten the long-term sustainability of development in Asia and the Pacific. The region has experienced a significant increase in the number, intensity, and impact of extreme weather events such as tropical cyclones, floods, droughts, and heat waves. Geophysical hazards, including earthquakes and tsunamis, have also caused significant loss of lives and economic damage.
日本や韓国を除いたアジア新興国・途上国は、一般に緯度が低く、それだけに気温が高くて暑さが厳しいのは容易に想像されるところであろうと思います。引用した解説にも、サイクロンや洪水、干ばつといった災害と並べて、「熱波」heat waves という表現があり、20年近く前まで一家でインドネシアの首都ジャカルタにいた時のことを思い出してしまいました。ちょうど今ごろ、7~8月は「草木も枯れる」といわれたジャカルタの乾季の中でも、暑さのピークだったような記憶があります。でも、我が家がいたころには、ジャカルタで35度を超える日はほとんどなかったんではないかと思います。
どうでもいいことながら、久し振りに、海外生活の思い出のブログに分類しておきます。
2017年04月02日 (日) 11:03:00
チリからのワイン輸出の大半は我が国へ!
金曜日の3月31日付けのチリの首都サンティアゴで発行されている高級日刊紙 El Mercurio で、今年1-2月のスパークリング・ワイン輸出の記事が出ていました。上のグラフは El Mercurio のサイトから引用しています。"vinos spumantes" ですから、いわゆるスパークリング・ワインです。そして、記事では今年のスパークリング・ワイン輸出は+30%増が見込める、という気に早い予想で、上のグラフはスパークリング・ワインだけですが、スパークリングでないものも含めて、チリからのワイン輸出の大きな部分は日本向けです。私が在チリ日本大使館に勤務していたのは、25年ほど前の1990年代の前半ですが、そのころはチリ・ワインの日本向け輸出がようやく始まったばかりでした。今年は日本の景気も回復基調にあり、チリからのワイン輸入も増加するのかもしれません。私は50代後半の最近になって少し酒を飲むようになり、チリ・ワインも楽しんでいます。
2015年02月02日 (月) 19:33:00
チリのカトリック教徒はフランシスコ法王をどのように見ているか?

まず、上のグラフはピュー・リサーチのサイトから引用していますが、フランシスコ法王は世界から概して好意的に受け止められているようです。もちろん、好意にも濃淡はあり、カトリックに限らずクリスチャンが多い欧米からはより好意的な見方が示される一方で、中東では見方が拮抗しています。宗教的な人口構成が違うんですから、この程度の差は当然に生じ得ると考えるべきです。

次に、上のグラフはピュー・リサーチのサイトから引用していますが、今度の結果は地域別ではなく国別にカトリック教徒と非カトリック教徒に分けて結果が示されています。当然ながら、どの国でもカトリック教徒からはより好意的に、非カトリック教徒からはそれほど好意的ではなく見られている法王ですが、その差が大きい順にソートしてあります。私が着目したのは、一番左の列で、カトリック教徒の間でのフランシスコ法王の見方であり、好意比率が80%を下回っているのはチリとガーナだけだったりします。法王の出身国であるチリの隣国アルゼンティンではこの表の中で最高スコアの98%をたたき出しているんですが、その隣国のチリではガーナに次いで低い比率を示しています。長らくチリに外交官として暮らした経験から、もちろん、長大な国境線を有する両国では国境紛争も絶えませんし、チリ人の隣国アルゼンティンに対する何らかのコンプレックスというか、必ずしも友好的でない感情が、ここに出てしまっているのではないか、と感じずにはいられません。
島国の日本ではなかなか想像しがたく、長い国境をもって接する大国でしか見られないとは思いますが、とても興味深い近隣国への感情だという気がします。
2015年01月28日 (水) 19:29:00
博報堂「アジア14都市における和食・日本酒・緑茶の浸透度 (経験度)」にみる和食の経験度やいかに?
アジア14都市における和食・日本酒・緑茶の浸透度 (経験度)
- 食べたことがある和食は寿司がダントツ1位。次いで高いのはラーメンと天ぷら。
和食経験は台北、香港、ソウルが突出。次いで高いのはシンガポールとメトロマニラ。- 日本酒経験はアジア12都市計12.5%にとどまるものの、香港とソウルは40%前後。
- 緑茶の飲用経験は、アジア14都市計で52.2%。
台北、香港、中国3都市、ソウルは70%以上。バンコクとシンガポールは60%強。
と言うことで、今夜のエントリーではこの博報堂の調査結果と全文リポートのpdfファイルから図表を引用しつつ、簡単に紹介したいと思います。

まず、上のグラフはアジア14都市における食べたことのある和食に対する回答結果です。寿司が群を抜いてトップになっていますが、12月19日付けのエントリーで取り上げたホットペッパーの調査結果と整合的に、ラーメンが2位に食い込んでいます。また、12月19日付けのエントリーでは11位に焼きうどんが入っていたんですが、博報堂の調査結果ではうどんが堂々の4位となっています。なぜか、カレーライスは入っていません。選択肢に入れ忘れたのかもしれないと勘ぐったりしています。都市別に見ると、食べたことのある和食メニューの合計値で、台北、香港、ソウルが突出しており、シンガポールとメトロマニラの東南アジア都市がこれに続いています。

次に、上のグラフは、最近3か月間に日本酒を飲んだことがあるかどうかとの問いの結果です。アジアからは12都市にとどまっており、宗教上の理由からジャカルタとクアラルンプールは除かれています。また、シンガポールの一部も入っていません。イスラム教は飲酒を禁じているからです。1位香港、2位ソウル、3位台北は和食の経験度でもトップスリーでしたから、日本の食文化を広く取り込んでいるのかもしれないと受け止めています。

最後のグラフは、最近1年間の緑茶の飲用経験を問うた結果です。なぜか、日本酒が最近3か月で、緑茶が1年なんですが、この期間の設定は私にはよく理解できません。それはともかく、緑茶については中国系の都市が上位を占めています。これは分かる気がします。アジアの都市ではないんですが、ニューヨークとサンパウロに着目すると、日本酒ではサンパウロのほうが経験度が高かったんですが、日本酒ではニューヨークが逆転して3人に1人とかなり割合が高くなっています。最近の流行だったりするんでしょうか?
1月20日に政府観光庁から発表された「訪日外国人消費動向調査」によれば、2014年における1人当たり訪日外国人旅行消費額は前年比+10.7%増の15万1,374円、また、その総額は前年比+43.3%増の2兆305億円と推計され、どちらも過去最高額と推計されています。私は日本が世界に誇る文化はアニメであり、すなわち、ドラえもん、ポケモン、ガンダム、ジブリ作品だと長らく思っていたんですが、日本の食文化もアジアや世界の売れ筋なのかも知れません。あんまり関係ありませんが、久し振りに「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2014年10月17日 (金) 19:22:00
JETRO から Santiago Style が発行される!
私が住んでいたころのサンティアゴはホントに田舎町そのもので、1991年3月の赴任時に空港から大使館に移動する際、高速道路の側道をのんびりと馬車が通っており少し驚きましたし、3年間の赴任の最後の1994年にサンティアゴで3軒目のマクドナルドが自宅の近くにオープンして大いに感激した記憶があります。東京に帰任すると、マクドナルドなんて駅ごとにあって何の有り難味もありませんでしたが、サンティアゴではクリスマスなどでいっせいにお店が閉まる時期が年に何回かありながら、マクドナルドだけはほぼ常に開店してくれていて、私のような独身者の食事にとても有り難かったのを思い出します。
久し振りに「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2014年02月08日 (土) 19:48:00
東京では、というか、全国的に大雪!
私の海外生活は、公式には、南米チリの首都サンティアゴで大使館勤務の経済アタッシェとインドネシアの首都ジャカルタでの開発援助で国家開発庁での計量モデルの経済協力、ということになっていて、サンティアゴは南緯を北緯に引き直せば、ほぼ福岡並みということで、雪はほとんど降りませんでしたし、ジャカルタは南緯7度ですから赤道直下の熱帯です。もちろん、雪は降りません。ただし、短期間で海外勤務にはカウントしていないながら、バブル真っ最中の1989年の冬は2か月ほど米国の首都ワシントンで連邦準備制度理事会 (FED) のリサーチ・アシスタントをして、やっぱり、計量モデルをオペレーションしていた経験があります。
さすがに、2月の米国東海岸は寒かったです。私は毎日のようにABCのニュースと天気予報を見ていたんですが、華氏を摂氏に換算すれば、最高気温が0度に届かず、すなわち、1日中氷点下で、最低気温はマイナス20度近くある日もめずらしくありませんでした。ウィスコンシン通りから少し入ったジョージ・タウンに住んで、ウィスコンシン通りの先にあるメリーランド州のフレンドシップ・ハイツとワシントン市内のダウンタウンを結ぶバスで FED に通勤していました。ウィスコンシン通りは北に向かって緩やかに上り坂になっている、というか、南のポトマック川に向かって下り坂になっているんですが、メチャメチャ寒くて路面が凍結した朝に、まったくコントロールの効かない自動車がゆっくりと回転しながら南に滑って行くという恐ろしい場面も見たりしました。たぶん、人生で最大に寒かった日のうちのひとつの体験だったのかもしれないという気がします。また、私は手が小さいので手袋を重ねてはめていたことを覚えています。手袋なしでの外出は考えられませんでした。なお、寒い冬の気候とは何の関係もないんですが、ちょうど私がワシントン勤務をしているころ、官庁街のフォギー・ボトム近くにタワー・レコードが出来て、リサーチ・アシスタント仲間で繰り出した記憶があります。
どうでもいいことながら、とても久し振りに、「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2013年03月14日 (木) 22:19:00
カトリックの新法王は初めてラテンアメリカからアルゼンティン人のフランシスコ1世がコンクラーベで選出される
新法王はフランシスコ1世
新しいローマ法王を選ぶ選挙、コンクラーベでは、日本時間14日午前3時過ぎに法王が選出されたことを示す白い煙が上がり、アルゼンチン出身のホルヘ・ベルゴリオ枢機卿が第266代のローマ法王に選ばれ、フランシスコ1世と名乗ることになりました。
新しい法王に選ばれたフランシスコ1世は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス出身の76歳。中南米出身の法王が誕生するのは、バチカン史上初めてです。
フランシスコ1世は、1997年にブエノスアイレスの大司教に就任したあと、2001年に2代前のヨハネ・パウロ2世から枢機卿に任命されました。
フランシスコ1世は、日本時間午前4時半ごろ、バチカンのサンピエトロ大聖堂のバルコニーに姿を見せ、集まった数万人の人々を前に手を振ったあと、「世界全体の友情と愛と信頼のために祈りをささげ、実りある旅を続けることができることを期待したいと思います」と述べました。
日本時間13日未明に始まった今回のコンクラーベは、開始から2日目に新しい法王が選出される結果となりました。
私は南米の大使館に経済アタッシェとして3年間勤務した経験があります。その間、宗教的な儀式の一例として、葬式にも結婚式にも出席した記憶があります。すべてカトリック様式でした。ちなみに、ジャカルタに駐在していた際にはイスラム教の結婚式に招待されたことがあります。それはさて置き、中南米のカトリック事情を明らかにする画像を Pew Research Center から2枚ほど引用しておきたいと思います。まず、Geography of the Conclave: Where Do the Cardinals Come From? と題する記事の画像は以下の通りです。欧州に比べてラテンアメリカは信者数と枢機卿のバランスが偏っていることが読み取れます。

次に、Conclave Elects Pope Francis と題する記事の画像は以下の通りです。特に、フランシスコ1世の出身地であるアルゼンティンに焦点を当てています。

ラテンアメリカからの法王選出となれば、何といっても、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が思い出されます。我々は歴史的な瞬間に立ち会ったのかもしれません。やや無理やりに、「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2011年01月07日 (金) 19:53:00
スターバックスのロゴ変更からサンティアゴのカフェを思い出す

一部のメディアに報じられていましたが、スターバックスのロゴが変更されるそうです。ロゴ変遷の歴史は上の画像の通りです。スターバックスのサイトから引用しています。1971年の創業以来のロゴの移り変わりを示しています。なお、理由は知りませんが、スターバックスの日本法人のサイトにはこのロゴに関する情報がなく、米国のサイトから画像を引用しています。
実は、私はかなり前からコーヒーは原則として飲みません。「原則として」というのは、例えば、訪問先で出されたりすると飲まなくもない、という程度で、少なくとも喫茶店やスターバックスのようなカフェに自分の意思で入って、自分の財布からお金を出してコーヒーを飲むことはしません。それでも、スターバックスは利用します。例えば、昨年暮れに30年来の付き合いのある京都大学同窓の友人と渋谷のマークシティにあるスターバックスで待合わせしたりしています。では、何を飲むのかというと、最近は抹茶ティーラテを頼んでいます。サイズはグランデが多いような気がします。
このスタバのロゴに関して思い出したことがあります。単に「カフェ」という言葉に反応しただけなんですが、1990年代前半に私が外交官をしていたサンティアゴのカフェです。3年ほど前にもAFPのサイトで「チリの首都で『脚のカフェ』、男性の間で人気急増」と報じられたこともありますが、私がいたころから、ボディコン・ミニスカのウェイトレスがアテンドしてくれるカフェがサンティアゴのダウンタウンにいくつかありました。私がサンティアゴに赴任したのは我が国のバブル崩壊直後ですから、バブル期のディスコなんぞをある程度は知っており特に驚きもなく、日本人の感覚からすれば現地ではランチタイムがとっても長かったので、ランチの後に立ち寄ったこともあります。ここでもコーヒーではなく、ミルクティーを頼んでいたと記憶しています。20年前に比べてすっかり地味になった現在の我が国から考えれば、少し過激だと思わないでもありません。なお、どうでもいいことですが、当時のサンティアゴでコーヒーを頼めばインスタントのネスカフェが出て来るのがデフォルトでした。カフェだけでなく、大使館でもそうだったんだろうと思います。もっとも、私は大使館でコーヒーを頼んだことはありません。
スターバックスからサンティアゴのカフェに連想が飛んでしまいました。3連休前の金曜日の夜にふさわしいテーマだったと勝手に自負しています。もちろん、久し振りに「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2010年10月15日 (金) 19:56:00
落盤事故からの救出に見られるチリ人の国民性やいかに?
冷静沈着、まじめ、団結…チリ人の国民性、救出劇に見た
地下約700メートルに閉じこめられた作業員33人を約22時間半で救出したチリ。当初の想定より2カ月も早い迅速な救出活動は世界を驚かせた。なぜ成功できたのだろう。
元駐チリ大使で日本チリー協会副会長の小川元(はじめ)・文化女子大教授は救出開始直後、地球の反対側に住む友人たちに祝福のメールを送った。
現地は深夜にもかかわらず、「ありがとう」とすぐに返信があった。「全国民が自分のことのように見守っている」と実感した。「チリ国民は冷静沈着な面がある。この冷静さが33人の一糸乱れぬ団結につながったのだろう」
チリに10年以上住んでいた国際協力機構研究所・上席研究員の細野昭雄さん(70)によると、チリ人は約束や時間を守る気質から「中南米の英国人」と表現されるという。
計画を準備周到に進めるまじめさも特徴で、南米で働く日本人のビジネスマンは、チリについて「仕事がやりやすい」「忍耐力があり持続的な結束力がある」と評価することが多いという。今回の救出劇を、細野さんは「合理的、組織的で、まさにチリ人の良さが発揮された」と評価する。
「国内外から注目され、大統領にとっても、絶対に失敗できない作戦だったでしょう」と話すのは、東京出身でサンティアゴ在住の商社員、佐藤剛志さん(45)。長年、首都の日本料理店で板前を務め、地元の人と接してきた。
チリは約17年間に及ぶピノチェト軍政の後も、左右両派の対立が長く続いた。中道右派のピニェラ大統領は、テレビ局オーナーなどとして知られた大富豪。有能なビジネスマンと評価される一方で、貧しい人や左派からは「エリートの大金持ち」の批判を浴びがちな存在だ。その大統領がヘルメットをかぶり、地上に戻った貧しい作業員と抱き合った。佐藤さんは「幅広い支持を得ようと、救出に全力を傾ける姿勢を見せていました」と話した。
全国紙の扱いも大きいんですが、さすがに、私の知った名前、知り合いも取材を受けているんだということが実感できました。チリに駐在していた時、私はまだ独身でまったく料理はしませんので、板前姿の佐藤さんのすぐ前のカウンターで楽しくおしゃべりしながら、ほぼ毎晩のように夕食をとっていたことを思い出します。いつの間にか商社員にご転進のようです。細野教授は長らく筑波大学でラテンアメリカ研究に携わっていらして、奥様がチリのご出身だったように記憶しています。私が外交官をしていた当時には、細野教授を指導教員と仰ぐ大学院生が専門調査員として大使館に派遣されていました。
その細野教授の見立てにある通り、チリ人は英国人的な気質を有しています。それは移民の出身によるといわれています。すなわち、俗説ながら、南米で長い国境を接するチリとアルゼンティンはともにメキシコのように混血の形ですら現地のインディオがほとんど残っておらず、逆にいえばインディオは死滅した歴史があり、欧州からの移民の8割はスペイン人である点までは同じですが、残りの2割について、チリは主として英国人に少しフランス人が来たのに対して、アルゼンティンは多くがイタリア人であったといわれています。統計的な根拠は示せないんですが、例えば、私がサンティアゴに駐在した当時の大統領はピノチェット将軍から民政移管された直後のエイルウィン氏でしたし、その内閣の財務大臣はフォクスレイ氏で、名前から判断するに2人とも英国系の移民の末裔でしょう。ついでながら、ピノチェット将軍はフランス系です。他方、私がチリにいた当時に絶大な人気を誇ったアルゼンティンのテニスプレーヤーはサバティーニ選手でした。全米オープンを1990年に制した直後だった記憶があります。私も彼女のマネをしてタッキーニのウェアを買ったりしました。いずれもイタリア系の姓です。また、「母をたずねて三千里」のマルコはジェノバから母の出稼ぎ先であるブエノス・アイレスに旅をします。最近では、サッカーのアルゼンティン代表メッシ選手は明らかにイタリア系です。
移民の出身に基づく先天的に英国人的な国民性に加え、気候や自然条件が南米の中ではそれなりに厳しいことが、後天的にチリ人の気質にも影響を及ぼしています。南米の中の相対的な話ながら、気候が厳しく自然条件に恵まれないため、チリ人はそれなりに勤勉である必要があります。地図を見れば分かりますが、チリは北が砂漠、南が南極、東がアンデス山脈、西が太平洋となっていて、隔絶された島国に近い地理を示しています。赤道直下の熱帯も含めて温暖なブラジルと違って、サンティアゴ以南では薄着で路上生活をすれば凍死する恐れがありますし、アルゼンティンに広がる肥沃なパンパのように、小麦や牧畜に適した平野も少なく、それなりに勤勉でなければ生活に困ってしまいます。
さらに、国民性だけでなく、やや経済的なアプローチも加えると、事故が起き救出が実行されたのが鉱山であるという観点も考えに入れる必要があります。というのは、チリの主要輸出品のひとつは銅のインゴットであり、私が駐在していた1990年代前半では輸出の半分近くを占めていました。銅の他にも鉱物資源は豊富で、鉱山はメインストリームの職場のひとつといえます。現在の日本で自動車工場や電機工場に勤めるのと同じです。国営銅公社をはじめとする鉱山会社への就職を希望する優秀な大学生は少なくありませんし、鉱山の現場には指導力あふれるリーダーもいれば、規律正しく勤勉な労働者もいっぱいいます。
いくつかの偶然と必然が重なった落盤事故からの救出劇だったと感じていますが、私がチリから帰国して約15年、ほとんど話題になることのない南米の国にスポットライトが当たって、やや誇張された部分は少なくないものの、日本人の中にもそれなりに親しみを感じる人が増えたんではないかと私なりに喜んでいます。
2010年07月02日 (金) 19:12:00
ワールドカップ決勝トーナメント1回戦で負けても前向きに考える南米気質

Sudamérica hace su mejor mundial a costa de Europa
Sólo faltó Chile. La Roja, eliminada por Brasil en octavos de final, es el único equipo de Sudamérica que no ingresó a la ronda de los ocho mejores del torneo. Pero de todos modos, el subcontinente celebra: nunca antes en la historia había tenido cuatro representantes en esta fase.
Además del Scratch, Argentina, Uruguay y Paraguay alcanzaron los cuartos de final, y tienen la posibilidad de lograr unas inéditas semifinales compuestas solamente por equipos de la zona.
El récord anterior era de tres equipos, con dos formatos de torneo distintos: en 1970 Uruguay, Brasil y Perú llegaron a cuartos de final, mientras que en 1978 Argentina, Brasil y Perú se instalaron en la segunda fase, que se disputaba con dos grupos de cuatro equipos.
Y mientras Sudamérica celebra su mejor rendimiento histórico, Europa se lamenta por su peor torneo: los tres clasificados (Holanda, Alemania y España) son el número más bajo en esta instancia. Antes sólo habían tenido cuatro representantes en México 1970 (Italia, Alemania Federal, Inglaterra y Unión Soviética) y en Japón-Corea del Sur 2002 (Alemania, Turquía, Inglaterra y España).
"Estaban las condiciones para que esto pasara. Lo que hemos hecho es importante, ya que nos ha prestigiado, y espero que se tenga en cuenta a la hora de establecer los cupos para el próximo Mundial y de cara a las eliminatorias," indicó el DT de Uruguay, Óscar Washington Tabárez.
"Tenemos muy buenos equipos, más allá del potencial de Brasil y Argentina, puesto que jugamos en altura, con frío, con calor, con viajes largos. Es una clasificación muy comprometida," complementó Diego Forlán.
"El mejor premio para Sudamérica es saber que lo que nosotros les damos son grandísimos jugadores a todos los clubes del mundo," apuntó Diego Maradona, mientras que Carlos Alberto Parreira sostuvo que la región "una vez más muestra la fortaleza de su fútbol."
Pese a ello, la Conmebol igual tendrá que dar lucha para mantener los 4,5 cupos para el Mundial de 2014. De hecho, ayer Joseph Blatter descartó que se aumenten las plazas para la zona: "Sólo son diez federaciones," justificó. ¿Y quitarle lugares? "El debate ya comenzó entre bastidores, pero dejen que termine este torneo," dijo el presidente de la FIFA, dejando la duda en el aire.
要するに、ワールドカップで8強に進んだうち、4チームが南米で、欧州は3チームだから、ワールドカップの歴史上初めて南米は欧州を上回ったことを誇らしげに記事にしているわけです。最初に書いた通り、チリは決勝トーナメント1回戦でブラジルに負けて8強には入れず、しかも、南米チームの中では唯一の1回戦敗退チームだと記事にも書いているんですが、そう言いつつも、チリ自身の勝敗は忘れて、南米で一括して自慢しているわけです。もちろん、中南米諸国はブラジルを大きな例外として、その他の小さい例外もあるものの、スペイン領であった歴史と言語を共有し、地域として文化として大きなまとまりがあります。このあたりはアジアやアフリカと明らかに異なっています。
こういった超前向きな思考が南米特有の生活の明るさと、同時に経済の停滞をもたらしている、と私は外交官らしくもなく堂々とサンティアゴにある Universidad Central のセミナーで別の例を引いて発言し、押し殺した笑いを誘ったことを記憶しています。能天気な対応に何度となく仕事上で悩まされたことを思い出します。日本人的な反省は何ら見られないんですが、何事もポジティブに考える能力は素晴らしいと感じたことは確かです。持って生まれたものかもしれません。3年余り生活しましたが、私にはマネ出来ません。
週末前の軽い話題として、日本と同じように決勝トーナメント1回戦で敗退したチリの新聞記事を取り上げてみました。久し振りに「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2010年01月20日 (水) 20:09:00
チリでも政権交代

やや旧聞に属することで、これも、私がセンター試験の監督に気を奪われている間の虚を突いて、でもないんでしょうが、チリで大統領選挙の決選投票が実施されました。昨年の段階では過半数を制する候補がなく、中道右派「チリのための同盟」 (Alianza por Chile)のセバスティアン・ピニェーラ (Sebastián Piñra) 候補が、元大統領である中道左派「コンセルタシオン」 (Concertación) のエドゥアルド・フレイ (Eduardo Frei) 候補を抑えて次期大統領に選出されました。まず、地元紙の El Mercurio のサイトから記事を最初の3パラだけ引用すると以下の通りです。なお、数字については、スペイン語圏ではコンマとピリオドが日本とは逆ですのでご注意ください。
Con poco más de tres puntos porcentuales de ventaja respecto del candidato oficialista, Eduardo Frei, el abanderado de la Coalición por el Cambio, Sebastián Piñera, se impuso en la segunda vuelta de la elección presidencial.
A las 19:40 horas, y cuando ya el senador DC había reconocido su derrota, el subsecretario del Interior, Patricio Rosende, entregó los resultados del segundo cómputo con el 99,2% de las mesas escrutadas, equivalentes a 6.903.358 votos.
Piñera se impuso en el primer lugar de la votación con el 51,61% de los sufragios, lo que representa 3.563.050 votos, una votación histórica para su sector, que en el año 2000, con Joaquín Lavín logró 3.495.569.
チリでは、世界で初めて選挙で選ばれた社会主義政権だった当時のアジェンデ大統領をクーデタで追い落とした悪名高き独裁者のピノチェット将軍から1990年に民政移管され、民政移管後初代となるエイルウィン元大統領、今回も立候補したフレイ元大統領、ラゴス前大統領、現在のバチェレ大統領と4代にわたってコンセルタシオンの中道左派が政権の座にあったんですが、米国や日本に少し遅れてチリでも政権交代となりました。なお、どうでもいいことですが、私が在チリ大使館に勤務していたのは1990年代前半のエイルウィン元大統領からフレイ元大統領のころにかけてです。
一応、我が国のメディアの表記に従って、「中道右派」と「中道左派」とこのエントリーでも書きましたが、今どき、まともな国で極右や極左が大統領選挙に立候補して話題になるのはフランスくらいのもんですから、チリにおいてもいずれも「中道」が冠してあっても、私はかなり違いは大きいと受け止めています。専門外ながら政治的にはピノチェット将軍時代の政治に近いかどうかの差もありますし、経済政策的にも保守的な市場経済重視か社会民主主義的かの違いはあります。私がチリから帰国してから15年以上もたっていますので確かなことは分かりませんが、我が国の自民党と民主党の違いより大きそうな気がしないでもありません。
いずれにせよ、民主主義に基づく直接選挙で選ばれた政権ですから大統領のリーダーシップは強大です。ピニェーラ次期大統領の下で、チリがいかなる道を歩むのか、私も大いなる興味を持って見ています。
2010年01月18日 (月) 19:43:00
テキサスバーガーを食し、日本の豊かさを実感する

今日は基本的にマクドナルドの提灯記事です。お気に召さない向きはパスして下さい。
昨日のランチタイム、経済学部ではなく文教地区にある本学の本部キャンパスの近くのマクドナルドに行き、先週金曜日から期間限定で全国発売が始まっているテキサスバーガーを試しました。ややお値段は高めながら、ボリュームがあり満腹感が楽しめます。なお、テキサスバーガーはマクドナルドの Big America キャンペーンの第1弾で、上の写真を引用したマクドナルドのサイトによれば、以下の第4弾までが予定されているようです。いうまでもありませんが、上の写真はこの並び順になっています。
- テキサスバーガー
- ニューヨークバーガー
- カリフォルニアバーガー
- ハワイアンバーガー
私は全部試してみたい気がします。一部店舗では1週間早く1月8日から販売されていたようですが、やっぱりというか、長崎では通常通りの1月15日からでした。それにしても、15年以上も前の1990年代前半ながら、私が大使館勤務をしていたチリの首都サンティアゴでは、赴任当時に2店舗しかなかったマクドナルドが私の帰国間際に大使館近くに3店舗目が出来て、ある意味で、チリの経済発展を目の当たりにした感慨がありましたが、私が「貧しい」と言い切った長崎ですら軽く10店舗以上ありそうなので、日本の豊かさというものを実感します。
何となく「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2009年10月11日 (日) 19:27:00
村上春樹さんにノーベル文学賞を取ってほしいもうひとつの理由
さて、先週からノーベル賞の発表が始まり、明日の経済学賞で終わるんですが、いまだ何の具体的成果も上げていない米国のオバマ大統領に平和賞が授賞されたのには少しびっくりしました。そして、今年も村上春樹さんは文学賞を逃してしまいました。Frau Herta Müller の受賞にケチを付けるつもりは毛頭ありませんが、やっぱり、エンタテインメント性よりは社会性のある「大きな物語」の方が評価が高いのかと思わないでもありません。もちろん、日本語を母語とする作家の不利はあります。言うまでもなく、日本語を母語とすることは経済学賞よりも文学賞の方でより大きなハンディになります。ついでながら、Wikipedia のノーベル文学賞のサイトによれば、受賞者の創作言語は以下の通りだそうです。もちろん、今年の Frau Herta Müller まで含まれていて、『ゴドーを待ちながら』で有名なサミュエル・ベケットは英語と仏語の双方にカウントしてあるようです。
- 26人 - 英語
- 14人 - フランス語
- 13人 - ドイツ語
- 10人 - スペイン語
- 6人- イタリア語、スウェーデン語
- 5人 - ロシア語
- 4人 - ポーランド語
- 3人 - デンマーク語、ノルウェー語
- 2人 - 日本語、ギリシャ語
- 1人 - トルコ語、ハンガリー語、中国語、ポルトガル語、アラビア語、チェコ語、イディッシュ語、ヘブライ語、セルビア・クロアチア語、アイスランド語、フィンランド語、ベンガル語、プロヴァンス語
私が村上春樹さんにノーベル文学賞を取ってほしいのは、当然ながら、私自身がハルキストであり、村上作品が大好きであるからなんですが、もうひとつの理由があります。私は1990年代前半に在チリ大使館に勤務していたんですが、ようやく私が勤務を終えた後の1994年に大江健三郎さんが受賞するまで、当時、日本人のノーベル文学賞受賞者は川端康成さんただ1人で、他方、チリには1945年のガブリエラ・ミストラルと1971年のパブロ・ネルーダの2人のノーベル文学賞受賞者がいました。いずれも詩人なんですが、ミストラルは日本でいえば明治期の与謝野晶子に相当するような情熱的な女性詩人、ネルーダは1970年代初のアジェンデ政権を支える典型的な左翼文化人の代表、などと日本からの来訪者に説明していました。特に、これもノーベル文学賞受賞者であるガルシア・マルケスはネルーダのことを「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称しています。私もネルーダの家イスラ・ネグラを訪れたことがあります。ラテン・アメリカでネルーダはキューバのゲバラとともに左翼運動のヒーローです。
チリ人でノーベル賞を受賞したのはこの2人の文学賞だけで、日本と違って他の物理学賞や化学賞などの受賞者はいないんですが、日本人のノーベル文学賞受賞者が1人しかいないことに対し、チリは2人いることをさんざ自慢する知り合いがいて、悔しい思いをした記憶があります。すなわち、実用上の学問領域ではチリは確かに日本に後れを取っているかもしれないが、文学などの芸術面では日本に優っている、などと言われたものです。普通の感覚からすれば、そうでもないんでしょうが、南米チリという極めて日本人の少ない環境で、しかも、あらゆる意味で日本を代表する大使館の外交官として、チリへの対抗心とともに日本を背負っていた記憶があり、早く2人目のノーベル文学賞受賞者が出ないものかと考えていました。2人目の大江健三郎さんが受賞してから早くも15年が経過したんですから、そろそろ、村上さんへの授賞があってもおかしくないと感じています。
2009年05月07日 (木) 20:41:00
ゴールデンウィークに青山に帰って子供の成長を実感する
この休みに青山に帰宅して感じたのは子供の成長です。やっぱり、単身赴任して以前は毎日のように子供と接していた時と比べると、しばらく見ていない分、成長を大きく感じてしまいます。第1に、去年からそうなんですが、映画について、「クレヨンしんちゃん」から「名探偵コナン」を見たがるまで成長しました。第2に、ガンプラについて、おにいちゃんがHGからMGを作るまで成長しました。分かる人にしか分からないと思います。第3に、この休みにルービックキューブを買い与えたんですが、おにいちゃんは手引書を見ながらでしたら、ほぼ完璧に6面を完成することが出来てしまうまで成長しました。実は、私の大学時代に流行っていたんですが、私には出来ませんでした。第4に、おにいちゃんから下の子に目を転ずると、先日のこのブログでも取り上げましたが、去年は4枚落ちで麻布生に負けていたのが、今年は勝つことが出来るまで成長しました。もっとも、同じ相手ではありませんし、まぐれかもしれません。第5に、少し前からそうなんですが、2人とも本をよく読むようになるまで成長しました。私が帰宅した時、おにいちゃんは夏目漱石の『坊っちゃん』を読んでいて、中学生らしい本を読むようになったものだと感激してしまいました。
さらに加えて、私が実感したのは、家が狭くなったことです。ジャカルタに住んでいたころと比べているので、今夜のエントリーを「海外生活の思い出の日記」に分類したんですが、海外生活では広い家に住めるのも魅力で、我が家は250平米ほどの広い部屋を借りていました。私も役所の参事官を務めましたので、今の宿舎は比較的広い方と考えるべきなんでしょうが、それでも100平米くらいのものですから、大雑把に半分以下になったと私なんかは考えています。さらに、私と女房はともかく、子供達はジャカルタにいたころと比べて2倍くらいの体格に着実に成長しています。かけ合わせて考えると、子供達の目から見て、4-5倍というか、 20-25%くらいに、ジャカルタのころから狭くなっているんではないかと私は想像しています。ですから、子供達が幼かったせいもありますが、ジャカルタのころに家の中で何をして遊ぶかを考えれば、かけっこが出来るくらいの広さでしたし、親子でかくれんぼすら可能でした。我が家は通いのメイドさんでしたので、女中部屋に隠れたりして遊んだものです。今や、親子で家の中で遊ぶといえば人生ゲームやポケモン・カードゲームや将棋などのボードゲームが中心になっています。ついでながら、海外生活の思い出を続けると、ジャカルタでは当然のようにプールがあり、子供達は現地のインドネシア人の先生から水泳を習っていたりしたんですが、私のような薄給の公務員の親を持てば、東京でプール付きは望むべくもありません。プールどころか、海外生活では必要不可欠な自動車すら持たない生活に慣れてしまいました。ゴールデンウィークに巣ごもりに近い近場のお出かけを繰り返している一因かもしれないと考えないでもありません。
この休みに青山に戻って子供達と接し、成長を実感するとともにジャカルタのころの豪華な生活を懐かしんでいます。この先、夏休みになるまで長崎にて教育と研究に精を出します。
2008年06月16日 (月) 20:11:00
swatch をして役所に行く

さて、今夜のエントリーのタイトルとは無関係に、今日から将棋の第66期名人戦七番勝負の第6局が山形県天童市で始まりました。挑戦を受けて立つ森内名人も挑戦者の羽生二冠も堂々の相がかりの布陣で、盤上は決戦模様、長考合戦の気配もあると報じられています。もう少しすれば、封じ手を立会人にあずけて、本日の部はひとまずおしまいになるんだと思います。明日の夜に終局する予定だそうです。上の画像は、毎日新聞とともに共同主催の朝日新聞のサイトから引用しています。封じ手前の名人戦第6局第1日目指了図だと思います。将棋には詳しくないので、間違っていたらゴメンナサイ。
さて、今日は少し腕時計について考えます。と言うのは、先週、私の腕時計をオーバーホールに出しました。オメガのスピードマスターとコンステレーションです。前回のオーバーホールから3年半余りを経過し、そろそろ時期ではないかと考えて、銀座のいつもの時計屋さんに持って行きました。他にないので、現在は swatch で役所に通うようにしていたりします。それから、少し前のエントリーで、我が家のおにいちゃんがカシオの G Shock のデジタルを買ってもらったと書きましたが、実は、その少し前から、出かける時なんかに下の子も swatch をするようになっていたりします。でも、G Shock を新しく買ったのと違って、 swatch については、もう15年ほども前に私が在チリ大使館勤務のころに買い求めたコレクションの中から、下の子が気に入ったのを選んで腕にしています。おにいちゃんの G Shock を見ていると、いかにも中高生くらいが欲しがりそうなアイテムだという気がしますし、swatch は小学生の少し小さい子でも気軽に腕に出来るような気がします。いずれにせよ、まだまだ、小学生ではオメガを身に付けるのは早い気がしますが、少なくとも、コンステレーションは私が父親から受け継いだ我が家に伝わるものですから、おにいちゃんが成人して就職するくらいまで成長すれば、我が家の中で次の世代に受け継ぐのかもしれないと思ったりしないでもありません。そうすると、スピードマスターは下の子にやることになるんだろうか、なんてことも考えないでもありません。
話を今夜のタイトルの swatch に戻すと、どうしてサンティアゴで swatch をコレクションしたかというと、基本的に、スポーツ用です。サンティアゴの大使館勤務になる前の時点で、私は父親からオメガのコンステレーションを譲り受けていましたので、基本となる腕時計はコンステレーションだったんですが、サンティアゴで体重コントロールの必要もあって、ゴルフとテニスにフィットネスなんかをせっせとやるようになり、オートマチックのコンステレーションにはスポーツの際の振動の負担が重いような気がして swatch を買い始めました。ゴルフは適当な格好でやっていたんですが、特に、テニスは Sergio Tacchini のウェアを買い込んだりして、まだ若かったですから、それなりにオシャレにも気を使っていたりしました。当時のスタープレーヤーでチリの隣国のアルゼンティン出身のガブリエラ・サバティーニ選手が Tacchini のウェアを愛用していたりしましたし、1990年の全米オープンでサバティーニ選手が初優勝した直後に私はチリに赴任したものですから、1990年代前半には Sergio Tacchini のウェアはチリでも大流行だったりしました。いろいろとテニスウェアを買い求めるうちに、その流れで swatch に目が行ったような気がしないでもありません。なお、どんどん swatch から離れるんですが、サバティーニ選手はヤマハのラケットを使っていて、私も何本か持っているんですが、何と、私がチリから帰国するとヤマハはラケットの製造を止めてしまいました。私はヨネックスも持っているんですが、今ではヘッドが一番と考えなくもありません。
最初の将棋の名人戦は別にしても、スポーツ用腕時計の swatch からいろいろとチリの大使館にいたころを思い出してみました。最初のタイトルからは想像も出来ませんが、話がアチコチに飛んだりしましたので、エントリーの内容に従って「海外生活の思い出の日記」に分類しておきます。
2008年05月25日 (日) 13:27:00
図書館で文庫本や新書を見かけてジャカルタに残した『神鷲商人』を思い出す
今日も近くの図書館に行きました。下の子がボーイスカウトのカブ隊の活動に出かけるのに合わせて家を出て、行きだけはいっしょに行きます。帰りは別々でした。いつもよりチョッピリ下の子の帰りが遅いので、心配性で親バカの私は迷惑を承知の上でカブ隊の隊長さんの携帯電話を鳴らして、解散時刻を確認したりしてしまいました。それはともかく、私が行ったのは図書館ですから当然ながら本がズラリと並んでいます。今日も新書を借ります。というのは、我が家には文庫本や新書が極端に少ないからです。さらにさかのぼれば、5年近く前にジャカルタから帰国する際に、文庫本と新書とコミックを処分して来たからです。小さめのカートンボックスに3箱余りありました。中古本を扱っているお店にタダでいいから引き取って欲しいと言ったんですが、お店の人がかなり大量だったので気の毒がって、何がしかのお金を払ってくれた記憶があります。もちろん、その後も文庫本や新書を買わないでもありませんが、こういった経緯があるので、文庫本や新書は出来るだけ図書館で借りて済ませるようにしています。コミックも子供達の趣味で『ケロロ軍曹』だけは買い揃えてありますが、先日は、『ドラゴン・クエスト』が全巻図書館にありましたから借りましたし、『名探偵コナン』もまとまって何巻か借りていたのを今日返却しました。
ジャカルタもさすがに外国ですから、サンティアゴほどではありませんが、日本語書籍は十分ではありません。我が家が入っていたアパートなど、日本人の多い集合住宅なんかでは、帰国した人が残して行ったものであろう本を1か所に集めて自由に借りられる図書館のように運営しているところもありましたし、日本人学校にも小学生が読むとは思えないようなビジネス書が置いてあったりしましたが、もちろん、新刊図書は国内の図書館に比べて圧倒的に少ないですし、自分の読みたい本があるわけでもありません。でも、さすがに、今世紀に入ってからのジャカルタとその10年ほど前のサンティアゴでは、時代的にも地理的にも、大きな差がありました。サンティアゴでは日本語書籍を売っているお店は皆無だったような気がしますし、取り寄せればかなりの金額だったのかもしれません。5年前のジャカルタでも日本語書籍よりも洋書の方が入手が容易だったような気がします。
私が残して帰国した文庫本や新書がジャカルタの日本人の間で読み継がれているかどうかは気にかからないでもありませんが、少なくとも、日本国内でも入手が困難だった深田祐介さんの『神鷲商人』(新潮文庫)だけは現地の人には国内よりもよく読まれているのではないかと想像しています。なお、念のためですが、「神鷲」と書いて「ガルーダ」と振り仮名が振ってあります。ご存じの通り、スカルノ初代インドネシア大統領の第3夫人だったデビ夫人に関するする小説です。私が持っていたのは1990年くらいの発行の新潮文庫版ですが、今では文春文庫からも出ているようです。
2008年04月18日 (金) 20:05:00
ソリテアの確率のグラフからチリのカジノを思い出す

まったくのネタなんですが、ソリテアの確率を記録しています。実は、Windows Vista をお持ちの方ならご存じの通り、ソリテアのゲームをプレーすると、成功した時に限って記録を表示してくれます。何回中何回の勝ちと出て来ます。それを最近時点で抜き出したのが上のグラフです。エクセルに記録してグラフを更新していたりします。ソリテア自身がヒマな時にやるもんでしょうから、ついでに、エクセルを起動して記録を取っているわけです。縦軸は成功の確率です。横軸は、本来は、試行の回数を取るべきなんでしょうが、先ほど書いたとおり、失敗の場合は回数表示がなく、成功した時のみ何回中何回の成功と出ますので、実は、成功の回数です。最初の方を端折っていますが、大雑把に、試行回数が3000回余り、成功回数が250回余りで、成功の確率は8%強といったところでしょうか。Windows Vista を買い求めて以来1年足らずで試行回数が3000回ほどですから、毎日平均的に10回はトライしている計算になります。ソリテアが成功する確率は、2年ほど前の2006年7月13日付けのエントリーでP≠NP予想を取り上げたときの例にならえば、おそらく、多項式時間で計算可能な気もしますが、ここではリカーシブに8%程度と出ています。
どうしてグラフを持ち出したのかというと、確率は8%前後であるかもしれませんが、かなり明瞭でまるで景気循環のようなサイクルが観察されるからです。私はこれがギャンブルの本質のひとつではなかろうかと考えています。ギャンブルという言葉で念頭に置いているのは、確率的な結果が出ると私が考えているルーレットなんかです。最初にお示ししたソリテアの確率のグラフから、段々と、チリのカジノに近づいて来ました。つまり、ルーレットのような確率的なギャンブルの結果は長期的には一定の確率に収束するんでしょうが、その確率の周囲で一定のサイクルが観察される可能性は十分にあり、ギャンブル好きな人はその波を観察して賭けをするんではないかという気がしないでもありません。
ということで、本題のチリのカジノですが、私が勤務していた大使館のある首都のサンティアゴから100キロほどの海沿いの街であるビーニャ・デル・マールというところにありました。マール mar はスペイン語で海という意味です。チリでは海水浴場としても有名です。サンティアゴの街中に作らなかったのは、ある意味で、少なくともギャンブルに熱中する人を出さないための配慮だという気もします。マカオのような庶民的なカジノではなく、ラスヴェガスのような紳士淑女の社交場です。もっとも、私はラスヴェガスには行ったことはありません。紳士淑女の社交場ですから、カジノに入場するに当たっては男性の場合はネクタイとジャケットが要求されます。私は在チリ大使館勤務時はまだ独身で、いつも男仲間とカジノに行っていたので、女性の服装についてはよく知りません。私の知り合いで、ラフな格好で海水浴に来たのはいいけれど、どうしてもカジノに入りたくて、カジノの前で営業している貸し衣装店からネクタイとジャケットを借りて、本人いわくで「チンドン屋さん」みたいな姿でギャンブルをした人もいます。ネクタイとジャケットがあれば入場できるわけで、服装のセンスは問われないようです。
私はギャンブルはしなくて、海外勤務から日本に帰国する際に何がしたいかと問われて、よくパチンコがしたいと答える人もいるんですが、競馬競輪のたぐいやパチンコもまったくしません。昔はお付き合いでマージャンの卓を囲むこともありましたが、今ではコンピュータ相手のマージャンだけです。確率的に考えることに慣らされているエコノミストですから、ギャンブルは損をするに決まっていると達観しています。ですから、チリのカジノでもルーレットやビンゴなんかには手を出さず、自分で思考判断できるブラック・ジャック専門でした。でも、このソリテアのグラフを見ていると、昨夜のエントリーでもフォーマルな分析なしにグラフだけで判断するのは危険だと書きましたが、やっぱり、ギャンブル好きな人の主張する一定のサイクルが存在する可能性は排除できないような気がします。でも、やっぱり、最終的には、というか、長期的には一定の確率の周囲に収束して、発散することはないように思いますから、ギャンブルはおトクではないように思います。少なくとも、一定のサイクルがあるとしても、それを的確に把握する能力は私には欠けているんであろう、というのが50年近い人生を送って来た結論めいたものです。
ゴールデンウィークが少しずつ近づいてきた週末前の金曜日に、最近のソリテアのプレーの確率と十数年も前の地球の反対側での海外生活を思い出して、リラックスしたエントリーでした。
2008年02月26日 (火) 20:32:00
否定疑問文への子供達の答え方に海外帰国子女の名残りを見る
昨夜、財務省の金貨のオークションから海外のコインを連想して、久し振りに海外生活の思い出の日記を書き、何となく、今夜もその続きです。と言うのは、割合と最近になって気付いたんですが、我が家の子供達は否定疑問文に対して英語のような答え方をすることを発見したからです。おさらいですが、否定疑問文に対する英語と日本語の答え方の違いは以下の通りです。
- Isn't this bird white?
- Yes, it is.
- No, it isn't.
- この鳥は白じゃないんですか?
- いいえ、白いです。
- はい、白じゃないです。
まあ、こういった単純な問答ではないんですが、この季節にお風呂上りなんか、私が「寒くないか?」と尋ねると、「いや、寒くない」と我が家の子供達は答えます。普通の日本人であれば、「うん、寒くない」と答えるような気もします。米国の連邦準備制度理事会 (FED) のリサーチ・アシスタントをしていたわずかな期間ながら、私は米国の首都のワシントン DC にいたことがあり、否定疑問文で苦労した記憶があります。典型的な日本人的な答え方で Yes, I don't. とか言ってしまうので、米国人を混乱させてしまったこともあります。最後の方は、私なりに考えて、Yes や No を言わずに、It is. とか、 I didn't. で答えていたりしました。もちろん、十分それだけで答えになります。
一応、我が家の子供達はジャカルタ育ちの帰国子女だったりします。インドネシア語では否定疑問文に対して英語型で答えるのか、日本語型で答えるのか、私は元々インドネシア語がそんなに出来なかったこともあって、すっかり忘れてしまったんですが、一応、子供達は2年くらい現地の英語の幼稚園に通わせていましたので、その当時から帰国直後くらいまでは、我が家の子供達にはそれなりの英語力があったような気がしないでもありません。松戸にいたころは、松戸駅前の女子大の大学祭に行って、その昔の ESS のような英語クラブの催しで女子大生と英語のクイズで競った記憶もあります。もっとも、日本に帰国して地元の小学校に転入学してから、急速に英語力は消滅したようですが、否定疑問文に対する答え方には英語教育を受けた帰国子女の名残りを見出せるような気がしないでもありません。
株価も落ち着いてきたんですが、何となく、理由は不明ながら仕事が忙しいので、今夜もジャカルタのころの海外生活の思い出の日記で継いでおきたいと思います。
2008年02月25日 (月) 20:08:00
財務省の金貨オークションから海外コインを思い出す


財務省が保管していた古いコインをオークションで競売したところ、すごい高値がついたそうです。下の引用にもある通り、1880(明治13)年発行の旧二円金貨が3210万円で落札されたと報じられています。確かに、上の写真で見る通り、保存状態もいいようですし、コイン自身も立派なものだという気がします。まず、いつもの asahi.com のサイトから記事を引用すると以下の通りです。
財務省が24日開いた近代金貨のオークションで、目玉商品の1880(明治13)年の旧二円金貨が、予想の2千万円を大きく上回る3210万円で落札された。87枚しか発行されず財務省も1枚しか持っていない珍しさに、愛好家の心理が過熱。過去の金貨オークションの最高落札額の1700万円の2倍近い値がつき、財政への思わぬ貢献になった。
このオークションは13回目で、最後になる今回は1420枚が放出された(当初予定のうち13枚は取り消し)。旧2円金貨は700万円で競りが始まり、瞬く間に値が上がった。1枚の重さは約3.3グラムなので現在の金の時価で計算すると3000倍近い値がついたことになる。
創業40年余のコイン専門店銀座コインの竹内潤さんは「次にいつ出品があるか分からない。これだけ希少だと一般的な相場は関係ない」と話す。
経済学の専門用語で貨幣発行益= seigniorage という言葉があり、まったく意味は違いますが、ものすごい値段がついたものだと思います。その昔、私が子供だったころなんか、コインとか切手とかを収集するのはかなり古典的な趣味だったような気もしますし、我が吉岡家の京都の叔父さんの家にも何かお宝があるんではないかという気になってしまいます。一応、我が家は明治の遥か前から京都に住まいしているので可能性はゼロではないような気がしないでもありません。
それはともかく、少なくとも我が家が住まいしている現在の青山の家には、そんなお宝はあろうハズもなく、せいぜいが外国のコインだろうという気がします。一応、私は国際派のエコノミストと見なされないでもないのでアチコチの外国に赴任したり、出張で行ったりしました機会もあり、お宝にはならない外国のコインは我が家にもいっぱいあります。交換可能な紙幣は円転してしまうんですが、コインは交換してくれませんし、私が赴任した範囲ではチリやインドネシアの紙幣はそんなに交換性が高くないので、いまだに何枚か家にあったりします。
その昔は、例えば、ダイムと呼ばれる米国の10セントのコインなんかは、ゴルフのグリーン上でのマーカーに使ったりしていたこともあるんですが、今では子供達のコレクションの対象です。赴任したチリとインドネシアは言うに及ばず、米国、カナダ、メキシコ、英国ドイツ、フランスなどの欧米諸国や、マレーシア、タイ、シンガポールなんかのアジア諸国のコインを主体に、ぞんざいにも巾着袋に入れて保存してあります。ただし、私が独身のころに行ったことがあるハズなんですが、アルゼンティンとウルグアイのコインは見当たりません。また、今ではユーロに統合されてしまって見かけなくなったフランスのフランやドイツのマルクもあります。かなり巨大だったりします。もう流通していないんですから、そのうちに値がつくのかもしれません。中でも印象的なのはチリの100ペソのコインで、とっても巨大な銅製です。我が国の500円硬貨より大きいです。私のいたころのチリの為替水準では100ペソは米国のクォーターと呼ばれる25セントくらいの値打ちだったんですが、ともかく巨大です。チリの最大の輸出品は銅ですから、銅をタップリ使ってあるんだという気がします。また、タイのコインは紙幣と同じく国王の肖像が刻印してあります。
財務省のオークションに出たお宝コインとは値打ちが違うんでしょうが、時々、我が家でも子供達といっしょに巾着袋から出しては、海外生活を思い出したりしています。
2008年02月20日 (水) 23:01:00
カストロ議長の国民に宛てた手紙
Queridos compatriotas:
Les prometí el pasado viernes 15 de febrero que en la próxima reflexión abordaría un tema de interés para muchos compatriotas. La misma adquiere esta vez forma de mensaje.
Ha llegado el momento de postular y elegir al Consejo de Estado, su Presidente, Vicepresidentes y Secretario.
Desempeñé el honroso cargo de Presidente a lo largo de muchos años. El 15 de febrero de 1976 se aprobó la Constitución Socialista por voto libre, directo y secreto de más del 95% de los ciudadanos con derecho a votar. La primera Asamblea Nacional se constituyó el 2 de diciembre de ese año y eligió el Consejo de Estado y su Presidencia. Antes había ejercido el cargo de Primer Ministro durante casi 18 años. Siempre dispuse de las prerrogativas necesarias para llevar adelante la obra revolucionaria con el apoyo de la inmensa mayoría del pueblo.
Conociendo mi estado crítico de salud, muchos en el exterior pensaban que la renuncia provisional al cargo de Presidente del Consejo de Estado el 31 de julio de 2006, que dejé en manos del Primer Vicepresidente, Raúl Castro Ruz, era definitiva. El propio Raúl, quien adicionalmente ocupa el cargo de Ministro de las F.A.R. por méritos personales, y los demás compañeros de la dirección del Partido y el Estado, fueron renuentes a considerarme apartado de mis cargos a pesar de mi estado precario de salud.
Era incómoda mi posición frente a un adversario que hizo todo lo imaginable por deshacerse de mí y en nada me agradaba complacerlo.
Más adelante pude alcanzar de nuevo el dominio total de mi mente, la posibilidad de leer y meditar mucho, obligado por el reposo. Me acompañaban las fuerzas físicas suficientes para escribir largas horas, las que compartía con la rehabilitación y los programas pertinentes de recuperación. Un elemental sentido común me indicaba que esa actividad estaba a mi alcance. Por otro lado me preocupó siempre, al hablar de mi salud, evitar ilusiones que en el caso de un desenlace adverso, traerían noticias traumáticas a nuestro pueblo en medio de la batalla. Prepararlo para mi ausencia, sicológica y políticamente, era mi primera obligación después de tantos años de lucha. Nunca dejé de señalar que se trataba de una recuperación "no exenta de riesgos."
Mi deseo fue siempre cumplir el deber hasta el último aliento. Es lo que puedo ofrecer.
A mis entrañables compatriotas, que me hicieron el inmenso honor de elegirme en días recientes como miembro del Parlamento, en cuyo seno se deben adoptar acuerdos importantes para el destino de nuestra Revolución, les comunico que no aspiraré ni aceptaré- repito- no aspiraré ni aceptaré, el cargo de Presidente del Consejo de Estado y Comandante en Jefe.
En breves cartas dirigidas a Randy Alonso, Director del programa Mesa Redonda de la Televisión Nacional, que a solicitud mía fueron divulgadas, se incluían discretamente elementos de este mensaje que hoy escribo, y ni siquiera el destinatario de las misivas conocía mi propósito. Tenía confianza en Randy porque lo conocí bien cuando era estudiante universitario de Periodismo, y me reunía casi todas las semanas con los representantes principales de los estudiantes universitarios, de lo que ya era conocido como el interior del país, en la biblioteca de la amplia casa de Kohly, donde se albergaban. Hoy todo el país es una inmensa Universidad.
Párrafos seleccionados de la carta enviada a Randy el 17 de diciembre de 2007:
"Mi más profunda convicción es que las respuestas a los problemas actuales de la sociedad cubana, que posee un promedio educacional cercano a 12 grados, casi un millón de graduados universitarios y la posibilidad real de estudio para sus ciudadanos sin discriminación alguna, requieren más variantes de respuesta para cada problema concreto que las contenidas en un tablero de ajedrez. Ni un solo detalle se puede ignorar, y no se trata de un camino fácil, si es que la inteligencia del ser humano en una sociedad revolucionaria ha de prevalecer sobre sus instintos.
"Mi deber elemental no es aferrarme a cargos, ni mucho menos obstruir el paso a personas más jóvenes, sino aportar experiencias e ideas cuyo modesto valor proviene de la época excepcional que me tocó vivir.
"Pienso como Niemeyer que hay que ser consecuente hasta el final."
Carta del 8 de enero de 2008:
"...Soy decidido partidario del voto unido (un principio que preserva el mérito ignorado). Fue lo que nos permitió evitar las tendencias a copiar lo que venía de los países del antiguo campo socialista, entre ellas el retrato de un candidato único, tan solitario como a la vez tan solidario con Cuba. Respeto mucho aquel primer intento de construir el socialismo, gracias al cual pudimos continuar el camino escogido."
"Tenía muy presente que toda la gloria del mundo cabe en un grano de maíz," reiteraba en aquella carta.
Traicionaría por tanto mi conciencia ocupar una responsabilidad que requiere movilidad y entrega total que no estoy en condiciones físicas de ofrecer. Lo explico sin dramatismo.
Afortunadamente nuestro proceso cuenta todavía con cuadros de la vieja guardia, junto a otros que eran muy jóvenes cuando se inició la primera etapa de la Revolución. Algunos casi niños se incorporaron a los combatientes de las montañas y después, con su heroísmo y sus misiones internacionalistas, llenaron de gloria al país. Cuentan con la autoridad y la experiencia para garantizar el reemplazo. Dispone igualmente nuestro proceso de la generación intermedia que aprendió junto a nosotros los elementos del complejo y casi inaccesible arte de organizar y dirigir una revolución.
El camino siempre será difícil y requerirá el esfuerzo inteligente de todos. Desconfío de las sendas aparentemente fáciles de la apologética, o la autoflagelación como antítesis. Prepararse siempre para la peor de las variantes. Ser tan prudentes en el éxito como firmes en la adversidad es un principio que no puede olvidarse. El adversario a derrotar es sumamente fuerte, pero lo hemos mantenido a raya durante medio siglo.
No me despido de ustedes. Deseo solo combatir como un soldado de las ideas. Seguiré escribiendo bajo el título "Reflexiones del compañero Fidel." Será un arma más del arsenal con la cual se podrá contar. Tal vez mi voz se escuche. Seré cuidadoso.
Gracias
Fidel Castro Ruz
18 de febrero de 2008
5 y 30 p.m.
In English:
Message from the Commander in Chief
Dear compatriots:
Last Friday, February 15, I promised you that in my next reflection I would deal with an issue of interest to many compatriots. Thus, this now is rather a message.
The moment has come to nominate and elect the State Council, its President, its Vice-Presidents and Secretary.
For many years I have occupied the honorable position of President. On February 15, 1976 the Socialist Constitution was approved with the free, direct and secret vote of over 95% of the people with the right to cast a vote. The first National Assembly was established on December 2nd that same year; this elected the State Council and its presidency. Before that, I had been a Prime Minister for almost 18 years. I always had the necessary prerogatives to carry forward the revolutionary work with the support of the overwhelming majority of the people.
There were those overseas who, aware of my critical health condition, thought that my provisional resignation, on July 31, 2006, to the position of President of the State Council, which I left to First Vice-President Raul Castro Ruz, was final. But Raul, who is also minister of the Armed Forces on account of his own personal merits, and the other comrades of the Party and State leadership were unwilling to consider me out of public life despite my unstable health condition.
It was an uncomfortable situation for me vis-à-vis an adversary which had done everything possible to get rid of me, and I felt reluctant to comply.
Later, in my necessary retreat, I was able to recover the full command of my mind as well as the possibility for much reading and meditation. I had enough physical strength to write for many hours, which I shared with the corresponding rehabilitation and recovery programs. Basic common sense indicated that such activity was within my reach. On the other hand, when referring to my health I was extremely careful to avoid raising expectations since I felt that an adverse ending would bring traumatic news to our people in the midst of the battle. Thus, my first duty was to prepare our people both politically and psychologically for my absence after so many years of struggle. I kept saying that my recovery "was not without risks."
My wishes have always been to discharge my duties to my last breath. That’s all I can offer.
To my dearest compatriots, who have recently honored me so much by electing me a member of the Parliament where so many agreements should be adopted of utmost importance to the destiny of our Revolution, I am saying that I will neither aspire to nor accept, I repeat, I will neither aspire to nor accept the positions of President of the State Council and Commander in Chief.
In short letters addressed to Randy Alonso, Director of the Round Table National TV Program, --letters which at my request were made public-- I discreetly introduced elements of this message I am writing today, when not even the addressee of such letters was aware of my intention. I trusted Randy, whom I knew very well from his days as a student of Journalism. In those days I met almost on a weekly basis with the main representatives of the University students from the provinces at the library of the large house in Kohly where they lived. Today, the entire country is an immense University.
Following are some paragraphs chosen from the letter addressed to Randy on December 17, 2007:
"I strongly believe that the answers to the current problems facing Cuban society, which has, as an average, a twelfth grade of education, almost a million university graduates, and a real possibility for all its citizens to become educated without their being in any way discriminated against, require more variables for each concrete problem than those contained in a chess game. We cannot ignore one single detail; this is not an easy path to take, if the intelligence of a human being in a revolutionary society is to prevail over instinct.
"My elemental duty is not to cling to positions, much less to stand in the way of younger persons, but rather to contribute my own experience and ideas whose modest value comes from the exceptional era that I had the privilege of living in.
"Like Niemeyer, I believe that one has to be consistent right up to the end."
Letter from January 8, 2008:
"...I am a firm supporter of the united vote (a principle that preserves the unknown merits), which allowed us to avoid the tendency to copy what came to us from countries of the former socialist bloc, including the portrait of the one candidate, as singular as his solidarity towards Cuba. I deeply respect that first attempt at building socialism, thanks to which we were able to continue along the path we had chosen."
And I reiterated in that letter that "...I never forget that ‘all of the world's glory fits in a kernel of corn."
Therefore, it would be a betrayal to my conscience to accept a responsibility requiring more mobility and dedication than I am physically able to offer. This I say devoid of all drama.
Fortunately, our Revolution can still count on cadres from the old guard and others who were very young in the early stages of the process. Some were very young, almost children, when they joined the fight on the mountains and later they have given glory to the country with their heroic performance and their internationalist missions. They have the authority and the experience to guarantee the replacement. There is also the intermediate generation which learned together with us the basics of the complex and almost unattainable art of organizing and leading a revolution.
The path will always be difficult and require from everyone's intelligent effort. I distrust the seemingly easy path of apologetics or its antithesis the self-flagellation. We should always be prepared for the worst variable. The principle of being as prudent in success as steady in adversity cannot be forgotten. The adversary to be defeated is extremely strong; however, we have been able to keep it at bay for half a century.
This is not my farewell to you. My only wish is to fight as a soldier in the battle of ideas. I shall continue to write under the heading of ‘Reflections by comrade Fidel.’ It will be just another weapon you can count on. Perhaps my voice will be heard. I shall be careful.
Thanks.
Fidel Castro Ruz
February 18, 2008
5:30 p.m.
2008年02月20日 (水) 22:02:00
カストロ議長の引退報道

キューバの元首である国家評議会カストロ議長が引退を表明しました。上の写真は、日本でも馴染みの深いキューバ革命の英雄カストロとゲバラのツーショットで "New York Times" に1959年に掲載されたものです。今回の引退について、報道によれば、カストロ議長は声明で、「議長と軍最高司令官の地位を自ら望むことはないし、(要請されても)受け入れることもない。繰り返す。望みもしないし、受け入れもしない」と述べたとされています。まず、"New York Times" のサイトから最初の3パラだけ記事を引用すると以下の通りです。
MEXICO CITY - Fidel Castro stepped down Tuesday morning as the president of Cuba after a long illness, ending one of the longest tenures as an all-powerful, communist head of state in the world, according to Granma, the official publication of the Cuban Communist Party.
In late July 2006, Mr. Castro, who is 81, handed over power temporarily to his brother, Raúl Castro, 76, and a few younger cabinet ministers, after an acute infection in his colon forced him to undergo emergency surgery. Despite numerous surgeries, he has never fully recovered but has remained active in running government affairs from behind the scenes.
Now, just days before the national assembly is to meet to select a new head of state, Mr. Castro resigned permanently in a letter to the nation and signaled his willingness to let a younger generation assume power. He said his failing health made it impossible to return as president.
なお、英文ですが、"Dear compatriots:" との書出しで始まるカストロ議長の "Full Text of Fidel Castro's Resignation Letter" が "Washington Post" のサイトにあります。でも、これを見るためには subscribe することが必要です。まず、ややナナメに見る私の感性で、上の引用にもある通り、"New York Times" はメキシコ・シティ特派員からの報道です。日本の新聞では、朝日新聞のサイトには明示されていませんでしたが、日経新聞と読売新聞がサンパウロ特派員、毎日新聞が "NewYork Times" と同じメキシコ・シティ特派員、産経新聞は何とニューヨーク特派員でした。私が在チリ大使館に勤務していたころは、日経新聞の南米担当はリオデジャネイロ特派員で、年に1回か2回くらいサンティアゴにも取材出張があり、大使館では私が対応していたように覚えています。私のサンティアゴ在任最後の方で日経新聞もリオデジャネイロからサンパウロに特派員事務所を移転し、大使宛てか私宛てか忘れましたが、ごていねいに移転記念パーティーの招待状が届いたようなことを記憶しています。もっとも、10年以上も前のことですから記憶はとっても不確かです。
カストロ議長引退後のキューバ内政についても、外交上のインパクトについても、私は専門外なのでよく分かりませんが、カストロ議長について覚えているのは、私の知る限り最高の演説者の一人だったことです。雄弁で滔々と演説できることがラテン世界の美徳のひとつと考えられているんですが、カストロ議長はその最高峰の一人とも言えます。私はスペイン語の勉強と称してサンティアゴの大使館でビデオを見ただけなんですが、そんなにスペイン語の理解が深くない私でさえ感動を覚えましたし、日本人的には大げさと感じかねない身振りと手振りも、例えば、カストロ議長がアチコチを指差して「あなただ!」と叫んだ時には私自身が指差されているようにすら感じました。私の直感なんですが、感情的なキューバ人の中には演説を聞いただけで涙を流してカストロ議長に忠誠を誓う人も少なくなかったんだろうことが容易に想像されます。
私が在チリ大使館に勤務していた1990年代初頭は、さすがに、1970年代の中南米債務危機も終了し、その昔のブラジルはコーヒー、キューバは砂糖のモノカルチャーから脱して、キューバでは文豪ヘミングウェイも愛した風光明媚な観光資源を活かして、外貨獲得のために観光に力を入れていたころでした。だからと言うわけでもないんでしょうが、私の知り合いだったチリのエコノミストも何人か新婚旅行でキューバに行った人もいたりしました。
今夜は帰りが遅くなり、取りとめのないブログになってしまいましたが、2006年12月11日のエントリーで取り上げたチリのピノチェット将軍の死去や最近1月27日のエントリーで取り上げたインドネシアのスハルト元大統領の死去などとともに、ひとつの時代が幕を下ろしたことを実感させられました。一応、チリのころのお話だったりしますので、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2008年01月27日 (日) 21:42:00
インドネシアのスハルト元大統領が死去
インドネシアで32年にわたる長期政権を担ったスハルト元大統領が27日、ジャカルタ市内の病院で多臓器不全のため死去した。86歳だった。東西冷戦下、経済発展と安定をもたらして「開発の父」と称賛されたが、共産党弾圧など力による支配から独裁者とも呼ばれた。民主化要求の高まりで98年に辞任に追い込まれ、不正や圧政の責任追及を受けたが、健康悪化を理由に刑事裁判は打ち切られていた。
スハルト氏は昨年暮れから全身がむくんで血圧が低下し、今年1月4日に入院。肺に浮腫がたまるなどして症状が悪化、多臓器不全に陥った。一進一退を繰り返し、一時快方に向かったが、27日午前に容体が急変。午後1時すぎに亡くなった。
遺体は28日、一族の墓地があるジャワ島中部のソロに搬送され、葬儀が営まれる。インドネシア政府は27日から1週間、喪に服するよう国民に呼びかけた。葬儀委員長に就くユドヨノ大統領は会見で「国家に貢献した偉大なリーダーだった。深い哀悼の意をささげたい」と語った。
21年6月、中部ジャワ生まれ。日本軍政下で郷土防衛義勇軍に加わり、第2次世界大戦後は対オランダ独立戦争で名を上げた。65年、スカルノ政権下で起きた共産党系将校によるクーデター未遂事件(9・30事件)鎮圧を機に、実権を掌握。共産党弾圧の犠牲者は数十万人規模とも言われる。
68年3月に第2代大統領に就任。旧ソ連・中国寄りだったスカルノ外交から、外資導入と外国の援助による経済開発路線に転換し、日本や米国など西側諸国に傾斜した。東南アジア諸国連合(ASEAN)では指導的な役割を果たした。
しかし、家族や取り巻きを重用する縁故主義が目立ち始め、98年の公共料金値上げをきっかけに国民の不満が噴出。同年5月に辞任に追い込まれた。
その後、世論は在任中の不正を追及。最高検は07年7月、計約14億ドル(約1500億円)の不正蓄財の返還と損害賠償を求める民事訴訟を起こし、今も係争中だ。
私は前世紀の末から3年間にわたって、家族とともにジャカルタに赴任していました。インドネシア政府の官庁で計量経済モデルの技術協力に携わっていました。ですから、独身時代に大使館に勤務していたチリとともにインドネシアは親しみのある国です。チリとインドネシアの共通点はもうひとつあって、少し前の指導者の評価が分かれることです。チリでは一昨年2006年12月11日のエントリーでも取り上げたピノチェット元大統領ですし、インドネシアでは今日の午後に死去したスハルト元大統領です。
もっと言えば、インドネシアには第2次大戦後に2人の父がいて、上の記事の引用にもある通り、スハルト元大統領は「開発の父」、そして、独立の英雄であり初代大統領のスカルノ元大統領は「建国の父」です。現在のユドヨノ大統領の前のメガワティ前大統領はスカルノ初代大統領の長女です。どんどんスハルト元大統領から離れて行きますが、ご存じの通り、デビ夫人はスカルノ初代大統領の第3夫人です。ついつい、スカルノ元大統領の縁故者を書き連ねてしまいましたが、スハルト元大統領とともにスカルノ元大統領も立場や時期により評価が分かれるだろうと思います。軍出身の現在のユドヨノ大統領なんかからすれば、引用にもある通り、スハルト元大統領は「国家に貢献した偉大なリーダー」とも言えますし、逆の立場からすれば、別の評価があり得ます。これはスカルノ元大統領についても同じことが言えます。第2次大戦終了直後の世界的に共産党が勢力を伸ばした時期に、インドネシア共産党と国軍とのバランスを巧みな政治感覚で調整したスカルノ元大統領に対して、スハルト元大統領は圧倒的な軍事的実力を背景に、反共・親米路線をひた走って経済開発に成功しながらも、縁故主義に傾いたり不正蓄財疑惑を追及される中で、アジア通貨危機を契機とするインドネシアの経済的混乱により、やや不名誉な退陣を余儀なくされました。このあたりは名誉ある退陣を果たしたチリのピノチェット将軍とは大きく違います。どちらも、私は同時代人に近いんでしょうが、もう少し時間を経て歴史が評価を明らかにするんではないかと思います。
いずれにせよ、2006年12月11日のエントリーでピノチェット将軍の死を取り上げたエントリーと同じ最後なんですが、ひとつの時代が終わったと私は受け止めています。前例に従って、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年12月05日 (水) 20:02:00
筆記具の趣味と審美眼
我が家は朝日新聞を購読していて、紙面では見当たらなかったんですが、朝日新聞のサイトで年末年始特集というのをやっています。今日見かけたのは、ライターの武田由紀子さんの記事で、「手もとで魅せる、ビジネスマンの魅力」というものです。記事の中身はタイトルの通りで、カフスボタンなんかも取り上げているんですが、やっぱり、記事の中心は手に持つ筆記具です。今どきのことですから、取り上げられている商品から楽天のオンライン・ショッピングのサイトにリンクが張ってあったりします。万年筆ではパーカーのベクター・シリーズ、ボールペンではラミーのティポ・シリーズなんかにリンクが張ってありました。なお、私も筆記具が好きなものですから、 PEN-HOUSE とかペンサイトネットなんかを見たりしています。ただし、PEN-HOUSE ではパーカーがイギリスに分類されているので少し不思議に感じています。米国のハズです。
今では文書を書く時はペンで紙に書くよりも、キーボードを叩いてファイルに仕上げてメールで送ったりする方がずっと多くなったんですが、やっぱり、ビジネスマンのアクセサリとしてはキーボードではなく筆記具なんだろうと思います。もちろん、ダンヒルやカルティエ、ティファニーなんかの総合ブランド・メーカー(?)の筆記具もカッコいいんですが、やっぱり、ペリカン、モンブラン、パーカー、クロス、シェーファー、ウォーターマン、ロットリングなどの外国の筆記具専門メーカーのものに、ついつい、私は目が行ってしまいます。もっとも、ステッドラーやファーバーカステルなんかだと鉛筆という感じになってしまいます。国産品愛用の趣味の方には申し訳ありません。普段は、自分の机では役所から支給される100円ボールペンを使っていても、気の張った会議なんかには、それなりの筆記具を持ち込みたいと見栄を張ってしまいます。
私が愛用しているのはパーカー、クロス、モンブランで、3組のボールペンとシャープペンシルの組合せを、年に何回か入れ替えて、ウォーターマンのペンケースに入れて使っています。中でもお気に入りなのはパーカーのインシグニアです。ご存じの方も多いと思いますが、この名称の由来は第2次世界大戦にさかのぼり、米国軍がフィリピンで現地の抗日ゲリラに対して勲章の代わりにパーカーの万年筆を授与したとの故事に基づいています。私は在チリ大使館を離任する際に日本チリ商工会議所から記念にもらいました。商工会議所がいわゆる利害関係者に当たるかどうか、よく分かりませんが、ひょっとしたら、現在の公務員倫理規定に抵触する可能性は否定しません。でも、倫理規定が施行されるはるか前のことですし、10年余り前のことでもありますから、時効ということでご勘弁下さい。ペンのボディにはスペイン語で私の離任に対する見送りの言葉が彫ってあったりします。パーカーのほかに私の持っているクロスとモンブランは真っ黒のエボナイトなんですが、パーカーのインシグニアだけはクロム張りで、光り物が決して嫌いではない私に合っている気がしないでもありません。ペンケースに入れる以外にはクロスのボールペンを背広の内ポケットに入れて毎日持ち歩いています。先日、チタン張りのクロスのペン先が出て来なくなったので、丸善に持ち込んで修理してもらいました。クロスの動作は永久保証なんですが、送料だか手数料だかに500円が必要でした。
それから、サンティアゴにいた時も、ジャカルタにいた時も、一応、外国ですから、それなりに小切手なんかにサインする機会があったので、サイン用の万年筆も必携でした。特に、サンティアゴでは仕事に出かける時は背広の内ポケットに必ず入れて持ち歩いていました。モンブランのかなり太字のペン先の万年筆を持っていた記憶があります。太い字の方がゴマカシが利くからです。ペン先だけでなく、ボディもかなり太いものです。4年前にジャカルタから帰国した後は、日本ではサインする機会がほぼ消滅しましたので、今では万年筆を持ち歩くことはしていません。どこに収納してあるかは承知しているんですが、おそらく、インクも切れていることと思います。
ビジネス・シーンでの筆記具はそれなりに好みがあって、背広の胸ポケットにカラーマーカーや100円ボールペンを挿して外に出歩くことはしたくないと思っていたりするんですが、純粋に趣味の分野で、書道の道具についてはやたらと暗かったりします。なぜかと言うと、書道の筆や硯なんかは先生が買ってくれるからです。と言うか、先生が勧めてくれる筆などを先生の言い値で買わされたりするのがほとんどです。茶道や華道なんかでは、茶器や花瓶なんかを先生が解説してくれたりして、それなりに目が肥えるらしいんですが、書道については先生ご指定のお道具を無条件で買うハメになるので、道具に対する審美眼はまったく養われません。もっとも、これは、私が初級者の域を出なかったためで、上級者や師範くらいになれば、逆に、お弟子さんに勧めなければならないので、それなりに目利きであることが必要そうな気がします。しかし、私の場合はそこまでは達しませんでした。
何となく、朝日新聞のインターネット・サイトから筆記具について連想した個人的な感想でした。特に根拠はないんですが、在チリ大使館を離任する際にもらったパーカーのインシグニアを愛用していることとサイン用の万年筆に触れましたので、やや無理やりに、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年10月12日 (金) 20:01:00
秋が深まり、ジャカルタのハロウィンを想う
来週の10月17日に公表予定の国際通貨基金 (IMF) の世界経済見通しのうち、第3章以降がネットで公表されています。日本の報道では第4章の "Globalization and Inequality" なんかが注目されているようです。それはさて置き、経済の話題は来週に回すとして、秋が深まるとともに、先日、我が家の玄関のドアにカボチャの飾付けがお目見えし、下の子なんかはハロウィンだと喜んでいます。そうです。10月31日はハロウィンです。

ジャカルタにいたころはアパートでハロウィンの催しがありました。治安の問題もあって、子供達がアパートの外に出るようなことはありませんでした。中庭にハロウィンらしく扮装した子供達が集まって記念写真を撮ったり、各戸を回って "Trick or Treat!" と言いながらお菓子を集めて回ったりしました。アパートと言っても、タワー A と B があって、かなりの部分が子供のいる200世帯くらいが暮らしていましたから、全部回りきるのはタイヘンだったろうと思います。我が家が住んでいたアパートはインターナショナル・スクールにかなり近くて、日本人学校に通うのも便利でしたから、住人の大部分が日本人をはじめとする外国人でした。そのアパート中をお菓子を入れる大きな袋を持った子供達が走り回っていた記憶があります。私はチリのサンティアゴにもいたんですが、独身で子供がいなかったせいもあって、チリのハロウィンはまったく覚えありません。キリスト教国らしい行事と言えば、クリスマスで大騒ぎしたことが印象的です。さて、話をハロウィンに戻すと、昨年は、青山通りで商店連合会の企画により AOYAMA ハロウィン・イベントがあり、下の子が参加しました。ドラキュラのマントとシルクハットで扮装して、商店街に登録されているお店をくまなく回りました。今年も MINATO あらかるとのイベント紹介のサイトによれば、10月26日の金曜日の夕方に同じイベントが開催されるようです。昨年はマントを引きずっていた下の子も、かなり背が伸びたように見受けられますので、私がマントのすそを持たなくても済むような気がしないでもありません。
よく知られている通り、インドネシアはイスラム教徒の比率が最も多く、人口比で80%くらいを占めると言われています。もちろん、宗教の自由は認められていると言われているんですが、無宗教は認められていません。何らかの宗教を信仰することが義務付けられているわけです。無宗教を許容しないのは、正確には宗教の自由とは言えないんではないかと私は考えているんですが、知り合いの中には共産主義に対する警戒感からそうしていると言う人もいます。ですから、観光による入国の際は構わないのかもしれませんが、我が家がジャカルタのアパートに入居した時、入居者全員の宗教を記入する欄があったりしました。このブログでも何度か表明しているように、我が家は一向宗の門徒、高校の教科書なんかに載っている表現だと、浄土真宗の信者ですから、仏教徒と記入しました。おそらく、私の想像ではアパートの半分くらいを占める日本人の多くは仏教徒と記入したんではないかと思いますが、その仏教徒の子供達がハロウィンのイベントを大いに楽しんでいるわけです。ですから、この週末はラマダン明けだと思うんですが、このラマダンなどよりは宗教色がとっても薄くて、日本人にも受け入れやすいイベントだという気がします。もっと言えば、宗教色という点では、私の直感的な印象なんですが、クリスマスよりもハロウィンの方が宗教的な色彩がより薄い気がします。もちろん、ラマダンの比ではありません。ですから、青山通りの商店街のようにハロウィンのイベントを催せば、かなり人気が出るように思うんですが、なぜか、日本ではハロウィンは盛り上がらないような印象があります。バレンタインデーがチョコレート業界の陰謀であるという説を耳にしたりしますが、ハロウィンを積極的に活用しないのは欲のないことかもしれません。せめて、ケーキ業界のクリスマス並みにならないものかと私は密かに期待していたりします。
秋から冬にかけてのキリスト教の行事はハロウィンとクリスマスがありますが、私はハロウィンの時期にはジャカルタの生活を、クリスマスの時期にはサンティアゴの生活を、それぞれ思い出してしまいます。何となく、週末前の軽い話題ということで、ネットで拾ったピカチュウの画像なんかも置いて、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年09月26日 (水) 19:45:00
フジモリ元ペルー大統領のペルー当局への身柄引渡し
やや旧聞に属するんですが、一昨年2005年11月にチリに入国して身柄を拘束されていたペルーのフジモリ元大統領がチリ最高裁の決定により、ペルー当局に身柄を引き渡されました。いずれも現地時間で、最高裁の決定が9月21日、リマに到着して警察施設に収容されたのが22日だそうです。一連の報道を日付けを追って朝日新聞のサイトから項目だけリンクを張っておきます。ただし、記事の時刻は日本時間になっています。
- 2007年9月22日00時52分 フジモリ元大統領の引き渡し決定 チリ最高裁
- 2007年9月22日12時38分 フジモリ氏、引き渡し決定後も政治復帰に意欲
- 2007年9月23日00時41分 フジモリ氏、再起へ強気 引き渡しは「想定内」
- 2007年9月23日00時43分 フジモリ氏をペルーに移送 チリ警察が身柄引き渡し
- 2007年9月23日09時18分 フジモリ氏、7年ぶりに祖国の地 警察施設に収容
- 2007年9月23日23時43分 フジモリ氏、リマに到着 ペルー警察施設に収容
- 2007年9月24日23時24分 フジモリ氏拘置「正当な扱いを」 面会の長女が批判
- 2007年9月25日23時08分 フジモリ氏裁判、「最高裁の判断を尊重」 ペルー大統領
なお、日本ではフジモリ元大統領の日本国籍を認定した我が国政府の発表はほとんど報じられなかったんですが、サンティアゴ現地の高級紙 "El Mercurio" がこれに関係して、"Japón no comenta extradición a Perú del ex Presidente Fujimori" と、時事通信からのキャリーを引いて、日本からのコメントはない旨の報道をしています。El Mercurio Online から引用すると以下の通りです。なお、当然ながらスペイン語ですので、引用は最初の2パラグラフだけにしておきます。
Japón se abstuvo de comentar la extradición a Perú desde Chile del ex presidente peruano Alberto Fujimori, que dispone de un pasaporte japonés, país en el que estuvo exiliado durante cinco años.
Fujimori "ciertamente es un ciudadano japonés, pero Japón no tiene absolutamente nada que decir sobre la decisión de la justicia chilena", declaró el ministro de Relaciones Exteriores, Nobutaka Machimura, actualmente en la ONU en Nueva York, citado por la agencia Jiji.
国連総会に出席するためにニューヨークに滞在していた当時の町村外務大臣のコメントのようです。El Mercurio の論調はややフジモリ元大統領に同情的で、日本政府に批判的なように見受けられます。引用した部分にもある通り、日本政府は日本国籍を認定し、日本に5年間滞在を許し、さらに、日本のパスポートを持ってチリに入国した事実をハッキリと指摘していて、その上で、チリ司法当局の決定に関して、「何も言うことはない」 "nada que decir" との町村外務大臣(当時)の発言を紹介しています。一定の意図を感じざるを得ません。また、引用にはないんですが、後の方のパラグラフではフジモリ元大統領と結婚した片岡都美さんのコメント、「とても心配している」 "muy preocupada" を引用したりしています。片岡さんが2006年4月にサンティアゴ入りした際には、日本でも何紙か報道したように記憶していますが、ニューヨークにおける町村外務大臣(当時)の発言や片岡さんのことなんかは、今回は日本国内ではほとんど報道されなかったように思います。なお、まったくどうでもいいことですが、私が在チリ大使館で外交官をしている時、「日本国」のスペイン語訳は単なる Japón ではなく、男性の定冠詞を付して El Japón としていたんですが、現地の新聞ではまったく無視されているようです。
今回のチリ最高裁の決定は、ピノチェット政権の時代のアジェンデ派や左派に対する弾圧などの人権問題に敏感なバチェレ政権の成立との関係をクローズアップする向きもあり、複雑な事情が絡み合っているんだと思います。昨年2006年10月16日のエントリーでも取り上げたように、バチェレ大統領自身がピノチェット軍政下での拷問の被害者です。なお、いつかも紹介しましたが、チリの与党連合コンセルタシオンは反ピノチェット大連合とも言え、中道右派のキリスト教民主党から中道左派の社会党や民主主義のための政党 PPD までを含んでいます。1990年にピノチェット軍事独裁政権から民政移管されてから、現在までの4代の大統領の出身政党を見ると、最初の2人、すなわち、エイルウィン元大統領とフレイ元大統領がキリスト教民主党だったのに対して、ラゴス前大統領と現在のバチェレ大統領は社会党、もしくは、社会党に近い PPD の出身ですので、言葉はよくないんですが、やや左傾化しているのかもしれません。私が在チリ大使館にいた1990年代前半は、エイルウィン元大統領とフレイ元大統領の下で、国民的和解が重視され、ピノチェット政権下での過酷な弾圧なんかは大きな問題としては取り上げられませんでした。逆の見方をすれば、ピノチェット将軍が健在であって、ピノチェット派の勢力がまだまだ温存されている中で、大きく取り上げるほどにはコンセルタシオンの側の実力が伴っていなかったのかもしれません。しかし、国内で社会党出身の大統領が選出され、さらに、昨年2006年12月11日のエントリーで取り上げたように、ピノチェット将軍が死去した現時点では、私が駐在していた10年余り前から、力関係のバランスが微妙に変化して来ている気がしないでもありません。フジモリ氏はこのあおりを食った可能性も否定できないと考えます。
自分で言うのもナンですが、私は職場なんかでは国際派と見なされているんじゃあないかと思っていて、昨日のエントリーなんかでも目立たない国際機関のレポートを英語の原文を引きつつ取り上げたりしているものの、昨夜のエントリーと違って今夜のは経済を評論しているわけではありませんし、さらに、私のブログには国際事情に関する適当なカテゴリーがないので、無理やりながら、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年09月04日 (火) 20:29:00
バチェレ・チリ大統領の来日
毎年11月に開催されるAPEC首脳会議が、今年は今週末にオーストラリアのシドニーで開催されるので、そのついでと言っては何ですが、チリのバチェレ大統領が来日し、安倍総理大臣と首脳会談を行いました。今日の朝刊各紙にそれなりの記事があったんですが、WEBサイトには見当たりませんでしたので、時事通信のサイトから引用すると以下の通りです。
安倍晋三首相は3日午後、来日中のバチェレ・チリ大統領と首相官邸で会談した。大統領は、2050年までに世界の温室効果ガス排出量を半減させる首相の「美しい星50」構想への支持を表明。両首脳は気候変動問題での協力を強化することで一致した。
会談で首相は「温暖化は地球全体で取り組む問題だ。(13年以降の)『ポスト京都議定書』の実効的枠組みづくりで協力していきたい」と述べた。これに対し、大統領は「気候変動は未来でなく現在の問題。熱心に取り組んでいきたい」と応じた。
朝刊各紙には経済連携協定のことなんかも取り上げられていたんですが、時事通信では気候変動問題がクローズアップされているようです。私が外交官として在チリ大使館に勤務していた10年余り前も今も、たぶん、日本とチリの間には何の懸案もなさそうですから、友好的な首脳会談だったんだろうと思います。
私がチリに駐在していたのは1990年代前半で、悪名高きピノチェット軍事独裁政権から民政移管された初代のエイルウィン元大統領とその次のフレイ元大統領のころでした。反ピノチェット派がキリスト教民主党と社会党を中心にコンセルタシオンという名の与党連合を組んでいました。エイルウィン元大統領とフレイ元大統領はキリスト教民主党だったんですが、その後、社会党系のロゴス前大統領と現在のバチェレ大統領に引き継がれています。自慢話なんですが、私は当時のエイルウィン大統領には着任早々の日本大使の信任状奉呈式に出席した大統領官邸で、また、フレイ元大統領には大統領就任直前の休暇中にゴルフ場で、それぞれ、お会いして親しくお話ししたことがあります。
私の在チリ大使館在任中も、当時のエイルウィン大統領が来日しました。外交上の慣例なんだと思うんですが、日本大使もチリ大統領に帯同して日本に帰国します。今回もそうなんだろうと思います。逆に、大使が何ら連絡なしに任国を離れて帰国すると、国際法上、宣戦布告をしたのと同じ効果があり、交戦状態に入ったと見なされると聞いたことがあります。私は国際公法にはまったく詳しくないので、ホントかウソか知りませんが、何となく、ホントかもしれないと思って聞いたことを記憶しています。誰から聞いたのかは忘れました。
今でもそうなんでしょうが、私がいた当時のチリは日本から見れば小さな国で、貿易取引のあるメーカーさんなんかも、まだまだ商社を通すことが少なくなく、自動車会社なんかは取引のある商社の方が自動車メーカーの名前で現地法人を仕切っていました。ブラジルなんかと違って移民がほとんどいませんでしたから、日本人社会は駐在員が多数を占め、大使館の経済アタッシェをしていた私は、現地法人の社長さんや駐在員事務所の所長さんなんかとは、ほとんど顔見知りだったりしました。
ジャカルタでは女房子供と家族で生活していましたが、サンティアゴ駐在は結婚する前の独身時代でしたので、何となく、若いころの青春の続きのような、また、外交官でもありましたので、それなりに華やかな生活を送っていましたから、ジャカルタとは違った意味で懐かしい思い出があります。
2007年08月21日 (火) 20:02:00
停電の恐怖
今日は銀座にランチに出て、その後、新橋に行く予定があったんですが、ほぼ南北に通っている銀座の中央通りに出て、ものすごい陽射しを受けて立ちすくんでしまいました。新橋くらいまでなら歩いて行けないでもなかったんですが、体ごと蒸発してしまいそうで、一駅だけながら地下鉄を利用してしまいました。新橋から役所までも、季節がよければ十分に歩ける距離なんですが、やっぱり、地下鉄に乗ってしまいました。甲子園に出るような高校野球の監督さんが熱中症になるくらいの暑さなんですから、私なんかは安全策を取った方がいいのかもしれません。
この暑さの中で、私もそうなんですが、今週から夏休みを終えてオフィスや工場などが通常稼働に近い状態に戻ったものですから、首都圏で電力供給がピンチになっています。主たる原因は猛暑もさることながら、実は、柏崎刈羽原発の長期運転停止にあるようです。ご存じの通り、新潟県中越沖地震で被災してから、まあ、報道された通り、いろいろとあって運転を停止しています。関連する朝日新聞のニュースのうち、昨日と今日に見かけたものへのリンクは以下の通りです。
昨年も8月半ばに事故で東京が大停電したり、8月末には広島で断水があったりと、ライフラインにまつわる事故が発生しましたが、今年は首都圏で電力がピンチのようです。リンクにある昨日の記事に見られる通り、東京電力では今年の最大電力需要を前年実績より5%ほど増加の6110万キロワットと見積もっているところ、711.2万キロワットを担う予定だった柏崎刈羽原発が全面停止しており、供給余力がなくなったようです。昨年8月14日の東京大停電は突発的な事故といえますが、今年の場合は、地震の影響もあるとはいえ、供給が需要に追いつかないわけです。エコノミスト的には、需要が供給を上回りそうなんですから、価格を引き上げればいいような気もするんですが、短期的にはそうもいかないでしょう。
私はチリのサンティアゴ、インドネシアのジャカルタと南半球の途上国勤務の経験があり、特に、ジャカルタでは熱帯特有の雷を伴ったスコールのために、停電は何度か経験しました。特に、ジャカルタのアパートでは風呂場に窓がなく、ドアを閉め切った状態で停電すると、完全に真っ暗になります。子供達も今より小さかったので暗闇を怖がるため、バスルームにローソクをいっぱい並べた記憶があります。でも、ローソクは火事になる危険がつきまといますから、出来る限り利用は避けていました。また、サンティアゴやジャカルタでは大規模な断水の記憶はないんですが、何かコトがあると、メイドさんがバスタブに水を張って備えていたのを思い出します。
現在の日本では電力や水道などのライフラインが本格的に切断されることが稀になったため、ホントに電力の供給途絶なんかが生じたりしたら、東京は大パニックになるような気がしないでもないんですが、最近の報道では、まったくあり得ないことでもないようです。ジャカルタ暮らしの経験がある我が家は、それなりに、危機管理や危機対応の能力があるように感じていますが、それでも、いざという時の心構えと備えはしておきたいと思います。
今夜のエントリーは、我が家の危機対応能力を培ってくれたジャカルタに感謝して、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年07月04日 (水) 19:42:00
携帯電話は緊急連絡の時に便利か?
今朝の日経新聞朝刊に、携帯電話やIP電話の普及とともに固定電話が減り続けていて、今年の6月末で5000万回線を割った、との記事がありました。街中から公衆電話ボックスがすっかり減ったのは明らかですが、家庭用の電話でも減り続けているようです。私は緊急連絡時には携帯電話は便利であろうと考えないでもないんですが、実際には、自分で携帯電話を持っていないので何とも言えません。今夜のエントリーでは、緊急連絡における携帯電話の有用性について、特に、ジャカルタ在住時の経験から、少し考えてみたいと思います。まず、日経新聞朝刊の記事について、NIKKEI.NETのサイトから引用すると以下の通りです。
NTT東西地域会社の固定電話契約数が6月末で20年ぶりに5000万回線を割り込んだ。ピークの1997年度から10年で約2割減少した。全国どこでも同じサービスが受けられる通信のユニバーサル(全国一律維持)サービス制度は固定電話だけが対象だが、都市部を中心とする契約数の減少で制度維持が難しくなっている。総務省が3日開いた研究会はNTT以外の通信事業者にも維持義務を課すなどの制度見直しを2010年をメドに検討することを確認した。固定電話の減少ペースが加速すれば見直し議論が一段と高まりそうだ。
固定電話は「加入電話」と「ISDN(総合デジタル通信網)」契約者の合計。長い間通信の主役だったが、携帯電話の普及で若者を中心に自宅に電話を設置しない層が増加。電話交換機を使わないIP電話の台頭にも押され、00年以降は毎年契約数が減り続けている。
確かに、私の職場でも緊急連絡網みたいなのを作っていて、自宅の電話番号とともに携帯電話も掲載されているんですが、それを見ると携帯電話を持っていないのは私だけだったりします。ジャカルタにいた時には、緊急の安全情報を連絡する必要もあり、上のおにいちゃんが現地の日本人学校に入学した際にクラスの連絡網が配布されたんですが、ここでもおにいちゃんのクラスで携帯電話を持っていなかったのは我が家だけだったりしました。おにいちゃんのクラスの担任の先生が少し勘違いして抗議の連絡を受けたりしました。我が家が個人情報保護の観点から携帯電話を伏せていると勘違いしたようです。私が正直に携帯電話は持っていないと答えると、大きな意外感を持って受け止められながらも、何となく納得していただいたように記憶しています。決して、その後も変人扱いされることはなかったように思います。
我が家がジャカルタにいた時は、日本にいる時と同じで、専業主婦の女房は家にいますし、私は外回りのない公務員ですから役所と家を往復するだけで、自宅と職場の固定電話を登録しておけば十分だと考えていました。今もその考えに大きな変わりはありませんが、ジャカルタにいた時に言われたのは、自動車通勤している時に何かあればどうするのか、ということです。ジャカルタでは片道1時間ほどかかる道のりを自動車で通勤していましたし、ラジオを点けてもインドネシア語の放送は理解できませんから、テロ情報なんかの緊急連絡が自動車での通勤時にすぐに入手できるとは限りません。
また、テロ情報なんかの極端な場合の緊急連絡ばかりではなく、何らかのビジネス情報を緊急に入手する必要も考えられます。1時間遅れれば相場は大きく変化していたりしないでもないでしょうし、仕事上、緊急のレスポンスなんかが必要になることも考えられます。このような際にも携帯電話は便利だと考えられます。
しかし、我と我が身を振り返って、東京にいる時は言うまでもなく、ジャカルタにいる時でも、緊急情報の頻度は高くありません。ここは業績評価されない公務員の悪いところかもしれませんが、ある意味で、行方不明になって連絡がつかなくて、結局、不本意な作業を逃げ切れる場合もなくはありません。我が家から女房が職場に電話して来るのは一種の緊急情報と考えられるんですが、結婚して10年余りになりながら、女房が私の職場に電話して来たのは片手で数えられるくらいしかありません。逆に、私も家に電話することがあるんですが、2-3年前には、役所から配布されていた携帯電話を家に忘れたので、持って来てくれるように女房に電話したこともあったりします。携帯電話を忘れたのが緊急事態だったりするわけです。
ですから、私の場合は、席にある普通の固定電話の内線と電子メールがあれば、今のところは十分だという気がします。別の観点から見れば、携帯電話が必要ないほど、私が仕事で生み出す付加価値の機会費用がかなり低いんではないかと恐れていたりします。
2007年05月22日 (火) 19:54:00
サマータイムは地球環境にやさしいか?
今日の朝刊で見かけたんですが、サマータイムに関する議論が盛り上がっているようです。読売新聞のサイトから最初の3パラだけを引用すると以下の通りです。
夏季の時間を1時間早めるサマータイム制度について、政府・与党内で21日、導入に前向きな発言が相次いだ。
日本経団連は21日、自民党幹部と意見交換する「2007年自民党と政策を語る会」でサマータイム制度の導入を要望した。これに対し自民党の中川幹事長は「温暖化対策の一環として目指していく」と前向きな姿勢を示した。
安倍首相も同日夜、首相官邸で記者団に、「省エネルギーあるいは地球温暖化を防ぐためにいろいろなアイデアが出てくることはよいと思う。よく議論をしたい」と経団連の提案を評価した。塩崎官房長官も同日午後の記者会見で「様々な場で真剣な議論が行われている。我々としても歓迎したい」と述べ、導入ムードが一気に高まった。
私が海外生活を送ったのはチリとインドネシアなんですが、このうち、チリではサマータイムが実施されていました。それから、旅行した限りでは、シンガポールもかなり時計を進めている印象があり、朝の7時でもまだ薄暗かったように記憶しています。サマータイムの最大の眼目は夕方の時間帯が有効に活用出来ることです。要するに、太陽の出ている昼の時間が長いわけです。ですから、早くから電灯を点ける必要もなく、地球環境保護には適しているといえます。私は何度かこのブログでも主張しているように、冬の寒い時期に暖房温度を下げるよりも、夏の暑い時期に冷房温度を下げる方が、より体調への影響が少なく、マイナス6パーセントは夏にがんばるべきだと考えていますから、ピッタリの制度だといえます。さらに、午後の活動時間帯が長くなりますから、ショッピングや余暇活動なんかの個人消費も活性化されるんではないかと期待されます。経団連なんかは後者の効果を狙っているような気がしないでもありません。もっとも、外が明るいので、ついつい残業をしてしまい、ホワイトカラー・エグゼンプションなんかと組み合わせると、大幅な労働強化につながりかねません。経団連はこの面での効果も期待している可能性があります。
チリでは北半球とは逆で、10月から3月までがサマータイムで、しかも、サンティアゴ周辺は典型的な地中海性気候ですから、夏の季節は雨が降りません。雨が降らないどころか、毎日カンカン照りで雲ひとつない快晴のお天気が続きます。加えて、カリフォルニアなんかが典型なんですが、南北米州大陸の太平洋岸はほとんど砂漠の気候に近くて、日中と夜間の気温差がとっても大きくなります。南緯と北緯の絶対値で考えると、サンティアゴは日本ではほぼ福岡あたりに位置し、気温も似ている気がしないでもありません。ですから、夏季においては、日中の最高気温は32-3度まで上がるんですが、でも砂漠の気候に近いため、太陽が沈むと15度くらいまで急速に気温が下がります。ですから、夏でも夜間の外出は上着が必要ですし、逆に、日本のような熱帯夜はあり得なくて、エアコンはいっさい必要ありません。私が在チリ大使館に経済アタッシェとして勤務している時は、オフィスにはエアコンは必須でしたが、家に持っているのは大使だけと言われていました。
確かに、外が明るいので、ついつい時刻を忘れて残業しがちになりますし、特に、時差ボケのある出張者とのアポなんかは遅くなりがちでしたが、それも慣れの問題だと思います。夕方に仕事を終えてからから日が暮れるまでが長いですから、テニスをしたり、ジムに通ったりと、とっても有効に時間が使えます。中南米のラテンの国は夕食が遅いですから、駐在している日本人なんかは時間を持て余したりすることもあるようです。
サマータイムからは離れますが、サンティアゴでは交通も合理的になっていて、何本かの幹線道路では1日のうちで朝の通勤時間帯は郊外の住宅街から市内中心部のオフィス街に向かう方向で一方通行にして、夕方の通勤時間帯は逆の一方通行にしたりして、道路を有効的に使ってたりしました。また、日本のお盆やゴールデンウィークに当たるような国民的な連続休暇の季節には、休暇の始まりの日はサンティアゴから外に向かう一方通行にして、逆に、日本でいうUターンラッシュの日にはサンティアゴへ向かう一方通行にしたりしていました。思い切ったことをするもんだと驚いた記憶がありますが、合理的といえるかもしれません。でも、当然ながら、一方通行と交互通行を切り替える時には交通事故が多発していたような印象もあります。それなりの社会的なコストも生じていたというべきかもしれません。
いずれにせよ、今日のエントリーのテーマである「サマータイムは地球環境にやさしいか?」の回答は、"Definitely, it is!" だと思います。地球環境保護の観点から、また、私は外国で夏時間制度のある生活を経験した立場から、サマータイムを熱烈に支持したいと思います。
2007年05月08日 (火) 20:40:00
インドネシアの内閣改造と途上国における公務員の汚職
いきなり、閑話休題。
今日の本題ではないんですが、先週のエントリーでパワーポイントのテンプレートを取り上げたところ、先ほど回覧で回って来た「週刊東洋経済」5月12日号で、パワーポイントによるプレゼンが槍玉に上がっていました。「ミスター WHO の少数異見」なるコラムで「オフィスに蔓延<パワポ>の害毒」と題して、7点ものパワーポイントによるプレゼンテーションの欠点を上げていました。かなりの点で私も同意するんですが、でも、サラリーマンとして使わないわけにもいかない、というのがホンネではないかと思います。
というわけで、本題に戻って、今日付けの Financial Times (FT) の1面トップの記事を取り上げます。新聞の方では "Ministers axed as Indonesia fights graft" と題されていたんですが、 FT.com のサイトでは、 "Reshuffle targets graft in Indonesia" と題されていました。要するに、インドネシアのユドヨノ大統領が2人の大臣の更迭を含めて内閣改造を行ったという記事です。 FT.com のサイトから最初の3つのパラグラフを引用すると以下の通りです。
Susilo Bambang Yudhoyono dismissed five members of Indonesia's cabinet on Monday in an attempt to reinvigorate his flagging war on corruption; an important part of his reform programme.
The attorney general and justice minister were among those dismissed by the president. Two other ministers were moved in what was Mr Yudhoyono's largest reshuffle since taking office in October 2004.
Mr Yudhoyono became Indonesia's first directly elected president in a campaign that promised to fight corruption, stimulate the economy and introduce clean and effective government.
要するに、汚職撲滅のために内閣を改造したと言うことで、その中でも、摘発の先頭に立つ検事総長と法務大臣を更迭したようです。その他、配置換えと言うか、何と言うか、担当を変更した横滑りの3人を合わせて、5人規模での大臣の内閣改造でした。2004年10月にユドヨノ大統領が就任してからでは、もっとも大規模な内閣改造とのことです。
一般に、途上国では警官を含む公務員なんかの腐敗や汚職が蔓延している国が多いと言われています。少ないサンプルながら、私の印象では1人当たりGDPの少ない国ほど汚職がひどいような印象があります。地域別に見ると、アフリカが最もひどいらしくて、アジアや中南米がこれに続いているようです。もちろん、例外もたくさんあります。
この例外のひとつがチリです。私が赴任した1990年代初めのころ、中南米では例外的に治安もよく、汚職も少ないと言われていました。噂で聞いた範囲なんですが、メキシコからチリに赴任した人が交通違反で警官に車を止められた際に、メキシコで習慣になっていたらしく、運転免許証といっしょにドル紙幣を添えて渡そうとして、即刻逮捕された人がいるようなことを聞いたことがあります。どこまでホントかウソか知りませんが、3年間住んでみた私の印象からすれば、十分にあり得る話だと思います。
私が海外赴任したもうひとつのインドネシアは、FT の記事にもある通り、公務員の腐敗や汚職に関しては遅れている印象を持ちました。もちろん、もうひとつの海外赴任がチリでしたので、そういった印象を強く持った可能性もあります。しかし、噂で聞いた限りで、尾ひれがついて話が大きくなっている可能性が大いにあるとは言うものの、例えば、日本からインドネシアに海外投資をする際、何らかの許認可を受けなければならないわけですが、その許認可権限を持つ官庁の1階フロアに、役所とは直接の関係がないにもかかわらず、その官庁の長官なんかのエラいさんのファミリー企業が代書屋さんなんかを開業していて、そこで法外に高額な費用を払って申請用紙を書いてもらうと、許認可がとっても早く下りる、なんて噂はアチコチで耳にしたりしました。
もちろん、昨今、日本で話題になった公務員の天下り問題なんかは、極めて洗練された形の汚職ではないか、との冷めた意見もあり得ますが、実際に途上国をいくつか見て来た私は、かなり違うんではないかと感じています。最初に書いたように、1人当たりのGDPで計った豊かさと公務員の汚職には、ある程度の逆相関があり、貧しい国ほど汚職がひどいような印象があります。どちらがタマゴで、どちらがニワトリかは不明ですが、経済発展を遂げることにより、同時に、公務員の汚職を減少させることが期待されます。
2007年04月27日 (金) 19:21:00
サンチャゴに雨が降る
先日、ストラウドのバーティミアスのシリーズ全3巻を読み終えたところなんですが、今日も、大石直紀さんの「サンチャゴに降る雨」(光文社)を読み終えました。表紙にはスペイン語があって、La lluvia que moja Santiago. というそうです。サンチャゴを濡らす雨、といったところでしょうか。読書のピッチが上がっているのかもしれません。少し古い小説で、2000年の暮れに出版されています。今では文庫本で出版されているようなんですが、私は図書館で単行本を借りて読みました。内容は想像されるように、チリのアジェンデ政権をクーデタで倒したピノチェット独裁政権にまつわるサスペンス小説なんですが、一応、アマゾンから要約を引用すると以下の通りです。
軍事政権下のチリで、安井豊は謎の美女ビオレタと出会う。軍事クーデターで両親を失った彼女は、反体制のシンボルとなり、大統領の命を狙っていた。しかし、暗殺阻止に動いた大統領側近は彼女の幼馴染だった!独裁と自由。南米の熱きパッション。相反する理念を求め、男と女が対峙するとき、新たな時代の幕が開く。現代史の裏面を抉るポリティカル・サスペンス。
なお、今夜のエントリーは海外生活の思い出の日記として取り上げていますので、この本の中身にはそんなには触れません。ですから、ネタバレはないと思います。
ピノチェット将軍は昨年死亡しました。昨年12月11日のこのブログのエントリーでも取り上げたところです。1973年のクーデタ前後を題材にした有名な小説には深田祐介さんの「革命商人」があります。すでに絶版になって久しいと思いますが、私がサンチャゴに赴任する折には必読の書として読んだ記憶があります。さらに、深田祐介さんは「神鷲商人」と書いて、ガルーダ商人と読む小説も書いていて、インドネシア建国の父であるスカルノ元大統領のデビ夫人を主人公にしていたりします。ジャカルタ駐在中に私も読みました。
チリのピノチェット将軍は、およそ、20世紀の政治家ワースト10を選出すれば、ヒトラーにはかなわないかもしれませんが、スターリンやフランコなんかとともに、かなり上位に名前を連ねることが確実な人物です。特に、左翼系の人からは蛇蝎のごとくに嫌われていると言えます。史上初めて選挙で選ばれた社会主義者のアジェンデ大統領をクーデタで倒した後、軍事独裁政権下のチリ大統領に就任し、ある種の恐怖政治を実行したと考えられています。反対派への弾圧は凄まじかったと言われており、私も大使館の外交官として、民政移管された直後の1990年代最初の3年間をサンチャゴで過ごしましたので、そのようなお話は山ほど聞きました。
「サンチャゴに降る雨」はピノチェット将軍のクーデタの際に、ラジオで放送された「サンチャゴに雨が降っています」との暗号をモチーフにしています。もちろん、チリからフランスに亡命したソト監督による映画「サンチャゴに雨が降る」も、知ってる人は知っていると思います。1960年代にチリ人民連合のテーマソングであった Venceremos (ベンセレーモス)という題名の歌もあります。スペイン語で「我々は勝利する」と言う意味です。サンチャゴにいた時に数回聞いたことがあるんですが、日本では聞いたことがありません。でも、そんなところに行く日本人はめずらしいと言われました。でも、日本人が決して乗らないサンチャゴの乗合バスも私はしょっちゅう乗っていましたし、サンチャゴで私は日本人が考え付かないような行動を取っていた可能性はあります。
それにしても、アジアの途上国や中南米では国家元首が反対派に交代した瞬間に、国外に亡命したり、国内に留まれば処刑されないまでも牢につながれたりと、平和裏に政権交代が行われるのは稀になっているような気がします。民主主義がまだ根付いていない証拠なのかもしれません。そういったバックグラウンドがあるので、私がチリにいた時、当時の大統領は民政移管後で初代のエイルウィン元大統領でしたが、しきりと国民和解を主張していたのを思い出します。アジェンデ政権を支持した左翼系とピノチェット将軍を支持した右翼系の反目は大きいものがありました。いろんな文献を見ても、軍事政権がアジェンデ派を過酷に弾圧したことは明らかで、クーデタには米国のCIAやITTが加担していたと言う説もまことしやかに流布されたりしています。私なんかはピノチェット将軍に批判的で、アジェンデ派に同情的だったりしますが、それでも、ピノチェット将軍がチリで天寿を全うしたのは、チリの民主主義の成熟度を示すものであると、私は高く評価しています。別の話ですが、アジェンデ元大統領はクーデタで倒されたことにより、チリ国内の左派の中では神にも等しい地位を得たと言う人もいたりします。
しかし、南米では1982年のメキシコに端を発する累積債務危機のために、失われた10年を過ごした後、1990年代から経済が持ち直したんですが、今世紀に入ってからは、ボリビアやベネズエラなんかで反米左派の大統領が誕生するなど、40年前のチリの政治状況を彷彿とさせるものがあると指摘する意見もあったりします。チリでは親米左派ながら、前のロゴス前大統領とともに現在のバチェレ大統領も社会党出身です。民政移管後の初代のエイルウィン元大統領や、その次のフレイ元大統領がキリスト教民主党の出身だったのに比べて、ジリジリと左派色が強まっているのかもしれません。私は左右どちらでもいいんですが、健全な民主主義が南米に根付くことを願っています。
アジアについては、中国やインド、あるいは、ASEAN諸国を先頭に経済発展が目ざましいのに対して、中南米についても、これから発展する可能性が十分ある地域だと私は考えています。私には親しみもあります。その上で、これはアジアにもラテンアメリカにも共通して言えることなんですが、健全な市場経済の発展を支えるのは、強権的な独裁ではなく、健全な市民によって担われる民主主義であることを、もう一度、認識し直す必要があるような気がします。
ゴールデンウィークを前に、ここ数日と違って、少し重たいエントリーでした。
2007年04月06日 (金) 19:29:00
パソコンに蓄積されたデータ
Windows Vista が発売されて2ヶ月余りがたち、我が家でもパソコンの買換えを考えないでもありませんので、先週あたりから今のパソコンに蓄積されているデータを確認し始めていたりするんですが、いろいろと出て来ます。現有機種は2001年にジャカルタから一時帰国した際に日本で買ったものですから、6年近くにもなれば、いろんなデータが溜まっています。
大きな部分を占めるのは子供達のデジカメ写真なんですが、わずかながらビデオもありますし、デジタル録音した音声もあったりします。ジャカルタ以来、我が家ではデジカメはソニーのサイバーショットを愛用しているんですが、ビデオも撮影できる機種ですので、ごくごくまれにビデオも撮ったりしています。ジャカルタのころは子供達が2人とも幼稚園でしたので、お遊戯なんかを撮っています。ブログのサイドに置いてあります。
割合とめずらしいのは音声ファイルがあることです。一般にはほとんど知られていないと思うんですが、ノートパソコンであれば、デジタル録音するのはそんなに難しくありません。ノートパソコンはオールインワンと呼ばれるように、デフォルトでマイクが付属しているからです。Windows に付属しているサウンドレコーダーを起動し、右下の録音ボタンをクリックして、大声でノートパソコンに向かって叫べばデジタル録音される仕組みになっています。もっとも、サウンドレコーダーはごく短い時間しか録音できないように設計されていると記憶しています。Windows 標準の WAV ファイルで保存されますから、ファイルサイズが大きくなるためです。
我が家でも、最初のころはパソコンに向かって叫んでいたんですが、幼稚園児のことですから、よだれを飛ばしたりしますんで、ジャカルタ市内のパソコンショップで日本円に換算して100円もしないような安直なマイクを買い求めて来ました。マイクに向かうと子供達も目標があってやりやすいのか、いろいろとおしゃべりしたのを録音したりしました。マイクを買うと、もっと長く録音したくなったりして、フリーウェアでネットに置いてあるオンラインソフトをダウンロードして、子供達に歌わせて録音したりしていました。
2005年11月28日のエントリーでも取り上げましたが、我が家のホームページは京都の両親への親孝行だったものですから、音声の方でも、子供達に「おじいちゃん大好き」とか、「おばあちゃん元気ですか」なんてのをしゃべらせて、メールに添付して送ったりしていました。Windows 標準の WAV ファイルではサイズが大きいので、MP3 ファイルに変換していました。それらのファイルがいくつかパソコンのハードディスクに残っていたりします。なお、デジタル録音するのはそうでもないんですが、MP3 ファイルに変換するのには、それなりのスキルが必要です。
ちなみに、我が家の Windows の起動メッセージと終了メッセージは現在でも5年ほど前にデジタル録音した子供達の声を使っていたりします。ジャカルタにいたころの幼稚園児の声なもので懐かしさを覚えたりします。Windows のカスタマイズもいろいろあって、壁紙やスクリーンセーバーを変更するのは当たり前になっていますし、Windows 2000 以降では通常の操作でデスクトップのアイコンなんかも入れ替えられるようになっているんですが、起動や終了のメッセージを自前のにカスタマイズしている例は少ないと思いますので、我が家のパソコンのちょっとした自慢になっています。
最近、音声を登録してスクリプトで発行してくれるVOONというサイトを見つけましたので、アップロードしてみました。Windows の起動メッセージの方は下の子が「ピグモンが Windows を始めますよ」と言っていて、終了メッセージの方はおにいちゃんが「ティガが Windows を終わりますよ」と言っています。このころは子供達がウルトラマンに夢中だったことを思い出します。
2007年03月29日 (木) 19:39:00
チリ産ワインが安くなる?
先日の新聞報道にあったんですが、チリとの経済連携協定が調印され、秋くらいには発効するようです。チリ産ワインなんかがお安く買えるようになるのかもしれません。いつもの朝日新聞のサイトからの引用は以下の通りです。
日本、チリの両政府は27日、自動車などの即時関税撤廃などを盛り込んだ経済連携協定(EPA)に署名した。秋までの発効をめざす。日本によるEPAの締結・発効は5カ国目。南米諸国とは初めて。発効後には、日本の消費者はチリ産ワインを次第に安く買えるようになる見通しだ。
チリへの輸出総額は1040億円(05年)で、自動車が63%を占める。一方、輸入総額は5654億円で、銅鉱が38%、モリブデン鉱が17%となっている。EPAでは、両国間の貿易額の92%について関税を10年以内に撤廃する。また、チリ産ワインには現在、平均17.6%の関税がかかっているが、12年間で段階的に撤廃する。
チリは、銅などでは最大の対日供給国。日本はEPAでチリとの関係を深め、価格が高騰している銅など鉱物資源を安定的に確保したい考えだ。
私は大使館の経済アタッシェとして3年間、チリの首都のサンティアゴに住んでいましたので、チリ産品にはとても馴染みがあるんですが、お酒を飲まない私でもチリ産ワインが安く買えるのは魅力的だ思えます。その他のチリからの輸入品は、引用にあるように銅のインゴットやモリブデン鉱なんかですから、消費者向けと言うよりは、工業用の原材料なのかもしれません。
引用にはないんですが、私がサンティアゴに赴任した当時は、日本に輸出しているチリ産品として木材チップを聞いたことがあります。製紙用の原材料だと思います。最初はチリ南部地方で生産されるチップを日本に輸出していると聞いて、チップと言われればICチップしか頭になかったものですから、私はとってもびっくりしたんですが、よくよく聞くと木材チップだったので、妙に安心した記憶があります。今でも木材チップは日本に輸出されているんでしょうか?
それから、チリ産のお酒としては引用にもあるようにワインが有名なんですが、ワインを蒸留したピスコというお酒もチリ現地ではよく飲まれています。ピスコはチリだけでなく、ペルーにもあったような気がしますが、記憶は不確かです。日本でいえば焼酎に当たるんではないかと思います。ワインの蒸留と言えば、普通はブランデーなんでしょうが、そんな高級酒ではなく、もっと大衆的な飲み物だったと記憶しています。私はほとんど飲まなかったんですが、贈り物に買ったことがあります。
元来、チリを含めて中南米の各国においては地理的な位置関係から、経済的な関係も圧倒的に米国とのつながりが深かったんですが、私がチリに駐在していた時、ピノチェット軍事独裁政権から民政移管された最初のエイルウィン大統領の任期中に、チリから見た貿易の輸出先として、米国を抜いて日本がトップになったことがあります。チリの輸出に占める日本向けの割合が16-7%くらいだったと思うんですが、それでもスペイン語で、primer socio comercial と持ち上げられて、急激に日本に対する注目が高まりました。アチコチの大学や政府機関・国際機関、シンクタンクなどが主催するセミナー、シンポジウム、講演会なんかで、日本やアジアのことが盛んに取り上げられ、日本経済に関する講師派遣要請が大使館に来る一方で、在チリの日本人200人くらいの中でエコノミストと言えるのは私だけだったものですから、私がこれらを一手に引き受けて、つたないスペイン語でせっせとお話しした記憶があります。
大使館の経済アタッシェとして、日本・チリの経済関係のエポックのひとつに立ち会った者として、今回の両国間の経済連携協定の調印を心からお祝いしたいと思います。
2007年03月06日 (火) 20:27:00
スペイン語でエル・ニーニョは何を意味するのか?
先日、私がかなり遅いタイミングで出したクリスマスカードのお返しで、在チリ大使館の現地職員として、私のアシスタントだった人からカードをもらいました。日本でいえば寒中見舞いになるのかもしれません。私がサンティアゴにいたのは、もう15年ほど前のことですし、この人も大使館の現地職員を定年になっていると聞きましたが、15年前と同じ筆跡で懐かしく感じました。
南米はブラジルを除いて、多くの国がスペイン語圏です。チリも例外ではありません。でも、チリは本国スペインからもっとも距離的に遠いスペイン語国ですから、スペイン語の訛りもかなりあると言われています。例えが悪いかもしれませんが、北海道と沖縄は別として、日本の最北端の津軽弁や最南端の薩摩弁が標準語からかなり違いが大きいようなもんだと思います。青森や鹿児島の人には、ゴメンなさい。
実は、とあるブログでスペイン語ネタを発見しました。いろんな言葉をスペイン語で表現しているんですが、私のようなスペイン語圏で住んでいた人間からすれば間違いも散見されます。ハーブティーのカモマイル(カモミール)のことを、スペイン語ではマンサニージャというんですが、mansanija と書いていたので、コメントでミスを指摘したりします。スペイン語読みでホタという j はスペイン語ではハ・ヒ・フ・ヘ・ホの子音だから、mansanilla が正しいとコメントを付けたりしました。でも、そのブログの管理者さんから回答があって、実は、manzanilla が正しい、とのことで、私は少し恥をかいてしまいました。
英語でもサ・シ・ス・セ・ソは2通りの発音がありますが、スペイン語でも同じで、z や c は英語でいうところの th と同じ発音で2通りの発音があり、区別されます。もっとも、これはイベリア半島の由緒正しいスペイン語だけで、南米の発音では区別はありません。ですから、チリでしか暮らしたことのない私も、ついつい z と s のスペルミスをしたりします。ちなみに、どうでもいいことですが、スペイン語にはザ・ジ・ズ・ゼ・ゾの濁音はありません。
前置きが長くなりましたが、タイトルにしたスペイン語の話題を取り上げると、気象の方面でエル・ニーニョ現象があります。海水温が上昇し、これに伴って異常気象が発生する現象です。逆に、海水温が低下するのはラ・ニーニャだそうです。この言葉はもともとスペイン語を語源としています。スペイン語では el niño と書きます。英語に機械的に直訳すると the child となります。でも、単純にチャイルド=子供ではありません。日本語にはない定冠詞がミソです。英語ではいざ知らず、スペイン語でその子供と言えば、そんじょそこらにいる子供ではなく、たった1人を指します。イエス・キリストです。キリスト教の教えで三位一体というをご存じの方も多いと思います。父なる神と子なるイエスと精霊は三位一体、という教義です。この子なるイエスというのがポイントで、子供に定冠詞を付けるとイエス・キリストの意味になります。
どうして海水温が上昇する気象現象のことをエル・ニーニョと称するのかの由来なんかは私も知りませんが、ここまで人口に膾炙したエル・ニーニョという言葉は、実は、スペイン語でイエス・キリストを指しているんだという事実はほとんど知られていないように思います。イスラム教国のインドネシアで現地の人に教えた時はビックリしていました。
今日のエントリーはスペイン語ネタなんですが、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2007年02月18日 (日) 16:54:00
宝物の王冠

余りにも日本で見かけなくなったので、王冠の漢字があっているかどうか不安になって調べたりしました。王様が頭につける王冠と飲み物のビンにフタをする王冠は同じ漢字らしいです。gooの辞書で調べました。英語にすると、王様の王冠はcrownで、ビンの王冠はcrown capと言うらしいです。英語でも同じような表記なんですが、日本語の漢字だとまったく同じだったりします。
多くの国でそうなんですが、ジャカルタでも水道水が飲用に適しません。ですから、たいていの日本人の家庭にはウォーター・ディスペンサーを置いてあります。その上に、大きな5ガロン入りのミネラル・ウォーターのボトルをさかさまに立てます。1ガロンは231立方インチで、約3.785リットルです。5ガロンだと19リットル近くになり、重さも20キロ近いです。ですから、この大きなミネラル・ウォーターのボトルをひっくり返して、ウォーター・ディスペンサーの上に置くのは男の仕事です。当然のことですが、ウォーター・ディスペンサーの上にひっくり返して置いてあるボトルとともに、それが切れた時のために新しいボトルがウォーター・ディスペンサーの脇に置いてあったりします。まったくどうでもいいことですが、我が家ではインドネシアのトップシェアであるアクアではなく、アデスというブランドのミネラル・ウォーターでした。理由はよく分かりません。最初に入居した時からアデスだったような気がします。我が家がジャカルタで住んでいたアパートの地下にはミネラル・ウォーター会社の出張所みたいなのがいくつかあり、アパートの内線電話で注文すれば、10分ほどで持って来てくれました。台車を使うこともありましたが、5ガロンのボトルをそのままゴロゴロと転がして来た時もあります。
ジャカルタのアパートの内にはコンビニのようなお店があり、当然、そこでもミネラル・ウォーターを売っています。500ミリリットルから2リットルまでの小さめのボトルがあります。アパート内のコートでテニスをする時なんかは、この売店でミネラル・ウォーターのボトルを買って行ったりします。赤道直下の熱帯の炎天下のテニスですから、2リットルくらいの水が必要になります。
昨日から、下の子はヒスイの指輪を出して眺めたり、アクアの王冠をティッシュで磨いたりと、宝物のメンテに余念がありませんでした。ヒスイの指輪は私が香港で買ったのを、下の子が宝物にするというので、私がやったものです。他にも、下の子はキラキラと輝くものが大好きだったりします。その下の子の宝物から思い出したジャカルタの生活でした。
2007年01月25日 (木) 19:51:00
お誕生会の思い出
昨夜から我が家の下の子がご機嫌です。今日、小学校でお誕生会があるからのようです。松戸の小学校ではお誕生会はなかったんですが、青山の小学校ではお誕生会をやるそうです。我が家の下の子はお誕生会が大好きです。なぜ、大好きかというと、ジャカルタのころのお誕生会が、ともかくド派手で、子供達には楽しかったからです。
ジャカルタにいた時、我が家の近くにキッズ・スポーツという遊び場がありました。行った人しか分からないんですが、日本でいえば青山のこどもの城のわくわくらんどや浅草ロックスにあるウルトラマン倶楽部のジムランドを大規模にしたような施設で、室内で子供達がチューブなんかの中を遊び回ることの出来るものです。屋外のフィールド・アスレチックの室内版のようなものです。ジャカルタ現地ではそれ相応の値段なんですが、駐在している日本人からすれば、とても低価格で遊べます。幼稚園から小学校に上がったばかりくらいで、特に、我が家のように元気いっぱいの男の子には格好の遊び場でした。
ジャカルタのお誕生会は、各家庭ではなく、このキッズ・スポーツでやっていました。お世話係りのインドネシア人のおにいさんとおねえさんが片言の日本語で付き合ってくれて、ゲームをしたり、キッズ・スポーツ本体の遊び場で遊んだり、スナックタイムにはパーティールームでお昼を食べたりします。クス球割りもあり、バットでクス球を割ると、中に詰めてあったキャンディーが出て来るので、子供達が拾い集めるというものでした。スナックタイムでは各家庭が用意したお誕生ケーキを、ハンバーガーなんかのランチの後に、デザートとしていただきます。お開きになれば招待したお友達にお土産を渡します。もちろん、招待したお友達はお誕生日プレゼントを持って来てくれますから、家に帰ってから包みを広げるのも大きな楽しみでした。私は我が家の子供達の誕生日の際に、主催者側として行ったことしかありませんが、もちろん、お呼ばれで招待されて行くことも多かったようです。おおむね、我が家の子供達は兄弟でセットでお呼ばれしていたらしいです。もちろん、各家庭主催のお誕生会だけでなく、幼稚園なんかでも毎月のようにお誕生会がありました。
そんなわけですから、たぶん、おにいちゃんもそうなんだと思いますが、特に、我が家の下の子はお誕生会が大好きです。
2006年12月11日 (月) 20:11:00
ピノチェト将軍が死去
73-90年にかけてチリで軍事独裁を敷いたピノチェト元大統領(91)が10日、急性心不全のためサンティアゴ市内の病院で死去した。同氏の軍事独裁下、約3000人が殺害・行方不明になったとされる。一方で社会主義政権を倒して経済を再建した救国の英雄と崇拝されており、国論は長く二分されてきた。だがここ数年は、軍事政権下の人権侵害などについて訴追が進んでいた。
地元テレビによると、病院前では支持者が集まり、国歌を歌って死を悼んでいる。一方で、「独裁者」の死を喜ぶ人々もサンティアゴ市内の路上に集っている。地元紙のアンケートでは、55%が国葬に反対している。
私は在チリ大使館に3年間勤務しましたが、その当時でも、ピノチェット将軍は軍の最高司令官として、隠然たる勢力を有していました。ある晩に、自動車を運転していて道に迷い、ピノチェット将軍の自宅近くの道に迷い込んで、カービン銃を持った兵士に制止されたこともあります。外交官ナンバーの自動車だったので、手荒なマネはされませんでしたが、顔の間近に銃口を突きつけられるのは怖かった記憶があります。
引用した記事にもある通り、左派を弾圧して大量の死者や行方不明者を出し、その被害者などから蛇蝎のように嫌われていた一方で、社会主義政権をクーデタで倒して自由主義的な経済改革を進め、完全に崩壊していたチリ経済を立て直した英雄であると称える人もいたりします。今日付けのFinancial Timesでは、この点を評してなんだろうと思いますが、controversialと表現していました。もっとも、現在の中南米には、ベネズエラのチャベス大統領とか、ボリビアのモラレス大統領とか、はては、キューバのカストロ議長とか、controversialな元首にはこと欠きません。
引用した記事にもある通り、国民の過半数が国葬に反対しており、軍葬として執り行われるようです。現職の大統領であり、ピノチェット軍政下での拷問の犠牲者でもあるバチェレ女史は早々に欠席を決めたそうです。経済的にはシカゴ学派をバックボーンにして成功を収めましたが、政治的には強権路線で国内の融和が実現されず、最後まで裸の王様だったような気がしないでもありません。
しかし、独裁者の末路は哀れなものといわれていますし、民主主義が必ずしも十分に成熟していない国では、独裁者が退陣することは、国外に亡命するか、国内に留まれば何らかの訴追を受けるか、ひどい時は暗殺されるか、と相場は決まっているんですが、私が駐在したことのあるチリとインドネシアでは、独裁者が退陣しても、それなりの訴追は受けたものの、高齢による体調不全などもあって、結局、長寿で国内に留まっているのは不思議なめぐり合わせだと思っています。お隣の韓国なんて、ずいぶんと経済成長を遂げたんですが、やっぱり、軍出身の元大統領は山に蟄居させられたりしているんですが、経済規模が韓国まで達しないチリやインドネシアで、軍出身の元大統領の独裁者が、亡命も暗殺もされずに国内で高齢まで生き長らえているのは、両国の国民性の故なのか、と考えたりしています。
少し脱線してしまいましたが、いずれにせよ、ひとつの時代が終わったと受け止めています。
2006年12月04日 (月) 20:03:00
日本では昼休みが短い
今日は少し昼休みを長めに取りました。忘れていたんですが、今月12月から吉野家が牛丼をランチタイム限定で復活させたので、赤坂まで食べに行きました。前回11月は2軒ハシゴするつもりで並盛りと生卵にしたんですが、今日は大盛りにしました。やっぱり、吉野家の牛丼はおいしいです。今の職場では、昼休みは1時間足らずしかありません。通常の役所では1時間です。まあ、普通の民間企業なんかでも1時間のところが多いような気がします。霞ヶ関の官庁街から赤坂に出て、吉野家の前には5-6人が行列をなしていましたので、いかに「うまい、やすい、はやい」の吉野家でも職場に戻るのにそれ相応の時間がかかります。
ジャカルタでは運転手さんにレストランに連れて行ってもらってランチを済ませていました。私はほとんど例外なく味平という日本食レストランに行っていました。週に2回はカツカレーだったような気がします。私の職場の運転手さんしか味平への行き方を知りませんでしたので、私が単独でタクシーに乗って行くのは道を知らないのでムリでした。ジャカルタに行った最初は、運転手さんにランチに連れ出してもらうのは違和感があったんですが、すぐに慣れました。日本に帰国すれば、私のような参事官クラスの人間と、ランチまでいっしょに行こうとする人は少なくて、私はおおむね単独でランチに出ていますので、ジャカルタで1人ぼっちでランチに行く訓練をしていたようなもんです。ジャカルタのイスラム教徒は、ライチタイム少し前のお祈りの時間から昼休みに入りますので、昼休みはとてもフレキシブルだった気がします。
サンティアゴの昼休みはとても長かったです。12時半から昼休みに入り、3時まで2時間半ありました。どうも聞いていると、始まりの時刻を日本人に合わせて、終わりの時刻をチリ人に合わせた結果、こんなに長くなったらしいです。私が在チリ大使館に勤務していた当時から、近隣諸国と比較しても異様にランチタイムが長いので、外務省の本省からも文句をいわれていたそうです。私は、ジムに通ってエアロビやリーボックのステップをやったり、区営のテニスクラブでコーチにテニスを教わったりと、1時から2時まで1時間ほどスポーツで汗を流した後、2時過ぎにアパートに帰ってシャワーを浴びて、適当に軽食をつまんで職場に戻っていたような気がします。通常、ラテン諸国のランチは昼過ぎ、おなかの空くギリギリまでガマンして、一気にタップリ食べて満腹にして、夕食を遅くにちょっとだけ食べるんで、これはこれで合理的は食生活らしいんですが、私はあくまで日本人スタイルの食生活を送っていました。夕食は必ず日本食のレストランに行っていたりしました。
吉野家が牛丼を時間限定ながら通常メニューに復帰させた12月に入って、昼休みのランチタイムについての感想でした。
2006年11月27日 (月) 19:42:00
クレジットカードでクリスマスセール
また、認証一般についても、指紋や手の平の静脈などの生体認証が普及して来ています。私がメインで使っている銀行でも、ICカード化や生体認証が出来るATMが増えつつあるような気がします。パソコンもセキュリティの観点から指紋認証を導入する企業なんかもあるようです。パソコンはともかく、日本では古くから印鑑による認証が多かったんですが、今では、区役所の窓口くらいしか印鑑を必要としなくなった気がします。もっとも、私は公務員ですから、何かの折りに必要となる可能性を考えて、三文判と呼ばれる印鑑を常に携帯していたりします。
海外ではチリとインドネシアに在住していましたが、もちろん、印鑑は使いません。インドネシアでは銀行口座を開設しようと思えば、パスポートには漢字のサインではなくアルファベットのサインが必要だといわれて、パスポートにはアルファベットでサインした記憶があります。我が家がジャカルタに赴任した当時は、子供達が4歳と2歳だったので、パスポートのサインは私が代筆でしたんですが、公用旅券は2年間で期限が切れますので、現地で新しいパスポートを発行してもらった時には、子供達にも自筆でサインさせました。現地の英語教育の幼稚園に通わせていたので、何とか、自分の名前をアルファベットで書くことは出来たんですが、サインすべき枠内に小さい字を書く練習をさせました。下の子なんか、今でも小さい字を書くのが苦手だったりします。
サンティアゴでは小切手を使っていましたから、スーパーマーケットなんかでも小切手にサインして使うことがありました。クレジットカードと小切手では価格が違っていたりします。クレジットカードだと入金されるのが少し先になったり、手数料を取られたりするので、割高になってしまうんですが、小切手なら現金払いと同じ価格設定だったりしました。ですから、小切手を使っては、翌日の朝一番に大急ぎで銀行に入金したこともあったりします。
米国ではクリスマスセールといえば、感謝祭と呼ばれる11月第4木曜日のサンクスギビングデーの翌日から始まり、クリスマスイブまで続きます。感謝祭の翌日の金曜日は黒字の金曜日(Black Friday)と呼ばれています。たまたまなんですが、今年は米国の感謝祭が11月23日で、日本の勤労感謝の日と同じでした。事前の予想では今年の米国のクリスマスセールは好調ではないかといわれていますが、この週末もなかなかのスタートだったようです。AFPのサイトでは、米国全国小売連盟(National Retail Federation、NRF)による予想が引用されており、1億3700万人の消費者が、家電製品やおもちゃなどの買い物をし、11月24日の今年の黒字の金曜日には、午前5時から開店する店もあると報じられています。
日本でもクリスマスセールが始まる今日このごろに、親バカの私も子供達にいろいろと買い与え、サインなどの認証について考えてみました。米国のクリスマスセールの動向については、別途、エコノミストとして情報を収集したいと思います。
2006年11月20日 (月) 20:17:00
妻をどう呼ぶか?
さて、先週に今年7-9月期のGDP速報が出ました。その筋ではQEと呼ばれているヤツです。昔はこの7-9月期のQEは12月の第1週に出ていて、民間のシンクタンクなんかや政府でも、そこから来年度の経済見通しなんかが作成されたりしていたんですが、今ではかなり前倒しされています。
この来年度見通しなんかについて、先週後半あたりからいろんなエコノミストと意見交換したりしているんですが、かなり前からの知り合いの人も多かったりするんで、ついつい、家庭の事情なんかについてまで話題が広がったりします。その中で、自分の配偶者について、いろんな呼称があることに気づきました。私は、話し言葉でも書き言葉でも、女房で統一していたりするんですが、カミさんというのも多いです。大昔に流行ったワイフというのは、最近は使われていないような気がします。やっぱり、日本では違和感があるのでしょう。職場なんかでは、若い人には嫁と呼ぶ人もいます。中には、自分自身の配偶者をウチの奥さんと呼ぶ人もいたりします。
でも、通常、他の人の配偶者については奥さんが多いと思うんですが、私が在チリ大使館に勤務していた時は、奥さまというのは固有名詞でした。大使夫人を指す時だけに使われていたようです。もっとも、在チリ大使館に外交官として勤務していた当時は、私はまだ独身でしたので、そんなに深く考えていなかったんですが、チリに赴任した直後に外務省のある先輩外交官の家を訪ねた時に、年配の女性がいたので「奥さまですか」とお聞きしたところ、「今日は奥さまはいらっしゃっていません」と返事されて、何が何だかよく分からなかったことがあります。その後日になって、奥さまというのは大使夫人だけに使われるのだと理解した次第です。外務省の人達の考えることは、私にはよく理解できませんでした。チリの他でもこんな具合なんでしょうか。
ようやく、Internet Explorer V7をインストールし、フォントを500近くコピーして、パソコンのセッティングを終えました。タブ・ブラウザの威力をまざまざと見せつけられたように感じます。NetScapeは一足先にタブ化していますし、これからは、インターネット閲覧はタブ・ブラウザが主流になりそうです。でも、我が家の非力なパソコンでは、たくさんのホームページを開くとマシンの応答が悪くなってしまいます。早く新しいのに買い換えたいと改めて感じさせられました。
2006年10月16日 (月) 22:19:00
ピノチェット軍政下での犠牲者
ピノチェト元大統領の軍事独裁が90年まで続いたチリで、拷問の被害者として初めて大統領となったバチェレ氏が14日、サンティアゴ市内の秘密収容所「ビジャ・グリマルディ」跡を31年ぶりに再訪した。チリやアルゼンチンでは米国の支援を受けた軍事政権下での人権侵害について問い直す動きが活発化している。
バチェレ氏は医学生だった75年1月、母親とともに秘密警察に拉致され、グリマルディで2カ月間、尋問と拷問を受けた。反ピノチェト派の空軍将校だった父は拘束中に死亡した。現在は公園となっているグリマルディを母とともに訪ね、「痛みと悲しい記憶、恐怖が呼び戻された」と当時を振り返る一方、「命と自由と平和を取り戻す機会でもあった」と語った。
73-90年のピノチェト独裁下、約3000人が死亡・不明となり、約3万人が拷問を受けたとされる。グリマルディはその象徴的な存在だ。数千人が拷問を受け、約300人が行方不明になった。
ピノチェト氏の裁判はこれまで、元大統領としての免責特権や、高齢による健康上の理由から、多くが停止されてきた。だが、昨年から裁判再開の動きが徐々に進み、グリマルディでの拷問についても裁判で問われることになっている。
私はそもそもバチェレ大統領を知りませんでしたし、バチェレ大統領がピノチェット軍政下で拷問を受けた被害者だということも、もちろん、知りませんでした。こんなことを書くと、そんなの知らなくて当たり前じゃん、といわれてしまいそうですが、そこは、さすがに経済大国ニッポンの外交団の経済アタッシェでしたから、それ相応の面識はありました。ピノチェット独裁政権から民政移管された初代の大統領であるエイルウィン元大統領のころに私はチリに赴任し、大使の交代に伴う信任状奉呈に同行して、当時のエイルウィン大統領とスペイン語で会話したこともありますし、その次のフレイ元大統領とは、1994年3月の大統領就任式の直前の2月の夏休みに、私のゴルフクラブで出会って、私たちのパーティが大統領のすぐ後でプレーしたこともあります。さらに、現在のバチェレ大統領の前のロゴス前大統領も面識はありませんが、私がサンティアゴにいた当時の社会党の党首として顔と名前くらいは知っています。ちなみに、ロゴス大統領の長男がチリ外務省の顧問をしていた時に、APECの関係で私がチリに出張して面会した記憶があります。私がお仕えしたころの在チリ日本大使は、大使は天皇の名代、公使は総理大臣の名代、そして、吉岡さんは大蔵大臣や経済企画庁長官などの経済閣僚の名代です、といい放った大使がいたりしました。ホントにエラいかどうかは別にして、エラそうにしていたことは事実です。
それはともかく、ピノチェット独裁下では政治的な強権の基で、シカゴ学派的な経済改革が民主的な手続きを無視されて実行されたといわれています。南米はポピュリスト的な政権が多く出現したことがあり、例えば、財政の均衡を無視して税金を安くし、補助金を増やすなどのポピュリスト政策が取られた時代もありました。ですから、中年以降くらいの方は、南米といえば、ブラジルやアルゼンティンなんかで放漫財政のあげくにハイパーインフレとなっていたのを記憶している人もいると思います。それに対して、チリのピノチェット独裁政権はポピュリスト的な政策を取る必要もなく、民主的な国会審議などの手続きも無視して、ある意味では、国民の負担を軍事的・強権的に求めることが可能でしたから、かなり思い切った経済改革を進めたことは事実です。特に、ピノチェット大統領の前のアジェンデ政権は社会党と共産党の連立政権で、ポピュリスト的な色彩がとても強かったといわれていますから、それを否定して反対の政策を行った面もあるのだろうと思います。
その結果、今でもチリは南米を代表する市場経済的な経済改革を実施して、産業界や国民も経済改革を強く支持しているようです。例えば、年金は完全民営化されていて、民間の保険会社が運営しており、実態上、国民皆保険に近いんですが、政府が年金を徴収したり、給付したりすることはありません。国民は自己責任で年金会社を選びますし、もちろん、乗り換えることも自由です。社会党を含むコンセルタシオンと呼ばれる現在の与党連合も経済政策面ではピノチェット独裁政権の政策を踏襲しているように見受けられます。ですから、米加自由貿易協定にメキシコが加わってNAFTAが出来た後、南米では最初にチリがこれに加盟したりしています。南米のアキレス腱だったインフレもかなり抑えられています。南米で通貨危機があっても、チリにまで伝染(contagion)することはないようです。
逆にいうと、経済的にはポピュリスト政策が南米においてすら破綻し、経済改革路線が南米で真っ先に定着したチリにおいてこそ、ピノチェット軍事政権化での人権問題を取り上げる余裕が出来て、再び、政治の季節を迎えるのかもしれません。
経済評論の日記と海外生活の思い出の日記で迷った末に、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2006年10月10日 (火) 20:15:00
季節のある国とない国と
日本に帰国して、そこそこ大きくなったので、自分で入浴出来るようになったんですが、相変わらず浴室から裸のままで出て来ます。そして、それぞれの子供部屋のベッドの下に引き出し式の衣装ケースがありますから、そこから下着やパジャマを取り出して自分で着ます。パジャマを切る前にもっと興味のあることを発見すると、当然ながら、裸で家の中をうろついて、私や女房に知らせに来たりします。
どうして、こんな話を思い出したかというと、先日、下の子が参加しているボーイスカウトのカブ隊の隊長さんとお話しする機会があり、もういい中年のオッサンなのに、カブ隊の隊長さんも風呂上りは裸で家の中をうろついているそうで、ついつい、我が家の子供達の行動パターンを思い出してしまいました。カブ隊の隊長さんの家では、奥さんと男のお子さんは浴室にある脱衣室でパジャマを着てから出て来るそうですが、隊長さんだけは裸で家の中をうろつくそうです。季節のある日本で生まれ育った人でもそうなんだと驚きました。
それから、季節のあるなしと関係ないんですが、ジャカルタでは家が広かったし、子供達が小さかったですから、家の中を走り回っていました。小さいころは何をして遊ぶかと聞けば、かけっこと答えて家の中を走り回ったりしていました。メイド部屋を含めて、かなり広いもんですから、子供達が小さい時には真剣にかくれんぼが家の中で出来たりしました。サッカーをしたこともあります。
日本に帰国して松戸の団地に入って、子供達がかなり大きくなったのもありますが、家が格段に小さくなりましたから、相対的に走り回れる余地がとても小さくなったので、しばらくの間は外で遊んだりしていました。しかし、青山に引っ越して家が大きくなり、しかも、いわゆるリビング・ダイニングでリビングとダイニングの部屋がいっしょになった広い部屋があるもんですから、またしても、子供達が家の中を走ることが多くなりました。そういえば、ジャカルタでもリビング・ダイニングのリビングの方に小さなソファだけを置いて、意図的に子供達が走り回れるスペースを確保していた記憶があります。今の青山の家では、下の子の部屋はこのリビング・ダイニングにドアひとつで出て来られるんですが、おにいちゃんの部屋は廊下でつながっていたりしますんで、おにいちゃんは特にみんなのいるリビング・ダイニングに走って来ることが多いような気がします。
下の子のカブ隊の隊長さんの面白いキャラクターに触れて、北朝鮮で核実験が実施されたと発表されたにもかかわらず、何となく、のほほんとしたエントリーになりました。核実験に対するエコノミスト的なマーケットの反応について、それから、長期のフィリップス曲線が垂直であることを明らかにしたフェルプス教授のノーベル経済学賞受賞については、後日、改めて取り上げたいと思います。
2006年09月26日 (火) 23:30:00
ラマダンが始まる
ということで、お話を天気に持って行って、先週末に新月を終えて、イスラム教徒はラマダンに入ったのではないかと思います。ラマダンは太陰暦に基づいていますので、新月から新月までです。ここで、脱線すると、日本で新月を新月と呼ぶのはモロに中国の影響なんだと思うんですが、これは西欧語圏でも新月をnew moonと呼ぶのと合致しています。言語圏が違っても、新月は満月に向かう生まれたばかりの月である、ということについては同じ認識を持っていたんだろうと思います。
ラマダンに戻ると、イスラム教徒はラマダン期間中は太陽の出ている時間帯には断食をします。食べ物を取ることを控えるだけでなく、水を飲むこともしません。厳格なイスラム教徒であれば、唾を飲み込むことすらしないといいます。もっとも、断食は太陽が出ている間だけですから、太陽が出る前の早朝とか、太陽が沈んだ後の夜間なんかは断食はしません。当然です。1ヶ月もの間に渡って断食を続ければ、普通の人間は死んでしまいます。それから、断食により精神的な強さを身に付けることが目的とされているようですから、断食をするだけでなく、ラマダン期間中はそれなりに享楽的な行為も規制されます。ですから、歓楽街は閑古鳥が鳴きます。
我が家がジャカルタに住んでいた時にもラマダンはありました。これも当然です。でも、私の記憶が正しければ、ラマダンはアラビア語で、ヒジュラ暦の第9月を指す普通名詞です。インドネシア語では断食のことをプアサといいます。ヒジュラ暦は太陰暦ですから、我々の使っている太陽暦でカウントすれば、毎年移動して行きます。我が家がジャカルタに着いた2000年は11月終わりからでしたし、少しずつ早まって、今年は9月下旬からラマダンが始まります。
「ダビンチ・コード」にも自分自身を肉体的に痛めつけるキリスト教の一派が出て来ますが、先ほども書きましたように、ラマダンも断食などにより自分自身を律して、ある種の肉体的な苦痛を与えることにより精神面を鍛えることを目的としているようです。私は仏教徒で一向宗の門徒ですから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、死んだ時に極楽浄土に成仏できる、とする極めて安直な宗教観を持っています。南無阿弥陀仏と念仏を唱えること以外には、生きている時に何の苦痛や修行も必要としないわけです。私の性格や人生観・世界観にとてもよくフィットしているとしかいいようがありません。
3年間家族で住んだジャカルタの生活を思い出しつつ、海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2006年09月21日 (木) 22:07:00
YouTubeに動画をアップロードする
ということで、話題を強引に動画に振って、最近、話題になっているサイトで、今夜のエントリーのタイトルにしたYouTubeがあります。これも無料サービスです。会員登録してメールアドレスの確認を受けると、自分で動画をアップロードすることが出来て、そのURLやJAVAスクリプトを発行してもらって、自分のホームページやブログに貼り付けられるようになっています。
ということで、私も会員登録して我が家のホームページに置いてある動画をアップロードしてみました。
まず、ひとつめです。
もうひとつです。
YuoTubeから発行されたスクリプトよりかなり小さくしてあります。そのままでは大き過ぎてページに入り切らないからです。どちらも、真ん中の大きな三角ボタンか左下の三角ボタンをクリックすると、ダウンロードが始まってバッファーを終えると動画を再生します。別窓が開くわけではありません。もっとも、それ以外の画像部分をクリックすると別画面で動画を再生するYouTubeのページが開きます。ブラウザによってはうまく表示されないかもしれません。悪しからず。
最初の動画は2002年12月15日に録画しました。下の子の幼稚園でのクリスマス会のお遊戯です。雪だるまに扮して踊っています。YouTubeのリンクはこちらです。このころ、我が家では年齢制限の関係で、下の子は現地のテディベア幼稚園に通っており、おにいちゃんはジャカルタ日本人学校(JJS)の幼稚部に通っていました。どちらもアパートまで送迎バスがあったのが大きなポイントです。なお、もうひとつの方の動画は2003年2月15日に録画した、おにいちゃんの生活発表会でのバンブーダンスです。同じく、YouTubeのリンクはこちらです。
どちらも1MB余りの小さな動画ファイルなんですが、我が家ではソニーのサイバーショットで静止画の写真と動画の両方を撮っていて、動画を録画する際の操作の仕方をよく理解していなかったものですから、動画の大きさが違います。写真の方は640x480ピクセルでサイズはおおよそ60KBくらいと統一されているんですが、たった2本しかない動画は不統一です。最初の下の子のお遊戯の動画は160x112ピクセルで1分間あり、もうひとつのおにいちゃんのバンブーダンスの動画は320x240ピクセルで15秒間です。どちらも同じように録画したつもりなんですが、ファイルサイズを同じにする設定になっていたようで、大きさが違う分、収録時間が違う結果になってしまいました。
いろんな無料サービスが出来ると、私は一応、ものは試しで使ってみています。それにしても、ウチの子はかわいいですねえ。世界中に配信したくなるのも無理はありません。
今夜のエントリーは、ホントなら親バカの日記なのかもしれませんが、そのようなカテゴリーは設定しておらず、動画の舞台がジャカルタですから、無理やりに海外生活の思い出の日記に分類しておきます。
2006年09月11日 (月) 23:10:00
チリ駐在のころから大判ダイアリーを使い始める
大判のダイアリーを使うのは在チリ大使館に勤務していた時の経験からです。サンティアゴに駐在していた時は、現地の日本人一世が経営している旅行代理店から大判のダイアリーをもらっていて、それがとても使いやすいので、日本に帰国してからも同じようなのを使うようになりました。決して、ウチの下の子のように小さい字を書くのが苦手だからではなく、たくさんの予定を見やすく収録できるからです。日本に帰国してからは、某自動車メーカーから赤い表紙の大判のダイアリーをもらっています。
ジャカルタにいた3年間も、基本的には、インドネシアにあるこの自動車メーカーからダイアリーをもらっていましたが、最初の年に入手できなかったので、パソコンの日程管理ソフトもいっしょに使うようになりました。パソコンの日程管理ソフトは検索機能が使えるので、今でも重宝して大判のダイアリーと併用しています。時々、日程管理ソフトの日程のデータだけを家に持ち帰ったりしています。昨年末に朝食会を遅刻してしまいましたので、日曜日にパソコンを起動する時には、自動的にこの日程管理ソフトが起動されるように設定しています。
大判のダイアリーは少し前まで使っていたカバンに入り切らないので、役所にずっと置いてあります。ジャカルタでもそうでした。先日の週末のある日、自宅に投資目的のマンション購入を勧める電話がかかってきて、平日夕方のアポをしつこく求められましたが、日程表を役所のオフィスに置いてあるので自宅では予定が分からない、の一点張りで拒否したこともウソではありません。このダイアリーは外国向けのモノで、曜日は英独仏西の4ヶ国語で表記されていたりしますが、日本語表記はなかったりします。古い予定表は年の終わりにシュレッダーで廃棄処分しますが、パソコンの日程管理ソフトのは、今でも使い始めた時からの日程がすべて残っています。必要な場合には、5年くらい前までの日程はいつでも確認できます。
下の子のメモ帳から思い出したチリ時代から使い始めた大判ダイアリーの思い出でした。今日のエントリーは無理やり海外生活の思い出の日記に分類しておきます。