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2019年04月20日 (土) 11:42:00

今週の読書は『ピケティ以後』をはじめ、計7冊ながらボリュームたっぷり!!

今週は、『21世紀の資本』という話題の高かった経済書を発行から3年後に振り返る、というビミョーな位置づけの経済書をはじめとして、パットナム教授による米国の宗教についての社会学分析など、以下の通りの計7冊です。ただ、『ピケティ以後』とパットナム教授の『アメリカの恩寵』はともに、大判の書物で600ページを超えるボリューームでしたので、それぞれが通常の2冊分くらいに相当しそうな気もします。今週もすでに自転車で図書館を回り、来週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、ヘザー・ブーシェイ & J. ブラッドフォード・デロング & マーシャル・スタインバウム[編]『ピケティ以後』(青土社) です。5部22章から構成され、600ページを超える大作です。編著者と章構成などは出版社のサイトに詳細が示されていますが、このサイトにも本書にもかなり誤植があります。これは後ほど。ピケティ教授の『21世紀の資本』については、フランス語の原書が2013年、英語の翻訳版とその英訳版からの邦訳版がともに2014年に出版され、その後3年を経ての余波、功罪、真価などについて問い直そうと試みています。本書の英語の原題は After Piketty であり、2017年の出版です。ということで、まず、『21世紀の資本』のおさらいから始まります。すなわち、r>gが成り立てば経済成長に基づく所得よりも資本からの利得のほうが上回るため、その要因による格差が拡大すること、米国などのスーパー経営者のスーパーサラリーなどを見ても理解できるように、1%の富裕層では資本所得よりも労働所得のシェアが高いものの、0.1%の富裕層になれば資本所得が圧倒的な部分を占め、そのため、相続に基づく世代間の格差拡大の連鎖がポジティブにフィードバックしかねない、などです。これらのおさらいを含めつつ、最終章のピケティ教授自身からの回答を別にしても4部21章にして600ページを超える大著であり、しかも、チャプターごとに著者が異なっていてテーマもさまざまなわけですので、ハッキリいって、出来のいいチャプターとそうでないのが混在しています。最後の山形浩生さんによる訳者解説でかなりあからさまに記述されているように、奴隷やフェミニスト経済学のようにできの悪いチャプターも少なくないですし、ピケティ教授の格差論や経済学とは何の関係もなしに、あるいは控えめにいっても、ほとんど関係なしに、ご自分の持論の展開に終始しているチャプターもいっぱいあります。それらのチャプターを見渡して、私の見方でも訳者解説と同じで、第16章と第17章は出来がいいと思います。特に、第16章はムイーディーズ・アナリスティクスの計量モデルに基づく議論は一番の読み応えがあります。それでも、やや結論が楽観的で格差の弊害を軽視している点は懸念が残ります。でも、貯蓄率の変動を介して格差が景気循環に対してプロサイクリカルに作用するという視点はその通りだと私は受け止めています。また、エコノミストの目から見てなのかもしれませんが、第Ⅳ部の政治経済学的な見方は参考になりました。資本主義の根本となる私有財産制がいかにして理論付けられてきたか、というのは根本的な問いかけに対する答えのような気がします。最後に、誤植が多いです。やや知名度に欠ける出版社なので仕方ないかもしれないのですが、要請と妖精は誤植にしてもヒドい気がしますし、反トラストとせずともアンチ・トラストでいいのに、半トラストはないと思います。

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次に、ロバート D. パットナム & デヴィッド E. キャンベル『アメリカの恩寵』(柏書房) です。著者のうち、パットナム教授はハーバード大学の研究者であり、『孤独なボウリング』や『われらの子ども』で有名です。キャンベル教授はブリガム・ヤング大学のご卒業ですからモルモン教徒なんではないかと私は想像しています。本書の英語の原題は American Grace であり、ハードカバー版は201年の出版ですが、この邦訳書の底本となっているペーパーバック版は2011年の新たな調査結果を盛り込んで2012年に出版されています。ですから、パットナム教授の著書の順でいえば、『孤独なボウリング』と『われらの子ども』の間に入ることとなります。今週2冊めの600ページ超の大作です。ということで、「人種のるつぼ」といわれる米国は同時に宗教も極めて多様性を有しており、基本はWASPと称される伝統的なキリスト教プロテスタントなんですが、もちろん、ヒスパニックをはじめとし、イタリア人などを含めて、本書でラティーノと呼んでいる人々やアイルランド人やポーランド人の間ではカトリックが主流でしょうし、さらに、キリスト教の中でも東方正教もいれば、もちろん、ユダヤ教も少なくありません。パットナム教授は改宗したユダヤ教徒ですし、キリスト教の中でもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなんて、カルトすれすれながら連邦議会議員にとどまらず、閣僚や大統領候補まで輩出している新興宗教もあります。おそらく、私の直感ながら、クリスチャン・サイエンスからさらに、エホバの証人まで行けばカルトと見なされそうな気もしますが、例えば、私が自伝を読んだ範囲では、ブッシュ政権下の最後の財務長官を務めたゴールドマン・サックス証券出身のポールソン元長官はクリスチャン・サイエンスですし、2期目のオバマ大統領に挑戦した共和党のロムニー候補はモルモン教徒でした。本書では、福音派や黒人プロテスタントなどの例外的な存在のキリスト教徒も含めて、ほぼほぼ99パーセントはキリスト教中心ながら、ユダヤ教や、あるいは、イスラム教徒や仏教徒まで視野を広げつつ、米国民が西欧に比べて極めて宗教的である点を、「毎週教会に行く」などの行動の面から確認しつつ、女性の権利拡大、所得の不平等の拡大、同性婚の容認などについての米国民の思考パターンや行動の源泉としての宗教について分析を展開しています。私にはやや疑問の残る結論なんですが、本書では、多様な人々から構成されている米国社会において、それぞれのグループは自らのアイデンティティを確認するために宗教へと向かう一方で、人々はそれらの宗教に基づいてばらばらになるのではなく、むしろ長期的には他のグループ出身者と知り合い、友人になり、さらには婚姻関係を結んだりして、かなりの程度に交流を深めます。そして、こういった社会的流動性こそが、やがては異なる宗教間の橋渡しをすることを、著者は「アメリカの恩寵」と名付け、実際の米国社会がそういった方向に進んでいることを実証的に示そうと試みています。私は、マルクス主義的なエコノミストですから、経済が下部構造となって文化を規定し、その文化が政治的な傾向を示す、と考えています。もちろん、宗教は第2段階の文化であり、それが、米国においてはティーパーティーなどの政治動向に、もちろん、共和党と民主党の分断に結びついている、と考えています。トランプ政権の成立などを見ても、ここ数年における動向は私の見方を指示していると自負しています。

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次に、川本裕司『変容するNHK』(花伝社) です。著者は朝日新聞の記者であり、なぜか、NHKウォッチャーだったりもします。本書は、そのジャーナリストとしてのNHK観察の結果を取りまとめていますが、特に、ここ数年の籾井前会長の就任とその活動・発言や、政府との距離感や政府の意向の忖度などについて、事実関係とともに考えさせられる材料を提供しています。加えて、放送局としての国民に対する情報提供の在り方も考えさせられます。すなわち、エリート層に対する情報解釈の方向まで含めたニュースの報道や解説やドキュメンタリ番組などを提供しつつ、単なるエリート層向けにとどまらず、一般大衆向けのエンタメ番組の提供まで、放送局は幅広い役割を担う必要がある点も忘れるべきではありません。また、同時に、本書ではほとんど用語として現れませんが、ガバナンスについても議論されています。一般的な民法ではコマーシャルを流して収入としている一方で、NHKでは受診料を徴収することが認められています。コマーシャルは市場における評価を代理する一方で、もちろん、広告主に対しての忖度が働きます。受信料収入で放送番組を作成しているNHKで政権に対する忖度が働くのと、果たして、どちらにどういった長短があるのか、決して単純ではありませんが、もう少し議論なりとも展開してほしかった気もします。加えて、衛星放送に伴って受信料収入が潤沢になったことをもって、NHKの不祥事のひとつの原因との指摘も取り上げられており、事実上の国営とはいっても、いち放送局がここまで肥大化するのが適当なのかどうか、私は疑問を持ちます。すなわち、JRやNTTのように単純に地域で分割するのが適当とは決して思いませんが、放送のチャンネルごとにいくつかにNHKを分割するという見方も成り立つように見えるところ、そういった視点は本書の著者にはないようです。ただ、海外の同種の放送局との対比はそれなりに説得力あります。例えば、英国BBCには解釈ある一方で、NHKは解釈なしの生の情報を流しているとか、これもBBC幹部の発言で、政党政治の目的と放送局の目的は異なる、といったあたりです。視聴者目線としては、裏方の編成などのエラいさんばかりではなく、現場の記者やキャスターについて女性ばかりが取り上げられていた気がします。まあ、私の気のせいかもしれません。岩田明子記者が安倍官邸に食い込んでいるというのは、それはその通りでしょうし、ジャーナリストとしては悪くないような気もしますが、本書ではなぜか奥歯にものの挟まったような取り扱いしかなされていません。他方で、章まで立っている国谷裕子キャスターは「クローズアップ現代」で官房長官に対して否定的な立場からのインタビューをして降板につながった点を指摘しています。また、有働アナウンサーも取り上げられていました。いずれにせよ、受信料収入で成り立っていて、予算が国会で議論されるNHKなのですから、従来からそれなりの政府への遠慮や忖度はあったことと私は想像していますが、前の籾井前会長の特異なキャラクターが生み出した1冊と受け止めています。

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次に、楊継縄『文化大革命五十年』(岩波書店) です。著者は中国新華社出身のジャーナリストです。本書は著者の大作『天地翻覆』を編集し直したものだそうです。タイトル通り、1966年から毛沢東の死や4人組の逮捕・失脚までの約10年間続いた中国におけるプロレタリア文化大革命について論じています。もちろん、中国共産党自身が1981年6月の11期6中全会で採択した歴史決議、すなわち、「毛沢東同志が発動した『文化大革命』のこれらの左傾の誤った論点は明らかにマルクス・レーニン主義の普遍的原理と中国の具体的実践を結び付けた毛沢東思想の道からはずれており、それらと毛沢東思想とは完全に分けねばならない」との指摘だけで終わるハズもなく、近代史でもまれに見るような国家的な大混乱を引き起こしています。このプロレタリア文化大革命について、著者は3つのグループないしプレイヤーを設定し、毛沢東、造反派、官僚集団のの三角ゲームであったとし、毛沢東が紅衛兵などを扇動しつつ官僚集団を粛正するためには造反派を必要とし、逆に、この文化大革命が毛沢東の意図した範囲に収まらずに、暴走した結果、秩序を回復するためには官僚集団を必要とした、と結論しています。短くいえばそうなんですが、こういった考察を3部構成として、文化大革命の進行、その後のポスト文革の後処理、特に毛沢東死後の4人組の逮捕と失脚、そして、50年の総括に当てています。文革さなかの酸鼻を極めた死刑の処刑、特に、処刑される者が最後に発する声を防止するための驚くべきやり方など、一般大衆の中の犠牲者の像が明らかにされるとともに、もちろん、大きなターゲットとされた劉少奇や林彪の考えや行動を跡付けています。ポスト文革の後処理については曹操の故事を引きつつ責任追及をあいまいにするような論調が出た点を紹介しつつ、文革終了の大きな起点となった毛沢東の死去の後の中国の政治的な継承と混乱について分析を加えています。そして、「中体西用」として、中国的な体を西洋的な用で運用する、すなわち、権力の抑制均衡と資本の制御のための有効な制度は立憲民主制度であると結論しています。もちろん、今さら指摘するまでもなく、文化大革命を発動した毛沢東の動機はたんン位劉少奇の排除だけではありえませんし、また、発動した毛沢東にすら制御できなくなり、暴走した文化大革命のムーブメントを鎮めて秩序を取り戻すには官僚組織のシステマティックな活動が必要であり、その結果として、官僚組織の頭目である鄧小平の権力奪取の一因となったのは理解できるところです。いまだに、中国国内では正面から文化大革命に向かい合うことができないでいる現時点で、それなりの貴重な事実関係のコンパイルではなかったかと私は受け止めています。ただ、結論としての権力の抑制均衡のための立憲民主性、というのはやや物足りません。

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次に、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』(白揚社) です。著者はリスボン出身で、現在は米国南カリフォルニア大学の研究者であり、専門分野は神経科学や神経医学です。英語の原題は The Strange Order of Things であり、2018年の出版です。かなり難しい進化生物学の専門書です。私は半分も理解できたとは思えません。本書は3部構成であり、第1部では生物の進化に従って、生命の誕生から神経系が発生するまでが概観され、第2部では神経系が高度に発達することにより、心や感情や意識などの生物の精神的な働きが描写され、第3部では生物たる人類が構成する社会における文化や経済やその他の社会的な活動のマクロの社会学が語られます。そして、その根本となっているのがホメオスタシスです。本書では冒頭の方で「恒常性」と訳され、「平衡」や「バランス」といった概念に注目しつつ、本書では、単に生存を維持するのみならず、生存に資するようなより効率的な手段の確保と繁殖の可能性の両方を意味する繁栄を享受し、生命組織としての、また生物種としての未来へ向けて自己を発展させられるよう生命作用が調節される、といった働きが重要であるとする。そして、生命体の調節は非常に動的であるものの、進化の過程で人類だけに備わった高度に発達した脳の働き、という従来の進化生物学的な考えを否定し、ホメオスタシスに支えられた単細胞生物に始まる生命現象全体を通して、心や意識や感情などを位置づけます。例えば、細菌は環境の状態を感知し、生存に有利な方法で反応し、その過程では相互のコミュニケーションもあると主張し、はすでに知覚、記憶、コミュニケーション、社会的ガバナンスの原点が見られると指摘しています。ですから、よく、我々エコノミストに対して「経済学中華思想」という、なかなかに正しい指摘や、あるいは、非難が寄せられることがありますが、本書では正々堂々と生物学中華思想を展開しています。人間が高度に発達した脳をもって心や意識や思考を持つ例外的な存在である点は否定しないものの、こういったホメオスタシスに基づく生物としてのはtら期は単細胞生物の時代から備わっていたと主張するわけです。ですから、これらのホメオスタシスの働きをもって、パーソンズ的な社会学は解釈されるべきであるし、サブプライム・バブル崩壊後の金融危機や景気後退なども一連の生物学的な根拠がある、と指摘します。本書を通読した私の解釈によれば、感情や意識などはホメオスタシスの心的表現であり、身体と神経系の協調関係が意識の出現をもたらし、ここで生れた意識や感情などをはじめとする心の働きが人間性の現われである文化や文明をもたらした、ということになり、ひいては、芸術・哲学・宗教・医療などのあらゆる文化・文明をいかに動的であるとはいえホメオスタシスという生物的現象に帰すことができる、という主張です。そして、こういった視点から人工知能(AI)についても議論の射程に入れつつ、決して悲観的ではなく、生物的進化の流れの中で解決できる課題、と考えているような感触を私は受けました。ただ、繰り返しになりますが、専門外の私にはかなり難しい読書でしたので、間違って読んでいる部分もかなりありそうな気がして、ここまで堂々と読書感想文を書くと少し怖い気もします。

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次に、山内マリコ『あたしたちよくやってる』(幻冬舎) です。著者は、『ここは退屈迎えに来て』でデビューした話題の小説家であり、私も決して嫌いではなく、何冊か読んでは読書感想文をアップしています。本書では、Short Story と Essay と Sketch の3種類のカテゴリーの文章が集められており、それぞれに異なるフォントを使っています。なぜか、Short Story だけには扉のページがあったりもします。初出が明示されていないのですが、どこかで発表した短い文章に、いくつかは書下ろしを入れて単行本にしたのではないか、と私は想像しています。著者ご本人は1980年生まれですからアラフォーなんですが、本書の視点はアラサーのような気がします。私のような還暦を過ぎた男性にはなかなかむつかしくて付いて行けない女性のファッション・アイテムもありますが、こういった軽快な文章は私も嫌いではありません。職業や、年齢や、結婚や、ファッションまで含めて、いろんな観点から女性を語った短編+エッセイ集です。 ドラえもんの登場人物で構成しながらもドラえもん自身は登場せずしずかちゃんを中心とする短編の「しずかちゃんの秘密の女ともだち」、そして、京都の喫茶店文化を綴るエッセイ「わたしの京都、喫茶店物語」、などが私の印象に残っています。いつもながら、特にこの作品はタイトルからもうかがえる通り、とても強く現状肯定的でありながら、時には自分自身を否定して新しい自分探しを始めようとし、それでも、自分のオリジナルに返っていく主人公の人生について、所帯じみていながらも軽やかに進める山内マリコの筆致を私はは評価しています。おそらく、私には書けない種類の文章だと直感的に感じています。ただ、純文学に近い小説であるにもかかわらず、所帯じみているのも事実です。もっと浮世離れしている部分があってもいいような気がします。もちろん、ファッション・アイテムを買い求めるにはお金が必要ですし、異性や同姓とのおつきあいにも出費は避けられません。あるいは、女性の場合はお付き合いの出費は抑えられるのかもしれませんが、男性の負担は少なくありません。エコノミストだったころの所帯じみた発想かもしれませんが、著者の作品に登場する主人公も著者自身の実年齢に合わせて、すこしずつ年齢層が高くなっているような気がしないでもありませんし、今後の年齢とともに社会で果たすべき役割や責任や何やが重さを増す可能性が高い中で、軽やかな著者の作品に現れる女性主人公が、あるいは新境地を切り開く際に登場させる可能性ある男性主人公が、どのようなステップを踏んで進化して行くのかが楽しみです。

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最後に、小倉紀蔵『京都思想逍遥』(ちくま新書) です。今朝の朝日新聞朝刊の読書欄で取り上げられていました。著者は我が母校京都大学教授であり、哲学研究者です。そして、本書のタイトル通りに、京都をそぞろ歩きます。ただ、京都といっても広いわけですから、著者のいう「京の創造性臨界ライン」、すなわち、京都頭部の比叡山から始まって、大雑把に京大や吉田神社あたりから伏見稲荷や深草くらいまでのエリアとなります。本書 p.49 の地図で示されいる通りです。この地域的な特徴に、著者の留学先であったソウルの韓国や朝鮮半島を重ね合わせたり、あるいは、これも著者の趣味の藤原定家の歌を引用したりしつつ、その思想的あるいは芸術的な背景を探ります。いくつか、面白い視点は、やはり、平安京を開いた桓武天皇の血筋にある朝鮮半島の視点です。でも、他方で、和辻哲郎が「古今和歌集」よりも「万葉集」を高く評価した、などといった新年号「令和」の選定にも合致した現時点の時代背景を先取りした視点も紹介されたりしているのはなかなかの先見性だと私は受け止めました。著者の専門領域である京都大学の哲学者は、経済学者と違って、綺羅星のごとく存在するわけですが、何といっても西田幾多郎にとどめを刺します。その西田教授にも大いに関係する哲学の道とか、逍遥するのは京大生だけではありません。哲学者としても、西田先生をはじめとして、西谷啓治先生た田辺元先生などはドイツ学派、すなわち、ドイツ観念論、中でもヘーゲル哲学に根ざしていた一方で、『「いき」の構造』の九鬼周造先生はフランス学派、ベルクソンを必要とした、などといったペダンティックな議論は、とても京都思想にふさわしい展開ではないかと私は思います。本書にも登場する梶井基次郎の短編「檸檬」の八百卯は私が京大生のころにはまだありました。まあ、丸善はなかったですが、そういった舞台装置がまだ雰囲気を残していました。また、井上先生の『京都ぎらい』への言及もありますが、少し物足りません。井上先生は京都バブル、あるいは、かなり不当な京都プレミアムに対する疑問を呈しているわけですが、それを商家としての杉本家だけに矮小化するのはどうか、という気もします。さらに、疑問点をもう2点だけ上げておくと、京都や関西にある在日朝鮮人に対する差別はもちろん考えさせられる点ですが、著者の留学先というのはともかくとしても、日本人間の差別、すなわち、部落差別についての言及がないのは少し疑問です。最後に、京都を逍遥するとすれば先斗町あたりから祇園は欠かせません。まさに、著者のいう「京の創造性臨界ライン」のど真ん中に位置しているにもかかわらず、また、五条楽園には言及しているにもかかわらず、どうして祇園を抜かしたのか、積極的な理由があるなら明示すべきですし、ついうっかりと忘れたのであるなら、迂闊にもほどがあると思います。
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