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2010年03月12日 (金) 21:13:00

片岡剛士『日本の「失われた20年」 デフレを超える経済政策に向けて』(藤原書店)を読み経済政策について考える

片岡剛士『日本の「失われた20年」 デフレを超える経済政策に向けて』(藤原書店)片岡剛士さんの『日本の「失われた20年」 デフレを超える経済政策に向けて』(藤原書店)を読みました。どうして読んだかというと、著者の片岡さんからご著書を大学までお送りいただいたからです。こういう場合は何らかのレスポンスをしておくと、引き続き、別のエコノミストからも本の寄贈を受けられると経験則で知っていますので、極めてマイナーは媒体ながら、私のブログで取り上げておきたいと思います。なお、左の画像は藤原書店のサイトから引用しています。まず、この著書は藤原書店主催の第4回河上肇賞を受賞した論文を大幅に加筆修正したものとなっています。河上肇賞受賞、誠におめでとうございます。恥ずかしながら、私はこの賞について知らなかったんですが、河上肇教授はいうまでもなく、我が母校の京都大学経済学部で真っ先に指を屈すべき大先生であり、少なくとも私が在学していた時は学部祭として「河上祭」が毎年開催されていました。私の在学当時には河上肇生誕100年の記念行事もあったりしました。「言うべくんば真実を語るべし。言うを得ざれば黙するにしかず」という河上教授の言葉は私の大好きな名言のひとつで、このブログでも2006年6月8日のエントリーで取り上げていたりします。なお、著者の片岡さんは三菱UFJリサーチ&コンサルティングにお勤めで、リフレ派エコノミストのエースの1人です。リフレ派のエコノミストは多士済々なんでしょうが、私が補欠としてベンチにも入れてもらえずに観客席から応援しているだけなのに対して、片岡さんは堂々のマウンドさばきでリフレ派エコノミストのレギュラーメンバーといえます。
まずは、何より重厚かつオーソドックスな論理の展開です。私も最近は本を読み飛ばすことが多いんですが、久し振りにノートを取りながら読みました。それだけの価値ある本だという気がします。目次の構成は藤原書店のサイトに譲るとして、第1章では世界金融危機について概観し、動学的不均衡を援用して、世代重複(OLG)モデルから導かれるティロルの "Asset Bubbles and Overlapping Generations" に沿ったバブルの定義を示しつつ、岩田規久男『金融危機の経済学』(東洋経済新報社)に基づいている印象があります。ただし、やや冗長です。第2章では、バブル崩壊後の1990年代からの日本経済の停滞が需要面と供給面から半々としつつ、「我が国が経験したバブル崩壊と長期停滞は、過大に評価されたストック価格の急激な調整に対してフロー価格の調整が緩慢に進むことで長期停滞をもたらすという、まさに貨幣的現象に基づく経済変動を再現したものである。」(p.160)との結論に達しています。第3章では、『経済分析』第177号における飯田・小林の議論を紹介し、いずれの見方からも、マネタリーベースの増加により信用乗数は上昇することを明らかにし、量的緩和の効果は(1)ポートフォリオ・リバランス効果、(2)時間軸効果、(3)金融システム安定化効果の3点と整理しています。第4章では、ラグを含めて財政・金融政策当局の誤認を明らかにし、金利を操作するという金融政策はデフレ脱却には有効でなかったこと、及び、政府における構造改革と成長やマクロ経済安定化政策は別物であると結論しています。第5章では、財政政策について将来増税とのセットで財政拡大の効果を減殺したこと、また、金融政策ではリスク資産へのシフトという意味で質的にも、当然ながら、量的にも日銀金融政策は不十分であるとし、現政権に対して「野党根性」も「円高容認、金利正常化」も捨て、昭和初期の高橋財政の再現を提唱しています。当然、柱となるのはインフレーション・ターゲティングです。終章では、拡張エッジワース・ボックスのコーナー解の回避としてのマクロ経済政策について詳細な議論が展開されています。
さて、私がこの本を読んで経済政策について考えたことが2点あります。まず第1に、経済政策の第1次の目標とすべきは何か、ということです。我が国経済政策論の泰斗である熊谷教授のエッセイにもある通り、社会的に推移律が成り立たない以上、「経済政策の問題を社会的厚生関数の極大化といったような形で考えることは、やめたほうがよい」(p.7)わけですから、何をもって経済政策の第1次的アプローチとすべきかはある程度重要です。この点において、本書には少し混乱が見られます。すなわち、景気変動の平準化か、GDPギャップの許容できる水準への縮小か、です。私は雇用を重視しますので後者の立場なんですが、本書ではラグの計測に景気転換点からの遅れの月数でカウントしていて、少し違和感を覚えます。おそらく、GDPギャップをひとつの経済政策の目標としつつ、しかも、一定の閾値があるのではないかと私は考えています。もっとも、ものぐさな私のことですから深く追求はせず直感的な議論で済ませますが、私の上げた2つの経済政策の第1次接近目標は、何らかの仮定を置けば同値であろうという気はします。
第2に、現在では経済政策が理念上のものではなく、ゲーム論的な様相を帯びるに至ったという実感です。昔からの議論として、関税においては理念上の自由貿易は一向に実現されず、多国間または2国間などでの交渉事になっていることは誰の目にも明らかです。おそらく、今年メキシコで開催されるCOP16における地球温暖化防止のためのCO2削減交渉も関税交渉と同じレベルになりそうな気がします。本書でも指摘されているように、トリフィンのトリレンマから先進各国では固定為替制度が放棄されているわけですが、リーマン・ショック後の先進各国の金融政策運営を見ていても、この為替から実体経済へのトランスミッションをいくぶんなりとも念頭に置いたゲームが展開されていた気配を私は感じています。しかも、ここ数か月間の日銀の動向を見ていると、国民経済の利得を目指した先進国間のゲームと併せて、中央銀行と政府の間で別のゲインを目指したゲームがプレーされているような印象すらあります。経済政策を学問的に考えるに当たって、実務面での経済政策策定・遂行について、まったく別の見方を要するようになった気がしないでもありません。あくまで、直感的な私の印象ですので、もう少し考えたいと思います。

拡張エッジワース・ボックスのコーナー解の回避としてマクロ経済政策を論じているオーソドックスな本書の読書感想として、ゲーム論的な経済政策の分析の視点を主張する私のような初学者は、リフレ派エコノミストのベンチに入るまでもう少し時間を要するのかもしれません。
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