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2018年09月15日 (土) 13:23:00

今週の読書は経済書を中心に大量に読んで計8冊!

よく理由はハッキリしないんですが、今週はよく読みました。経済書、それもマイクロな行動経済学の本が多かったので、スラスラと量がはかどったのかもしれません。和歌山の経済統計学会を往復した時間的な余裕がよかったのかもしれません。その中でも、行動経済学や実験経済学の本が2冊あり、私はおそらく平均的な日本人よりも合理的だと考えていますが、やっぱり、損失回避的な霊感商法のようなセールストークが効くんだということを改めて実感しました。以下の8冊です。

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まず、ロバート J. ゴードン『アメリカ経済 成長の終焉』上下(日経BP社) です。著者は米国のマクロ経済学を専門とするエコノミストです。本書は、英語の原題は The Rise and Fall of American Growth であり、2016年の出版です。かなり注目された図書ですので、ボリュームの点から邦訳に時間がかかったのだろうと私は受け止めています。米国の生活水準やその背景となる技術水準などにつき、米国の南北戦争後の1870年から直近の2015年までを、1970年を境に2期に分割して歴史的に跡づけています。そして、さまざまな論証により、1970年以前の第1期の時期の方が、197年以降の第2期よりも、生活水準の向上や生産の拡大のペースなどが速かった、と指摘し、その原因はイノベーションであると結論しています。そして、現在の「長期停滞」secular stagnation の原因をこのイノベーションの停滞、というか、イノベーションの枯渇に近い技術水準に求めています。要するに、「低いところになっている果実を取り尽くした」というわけです。加えて、現在進行形のIT産業革命についても、生産の現場におけるイノベーションというわけではなく、国民生活における娯楽や生活様式の変化に及ぼす影響の方が大きく、生産性向上や生産の拡大にはつながりにくい、とも指摘しています。ただ、マクロにこれら生産性や生産そのものを計測するGDPについては、たとえ物価指数がヘドニックで算出されていたとしても、生活の質の向上などが正しく計測されているとは思えない、とも付け加えています。ですから、定量的なGDP水準は生活水準を過小評価している可能性が高い一方で、たとえそうであっても、生産性や成長は1970年くらいを境に大きく下方に屈折したのではないか、という結論となっています。それは本書の対象である米国経済だけでなく、我が国でもご同様と私は考えています。その意味で、本書の結論は私のエコノミストとしての直観と共通する部分が少なくありません。ちなみに、私が官庁エコノミストの先輩で現在は日銀審議委員まで出世された方と共著で分析した「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」という学術論文もあったりします。

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次に、イリス・ボネット『WORK DESIGN』(NTT出版) です。著者はスイス出身で、現在は米国ハーバード大学の研究者です。かなり大きなタイトルなんですが、実際は男女間の不平等を是正するための行動経済学ないし実験経済学に関するテーマが主であり、女性に限らずいわゆる多様性とかダイバーシティの問題についても取り上げています。しかし、ハッキリいって、内容はかなりありきたりです。私はかなりの程度にすでに読んだことのある中身が多かったような気がします。逆に、この分野について初学者であれば、包括的な知識が得られる可能性が高いと受け止めています。ステレオタイプやバイアスといった平易な用語で行動経済学の原理を解説し、女性に対するアファーマティブ・アクションの重要性についてもよく分析されています。次の『医療現場の行動経済学』については別途の論点があるんですが、本書では、正義の問題について考えたいと思います。というのも、p.314 でダボス会議を主催する世界経済フォーラムのシュワブ教授が「ジェンダーの平等が正義の問題」と指摘しているからで、正義の問題として考える場合と、損得として取り上げるのは少し差がある可能性を指摘しておきたいと思います。というのは、この差を多くのエコノミストは無視して、すべてを損得の問題で片付けようとするように私は受け止めており、例えば、行動経済学や実験経済学ではなく、合理的な経済人を前提しつつ、殺人について、その殺人から得られる効用と捕まって処罰される可能性の期待値の比較考量で判断する、というのがかなり標準的なエコノミストの考え方ではないかと思いますが、行動経済学や実験経済学では違う可能性を指摘しておきたいと思います。すなわち、私が殺人や窃盗をしないのは正義の問題であり、ギャンブル、例えば、競馬やパチンコをしないのは損得の問題です。伝統的な合理的経済人を前提としない行動経済学や実験経済学では、こういった正義の問題と損得に基づく選択を扱えるハズです。その意味で、もう一歩のこの学問領域の発展を願っています。

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次に、 大竹文雄・平井啓『医療現場の行動経済学』(東洋経済) です。これも行動経済学がタイトルに取り入れられていますし、医療の分野で生き死にを扱いますので、実験経済学の要素は極めて薄くなっていますが、伝統的な経済学が大勝とする合理的経済人ではない、非合理性を全面に押し出している点については、ご同様ではないかと私は受け止めています。ただ、ジェンダーの問題と異なり、医療については医師と患者の情報の非対称性の問題が避けて通れないんですが、本書ではかなり軽く扱われている気がします。その昔の医師による一方的な医療行為の決定や選択から、インフォームド・コンセントが重視され始め、今では本書にもあるようなシェアード・ディシジョン・メーキングに移行しつつあるとはいえ、また、インターネットで病気や薬について豊富な知識が得られるとはいえ、まだまだ医師や薬剤師などと患者の間には情報の隔たりがあるのも事実です。ですから、政府は医療・投薬行為を規制し、自由な市場原理に任せておくことはしないわけです。その意味で、医療行為をほぼほぼ自由な市場行為に近い医者と患者の間の取引のように本書で描写しているのは少し疑問が残ります。基本は、医師と患者の間の十分な意思疎通による医療や投薬に関する決定に基づきつつも、正当な医療行為、特に、保険で賄うのと保険外になるのとでどこが違うのか、どう違えるべきか、といった議論も欲しかった気がします。類書と異なり、本書では患者のサイドに立った選択だけでなく、医師のサイドの選択も取り上げているだけに、もう一歩踏み込んで、医療や投薬を規制する政府当局の選択についても行動経済学や実験経済学の観点から解き明かして欲しかったと考えるのは私だけでしょうか。

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次に、大前研一『世界の潮流 2018~19』(プレジデント社) です。昨年2017年12月の公演記録を基に編集されているようです。このままでは我が国はスペインやポルトガルと同じように400年間の衰退に過程に入るといいつつ、それに対する対抗策のようなものは提示されていません。その意味で、無責任といえなくもありませんが、まあ、どうしようもないのかもしれません。日本はこの先も大きなパニックに陥ることもなく、政治的な安定性を維持しつつも、かつてのような活気ある高度成長期やバブル経済期の復活はありえず、移民を受け入れることもなく、かといって、内生的な大きなイノベーションもなく、平たい言葉でいえば「ジリ貧」といわれつつも、それなりに安定して豊かな社会や生活を享受できるのではないか、という意味では、私と同じような見方なのかもしれません。生産性の高い社会という目標はいいんですが、ご同様に、そのための方策というものはなく、個々人が努力するというのが本書の著者の基本的なスタンスなのかもしれません。

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次に、ジェームズ・フランクリン『「蓋然性」の探求』(みすず書房) です。著者はオーストラリアの統計や確率などの概念史などの研究者です。英語の原題は The Science of Conjecture であり、2001年の出版です。今週読んだ本の中で最大のボリュームがあり、軽く600ページを超えます。確率論が学問として登場したのはルネッサンス後の17世紀半ばというのが定説であり、本書でもその立場を踏襲しています。なお、確率の歴史をひもとくに当たって、本書ではホイッグ史観の立場を取っています。そして、パスカルないしデカルトといった近代冒頭の数学者で本書は終わっています。歴史を詳細に見ると、やや逆説的ながら、確率理論は17世紀以前にも発達していたし、同時に、ランダムな確率論が問題となるのは資本主義の確立を待たねばならなかった、というのが本書の著者の見方です。開発経済学の他に、私の専門分野のひとつである景気循環論や経済史の見方を援用すれば、マルクス主義的な商品による商品の生産や拡大再生産の考えを待つまでもなく、近代資本主義とは資本蓄積とその資本を所有するブルジョワ階級の出現で特徴づけられますし、その近代の前の中世では資本蓄積がなく、それゆえに成長はほとんど見られず停滞そのものの時代であり、従って、キリスト教だけでなく金利徴収は成長のない中で、禁止されていたわけです。ただし、生産の成長や資本蓄積ないながらも、リスク・プレミアムの観点からの金利はあり得ると本書の著者は見ており、その確率計算のため蓋然性の概念が発達した、との考えも成り立ちます。ただ、本書では私のようなエコノミスト的な確率に近い蓋然性の議論だけでなく、英語の原題通りに、論理学的な証明や論証、それも、数学的な論理学ではなく、法廷における論証や証明に近い議論も冒頭から展開されており、そのあたりでつっかえると読み進めなくなる可能性もあります。

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次に、松本創『軌道』(東洋経済) です。本書のテーマは、2005年4月25日に死者107名と負傷者562名を出した福知山線脱線事故から、いかにしてJR西日本が収益性や上場への展望を安全重視の姿勢に転換したかであり、著者は地元神戸新聞のジャーナリストとして、その10年余りの軌跡を追っています。事故はすべて現場の運転士の責任であり、民鉄との競合の激しいJR西にあって、「天皇」とさえ呼ばれた絶対的なワンマン経営者、そして、官庁よりも官僚的とさえいわれた国鉄からの体質をいかにして、自己被害者らとともに転換したかを跡づけています。加えて、著者のジャーナリストとしての視点だけでなく、ご令室さまとご令妹さまを事故で亡くし、ご令嬢さまも重篤な負傷を負ったご遺族の淺野弥三一氏の視点も導入し、複眼的な分析を展開しています。順調な組織運営の時には目につかないながら、こういった大規模事故はいうに及ばず、何かの不都合の際に顔を覗かせる組織の体質があります。事故は個人のエラーなのか、それとも組織の体質に起因するのか、また、別の視点として、何かの功績は経営者の業績としつつも、不都合は現場の末端職員に押しつける、などなど、組織体質を考える上での重要なポイントがいっぱいでした。日本企業は一般に、「現場は一流、経営は三流」と評価されつつも、本書で取り上げられているJR西日本のように国鉄大改革の功労者として居座り続けるワンマン経営者が現場の運転士を締め付けるような組織運営をしている例外的な企業もあるんだ、ということが、ある意味で、新鮮だった気すらします。この時期に出版されたのは、私には不思議だったりします。

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最後に、湊かなえ『未来』(双葉社) です。著者はモノローグの文体も特徴的なミステリ作家であり、本書は著者の得意とする教師や学園ものと位置づけられ、デビュー作である『告白』などと同じモノローグで物語が展開します。もっとも、単なるモノローグだけでなく、手紙とか日記のような形をとる場合もあります。女性である主人公が小学生の10歳のころから中学いっぱいから高校に入学するくらいまでのかなり長い期間が収録されており、主人公以外にモノローグを語るのは、友人、小学校の担任の先生、そして、モノローグを語る中では唯一の男性である主人公の父親、などです。相変わらず、暗い文体であり、主人公やほかの登場人物には学校でのいじめをはじめとして、さまざまな不幸な出来事がこれでもかこれでもかというくらいに発生します。伝統的なミステリのように最後に一気に謎が解明されるわけではなく、タマネギの皮をむくようにひとつひとつ謎が解き明かされていきます。そして、最後には主人公を取り巻くすべてが明らかになるんですが、だからといって、主人公が幸せになるわけでもなく、じっとりと暗い思いを残したままストーリーは終局します。私のように、この作者の作品が好きならば、読んでおくべきだと思いますが、いわゆるイヤミスというほどでもなく、また、私は従来からこの作者の最高傑作はデビュー作の『告白』であると考えており、それは本書を読み終わった後でも変更の必要はありません。すなわち、やや出来もイマイチという気もします。評価は難しいところです。でも、すでに出版された次の『ブロードキャスト』も私は借りるべく予定しています。
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