2021年11月06日 (土) 10:00:00
今週の読書は経済書と歴史書に加えて新書まで含めて計4冊!!!
今週の読書は、統計学や計量経済学の大御所の先生による50年の資本主義の歴史を振り返った経済書、西暦1000年とかなり早い時期をグローバリゼーションに起点に置いた歴史書、さらに、新書を加えて計4冊でした。以下の通りです。それから、いつもお示ししている本年の読書の進行ですが、このブログで取り上げた新刊書だけで、1~3月期に56冊、4~6月も同じく56冊、7~9月で69冊と夏休みの時期があって少しペースアップし、さらに、先週までの10月分が17冊に、本日取り上げた4冊を加えて、合計201冊になり、年間予想の200冊を11月初旬で超えてしまいました。すでに、研究費で何冊か経済書を買い込んでおり、年内にどこまで積み上がるか、自分自身でも興味深いところです。なお、自分自身の読書とは別口ながら、昨年も「年末年始休みの読書案内」と称して何冊か新書を紹介しましたが、今年も準備を始めています。昨年分に何冊か付け加えていますので1ダースほどになるんではないかと思います。
まず、宮川公男『不確かさの時代の資本主義』(東京大学出版会) です。著者は、一橋大学名誉教授であり、統計学や計量経済学の大御所といえます。本書は「ニクソン・ショックからコロナまでの50年」との副題が付されており、1970年から50年間の米国および日本経済を跡づけています。分厚い中流階級を持ち、格差の小さな戦後経済から1980年代のレーガン政権による新自由主義的な経済政策の採用やスキル偏重型の技術進歩に加え、いわゆるペティ-クラーク法則に合致した農業から製造業さらに非製造業と産業構造が変化していく中で、特に、米国の場合は金融業の肥大化が進み、現在のような格差が大きな経済社会が形成されていった様子が克明に明らかにされています。ただ、著者の専門分野らしく、統計などのデータで明らかにするわけではなく、時代を画するような名著をサーベイした上で、そういった50年間の歴史の流れを明らかにしようと試みています。英語文献に親しみを得ようとする向きにはいいのかもしれませんが、私はやや批判的な視点を持って読み進みました。すなわち、まあ、何といいましょうかで、統計が著者の専門ですので、文献だけでなく、もう少しデータの裏付けがあったもよかったんではないか、という読者もいそうな気がします。加えて、50年の歴史の流れについては、本書のタイトルのように「不確かさ」とか、不確実の語で代表させていいのかどうか、私には疑問です。すなわち、従来のように、親の世代から子の世代へ、さらに、孫の世代に着実に豊かになっていくというパースペクティブが失われた、という意味で不確実性に焦点を当てているわけですが、そうであれば、家業を継いでいた中世封建制のころが確実でよかったのか、というわけでもなかろうという気がするからです。もうひとつは、日米の経済的不平等の進み方の差について、やや不親切な気がします。すなわち、米国では、典型的には、もともと所得の多かった企業経営層がさらに稼ぎを増やして、いわば、富裕層がさらにリッチになる形で格差が拡大したのに対して、日本では非正規雇用の拡大に見られるように、所得がもともと少なかった層がさらに所得を減らす形で格差が拡大しています。それだけに、我が国の経済的格差の拡大は米国よりも一層深刻であるとの見方すら成り立ちます。単に、新自由主義制作により格差が拡大した、というひとくくりの議論では、その対策となるべき政策課題が見えてこない可能性もあります。注意が必要です。最後に、出版社から受ける印象ほど、決して学術書という内容ではありません。多くのビジネスパーソンにも判りやすく書かれています。
次に、ヴァレリー・ハンセン『西暦1000年 グローバリゼーションの誕生』(文藝春秋) です。著者は、米国イェール大学の歴史の研究者です。京都大学への留学経験もあるようです。英語の原題は The Year 1000: When Explores COnnected the World - and Globaliation Began であり、2020年の出版です。タイトル通りに、グローバリゼーションの誕生を1000年に置いた歴史研究となっています。すなわち、通常は、15世紀終わり、典型的にはコロンブスの米州大陸発見とか、バズコ・ダ-ガマの希望峰発見とかの欧州勢による大航海時代の始まりを持ってグローバリゼーションの開始とする見方が多い中で、本書ではそれを500年前においた歴史観を提示しています。そのエポックのひとつが、遼と宋の澶淵の盟に置かれており、宋=南宋は海外交易にせっせと精を出し始め、例えば、中国王朝の伝統的な財源であった土地や農作物、あるいは、塩などへの課税から、今でいう関税を導入し、課税対象を輸入品に切り替えた点などが強調されています。もちろん、その後のモンゴルによるユーラシア大陸当時を横断した大帝国の成立と、現在も言葉として残る郵便制度の確立による交通の発達がこれに続き、さらに、明初期の鄭和提督による大航海にもつながります。ただ、私の見方としては、残念ながら、この鄭和提督による大航海がそこでブチ切れているわけで、近代から現代へとつながっているわけではありませんから、現在の世界的なグローバリゼーションが1000年ころに起源を持つというのは、やや同意が困難という気がします。何度か、このブログで強調したように、現時点で、あくまで現時点ながら、欧米諸国が世界に覇権を及ぼしている、というか、世界の先進国である唯一最大の理由は産業革命を経験しているからであると私は考えており、その産業革命を先導したグローバリゼーションとしては、断絶ある明初期の鄭和提督による大航海よりも、コロンブスやマゼランなどの欧州勢による大航海のほうがグローバリゼーションの歴史の中で重視されるべきである、と私は考えます。なお、巻末に関連図書と見学先のリストが章別に示されています。最初に書いたように、作者は京都大学への留学経験もあることから、本書でも、仏教の末法に関して平等院への言及、あるいは、お香に関して『源氏物語』への言及もありますが、京都のいくつかの博物館、また、平等院が見学先として上げられています。ご参考まで。
次に、冨山和彦・田原総一朗『新L型経済』(角川新書) です。著者は、コンサルタントとジャーナリストです。タイトルの「L型経済」とか、L型企業とはローカルの頭文字であり、グローバルな大企業であるG型企業と対比させて、地方の中小企業というくらいの緩い定義で使われています。基本は、安倍政権や菅政権が推進して、かなりの程度に国民に否定されつつある新自由主義的な政策の継続的な推進を要求する内容となっていて、私はとてもガッカリしました。しかも、かなりの程度に相矛盾した主張が展開されています。矛盾したご意見だけに、適用する相手や主張先により、適宜、入れ替えて何度も利用できるのかもしれません。いくつか論点を整理すると、東京一極集中から地方経済の活性化のために、L型企業の地方展開を促したり、逆に、企業数が多過ぎるとして生産性の上がらない中小企業の淘汰を主張したり、加えて、最低賃金を引き上げて中小企業淘汰に利用したりする方向を示したり、そうかと思えば、「令和の大徳政令」による中小企業のリセットなど、取りとめもなく、いろんなL型企業への政策対応が整合性を持たずに展開されています。私は、基本的に雇用者に対して最低賃金引き上げの恩恵が行き渡るべく、賃金上昇によるコスト増に対応するよう中小企業を支援する、という方向性です。ひとつだけ指摘しておくと、体力のある中小企業だけが残るような淘汰を主張すれば、実は、本書でも指摘されているように、雇用を生み出さないGAFAのようなネット企業と同じタイプの中小企業、たとえネット企業やデジタル産業でなくても、雇用を生み出さない企業しか残らない、という事実が見えていないようです。ですから、GAFAに典型的に見られるように、米国では高所得層がさらに所得を増加させることにより格差が拡大したわけですが、富裕層はそういった経済政策を要求するのだろうという、水面下の事情が透けて見えます。日本は米国などとは逆に、非正規雇用の拡大に見られるように、低所得層がさらに所得を減少させる形で格差が広がっています。このあたりは、主流派経済学でも数量的に確認された事実です。これを無視しているとしか私には見えないわけで、日本では中小企業や非正規の労働者を底上げするような経済政策が必要だという確立された事実に理解が及んでいません。とても残念な読書でした。
最後に、見波利幸『平気で他人をいじめる大人たち』(PHP新書) です。著者は、日本のメンタルヘルス研修の草分けとして活躍してきたそうです。私の拙い知識からすると、心理学には社会心理学という経済学でいえばマクロ経済学に当たる分野と臨床心理学というミクロ経済学に当たる分野があって、本書は後者に属するんだろうと受け止めています。ですから、大人のいじめに関して、特に、職場におけるパワハラを中心に、ご近所付き合いのママ友とか、大人のいじめや嫌がらせを幅広く、実例も含めて取り上げて解説を加えています。そして、それらのカテゴリーとして、自分の感情をコントロールできない「感情型」、自己愛が強い「自己愛型」、他者が自分にとって使える人間かどうかでしか判断しない「他者利用型」に分類した上で、敵対的な反応はかえって逆効果になる場合があると指摘しつつ、どのような対抗策があるのかを論じています。加えて、長い目で見て最も有効な解決策として、他者と本当の信頼関係を作り上げる「傾聴」のスキルについても論じています。私は割合と平穏無事なサラリーマン生活を送ってきて、それほど職場の人間関係に困難を来したことはなかったのですが、今の教員はかなりの程度にパパママ・ストアの独立性を有した職業ですので、チームで仕事をする配慮にかて人格に疑問ある教員もままいたりします。まあ、大学教授なんて変わり者が多いという世間一般の見方もあながち否定できない実態があるわけで、私自身も今夏からはひどいバッシングにあって、ごく限られた業務に難色を示したことに端を発して、大学教員としての全人格を否定しかねないひどい非難のメールを送りつける教員もいたりして、体重が激減した記憶があります。どこの職場にも人格が破綻した人がいるものながら、大学という白亜の巨塔はそれなりに怖いという気がしました。私を攻撃した人は自慢話が大好きですから、たぶん、本書の分類では自己愛型ではなかったか、という気もします。
まず、宮川公男『不確かさの時代の資本主義』(東京大学出版会) です。著者は、一橋大学名誉教授であり、統計学や計量経済学の大御所といえます。本書は「ニクソン・ショックからコロナまでの50年」との副題が付されており、1970年から50年間の米国および日本経済を跡づけています。分厚い中流階級を持ち、格差の小さな戦後経済から1980年代のレーガン政権による新自由主義的な経済政策の採用やスキル偏重型の技術進歩に加え、いわゆるペティ-クラーク法則に合致した農業から製造業さらに非製造業と産業構造が変化していく中で、特に、米国の場合は金融業の肥大化が進み、現在のような格差が大きな経済社会が形成されていった様子が克明に明らかにされています。ただ、著者の専門分野らしく、統計などのデータで明らかにするわけではなく、時代を画するような名著をサーベイした上で、そういった50年間の歴史の流れを明らかにしようと試みています。英語文献に親しみを得ようとする向きにはいいのかもしれませんが、私はやや批判的な視点を持って読み進みました。すなわち、まあ、何といいましょうかで、統計が著者の専門ですので、文献だけでなく、もう少しデータの裏付けがあったもよかったんではないか、という読者もいそうな気がします。加えて、50年の歴史の流れについては、本書のタイトルのように「不確かさ」とか、不確実の語で代表させていいのかどうか、私には疑問です。すなわち、従来のように、親の世代から子の世代へ、さらに、孫の世代に着実に豊かになっていくというパースペクティブが失われた、という意味で不確実性に焦点を当てているわけですが、そうであれば、家業を継いでいた中世封建制のころが確実でよかったのか、というわけでもなかろうという気がするからです。もうひとつは、日米の経済的不平等の進み方の差について、やや不親切な気がします。すなわち、米国では、典型的には、もともと所得の多かった企業経営層がさらに稼ぎを増やして、いわば、富裕層がさらにリッチになる形で格差が拡大したのに対して、日本では非正規雇用の拡大に見られるように、所得がもともと少なかった層がさらに所得を減らす形で格差が拡大しています。それだけに、我が国の経済的格差の拡大は米国よりも一層深刻であるとの見方すら成り立ちます。単に、新自由主義制作により格差が拡大した、というひとくくりの議論では、その対策となるべき政策課題が見えてこない可能性もあります。注意が必要です。最後に、出版社から受ける印象ほど、決して学術書という内容ではありません。多くのビジネスパーソンにも判りやすく書かれています。
次に、ヴァレリー・ハンセン『西暦1000年 グローバリゼーションの誕生』(文藝春秋) です。著者は、米国イェール大学の歴史の研究者です。京都大学への留学経験もあるようです。英語の原題は The Year 1000: When Explores COnnected the World - and Globaliation Began であり、2020年の出版です。タイトル通りに、グローバリゼーションの誕生を1000年に置いた歴史研究となっています。すなわち、通常は、15世紀終わり、典型的にはコロンブスの米州大陸発見とか、バズコ・ダ-ガマの希望峰発見とかの欧州勢による大航海時代の始まりを持ってグローバリゼーションの開始とする見方が多い中で、本書ではそれを500年前においた歴史観を提示しています。そのエポックのひとつが、遼と宋の澶淵の盟に置かれており、宋=南宋は海外交易にせっせと精を出し始め、例えば、中国王朝の伝統的な財源であった土地や農作物、あるいは、塩などへの課税から、今でいう関税を導入し、課税対象を輸入品に切り替えた点などが強調されています。もちろん、その後のモンゴルによるユーラシア大陸当時を横断した大帝国の成立と、現在も言葉として残る郵便制度の確立による交通の発達がこれに続き、さらに、明初期の鄭和提督による大航海にもつながります。ただ、私の見方としては、残念ながら、この鄭和提督による大航海がそこでブチ切れているわけで、近代から現代へとつながっているわけではありませんから、現在の世界的なグローバリゼーションが1000年ころに起源を持つというのは、やや同意が困難という気がします。何度か、このブログで強調したように、現時点で、あくまで現時点ながら、欧米諸国が世界に覇権を及ぼしている、というか、世界の先進国である唯一最大の理由は産業革命を経験しているからであると私は考えており、その産業革命を先導したグローバリゼーションとしては、断絶ある明初期の鄭和提督による大航海よりも、コロンブスやマゼランなどの欧州勢による大航海のほうがグローバリゼーションの歴史の中で重視されるべきである、と私は考えます。なお、巻末に関連図書と見学先のリストが章別に示されています。最初に書いたように、作者は京都大学への留学経験もあることから、本書でも、仏教の末法に関して平等院への言及、あるいは、お香に関して『源氏物語』への言及もありますが、京都のいくつかの博物館、また、平等院が見学先として上げられています。ご参考まで。
次に、冨山和彦・田原総一朗『新L型経済』(角川新書) です。著者は、コンサルタントとジャーナリストです。タイトルの「L型経済」とか、L型企業とはローカルの頭文字であり、グローバルな大企業であるG型企業と対比させて、地方の中小企業というくらいの緩い定義で使われています。基本は、安倍政権や菅政権が推進して、かなりの程度に国民に否定されつつある新自由主義的な政策の継続的な推進を要求する内容となっていて、私はとてもガッカリしました。しかも、かなりの程度に相矛盾した主張が展開されています。矛盾したご意見だけに、適用する相手や主張先により、適宜、入れ替えて何度も利用できるのかもしれません。いくつか論点を整理すると、東京一極集中から地方経済の活性化のために、L型企業の地方展開を促したり、逆に、企業数が多過ぎるとして生産性の上がらない中小企業の淘汰を主張したり、加えて、最低賃金を引き上げて中小企業淘汰に利用したりする方向を示したり、そうかと思えば、「令和の大徳政令」による中小企業のリセットなど、取りとめもなく、いろんなL型企業への政策対応が整合性を持たずに展開されています。私は、基本的に雇用者に対して最低賃金引き上げの恩恵が行き渡るべく、賃金上昇によるコスト増に対応するよう中小企業を支援する、という方向性です。ひとつだけ指摘しておくと、体力のある中小企業だけが残るような淘汰を主張すれば、実は、本書でも指摘されているように、雇用を生み出さないGAFAのようなネット企業と同じタイプの中小企業、たとえネット企業やデジタル産業でなくても、雇用を生み出さない企業しか残らない、という事実が見えていないようです。ですから、GAFAに典型的に見られるように、米国では高所得層がさらに所得を増加させることにより格差が拡大したわけですが、富裕層はそういった経済政策を要求するのだろうという、水面下の事情が透けて見えます。日本は米国などとは逆に、非正規雇用の拡大に見られるように、低所得層がさらに所得を減少させる形で格差が広がっています。このあたりは、主流派経済学でも数量的に確認された事実です。これを無視しているとしか私には見えないわけで、日本では中小企業や非正規の労働者を底上げするような経済政策が必要だという確立された事実に理解が及んでいません。とても残念な読書でした。
最後に、見波利幸『平気で他人をいじめる大人たち』(PHP新書) です。著者は、日本のメンタルヘルス研修の草分けとして活躍してきたそうです。私の拙い知識からすると、心理学には社会心理学という経済学でいえばマクロ経済学に当たる分野と臨床心理学というミクロ経済学に当たる分野があって、本書は後者に属するんだろうと受け止めています。ですから、大人のいじめに関して、特に、職場におけるパワハラを中心に、ご近所付き合いのママ友とか、大人のいじめや嫌がらせを幅広く、実例も含めて取り上げて解説を加えています。そして、それらのカテゴリーとして、自分の感情をコントロールできない「感情型」、自己愛が強い「自己愛型」、他者が自分にとって使える人間かどうかでしか判断しない「他者利用型」に分類した上で、敵対的な反応はかえって逆効果になる場合があると指摘しつつ、どのような対抗策があるのかを論じています。加えて、長い目で見て最も有効な解決策として、他者と本当の信頼関係を作り上げる「傾聴」のスキルについても論じています。私は割合と平穏無事なサラリーマン生活を送ってきて、それほど職場の人間関係に困難を来したことはなかったのですが、今の教員はかなりの程度にパパママ・ストアの独立性を有した職業ですので、チームで仕事をする配慮にかて人格に疑問ある教員もままいたりします。まあ、大学教授なんて変わり者が多いという世間一般の見方もあながち否定できない実態があるわけで、私自身も今夏からはひどいバッシングにあって、ごく限られた業務に難色を示したことに端を発して、大学教員としての全人格を否定しかねないひどい非難のメールを送りつける教員もいたりして、体重が激減した記憶があります。どこの職場にも人格が破綻した人がいるものながら、大学という白亜の巨塔はそれなりに怖いという気がしました。私を攻撃した人は自慢話が大好きですから、たぶん、本書の分類では自己愛型ではなかったか、という気もします。
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