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2019年08月17日 (土) 11:40:00

全国的にお盆休みの今週の読書は経済書をよく読んでラノベも合わせて計9冊!

今週は全国的にお盆休みながら、週後半は西日本を大型台風が縦断したりして天候は不順でした。私はまとまったお休みは来月9月に取る予定で、特に今秋に休みを取ったわけではないんですが、それなりのよく読書が進んで経済書など以下の通りの計9冊です。もっとも、9冊のうちの3冊は文庫本のラノベであり、1冊当たり1時間もかからずに読み切ったりしましたので、それほど読書に時間を割いたという実感はありません。午後からの35度超えを前に、自転車での図書館回りをすでに終え、来週の読書もいつも通り数冊に上りそうな予感です。

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まず、平山賢一『戦前・戦時期の金融市場』(日本経済新聞出版社) です。著者は、バイサイドの機関投資家であり、本書は著者の博士論文です。本書の時期的なスコープは戦前期から戦中期であり、特に、1936年の5.15事件から経済社会への統制色が強まる中で、金融市場のデータ、株式や国債価格や利回りとともに収益率を細かく算出している点が特徴です。ただし、本論ではデータの算出に終止しており、データを用いた定量的な分析までは手が届いていません。そこは限界として認識すべきで、私のように物足りないと受け止める向きもあれば、それはそれで判りやすい点を評価する向きもあろうかという気がします。ということで、本書のファクトファインディングのひとつは、戦前期においては国債がローリスク・ローリターンである一方で、株式はハイリスクながらローリターンであった、という従来の「常識」をデータをもって覆し、株式はハイリスクだったかもしれないが、国債に比較してもそれなりにハイリターンであった点を実証しています。戦前期のリスクとリターンの関係について、経済学的な通常の常識から離れた自体を示しているのは、ひとえに「統制経済」でもって経済が歪めらたためである、と理解されてきたわけですが、決してそうではなく、統制はあっても経済的な合理性が貫徹していたことを実証した価値は小さくないと思います。基本的に、バブル経済崩壊から「制度疲労」という言葉などで批判されてきた昭和的な経済的慣行、労働では新卒一括採用に基づく終身雇用・年功賃金・企業内組合の3点セット、あるいは、金融的には株式や社債による直接的な資金調達ではなく、メインバンク制に基づく銀行貸出に依存した間接金融、あるいは、もっと大きな視点での系列取引にも依存した長期的な支店に基づく取引、などなどは1950年代からのいわゆる高度成長期に確立された慣行であり、大正から昭和初期の日本経済は現在のアングロ・サクソン的な市場原理主義的経済慣行が支配的であった、という点は忘れるべきではありません。本書でも指摘されている通り、資金調達はかなり直接金融であり、株式や社債発行に基づいています。しかし、金融市場としてはそれほどの深みや厚みはありませんでした。逆に、それは統制経済への移行を容易にした面もあります。財政の悪化により、特に、地方公務員はかんたんに解雇されたりしました。かなりの程度にマルサス的な貧困が残存していて、まだルイス転換点に達していなかった日本経済では、「タコ部屋」という言葉に残っているように、民主的な人権や個人の尊重の視点を無視した労働慣行があり、「奉公」の名の下に、現在から見れば強制労働といえるような職場もあり、しかも、それが決して近代民主的な資本主義ではなく、封建的な残滓の広範に見られる資本主義であったことは講座派的な日本資本主義分析が示している通りです。最後は本書のスコープからはやや脱線してしまいました。悪しからず。

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次に、ノミ・プリンス『中央銀行の罪』(早川書房) です。著者は、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行勤務の経験あるジャーナリストという触れ込みです。私はこの作者の『大統領を操るバンカーたち』を読んでいて、上下巻のボリュームだけは大作だったと記憶しています。本書のテーマとなっているのは、2008年のサブプライム・バブルの崩壊とその後の大銀行の救済や金融政策、さらに、中央銀行と民間銀行の「共謀」となっています。ですから、というか、何というか、英語の原題は Collusion であり、2018年の出版です。ということで、今さら10年前の2008年のサブプライム・バブル崩壊かね、という気もしますが、それはともかく、その後の金融政策当局=中央銀行や、中央銀行による大銀行の救済と両者の共謀を極めて詳細に渡って、事実関係を積み上げています。こういった事実のコンピレーションから何が浮かび上がるか、というと、おそらく著者は、中央銀行は大銀行を救済する一方で、国民生活を犠牲にしている、とか、バブル崩壊の後始末をもうひとつのバブルにより埋め合わせをしようとしている、とかではないかと思いますし、それはそれで、従来のナオミ・クラインのリポートなどが大銀行経営者の糾弾にやや偏重しているのに比べて、政府から独立している中央銀行も批判の対象にするのは、それなりに意味あることと思いますが、いつもの私の疑問なんですが、バブル崩壊後の金融危機に対処して、いきなりのマイナス金利はともかく、金利を引き下げるとか、量的緩和を実行するとか、いわゆる金融緩和を進める以外に、タカ派的に逆に金融引き締めを行うという選択肢はありえないのではないでしょうか。同時に、too big to fail も常に批判にさらされますが、リーマン・ブラザーズの破綻という、かなり大胆かつ実験的なイベントを実際に観察して、どこまで否定できるかは疑問が残ります。リーマン・ブラザーズの破綻については、私もいくつかノンフィクションの作品を読んで、潰そうと思って潰したわけではなく、万策尽き果てて破綻させるしかなかった可能性があると理解していますが、それでも、破綻させないという選択肢が可能であれば破綻させなかった方がよかったのではないかと考えています。サブプライム・バブル崩壊後の金融危機の中で、大銀行が救済されながらも責任の所在があいまいにされ、あまつさえ、AIGのように高額のボーナス支給がなされた例もあり、私も決してベストの解決でなかったことは理解しますが、大銀行経営者や中央銀行の金融政策当局者などの責任をあげつらうのはともかくとして、金融緩和の必要性を否定するがごとき論調でタカ派的な政策志向をあらわにするのは、私は同意できません。

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次に、大前研一『稼ぐ力をつける「リカレント教育」』(プレジデント社) です。著者は、ご存じ、マッキンゼーのコンサルタントを経て経済や経営分野の評論家というんだろうと思います。本書ではリカレント教育について、著者ご自身の設立したビジネス・ブレークスルー(BBT)大学の例なども引きつつ、デジタル経済社会における必要性や重要性などについて議論しています。リカレント教育については、私も昨年の「経済財政白書」で取り上げられたことなどもあり、それなりに注目しているんですが、基本はデジタル経済とはそれほど大きな関係なく、日本企業の体力が低下して来たために、OJTによる企業特殊的なスキルの向上に振り向けるリソースがなくなって、雇用者個人のリソースでにスキルアップを強制している結果だと受け止めています。すなわち、このブログで何度か強調していたように、戦後のルイス転換点を越えた高度成長期の我が国経済では、古典的なマルサス的な貧困を克服し、逆に、先進各国と同様に需要が極めて旺盛な経済社会を実現し、資本蓄積に比較して一時的ながら労働力不足に陥ったことから、雇用慣行が戦前・戦中のアングロサクソン的スキームから大きく転換し、新卒一括採用の下でいわゆる終身雇用・年功賃金・企業内組合で特徴つけられる日本的雇用慣行を確立し、ヘッド・ハンティングとまで大げさに表現しないまでも、引き抜きを防止するために企業特殊的なスキルを主としてOJTによって向上させる方法を取りました。それはそれとして、高度成長期には合理的だったわけです。しかし、その後、ルイス転換点を越えるような要素移動を望むことができなくなり、さらに、私は主として為替調整が主因と考えていますが、日本企業が競争力を低下させる中で、OJTへのリソースが細り、現在では賃金上昇すらリソースを枯渇させ、賃金抑制のために低賃金国への海外展開を図るとともに、ルイス転換点を越えるかのような要素移動を促すべく、雇用の流動化を模索して、「岩盤規制」などと名付けた高度成長期にルーツある雇用スキームの大転換を図ろうと試みているわけです。ついでながら、やや脱線すると、この要素移動の点で日本企業は合成の誤謬に陥っていると私は考えています。すなわち、雇用の流動化が図れれば、他企業の高生産性雇用者を自企業に取り込むことが可能になるとともに、自企業の低生産性雇用者を他企業に押し付けることができる、という期待があるわけですが、企業が求めるスキルと雇用者が有するスキルのミスマッチがそれほど広範に生じているとは私にはとても思えず、こういった自企業のみに都合いい要素移動が起こるとは考えられません。本題に戻って、現在では、スキルアップは第1に企業特殊的なものから、より幅広く市場で受け入れられ、一般的に通用するスキルの重視に変化しました。典型は英会話とか、経済経営分野の簿記会計をはじめとする資格の取得などです。第2に一般的なスキルの重視と企業の体力の低下が相まって、スキルアップは企業のリソースだけではなく、雇用者個人の責任とコスト負担の割合が高まりました。このような企業活動と雇用者のスキルアップの歴史的な展開の中で、現在のリカレント教育を考える必要も指摘しておきたいと思います。その意味で、欧州諸国が我が国よりも先進的なリカレント教育のシステムを整備していることは、もちろん、政府の責任もあるでしょうが、歴史的な段階としてはあり得ることではないでしょうか。私のように、公務員として定年まで勤務し、長期雇用の中で突然天下りが廃止されて、定年後の収入の道が極めて狭くなってしまった例もあるわけですし、リカレント教育という手法が適当かどうかは別ながらひとつの選択肢として、スキルアップはもう少し若いころにやっておけばよかったと悔やむことのないように、それなりの定年準備は模索すべきかもしれません。

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次に、池田浩士『ボランティアとファシズム』(人文書院) です。著者は、我が母校である京都大学の名誉教授です。私は教養部の1年生のころにドイツ語を習った記憶があります。新左翼のトロツキストの支持者だったように記憶しています。ということはどうでもいいとして、本書は我が国では関東大震災で東京帝大のセツルメント活動で本格的に始まったといわれているボランティアについて、それがいかにして、我が国のファシズムやドイツのナチズムに、いかにも自発的な装いをもって、その実、ほぼほぼ実質的に強制的かつ強要されるようになったのか、について歴史的にひもといています。1933年にナチスが政権を奪取してから、ほぼほぼ完全にワイマール憲法に則った形で、カギカッコ付きの「民主的」に独裁性を確立したかも触れていますが、これはほかの専門書に当たった方がいいような気がしないでもありません。本書では、ボランティアという語でもってボランティア活動を行う人とボランティア活動そのものの両義を指していますが、自発的な善意に基づく行為がいかにして強制的な勤労奉仕や事実上の強制的な奴隷的労働に早変わりするかは、そこに民主的なチェックが働くか、それとも全体主義的な統制の基に行われるかの違いがあると私は考えます。でも、社会全体としては民主的なチェックが効くとしても、グループとしては統制的な色彩が強くなる場合も少なくないことは理解すべきです。典型的には職場のサービス残業であり、現在のワーク・ライフ・バランスに逆行するような長時間労働が、ホンの少し前までは勤労の美徳のように見られていたことも忘れるべきではりません。ですから、本書のような大上段に振りかぶった政治的かつ社会的なボランティアと強制労働を考えることも必要ですが、マイクロな職場や地域やそして学校において、いかにも「自発的」な装いをもって強制される行為については、個人か全体かという民主主義と全体主義の大きな分岐点を意識しつつ見分ける見識が必要です。最後に、自発的な活動として本書ではほかに、チラリとワンダーフォーゲルとボーイスカウトを上げています。前者はなぞらえるべきほかの団体を思いつかないので、ともかくとして、後者のボーイスカウトはソ連的なピオネールやナチスのヒトラー・ユーゲントとの相似性を指摘する向きもありますが、個人の尊厳という観点からまったく異なることは理解すべきです。我が家の下の倅はビーバー隊から、カブ・スカウト、ボーイ隊とスカウト活動を続けてきましたので、私もそれなりに親しみありますが、スカウト活動がヒトラー・ユーゲントに似通った団体活動であるなどとはまったく思いません。また、別の観点ながら、私が地方大学に日本経済論担当教授として出向していた時に、いかにも九州的な「地産地消」の議論に接したりしたんですが、本書でも指摘されている通り、ナチズムが強調するポイントのひとつは「血と土」です。ヒトラー・ユーゲントでも「大地に根ざした」という表現が好んで使われたりします。ふるさとや祖国というものはもちろん尊重され重視すべきですが、地域的あるいは血縁的な閉鎖性を主張するよりも、交易の利益を尊重するのが左派的なエコノミストの果たすべき役割であると私は考えています。

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次に、谷川建司・須藤遙子[訳]『対米従属の起源』(大月書店) です。何と申しましょうかで、著者名がなく、いきなり翻訳者なのは、本書のメインは米国公文書館で公開された「1959年米機密文書」となっているからです。別名は「メイ報告書」であり、上の表紙画像の左上に写真が見えるイェール大学のメイ教授によって取りまとめられています。報告書には、USIS=US Information Service の活動やフリー博士によるアンケート調査などが幅広く取り上げられています。報告書のほかにも邦訳者による解説なども加えられています。ということで、1959年、すなわち、日米安保条約改定前夜における米国情報機関の我が国における活動がかなり詳細にリポートされています。当時は米ソの東西冷戦だけでなく、我が国内でも学生運動をはじめとして安保条約に対する反対運動の盛り上がりが見られた時期でもあることはいうまでもありません。ただ、本書を読むと、かなり詳細に特定の個人名への言及があることは確かですが、それほどの意外感もなく、おおむね、常識的な内容ではないかという気もしますが、まあウワサ話や都市伝説的な内容について、米国機密文書で裏付けられた、という点が重要であろうと私は受け止めています。米国から見て、日本は東欧諸国のようにソ連の支配下に入り、共産主義化する恐れはほぼほぼなかったことが確認されており、むしろ、日本の共産主義化というよりも台湾政府の否認、というか、大陸の共産党政権化にある中国への接近や国家としての承認などがアジェンダとして考えられていたようです。結果として歴史的に明らかになった事実は、1970年代に、まさに、本書のタイトル通りに、対米従属する形で当時の米国のニクソン大統領による中国との国交樹立を待って、我が国の田中内閣が中国と国交樹立し、中国の国連加盟の道が開かれた、ということになります。もちろん、本書のスコープは外れています。本書のスコープに戻れば、現在のアメリカンセンターに当たり、日本国内に展開する文化的な広報活動の拠点の活動は思わしく進んでいない一方で、現在であれば「インフルエンサー」と呼ばれるであろう大学教授など、当時の表現でいえばオピニオンリーダーを米国に派遣して米国のシステムや生活水準などに対する理解を深めてもらう、という方法が有効であったようです。なお、私の専門分野であった経済学については、サムエルソン教授のテキスト『経済学』を取り寄せたい、という要望があったようです。私の記憶の限りでいえば、『サムエルソン 経済学』のテキストの邦訳は1966年に都留重人教授が原書第6版を基にして出版されたんではないかと思います。そのかなり前の1959年の段階の記録では、原書を手に入れたいというのももっともです。経済学を専門とするエコノミストにとっては、このサムエルソン教授のテキストのどの版を読んだかで大雑把な年齢が判明するんですが、私は原書第10版の邦訳を読んでいます。上下巻でハードカバーの、しかも、箱入りです。アダム・スミス『諸国民の富』Ⅰ及びⅡやケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』などとともに、まだ、我が家の本棚に鎮座していたりします。

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次に、木内昇『化物蠟燭』(朝日新聞出版) です。著者は直木賞作家であり、時代小説を得意分野としているように私は認識しています。本書は短編集であり、『小説現代』と『小説トリッパー』に2010年から2018年にかけて掲載された短編、表題作を含めて、「隣の小平次」、「蛼橋」、「お柄杓」、「幼馴染み」、「化物蠟燭」、「むらさき」、「夜番」の7編を収録しています。時代背景はおおむね徳川後期と察せられます。明記されているものもあります。私はそれなりに時代小説を読むんですが、かなり時代考証はしっかりしているという印象を受けました。この季節にふさわしく、怪談集です。半分くらいは、この世のものではない存在、主として幽霊や妖怪や物の怪などの活動を扱っていますが、そういった非現実的な存在を必要とせず、キングばりのモダンホラーのような作品もあります。「幼馴染み」なんかはそうだという気がします。また、この世とあの世を行ったり来たりする短編もありますが、主たる舞台はこの世であり、次に取り上げる「京洛の森」のような不自然さは時代考証も含めて何らありません。加えて、表題作の「化物蠟燭」をはじめとして、それなりのハッピーエンドで終わる物語も含まれています。ただ、最大の特徴は、この作品には限られませんが、あの世の存在がこの世に何らかの形で残って、平たい表現をすれば成仏できずに苦しむ、という物語ではなく、あくまでこの世の普通の人間を中心にストーリーが回っている印象を受けました。しかも、私がよく読む時代小説は徳川期という点では本作品と同じながら、武士階級を主人公として、しかもそれなりの高位の侍も含まれ、封建時代の大名や領主が世襲で盤石の基盤を持つ中で、家老以下が精力争う意を繰り返す、そして、侍だけに何らかの剣術の達人が登場する、という『たそがれ清兵衛』や『三屋清左衛門残実録』のような私が慣れ親しんだ時代小説ではなく、場所的には江戸下町中心ながら、ほとんど侍は登場せず、同時に大都市の江戸が舞台ですので農民も主たる役割は果たさず、職人と商人のいわゆる町民・町人が主人公となっています。私の個人的かつ偏ったな印象ながら、この作者の作品は幕末を舞台にした重厚な物語がお得意であったような気がしますが、市井に住む町人の生活を基礎として、いかに安定や幸福などを求めるか、そこに、この世に未練を残したあの世の存在がどのように入り込むか、とても人情味あふれる短編集に仕上がっています。繰り返しになりますが、時代背景は徳川後期ながら、21世紀の現代にも通じる部分もあります。ただ、それほど応用範囲は広くありませんので、その点は、すべてを現代的に読み替えるべきではありません。

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最後に、望月麻衣『京洛の森のアリス』、『京洛の森のアリス Ⅱ』、『京洛の森のアリス Ⅲ』(文春文庫) です。作者は、京都在住のラノベ作家です。この作者の作品としては、京都を舞台にしたラノベしか私は読んだことがありません。また、本書を原作としてコミックも出版されています。3冊とも300ページないしそれ以下で、中身がライトですので、私は1冊当たり1時間弱で読み切ってしまいました。先週末の3連休にエアロバイクを1時間ほど漕ぐに当たっての暇潰しで図書館から借りた次第です。でも、実は、半分くらいはテレビで高校野球を見ていたりしました。ということで、両親を交通事故で亡くし、叔母の家に引き取られていた主人公が、15歳になっても高校に通わせてもらえず、老紳士に連れられて、小さいころに育った京都に移り住むところからストーリーが始まります。五条大橋を越えたあたりから様子が変わり、実は「京洛の森」なる異次元に入り込むわけです。このあたりは「千と千尋の神隠し」へのオマージュかと思います。そして、京洛の森では自分のやりたいことをやり、人に必要とされるという条件を満たさないとダメなんですが、何と無謀にも主人公は最初は舞妓修行を決意するものの、アッサリと本屋に宗旨替えします。人に必要とされるという条件も、ひょっとしたら、仕事をしなければならないという条件がある「千と千尋の神隠し」へのオマージュかもしれません。いずれにせよ、あとがきでジブリ作品への思い入れがあるようなことが書かれています。主人公の名前は白川ありすで、これは「不思議の国のアリス」へのオマージュでしょうから、いろんな既存作品のつぎはぎながら、ジブリ作品だけでなく、かなり思い込みが激しいように私は受け止めました。主人公の前に現れる兎のナツメと蛙のハチスが、実は人間で、当然のように言葉をしゃべります。ハチスが王族の蓮で、主人公の幼馴染にして、いつのまにか婚約者になっており、ナツメの方は主人公を京洛の森に連れて来た老人で、王族に仕える執事の棗だったりします。何といっても、エコノミストの目から見て、いろんなビジネスがありながら貨幣がない、というのは決定的な欠陥で、生活感がなく、いかにも架空の物語、という受け止めしかできません。「不思議の国のアリス」はともかく、ファンタジーでも「千と千尋の神隠し」では黄金がザクザクと出て来ますし、「ハリー・ポッター」のシリーズではゴブリンの銀行にハリーの預金口座があり、また、お金持ちで貴族のドラコ・マルフォイと貧乏人の子沢山のロン・ウィーズリーの格差と対立がひとつの見どころとなっていますので、その点で、我が国のラノベ界の、例えば、高校生ばかりが登場する人気ラノベ作家の作品などとともに、やや底が浅いと私が感じてしまう一因かもしれません。でも、世界観はダメとしても、地理的な舞台は京都らしき京洛の森ですから、私も馴染みありますし、手軽に読めて後に残らず、暇潰しにはピッタリです。実は、同じ作者の『京都寺町三条のホームズ』シリーズは8巻で読書が止まっていたところ、少し新たに借りようかと画策しています。でも、かなりの人気のようで、最新刊の12巻まではまだ借りられそうもありません。誠に残念。
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