2018年02月10日 (土) 11:42:00

今週の読書は学術書2冊を含めて計6冊!

今週は、やっぱり、6冊読んだんですが、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』のボリュームがものすごくて、私が足かけ3日かけて読まねばならない分量の本というのは久し振りな気がします。ほかにも、重厚な学術書が2冊含まれていて、それなりに時間を取って読書した気がします。なお、最後のオーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』は数年前の単行本出版の際に読んだ記憶がありますが、とてもスンナリと借りられたので文庫本も読んでしまいました。

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まず、寺西重郎『歴史としての大衆消費社会』(慶應義塾大学出版会) です。著者は金融史がご専門で長らく一橋大学をホームグラウンドとしていた研究者、エコノミストです。出版社も考慮すれば、明らかに学術書と考えるべきであり、読み進むためのハードルはそれなりに高いと考えるべきです。本書で著者は、我が国戦後の高度成長期について、極めて旺盛な大衆消費によって支えられていた特異な時期であったとし、敗戦に際しての方向感覚の喪失と政府介入によって生じた一時的な現象であったとの結論を導いています。私は一昨年に高度成長期研究の成果として経済計画の果たした役割に関する論文を取りまとめましたし、開発経済学の視点ながら、それなりに高度成長期に関する見識は持っているつもりですが、この著者の結論は間違っています。まず、著者が結論に至る論点は3点あり、第1に、戦後日本での爆発的な消費拡大は、敗戦による環境の変化に対して、人々と政府が「さしあたって」消費と生活様式の西洋化を決意したことによって引き起こされ、第2に、大衆消費を支えた分厚い中間層は、金融と産業に対する政府規制が生み出すレントの分配によって支えられており、1970年代後半以降に規制緩和が進展した結果、そのレントが消滅して高度成長は終焉したとされ、第3に、1980年代以降の日本で観察された消費の差異化は、普遍的なポストモダンの動きの一環ではなく、伝統的な消費社会への回帰現象であろう、というものです。そして、相変わらず、英国をはじめとする欧米のキリスト教的な供給が牽引する経済と我が国の仏教的な需要が牽引する経済の差をチラチラと出しています。高度成長期に政府が一定の役割を果たしたのは事実ですし、ある意味で、レントを生じていたのも事実です。そして、そのレントは当時極めて希少性の高かった外貨の配分から生じており、それを天下りなどに使っていたわけです。しかし、一般に19世紀後半の1870年代とされるルイス的な転換点は、我が国の場合は高度成長期であった可能性が高く、まさに農業などの低生産性の生存部門から製造業などの近代的な資本家部門に労働が移動したことが高度成長の基本を支えていたわけであり、その時期に大衆消費社会が訪れたのは戦争の期間と終戦直後の混乱期に抑制されていた消費が、米国をはじめとする当時の先進国との技術的なギャップをキャッチアップする過程で、大きく盛り上がった、と考えるべきです。1970年代半ばに高度成長が終焉したのは、石油ショックによる資源制約に起因する成長の屈折ではなく、ましてや、本書で主張されているような規制緩和によるレントの消滅ではあり得ません。立派なエコノミストによる重厚な学術書なんですが、中身はやや「トンデモ」な歴史観を展開しているような気がします。

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次に、ハンナ・ピトキン『代表の概念』(名古屋大学出版会) です。著者はドイツ生まれでユダヤ人であるために米国に渡り、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者の後、現在は名誉教授となっています。その代表作のひとつである本書に対してはリッピンコット賞が授賞されています。英語の原題は The Concept of Representation であり、50年前の1967年の出版です。どこからどう見ても完全な学術書であり、代表論の古典とすらいえますので、読み進むためのハードルは決して低くありませんが、欧米でポピュリズムの影響力が大きくなっている昨今の政治情勢の中で、決して雲の上の学術だけの課題ではないと私は考えています。ということなんですが、何分、原題にも含まれている英語の Representation は日本語にすると、代表と表現のやニュアンスの異なる2種類の邦訳が当てはめられ、必ずしもスッキリしない場合も見受けられます。ホッブズから始まって、バークなどの理論家や実践家、すなわち、民主主義下での代表的な政治家の考えを引用しつつ、古典古代のような直接民主主義から自由主義まで、思想の土台より政治的代表の意味を徹底的に検討を加えています。政治的な代表だけでなく、君主制の象徴 symbol、あるいは、代理 proxy など、代表に類似する概念と併せて素材とされています。そのあたりの代表と象徴や代理の違いは、それなりに、理解できる一方で、代表の中でももっとも大きなポイントとなるには、いうまでもなく、民主主義下において投票によって議会の構成員を国民の代表として選出する際の代表の考え方です。バークの議論ではありませんが、この代表が何らかのグループの利害関係を代表するのか、それとも集合名詞としての国民、あるいは、国家の利益を代表するのかの議論は分かれることと思います。地域なり、職能なり、階級なり、何らかの利害集団の利益を代表するだけであれば、議会の構成員としての見識や経験はまったく不要であり、まさに、ポピュリズムそのものですし、後者の国民全体あるいは国家の利益を代表するのであれば、極めて高い見識を必要とする一方で、選挙を実施する意味がありません。というか、マニフェストや公約で示すのは、利害調整の際のポジションではなく、見識の高さを競うのかもしれません。いずれにせよ、50年前のテキストながら、ポピュリズムが台頭しつつある21世紀でもまだまだ参考とすべき内容を含んでいる気がします。

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次に、伊東ひとみ『地名の謎を解く』(新潮選書) です。著者は奈良の地方紙のジャーナリストの出身で、私よりも年長ですのでリタイアしているんではないかと思わないでもありません。地名については在野の民俗学の権威のひとりであった柳田國男などにも同様の研究がありますし、ほかにもいろんな調査研究結果があるんでしょうが、本書では奈良ローカルらしく万葉仮名の表現まで引用して地名の起源や変遷について跡付けています。私が本書を読もうと思った本来の目的である雑学的な知識の詰め合わせは p.200 以降の最後の最後に取りまとめられています。本書の著者の前著がキラキラネームに関する雑学書でしたので、平仮名名の地名で外来語由来の地名などにやや嫌悪感、とまではいわないまでも、何らかの違和感を持って取り上げているような気がしますが、私はそれをいい出せばアイヌ語や沖縄由来の地名についても、何らかの色メガネを持って見られそうな気がして、もう少しオープンな視線で地名を見てみたい気がします。さらに、地名と姓名の入れ込み、というか、地名が姓になった利、逆に、姓が地名になったりした例も多いような気がします。例えば、我が家が引っ越し前に住まいしていた青山なんぞは、赤坂とともに、徳川時代に屋敷を置いていた旗本の姓に由来するんではないかと記憶しています。決して青山なる山があったり、赤坂なる坂があったりしたわけではありません。同様に、本書で縄文や弥生まで地名の起源をさかのぼるのが、どこまで意味があるのかどうかも私には不明です。地名の起源が古ければ有り難いというわけでもないでしょうし、実際に、本書に何度か出て来る表現を借りれば、ホントにフィールドワークをしたのであれば、歴史を経て大きな変更があった可能性もありますが、産物や景観なども含めた起源をフィールドワークして欲しかった気もします。ただ、東京になる前の江戸の起源がよどだったのは知りませんでした。あと、「谷」の漢字を「や」と読むのか、「たに」と読むのか、さらに、万葉仮名を持ち出すのであれば、決して漢字を音読みしない古今集タイプも同時に考え、音読み地名と訓読み地名についても、平仮名地名とともに、もう少し掘り下げて欲しかった気がします。まあ、私の期待値が高過ぎた気もしますし、努力賞なのかもしれません。

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次に、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』(シンコーミュージック・エンタテイメント) です。著者は2009年出版時点では南カリフォルニア大学の、そして、現在ではカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の米国史、黒人史などの研究者です。英語の原題はそのままに Thelonious Monk であり、繰り返しになりますが、2009年の出版です。歴史研究者が14年に渡って調べ上げたジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクの生涯をカバーするノンフィクションの伝記です。二段組みの本文だけで670ページを超え、索引と脚注で30ページあり、全体で700ページを超える極めて大きなボリュームの本であり、何と、大量の読書をこなす私が足かけ3日かけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。一応、ていねいには書かれていますが、登場人物については、それなりのバックグラウンドを知っておいた方が読書がはかどります。当然ながら、モンクを知らないし、聞いたこともない人にはオススメできません。邦訳が出版された昨年2017年はモンク生誕100年ということで、1917年に生まれて、幼少のころからニューヨークで過ごし、1982年に64歳の生涯を閉じるまで、モダンジャズの歴史そのものの人生を送った偉大なるピアニストの生涯を極めて詳細に跡付けています。ビバップからモダンジャズの誕生については、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーに果たした役割が大きいと評価されて来て、ピアニストとしてはモンクよりもバド・パウエルの存在を重視する見方が広がっている中で、モンクの再発見につながる本書は貴重な見方を提供しているといえます。単に音楽生活だけでなく、その基盤となったネリーとの結婚生活や、パノニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人との交流や援助など、もちろん、音楽シーンでのほかのジャズ・プレーヤー、プロモーター、マイナーレーベルのオーナー、レコーディング・エンジニアなどなどとの人間関係も余すところなく描き出しています。化学的不均衡により、モンクの双極障害、統合失調症などによる特異な行動や言動などがどこまで説明できるのかは私には理解できませんが、ピアノの弾き方がとても独特なのは聞けば理解できます。決して、音楽の名声の点でも、もちろん、金銭的にも、恵まれた人生であったかどうかは疑問ですが、モダンジャズの開拓者、先導者としてのモンクの役割を知る上で、そして、音楽シーンを離れたモンクの人生を知る上で、十分な情報をもたらしてくれる本だといえます。ただし、かなりのボリュームですので、粘り強く読み進むことが出来る人にオススメです。

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次に、関満博『日本の中小企業』(中公新書) です。著者はご存じの製造業研究などで有名な一橋大学をホームグラウンドにしていた研究者であり、エコノミストというよりは経営学が専門なのかもしれません。繰り返しになりますが、中小企業というよりは、製造業がご専門のような気がしますが、本書では中小企業にスポットを当てています。特に、最近の中小企業経営を取り巻く環境変化として、国内要因の人口減少や高齢化、海外要因として中国をはじめとする新興国や途上国における人件費の安価な製造業の発展を上げています。その上で、第1章では統計的な中小企業の把握を試み、第2相と第3章では企業の観点から、また、第4章では継承の観点から、大量にケーススタディを積み上げ、繰り返しになりますが、第5章では中小企業経営の環境変化、すなわち人口減少・高齢化とグローバル化の進展について考察を進めています。なかなかに元気の出る中小企業のケーススタディであり、どうしても製造業の割合が高いながらも、高い技術に支えられた中小企業の存在意義を明らかにしています。ただ、こういったケーススタディによる研究成果、というか、本書のようなサクセス・ストーリーのご提供に関しては、2点だけ不安が残ります。第1に、これらの成功例のバックグラウンドに累々たる失敗例が存在するのではないか、という点です。我が国では米国などと比べると、起業件数とともに廃業件数も少なく、企業経営が米国ほど動学的ではない、とされていますが、他方で、その昔に「脱サラ」と称されたコンビニ経営などが、一定期間終了後に店仕舞いしている実態も、これまた目にして実感しているわけで、当然ながら、起業がすべて成功するわけもなく、成功例の裏側に失敗例が数多く存在し、単に成功例と失敗例は非対称的にしか扱われていない可能性があります。第2に、最近の中小企業経営の環境変化の中で、非製造業における人手不足について情報が不足しています。本書の著者の専門分野からして、製造業、特に、かなり高い技術水準を有している製造業に目が行きがちで、それだけで成功確率が高まるような気もしますが、建設や運輸、さらに、卸売・小売といった非製造業の中小企業もいっぱいあり、昨今の人手不足の影響はこれら非製造業の中小企業ではかなり大きいのではないか、少なくとも製造業よりもこういった非製造業への影響の方が大きそうな気もします。そういった、否定的な情報が、失敗例にせよ、人手不足の非製造業への影響にせよ、意図的に隠しているわけではないんでしょうが、ほとんど提供されておらないように見受けられなくもなく、技術力の高い製造業の成功例だけが取り上げられているおそれがあるのか、ないのか、やや気にかかるところです。

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最後に、ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) です。文庫本で出版されたので借りて読んでみました。私は単行本も読んでいて、2013年5月24日付けの読書感想文で取り上げています。その際に、私の知り合いの表現を引いて、「オーツの入門編として最適な1冊」と書いています。詳細は省略します。
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