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2019年12月21日 (土) 11:00:00

今週の読書ややや失敗感ある経済書など計7冊!!!

今週の読書は、興味深いテーマながら、ややお手軽に書き上げてしまった感のある開発経済学の学術書やかなり特定の党派色強く市場原理主義かつ経済学帝国主義的な経済書、あるいは、経営書、さらに、歴史書などなど、いろいろと読んで以下の計7冊です。やや失敗感ある本が普段に比べて多かった気がします。いくつかすでに図書館を回り終えており、来週の読書も数冊に上りそうな勢いで、さらに、年末年始休みを視野に入れて、かなり大量に借りようとしています。ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』は借りたんですが、来週読むか、その先にするか未定ながら、たぶん、年末年始休みにじっくりと腰を据えて読む体制になりそうな気がします。他方、来週の読書はなぜかコラプション=汚職関係がテーマになった本や、来年のNHK大河ドラマに迎合して明智光秀関係の本も入ったりする予定です。

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まず、トラン・ヴァン・トウ & 苅込俊二『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房) です。著者はベトナム出身の早大の経済学研究者とそのお弟子さん、となっています。本書タイトルにある「中所得国の罠」とは、とても最近の用語であり、 Gill and Kharas (2007) "An East Asian Renaissance: Ideas for Economic Growth" という世銀リポートで提唱された概念であり、その後の10年を考察した世銀のワーキングペーパーで同じ2人の著者による "The Middle-Income Trap Turns Ten" という学術論文も2015年に明らかにされています。本書では、何点かに渡って、「厳密な定義や合意ない」と繰り返されていますが、多くのエコノミストの間で緩やかなコンセンサスがあり、低開発状態から1人当たりGDPで見て3000ドルから数千ドルの中所得国の段階に達したものの、1万ドルを十分に超える先進国の段階に達するのに極めて長期の年数を要した、あるいは、まだそのレベルに到達していない、といった国々が陥っている状態を指しています。本書でのフォーカスはアジアですが、もちろん、東欧や中南米などでも見受けられるトラップです。例えば、ポーランドは1人当たりGDPが1万ドルを少し越えたあたりで伸び悩み始めたといわれています。その原因としては、資源国ではいわゆる「資源の呪い」に基づくオランダ病による通貨の増価、あるいは、その後の段階では、ルイス転換点を越えたあたりで低賃金のアドバンテージを失って、さらなる低賃金の低開発国から追い上げられるとともに、先進国の技術レベルには達しないという意味で、サンドイッチ論などが本書でも紹介されています。このサンドイッチ論は Gill and Kharas (2007) でも展開されています。そして、アジア地域において、歴史的に中所得国の罠を脱して先進国の段階に到達した日本と韓国のケーススタディを実施するとともに、どうも中所得国の罠に陥っている東南アジアASEAN各国、ただし、先進国の所得レベルに達したシンガポールは除き、高位中所得国のタイとマレーシア、低位中所得国のインドネシアとフィリピン、さらに、中国のケーススタディを進め、どうすれば中所得国の罠から脱することが出来るかの議論を展開しています。もちろん、本書くらいの学術書で昼食苦国の罠を脱する決定打が飛び出すはずもなく、それどころか、そのためのヒントすらなく、日本や韓国では資本は海外資本ではなく民族資本に依拠しつつ、技術は海外からの先進技術を導入してキャッチアップしたのに対して、ASEANや中国は資本ごと海外からの直接投資(FDI)に依存した、などという、やや的外れな議論もあったりします。ほとんど、実証らしい実証もなく、大学学部生レベルのデータとグラフで議論を展開していますので、判りやすいといえば判りやすいんですが、それほど学術的な深みも感じられません。議論をスタートさせる一つのきっかけになる本かも知れません。

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次に、井伊雅子・五十嵐中・中村良太『新医療経済学』(日本評論社) です。著者たちは、経済学ないし薬学の博士号を取得した医療経済学の研究者です。本書では、我が国財政が大赤字を出して財政リソースが先進国の中でも限られている中で、その最大の原因をなしている社会保障給付のうちの医療費に関して費用と効果を考える基礎的な経済学的視点を提供しようと試みています。まず、冒頭でベイズ的な確率計算をひも解き、検査結果で擬陽性が出ることによるムダの可能性を指摘することから始まって、基本的に、「最適化」のお題目の下に、財政支出の切りつめを図ろうという意図が明らかな気もします。確かに、その昔は日本の医療は「検査漬け」とか「薬漬け」といわれた時期もあり、ムダはそれなりにあって決して小さくはないと思いますが、命と健康を守るために必要なものは必要といえ勇気も持つべきです。本書でも引用されている通り、ワインシュタインの "A QUALY is a QUALY is a QUALY." といわれており、人々の健康や命にウェイトを付けることは極めて困難であり、本書でも、健康な1年と寝たきりの10年を等価と仮定したりしているんですが、極めて怪しいと私は考えざるを得ません。本書後半の第5章あたりでは、決して経済学的な知見だけで医療へのリソースを左右するものではないとか、いろいろといい訳が並べられているのも理解できる気がします。医療については、教育と同じく、情報の非対称性の問題が市場的、というか、経済学的な解決を困難にしているわけで、この点は本書でも認識しているようですが、決定的に欠けているのは、本書にはルーカス批判の視点がないことです。おそらく、医療政策ないし財政政策が変更されれば、少なくとも、医療提供者である医者や薬剤師ほかの対応は大きく変化を生じると私は考えますし、需要サイドの患者の方でも受診行動に影響が及ぶ可能性は小さくありません。それをナッジで何とかしようという意図が私には理解できません。加えて、医療の場合は少なくとも伝染性の病気の場合、外部性が極めて大きく、罹患した患者ご本人の意向に沿うよりも社会的な感染拡大防止の観点が優先する場合もあり得ます。教育における義務教育と同じで、医療についても憲法25条で定める生存権、すなわち、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するわけですから、義務教育を健康や医療政策に適応するような形で、必要最低限のレベルの検診を受ける権利があると考えるべきです。現在の医療が過剰かどうかは、私もやや過剰感をもって見ている1人ですが、基礎的な国民の権利とともに分析が進められるべきトピックと感じています。アマゾンにも本書の評価は3つ星と芳しくないレビューが掲載されていますが、その中で、レビュアーは経済学は医療費抑制の切り札になるか、という問いに対して否定的な見方を示していて、私はそのレビュアーの見方には反対で、経済学は医療費抑制の切り札になるものの、経済学にそういう役割をさせるのは誤りであり、エコノミストとして経済学にそういう役割を担ってほしくない、と考えています。ボリュームが違いますので私も強く主張することはしませんが、まあ、左派エコノミストの私なんかとは違って、こういう人たちは、国民生活に直結した医療費などの社会保障や教育費は槍玉に上げても、防衛費の効率性を分析して削減のターゲットにすることは思い浮かびもしないんでしょうね、という気がします。

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次に、平川均・町田一兵・真家陽一・石川幸一[編著]『一帯一路の政治経済学』(文眞堂) です。編著者は、私の直感では亜細亜大学系の地域研究者ではないかという気がします。習近平主席をはじめとする中国首脳部が推進する「一帯一路」=Belt and Road Initiative (BRI)政策に関して、そのファイナンス面を担当するアジアインフラ開発銀行(AIIB)も合わせて、いろんなファクトを集めるとともに、中国の意図や経済的な意味合い、さらに、アジア・アフリカをはじめとして、欧州や日米などの先進国の対応などに関する情報をコンパイルしたリポートです。特に、アナリティカルに定量分析をしているわけではなく、基本的に、ファクトを寄せ集めているだけながら、我が国は対米従属下で米国に追従して一帯一路にもAIIBにも距離を置いていますので、それなりに貴重な情報が本書では集積されています。基本的なラインについては、漠然と私も理解しているように、元安という価格面での対外競争力の維持のために、外為市場に為替介入しまくって元をドルを買っていますので、ドル資金を豊富に保有しており、それを原資にした中国から西に向かう海路=一帯と陸路=一路の整備なわけで、文字通りの物流のための交通インフラ整備とともに、政治外交的な意図もあると本書では指摘しています。すなわち、ひとつは、特にアフリカ圏で天然資源取得とともに、外交面で台湾支持派の切り崩し、というか、台湾から中国へへの転換を目指した動きです。もうひとつは、その昔は日米の加わったTPPに対抗して中国主導の経済研の構想です。ただ、後者についてはトランプ米国大統領というとんでもないジョーカーが出現し、事態は別の様相を呈し始めているのは周知の事実だろうと思います。ただ、これだけでは済まず、中国が鉄鋼などで大きな過剰生産能力を持っていることも周知の通りであり、外為市場介入した結果のドル資金をインフラ整備として一帯一路諸国にAIIBなどを通じて融資するとともに、中国製品の販売先として確保する、という戦略にもつながっています。ですから、本書でも指摘されている通り、返済を考慮しない過剰な貸し付けが実行されたり、あるいは、返済がデフォルトした上で港湾利権を分捕ったりしている例もあるようです。繰り返しになりますが、解析的に定量分析などをしているわけではなく、一帯一路のプロジェクトなどの情報をコンパクトに取りまとめている一方で、惜しむらくは、昨年2018年年央少し前くらいからの米中貿易摩擦から以降の情報は収録されていません。中国にとって他国は輸出先として、その限りで重要なだけで、世界的な自由貿易体制などはどうでもいいと考えているに違いない、その意味では、米国トランプ政権も同じ、と私は見なしているんですが、やっぱり、米国が中国製品の輸出先として重要であった、という事実を改めて突き付けられた現時点で、一帯一路やAIIBからの融資について、中国がどう考えているのか、やや謎です。

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次に、オマール・アボッシュ & ポール・ヌーンズ & ラリー・ダウンズに『ピボット・ストラテジー』(東洋経済) です。著者3人は、大手コンサルタント会社であるアクセンチュアの高級幹部です。英語の原題は Pivot to the Future であり、2019年の出版です。ということで、「ピボット」といえば、私なんぞの経営の門外漢には、むしろ、オバマ政権における外交の軸足設定、すなわち、大西洋から太平洋へ、同じことながら、欧州からアジアへの軸足設定の変更を思い出させるんですが、本書ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代において経営の中心を変更するという意味で使われています。何と、自社アクセンチュアをはじめ、ウォルマートやマイクロソフト、コムキャスト、ペプシコなど世界的な大企業におけるピボットの事例を豊富に紹介しています。当たり前ですが、ひとつの商品やサービスには、いわゆる、プロダクト・サイクルがあり、売れる時期もあれば盛りを過ぎることもあるわけで、多くの製品・サービスは時代とともに消え去ることも不思議ではありません。馬車が自動車に代替されるたり、メインフレームのコンピュータがサーバとPCに置き換わったりするわけで、長期に渡って同じ製品やサービスを供給し続けるのではなく、その軸足を変更する必要があります。それを第1部で「潜在的収益価値を解放する」と表現し、私のいつもの主張とは異なり、マネジメントの経営書にしてはめずらしく、失敗例をいっぱい並べたてています。第2部では「賢明なピボット」として、イノベーションのピボットを集中・制御・志向の3つのコンセプトから解き明かそうと試みています。そして、経済学的にいえば、全要素生産性であらわされるイノベーションのほかの2つの生産関数の生産要素、すなわち、資本=財務と労働=人材の観点からピボット、というか、ピボットのためのイノベーションをサポートする方策を探っています。第2部では第1部と違って、失敗例はほとんどなく、成功例のオンパレードですので、私のいつもの経営書に対する批判、すなわち、成功例の裏側に累々たる失敗例があるのではないか、という疑問がもう一度頭をもたげないでもないんですが、まあコンサルタントによる経営指南書とはこういうものだと考えるほかありません。最初に観点に戻りますが、製品・サービスの有限のプロダクト・サイクルに対して、それを生み出す企業というのは going-concern なわけですので、イノベーションあるいはイミテーションなどを基にした新たな製品・サービスの供給を始めないと継続性に欠けると判断されかねません。一部の公営企業などはそれでいいと私は考えないでもないんですが、民間部門では、当然ながら、大企業ほど経済社会的な影響が大きいわけですので、それなりの生き残り策を必要とするんだろうというくらいは理解します。ただ、理解できなかったのは、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代における経営の軸足に関するピボット戦略なのかどうか、ありていにいえば、DXの時代でなくても有限のプロダクト・サイクルと going-concern の企業の関係はこうなんではないか、という気がしないでもありませんでした。

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次に、ペトリ・レッパネン & ラリ・サロマー『世界からコーヒーがなくなるまえに』(青土社) です。著者は、ノンフィクション・ライターとコーヒー業界に長いコンサルタントです。フィンランド語の原題は Kahvivallankumous であり、「コーヒー革命」という意味だそうで、2018年の出版です。ということで、私はコーヒーが好きです。オフィスにはコーヒーメーカーがあり、平日すべてではありませんが、お勤めのある日には2~3杯は飲んでいる気がします。しかし、本書の著者はコーヒーが世界からなくなる可能性も含めてコーヒーに関する「革命」あるいは大変革を議論しています。というのも、本書ではフィンランドが世界1のコーヒー消費国であるとされており、実は私の認識では1人当たりコーヒー消費量のトップはルクセンブルクだと思うんですが、確かに、フィンランドに限らず、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、などはトップ10に名を連ねているようにお記憶しています。そのコーヒー消費大国からコーヒーの将来を考える本であり、著者によれば、大量消費と気候変動のせいで、私たちが今までのようにコーヒーを飲める日は終わりを迎えつつある、ということになります。ですから、コーヒーを次世代にも残すために私たちは何をすべきなのか、あるいは、環境に配慮した良心的なコーヒーの生産と消費は可能なのか、といったテーマで議論を展開しています。まず、現在のおーひーの普及状況はサードウェーブとして、消費量拡大のファーストウェーブ、カフェラテなどのアレンジ・コーヒーが普及して多様なの見方が普及したセカンドウェーブから、原料としてのコーヒーに注目し、栽培された地域、コーヒー豆の収穫方法、そして焙煎のもたらす味への影響といった様々な点に注意を払う、という趣旨で、ワインなどと同じ飲み方に進化してきている点を指摘しています。しかし、30年後の2050年やあるいは2080年にはコーヒーは栽培・収穫されなくなっている可能性も指摘されています。サステイナビリティの観点から本書では、まず、栽培サイドのサステイナビリティ、我が国で今はやっている表現からすれば、コーヒー農園における働き方改革のようなものを考え、さらに、需要サイド、すなわち、我々のコーヒーの飲み方まで議論を展開しています。私が知る範囲でも、南米ではコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みます。実は私もそうです。しかし、本書の著者は、質の低いコーヒーに砂糖とミルクを加えてごまかすような飲み方は推奨しませんし、熱すぎるコーヒーも味をごまかそうとする意図がある可能性を指摘します。人間は体温と同じくらいのものがもっとも味を識別できると主張し、キンキンに冷えたビールも低品質のものをごまかしている可能性があるといいます。そういった、栽培サイドと飲用サイドの両方からコーヒーを大切に考え、サステイナビリティに配慮したコーヒーの栽培と飲用を本書では論じています。私は熱いコーヒーに砂糖とミルクを大量にぶち込んで飲む方であり、こういった分野に決して詳しくありませんが、コーヒーに限らず、多くの農産物やあるいは漁業などにも同じ議論が適用できる可能性があるんではないか、という気がします。

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次に、衣川仁『神仏と中世人』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、徳島大学の歴史の研究者です。古典古代を過ぎて、平安後期から鎌倉期にかけての中世の宗教についての論考なんですが、この時期は古典古代の密教に加えて、いわゆる新興仏教、我が家が帰依している浄土真宗や日蓮宗などが起こり、さらに、禅宗が我が国にもたらされている時期となるものの、そういった新興仏教の観点は本書にはほとんどありません、浄土真宗信者の門徒としてやや不満の残るところです。といはいうものの、本書の冒頭では宗教に関して「富と寿」を求める中世日本人から説き起こし、かなり現世的な利益を求める人々の姿を描き出しています。まあ、現代から考えても、貴族や豪族などの当時の経済社会の頂点に近いところにいて、大きな格差社会の中で衣食住に困らない階層の人々は、現世的な利益よりも、むしろ、来世への望み、すなわち、輪廻転生を解脱して極楽浄土への生まれ変わりを願ったのかもしれませんが、明日をも知れぬ命のはかなさと背中合わせの一般大衆としては、来世のことよりも現世的な利益を求める心情は大いに理解できるところです。ただ、私なんぞは現世の利益は自分の努力である程度は何とかなる可能性がある一方で、来世の生まれ変わりだけは宗教に縋る必要あると考えるんですが、まあ、現代のように灯りもなくて暗い夜には魑魅魍魎が跋扈して、いろいろと怖い思いがあったんだろうというのは理解できます。ということで、繰り返しになりますが、現世的な利益のうち、本書で冒頭取り上げられるのは「富と寿」であり、前者の「富」は宗教とともにある程度努力や自己責任で何とかすることも視野に入ります。ただ、後者の「寿」は健康や生死観なんですが、コチラの方は宗教も大いに力ありそうな気がします。というのは、「病は気から」という言葉があるように、肉体的な条件とともに、精神的なパワーで病気を治癒させる可能性は決して小さくないからです。O. ヘンリーの「最後の一葉」なわけです。その点で、近代医学の観点から、その昔の加持祈祷なんて効果ないと見なされがちですが、私は決してそうでもなかろうと受け止めています。また、本書でも指摘されている通り、ホンネとタテマエがあって、農業社会の中で、農業生産が大きなアウトプットを占め、大部分の一般大衆が農民であったころ、天候に左右されがちな農業のため、雨乞いの儀式なんぞはそれなりに重要ながら、為政者も一般大衆も宗教が転校を左右できるとは常識的に考えないとはいえ、為政者としては農業振興のために何らかの宗教的な儀式を執り行うポーズを見せる必要あった、というのも理解できるところです。それにしても、私が子供のころには「バチが当たる」という宗教的表現はそれなりの重みあった一方で、今では耳にすることもないような気がします。

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最後に、山形浩生・安田洋祐[監修]『テクノロジー見るだけノート』(宝島社) です。監修者は、ご存じ、野村総研のコンサルタントで翻訳者と大阪大学の経済学の研究者です。最新テクノロジー、特にAIやIoTなどのICT分野の技術を中心にして、ゲノム解析などのバイオも含め、9つのカテゴリーに分けて、最近の流れを解説しています。その9分野とは、宇宙ビジネス、AIとビッグデータ、モビリティ、テクノロジーと暮らし、戦争とテクノロジー、フードテック、医療技術、人体拡張技術、小売りと製造業のテクノロジー、となっています。文章は平易で読みやすく、イラストもあっさりしているのでスラスラと読めて、各分野のテクノロジーの概要を知ることができます。まあ、テレビや新聞などのメディアでも広く報じられ、それなりの専門書も決して少なくない分野ばかりですから、それなりの教養あるビジネスパーソンであれば、すでに知っている部分も決して少なくないような気がしますが、私のようなテクノロジーが専門外のエコノミストにとっては、平易なイラストで技術をわかりやすく解説してくれるのは助かります。ただ、気を付けなければならないのは、テクノロジーに対して倫理中立的で、あくまで技術面の解説に徹している点です。すなわち、先ほどの9分野でも5番目には何気に「戦争とテクノロジー」が入っていますし、6番目の「フードテック」ではさすがに、遺伝子組み換え作物(GMO)に関する注意書きのような短文が見かけられますが、続く「医療技術」や「人体拡張技術」でのデザイナーベビーやほかの倫理的な議論については触れられてもいません。AIやビッグデータ、その他のICT技術に関してはテクノロジーの倫理中立性を仮定しても構わなさそうな気がしますが、人間はいうに及ばず、植物を含む生物の遺伝子レベルの操作に関するテクノロジーについては倫理的な側面についても、それなりの注意を払うべきではないか、と私は考えています。食品について、植物の天然モノはほぼなくなり、動物食材の天然モノも極めて少なくなって、栽培された植物、あるいは、飼育された動物の食材が多くを占めていますが、それだけに、天然モノの価値も忘れられるべきではありませんし、ヒトはいうまでもなく、植物を含めて生物を遺伝子レベルから操作することの危険性や倫理的な面の議論もバランスよく紹介すべき、と私は考えます。地球環境への配慮や生物多様性の議論も必要ですし、技術的に出来ることは、経済社会的に生産増につながり、人間の効用を増加させるのであれば、やるべき、もしくは、やって構わない、ということにはならないような気がするのは私だけでしょうか?
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