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2005年11月08日 (火) 22:26:00

ラテンアメリカ諸国とローマ法王の関わり

今夜は、在チリ大使館に駐在していた時の思い出をもうひとつ。
ほとんどのラテンアメリカ諸国はポルトガル語国であるブラジルを除いてスペイン語国で、すべてカトリック国です。カトリックの法王とラテンアメリカ諸国との関係で思い出すのは国境と列聖の2点です。

まず、ラテンアメリカは1492年にコロンブスによって発見された後、ロ一マ法王の示唆によってスペインとポルトガルのアメリカ大陸領有を調整することになり、1494年6月に両国はトルデシリアス条約を結び、大西洋のベルデ岬西方の西経48度に境界線が引かれ、スペインはそれより西を、ポルトガルはそれより東を領有することになりました。その後、1506年にはこの境界線は西経50度まで少し西に移動され、ローマ法王の勅許を得ました。
ですから、国境線の確定にローマ法王は深く関与しています。
実際に、私が在チリ大使館にいた1990年代前半においてすら、チリとアルゼンティンの間の国境紛争にはローマ法王庁が仲介に入ったりしています。

次に、列聖については、聞きなれない言葉ですが、キリスト教で聖人に列せられることです。キリスト教と言っても、カトリックとギリシャ正教だけで、プロテスタントにはないそうです。
当然ながら、ラテンアメリカ諸国も、国民の大部分がカトリックなのですから、適当な候補者がいれば、国威発揚のために自国から聖人を出したいに決まっています。私がチリに駐在していた時もそうで、大統領夫人が先頭に立ってローマ法王庁に陳情に行ったりして、チリの国を上げてマザー・テレサを聖人に列聖する運動をローマ法王庁に対して繰り広げていました。もちろん、マザー・テレサと言っても、例のオリビア・ハッセー主演で映画になり、1979年にノーベル平和賞を受賞した後も1997年に亡くなるまでインドで活動を続けられたマザー・テレサとは別人のチリ人の聖職者です。
徳と聖性を示していた人に関しては、死後に列聖の申請が行われて、調査が始められます。この調査では、まず地域司教の管轄下で調査が行われ、聖人にふさわしいと判断されるとローマ法王庁の列聖省で調査が開始されるのですが、チリを管轄する地域司教は甘めに調査を進めるに決まっていますから、本当の調査や審査はローマ法王庁に委ねられることになります。
列聖の申請に対する調査においては、その人物の取次ぎによる奇跡(超自然的現象)が必要とされますので、「マザー・テレサはこんな奇跡を行った」と、しょっちゅうチリのマスコミで取り上げられていましたが、私は仏教徒のエコノミストなので、フフンと鼻で笑っていました。それはさておき、これらの厳しい調査や審査を終えて、ローマ法王庁において聖人に加えるのがふさわしいと判断されると、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において法王によって列聖が宣言されます。
マザー・テレサは見事にローマ法王庁の厳しい調査と審査にパスして列聖され、サンタ・テレサとなりましたが、その当時で、チリからの聖人は3人目でした。他の2人は知りませんが、私は何人かのチリ人から半ば自慢げに「チリでは3人目だが、日本ではキリスト教の聖人は何人いるのか」と聞かれました。私は調べが済んでいたので「20人」と答えると、カトリックでもない仏教国の日本の方がチリより多いのか、と言うカンジでびっくりされました。実は、カラクリがあって、殉教者は奇跡の何のと言わずに、ローマ法王庁も割合とホイホイと列聖してくれるのです。日本では、豊臣秀吉時代に長崎で殉教した日本26聖人のうちの20人が日本人でしたので、それらの方々が聖人として列聖された訳です。しかし、この部分は仏教徒のエコノミストにはとても難しいスペイン語でしたので、特に詳しくは説明しませんでした。
サンタ・テレサが列聖されてから、サンティアゴ東北部をアンデス山脈に向かって走る大きな道路の名前をJ.F.ケネディからサンタ・テレサに変更しようではないか、との話が一部で持ち上がりました。しかし、少なくとも私がチリを離れる1994年4月までは、聖人とは余り関係のないプロテスタント国の米国に遠慮してか、道路の名称変更はなされませんでした。今ではどうなっているか、私は知りません。
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2005年11月08日 (火) 20:22:00

フジモリ元ペルー大統領@サンティアゴからチル・ペルー関係を考える

一つ前のブログの最後に書いたように、昨夜の9時過ぎにサンティアゴ在住の友人からメールをもらって知りましたが、ペルー元大統領のフジモリ氏がサンティアゴで身柄を拘束され、警察学校で事情聴取を受けているそうです。
メールで知らせてくれたのは、私が1991-94年に在チリ日本大使館で経済アタッシェをしていた時に、毎晩のように夕食に行っていた日本食レストランの板前さんです。
警察学校はサンティアゴ市内の東部にあり、少しアンデス山脈の方に上っていったところにあるアレだろうと思います。サンティアゴ駐在時に近くのディスコに行った記憶があります。ほとんど照明のない真っ暗なディスコでした。もっとも、違っているかもしれません。

私がいたころのサンティアゴには日本の新聞記者が駐在しておらず、日経新聞のリオデジャネイロ支局の記者が時折サンティアゴに来ては、私に対するインタビューも含めて取材をしていました。私がいた1990年代前半に、日経新聞は支局をリオデジャネイロからサンパウロに引越ししたように記憶しています。今回は読売新聞の記事を参照していますが、読売新聞はブエノスアイレスに支局を置いているようで、そこの記者さんが取材して記事を書いているようです。

それにしても、フジモリ氏はどのような意図でチリに入ったのでしょうか。事情聴取が進められている現段階では憶測でしかありませんが、やっぱり、チリはペルーと仲が悪いので、やや油断していたのではないでしょうか。これが私の推測です。

現時点でも、チリとペルーは太平洋上の国境線でもめているようですし、歴史的にも、チリはペルー・ボリビア連合軍と太平洋戦争を戦って勝ち、北部の赤道近くのアタカマ砂漠を両国からぶん取っています。「太平洋戦争」といっても日本が前世紀にやった「大東亜戦争」ではなく、19世紀の末、1879年から83年までチリとペルー・ボリビアの間に戦われた、別名「硝石戦争」のことです。詳細は後述します。この太平洋戦争の結果、ボリビアは海への出口を失って、いまだにチリを目の敵にしていたりします。

歴史的に見れば、15世紀終わりのアメリカ大陸発見とその後のスペインによる植民地支配の中で、ペルーはチリよりは言わば「格上の国」でした。銀が出ていた時代にはスペイン国王の弟が副王としてペルーに駐在していたり、銀が出なくなってからも海岸部のグアノの輸出で大きな富を蓄えたりしていました。グアノとは、海鳥のフンが化石化したもので、19世紀半ばに発見されました。窒素肥料として大量に輸出され、「グアノ・ブーム」と呼ばれる好景気を呼び、この輸出により約5億米ドルの外貨を獲得したと言われています。

しかしながら、太平洋戦争でチリに負けたあたりから、ペルーの転落が始まります。太平洋戦争は当時の3国の国境地帯のアタカマ砂漠に産出する硝石をめぐる戦いで、ペルー・ボリビア領内で早くから操業していたチリ企業が有償ながらもペルーに国有化されたり、ボリビアから不当な高課税をされたりした結果、戦争になってしまったものです。いかにも19世紀的な帝国主義戦争です。結果はチリのボロ勝ちで、ペルーは2年間にわたって首都のリマをチリ軍に占領されたりしました。

この影響だと思うのですが、私がチリに駐在して肌で感じたところによると、ペルー人は少なくとも軍事的にはチリをとても脅威に感じています。もっと言えば、チリに対して劣等感を感じているとすら言えます。

だから、フジモリ氏はチリに入国し、チリでうまくやって行ければ、ペルー政府はチリ政府に強くは出られないだろうと高をくくっていたのではないかと思います。しかしながら、フジモリ氏はチリでうまくやって行けず、チリはフジモリ氏を政治的な邪魔者としてしか見ていなかったフシがあります。フジモリ氏が自分自身を過大評価してしまったとしか私には思えません。

これが、今回の「フジモリ騒動」に関する私の見方ですが、今後、チリでの事情聴取が進めば真相は明らかになるでしょう。
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